全76件 (76件中 1-50件目)
ほったらかしにしていた。両親は死んだ。私は、背中から腰にかけて、ロッドとスクリューが入っている。歩くにしても、正味15分ぐらいが限度。緩慢な死を待つだけである。うつ病、アルコール依存症、それらを通過したあと結局、こうなった。「誰のせいでもありゃしない。みんなおいらが悪いのさ」
2024.03.27
コメント(0)
あっという間に大晦日。でも、気がつくと、1月15日ぐらいになっているんでしょうけど。 えー、いろいろあった2011年だったので、個人的な十大ニュースを挙げてみることにしました。●企画・編集を担当した、加藤典洋さんの音楽評論本(『耳をふさいで、歌を聴く』)が出版できたこと。 完成までに、丸10年かかりました。長かった。途中で、もう出来上がらないんじゃないかと、諦めかけたこともあったし。書き下ろしの部分が、ある意味「常軌を逸して、文章が沸騰していて」、そこが、何度読み返しても、ぐっと来ます。●会社創立から手伝っていた大学の先輩の事務所の業務から離れたこと。 思えば、これも長くて、足かけ10年越えてました。途中から、小生が「うつ病」を発症してしまったので、後半は、週に2日ぐらいしか行かなくなってしまって、迷惑かけてしまいました。もっと前に「卒業」すべきでした。主に「経理」を担当してたんですが、根本的にこういう仕事は合ってないんだなと、思い知らされました。●うつ病をどうにか克服できたこと。 2006年からメンタル・クリニックにかかって、七転八倒の思いをしましたが、なんとか、病いのループから抜け出られたみたいで。まあ、治癒のきっかけとなったのは、嘘のような話ではあったのですが。抗うつ剤と抗不安剤を服用しなくなって、混濁して薄明かりの霧がかかっていたような意識が、だんだんとはっきりしてきたのは、ありがたかったです。めまいとかもなくなりましたし。●20キロ以上、太ってしまったこと。 これは抗うつ剤の副作用が主たる原因でした。で、80キロ近くなってしまって、もうこれじゃ、たえきれないと思って、勝手に抗うつ剤、飲むの止めてしまったのです。そしたら、嘘のような話ですが、「うつ病」から抜け出ることできちゃったんです。お医者さんには、薬の服用を突然止めるというのはうつ病治療においては、もっともタブーとされていることなのにどういうことなんでしょう。わけが分かりませんと、驚かれました。●足を骨折したこと。 骨折したのは、小学校6年生の時、以来です。部位は、左の膝の後ろの骨、2カ所。ちょうど真夏の出来事だったので、ギプス嵌めて過ごさねばならなかったのは、辛かったし、大変でした。いまも走ったりすると、痛みが走ります。完全治癒はまだ先ですな。●泳ぐことが再び日課になったこと。 うつ病がひどくなるまでは、それこそ毎日のように泳いでいたのですが……。うつ病の他、認知症になった両親の介護で、精神的にも物理的にも、プールに行く余裕を持てないでいたんですけど、体重を減らすのと骨折のリハビリで、「復活」できました。泳いだ後の爽快感は何事にもかえがたいです。●ポルシェの修理費、70万円なり。 フロントガラスの脇に、塗装の「浮き」があったので、ポルシェ・センターに持ち込んでみたら、結局、フロントガラスの回り、屋根、リアガラスの回り、かなり広範囲に渡って、内部の腐食が進んでいることが判明し、板金・塗装し直すハメに。本当は、サスペンション含め、足回りを刷新しようという目論見もあったんですが、そのお金すべて吹き飛びました。あーあ。ため息ばかり。●清澄庭園の花菖蒲、鑑賞。 行った日が雨降りだったので、殆ど人がいず、貸し切り状態。逆に晴れている日に見るよりも、濡れた花弁が風情があって、絵のように綺麗でした。いま思い出しても、一服の清涼剤のようです。●禁酒始まり。 2011年の出来事ということは、原則的に、今日12月31日の出来事も含まれるわけですよね。ということで、禁酒始めます。始めました。最近、お酒飲んでも、いい具合に、「酔う」ことができず、頭がしびれるだけなので、この辺が潮時なんでしょう。じゃあ、そういうことで。 と挙げてきたら、十大ニュースに届かず、九つの出来事しか浮かびませんでした。でも、ここ数年の中では、一番大きな結節点があった一年だった気がします。そんな中、なんとか生き延びてこられたこと、天に感謝。
2011.12.31
コメント(2)
ガンにかかるのは、いい人達なのではないか。いや、いい人だからこそ、ガンになるのではないか。昨日思ったこと。親父の背中に、一年くらいまえから、「瘤」ができた。いくつかの総合病院で診察を受け、MRIやCTスキャンで検査をしてもらった。しかし、結局、診断は、次のようなもの。「悪性のものではないと思うのですが、内容を特定することはできませんでした」。なんとも歯切れが悪いというか、宙ぶらりんな思いを抱えることになった。しかたなく、2か月に一遍ぐらいのペースで病院に出向くということで、様子を見ることになった。それが、ここ1か月ぐらいで、その「瘤」が急にしぼんだり、大きくなったりを繰り返すようになってきた。いつもかかっている医者から、「やはり、“デキモノ”の専門である病院で、より詳しい検査をした方がいいかもうしれませんね。紹介状書くので行ってみてください」と言われた。それで、行ったわけです。築地の国立がん研究センターー中央病院に。ここは、医師の紹介状がないと、予約を受け付けてもらうことができません。つまり、まあ、全国から、難易度の高い「デキモノ=腫瘍」に患っている人が集ってるわけですね。エレベーターの前で待っていると、ドアが開き、中から、帽子を被り、マスクをした小学校高学年ぐらいの男の子が出てくる。片足がなく松葉杖をついて。骨肉腫だったのか。そんな光景がそこら中で見受けられる。待合室の椅子は、どこも満席状態。ただ、見ていると、一般の病院の待合室と明らかに違うところがあるのに気づく。「なんでこんなに待たされるんだよ」とか、ぼそぼそ不平不満を漏らす声がまったく聞こえてこない。いや、それどころか、しかめっ面をしてたり、人相の悪い輩が全然いないのである。皆、とても、性格がよさそうな顔をしている。そういう人たちだけが椅子に座っている。そこで、冒頭に記したことを思ったわけである。性格のいい人から、先に死んでいくのかね。やっぱり、「憎まれっ子、世にはばかる」というのは、永遠のテーゼなのかね。来週も、親父は、検査だそうです。
2011.11.12
コメント(0)
いつも、日記は、ミクシィでつけていたんですけど、どうも、マンネリという感が否めなくなってきまして、気分一新で、こちらのブログで書くことにします。ということは、ブログのタイトル通り、今日が「移動祝祭日」ということですかね。
2011.10.31
コメント(0)
http://www.youtube.com/watch?v=ZeqZl6OgOUA&feature=related2006年の引っ越しの時に、失くしてしまった、iPodが、昨日、突然、見つかりました。ずっと使ってなかったバッグの中に、タオルに包まれて入ってました。一番、あってほしい時になくて、もう諦めてからかなりの年月が経って、ひょっこり、出てきた「大切なもの」って、出し遅れた証文みたいで、妙な気分になりますね。
2011.09.07
コメント(0)
一年以上、日記を更新しないで、過ごしてしまいました。とりあえず、身辺であったこと、挙げておきます。●体重が、20キロ近く増えました。これは、服用している抗うつ剤の副作用でもありますが、毎日のようにずっと続けてきた水泳をやめてしまったことも大きいようで。あ、それに、ビールを毎日、かなりの量を飲んでいましたので、当然の帰結といえば、いえるのですが。●ポルシェ911の空冷エンジン最後のモデル、型式993を買いました。ロータス・エランのように、すぐにぐずって、動かなくなるようなことがないので、それだけでも、嬉しいです。●十年以上の年月をかけて作ってきた、単行本がやっと出来ました。加藤典洋著「耳をふさいで、歌を聴く」。7月の末に発売されました。良かったら、書店で立ち読みでもしてください。で、もっと良かったら、買ってください。金額分の価値は、十分にあります。●7月13日に、左の膝の“お皿”の後を2カ所、骨折しました。初めての松葉杖生活。でも、3週間あっと言う間に過ぎて、いまは、ギプスも松葉杖もない、普通の生活してます。まだ、骨は完全にくっついていないのですが、動かさないと、膝が固着して、曲げ伸ばしができなくなってしまうそうで。まだ、痛さの残る足で、どうにかこうにか、歩いております。●8月いっぱいで、手伝ってきた事務所から、手を引きます。こちらも、10年あまり続けたので、もう潮時でしょう。さよなら、だけが人生です。……あれ、あと書くことないな。こんなもんですか、一年の個人的な事件というのは。まあ、しょうがないですね。ボチボチ行きます。
2011.08.09
コメント(0)
雨上がり、ひとり立つ。 ──仲井戸麗市の追憶の方法 忌野清志郎が死んだのが去年の5月。それから、5カ月後、残された盟友、仲井戸麗市は、毎年恒例のようになっている渋谷AXのコンサートで、たった一人でRCサクセションの曲を演奏した。 その模様は、ライヴ盤としてCDとDVDの形でリリースされた。タイトルは“アイ・スタンド・アローン”。STAND ALONE。辞書を引くと「孤立した」あるいは「並ぶものがない」とある。文字通り、たった一人になってしまった仲井戸麗市は、過去に並ぶものがない記録として、このライヴを成立させている。 死者への哀悼を標榜して、作品を制作することは、ロックの歴史を繙けば、幾度となく出くわすことができる。ジム・モリソンの場合しかり、ジョン・レノンの場合、またしかり。ただ、その“死”をまだ冷静に受け止めることができないうちに、もっといえば、いまだ死が冷徹な事実としてとらえられないうちに、制作されたということでは、この作品は、稀有なものだ。 仲井戸麗市は、コンサートの始まりで、「でも、そういうことが起こってしまって……」と、清志郎の死を説明する。そう、彼は、一度も「清志郎が死んで……」とは言わない。それは、このステージだけに限らない。清志郎が癌性リンパ管症で亡くなる、その最期を看取った者であるにもかかわらず、彼は、その後、何冊も出た雑誌やムックの忌野清志郎追悼特集号のどのページでも、清志郎の死を「そういうことがあって」とか、「そういうことが起きてしまって」という曖昧な語り口に終始する。 かつて私は、仲井戸麗市に、こんな質問をしたことがあった。 「後悔というのは、“やらなかった後悔”と“やった後悔”と2つあると思うんですが、あるアイドルが、『わたしは、やらなかった後悔とやった後悔なら、後者を選ぶ。そちらの方が、悔いが後まで長引かないで済むから』って発言してたんですけど、チャボさんにとっては、どちらの方が後まで気になりますか」。その時、彼はちょっと間をおいて、、ゆっくりとこう言った。「それはね、やっぱり、両方とも同じように後を引くよ。やった後悔の方が、やらなかった後悔より、マシだったとは、おれにはとてもじゃないけど、断言できない。いま、いくつかのことを思い出して言ってるんだけど、やっぱりそうだよ』。それは、まるで自分にもう一度言い聞かせるかのように、私には聞こえた。「しゃべり過ぎた夜に ?Hey oh yeh? だまり過ぎた夜に ?Hey oh yeh? 何を拾って 何を捨てたの たったそれだけの時間で たったそれだけの身体で」(麗蘭“ミュージック”)。 しゃべり過ぎた夜に=やった後悔。だまり過ぎた夜に=やらなかった後悔。思えば、仲井戸麗市がかかずりあってきたのは、そのしゃべり過ぎた夜とだまり過ぎた夜のはざまで、頭を擡げる後悔と不定愁訴だったとも思える。しかし、それは、むしろこう言うべきではないだろうか。真実というものは、常にまさに言うべき量より多すぎるか、少なすぎる形でしか現れてこないと。そして、そのズレの中にこそ、何か本質があると。 〇 〇 〇 花田清輝は書いている。──さて、父親の死の床で娘がさけぶ。「お父さんが死んであたし悲しいわ」。これは正確な言葉だ。いささか正確すぎる嫌いがある。そのために、ともすれば折角の愁嘆場を、ぶちこわしかねない台詞である。…(中略)大切な悲劇的クライマックスで、まず普通の劇作家なら、決してこういう間の抜けた白を、娘にさけばせはしないだろう。気の毒なことにお父さんばかりではなく、その白も死んでいる。観客は、そういう死んだ白を聞いて、悲しくなるよりも、むしろ悲しさとは反対の気持に、否応なしに追いやられてしまうにちがいない。……では、二十世紀の劇作家は、父親の死に際して、娘にどういう白を与えるか。一例としてオニールをあげよう。「そうです、亡くなりました──お父さまは──その情熱があたしを創った──あたしというものを始めた──お父さまは亡くなりました。唯お父さまの最後が生きているだけです──お父さまの死が。それが生き返って来てあたしの傍に段々と近付き、又あたしを段々傍に引寄せて、あたしの最後がやって来るのです! どうしてあたしたち哀れな猿共は自分から離れて、言葉という音の後に隠れるんでしょう!」(岩波版『奇妙な幕間狂言』)。たしかに「お父さんが死んであたし悲しいわ」にくらべると大分手がこんでいる。「悲しいわ」などという原始的表現は、どこを探しても見当たらない。これならば、娘役の見世場も一応引きたとうというものだ。一九三六年度ノーベル賞の受賞者。独創的な劇作家。とはいえ──とはいえ問題はこれからである。断って置くが、正直なところ、私は右にあげたオニールの白を高く買うものではない。むしろ、「お父さんが死んであたし悲しいわ」の簡単率直を愛するものだ。いかにも芸術の世界では、「お父さんが死んであたし悲しいわ」という言葉は間のびしている。白々しい。いささか軽薄でもある。したがって、娘さんの悲しみに、私たちは素直に同感することができない。しかし、これが現実の世界でならどうだろう。案外、悲しみきわまった時、私たちはそういう紋切型の白を、大して不自然とも思わず平気でつかっているのではないだろうか──(『笑の仮面』) 〇 〇 〇 やった後悔とやらなかった後悔の両方を嫌というほど了解している彼。「清志郎が死んで悲しい」と決して言わない彼。にもかかわらず、かの人は、誰よりも早く、誰よりも前のめりに、誰よりもあからさまに、鎮魂と追悼のライヴを行い、それを作品として残した。今回は、あえてしゃべり過ぎることを選択したかの如く。そして、「アイ・スタンド・アローン」と、きまり切ったことを、声高らかに宣言する。そこには、追悼という紋切り型を持って、紋切り型を殺そうとするような意図さえ感じられる。 古くからの友人であり、バンドを支えてきた両輪の一方であり、誰よりも忌野清志郎のことが分かっている人間が、偉大なるパートナーの欠落を抱えながら、過去のバンドの曲を再現する。それは、RCサクセションのファンにとっては、願ってもない、一番の望みでもあるはずだ。ここで、仲井戸麗市は、臆目もなくその期待に応える。それは、受け手にとっては、この上なきサービス精神の発露に映る。望んでも叶えられそうにない夢が、そのまま実現してしまうこと。そんな印象に近い。 たとえば、遠藤周作の『沈黙』は、いささか乱暴に言ってしまえば、“神は死んだ”の一言をいわんがために、膨大なページを割いて物語が書かれている。仲井戸麗市の「アイ・スタンド・アローン」もそれと同種の役目を担っているのではないだろうか。彼は言わない。「清志郎が死んで俺は悲しい」と。しかし、25曲以上のお馴染みの歌と、彼の独壇場であるポエチュリー・リーディングによって表現されるのは、忌野清志郎が死んだという事実と、その喪失感の大きさである。 もうすぐ、忌野清志郎の一周忌がやってくる。あっという間の一年間。青山ロックンロール・ショー。遺作の発売。そして、またぞろ、デビュー40周年記念の企画など、5月2日に向けて、囂しい日々がやってくるのだろう。たぶん、わたしたちの周囲でも、自分の都合のいいように、その死がとりざたされ、いかにして清志郎が、不世出のミュージシャンであり、鋭敏な才気を持ったものであるかが語られるに違いない。もう、その忌野清志郎の特集本の構成は、目に見えるようだ。 「悲劇とは擬態である」。 そこから、逃げる術はあるだろうか。それには、進んで言い放つしかない。一歩先んじて、明日やることを今日やってしまうしかない。漆黒の沈黙の中に身を置くのではなく、白日の下におのれの饒舌さを解き放つしかない。やってしまった後悔の後ろめたさは引き受けつつ。 仲井戸麗市が、ミドル・テンポのリズム&ブルースの日本の最高傑作と評するRCの、いや、忌野清志郎作の名歌「君が僕を知っている」。このライヴでも、仲井戸麗市はコンサートが始まって間もなく歌い、“分かっていてくれる”のリフレインは、会場に詰めかけた観客とのかけあいになる。そして、コンサートのエピローグとして、「君が僕を知っている」を、94年、北海道美瑛町の高原で、忌野清志郎と仲井戸麗市が二人で演奏しているPVが映し出される。そのなんと楽しそうなこと。安堵感、信頼感、そして、時間の豊穣さが画面から伝わってくる。その仲井戸麗市には、妙にはにかんだ表情も見え隠れする。まるで、清志郎に恋をしている乙女のように。そして……、DVDには、この曲の題名をひっくり返したように、「僕が君を知っている」というサブ・タイトルがついている。紋切り型に固執しても、かかる微妙な旋律が生まれてくることがあるのだ。 サンキュー、チャボ。あなたは、残された私たちの想いを十全に内包して、いや、その想いを一歩先、二歩先まで伸長して、代弁してくれた。 そういえば、あなたのソロ・アルバム『絵』の“スケッチ 89夏”には、あなたのお父さんの俳句が挿入されていたっけ。いまでも、それは諳じることができるよ。 お別れの 何か告げてる 目の涼し 菊手向け 心づくしの 野辺送り コラもっと 日陰歩けよ 黄泉の道 忌野清志郎も、あなたのようなパートナーを、古くからのともだちを持てて、幸せものだったね。本当にそう思う。あきれるくらい、そう思う。 アデュー。
2010.04.29
コメント(0)
抗うつ剤のトフラニールを服用していると、太る。私は、中学2年の時から、33年間、ずっと体重は57キロ前後をキープしてきたが、ここ1年半ぐらいで、64キロまで、増えてしまった。別に暴飲暴食をしたわけでもなく、普通の食生活をしているだけだったのに。おなかの贅肉が、左右とも、手のひらいっぱいにつまめるほどになってしまった。しかたなく、ここにきて、ダイエットを始めた。マイクロ・ソフト・ダイエットという結構有名なメソッドがあるが、それもどきの食事療法を取った。引っ越しをして、泳がなかった期間が長かったのも、体重増加に拍車をかけたのだと思う。でも、再び引っ越しをして、前に住んでいた場所に戻ってきたので、プールに行くのも、少しずつ増やしている。そんなこんなで、ダイエット作戦を始めて、一カ月たって、5キロ落とした。あと2キロで、元の標準体重に戻る。認知症の親のことを考えると、めげて、不安になって、悪い方向にしか考えが向かないが、どうにか、自分の身体のケアだけには努めたいと思う。精神は不健康でも、身体は健康でいたい。
2010.01.29
コメント(0)
午後1時半まで、知り合いの事務所のお手伝い。 帰ってきて、今日は、布団を敷いて寝た。いつ以来でしょう、本格的なお昼寝は。 特に、ここ、一カ月ほどは、両親の物忘れ、尿失禁・便失禁で、毎日のように時間を取られ、労力を費やしていたので、かなり精神的にまいっていたみたい。すぐに、寝ちゃいました。 でもね、起きて、リビング・ルームに行くと、親父がいない。捜したら、3階のトイレで、セフティーバンツにこんもりと、うんちくんをしてくれていました。あーあ。本当に、前線の兵士の、いかのまの「休息」だったのね。 なんか、クルマの話で盛り上がって、ルノー・スポールの新型が気になるとか、アバルトが復活したし試乗してみたい、とかそういうこと行ってた日々が、20年ぐらい前に思える。 外苑前のテラスに座って、お茶を飲みながら、とまっている愛車を眺めながら悦に入る、なんてことは、もう起きないのでしょうかね。 あーあ。
2010.01.19
コメント(0)
前回の日記が、去年の7月20日となっている。もう、半年経ったわけだ。ここまでの間に、随分いろんなことがあったような気がする。引っ越しがあった。それを機に、父親が、おかしくなった。母親は既に認知症だったが、我が家には、二人目のそれになってしまった。母親の方は徐々に進行していったが、父親の方は急激だった。それまでしっかりして、母親の面倒も見てくれていただけに、ショックは大きかった。仕事はすべて「暗礁」に乗り上げている。結局、いろんなことがあったが、すべては「マイナス」因子だったようだ。どうも、サバイブしていく自信がない。この辺りで、道は途絶えるかもしれない。そんなことを思う、2010年の年頭である。
2010.01.08
コメント(4)
ロッキング・オン・ジャパンに投稿したが、なんの連絡もない。そんなことも十分に承知の上でやったことなので、別にこれといった感慨もない。でも、せっかく書いた原稿が、発表されずに、お蔵入りするのは、嫌だ。そこで、ここに掲載させてもらうことにする。『ぼくの町には坂がない』 ──忌野清志郎に捧ぐ。 広瀬陽一 いま、忌野清志郎の追悼特集で、彼を褒め称えるのは、何の意味もないだろう。なぜなら、100%の人がそう思っているから。また、逆に、彼を貶すのも意味がない。なぜなら、100%の人がそう思わないから。とするならば、その両極の間をかいくぐり、どうにか言うべきことを言うというのが、残された者の取るべき道であろうと私は信じる。最終電車で この町についた 背中まるめて 帰り道何も変わっちゃいない事に 気がついて 坂の途中で 立ち止まる金が欲しくて働いて 眠るだけ いうまでもなく、「いい事ばかりはありゃしない」の最終フェーズである。最初に耳にした時、自分のことがそのまま歌われてる気分がした。そう感じた人は、たぶん相当数いたんじゃないだろうか。私の場合、「坂の途中」とは、小石川の善光寺坂のことだった。やるせないくらい平坦でのっぺりとした日常をそっくりひっくり返してやるために、自分は大学を中退してまでロッキング・オンに入ったはずだった。なのに、このざまはなんだ、会社から家に戻って、この曲を聴く度に思った。忌野清志郎の、内心忸怩たる想いは自分のものになって頭を擡げた。 1981年、RCサクセションは、初の日本武道館コンサートを行う。渋谷の屋根裏から武道館まで駆け上がった、バンドの「成り上がり」競争の記録を更新した時のことである。この後、彼らは十年間連続で武道館クリスマス・ライヴを行っている。そして、毎年のように、「いい事ばかりはありゃしない」も演奏された。 しかし、いつも楽しみにしていたそのライヴと、いつも同じ気持ちで受け止めていたこの曲が、段々と、自分の気持ちからズレ始めていった。87年あたりだっただろうか。もう以前と同じような気持ちでは、この歌を聴けなくなっている自分がいるのが明確に自覚できた。それは、自分の生活が「金がほしくて働いて 眠るだけ」から離れてることができたからではない。まったく逆だ。昨日もこの歌詞は有効だったし、今日も有効であり、明日も有効だった。明後日も、そして、一年後も、そして十年後も……。つまりは、そうやって、すっぽりこの歌のフレーズに包まれてしまう自分の生に、いい加減嫌気がさしてきたのである。数直線上では十年でも二十年もいくらでも想像力は伸長していける。それは簡単なことだ。「いい事ばかりはありゃしない」で、八十年の人生を覆うことだってできてしまう。しかし、十年前の自分と今の自分は、やはり一緒ではない。この歌にそのまま回収できていた自分のある種の否定性が、十年後の時点では、もはやその器に収まり切らずにこぼれだす。そういう事実に直面したわけである。 しかし、なおも自分は生き続いている。ならば、どうするか。一旦、自分で自分の核を成してきた否定性の枠組みを壊し、己の世界への否定性を生かす新たな道筋を考えなければならない。それには、この歌に自己移入できていたそれまでの自分の息の根を一旦とめる必要があった。RCも私も一度「死」を知る必要があったのである。 しかし、当然のようにRCは続いてしまった。90年、最後に空中分解を起こして、三人になって制作されたラスト・アルバムは、個人的には“死に馬に鞭打つ”感じがした。にもかかわらず──忌野清志郎は、RCが止まって、ソロになったあとも、自らのスタンスを曲げようとはしなかった。それは、例えていうなら、自己否定を一切含まないラジカリズム、そして「おれは全然悪くない」という無邪気さであった。「偉そうに文句を言ってるが、てめえ自身に落ち度はなかったのか?」という疑念は一切出てこない。いや、当初はそれでまったくかまわないのだ。自分の欠点で糾弾の手を緩めなければならないほど、世の中のろくでもなさの量は少なくないのだから。しかし、そういうパワーは、一時暴力的な爽快感を与えてはくれても、その後、それぞれが置かれた相対的な存在条件の中で、徐々に振幅を弱めていき、どこかで均衡し静止する。そして、その均衡を崩す力はもうどこからもやってこない。とすれば、どこかで、「おれは全然悪くない」の無邪気さを解体しる自己否定を実行する他ない。 忌野清志郎Little Screaming Revueの「Groovin’Time」の中で、歌われた「裏切り者のテーマ」。かつて私はこの曲を題材に清志郎を厳しく腐した憶えがある。「コンドー 会う時もまたしても 小屋敷の上で ポップだとか若さだというのか 出任せの言葉にまかせた 夢もプロジェクトも もうとっくにトンズラしちまった… どこに行くのも おまえの自由さ 出ていけ 俺の世界から 昨夜 こんな歌を思いついて作ったのさ 心を込めて おまえに捧げよう この曲は『裏切り者のテーマ』という歌さ」 この曲を聴いた時、私には、実在する一人の人間の顔が浮かんだ。清志郎の周辺事情に詳しい業界人にとっては、誰もが分かる人であった。しかし、私からみれば、その誰かさんは、初めから最後まで「山師」然としていた。途中から、突然変節したわけではない。とするならば、その「山師」の真の姿を見抜けずに、相手の担ぐ神輿に乗っかり「出任せの言葉にまかせた夢やプロジェクト」にまんざらでもない顔をしていたのは、清志郎自身の責任である。かつてジャパーニーズ・ロックの「センシィティヴィティー」の代表格であった忌野清志郎がこういうていたらくでは、昔から知ってるものとして、失意を感じざるを得なかったのである。 誰にも、ピュアな「否定性」や「攻撃性」はあるだろう。しかし、いまや、それを武器にストレートに戦ってみせても、高度資本主義の強大なシステムの前ではあまりに無力である。だとするなら、いったん、自分の中でその首を締め殺し、その上で、別のルートで、世界に返してやらなければ意味がない。その点、例えば、「ぼくらがずいぶんと聴いたレコードの話とか、忘れてしまったのなら、思い出さなくていいよ」(「いろんなことに夢中にあったり飽きたり」作詞・作曲/曽我部恵一)という言葉さえ普通に出てくるのが、90年代のJポップの最前線だったのである。かつて友と一緒に繰り返し聴いたレコード。それは誰にとってもピュアネスの源泉みたいなものだ。留保事項一切なしの親和性や無防備さは、そうしたある時期のある状況下でしか与えられることがない。それ故、多くの者がそれを神聖視したくなる。しかし、ここで作者は、ピュアネスに近づこうとしたら、それを絶対に奉らないことが、唯一の世界への通路であることを感受していた。このような若手が出てきた時に、私には、清志郎の筋道は、錯誤のアマルガムに見えざるをえなかったのである。 それから、しばらくは、忌野清志郎の音楽からあえて距離をおいた。新作をフォローすることもなくなってしまった。それもまたしかたのないことだった。終わりはあっけなくきてしまうものである。わたしはひとつの教訓を噛みしめていた。やってしまったことはとりかえしがつかない。そして、そうした踏み越しは、実にあっけなく、起きてしまうのだと。 それから、数年が過ぎた。そこに、喉頭ガンのニュースが入り、長期療養があり、そして、「完全復活」のライヴがあった。前のようにライヴに通いつめ新作を逐一チェックしてたわけではない我が身である。ここで、知ったかぶりをするのは失礼だし、絶対に何かを見誤る危険がある。そこで、初めて忌野清志郎に接する初心者と同じように、アルバム『忌野清志郎 入門編』を買って、何の色眼鏡もなしで、もう一度彼の歌に接してみようと思った。なにか久しぶりに、昔の彼女にあったような気分になった。俊逸だったのは、「毎日がブランニューデイ」。君と真夜中に話した いろんな事 75%は 忘れてしまった君と長い間過した この人生 80%以上は 覚えてないかも………僕とこれから うまくやって行けるか 20%ぐらいは 疑問を感じるかい?Hey Hey Hey でもいいのさ Hey Hey Hey 問題ない 君がいつもそばにいるから 毎日が新しい この詞は、自分の内面を「ピュアネス」でまったく武装していない。相対化どころか、すべてのフレーズが「許し」の姿勢に満ちている。まさに曽我部恵一以上に。一旦、正念場を迎え、死を間近に感じて、なおかつこの詞がでてくるというのは、表現者として法外である。かつての「ピュアネス」の代表が、もう一度自分の内面を再構築したといってもいい。また、そういう作業を経なければ、出てこない言葉群である。しかし、それ故に、なおさらに思う。2008年の7月、腰骨にガンが転移してることが分かった時、清志郎自身がホームページに書き込んだ言葉を。《妙に前向きになるのはなぜだろう。腰にガンが見つかった。心配はしないでくれ。このくらいのことは覚悟してたんで ぜんぜんヘコんでないから。ブルースはまだまだ続いているというわけだ。……》それから、1年も経たずに──こういう結果になってしまった。私はふと、大江健三郎の小説『日常生活の冒険』の中、ジャック・ケルアックが惹かれ続け、ビートニクの先行者であったニール・キャサディのように、主人公を鼓舞する親友、斎木犀吉の最後の手紙を思い出していた。《元気だ、ギリシアの難破船の船長の話をきいたんだが、かれは航海日誌の最後にこう走り書きをして死んでいた。イマ自分ハ自分ヲマッタク信頼シテイル。コウイウ気分デ嵐ト戦ウノハ愉快ダ。そこできみはオーデンのこういう詩をおぼえているかい。いまおれはそのことを考えている。 危険の感覚は失せてはならない。 道はたしかに短い、また険しい。 ここから見るとだらだら坂みたいだが。それじゃ、さよなら、ともかく全力疾走、そしてジャンプだ、錘のような恐怖心から逃れて!》 残された者の困惑を持ちながらも、私には、忌野清志郎と斎木犀吉が重なって見えてならない。「そしてジャンプだ」の言葉は、当然新世代の“雨上がりの夜空に”に当たるであろう名曲“JUMP”に繋がる。 清志郎が亡くなってから、たまらん坂には、献花をする人が絶えないという。だが、引っ越しをして、下町に越してしまった私には献花したくとも、また「いい事ばかりはありゃしない」をi-podに入れて上り下りをしたくとも、「坂」がない。野辺送りをしようにも、その足場がない。アーティストの見直しは、本人が生きていれば意味がある。しかし、腐した言葉だけが残り、今現在のこの想いは行き場がないのだ。それが、私にとっては、最大の喪失感である。ごめんね、清志郎。謝る機会を私は永遠に失ってしまったよ。
2009.07.20
コメント(0)
ちょっとした“浅い”知り合いの女性ミュージシャンが、子供を産んで間もないのに、子宮頸癌になったそうで。 放射線治療をしているらしい。 最近は、こういう話が、日常化してる感覚がある。残念なことに。 でも、癌で絶体絶命と言われていたのに、そこから、盛り返して、ツール・ド・フランス6連覇した、ランス・アームストロングみたいな例もあるわけだし、完全治癒する可能性だって十分にあると思う。 まあ、年を考えると、他人のことどうこう言ってる暇はおいらにはなくて、いつ同じような立場になるかしれたもんじゃない。 それに、“癌”だと聞いただけで、へなへなぐったり、絶望してしまって、治癒に向かうような気力など出てこない気がする、おいらの場合には。 そうだなあ、余命半年とか、3カ月とか言われたら、何するんだろうか。 まあ、バイクで日本縦断とかやるのがドラマチックなんだろうけど、そういうことはたぶんしないですな。どうも、何も聞かなかったことにして、いつも通りのロクでもない生活して、それで、ずるずると、3カ月とか、半年とか経過してしまうのではないだろうか。 でも、白洲次郎ではないが、「葬式無用、戒名不用」ぐらいの遺言は残したいですね。
2009.07.06
コメント(2)
忌野清志郎の追悼原稿を仕上げました。予定の行数より、かなり多くなってしまったので、これで投稿しても、分量だけで、蹴られることもあるでしょうが、一応、おくりました。ルカさんには、他の媒体にした方がいいと、また言われてしまうかもしれませんが。でも、とりあえず、以前、通ってきた道を通って、供花の代わりを持って行きたいのです。もし、掲載されなかった場合は、また、ここのブログに載せることにします。こういうものは、「礼節」の問題ですからして。原稿にも書いたのですが、死者を褒めたたえることは、あまり意味がありません。なぜなら、残されたものにとって、それは100%の割合で当たり前のことになってしまうからです。また、死者を貶すことも同じように意味はありません。なぜなら100%の人がそうは思わないからです。私としては、その両極をかいくぐり、どうにか自分のできることをしたいと考えました。それが達成できているのかどうか定かではありません。ただ、考えていたことは、そのまま書いたつもりです。あとは、私の問題ではなく、他者の力関係や事情の問題でしょう。それは、いかんともしがたいです。
2009.06.03
コメント(0)
ようやく、忌野清志郎の追悼原稿を仕上げた。しかし、迷っている。前と同じように、RO・JAPANに投稿しても、浮いてしまうだけのような気がするし、RO本誌に送っても、没になる確率が高い気がするし。まあ、没になったら、このブログに掲載すれば、ある程度のひとには読んでもらえるのだが。90年代、一度、私は、清志郎をクサしたことがあった。そのことを抜きにして、なかったことにして、追悼文を書くのは、どうも嘘臭い気がして、結果的に、その経緯も書いた。ただ、何もしらないひとにとっては、そんなことどうでもよくて、ただ、清志郎への想いだけが興味あるだけだろうし、などとも思う。その辺が、思案のしどころである。
2009.05.30
コメント(0)
よくわからない。 ボールはこちらに向かって投げられているのに、うまく捕ることができないでいる。 そのボールを受け止めるまで、まだまだ、ぐじゃぐじゃ蠢くんだろうと思う。 でも、あっけなく、確実に、自分の中のある部分が終わってしまった。もう取り返しがつかない。 どのテレビも、どの新聞も、この2日間大きなスペースを割いて、報道していた。しかしそれらをみても、いや、その以外にも、インターネットのどのサイト、どのブログをみても、何故かとてもうすく曇ってるように感じる。まわりだけなぞってるように思う。 その中心を、自分の言葉で表さなければならない。いまはまだ、はっきりとしないが。ただ、ひとつ決めた。58歳からやる。なんだかわからんけど、死ぬまでやってやる。
2009.05.04
コメント(0)
8月にまた引っ越しが決まっているので、ビデオをどうにかしようと、ダンボール9個に入っているのを、一本一本、取捨選択している。 でも、見ちゃうと「ああ、この時のバークレーのダンクはいいからな、この場面だけ見られるだけでも、残しておく価値あるよな」とか、「ファルカンのヒール・キックのクリアは、他にはちょっとできる人いないからな」とかいいつつ、結局、ダンボール一箱開けても、捨ててるのは、4本ぐらい。それも、どうでもいいプロモーション・ビデオの類いのみ。 困ったなあ、いまの5.5畳の部屋は、書棚と透明の引き出しタイプの整理棚がすし詰め状態で、まるで、潜水艦の中みたいなのに。 いや、これはもう発想の転換をして、最初から、潜水艦の中で暮らすんだと思って、置く場所決めた方がよさそうな気がしますな。 「人間、立って半畳、寝て一畳」とかいうけど、この分だと、寝て半畳だね。うなぎの寝床みたいな。 おお、素晴らしき哉、我が人生。
2009.04.27
コメント(0)
曲ができたのは、70年代中盤。一体彼の時間軸はどうなっていたのか。90年代の曲だと言われても、そのまま信じる。「水は敵を作らない」。そう、そうだよね。http://www.youtube.com/watch?v=YdV1V4vPPLI&feature=related
2009.04.26
コメント(2)
平気で本人の前で悪口を言う。平気で警官とケンカする。平気で噛みつく。平気で裸になるhttp://www.youtube.com/watch?v=-ykpwr8K3M4
2009.04.25
コメント(0)
うつ病が一番酷かった時、文字通り底辺にいた時。本気でベランダから飛び降りようと考えた時、ちょうど、その頃、世間では、サントリーの「金麦」が発売され、私はそれを飲んでいた。というわけで、いまも「金麦」は買う気になれない。製品の善し悪しではなく、飲むと、その最低最悪の頃を思い出し、フラッシュパックするからである。「金麦」とうつ病が分けがたく一緒くたになっている。季節的には、2007年の夏だ。あんなにひどいことがもう一度起きるなら、今度こそ、耐えきれないと思う。そして、2009年の春。サントリーからは、前にも書いたように、スペンサー・デイヴィス・グループの“ギミ・サム・ラヴィン”の音に乗って、サントリーの疑似ビール、発泡性のリキュール類に属する「ザ・ストレート」が発売された。他のメーカーのおなじような製品を飲んでも、いまいちだったが、この「ザ・ストレート」は悪くない。それで、最近、結構買っている。あの時と同じ、サントリーのものであるにもかかわらず。あと、2年くらい経って、2009年の春から夏を思い出した時、さて今度はどんな感慨が出てくるのだろうか。違う形での、最低最悪か。あるいは、少し好転したイメージなのか。とにかく、「ザ・ストレート」を飲んで、「現在」を内蔵と脳裏に刻みつけておこうと思う。
2009.04.16
コメント(0)
軽のエッセ君は、とても気に入っている。現代版・日本のチンクエチェントだと思ったりする。 そして、バイクをホンダCB125Tから、ヤマハSRX250に換えて、仕方なしに使う交通手段から、明らかに趣味の領域に入ってしまった。 パワー・アンプをリンのLK140から、クラウトに換えたおかげで、音の浸透力が格段に上がった。 パソコンは、エイサーのデスクトップ・タイプと、三菱の22型の液晶モニターにしたおかげで、見やすいし、さくさく動いてくれている。 デジカメも先を見越して、長年使えそうなパナソニックのモデルを買った。 テレビは、地デジも見れる38型のフル・ハイビジョン・タイプである。 時計は、それまでの趣味趣向とは違うが、ソーラー電波時計のカシオの Gショックの最も薄型のモデルを購入した。 気がつくと、「不足」しているものは、ほとんどないということになっていた。 確かに、超マニアックな、ロータス・エランみたいなものは、なくなったが、そのおかげで、安価で、気安く、フットワークの軽い生活ができるようになった。 問題は何もない。 と思ったら、ちょっと寂しい気持ちにもなった。 自分にある「欠落」があるから、それを埋めようと、どうにかがんばる。そんな生活から、いつの間にか、逸脱してしまっている。 それは、いいことである。「欠落感」に慣れっこになってしまった自分を、違う視点から、見直すことが必要だろう。 いま、家にある蔵書を、読み直すだけで、たぶん、死ぬまでの余生は十分に過ごせる分量はあると思う。 ちょっと、発想の転換をしてみようと思う。 なんだか、「灯台もと暗し」の状態に陥ってる気がしないでもないから。
2009.04.14
コメント(0)
乗り物には、いつも、女性の名前をつけるのが「習わし」になってるおいらは、今回のヤマハSRX250には、「ベアトリーチェ」とつけました。愛称、ベア。ロータス・エランの時は「ドゥルシネーア」だったし、アホまるだし、です。で、わがベアは、乗られずに放置されていた期間が長かったみたいで、前後のタイヤとも硬化してしまっていて、まるでプラスチックのようでした。そんなわけで、タイヤ交換、してきました。手で触っても、ハイグリップのタイヤは、粘着度が高いのが判って、いい感じ。これなら、まともに、カーブで車体傾けられるでしょう。エランを保持するためには、とんでもないお金を注ぎ込んでしまったので、今回は、とにかく「緊縮財政」で行きます。とか言いながら、もうオイルの相談してるおいらなんですけど。病気は「うつ」だけじゃなくて、趣味の方も、そうですね。やっぱ、アホまるだし。
2009.04.12
コメント(0)
