藍円寺微意の世界

藍円寺微意の世界

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

es1-海坊主

es1-海坊主

Freepage List

2015.02.07
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
本当に好きな「絵」があり、私はその作者であるその画家の絵は当然全部好きだと思いこんでおりました。或る時、美術館でその大家の生誕100年にあたる年とかで、盛大にその作家の特別展が開かれました。私は喜び勇んで田舎から東京に行ってまいりました。各地の美術館の所蔵品はもとより、個人所蔵の物も一同に集められていて、どれもこれも普段はお目にかかることのできない大作ばかりで、それは素晴しい特別展でありました。ですから普段はあまり借りることはないのですが、そのときは故人である作家本人の肉声での絵画解説だというので、入口の受付でインカムを借りることにしたのです。展示されているその絵の前に行くと自動的にその絵の解説が流れるアレですね。へぇーこんな声の主だったのか?別に前もって想像していたわけでもないのですが、私の好きな彼の絵のイメージと耳に聴こえる彼の声がどうもしっくりきません。まず声質に違和感を覚えました。そしてその声に慣れたころ、今度は別の違和感がどんどん大きくなってきて、私は耳からイヤホンを外してしまいました。
本人が語る内容は饒舌で、「下手な職人の愛想よし」とか「愛想よしに腕のいい職人なし」という言葉を思い出させました。彼の言葉のほとんどは製作中の苦労話であり、その中に心のどこかで私が期待していた「ほとばしる芸術の発露」などというものを感じることはなく、彼のいい絵を描こうという気持は、どうしたら高く売れる絵になるかということに腐心しているような、計算高いとしか思えないような内容で、とにかく彼のその製作意欲というものは恣意的で、いやらしいほどに作為的に感じたのであります。私にとって聞くに堪えない実に残念なものでありました。もちろん本人にそんな意図はまったく無かったと思いますし、描くことと言葉にすることはまったく違うことですから無理も無いのでしょうが、とにかく私はそう感じてしまったのです。
そのときばかりは、売れる絵を描こうとしているその画家の解説の言葉に、私以上の心の豊かさとか心の贅沢さというものを微塵も感じさせてくれないのでありました。好きな絵を描いているという幸せ感がまるで伝わってこないのであります。芸術家の肉声は聞くものではありませんな。そういえば猫ばっかり描く人、花の絵ばっかり、山ばっかりとかの人がいますが「作家の得意とする画題」って高く売れるとか、画商が売りやすいということなんですかねぇ? 
出来上がったその絵を好きであっても、その作家自体は別に好きなタイプの人間ではないのだということをあの時改めて思い知りました。知れば知るほど付き合いたくない人って、いったいなんなんでしょうかねぇ。こうなると本当はもっと我々は普通の人の良さを分からないといけないのかもしれません。
いったい「本物」といわれるものの「本質」ってなんなんでしょうかねぇ。生前に評価の低かった画家や芸術家がその死後になってようやく評価されることがよくありますが、こうなると出来上がった物より、その作者の人間性が評価の足を引っ張っているってこともあるんじゃぁないでしょうかねぇ。だから売れないのは他の誰かとか、時代が悪いのではなく、結局売れないことの殆どの原因は本人にあるということなんじゃあないでしょうかねぇ。そういえば、名だたる天才といわれる芸術家に変人の多いこと!奇人、変人は周りの人にとっては迷惑な存在である場合が多いです。家族すら離れていく有名芸能人の多いこと。我々みんな生きている内に高評価を得たいと思って努力をし、毎日を生きていますが、もっと普通であることの価値を認めて、普通の大切さを大事にしないと、自分の周りの身近な普通の人の存在が疎ましくなるばかりか、自分自身さえ惨めになってしまうのではないでしょうか。照一隅(一隅を照らす)いう言葉の意味をしっかり考えたいものです。

