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http://satlaws.web.fc2.com/0140.html「自民党憲法草案の条文解説 前文~40条」で憲法について考えていたら、第34条のロジックに非常に興味深いものを見つけた。現行憲法と改正案とを引用しておこう。<現行憲法 第34条>「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」<自民党改正案 第34条(抑留及び拘禁に関する手続の保障)>「1 何人も、正当な理由がなく、若しくは理由を直ちに告げられることなく、又は直ちに弁護人に依頼する権利を与えられることなく、抑留され、又は拘禁されない。 2 拘禁された者は、拘禁の理由を直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示すことを求める権利を有する。」この条文に対しては解説では次のようなコメントをつけている。「34条では正当な理由と理由告知と弁護人依頼権のうちの一部がなくても抑留拘禁され得るとも読める文言になっていますが、そこまで意図しているのかは不明です。」この解説はその通りだと思うのだが、論理マニアとしてこの文章に引きつけられるのは、ここに書かれていることの理解が直感的には難しいのを感じる点だ。直感的には両者の違いがなかなか読み取れない。読めば読むほど分からなくなってくる。これは、この文章の書き手の論理が混乱しているのか、隠された意図を含んだ巧妙な作文なのかと言うことが非常に気になる。僕がこの条文に強く引きつけられるのはその論理用語の使い方についてだ。それぞれ次のような論理用語が使われている。<現行憲法> 「且つ」「又」「~れば(なければ、あれば)」<自民党改正案> 「若しくは」「又は」「若しくは」「又は」は同じ意味を持っているが、「且つ」と「~れば」は全く違う意味を持っている。同じような言葉が並んでいるのに、その論理的意味には大きな違いがあるのを感じる。論理マニアとしては、この書き換えの論理的意味を考えるのは非常に興味深い。現行憲法では「~なければ」という言葉で仮言命題を作っている。これは、結論である「抑留又は拘禁されない」と言うことが成立する条件として、ある種のものがないという条件では、「抑留又は拘禁されない」と主張している。それでは何がないときは拘留・拘禁してはいけないと語っているのだろうか。一つは「理由をただちに告げる」と言うことで、もう一つは「ただちに弁護人に依頼する権利を与える」と言うことだ。これが「且つ」でつながれていると言うことは、そのどちらも欠けてはいけないということを意味する。つまり理由を告げられなかったときはダメなのだ。同時に、ただちに弁護人に依頼する権利を与えられないときはダメなのだ。「理由をただちに告げられ、しかも同時に弁護任意依頼する権利を与えて」ようやく「抑留又は拘禁」の正当性が出てくるのだ。その両者があって初めて「拘禁又は拘留」が許される。これは人権を守るためにはその通りだと思う。実に合理的な規定だ。これが「若しくは」と「又は」でつながれている自民党改正案ではどのような意味になるだろうか。「若しくは」「又は」は、何か一つでも成立すればいいと言うのが論理的な理解だ。自民党草案が、「ことなく」ではなく、「ことがないならば」という仮言命題になっていれば現行憲法草案と変わらない。仮言命題にすれば次のような論理構造になる。<正当な理由がない>又は<理由をただちに告げられない>又は<ただちに弁護人に依頼する権利を与えられない> … これが仮言命題の前件だとする ↓ならば<抑留され、又は拘禁されない>このような論理構造を持っていれば、前件のどれか一つが成り立っていれば、それだけで抑留も拘禁も否定される。現行憲法と論理構造は同じだ。それでは、これが仮言命題ではなく「ことなく」という日本語で結ばれているときはどのように意味が変わってくるだろうか。この論理構造を考えるのにとても時間がかかった。直感的に理解することが非常に難しい。これは、前提条件ではなく、<同時に成り立つことはない>という意味になってしまうのではないだろうか。この構造を形式論理で記号化するとA=<正当な理由がない>B=<理由をただちに告げられない>C=<ただちに弁護人に依頼する権利を与えられない>D=<抑留され、又は拘禁されない>と考えて、(AまたはBまたはC)かつDとなり、これは次の命題と同値になる。(AかつD)または(BかつD)または(CかつD)これは、A,B,Cのどれか一つとDの<抑留又は拘禁の禁止>が成り立っていれば、他の二つについてはどちらでもいいという解釈になってしまう。つまり解説が語るように、「一部がなくても抑留拘禁され得るとも読める」という解釈になってくる。A,B,Cのどれか一つが成り立つときに抑留又は拘禁が禁止されていれば、他の理由がなくて抑留又は拘禁されることが論理的には不当ではなくなってしまう。これは直感するのが難しい。このような論理的な不備は間違って紛れ込んでしまったのか、それとも将来的にはそのような状況の時に理不尽な合法性を主張するときに使おうと意図して論理を構築したのか。意図しているとすれば、恐るべき論理能力だと思う。もう一つの現行憲法「要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」自民党改正草案「2 拘禁された者は、拘禁の理由を直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示すことを求める権利を有する。」の違いに関しては論理的にはわかりやすい。現行憲法では、「示されなければならない」となっているので、理由が公開されることが原則であってそれが隠されることはない。だが自民党案では「示すことを求める権利を有する」とされていて、それが必ず示されるかどうかまでは保障していない。これは将来的に、どれか一つの条件が欠けて抑留・拘禁された場合、その理由を示さない場合もあると言うことをほのめかしているのではないかとも受け取れる。そこまで考えて論理を構築しているとすれば、騙されないようにするのはかなり大変だ。
2013.02.03
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http://satlaws.web.fc2.com/0140.html「自民党憲法草案の条文解説 前文~40条」を参考にして次に天皇について書かれている第一章を見ていこうと思う。ここでのポイントは「元首」という言葉ではないかと思う。「象徴」という言葉で書かれていた現行憲法の天皇を「元首」と呼ぶことにしていることの意味はどこにあるのか。元首の辞書的な意味は次の通りだ。「有機体としての国家の首部だとか,国家権力の全能者という元首の観念はほとんど歴史的役割を果たし終え,今日では,通例,対外的に国家を代表する地位にある国家機関をいい,条約の締結,外交使節の任免,全権委任状・信任状の発受などの外交権能を伴う。元首を,君主のように世襲によるものとするかどうか,合議機関(例,旧ソ連邦最高会議幹部会)とするかどうか,また実質上行政の首長として国政を統轄するものとするかどうかは,それぞれの国の憲法の定めるところによる。」(http://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96「世界大百科事典 第2版の解説」)この定義に従って日本の天皇を考えれば「元首」であるという判断も出来る。その意味が辞書的な範囲にとどまるのであれば、現行憲法の「象徴」と大した違いはない。自民党のQ&Aでは、あえて「元首」と記述するかどうかが議論されたと語っている。つまり、辞書的な意味では「元首」として扱われているのは事実なので、わざわざ言う必要はなかったのだが、記述することに意味を見いだしていると言うことだ。ではその意味はどこにあるのか?それはQ&Aには記述されていない。多数意見だったから記述に入れられたと言うことが書かれているだけだ。むしろ反対論が語られていて、「元首」とすることは天皇の権威をむしろ落とすことになると感じる人もいたようだ。世俗性が入り、雲の上の存在という意識が薄れるのを心配したようだ。辞書的な意味にとどまることなく、具体的な意味として何を想定しているのかを自民党は全く説明していない。しかし、その象徴性を何かに利用しようとしている意図を感じる。それはどのように利用されるだろうか。かつては天皇の言葉は絶対不可侵のものとして批判が許されなかった。天皇を錦の御旗とすることによって自らの言説の正統性を調達していたというのがマル激などで宮台真司さんによく語られていたことだった。合理的な思考をすれば押しつけられないような理不尽なものを、天皇の権威を背景にして押しつけようという意図はないだろうか。解説では、「日の丸君が代は天皇の章(3条)に規定されており、天皇制と不可分であることがわかります。国旗国歌の規定を新設しただけでなく、尊重義務も課しています」という指摘がある。 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/46966「2012/12/28 自民党の憲法改正案についての鼎談 第2弾」での指摘でも国旗・国家の押しつけとしての東京都教育委員会の問題を指摘していた。これらは、合理的に考えれば、思想・心情の自由に属するもので、その押しつけは現行憲法に照らして考えれば憲法違反になる。それが自民党草案では、憲法でその押しつけを認めてしまっているようにも見える。Q&Aでは、「国旗・国歌を巡って教育現場で混乱が起きていることを踏まえ」この記述を入れたと書かれている。つまり混乱を治める目的がそこにはあると言うことだ。混乱を治めるというのは、自由に選択させると言うことではない。教師であればそれを尊重しろと言うことを押しつけると言うことだ。天皇を「元首」と呼ぶことの意図には、その権威を利用するという考えがあり、権威を強めるために国旗・国家の押しつけという理不尽をも甘受するような奴隷的心情を強めようとしているのではないか。それに反対するようなものは悪い奴だというような空気を作ろうとしているのではないか。自由を圧殺し、道徳性を押しつけて奴隷化するというのは、今学校で問題になっている体罰の弊害そっくりのものだ。基本的な思想性がこのようなものになるような憲法を作ろうとしている自民党が、正しい民主主義的思想で自由を守れるとは思えない。日本社会はますます重苦しい不幸な空気が蔓延するのではないだろうか。天皇を「元首」と断言したい心情に、そのような反民主性を感じる。
2013.01.27
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http://satlaws.web.fc2.com/0140.html「自民党憲法草案の条文解説 前文~40条」を参考にして、各条文の細部を検討してみたいと思う。最初は前文を読んでいこう。まず目につく変更点は現行憲法が「日本国民は」と国民を主語にしているのに対して、改正草案では「日本国は」と国家が主語になっている点だ。これはどのような内容の変更だと解釈すればいいだろうか。これはどのような述語につながっているかを見ると予想できる。・現行憲法「日本国民は」…「行動し」「確保し」「決意し」「確定する」・改正草案「日本国は」……「持ち」「国家であって」「統治される」現行憲法では、国民の意識の方を重視し、その意識は「民主主義」「平和協調主義」「自由の尊重」「戦争否定」などをその意識の内容とすることを主張している。これこそが憲法の主題だと宣言している。一方改正草案では、「固有の歴史と文化」が価値あるものとされ、「天皇を戴く」と言うことに国家の重要性を見ている。国民主権という言葉が入っているが、どのような主権が確定されているかの言及はない。むしろ「統治される」と言うことの方が強調され、これは後の内容である、「国民主権」の制限につながっていくのではないかという懸念をもたらす。現行憲法は、民主主義の理想を実現させるためにアメリカが日本に押しつけたと言われている。ここに語られているのは理想であり、残念ながら日本では実現されていないことの方が多いように見える。だが、理想は現実離れしているからという理由でこれを棄てることの正当性が出てくるだろうか?理想は掲げることに意味がある。それが今は実現されていなくても、理想として持ち続けることに価値があるなら、理想以外のすべての面では妥協をしても、ここでは妥協を許さないという項目として掲げておく価値がある。一方の改正草案の方は、内容的には現実の日本社会がそのような面を持っているという現実性を帯びているものだ。だがその現実は無批判に肯定できるようなものではない。国家と国民が対立することが現実にあろうとも、制限を受けるべきは国家の方であって、国民を制限する根拠として憲法が利用されてはいけない。それは憲法の基本思想に反するものだ。憲法は国家の暴走に歯止めをかけると言うことが基本原則であって、国家の暴走を助長するような国民への制限を許してはいけない。改正草案は、前文の段階から早くもその反民主制という本質を露呈している。現行憲法は「人類普遍の原理」という崇高な理想からその存在意義を主張している。前文はそのような思想が盛り込まれている。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とこの原理は説明されている。そして「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と言う言葉で、国家に対する制限を語っている。現行憲法が語る事は崇高な理想であり普遍的真理なのである。これを書き換えると言うことは、この真理を否定するか、あるいは実現できないと言うことで理想を棄てると言うことしか考えられない。改正憲法は、言葉の上では同じ単語を使っているので、真理の否定は出来ないのだと考えられる。だから理想が空想であり実現できないと解釈しているのではないかと考えられる。そのため限りなく現実に実現できていることに近づけて表現がとられているのではないか。改正憲法は「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と主張する。ここには「基本的人権を尊重する」という言葉が入ってはいるが、それが「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という思想と対立するという考えは見られない。だが実際には両者が対立し、和を尊ぶ(全体の利益を第一にする)為には、人権を制限しなければならないときが出てくる。その場合に、現行憲法であれば国家を制限し人権を優先するという指針が出てくるが、改正憲法ではその方向が取られるかどうかは、文章だけでは分からない。「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」という改正憲法の文章は、一見いい言葉が並んでいるように見えるが、何が基本原則として大事かという言及がないため、ご都合主義的に解釈される恐れがある。「自由と規律」を重んじるという言葉は、自由が行き過ぎた場合には規律でそれを制限すると言うことが隠されているのを感じる。だが行き過ぎたかどうかという判断がこれでは分からないので恣意的に判断される恐れが大きい。人類普遍の原理から言えば、自由がもたらす主体性によって確立された規律こそが優先されるべきであって、国家が制定するような道徳的な規律が自由に優先されるような事態が起これば、基本的人権が制限される恐れがあることを戦争の歴史が教えている。軍国主義下における規律の優先と自由の制限は、今の学校に見られるような全体主義的な雰囲気を蔓延させる。日本社会全体を学校化させる恐れがこの改正憲法にはある。学校の弊害がすべて社会全域に行き渡る恐れがあるのを感じる。改正憲法が「良き伝統」としているのは、支配する側が国民を押さえつけるのに都合のいい「伝統」だ。この「伝統」がある限り、支配者の恣意的な命令が社会に行き渡ることになる。体罰によって支配される思考停止状態の学校と同じものが改正憲法後の日本社会に蔓延する恐れを強く感じるものだ。自由を尊ぶすべての人々はこの改正憲法案の危険性を告発しなければならない。
2013.01.20
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「自民党憲法草案の条文解説 総論」http://satlaws.web.fc2.com/souron.htmlを参考にして自民党憲法草案の全体像のスケッチを描いてみたいと思う。細部の理解というのは、全体像の正しい把握があってこそ正しいものになる。全体像を描かずに細部の理解を進めると、細部の言葉にこだわってしまって正しい理解が得られないことがある。特に理論的な問題を考える場合はその傾向が大きい。まず最も大きいスケッチは次のようなものだ。1 国民が国家に命令する本来の憲法ではなく、国家が国民に命令する逆転した憲法になっている。2 人権と人権がぶつかったときの解決法(人権の制限)は従来は「公共の福祉」という概念で、これはあくまでも「人権対人権」の対立の解決を目指したものだった。それが無くなり新たに「公益又は公の秩序」というものが人権を制限する概念として登場した。国家が国民の人権を制限する根拠を提出した。この二つは何を意味しているか。それは自民党憲法草案が通って、これが新憲法になると国家の暴走を防ぐことが出来なくなると言うことを意味している。日本はかつての戦争で国家の暴走を止められなかった。この憲法改正案が通るなら、その反省が全くないと言うことになる。解説では「人権とは、生きること、幸福を追求すること、知ること、働くことなど、欠くことのできないあらゆる権利のことです」と語っている。現行憲法はこれを基本的人権として現在及び未来にわたっても永久不可侵のものとして守らなければならないと謳っている。だが、どの人間の人権も同等のものとして提出されていると、そこに正反対の利害関係を持ったものが生じる可能性がある。それを調整する概念として「公共の福祉」というものがある。「公共の福祉」は、「公共」という言葉があるために誤解しやすいが、社会の利益のために個人を我慢させるというものではない。個人の人権同士が衝突している場合、どのようにして調整を図るかという指針になるのが「公共の福祉」の概念だ。「第9回 <「公共の福祉」ってなんだろう?>」http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.htmlには次のように書かれている。「個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。 私たちは憲法によって人権を保障されていますが、当然のことながら、他人に迷惑をかけることは許されません。たとえば、いくら私たちに「表現の自由」が保障されているといっても、他人の名誉やプライバシーを侵害してまで表現する自由が無制約に認められているわけではないのです。どのような人権であっても、他人に迷惑をかけない限りにおいて認められるという制限を持っています。 私たちが社会の中で生活をしていく以上、ときに、「ある人の表現の自由vs別の人の名誉権やプライバシー権」のように、人権と人権は衝突します。そしてその衝突の場面においては相手の人権をも保障しなければなりませんから、自分の人権はそのかぎりで一定の制約を受けることになります。 すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼んだのです。けっして「個人と無関係な社会公共の利益」というようなものではありません。また「多数のために個人が犠牲になること」を意味するのでもありません。」この具体例から理解すれば、人権が制約されるのは、他者の人権を侵害する恐れのある人権の行使の場合だと考えられる。「表現の自由」という権利は、他者のプライバシーを守るという権利を侵す恐れがあるときは制限されるのである。それ以外では人権の制限はない。それくらい人権は尊いものなのである。この大切な人権に対して解説では「人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにした」とQ&Aにあります」と書かれている。これは「Q&A」の19ページ・Q14に書かれている。人権相互の衝突以外で人権が制限されうるとすれば、それは国家の「公益」となる場合になるか、「公の秩序」という恣意的な道徳観から導かれるものになりかねない。国家が国民を規制したいように見える憲法草案の意図を考えればこのような制限もありうるものと考えられる。解説での「言論や芸術などの表現の自由に対する規制については、「公共の福祉」のなかった21条に「公益及び公の秩序」を入れていますので特に変化が大きいです」という指摘には特に注意をしておかなければならない。言論や芸術の権力批判に対して「公益」や「公の秩序」を理由にして弾圧してくる可能性が出てきたからだ。こんな前時代的なやり方が行われるとは予想しがたいが、合理性がしばしば否定される日本社会では危険な兆候として注意しておかなければならないだろう。「公共の福祉」については、「第9回 <「公共の福祉」ってなんだろう?>」には「「公共の福祉」による人権制限の問題を考えるときには、対立する利益をつねに具体的に考えなければなりません。「誰のどのような利益を守るために人権を制限するのか」をしっかりと意識しないと、「国益」というような抽象的なものでの制限を許してしまいかねないからです。仮に「国益のため」という理由が語られたときには、その「国益」の中身が具体的にどのようなものなのかを考えてみることが必要です。」と書かれている。「公共の福祉」の概念はそれだけでは何を語っているか分からないので、常に具体的な場面を想定して議論しなければならない。だが「公益又は公の秩序」ということになれば、ご都合主義的に固定化された概念で議論できてしまう。だからこの変更には注目しておかなければならない。解説では他にも「義務が増える」「個人の尊重がなくなる」「同じ文言でも解釈が変わる」と言うことが指摘されている。これも重要な部分ではあるが、危険性の批判としては、とりあえずは自民党憲法草案の危険性として<国家が国民を制限するものになっていて、特に人権の制限の意図が見える>という点を中心に考察していきたいと思う。
2013.01.14
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自民党の憲法草案に対して批判的立場からそれを検討していこうと思う。本質は、民主的な憲法とは全く違うものであり、民主的な憲法が国民から国家への命令として機能するのに、国家から国民を縛るものとして提出されていることだ。それは反民主的なものであり、憲法と呼べない憲法もどきのものだ。これから何回か書いていこうと思うが、初回にはいくつかの貴重な参考文献を紹介しておこうと思う。まずは1 自民党憲法草案の条文解説http://satlaws.web.fc2.com/だ。ここに書かれている解説は自民党の憲法草案の本質を鋭く突くものであり、しかも非常にわかりやすい解説となっている。最初にこれを読んで全貌をつかんでおくと理解が深まるだろう。総論(http://satlaws.web.fc2.com/souron.html)の解説が素晴らしく、「憲法は、法律ではありません。近代立憲主義憲法は、国家権力を制限し人権を保障する法です。つまり、法律を作るときや、それを運用するときは、こういう方針でやらなければなりませんよということを、国民が国家に遵守させる法です。日本国憲法もそうなっています。 今回の草案は、そうした従来の意味での憲法ではありません(そのことについてどう考えるかは自由です)。 つまり、国民が憲法尊重義務を負い(102条1項)、人権衝突とは別個の概念である「公益又は公の秩序」(12条後段、13条後段、21条2項等)による人権制限が正当化され、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」(12条後段)することが要求され、前文冒頭の主語が国家になっているなど、国家から国民への法へと変容を遂げているのです。」と言うまとめには正にその通りだと頷く。自民党の憲法草案そのものと、自民党自身の「Q&A」を参考にしたい人は2 「憲法改正草案」を発表http://www.jimin.jp/activity/colum/116667.html 日本国憲法改正草案http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf 日本国憲法改正草案 Q&Ahttp://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdfが参考になる。ただこれらは見づらいので、現憲法と対比して確認したいときは3 自民党新憲法草案全文(05年10月28日発表) 現憲法対比自民党新憲法草案に関する各政党の主張http://tamutamu2011.kuronowish.com/jiminkaikenann.htmを使うと良いと思う。これらの文章を読む暇がない、あるいは文章だけではわかりにくいという人には、IWJのインタビューのページ4 2012/12/12 自民党の憲法改正案についての鼎談 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/44511 2012/12/28 自民党の憲法改正案についての鼎談 第2弾http://iwj.co.jp/wj/open/archives/46966が参考になる。これはまだ一般向けに開放されているが、時間がたつと会員向けに限定されるので、これを機にぜひIWJの会員になることをおすすめする。自民党憲法草案の危険性が、弁護士の立場から鋭く指摘されている。憲法草案の具体的批判としては5 自民党憲法改正草案の恐ろしさ 国歌、国旗への忠誠http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-649.htmlが参考になる。また、自民党の憲法草案では「公共の福祉」という言葉が無くなり「公益及び公の秩序」と言う言葉が入っている。この言葉の言い換えがいかに反民主主義的かと言うことを理解するのに、6 法学館憲法研究所 第9回 <「公共の福祉」ってなんだろう?>http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.htmlが役に立つ。これらの資料を参考にして自民党憲法草案の危険性を考察していこうと思う。日本社会は、ただでさえ全体主義的な傾向を持っていて個人を圧迫しているというのに、この憲法が成立してしまえば、国家権力が個人を弾圧する法的根拠を与えてしまう。個人の自由に憎しみすら感じてしまうような人が、自民党の憲法草案を考えたのではないかと感じてしまうくらいこの憲法草案は自由を否定しているように感じる。自民党の良識派の人たちは、このような根本的な問題に対してどのような姿勢を持っているのか。少数派だと言うことであきらめているのか。次回からは1を参考にして内容の細かい考察をしていこうと思う。
2013.01.13
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河野太郎さんが2011年09月05日のブログエントリー「さあ、特別会計を廃止しよう!」http://www.taro.org/2011/09/-tokubetsukaikeidocx.phpで次のように書いている。「第三次補正の財源の議論が始まっているが、国債整理基金などの剰余金の取扱について、財務省がまた、訳のわからんことを言い始めている。 財政の内容をわかりやすくするためにも、また、来るべきプライマリーバランスの議論の前提を整理するためにも、特別会計の廃止が必要だ。 現在の予算では、特別会計とのやりとりでいくらでもプライマリーバランスをでっち上げられるので、プライマリーバランスを実現するためにはその前に、特別会計を廃止し、一般会計への統合が必要だ。 自民党のシャドウキャビネットの行政刷新・公務員制度改革担当チーム(河野太郎(ただし現在役職停止中)、平将明、古川俊治、柴山昌彦、熊谷大、磯崎仁彦、三原じゅん子)は、特別会計の廃止および一般会計への統合に向けて作業を進めてきた。 以下、チームの提言を述べる。わかりにくいかもしれないので、図を参照のこと。なお、関係各省庁からはヒアリングを行い、統合の実現性については確認済み。 新政権の行政刷新もこれぐらい抜本的にやってもらいたい。------------------------------基本方針プライマリーバランスの均衡を図るために、特別会計を廃止し、全てのフローを一般会計に統合する。 ただし、ストックの管理のために積立金特別会計を新設し、各種積立金はこの特会のなかにそれぞれの勘定を設置して管理する。この特別会計から派生するフロー資金は、歳出歳入全て一般会計を経由する。 地方共有税特別会計を設置し、旧地方交付税及び譲与税財源を直入する。直入額があらかじめ定められた一定金額を下回る場合は、その金額との差額のみを一般会計から繰り入れる。この地方共有税特会資金の配分は国が関与せず地方六団体が行う。 債務の償還に関する国債整理基金を設ける。現在の各特別会計の余剰金で特に将来決まった使途のない『埋蔵金』は一括して国債整理基金に繰り入れ、債務の償還と将来の利払いの削減に充てる。 フローを一般会計に統合することにより、手数料等における負担と給付の関係性を絶つ。また、一般会計内の電波管理料など特定財源となっているものを一般財源化する。 一覧性の維持と収支関係の把握の容易性のために、一般会計の中に一般勘定、借換収支を管理する借換勘定、積立金特別会計へのストックの繰入操出に関する積立金繰入操出勘定、各種再保険の保険料と保険金を積立金特別会計に繰入繰り出しするための再保険勘定の四勘定を設ける。 一般勘定の中に収支のつながりの強いものの関係性を示すために年金関係収支、医療関係収支等の「関係収支」を掲げる」。やはり河野さんは有能な政治家だ。何が合理的で大切な問題であるかを知っている。安倍政権で河野さんが重用されたならこの方針が実現されるだろう。しかし河野さんのニュースは全く聞こえてこない。このことで安倍政権が「改革」については本気ではないと言うことが伺われるのではないか。今後、安倍政権の中で河野太郎さんがどの程度の位置にいるかと言うことに注目していこうと思う。
2012.12.29
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日本が自滅の道を歩むのは、日本が持っている富が利権に奉仕するために消費されるので、それがやがて食いつぶされると言うことが見えているからだ。その利権は富を生み出しているのではなく、誰かの犠牲の上に富を食いつぶしている。その犠牲として倒れた人々がやがて誰もいなくなったところで破滅が見えてくるようになってくる。破滅が見えてきたらもう手遅れだ。その前に破滅への道を理解して何とかしなければならない。石井鉱基さんが具体的に分析する利権の姿を見て、どのように利権が富を食いつぶしていくか見ていこう。最初に分析するのは「道路特別会計」だ。ここにどのように金が入ってきて、どのように金が出て行くかを見れば、利権が富を食いつぶす様が具体的に見えてくる。収入の中心になっているのはガソリン税(揮発油税)で石井さんは次のように書いている。「ガソリン税収は年間3兆円弱で、その4分の1が直接、道路特会に入る。残りの4分の3はさらに2ルートに分かれる。いったん一般会計に入れ、そこから道路特会へ入るのが一つ。もう一つは交付税特会に入ってから一般会計経由で道路特会に入る。石油ガス税もガソリン税とは別に二分割で道路特会に入る。さらに軽油引取税、自動車取得税、自動車重量税が道路事業に使われる。NTT株売却益を使った産業投資特別会計からの無利子融資もこの特会に入る。」この複雑な流れは文章だけではわかりにくい。石井さんの本では図解して説明している。とにかくなぜこれだけ複雑な流れにしているかと言うことはよく考えなければならないだろう。これは流れを見えにくくすることが目的だと思われる。流れがよく見えてしまうとそれが利権に消えていることがすぐに分かってしまうからだ。これらの道路に関する金が、本当に道路の整備などのために使われていればまだましなのだが、多くは利権に消える。だから石井さんはこれを廃止しろと主張しているのだが、この税金が残り続ければ「目的税としてのガソリン税などと道路特会がある限り、道路整備事業は自動的に、無限に続いていく仕組みになっているわけだ」という石井さんの指摘の状況が続くことになる。さてこの金の出方なのだが、利権の流れには道路公団とそのファミリー企業が使われている。これらの企業では、実際の働き以上の金が道路特会から回る仕組みになっており、それらを官僚などの天下り組などが利権として受け取っていく。次のような記事からその具体的な姿が伺える。「2002/08/08 (産経新聞朝刊) 追跡「道路公団改革」 第2部(3) 【ファミリー企業】 “天下りの連鎖”で増殖 ( 8/ 8) 」http://www.angelfire.com/la3/hayawasa/isiikoki14.htmここには次のような記述が見られる。「JHが公表しているファミリー企業は八十二社と五公益法人。JHだけで計四百五人が役員として天下っている。藤井治芳JH総裁は七月四日の民営化推進委で「八千八百人の社員がかたずをのんで、自分たちはこれからどうなるんだろうと気にしております」と述べるなど、ことあるごとに「八千八百」という数字を強調している。 だが、元JH幹部は「故意に組織を小さく見せようとしている。JHはファミリー企業を含めると四万人、パートを含めると八万人の巨大組織だ」と指摘。「ファミリー企業を根本から整理し、透明性を確保しなければ本体を民営化しても立て直しはできない」と訴える 。(道路公団民営化取材班)」利権にぶら下がる人間がこれだけいると言うことは、本来国民のために使われなければならない金がこれらの利権に不当に流れていると言うことだ。「日本道路暴力団株式会社」http://wakky18.fc2web.com/trash/kuruma/sih.htmlと言うページに書かれているものはフィクションと断っているが、笑い話としては面白いと思うが、本当だったらこの国の利権の闇の深さを教えてくれる。そこでは、「★道路暴力団は、黒字なのですか?もちろん黒字です。ただ、あまりにも大量の黒字が出ているため、ハイウェイカードの横流しや、採算度外視のサービスエリアの独占営業、無駄なトイレ清掃、といった事業を市価の数倍の金額で丸投げし、利益を減らして税金逃れをしております。このため、身内は非常においしい思いをしており、その分国民が不幸な目にあっておりますので、今後とも利権を拡大して身内を増やすことにより、幸せになれる人を増やしていきたいと思っております。」と書かれている。「事業を市価の数倍の金額で丸投げし」という言葉の信憑性を調べて欲しいものだ。おそらく事実ではないかと思うだけに。これらに対しては、石井さんは次のような指摘をしている。「誰かが潤っていると言うことは、誰かがその分を負担していると言うことだが、言うまでもなく、ガソリン税などを納めている国民全員の負担である。 この負担は結局、運輸、流通、製造など多くの産業分野にかかってくる。すなわち、これらの産業で使うガソリン代や通行料などが、世界に類例のない高価格のものとして直接国民生活に跳ね返る。他方では、高いガソリンは生計費を押し上げるから、従業員の給与水準も引き上げなければならず、それが物価に反映されるという側面もある。 つまり、ガソリン税を道路の特定財源とするシステムによって、政治屋と官庁の天下りだけが潤い、政治系土木業者が食いつなぎ、それ以外のすべての産業が犠牲を払うという構図になっている。これが日本経済全体にとって大きなデメリットになっていることは言うまでもない。」利権が多くの人の犠牲の上に不正な富を流しているかと言うことが石井さんの指摘でよく分かる。道路公団の改革は利権の改革のためにこそ必要だったのだが小泉内閣は徹底できなかった。それを担当したのが新都知事の猪瀬氏だと言うことはよく覚えておこう。無駄な高速道路がなぜ作られるかと言うことも利権の視点で見ればよく分かる。石井さんは次のような指摘をしている。「1キロあたりの建設費の単価は、首都高速道路で1000億円、東京湾横断道で950億円となっている。山の中の高速道路でも100億~200億である。日本の高速道路は、金を敷き詰めているベルトだと言ってもいい。」この利権の中にいて富を得ている人々は、この利権無しに生きられないようにされてしまっている。壊そうとすれば猛烈な抵抗をしてくるだろう。それが国を根本から破滅に導くと言われても。