安部公房、読み直してます。いまは、『燃えつきた地図』。やっぱり、この辺りの安部公房は、とんでもなく、才気に溢れてますね。大江健三郎より前に、安部公房の方が、ノーベル文学賞もらっておくべきだったと正直思います。本当に、『燃えつきた地図』みたいな作品、一作書けただけで、死んでも、それはそれで悔いはないような気がします。さてと、じゃあ、顧みる人があまりいないから、ここから、アイデア、借りちゃおうかな。てへ。スモール・フェイセス、スペンサー・デイヴィス・グループ、そして安部公房と。
2009.04.11
コメント(0)
うつ病になって、抗うつ剤と抗不安剤を服用するようになってから、生活で、まったく変わってしまった点がいくつかある。まず、コーヒーをブラックで飲めなくなった。いま飲もうとすると、完全に「おこちゃま」仕様。ミルクと砂糖を一杯いれて、どうにか飲む気になる。以前は、ブラックじゃないと、気持ち悪くて飲めなかったのに。一体どういう変化が体内で起きているんだろうか。それと共に、ビールの味がよく分からなくなってしまった。本当は、お医者さんからは、うつの間は、アルコールを控えるようにと、言われているのだけれど、飲まずにゃいられんでしょ。こんな底辺の状態なんだから。ところが、好きなビールを飲んでも、発泡酒やリキュール類の「ビールもどき」とあまり区別がつけられない。もっと事実をトレースするなら、ビール自体の味が判然としない。アルコールであることは分かる。炭酸で、ピリピリするも分かる。ただそれだけ。あとは、なんとなくの雰囲気のみ。だったら、一番安い、リキュール類の「ビールもどき」を飲めばいいのに、わざと、エビスビールとか買っている。なんたるちや。かっこつけるのも、ええかげんにせよ。ああ、本当に、ビールの味が全身に染みて、「旨い!」と思わず口をついて出る日は、いつなんだろうか。
2009.04.10
コメント(0)
佐田真由美出産!妊娠否定してたけど… http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=803189&media_id=30 結構長いようで、短い期間なんだなとまず思わされますね。 身近でも、身ごもっていて、8月が出産予定の女性がいるんですけど、あっという間に、赤ちゃん抱いて、ベビーカーとか押しているでしょうね。 それと共に、10月10日経っても、何も変わらず、何も変えられない自分の、ふがいなさを思い知らされる。 むかし、「男子たるもの、三日会わざれば、刮目して見よ」なんていう、言葉があったけど、十年経っても、いや、二十年経っても、おいらなんか、全然変わらんもんね。精神がまったく成熟しない。 賞味期限きれて、萎びてるのに、陳列されているって、いうのは、ゴミとして捨てられるより、タチが悪い気がする。いや、どうにかしようぜ、おれ。
2009.04.09
コメント(0)
無論、ヘルマン・ヘッセの、かの名作である。と同時に、ヒッピー・ムーブメントのメルクマールにもなった本。よく知られているところでは、“ボーン・トゥ・ビー・ワイルド”を歌った、ステッペンウルフは、その名をこの小説から取っている。28歳、年の離れた彼女が、今年から、大学に行き始めた。いまは、まだオリエンテーリングの時間らしい。そこでの講義のひとつで、この本を教則本として、話を展開していくといった教授がいたそうな。なんか、わたしも、講義、聴講に行きたい。で、先生が登場してくる時には、CDラジオかなんかを持ち込んで、大音量で、“ボーン・トゥ・ビー・ワイルド”をかけて、お迎えするのである。いいね、そういう講義があるっていうのは。そうだ、わたしも、読み直してみるか、『荒野のおおかみ』を。
2009.04.09
コメント(0)
なるべく、毎日、ブログで日記をつけることにした。つまらない話題、くだらない話題しかなくても。そして、今日は、そんなどうでもいい話のひとつである。「うつ病」になってから、ひさしいが、最底辺の時よりは、かなり、回復している自覚はある。そのひとつの証拠は、なにもほしくなかったのが、ほしいものが出てきたこと。散弾銃を引き取ってもらい、銃砲所持許可証も返納し、バンデンプラス・プリンセスを売りにだし、「最後のクルマ」と思って買った、ロータス・エランも手放してしまったのが、去年のはじめ。それがやっと、寂しいなという気持ちになって、趣味の乗り物、購入しました。ヤマハ SRX250。クラシック・バイクまではいきませんが、これも、20年近く前のモデルです。この後、ヤマハは、250ccでは単気筒のロード・バイクを出してないので、必然的にその選択になってしまいました。最初はあまり期待してなかったのに、乗ってみたら、存外エンジンの鼓動が軽快で気持ちいい。これは、一種の「回春剤」になってくれる感じがする。ちょっともう、「底辺」を這いずり回るのも飽きたので、せめて、姿勢だけでも先に、元に戻そうと思う。その姿勢矯正マシーン。
2009.04.08
コメント(0)
スズキの軽自動車ラパンのCMには、スモール・フェイセスの“シャ・ラ・ラ・ラ・リー”が使われている。そして、サントリーの新商品「ザ・ストレート」には、スペンサー・デイヴィス・グループの“ギミ・サム・ラヴィン”がバックでドカーンと鳴り始める。ねえ、ねえ、そういうのは、ありなのかい。クリムゾンの“イージー・マネー”をトヨタの新車のテーマ・ソングで使った時も思ったけど、コマーシャルは趣味じゃなくて、仕事でしょう。表現活動の部分も入ってくるでしょ。そしたら、やっぱり、近田春夫の言葉じゃないけど、「クリエイトにノスタルジーなし」じゃなきゃ、いかんと思う。しかし、俯瞰してみれば、クルマのミニも、チンクエチェントも、復活しちゃってるしね。宣伝の分野だけじゃなくて、製造の分野でも、そういう「禁じ手なし」になっちゃったら、まあ、なんでもあり。やったもん勝ちということなのかしら。この際、文章でも、「盗用」とかいう文句が消えて、ありになっちゃうのかもしれないね。古典文学なんて、探せば、いくらでも、あるもんね。一撃必殺のフレーズが。そうさせてもらうかな。場所と時代だけ変えて、あの名作の現代版とかさ。そうしよう、そうしよう、といいました、まる。でも、やっぱ、“ギミ・サム・ラヴィン”で聴ける17歳のスティーヴ・ウィンウッドのボーカルは最高です。
2009.04.06
コメント(0)
やらなければならない課題がある。自分で自分に課した事柄だ。しかし、疲れて帰ってくると、つい、近所のコンビニエンス・ストアによって、ビールを買って、飲んでしまう。気分は高揚してくるが、課題は一向に進展しない。というか、どうでもいいような気分になってきてしまう。その上、心療内科の先生からは、アルコールは控えるように言われているのに。ああ。こうやって、楽天のブログに書いているのも、ひとつの“逃避”だと思う。たぶん、意識を反転させなければならん。ストイシズムに戻るのではなく、ヘロヘロのボケボケ、エントロピーが最大値になって、それで「やっつけなければ」いけないんだと思う。パワー・イン・ザ・ダークネス、である。もう一度そこから。
2009.03.31
コメント(2)
ミクシィより、日記、転載します。WBCで、日本勝っちゃいましたね。 でもですよ、韓国も十分にがんばったし、粘り強いチームだったじゃないですか。 たとえば、日本と韓国は、永遠のライバルだとかいう(そして、日本の恒常的な優位を唱える)人達がいるんでしょうが、韓国に勝たせてあげて、彼らが気持ちよくなるのなら、少しでも日本コンプレックスが解消できるなら、そうさせてやっていいじゃん。そうは思いませんか。 韓国、偉い、立派、上昇志向丸出し、世界に名だたる国、そういう評価してあげればいいじゃん。 そして、日本の方は、疲弊、へたれ、上昇志向まるでなし、黄昏を迎えた老成の域に入った国、でいいじゃん。 韓国はこれからどんどん重い荷物を背負い、日本は重い荷物をどんどん手放してゆく。その方が、楽ちんで、いいことだと思うんだけどなあ。 私は、男気を出して、女の子の荷物をもってあげるとかするのも、あんまりしたくない。ながらく、男女同権が叫ばれているのだし、飲食もワリカン、荷物もそれぞれが持つ、ドアもそれぞれが開ける、それが正しき道ってもんでしょう。 こちらは荷物を降ろし、それを担ぐ人が、どんどん出てくる。いや、とてもいいこと。 せっかくだから、相手のルサンチマンを解消させてあげればよかったんだよね。なにごともいうでしょ。「損して徳とれ」って。
2009.03.24
コメント(0)
ヒーローものに出てくる主人公は、いつも「正義の味方」であって、「正義」そのものではない。いや、第一、「おれが正義だ」なんて公言して憚らない奴がいたら、それは、絶対に、「悪」であると相場が決まっている。どこかにかぼそくひ弱な「正義」があり、だからこそ、それを味方するヒーローが必要になり、登場してくることになっているのである。たいていの場合は。服用している抗うつ剤のトフラニールという薬は、副作用として、便秘を引き起こすことが多い。うまれてこのかた、便秘になったことがない身としては、3日もそんな状態が続くと、とても不安な気分になってくる。どうしちゃったんだろう、おれの身体は。と思う。あまりにひどいので、今回、診療してもらった時に、医者に事情を話したら、大腸の運動を活発にするプルゼニドという薬を処方してくれた。ところが、今度は、効きすぎてしまって、年がら年中、トイレに入ったり出たりを繰り返すハメになってしまった。健康な身体を「正義」だとすれば、プニゼニドは、ウルトラマンなのか、バルタン星人なのか、やっかいな問題である。まあ、いい。ことは、私個人のちょっとした内臓の話である。たとえば、これが、バレスチナとイスラエルのような関係になったら、どうするのか。子供番組のヒーローものは、どういうストーリー展開で、制作したらいいのか。バレスチナにはパレスチナの「義」があり、イスラエルには、ユダヤ人の「義」がある。その場に立たされた時、ウルトラマンはどうするのか。答えは、たぶん、バルタン星人が握っている。バレスチナにもイスラエルにも等しく、征服を試みるバルタン星人が。
2009.03.20
コメント(0)