一方で昔、日本から瀬戸物をヨーロッパに輸出した際、梱包資材としての和紙に、要らなくなった浮世絵を使っていたら、その梱包資材であった浮世絵がヨーロッパで人気になり、西洋の偉大な画家達に多大な影響を与えたということであります。はたして、日本では絵としてはもう要らない本来は使い捨てだったのに、紙としてはまだもったいないからと使ったはずの梱包資材に、いったいどういう意味があったというのでしょうか。当時の日本ではそれはもうただの梱包資材であり、それ以上の価値も意味も、もはや無い物だったはずなのであります。その不変的な価値を見出したのも、やはり変人だったのではないか。ソイツもきっと生きていたらきっと我々凡人とは付き合いにくいヤツだったに違いないのでありますよ。

「素晴しいコレクション」とは、度が過ぎるといわれても仕方ないほどの自分の物欲を満たしたものでしかありませんな。その物欲を、恥ずかしげも無く○○コレクションなどと自分や自分の企業の名を冠して見せびらかす行為は、貧乏人にはマズ見ることのできないものだから、私が見せてあげようといういやらしい品の無い行為です。だから私はそれを認めません。自分の物欲を満たす前に本当はもっと出来ることが、先にすべきことがあったはずだと思うのです。食べることに困っている人や国に寄付をしてもいいし、やり場のないほどの個人所得なら、自分の会社の従業員の給料をその分上げてやってもいいのです。何億という絵を買うお金で助かる命や、人に希望を与えるような「先にすべきこと」がいくらでもあったはずなのです。バブルの頃に絵画を買い漁った企業は高い買い物をしたにも拘らず、その企業評価ははたして上がったのでしょうかねぇ。私が思うに、彼らの優先順位には人間愛がありませんね。給料も安く彼らの物欲を満たすために働かされ続けた彼らの部下や従業員はかわいそうとしかいいようがありません。まかり間違っても「自分へのご褒美だ」なんて言ってはほしくない金額です。
一般人にも見せてあげたいと思うのなら、その作品を公的な美術館に寄付すれば済むことです。自分も見たければそこに行けばいいことです。他人の作った美術館では駄目で、自分の傍に置き、自分のものとして人にみせびらかせたいというのが物欲というものです。だから○○コレクションは素晴しいというより、素晴しい物欲であるというべきものでしかないと思うのです。
資産家が喰えない時期の作家を支え育てたような言い方も、経済活動としてのただの先行投資にしか聞こえず空しいです。作家自身も速くこの世に認められる存在になりたいと思っているのだから仕方のないことですが。成功とか社会に認められる有名な存在とかいうのは、いったいなんなのでしょうかねぇ?


う~ん、負け惜しみに聞こえる。といっても「表現をすることが好きな人」というのはいるわけです。人相学的にいいますと顔のある部分の形状が、芸能人と政治家はよく似ています。ですから芸能人が政治家に転身するのも、表現することが好きなわけで無理も無いことなのであります。それは残念ながら単なる「目立ちたがりや」である場合が多く、能力があるかないか、一生懸命国民のために働く決意があるかないかということとは全くの別物であります。私は人が表現することに異論を唱えているわけではありません。表現することは神が人に与えた人類の特権のようなものですから、それを否定する気持は毛頭ありません。表現すること自体が「自分の為から人の為」になったとき、世間から大御所といわれる存在になるんだろうなと思います。バラエティー番組などで芸能人が語る台本のない自身の言葉にガッカリすることは常であります。他人である作家の書いた台本の台詞なしに人生を語ることは、芸能人も凡人も平等なわけであります。
誰に何を言わせるかを考え決めている一握りの表に出ること無い影の仕掛け人こそが、全ての本質を握っているのであります。ですから彼らの意図に人類愛がないと世の中が真っ暗になるのであります。

俺、凡人でよかった……とつくづく思う今日この頃です。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2015.02.07 17:02:39
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

Comments

chie@ 残念無念 この言葉の解釈、目からウロコでした。 …
chie@ お久し振りです♪ 政治のことは、かなりうといんですが 選…
chie@ この前 美容院で髪の毛をCUTしてもらいながら…
chie@ 本当に H君の胸のアレは、動物霊なのかもしれま…
chie@ ぶはは 相変わらず、面白い発想ですねえ(,, ' …

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: