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私たちの時代は「曖昧な表現は曖昧な表現なのではなく、思考が曖昧なのだ。」という教育を受けてきたが、今はないらしい。「この期間、皆様にはできるだけ行動の自粛をお願いしたい…と、言う風に存じます。」何なんだ、いったい!この訳も分からない日本語は!他人に日本語で物事をお願いするときは、必ず語尾は「お願いします。」でしめなければ言葉として他人には伝わらないだろう。そして最後のそのタイミングで言葉と共に頭を下げることも日本語の流れとして当然のことだ。思うI thinkのか、国民の一人ひとりが今そうしないと日本がマズイことになるYou mustと言いたいのか、であったらイイナと個人的な希望を単に述べてI wish なのかということだ。日本語の語尾が明確でないから結果、肝心なところが市民に何も伝わらないし、その後の市民の行動・行為に中々反映されないのだ。ところがこの曖昧な表現は、実は責任回避のテクニックでもある。「……という風に思います」は元々戦後よんどころない高貴なお方が、自身の発言内容の言質と立場上の責任において、私の今言うことは指示でも命令でもありませんと、言葉に敢えて曖昧さを持たせて婉曲な表現としたのが始まりで、それを聞いた下々がそれをなんかカッコイイと思い、立場もわきまえずに勘違いで真似して広がったものだ。でも結果的に現代における用法は自身の言葉を意識的に曖昧な表現にするために「……という風に」をつけ最終責任の回避と自己保身のために使っているのが現状で、それが実に見苦しいのでありますよ。後で「そういう風に思ったけど、その時も断言はしていませんよ。…風にって言ったでしょ」といかにも言いたげだ。だから私にはそんな会見そのものが真面目に仕事をしているようにさえ見えないし、「俺には一銭の得にもならないこと」と頭を下げるのを嫌い、わざと語尾を曖昧にしているのかのように見えてしまうのですよ。「この期間になんとかウィルスの拡散を抑えられれば…と、かように思っている次第でございます。」本人は型どおりに喋っているつもりらしいが、語尾に付けられたこの意味のない修飾語はその文言全体をも意味のないものにしてしまう。無責任な希望的観測にしか聞こえないし、熱意の感じられない薄っぺらな言葉の羅列に、非常時に於けるリーダーとしての決意が微塵も感じられるものではありませんな。語尾を不要な修飾語で盛るだけ盛っても、結果中身のない話になってしまっていることに、当のご本人がまったく気づいていないのが実に情けない。切実さも熱意も伝わらずに結果、立場ある人の責任回避にしか聞こえない。そしてそのことに対し、ご本人に国民から責任回避の姿勢を見透かされているという自覚がまったくないことが実になげかわしいのですよ。今こそ大臣も知事も切実に言葉を選んで意見を言い、国民に言葉を届ける努力や工夫をしなければなりませんね。その拙い日本語は自分自身の心の在り様をうまく表現できない少年のつぶやきを聞かされたように、幼稚にさえ感じさせる。これではリーダーとしての資質を疑われても致し方あるまいに。 社会的立場のある人は市民に「……風に」という言葉を使ってはいけませんな。「……風に」を使わずに同じことを言うだけでも少しはマシになるはずですよ。あなたの心の持ちようも。我々になんでこんな人を選んだのだろうという気持ちを起こさせないでください。「という風に思います。」笑
2021.05.14
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連日のコロナウィルス感染者数報道について提言したい。「全国の今日の感染者数」としてそれぞれの都道府県の感染者数が日本地図にそれぞれ表示される映像はもうすっかりおなじみになってしまった感もあるが、その数値に対し日々一喜一憂することに虚しさすら感じる今日この頃である。表現の自由がある我が国でのことなので、日本地図の略図は放送局によってまたは番組担当者のセンスによって、日本列島の色や形、都道府県の形も様々である。これは本日の都道府県別新型コロナウィルス感染者数を示す地図だけに限ったことではないのだが、大概は都道府県の地理的な大きさや形は敢えて完全に無視し、おおよその県の位置のみを示すのが目的の「四角形に無理にまとめた略図」でしかないので、画面で目当ての都道府県の数字を確認する時は、隣の都府県と混同せぬように、今日の感染者数の他に小さく記載された県名も結局合わせて確認する必要のある「数値の一覧表でしかない地図」なのである。お前、そんなことで何をいちゃもんつけているんだと叱られそうである。どなたかが「ウィルスは県境を意識せずに伝播する」と仰っていたが、まさしく行政府ごとに感染者数を表示していることさえも、予防上の観点から言えばほとんど意味がないことであるということも理解されたい。医療従事者でない一般人には治療はできないが予防だけはできるのだから。気象予報アメダスのように列島を碁盤の目に分割し、さらに感染者数の多寡に応じて色分けで表示したものが、従前の列島略図上の数値による本日の感染者数の一覧の他に早急にほしいところだ。それがもし実現したなら、当然ながら住民のいない山間部は感染者のいない安全な緑色になる。また碁盤の目を細分化し、住所データを正確に表示すればするほど、その場所は特定されプライバシーの問題が生ずる。だから細かいデータは公表せずに保健所で管理することとして、濃厚接触者を探し出すのに感染者の行動範囲をピンクで表示することにしてもいいだろう。山間部は緑だが、ある時の特定の温泉地だけはピンク色になるかもしれない。今の内から行政区分でない明確で詳細な区分で表示することで、ワクチン接種が進みいよいよ終息が見えるころには、いたずらに一律に行動制限を善男善女に強いる必要もなくなるはずである。その時の為に是非今からアメダス方式を実現させてほしい。感染者数の多寡により黄色からオレンジへと変わり、患者数が多いと表示はより赤くなり、医療が逼迫したら紫色になるとか、細かな運用方は任せるとして、いずれにしても列島地図の形は正確な方がいい。新潟県の感染範囲は佐渡島にまで及んでいるのか、瀬戸内海の島々はどこの島がどうなのか。都市の人口一極集中と安全保障上の問題として考える、とまでいかなくともそれらの正確なデータを地図上にアメダスのように示していただければ、電車の停車駅に沿って感染者数が拡大しているのか、はたまた高速道路網に沿って物流の範囲で感染者数が増えたのかなど、国民である視聴者にそれぞれの立場において色々と連想させ、考えるきっかけを与えてくれるはずである。土砂災害予防のために連続降雨量を示す列島地図の上に累計降雨量を色違いの棒グラフで示すのと同じに、累計感染者数コロナ版表示地図もほしいところだ。それが表示するものは現在の重症者数でも累計の死者数であってもいいと思う。とにかく正確な地図の上に国民の視覚にリアルに訴えることでそこから各自が考え、それぞれの感染予防や行動抑制に繋がると思うのである。より広い社会的視野での予防のための思考に至る土台となるものは、単純簡略化された日本地図のようなものに数字を並べた資料ではないことだけは明白である。 現時点での結論を言えば、テレビの解像度も上がり画面も大きくなっている現代は、コロナ地図に限らず、まずは日本列島の形を必要以上に略さずにいつもできるだけ正規に近い形で常に表示してほしいものである。それぞれの頭の中にはそこそこ正確な日本地図が既にあり、放送局のディレクターの数だけデザイン・アレンジされた日本地図が個々の頭の中にあるわけではないのだから。
2021.04.30
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違和感その1(アメフトの違反行為当該選手に対してちょっと優しすぎません?) あえて家庭の事情でとは言いませんが、高卒で民間の零細企業に就職した子供が勤め先の先輩や上司に明らかに法律違反なことを、職務として命令された場合、その子はどうすると思います? 家族や他の誰かに相談するなり、会社を辞めるなり、要は不本意な命令を実行する前に、色々考えることや、やるべきこと、事前に手を打つことが他にあっただろう! ということなんです。 片や生活苦のない、大勢の仲間もいる立派な大学生です。社会に対する本人の考えが甘いから、現実の生活に悩んだ実績もないから、人間としての理想も目標も見えていない彼の生活だから、そこを他に付け入られたのです。当然と言えば当然の、自業自得の結果ともいえます。その後の対応だけが偉いはずの大人よりマシだっただけです。こんなんで選挙権を与えてもいいんですかね? 違和感その2(任命責任を何故問わない?) 大臣が不用意な発言をすると、野党はすぐ首相の任命責任は? と言います。マスコミも団体や組織の事後対応ばかりに気を取られてばかりではいけません。これらの問題の本質は「人」であることを理解してください。どうしてこんな問題ある大学理事長や大学学長、連盟の会長など、その人物がそもそもどうしてその今の地位に就けたのか、その経緯をも検証しないと、その体質は今後も変わらないということなのです。誰が任命責任をとるべきかも含めて検証することこそ、これらの問題の今後の再発防止になるのです。反省も改善もすべてその後の話になります。 違和感その3(権威者のそばにいる今の日本人はなぜこんなに既存の権威に弱い?) 長たるもの、自分のバカさ加減も超がつくと分からなくなるらしい。その分からないのも論外だが、そのバカな上司に対し、身近な部下はこんなことを続けていたら、いずれこの人は落ち目になるだろうと何故思わないのか? 結局バカな上司に対し忠告もできない部下も、単に同じ穴のムジナということなのか? 少なくとも自分は目の前の餌に踊らされているだけだと理解していただろうに。分かっちゃいるけどやめられないのも立派な悪なのです。 昔は「クン君足らざるとも、シン臣足らざるべからず」といって「たとえ君主が君主らしくなかったとしても、家来は立派な家来であれ」と言った。これは決してイエスマンを奨励している言葉ではありません。この場合、家来である前に当然「正義の、人としての」という大前提の意味合いが言外ではありますが、確かにそこにはあったのです。この大前提となる第一優先事項がまったく今無視されているのは何故でしょう? 「言外」という日本的な「言わずもなが」なんていうものはもはや日本では継承されていないらしいです。 日大アメフト部やアマチュアボクシング連盟に限らず、ひところ前の相撲部屋の親方にしろ、まずの話、スポーツやスポーツの指導者に対し過大な期待を寄せてはいけませんな。 言われても分からないのだから、そんな奴を「指導者」としてまつりあげていてはいけないというのだけは間違いありませんナ。
2018.08.01
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まず、元号をアルファベットの頭文字で記す場合。 明治はM、大正はT、昭和はS、そして平成がHである。 次の元号はこれ以外の頭文字となるだろうと当然推測想像する。 日本語の濁音や半濁音が頭文字にくる元号はないだろう。 となると、B,D,G,J,P,V,Zもきっとないな。・・・とこのように消去法で考えてみる。 母音も難しい。 「あ」の音がA(えー)で、「い」がI(あい)、「う」がU(ゆー)、「え」がE(いー)では日本の元号を示す記号としては日本語的にしっくりこない。「お」にいたっては数字のゼロ0と混同する。よって「アイウエオ」A,I,U,E,Oの母音で始まる元号はまずないだろう。 残りはCFKLNQRWXYである。 Cはカメラとかケースで、Qはクエスチョンかクイズくらい。バッテンのXにいたってはゼロックスとかで、これら外来語系の音はないだろう。 それとLとRの区別は日本人にとって、もっとも不得意とする音であるから「ラリルレロ」の音も使うまい。 もう残りは富士のF、希望のK、日本のN、和風のW、大和のYのみである。 平成のHはハヒフヘホのへであって、並べて記す機会が多くなるので、同じハヒフヘホのFは隣には置かないだろう。となると富士のFも消える。 とすると、もう選べるのはKNWYの4つだけだ。 昭和のS、平成のHと並べてみよう。 S・H・K、 S・H・N、 S・H・W、 S・H・Yとなる。 SHKでは何かショックみたいだし、SHYだと何か恥ずかしそうだ。 並べた感じはWがいい。個人的にはS・H・Wがshowの雰囲気で好きだが、Wの音は「わ」だけだ。「を」ではありようもない。ここで簡単にWに「和」の文字をあてがっては絶対にいけないのだが、他に中々いい字が思いつかない。 残りはSHNとなり、ナニヌネノを頭文字に「新元号はN」で決まった!? 後は偉い学者さんにナニヌネノでカッコイイのを考えてもらうだけだ。 以外と簡単だったな(笑)。
2017.01.24
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流行語大賞に「神ってる」だそうだ。 どうも最近の日本人は神を粗末に扱いすぎる(怒)。 箱根駅伝で坂を早く登ると「山の神」と呼ばれる。 「海賊と呼ばれた男」と「山の神と呼ばれる男」を比較すれば、人間的に優れているのは「海賊と呼ばれた男」に違いない。(まだ読んでもないけど) それでも「人間的に・・・」なのだ。 「神懸る」ことをいうのなら、そう言えばいいのだ。「かみがかってる」と。 「神が懸かる」のであって、本人が神では決してない。「神が勝ってる」のであるから。 神業も神風も神懸かってるのであって、そのものや本人が神では絶対にない。 文殊菩薩から名付けた高速増殖炉「もんじゅ」の顛末を見るがいい。 普賢菩薩からとった原子力船「ふげん」を見ればいい。 どちらも悲惨な結果ではないか!? 菩薩でさえそうなのだし、如来はその上をいくが、さらにその上の神だなんて・・・! 特に若者を神になぞらえてはいけない。山登り名人くらいで上等なのだ。 神を紙のように薄っぺらく扱ってはいけないし、そのことで本人の将来が心配にさえなってしまう。 常識が通用しない時代だから、ちょっと気が利いてるだけで「神対応」だなんて、実におこがましいのである。 マスコミやアナウンサーまでが、これらの言葉で若者の芽を摘むことになってはならないだろう。 神以外を神と呼んではいけないと思うこのごろである。
2016.12.17