去年の7月に書いて投稿した原稿。この前のものは掲載されたが、こっちは没になった。なんか久しぶりに読み返していたら、どこにも出さない(出ない)のは、作品にも自分にもよくないかなと思うところがあって、ここに掲げさせてもらいます。ちょっと長いですが、気が向いたら読んでみてください。いやさ、「花しぼみて露なほ消えず」。 上田現に捧ぐ──仲井戸麗市『poetry』 上田現が死んだ。袖触れ合うも他生の縁という言葉に倣えば、告別式に列席するまではいかなくとも、弔電の一本ぐらいは打つべき間柄だった気がする。 調べてみたら、90年から95年にかけて、彼には計6回インタビューをしていた。そして正直にいわせてもらえば、私は、上田現の良き聞き手でも、良き理解者でもなかった。取材で会って言葉を交わせば、いつもそれなりに話は盛り上がった。しかしそれは評価するものとそれに値する表現者の会話というより、疑念を抱き糾弾する者とそれに反駁する者との関係に近かったように思う。 そんなわけで、彼との「交流」は長続きはしなかった。インタビューでの二人のやりとりを見ていた編集部が、これではまずいと思ったのだろう。そして、それは正しい判断であった。幸せはできるだけ多い方がいい。表現者も幸せ、取材する側も幸せ、レコード会社も幸せ、記事を見る読者も幸せ。もしそういうインタビューがとれるなら、それに越したことはない。その意味で、上田現とのインタビューは、私にとってはOKであったとしても、上田現にもマネージメントオフィスにもレコード会社にも読者にもあまり幸せを供給できない種類のものだった気がする。 毎日、同じ時間に起きて、顔を洗い、同じ時刻の電車に乗って、会社にいく。そして、先週や先々週と同じような調子で仕事をこなす。決まりきった手順、何も感じず、何の情動もなく、それこそロボットのような繰り返しで工作機械の部品にでもなったかのような行動が続く。仕事がもし本当にそういうものであったなら、かつてチャールズ・チャップリンが『モダン・タイムス』で描いた、大量生産の流れ作業の中、ネジを締めていく工員のように、非人間的・自己疎外といったイメージしか生まれないだろう。文字通りのルーティン・ワーク。 しかし、ミュージシャンは、ライヴの度にリスナーが待ち望んでいるおなじみの曲、同じ曲を、常に演奏する。にもかかわらず、その「繰り返し」の営為を、自分が工場の部品の一つになったかのような自己疎外や憂鬱さの脈絡で語った例を見た憶えがない。 以前、RCサクセションの仲井戸麗市に「“雨上がりの夜空に”は、もう何千回も演奏してきたと思うんですけど、これだけ長い間、同じ曲を演奏する時の気分というのはどんな感じなんですか」という質問をしたことがある。チャボさんは、その時、半ば照れ笑いを浮かべながら、こう答えた。「そうだよね。本当に呆れるくらいやってるよね。でもね、不思議なもんで、イントロのギターを弾き始める時の気持は、いつも同じなんだ。最初の音がちゃんと出てくれるか、タイミングは狂ってないか、それは毎回変わらない。本当に最初の頃に演奏した時と一緒の気持ち。変なんだけどね」。人間にとって「反復」が決してマイナスの事項ではないこと。いや、むしろ生の原点になることもあるのを、それは教えてくれる。 無論、音楽だけが特別だということはない。チャップリンが描いた、自己疎外の権化というべき、ベルトコンベアーに乗っかってくる部品を組み上げる作業は、野麦峠の「女工哀史」の時代と現代では同一であるはずもない。工場の現場は、ただボルトとナットを組み合わせ回し続ければ済むほど、単純作業の繰り返しでは済まなくなっている。どんな繰り返しの局面においても、生産的、創造的、革新的な技術の更新は必要だし、それがなければ“流れ”の効率は徐々に下がり、遅延してゆく。「精神は反復を嫌う」という。しかしまた反復がなければ、人は安心できない。過去から現在、未来へとつながる線を引き続けることができなくなる。それは自分を見つめなおすことができないという意味もあるし、現在という命題を解くカギをなくすという意味をも含んでいる。 キルケゴールは言っている。《反復と追憶は同一の運動である。ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、本当の反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする》。 その原理に従えば、例えば『三丁目の夕日』など、不幸の塊みたいな作品、という捉え方が可能である。しかし、なんらかの理由で歩みが止まった時に、過去に惹かれない者がいるだろうか。ノスタルジアのヴェールを被せれば、鋭くとがった荒々しい線も丸みを帯び、なにやらたおやかな匂いが立ち上る。過ぎ去った自分は、いつだって今の自分より、どこか穏やかで幸せだったように思える。進退窮まった現在の自分であっても、何年かの後、追憶のフィルターを通せば、やはり幸福の表情を見せてくれるのではあるまいか。しかし、追憶の点滴は慰めにはなっても、自分を起動させるほどの力は持ち得ない。 一方、反復には、大抵「負」の印象が付きまとう。同じことの繰り返し。ただ同じ場所でぐるぐる回ってるだけ。どこにも辿りつくことができない……。しかし、パン屋は毎日パンを焼くこと、バスの運転者は毎日バスを時間どおり走らせること、が仕事である。それは、暑かろうが寒かろうが、身体のバイオリズムが上昇してようが下降してようが、毎日、同じように始まり、何事にも惑わされず、実施される。その「反復」の徹底の中に、生のなりわいのメルクマールがある。いやむしろ、そうでない人などいやしない、と言ってもいいのかもしれない。 今回出た仲井戸麗市のミニ・アルバム『poetry』には、7曲の歌(詞)が収録されている。このところ、彼の独壇場になってきた、歌ではない、詞の朗読=ポエチュリー・リーディングの曲がそのうち半分以上を占める。そして、聴き手は、他では決して受け取れないものを、もう一つ掴むことになる。 一曲目の“久遠”には「俺の呼ぶ声に 気付きもせず」という言葉が4回。2曲目の“HOME”には「いったりきたり」が7回。“太陽に歌って(戸山ハイツ)”では、文字通り「太陽に歌って」というフレーズが15回、この言葉の英語版であるフレーズ、「SINGING IN THE SUNSHINE」が12回。最終曲の「風樹」に至っては「風が吹いてる」という呟きが28回登場する。ラップのアルバムも含めて、これほど言葉の反復が出てくる作品はあまりないと思う。少なくとも私の記憶にはない。にもかかわらず、そのリフレインのどれもが退屈さとは無縁である。というか、それらのリフレインが続いていくが故に、作品の一つ一つに生命が吹き込まれている印象を受ける。 15分を超える大作、“太陽に歌って(戸山ハイツ)”は、ここが自分にとっての「記憶の現住所」ということわりの言葉から始まる。そして、終盤には、「過去への未練 過去への未練は元より まさか未来への未練」という一節が登場する。普通、「未練」という言葉が向かう先は「過去」である。しかし、キルケゴールが「未来への追憶」と述べた場に漸近線を描くように、仲井戸麗市は「未来への未練」と言い放つ。辞書を引くと「未練」には「あきらめきれないこと」の他にもう一つ、「まだ熟練してないこと。未熟」という意味もある。過去への「未練」なら、それは、何かをしてしまった「後悔」か、あるいは、何かをしなかった「後悔」に還元できる。しかし「未来への未練」には、《期待の不安がない。探検に伴う不安な冒険もない。しかしまた追憶の持つ哀愁もない。そこには瞬間の祝福された確実さがある》。 仲井戸麗市は1950年生まれ、だ。今年で58歳。生き物としてのホモ・サピエンスの生命曲線で区切れば、壮年から老年になろうとする時期に当たる。しかし、その彼が抱える思いは、文字通り「未来への未練」である。 親戚から電話が入る。20年前だったら、その内容は、だれそれの結婚が決まったとか、だれそれに赤ちゃんが生まれたとか、喜ばしい連絡が大部分だった。礼服を着る機会は結婚の披露宴が一番多かった。つまり、何らかの「出会いの季節」の中にいた。しかし、最近、親戚から連絡がくると、悪いニュースが殆どである。だれそれが倒れて病院に入った、誰それが急に亡くなった、そんなのばかり。季節はあっという間に「別れの季節」に移ってしまった。しかし、仲井戸麗市の音楽には、現在も四半世紀前もあまり変わらない表情がある。「出会いの季節」の中に「別れの時」が挟み込まれ、「別れの季節」の中に「出会いの時」が混ざり合っている。「未来への追憶」、「未来への未練」。 私は人と酒を飲んで酔っぱらう度に、言い続けていることがある。 一つ、「何言ってんだ、これからだって、背は伸びるかもしれないだろう」 一つ、「そのうち、オチンチンはもっとでかくなると思うな」 一つ、「これからでも、クロールで50mを30秒を切るのは可能だろう」 まだまだひよっこ。これからもずっと「青い」まま。 上田現は、死ぬ間際、「俺はシリウスになる。そして、皆のことを見守る」と言ったそうだ。知っての通り、シリウスは全天で一番明るい恒星である。上田さん、やっぱりあなたは傲岸不遜のとびっきりのうぬぼれやだ。そして、それが厭味にならないところがまた格別だ。地球とシリウスの距離は8.7光年。光の速度で太陽から地球まで到るには約8分。それが9年近くかかるというのは、やはりとてつもなく遠い。いまこの瞬間シリウスが発した閃光を我々が見れるのは、9年先だ。だが逆に考えれば、シリウスの光は「いま」より9年先んじているとも言える。観念的、私的な想像ではない、まさに物理的な「未来への追憶」の有り様。 さて、私はこれからプールにいくことにする。今日は2キロを休みなしで泳ぐ。それとこの仲井戸麗市のアルバムが、遅ればせながら、上田現さん、あなたへの手向けだ。 アデュー。
2009.03.15
コメント(0)
「ゲット・リズム」またの名、ルカさんが、ロバート・クイン(ここは、あえて、クワインじゃなくて、クインと書かせてもらいます、その方がなれ親しんでいるので)について、書いていたので、久しぶりに、ルー・リードのライヴ映像みたら、ぐっときたので、you tubeのアドレス載っけておきます。曲は、『ブルー・マスク』より、「ウエイブス・オブ・フィア」。ラストのかの人のひきつりギター・ソロを、ご堪能あれ。http://www.youtube.com/watch?v=HPC3nG8LCx8