2012.12.27
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石井鉱基さんは、第一章で利権財政を支える財政について詳細を論じている。財政というのは、利権を生み出す基になる金を作り出す仕組みで、単純化して言えば国に入ってくる金をそのまま使えば不正流用になるので、それが分からないようなカラクリを作って、実際には利権として既得権益者の懐に入っているのに、いかにも公的に使われるように偽装する仕組みになっている。利権財政はいわば裏の顔で、表の顔の一般会計は税金と借金(国際)で金が入ってくる仕組みになっている。これが公金であることはわかりやすい。公金であるからにはそれを払う人間がすべて納得するような使い方をする必要があり、誰もがその金の流れに注目している。だが裏の財政はどこから金が入ってどこに流れていくかがわかりにくくほとんど情報が明らかになっていない。だから利権に流れていってもそれを指摘する人がいなくなり、既得権益にとってはしたい放題のおいしいものになる。裏の財政である特別会計にはどのような金が入ってくるのか。一つには特定財源と呼ばれる税金がある。所得税や消費税のような一般的な用途を持つ税金ではなく、使用目的が制限される道路特定財源のような揮発油税や地方道路税のようなものだ。これらはそれを払う自動車の保有者に還元されるのであるから何となくそれが正しいように感じてしまう。だがその特定財源が本当に特定の目的の下に合理的に使われていればいいが、単に利権所有者に流れるだけであるなら、本来その税金によって利益を享受できる人にその利益が回らなくなる。特別会計の問題として石井さんは次のようなものを指摘している。「特会は財投と同様、基本的に各省庁が予算編成権を持っているので、省庁の自由裁量で事業予算を決めることが出来る。そのため、特会を持っている省庁は、お手盛りで予算をふくらまそうとするのである。」特会の予算は省益によって使い道が恣意的に決められている。官僚が国民の側を向いて公正にその使い方を考えているならば、省益が国益と重なることもあるだろうが、今までの省益の歴史を見る限りではそのようなことはほとんどない。国益に反していても省益を優先してきたという内部告発には事欠かない。(宮本政於さんの『お役所の掟』など)国を無視して省益を優先させればそれが破綻することは目に見えている。特会は原理的にそのような破滅の可能性をはらんでいる。特会の金の使い方についても国会で議論されるならば国民の監視の下にその公正さが議論されるだろう。だがそれは行われていなくて、使い道に対しては各省庁が自分たちで決めるという。ここに利権が存在する余地が生まれ自らの利益のために恣意的に使い道が選ばれることになる。特別会計には一般会計からも金が回ってくる。それは一般会計の半分以上だ。一般会計で使い道が議論されればまだまともな議論も生まれるだろうが、特別会計に回してしまえば議論はそこで途切れてしまう。また一般会計からは補助金もたくさん支出している。一般会計もまともに議論されるのはほとんどないわけだ。公務員の給料を下げることくらいしかまともな議論はないのかもしれない。そういえば「予算委員会」で予算の内容を議論しているのをきいたことがないような気もする。特別会計には財政投融資からも金が回ってくる。入ってくる金については膨大な金額がそこに回ってくる仕組みができあがっている。これらの特別会計に入ってきた金は、特殊法人や公益法人などの政府系企業にばらまかれ、それがまた循環する仕組みが作られている。国債を保有している特殊法人の数も膨大なものになり、そこでは単に金が回る仕組みだけが作られている。しかしそもそも政府系企業には、まともな市場で淘汰されると言うことがないため、儲けなどなくても金だけが回ってくるので、垂れ流される金をただ食いつぶすだけの企業も多い。これではこの循環がいつかは財政破綻を見せるのは論理的には当たり前だ。このデタラメぶりが改められない仕組みの一つに決算がないと言うことがあって、石井さんが指摘している。不正や無駄は正しい決算によって洗い出されるのだがそれが行われていない。これはまともな決算をすれば不正もあからさまに出てきてしまうので出来ないのだと僕は思う。単なるサボタージュではなく、不正を隠すための仕組みに過ぎない。石井さんの次の指摘を理解して動ける国会議員こそが選ばれなければならない。数字は平成12年当時のものである。「ご承知のように、予算委員会ではもっぱらスキャンダル追求が主で、予算そのものについての具体的な議論は少ない。 これには様々な要因があるが、根本は我が国の財政制度に問題があるのだ。我が国の財政制度は行政権力による“事業”展開の体系として各省庁が所管する「特別会計」を軸に構成される。その中で歳出については大半が「補助金」であり、それは行政権限による配分の形で決められる。 年間予算260兆円のうち「一般予算」として提出されるのは80兆円であり、それも大半は「特別会計」に繰り入れられ各省庁による箇所付けに付されるため、予算は事実上、決して憲法の定めるように国会で決められているとは言えないのである。 国会で決めるのは単に抽象的な「予算」に過ぎない。「予算」支出の中身は省庁(官僚)が与党の指示や族議員の意向などを考慮して決めるのである。 この節で示したような我が国の全体予算の総額については、私が指摘するまで国会で議論されたことすらほとんどないのである。もっぱら予算と言えば「一般会計」で論議されてきた。 しかし、「一般会計」はまさに“大本営発表”以外の何ものでもなく、実際の国の会計とは全く異なるものである。 このような“カモフラージュ(迷彩)”された「一般会計」を重要な予算として示すのは国民に対する欺瞞であるし、これを真に受ける議員も議員である。」
2012.12.24
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選挙で自民党が圧勝した現実を目にすると、石井鉱基さんが予言した「日本が自滅する日」というのが近づいてしまったのを感じる。僕は残りの年数をカウントするような年になってしまったが、何とか自滅をとどめたいとも思う。子供達の世代のために。何とか石井さんのこの優れた仕事を広めたいと思いそこから学んだことを書き記していこうと思う。この本は、副題として「官制経済体制が国民のお金を食い尽くす」と書かれている。石井さんがこれを書いたのは2002年の1月だったのだが、この指摘はまだ国民が共有するものとなっていない。だから、本物の改革ではない自民党が多くの国会議員を輩出するような選挙結果が出たのだと思う。本物の改革を願う民意が大きくなるように、これを深く考えてみたいと思う。「官制経済体制」というのはいったいどのような状況を言うのか。それはフェアな競争によって経済の発展を促す真の意味での「市場」が失われ、官による経済支配を受けたニセの「市場」が、利権というものへの奉仕をする働きを持っている体制だ。その市場には、国民から集められた富が官によって恣意的に垂れ流され、官が持つ利権に利益をもたらすような仕組みを作っている。どれほど民間経済が疲弊して損害が出ようとも、官が利益を得ればその体制は維持発展させられる。だがこのような「官制経済体制」は、経済の枠そのものが広がっていくような時代にしか持続可能ではない。枠が狭まり、発展が無くなってしまえば今ある富をどんどん食いつぶしていくだけであるから、その体制を変えない限りは、いつかは限界が来て破滅(自滅)するというのが石井さんの指摘だ。論理的にはきわめてわかりやすい指摘であるにもかかわらずに、その具体的中身がほとんど知られていないので、これに対する本物の抵抗が大きな民意とはなっていない。「官制経済体制」の基本的構造として石井さんは次のようなものを挙げている。1 中央集権2 官僚制3 計画経済4 閉鎖財政「官制経済体制の下では基本的に経済は権力に従属するため、本来の経済(=市場)は失われる」と石井さんは指摘している。市場が失われた経済は、その富を発展させることは出来ない。しぼんでいって最後は破滅するだけだ。これをやめられない日本は自滅への道をたどることになる。「利権を本質とする官制経済体制を形成する要素」として次の4つも挙げている。1 行政が「公共事業」および「経済振興」を展開する政策2 開発法、振興法、整備法、事業法、政省令、、規制、許認可等からなる法制度3 補助金、特別会計、財政投融資計画で構成される財政制度4 特殊法人、公益法人、許可法人などの官の企業群を擁する行政組織4つの基本構造の下に4つの具体的な要素の動きが加わって、既得権益の利権が維持されるように政治が機能しているのが日本の現状だ。これは強固な結びつきを持っているので、部分的に改革など出来ない。根本的に突き崩さない限り改革は出来ない。そして改革しない限り自滅を防ぐことは出来ない。この構造を改革しない限りは、いくら増税をしても焼け石に水になる。そのほか経済的な政策を試みても根本が変わらなければ、それは利権を維持するだけで、国民生活に利益は還元されない。多くの人が自民党に幻想を持っているかもしれない今、石井さんの指摘を学ぶことは大きな意義があるものだと思われる。石井さんの提言では、「官制経済体制」を支える4つの要素をすべて廃止することを主張している。それは大きな抵抗を生むことだろう。だがそれが唯一破滅への道を変えるものだと思う。そのような方向を取れる真の改革政党を選択できるように石井さんに学びたいと思う。「官制経済体制」の構造と要素、その処方箋について石井さんの本を具体的に読み進めていこうと思う。
2012.12.23
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今度は、「小沢一郎さん控訴審判決要旨 東京高裁・小川正持裁判長 2012年11月12日」を参照しながら、二審判決が「事実誤認」という指摘をどう覆す論理を構築しているかを見てみよう。まずは、「事実誤認」の内容を改めてまとめておこう。「被告人は、本件4億円を借入金として収入計上する必要性や、本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり平成17年分の収支報告書に計上すべきでないことを認識していた」と言うのが控訴趣意書の主張であり、「認識していない可能性がある」としたのは「事実誤認」だと言うのだ。その根拠は、・「被告人は平成16年10月29日にりそな4億円の融資関係書類に自署しており」・「常識的な経済人として、その当日ないし近接した日に融資が実行され、本件土地の売買代金の支払が行われると認識していたのは明らか」であるというものだ。ここでの証明のポイントは、「常識的な経済人」というものが「その当日ないし近接した日に融資が実行され、本件土地の売買代金の支払が行われる」と考えるのが妥当かどうかと言うことの判断に論理的な帰結がかかっている。これが、必ずしも言えないというのが二審判決の結論なのである。「本件土地の取得や取得費の支出が平成17年に先送りされたと認識して」いれば、虚偽記載と不記載については、実際にはそうであっても、そう書くのが間違いだという認識が存在せず、「故意」が証明されないことになる。だから、「故意」を証明して犯罪性の証明をしたい指定弁護士にとっては、この認識があったというのが決定的に重要だ。果たして「常識的な経済人」は、「4億円の融資関係書類に自著」すれば、そこから、それがすぐに行われるものと認識して、先送りになったとは考えないものだろうか?その「可能性」が考えられるのならば指定弁護士の証明は失敗するのであり、「可能性」をすべて否定できれば成功するのである。一審で確認された事実をもう一度並べてみよう。・平成16年10月5日頃 本件売買契約が同月5日に締結されたこと その決済日が同月29日であることを 石川から報告を受けて認識していた。・平成16年10月2O日頃 本件土地公表の先送りの方針 本件土地の取得や取得費の支出を平成16年分の収支報告書に計上せず 平成17年分の収支報告書に計上すること とし、そのために本件売買契約の内容を変更する等の方針について、石川らから報告を受け、これを了承した。平成16年分の収支報告書に本件土地の取得や取得費の支出が計上されないことは、同年10月の時点で、石川から報告を受けて、認識し了承していた。石川は、東洋アレックスとの交渉の結果、決済全体を遅らせることはできず、所有権移転登記手続のみを遅らせるという限度で本件合意書を作成した。所有権の移転時期を遅らせるには至らなかった。(石川は、所有権移転の先送りができたと認識していた旨を原審公判で供述したが、石川は所有権の移転と登記名義の移転とが区別されるものであることを理解したものと認められることなどからすると、上記供述は信用できない。という判断は二審判決では否定されている。)石川について 平成16年分の収支報告書における本件土地の取得及び取得費の支出に係る虚偽記入ないし不記載(本件公訴事実の第1の2及び3)の故意が認められる。(この判断も二審判決では否定されている)本件売買の決済が終了していることを認識するなどしていた池田についても平成17年分の収支報告書における本件土地の取得及び取得費の支出に係る虚偽記入(本件公訴事実の第2の1及び2 )の故意が認められる。(この判断も二審では否定されている)以上の事実を踏まえて、一審判決ではこれを次のように解釈・評価している。・被告人は、秘書寮建築の方針が変更されるのでない限り、本件売買契約締結後の契約の履行過程に関心がないことはあり得る。・本件合意については、陸山会の所有権は保全されており、石川において、陸山会にとってリスクがなく 、自らの裁量で処理できると判断し、被告人に報告せずに作成したと考える余地がある。・石川の立場からみると、本件土地公表の先送りは、所有権移転登記手続を遅らせることができたため、それを口実として、当初の予定どおり実行するつもりであった。・それは、被告人からあらかじめ了解を受けた範囲内の事柄であると考えて、その先送りの交渉が失敗に終わったことを改めて報告しなかったと考える余地がある。・本件土地公表の先送りの交渉に失敗したことなどが石川にとって失態であり、被告人の不興を恐れて報告しなかったと考える余地もある。・虚偽記入による摘発の危険があるが、この点については、石川は、この程度で摘発されることはないだろうと甘く考えて、深刻に受け止めなかった可能性がある。・本件預金担保貸付が実行される前に本件4億円を原資とする資金を流用するなどして本件売買の決済を終えたことは、りそな4億円を本件土地の購入資金等に充てるという石川の被告人に対する説明とは矛盾する内容であるなど、これを被告人に報告すれば、これから融資を受けて転貸するりそな4億円の使途について疑問を呈される可能性があるから、石川が、融資関係書類に署名を得るために被告人に説明したとは必ずしもいえない。・融資関係書類への署名が本件売買の決済に間に合わなかったのも、石川の不手際であり、被告人の不興を恐れて報告しなかったと考える余地がある。・したがって、被告人は、本件売買の決済全体の先送りの交渉が不成功に終わり、本件合意書の限度でしか交渉が成立しておらず、本件土地の所有権の移転を平成17年に遅らせることができなかったことについて、 石川から報告を受けず、これを認識していなかった可能性がある。・ 平成16年10月5日に手付金を支払い、同月29日に残代金を支払うなどして本件売買の決済が終了していることの認識についても被告人は、石川から報告を受けず、これを認識しなかった可能性がある。・以上からすると、被告人は、かえって当初の方針どおり、本件土地の所有権の移転及び残代金等支払等の決済全体が平成17年に先送りされたと認識していた可能性がある。・したがって 本件土地の取得及び取得費の支出を平成16年分の収支報告書に計上する必要があり、平成17年分の収支報告書に同年中の取得及び支出として計上すべきでないことを認識していなかった可能性がある。さて上記のような「可能性」に関する解釈が、「自著した」ことと「常識的な経済人」と言うことから否定されるものになるだろうか?「可能性」が否定されれば、「認識していた」と判断され、「故意」の証明が成り立つことになる。果たして二審判決の判断はどうなっているだろうか。二審判決では、まずは「関係証拠によれば、原判決が前記2(1)(先送りの方針)で認定判示するところは不合理であるとはいえない」という判断をしている。つまり、報告書の記載について、実際にやられたことが正しいという認識を持つような前提の報告を小沢さんが受け、了承しているという事実判断に妥当性があるという評価をしている。この認識がそのままであれば、虚偽記載の認識がないのであるから「故意」は存在しないことになる。この先送りの方針が崩れ、それが間違いだと分かるような認識を持つことが出来たかどうかが、犯罪の証明において重要な争点になるだろう。先送りの方針については結果的にはそれが出来なかったという事実認定がされている。しかしそのことに関する石川さんの認識については二審判決では次のように書かれている。・原判決は、石川は、東洋アレックスとの交渉の結果、決済全体を遅らせることはできず、所有権移転登記手続のみを遅らせるという限度で本件合意書を作成し、所有権の移転時期を遅らせるには至らなかったとする。・原判決は、所有権移転の先送りができたと認識していた旨の石川の原審公判供述は信用できないとする。・関係証拠に照らすと、残代金全額の支払がされ、物件の引渡しがされて、本件土地の所有権移転登記手続に必要な書類の引渡しがされるなどしたことから、平成16年10月29日に本件土地の所有権が移転したとした原判断を不合理とすることはできない。・が、石川の上記原審公判供述は信用できないとする原判断は、経験則等に照らし、不合理というほかはない。二審でも、事実としては「所有権移転登記手続」は先送りされたが「所有権の移転時期」は先送りされなかったと認定している。しかし石川さんの「所有権移転の先送りができたという認識」については一審判決の「信用できない」という判断に対し「経験則等に照らし、不合理」と否定している。事実としては先送りされていないが、石川さんは、先送りできたと認識していた、と言うことがあり得ると判断している。「信用できない」という判断の方こそが「不合理」だと批判されているのだ。この判断からすれば、石川さんにすら、先送りが出来たので、自分が記載した報告書の方がその時点では正しかったという認識があったら、「何かを隠すために意図的に虚偽を書いた」という告発が成り立たなくなる。石川さんにも「犯意」がないことになる。そうであれば「共謀」する対象が無くなってしまうので、「共謀」の前提が無くなり、その告発など論理的に出来るはずがない。石川さんにも「虚偽の認識」つまり先送りが間違っているという認識がなかったという理由については二審判決は次のように判断している。<本件合意書作成の経緯等を見ると、関係証拠によると次の事実が認められる>・石川は、本件売買契約後に先輩秘書からの示唆を受けるなどして本件土地公表の先送りの方針を決め、当初は本件売買契約の決済全体を来年に延ばすようにミブコーボレー・ションに求めた。・しかし 売主の意向が残代金は10月29日に支払ってほしいというものであったことからミブコーポレーションの担当者が、司法書士から聞いていた仮登記を利用して、本登記を延ばすことを提案し、陸山会側がこれを了承し、本件合意書の作成に至った。・その際、所有権の移転時期についての具体的なやり取りがされた様子はない。・そして、前記のとおり、本件合意書の第1条には、残代金の支払時期及び物件の引渡し時期は明記されているが、所有権の移転時期については何ら明記されていない。以上の事実を考慮に入れて石川さんの認識についてみると、・仮に原判決のいうように石川が所有権の移転と登記名義の移転とを区別して理解していたとすると、 本件合意書の作成に当たり、所有権の移転時期ほどうなるのかと聞いたり、 本登記の先送りだけでなく所有権移転時期の先送りも本件合意書に明記してほしいなどという要望をすることになるのではないかと思われる。・石川がそのような行為に出ていないということは石川としては、所有権の移転と登記名義の移転とを区別して認識しておらず、これらを一体のものとして認識していたためではないかとみるのがむしろ自然ともいえる。一審判決では、・本件売買契約書の記載を見れば、所有権の移転と登記名義の移転が異なるものとして扱われていることは専門家でなくても、容易に理解できる。・高額の不動産購入に当たり本件売買契約書の内容を慎重に検討したはずであり、所有権の移転と登記名義の移転とが区別されるものであることを理解していたはずである。だから、本件合意書により本件土地所有権の移転時期の変更などは合意されていないことも認識していたものと認められると書かれている。これは、「所有権移転登記手続」と「所有権の移転時期」との区別が出来ていて、報告書に記述すべきなのもどれかということが正しく認識されていたという指摘になる。従ってミスとして間違えて書いたのではなく、意図的にウソを書いたという虚偽記載だと指摘されたわけだ。だが、この区別が出来ていたなら、二審判決では、
2012.11.23
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「小沢一郎さん控訴審判決要旨 東京高裁・小川正持裁判長 2012年11月12日」を参照しながら、二審判決が控訴趣意書の主張をどのように否定していくかという論理の筋道を考えてみようと思う。一審判決では、「「被告人の故意及び実行犯との共謀について証明が十分ではなく、本件公訴事実について犯罪の証明がない」として、被告人を無罪とした。」と言う結論を出した。石川・池田という元秘書に対しては「故意」を認めたものの、小沢さんに対しては 「本件4億円の簿外処理や本件土地公表の先送りが違法とされる根拠となる具体的事情については、石川らにおいて、被告人に報告してその了承を受けることをせず、被告人が、これらの事情を認識していなかった可能性があり」「本件4億円を借入金として収入計上する必要性や、本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり、平成17年分の収支報告書に同年中のものとして計上すべきでないことを認識していなかった可能性を否定できない」と言う理由から、上記の結論を出している。キーワードは「可能性」である。共謀という告発を受けていた小沢さんは、その犯罪性を直接証明できる証拠がなかったので、「共謀でない」という「可能性」をすべて否定されて初めて「共謀」だという証明になる。従って「可能性」(これは「共謀でないという可能性」)が少しでも見られるなら、それは犯罪の証明にならないのであり、有罪には出来ない、つまり無罪だという判断になるのである。これは疑いがあるのに証明できないから無罪になったというのではない。疑いが真実であるという証明が出来なかったのであるから、それは単に疑いに過ぎなかったと言うことなのである。疑いに過ぎないことで人が裁けるはずがない。疑いに過ぎないと言うことは、それが不当な告発であり、えん罪である可能性が高いと言うことなのである。さて、控訴趣意書では無罪判決に対して二つの反論を試みている。それは1 「被告人は、本件4億円を借入金として収入計上する必要性や、本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり平成17年分の収支報告書に計上すべきでないことを認識していた」と「事実誤認」を指摘している。(この「認識していた」という判断を二審判決は退けている。つまり「事実誤認」はないという判断だ。)2 「原審の審理過程において、被告人及び弁護人は一切主張しておらず、争点になっていなかった」ことがら、すなわち上記の「可能性」において論じられていた「被告人が本件売買契約の決済全体が平成17年に先送りされたと認識していた可能性があること、及び、被告人が、本件定期預金は本件4億円を原資として設定され被告人のために確保されるものなので、本件4億円を借入金として収入計上する必要がないと認識していた可能性があること」が議論されているのは、争点化が図られておらず「審理不尽」だと指摘している。(これに対しても二審判決は一蹴するような判断をして否定している。)この二つの反論に対する否定がいかに合理性を持っているかを考えていきたいと思う。まずは2の方は簡単に片付けているのでそれを見ていきたい。二審判決は「原審に審理不尽があったとする所論に理由がないことは明らかといえる」と書いている。これを見ると、数学を勉強し始めた頃、参考書の証明の欄を見ると「明らか」と書いてあったのを思い出す。論理関係が分かっている人間にとっては、説明するまでもなく「明らか」だと分かるのでそう書くのだが、論理関係が分かっていない人間にはどこが「明らか」なのかさっぱり分からない。だから「明らか」だと思えるように、その論理関係に注目してこの言葉の意味を考えてみよう。控訴趣意書の「審理不尽」という指摘に対しては「所論指摘の点は、原判決が、指定弁護士が証明責任を負うべき、被告人の本件土地の取得、及び取得費等支出時期の認識、並びに本件4億円の収入計上の必要性の認識につき、これを認めることができないとする理由の中で、そのような可能性があると述べるものにすぎない。そして、公判前整理手続の結果、「被告人の本件に関する認識の有無及び秘書との共謀の有無」が争点の一つとして明確になっていたことをに鑑みると」と言うことを理由に、その指摘は間違っていると言うことが明らかに分かると述べている。なぜ明らかなのか。それは一審判決が問題にしたのが、「可能性」の問題であって、事実の証明ではないからだ。一審判決が、もしも次のような事実・「被告人が本件売買契約の決済全体が平成17年に先送りされたと認識していた」・「本件定期預金は本件4億円を原資として設定され被告人のために確保されるものなので、本件4億円を借入金として収入計上する必要がないと認識していた」を前提にしていたとすると、これは事実の認定を巡って争う、つまり争点にしなければならないという判断が働く。しかしこれは「可能性」を語るところで出てきたものなのだ。「可能性」であれば論理の問題であり、事実として争点にする必要はない。事実として争わなければならないのは・「被告人は、本件4億円を借入金として収入計上する必要性」を認識していた。・「本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきである」と認識していた・「平成17年分の収支報告書に計上すべきでないこと」を認識していたと言う3点の認識だ。そしてこの認識の存在を証明するのは指定弁護士がやるべき事なのである。「可能性」の証明は、小沢弁護団がすべきことではないし、ましてや裁判官がやることでもない。「可能性」はそれがあると論理的に考えられると指摘するだけでいいのだ。そしてその「可能性」を指摘されたなら、指定弁護士はそれを否定するべく証明しなければならないという論理関係にある。上記の違法の根拠となる認識はそれぞれ直接証明することが出来ない。そもそも人間の頭の中にある認識の存在を直接証明することは出来ない。だからこそその認識がなかった「可能性」はすべて否定されなければならないのだ。その「可能性」が一点でもあれば、それによって有罪の判断は崩れる。有罪とは言えなくなるので無罪なのだ。「可能性」を争点にして論じるのは、無罪のための必要条件ではないのだ。「可能性」を指摘するだけで無罪を言い渡すには十分なのである。このような理由から、論理関係が分かっていれば、「審理不尽」だという指摘が正しくないのは「明らか」だろうというのが二審判決の説明なのである。実に明快で合理的な論理だ。「事実誤認」の否定の方はもう少し複雑で難しい論理になる。これは改めて考えてみようと思う。
2012.11.23
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小沢さんの裁判は、犯罪ではないものの犯罪性を証明するという無理を犯しているので、その証明は重箱の隅をつつくような些細なものを犯罪と結びつけている。従ってどのような事実を認定して、その事実からどのような解釈で犯罪性を導いているかと言うことが非常にわかりにくい。事実解釈が犯罪に結びつかないと言うことがどう合理的に説明されているかを見ていきたい。それが合理的な判断だからこそ、論理的な帰結として「犯罪の証明が弱い」というものが出てきて、証明できないのだから「有罪ではない」つまり「無罪だ」という結論が出てくる。「小沢一郎さん控訴審判決要旨 東京高裁・小川正持裁判長 2012年11月12日」から引用をしながら考えてみようと思う。まずは石川さんの行動を時系列的に拾い出してみようと思う。・平成16年10月5日 株式会社ミブコーポレーションの仲介により、東洋アレックス株式会社との間で売買契約書を作成 買主を「陸山会代表小沢一郎 残代金支払日を同月29日に予定 本件土地を総額3億4264万円で購入 東洋アレックスに手付金等合計1008万円を支払い ミブコーポレーションに仲介手数料500万円を支払った・平成16年10月12日 本件土地の購入資金等として現金4億円(本件4億円)を小沢さんから受け取る。 本件4億円を赤坂事務所の金庫に一且保管した後、3億8492万円を陸山会代表小沢一郎名義のりそな銀行衆議院支店の預金口座 (本件ロ座)等の口座に分散して入金した・平成16年10月29日 午前10時16分頃から28分頃にかけ、東洋アレックスに対し、本件ロ座から3億1998万4980円を振込送金し、1265万5020円をりそな銀行衆議院支店発行の小切手で支払った。 これと引換えに、本件土地の所有権移転登記手続に必要な一切の書類を受け取った。 この際、東洋アレックスと陸山会との間で 、「不動産引渡し完了確認書」が作成された。 同じ頃 陸山会から、ミブコーポレーションに仲介手数料残金399万4300円を支払い 司法書士に仮登記費用等90万2488円を支払った。 本件土地について、被告人を権利者として 、同月5日売買予約を原因とする所有権移転請求権仮登記手続がされた。 午後1時5分頃、本件口座から、4億円をりそな銀行衆議院支店の陸山会名義の定期預金口座に振り替えた(本件定期預金)。 小沢氏を借主として、手形貸付により、同銀行から、本件定期預金を担保とし、弁済期を平成17年10月31日として4億円を借り入れる旨の契約を締結した(本件預金担保貸付)。 同銀行から、天引利息等463万7686円を差し引いた3億9536万2314円が被告人名義のロ座に振り込まれた。 午後1時33分項、同ロ座から4億円を本件口座に振込送金した(りそな4億円 )。 本件預金担保貸付の際、小沢氏は、石川が持参した融資関係書類に自ら署名した。 同銀行との交渉や融資、関係書類の授受等の手続は、全て石川が行った・平成17年1月7日 本件土地について、被告人を所有者として、同日売買を原因とする所有権移転登記手続がされた。・平成17年1月14日 陸山会から、司法書士に本登記費用等89万4613円が支払われた。 ・虚偽記載の指摘 平成16年分の収支報告書には、「小澤一郎Jを借入先とする4億円の借入金の記載 (なお、備考欄に「平成16年10月29日」と付記されている。)があるが、これはりそな4億円であり、本件4億円の借入金は記載されていない。・不記載の指摘 本件土地の取得費等として支出した金額や資産等としての本件土地は、平成16年分の収支報告書には記載されていない。・虚偽記載の指摘 本件土地の取得費等として支出した金額や資産等としての本件土地は、平成17年分の収支報告書に記載されている (なお、本件土地の取得年月日は平成17年1月7日と記載されている。)ここに述べられている事実からすぐに犯罪性を引き出すことは出来ない。虚偽あるいは不記載の指摘にしても、本来書かれるべきところに書かれていないという誤謬の指摘に過ぎない。その誤謬がなぜ犯罪となるのか?それは「意図的に虚偽あるいは不記載をしようとした」という「故意」が証明され、それが「犯意」となるという証明がされて始めて犯罪の指摘が出来る。この「故意」を証明するのは、犯罪を告発する側であり指定弁護士がなすべき事だ。一審判決では、元秘書に関しては故意を認めたものの、小沢さんに対しては故意の証明が出来なかったという判断をしている。証明が弱いと言うことだ。だからこそ一審では無罪が言い渡された。この控訴審における二審判決は、一審で元秘書に故意を認めた判断に対しても、証明としては弱いものであり、故意と断定できるレベルの証明がなされていないと指摘している。この判断の妥当性・合理性というものを考えてみたい。人間の行動の結果を、単なる誤謬としてとらえるのではなく、意図的なウソ・虚偽であると判断するには、そのような意図を持つことの合理性を証明しなければならない。なぜ意図を持つかという理由が述べられなければならない。だからこそこの事件でのスタートに「違法献金」というような疑いがもたれたのだ。そのような意図を持つ理由が無くなってしまえば、誤謬なのか意図的なウソなのかの判断は限りなく難しくなる。どうとでも解釈できるものになる。そのようなときは、他に解釈の余地がないくらいに強い証明が必要になる。意図があると必ずしも言えないという事実では、つまり他の可能性が認められるという解釈では、その犯罪性の証明にはならないのだ。二審判決はそのような判断をしている。それはきわめて合理的なものだと僕は思う。具体的に考察していこうと思う。
2012.11.21
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二審判決の要旨については、http://k1fighter2.web.fc2.com/Enzai/OzawaSaiban/kosoKikyaku121112.htm「小沢一郎さん控訴審判決要旨 東京高裁・小川正持裁判長 2012年11月12日」と言うページに書かれているものが見やすくて、読むのに便利だ。判決文そのものは法律的な文章なので非常に読みにくい。どの言葉がどこにかかるのかを、文法的な知識をもとに読解しなければ全く訳の分からない文章に見えてしまう。それを考察するのに役に立つような工夫がこのページではなされているので、判決に関心のある人はこれを読んで考えるといいだろうと思う。僕は論理的側面としての合理性に関心があるので、ここに書かれていることが合理的であるという面を引き出せるような読み方をしてみようと思う。陸山会事件の全容を論理的に考察すれば、これが全く犯罪とは呼べないような事実を無理矢理犯罪に結びつけたためにデタラメなものになったと言うことが分かる。まず確認したいのは、原判決(一審判決)に何が書かれていたかだがそれは指定弁護士の控訴趣意書にも次のように記されている。<事実認定>原判決は 陸山会の平成 16年分及び平成17年分の収支報告書に本件公訴事実どおりの虚偽記入及び記載すべき事項の不記載があることを指摘している。 石川知裕に故意が認められる部分 ・平成16年分の収支報告書における本件4億円の収入並びに本件土地の取得及び取得費の支出に係る虚偽記入・不記載 池田光智に故意が認められる部分 ・平成17年分の収支報告書における本件土地の取得及び取得費の支出こ係る虚偽記入 被告人(小沢一郎)に関する事実の部分 ・石川らから本件4億円を簿外処理すること ・本件土地の取得及び取得費の支出を平成16年分の収支報告書に記載せず ・平成17年分の収支報告書に記載すること以上の3点にについて報告を受けこれを了承した、しかし次のこと ・本件4億円の簿外処理や本件土地公表の先送りが違法とされる根拠となる具体的事情については、石川らにおいて、被告人に報告してその了承を受けることをしなかった。「違法とされる根拠となる具体的事情」を小沢さんは知らなかった。<事実に対する解釈> 虚偽性の認識に関する可能性の指摘 ・本件4億円の簿外処理や本件土地公表の先送りが違法とされる根拠となる具体的事情を認識していなかった可能性があり ・本件4億円を借入金として収入計上する必要性 ・本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり ・平成17年分の収支報告書に同年中のものとして計上すべきでないことの3点を認識していなかった可能性を否定できないこの解釈をもとに「被告人(小沢一郎)を無罪とした」。控訴趣意書では、この「無罪」という判決に異議を唱えてそれに反論している。その論拠は次のようなものだ。被告人(小沢一郎)の認識 ・本件4億円を借入金として収入計上する必要性 ・本件土地の取得等を平成16年分の収支報告書に計上すべきであり ・平成17年分の収支報告書に計上すべきでないことの3点を認識していたから、原判決は本件4億円の簿外処理及び本件土地公表の先送りに係る被告人の故意及び石川らとの共謀が認められないとする点において事実誤認をしており、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであって、原判決は破棄されなければならない、と主張している。控訴趣意書では、「3点を認識していた」とそれが事実であるかのように断定しているがその証明は書かれていない。出来ていないのではないか。一審判決では「認識していなかった可能性を否定できない」と指摘されている。一方は「認識していた」と断定し、もう一方は「認識していなかった可能性を否定できない」と「可能性」について言及している。この違いをどう理解すればいいか?この指定弁護士の主張は、後に判決によって否定されるのだが、これは論理的に言えば、指定弁護士の証明というのは、可能性をすべて否定しなければならないからだと考えられる。可能性が一つでも残れば、それは「認識していた」と断定は出来ないのだ。判決は事実を吟味して、小沢さんに虚偽性の認識がなかった可能性を指摘している。これはその可能性を否定しなければ、虚偽性を認識していたという指摘が成立しないからだ。これは、虚偽性の認識を直接証明する証拠がないからだ。直接証明できないので、間接的に証明するしかない。つまりすべての可能性を否定することによって、直接証明できないことを証明することが出来るという、論理での場合分けの考え方がここにはある。二審判決が、一審の判断が妥当であると判断し、指定弁護士の主張を退けているのは、可能性をすべて否定するという点での証明が弱いという指摘からだ。疑いだけでは有罪には出来ないというごく当たり前の判断がここで話されているのを感じる。だからこそ判決の方に合理性があると感じる。控訴趣意書のもう一つの主張の「審理不尽」についても判決では一蹴されている。この論理も明快だ。指定弁護士の主張は次のようなものだ。原判決が被告人の故意及び石川らとの共謀が認められない根拠として認定したことすなわち、 ・被告人が本件売買契約の決済全体が平成17年に先送りされたと認識していた可能性があること ・被告人が、本件定期預金は本件4億円を原資として設定され被告人のために確保されるものなので、本件4億円を借入金として収入計上する必要がないと認識していた可能性があることの2点については、原審の審理過程において、被告人及び弁護人は一切主張しておらず、争点になっていなかった、だから原審裁判所がこの点を争点と考えていたのであれば、当事者に確認して争点化を図るか、自ら被告人に質問しその真偽を確認すべきであったが、原審裁判所はそれをしなかった。これが「審理不尽」だという主張だ。争点化して審理すべきだという考えだ。判決は、この指摘に対して、可能性の話は指定弁護士の証明が弱いために出てきた話であり、その可能性を積極的に証明すべきという流れの中で出てきたものではないと反論している。つまり、指定弁護士は、その可能性を否定しなければ自らの主張の証明は出来ないのであって、むしろ可能性を否定すべき責任は指定弁護士の方にある。被告人および弁護人がそれを争点化する必要はないのだ。判決はそれを指摘しているだけなのである。審理が足りないのではなく、証明が足りないのだ。後の文章を読んでいくと、指定弁護士が一審で指摘されたような証明の弱さを二審で強めたのではなく、事実は、むしろ一審が認めたものでさえもその論理的正当性が弱いと言うことを指摘している。それが郷原さんが指摘するもので、小沢さんの虚偽認識という「犯意」だけではなく、石川元秘書の虚偽認識の方も証明が弱いという指摘をしている。この二審判決は、控訴を退けたと言うだけではなく、一審の誤りも指摘して、この起訴自体が非論理的なデタラメであることを指摘している。後は、細かい点においてどのように事実を解釈していっているかというような合理性についても注目して考察していこうと思う。
2012.11.17
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小沢裁判二審判決については、郷原信郎さんの「陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応」http://nobuogohara.wordpress.com/2012/11/14/%E9%99%B8%E5%B1%B1%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E6%A7%8B%E5%9B%B3%E8%87%AA%E4%BD%93%E3%82%92%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%9F%E6%8E%A7%E8%A8%B4%E5%AF%A9%E5%88%A4%E6%B1%BA%E3%81%A8%E3%83%9E/と言うブログエントリーを読むと、この裁判のデタラメさがよく分かる。特に、様々な事実が明らかになった今となっては、事実がそのデタラメさを指摘すると言うことになり、検察側の主張の論理的おかしさがよく分かる。郷原さんは、「この事件の捜査の段階で、検察は、4億円の借入れと定期預金の担保設定は、水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作として行われたとの構図を描き、マスコミも、その偽装・隠蔽を「水谷建設からの裏献金疑惑」に結び付け、それこそが事件の核心であるかのように報道した。」と書いているが、この裏献金は全く事実ではなかった。この件に関しては検察の側はまったく立証できなかったのだ。だが、マスコミのデタラメ報道で多くの人がこれを事実だと受け取り、裁判そのもののデタラメさが見えなくなっていた。今回明らかにされたのは、「政治資金収支報告書への虚偽記入についての小沢氏の故意を否定しただけでなく、更に踏み込んだ事実認定を行い、重要な事項について、実行行為者である秘書の石川知裕氏及び池田光智氏について虚偽記入の故意がなかったと認定した。そして、それ以上に重要なことは、りそな銀行からの4億円の銀行借入れと定期預金の担保設定に関する指定弁護士や検察の主張の根幹部分を正面から否定する認定をしたことだ。」ということだ。郷原さんの言葉では「犯意が否定された」というようにも語っていた。犯意が否定されたと言うことは、その行為の結果として何かの間違いがあっても、それは犯罪とは認定できないと言うことだ。この裁判は、元々犯罪でも何でもないものを犯罪のようにでっち上げたデタラメなものであったことが、事実によって認定されそれが判決となったと言うことなのだ。郷原さんは、このエントリーの最後で「今回の事件では、検察の暴走捜査、マスコミによる小沢バッシング、検察審査会の「民意」などによって、世の中に「小沢悪玉論」が蔓延する中で、一審、二審とも法と証拠に基づく冷静で客観的な判断が行われ、裁判所の司法判断の公正さが示されたことに敬意を表したい。」と語っている。僕も全くその通りだと思う。最も厳しい論理性が要求される裁判所で真っ当な論理が語られたと言うことに、日本がまだ終わっていないという希望を見ることが出来る。この裁判において、裁判所がデタラメな論理を追認するようなことがあれば、本当に日本は終わるところだった。郷原さんは裁判所の謀略については否定している。これは今回の判決でその通りだと思ったが、政治的な謀略は働いており、それによって小沢裁判が仕組まれたというのは確かなことのようにも見える。それはジャーナリズムに解明してほしいと思う。我々一般市民は、事実が明らかになった後にこの全貌を知って理解することが出来るが、事実が隠蔽されていたときに、そこに疑いを持つ健全な目を持つにはどうすればよいかも考えたい。事実がどちらか分からないときも、一方の事実があまりにも不合理であれば、そこに隠蔽があることを予想して疑ってかかるという姿勢が必要だ。検察の論理は、陸山会事件においてなぜデタラメに見えるのか。それが分かれば、今後同じような無理筋の動きが見えたときに健全な懐疑を持つことが出来るだろう。それは検察が最初に提出した論理が、スタートでは健全さを持っていたにもかかわらず、ある時点から全く合理性を欠いてしまったことに気づくところから見えてくる。スタートのきっかけは「水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作」という疑いだ。この疑いが立証され、本当に裏献金があったなら、その犯罪性は明らかなのであるから、これさえ立証できれば検察の論理に間違いはない。だがこれが立証できなかったことから検察の論理が泥沼にはまり込むことになる。まともな論理で考えれば、犯罪につながる事実が立証できなかったのだから、それは犯罪ではないと結論づけるべきなのだが、陸山会事件を「政治と金」の問題に絡めてしまい、犯罪を隠しているのだという前提から動いたことが躓きの一歩だったように感じる。犯罪を隠しているという前提を持つところから、単なるミスにしか過ぎないものを「虚偽」だという偏見で見るようになると言う倒錯した論理が生まれてくる。「虚偽」の前提は、何か隠すべきものとしての犯罪性がなければならない。つまり裏献金が前提となって「虚偽」が成立するはずなのだが、裏献金はどこかへ消えているのに「虚偽」だけが重箱の隅をつつくように追求されたのだ。「虚偽記載」は単なる入り口に過ぎない。そこから本丸である裏献金へ入るための入り口なのだ。だから裏献金が立証されれば、虚偽記載は末梢的なものになる。裏献金でこそ犯罪の告発をしなければならないはずだ。だが裏献金では告発が出来なかった。裏献金があったなら、それが告発できなければならないはずなのに、それが出来ないのに、末梢的な「虚偽記載」で告発してしまった。この論理の間違いは、紙切れを1万円札に変える手品の論理と似ている。この手品がインチキではなくて本当なら、わざわざ手品を見せて金を稼ぐ必要はない。紙切れを1万円札に変えて生活すればいいのだ。それを見せて金を取るという行為の中に、本当は紙切れは1万円にならないという事実が隠れている。だが、このインチキが事実だという前提で論理を組み立てると、実際に紙切れが1万円にならなかったときに、本当のやり方を教えてくれなかったから1万円にならなかったという倒錯した論理が生まれる。だから本当のやり方を教えてもらおうという論理だ。裏献金が立証できなかったのだから、それはなかったと結論づけるべきだったのに、うまく隠されたのでその隠れたものがどこかに現れてくるはずだから、「虚偽記載」というものを見つけて追求しようという論理が生まれる。ないものをあったと思い込めば、単なるミスであったものを、意図的な虚偽だと証明するための証拠を集めようと思うだろう。しかし、意図的な虚偽をするには、「何のために」という目的が必要だ。目的である裏献金の隠蔽が無くなってしまったのに、どうして虚偽性を証明するのだろうか。この倒錯した論理が間違いを肥大させ小沢さんに対するえん罪を生み出したと見るのが論理的に納得できる。倒錯した論理を見つけることが出来れば、事実が明らかにされていないときにもそれに疑いの目を向けることが出来るのではないか。
2012.11.15
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内藤朝雄さんの『いじめ加害者を厳罰にせよ』の第2章「いじめ発生のメカニズム」から印象的な文章を引用して詳しく考えてみようと思う。それは、僕が以前から感じていたことなのだが、うまく表現することが出来ないでいたことだ。それを見事に的確に表現してくれる内藤さんの指摘は大いなる共感を感じる。だがその指摘は、やはり常識からはかけ離れているとも感じるので、すぐには受け入れられない人も多いのではないかと思う。どこが共感するところなのかを、客観的に語れるかどうか、論理的な合理性を説明できるかどうかを考えてみようと思う。まずは次の文章だ。1「生徒たちにとって「仲良し」でいられないことは、「世界が壊れてしまう」くらいに恐ろしい危機なのだ。」この文章の前に内藤さんは、自分をいじめるような人間たちとは関係を絶って相手にしなければいいのではないかと言うことを語る。それが「市民社会モード」の人が考える普通の思考だ。だが「学校モード」の中にいる子供たちは、そのようないじめ加害者から離れるどころか、仲良くしなければいけないという強迫観念から「いったい自分の何が悪かったのだろうか」と深刻に悩み、「ごめんなさい。私の性格を直すから、どうかまた友達として仲間に入れてください」と懇願するようになると言う。この倒錯した感情が生まれるのが「学校モード」というものだ。この倒錯した感情は、市民社会では許されない犯罪的なものも良心の痛みなく乗り越えてしまう怪物を生む。学校が子供に与えるプレッシャーがこれほどひどいものであるという認識を大人たちは持たなければならない。学校生活の「仲良しの強制」は子供にとっては強制収容所と同じように地獄の様相を見せるのだ。僕は自分自身の学校生活では、これほどひどい「仲良しの強制」は受けなかった。だから実感としては地獄の学校生活は味わっていない。どうしてそれが想像できるかというと、それは主体性を失うことの恐怖を感じる心を持っているからだ。僕にとって何が一番怖いかと言えば、自分が正当だと思ったことを主張できずに、間違っているとしか思えないことに従って生きるように強制されることだ。自分の主体性を失うことが一番怖い。僕が論理にこだわるのも、不当な強制に抵抗する最後の手段が論理ではないかと思うからだ。感情的な反発でそれをはねのけることが出来るものは、その強制の度合いは小さいものだ。感情を押し殺して従わなければならないと思い込むような強制は、抵抗するには論理的正当性を糧とするしかないのではないかと思っている。誰とでも仲良くすることが神聖なる前提になっているような世界は確実に主体性を殺す。その恐ろしさを僕も感じるので、内藤さんのこの指摘が正しいことを直感する。そして現実のいじめのひどさがこの指摘の正しさを証明しているのではないかと感じる。「みんな仲良し」のプレッシャーは、結果的に起こってくるものだが、それを生み出す環境を内藤さんは次のように指摘する。2「ところが、「ベタベタ集団生活」を強制する学校という場は、生徒たちがそれぞれに対人距離の調節の自由な試行錯誤をすることを許さず、その機会を奪う。好きな人に近づき、苦手な人から離れるというごく自然なことを禁じられ、四六時中ベタベタと密着して「仲良く」過ごすことを強いられる。 本来は「苦手な人の距離」に置かれるはずの苦手な人が、「好きな人の距離」に無理矢理いる、と言う状況は生徒たちの心理システムをバラバラにしてしまう。そして、いったい自分が何を愛し、何を憎み、何を幸福と感じ、何を苦手と感じるか……と言ったことを見失ってしまうのである。」この指摘で重要なのは、主体的な判断というものが失われ、自分の素直な感情を否定して、神聖なる前提(みんな仲良しでなければならない)の方こそが正しいという倒錯した感覚を受け入れなければならなくなると言うことだ。あとの方で、この状況を内藤さんは全体主義と呼ぶのだが、自分を失うこのメカニズムは、安冨歩さんが語る「ハラスメント」という概念にも似ている。「ハラスメント」も、試行錯誤による学習が出来なくなり、自分の判断に全く信頼が置けなくなる状況を生む。そこでは確固たる法則性を打ち立てることが出来なくなり、その場で権力を持っている人間の恣意的判断に従うしかなくなる。その判断は恣意的であるから、自分では判断できなくなり、結果的に言いなりになる。「ハラスメント」は個人的な関係で起こることが多く、「ハラスメント」を仕掛ける人間に特徴がある。だからその人間を避けることが出来ればある程度防げる。しかし、学校という場に「ハラスメント」性があると、その場から逃げられなかったときは「ハラスメント」の影響を受け、自分を喪失した人間になってしまう。学校がこのような全体主義的な場になっているのに、それが変えられないのは、「子供はしつけられなければならない存在」だと人々が考えているせいではないだろうか。その基本的な考えが間違っているのではないかと思う。安冨歩さんは、すべてのしつけは「ハラスメント」だと喝破した。この命題の正しさを、内藤さんのいじめ理論を読むともっと強く感じるようになった。しつけを否定することは多くの人の常識に反するだろう。だがそれを否定して主体性を取り戻さない限り、学校の狂いを直すことが出来ないのではないか。学校に自由と主体性を取り戻さなければ、学校の全体主義は改善できない。そう強く思う。しつけのために便利で有効な制度が、すべて学校の全体主義を強めることにも役立っている。
2012.10.22
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「みんな仲良し教育」が全体主義になるのは、それが強制されるからだ。結果的にみんなが仲良しになるなら、これは教育としてはほめられる成果になる。だが、実際には仲良しでもないのに、形だけ仲良しでいることを強制すれば、それは「仲良し」という目的を外れて、全体主義を生み出すという結果につながる。馬が合う・合わないという事は人間関係の中では常にあり得る平凡なものだ。これは努力によって克服できるものではなく、軋轢を生まないようにするには、馬の合わない人間とは距離をとってつきあうという選択が正しい。これが「市民社会モード」だ。馬が合わない人間とも強制的につきあわされるのは、何らかの利害関係が仕事の上で生じたというやむを得ない場合だけであり、市民社会の中ではそのような無理をする必要はない。市民社会モードの中では、人間は、この人とは馬が合うかどうかを自分で判断して、馬が合わなければ距離をとり、その判断が変わればまた距離を近くするというような修正をして人とつきあう。その判断を自分で行うことによって経験を積み、判断が進歩して正しいものへともなっていく。普通に思考をし、自分の判断に従っていれば人間は賢くなる。だが、自分の感覚に反した判断を受け入れなければならないときは、人間は賢くなるのではなくだんだんと馬鹿になる。思考停止になっていく。この人間とは馬が合わないと感じても、その感じ方のほうが間違っていると教えてくるのが「みんな仲良し教育」だ。このメカニズムは、安冨歩さんが指摘していた「ハラスメント」の作用に似ている。安冨さんが指摘した「ハラスメント」は、自分の判断に自信をなくさせて、相手の判断をすべて受け入れてそれにゆだねてしまう状態を作るものだった。それは判断を混乱させることで作り出される。普通、人間は同じ出来事に対しては同じ判断をしてその中に法則性を認識していく。だが、同じ出来事に対して恣意的に肯定と否定を繰り返されると、人間は思考が混乱して判断能力をなくしていく。あることをしてしまったために叱責された子供が、次にはそれをやらないように注意していたら、今度はやらないことを叱責されたら、そのことをやっていいのかやらない方がいいのか、子供には分からなくなる。このような判断の混乱の経験を続けていくと、子供は自分の判断をせずに、判断を指示してくれる人間の言うことに従う。一種のマインドコントロールが完成する。このような子供は、何か悪い結果が起きたとき、それは自分が悪かったから起こったのだと反応するようになる。合理的に理解して何が悪いかを考えられなくなる。この状態が「ハラスメント」というものだ。「みんな仲良し教育」では、仲良しに水を差すような浮いた存在の子供が、その原則を乱した悪いやつとして糾弾される。実は、「みんな仲良し」という状況の方が間違っているのかもしれないのに、和を乱したと言うことで自分を責めるような人間ができあがる。これが全体主義的雰囲気を生む要因となる。自分の判断を信用せず、仮説実験によって、客観的真理を判断するのではなく、単に仲良しという雰囲気を壊したと言うことが大変な落ち度として評価される。板倉聖宣さんが、「民主主義と禁酒法」「生類憐れみの令」という授業所を作ったとき、社会の法則として提出したのは、「道徳を法律化すると、その目的とは反対の結果を導く」というものだった。禁酒というのは、飲酒の害を取り除くための道徳だ。生き物を大事にすると言うのも道徳としては尊いものだ。だが、道徳として正しいものを、法律によって罰則を与えるようなものとして強制すると、人々は違反を恐れてそのようなものから目を背けるようになる。酒や生き物との関わりを出来るだけ持たないようにする。禁酒の意識や動物愛護の道徳心は消えていき、それを社会に打ち立てようとした目的は失われる。禁酒法の弊害は、ギャングによる密造酒の増加に現れ、生類憐れみの令では誰もが動物を避けるようになると言うことで現れた。本来は、道徳というのは自主的にそれを守るから価値があるのであって、強制される道徳はむしろ心を荒廃させる。「仲良し」という道徳も、努力の結果として仲良しになるなら価値があるが、仲良しでなければならないという強制をすれば、その目的と反対の結果が現れる。子供達の間にひどい憎しみの感情を生み出す。本当の仲良しの相手がいなくなる。いじめられる子供は、何らかの意味でこの「学校モード」の秩序を乱すので、他の子供達から憎まれ、いじめられても同情を呼ばなくなる。また、そこに生まれた全体主義は、頂点に立つ子供に全能感を与える。もしその子供がその全能感を阻害されるような感情を抱くと、秩序維持のためにますます激しいいじめ(攻撃)をする可能性も出てくる。内藤さんは、全能感を確認するためにいじめがエスカレートしていくとも指摘していた。全体主義の中心にいる人間の判断は恣意的なものであり、合理性はない。だから外から見ればとんでもないことだと思われることが学校では平気で行われる。その全体主義を育てるのは、構造的に見ればやはり「みんな仲良し教育」であり、学級制度という枠に入れて強制的にベタベタした関係を強いるものだという指摘は頷ける。宗教がしばしばカルトと呼ばれる異常な状態になりかねないのは、それが道徳性を語るものであるにもかかわらず、人格や全生活を支配するものとして作用してしまい、自主性を失って全体主義に陥るからではないか。自主性・主体性を失わずに共同生活をするという難しい課題を克服しない限り、全体主義の危険から逃れられないのではないかとも感じる。まずは学校から全体主義を取り除ければ、人間は大きな進歩をするのではないかと思う。
2012.10.21
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内藤朝雄さんは、『いじめ加害者を厳罰にせよ』で様々ないじめの事実を報告している。それはひどいもので、普通の思考をする人間なら許されるものではないと考えるだろう。次のようなものだ。・頻繁にズボンを降ろされる・顔に落書きされる・口に蜂を押し込められそうになった・トイレなどで殴られる・葬式ごっこ・自殺の練習と言って首を絞める・たばこの火を20カ所以上も押しつけられる・女子生徒の衣服をはぎ取り、その様子を携帯電話のカメラで撮影した・重傷を負うまでひどい暴力をふるう・常識外れとも思えるような多額な金品を脅し取る・万引きなどを強要するこのようないじめに対して、たいていは学校は隠蔽するような姿勢を見せ、いじめ加害者達は反省するどころかそれをおもしろがって遊ぶような不謹慎な姿を見せることもしばしばだ。何故学校はこのようなひどいことになるか、と言うことを合理的に理解するにはどうすればいいのか。最も単純な理解は、隠蔽する教師達は人間としてひどいのであると理解したり、いじめをする子供達が元々そのような悪い子供達なのだと理解することだ。「悪い人間が悪いことをする」と理解すればそれは合理的だ。トートロジーになっているからだ。しかし、トートロジー的な理解というのは、実は何も理解していないことと同じだ。トートロジーは論理的には正しいが、それは形式論理的なものであり、内容はゼロだからだ。トートロジー的な理解ではなく、内容を伴った本当の理解はどうすればいいだろうか。それが内藤さんが提出する「学校モード」と「市民社会モード」という観点ではないかと思う。この視点を持つことによって、何故学校においてひどいいじめが行われているのかと言うことの合理性が理解できる。合理性の理解というのは、それが正しいと言うことではない。原因と結果を結ぶ因果関係が理解できると言うことであって、原因を絶つことが出来ればいじめという結果を消滅させることが出来ると言うことでもある。「市民社会モード」という概念はわかりやすい。市民社会では、法律を基礎にした厳格なルールがあり、それに違反した人間は処罰されるという秩序がある。つまり違法行為は告発され、それが抑止されると言うことを誰もが理解していることを前提とするのが「市民社会モード」である。驚くことに「学校モード」というのは、この「市民社会モード」の前提がすべて否定され無法地帯になると言うことだと内藤さんは指摘する。学校は基本的に無法地帯だというのが内藤さんの主張だ。これは学校に痛めつけられた人間には直感的にすぐ分かるのだが、そうでない人間は記憶の外に忘れ去っている。だから合理的に理解するには苦労するだろう。「学校モード」という無法状態の中で、子供達はいじめを楽しみ何の反省もなく被害者が死んでも悲しみの感情がわいてこないという「怪物」になる。「学校モード」が理解できると、いじめのひどさもそこから導かれて合理的な理解が出来る。「なんとひどいことを」という感情的反応ではなく、そのひどさを生み出している原因へと考えを進める合理性を持つことが出来る。合理性が理解できないと、感情的反応しかできなくなり、いじめ加害者に対する憎しみが生まれて「吊せ!」というような反応になる。そうならないために、合理的な理解を図り原因へと考えを進めて行かなければならない。その原因となるものを内藤さんは「全体主義」と呼んでいる。「全体主義」は、戦時中の日本社会の様子を知ると想像が出来る。ある絶対的な観念が人々を支配していて、それに誰も逆らえない。それを合理的に考えることすら禁止されている。どんなにおかしいと思うことでも従わされる。そのような圧力を与えるのが全体主義だ。戦時中の日本では、近くの人への愛よりも、国のために死ぬことが価値があるとされた。それを疑う人はいなかった。国のために奉仕するのではなく、死ぬことこそが尊いという考えが埋め込まれた。現実的な出来事は、様々な条件により結論が違ってくるのに、どのようなときでも唯一の結論だけが押しつけられるのが全体主義だ。いじめをする子供達の社会もそのようになっており、いじめをしない子供はその中ではルールを犯す悪い子供になる。いじめられる被害者でさえもそのルールに従うように強制される。「学校モード」ではこの全体主義がはびこり、それによっていじめが普通の世界を生み出す。全体主義という前提を置くと、いじめがどこでも起こりうると言うことが合理的に理解できる。いじめのない学校の方が奇跡的なものになる。次は、この全体主義がどのようにして学校に生まれるのかを理解することだ。それが理解できれば「学校モード」の理解も深まる。全体主義を生み出す原因を、内藤さんは「狭すぎる教室の中でベタベタと過剰接触をすることを強いられる学校生活」と指摘している。宮台真司さんの指摘では「みんな仲良し教育」というものになる。「みんな仲良し教育」は「人殺し教育」だと宮台さんは指摘していた。これは内藤さんの指摘に通じるものだと思われる。次回は、この「みんな仲良し教育」がどうして、いじめの要因となる全体主義を生み出すのかというメカニズムを考えてみようと思う。
2012.10.20
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内藤朝雄さんの『いじめ加害者を厳罰にせよ』を読み終えた。今回も非常に共感できる内容にあふれていた。これは自分の中に、ある前提があるからだろうと思う。人によっては、内藤さんの主張に反発したり理解できないと思ったりする人もいるのではないか。それはかなりの部分が常識に反しているとも思えるからだ。学校に警察権力を導入せよという考えと、学級制度を廃止すべきだという考えは、内藤さんが指摘するように「教育ムラ」の利権を脅かすので、教育業界の既得権益者からは反対されるだろう。では、教育業界とは関係のない市井の人々はどうだろうか?これも現段階では違和感を感じ反対する人が多いのではないだろうか。それは多くの人が現代日本の教育に毒されているからだ。合理的な判断が出来ていないからだと思う。僕が内藤さんの主張にすぐに賛同できるのは、現代日本の学校が狂っているという前提を持っているからだ。狂っていると言うことは、既成の解決策では学校は変わらないと言うことだ。思い切った革命的な方法が必要だ。そのような前提があれば内藤さんが語ることはよく分かる。たとえ常識に反していてもそれが合理的な結論だと言うことが理解できる。教育に毒されているという状況は、学校にどの程度適応しているかと言うことで毒された度合いが変わってくる。過剰適応している学校優等生は、最高度に汚染されて毒されている。だから内藤さんの主張を合理的に理解できないのではないかと感じる。学校価値観によって判断しようとするので、それはとんでもないことを言っているように見えるだろう。僕はどちらかというと学校に対しては不適応な人間だった。学校は居心地のいいところでもなく、何か成功感を感じて努力することに価値を見いだすというところでもなかった。むしろ学校を無視して生きてきたという感じをしている。僕は学校でノートをとったことがない。ノートをとることに意味があると思えないからだ。教師が板書することよりも、まとまった参考書に書かれていることの方が読み返すのに価値がある。何でわざわざわかりにくい板書を写すのかという意味が分からなかった。授業の間は、教師が話していることが分かっている間は聞くことに集中していた。このときにメモなどをとっていたりすれば聞くことがおろそかになる。だからメモもとらない。では途中で教師が語る事が分からなくなったらどうするか。そのときから勝手に自分で他の勉強を始めた。教科書に隠して参考書を読むこともあるし、数学の問題を頭に思い浮かべて考えることもある。数学は長い文章を記憶する必要がないので、頭の中で考えるという対象にはピッタリだった。僕は試験勉強も高校3年の夏休みになるまではやったことがなかった。授業の中で分かったところまででいつも試験を受けていた。ひどいときは古文の試験でクラスの最低点をとったこともあった。ほとんど関心がなく、授業での記憶がほとんどなかったからだ。これで平気でいられたのは、学校の成績というものに価値を感じていなかったからだ。落第しない程度の成績だったら何でもいいと思っていた。落第だけは避けようと思っていた。高校3年になってから勉強を始めたのは、大学の入試で最低どのくらい点を取らなければならないかと計算し始めたからだ。ミスがなければ数学では満点を取るだけの自信はあった。だが英語が0点では合格しないかもしれないと思ったので、30点は取れるようになろうと思った。この時初めて文法を勉強して、副詞が動詞を修飾するものだというようなことも知った。僕は愛校心のかけらもない人間だったが、そのおかげで学校に毒されずにすんだと思っている。学校に対する基本的な考えとして、そこが教育に名を借りた狂った場所になっていると言うことと、毒されてしまう(適応過剰になる)と思考停止になり合理的判断が出来なくなる、と言う前提を持っていれば、内藤さんのいじめ理論はきわめて分かりやすいものになる。将来的には、学校に毒されない人間をいかに増やしていくかが学校改革において重要ではないかと感じる。学校に毒されて、内藤さんのいじめ理論に反発を感じる人たちに、どのようにしてその合理性を説得するかを考えたい。僕にとって内藤さんの主張はほとんどすべて当然の論理的帰結であり、合理性を感じるものだ。それをどのようにして伝えるか。内容を細かく見ていって、これからのエントリーでそれを論じてみたい。
2012.10.20