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町内会の役員になって、現役時代にはまったく付き合うことのなかった地域の人と否が応でも付き合うこととなりました。ほとんど言い訳にしかならないのですが、現役時代の私は余りにも忙しかった為、私には人と違った特殊な能力が備わったらしいです。それは情報の取捨選択能力であります。その話はどうでもいいと思った瞬間、そのことを忘れるという能力(?)なのです。というより、はなから覚える気が全くないんですね。話を聞いて、くだらん、つまらんと思った瞬間、私の思考回路は自動的にその話を記憶の回路へは回さずに即遮断してしまうのです。 豊臣秀吉が石田三成に初めて会った時のエピソードに三杯のお茶の話があります。鷹狩りに来て寺で休んでいた秀吉に三成が、最初はぬるめの薄くて多めの量で、しだいに熱く濃く少なめなお茶をだしたという、あの話ですよ。天下の歴史上の偉人と私とを一緒にするのはおこがましいのですが、「なるほど!」と、私を唸らせてくれるイケテル人物に出会うと本当に♪嬉しい。それでも話の中身はすぐに忘れてしまうんですけどね。今度こういう問題にぶち当たったらこの人に相談しよう、この問題を考えるときがきたらこの人の著作を読もうと思い、その人のことだけを頭の中にキープすると、とりあえず話の詳細は忘れてしまうんです。でも、それが私の人脈であり、財産であったのであります。普通の人でも好みのタイプの俳優なら、すぐに名前を憶えてしまうでしょうが、私の場合は逆バージョンなのです。沢山の情報を切って、切って切り捨てて、その中から本当に今の自分に必要なものだけを拾い集めて組立てて、ようやく自分のアイデンティテイを保ってきたのであります。リタイヤした今でも、(つまらない?)会合の予定日時や(取るに足らない?)人の顔や名前でそうなのだから、まったくもって始末に負えません。なにしろ今はそれが私の「仕事」なのですから。 中でも、私がくだらないと勝手に決めつけてしまう人物像の共通点は、能力も責任感もないのに、やたらと「カッコつける、演技のうまい奴」なのであります。前述のように今の私の「仕事相手」なのだから、思いっきり気合を入れて頭に叩き込まないと、顔も名前も覚えられない。因果応報というか、自分で自分の首を絞める結果となるだろうと簡単に想像できるのに、カッコつける人の多いことに実は辟易としているのであります。 確かに表現の自由は日本国憲法で保障されているのだから、それも本人の自由ではあるのですがねぇ。マナー、作法は人を美しく見せるし、人間関係の潤滑剤でもあります。でも「装」から「偽装」までいってはイケナイのでありますよ。 「装う」という言葉の本質を忘れて、化粧や服装などでしか自分を表現できないと、本当の自分を見失ってしまうと思うのですよ。不都合な事実を隠蔽し、謝罪会見を開く幾多の大企業の不祥事をみると、企業経営の危機におちいるような大きな問題に発展してしまうこれらの遠因は、一人一人のそんなところにあるとしか思えないのであります。自作自演、自画自賛のコスプレに惑わされてはイケナイのでありますな。「♪ボロは着てても心の錦」ってか!? でも、コスプレは好きだなぁ・・・
2016.07.11
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プレバトの俳句の毒舌先生が好きで番組をよく見ます。俳句という美しい言葉の文化なのに先生は毒舌というのが、アンバランスで面白い。 3.11から5年経って、宮城県・南三陸町の防災センターから放送で津波襲来と住民に避難を呼びかけていて自身は津波に流されてしまった女性職員の声を改めて思い出し、涙が今も溢れる。 当時は「死んでもラッパを離しませんでした」という木口小平を思い出していた。あれは戦場での話ではなく、厳冬下の山岳行軍演習だった。当然そんな無謀な演習こそ非難されるべきものなのに、一人のヒーローを作りだして、国民の目線を逸らす意図を感じさせる話である。 「率先避難者たれ」「津波てんでんこ」これらの言葉は震災の教訓としてその後知った言葉であるが、やはり彼女も率先避難すべきだったのだろうと5年経ってようやくしみじみと思う。 「只今大きな津波が押し寄せております。至急高台に避難してください」などという美しい丁寧な日本語は、ああいう緊急事態では要らなかった。「みんな早く逃げてー!」で十分だ。緊迫感を伝えることが最も重要なのだから。緊急事態を伝える言葉はよりシンプルで説得性の高いものであるべきで、そういう共通認識を国民が持つことも必要だ。そして「私も逃げます!すぐに逃げましょう!」と言って彼女もそこから逃げてくれれば彼女の命は助かったかもしれない。永遠に愛すべき忘れることのできない女性である。 いわんやその防災センターを低い土地に作った責任問題から目を逸らすだけの美談にしてはいけないのである。あの建物のすぐ脇にはチリ地震の際にはここまで津波が押し寄せました、という当時の津波の高さを示すポールがたっていたのだから。 美談だけで終わらせたら、彼女の命をかけた貴重な教訓すら風化させてしまう。命懸けのことは美しい綺麗な言葉で装っては駄目なのである。 きっと俳句の先生は俳句に命懸けだから我々には毒舌に聞こえてしまうのだろう。おっしゃることはいちちごもっともなのである。
2016.03.12
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「今・現在に感謝する心」は、自分自身を幸せな気持ちにしてくれるばかりか、夢と希望をももたらせてくれるものです。そして、そこからは他人に対する愛情も思いやりも生まれてきます。それらを自らの言動に移した時、日本語では「感謝の誠を尽くす」といいます。こう言うと難しく聞こえるかも知れませんが、食事のときに「いただきます」「ご馳走様でした」と言う、日常生活に根付いた日々の感謝の言葉こそが、ごく普通の日本人の心であり、文化なのであります。 「今・現在に感謝する心」が無ければ、「誰がこんなマズイ物を作ったのだ」という、現状の不平不満の原因を過去に遡り、犯人探しをしなければならなくなります。感謝の心が無いと、諸悪の根源は自分には微塵もなく、ことごとく全ての原因は他人であるということになるのは自明の理であります。 今を感謝するということは、どんな辛い過去であっても、それを受け容れるということです。ただし、受け容れるには大きな愛という器量と見識が要ります。食事で言えば、食べ物の生命をいただき、自分の生命の糧にさせていただいていることに思いをはせるという、ただ喰い散らかすだけの動物とは違う、人間としての作法(マナー)という根源の問題なのであります。 例え政略結婚であっても、一度は夫婦関係にあったのに、別れた相手の悪口を70年間も言い続けているのは、もはや品のない行為でしかありません。いつまでも誰もがその悪口を黙って聞いているわけがないでしょう。本当はご本人も別れた相手を懐かしく忘れがたいと思っているのではいるのではなのか。そしてそのことにご自身も気づいておられないのではないのか。そうでも思わなければ、あの告げ口外交という言動に理解が追い付かないのであります。 過去の出来事に対して「許し」が無ければ、悲しいだけの事実と怨念しか残りません。そしてそれが自分の現在に繋がり、今が幸せでなくなるという悪循環となっているのではありませんか。 悪循環をどこかで断ち切るためにも、取り敢えず一度全ての過去を許してみたらどうでしょうか。そこから愛や希望が生まれるのではありませんか。現在、貴国の若者の大多数が将来の国外脱出を夢見ているという現実は、今までのやり方(古い反日教育)が間違っていたのではないかと現代の為政者として、貴国の国民の為にも真剣に考えてほしいのであります。 「今・現在に感謝する心」があれば、歴史の見方も変わってきます。千年経っても変わらない、変えようのない事実なのなら、一度見方を変えてみたらどうでしょう。「百歩譲っても、殺人犯の子や孫(=戦後生まれの日本人)は、殺人犯ではない」という、この事実を理解してほしいのです。 キリストの「汝の隣人を愛せ」は決して隣人を利用せよと言っているのではありません。無論、上辺だけ繕っても意味はありません。「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」というのは、あっち(米国)こっち(中国)に自分(韓国)だけに都合のいいように振る舞えと言っているのでもありません。 「恨(はん)の文化」に「自省」という言葉はないのでしょうか。朝鮮戦争時の米軍向けの慰安婦強制問題やベトナム戦争時の民間人大量虐殺など、恨から自省へと舵を切ってこそ、諸外国から尊敬を集める国になれるのではないでしょうか? 現在の状況では残念ながら愛も、夢も、希望も、発展も、望むべくもありません。国民の未来の幸福の為にも、どこの国にも相手にされなくなる前に、一刻も早くそのことに気付いてほしいのです。 耳の痛い言葉かもしれませんが、どうか「隣人の愛ある言葉」と、受け留めてほしいものです。
2015.10.02
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ギリシャ語には「謙遜」という言葉にあたる言葉はないらしい。誇り高きギリシャ人の特質を代表する言葉として「ティナカヌメ」という言葉があるのを聞いた。「仕方ないさ」という意味らしい。この言葉を聞いて、沖縄言葉のナンクルナイサー(どうにかなるさ)と雰囲気が同じに感じたのは、私だけだろうか?彼の国の首長とあの県知事を比較しているわけではないし、国民の代表や住民の代表を軽んじるつもりはまったくない。どちらも自然が豊かで風光明媚な観光が主な収入源であるところや、片や借金で首が回らなくなり、一方は返済の必要のない毎年のような国庫による巨額の補助金である。返済期限を守らないところは、待ち合わせ時間を守らないことと、ほとんど似ているように思えてならないのであります。私たちから見ると「逆切れ」とか「開き直っている」としか見えない被害者的な態度も国民性(住民性)なんですって。他(の国、県)からどう見られているかっていうのは、あまり気にならない性格らしいですな。したがって他の人の為になることを率先して云々などということは期待してはいけないのであります。期待するほうが間違っているのであります。いったいいつまで、どれほどの金をつぎ込めば、他人様に迷惑をかけずに自立して暮らせるようになるのだろう?と素朴に疑問に思うのでありますよ。本当にそんな時は訪れるのだろうか? ナンクルナイサー(どうにかなるさ)それまでこのままでいいのだろうか? ティナカヌメ(仕方ないさ)
2015.07.08
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今日もマスコミに苦言を呈したい。 最近の報道番組では、その放送局に事件当事者の音声がない時、アナウンサーがまるで声優かモノマネのように当事者に代わって声を吹き替えしているのが、聞いていて鼻について困る。「お前がその場で直に聞いて、その上でその人を真似てるのかー!」と突っ込みをいれたくなる。声優でも、モノマネ芸人でもないから、一言でいえば「ヘタクソ」。 想像で口調や声色を作り現場の雰囲気を出したいのかもしれないが、まったくもって余計なお世話である。「事実を知りたい視聴者」なのに、下手な作り物を見せられたのではたまらない。 捕まった容疑者の自供内容ともなれば、どうせ警察発表によるものだろうと素人でも想像がつくというのに、あたかもその現場に立ち会っていたかのように、さもなくば聴取の現場録音を聞いたか録画でも見たかのように、何故そこまで「想像上のモノマネ」に作り上げてしまうのだろうか? 取り調べは、聴取する者とされる者との会話のやり取りであり、取調官から発表者へという又聞きの又聞きに、さらにその内の一方だけの発言を取り上げて、下手なモノマネに仕立てても臨場感も現実味も何もない。というより、最早それは「胡散臭い脚色」といってもいいだろう。報道というものは脚色をしてはいけないと思うのだが、今の放送局にはそういう認識はないのだろうか? 言葉をカットされて、発言の一部分だけを取り上げて誤解を招いたことも今まで多々あったはずなのに、カットにカットを重ねさらに脚色したら、それは真の報道のあるべき姿ではもうなくなっているといっていいだろう。どうやらこの手の作り物(下手なモノマネのような吹き替え)は「ヤラセ」ではないから報道の倫理規定の範疇にあたらないらしい。 「ニュース・ショー」と呼べばそれらの行為は許されるというのだろうか?それではハキチガエも甚だしい、視聴者を軽んじた姿勢というものだ。世論の扇動になってはいないか?マスコミはたえず自問自答してほしい。私は「報道にモノマネは要らない」と思う。
2015.04.26
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イスラム国をどう呼ぶべきか、イスラミックステート、テロリスト集団ISSR、色々な論議があったが、どれもいまひとつで、「こうだ!」と主導権を握るようなマスコミの論調も出てこず、この話は立ち消えになってしまったような印象である。 その関連といってはなんだが、中国や韓国の人をマスコミでとりあげるとき、人名表記は原則的にすべて「カタカナ(もしくは英語)の音表記」にした方がいいと思う。 かつて日本では、朴(パク)を「ぼく」、金(キム)をそのまま「きん」と日本語読みしていた時代もあったが、日本に併合された時代を思い起こし屈辱的であるという当時の韓国世論に合わせる形で、今の現地の発音に近い形に日本国内での読み方を変えたといういきさつがある。 きん・だいちゅう(金大中)をキム・デジュン、ぜん・とかん(全斗換)をチョン・ドゥファンと意識的に国内マスコミが言い換えた始めたあのころに遡る。したがって当時も国交がない北の人たちにも南の例に倣い、にっせい(日成)をイルソン、しょうじつ(正日)をジョンイルと、読みを現地の方々の発音になるべく近づけるように代えた。正恩にいたっては当初からジョンウンである。 これら現在の読み方・呼び方を日本国民に広く定着させたのはヨン様かもしれない。でも私はいまだに朴槿恵(パク・ウネ)大統領のウネを漢字で書けと言われてもスラスラと書くことができないでいるし、カタカナで書けば漢字で書く用もない。彼女以外にウネという名の知人もいない。と、ここで思い出した。いた!李ウネ。そう、元北朝鮮諜報員の金賢姫(キム・ヒョンヒ)の日本語指導をしていたとされる拉致被害者の田口八重子さんの現地での呼び名がリ・ウネ(李恩恵)だった。大事な、決して忘れてはいけない話だが今回は話が横にそれるのでやめておくことにする。いずれにしても、私にとってあの字は大統領の登場で初めて知った漢字である。日本語ワープロでも自分で登録でもしない限り、変換でパクが朴と出ても「うね」が槿恵や恩恵と出てくることはない。 なのに何故、中国に関しては今でも習近平「しゅうきんぺい」と言っているのかが分からない。彼はシー・ジンピンだそうだし、本当は王がワンで、毛はマオだということは日本国民周知の事実である。 言いたいことは、日本のマスコミには統一性がなく、行き当たりばったりで、ポリシーがないということである。日本の当用漢字にないから、都度「○○偏に□□」という、さして重要でもないと思われる漢字の構成情報に、書き手も読み手も余計な神経を使わざるを得ない状況になっている。 「そうなんだぁ?あっちではこう読むのね」と言っていた時代の方が、幻想と言われてもしょうがないが、ちょっとかの地に親しみと興味を抱いていた。あぁ、あの時代が懐かしい! 逆に「なまじっか同じ漢字を使用するからといって、勘違いするなよ」と言ってきたのはあちらのほうであり、今では「漢字の使用料を払え」とさえ言いだしそうな始末である。 とまれ、幻想が妄想になってはいけないから話をまとめるが、中国や欧米の人がおかしな発音で日本人の名前を呼べばやはり違和感を覚え、訂正してあげたくなるものである。また、自分の名前の中国流の読み方を知っている日本人がどれほどいるだろうか?中国流の読みであなたが自分の名前を呼ばれたら、あなたは素直に返事ができるだろうか?そう考えると、人名、地名はできるだけ現地の発音に近づけるというのがやはり礼儀というものだろう。日本のことを西洋人に合わせるように国内でもやたらとジャパンと言い換えているのだからしょうがない、とは言わせない。ましてや今回静岡地裁での判決とは趣旨が違うので念のため。(男性は韓国籍だが日本で生まれ育ち、日本名の通称を使用。被告である社長は、他の社員の前で「朝鮮名で名乗ったらどうだ」などと繰り返し発言し、男性は屈辱と精神的苦痛を味わったと主張。社長側は「在日韓国人らは誇りを持って本名を名乗るのが本来の在り方と考え問いかけただけだ」と反論していた。→男性勝訴)
2015.04.24
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「鶴の恩返し」この昔話の粗筋はご存知でしょうから省きます。「恩返し」の部分はさておき、鶴とは、「金づる」のことだだったということを物語の内容から思い出してください。話の中の鶴は人の姿に変身して「誰にも真似できない」反物を織り上げました。文字通り、身を削るような鶴の創作活動が世間から評価されることにより、生活が豊かになったというのが途中までのお話です。鶴は当時特別な存在ではありませんでした。神でも人間でもなく、鶴でしかないのです。昔の日本にはそこら中に鶴はいたのであります。鶴自体はなんにも珍しいものではなかったのであります。鶴との約束は作業の様子を「覗いてはいけない」ということでしたが、このことの意味は、「儲けの方法は身を削るほどの創作的努力以外に無いけど、その方法は絶対に公開してはいけない」ということなのであります。ところが、見てしまったら人に話してしまうのが人間なのであります。鶴は動物ですから動物的感でそのことを知っていたのでありましょう。「人に話す」ということは、「人に放す」であり、「人に離す」なのでありますよ。金儲けのコツは、本当は余りにも単純で原始的だから、その方法(秘密)を公開した途端、「金づる」は逃げてしまうよというお話なのであります。ましてや「ダンナ、これは絶対に儲かりますよ」なんていう話には、絶対に乗っかてはいけないということでありますよ。 情報公開に関しても、いくら隣のオネーサンのヌードがネットで見られる時代だといっても、節度はわきまえないといけません。なんでもかんでも公開していいというものではないのであります。おっと、これではどこかの官僚にとって都合のいい話になってしまいますな。これは傷ついた鶴を助けるような、善人に対する忠告なのであって、何の責任も取らずに自らの保身だけを優先するようなご仁には、まったく関係の無いお話ですからお間違えのないように。とにかく、鶴も助けずにうまい話は転がり込んではこないということを肝に銘じておけば、電話一本で詐欺にあうようなことは避けられると思うのです。
2015.02.13
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「人の話は8割が自慢話か愚痴」なんだそうだ。「う~ん……耳が痛い!」と思ってその先を聞いたら、それに「言い訳と陰口を加えると9割」だという始末だ。(ウチの女房は言い訳と陰口が9割だと言うかもしれないけど、そういう算術的な話ではない。)それを聞いてからというもの、すっかり凹んだ私は無口になってしまい(笑)、聞き手にまわってみたのだが、以来酒席ですらなんと会話が退屈なことか。もともと自慢話は話半分といって割り引いて聞くものだが、その場しのぎの退屈ついでに相手を観察していると、確かに自慢話は言ってる本人はまったく気づいていないが、自慢話はホラでなければ妬みしか産まない。当の本人は賛辞や賞賛を期待しているようだが、そうは問屋は卸さない。まぁその場のノミシロを負担させてなんとかバランスをとっているのだが、頭のどこかで「威張り料」なんて言葉が出だしたら、ノミシロなんて気にせず、そんな相手からはすぐに離れたほうがいいに決まってる。相手の愚痴は本人の失敗談なら自虐ネタとしてそれなりに面白いが、人間関係の愚痴となると一方の言い分を聞いてるだけで、はたしてその話の信憑性の少ないことに驚いてしまう。人を茶化したり、イジったりするのもいじめ、セクハラ、パワハラの「前兆ソノモノ」である。大人は引き際をそれなりに心得ているが、子供同士の話の中では悪ノリしてどんどんと暴走していくであろうことは想像するに難くない。子供のいじめ対策は「エスカレートさせない引き際という言葉の意味」を教えてやればいいのかもしれない。前出の文言に戻るが、どうやら「その人の話の8~9割」がそうだというのではなく、「世の8~9割の人」はいつもそんな話ばかりしているという意味もあるらしい。つまり明るい前向きな話なんてものは世間の1割程度の人しか普段していないということなのだ。だからその1割の人に社会の富が集中するんだと。いやはや、また出てきましたよ。これって「引き寄せの法則」だな。ドナタだったか「いい言葉を使い、いいことを考え、いい人になろう」って仰っておられましたが、「いい人」って結局お金持ちなんでしょうねぇ?マッ私も今更遅いよと言われるかもしれないけど、努めて明るく前向きな「深イイ話」を心がけることにしましよう!「言葉が人を創り、言葉が人を育てるのだ~!」なんてね。
2015.02.12
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漢字は表意文字といい、文字自体に意味があるとされる。だが、古来の日本語はそもそも言霊といって、どちらかといえばカタカナなどの表音文字で扱ったほうが正しかったものと思われる。神社で神官があげる祝詞(のりと)にいたってはまさしくそれで、漢字は後から伝わった後付であり、祝詞の文言を文字面で見てもほとんど意味不明である。意味といえば、意を汲む・意思・意欲・好意などという「意」の文字は、本来目には見えないものをさすのだが、それを見える物にしてしまったのが、この「意」の文字である。見えないものを誰が見ても見えるようにしてしまったというか、見えない筈のものまでを表意文字で書いたその辺りから、現代日本人も言霊と大和の心を失い始めたのかもしれない。たとえ表意文字であっても文字面に言霊といえるほどの意味はないのだ。口に出して読みたいのが日本語なのである。別に中国が悪いといっているのではない。文字も道具のひとつであるのだから、使い方を間違ってはいけないし、文字に起こした記録があるからいって、何でも頭から信用してはいけないという話だ。「馬鹿も休み休み言え」と叱られそうだが、この馬鹿だって、若いお姉ちゃんが男の胸元で可愛く「ばか、ばか」なんて言われたらたまらないが、尊敬に値しない上司に「バカ」なんて言われたら、これもこれでたまらない。かように「馬鹿」も「たまらない」も字面は同じでも登場人物とその状況で中身は大きく変わる。だから文字になった証拠があるからといって何もかもが正確で額面どおりであるとは限らず、真意や心情などの肝心な部分は行間にちりばめられ、読む側の読解力と想像力に頼らざるを得ない、その程度のものなのである。「本音」とは実によくいったものだと思う。この文字は音にこそ本質があるというのだ。外交的にもめている相手国に抗議文を送り遺憾の意を表明するというが、やはりたったのそれだけではこちらの本音は大して伝わらないということも忘れてはいけないだろう。同じ漢字を使う国であっても今のこのありさまなのだから、ハングルや英語などの表音文字の国の人にはなおさらである。会って面と向き合い、とことん話をしないといけないのだ。我々日本人も普段思考言語として使っている日本語の特性を理解し、諸外国の人々には中々理解され難い国民性であるということも肝に銘じておくべきであろう。それにつけても、会う気のない人に付ける薬はないものだろうか?
2015.02.11
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本当に好きな「絵」があり、私はその作者であるその画家の絵は当然全部好きだと思いこんでおりました。或る時、美術館でその大家の生誕100年にあたる年とかで、盛大にその作家の特別展が開かれました。私は喜び勇んで田舎から東京に行ってまいりました。各地の美術館の所蔵品はもとより、個人所蔵の物も一同に集められていて、どれもこれも普段はお目にかかることのできない大作ばかりで、それは素晴しい特別展でありました。ですから普段はあまり借りることはないのですが、そのときは故人である作家本人の肉声での絵画解説だというので、入口の受付でインカムを借りることにしたのです。展示されているその絵の前に行くと自動的にその絵の解説が流れるアレですね。へぇーこんな声の主だったのか?別に前もって想像していたわけでもないのですが、私の好きな彼の絵のイメージと耳に聴こえる彼の声がどうもしっくりきません。まず声質に違和感を覚えました。そしてその声に慣れたころ、今度は別の違和感がどんどん大きくなってきて、私は耳からイヤホンを外してしまいました。本人が語る内容は饒舌で、「下手な職人の愛想よし」とか「愛想よしに腕のいい職人なし」という言葉を思い出させました。彼の言葉のほとんどは製作中の苦労話であり、その中に心のどこかで私が期待していた「ほとばしる芸術の発露」などというものを感じることはなく、彼のいい絵を描こうという気持は、どうしたら高く売れる絵になるかということに腐心しているような、計算高いとしか思えないような内容で、とにかく彼のその製作意欲というものは恣意的で、いやらしいほどに作為的に感じたのであります。私にとって聞くに堪えない実に残念なものでありました。もちろん本人にそんな意図はまったく無かったと思いますし、描くことと言葉にすることはまったく違うことですから無理も無いのでしょうが、とにかく私はそう感じてしまったのです。そのときばかりは、売れる絵を描こうとしているその画家の解説の言葉に、私以上の心の豊かさとか心の贅沢さというものを微塵も感じさせてくれないのでありました。好きな絵を描いているという幸せ感がまるで伝わってこないのであります。芸術家の肉声は聞くものではありませんな。そういえば猫ばっかり描く人、花の絵ばっかり、山ばっかりとかの人がいますが「作家の得意とする画題」って高く売れるとか、画商が売りやすいということなんですかねぇ? 出来上がったその絵を好きであっても、その作家自体は別に好きなタイプの人間ではないのだということをあの時改めて思い知りました。知れば知るほど付き合いたくない人って、いったいなんなんでしょうかねぇ。こうなると本当はもっと我々は普通の人の良さを分からないといけないのかもしれません。いったい「本物」といわれるものの「本質」ってなんなんでしょうかねぇ。生前に評価の低かった画家や芸術家がその死後になってようやく評価されることがよくありますが、こうなると出来上がった物より、その作者の人間性が評価の足を引っ張っているってこともあるんじゃぁないでしょうかねぇ。だから売れないのは他の誰かとか、時代が悪いのではなく、結局売れないことの殆どの原因は本人にあるということなんじゃあないでしょうかねぇ。そういえば、名だたる天才といわれる芸術家に変人の多いこと!奇人、変人は周りの人にとっては迷惑な存在である場合が多いです。家族すら離れていく有名芸能人の多いこと。我々みんな生きている内に高評価を得たいと思って努力をし、毎日を生きていますが、もっと普通であることの価値を認めて、普通の大切さを大事にしないと、自分の周りの身近な普通の人の存在が疎ましくなるばかりか、自分自身さえ惨めになってしまうのではないでしょうか。照一隅(一隅を照らす)いう言葉の意味をしっかり考えたいものです。一方で昔、日本から瀬戸物をヨーロッパに輸出した際、梱包資材としての和紙に、要らなくなった浮世絵を使っていたら、その梱包資材であった浮世絵がヨーロッパで人気になり、西洋の偉大な画家達に多大な影響を与えたということであります。はたして、日本では絵としてはもう要らない本来は使い捨てだったのに、紙としてはまだもったいないからと使ったはずの梱包資材に、いったいどういう意味があったというのでしょうか。当時の日本ではそれはもうただの梱包資材であり、それ以上の価値も意味も、もはや無い物だったはずなのであります。その不変的な価値を見出したのも、やはり変人だったのではないか。ソイツもきっと生きていたらきっと我々凡人とは付き合いにくいヤツだったに違いないのでありますよ。「素晴しいコレクション」とは、度が過ぎるといわれても仕方ないほどの自分の物欲を満たしたものでしかありませんな。その物欲を、恥ずかしげも無く○○コレクションなどと自分や自分の企業の名を冠して見せびらかす行為は、貧乏人にはマズ見ることのできないものだから、私が見せてあげようといういやらしい品の無い行為です。だから私はそれを認めません。自分の物欲を満たす前に本当はもっと出来ることが、先にすべきことがあったはずだと思うのです。食べることに困っている人や国に寄付をしてもいいし、やり場のないほどの個人所得なら、自分の会社の従業員の給料をその分上げてやってもいいのです。何億という絵を買うお金で助かる命や、人に希望を与えるような「先にすべきこと」がいくらでもあったはずなのです。バブルの頃に絵画を買い漁った企業は高い買い物をしたにも拘らず、その企業評価ははたして上がったのでしょうかねぇ。私が思うに、彼らの優先順位には人間愛がありませんね。給料も安く彼らの物欲を満たすために働かされ続けた彼らの部下や従業員はかわいそうとしかいいようがありません。まかり間違っても「自分へのご褒美だ」なんて言ってはほしくない金額です。一般人にも見せてあげたいと思うのなら、その作品を公的な美術館に寄付すれば済むことです。自分も見たければそこに行けばいいことです。他人の作った美術館では駄目で、自分の傍に置き、自分のものとして人にみせびらかせたいというのが物欲というものです。だから○○コレクションは素晴しいというより、素晴しい物欲であるというべきものでしかないと思うのです。資産家が喰えない時期の作家を支え育てたような言い方も、経済活動としてのただの先行投資にしか聞こえず空しいです。作家自身も速くこの世に認められる存在になりたいと思っているのだから仕方のないことですが。成功とか社会に認められる有名な存在とかいうのは、いったいなんなのでしょうかねぇ?スターといわれる芸能人ですが、彼らの目指しているものはいったいなんなのでしょうか?彼らの交友関係は庶民に飽きられる不安を常に持った者同士のお互いの慰め合いであり、優雅な生活もプライバシーの無い生活もすべて、明日をも知れぬ人気商売の代償なのですが、現状の見たままでそれにあこがれる若い人も多いです。基本的に人気者やスターというものは使い捨てです。華やかな世界の次に待っている言葉は「落ち目」であり、そのときは、逆に同情のような目で庶民に見られる側に回るわけです。それだけ落差のある世界に身を置くことの決心や決意といったものが、はたして芸能界に憧れる彼らにあるのでしょうか。芸能界は次から次と新星が現れて殆どメンバーが入れ替わりながら、私たちを飽きさせずに楽しませてくれます。芸能人に憧れる若い人に言いたいです。「絶対に、次から次と表れる新しい美人を見ている側にいるほうがずっといいに決まっている!」と。もう、とっくに旬を過ぎ、年老いた懐かしい芸能人を見てガッカリするのは、憧れだった異性の同級生に年老いた姿を見せられることよりショックが大きいものです。まるで使用前・使用後、ビフォー・アフター、あの人は今。輝き続ける星は見た人の心の中で輝いているのです。誰も加山雄三の今年の新曲なんて聞きたくないのです。懐メロは昔のあのころ聞いた自分が懐かしいのです。あのときの自分に会えるのが嬉しいのです。厚化粧をしてマツケンサンバを踊るのが偉いのか、加山雄三がそれを真似しないのが偉いのか、どうでもいいわけです。芸能人にならなくて見る側にいるほうがどうみても賢い選択なのです。大金を稼いでいる芸能人を使い捨てにできるのは、我々凡人の方なんです。見ず知らずの他人の妬みやそねみを受けることのない凡人が、目だってナンボの芸能人よりずっと楽なんです。人生って目立たないほうがなにかと便利でいいものなんです。それが凡人の成功というものなんです。う~ん、負け惜しみに聞こえる。といっても「表現をすることが好きな人」というのはいるわけです。人相学的にいいますと顔のある部分の形状が、芸能人と政治家はよく似ています。ですから芸能人が政治家に転身するのも、表現することが好きなわけで無理も無いことなのであります。それは残念ながら単なる「目立ちたがりや」である場合が多く、能力があるかないか、一生懸命国民のために働く決意があるかないかということとは全くの別物であります。私は人が表現することに異論を唱えているわけではありません。表現することは神が人に与えた人類の特権のようなものですから、それを否定する気持は毛頭ありません。表現すること自体が「自分の為から人の為」になったとき、世間から大御所といわれる存在になるんだろうなと思います。バラエティー番組などで芸能人が語る台本のない自身の言葉にガッカリすることは常であります。他人である作家の書いた台本の台詞なしに人生を語ることは、芸能人も凡人も平等なわけであります。誰に何を言わせるかを考え決めている一握りの表に出ること無い影の仕掛け人こそが、全ての本質を握っているのであります。ですから彼らの意図に人類愛がないと世の中が真っ暗になるのであります。俺、凡人でよかった……とつくづく思う今日この頃です。
2015.02.07
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原発の安全神話が崩れたなどとマスコミはよく言いますが、原発は決して神話というほどに歴史のあるものではありません。つい最近まで絶対に安全だと言い張っていた張本人がいるはずなんです。新潟県知事がいう「柏崎刈羽の再稼動より福島第一の事故の総括を先にしろ」というのは、まぁまぁ筋が通った話なんです。原発の安全という大前提が根本から崩れてしまった以上地元としてはもう受け入れられないというこの話の流れは、良家の子女だと人に勧められ、自分でもだんだんとイイ女だと思って一緒になったのに、実はオカマだったというような話なんです。紹介してくれた人たちも随分と立派な人たちだったものですからすっかり頭から信用してしまったんですよね。ところが良家の子女なんていうほど上等なものではなく、実は趣味の悪い成金で、化けの皮が剥がれたら、魅力だったそのお金も既に底をついていたという、福島がオスギで新潟がピーコだったという、まったく落ちの無い話だったのであります。これはどちらも同じ沸騰水型原子炉という意味で他意はございませんよ。でも今からオスギとピーコがいくら手術したって「はるな愛」にも「佐藤カヨ」にもなれないのは誰もが分かっていますよね。大前提が崩れるとはそういうことなんですよ。いまさら柏崎刈羽原発の地下には活断層があるとか又今頃になって言い出したりして、男装(断層)とか女装とかいう話しじゃないんだからいい加減にしてくれよという感じです。今さらベントだ!防波堤だ!といっても、性転換手術じゃあるまいし、その場しのぎの誤魔化し工事では、本質は何も変わってはいないんでしょ?平和利用といったって、ゴミが出続けているのにゴミ捨て場がない。さらにゴミを増やすような話をしているんですよね?こういう放射性廃棄物処理の問題ひとつとってもこの程度の有様なんだし、汚染水となったらまったくお手上げ状態じゃないですか。こうなると原子力って人としてやってはいけないことだったんではないか、どうしてこんなもん作ってしまっただろ?という気がしていますよ。私だけでなく住民の殆どの人がそう思っているんじゃあないかなぁ。でもねぇ、原発立地の地元は、結果的にもうそのオカマを自分の籍に入れちゃったんですよね。本当に困った連れ合いなんだけど、このままの関係を続けていくしかないんでしょうよ。今までの東電ではもちろん全く駄目だけど、新潟県知事のように建前だけ連ねていても何の解決にもなりません。個別の被害想定に疑問を呈しているだけでは物事は前に進みません。話し合いは市民、県民、国民のみならず、全人類の為のエネルギー問題でもあるのだから県知事と東電の社長との物別れだけで済むものではないのであります。今は全人類の英知を注ぐべき時であって、たった二人に委ねるものでもない。二人だけの問題にしてしまってはいけないのでありますな。私見を述べるなら、体制を立て直す意味でも東電は一刻も早く清算して新しい組織に生まれ変わらせてあげたほうがいいと思います。人間は生まれ変わることができないかもしれないけど、法人は人によって生まれ変わらせることが出来ると思うのですよ。発送電を分離して早く別会社にしないと、有能だったのにすっかりモチベーションが下がってしまった人材が、今まで金をかけて育ててきた人材が他に流出してしまい、もっと取り返しのつかない事態になってしまいます。一刻も早く人的流出を防ぐべく発電と送電を分離独立させるべきではないでしょうか。モチベーションがすっかり下がってエネルギーの湧いてこないエネルギー会社って洒落にもならないでしょ。そういっても、ここでまた利害が生まれるから問題は山積です。ところが、やだねぇ、困ったもんだねぇ。廃炉といってもこっちが先に灰になってしまうくらい先の話なんでしょ?なんて話をしながら住民も本質的な問題は先送りにしているんです。
2015.02.06
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今日は日本海側の当地は晴れているのに太平洋側は雪だそうで、雪国の人間としては、いいんじゃない?たまにはそういう日もあって。とまぁ、今日ばかりは日頃の溜飲を下げているところですが、ポカポカしてるので太陽光のお話を。「太陽光発電は十年で元が取れる」ということの意味は、電気の買い取り制度があるからですが、それは太陽光発電を設置していない人がその費用を肩代わりして負担しているにすぎない、まったくもって不平等な制度でしかありません。これは、大多数の人が家庭や企業で採算無視の発電をしたら、完全に立ち行かなくなる貧弱な制度でしかありません。国民は除染費用と汚染された土砂などの廃棄物の処理費用、そして廃炉費用と使用済み核燃料の処分まで負担していかなければならないのに、どうして自然エネルギーの普及のためという大義名分を掲げて電気料金に上乗せしたかたちで買取しなければならないのかきちんと説明してもらわないといけません。買取を義務付けるのはいったい誰の為なのか説明が必要なのです。現にヨーロッパでは、もはや小規模自然エネルギーの電気買取制度は破綻しているのだそうです。「発送電の分離」をせずにこのまま今の制度を続けていれば日本も必ずそうなります。廃炉部門だけを別会社に、なんていう小手先の変革ではこの問題は解決しません。現行の買取制度は、保険のように少数の被災者を大多数の非被災者が助け合うという相互扶助の制度でもありませんし、順調なときに不慮の事態に対して積み立てておくというような性質のものでもありません。決していつまでも続かないし逆に言えば、いつでも止めることができる小手先の政策にしかすぎないのです。ですから太陽光などの再生可能な自然エネルギーを利用した発電を買取制度の上に乗っけていては駄目なのです。そこに一流企業の大掛かりな設備での参入をさせてはいけません。この制度で儲けている会社をまず既得権益を放棄させ排除したうえで発送電を分離してからにしないと。そもそも基本的な考え方として、自然の力や恵を享受することを、単に一企業の利益だけにしてはいけないということなのであります。太陽は只なんだから余ったから売るのではなく、みんなに只で配りなさい。エコや福祉で儲けるな!売電でなく発電していない人に分けてあげることにしないと。余ったのだからお金は要らないという人はいないのか!今は全く逆で、無い人が負担しているという、まったく矛盾した制度なのであります。これ(現行制度)が崩壊しないわけがないのであります。今の時期に新規参入なんて火事場泥棒としか言いようがないじゃないですか。発電事業もごく一般の商環境にすべく、政府は早く「今から代替エネルギーに投資しても元本を保証するものではありません」と言えばいいのです。消費者庁も家庭用の太陽光パネルに小さい文字で「現行の買取制度がこれからも続くとは限りません。設置は自己判断でお願いします。」と表示させなければならないのであります。そもそも、太陽光発電がエコだと思ったら大間違いでしょう。一見クリーンに見えるそれは、製品になって屋根に設置されるまではもちろんのこと、原材料を輸入して製品となるまでにいったい、どれほどのエネルギーを使って出来たものか考えたことがあるのでしょうか?それらは、それを作ったりさえしなかったらまったく要らなかったエネルギーなのです。それらすべてを計算に入れ製品の耐用年数などを計算したら、十年や二十年では絶対に元はとれません。買取制度が既に既得権益化しているのであります。自然エネルギーの活用→買取→既得権益。これは間違った図式であると認識し、襟を正さなくてはいけないのであります。深夜電力も夜は料金を安くしているという単なる現在の制度でしかありません。夜間の電気料を安く供給できている根拠は、原子力発電を毎日毎晩とめることが出来ないために最低限の出力を維持させる為の単なる制度でしかなく、原発ゼロを目指すなら深夜電力料という制度も諦めなければいけません。そうするとクリーンだといわれている、夜間に充電している電気自動車もまったく意味をなさなくなります。太陽光などで自家発電をしたら、夜間のために自宅の蓄電池に貯めておくという自己完結型なら離島などの送電コストがかかるところでは便利でしょう。このように現在のエネルギー政策は矛盾と間違いだらけなのです。これらのことを解決するには、まず発・送電を分離し、次に電気を融通しあうネットワークを構築し、庶民もまた太陽光発電の買取制度や低料金の深夜電力といった既得権益を放棄しなければなりません。発電と送電の分離ということは、電力会社の既得権益の放棄ですが、すなわち庶民の既得権益も放棄せざるを得ないことを意味します。はたして国民に今までのこれらの制度を根本からすべて変える勇気と決断そして合意は、いつどうやってできるのでしょうか?
2015.02.05
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警察官が二人の同僚の引き出しから捜査費用の5千円ずつ計1万円を失敬して逮捕されたそうです。「えっ、捜査費用って各自が管理するものなの?可哀想に生活が苦しかったのならお金を貸してって同僚や先輩にも言えなかったの?私だったら退職勧告はしても「警察沙汰」にはしなかっただろうに。警察はマスコミに揉み消しと批判されるのを恐れて公表したんだろうな……」というのが、率直な私の感想であります。私は何も公私混同を勧めているわけではありません。公を論ずる前に職場の私的関係はうまくいっていたのでしょうか?そこまで彼が追い込まれる前に誰も気か付かなかったのでしょうか?ただ伝えられた情報の中では???なのであります。山本五十六の「やって見せ、させてみさして、褒めてやらねば人は動かず」これは陸軍の中堅幹部への忠告だと思いますが、実に言い得て妙な言葉だと思います。でもよく考えると、この言葉って「子育て」に似ていませんか?そして部下を子ども扱いせよと言っているように聞こえませんか?所詮、人間関係ってそんなもんなんだということなんでしょうねぇ。これこそが血の通った教育・人間関係というものなんだと思います。テレビドラマの「相棒」で描かれる、上司に取り入る官僚の姿や部下に責任をなすりつける姿は非常に象徴的であり現実的であります。小生は公務員の経験もなくましてや官僚の経験などありませんが、企業であれ、銀行であれ、大きな組織に属す人間が保身的に上(上司の言動や自分に対する評価)にばかり目がいっている姿はいやというほど目にしてきました。彼らは顧客の要望も創業の精神も何もあったものではないのです。幹部職員は「部下の責任を取らされる」のではなく普段から「自分から部下の責任を取る姿勢」が肝心なのであります。そうすれば部下や後輩の指導にも熱が入り、教える側も教えることによって教えられるという相乗効果ができてくるものなのではないでしょうか。県内の未解決重大事件のことを思う時、今の警察は市民からの情報が適切に得られていないのではないかと思います。私も第一発見者になったことがあり、不愉快な思いをさせられた経験がありますが、私の場合本当は第一通報者であって第一発見者ではありません。誰もが見て見ぬふりをしていたのです。無論、警察は善良な市民の味方でなくてはいけません。警察官の言動でいたずらに反官ひいきの市民を増やすようなことがあってもいけません。新潟県警はきっと組織が硬直しているのでありましょう。繰り返される不祥事は単なる警察官個人の問題にしてしまってはいけませんね。もっと本質的な解決が望まれる警察です。だからあえて「警官の不祥事」とは言わないのです。
2015.02.04
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「♪なんでもないようなことが~幸せだったと思う~」 これは、自分が今までそれなりに幸せであったことをよく理解していなかったこと、そしてそのことに当時は心からの感謝の気持ちが無かったこと、それら過去の日常に対する反省の弁でもあります。 いわゆる残念としか言いようのない後悔の念というものですナ。「今更後悔してもはじまらない」と言葉ではよく言いますが、実際後悔だけでは何にも「始まらない」のであります。要は、今まさに始まる「これから」にかかっているのであります。 前向きに、ポジティブに、今の今を感謝するのであります。失ったものを嘆くのではなく、取り敢えず今現在自分の目の前にある残ったものを愛しみ感謝するのであります。 するとそこから新しいものが始まる道が開かれるのであります。 人生は喜怒哀楽、とにかくナンデモアリの「悲喜劇・人生劇場」なんだと割り切り、最終章までとにかく行ってみるしかないのであります。 主役は自分のつもりでも脚本・演出はなんてったって「感謝が大好きな神様」なんですから・・・。 私のような人生だと人生劇場のエンドロールが終わるころ、プロローグに神様が「ドヤ?オモロカッタヤロ?」なんて私に言ってくるに決まってます。そしたら、私は絶対に「フンッ!」と鼻で笑い返してやろうと思ってます。
2015.02.03
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最近面倒なことが億劫になってきて、これじゃあダメよダメダメと思いつつもこれといって何もしない日々を過ごしていたのですが、また再開です。私に刺激を与えてくださった皆さんに感謝です。後藤さんの事件を悲しみ、故人のご冥福を祈りつつも、このセンセーショナルな事件に隠れてしまい、報道されない様々な出来事の今後の展開がちょっと気がかりです。不謹慎にも、報道が過熱するとちょっと引いて見てしまう嫌味な性格なんですw「あれー?福島原発の話はどうなったの?」とか「中国の密漁船はその後もう来てないの?」とかなどなど・・・そう思ってるの私だけ?
2015.02.02
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民主党が大敗しましたが、負けたのは民主党ばかりではありませんよ。3年前に民主党を大勝させたあのとき選んだ国民が、今回はハッキリと否定されたという一面もあることを決して忘れてはいけませんよね。だから今日はもう、国民は民主党だけを責めていれば済む時ではないのです。当時の自民党も確かに駄目だったかもしれませんが、それすら選んだのも実は国民自身なんですよね。よく「ブレる」などという言葉で政治家を批判するマスコミですが、本当はブレにブレているのはマスコミのお客さんである視聴者や読者という名の国民だったかもしれません。とマァ偉そうに言うこの私も先回は民主党を推していたのですから、彼らのことを言えた義理ではありませんけどね。風が吹いたなどと言ってますが、私自身が風であり、そしてその風に翻弄されているのでしょうねぇ。 「♪風に色などあるものか~」懐かしい木枯らし紋次郎の歌です。結局、今の日本には「国家国民を第一に考え行動する展望を持った政治家」を育てる土壌がまだ出来てないのでしょうな……と、自分自身には悪いところは無く、誰のせいでもないようなこの感覚が結局駄目なんでしょうなぁ。 それでも、民主主義国家を標榜していても選挙後に前大統領やその身内が逮捕されたりするのを幾度も繰り返している国もあるかと思えば一方、一党独裁で民主主義のかけらもない賄賂政治蔓延の国もあったりするので、近隣諸外国に比べればまだ日本はましな方なのかな?と、少々安心したり自分を慰めたりしていますよ。 それにしても、今回国民によって選ばれた自民党の政治家が「小粒」に見えるのが気になります。今まで「大物」といわれる方々が、あまりにも態度が横柄であったり、国民と乖離した感覚であったりした反動なのでしょうか?それともただ単に私自身が歳をとったせいなのでしょうか、いやに子供っぽく見えてしまうのです。でも、これって私だけじゃないですよね!? 今から先行きを懸念せざるを得ませんよ。AKBの総選挙じゃないんだから、可愛い・良さそうで選んでしまったということにならないように、新議員さんには粉骨砕身国家国民の為に頑張ってもらいたいものです。 以上のことを踏まえてのことか、安倍総裁が選挙に勝って喜びの表情というよりも神妙な面持ちをされていたのも、愛国心教育を唱えるのも、たぶんそこまで色々とお考えがあってのことと思います。再起され再登板されることになった安倍総裁に国民の一人として心よりエールをおくります。「この愛する日本をよろしく!よろしく!よろしく~!」
2012.12.17
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こんな情景を想像してみてください。 小さな子どもを連れた若い夫婦が穏やかな季節の中で昼下がりの公園をゆっくりと、手を繋いだ子どもの歩調に合わせて歩いています。仲のよい夫婦が楽しそうに会話をしているのを真ん中の小さな子どもは嬉しそうに両親の顔を左右順番に見上げています。昨晩、盲目の天才ピアニストのドキュメント番組を見ました。 彼が嬉しそうに自分の夢を語るとき、いつも空中に何かを探すように顎を少し上向きにして首を左右に振りながら話をしています。何が彼をそうさせているんだろう?でもこんな仕草はいつかどこかで見た事あるぞ。そう、前出のあの「なんでもないようなことが幸せだったと思う」あのときだ!・・・と私は気づいたのであります。 私は誰も見ていないのを確認した上で、彼の真似をして首を振ってみました。そしたらなんか楽しいような嬉しいような純粋な気持ちになれたのであります。これは大発見であります。雑念や妄念だらけの下手な瞑想よりもいいではないか。これは使えるぞ!ってなもんであります。 そういえば、女性が絶頂感を味わっているときも似た仕草をします。これはあくまでもエッチな映画での話です。実体験での話しだとは私は一言も申しておりませんが、女が喜ぶと書いて嬉しいのであります。ああ、また話がそれてしまった。きっと彼には何かが見えているのでありましょう。ハイヤーセルフと話をしているのかもしれません。 私たちはあまりにも見なくてもいいものを見てしまったのでしょうね。少なくとも彼はモザイクのかかった画像などは一回も見たことないわけでありますよ。男性を数人殺したであろうと思われる、顔をぼかした容疑者の風体なんぞ本当は見なくても、いや、むしろ見ないほうがいいのでありますな。
2009.12.01
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「ワクチンは2回接種しなければならないんだって」「じゃあ、ワクワク・チンチンだ」
2009.10.20
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米国のオバマ大統領にノーベル平和賞が贈られるそうです。 ダイナマイトの発明で富を築いたノーベルの賞を、核保有大国の米国大統領が平和賞を受賞するのですから、ちょっと皮肉といえば皮肉ですね。 科学賞は人類の発展に画期的な発明をした方に贈られますが、平和賞はその人に贈ること自体がいつも画期的であります。 オバマ大統領の受賞で福井県小浜市は、また勝手に盛り上がっているであろうことは想像に難くありませんが、でもこれこそ実に平和な姿なのであります。真の平和賞はこういうダイナマイトや核ともまったく無縁な存在である庶民こそ本当は受賞すべきものなのであります。そう考えると戦争とは、ほんの一部の人間が引き起こしているものだと実感するわけであります。 本来平和とは当たり前であるべきものでありながら、なかなかそうはならないものでして、だから話が難しくなるのであります。本当に残念なことに平和には戦争ほどのエネルギーがないのであります。この矛盾に人類は悩み続けなければならないのであります。ですから平穏な日常こそ本来感謝すべきものなのでありましょう。 実績がいまひとつと思われがちな平和賞は万民の心を動かした演説だけに対し贈られるものではないのでしょうが、実績は必ず後からついてくるのであります。 米国初の黒人大統領は、あのマーチン・ルーサー・キング牧師の有名な演説「私には夢がある……」からの流れを汲むものであります。あれから数十年経ってようやく黒人大統領が米国に誕生したのであります。キング牧師をご存知ない若い方は是非一度調べてみてください。 人間の進歩は人類の科学の進歩よりずっと遅れているのであります。でもそれが神の創った人間なんであります。 バラク・オバマ大統領のミドルネームはフセインですが、湯布院は…この際関係…ないか。
2009.10.10
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2016TOKYOオリンピックはかなわぬ夢となってしまいました。先の東京オリンピックが開催された1964年の国体が新潟だったと記憶していたものですから、ひょっとするとひょっとして東京に決まるかとも思っていたのですが、駄目でしたねぇ。どうして、そんなこと? という声が聞こえそうです。今現在、新潟国体が開催中であることを国民の皆さんはそもそもご存知なんでしょうか? どうなるか分からない話なのに、オリンピック招致活動の報道はよくテレビでもやっていましたが、実際に日本で今行われている国体に関するニュースを全国ネットのニュースで見た記憶がありません。地元では「地震の際に全国から寄せられたご支援に対し感謝の気持ちを込めて全国から来るお客様をお迎えしましょう」という標語の元に県内各地の会場で競技をやっています。一応地元新聞では毎日一面を関連ニュースで飾っているのですが、全国ネットとなるとこうも扱いが違うものかと……そんな様々な想いと共に新潟国体は今も開催中なのであります。 これも国体そのものが国民の関心が薄い存在になってしまっていて、もう必要ないという論議まである時代ですから、東京都民のオリンピック招致の熱意がいまひとつ盛り上がらなかったのも、その根底には同じ理由があるような気がします。戦後の復興、体育施設の近代化、国民の体躯向上等の役目を終えて、東京でやっても国体ではもうそれほど盛り上がらないのでしょうね。既に国内ではそれぞれの種目ごとに全国大会はあるわけですし、名目は体育教師その実は国体強化選手として開催県の教育委員会が大会前年までに体育教師を大量採用するような強引な手法で全国から優秀な選手をかき集め、主催する県が総合一位にならなければならないというような、おかしな時代はもう終わったのでありますな。今となっては自治体からも「え?次はうちの番かよ!」という嘆きの声まで聞こえてきそうです。 所管は厚生労働省なんでしょうか?それとも文部科学省?国体のあり方も見直す時代なのかもしれませんよね。民主党さん。 1964年の東京オリンピック開会式で陸上競技場入り口に聖火が見えた時、実況アナウンサーは「見えた!オレンジ色の炎!」と叫び、それを白黒テレビで見ていた私達は、心の中で本当にオレンジ色に見えたのでした。あの時のあの感動は本当に忘れられないもので、子ども達にも同じ感動を味あわせてあげたいと思いますが、現代では当時と同じレベルというわけにはいかないでしょう。初めて南米で開催されることにも意義があることと思い、リオデジャネイロ決定を祝福したいと思います。
2009.10.03
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歩道を歩く人の影が長く伸びて車道にまで、 ……だから影をシャドウっていうのね。 違うか~!