2009.03.12
コメント(4)
例えば、飲み屋さんに行く。居酒屋でも、ショット・バーでも、どこかいい雰囲気を持ったママさんが独りで切り盛りしているスナックでもいい。店には、自分だけでなく、何組かのグループがいるとする。すると、決まって、こんな台詞が聞こえてくる。「課長のあの言い方はないでしょ。あれじゃ、やりたいものでもやりたくなくなるじゃん……」「人格的に何もいいと思える所がないのに、どうしてああいう人間が部長になるのかね。わかんねえよなあ……」何処でも、どの時間帯でも、どういう職種であっても、お酒を飲んで、ちょっと心のタガが緩んだ時に、こういう会話が滲み出てくるというのは、たぶん「日本株式会社」の中身がいかに下卑たものであるかを、物語っているんだと思う。愚痴をこぼしているサラリーマンが悪いのではない。上に立つものの、下劣さがまずもって問題なのだ。というところで、ひとつの清涼剤。明日、いつも嫌だなと思っている上司に、なにか仕事の上で、問いかけをしてみるのだ。そしてその際、「部長」とか「課長」とか「主任」とか役職で呼ばずに、名前で呼んでやれ。田中さんとか、井上さんとか、橋本さんとか。ちゃんと個人名で。自分と同列だという具合に。会社の慣習で、それが難しいというなら、また、規則で役職で呼ぶことが決められているというなら、名前の上に、役職つけて、それで個人名で呼んでやればよい。たとえば。「あ、部長の田中さん。この前提出した報告書ですけど、どうなりましたか。人事部からせっつかれてるんで、よろしくお願いしますね」これ、社長にまで、使ってやると、効果てきめんだと思う。なんなら、朝、エレベーターに一緒になったら、挨拶してやるがよろしい。「あ、社長の西沢さん、おはようございます」。相手は、なんだこいつは、と思うだろう。しかし、礼儀は全然逸してない。まずは、ここからだ。そんなことして何になると、貴方は思うかもしれない。しかし、万事は「形」から始まるのだ。そして、神が宿るのも、やはり「形」である。かたちが、変わっていけば、中身は当然変化する。変化せざるを得ない。貴方の明日がいい日でありますように。アデュー。
2009.03.04
コメント(0)
「死ぬ気になってやれば、そんなことなんでもない」。「別に大変だからといって、死ぬわけじゃないんだから」。というような、物言いは、結構いまだにまかり通っている。しかし、にもかかわらず、毎年、自殺者が3万人以上いるというのは、どういうことなのか。少し考えるべきではないだろうか。その3万人が、全員、「うつ病」にかかっているわけではあるまい。すべての人が、やる気をまったく失ってしまっているわけでもないと思う。しかしながら、結果は、こうなっている。そこから導き出される推論とはなんだろうか。私の、頭に浮かぶのは、ひとつのことである。生きていることのレベルが、もし「1」である時──死ぬ、あるいは、死ななければならなくなってしまったレベルが「100」ぐらい、遠ざかっているのなら、死ぬまでにやれることはものすごくたくさんあるし、死に至らぬ道筋も選択肢も数えきれぬくらいあるような気はする。しかし、生きていることが「1」である時、死ぬことは「100」も離れてはおらず、例えば「3」とか「5」とかぐらい近くにあるということは考えられないだろうか。だとしたら、死ぬ気でやったところで、できることはそんなに多くはないし、また、逃げ道もそんなに残ってはいなくなる。そう、いまの私には、生きていることが「1」であるなら、死ぬことは「2」ぐらいの位置にある身近な存在に思える。なんかのきっかけがあれば、そこに吸い込まれていくことは、十分にありえるとしかいえない。生きていれば、いいことはある。しかし、生きていたら、苦しいことだって、ありあまるほど存在する。そうおもえる時、死は、とてもとても目鼻に触れるほど、自分の傍らにある。
2009.03.02
コメント(0)
例えば、欲しいものがあるとする。予算があって、その範囲内で、最上の選択は何かを模索する。で、大体、的が絞れてくる。照準が合ってくる。そこで、一休み。本当に欲しいのかどうか、見極めるために、そう、最低限2、3週間は「ほったらかし」にしてみる。いや、1カ月、2カ月でもいい。ものによると、1年、2年かかる場合もあるかもしれぬ。それでも、やはり、ほしいとなったら、あとは、万難を排して、目標に向かって進む。無論、お金がなくて、買えない時もある。でも、これは経験上の話ではあるが、本当に欲していれば、どうにかなるものだ。どうにかなんなかった場合は、大抵、たいして欲しくなかったものである。こんなことをいうと、それならフェラーリが欲しいと強く思った場合、どうなるのか。2、3千万円のお金を都合つけられるのかと思われる方もいると思う。しかし、やはり、強く思えば、そして、そこにエネルギーを注げば、どうにかなる。4畳半の安アパートに住んで、フェラーリを乗る。それが、「趣味」というものの本質であり、醍醐味だと思う。断っておくが、「なせばなる」という意味ではない。想いの持続力、純粋性、正当性、直感性、そんなものがそれを「連れてくる」。こちらは「待っていれば」いいのである。オカルティックな話かもしれないが、いまもそれは信じている。
2009.01.08
コメント(0)
毎日のように、人が殺され、事件が起こり、ニュースが流れる。親殺し、子殺し、テロのような無差別殺人。誰も自分のことをわかってくれない。殺すのは「誰でもよかった」。「それしか選択はなかった」。どん詰まりまで行ってしまって、最後のあがきにもそれは似ている。のかもしれぬ。しかし、考え方は、まったく逆だと私には思える。例えば、わかってくれる人が一人もいない。それは、ゼロなのか。いいや、違う。それこそ、最初の一歩である。高校生の時、読んだ文章がある。そこには、こう綴られていた。「どこかにいる無名の青年よ 心の中に何事かおのれを戦慄させるものが生まれたら 誰もきみを知らぬという そのひとことをこそ頼みにせよ」それは、30年あまり経ったいまでも、私の唯一の起動力である。いや、それは、誰にとっても、変わりはしない。変わるはずがない。誰かのおかげで、助かっている。誰かのおかげで、正気を保っている。誰かのおかげで、生き延びている。しかし、日常とは別次元で、この言葉がなければ、人はひとり立つことはできないと私は思う。最後の最後に、救ってくれるのは、君を理解してくれる人ではない。君が誰にも理解されないこと、だけである。
2008.11.24
コメント(0)
ルカさん、またの名、ゲット・リズムさんが、私のことを、「天才」と 呼んでくれている。無論、くすぐったいだけで、なんのリアリティもない。例えば、天才とは、こういうもんだと思う。彼は今年、「還暦」である。しかし、ここまで、やる。ここまで、私ができたなら、その時は「天才」とか呼ばれてもいい気がするけれど。http://jp.youtube.com/watch?v=30XebMAshPw
2008.11.13
コメント(2)
前回(随分と前ですが)の最後にアドレス記しておいたセルジュ・ゲンスブールのページ、時間が経ってしまって、開かなくなっていたようなので、もう一度探して、載せておきました。ぜひ、見てくださいませ。これがダメという人がいましたら、そういう貴方とはもう話はしません。では。
2008.11.09
コメント(0)
セルジュ・ゲーンスブールを本格的に聴きだしたのは、84年頃だったと思う。「メロディ・ネルソン」に打ちのめされた。しかし、私には、ひとつの記憶があった。中学生の頃、深夜のテレビの洋画劇場みたいな番組で、ジャン・ギャバン主演のフィルム・ノワールが放映されていた。ジャン・ギャパンは、犯人逮捕のため、あるレコーディング・スタジオに向かう。そこで、歌入れをしていたミュージシャンがあまりにかっこよかったのだ。長年、そのことは頭を離れることはなかった。ただ、題名はうろ憶えでしかなかった。「パリ捜査なんとか」とか、そんな感じのタイトル。ゲーンスブールは凄い。でも、まだ見ぬ天才がもう一人いる。それが、ゲーンスブールを知った時の、私の思いだったのである。後年、近所のレンタル・ビデオ屋さんで、ジャン・ギャパン主演の「パリ大捜査網」という作品を見つけて、私は小躍りした。しかし、勇んで見た裏のクレジットにはこう記してあった。「音楽/セルジュ・ゲーンスブール」。なんだ、天才はやっぱり一人だけだったのか。正直そう思った。それと共に、中学生の頃から、自分の趣味趣向は、まったく変化がないんだなと感じたのである。では、みなさま、どうぞ。タイトルは、「愚か者へのレクイエム」。http://jp.youtube.com/watch?v=BVi5RPp91Io&feature=related
2008.07.29
コメント(1)
うつになってから、なにもしたくない。なにもほしくない。どこにいきたくない。という三重ないない姿勢が続いてきたのですが、ここにきて、欲しいもの、出てきました。二十四年前のバイク。当時、友達のを借りて乗ったことがある、モトグッツィ・イモラ。これだけきれいなエンジンの個体が現存しているというのは、奇跡的ではありますね。これ逃すと、たぶん、二度と手に入らないでしょう、この状態のものは。さてと。いっちゃおうかな。
2008.04.11
コメント(0)
原稿のネタを考えつきました。また、投稿しようと思ってます。かの雑誌に。きっかけは、上田現の死と、下に記した過去の文句。「俺は、中島みゆきが嫌いだ。それは、中島みゆきの歌が暗いからじゃない。むしろ逆。彼女の歌が暗そうに見えて、全然暗くないからなんだ」と言っていた友人がいました。そう、よく見るとこの手のことは非常に多いのです。例えば、チューブの音楽は夏が売り、ってイメージが定着してますよね。でも、私は、彼らの歌を聞いても、夏を感じたことがありません。チュープには夏しかない、のではなく、夏が全然足りない、と思うのです。もう一つ、他の例を挙げてみましょうか。バブルの終焉時に、中野孝次の「清貧の思想」がベストセラーになりました。金やモノは最小限でいい、慎ましやかに清廉潔白にいきる。なるほど立派なアティチュードかもしれない。しかし現実はどうなのか。中野孝次は清貧を説きつつ、ガンガンにお金が儲かっちゃったわけですよね。我々の生きてる資本主義社会では、いくらマイナスを目指しても、結果はプラスにしかならないということが往々にしてあります。忌み嫌っていたものにどっぷり浸かっていたなんてことがね。第一、自然食を食べる清らかな生活なんてものは、結局一番高くつくわけですよ。さてと、少しネジを巻くかな。ルカさんにも笑われないように。