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消費税増税は、その前提として「金が足りない」と言うことだけから消費税を増税しなければならないという結論を導いているように見えるデタラメな論議がされてきた。他の前提を一切無視して増税ありきというご都合主義的な論理で進められた。この消費税について斎藤貴男さんの『消費税のカラクリ』(講談社現代新書)を読むと、実は消費税という税制そのものに問題があるのではないかという疑念がわいてくる。これは、原理的に弱者を切り捨て犠牲にする構造を持っているのではないかと。つまり消費税制そのものがデタラメ性を持っているので、その増税に合理的な根拠はなく、どのような論理を使おうとデタラメになってしまうのではないかという感じがしてきた。斎藤さんは「消費税は中小・零細企業や独立自営業を壊滅させる」とその第2章で語っている。消費税の持っている不当性が、中小・零細企業に顕著に表れてくるのだ。消費税というのは、その名の通りであれば消費をする際にかかる税金であり、本質的には消費者が負担する税金でなければならない。しかし、それを消費者に転嫁できない中小・零細企業は、自らがそれを負担し、負担しきれなくなって壊滅していく。消費税は社会福祉の財源として使われると宣伝されている。我々の福祉は、中小・零細企業の犠牲の上に成り立っているとしたら、これほど不条理なことがあるだろうか。このような不条理は、やがては負担を背負いきれなくなった中小・零細企業が全滅して、誰もその負担を背負ってくれなくなったら、福祉そのものが壊滅するのではないか。自らの首を絞めているような消費税について今一度よく考える必要があるのではないか。消費税が「棄民政策」につながるものであるというのを事実から考えるために、斎藤さんが報告している、死へと追いやられる人々の状況をお知らせしたい。自殺者が3万人を超えて久しいが、自殺者がどうして自殺するかと言うことは具体的にはあまり報告されていない。消費税によって追い込まれて自殺する人がいるという事実を知ることによって、消費税の問題を知ることが出来る。斎藤さんの報告は非常に貴重なものだ。1 長崎市内S,K.さん(施設工事業)2008年4月18日、夜。長崎市内の住宅地に近い山中で不振な乗用車が発見され、社内に一人の男性の亡骸が見つかった。乗用車の中で、カッターのような刃物で首を切り裂いている。電気関係の仕事をしていたSさんが独立したのは1989年、29歳の時、滑り出しは順調で、やがて年商5000万円、最大で8人のアルバイト従業員を要する規模に成長させることが出来た。ケーブルテレビの普及に伴い、しかし競争も激化する。主に下請けの形で展開していた商いにも90年代半ば頃からはかげりが生じ始めた。「ずいぶん長いこと、消費税を料金に転嫁することもしていませんでした。ようやく乗せさせてもらうようになったのは数年前からですが、料金そのもの値崩れが激しくて」(奥さんの話)果たして税金の滞納が増えていく。2000年代に入って赤字に陥ると、それでも督促される消費税が徒になった。07年末までには滞納総額が800万円を超えた。08年2月25日。すなわち従業員への給料の支払いの日に、Sさんは元請けのケーブルテレビ会社からの電話で、2月分の売掛金の全額、約450万円を差し押さえるとの通知があったと知らされた。消費税の滞納額を少しだけ上回る金額だった。Sさんは私益のために消費税を滞納していたのではなかった。従業員の給料を払うために、自らの利益を削ってまで努力していたが、ないものは払えなかったというのが実情だ。何しろ消費税分を転嫁することが出来なかったのだから。このようなSさんの事情を考慮してもらうことは出来なかった。税金を取り立てる方は、具体的な事情には関係なく、滞納額という数字だけが問題だったのだ。事情が全く考慮されない制度は「棄民政策」ではないのか?2 中部地方某県、赤城剛さん(仮名、工務店経営)幾人もの職人を使いながら、自らが腕のよい2代目の棟梁として、寺社の建築に携わった経験もしばしば。会社組織にはせず職人商店の形態を貫いて、ピーク時には年商で1億円以上を売り上げていた。それでも昨今の不景気はいかんともしがたい。2006年度の売上高は5000万円を割り込み、所得税もたいしたことはなかったが、消費税は利益の高に関わりなく、62万円を課せられた。赤城さんは、しかし、なぜかこの消費税を直ちには納めなかった。資金繰りの都合だったとも言われるが、資産家だった彼が、この程度の金額を支払えないなどと言うことはあり得ないとの評判がもっぱらである。(斎藤さんによれば、この程度の滞納であればいきなり差し押さえなどはないと赤城さんは思っていたらしいのだが、何の通告もなくいきなり差し押さえられたらしい。)(知人の話)「何だあ、そりゃあ!?ですよね。すごく優しい反面で気の強い方でしたから、消費税を納めなかった最初の段階で、税務署との間でトラブルがあったのかもしれない。無礼なことを言われて、「どうとでもしろ」ぐらいの言葉を返していたとしても、私は驚きません。意趣返しとしての差し押さえなんてありっこないと信じたいところですが、それから半年あまりしか立っていないわけでしょう。赤城さんは何よりも、信金側の対応にショックを受けていたようでした。それはそうですよ。長年の取引で、とてもよい関係なんだと、日頃から自慢していたのですから。いつもは寄ってくれてもすぐに帰って行く方が、この日に限って、3時間も。税務署や信用金庫のことばかり、でも笑いながら話していきました。」仕事がなかったとは思えない。赤城さんは翌月も新築と増改築の注文を、それぞれ2件ずつ右傾手痛そうである。しかし彼は、この日のうちに首を吊ったという。享年62歳。遺書はなく、ただ、材料費などの支払先リストと簡単な明細だけが残されていたそうだ。消費税の不条理が人間を追い込んでいくというのは、それが機械的に処理されていくからだ。機械的に処理されて弱者が切り捨てられるというのは、原理的に弱者を切り捨てるものがあるからだ。そして、斎藤さんが他の章で指摘するように、消費税は逆に大企業のような強者に対しては大きな利益をもたらす。ここにも利権が存在するのだ。経団連などが消費税増税に賛成するのはそこに理由がある。消費税を滞納する人たちは、誠実でまじめであるが故に死に至るまで追い込まれてしまう。その不条理な制度さえなければ、自立し税金を納めることが出来る人々であるのに。それらの人を死に追いやって、税金を払う人々を減らして、どうやって財政再建にまで持って行くのだろうか?また厳しい取り立てをする税務署員個人についても、それは彼らが酷薄なひどい人間だからそうするのではない。制度がそのような酷薄さを要求するから、これもまたまじめな人間であればあるほどひどい状況になる。消費税という背戸はそのような原理を持っている。「棄民政策」としてとらえて、早急に改善しなければ、日本社会は消費税によって壊滅し、不幸になる人間が増えていくだろう。
2012.09.06
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石井さんは「利権システムを財政の面から支えている財政制度は、特別会計と財政投融資計画、そして補助金である。これを私は「利権構造の御三家」と呼んでいる。政官権力はこの「御三家」を使って、財政的に特殊法人や認可法人、公益法人を支え、増殖し、天下り、巨大な権力ビジネスを展開する。これこそ経済・財政を根底から犠牲にする国を挙げての利権システムの要である。」と指摘している。この指摘の「御三家」が具体的にどのように税金の無駄遣いにつながっているかを見ていこう。1 利権の巣窟--道路特別会計「道路整備特別会計は、高規格道路と国道・県道など一般道路整備事業を扱うものとされている。財源の中心となるのはガソリン税(揮発油税)である」と石井さんは語っている。一部の高速道路はその渋滞がいつも問題になっているが、ほとんど車の走らない高速道路もたくさんある。つまりムダな高速道路もたくさんあるのだが、「目的税としてのガソリン税などと道路特会がある限り、道路整備事業は自動的に、無限に続いていく仕組みになっているわけだ」と石井さんが指摘するように、特会が残っている限りムダな事業は無くならない。逆に言えば特会を廃止してしまえばムダは一挙になくなる。実際にどのような金の流れになっているかを石井さんは次のように説明する。「一部は特殊法人である日本道路公団等への出資金、利子補給金に充てられている。高速道路事業を中心とする道路公団とファミリー企業群は利権の巣窟と言われている。他は道路建設費などに支出されるが、地方公共団体を通して回っている金が建設地点でドッキングし、道路事業関係のゼネコンを中心とした業界団体から公益法人、第三セクター、政治団体へと連結している。道路予算全体は、このほかに道路公団、地方事業分など併せて年間13兆円の巨額に上る。これが、土建業界と政治家を潤わせる。」ファミリー企業の問題は、安冨歩さんも指摘していたが、道路公団などがこのファミリー企業に仕事を回すのだが、他の民間企業には回ってこないような不当な仕組みが出来ているらしい。とんでもない計算で不当に高い料金で仕事が回っているケースがあるとも聞いたことがある。民間企業のように、コストを下げるというモチベーションもないので、利権としての不当な利益が下へ下へと流れていくのだろう。いかに無駄遣いがされているかは、日本の高速道路のコストに関する次の指摘を見るとよく分かる。「我が国の国土面積あたりの道路延長は、アメリカの17倍、ドイツの1.7倍である。高規格道路のみで比較すると、ドイツに次いで第二位となっている。日本は国土の3分の2が山地なのだから実質ドイツ以上である。我が国で道路整備に使われる予算額は、平成12年度で約13兆円というべらぼうな数字である。ちなみに1キロあたり建設費の単価は、首都高速道路で1000億円、東京湾横断道で950億円となっている。山の中の高速道路でも100億~200億である。日本の高速道路は、金を敷き詰めているベルトだといってもいい。」使わない高速道路をなぜ作るのか?金をばらまくことが目的だからである。だから高速道路などは、本当は無料にしても何の問題もないはずなのだが、料金徴収の仕事がまたファミリー企業を中心にして利権構造に組み込まれている。料金も、道路を造るときの借金の返済の目的で取っているのではなく、徴収の仕事を作ることが目的という利権のためなのである。2 税金を垂れ流す--石油特別会計石油特別会計に関しては、「特会の支出は年間約7500億円だが、ほとんどが補助金として、公益法人、企業などに流れていく。支出の半額の3630億円が特殊法人である石油公団に与えられるのが、この特会の大きな特徴である」と述べている。利権とムダの元凶はこの石油公団なのだが、これについては後の章で詳述されている。そこでもう一度触れることにしよう。問題はこの石油公団が設立した子会社にある。平成9年には266社あったそうだが、次のように指摘している。「公団は国の金を使って勝手に子会社を作り、そこに融資までしていたのだ。子会社には、通産省などの役人が天下っており、ずさんな運営によってどんどん赤字が拡大している。このため、石油公団は巨額の不良債権を抱え、民間企業ならとっくに破綻し会社整理が行われている状態である。」石井さんは、このあと子会社の「新日本石油」の例を挙げて、それがいかにずさんな経営でムダを作っているかを語っている。それはまた後ほど触れることにしよう。3 業界支配のための--港湾整備特別会計ここで指摘されているのは、やはり系列子会社の問題で、結局そこに金を垂れ流すだけなので税金が無駄に使われる結果になっているのだと思う。石井さんの指摘は次のようなものだ。「国土交通省には港湾局と港湾技術研究所があり、全国に五つの港湾建設局と43の工事事務所と開発建設部港湾建設事務所(20カ所)などが配置されている。港湾局が支配している系列公益法人は社団法人(以下(社)と略す)日本港湾協会、(社)日本埋め立て浚渫協会、(社)日本作業船舶協会など32団体がある。さらに、旧運輸省のウォーターフロント事業展開の中でも、関連営利事業のため、無数の行政系列の株式会社が作られてきた(第三章第二節参照)。これらの公益法人を含む行政企業群が政治家への“財布”として、また集票マシンとして重要な地位を占めていることは言うまでもない。」安冨歩さんが指摘していたように、これらの子会社は全く必要のないものだ。むしろ民間企業に任せれば市場が正常に働いて利益が出るようなシステムになる。結局はこれらの子会社は、金を流すためだけに作られていると理解した方が現状解釈としては正しいだろう。
2012.08.18
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石井さんが指摘する原則的な考え方を出発点にして考察することにしよう。特別会計にどのような問題があるかという理論的な指摘だ。これは一つの抽象論として真理だと認識できる。まずは全体像の把握としては石井さんは次のような説明をする。「利権を本質とする官制経済体制を形成する要素は次の四つである。第一に行政が「公共事業」および「経済振興」を展開する“政策”、第二に開発法、振興法、整備法、事業法、政省令、規則、許認可とからなる“法制度”、第三に補助金、特別会計、財政投融資計画で構成される“財政制度”、そして第四に特殊法人、公益法人、許可法人など官の企業群を擁する“行政組織”だ。以上の“政策”“法律”“会計”“組織”の四本柱はすべて各省庁の縄張り(所管)となり、それぞれに連なる政治家があり、政治的“力関係”(政治力)によって機能するのである。これが紛れもない我が国官制経済のトータルシステムなのである。」ここで語られている様々な言葉「公共事業」「経済振興」などと言うものを文字通りに意味を受け取れば、それはいいことのように見える。だがこれらは名が歪められているのだ。「公共」と名乗りながら、それは客観的に公の利益になるような事業として計画されていない。利権として大きな金が流れるような仕組みを持ち、金をばらまく機能を持っているものとして「公共事業」が実際には行われている。詐欺まがいの利権システムに法的根拠を与える様々な法律における、「開発」「振興」「整備」などと言う言葉もやはりその歪みにこそ注目すべきだろう。この歪みが分かれば、石井さんが指摘する利権構造の枠組みも理解できる。石井さんはこれらの歪んだ名の本質を次のように説明する。ごまかしの日本経済の財政面の実態がよく分かるだろう。「我が日本国では、この周到に編み上げた官制経済体制のシステムの下に、政治家たちが笛を吹き「景気対策は税金をばらまくもの」「経済は政府の政策と予算で支えるもの」との“原理主義”を普及させ、学者も評論家もマスコミも、そして経済人と言われる人々までがこぞってこうした集権的意識構造の下に振る舞っているのである。その結果、国の本来の会計である「一般会計」予算は85兆円と書いたカモフラージュ(迷彩)の中に置かれ、実際の運営は誰も知らない260兆円という巨額の金が闇の中のコウモリの大群のように飛び交うことになった。この中で補助金として配分される金額は少なくとも50兆円、公共事業関係で支出される金は国だけで30兆円にもなる構造が完成しているのである。これは第一章で詳しく述べる。この国の「経済」は端的に言えば、国と地方と併せて国民の税金と貯金、年金、保険積立金など350兆円を上から流し込んで消費しているだけのものだ。つまり、市場特有の拡大再生産機能によって生み出される果実はないに近い。経済的価値を創出する“市場”が死亡状態となり、回復不能の、借金が借金を呼ぶ財政破綻構造に陥っている。積もり積もった本当の借金額は1000兆円を超えてしまっている。この重い病を癒す方法は、ありもしない“市場”に向かって“金融対策”だ“景気対策”だとムダな金を突っ込むことではない。問題は単なる経済政策の領域にあるのではない。その鍵は“市場”と権力の間にあるのである。」特別会計の目的は金をばらまくことであり、そのことで経済を発展させようとするものではない。ばらまくことが出来ればいいのであるから、必要性がないものでも大きな事業になれば遂行されることになる。その本質から言えば、穴を掘る事業とl、その穴を埋める事業をセットでやることが一番効率がいいかもしれない。問題は何かをすることであって、そこに役立つ何かを作ることではないからだ。このような理解の下に、石井さんが指摘する具体的なムダを考察していこうと思う。具体的なムダの意味がよく分かれば、石井さんが提出するこの原則的な理論もよく分かるようになるだろう。
2012.08.18
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日本の財政破綻の本質的な原因は特別会計にあると見抜いたのは故石井紘基さんだった。それを『日本が自滅する日』(PHP研究所)という本から読み取ってみたいと思う。この本は「官制経済体制が国民のお金を食いつくす!」と副題がつけられている。「官制経済体制」というのは、官僚組織である省庁が投資をすることのおかしさを指摘する言葉だ。普通投資というのは利潤を求めてなされる。民間企業であれば利潤がなければつぶれてしまうのだから、利潤のない投資は自然淘汰される。しかし省庁が行う投資は、利潤が出ようが出まいが、それにつぎ込むお金が見つかるので、利潤を無視して金をつぎ込んでいく。投資はその結果としてもの(資産)が残るという指摘で必ずしも財政を圧迫しないという意見もあるようだが、安冨歩さんは、特別会計でつぎ込まれた金による投資では、残った資産はもはや資産とは呼べずほとんど不良債権化していると指摘していた。年金の積立金がムダに投資されていた事実を我々が知ったのはもうかなり前になる。だが、特別会計という投資はそれが恒常的に行われてきたことを示している。なぜ不良債権化するかは石井さんが鋭く指摘している。これを知ることによって、我々はまたもう一つ、消費税増税のデタラメさを深く知ることになるだろう。石井さんの話は、小泉さんの構造改革が本物ではなかったという指摘からまず始まる。それは従来言われていた「民間に出来ることは民間に」「税金の無駄遣いをなくす」と言った個別的な問題を指して改革を主張しているだけで、根本的な「構造」に切り込んでいないと指摘していた。本当の構造改革は石井さんによれば「言い換えれば、今日の危機的状況を招いた我が国の仕組み(=構造)は何かを明らかにするとともに、それを“もう一つの仕組み”(=オールタナティブ)に取って替えるための大構想と大戦略を提示し、果敢に実行することこそが期待されたのである。」ということでなければならない。小手先の対処療法では本物の構造改革にならないのだ。では石井さんが提示するもう一つの仕組みとはどのようなものか。それが特別会計のムダを廃して、国民の資産を本当に国民のために使う仕組みを構築すると言うことだ。まずはどのようなムダが行われているかを石井さんの説明を見ながら考えてみようかと思う。石井さんは次のような指摘をしている。「小泉首相は就任以来約半年の間に、「構造改革」の課題として、国債の新規発行額の限定や道路特定財源の問題、一部の特殊法人や公共事業の見直し、将来の郵政民営化と言ったことに触れてきた。正直に言って、これでは、これまで試みられてきた個別的な政策と一体どこが違うのか理解できない。「骨太の方針」とか「工程表」などのネーミングが踊っただけに思える。たとえば、道路特定財源が「無駄遣いされている」から「見直す」ことは言葉として間違いではない。しかしそれを財政の「構造」問題として取り上げるのなら、特定財源は9種類もあるのだからそれらの総体を問題にしなければならない。しかも、それらの多くは本来の予算であるべき「一般会計」ではなく、「特別会計」という裏帳簿に入る仕組みになっている。後の章で見るように、これらの資金は行政レベルで配分が決められ、公共事業や“行政企業”、業界などへの「補助金」として流されて行く。小泉首相の道路特定財源見直しは、“森”が殺られているときに一本の“枝”を語るようなものである。“枝”を治すには“森”を知り、“森”を治さなければならないのに。」森を治さずに、枝を治すだけで総体としての日本は救われるか?それは無理だろう。では森はどのようにすれば直るのか。森を知らなければならないというのが石井さんの主張だ。森を知るために石井さんの言葉にもっと耳を傾けることにしよう。森が殺られているとき、森を放置することは巨大なムダを生み、巨大な借金につながる。それは資産とは言えない資産を残すだけで必然的に不良債権化する。その借金を返済するめどは立たない。
2012.08.18
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製造業が落ち込んだときの助成金による救済の政策を、野口さんは「製造業の農業化」と語っていた。もはや日本の農業は助成金なしには存在できないほど弱体化しているが、製造業もそのようになってきたと言うことの指摘だ。野口さんは、産業構造を変えるにはこの助成金を廃止すべきだと語る。「(製造業の)助成をやめればいい。やめれば生産は落ち込む。そして日本経済は廃墟になる。いったん廃墟にならないと新しいものは生まれません、残念ながら。アメリカ経済も、70年代には、ほぼ廃墟になりました。」これに対して、神保さんは「廃墟という過程を通らずに構造転換するのは無理だと言うことですか?」と聞いている。野口さんの答は、「不可能とは言わないけれど、現実的なことを考えると難しいでしょう」というものだった。この廃墟を避けるために、古い産業へのバックアップを続けるとどうなるかという野口さんの予測は恐ろしいものだ。次のように語っている。「バックアップするにはお金が必要です。原資は税金ですよ。そして税金でまかなえないから国債をどんどん増やしている。財政の赤字が際限なく膨らんでいる。今後と言うより、もうすでにそうなってしまっているのです。」神保さんは、このような状況はいずれ限界が来て続けられなくなるのではないかと聞いているのだが、これに対する野口さんの答はさらに恐ろしい。「インフレが解決します。それが一番あり得るシナリオでしょう。」(この答の解説として神保さんが次のように語っている。「具体的には、こういうことですか。どこかのタイミングで、国内の金融機関などが国債を引き受けられなくなり、外国の投資家に買ってもらわざるを得なくなる。そうすると、やがて高い金利をつけなければ国債を買ってもらえなくなるので、長期金利が上がり、国債の価格は暴落する。それが円安を招き、インフレが進行する。」)「そのシナリオが現実性が高いと思います。だって、歳出削減なんて出来ないですよ。2010年に政府は「中期財政フレーム」を閣議決定して、向こう3年の新規国債発行額を年44兆円以下にするとか、国債費を除く歳出を71兆円以下に抑制するとか言っていましたが、あんなのは数字の遊びに過ぎません。絶対に抑制できない。赤字は際限なく膨らんでいきます。仮に消費税増税の法案が通っても、焼け石に水です。」野口さんの予測では、破滅は避けられないと言うことになる。廃墟になる前に方向転換が出来ないという予測だ。廃墟になって思い知ることがない限り日本社会は改革の方向へ舵を切ることが出来ないという予測だ。野口さんはいろいろと処方箋を提出しているらしいが、それは「乙女の願い」みたいなものだと皮肉っぽく語っている。実現しない理想とでも言おうか。政治のリーダーシップにその実現を期待しても無理だとも断言する。どこにもそんなリーダーシップがないからこそ、野口さんの提言は「乙女の願い」なのだと語っている。消費税に関する野口さんの次の議論は、今消費税を上げることに関して考えるときに参考になるだろう。「まず、日本の財政の現状がどうなっているか。国の一般会計の2010年度予算を見ると、財政赤字が実質55兆円だと考えていい。国債発行額は約44.3兆円ですが、いわゆる埋蔵金=「その他歳入」で10.6兆円を手当てしている。それを含めれば実質55兆円です。もし55兆円の赤字を消費税で解消しようとすると、どのくらい消費税の税率は上げる必要があるか。答は27%です。今は5%だから、32%にする必要があります。」「消費税率が30%を超えるような増税が本当に出来ますか?と言うことです。経済学者はこのようなデータを提示することは出来ますね。その増税がいいかどうかは、我々が判断すべきことではない。ただ、「消費税30%にすることは問題がある」と言うことは言えます。まず、消費が一気に減るでしょうね。そうすると税率はもっと高くしないと財政赤字が解消できない。第2に、税率を30%にして終わりかというと、そうではない。なぜなら、社会保障費は人口高齢化によって自動的に増えていきます。それから国債費(利払いなど)も増えていきます。将来、もっと税率を上げていかないといけない。第3に、今の日本の消費税の構造で、こういう税率の引き上げが出来るか?と言う問題。これは少しテクニカルな問題ですが。」ここで言うテクニカルな問題というのは次のような点だ。「今の日本の消費税の仕組みだと、軽減税率を適用できません。インボイスが導入されていないからです。たとえば食料品店は、仕入れの時に卸業者に消費税を払うわけですが、海外ではその際に、卸業者が食料品店から購入代金に含めて受け取った消費税をインボイスに記して、食料品店に渡します。食料品店はインボイスを元に税務署に申告すれば、仕入れで支払った消費税を控除されます。軽減税率を適用するには、この仕組みが必要です。ところが日本ではそれが出来ない。食料品店は仕入れで払った消費税を価格に上乗せしますから、小売価格が上がってしまう。食料品の段階だけ税率を低くしても、途中段階の消費税分が価格に乗ってしまうのです。もし価格に上乗せしなければ、食料品店が途中段階の消費税分をかぶることになってしまいます。今日本では消費税率が5%と低いのでインボイスなしでやっていますが、これが10%を超える消費税率になったとき、様々な問題が出てきます。」今すぐ消費税を引き上げると言うのは問題が非常に多い。その前にやるべきことがたくさんあるという指摘が野口さんの議論からは伺える。本質的な解決は産業構造の改革だというのが野口さんの主張だ。その本質的な解決をせずに、消費税増税で乗り切ろうとすれば、破綻が先送りになるだけでさらにひどい状況が訪れるのではないかと思う。
2012.08.17
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マル激本の第3章は経済学者の野口悠紀雄さんが登場する。野口さんが語るのは、増税の前にやるべきことの経済政策についてだ。それは端的に言えば、今の経済政策がほとんど間違えているのだから根本的に変えなければならないと言うことだ。そして、それが自覚出来ないだろうから、それが必要だという自覚を促すために、日本は一度破滅まで行かなければならないのではないかという指摘もあった。深刻に受け止めなければならない指摘だ。野口さんは、まず日本経済だけが一人負けしているという状況を説明する。次のようなデータを示している。2011年までの世界の経済成長(2007年に対する実質GDPの増加率) 世界全体 11.3 アジア新興国 11.3 アメリカ 3.6 フランス 1.3 イギリス -0.6 ドイツ -0.9 日本 -2.7この日本の落ち込みの原因に対して野口さんは次のような説明をしている。「輸出です。輸出が落ち込んだのです。経済危機に至る前、日本の輸出、特にアメリカへの自動車の輸出が、かなり順調に伸びていました。それが経済危機で一気に落ち込んだ。その影響が大きいのです(日本の自動車の対米輸出額は、08年1月の約5000億円をピークに落ち始め、09年1月には約1000億円と、5分の1に激減した。)」日本経済は輸出が支えているというのはよく聞く言葉だが、実は輸出に依存し始めたのは2000年代に入ってからだそうで、それも自動車に偏った輸出依存だったらしい。この不健全さが後の日本の落ち込みを呼んだ原因になる。日本の車、特にトヨタ車が売れたのは二つ原因があるそうだ。一つはサブプライムローンで、この住宅ローンは、住宅の値上がりを見込んで住宅価格以上の借金をさせてくれたらしい。その余剰分の借金でトヨタ車を買ったというのだ。トヨタ車が選ばれたのは、当時の円安に原因があったようだ。円安のために、トヨタ車の値段が相対的に下がったというのだ。借金で金が出来て、安くなった車があったので、多くの人がトヨタ車を買ったという。これが史上空前の貿易黒字を呼んだのだそうだ。だが、この好景気は偶然そうなっただけの歪んだものに見える。その後サブプライムローンが破綻して円高に振れるようになると、いっぺんに自動車の輸出が減って、今度は史上空前の貿易赤字になる。アメリカの購買力が落ちたことは、トヨタ車だけではなく、中国のアメリカへの輸出にも影響し、中国に輸出の材料を提供していた日本企業も打撃を受けたという。アメリカの破綻は日本の輸出産業に二重に打撃を与えたようだ。野口さんは、この偶然儲かった輸出好景気の時期はいずれ破綻すると予測がついたので、そのときに産業構造の転換を図るべきだったと指摘している。それをせずに、夢よもう一度と言うことで「海外の需要を作り出すために円安政策をとり、金融緩和をし、それで外需依存の経済成長が実現した」のを再現したいと願ったようだ。だがそのために2003年には「通算約20兆円という信じられないほどのドル買い介入をしたのです」とも語っている。野口さんが指摘する経済政策の間違いは「2000年代の初めに、明らかに別の選択肢はあったのです。それにもかかわらず、国内で需要を増やす努力をせずに、海外に需要を求めたと言うことですね」というものだ。これの原因は、「製造業の意図が、政治や行政に影響を与え、経済政策にバイアスがかかっていった、と言うことになるでしょう」と指摘している。製造業が生き残るために政治に働きかけ、それに政治が応えたために産業の転換が出来なかったと判断している。もはや未来のない製造業を生き残らせる道を選んだことが日本の間違いだったと。製造業に対しては厳しい提言もしている。「日本で別の選択、つまり内需型の経済に転換することが可能だったか、と言うと、金融緩和をやらなければ可能だった。やらなければ90年代前半レベルの円高が続きます。従って輸出が伸びません。日本の製造業の利益は落ちます。従って産業構造を転換せざるを得なくなります。それによって転換したと思います。金融政策と為替政策でそれを止めてしまったというのが重要な点です。」利害当事者は、いかに合理的な思考であろうとも、それが不利益になるときは結果を受け入れるのが難しい。現実にダメになることを悟って、現実が自覚させなければ「転換」が出来ないというのが野口さんの指摘だ。厳しい指摘だと思う。絶望をくぐり抜けなければ利害当事者には合理的思考が理解できないと言うことだ。野口さんはアメリカやイギリスは構造改革に成功したが日本では出来なかったと指摘している。これに対して神保さんが、小泉政権の改革は構造改革ではないのかと質問している。野口さんの答は次のようなものだ。「これは多くの人が大きな誤解を抱いている点です。小泉政権は改革をやったと多くの人が言っているわけですが、実際にやったのは、金融緩和と為替政策によって古い産業構造を維持したと言うことです。それこそが重要なことだった。小泉政権は改革をやったとよく言われますが、一体何を改革したでしょうか?自民党の権力構造は変えました。それから道路族と郵政族を潰しました。でもこれは政治的なものです。経済的に何をやったか。経済的には明らかに旧来の産業構造を維持したと言うことなのです。」小泉構造改革が、実は構造については何も改革していなかったというのは、今になってみればよく分かるが、野口さんの説明は納得のいく指摘でよく分かるものに思える。アメリカが構造改革に成功したと言うことの説明では野口さんは「いったん廃墟にならなければ再生はない」という言葉でそれを語っている。非常に厳しい指摘だが耳を傾けなければならないだろう。「アメリカが、なぜ経済危機による落ち込みが少なかったか。その理由は製造業の比率が低いからなのです。脱工業化を実現していたからです。製造業だけを取ってみますと、需要が急激に落ち込んで過剰設備が発生して利益が低下するという事態は、アメリカでも起こっています。」「日米とも製造業はダメになった。ところがアメリカの製造業の比率は、日本に比べると遙かに低い。GDPに占める製造業の割合は、アメリカは約10%、日本は約20%です。つまりアメリカは脱工業化を実現しているけれども、日本は実現していない。この違いなのです。というのは、経済危機の前の時期、日本は輸出で成長し、アメリカは製造業ではない産業によって成長していた。それは何かと言えば、金融業とIT産業です。そのような経済構造の変化が、90年代後半から非常にはっきりしてきたと言うことです。」「アメリカの脱工業化は、決して簡単にできたわけではありません。非常にペインフルな、苦痛を伴う過程だった。アメリカでは80年代に、日本に押されて製造業がつぶれていきました。まず繊維業がダメになり、鉄鋼業がダメになり、電気産業がダメになり、…自動車産業だけは政治に頼って09年頃まで生き延びましたが、それ以外の製造業は次々とダメになりました。それは非常に辛いプロセスだったのです。日本はその苦痛を回避したと言うことですね。」新興国の追い上げによって製造業がダメになると言うのは、アメリカの姿を見ていれば予測できたことだった。それは、今まで日本を支えていた製造業が次々につぶれるという辛い道を経験しなければならないこともアメリカの姿から見ることが出来た。それを日本は避けたために、未だに新興国と製造業での競争をしなければならなくなっている。それはダメになることとどちらが辛いか分からないほど茨の道を歩むことになっている。産業構造を改革するには人材が大切だと野口さんは指摘する。新しい産業にシフトするために有能な人材がたくさんいる。その人材が果たして日本にいるかどうか。新しいことをしようとする人間を叩いて潰してきたようにも見える日本。優秀すぎる人間は評価されない、暗記能力だけに傾いた学校評価のシステム。いずれにしても人材が育つことが難しい日本のシステムで人材を求めるとしたら、外国人にそれを求めればよいと野口さんは提言する。日本人の外国人アレルギーを克服しなければ、優秀な外国人に新しい産業をリードしてもらうのも難しい感じはする。この変革も、ぎりぎりの絶望が誰の目にも明らかになってから、ようやく舵を切るようになるのだろうか。日本の未来は少々暗いように見える。
2012.08.16
