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今年も、ささやかに家庭菜園の真似事とガーデニングを始めた。じゃがいもは一週間ほど前に植えていたが、苗は二日前に地元の花卉農家から購入しておいた。今日は天気も良いので、ヤーコン、ミニトマト、キュウリの苗を植える。庭は、現在はレンギョウ、水仙が終わりかけて、ムスカリやチューリップ、芝桜などが花盛り。花は、マリーゴールド、ペチュニア、パンジーやビオラを買って、以前から使っているプランターや鉢などに植え付け、残ったものは庭の空いている場所に植えた。これだけなのだけど、結構な時間がかかってしまった。やはり、花は気持ちを明るくしてくれる。以前、少し大きめの花壇を道路脇に作っていた頃は、花の手入れをしていると通りがかりの人が声をかけてくれたりした。亡くなった母は野菜作りと花壇づくりが生きがいのような人だった。そんな母に手伝うように言われて少しうんざりしていたこともあり、自分は土いじりは好きではないと思い込んでいたのだが、やはり春になると何か植えて楽しみたくなる。雑草が悩みの種ではあるが、最近は夫も草むしりをしていることがある。年を重ねると、自然と触れ合いたくなるものかもしれない。【追記】今のスマホはとても便利で、花の写真を撮ったら名前などを調べてくれる。ムラサキナズナイベリス
2026年05月12日
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今朝のNHKを見ていたら、磯田道史先生が「薩摩藩の郷中教育で『反実仮想』のトレーニングをしていたから、幕末の危機に際して薩摩藩士が中軸となった」というような話をしていた。私は「反実仮想」という言葉を、恥ずかしながら改めて知った。「反実仮想」について書かれているものがないかとネット検索をしたら、下記の記事を見つけた。幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話 磯田道史2013年の記事なので、消えるかもしれないのでコピペしておこう。「日本を取り戻す!」って総理大臣も叫ぶけど、実際、過去の何を取り戻したらいいのだろうか。だいたい、そんな簡単に「昔のいいトコ」だけ取り戻せるものなんだろうか。映画化もされたベストセラー歴史本『武士の家計簿』の著者でもある磯田道史先生は、明治維新をリードした薩摩(さつま)藩出身者たちが“ちびっこ”時代に学んだ教育システムには、今の日本にとってさまざまなヒントがあるという。■それは戦国時代の知恵の生き残り磯田 幕末から日露戦争にかけ、かなりの確率で勝てる政治判断を下した人材を、薩摩藩は多く生み出しました。そんな薩摩藩では、武士の子供たちに「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行なわれていたんです。「郷中教育」とは、方限(ほうぎり:地域のこと)ごとに6歳から15歳くらいの少年が集まり、そこに15歳以上の先輩がついて行なう自習システム。今の教育はもちろん、幕末に日本中に広まっていた「藩校」ともまったく異なる制度でした。―そこでちびっこたちは何を学んでいたんですか?磯田 薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。とにかく先輩は怖い。―ものすごい会話コミュニケーション重視の学習なんですね。磯田 対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。―あれ? これって薩摩藩だけの教育システムだったのでは?磯田 実は「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたようです。江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般的に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、皆で議論し、実践的スキルを向上させる学習会を行なっていた。江戸時代に入ると、藩校のようにテキスト重視の教育が普及していきますが、文字は使わないけど、極めて非常に実践的な中世式の教育スタイルが、九州の端っこにだけ「子供版」として残っていたわけです。実際、当時の薩摩は、国内で最も識字率の低い土地でした。しかし、「明治国家をつくり出した判断力」が、文字でなく口伝えの教育で育まれたのが面白いところで。―道徳教育はあったんですか?磯田 これも文字でなく、「日新公(じっしんこう)いろは歌」(日新公は島津の殿様)というのを毎日毎日、それこそ大人になるまでに何万回も唱えました。ちなみに最初の「い」は「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ないにせずばかいなし」といって、「どんな昔の教えを聞いても自分で実践しなければなんの意味もない」という意味。やはりすごく実践的な教えですね。―それをひたすら暗記する?磯田 文字が読めなくてもリズムで暗唱できるようになっていますが、郷中教育では、例えば「『義』とは何か」といったテーマで議論を繰り返したりして、そうした日常生活の規範を、それぞれが内面化していくんです。■西郷隆盛が抜擢された理由―薩摩式教育で、子供たちは何を得られたと思います?磯田 判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。「野村ID野球」なんか、ちょっとそれに近かったんじゃないかな。野村監督は古田たちに「野球とは何か」まで質問して。予算はなくても当時のヤクルトは強くなりましたよね。―ただ、講義やテキストではなく、主に対話だけで学ぶ学習って、グループリーダーの力量にすごく左右されそうですよね。磯田 それはあります。郷中教育におけるグループリーダーを「二才頭(にせがしら)」と呼んだのですが(二才[にせ]は薩摩で若者の意)、例えば薩摩の城下町で「名二才頭」と噂になっていたのが、下級武士だった西郷隆盛でした。西郷の地元では、子供たちも行儀よく、顔つきも違うと評判だった。西郷は島津斉彬(なりあきら)に抜擢されますが、つまり、天才的な殿様にいきなり召し出されたわけではなく、6歳から20歳ぐらいの間でちゃんと、あいつは指導力があると自然に現場で証明されてたわけです。だから薩摩藩は校舎も教師もなかったけど、郷中教育で「名二才頭」と呼ばれる若者を採用すれば、後に明治の国家をつくるような人材を効率的に選べた。話が飛ぶけど、今の日本で良い政治家がいないとよくいわれますが、やはり草の根の根っこのところでお互いがお互いを選び合うようなシステムがないと、それは難しいものです。あと、もし今、本当のエリート官僚を選びたいなら、やはり数回のペーパーテストと面接では無理でしょう。選挙もテストも一見公平な方法ですが、リーダーの選び方において今の日本社会は怠けてると僕は思う。もっとしっかり長い時間をかけ、実際の行動のなかから指導者を選んでいくシステムを復活させないと。―人材を育てるだけでなく、人材発掘の面でも、今の日本にとってヒントがあると。磯田 あと、今の日本に特に必要という意味では、さっきも話した、あらゆる事態を想定しておく「仮想力」です。明治以降の日本は欧米へのキャッチアップが目標だったから、生きる知識も学校で注入できました。しかし今は、記憶だけでは生きていけない事態を前提とした教育が求められています。それに日本人は、起きたら困るようなことは考えないようにしがちですから。まさに原発事故が、その象徴でした。―ただ、さすがの薩摩武士たちにとっても、生麦(なまむぎ)事件(1862年、島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人をその場で斬り殺し、薩摩藩がイギリス軍と戦争する原因となった事件)なんかは想定外だったんじゃないですか?磯田 そういう事態すら彼らの念頭にあったのではと僕は思うんです。「刀はめったなことでは抜くな。抜いたらただでは収めるな」というのが薩摩武士の道徳教育だったから、とどめは刺した。けど、その直後、島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせるわけ。実際、イギリス陸戦隊は即座に上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしていたんですから。―では、絶対に負けるとわかっていた、イギリス軍との戦争にはどう対処したんでしょうか。磯田 薩摩藩はすごいリアリストたちですから。彼らはイギリス軍の大将が乗った旗艦へ向けて砲弾を集中させ、相手の艦長を戦死させるんです。確かに薩摩はあちこち焼き払われ、とても勝ったとはいえないけど、イギリスにその実力は認めさせた。結果的には、「これは簡単に占領できる相手ではない。日本に親イギリス政権を樹立するために組む相手だ」って信用されたんですね。―最後に、郷中教育は、なんらかの形で、今の日本でも復活させるべきだと思いますか。磯田 そこには多くのヒントがあります。ただ、薩摩の郷中教育はあくまで忠孝(ちゅうこう)思想なんです。君に忠義、親に孝行。下の者に対し「慈悲をかけよ」という部分も少しはあるけど、根本は上に対する責任を持たせるのが目的の教育です。 でも、これからの日本に必要なのは、そうした身分制社会の教育ではなく、社会的弱者をどう救済するかとか横の関係とかですよね。 さらに、郷中教育はやはり戦士の教育なんです。討ち死にしてでもとにかく敵を打ち負かす、チームとして戦に勝つための合理性を追求した教育であり、そこは情報化社会における合理性とは異なる。そこは組み替えないといけません。しかしこの教育が、当時の「人づくり」に大きな成果を挙げたことは間違いありません。
2020年03月09日
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今日は少し時間があるので、4月23日の日記でちょっと触れた恩師のことを書こうと思う。実は、先生が亡くなられた年に、先生への追悼の気持ちで地域の文芸誌に投稿したエッセイがあるので、それを転載する。(私が文芸誌に投稿したのは、後にも先にもこの一回だけである)このエッセイを書いてから、すでに20年が経っていることに今気付き、驚いている。そして、先生が亡くなられた年齢に着々と近づいている自分にも気付く。「こぶしの季節に」出会いがあれば、別れがある。一人の人間が生まれ、生き、死んでゆくことは誰もが通る道程であり何の不思議もないけれど、この気の遠くなるような時の流れの中で、一人の人と出会うということは、何と不思議な偶然であろう。こぶしの花の咲く季節に、私は一人の恩師とのお別れをしなければならなかった。先生との最後の別れに向かう車の中で、夕暮れの林の中に白いこぶしの花が浮かぶように咲いているのを見ながら、初めてその花を知った季節から流れた年月を数えていた。もう30年も経っていることに驚くと同時に、胸の締め付けられるような懐かしさと、先生と二度と語ることのできぬ寂しさを感じていた。雪どけの季節が過ぎ、ぬかるみの中からその時を待っていたかのように、一斉に草花が芽生える頃であった。私はその時、小学校二年生。子ども達の元気一杯の声が、学校の近くの林に響いていた。背の高い先生の周りを駆け回りながら、子ども達は競うように、足元に揺れる草花の名前を先生に問うていた。小鳥のさえずりにふと上を見上げると、まだ殺風景な林の中に、そこだけポッと灯りがついているように、白い花が咲いている。「先生、あれ、何の花?」「あれかい? あれはねえ、こぶしの花だよ」背の高い先生は、ゆったりと歌うように答えてくれた。(あれは、こぶしという花? 大きな花だもの、先生の握りこぶしくらいあるから、こぶしって言うのかなあ・・)ぼんやりとそんなことを思いながら、私はその白い花を見上げていた。その情景が、なぜか私の脳裏に強く焼きついている。特にどうということもない情景であり、子どもの心に何がそんなに印象的だったのか少し不思議な気がするのだが、それ以来、こぶしの花を見るたびに、その先生のことを思い出すようになった。先生は音楽が得意で、アコーディオンを弾きながら色々な歌を教えてくれた。また、詩や作文をよく書かされたものだ。これは嫌がっている友達もいたようだが、私が書くことが好きになったのは、間違いなくこの先生のおかげだと思っている。また、カメラをいつも持ち歩き、子ども達のスナップ写真を撮ってご自分で現像し、みんなに渡して下さった。思えば、何枚も写真をいただいたように思うが、あれは全部先生からのプレゼントだったのだろう。おとなしくて消極的で、友達と遊んだりすることの苦手な私の楽しみは、本を読むことであった。一年の時の担任は、何とか友達の輪の中に私を入れようとして、私はそれが怖かったり苦痛だったりして、よく泣きべそをかいて先生を困らせたものだ。しかし、二年で担任になったこの先生は、本ばかり読んでいるような私に、先生の持っている本を貸してくれたりしてくれた。先生が貸してくれたのがとても嬉しくて、私は次々とむさぼるように本を読んだ。家庭でも「本ばかり読んでいないで、外で遊びなさい」「手伝いなさい」などと言われることの多かった私にとっては、本を大いばりで読めることが嬉しかったのだろうとも思う。その嬉しさや喜びが、少しずつ私を明るくし、クラスの友達の輪の中にも少しずつ入っていけるようになったが、今思えば、先生がさりげなく私の背中を後押ししてくださっていたのではないだろうか。先生に担任していただいたのは2~3年生の2年間だが、担任ではなくなってからも、廊下や図書室で出会う時には、優しい笑顔で声をかけてくださったりする時、私の心の中には暖かい風がフッと入り込むような気がした。五年生の時だったと思う。私が図書室で本を選んでいた時、先生が一冊の写真集を手渡して下さった。「これ見てごらん。こんなことがあったんだよ。この子達は、君くらいの年だろうね」それは、広島や長崎の原爆の記録写真であった。先生が指差しているのは、原爆で傷ついた幼い兄弟の写真である。額に怪我をして血を流している弟を背負った少年の、不安と怒りの混じった眼差しがそこにあった。ほかにも、私が生まれて初めて目にするショッキングな写真が一杯で、私は息を呑んでそれらを見つめていた。その時心の中に湧き上がってきた、言いようのない恐怖や怒りや驚きは、その後の私が戦争に繋がるものに対して素朴な嫌悪感を持つ原点になっていると思う。数年前、まだ小学6年と4年の息子も連れた家族旅行で、広島で8月6日に開かれる平和祈念式に参加したのも、その時から持ち続けていた強い願いの現われだった。戦争を知らずに育った私に、戦争の悲惨さと平和の大切さを教えてくれたのは、あの夕暮れの図書室で先生が手渡してくれた、一冊の写真集であったと思う。先生と再会したのは、中学生の頃以来、20年を経ていた。その二年ほど前に偶然に先生の住所を知り、懐かしさから手紙を書いたところ、すぐにお返事をいただいた。見覚えのある懐かしい先生の文字を見た時の嬉しさは、何と表現したらよいのかわからない。それか何度か手紙のやりとりがあった。私からの走り書きのような手紙を、「教師としての何よりの宝物です」と書いて下さった。「あなたは、小学校の担任だった私を覚えていてくれましたが、子どもによっては虫の好かない担任だったのかもしれません。今までに担任した三百人の子どもの心の中に、私がどんな形で入り込んでいるのか、または消えてしまっているのか知る由もありませんが、今はここに住む人たちの心の中に何かを残したい、そんな気持ちで仕事をしています」と、定年までの二年間を充実させたいとの思いが、どの手紙にも表れていた。(当時の先生は、農村地域の校長であった)そんな最後の手紙から半年ほどたって、あれほど仕事に意欲を燃やしていらっしゃった先生が、ご病気で入院中との奥様からの便りがあった。びっくりして入院先の病院に伺ったのが、20年ぶりの、そして最後の再会であった。先生がどんな病状なのかもわからず、何をお見舞いにしようかと迷い、幼い頃先生に色々な花の名前を教えていただいたことを思い出し、ささやかな花束を買い求めた。先生に本を貸していただいたことを懐かしみながら、ベッドで楽しんでいただけるようにと、数冊の本を手にして病院に向かった。先生はすぐに私をわかって下さるだろうか、病気はお悪いのだろうかと胸をドキドキさせながら病室に入ると、頭に白いものは目立つけれど、あの優しいまなざしはちっとも変わらない先生の姿があった。先生とお話したのは30分足らずであったと思う。顔色や声の調子であまり状態の良くないことを察し、心のどこかの(これが最後になるのでは)との思いを打ち消しながら、昔の思い出話や、私の知っているクラスメートの近況などをお話した。先生は何度も、「よく来てくれたね」とおっしゃり、本当に嬉しそうにお話をしてくださったことが、つい昨日のことのように思い出される。その時以来、もう一度お見舞いに行かなければ、お手紙を書かなければと思いつつ、忙しさの中で時間が流れていった。そして今年の4月、先生からの正式な退職の挨拶状が届き、そのはがきで転院されたことを知った私は、数日後久しぶりに手紙を書いた。その手紙をポストに入れた日に、先生がこの世から旅立っていられるなんて、どうして想像できたであろう。私の手紙を読まれることなく、こぶしの咲く季節に、先生は去っていかれた。もう一日早く手紙を書かなかったことを、もう一度お見舞いに行かなかったことを悔いる思いで一杯であるが、きっと先生は許して下さっているだろうとも思う。のんびり屋で、いつも一歩人より遅くて、人に迷惑をかけたり自分自身が悩んでいるのを、微笑みながら見ていて下さるような気がする。先生ともうお会いできないのは本当に寂しいけれど、私の心の中の先生はいつでも生きて励まして下さっているし、そのまなざしを生きていらっしゃる時以上に感じている。先生が私の担任になったのは偶然以外の何ものでもないが、この巡り会いが私の人間形成に大きく関与していることを考えると、人間の世界の不思議さを思う。人は互いに関わり合い、影響しあい、支えあって生きている。私もそんな人間の一人として生きてゆきたいと思う。先生が伝えてくださった有形無形のものを大切にしながら、私なりに歩んでいくことが、先生への感謝の表現であり、先生に喜んでいただけることだと思う。N先生、本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください。(1988年/記)
2008年05月10日
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久々に、ギンギンに凍った一日。朝カーテンを開けると、窓に氷の花が咲いている。冬季間のほとんどは、夜間も「微小」で灯油ストーブをつけているためもあり、最近は「窓に氷の花」が咲くことも珍しくなっていることに気付く。昔は、これが毎日の光景(窓景?)だったのにな。外出をしたら、歩くたびに雪が「キュッキュッ」と鳴る。これも、少し前までは毎日のことであり、この音を聞くたびに「冬だなあ」と思ったものだったのに。私の子どもの頃には、戸外を歩く人たちはみんなマスクやマフラーで顔を出来るだけ覆っていた。もちろん、寒さで頬が凍えて「しもやけ」にならないために。そして、息をするたびに鼻の穴がくっ付かないために(だったと思う)。私は「マスク」や「マフラー」で口や鼻を覆うのが息苦しくて嫌いだった。しかし、通学の途中でマスクを取ったりすると、今度は鼻の穴が呼吸のたびにくっ付くような感じになるので、顔面に接しない程度にマフラーなどで防御するようにしたけれど、その次に問題になるのは、マフラーの裏に霜が着いてしまうこと。とにかく、厳冬期間に戸外を歩く時は、どのように楽な呼吸を確保するかと四苦八苦していたように思う。(体験した人なら理解してくれるだろうけど、私のこの言葉は決してオーバーではない)道行く人たちは、みんな眉やまつげが霜で真っ白になり、老人のようになっていた。足や手は、いつもシモヤケで真っ赤になっていたなあ。その時代から比べると、確実に「暖冬になっている」と思う。窓の「氷の華」も、雪が鳴ることも、「久しぶりだな」なんて思うのだもの。私が住んでいる場所は、子ども時代から全く変わっていないのに。【追記】03.12.17日の日記に、「吹雪体験」について書いてあったので、一昔前の吹雪について参考にしてください。
2005年01月11日
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今朝パソコンを開くと、昨日のアクセスが通常の2.5倍。トラックバックも、私の日記の傾向からしたら沢山。首相の靖国参拝について書いたからだろう。みなさん、関心を持っていらっしゃるのですね。関心を持つことは良いことです。そこから、色々な人の考えを見たり聞いたり、様々な視点から資料を見たり読んだりして、自分なりの考えを確かめてゆけば良いわけですから。一番いけないのは、「エライ人が言うのだから」とか、「尊敬している人の意見だから正しいのだろう」、あるいは、「多くの人がそう言うのだから」などと、あまり考えずに「右に倣え」をすること。日本人みんなが「右に倣え」をした結果はどうなるのでしょう。私はそれが心配だ。長いものに巻かれたり、すぐに付和雷同したり、寄らば大樹の陰とうそぶいたり、強い人の腰ぎんちゃくになったり、(似たような意味の言葉が多いということは、日本人の傾向性をあらわしているのかも)それはあまり力を持たない者の悲しい知恵の側面もあるし私自身、それに近い言動だってすることもあるけれど、(いや、現実はとてもそれに近いかも)だからこそ、この日記くらいは、本当に思っていることや感じていることを確かめたくて書いている。だから、私はこの日記を通して議論しようとは思っていない。だいたい、常に共に暮らしている夫でさえ、私とは考え方が違うことが多いし、自分に利害があってどうしても譲れないときには頑張って主張するけれど、それ以外は「譲り合いの精神」と「お互い様」で生きている。ましてや、顔を見ることもできない人とは、議論をするのは疲れるだけだ。自分が絶対に正しいとは思っていないけれど、「今の私はこう思う」と書いているだけ。批判的な意見や、ご自分の主張を書いてくださった人に対して、それをちゃんと読むことはするけれど、異なる意見の人には、基本的に反論はいたしません。昨日、コメント欄に書くことを躊躇してメールを下さった人がいらっしゃいます。政治ネタで書いたり、それに対してコメントを書くと、五月蝿い突っ込みがあったりして迷惑だろうからということでした。エンドレスになるような書き込みがあれば、私だって迷惑です。自分の意見を「日記で書くこと」くらいは、自由にさせていただきたいものです。基本的に、私の日記への意見や関係するトラックバックは削除しません。ただし、「絡まれている」と感じたら、削除することにします。昨日訪れてくださった皆さんは、節度ある方々と思い感謝します。
2005年10月18日