2008.04.11
コメント(0)
いろんなことがありました。 これからも、いろんなことがあります。 でも、こんな調子。 ただ、いまは、これでいい。 http://jp.youtube.com/watch?v=E06SoECIp1U よかったら、いや、これ読んだ人は全員みてほしい。 見てください。見る方がいい。見ろ。
2008.03.24
コメント(0)
A&Vフェスタの時にもかけた、ボブ・ディランの「フォーエバー・ヤング」。ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』から。みなに語りかけるディラン。しかし、その姿は、垂直に切り立った崖のようでもある。http://jp.youtube.com/watch?v=1TLygQpSiyU
2008.03.24
コメント(0)
えー、わたくし、ミクシィでは、最近、こんなことしかしておりません。コレもまたyou tubeの動画。しかし、カッコいい。カッコよすぎませんか。お客さんが、ボウイと一緒に、ハモる。 “I ain't got the power anymore”のところで。 「もうこれ以上わたしには力がない」っていう、ネガティヴな物言いで、大合唱というのが、実に、よろしいのですよ、これ。 http://jp.youtube.com/watch?v=9T8aoEW-u_8&eurl=http://mixi.jp/view_diary.pl?id=733388275&owner_id=781882&org_id=734330839
2008.03.24
コメント(0)
ザ・フーが、ウエスト・エンドの象徴ならば、こちらは、イースト・エンドの雄、スモール・フェイセズ。 おいら、スティーヴ・マリオットが、死ぬ1年ぐらい前に、ロンドンのライヴ・ハウスで見たんだ、聴いたんだ、彼の姿、その声、その音楽。 吐く息が白い。夜のロンドン。くるねー、ぐっとくるねー。みなさまも見てくださいまし。you tube、下記のページで。http://jp.youtube.com/watch?v=jVkSOq7pOJA
2008.03.24
コメント(0)
今回も、ミクシィの日記を転載。──────────────ロッキング・オン・ジャパンの掲載誌が送られてきた。 少し前の日記には、「昔、勤めていた出版社の雑誌に12年ぶりに投稿した」と書いたが、ロッキング・オン編集部を辞めてから20年。最後に原稿書いたのが、96年のロッキング・オン本誌なので、干支が一回りした勘定になる。 結局、同じところをぐるぐる回ってるだけ。これではどこにも辿り着かないと、自分でも思う。また、渋谷陽一にしても、一緒に仕事をした中で唯一残っている山崎洋一郎にしても、たぶん、おいらが投稿してきたことを、せせら笑っている気がする。「なんだ、これだけ長い年月が経っているにもかかわらず、いまだにきみは我々と関わりたいのかね」と。そうだな。おいらは、確かにさもしい浪人、網干さもじろう、みたいだな。 だが、できる限りの労力使って書いて、それが掲載されて、原稿料が入るのだから、何も文句はない。今回は400字詰め原稿用紙で10枚半書いたので、42,000円也。 もし毎月投稿して1年間連続して掲載されれば、50万円近くになる。 へんてこりんな自尊心と羞恥心にまみれているよりは、50万円いただき、というアティチュードで臨んだ方が、遥かに爽快だし、正解だろう。 うつ病になってから、何もしたくない、何も欲しくない。何処にも出掛けたくないという気分に陥っていたが、今日、半年ぶりぐらいにモノを買った。バイクのヘルメット。いままで使っていたのが、安物で、50キロぐらいで走っていても、シールドの脇からビュービュー風が入ってきて、目を開けているのがきついくらいだったので、これで、普通にとばして走ることができる。フルフェイス型だが、マウスガードが開閉できるタイプで、とても使いやすい。良い買い物だった。 そうだ、できるだけ投稿して、ギャラを貯めて、次はモトグッチのバイクでも、買わしてもらうことにする。 原稿のテーマにしたミュージシャンは豊田道倫。彼にも連絡して、恩を売っておこう。一緒に飲みに行って、奢ってもううことにしよう。 とにかく、しつこくやる。ひとつずつひとつずつ。 アデュー。
2008.03.18
コメント(0)
加藤典洋さんの「言い忘れたことが忘れられないということ」から。 ○ ○ ○ 十数年前、ある漫才師がノイローゼにかかって失踪した。その漫才師が、やがて姿を現し、テレビのモーニング・ショーのような番組で相棒に揶揄され、頭を掻き掻き、というように語った話が忘れられない。彼は、ある時、聴衆の中に、一人だけ、みんながゲラゲラ笑う中で、ニコリともしない観客がいるのを見つける。はじめのうち、視界の中にチラチラする程度だったその観客が、少しずつ彼の中で無視できない存在に育ちはじめる。それ以後、気になって「お笑い」をやりながら観察すると、そのような、けっして笑わない客が演芸場に必ず一人はいた。それ以後、彼はそのただ一人の笑わない客を、何とか笑わせようと壇上で苦心し、ペースを乱し、ノイローゼにかかり、もう壇上に登れなくなって、失踪してしまうのである。(中略) 漫才師が会場の中に見つけるただ一人の笑わない客は、たとえばベルイマンの『第七の封印』に出てくる死神に似ている。彼は、あるコミュニケーションの世界に現れて、そこには、必ずそれで包摂しつくせないもののあることを教える。それは壇上に立つものの前に現れて、お前には見えないものがある。お前には言い忘れたことがある筈だ、と囁くのである。 ぼくには、死神をもたない漫才師は余り面白くない。同じように、「言い忘れたこと」におびやかされない言説は、退屈に聞こえる。(中略) ところで、死神に睨まれた漫才師、つねに「笑わない客」を見据えて壇上でお喋りを続けなければならない漫才師はどうすればよいだろう(それはぼく達のことである)。 この間死んだアンドレイ・タルコフスキーの『ぼくの村は戦場だった』を二十数年ぶりに見て、そこに回想シインとして現れる情景から、ある解放感を味わった。そのシインの中で、主人公の少年は少女とリンゴを一杯に積んだトラックに乗り、トラックはリンゴをぽとぽとと落としながら速いスピードで村の道を走る。走り続けるトラックから次から次へと落ちるリンゴは(ぼく達が走りながら考え、考えながら喋る、そこで次から次へと言い忘れられ、言い落とされていくことどもは)、その後、どうなるだろう。それは、大渦巻の中に海面深く姿を没し、見えなくなる。 ぼく達にできることは、ぼく達の話すことを、そのような穴ぼこだらけのメッセージとして提示すること、けっして「素晴らしい思想」などとして語らないこと、自分の席のかたわらに、どんなに混んでいようと、自分の死神のための席を一人分、確保しておくことであると思われる。 ○ ○ ○ ルカさんが、少し前に書いた、よびりんさんの講演の時に、一人黒ずくめの格好をした異様な風体の人がいた、という下りを読んだ時、すぐに、この加藤典洋さんの文章を思い出した。 その時は、何もコメントしなかったのだが、何故か今日になって、引用しておきたくなった。 よびりんさんをはじめ、なんらかのことをなす人は、どんな瀬戸際に立たされても、ポジティヴィティーが溢れていたりする。しかし、ボジティヴであろうと、ネガティヴであろうと、自分の席の隣が空いている。そういう人ではないと、やはりつまらない。付き合いたくない。そんな思いを持つ。
2008.03.17
コメント(0)
久しぶりに、コクシネルを聴いた。ずっと前、そう、もう20年くらい前だ。こんな感想を持った。 「さて、生きてる時間の3分の1を寝ている我々は、80年の人生のうち27年近くを夢の中で過ごす勘定になる。コクシネルは、27年の夢が残りの53年の現実を凌駕できるというひとつの証拠である」ゆったりとしたベースの鼓動。その中で、述懐は繰り返される。『あなたは何か信じられないというような顔つきで死んでいった白い煙突から あなたの灰が 広い空を越え舞い上がっていく』それが、貴方に届くことを私は切に願う。 変わらない。20年前と何一つ変わらない。それでは、いかんのだろうが。
2008.03.14
コメント(0)
上田現が死んだ。ちょっと前には、フィッシュマンズのサポートをしていたHONZI が死んだ。あまり好きではない書き手だったが、池田晶子が46歳で死んだと新聞に出ていたのは、去年の暮れだったか。みな、癌だった。そして、みな、わたしより若い。上田現には、もう10年くらい会ってなかったが、それ以前は、毎年2回ぐらいのペースでインタビューしていた。「ワダツミの木」が、彼の作詞・作曲であることを知って、随分驚いた憶えがある。しかし、もういない。 死んだものは帰ってこない。生きてるものは生きてることしか語らない。 確定申告をやらねばならない。PANTAさんへの長いインタビューが金曜にある。準備をしなければならない。でも、今日は、昼間からちょっとだけお酒を飲ましてもらう。みなさん、さようなら。ご冥福を祈ります。魂の辺境の地から。
2008.03.10
コメント(0)
飽きてしまった歌はもうおやめつまびくその調べはもうおやめ弦を張ったまましばし休みなさい誰ももう口ずさみたがっていないよ ボブ・ディランの曲。どこが好きか。それは「弦を張ったまま」休む、というところ。弦をゆるめてしばし休みなさいでは、たぶん、こちらの心に浸透してこない。ギリギリとテンションをかけて張ってある弦。しかし、それはいま鳴っていない。そこに釘付けにされてしまう。写真は、成人を迎えて、記念写真を撮ったあとの、かの女。2カ月遅れぐらいだけど。着物を着たのは七五三以来だそうだ。あれ、でも、わたしは着物着た記憶がないぞ、七五三の時でも。そうか、ないのか、和服を着たことが。いいな、そういうことが、まだ残っているというのは。この人生に。
2008.03.09
コメント(0)
全76件 (76件中 1-50件目)