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マル激における神野直彦さんの指摘は「何の根拠もなく税制の議論をしている」というものに続く。これなどはやはり消費税増税の議論のデタラメさを示すものだろう。本来なら、増税の正当性を議論するのがまっとうな議論なのだが、その根拠が何もないのだから、正当性は全く考えられていないのに増税だけは結論づけたいという議論になっている。何の根拠もないという判断は、神野さんは次のように説明する。神野:「アメリカなどは、税制を考えるときに、A案・B案といくつか案を出して、それぞれ所得階層別の負担率を試算します。A案だと、この所得階層の人がこういう負担になります、と言うデータを各案について示して、それを元に国民が喧々諤々と議論するのです。」(神保:質問「自分がいくら負担して、何を受け取れるか、分かるわけですね。」)神野:「そうです。先ほどの所得階層別グラフを作ったコロラド大学のスタイモン教授が日本に来たときに、「いろいろな税制改革案があるけれど、どの案がどういう負担構造になるというデータが日本では全く出てこない。なのに、税率が高いだの低いだの、この案がいいだの悪いだのと議論している」とあきれていました。「何を根拠に議論しているのか全く分からない」と。」所得階層別の負担率のデータが日本では作れないと言うことも神野さんは指摘している。「徴税する側も、所得いくらの人が、税金をどれだけ払ったかを、把握できない」そうだ。このような前提の元に税率を議論すれば、それは根拠のない恣意的な主張になる。つまり財務省が上げたいだけの税率がはじめに決められて、それを正当化するような前提をご都合主義的に拾ってくるという論理になってしまう。まさにデタラメだ。税と社会保障の「一体改革」に対しては、年金・医療保険しか社会保障がない日本の現状を批判して、社会保障の充実という方向を打ち出してこそ、税負担を国民が受け入れるという前提が成立するんじゃないかと、マル激の議論は進んでいる。今の「一体改革」は、全然一体になっておらず、社会保障の場合は、将来金がかかるという脅しに使っているだけで、それが増税によってどのように充実していくかという議論はどこにもない。神野さんは次のような国際比較をしている。それぞれの比率はGDP比を表している。1 家族現金(児童手当・子ども手当) 日本 0.35% スウェーデン 1.5% ドイツ 1.4% フランス 1.4%2 高齢者現物(介護を含む広い意味での高齢者福祉サービス) 日本 1.3% スウェーデン 4.4% ドイツ 0.8%現物支給というのは、現金ではなくサービスで提供されるもので、ドイツが少ないのは、ドイツも家族内で介護や子育てをすべきだという保守的な意見が強いからだと説明されている。スウェーデンは、税負担が大きい国として有名だが、それは充実した社会福祉とセットであるからこそ大きな負担でも国民が引き受けているのだという。社会福祉との一体改革での税制議論をするなら、どのような改革が望ましいかという神保さんの問いに対して神野さんは次のように答えている。「第一に言えるのは、「所得税や法人税を減税している場合ではない」と言うこと。再分配機能を強めるためには、減税してきた所得税を上げて、元に戻すことを検討すべきでしょう。消費税では再分配になりませんから。ただし、消費税増税をすべきでないかというと、それは別問題です。私は基本的に、「水平的再配分」--つまり、豊かな人も貧しい人も、同じように公共サービスを受けられる「分かち合い」の制度にすべきだと考えています。スカンジナビア諸国のように、消費税率を高くして公共サービスの支出を増やす国の方が、格差が少なくなるのです。逆に、貧しい人に限定して現金を配る「垂直的再分配」は、ますます格差を広げることが証明されています。つまり生活保護を増やせば増やすほど、格差が広がり、貧困率が高くなる。これは「再分配のパラドックス」と呼ばれています。生活保護の比率が高いのはイギリスやアメリカなどアングロサクソン諸国ですが、こうした国々は、格差を表すジニ係数が高い。逆に、スウェーデンやデンマークなどスカンジナビア諸国は生活保護のウェイトが非常に小さく、ジニ係数が低いのです。なぜ生活保護のウェイトが低いかというと、これらの国は「貧しい人も豊かな人もみんなで助け合って生きましょうね」という考え方の元、原則として、所得に関係なく保育園はタダ、病院もタダ、学校もタダ、介護もタダなのです。現金給付は、衣と食ぐらいしか使うことがない。そうなると、生活保護費はごくわずかな金額となる。」これは素晴らしい「税と社会保障の一体化論」ではないだろうか。どのような社会保障であるなら税負担を負ってもいいと思えるかというアイデアを提出している。そして、格差を解消するための再配分という原則からものを考えて、そのためにはどのような増税が望ましいか、どのような社会保障の形態が望ましいかを具体的に語っている。上記の文章を、うっかりすると消費税の増税には反対していないから、賛成論のように読み取る人がいるかもしれない。しかしこれは、どのような社会保障の元で消費税の増税が望ましいかという一般論を語っているのであって、今の消費税の増税の正当性を語っているのではないことに注意しよう。今の状況では、所得税や法人税を元に戻すと言うことが正しいという主張なのである。今回の増税議論は政府への不信を招いているが、この不信の元は神野さんは次のような点にあると指摘している。この指摘も重要なものだ。「なぜかというと、政府がサービスを提供することに根強い不信感があって、結局、各省庁とも減税で政策を打つんですよ。前年度より少ない額で予算案を作りなさい、と言われると、前向きな政策を打つお金がないので「特別措置でこれを控除しますよ」とか、住宅政策が出来ないので「住宅ローン減税をしますよ」とか。そうやって減税サービスがどんどん進んでしまう。しかしそういう限定的な減税は、貧しい人にとって何の恩恵もないのです。所得税ゼロの低所得者は、減税されようがないですから。つまり日本の福祉は給付主義・手当主義ではなく、控除主義なんですね。ここを修正していかないと、財政で生活を支えられている実感がないので、税負担には応じられないとなる。どこかにムダがあるのではないか、誰かが得をしているのではないか、と猜疑心ばかり働いて、負のスパイラルに陥るわけです。」子ども手当の理念をもう一度復活させ、社会が人間を支えるという方向で社会福祉が充実するなら、僕も高負担の税制を受け入れる気持ちを作れる。だが、政府がそのような方向にシフトせずに、既得権益を守る方向しか感じられなければ、増税には、理論的にも感情的にも反発をするだけだ。
2012.08.15
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『増税は誰のためか』というマル激の議論を書籍化したものの第2章は第549回の「「分かち合い」のための税制改革のすすめ」を元にしている。この回の冒頭では「足りないから増税」は安直すぎるという指摘をして、この増税法案が、深い洞察の元から考えられたものではなく、短絡的な思考から導かれたもの、すなわちデタラメであると言うことを指摘している。ゲストの神野直彦さんは次のような指摘をしている。「そもそも財政が今日のような極端な歳入不足にに陥った原因は、バブル崩壊以降の相次ぐ減税に直接の原因があったと東京大学名誉教授で財政学の権威である神野直彦氏は指摘する。バブルが崩壊した1990年代以降、政府は景気回復と国際競争力の向上という目的のため所得税と法人税を減税し続け、その一方で、やはり景気対策の名のもとに、公共事業支出を増やした。その結果、税収は急速に落ちていった。日本にとって「失われた10年」というのは「減税の10年」でもあったと神野氏は言う。減税が所得税、法人税、資産税に集中していたため、減税の恩恵を受けたのが富裕層に偏り、それが経済格差が広がる原因にもなった。2000年代に入ってからは公共事業費は削減されたが、その分、高齢化にともなう社会保障費が膨らみ、ワニの口は広がる一方だ」。所得税と法人税の減税が歳入不足の原因であるなら、それを視野に入れた対策こそが必要なのに、なぜ消費税だけなのか。マル激でもこのような問題意識を次のように語っている。「このように、相対的に所得税が低いことが、日本の税制を富裕層に有利ないびつなものにしているという事実があるにもかかわらず、昨今の増税論議は消費税増税ばかりに論議が集中しているのはなぜか。消費税は所得逆進性があるため、現在の歪んだ所得税制をそのままにして消費税率を上げれば、その歪みは更にひどいものになってしまう。税の再配分機能が更に弱まり、格差がより広がることが避けられないということだ」。日本の税制は歪んだものになっているのに、なぜその歪みが正されないのか。神野さんは税に対する意識の違いを指摘する。これは興味深い視点だ。神野さんは次のように語っている。「欧米では「公共サービスや秩序が維持されることの恩恵を受けている」という意識を、豊かな人たちが持っています。だから富裕層が「秩序維持のコストを我々が負担しよう」と考えるのです。昨年、アメリカの投資家ウォーレン・バフェットが提唱した「バフェット・ルール」が話題になりましたよね。自分の税金と部下の税金を比べて、「部下の方が税負担が重いのはおかしい。私たち富裕層にもっと税金をかけるべきだ」と言って、富裕層への増税を提言しました。フランスでも、ロレアル、エールフランス、トタルなど大企業の経営者・創業者16人が、「我々富裕層に課税する『特別貢献税』の創設を」と提言しています。どうも国民全体の風潮として、経済成長しないと自分たちの生活も成り立たないのでは、と言う意識が強い。企業や成功者の減税をすることで国際競争力が上がるのだ、と言われると、みんなが納得してしまう傾向があります。それでは格差が拡大するではないか、と言う批判に対しては、「いや、トリクルダウン(滴り落ちる)だ」というわけです。トリクルダウンとは、お金持ちが儲かれば、貧しい人にも富が浸透するという考え方ですね。」これに対して神保さんは、「未だにトリクルダウンなんてことを言っているんですか。レーガン政権下のレガノミクスの経験則から、富は滴り落ちないと言うことで、この議論には決着がついているのだと思っていました。」そして神野さんはこれに答えてさらに次のように続けている。「少なくとも、減税を推進していた時期には言われていました。豊かなものがより豊かになれば、おこぼれが滴り落ちてきて、貧しい人々も潤いますよ、と。しかしこれについてはノーベル経済学賞のジョセフ・E・スティグリッツも「理論的に間違っていて、幻想に過ぎないにもかかわらず、未だに信じられていることが信じられない」と言っているぐらいです。そんな迷信がまかり通って、ここまで減税してきてしまったんですね。」この間違いを訂正しないで消費税だけを増税しようとする野田政権は、やはり間違っている。マル激では「このままでは貧しい人ほど負担が重くなる」という点を指摘している。ここにも消費税だけを増税することの間違いが現れている。この消費税だけに偏った増税になることの原因を問う神保さんの質問に神野さんは次のように答える。「どういう国にするのか、と言うビジョンがないままに、増税論を考えているからだと思います。本来、税制と国の有り様は、リンクしているべきものなのです。」消費税を上げたいのは、国のためではなく、財務省が省益を守るために出てくる動機だ。だからビジョンがないのは、国益よりも省益が優先しているからだと言えるだろう。それを見破り、トリクルダウンというごまかしに騙されないように我々は気をつけなければならない。消費税を上げることは財務省の省益にかなう。しかし他のことを考慮して税制を議論すれば財務省の省益が損なわれる。だから深い議論がされずに、諸費税だけに議論が絞られてしまう。他の大事な点がどれだけ抜けているかを次のエントリーでは考えてみたいと思う。
2012.08.14
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「社会保障と消費税は「一体化」出来ない」という高橋さんの主張も目から鱗が落ちる感じのする明快なものだ。マスコミは「一体化改革」の正当性を叫ぶが、これが全く間違っているとしたら、消費税増税の正当性も根底から崩れる。消費税について、「やはり日本の5%は低すぎる、と政府は言うわけですが…」という神保さんの言葉に対して、高橋さんは次のように語っている。「いや、それは財務省が歳出の都合のいいところと歳入の都合のいいところを結びつけて話しているだけですよ。一番簡単に社会保障費を補うなら、先ほど言ったように「消えた保険料」12兆円の徴収をきちんとやればいいわけですから。(消えた保険料というのは取りはぐれている法人からの保険料)そもそも、消費税で社会保障費を補うのはおかしい。政府は「消費税の社会保障目的税化」と当たり前のように言ってますが、これは海外ではまず無い。なぜかというと、社会保障は基本的に保険料方式ですよね。だから歳入庁を作って、保険料をきちんと取ればいいだけなんです。それを消費税で取るというのは制度としておかしいんです。消費税がなぜ特にヨーロッパで高いかというと、ヨーロッパを一つの国と考えれば、各国は地方と考えることが出来て、その意味で地方分権が進んでいるからです。消費税(付加価値税)を社会保障の目的税ではなく、地方財源にするわけです。つまり、地方分権して地方に任せると、消費税は高くなる。それは社会保障とは関係ありませんよ。日本は地方分権していないから消費税が安い、それだけのことです。所得税や法人税と比べて、消費税は景気に左右されにくい安定財源だから、地方の基礎的な行政サービスをまかなうには非常に適しているわけです。地方の基礎的なサービスは、景気に左右されてはいけない。ゴミだって景気が悪くても集めなきゃいけないわけでしょう。だから、消費税は地方にあげちゃって基礎的サービスに使う、と言うのが普通です。」実に明快で論理的な説明だ。消費税の本質も見事に言い当てている。このような合理性の方向に行っていないから、野田政権の消費税増税は間違いなのである。このような正論が、目から鱗に感じてしまうのはマスコミの責任だが、それを高橋さんは次のように指摘する。「マスコミがみんな同じことをしゃべるからですよ。100回しゃべるとウソでも本当になる。私から見ると消費税の議論は幼稚すぎます。フェアな税制という議論から見ても変だし、社会保障の観点からも消費税を財源にするなんて租税論は出てこない。社会保障の財源にふさわしいのは、保険料なのです。ところが、保険料の話をすると、「もうあげられない」という話になるでしょ。じゃあどうして消費税は上げていいの?おかしいですよ。」このようなごまかしが消費税増税にはある。「一体化改革」というのもごまかしの一つで、大手マスコミはこればかり語っていたが、次の高橋さんの指摘を見ると、この言説がいかにデタラメであるかが分かる。「世界で「一体」というと、「給付付き税額控除」のようなものを指します。所得に応じて控除によって所得税を軽くする、所得税非課税の貧しい人には現金を給付する、と言った制度です。これは所得再配分が目的だから、基本的には所得税の話です。だから所得税と社会保障を一体化する、と言う議論はあり得ます。でも、今政府でそんな議論は全然無くて、「一体化」と言っても消費税の話でしょ?社会保障は国の業務ですよ。そして消費税は社会保障とは最も遠い税なわけです。だから消費税と社会保障をリンクさせる制度なんて、あり得ないです。」「消費税を上げたいために、「社会保障と税」と言っているに過ぎませんよ。本当に一体でやるなら、最低限の所得を政府が給付する「府の所得税」をやって、所得税と給付の間で所得再分配をうまくやるとか、給付付き税額控除とかの議論をするべきです。その場合に、消費税は関係ないから、普通は議論に出てこない。今政府が言っているのは、全部、消費税を上げたいためのまやかしですよ。」この高橋さんの話の最後に、神保哲生さんは次のようにまとめている。「社会保障は所得再分配の理念があるから、所得税を使うのがもっともナチュラルで、消費税という逆進性が問題になるようなものを使うのは、理念的に全くデタラメだというわけですね。」消費税増税がデタラメだという直感は、理論的にも正しいことが証明されたように感じる。このデタラメさの理解を多くの人と共有したい。
2012.08.12
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「お金を刷れば増税は必要ない」という高橋さんの主張は面白い。面白いだけではなく、このような方法こそが現在の問題を解決の方向に導くものであり、政府が考える増税による解決は最悪のものだと言うことが分かる。最悪というのは必ず失敗すると言うことだ。日銀がお金を刷ると言うことを提唱しているのだが、それは具体的には国債の日銀引受というものになるようだ。これは国債の発行分を誰かの資産で買ってもらうのではなく、日銀がお金を印刷することでその金を増やすというものだ。それは資産でも何でもないので、紙切れを刷ることになるので金の供給過剰でインフレが心配になる人もいるだろう。高橋さんは、そのようなインフレの心配は増やすお金の量から言えばそれほどの心配はいらないと説明している。むしろこのことの目的は、お金が回ることによって経済の成長を促し、デフレを脱却することだという。その論理はとても明快で、仮説実験授業でよく使う原子論的論理に似ている。原子論では、原子は無から作り出すことも出来ず、消滅させることも出来ないので、見かけは変わるかもしれないが存在し続け、形態がいろいろと変わって存在の流れを作る。日銀が印刷したお金も、まず政府が使うはずで、それは消滅することがない。回り回って動くことになる。それが経済に刺激を与える。高橋さんは次のように語っている。「「増えたお金はどこに行くんですか?」と質問されるんだけど、それは分かるわけがない。天から降らしているわけだから、努力した人と運がいい人のところに行くとしか言いようがない。先ほどのたとえで言えば、目黒駅周辺にたまたまいた人と、そこに行った人にお金が入ってくる。」先ほどのたとえというのは次のものだ。「FRB(米連邦準備理事会)の議長であるベン・バーナンキがよく「ヘリコプターマネー」という話をしていたのですが、たとえば目黒駅近辺でお金がばらまかれると言われれば、みんな目黒駅に行きますよね。ばらまかれたお金が誰に行くかは分からないけれど、人が動くことで経済が動くわけです。それでみんなが右往左往してインフレになる、と言う考えが経済学ではあるんです。」この話を見ると、抽象理論である学問が現実に役立つケースというのを感じる。お金をばらまくと、それが誰に行くかという具体性は抽象理論では分からない。だが、それが動く(回る)と言うことは分かる。この抽象論はある意味では絶対的真理であり、それが分かるからこそ、誰に行ってもいいから金をばらまくという発想が出てくる。誰かに行くことが現実的には重要だと考えるからだ。これは、消費税を増税すれば、それが社会福祉の方に回って財政が立て直せるという主張に比べると、かなり現実的な期待が出来る主張ではないだろうか。消費税増税の方の真理性は全く信用できないのに、高橋さんの主張には合理性を感じ、信用できると思う。この簡単な処方箋を財務省はいやがるという。その効果が理解できないのではなさそうだ。むしろ、効果があるので困るというのが財務省の見解だと高橋さんは語る。財政が本当に再建されると財務省は困るというのだ。財務省にとって望ましいのは、財政が再建されることではなく税率が上がることなのだ。増税をしたい財務省の本音を高橋さんは次のように語る。「利権が増えるからですよ。一番簡単な例で言うと、たとえば法人税の税率を上げると、個別の業界が軽減措置を要求してきます。それに応じて、個別の業界に軽減措置を適用してあげるというのが、官僚の一番おいしいところになるわけです。たとえば今新聞業界は、新聞購読料の消費税率を軽減税率にするよう、要求しています。日本新聞協会が、11年7月に政府に要望書を提出したのです。もし、その要求を受けてあげれば、役人にとってメリットがあるわけです。」この高橋さんの説明に神保さんが「新聞社が財務省の悪口を書かなくなると」と質問している。そして「そうするに決まってるでしょ?」と高橋さんが答えている。マスコミをコントロールするために軽減措置を利用するのだ。そうすれば新聞は財務省の悪口を書かなくなる。消費税増税が財務省の省益だと言うことの理由はそういうものなのだ。この答えに続けて高橋さんは次の点も指摘する。「もちろん財務省には、増税をして増えたお金の差配をしたいという気持ちもありますけれど、個別の例外措置に応じることはもっと具体的なメリットがありますからね。天下り先を確保するとか。」天下り先の確保という一番の省益が生まれる。このような財務省の省益については、高橋さんに指摘してもらわないと知らなかった人が多いのではないかと思う。増税を言い出した菅前総理と現野田総理が財務省の傀儡と呼ばれるのは、このような省益を守る方向でしか消費税増税が機能しないからだ。今消費税増税をすることは時期的な間違いももちろんあるが、このような財務省のエゴをそのままにしておくことの弊害を放置する意味でも間違いなのだ。
2012.08.12
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高橋洋一さんが指摘する増税の前にやるべきことのもう一つはかなり衝撃的なものだ。それは「年12兆円の保険料を会社が着服している」という表題で語られている。この保険料とは年金機構が徴収する社会保険料(厚生年金保険料、健康保険料)のことだ。消費増税分とほぼ同じだけのお金が徴収漏れになっているのだ。これを徴収できれば増税はいらないだろう。高橋さんによれば国税庁がつかんでいる法人の数は約280万件あり、これらは税金を払っている。ところが年金機構がつかんでいる法人は約200万件であり、80万件少ない。この80万件は、税金は払っているものの保険料を払っていない。だが従業員は給料から保険料を天引きされている。この事情を高橋さんは次のように説明する。「これは論理的に考えるとおかしい。なぜなら社会保険料は赤字企業もみんな払うわけです。国税庁は、極論すれば黒字企業だけを把握していればいいわけです。ですから、年金機構の方が把握する法人数が多くないとつじつまが合わない。なのに80万件も少ないのはなぜかというと、社会保険料を企業から徴収していないんです。年金機構が把握していないから徴収に行かないんです。でも従業員5人以上の会社は、全部、給料から保険料を天引き=源泉徴収しているわけですよ。つまり従業員から保険料を取っておきながら、年金機構には払ってない法人が何十万社もありそうなんです。これは「消えた年金問題」が明らかになったときから、分かっていたことです。年金記録が消えたのは、国民年金より厚生年金の方が多かったわけですから。従業員からすると、自分は天引きされたのに、会社が年金保険料を払ってないと言うことですよ。」このようなずさんさがたくさんあるというのに、取りやすい消費税だけはどこまでも上げていくというのが政府の方針なのか。こんなデタラメ政府をどうして信用できるだろう。不信任が当然だ。このような政府を信任している議員は、すべてこのことを知ってからもう一度考えてもらいたいものだ。次の会話のやりとりは、自民党政権も同じくらいずさんだったことを伺わせる。神保:「つまり、80万件ぐらいの法人が、国税庁は怖いから源泉徴収した所得税を払うけれど、年金機構はうるさくないから社員の給料から天引きした保険料を払わないでいるわけですね。」高橋:「そうです。だから私は「少なくとも社会保険庁(当時)は個人に領収書を出せ」と、2000年から経済財政諮問会議でずーっと言い続けてきたわけです。でもずーっとやらない。 やると「消えた保険料」が何万件出てくるか分からない、と言って厚労省に無視されてきました。07年に「消えた年金記録」が大問題になって、ようやく「年金定期便」が個人に送られるようになりましたが、「だから言っただろ!」という話ですよ。 それで、この「消えた保険料」を普通に計算すると、年金と医療保険と併せて最大約12兆円になります。年に12兆円も取りっぱぐれているわけです。」消費税を申告しない不正もたくさんあると高橋さんは指摘する。インボイスという制度に関連して高橋さんは次のように語っている。「中小企業で、消費税を税務署に払いたくない人がたくさんいるんです。顧客から消費税を取っているのに、免税業者だとして払わない。それがインボイスを導入すると、ごまかしがきかないですから。消費税の脱税って実は多いんですよ。」インボイスというのは「<卸業者A>が<仕入れ業者B>に物を売るときに、消費税額を記載した納品書を発行するのです。仕入れ業者Bは、仕入れたときにAに払った消費税を、インボイスを元に確定申告すれば、控除されて戻ってくるわけです。」と説明されている。消費税を明確に記録したものを売買の時に作っておけば、消費税の取りはぐれというのはなくなるだろう。だがそれは作られていないらしい。それで網の目をくぐって脱税するものが出てくる。最後には神保哲生さんが次のようなまとめをしていた。「それにしても、なぜ日本では、税・保険料の徴収システムが、こんなに牧歌的なんでしょう。こんなに財政赤字が深刻なのに、本来徴収しなければならないものも取れていないなんて、ちょっと変ですね。高橋さんの計算では、「消えた保険料の徴収」「納税者番号」「歳入調」「インボイス」という4つの制度改革だけで、毎年18兆円の増収が見込めると。まず政府資産の圧縮で100兆円が生まれて、制度改革で毎年18兆円増収があれば、増税は当面必要ない、と言うのが高橋さんの主張ですね。」増税ではない方法でお金は生まれる。だから今は増税は必要ないという高橋さんの主張に僕も賛同する。増税が必要だとしてもそれは今ではない。もっと将来の話だ。
2012.08.12
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財政再建の本来の改革は独立行政法人などの整理が必要なのだがそれがいかに邪魔されるかというのを高橋洋一さんの言葉から考察しよう。真の改革をしない消費税増税はごまかしであることが分かるだろう。「財務省自身が独立行政法人への天下りが多いんですよ。なぜかというと、財務省以外は基本的に自分の管轄する法人にしか天下りできませんが、財務省はすべての省庁に行けるのです。だからすべての省庁の特殊法人に財務省の天下りがいます。つまり、独立行政法人改革を本気でやられると、財務省が一番困る。」高橋さんは、増税は財務省の意志であり、政権がそれに向かっているのは財務省の省益を確保していることになると指摘していた。財務省の省益は、世間の目が税金へ向かっていれば、本当の改革である特別会計の方は隠すことが出来る。それは大きな省益となる。財務省の利益にしかならない増税は、国民にとっては間違いなのである。税金のムダが毎年どれくらいあるかという神保さんの問いに対しては高橋さんは次のように答える。「毎年数兆円です。それで何十万人という人が養われています。税金をもらうだけではなくて、民間が出来ることも官がやって収入を得ている部分もあります。必要以上に官が民業に乗り出すのは、旧共産圏では多いですが、普通の先進国はあまりやらないです。先進国の中で、日本だけ、こういった“政府の子会社”が突出して多いのです。」毎年数兆円というのは、消費増税の中のどれくらいを占めるだろうか。無駄を省けば、消費増税の半分くらいは出てくる。さらに資産を処分すれば、民主党の最初のマニフェスト分くらいの財源がすぐに捻出できる。財政は本当はこうなっているのだ。だがマスコミは何も知らせない。知らせてくれるのは、神保さんのビデオニュースのようなジャーナリズムだけだ。独立行政法人を民営化するという改革については、いいことがいくつもあるそうだ。高橋さんの指摘する利点は次のようなものだ。「独立行政法人党を民営化するというのは、実はフェアなやり方なんですよ。普通は即廃止というところを、民営化は「1回チャンスをあげますよ」と言うことですから、職員もすぐにクビになるわけじゃない。民営化の場合は民間としてやってみてきちんと収益事業に持って行けば、雇用は確保されるわけです。ただし、うまくいかなかったら経営陣は責任を取らされるし、倒産することもありますよ、と。」「58兆円が出資金として使われています。貸付金も155兆円入っています。民営化すると、それらのお金が返ってくるからいいんですよ。いきなり廃止したら何も返ってきませんが、それらのお金が返ってくるからいいんですよ。いきなり廃止したら何も返ってきませんが、民営化すると、がんばって返そうとするから。郵政民営化はそうでしたね。実は独立行政法人・特殊法人を民営化すれば、ムダな出資金・貸付金がなくなる上に、お金が戻ってくるんですよ。だから、増税はいらなくなるわけです。」とにかく財政の無駄をなくすというのは、本質的に独立行政法人や特殊法人の改革以外にはあり得ない。これに手をつけないで増税だけをやるというのは合理的な思考ではない。だから民主党の増税案はデタラメであり、やるべきことをやっていないという批判を受けるのだ。特別会計についての高橋さんの次の指摘も、いかに無駄が多いかを教えてくれる。「特別会計の歳出もかなり削減できますね。特別会計は財務省も査定しないで、入ってくるお金がそのまま使えるという仕組みですから。省庁側の言い値なんですよ。官僚の変な支出を探そうと思えば、特別会計を探すといっぱい出てきますよ。実際に使っている官僚にしても、2~3割削減されても仕方ないな、と感じているでしょう。一般会計でタクシー券は出せなくなったけれど、特別会計ならいくらでも出るとか、変な仕組みがたくさんあるんですよ。」子供手当に関する次の指摘も重要だ。「民主党政権は、自民党の政策をそのままにして、その上に民主党の政策を乗っけちゃったから、歳出が増えてしまったわけです。効果が同じ政策は統合しなければいけないのですが、一切それをやらなかった。たとえば「子ども手当」をドーンとつける。他にも独立行政法人などで子ども関連の予算がたくさんあるわけですよ。行く先が同じ「子ども」なのだから、似たような予算はナシという形に、予算を組み替えないとダメなんです。」子ども手当の問題も、財源の問題ではなく、独立行政法人などのムダを省けなかったことにそれがうまくいかなかった原因があると理解するのが正しいのではないか。増税の前にやるべきことがこれだけある。それなのにマスコミの論調は、将来的に福祉関連の費用が増大するので、そのために税収を確保しなければいけないという話に終始した。そして民主党のマニフェストの財源確保は間違いで、財源はないのだという宣伝が繰り返された。なければ増税も仕方がないという空気が作られた。だが、これだけ増税でない財源があるではないか。それは既得権益者の抵抗が大きいと言うことがあるだけで、ムダであり将来の日本社会を圧迫するものにもなる。今ここで改革しなければ、将来的には日本社会は破滅しかなくなるだろう。
2012.08.12
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マル激の内容から作られた『増税は誰のためか』という本を頼りに消費増税についてもう一度よく考えてみようと思う。これがデタラメであり、間違った政策であることは直感しているのだが、それを説得力ある論説として構築できるように考えてみようと思う。冒頭の高橋洋一さんとの回は「すぐ捻出できる200兆円を隠してまやかしの増税に走る財務省の罪」というタイトルで語られている。消費増税が財務省の省益であり国民のためのものではないと言うことをそこから読み取ってみよう。宮台真司さんが最初に語る「正当性のなさ」の議論はとてもわかりやすい。どうして消費税増税に正当性がないのか、やるべきことをやっていないと批判されるのはなぜかがよく分かる。次のような論説だ。「僕が感じる「正当性のなさ」は、今日のお話でも論点になると思います。天下り先である独立行政法人・特殊法人を温存するために、税金を垂れ流す。社会保障を通じて所得を再配分するべきなのに、低所得の若い人から保険料を巻き上げて、金融資産が平均1800万円もある団塊の世代に年金として配分する。これでは所得再配分とは言えないわけです(貯蓄から負債を引いた純貯蓄額の世帯主年代別平均は、30歳未満=マイナス38万円、30代=マイナス267万円、60代=1853万円、70代=1942万円。09年全国消費実態調査、2人以上世帯)。こういった現状を温存したまま増税することに正当性は感じられません。つまり、社会保障制度のためだと言って税金を上げる前に、やるべきことがある、と言う話ですよね。」野田政権とマスコミの宣伝には、「改革の必要がある」という一般論の正しさを、そのまま「消費増税が改革だ」と直結して結論づけるごまかしがある。消費増税は、現実の改革には少しもなっていないにかかわらず、改革が必要だから消費税増税も必要なんだと気分だけは正しいかのようなイメージを宣伝している。これに騙されてはいけない。実際にはやるべきことをやっていないので、消費税をいくら増税しても財政再建には少しも役立たない。消費税によって期待できる税収の増加分は微々たるもので、しかもそれは今後目減りしていく可能性もある。それはムダがほとんど除かれていないからだ。独立行政法人・特殊法人の問題は故石井紘基さんが深く追求していたものだが、それは何も解決されていない。これこそが増税の前にやるべきことであって、シロアリ退治に当たるものだ。それが理解できれば消費税増税の欺瞞性が分かり、そのデタラメ性が分かり間違いが理解できる。「政府資産を削れば200兆円捻出できる」と主張するのはゲストの高橋洋一さんだ。借金(財政赤字)の返し方は、税金を上げるだけではなく、不要な資産(ストック)を売って返すという方法があるのを高橋さんは指摘する。この時点で日本の政府資産は647兆円あるという。政府の資産は多くは独立行政法人・特殊法人と呼ばれるもので、言うなれば政府の子会社と高橋さんは語っている。独立行政法人への出資金は約58兆円で、貸付金が約155兆円あるらしい。これを処分するだけでも、民主党がマニフェストで作り出すといった財源は余裕を持って確保できる。マニフェストも、財源捻出という方針が間違っていたのではなく、この利権を崩せなかったことが財源が得られなかった原因なのである。民主党がマニフェストの実現に失敗したことについては高橋さんは次のような指摘をしている。「政治主導にすると言っていたのが、結局官僚主導になっちゃったからですよ。独立行政法人というのは、はっきり言ってシロアリの巣です。巣がなくなったらシロアリ、つまり天下りする官僚は困る。だから官僚主導になったら、官僚がやらせませんよ。自分の老後が大変になってしまうから。」現在の野田政権は完全に官僚にコントロールされている。つまり高橋さんが言うようにシロアリの巣は全く手をつけられずに、負担のしわ寄せが弱者の方に移るという不当な政策として諸費税増税が提出されている。ここに増税法案の不当性と間違いを見ることが出来る。「政府資産を圧縮すると、どのぐらいのお金が捻出できますか?」という神保さんの問いに対して高橋さんは次のように答える。「200兆円ぐらいは出てきます。いきなりは難しいから半分の100兆円くらいでも出てくればいいと思いますよ。ただし、資産の売却だから1回こっきりです。それでしのぎながら、継続的に歳出カットをやる。消費税5%アップで増える税収は約12兆円だから、100兆円あれば7~8年間は増税する必要がない、と言う話になります。」多くの人が、高橋さんを中心にして財政改革をして欲しいと願うのではないかと思う。
2012.08.12
