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2005年05月09日
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カテゴリ: ベトナム文学
「侵略軍のバイオリンの音」 連載第1回
                  バオ・ニン著
                   岩井 訳

 七月十四日〔訳注:フランスの国家記念日〕の機に、私は招待にあずかりフランス大使館にやってきた。招待状には七時と記載されていたが、少し遅れてしまい、会場にはすでにフランス人もベトナム人も大勢集まっていた。パーティーは始まってけっこうな時間が経っているようであった。立食パーティーで、電車の中でもないのにだるくて疲れるうえに、各々が好き勝手に蠢きひしめきあっているのだからかなわない。

 クーラーがぐわんぐわんと喘いでいたが、人いきれや煙草のけむりで重苦しい空気を軽やかにするには力不足で、女性の香水の匂い、男性の香水の匂い、化粧品の匂い、靴墨の匂い、料理の匂い、そして各種の強い酒の匂いが会場内に充満していた。人々はベランダや庭に出ることを余儀なくされ、会場は次第に人影疎らになっていった。

 庭で会話に興ずる声は室内ほど喧しくはなく、穏やかに響いた。時々、誰かにくすぐられたかのような女や男の嬌声があがった。どの男も女も、手には酒の入ったグラスか料理をのせた皿を持ち、もしくはその両方を両手に抱え、四、五人のグループごとに集り、飲み食いしながら競って囀っている。誰もが礼儀正しく、美しく艶やかであった。とくに女性は、高価な服で着飾っていた。男性はフォーマルに決め、折り目正しく、背広やネクタイや革靴を優雅に着こなして、各自の声望や人品と釣り合いが取れていた。商売人、劇作家、歌手、老学者、若年学者、慈善家、仲買人。誰もが高貴さを引き立たせる表情を張り付け、立ち居ふるまいはすべてフランス流であった。また、言語もフランス語であった。あるフランス人青年がウィットを効かせた言葉をペラペラとしゃべると、間髪入れず周りの食客でフランス語に精通している者がドッと称賛の笑い声をあげ、一方ただ母国語を知っているのみの私のような者は、慎重に喜びを湛えた顔でひかえめに微笑むのであった。爪先立ちになり、理性を失うほどに感服し、そのジョークに秀でた外国人を呆けたように見つめている女性もいた。

 ひときわ明るくなっている庭の一角で、きわ立って賑やかな十名ほどの一群がいた。はっきりと誰なのか確認したわけではなかったが、彼らの楽しそうで放縦な様子から、同業の若い男女の集まりであると察し、私はそそくさと退散せねばならなかった。大使館の門の近くまできたとき、慌てていた私はゆっくりと歩いていた老人にぶつかり押し倒してしまった。私は取り乱しながらも謝罪した。
「気にしないでください、なんともありませんよ」、老人は言った。「私も今晩はちょっと酔ってましてね。しかしまた早いお帰りですね、作家さん」
私は面食らった気持ちを押し殺し、老人を見た。私は彼を知っていた。老人は他の誰でもない、ナムボ通りの端にある新聞スタンドの主人であった。彼のパーティー衣装は擦りきれ、ネクタイはどこのデザインなのか、まるで祭にはためく三角の幟のようであった。そしてガリガリに痩せているため、シャツもベストもだぶだぶであった。小柄で、背は曲がっていた。私は肘を支え、表通りまで彼を連れていった。


涼やかな風が通りに沿って吹き抜けていった。トニュオム通りは夜も更けて車の数も減り、歩道を行き交う人も疎らであった。私は老人の傍らで、ゆっくりと歩いた。老人の名はボンといったが、彼と同じ通りの人々は未だに彼を「ムッシュ」と呼んでいると聞く。

 「私が思うに、あなたはこの老体がいったいなんの資格があってこんな立派なパーティーにかかずらい、出入りしているのだろうと訝っておいででしょう、そうじゃありませんか。しかしですね、今晩限りのことではなく、もう慣例なんですよ。大使館でちょっとした催しものがあれば、決まって私のところに招待状が届きます。そして私は参加します。誰も私のことなど知っちゃいませんけどね」
彼は酒くさい息を吐いたが、呂律はしっかりとしていた。靴をズルズル引きずりのろのろと歩いたが、足取りは確かだった。そして彼の言葉は回りくどかった。

 「大使館の儀典局の職員でさえ、私がどういう人物なのか知りはしないでしょう。前任者から手渡された名簿を引き、飽きもせず私の名前と住所を印刷済の招待状に書き込み続けます。招待状は郵便で私の手に届きます。私はその紙を見せて、門をくぐるというわけです。誰も問い質したりしませんよ。何度も大使館に出入りして、正門も裏門も、まっすぐな通路も曲がりくねった通路も知り尽くし、各種の招待宴の迎賓形式にも通暁いたしました。私はグラスと少しの料理をそっと手に取り、人々の間に割って入るようなことはせず、でしゃばるような真似もしません。人目のつかない場所を探し、何もしゃべらず、話しかけず、人々が話しているフランス語が周囲に響き渡るのに耳を傾けます。フランスの流儀が充満する空間の片隅で、ぽつねんと身をひそませているのです」