2009.09.21
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「おじさんエコねぇ」「誰がエロじゃ!」「エロでなくて、エコよ、エコ。エコロジー。」「誰がエロジジイじゃ!」 昔、こんな冗談はフツーのお嬢さんには言えなかったものであります。今は「エロい」なんて言葉をフツーのお嬢さんがフツーに平気で使っておりますが、エロなんていう言葉は助平なオジサンの専売特許でありまして、普通のお嬢さんが使う言葉ではなかったはずなのであります。 それどころかエロくて可愛い(?)のをエロカワなどと言って、自身の目標のようにしている始末であります。エロいと可愛いは絶対に合体できる言葉ではなく、合体させてはいけない言葉だったはずなのですが、きっとそう思わせるような芸能人がおられたのでしょう。でも普通の一般人がそう簡単に真似できることではないでしょうに、言葉だけは一人歩きしていつのまにか市民権を得たようで、既に日常語になっております。 癒し系といやらし系が判然としないままに、このしとやかさを感じにくい言葉を日常語として使った延長線上には、エロくて恐い「エロコワ・オバサン」的人生が待っているのではないでしょうかねぇ。助平そのものが悪いことではないことが薄々分かってきて、肉食系などと言うようになったのでありますな。でもね、同じく「肉食系女子」も行き着く先は、決して「可愛い」の延長ではないのであります。その先に「平穏」とか「安らぎ」とかがあるとは思えないのであります。日本の婦女子を愛するオジサンとしては、手遅れにならないうちに、是非ともまともな日本語に戻してほしいのでありあます。 それもこれもベジタリアンでもない草食系男子のせいせしょうかねぇ?ま、言葉は変わるものですから仕方ないのかもしれませんし、一過性のものでそのままずっとエロカワでいられるわけでもないでしょうから、心配には及ばないのかもしれませんがね。 私も若いころにHなんて言われたらスンゴク傷ついたけど、今は助平なんて言われると勲章みたいに思ってますから、その辺は理解できるんですけどね。 でもねぇ、花も恥らうお嬢さんにはせめて色っぽい・艶っぽいなどと、どうせならもっと粋な日本語を使ってほしいと思うのであります。お願いだから、エロはやめて!エロは!でもなぁ、HなアニメがHENTAIと世界共通語になっているのは情けない。サムライ、ブシドウそんくらいにしてほしかったけどなぁ。これは…手遅れか……。そうそう、私の街にはニコニコ通り商店街というのがあったんですけど、その看板に悪戯でニコニコにマジックで棒を書き加えられ、エロエロ通り商店街にされたもんだから、今は商店街の名前を潮風ロードに変えたんですよ。これホントにあった話です。
2009.09.19
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新閣僚の真夜中会見を見て、自分の言葉で喋るというのは大事なことだとつくづく思った。 自分で考えた自分の言葉だから漢字の読み間違いなどという可笑しな間違いも無い訳で、少なくともそんなことによる政治不信も無い訳であります。虎の皮を被った狐のような様相もなく、平均年齢は先回よりも上回るというのに、まったくそれを感じさせなかった。支持率の高さが、国民の目にどう映ったかが如実に現れている。 その後にノリピーの会見を見たら、反省というよりももう既に芸能界復帰を考えている節が感じられ、この娘は支持を得られない会見をしてしまったなぁと残念な気持ちになった。「コレジャア、自民党とおんなじジャン」 謝罪は自分以外の人に対してであるが、反省は自分自身の内面での問題である。内面は芸歴ではカバーしきれない。 自民党の反省も過去の実績ではカバーできないことは、実績の無い大臣に期待する国民の支持率で証明された。 民主連立政権に望むことは、カッコつけると後が続かないから、真摯に当面の問題に全力を傾注していただきたい。ただ、それだけである。
2009.09.18
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裁判員制度が始まり被害者遺族も裁判に参加できるようになりました。現時点で裁判員の仕事は、有罪か無罪かが論点ではなく主に量刑を決めるのが仕事のようです。 「本人になんの落ち度も罪もなく、被疑者によって死に至らしめられた被害者及び遺族の無念さは察するに余りある」というのは裁判官が容疑者に極刑を言い渡す際の常套句でありますし、殺人事件には時効制度を撤廃すべきだという議論もあります。私は法に基づき粛々と刑が執行されることに違和感はありません。むしろ死刑執行命令書に印鑑を押さない法務大臣がいたときは、法的に見ても不適切な行為だと思いました。嫌なら大臣を辞退すればよかったのに……と。実際自分の愛する家族が暴漢によって命を失うことがあれば、私もなんらかの形で犯人に復讐したいと思うに違いありません。イスラム教原理主義者過激派のジハードではありませんが、誰も私を止めることができないでしょう……と確信を持ってそう思っていました。なにしろ戦時下では人殺しは英雄なのであります。 でも、文字からいって残念無念の「無念」は、普段我々が使っている言葉と本来の意味が違うのではないのかとフト思ったのであります。広辞苑を見ましたら、やはり元は仏教語らしく、妄念のないこと・無心であること・正念。とありました。もちろん、口惜しく思うこと・不本意・残念でも正解であります。でもこの相対するような意味合いと「残念無念」という使い方から考えると、残念という気持ちを持ち続けていてはいけないから、つい自分の口から出てしまった残念という言葉を無念という言葉で相殺し、残念という言葉の邪気を祓っているように感じたのであります。 犯人の死刑執行後に遺族のインタビュー記事や映像を見たことがありますが、「これでセイセイしました。これで随分と気分がスッキリしました」なんて言う人はいないのであります。悲しさは死刑が執行された後でもまだ残っていて、いまだに残念な状態なのであります。それどころか新たにやるせなさ、むなしさがそこに追加されているのであります。「いい言葉を使い、いいことを考えて、いい人になろう」といったのはどなたの言葉でしたでしょうか。いつまでも怨み辛みを並べていては、絶対いい人にはなれないわけで、引き寄せの法則ではありませんが、少なくともご本人は幸せではないはずであります。そしてそれは被害者となった故人の望む姿ではないはずです。遺族となった人には辛いでしょうが、前向きな明るい気持ちになんとか切り替えてほしいものであります。悪い思い出は一刻も早く忘れてほしいのであります。そう考えると、遺族の裁判参加というのはいかがなものでしょうか?時効をなくしてしまうというのはいかがなものでありましょうか? 関係のない話のようですが、いつまでも暗い過去を引きずっている話として……、旧大日本帝国皇軍への怨念のような言葉を韓国や中国などから、今更のように戦後に生まれた私たちに対してまで感情的に言われても、私個人としてはどう対応してよいものか困り果てているわけであります。百歩譲っても、殺人犯の子や孫は殺人犯ではないわけであります。「罪を憎んで人を憎まず」といいますし、昔のことはもう忘れて次の時代に繋がる前向きな関係を築きたいと思うのは、虫のいい話なのでありましょうか。それどころか自国民の政府に対する不満から国民の目をそらすために利用されている面もあると聞くと、逆に憤りすら感じるのは私だけでしょうか。私としては、せめて半世紀以上経ったら忘れてほしいのであります。 これらの問題は結論を急ぐものではありませんし、私は死刑廃止論者ではありませんが、死刑制度の是非とか裁判員制度をどうのこうのという前に、本当はいつ出てくるか分からないような無期懲役ではなく、実際に裁判官も間違う冤罪事件だってあることですから、懲役百年とか終身刑などという量刑が日本にもあってもいいと思うのであります。殺人事件の時効は数十年単位にすればいいのではないかと思うのであります。謝って済むなら警察は要らぬなどといいますが、徹底的に謝らせるのであります。死ぬまで徹底的にトコトン謝らせるのであります。 と、いいつつ……、先の戦争について私も謝らなければならないのでしょうかねぇ。
2009.09.12
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いやー、最後の最後に麻生さんが決めてくれましたねぇ。わざわざ自分にマイクを向けて「本人の意見も聞いてヤレヨ」ですって。思いっきり口を曲げて得意気に仰っておられました。KY(空気が読めない・漢字が読めない)なんてレベルではなかったんですねぇ。あの一言を発した麻生総理の表情にカメラをズームインしていったTVカメラマンの方がよほどあの場の空気を読んでいました。何故、今この会議をやらなければならないのか。どうして首班指名に誰の名前を書くかでこうも党内が紛糾しているのか、当のご本人はまったく意に介しておられない様子でありました。もしあえてあの場でご意見を仰るのなら「私が意見を申し上げる立場にございませんが……」と前置きした上で、「両院議員の皆さんの総意として決定される前に若林さんご自身のご意見も伺うべきかと存じます」と、せめてこれくらいは言って欲しいとあの場にいた自民党議員さんの誰もが思ったに違いありません。それをニュースで見た国民のひとりですら思うのですから。辞任することでご本人は責任をとったつもりでしょうけど、麻生と書くのは嫌だとか、白紙で出すべきだとか、情けない議題を少なくなった議員で話し合わなければならなくなった理由の、元々の張本人があの様では自民党議員のみならず国民も情けないですよ。国民から支持されなくなった理由(敗因)がまだ分かっておられないことだけはこれではっきりしました。会議が終わる前に退席した議員も多かったそうですが、あの場であの発言に対してどなたも総理に苦言を呈さないのは「君、君足らざるとも、臣、臣足らざるべからず」という明治以前の民族的美学をいまだに議員の皆さんが持っておられるのでしょうか?比例で復活したような他の派閥の偉い方にも大いに責任ありますよね。そういう人を選んだのですから。あぁ、日本文理高校ナインの爪の垢でも飲ませてあげたい。……勿体ない?
2009.09.09
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ハニカミ王子石川遼君はスゴイです。仕事そっちのけでゴルフに精を出している御仁は彼をどう評価されているのでしょうか?彼に対してご自分をどう評価されているのでしょうか?え?あえて比較はしない……あっそうですか。でも、17や18でこの先もゴルフだけの人生で後悔はしないといいきれるのでしょうか。この時期にしかできない同い年の仲間と海や山に遊びに行ったり、夜通し友と語り合ったり、「今しか出来ないクダラナイ?こと」が他にも沢山あると思うのですが。そういうのは彼の場合は、もういいんですかねぇ。回り道も若いころは必要なことだと思うんですけど。彼はゲームに没頭している子どもと同じわけではないのでしょうが、ゴルフは日常の生活に遊び心を見つけられなくなった大人のためのゲームだと思っていた私には、好青年がそんなことばかりしていていいの?と思ってしまうんです。血縁関係のないおじさんでも、あまりにもいい子なだけにそこんとこが心配です。彼はそんな凡人の心配をよそに、今日も快進撃であります。スゴイ!
2009.09.04
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選挙「戦」というけれど、選挙とは手を挙げた候補を民が平和的に、実に平和的にルールにのっとって投票によって選ぶのでありまして、手を挙げたのは、別の候補や政党を、その挙げた手で殴ろうというわけではないのであります。民主主義の中で平和な選挙ができることは、戦時中ではまったくないのであります。これは国民にとって戦ではなく「勝ち負けのない平和な選択」なのであります。私はここんところをしっかりと頭に胸に、どこにでも刻んでもらいたいわけであります。選挙にあえて戦という文字をつけるのは、候補者も有権者もマスコミも、もう既に「政治は民の為にある」という意識が欠如し、尚且つ我々には関係の無い政治や選挙などというものは当事者(政党及び候補者)同士の戦いだなどという、冷めた国民感覚が見え隠れするのであります。今の候補者には「自分の残りの人生をかけて国民の為に働くのだから、なんで俺が頭を下げなければならないんだ」というような熱血漢はいないのでしょうかねぇ。表に出さないように一生懸命に努力されておりますが、自身の名誉欲、立身出世欲が頭の中の大部分を占めているのではないでしょうか。「実力も実行力もあるこの俺を、滅私奉公しているこの俺を、今ここで選ばなければ国民皆が損をするんだ」というくらいの自負心が候補者には欲しいのであります。「皆様のお力で私を国政の場に送ってください」ってそれ、どこかの会社の就職試験か何かと勘違いしてるんじゃありません?頼まれたから投票するという感覚は今の日本国民にはもうないと思いますね。大した仕事もせず、普段は頭を下げるのも嫌だから、選挙に金が掛かるのであります。国民の為にろくに働いた実績がないのに選挙民に対して普段威張っている分、選挙になると平身低頭しないといけないわけであります。マネキンにも頭を下げ、案山子にまで手を振っているわけであります。不恰好なほど大きな名前看板をつけた車で、無意味に大きな声で名前を連呼しないといけないわけであります。少なくともこれらの行為自体は何も国民のためになってはいないでしょう。悪循環なんでありますよ。選挙という言葉の後に戦という文字をつけたとき、敵が誰なのか分からなくなるのであります。その時点で既に国民不在な訳であります。戦う相手は私利私欲という欲望でがんじがらめになっているむしろ自分自身、政党自身なのではないでしょうか。党利党略も「国民不在の戦術」であります。今も選挙カーが我が家の前を通り抜けて行きます。「最後のお願いに参りました~」って、だから~…… 一生懸命戦っておられるようでありますが、はたして何と戦っておられるのでありましょうか。
2009.08.29
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周囲から坊ちゃん、坊ちゃんと頻繁(はんざつ)に煽てられ、マンガを読みながらそのまま総理になってしまった未曾有(みぞうゆ)の総理。このような失態を決して次期総理に踏襲(ふしゅう)してはもらいたくないが、今更彼の間違いの詳細(ようさい)を調べるまではないだろう。
2008.11.22
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突然の福田総理退陣表明で、テレビは早速街頭インタビューで街の声を流しておりました。インタビュアーは降って湧いたような突然の報に、庶民がどういう反応を示したかを伝えたいわけです。突然の退陣表明は私にとっても青天のヘキレキではありましたがまだ救われるのは、専門家ですらもう少し分析する時間が必要だと思っているのに、たった今知った事実に対して得意げに次期総理大臣候補の名前を上げたりと、庶民の表情は半ば諦めの表情ではあるものの、決して立ち直ることができない絶望的な表情でも、怒り心頭という心底怒ったような表情でもありませんでした。 インタビュアーは道行く庶民に今後の政治に対する展望を問うているわけで、それはそれでいいのすが、「誰がやっても同じだ」などという諦めとも、いかにも達観しているかのごとく自分だけ悟ったような冷めたものの言い方をする責任のない拙速な回答をマスコミは垂れ流してほしくないと思うわけであります。 私たち国民は、これもあくまでも良くなる過程のひとつの出来事と、必要な時には必要な人が現れるとポジティブに思えばいいのであります。 実に平和的に進められた市町村合併ひとつとっても、昔の日本でそれをやるには必ずといっていいほどイクサが必要であったわけで、世界には今でも部族間で殺し合いをしている国などいくらでもあるのであります。先進国といわれる国であっても、内政の不手際から国民の目を背けるように他国に戦いを挑んだり、他国を非難したりして国民の関心を他国との問題にすりかえるような国もありますが、それらとは訳が違うのであります。私はそれだけとっても、日本はまだいい国だと思っているわけであります。「正しい戦争」も「間違った平和」も無いのであります。 日本の政治家は曲がりなりにも国民が選んだのであります。政治家は使い捨てのお笑いタレントとは違います。選挙の街宣活動でのぼりをつけた自転車に乗ってパフォーマンスを演じるような政治家を選ぶ国民自身が、それを望んでいるわけであります。だからタレントのようなパフォーマンスだけの、使い捨ての政治家しか育たないのではないでしょうか。サプライズが大好きな国民は日本国の総理大臣に24時間マラソンをやらせたいとでも考えているのではないでしょうか?そのような国民のレベルでは、結局選挙に勝つための政治や政治家でしかなく、役人天国を作ってしまっているのは結局国民自身ということになるのではないでしょうか。 国民が選んだ政治家を悪く言う前に、国民は本物を見る目を養いましょう。いったいこの国を世界の中でどういう国にしたいのか、一人ひとりが明確に意見を持ちましょう。そしてそれ(I wish)を政治家に託すのであります。ウイッシュ連発のダイゴ君は竹下元総理の孫なんであります(?)