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パッチ・アダム14:「人間は弱く、ミスを犯す。医療においてこれをどう考えるかは大きな問題だ。たいていの医者は傲慢な態度を取り、弱みを見せないように頑張っている。すべてを知っているというふりをするんだ。自分はパーフェクトだと誇示しているんだね。でもこれほどアホな話はない。…(続パッチ・アダムス15:「…僕なら、分からないことがあるとすぐ友達に電話する。「チャーリー、こういう場合、鍼治療は使える?」そうすれば、みんながチームになって最善の方法を探ることが出来る。」この姿は、安冨さんが論じていた君子に重なるものがある。自分に本当に正直な人がこのように行動できるパッチ・アダムス16:「一番困ったときに、助けてくれるのはお金じゃない。本当に君たちを生かしてくれるのは愛する心であり、惜しみなく愛を注ぐ友だちがいることだ。僕たちがこの人生を生きていくのには、何万ドルの蓄えよりも、「大丈夫だよ」と背中をさすってくれる人の存在が頼りなんだ。」パッチ・アダムス17:「愛について僕が言えること。愛するとは、ひとかけらの疑念も持たず、相手を完全に信じるということだ。その人の前に無条件降伏することだ。人はよく「神様、私のすべてをあなたに捧げます」という。僕も「私はあなたにすべてを捧げます」という。でも僕は神でなく人々に…(続く)パッチ・アダムス18:「…僕は神でなく人々に自分のすべてを委ねてしまう。」汝の隣人を愛せよという言葉は、最も愛することが難しい人間であっても、それが隣人であるなら愛せよということだ。つまり人間であれば、誰でも愛するに値するということだ。何かの美点を愛するのではない。人間だから愛する。パッチ・アダムス19:人々に愛や喜びをもたらすとは、自分の中にあるものを誰かに与えることなんだ。これは絶対的に一方通行のものだ。相手の反応を伺ったり予測するのは絶対にしてはならないこと。ちょっとした好意のまなざしや微笑み一つでも、相手からの報酬を期待してはいけない。…(続く)」パッチ・アダムス20:「…それをしてしまったら相手の心のバリケードを崩すことは出来ない。」これは、板倉聖宣さんが語っていた生き方の上手な人だ。誰かを助けることはそれだけで幸せになれる。報酬がないと満足できない人は生き方の下手な人だ。わざわざ幸せを手放す行為をしているからだ。パッチ・アダムス21:「悲しみのパラダイムに絡め取られて、落ち込んで、自分には何も出来ないと思い込んで人生を無駄に過ごすなんて、ほんとにつまらない。今すぐ幸せになる方法があるというのに。人々と助け合ってこの世界をよりよい場所にするために働いて、愛と笑いを広げ、みんな堂々と…(続くパッチ・アダムス22:「…みんな堂々と幸せになればいいんだ。もしあなたが教師なら、必要なのは教育を変えることであって、良い教師になる夢をあきらめることはない。もしもあなたが医師なら、必要なのは今の医療を変えることであって、良い医者になるという自分の夢を捨てるのはばかげている。…」パッチ・アダムス23:「ここで考えるべきなのは、自分のような素晴らしい志を持った一人の人間がもう自分の夢は追いかけられない、あまりにひどすぎる、と絶望してしまうようなこの状況は何なのか、どうしたら変えられるかだ。「変えられるように頑張ろう」とか、「変えられたらいいのに」では…(続パッチ・アダムス24:「…全然ダメだ。いいかい、そんな中途半端はクソの役にも立たないぞ。「私が変える」と本心から思うこと、そしてそれを行動に移すこと。見ていてご覧、素晴らしい仲間が集まってくるから。夢をあきらめるなんてもったいなくて、僕にはとても出来ない相談だ。」パッチ・アダムス24:「…全然ダメだ。いいかい、そんな中途半端はクソの役にも立たないぞ。「私が変える」と本心から思うこと、そしてそれを行動に移すこと。見ていてご覧、素晴らしい仲間が集まってくるから。夢をあきらめるなんてもったいなくて、僕にはとても出来ない相談だ。」パッチ・アダムス25;「僕の恋人が死の床にあるとしたら、僕は何もかも投げ捨てて彼女の元へ行くよ。仕事がある?何を言ってるんだ。僕ならゲズンハイトさえも放り出すだろう。そして心臓が停止してモニターがフラットになっても最後まで愛を伝えるんだ。もしあなたがそれを出来ない状況にいると…パッチ・アダムス26:「…それを出来ない状況にいるとしたら、そんな非人間的な社会のシステムを変えなければいけないんじゃないのかい?」どこまでも変化し成長しようとするアダムスの姿に敬服する。そして自分の心の本当の思いに従って生きろという言葉に共感する。それが幸せに通じる道だと信じるパッチ・アダムス27:「誰かが亡くなった後で、こういうことは必ず起こるものなんだ。なぜか?それは彼ら自身が今までずっと後悔の人生を送ってきたからだ。後悔したくなかったら、今すぐに後悔の人生を止めることだ。「神様、私は子育てに失敗しました。私の結婚は失敗でした。仕事も、すべてが…パッチ・アダムス28;「…仕事も、すべてが失敗です」。全く、くだらない考え方だ。その時その時に出来る最高のことをすれば、後悔なんか感じない。死は、あなたにいろんなことを教えてくれる。いいかい、リラックスするんだ。気持ちを自由にして、自分が本当にやりたいことを精一杯やるんだ。」パッチ・アダムス29:「人間的であるってことは、深い思いやりと寛容さを示すことだと僕は思いたい。孤独に死ぬ人がいてはいけない。誰もが愛する人とともにいるべきだ。これはマザー・テレサが望んだことだね。彼女はすべての死にゆく人をその腕に抱きしめたいと願った。僕が難民キャンプに行き…パッチ・アダムス30;「…僕が難民キャンプに行き悲惨な光景を見るのも同じことだ。僕はただ、つらい状況にいる人々の元に愛を届けたいだけなんだ。」アダムスの言葉はどれも感動的だ。それが感動を与えるのは、彼が正直に自分の心を語っているからだろう。真実は人を感動させる。真実が伝わっている
2012.05.03
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僕はロビン・ウィリアムスのファンなので、「パッチ・アダムス」という映画は前から好きだったけれど、安冨歩さんの『生きる技法』を読んだ後で、この映画を見ると印象が違ってくる。アダムスが、安冨さんの語る「生きる技法」を実際に実現している人のように見えてくる。図書館で、アダムスの本を借りて読んだら、ますますそのように思えてきた。そこで、Twitterでアダムスの言葉を紹介してみた。以下のようなものだパッチ・アダムス1:パッチ・アダムスは、安冨さんが語る「生きる技法」を実際に体現している人ではないかと思える。そのパッチ・アダムスの本を見つけたので、印象的な言葉を引用して紹介したい。言い言葉は多くの人に味わってもらいたいと思うからだ。それを伝えることで僕も幸せを感じられる。パッチ・アダムス2:「この世で一番ひどい苦しみは、孤独だ。友だちが一人もいなくて、誰一人、自分を愛してくれないこと。寂しいから何かで癒されようともがくのは止めて、苦しんでいる誰かを抱きしめてあげよう。ありったけの愛を込めて、優しいまなざしを投げかけよう。報酬を求めず、…(続く)」パッチアダムス3:「…すべてを投げ出してその人のために全力で尽くしてみよう。そうすると、不思議なことが起こる。あなたの心にも体にも力がみなぎり、喜びがあふれてくるんだ。サポートが必要な誰かを見つけてケアすると言うことは、つまり自分が幸せになることであり、この世界に平和を作り出す…」パッチ・アダムス4:「…平和を作り出す行為でもある。なぜなら、喜びにあふれた人間が暴力をふるうわけがないからだ。愛と喜びは人々の心から怒りや暴力を消してしまう力を持っている。僕は、深い思いやりと愛の力でこの社会を根本から変えてしまうつもりなんだ。」実践家の言葉だから信用できる。パッチ・アダムス5:「僕はある意味では重荷を背負った「生き残り」なんだ。10代の終わりに深刻な心の危機に見舞われた。しかし、それを乗り越え、素早く立ち直ることが出来たのは、母が僕に自分を愛する心を与えてくれたからだ。僕はつらくてつらくて死にたかった。でも、自分を嫌いにはならなかったパッチ・アダムス6:「母が愛してくれたからだ。僕は精神病院に入院した。でも、最後には「死にたくない。僕はこのひどい状況を変えたい」と決意することが出来た。それは心の底の方に、「僕は普通とは違う人間になる」「何かが出来る人間なんだ」と信じる気持ちがあったから。母がそう言ったからだ。…パッチ・アダムス7:「…僕が何かをやろうとすると必ず母は、「あなたは出来る」と言ってくれた。」ここには教育の原点が語られている。子供時代に丸ごとすべてを認めてもらうと言うことが如何に大事かという。かつて河合隼雄さんもそう書いていた。僕が河合さんにも惹かれたのそのせいだった。パッチ・アダムス8:「苦しんでいる人を助けること。人生にはこの他に大切なものは何もないと言っていいくらいだ。僕にとっては、人に尽くすことそのものが生きる喜びだ結局の所僕は「人を助けること中毒」なんだ」アダムスは利他主義者ではない。人に強制するのではなく自分がそうしたいからやっているパッチ・アダムス9:「ところで、アメリカ人は全世界で誤解されているけど、自分の生き方を自分の考えで決める人たちの集まりではない。むしろ、彼らは躍起になって社会が求める鋳型にぴったりはまることを追求してるんだと思う。それが競争に勝ち抜く道だから。勝ち組に生き残るために。…(続く)」パッチ・アダムス10:「…つまらない生き方だ。人間的であると言うことは、「自分は他の人とは違う人間になる」「自分は何かをやってみせる」と考えることだ。人間はそれぞれ全部違うのだから。自分はどんな人間なのか、どう生きたいのか。「私は誰?これがなりたい自分なのか?」日々自分に問い直し、…パッチ・アダムス11:「…日々自分に問い直し、ごまかさないこと。自分がなりたい自分でいることが一番大切なんだ。」エリートの苦しみを適切に表現している。世界中同じなのだ。競争から来るプレッシャーと、それによって失う自分自身。勝者が幸せになれない現実はそのような理由から帰結する。パッチ・アダムス12:「ひょっとしたら、みんなは僕のことを精神的に強靱な、タフな人間だと思うかもしれない。でも、それは違う。僕は18歳の時に、地獄の釜の蓋を開けて覗いたんだ。そして思い知らされたんだ。自分にウソをついて生きることがどれほど悲惨なことか。それに比べたら、真実を生きる…パッチ・アダムス13:「…それに比べたら、真実を生きることの方がずっと簡単だ。」いい言葉だと思う。真実を受け入れた人間は幸せになり、受け入れらない人間は真実を憎むようになる。ほんのちょっとした違いなのにその差は大きい。どうすればそのような「生きる技法」を身につけることが出来るか。
2012.05.03
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安冨さんのこの本で最も共感し役に立ったのが「自己嫌悪」に関するものだった。僕は自己嫌悪をそれほど悪いものだとは思っていなかった。仕方のないものだと思っていた。若くて理想に燃えている人間なら、誰でもその理想像に比べれば劣っているのだから、そのような自己を悪く思っても仕方がないと思っていたのだ。むしろ、自己嫌悪に陥らず、自分に根拠のない自信を持つことを戒めようと思っていた。だが「嫌悪」という感情はそのような合理的なものではなかったのだ。それは何か抑圧された無意識からわき起こってくるような、抗いがたい感情だったのだ。理想から離れている自分に対しては、叱咤激励する気持ちは生まれてくるが、嫌悪の感情は良く考えてみるとなかった。嫌悪の感情が生まれてくるのは、やはりどうしようもなく自分がダメだと感じたときだった。自分がダメだと感じているのに、どうしてもダメだという評価に引っかかるとき「自己嫌悪」という感情が顔を覗かせる。ダメだと思わされている自分に気づくことで「自己嫌悪」を脱することが出来るというこの本の指摘は、まさに「生きる技法」だと思った。僕は同じ感覚を持つと言うことが苦手な人間だった。周りが楽しくしているときに、なぜかあまり楽しく感じなかったり、逆に周りが怒りに燃えているときに、その怒りが自分の中にわき起こってこないのを感じていた。どうして自分はへそ曲がりで、他人と違う感情を持つのだろうか、ということがある種の「自己嫌悪」になっていた。だがよくよく考えてみると、周りが楽しそうにしているのに、僕はその中でかなり孤独感を感じていた。話の輪の中には入れなかったりして、そうであれば楽しさを感じない方が自分の感覚には素直だったのだ。そのようなことに気づいて、周りをよく観察してみると、楽しい雰囲気なのに、実際には心から楽しんでいるかどうか疑問を感じるようなことも多々あった。僕のように、輪の中に入れなくてひとりぼっちのようになっている人を何回も見かけたからだ。また楽しそうに振る舞っている人も、そのような姿を期待されて、その役を演じているような、心から楽しんでいるのではなさそうに感じることもあった。自分の感覚に素直になっていないときには「自己嫌悪」というものが顔を出す。自分がそう思いたい感情と、自分の本当の感覚が違うところに「自己嫌悪」が生じる。この指摘は、これまでの自分の行動を理解するのに、まさにその通りと思えるものだった。自己嫌悪とともに語られる「憧れ」の説明も面白い。自己嫌悪は自分に何かがないことを感じている状態だ。安冨さんは「態度」だと語っている。何かが不足しているから、その不足を埋めようとして、それを持っているような人や物に「憧れる」。カリスマ的な人間に引きつけられるのは、この感情が大きいのではないだろうか。カルト的に何かに引きつけられる人間の感情の底には「自己嫌悪」があるのではないか。自己嫌悪は、自分がダメだというイメージであるから、成功し幸せになっている自分というものを正しい自分には思えなくなる。だから、自己嫌悪から抜け出さない限り、成功も幸せもない。実に明快な形式論理で、前提さえ同意すれば、この結論には自動的に同意できる。問題は、イメージとして定着しているダメな自分からどう脱却するかだ。安冨さんが提出する方法は、自分本来の感覚を取り戻すと言うことだが、これは自分では難しい。だから友だちが大切だと安冨さんは指摘する。簡単に取り戻せる自分の感覚なら、そもそも自己嫌悪になど陥らないだろう。今日は「パッチ・アダムス」というロビン・ウィリアムス主演の映画を見ていたのだが、ここに、自己嫌悪から抜け出す具体的な道筋を見たように感じた。アダムスは、自殺未遂で病院へ入ったような人間だった。彼はおそらく自己嫌悪の強い人間だっただろう。彼がそこから抜け出したのは、同室の患者との心の交流だった。精神を病んでいたその患者は、おそらく誰にも理解されない存在だった。医者でさえも、彼は治療の対象だが、人間として理解する対象にはなっていなかった。その彼を、アダムスは理解しようと努めた。そして、彼がアダムスの行為を心から受け入れたとき、アダムスはその瞬間に救われたと感じた。自己嫌悪から抜け出したのだ。この同室の患者を「友だち」と呼べば呼べないことはない。だが、安冨さんが語る「友だち」は、たぶん象徴的な存在で、必ずしも普通の意味での「友だち」でなくてもかまわないと思う。僕にとって救いとなってくれたのは、養護学校や夜間中学校での生徒だったからだ。卒業後には、本当に「友だち」となった人もいたが、大事なのは心から受け入れられたという思いを、お互いが抱けるかと言うことだと感じる。一方的な関係ではなく、双方向的な、お互いを感じることが大事だ。相手を、何か肩書きや立場で理解するのではなく、そこに存在する個人として理解したときに、そのような感情が生まれてきたのを感じた。その人の前では自分自身でいられる。そのような感情をお互いに抱ける人が、たぶん「友だち」というものだ。僕も相手をそのように、生のままで受け入れることが出来たとき、僕も受け入れられたと感じられるのだと思う。これは、そのような関係が出来れば、親子や兄弟であっても「友だち」になるだろう。しかし、嫌な面もすべて知っている近い存在ほど、すべてをそのまま受け入れるのは難しいかもしれない。また、親は子供をコントロールできてしまうだけに、生の子供自身を見ることが難しいかもしれない。自己嫌悪は態度であるという指摘も共感するものだ。自己嫌悪は、何か客観的な事実があって、それを根拠に自分がダメだと思っているのではなく、最初から自分はダメだという思いがあって、何をしてもダメという「態度」を取るのが自己嫌悪になる。ここから抜け出るのに、根拠のない自信を持っても、それは隠蔽された自己嫌悪になるだけだ。そうではなく、ダメだと思わされていた自分自身を素直に見つめて、ありのままに受け入れるという「態度」さえあればいいのだ。人間は完全ではないのだから誰にでも欠点はある。そういう全体として受け入れるのだ。それは、そういう自分を受け入れてくれる「友だち」と出会うことによって「態度」が変わる。利他主義者に対する批判も共感する。僕は利他主義者が嫌いなのだが、その理由をこれほど見事に説明してくれた言葉はない。大きな共感を覚えた。安冨さんは次のように書いている。「利他主義者はかなり厄介者で、どう付き合ったらよいかよく分かりません。彼らは「自分の利益のためにやっているのではない」と言って、あまり意味のないことに奔走し、周囲の者に犠牲を強要する圧力をかけてくるのです。そこから生じる世間の評判や栄誉は、利他主義者の独り占めです。」ここで語っている利他主義者については、その具体像がありありと浮かんでくるくらい、僕は利他主義者と出会ってきた。その圧力を感じて、自己嫌悪を強められたこともあった。だがもうさよならだ。利他主義者も、自らの自己嫌悪を他人に押しつけて、自分の自己嫌悪を少しでも軽くしたいと思っている利己主義者に過ぎないと思えるからだ。自分はそういう人間は嫌いだから、彼らとは別の道を歩む。本当の意味で自己嫌悪から脱するのだと宣言したい。最後の「うぬぼれ屋」への言及は、安冨さんがどうしてエリート主義にならないか、その理由がよく分かる文章だ。引用して終わりにしよう。「うぬぼれ屋は最悪で、こういう連中を私は何度も間違って能力のある人だと思い込んで、煮え湯を飲まされました。なんだかんだと他人の悪口を上手に言って、あたかも、自分はそういうことなどやらないかのように見せかけます。その実、自分こそが、そういう行為をこっそりやっているのです。そして放っておくと、なんだかんだと逆恨みして、世話になっている人の悪口を言って回ったりして、人を裏切るのです。エリートというものは、大変なうぬぼれ屋が多いため、エリート世界は誠に生きにくい場になってしまいます。」
2012.04.30
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夢というのは、まだ現実化していない空想で、頭の中に存在している。これは「想像」という現象をどう捉えるかと言うことでその理解が変わってくる。僕の尊敬する三浦つとむさんは、「観念的な二重化という言葉で「想像」を捉えていた。「想像」は、「現実」の世界と「想像」の世界と、世界が「二重化」するところに本質を見ていた。この世界の「二重化」は自分自身の「二重化」ももたらす。現実の自分と、「想像」の中の観念的な自分と、自分が「二重化」する。これを「観念的な自己分裂」と呼んでいたように記憶している。さてこの二重化した世界を見ていると、現実の自分の他に、未来のあるべき姿の自分というのを見ていることになる。ここに夢が自分を駆動するエネルギーとして働く根拠を見出すことが出来る。安冨さんは、夢としての想像は具体的に見る必要があると書いている。具体的に見ている夢は、二重化した世界でも生き生きと躍動しているだろう。そうすればエネルギーとしてもパワーが大きくなるのではないかと思う。安冨さんは、抽象的な夢は良くないとも書いている。その一例として「東大に入る」という夢を上げているのだが、僕はこれには最初違和感を抱いた。「東大に入る」という夢も十分具体的な感じがしたからだ。これは、もう一つ良くないとされている「記述的」と書いてある言葉で理解できそうだ。「東大に入る」という夢は、言葉として記述は出来るが、そういう姿を生き生きと描くことが難しい。これに対して、この夢以上に空想的な「プロ野球選手になる」という夢があるが、これは野球で活躍している自分というのを、少なくとも想像の世界では生き生きと描くことが出来る。そうすると日々の練習などでもその夢を描きながらやれば、つまらない反復練習も未来の楽しみのおかげでやる気が出てくる。「プロ野球選手になる」という夢は、記述する前にすでに頭の中に映像が浮かんでくる。そのようなものこそが具体的で、記述的・抽象的ではない夢なのではないかと思う。このような夢があれば人間は幸せになれる。この章で大事なものはあと三つある。一つは、「夢を否定形で考えない」というものだ。これは、否定形というものが、言葉を媒介しない限り理解できないという安冨さんの考えから来ているのではないかと感じる。否定形の夢は常に記述的なのだ。そうならないように頑張ろう、というものは自分を駆動するエネルギーにはならない、というのは共感できる指摘だ。むしろ心理的なプレッシャーのせいだろうか、否定形の夢は、そうなりたくないのに、そうなってしまうという結果を招くという指摘もある。これは大事なことだ。練習では名プレイヤーなのに、試合ではさっぱり実力を出せないというスポーツ選手の場合は、この否定形の夢がメンタル面を支配しているように感じる。失敗したらどうしようというプレッシャーのために、試合ではスムーズな動きが出来ないのだと思う。『車輪の下』のハンス・ギーベンラートの失敗も、試験に絶対に成功しなければならない、失敗してはならないという否定形の夢のせいのように感じる。ヘッセはそう表現していたように感じる。二つ目の重要なポイントは、夢は達成することの意義よりも、その過程にあると言うことの意義の方が大きいというものだ。夢は自分を稼働するエネルギーだ。だから、過程にあって、夢を意識していることが大事だ。その時に最も大きなエネルギーを得る。もし達成してしまったら、次の夢を持たなければ、エネルギーはなくなってしまう。燃え尽き症候群のようなものだ。若い内に夢を達した人間が、その後の人生で不幸なのはそのせいだろう。過程にあることが大事な夢は、板倉聖宣さんが語った究極の理想と呼べるもののように感じる。究極の理想は達成は難しい。簡単に達成できる理想は理想ではない。しかし、実現不可能な理想は、今度は理想として掲げ続けることが難しくなる。捨て去ってしまいたい妄想のように感じてしまう。ずっと持ち続け、しかもなかなか達成できない究極の理想こそ、過程にあることが尊い夢になりそうだ。過程が大事だと言うことでは、安冨さんは次のように書いている。「そうやって、夢を描きつつしっかり歩むならば、その夢は実現しないとしても、その過程で得られることによって、あなたは次の夢を夢見ることが出来るようになります。そのような、夢の渡り歩きこそが、あなたの「道」です。」究極の夢の過程で、小さな夢があり、それがここで語っている「次の夢」を生んでいくような感じがする。そうすれば、夢の状況の良い展開が得られるだろう。この本の表題の「生きる技法」にふさわしい知識だ。最後に大事な三つ目のポイントは、実は夢ではなく幸せに関するものだ。それは次の安冨さんの言葉で語られる。「幸福というのは、感じるものです。幸福だと感じれば幸福であり、感じなければ幸福ではないのです。」これは実に示唆に富んだ指摘だ。幸福というのを自分の環境のように考えている人もいるのではないだろうか。物質的な裕福さや、成功や賞賛という名誉に関するものが幸福なのではないかと考えていないだろうか。しかし、幸福というのは「感じ方」という自分の内面の問題なのだ。これは僕は完全に同意するのだが、感じ方など勘違いもあるではないか、と考える人もいるだろう。だが、この感じ方は、単にそう思い込んでいるというものではなく、自分の生な感覚に素直に従って感じるということが問題にされている。文学的に表現すれば「心からそう感じている」とでも言う状態だろうか。問題は、そのような感受性を邪魔するような要素が現代には多いと言うことだ。安冨さんの指摘では、特に子供時代の育ち方に問題があるという。しつけという名で行われる精神的な虐待が、子供の感受性を限りなく生のものから引きはがし、感じさせなくしてしまうからだ。この生の感受性を取り戻し、この感受性に従って幸せだと感じるかどうかが、安冨さんが言う「幸福を感じる」と言うことだ。この感受性が壊れている人は、決して幸せを心から感じることが出来ず、どんなに良い状況にいると思えても常に不安に悩まされる。日本人の多くが物質的に豊かなのに幸せを感じられないのは、この生の感覚が壊れている人が圧倒的に多いからだ。この感覚が、僕の中では壊れているのかまともなのかは分からない。それを知るには、他者を生の感覚で受け入れるという経験と訓練で学習していくしかないのではないかと思う。僕は、これから出会うすべての人に対して、その人の生に出会えるかどうかをいつも考えながら行動しようと思う。そして、他者の生を受け入れられる人間になったら、その時は自分の生を受け入れてくれる人を探し、幸せの感覚を取り戻すことが出来るのではないかと思う。これは、僕の一つの夢になるだろうか。
2012.04.29
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自由というものを僕は三浦つとむさんから、「必然性の洞察」であると学んだ。これはヘーゲルの言葉らしいのだが、自由という概念の弁証法的理解が込められている。自由というのは普通は制約のない状態だと捉えられている。何ものにも縛られていないから自由なのだ。しかしこの考えを極端にまで推し進めると論理的な矛盾が生じる。何ものにも縛られていないのを自由だとすると、その自由は現実には存在しないということになってくるからだ。つまりすべての制約から解放されている存在はないということだ。そのようなものは想像上の神にでも帰属する性質となる。現実の自由は、何かの制約があるという自由の対立物を背負っている。つまり弁証法的存在なのだ。自由はその対立物である制約との調和の元に実現する過渡的状態だと僕は三浦つとむさんから学んだ。「必然性」という制約は逃れることの出来ない制約だ。だからこそそれを洞察することが現実の自由につながる。必然性に逆らうことが出来ないのだから、それを洞察して調和を図るところに現実の自由がある。これは論理的に正しい。問題は、この論理的に正しい方向が、実践的にはとても難しいところだ。我々はどうやって必然性を洞察すればいいのか?必然性の洞察は科学の進歩とともにより深く広くなってきた。我々の自由度は広がったと言っていい。だがまだまだその範囲は狭い。世界には解明できていない事柄は山のようにある。そして、解明不可能ではないかという事柄さえある。ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬことは沈黙すべき」と語ったのだが、原理的に必然性が洞察できないことは「語り得ぬこと」ではないかとも感じる。マル激での安冨さんと宮台さんの議論の中で「宗教的なもの」が語られていたが、それはまさに必然性が洞察できないもので、運命というような解釈しかとり得ないもののように見える。大震災のような災害に遭うということや、犯罪被害者になってしまうというようなことは、なぜ自分がそのような目に遭うのかという必然性はない。強いていえば、確率的にゼロではないから、誰かがそのようになるのであって、その誰かが自分であるのは偶然だ。必然性は、誰かがそのような目に遭うということだけだ。放射線の被曝による癌の発生についても、それは確率的な現象だから、誰かが癌になるのは必然だが、誰が癌になるかは偶然だ。このような必然性は、それを洞察したからといって果たして「自由」になるだろうか?むしろ不安が増して不自由になってしまうのではないか。「自由」を「必然性の洞察」と捉えるのは、素晴らしい弁証法的思考だと思うが、論理の明快さに比べて、実践の困難はとても大きい。この実践の困難さに明快な解答を与えるのが、安冨さんのこの第5章だ。「必然性の洞察」を別の視点で見ると、安冨さんが語る「選択の自由」に行き着くのではないかと思う。すべての選択肢の中から最適解を選ぶというのが「必然性の洞察」をすることで可能になる。理論的にはその通りだと思う。しかし実践的には、安冨さんが語る「計算量爆発」という現象のために、その最適解を選択することが出来ない。「必然性の洞察」の困難さの理由がこれで分かった。必然性を洞察し、最適解を計算しているだけで人生の大半を使ってしまうのだ。「必然性の洞察」は、実践的には不可能なのだ。それでは「自由」の根拠をどこにおけばいいのか。必然性の洞察でないとするといったい何が自由の根拠になるのか。これにも安冨さんは明快な解答を与えている。そして僕はそれに共感し、見事な解答だと思う。自由の根拠になるのは、命題6-8で語られている「自分の内なる声に耳を澄まして、その声に従う」ということだ。自分の感覚を信じその通りに行為することこそが、自由に振る舞うということなのだ。これは考えてみれば当たり前だと思うのだが、それは単なる思い込みでわがままではないかという声も聞こえてきそうなので、誰もそのように考えなかったのではないだろうか。これが単なる思い込みではなく、自由であるためには、その心の声に従うことから学習が始まらなければならない。学習せずに、自分のエゴに執着して選択しているのでは、それは全然自由ではないのだ。執着は自由ではない。何かの狂った像に縛られているだけだ。命題7の「自由でいるためには、勇気が必要である」という指摘も共感するものだ。エゴで心の声に従うのでなければ、それは世間の常識と対立する場合がしばしばある。そんなとき、自分の感覚を否定してしまえば自由にはなれない。自由になるためには、社会を支配する空気と戦わなければならない場合が多々ある。とても勇気のいることなのだ。この自由の概念は、安冨さんが『生きるための論語』で論じていた西欧倫理学の難問への答にも通じる。それは、どちらを選んでも倫理的な大問題が生じるような問題に対して、究極の選択をするものだ。マイケル・サンデルによって有名なった。暴走するトロッコの行き着く先にいる一人と五人の、どちらを犠牲にして救うかという選択だ。これには必然性はない。どちらを選んでも困る。どちらも選びたくない。カント的な自由の概念では、このような状況においても、どちらを選ぶかという決定が出来ることが「意志の自由」として語られているように感じる。理論的にはそれはその通りだと思うが、実践的にはそこに自由があっても解答を出すことが出来ない。そこがこの難問の難しい点だ。安冨さんは、この場合でも自分の内なる感覚に従って解答を出せと言う。それこそが自由な思考だという意味だろう。僕もそう思う。そして、どのような結果が出ようとも、その結果から学ぶことが出来れば、それは自由につながるのだ。本質は学習の回路が開いているかどうかということにある。それこそが自由の根拠になる。この発想は、またしても僕の尊敬する板倉聖宣さんの考えに通じるものになる。板倉さんは、「どちらに転んでもシメタ」という格言をよく語った。これは選択が難しい問題にぶつかったときに、たとえどちらの道を選ぼうとも、その結果から学んで、「シメタ」つまり利益となる方向を必ず見出すことが出来るのだという学習の方法を語ったものだった。これは安冨さんが語る「学習」と「自由」の理論を総合したものから導かれるものになるのではないかと思う。安冨さんの主張をすんなりと受け入れ、前からそう考えていたという親しみを感じるのは、安冨さんが普遍的な真理を語っているからではないかと思う。自分がそう思っていたことを適切に表現してくれる人に出会うと、真に幸せな気分になる。このことを多くの人に知らせたくなる。
2012.04.24
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安冨さんが第4章で語るのは貨幣、すなわち金についてだ。ポイントとなるのは、これは便利なものではあるが、使い方を間違えると失うものがあるということだ。それは人と人をつなぐ「信頼」というもので、貨幣は、信頼なしに人と人を結びつける便利さがあるので、この便利さに頼りすぎると、信頼そのものを得ようとすることが難しくなる。貨幣はどんな商品とも交換可能だ。金さえあれば物はすべて手に入る。とりあえず生活の糧を手に入れることは出来る。生命を維持することは可能だ。だが人間が生きるというのは、単に生命が維持されていればそれですむものではない。生き甲斐、あるいは幸せというものは金では手に入らない。安冨さんは、貨幣なしで生活をするドイツ人ハイデマリー・シュヴェルマーという女性を紹介している。彼女は「知らない人とでも信頼し合い、交換し分かつことが出来、それによってともに楽しみ、最後には友だちになることも出来る」という考えの実践のために貨幣なしの生活という実験に踏み切ったそうだ。他者に頼る第一歩はどのようにして信頼関係を築くかということから始まる。それはすでに築いていたネットワークを使って、信頼関係で結ばれる人間関係というものの構築をしたらしい。全く見ず知らずの間では、やはり信頼関係は難しいと思われるので、その基礎は必要だろう。だが大切なのは、信頼関係が基礎であって、何か能力があったり財力があったりという関係を基礎にして人間関係をつくるのではないと言うことだ。信頼関係が基礎にあれば、何かあったときに助けてくれるということを期待できるだろう。この信頼関係というのは、助けというのももちろん期待できるが、実は生活の全般にわたって良い方向への変化をもたらすきっかけを与えるのではないかと思う。貨幣がない方が信頼関係の構築が本物になり、貨幣があるとこの信頼関係を築くのが困難になるという逆説を、このドイツ人女性の実践が教えてくれているように感じる。我々は自分の楽しみのために金を注ぎ込むのはあまり躊躇しない。趣味に大金をつぎ込む人もいる。しかし、寄付やカンパを惜しみなく出す人は少ない。他者への支出は、その他者への信頼度で気分が違ってくるように感じる。本物の信頼関係を築いている相手が少ないのではないかと思う。誰から聞いた話だったか忘れてしまったが、もう退職した年輩の人が、かつて貧しかった時代に同僚が給料を無くしてしまったので、自分の給料を封を解くこともなく渡してしまったという話を聞いた。その人はご主人の収入があったので一月くらいがまんが出来ると思って、同僚があまりに困っていたので渡してしまったらしい。いくらいい人だといっても、自分の給料をそのまま渡せる人は少ないだろう。思いやりの心と同僚への同情心の厚い人だったのだろう。だがどういういきさつかはきかなかったが、この同僚がいなくなってしまったらしい。そして年月の経過でそのことをすっかり忘れていたようだ。そんな日々を過ごしていたときに、かつて給料を借りた元同僚がはるばると訪ねてきたという話から、このことを僕は聞いた。そのお金を借りた元同僚は、その後事情があって土地を離れなければならなくなり、借りた金のことがいつも心に引っかかっていたという。そしてようやく返せる日が来て、訪ねてきたという。彼女の信頼感が裏切られなかったというのに僕は感動した。本物の信頼は、こうして他者の心にも届いて、それに応えようとするものだと感じた。この感覚を実感として身につけるのはとても難しいだろう。でも、金よりも信頼感の方が人を幸せにするということは、一度経験すればその方が真実だと思えるようになる。この章は金のことを語っているけれども、それよりも信頼の方が大事だということを語っているようにも見える。僕は教育に携わっているが、教育においても、能力よりも信頼関係の方が基礎的なものではないかと思っている。信頼できる相手からものを教わるというのは、能力に見合った効率的な教育よりも、深くて、より本物だと思えるものが学べるのではないかと思っている。僕は、この章から「信頼」というキーワードを学んだ。
2012.04.22