 私の横で足を引きずって歩いている奇態な人間の一連の独白により、私は気おくれするのを感じはじめた。私はちらりと横目で見た。街灯の光が逆光となり、老人の顔はいっそう血色悪く見えた。

 「しかしでしゃばりたくないのなら、なぜわざわざパーティーに潜り込まねばならないのかと、あなたは考えておいででしょうね。きっと、あなたは私のために恥入っておいででしょう。非常識で、混血の、外国かぶれな老いぼれだと私を評価しているに違いありません」

 私は、老人のことを詳しく知る光栄には未だあずかっておらず、そのため、あれこれと邪推できるはずもありません、とモゴモゴ言おうとしたが、老人は即座に私の言葉を遮った。 

 「言葉を選ぶ必要はありませんよ。私を不愉快にさせるのでは、などと気遣わなくてよろしいのです。なぜなら、事実はまさにあなたが考えているとおりなんですから。訂正するとすれば、私はおよそ外国かぶれではありません、フランスだけなんです。私はフランスのほとんどすべてを好ましく思っています。この機にあなたに告白させていただきますが、私は正真正銘、ハノイに取り残された最後のフランスの亡霊なんですよ」

 老人の突然の荒唐無稽であからさまなもの言いに、私は別段驚きはしなかった。私は平静に聞いていた。聞くだけなら造作もない。それに世間の人々が心情を吐露するのに耳を傾けるということにかけては、私には天賦の才があった。

 「まだ子供のころ、私たちの祖先はガリア人であると暗記せねばならなかったとき、当然のことながら、そんなことは大嘘であると私もよく分かっていました」。爺さんは長い間押し黙って歩いたのち、また例のしゃがれ声で話し出した。「しかしですね、そのころ私や友人たちはこんな風にいつも歌っていましたよ ――われ想いしやかの大地、わが故郷(ふるさと)とそしてパリ……」

 ザトゥオン通りの端まで来て、私と爺さんは歩道のカフェで足を止めた。私たちは腰を下ろし、黙りこくって、スプーンでカラカラと掻き混ぜた。ホアロー監獄わきのホテルの建築現場では、まだ騒々しく作業が続けられていた。



 ため息を洩らし、老人はゆっくりと話し続けた。

 「昔の通りはいまよりずっと静かでした。通りを一区画分端から端まで歩いても誰にも遭わず、自身の影と足音がくっついてくるだけでした。当時、頭でっかちで痩せ細っていた私は、散策するのが唯一の楽しみで、よく一人で気晴らしにぶらぶら歩き回ったものです。私は騒々しい場所や人の多い場所は避け、閑静で人影疎らなフランス街を好んで歩きました。ボニファシ通り、ハレ通り、ザーブイ通り……時も移ろい五十年が経ようというのに、私の記憶の中では、未だにいくつかの通りは旧称のままなんです。その通りの住居は高級邸宅ばかりで、高い塀に囲まれ門は厳重に閉じられていて、まるでちょっとした宮殿のようでした。そしてどの通りも強い日差しが当たらず、涼やかでありました。昔は、私たちの家族もこの通りに住んでいたんですよ。ザンソレ通りです。ほら、あの家ですよ」

 ボン爺さんは椅子から身を起こし、腕を上げ、つい先ほど私と老人が通ってきたトニュオム通りの奥を指差した。

 「当時、この地区で暮らすベトナム人は非常に稀でした。私たちの近所の高級邸宅も、家主はすべてフランス人でした。フランス人と私たちの間に近所付き合いはあまりありませんでしたが、私の家族の生活水準や生活様式が彼らより上であったとは言わないまでも、引けをとっていたわけでは決してありません。フランス人ができることは私たちにもできました。大事なのは平等ですからね」

 爺さんは自慢気に鼻を鳴らした。



 「その当時、世間には日本に迎合する輩が横溢しておりました。しかし私は、傲慢で粗野な彼ら官兵たちを好くことがどうしてもできませんでした。私はフランス文明が野蛮な連中の非道を再び治めてくれる日がくるのを、秘かに心待ちにしておりました。しかし私は単にそう願うだけで、現実からは完全に逃避していたのです。ベトミンが学生たちに秘かに撒いたビラがあり、私も読む機会がありましたが、そんなものは少しも信用しませんでした。フランスでさえ日本に抗し切れなかったのに、ましてや、ですよ。我々がどれほど力強くとも奴らを追い払うことなどできやしない、私はそう考えました。そして分不相応な大志を抱いている疑いのあるすべての友人から、私は静かに距離をおきました。私は若さを古ぼけた本の山に埋葬しました。私は飢饉にさえも背を向けるほど、目を閉じ耳を塞いで暮らしておりました」

 老人は大儀そうにネクタイの結び目をゆるめた。話し疲れたのか、彼の禿げあがった頭部が汗で光った。 つづく





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最終更新日  2005年06月11日 19時01分27秒
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