2008.09.02
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板に浮き出た自然の模様のようなシミを聖人の顔だとか奇跡だとか、説明されてもいったいどこが目でどれが口だか分からないような映像を「これが霊の顔だ」などと言われても、ウーンとしか言いようの無いものまで世の中様々ですが、私は映し出されたテレビの映像のH君の胸にあれを発見したときにはホントに驚きました。私と同じように驚いた人も多いと思います。あれは動物霊とでもいったらいいのでしょうか?私たちが普通に戸外を歩けば無意識に蟻などの昆虫を踏み殺し、ゴキブリや蚊は叩いたり殺虫剤を使ったりして意識的に積極的に殺しているわけで、食べ物は肉や魚の「死にたて」のことを生きが良いなどといい、人間が生きる為とはいえきっと今までに億万単位でいろいろ殺しているのだと思いますねえ。H君は私が子供のころからの付き合いで、よく知っているのです。彼の友人や彼の近所の人まで知っています。本当に久しぶりに彼をテレビで見たとき懐かしさもあったのですが、あまりにも昔と変わらない彼の姿と登場したシーンに違和感を覚えたことも事実です。H君の胸に住み着く緑色のアレは今でも意思を持っているのがはっきりと分かりました。そしてH君はソレに今でも翻弄されることも多いのではないかと思います。どうして? どうして今頃?ひろし君が昔道路で転んだときに彼の胸の下で潰されたカエルが平面カエルとなってそのまま彼の胸に居ついたのです。だいたいカエルといえばコルゲンコーワのコーワ薬品だろ。どうして大鵬薬品がピョン吉で、どうして子供が胃薬を飲む世の中になったんだろ?ああ、恐い。(おしまい)
2008.08.27
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バドミントンの末綱・前田ペアが世界ランク一位の中国チームに勝ってベスト4に入り、コートに倒れこみ感涙していました。オグ・シオ人気の陰で、地道な努力をひたすら続けてきた彼女達の涙に、私も鼻水垂れ流しながらもらい泣きしてしまいました。決して美人じゃないけど、彼女達の涙の笑顔は本当に素敵でした。 今回のオリンピックは開催地のゴタゴタ(?)で私的には随分としらけていたのですが、日本選手活躍の報に接すると、私みたいな者でもやはり愛国心みたいなものがフツフツと湧いてくるのを実感します。こうなることは分かってはいたんですけどね。 今回の初金メダルの柔道のあの選手、なんて名前の人でしたっけ? 奥さんはあかりさんで、坊やの名前が輝君のあの人。「柔道が仕事ですから、子供に自分のいいところを見て覚えていてもらいたかった」そうで、子供の名を絶唱したのだそうな。オリンピック選手ってアマチュアじゃなくてもよかったんでしたっけ?そういえば今はプロ野球の選手でもオリンピックに出られるんですもんね。ああ、でも肝心の選手の名前が出てこない・・・ 北島選手は100m広泳ぎで世界新記録ですって。先回の「チョー気持ちいい」はも少し適切な表現はないものかと想ったものですから、今回のタオルに涙顔を埋めるヒーローインタビューでの彼の姿は本当に感動的でした。私ももらい泣きしてしまいましたよ。彼は人間的にも成長したようですね。 水深3メートルのなんでも波の立ちにくい泳ぎやすいプールなんだそうで、スピード社の水着レーザー・レーサーを二位のコーエンは着ていなかったそうですよ。 水泳はこの際選手全員が全裸で泳いだらどうでしょうかねえ。そのほうが公平で視聴率も上がりそうですけど。競馬の騎手の体が小さいように、水泳の選手はナニが小さいと有利だとかなんて。そうすれば背泳ぎなんてきっと最高の高視聴率ですよ。いつも大きいのを自慢しているマリモッコリには「お前、水泳にはむいていないな!」・・なんて。 ゴルフがそうですけど、スポーツが道具の如何で成績が変わるというのはいまいち素直になれません。だいたい棒高跳びなんて、どんどんといい素材の棒で飛んでいるわけでしょ?それで新記録といわれてもねえ・・東京オリンピックのマラソンを裸足で走って金メダルをとったアベベはやっぱり凄い人だったんですなあ・・古! 卓球の愛ちゃん!がんばれよー!応援してっからねー!
2008.08.12
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犬が西向きゃ、尾は東。これは正解。 でも太平洋をまたいで日本の東の先にはアメリカ合衆国があるとずっと思っていましたよ。赤く塗られた日本を中心に、太平洋を挟んでアメリカが日本とほぼ同じ緯度に描いてあるあのメルカトル図法の世界地図が、大雑把ではあるものの今までしっかりと頭に入っていましたからねえ。 欧米で使われる世界地図ではまさしく日本が極東なわけで、そしてどの地図も上が北、右が東と思っていましたよ。ずっとね。 地球は丸いことも勿論知っていました。北と東では90度方向が違うことだってね。 真北と方位磁石の示す磁北とは、地域によって誤差があることだって知っていました。でもこれだけの断片的な知識では、まるっきりお話にならなかったのであります。 あなたも地球儀に三角定規をあててみてください。 私は教わったように三角定規の90度の角を東京に、そして一辺を北極方向にあててみました。つまり経度を示す縦の線に三角定規の一辺を沿わせるわけであります。一瞬「ありゃりゃ?アメリカはどこへいっちゃったの?」「三角定規の直角が狂っている?」って思いましたよ。 北から90度ずれた東京の東には、私が日本の東南だとずっと思っていたハワイがあるじゃないですか! あのメルカトル図法の世界地図は赤道直下の人が暇つぶしに見る程度の代物なのであります。 日本からアメリカ本土を目指してまっすぐ太平洋を東に進路をとっても、絶対にアメリカには着かないのであります! アメリカは「日本の鬼門」である東北なんでありますよ。(ここで妙に納得) ハワイが日本の東にあっても、ハワイの西は日本ではないのであります。なんで? 地球は丸いからでありますよ! 三角定規を持って地球儀にあてがい頭の中も丸くしなければ、この話は理解できないのであります。 私はこのショックから立ち直るのにかなりの時間を要しました。 この事実を受け止めるには、ずっと信頼していたあのメルカトル図法の地図は、方向を知るのにはまったく使えない代物であるという重い事実を受け止めなければならなかったのであります。 飛行機のルートが地図上で妙にカーブしているのは、それが最短距離でしかもその線自身が方向をも示していたわけであります。そのことは知っていたはずなんですがねえ。 丸い地球を平面の一枚の紙に無理矢理描きこみ、その無理が通って道理のひっこんだ単なる「それらしい絵」を頭の中に刷り込んでしまっていたわけであります。 まともに世界全体を見るには地球儀しかなく、たとえ狭い範囲を示した地図であっても壁に張って上とか下というのも駄目で、床かテーブルに広げて上から見るものだったと気がついたわけであります。 こういう決定的な思い違いや思い込みを、きっとアチコチでやらかしているんだろうなあって素直に思ったのでありました。 でもこの勘違いって、私だけじゃないですね。方位学という本にも堂々とアメリカは日本の東と書いてありました。 世界地図といえばメルカトル図法のあの世界地図を思い浮かべるあなた。あなたも三角定規を片手に一度は地球儀を見て方位を確認してみることを、心よりお勧めするしだいであります。私と同じ勘違いをしていることに気づかれることでありましょう。
2008.06.27
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硫化水素による集団自殺がとうとう隣町でも発生してしまった。出身も年齢も違う県外の人が三人、わざわざそのために集まったようだ。 自殺なんてしてはいけません。ましてやそれまで会ったこともない他の人と一緒だなんて、やるなら一人で誰にも迷惑をかけないようにやりなさい! あなたたちの死体を片付けなければならない人の迷惑を考えてみなさい! 糞尿を垂れ流し、変な形に死後硬直した自分の死体が運ばれるところを想像してみなさい。死臭を発し白骨化した死体の目鼻から、うじ虫がわいてニョロニョロ出てくるところを想像してみなさい。 私なんて見ず知らずの人の死体なんて触るのは勿論、発見するだけでも嫌ですよ。現場に供えてある花束だって見たくありません。あなただって嫌でしょ! 誰でも人に迷惑かけずに死ぬなんてことは、今の世の中ではできないわけであります。だから人に相手にされないから死ぬなんて、アホのすることであります。人を殺すのも自分を殺すのも同じ悪いことです。道連れ心中なんて殺人以外の何物でもありません。少なくとも幇助の罪はメンバー全員にあるわけです。死んだ気で頑張ればなんでもできるなんて言いません。あなたが今自分でしなくても、あなたは必ず死にます。私が保証します。迷惑ですから自殺はやめてください。 人の迷惑にならないように山の中で? だからそれが迷惑なんですってば! 馬鹿は死ななきゃ治らない? だから!あなたは必ず死にますし、そのときどんな馬鹿でも治りますって! それまで自分の馬鹿さかげんにつき合いなさい。
2008.06.26
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また漁船が沈没して僅かな乗組員が救助されたが、数名の船員の死亡が確認され、大勢の船員の方々がまだ行方不明になっているという。 海の男という言葉から感じるロマンのようなものは、こういう事故が起こるとあまりにもむなしい。 今回の海難事故の該当船は企業の所有のようで、お父ちゃんとその息子がその家の財産である漁船と共に一瞬にして無くなったというわけではないが、それでも労災事故はあまりにもむなしい。 生活のため、家族の幸せのための労働ではあるが、それは命があってのものだ。生きていくために死ぬなんて、矛盾しているとしか言いようが無いではないか。 楽しいはずの旅行で飛行機が墜落したりして亡くなるのは、お気の毒ではあるものの、死の直前までは楽しい想いをしていたのだからと、遺族への慰めにはならないものの多少の言葉も思いつく。冒険家や戦場のカメラマンなどの死は、ご本人の本望といえるかもしれない。 だが、一般人の日常の仕事の上での労災事故は、ただただ悲しく思いつく遺族へのお慰めの言葉もない。仕事中に命を落としたり大怪我をするくらいなら、家で酒でも飲んで遊んでいてもらえば良かったと遺族、家族は想うに違いない。 この時代に命がけで獲物を捕るというのでは、原始時代と変わりないではないか。でも誰かがやらねば……。労災事故はやりきれない空しさとやり場の無い怒りだけが残る。 まるで死に場所に引き付けられるように震災地に行った方々など、いったい神は私たちに何をお望みなのかと想う。 災害現場で救助捜索をされる方々の二次災害には、とにかく細心のご注意を願うばかりだ。
2008.06.24
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認知症で施設に入所している叔母宛に年金特別便が届きました。 子供のいない叔母は、認知症の進行により特別養護老人ホームに入所する以前は、亡き夫の遺族年金で独居生活をしておりました。現在の叔母は人格が崩壊したとしか言いようのない、私たち身内の者も判別できない状態なのです。現住所も施設に移し、本人の預金通帳、年金手帳、介護保険被保険者証など、すべて施設の人に預けてあります。 その叔母宛に年金特別便が届いたのですが、記載事項に間違いがないか施設では確認のしようがないので、記載事項を確認して保佐人に対処してくださいとのことです。 書類一式が施設担当者より我が家に転送されてまいりました。以前調べたとき、私も妻も年金記録が抜け落ちていたので、どうせまた抜け落ちているに違いないと思いましたね。そもそも途中が抜けていて、記録が不自然な人に送るのが年金特別便なのですからね。でも叔母は遺族年金ですので、大正八年生まれの亡きご主人の職歴を確認しなければならないのです。これは、はっきり言って無理です!書類の記録を見れば、最初の厚生年金番号取得は昭和17年で、なんと戦前でありますよ。私はまだ親父の金○の隅っこにいたかどうかという、大昔の話であります。 計六件の厚生年金の納付記録が記入されておりますが、途中二回で合計十年間もの空白があります。さてどうしましょう。ということで社会保険事務所に行ってきました。 いやあ、相変わらず大勢お客がおりましたねえ。随分待たされた挙句、結論からいうと生年月日と氏名で調べるかぎり、市内に勤務されていた形跡はないけど、一番期間が抜けている直前の勤務先は市外の企業のようですが、その勤務地や勤務先まではこちらでは把握できないとのことです。最初の一番目の勤務地は年金番号からいうと東京らしいのですが、叔父が若いころ東京で就職していたなんて、そんな話は初めて聞きましたねえ。未納期間は国民年金制度が始まる以前で、厚生年金に加入していない事業所に勤めていた可能性もあるそうです。後は故人がそのころ、どこに勤務していたか、遺族や兄弟などに聞いて確認してもらうしかないというのです。遺族は認知症の叔母だけ、あとは兄弟といってもこれも高齢の妹が二人、同じような状態なのであります。分かったことは年金特別便の回収率が上がらない理由くらいなもんです。私も納得したわけではありませんので、これでは返事を出せませんね。 社会保険事務所の窓口担当者は背もたれと肘掛のついた巾の広い立派な事務椅子に座っておられましたねえ。民間企業なら大企業の部長クラスか中小企業の社長の椅子ですよ……あれは。
2008.06.02
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死者が一万人以上だって?!オーマイガッ! ああ、なんてことだ!中国四川省の大地震のニュースに世界中の人が叫んだことでありましょう。なのに!人的支援は要らないって?!何?それ!確かに十数億という大勢の国民がいる国ですから……、助ける人手も数億人単位で足りているということなのでしょうか?さすが中国!なんでも規模がでかい!……?いや!そういうことではなくて!たとえどんな大国であっても、被災者にとっては何よりも一刻も早い本格的な救助活動こそが最も大事なことには変わりないのでありますよっ!ひょっとすると中国政府指導部は、一万や二万の国民が死んでもどうってことないなどと……?災害後に発生する伝染病や二次災害でさらに死者が増えるかもしれないけれど、百万や千万単位で国民が死んでも中国は大国であることにかわりはないし、その方がしかもいいとでも思っているのでは……?そういうことであれば……オーマイガッ!私までいったい何を考えているのでしょう!既に日本のマスコミでも取沙汰されているのですが、日常化された行政の汚職強要による「おから工事」による学校の倒壊から、様々な贈収賄などの不正にまで、他国の者に言及されたくはないのでありましょう。何しろ民主的な選挙を一度もやったことがない国ですから、我々の想像もつかない不正がまかり通っているのであろうということは、想像に難くないのであります。日本の官僚による官僚のための政治なんて、それに比べればまだまだ可愛いものなのであります。中華思想というナンバーワン・ナショナリズムは、ラーメン、つけ麺、僕イケメンなどというナルシストより手をつけられない思想なのであります。サイクロンで甚大な被害を受けたのに、やはり他国の支援を拒否しているミャンマー。そんなミャンマーの軍事政権にてこ入れしている中国は、いったい何処を、何を目指して進んでいるのでありましょうか?本当にオリンピックなんてできるのでしょうか?やっていいのでしょうか?福田総理は、行くか行かないかはっきり言わなかったのだから、「この際お宅も大変なご様子ですから、今回は遠慮します」って言ったらどうでしょうかねえ。日本の官庁主導の談合のほうがまだましだなんて、目糞が鼻糞を笑うようなことも言ってはいられませんが、元々富を分配する共産主義だったはずなのに、物欲丸出しで他国の領土にある資源権益に血眼になっている姿は、物欲と自己顕示欲だけで己の立身出世を望む政治家と共に本当に見苦しいものがあります。北京オリンピックで鉄が不足して日本も値上がりしましたよね。これからさらに災害復旧にかこつけて世界中の資源を囲いこむことでしょう。日本の経済援助を受けながらしっかり軍事拡大してきた国なんですよね。そんな国への災害援助は本当に困っている国民のもとにとどくのでしょうか……。心配です。災害も確かに恐いけど、人間の欲望、特に権力者の欲望は恐ろしいのであります。何はともかく亡くなられた方々のご冥福を祈ると共に、被災者と中国人民の共存共栄の精神の発露を大いに期待するものであります。 合掌。