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第3章では安冨さんは愛について語っている。この章では、安冨さんの言葉の定義の巧みさに最も印象づけられた。安冨さんは、「名を正す」と言うことで、言葉を正しく使うことが真実への道であることを語ってもいるが、それをこの省では見事に実践している。愛という言葉の本当の意味を語ることで、愛という言葉の名を正している。安冨さんは、愛を「自愛」と定義づけている。これとよく似たものに「自己愛」というものがある。両者の違いは、「執着」という言葉で語られる。「自己愛」は「執着」から発する。「自愛」には「執着」はない。むしろ執着を否定することによって自愛を獲得する。執着するのは、それが自分に足りないのを悪と感じて認められないからだ。自分をありのままに認めることが出来れば、執着を離れ、自分を本当に愛することが出来る。自分を大事にすることが出来る。この自己愛とともに提出される概念が「自己嫌悪」だが、この定義に僕は最も深い共感を覚え、この定義なら「自己嫌悪」を脱することが出来ると思った。それは次のようなものだ。「自己嫌悪とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れることが出来ない状態です。そして、自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感や罪悪感を抱くのです。 これはその人が勝手にやっていることではありません。自分とは異なる像を自分の像として、誰かに押しつけられていることから生じます。その上、押しつけられているという事実を自ら隠蔽するのです。こうやって押しつけられた像があるべき姿となり、それとズレた自分の姿を嫌うのが自己嫌悪です。」僕は、自己嫌悪というものを青春期にかかるはしかのようなものだと思っていた。青年は誰でも理想像を持っているので、その理想像に対して現実の自分がとても追いつかないからそこに嫌悪を感じて誰でも自己嫌悪に陥るのだと思っていた。だから、成長し現実を正しくとらえ、大人になることで自己嫌悪から脱するのだと思っていた。だが端から見ていると、どうしてもひどい性格の持ち主で、それを自分で自覚したら自己嫌悪に陥らずにはいられないような人がいるのにも気づいた。多くの場合、驚くことに、そのような人は自己嫌悪に陥るどころか、わがままのし放題で自分のひどさに対する自覚が全くない。自己嫌悪に陥る人は、むしろ誠実で真面目な人が多く、そんなに自分の評価を低く見なくてもいいのにと思えるような人が多かった。自己嫌悪というのは理不尽なもので、このようなものを通過しなければならないというのは全く困ったものだと思っていた。しかし、安冨さんの「自己嫌悪」の定義を見て、すべてが合理的に理解できた。世界の姿が、霧が晴れて明確に見えたという感じがした。自己嫌悪とは、理想像があって、それに比べて自分の姿を嫌悪するのではなく、誰かに洗脳的に押しつけられた像に対して自己を評価するのだ。だから、その像の通りに自分を作ってしまった者は、その像がとんでもなく醜いものであっても自己嫌悪を抱かなくてもすむのだ。自己嫌悪に苦しんでいる人の方がむしろ誠実に見えるのは、その押しつけられた像の方が狂っているからだ。狂っている像と自分を重ねることが出来ないので自己嫌悪に苦しむのだ。そして、自己嫌悪に苦しまずに、狂った像と自分を重ねることに成功した人間が、むしろ現実社会で成功を勝ち取る。嫌なやつほど主流派にいるという現実の姿が妙に納得出来たりしてしまう。狂った像を押しつける行為を安冨さんは「ハラスメント」という概念でも語っている。これも教育を考える上で大変役に立つ概念だ。すべての元凶は狂った象にあるのだが、これをあるべき姿だと勘違いすると、それに重ならない自分の本当の感覚の方が正しいのに、本当の感覚の方が苦しみを与えるようになる。そうすると、自分であり続けようとすると「不安」が大きくなっていくようになる。この不安を埋め合わせるために執着が始まり、「自己愛」に包まれた人間になっていく。わがままで自己中心的で嫌なやつになっていくわけだ。これが「ハラスメント」という、他人の美点を切り取って自分のものにしようとする行為にもつながってくる。実に論理的にすっきりした展開だ。すべてのつながりが合理的に理解できる。気分がすっきりし、自分が自己嫌悪から解放されていくのを感じる。これが学習の喜びだ。多くの人は、執着することが他者を愛していることと勘違いをしている。他者のことを思っているから執着していると感じるわけだ。恋い焦がれることが愛情だと思っている。それに対する次の安冨さんの指摘は全くその通りだと思う。「執着から生じる異性に対する欲情の表現は、ストーカー行為かセクシャル・ハラスメントであって、それは愛情とはなんの関係もありません。ところが、往々にして、執着している本人ばかりか、その執着を向けられる人まで、あるいは周囲の人々までもが、それを愛情と誤認するのです。その執着の度が過ぎていたり、状況があまりにも不適切である場合にのみ、ストーカー行為やセクシャル・ハラスメントと見なされます。 しかし、ストーカー行為と愛情とは、全く相容れない、正反対のものです。執着に基づくものは、どんなに低レベルであっても、不埒で悪質で破壊的なものであって、ストーカー行為と同じことです。執着するということは、相手の持っている美点を狙うということですから、その人の人格全体には無関心です。」自己嫌悪というのは、その元凶になるのは押しつけられた狂った像であるが、それは本人には自覚できていない。無意識の底に押し込んで「抑圧」しなければ生きていけない。だから自己嫌悪から脱するのは困難がある。この困難を克服するには、無意識の抵抗があろうとも、自分自身の生の声に耳を傾け、自分の感覚に素直になることだ。そう安冨さんは語っている。この「抑圧」の説明は、僕は内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』で明快に理解することが出来た。そこで内田さんは、狂言の「ぶす」において、頭のいい太郎冠者が、無断で砂糖をなめてしまったことを隠蔽することが出来たのに、太郎冠者自身がずるがしこいウソつきだとみんなに思われているという認識だけが欠けていた、ということから「抑圧」という言葉を説明していた。そのことを認めてしまうと、自分の存在を否定するに等しい事実であれば、無意識のうちにそれをないことにしてしまうと言う「抑圧」の心が働く。押しつけられた狂った像もそのような「抑圧」のメカニズムが働いている。そして、狂っているものこそが正しいと倒錯して理解していると、実にひどい性格の持ち主として成長してしまう。頭がいいのに、その理解だけは出来ないという不思議な存在になる。この「抑圧」に逆らって自分の本当の感覚に従うのはとても難しい。だが、狂った像をそのまま認めるのではなく、「自己嫌悪」というきっかけでその像の狂いに気づくことが出来れば、この「抑圧」を抜け出る可能性も出てくる。「自己嫌悪」を自覚的に捉えることで、本当の感覚を大事にする道が開けるかもしれない。最近読了した『検事失格』の著者の市川寛さんは、実はこの「自己嫌悪」から抜け出る過程で、自分の感覚を取り戻したのではないかと感じる。安冨さんの理論が正しいことを、市川さんの生き方が証明しているように僕には感じた。
2012.04.22
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安冨さんが第2章で語るのは友だちについてだ。それは1章で語った自立としての依存を実現するための友だちのことを語っている。自立のための依存には本当の友だちが必要だ。本当の友だちとはどういうものだろうか?それは偽物と比べることによって明らかにされる。誰とでも友だちになると言うことの批判を安冨さんは語っている。誰とでも友だちになろうとすると、本物の友だちは逃げてしまい、偽物の友だちが自分を支配してこようとするのを防げないからだ。そう、偽物の友だちは、自分を支えて、助けが必要なときに支えてくれるような依存をさせてくれる友だちではないのだ。それは、自分の中から利用可能な資質を奪い取っていく、利益のために他者を利用しようとする人間だ。そのような人間を友だちだとは思ってはいけない。誰とでも友だちになると言うのは、「みんな仲良しの教育」として宮台真司さんも批判的に語っていた。それは人殺しに通じる教育だと。これには共感しつつも、理屈ではよく分からないところがあった。どのような論理的なつながりで、「みんな仲良し」が「人殺し」につながっていくのだろうかと。安冨さんの論理展開は、そこの所をすっきりと解決してくれた。誰とでも友だちになるという「みんな仲良しの教育」は、ハラスメントを仕掛けて支配してこようとする者とも友だちになることを勧める。そうするとそこにハラスメントの連鎖が起こり、それが「人殺し」につながってくるのだ。安冨さんは、本当の友だちは、お互いを尊重して、お互いの本当の姿をそのまま認めてそこに美点を見出そうと努力すると指摘する。決して自分の都合のいい像を相手に押しつけて、相手が自分の思うように振る舞うことを要求したりしないという。像を押しつける人間は、それがその人間の利益であるにもかかわらず、それを押しつける相手が自分の利益と考えるように仕向ける。そのような働きかけを安冨さんはハラスメントと呼んでいるのだが、偽物の友だちの間にはハラスメントが蔓延している。偽物の友だちに支配されると自分自身を出すことが出来なくなり、主体性を失う。倒錯した感覚を持たなければ、その状態に耐えることが出来なくなる。そのため、人の不幸が自分の幸せのように思えたり、ハラスメントの犠牲者を作ることによって自分のハラスメント被害を埋めようとしたりする。これは精神的に人間を殺すことになり、直接の「人殺し」につながってくる。安冨さんは、本物の友だちを友だちと呼ぶべきだと主張しているように見える。以前に読んだ橋下徹大阪市長の『どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術) 』という本では、本当の友達を作るのは無理だから、ちょっと親しい人間を友だちだと思えばいい、という主張が書かれていた。この本では、友だちがいないことに悩む必要はない、友だちなんてその程度のもので、時間がたって離れていれば忘れてしまう存在に過ぎないと言うことが語られていた。宮台真司さんは、今の若者が言う親友というのが、我々のような高齢の世代にとってのいわゆる友だちで、親友と呼べるような友だち関係が今の若者には持てていないということを指摘していた。親友というのは、宮台さんによれば、心の奥底を話せる相手であり、絶対の信頼を置ける友だちのことだ。いわゆる友だちは、近くにいたという場の偶然性から親しくなった相手に過ぎない。今の若者の心理には、相手からどう思われるかと言うことを心配するあまり、相手との関係性を保つために相手に配慮するという傾向があるらしい。その関係性を保ちたい相手を、今の若者は親友と呼ぶようだ。それは信頼を基礎にして、何でも話せるという間柄にいるのではなく、単に関係性を保ちたいために相手にいろいろな配慮と譲歩をする存在のようだ。これは確かに我々が考える親友ではない。この友だち概念の違いは、安冨さんが語る「本当の友だち」を理解する上では大切だと思う。僕は、以前は宮台さんの分析に共感し、親友という概念が重要だと思っていた。しかし今では安冨さんが語る友だち概念の方に惹かれるものを感じる。親友と単なる友だちを区別してしまうと弊害が現れるような気がする。安冨さんが語る「破壊的構え」、つまり自分を支配し利用しようとする人間とも適当に付き合うような関係を持つ結果になりそうな気がする。安冨さんは、友だちを創造的な構えを持つ人間と規定し、そうでない破壊的構えを持つ人間とは友だちにならず避けるようにしなければならないと語っている。創造的構えの人間は、互いの本質を理解し合い、互いを尊重し尊敬し合う関係になれる。しかし破壊的構えの人間は、相手を利用しようとしているのであり、自分の本当の価値を見失うように仕向けられる。このような相手とは友だちになってはいけないのだ。誰とでも仲良くするわけではないが、嫌な相手とも適当に付き合うというのが、橋下さんや宮台さんの語っていた友だち概念のように感じる。橋下さんは、親友などほとんどいないと語り、宮台さんは親友を求めはするが、適当に付き合う人間もいると捉えているようだ。両者の考えの中には、そうしないと付き合う相手がいなくなり孤立するという考えが含まれているのではないか。親友はなかなか見つからない。だが、これを創造的構えを持つ人間として、安冨さんが語るような友だちと考えると、自分が創造的構えを持つことによって、そのような相手が現れたときにそれを感じ取るセンスを身につけることに努力すると発想すればあまり孤立感を感じなくてすむ。自分が創造的構えを持つことが出来るなら、いつかはそういう相手と出会えると思えるからだ。自分に出来ることなら、それが出来る人間はたくさんいるに違いないと思える。嫌な相手とは、適当に付き合ってもいけない。むしろ自分が創造的構えを持つように努力すべきだ。自分の感覚に正直になり、好きか嫌いかを自覚して決断をする。創造的構えを持つことが出来れば、破壊的構えの人間は自然に去っていく。残るのは創造的構えの人間だけだ。それが<本当の友だち>になると言うのが安冨さんが語る本質ではないだろうか。本当の友だちというイメージで思い出すのは、重松清さんの小説『きみの友だち』だ。主人公の少女は、交通事故に遭って多くの「友だち」を失う。だがその大部分は、表面的に付き合っているだけの友だちだった。お互いが、相手の受け入れやすい自分の像を作って、友だちの前で演じるという形での「友だち」だった。しかし多くの「友だち」を失うことで、少女は自分自身を素直に出すようになった。もう相手の感じ方を気にすることがなくなったからだ。どうせもう友だちはいないのだし。自分を素直に表現するようになって孤立するようになった少女に、そのままの姿を受け入れてくれる創造的構えの友だちが現れる。これは小説だから、と思う人もいるかもしれないが、構えが違ったために今まで気づかなかった友だちに気づいたと言うことでもある。これは小説が真理を捉えていると僕は感じた。新しい友だちも、どちらかと言えば孤立している少女で、多くの子供たちに受け入れられているとは言い難い存在だった。しかしこれはある意味では当たり前で、破壊的構えの人間が多い中では、創造的構えの人間は孤立せざるを得ない。だが、創造的構えを自分で見つけた人間は、今まで見えなかった他の創造的構えの人間が見えてくる。それをこの重松清さんの小説は感じさせてくれる。「親友」という存在は、どちらかというと感情的な思いが強く出るもので、直感しないとそういうものがつかめない。だが、安冨さんが語る「創造的構え」という概念は、この直感を理論として提出してくれている。直感に確信を与えてくれる理論だ。「創造的構え」こそが親友へとつながる道だ。これの実現を目指して日々努力することにしよう。
2012.04.08
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「自立とは依存のことだ」というのは、言葉の意味では逆説的で矛盾していることを言っているように感じる。反対の意味のように見えるからだ。しかし僕は、安冨さんの本を読む前から、何となくそのようなイメージを持っていたので、安冨さんの主張をすんなりと受け入れることが出来た。安冨さんの説明も極めて論理的ですっきりしているし。自立が依存であるというのは、僕の尊敬する三浦つとむさんが、人間は他者の労働を受け入れなければ生きていくことが出来ない、ということを人間社会の原理として語っていたことからそのようなイメージを持っていた。人間は労働によってお互いを作り合う。マルクス主義の人間論として労働生産物を消費することによって人間そのものが生産されるという「生活の生産」について三浦さんは語っていた。他者の労働生産物を受け取らない限り生活は生産できず人間は生きていくことが出来ない。自立と言うことが、他者に全く関係なく生きることではないというのは自明なことのようにも僕は思っていた。しかしそれを依存と捉えるのはなかなか難しいかもしれない。僕が働いていた肢体不自由児の養護学校では、他者の手を借りずに日常生活の細々したことが出来るようになることを「自立」と呼んでいたから。誰かの手を借りるのは依存であり、それは自立していないものとして考えられていた。そのことを変だと思ったのは、当時千葉敦子さんという乳がんで亡くなった国際ジャーナリストの本を読んでいたときだった。千葉さんは四肢の麻痺がある箙田鶴子さんとの共著で『いのちの手紙』という本を書いていた。この中で、しばしば障害者が介助を受けることを論じていた。それは何かを手伝ってもらうというのではなく、介助されることが生活の一部として組み込まれているのであって、依存というような誰かにもたれかかっている状態ではないと言うことが論じられていた。当たり前の前提として考えなければならないことだと。この頃は、まだ依存という言葉に悪いイメージがついていたので、依存ではないと言うことを語っていたように受け取っていたと思うが、実は依存というものがもたれかかるのではなく、信頼を基礎にした助け合いなのだと理解すると、千葉さんたちも、正しい依存について議論していたように感じる。依存というものを、誰にも頼らずにすべて自分でやることだと考えると、実は大きな落とし穴があるのを指摘しているのが安冨さんのこの本の第一章のような気がする。三浦さんも語るように、人間が社会で生きていくというのは相互に依存し合うことを原理としている。それなのに誰にも依存しないで生きようとすると、どこかで自分をごまかさないとならない。誰にも依存しない状態がいいもので、依存しないことが自立として推奨されると考えるとそうでないときに後ろめたいものを感じる。そのような後ろめたさが負い目になり、実は依存せざるを得ない人がいたときに、その依存が必要以上に重いものになり、単に寄りかかるのではなく支配されるという関係にまで進む恐れがある。他の誰にも依存できず、その人間だけに依存するという関係を築けば、その依存がなくなったときの恐怖と不安によって、その依存している相手の支配を受けずにはいられなくなる。この指摘は深い共感を感じるもので、しかも他の誰も明確な形では指摘してこなかったもののように感じた。安冨さんの視点と考察のすごさを感じるところだ。依存というイメージを、手垢のついたものではなく新しい概念として捉えると、相手への信頼が基礎になった関係で、援助を得ることに対して負い目を感じることなく、自分が困ったときは助けてもらうし、相手が困ったときは逆にこちらが助けると言うことを、何の疚しさも計算もなく素直に出来ること、というように言い換えられる。これこそが正しい依存だ。このように依存を新しいイメージで捉えると、依存する相手が増えるほど、自分の感覚に素直に行動できるようになり、自由を感じることが出来る。それが自立というものにつながるのではないか。自分を正直に出せるような人間こそが主体的に生きることが出来る。「あんたは。私の言うことだけ聞いていればいいのよ」という言葉は、依存を寄りかかりのものにさせ自立を阻む。このような依存しかなければ人間は自立が出来ない。だが、このような支配を受けている人間は多い。僕がこの本を読ませたいと思った友人も、子供時代のトラウマによって、このような言葉に支配されているのではないかと言うことを感じさせる。この本によって真の依存と自立を発見して欲しいと思う。
2012.04.03
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岩上安身さんによる安冨歩さんへのインタビューは岩上さんのインタビュアーとしての素晴らしさが見事に出ているものだった。出だしこそ難しい話が語られていたが佳境に入った話では実にわかりやすく面白かった。分かりやすさを引き出したのは岩上さんの力だと思った。その安冨さんの話で印象に残ったのは、肩書きが重すぎる人間が生の自分の魅力を認めてもらうのは極めて困難だというものだった。東大出の人間が、東大出という肩書きを超える魅力を身につけるのは大変なことであり、評価される事柄の一番に数えられるのが東大出と言うことになる。生の自分が評価されることがない。生の自分への評価というのは、宮台真司さんが語る尊厳の確立に関係があるように思う。尊厳というのは、自分が自分であることへの誇りを持ち拠り所となるものだ。生の自分が評価できないと尊厳の確立が出来ない。自分に対する自信が基本的なところで持てなくなる。尊厳は、自分だけの思い込みではなく、誰か評価してくれるものがいないと確立できない。尊厳には承認というものが必要だ。そう宮台さんが語っていた。生の自分というのは、河合隼雄さんのカウンセリング理論でも語られていた。子供の成長においては、丸ごとその存在を認めてくれる人が必要で、そのような存在がいないと子供の成長には何らかの障害が出てくる。子供が尊厳を確立できなくなるからだろう。丸ごと承認してくれる存在は、河合さんによればファンタジーにおいてよく語られるという。祖父母がその存在になることが多い。利害関係を持たず、孫であると言うことだけで愛してくれるものになるからだ。人間というのは、良い資質を持っていればそれによって高く評価される。生のむき出しの自分が評価されるというのは少ない。しかし成長の過程においては、まだ資質が花開いていないのであるから、子供の時には生の自分のままで評価され愛されることが必要であるというのは頷ける指摘だ。この難しい課題を解決するのが家族の絆というものかもしれない。家族であると言うことが愛することの基本にあるなら、それは他の資質を必要とせず、生の自分を愛し受け入れることを可能にする。夜間中学のドキュメンタリーを撮影した森康行監督は、夜間中学を訪れるとほっとするという感想を漏らしていた。そこは暖かく迎え入れてくれるところで、日常での様々なストレスがあっても何か癒されるものを感じると語っていた。それは生の自分のままでいても受け入れてくれる場だったからではないかと感じる。夜間中学にはそのような場としての力があった。夜間中学に来る人たちは肩書きを何も持たず、社会の片隅でひっそりと生きてきた人たちだ。その人たちは自分の感覚に正直に他者を評価する。その基本は、夜間中学にいる人たちはみんないい人だというものだ。だからすべての人を受け入れるという素地を持っている。それが暖かみのある、自分が生のまま受け入れられているという感覚を作る。夜間中学では普通の教員が、生徒から信頼される教員になる。不登校で他人に対する不信を持っていた人間が、仲間を信じ支えられることによって、自分も他者を支えることが出来る人間へと成長する。いずれも生の自分を受け入れられているという感覚がそのようなものをもたらしていると感じる。それにしても生の自分を受け入れるというのは難しいものだと思う。それも評価されるような価値を何も持たない人間を受け入れるというのは大変だろうと思う。価値を持たないどころか、マイナスの価値を持っていると思われるような人間を受け入れるのはさらに難しいだろう。最近購入した昔のアメリカのテレビドラマ「宇宙家族ロビンソン」を見ていると、この難しさを新たな視点で考えることが出来る。ロビンソン一家はいずれも勇敢で誠実で優秀なもの達ばかりだ。尊敬すべき資質を持っており、愛される資質を持っている。家族としてお互いを愛していることはもちろんのこと、その家族にふさわしい人間として自分が振る舞わなければならないという高潔な思いを持っている。だがそこに登場するドクター・スミスという人物は、これ以上マイナスの資質がないと思われるくらいにひどい資質を持っている。ウソつきで利己的で、他人のことを全く考えずに、自分のことしか考えない人間なのに何の反省もない。これ以上ひどい人間はない。全く愛される資質を持っていない。ところがロビンソン一家は、このドクター・スミスをありのままに受け入れ、特に末っ子のウィルはドクター・スミスに愛情さえも感じている。そのままでドクター・スミスを受け入れている。この感情はどのような資質から育まれているのだろうか。この物語は昔のSFなので、登場人物は科学の先端を行くもの達だが、彼らの生活はキリスト教の習慣に満ちているようにも見える。祈りの場面がしばしば入る。神への信仰というものがこの他者の受け入れの基礎にあるのかもしれない。生の自分を受け入れるというのは、理屈では出来ないようにも感じる。家族への思いは、たとえば自分の子供を愛する気持ちというのは、単にそれが自分の子供だからと言うこと以外の理由は見つからない。たまたま自分の子供であるだけなのだが、それは他の誰よりも愛おしく感じる。もし家族でないものも、そのように生のまま受け入れるとすると、その基本に宗教的な信念がなければ出来ないかもしれない。夜間中学にもいろいろな生徒がやってくる。中には理屈においてはとても愛することが出来ないような人もいるかもしれない。しかし、一度夜間中学に来たという関係を持ったから、生徒として敬愛するという基礎があれば接し方が違ってくる。だが、その反対に、夜間中学にふさわしい生徒像というものを持っている教員は、その生徒像に合わない生徒がやってくると、その資質において生徒として敬愛することが出来なくなる。このあたりに、生の自分を受け入れることの秘密が隠されているかもしれない。
2012.03.29
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誤解の考察の最後に、その評価が難しい問題を考えてみたいと思う。それは、自由報道協会賞授与式での日隅一雄さんの発言を巡るものだ。それは「誤解」という評価をするときにかなりの難しさを持っているものだと感じる。日隅さん自身は、発言について<情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄>というブログで自由報道協会賞授与式での発言について http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/5de3523badbeec519452cc1553de13d7?fm=rssというエントリーで語っている。ここでは、冒頭で「私が自由報道協会賞授与式で行なった挨拶について誤解されている方がいるようですので、この場を使って、挨拶の趣旨などについて説明させていただきたいと思います」と書いている。つまり「誤解」を問題にしている。だがこの「誤解」は、「まず、私の挨拶でチベットの高僧の高貴な行為が傷つけられたと思われた方に謝罪いたします。私としてはそのような意図はまったくありませんでしたが、そのような受け止めをされる余地のある表現しかできなかったことは、本業も含め表現行為を糧としてきた者として不甲斐ないことです。故意ではないにしても傷つかれた方に謝罪する必要があります。本当に申し訳ありませんでした。」とも表現されている。つまり間違えた方だけではなく、表現した日隅さん自身にも責任があると語っている。板倉さんは、自分の表現には差別はなく、誤解した方が間違いだと主張したが、日隅さんは誤解を与えるような曖昧な表現をしたことに自分の責任も感じている。表現者と受容者のどちらにも責任がありそうなケースは最も難しいものであり、それを考察してみたい。問題にされている日隅さんの表現は次のようなものだ。「これまでに登場されたプレゼンターの方々が有名な方々で、「なんなんだ、こいつは」、ということで、私は昨日、東電の前でチベットの高僧のようにですね、火を、自殺をして私の名前を上げたほうがいいのかなと、悲愴な決意でここに来ているわけなんですが…」この挨拶を、文脈を考慮しながら解釈してみたい。まず日隅さんの語りたかった真意というのは何かを考えると、<他の人と比べると自分はあまりにも無名なので何か名前を上げることをした方がいいと思った>ということだと僕は理解した。この表現であれば、単に事実を語るだけであり何の問題もなかっただろう。しかしいかにもつまらない表現だ。これをもっとセンスのいい表現にするためにレトリックを使いたくなるだろう。そのレトリックが比喩表現だ。それは次のようなつながり方をしているだろう。<名前を上げる(有名になる)> ↓<自殺のような衝撃的なもので注目される> ↓<広く世界へ訴えるために自殺をしたチベットの高僧がいた>このレトリックそのものはつながりに合理性があり、表現としては間違いではなく、何か貶めようというような意図は文脈からは伺えない。日隅さんがその後の文章で説明しているように、心の中の意図にも貶めようというようなものは僕には見えない。だから、表現そのものは、「チベットの高僧」という言葉に敏感に反応しなければ深い意味を読み取ることはないのではないか。しかし、この挨拶とともに、自らを無名だと語るような自虐的ユーモアに笑いが起こったようだ。その笑いを不謹慎だと感じる人がいたのではないかと言うことは考えられる。それについては日隅さんは次のような弁明をしている。「私が笑いながら話しているのがけしからんという方もいらしゃるかもしれませんが、私が笑っているのは、まさに、ほかの人とは比較にならないくらい知名度がない自分に対する自虐的な笑いです。この私のユーモアに対し、会場内で笑いが起きました。しかし、チベットの高僧について笑った者は一人もいなかったでしょう。みんなは、私の自虐ネタを理解して笑ったわけです。」この弁明は、僕には理解できるのだが、単なる言い訳と受け取る人もいるかもしれない。これは文脈だけの問題ではなく、実際の行為の解釈が伴うので難しいところだ。行為は言語表現ほど確定的な理解が出来ないので、誤解という問題ではなく、元々理解する対象そのものが曖昧だと言える。このような誤解を解くのは難しい。この「誤解」がさらに難しさを生んでいるのは、日隅さんの発言が、他の人を介して広がっているように見えることだ。せめて実際の日隅さんの言葉を直接見て確かめてから評価してくれればいいのだが、バイアスがかかった伝聞で、日隅さんの発言が問題だと思っていると、それはやはり「誤解」ではないかと感じる。この「誤解」の解決は、最終的には日隅さんのジャーナリストとしての活動を全体的にどう評価するかで判断するしかないのではないかと僕は感じる。たった一つの言葉を捉えて、日隅さんの活動のすべてを否定するような言い方をすれば、それは言い過ぎだ。日隅さんが真に優れたジャーナリストであれば、真意が伝わらなかったという失敗はあっても、日隅さんの発言の真意は違うという「誤解」であることが理解されるのではないかと思う。
2012.02.05
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仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、かつて著書の中にあった「片輪(かたわ)」という言葉が差別語だという抗議を受けたことがある。抗議をしたのは、障害児学校の校長を務めた人だったと思う。「片輪(かたわ)」という言葉は、相手をののしるときにも使われるので、差別感情を込めて使われる場合もある。だから「差別語」だと感じる人もいるだろう。しかし、それは文脈から決まることだと板倉さんは反論していた。「片輪」の元々の意味は、片方の車輪というものだった。車輪は普通2つあるのだが、その一方が欠けていると本来の機能を発揮しないと言うことがそこに含まれている意味だ。それは事実を語る言葉であり、言葉そのものに差別的なものはない。差別的な意味を込めるのは、それをどこで使うかという話者の認識の中に差別感というものが入り込んだときだ。板倉さんがそこに込めた意味は、「本来二つあるものの一方が失われることで、機能的に不完全なものになってしまった」という事実の方だった。文脈上はそのようにしか読めないように板倉さんは表現したという反論をしていた。差別的な意味を読み取るのは「誤解」であると主張したのだった。これは正確な文章を今持っていないので再現することが出来ないのだが、僕は板倉さんの主張の方を信用した。ここからは一つの教訓も学ぶことが出来る。言葉に対する先入観が「誤解」というものに与える影響の大きさが重要だと言うことだ。「片輪(かたわ)」に敏感に反応する人たちは、この言葉自体に差別感情が込められているという先入観があるのではないか。誤解をする人にとっては、「片輪という言葉を使う人間には差別感情がある」という前提があるので、差別だと理解するのはある意味では論理的でもある。問題はこの前提が正しいのか、ということだ。板倉さんは、言葉自体には差別的な内容はない、という前提を持っているので、差別感なしにこれを使うという理解をしている。だから差別ではないという主張もでてくるわけだ。両者は前提とする認識に違いがある。どちらが正しいかを客観的に決めることが出来るだろうか?心の中の問題として言えば、どちらの前提も現実に存在するものであり、存在という点ではどちらも正しさを持っている。それを理解という点でどちらかが間違っていると評価できるだろうか。これは「片輪」という言葉に関しては、板倉さんの方が正しいとも感じる。しかしもっとデリケートな言葉ではこの判定は難しいだろう。たとえば「キチガイ」という言葉だ。ここには明らかに差別感情が込められているようにも感じる。僕は、文脈上、言葉の見出しとして「キチガイ」というものを提出したので、そこには何の意味も込められていないので、おそらく差別表現にはならない。だが普通の言語表現の中で使われれば、それは差別表現と言われるだろう。河島英五さんに「てんびんばかり」という歌があるのだが、この歌の一部に「キチガイ」という言葉が使われていた。それは後には「おかしい」と変えて歌われている。今ではネットで検索してもその歌詞は見つからない。元は次のような歌詞だった。「母親が 赤ん坊を殺しても 仕方のなかった時代なんて 悲しいね 母親が 赤ん坊を殺したら キチガイ(おかしい)と 呼ばれる今は 平和なとき」ここで使われている「キチガイ」という言葉は、明らかに差別意識を含んで使われている。しかしそれは河島さんの中にある差別感情ではない。これは、「赤ん坊を殺した母親」をののしる人々の中にある差別感情が表現されている。文脈上はそのような解釈しか僕には出来ない。河島さんは、この歌詞で、母親の苦悩を理解せずに、赤ん坊を殺したという表面的な事実だけでののしりの言葉を投げつけて、さらに母親を傷つけている人々の残酷な心を告発しているのだと僕は感じる。自分は安全な場所にいながら、ギリギリのところで傷ついている人を、形式的な倫理観・道徳で裁く人々に、真実を見なければいけないと言っているように聞こえる。この河島さんの告発のインパクトは「キチガイ」という言葉を使うことによって大きくなっている。それが明らかに差別感情を含んでいる言葉であるが故に告発の深刻さも大きくなっている。芸術として真に優れたものだと僕は思う。これを「おかしい」という言葉に代えると、その芸術としてのインパクトは急激に弱まる。人々の中にある無意識の差別感情は気づかれないままになってしまう。河島さん自身には差別意識がないにもかかわらず、この歌詞は「差別語」と言うことで差し替えられている。これは、「誤解」が生み出した間違いだと僕は思っている。
2012.02.05