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今夜から孫達が1月6日まで在宅するので、彼らが来ないうちにやり終えなくてはならないことが沢山。まあ、一番の仕事は掃除と洗濯、不要物の整理なのだけど・・。今日はそれに加えて、雪が降っているので「除雪」。金魚の水槽の水も取り替えなくてはならないし、明日から孫の相手をしながら御節料理を作るための材料買出し。現在、4時半少し前。これから夕食準備をしなくてはならないが、その前にちょっと一休み。・・・ああ、動きたくないなあ。昨日・今日と家事労働で、少し疲れました。本番はこれからだというのにねえ。
2005年12月28日
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誘拐された赤ちゃん無事保護、身代金目的容疑で捜査このニュースを聞いて以来、やっと産んだ赤ちゃんを突然連れ去られたお母さんの気持ちを想像したり、つい最悪の事態を考えてたりして本当に心配だった。今朝のテレビで、赤ちゃんが無事に保護されたことを知り、とにもかくにも赤ちゃんを無事に返してくれた事で、犯人に感謝したい気持ちにすらなってしまった。6150万円の身代金額を知って、「よほどお金に困っていたのだろうか。根っからの悪人ではないのだろうに、こんなことになって気の毒に・・」なんて、これまた変な同情心まで芽生える始末。いやいや、これは赤ちゃんが保護されたことによる安心感のなせるわざで、このようなことは決して許されないことである。赤ちゃんにもその両親にも、犯人の事情は何の関係もないことだ。こんなことで大切な子どもを奪われたりするなんて、絶対に許されてはいけないことだ。警察は、一日も早く犯人を逮捕して欲しい。「身代金目的の誘拐」は、決して成功しないということを知らしめて欲しい。ともあれ、今は赤ちゃんの無事を喜びたいと思う。
2006年01月08日
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5年で9割以上が随意契約 環境相が見直し指示環境省は6日、2000-04年度に同省が発注した契約額500万円以上の事業約3200件のうち、随意契約が92・5%(金額の割合は91・8%)に上り、肺炎で入院中の小池百合子環境相から、積極的に見直すよう指示があったことを明らかにした。契約のほとんどが特定業者との随意契約になっているとする一部の報道を受け、炭谷茂事務次官は記者会見で、調査研究事業が随意契約の大半を占めると指摘。「契約の見直しは、環境省の仕事の見直しにかかわってくるだろう」と述べ、環境相も同じ考えだとした。その上で「現状で法律上の問題はないと考えるが、地方事務所の分も含め総点検している。6月中をめどに、政府全体で随意契約を見直す方針もあるので積極的にやりたい」と話した。これには、本当にビツクリ、そしてあきれるしかない。これって、大変なことじゃないのか?ハッキリ言って、官僚の天下り先と「まあ、こんなところで・・」なんて契約したんじゃないの?こんなこと、もしも地方自治体がやっていたことが発覚したなら、国からビシバシ指導が入るんじゃないの。同時に、首長などの責任問題にもなるのじゃないかと思う。下手したら、リコールだよ。「見直しします」で事を収めようなんて、ずうずうしいんじゃないのか。このことで、責任を取る気のある官僚も政治家も皆無なんだろうな。書いているうちに、どんどん腹が立ってた。
2006年04月07日
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中学時代の担任は美術の教師であった。その頃から学校の物置のような場所で彫刻を作っていて、その後高校の教師となった。私達を担任したころは美術教育にはあまり熱心ではなく、とにかく子どもたちと一緒に行動することに熱心だったと思う。そのせいか、私たちの学年やクラスは結びつきが強くて、今でもそのつながりが続いている。高校は三校を転任していたが、その美術部の教え子たちの中には美術関係の仕事をしている人も多く、今回はその教え子たちとの合同展覧会だった。この日に行くことは以前から決まっていたので、実家の隣の家のおばさんに留守番を頼んで出かけた。お煮しめとお稲荷さんを作り、前日おばさんに頼んだのだが、母には「偶然買い物で会ったので、遊びに来てと言ったので…」と説明した。おばさんに頼んだと知ったら、母は申し訳なく感じるだろうし、「私は一人でも大丈夫」と意地になるように思ったからだ。このブログで書きたいことは、そんなことではない。教育の力と、教師の影響力についてなのだが、詳細はプライベート日記に。とにかく、思春期にどんな出会いと体験をするかは、人の一生を左右することだってあるのだ。
2019年06月22日
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