2008.05.15
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3月28、29日に東京に行きましたら、都内の桜は満開でしたねえ。靖国神社は英霊を祭る神聖な神域だと思っていましたら、花見客でそりゃあもう大変な人ごみでありました。桜に浮かれて参拝なんて誰もしないのかと思いきや、参拝の善男善女も長蛇の列でありました。日本国の庶民も中々捨てたもんじゃあありません。 それから国立近代美術館の東山魁夷生誕百年記念展を見てまいりました。こちらも初日で朝から長蛇の列でありました。やっと入った入り口で、絵の説明をしてくれる受信機を借りたのですが、やはりあれは聞くものではないですね。今回は本人の声での説明ということで借りたのですが、やはり聞かないほうがいいです。見たまま御魂が感じるままがいいですね。 それにひとつひとつの作品が、何時間も何日間もずっと、じっと見ていたいほどの本物の作品なのに、あれだけ並べられると、逆にどこか感覚がおかしくなってしまいますねえ。「わぁー!きゃぁー!」の連続で、宝塚のフィナーレかジャニーズ祭りでも見ているようです。しまいにはどうにでもなれっていう感じです。 今回は長谷川町子美術館にも足を伸ばしました。今はちょうど故長谷川町子氏の数々の貴重な収蔵品の中から、桜シリーズの絵画などの美術品やガレのランプなどが展示されておりました。 こちらも「なんでも鑑定団」などで庶民が本物かどうかで一喜一憂しているのとは訳が違って、全て正真正銘の本物であります。展示品が本物であることを証明するかのように「内閣総理大臣宮沢喜一」名で国民栄誉賞の賞状や盾も飾ってありました。 それから、町子さん家族が東京に出て来たばかりの苦労話がマンガ入りの文で綴ってありましたが、町子さんこそが、今はみんながメールで使う「絵文字の先駆者」でもあったわけですねえ。「町子さんはこんな大きな屏風が飾れるほどの大きな家に住んでおられたのね。しかも季節ごとに飾る絵を変えていたのだから、収蔵庫も空調が効いて、さぞかし大きくて立派な倉庫だったのでしょうねえ」「子供の頃、近所に住んでいた同級生の家は母子家庭で我が家より貧しかったけど、サザエさんの漫画本がいっぱいあったなあ」私はいつの間にかそんなことばかりを考えておりました。 町子さんご姉妹はサザエさん一家の庶民的なイメージとはまったく違う、想像もつかないくらいの大金持ちであったのであります。きっと大きなデパートの営業マンが売り込みに訪れ「あら、素敵ねえ。じゃあ、それ頂こうかしら」なんて具合で手に入れられたのではないでしょうか。そして貴重な作品が散逸しないよう買い集められて、我々庶民に公開してくださっているわけであります。決して独り占めにしたいと思って集められたのではないでしょう(?)東山魁夷作品も個々に収蔵家がおられるわけでして、高いお金で買ってそれを庶民にも見せてくれて・・・芸術品っていったいなんなんでしょうかねえ。芸術家ってなんなんですかねえ。収集家って物欲丸出しの人のことなんですか?うーん。やっぱり私はこういう特別な人より、人ごみの桜の下で昼間から酒飲んで顔を真っ赤にしているおっちゃんが好きなんだな。行列作って靖国神社に参拝する庶民が好きなんだな。まっ、ということで・・
2008.04.01
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以前私が書いた短編のショートストーリーが佳作になったと紹介したんですが、その後すぐその出版社から執筆依頼がありまして、寄稿するようにというんです。でも原稿用紙2枚とか、テーマはこれとか色々指示があるんです。まあ、どれほど断る理由もないんで書かせてもらいましたよ。そしたらそれが本になってこの度出版されたそうで、一冊送ってくれました。「届かない想い」日本文学館編集部編 1500円(税別)です。表紙の帯には「人は誰でも独りだから、あなたに届けたい想いがある。もう一度あなたに伝えたい。想いの結晶三四二編。」とありました。そう、342人もの人々の合作です。だから一冊頂いただけで、原稿料も何もありません。もし、興味がありましたらお買い求めください。でも私の文は筆名で載ってますんで、どれだか分からないと思いますけどね。それにしても、好きな題材で書かせてくれないかなあ。
2007.12.14
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中越沖地震以来の久しぶりの更新です。あまりにも久しぶりでログインのパスワードも忘れていました。まず今日は地震のその後の報告です。私の家の近所には空き地が目立ちます。倒壊を免れた家でも外見では分からなかったのですが、内部の損傷は激しかったのでしょう、「あら、この家も結局駄目だったの?」という感じで建物を取り壊しています。空家だった家もこの際…ということなんでしょう。近所のご老人が一人暮らしだった家も、コムスンも無くなったことだし、この際老人ホームに入って…ということで、被害は少なかったようですが、取り壊してしまいました。だから、とにかく空の広いことったらありません。雲や月がやたらと目に付くんですよ。風通しもよくなりましたねえ。今年の冬は寒いだろううなあ。当地の冬の季節風は台風並みなんですよ。なにしろ、日本海の向こうは即シベリアですからね。それからお葬式も多い気がするんです。高齢化も進んでいますから、一概に地震のせいばかりにもできないでしょうが、ストレスが溜まっているのは間違いないようです。ちなみに私の妻の父親も90歳で9月末に亡くなりまして喪中です。近所の書店は地震で店舗が倒壊し、再建築を進めている最中にご主人が急死されました。まだ62歳でした。大型書店の進出とコンビニの雑誌販売で経営も苦しいだろうと勝手に想像していたのですが、心労が重なったのだと思います。でもこういうのは震災の死者にはカウントされないのでしょうね。公共施設の復旧工事はほとんど手付かずです。県立の夏はプール、冬はスケートリンクになる施設もまだ使用禁止で再開の目途も立っていません。2000人収容の、ステージがある市民会館も修復は断念し、解体が決まりました。学校のグラウンドは雨が降ると大きな水溜りがいくつもできています。メインストリートの歩道も大きな損傷部分は応急処置をしたものの、路面は波打ち、歩道のブロックははがれたままです。ハウスメーカーの出張所もいくつか出来て、チラシもよく新聞の折込広告に入っているのですが、「地震に強い家」っていうセールストークはあまり意味がない気がします。家屋の倒壊により死亡に至るというケースは、古い建築基準で建てられた建物ばかりです。今の建築基準法で建てられた家は、傾いたりしても倒壊なんてしていません。地震は地面が歪むのです。地面が波打つのです。杭を打ってその上に建てられたマンションやビルは地面だけが下がって建物がすっぽりと浮き上がった状態ですよ。だから一般住宅の、建物が揺れてもまた元に戻るという免震工法でも、コンクリートの基礎が折れ曲がるのですから、その上の建物が倒壊しなくても結局住むに住めない半壊になってしまうのです。補償は半壊より全壊のほうがずっといいのです。命さえあれば、全壊より半壊がいいとは言い切れませんね。自然の大きな力には、あまり力で対抗しようとむきにならず、常識の範囲での自然体が一番ということになるのでしょうか。
2007.12.12
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雲がまるで手の形をしています。回りまわっていただいたものですから、いつどこで誰が撮った写真かは確認できていないのですが、中越沖地震の当日の朝に柏崎市内の上空に現れた雲だそうです。いわゆる地震雲という形ではありませんが、どう見ても「手」であります。生きている私たちはこの手にすくっていただいたのでありましょうか?
2007.08.24
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アセモにお困りの方はいませんか?地震の為に水を節約していたせいか、私は腰の周囲からヒップにかけてアセモができてしまいました。連日猛暑の中を水運びやら片付けやらで、タップリと汗をかいていたのであります。もうカイ~ノであります。いえ、カイ~ノ状態「だった」のであります。子供の頃はアセモができると、海水につかれば治ると言われたものです。私自身も子供の頃は実際にそういう経験もあったのであります。でも子供連れでもないと、海水浴なんて行きづらいものがありますよ。この年で。だから朝早くに犬を連れて行こうか、夜遅くに行こうかなんて考えていたわけであります。ところが昨日、ペットボトルの水を飲みながらピーンと閃いたのであります。「そうだ、これを塗ってみたらどうだろうか」・・と。私の飲んでいた水とは、地震後に飲料用に確保していた飲用の海洋深層水であります。飲むのにも料理にも「味はちょっと・・?」という代物なんであります。そうです。ペットボトルに入って最近はコンビニでもどこでも売っていますよね。汗に塩分があるのに、海水につかるといいというのは、海水の塩分がアセモに効くわけではありませんよね。海水に含まれる塩化ナトリウム以外の、微量のミネラル成分がきっとアセモにいいのだろうと思ったわけであります。深層水は養分たっぷりなわけであります。さっそくズボンも下げて、パンツも下げて、坊ちゃんコンニチワなんて言いながら、駄目元でカイ~ノカイ~ノトンデケ~と痒い所にペチャペチャと塗ったわけであります。結果は上々。「もっと早くに気がつけばよかった」という状態であります。冗談抜きで、痒みはなくなりました。気のせいかお肌もスベスベしたようであります。坊ちゃんも「ヨカッタね」なんて言ったかどうかは別として、アセモにお困りの方は是非是非「海洋深層水」をお試しあれ。ソウソウ、でも結果に責任を負うものではありませんので、念のため。
2007.08.18
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マグマグ採用ネタです。最近は投稿した本人が忘れたころに採用されます。清き一票をお願いいたします。○「IKKOとKABAちゃんと、どっちが好きか」と尋ねられ、なんとなく「KABA.ちゃん」と答えてしまったが、質問の意図の方がやたらと気になる。(海坊主) ◇これに一票→ http://cgi.mag2.com/cgi-bin/vow?id=70816D05
2007.08.17
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ガス水道が復旧して、仮設住宅の入居も始まり、自衛隊の部隊は半数以上が帰還されたようであります。全国のボランティアの方や自衛隊の皆さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。本当に、本当に有難かったです。嬉しかったです。心より御礼申し上げます。ありがとう!ありがとう!ありがとう!柏崎市民は、中越沖地震から今日でちょうど丸一ヶ月経ったということで、犠牲者のご冥福を祈って地震発生時間の10時13分に黙祷しました。昨日は終戦記念日でしたから、連日の黙祷であります。お盆と繋がり連日が、祈りの日々であります。柏崎では時折震度3とか2といった余震があったのですが、この数日は大きな揺れを感じることはありません。お盆で帰省中だった人は、揺れを感じることは無かったでしょう。でも今日は千葉を震源地とする地震で震度3だそうです。千葉方面から帰省していた方々が、持って帰ってくれたのでしょうか?住民は余震があると、我慢の限度をオーバーしそうです。私なんかは、キン○○が縮み上がるのであります。(あぁまた、下品になってしまった)でも地球が相手ですから、地球の寄生虫のような人間は、ただグッと耐えるしかありません。地震報道で近所の人がよく地元テレビに映ります。ある商店のご主人が、店舗再開の目途が立たないと嘆いておられました。年齢が年齢だから、もう融資も受けられない・・・と。雨が降ったら、傘が無くて困っている人には傘を貸さないというのが、銀行なんだそうであります。担保となるべき建物が崩壊したのですから、銀行としては与信限度オーバーなんであります。ヨシン違いの限度オーバーなんであります。変なオジサンが自転車に乗って、「タタリじゃ、タタリじゃ」と言いながら、倒壊した家屋の前を通り過ぎていきましたが、あの変なオジサンの言葉は、あながち間違ってもいないのかもしれません。このまま「勝ち組VS負け組」というくくり方をしていてはいけないのであります。人間の作った制度の中で、弱者がただ耐えるだけではいけないのであります。こういう社会の仕組みが、このままでいい訳がありません。これからどういう形で何がどうなっていくのかは、私には皆目分かりませんが、私たちは今、その分岐点に立っているようであります。
2007.08.16
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倒壊したり傾いたりした家屋は取敢えず近隣に迷惑をかけないように、その場で解体粉砕しただけのもの、つっかえ棒だけで持ちこたえているもの、すっかり更地になったもの、まったく手付かずにそのままになっているものなど様々です。何しろ数が多すぎます。生活に直接影響のない、倒壊した石塀はどこも手付かず状態であります。被害の大きかった商店街はアーケードを撤去しました。町の景色がどんどん変わっています。公園整備にはまったく手が廻らないので、どこも草ボウボウ状態であります。激甚災害に指定されて、いよいよこれから復興が始まろうというところです。そんな中、我が家はガスと水道がとりあえず出るようになりました!おお、なんと便利で快適なんでありましょうか。蛇口から水やお湯が普通に出ることが、こんなにもありがたいことだったとは。シャワーの気持ちのいいこと!バケツで水をもう運ばなくてすみます。もう、天国であります!しかも、私は約2キロ痩せることもできました。こちらは復興リバウンドしないようにしたいものです。(ただの夏バテかもしれませんが?)妻は実家の九十歳の父の一時退院に付き添いで留守になりますので、この週末の土日は一人で家中の雑巾がけに決定です。普通なら羽を伸ばせる週末なんでありますが自重することにしましょう。なにしろ、普段の生活に使用していない部屋は、仏壇前の経机にあった線香立てがひっくり返って、灰が畳の上に飛び散りその上に神棚の榊の水がこぼれたためにタタミが泥だらけ状態になって、掃除機で吸って簡単に拭いただけで掃除はそこで中断していたのであります。掃除機だけはよくかけたつもりだったのですが、いまだに家の中でガラスのカケラを踏んで足に刺さったりしている始末です。目標は「地震前より美しく」そして気分を新たにお盆を迎えることであります。でもお寺の墓石は転んだままで、お盆には間に合いません。私が依頼したところはその時点で墓石の修理が既に400件を超えているそうです。我が家の風呂などの大きな修理は来年になりそうです。それも仕方ありませんね。工事は大きな被害のある方ほど優先してもらわなければなりませんからね。
2007.08.10
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今日は天皇・皇后両陛下が柏崎にお見舞いに来てくださいました。ほんとうに、ありがたいことであります。両陛下を迎えた被災者の今日の笑顔はとても被災者とは思えません。ほんとうに、信じられないくらい効果てきめんなんであります。総理大臣や大臣が束になってきても、あの笑顔は生まれませんよ。首にかけたタオルで汗を拭きながら、涙を拭くあの感激はいったいどこから湧いてくるのでありましょうか。さっそくいい写真が撮れたと、すぐにプリントしに行くあの元気はいったいどこから湧いてくるのでありましょうか。そんな日本に生まれてきて良かったと、私もつくづく思うのでありました。
2007.08.08
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