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誰のツイートだか忘れたのだが、「誤解するのは誤解する方が悪い」というようなものがあった。これは論理的な真理(ある前提を認めるとそこから論理的に帰結される)だと思うのだが、説明を要するものではないかと思う。誤解というのを文字通り辞書的に解釈すると「ある事実について、まちがった理解や解釈をすること。相手の言葉などの意味を取り違えること。思い違い」という意味になる。この意味の範囲(この辞書的意味を前提として)においては、誤解は誤解する方の間違いであるから、誤解する方が悪いと言うことになる。だが、誤解というのは往々にして誤解する方がそれを誤解だとは理解していないので、単純に誤解する方が悪いという言い方ではすまなくなる。特に難しいのは、その表現をしたときは全く意図していなかった(つまり意識の中にはなかった)ことが、第三者の解釈では違う意味で受け取られてしまったとき、それを誤解だと言って済ますことが難しくなるときがある。意図していなかったことを読み取られるという「誤解」の場合、表現することが怖くなってしまう人もいるだろう。かつて差別語が糾弾を受けた時代には、公の場で発言すること自体を怖がる人もいた。いつ、自分が意図したことではないことで糾弾されるか分からなかったからだ。誤解というのは果たして客観的に判定できるものだろうか。言語表現というものは曖昧さを含んでいる。その曖昧さがあるにもかかわらず、誤解であるかどうかが客観的に判定できるだろうか。もし客観的な判断が出来ないなら、誤解が生じたときどのような解決をしたらいいのだろうか。誤解が間違った理解なら、正しい理解というものがなければ誤解の判定が出来ない。文章において正しい理解というのはどういうものなのか。国語的な文章読解が正しい理解になるのだろうか?文章表現に客観的な正しさが読み取れると言うことがなければ誤解の判定も出来ない。かつて糾弾の対象になった「差別語」はほとんどが勘違いの誤解だったのではないかと思う。それは、単語だけを取り出して判断しているからだ。言語というのはそれがどのような場面で使われているかという「文脈」が意味において重要さを持っている。社会の中における言語表現は、単語を取り出して、その単語がいつも同じ意味で使われているという前提にはなっていない。そのような前提で使われる言語は数学くらいのものだ。文脈が読み取れる言語表現は、そこに客観的に正しい意味を読み取れるか?これが出来るなら「誤解」という判定も正しく行える。僕の予想は、文脈の読み取りというのはかなり正確に出来るのではないか、というものだ。だからほとんどの言語表現は正しく意味を読み取る可能性がある。だが特殊なものについては、それが困難であったり、原理的に不可能であったりするものもあるかもしれない。その区別をする方法を見つけたいものだ。安冨歩さんが語る「東大話法」と呼ばれる言語表現は、意味の読み取りを客観的に行うことが困難な例の一つではないかと思う。だが、これは困難ではあるけれど、文脈を読み取ることが出来れば、その意味は決まるような気もする。それの意味が、形式的に読み取れる意味とはかなり違うものであっても、文脈から判断して意味が確定しそうな気がする。原理的に不可能かもしれないと思うのは、その言語表現が語っている対象の理解が出来ていないときは、どれほど文脈を理解しようとも、その表現の理解が出来ないのではないかと感じる。認識不可能な対象について語るときは、どんな表現であっても理解が出来ないかもしれない。ヴィットゲンシュタインが指摘した「語り得ぬもの」なのかもしれない。
2012.02.05
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「東大話法」と呼ばれるような詭弁的な議論は、これまでも指摘する人は多かったように思う。しかし安冨さんの視点は、それらの今まで語られていたものとは違う斬新な面があるのを感じる。それはどこから来る感じだろうか。「東大話法」を語る人間は、いわゆるエリートであり、偉そうに振る舞っている人間が多い。頭はいいのだろうが人格的には低劣だと思いたくなるような人間たちだ。感情的な反発を感じる人は多いと思う。そのような偉そうな人間たちが、実はそれほど頭がいいわけではなく、本当のことをよく分からずに、利害という嫌らしいことを基本にして語っているとしたら、なんてひどいやつだと感情的に軽蔑することが出来る。そうするとかなり溜飲を下げることが出来るだろう。このような言説だったら昔からよくあったし、今でもネットでは多く見かける。だがこのような言説は実際には余りよい効果は生まない。感情的な溜飲を下げるだけで、それで世の中が変わることはない。この感情的な悪口がもう一歩進むと、彼らの詭弁の論理面の批判というものが出てくる。僕の視点はそのようなものを見ることが多い。これは感情的な溜飲を下げることに比べて、より建設的ではあるけれども、なかなか他者に理解してもらうのが難しい。詭弁というのは感情的に受け入れやすく、それが詭弁であることを理解することがかなり難しい面があるからだ。安冨さんの「東大話法」の視点は、この論理的指摘を超えてそれが日本社会のシステムの問題であることを指摘して、それに気づかせようとしている。これは僕には斬新な指摘に見えた。宮台真司さんが高く評価する山本七平氏の「空気の論理」に匹敵するもので、山本さんが直感的に捉えたものを理論的に整理して学問として耐えられるものに洗練しているように感じた。「バブルの時の銀行」「原発事故への対応」「戦時中の軍の暴走」など、それは結果的に失敗であったことでその「東大話法」が詭弁であったことが理解されている。この詭弁が、間違いであるにもかかわらず誰もそれを正せなかったのは、山本さんによれば「空気」の問題であり、安冨さんの指摘では「魂の植民地化」による「東大話法」と言うことになる。山本さんの「空気」という表現は、感覚的にはわかりやすい。しかしそれは具体的に指摘することが難しく、何となくそう思うが、考察の対象とするのは難しい。つまり学問的に扱うことが難しい対象ではないかと思う。それに対して、安冨さんが指摘する「魂の植民地化」はより具体的ではっきりした対象として捉えることが出来る。そして「東大話法」はそこで使われる言葉を問題にすることで、その考察の対象を明確にすることが出来ている。第1章の「名をただす」という発想・視点は素晴らしい。「東大話法」は、名前を歪曲することで詭弁を、理屈だけは通るように屁理屈を立てている。「許容量」と「がまん量」は、どちらが実質を表しているかは明らかだが、「許容量」という言葉を使う限りでは、理屈は通ってしまう。その詭弁を見抜くのはかなり難しい。だが名前にこだわれば、「空気」の原因がどこにあるかを、「それは名前にある」という指摘ではっきりさせることが出来て、「空気」を消し去ってしまうことも出来る。素晴らしい視点だと思う。「東大話法」の視点の素晴らしさは、そこに表現された「名前」を問題にすることで、「東大話法」の詭弁を見抜くことが出来ることだ。何か胡散臭い詭弁の匂いを感じたら、そこに表現された「名前」にこだわってみよう。その「名前」にこそ「東大話法」の神髄が秘められている。池田信夫さんの言葉についても幾つか指摘されているが、僕は「計算可能なリスク」という言葉に引っかかった。どうも胡散臭い「東大話法」の匂いがする。リスクというのは、計算可能だったら果たしてリスクと呼ぶのだろうか?90%以上の確率でリスクがあるものを誰がやるだろうか。そんなものはリスクではなくて「危険」だという判断をするのではないか。また10%程度しかリスクがないと計算できれば、それはある程度安全だと判断できるのではないだろうか。問題は50%と言う五分五分のリスクだ。これはリスクとしては分からないとしか言いようがない。分からないと言うことが計算できて、いったいリスクを選択するのに何か役に立つのだろうか?「計算可能なリスク」という言葉にはほとんど意味がないにもかかわらず、これが「発電所の周辺を除いて人体には影響がないでしょう」という言葉と結びつくと、発電所の周辺でなければリスクが計算されて安全ではないかという詭弁を受け入れやすくなる。実際には、大きな事故が起きれば発電所の周辺でなくても大変な影響が起こることは明らかなのに。「計算可能なリスク」には意味がないが、「残余のリスク」には意味がある。これはマル激で紹介されていた言葉だが、どんなに危険への対処を取ったとしても、どうしても消せない(ゼロに出来ない)リスクが残るものを「残余のリスク」と言っていた。ある種の危険があった場合に、その選択(たとえば原子力発電をすることを選択すること)をするかどうかは、危険があったとしてもそこから得られる利益が大きいときになる。しかし如何に利益が大きかろうと、それを遙かに上回る危険がリスクとして残るなら、その利益はリスクを取ることの判断には結びつかなくなる。むしろ選択してはいけないという判断になるだろう。安冨さんの、言葉に注目しろという指摘は、その注目した言葉から論理を発展させていくという展開につながる素晴らしい視点だと思う。安冨さんにしびれるような同調感を感じたのは、きっとこの素晴らしさのせいだ。
2012.01.26
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暮れから正月にかけて時間があったので、撮りためていた映画を幾つか見た。その中で「悲しみは空の彼方に」という映画に非常に感動した。最近の日本映画では、泣けるということが重要な要素になっているようだが、どうも無理矢理感動を演出したようなお涙ちょうだいのドラマのようなものを感じる。しかし、この映画は本当の感動を呼ぶもののように感じた。ストーリーを語るとネタバレになってしまうのだが、主役を演じるのはラナ・ターナーが演じるとびっきりの美人の未亡人だ。彼女は女優としての実力はあるものの無名のためにくすぶっていたが、あるチャンスをものにして大スターになると言うものだ。これだけなら、ハリウッド映画によくある成功物語なのだが、表向きのこのストーリーに沿って展開される日常のエピソードが素晴らしい。主人公のローラは、夫に先立たれて幼い娘と二人で暮らしていたが、ひょんな事から同じような境遇にあるアニーという黒人の母親と巡り会う。アニーは白人である夫に捨てられて独り身になっていたようだが、住む家もなく途方に暮れていた。最初は同情からアニーを家に泊めたローラも、アニーがなくてはならない存在へとなっていく。最も感動したのは、このアニーという人物の描き方だ。これほど思慮深く、しかも他者に対して暖かみのある人間はいないと感じられる。ローラがくじけずに頑張ることが出来るのも、すべてアニーが支えていたからだと思える。何もかも包み込んでいやしてくれるという姿は、母として理想の姿であるとともに、キリストのイメージすら感じさせるようなものだった。だが、皮肉なことにこのアニーの素晴らしさが、自分の娘にだけは伝わらない。それは娘のサラジェーンが、黒人でありながら白い肌を持っていて、白人のように生きようとしていたことと関係がある。母親としてのアニーを評価する以前に、黒人であると言うことのマイナス面が、サラジェーンにとっては最も大きかったからだ。アニーの素晴らしさを語るだけでは、この映画の感動はそれほど大きなものにはならなかっただろう。サラジェーンの苦悩と、それが与えるアニーの苦悩の大きさが、我々を社会の不条理に気づかせる。これほど素晴らしい人たちがなぜ不幸になるのか、という不条理に。アニーの死によってサラジェーンは自分の間違いを悟って、正しさが取り戻されたようにも感じるが、サラジェーンとアニーを苦しめた不条理は何もなくなっていない。その余韻を残したラストシーンは、この映画が単なるメロドラマやスターの成功物語ではないことを物語っている。この映画は実に多くのことを教えてくれる。スターとして成功しながらも、家族としての絆がもろいことに、どこかで幸せ感が薄いことに気づく主人公がいる。もしアニーという存在がいなかったら、この家族は表面的な豊かさにもかかわらず幸せにはなれなかっただろうと感じる。人間にとって最も大事なものは、最後は心の通い合う人々が周りにいると言うことだと言うことをこの映画は教える。去年の日本の漢字は「絆」だったが、絆の本当の意味をこの映画が教えているように感じた。アニーは思いやりの深い人物だ。小さな事に幸せを感じ、少しも欲深いところを感じさせない。不幸なこともあったけれど、その不幸を決して人のせいにしなかった。娘が自分の元を離れたのも、娘個人のせいではなく、社会の構造(人種偏見)の故だと言うことを理解していた。これだけ理想的な人物であるのに、どこかにいそうに感じさせてくれるリアリティが素晴らしい。演技と演出の素晴らしさがあるのだろうと思う。この映画は、僕にとってはアニーこそが主人公だった。
2012.01.07
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次に語られている「動機」に関しては、これは直接証拠を示して確定することは出来ないものだ。動機というのは心の中の問題だから、直接見ることはできないのだ。これは推測する以外にはない。それではその推測にどれだけの妥当性があり、論理的に納得出来るかと言うことを考えてみよう。まずは「本件4億円がその原資を公にできないものか否かについて」として書かれている部分は、どのような推測につながるかというと、これを公に出来ないと言うことは怪しい金だからと言うことにつながっていく。怪しい金を隠すために収支報告書を意図的に虚偽記載したという推測になっていく。怪しい金というものが、それを隠したいという動機につながるという論理だ。では、その前提となる原資について、これが隠されているものという事実の方はどうだろうか。小沢さんのウェブサイトには「陸山会への貸付等に関する経緯の説明」http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2010/ar20100124150021という記述がある。ここには4億円の原資についても「平成16年10月に私が陸山会に貸し付けた4億円の原資について(1)昭和60年に湯島の自宅を売却して、深沢の自宅の土地を購入し建物を建てた際、税引き後残った約2億円を積み立てておいた銀行口座から平成元年11月に引き出した資金2億円、(2)平成9年12月に銀行の私の家族名義の口座から引き出した資金3億円、(3)平成14年4月に銀行の私の家族名義の口座から引き出した資金6000万円を東京都港区元赤坂の事務所の金庫に保管していました。平成16年10月には、同金庫に4億数千万円残っており、うち4億円を陸山会に貸し付けました。4億円の一部は建設会社からの裏献金であるやの報道がなされておりますが、事実無根です。私は不正な裏金など一切もらっておりませんし、私の事務所の者ももらっていないと確信しています」と書かれている。これについては判決では「本件4億円の原資については明快な説明ができていない。検察官は、本件4億円ないしその一部についても、その原資を積極的に示す立証をしていないから、本件4億円が客観的にその原資を公にできないものとみるには証拠が足りないというべきである。」と分かりにくい記述をしている。これをもっとかみ砕いて表現すれば、要するに、この4億円の原資を検察は怪しいと見て、これは公に出来ない金だろうと最初は考えたということだ。そしてそのために証拠を集めたが、公に出来ないと見るには証拠が足りなかったと言うことだ。つまり、公に出来ないだろう、という主張は出来なかったと言うことだ。これを論理的に整理するとこうなる。1 <4億円は怪しい金だ> →(ならば) <4億円は公に出来ない>この結論を検察は事実として証明しようとした。しかしそれが出来なかった。それは論理的には、仮言命題の後件の否定になり、上の仮言命題の対偶が成立することになる。2 <4億円は公に出来た> →(ならば) <4億円は怪しい金ではない>つまり、検察は自ら4億円が怪しい金ではないということを証明してしまったことになる。なぜなら、上の2の仮言命題の前件が正しいことを検察が証明したからだ。仮言命題においては、前件が正しければ、後件は事実を確認することなく成立する。小沢さんが、検察が調べて自分の主張が正しいことが認められた、と主張するのは論理的に正しいのである。検察官というのは、犯罪の成立を論理的に証明することが仕事だと僕は思っていたので、論理については強いと思っていたのだが、この論証を見る限りではどうも論理に弱いのではないかとも感じる。なぜなら、検察の意図は全く反対のものとして論理的に働いているからだ。そもそも検察が証明しなければならないのは、仮言命題の後件ではなく前件の方であるべきだ。そうでなければ仮言命題を使う理由がなくなる。後件の「公に出来ない」というものは、証明しても仕方がないのだ。それを証明したからと言って、そこから「4億円が怪しい金だ」と言うことは導かれない。4億円の怪しさは、このことと別に証明しなければならない。論理的にはそういう構造になっている。なぜこんな無駄なことに力を注いだのだろうか。しかも全く反対の方へ結論が導かれてしまった。これに対して判決要旨では最後に次のように触れている。「しかし、小沢らの前記供述状況に照らせば、本件4億円は、その原資を明快に説明することが困難なものとの限りで認定することは可能 である。」これを見ると、裁判官も論理に弱いのではないかと感じる。「公に出来ない」という証明は出来なかったが、「説明を明快には出来なかった」と言うことは推論できるという主張をしている。このことが論理的にどんな意味があるのだろうか?論理的には全く意味がないのだが、イメージ操作的には意味があるという記述になっているに過ぎない。怪しいという証明は出来ないが、怪しいかもしれないというイメージだけは残るという記述だ。この「かもしれない」が、後の推認につながってくるのでこれは大変問題だと思う。僕などは、小沢さんのウェブサイトに書かれている説明はかなり明快なものだと感じるのだが、裁判官がこう判断するのなら、せめてこの説明に対して具体的に言及して欲しかったと思うだけだ。それがないと、ウェブサイトの説明を知っているものにとっては、事実誤認から来る判断ではないかとさえ感じる。この滅茶苦茶な論理展開は、聞いている方の情報がない場合は、うその事実から導かれたものとして詭弁としては成立するかもしれない。だがまともな論理感覚を持って、ちゃんと事実を追っているものだったら、このおかしさにすぐ気づくだろう。それを知らずに、弱い論理で判決を展開しているのか、それともそれを知りながらあえて確信犯的に滅茶苦茶な論理を展開しているのか、どちらなのだろうかと思う。
2011.11.03
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次に判決要旨に登場するのは、4億円を分散入金したことが書かれている。ここには有名になった「推認」という言葉も登場している。とりあえずここで指摘されていることを事実と推測に分けて書き出しておこう。・1(事実)被告人石川は、本件4億円を平成16年10月13日から同月28日までの間、前後12回にわたり、5銀行6支店に分散入金した。・2(事実)後、りそな銀行衆議院支店陸山会口座に集約している。・3(推測)このような迂遠な分散迂回入金は、本件4億円を目立たないようにするための工作とみるのが自然かつ合理的である。・4(事実)本件4億円は、本件土地購入原資として小沢から借り、実際に本件土地取得費用等に充てられている。・5(事実)被告人石川は、本件土地の残代等を支払った後に、小沢関連5団体から集めた金員を原資として本件定期預金担保融資を組み、小沢を経由させた上で陸山会が転貸金4億円を借り受けている。・5(解釈)被告人石川は、これらの行為に及んだ理由について、合理的な説明をしていない。・6(推測)このような一連の経過等をみると、被告人石川は、平成16年分収支報告書上、本件4億円の存在を隠そうとしていたことが強くうかがわれる。・7(推測)被告人石川は、本件土地の取得費用等の支出を平成16年分収支報告書に記載せず、平成17年分収支報告書に記載しようと考えた。・8(事実?)被告人大久保を介して売主側と交渉し本件登記を平成17年1月7日に延期している。・9(推測)被告人石川は、本件4億円の収入や、これを原資とした本件土地取得費用等の支出が平成16年分収支報告書に載ることを回避しようとする強い意思をもってそれに向けた種々の隠ぺい工作を行った(ことが強く推認される)。・10(推測)後述する背景事情をみると、被告人石川には種々の隠ぺい工作を行って本件4億円を隠そうとする動機があった。ここで「?(クエスチョンマーク)」にしたのは、他の資料からの判断で事実かどうかが確認できなかったところである。後はおおむね事実ではないかと考えられる。そこで論理的に問題になるのは、これらの事実が「推測」によって結論を正当に導いているかどうかということだ。まず3についての推測だが、これは「目立たない」ということが具体的にどのような意味をなすかをはっきりさせなければ、その犯罪性を云々することが出来ない。目立たないようにすることがすぐに犯罪と結びつくのではないからだ。マスコミにかぎつけられて騒がれるのがいやだ、というのも目立たないようにしたいことの理由になる。これは全く犯罪性のないものだ。単にいやだと感じたからそうしたに過ぎない。しかし、その金の中に不正なものが入っていて、それを隠すために目立たないようにしたい、ということであれば犯罪性の指摘も出来る。検察はそれをしたかったのだろう。だがそのためには、その中に不正な金があるということを証明しなければならない。つまり犯罪性の証明には、もう一つ論理の前提が必要なのである。この推論は、目立たないようにしたいという石川さんの「思い」の推論としては妥当かもしれないが、それは単なる「思い」であり、それ以上の意味はない。5の解釈については、これは推論ではないので、正しいか正しくないかという評価ではなく、その解釈が妥当かどうかという評価をしなければならない。合理的な説明というのは、論理的な前提がはっきりしていて、その前提から結論が正しく導けるという説明が出来ると言うことだ。これは犯罪の立証においては絶対的に必要なもので、それをちゃんとやっていない裁判所が、石川さんを批判するような解釈をするというのはおかしいと感じるのだが、そもそも合理的な説明というのは、それにふさわしい対象でなければ出来ないのが普通だという解釈の方を僕は取る。たとえば、毎日朝食はトーストとコーヒーと決めている人が、朝食にそれを食べた理由を聞かれたら、「毎日それを食べることにしているから」と答えるのは合理的な説明だ。もし違うものを食べたときでも、「今日はパンがなかったから」と答えれば、違うものを食べたことの合理的な説明になる。だが、何を食べるかを気まぐれに決めている人が、たまたま朝まんじゅうを食べたとき、どうしてまんじゅうを食べたかというような合理的な説明は出来ない。たまたまそれがあったから、という理由で納得してもらえるかどうか。それを合理的だと思ってくれればいいが、そう受け取ってくれない場合は、いくら合理的な説明を見つけようと思ってもそれは見つからない。仮説実験授業では、選択肢付きの問題で、なぜそれを選んだのかという理由を聞く。その時に合理的な説明をする者もいるし、何となく選んだと答える者もいる。そのどちらも仮説実験授業では認める。人間の思考というのはそういうものだと思っているからだ。何でもすべて合理的に判断しているのではなく、無意識のうちに何となくやっていることもたくさんある。合理的に説明できないから悪いことを考えていたのだろう、という解釈と推論は論理的には正当性がない。人間は合理的ではない行動などいくらでもあるからだ。それをすべて悪意から出たものだと解釈されてはたまらない。検察と裁判所がやるべきことは、このようなデタラメな推論ではなく、悪意を持って行動していたと推論できるような事実を突き止めて、真っ当な論理で犯罪性を証明することなのである。それが出来ないのでこのような詭弁を使っているように僕には見える。6から後の推測については、石川さんの頭の中のことや動機を語ったものであるから、これは推測するしかない内容になっている。頭の中や動機は直接知ることが出来ないので事実としては確立しない。だがここで違和感を感じるのは、これらの推測が正しいとしても、そこにどのような犯罪性が帰結するのかというのが分からない。僕は、4億円の不記載という解釈には賛成できないので、それを犯罪として告発するのにも反対だ。だが、検察と裁判所がそれを犯罪だというなら、不記載そのものの犯罪性を語るべきだろう。どうしてここで推測しかできない動機について語るのか。動機があれば犯罪性の証明になるのか?実際には、石川さんは、4億円については一つ記載すればいいと考えたので二つを書かなかったというだけのことだと思う。書かなかった動機は、それが必要ないと思っただけのことだ。この動機でも犯罪性が見出せるか?それは無理だろう。書かなかったことの判断が間違いだというなら、それは訂正すればすむだけのことだ。逮捕して起訴するような犯罪ではない。この動機が犯罪に結びつくのは、隠したいと思った金が不正な金だったという証明が必要なのだ。それは後に水谷建設の金で語られていると思っている人がいるかもしれないが、神保哲生さんの指摘によれば、水谷建設が違法献金をしたと言っている時期よりも、陸山会の収支報告の流れの方が早いそうだ。つまり、水谷建設の金は、物理的に問題となっている収支報告の金にはなり得ないのだ。神保さんによれば、水谷建設相手にこのようなことをしているのだから、その隠そうとした4億円だってきっと怪しい金が入っているはずだ、と推認してこのような判決になっているのではないかと指摘していた。つまり、この推認には全く事実的根拠がなく、単に動機がありそうだから悪いことをしたのだろうと決めつけているに過ぎない。全く滅茶苦茶な論理だ。この論理では全然説得力がない。
2011.10.25
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西松建設事件に関する記述に論理的に納得出来ないものを感じているのだが、陸山会事件に関しても同様に論理的な側面に疑問を感じる。まず「問題の所在」として次のような指摘がある。「平成16年分収支報告書には「借入先・小澤一郎、金額・¥400,000,000、備考・平成16年10月29日」との記載(以下「本件記載」という。)があるが、この記載について、検察官は、陸山会の定期預金を担保に小沢がりそな銀行衆議院支店から4億円を借り入れ、陸山会が同人からその転貸を受けた「転貸金4億円」であって、平成16年10月初めころから同月27日ころまでの間に小沢から陸山会が借りた合計4億円(以下「本件4億円」という。)ではないと主張するのに対し、被告人石川は、小沢から借りた4億円を記載したものであると主張している。 」ここには、検察と石川被告の対立点は書いてあるが、どこが悪くて告発されているかという指摘は書かれていない。それは判決要旨には書かないものなのだろうか。文脈からすれば、石川被告の主張が間違っていて、それが悪いと指摘されているようにも感じるのだが、どこが悪いのかが分からない。つまり論理的な理解が出来ない。このあとのところに書かれているのだろうか。「検討」と書かれているところには、「「平成16年10月29日」という収支報告書の備考欄の記載は、その体裁からして、陸山会が小沢から4億円(転貸金4億円)を借り入れた日を書いたとみるのが自然かつ合理的である。本件記載が本件4億円を書いたものだとすると、被告人石川は、本件定期預金担保融資における本件定期預金4億円を収支報告書に記載しておきながら、それを担保にする形をとって小沢から転貸を受けた転貸金4億円を記載しなかったということになって不自然である。」という記述がある。ここでは「不自然である」と判断しているが、本当にそうだろうか?誰もがそう考えるならこの言葉も頷けるが、そうでない考えもたくさんある。小沢さんからの現金4億円と、銀行融資の4億円を両方記載すると、合計で8億円の借り入れになるが、実際に土地購入に使われたのは4億円である。8億円はいらないのだ。いらない金を記載するのが自然で、必要な金だけを記載したのが不自然なのだろうか。この4億円には次のような解釈がある。小沢さんからの現金4億円を、そのまま使ってしまえば運転資金として残る金はなくなり借金だけが残ることになる。だから、運転資金を残すために、小沢さんからの4億円を担保にして銀行から融資を受けるという工夫をする。その融資は陸山会が受けることが出来ないので、小沢さん名義で借りる。そしてその4億円で土地購入の代金を払う。担保にした4億円は解約した後に小沢さんに返す。陸山会には銀行融資の借金は残るが、運転資金も残り当面の活動も出来るようになる。銀行融資の借金は利息を払う必要があるが、当面の金が残り、借金はそれ以後の政治活動で集める金で返すということにすれば、政治活動が滞ることはない。この解釈では、小沢さんから借りた現金4億円は、空間を移動したもののまた小沢さんの元に返っていき、実質的に借りた金は4億円だけということになる。8億円を借りたのではないという解釈も出来る。銀行融資であっても小沢さんの金には違いなのだから、借入金は小沢さんからという記載は正しいのではないかと思う。石川被告は小沢さんの秘書であるから、小沢さんの金を預かって預金をし、銀行融資を受けるという手続きをしたとしても、それも仕事のうちなのではないか。これを、もし石川被告がやらずに、小沢さん自身が定期預金をし、銀行融資を受けてきたら、現金の4億円の受け渡しはなくなり、銀行融資の4億円だけが借入金となる。そうなるとなんの問題もなくなる。状況としてはそれと同じなのに、どこが悪いのか、というのが論理的に分からない。判決要旨を読む限りでは、この4億円の記載が悪いといっているように見えるのだが、どこが悪いのかが分からない。この事件が出てきた最初の頃、郷原さんは、この4億円の記載の問題自体は大したものではなく、犯罪として立件することは出来ないので、この小沢さんの現金4億円の中に事件性を持ったものが含まれているという指摘がなければならないと語っていた。それが、後で語られる水谷建設の違法献金の問題なのだろうが、ここでの指摘は、記載そのものが悪いと語っているようにしか見えない。これは論理的におかしいのではないかと思う。
2011.10.22
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判決要旨には政治資金収支報告書の虚偽記入について大久保被告の関与を語るところがある。ここにも僕は違和感を感じる。そこでは、「収支報告書に新政研及び未来研からの寄附であるとの虚偽の記載をすることを承知の上で、同人らをしてその旨の記載をさせ、提出させていたことが認められる。したがって、陸山会の収支報告書についての虚偽記入につき、被告人大久保の故意は優に認められる。」「被告人大久保は、本件各寄附が新政研及び未来研からのものであることを内容とする第4区総支部の収支報告書が提出させることになると承知の上で、それに至る各作業をさせ、これを提出させていたことが認められる。したがって、第4区総支部の収支報告書についての虚偽記入につき、被告人大久保の故意は優に認められる。」と書かれている。虚偽記入について、大久保被告がそれを承知の上で書かせていたという「共謀」の証明を述べているように見える。この証明が、どうも論理的にすっきりしない。この証明には、この結論を論理的に導く前提が必要だ。それは、新政研及び未来研という二つの政治団体がダミーであり、しかも大久保被告がそれを認識していたということだ。この前提がなければ上の結論は出てこない。収支報告書には新政研及び未来研の寄付は記載されているから、記載漏れではない。この記載が虚偽であるという告発だ。つまり正当な寄付ではないということだ。これは証明された事実なのか、ということにどうしても違和感が残る。確かに西松建設そのものの裁判においては、西松建設という会社がその政治団体がダミーであることを認めている。だが、西松建設が認めているからといって、それが事実になるのだろうか。裁判というのは事実を明らかにするところではなく、事実ではなくても会社にとって有利と判断すればそれで手を打つということもあり得る。西松建設は、郷原さんによれば全面降伏したと指摘されていた。そのような会社のいうことをそのまま信じられるのだろうか。大久保被告が関係した西松建設事件では、どういうわけか、この政治団体のダミー性が裁判で争われていたのに、その判決を迎えることなく終わってしまっている。どうしてなのか?それはダミー性を否定する証言が現れてきたからだ。もちろん、その証言によってダミー性という事実が否定されたわけではないが、そのような証言の元では、大久保被告がダミー性を認識していたということが証明できなくなる。それで裁判は、訴因変更を経て、より証明できる可能性の高いものにシフトしていった。そのような経過を見ると、どうしてもこの判決要旨の言葉には違和感を感じる。弁護人の主張を退ける判決要旨の論理も、両政治団体がダミーであり、献金そのものが不正であることを自明の前提としている。そして、それを大久保被告が承知していることも前提としている。だがそれが証明されたようには僕には思えない。いったいどうやって証明されたのだろうか。唯一の根拠は、西松建設本社の裁判で、西松建設側が認めたということだけなのではないか。この構造はえん罪の構造にも似ているように感じる。えん罪でよくあるパターンは、本来の主犯格の人間が、自らの罪を軽く見せるために、主犯格の人間をでっち上げるものだ。他人の証言で主犯にされた人間は、当然のことながらそれを否定する。しかし、罪を認めて観念した人間がすべてを話した、という前提でそれが事実のように扱われると、やってもいないことをやったようにされてしまう。確かなのは、あいつが言ったという証言だけだ。しかし、その証言の中身が正しいかどうかは評価が難しい。疑われた人間にアリバイがなかったらさらに難しくなる。西松建設は、本当に両政治団体をダミーとして作ったのかどうか。ダミーというほどではなく、会社に関係する人間が働きかけることで、会社の印象を良くしようと考えた程度ではないのか。西松建設側は、本当の犯罪行為は裏金をつくったと言うことの方だったようだ。その裏金をどこに使ったかが明らかになっていれば、それこそが本当の犯罪になっただろう。こちらの犯罪は言い逃れが出来ない種類のものだったので、裁判を早く終わらせたかった西松建設は全面降伏したというのが事実ではないのか。その裏金が直接小沢事務所に入っているのなら、それで事件化できただろう。しかし、それがなかったので、新政研及び未来研という二つの政治団体の寄付が裏金だとにらんで大久保被告の逮捕をしたのだと思う。だがそれは証明できなかった。大久保被告の裁判で出てきたのは、両団体には実体と呼べるものがあり、しかも個人の金で運営されていて、形の上では西松建設そのものの金が入っていたのではないということだった。つまり裏金が流れていたわけではないのだ。会員に対して上乗せされた給料が、献金目的だったというような解釈もされていたが、もしそうであっても、そのような会社内部の状況を大久保被告が知るはずもないので、本当にそうであっても、それはよほどのことがない限り分からないようなものになっていただろう。このような疑念がたくさんありながら、西松建設事件に関して裁判所がこうもはっきり言い切るには、やはり論理的根拠が怪しい。こんな怪しい論理を、どうして裁判所は言い切らなければならないのか。どうしても有罪にしなければならない理由があるからだと憶測するしかない。あらゆる前提を考慮して、そこから論理を導いているのではなく、結論を導きたいことに合わせて、ご都合主義的に前提を選び、都合の悪い前提は捨てているように、論理のデタラメさを感じる。そこが違和感を覚える最大の要素だ。
2011.10.22
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