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「ムーラン・ルージュ」 Moulin Rouge! 2001年 アメリカ映画 監督 バズ・ラーマン 出演 ニコール・キッドマン ユアン・マクレガー ジョン・レグイザモ ムーラン・ルージュと言えば、画家ロートレックが描いたポスターで有名な、19世紀末から20世紀初頭にかけてパリに実在したキャバレーです。ロートレックはこの店に入り浸り、この店に集う人々を題材にした作品を多く残しています。 そのムーラン・ルージュを舞台に、店のトップダンサーと作家志望の男の恋を描き、ゴールデングローブ賞の作品賞(ミュージカル・コメディ部門)・主演女優賞(もちろんニコール・キッドマン)・作曲賞を受賞し、米アカデミー賞でも衣装デザイン賞・美術賞を受賞(作品賞・主演女優賞初め6部門はノミネートのみ)するなど、数々受賞している、ミュージカル映画です。 1899年、作家を目指してパリのモンマルトルにやってきた青年クリスチャン(ユアン・マクレガー)は、画家ロートレック(ジョン・レグイザモ)らの劇団のショーの台本を担当することになり、ナイトクラブムーラン・ルージュへやってきます。 店の看板女優サティーン(ニコール・キッドマン)を一目見たクリスチャンは、恋に落ちてしまいます。 サティーンは、クリスチャンを傾きかけていた店を劇場に改造するためのパトロン候補のウースター公爵だと勘違いしてベッドに誘い込もうとしますが、詩を口ずさむ彼に本気で恋してしまいます。 クリスチャンが貧乏作家だと知っても、恋の炎は消えませんでした。作家と女優の関係を装いつつ愛し合う2人でしたが、ムーラン・ルージュのオーナーのジドラーにキスの現場を見られてしまいます。 何とか公爵のご機嫌を取りたいジドラーは、サティーンに、公爵のもとへ行くように命じるのです。 この映画の感想をネットで調べたら、「前半はいい感じで盛り上がっていたけど、後半失速してがっかりした。」といった感じのものが多くありました。僕も大いに同感です。 最初のショーの場面、クリスチャンがロートレックらの劇団と知り合うコミカルな場面、ショーの後クリスチャンがサティーと知り合うと同時に、公爵とブッキングしそうになるちょっと面白ハラハラな場面、などなど、前半は歌あり、踊りあり、笑いあり、豪華絢爛な舞台と衣装に包まれた、まさしくミュージカルって感じで、とっても楽しく観賞していました。 実はあらすじには描いていませんが、後半この映画悲劇になっていくんですね。当時としてはどうしようもない、ある事情(どんな事情かは一応秘密にしておきますが、よくあるお涙頂戴物の映画にあるやつです。「せかちゅう」とか。)から、クリスチャンとサティーの純愛は、悲劇に終わるのです。はっきり言って、「なんで???」と思いました。 元来、僕は不治の病(あっ、言っちゃった。まあ、いいか。)、つまり世の中のほぼすべての人が涙を誘われてしまう要素で、悲劇を組み立てるというのが、非常に安易に思われて、大っ嫌いなんですね。 せっかく楽しいコミカルな雰囲気で進んでいたいい感じのミュージカルなんだから、その雰囲気のまま、公爵をうまく出し抜いてコミカルなエンディングにしてほしかったと思ったんです。非常に残念です。結局アカデミー作品賞を取れなかったのは、そういうところでしょうかね。(ちなみに、作品賞を取ったのは、ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞の「ビューティフル・マインド」です。まあ、しょうがないか。さらにちなみに、翌年はドラマの「戦場のピアニスト」を抑えて、ミュージカルの「シカゴ」が受賞しています。もしかして、バランスを取った?) ということで、楽しいミュージカルが、非常に残念でした。という話でした。 ところで、ロートレック役のジョン・レグイザモですが、子どもの頃の病気のため足に発達障害があり、異様に身長が低かったという、この実在の人物を演じるため、終始膝たちで演じていて(画面に映ってしまった足先はCGで消してあるということです。)、撮影終了後、しばらく足先の感覚がなく苦労したというお話です。さすがプロですね。彼の狂言回し的役割、とってもいい味を出していますよ。
2017.03.26
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「ダイ・ハード2」 Die Hard2:Die harder 1990年 アメリカ映画監督 レニー・ハーリン主演 ブルース・ウイルス 先週に引き続き、日曜洋画劇場を見ました。 今度はワシントン・ダレス空港を舞台とした事件に、たまたま居合わせたロサンゼルス市警(前作で仲直りした奥さんのいるロスに転属しているようです。)のジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウイルス)の孤軍奮闘を描いています。 前回は舞台が高層ビルだったので、縦の動きを主としたアクションでしたが、今回は、舞台が空港ということもあり、場所が広く、とにかく、ブルースが走っています。残念ながら、今回は裸足でも、ランニングでもありませんが。 前作のヒットで、製作費が2.5倍になっており、アクションも派手になっています。何しろ、輸送機を1機ぶち壊し、旅客機を2機爆破炎上させています。しかし、前作のエレベーターを火が立ち上ってくるとか、屋上から消防ホースをまきつけて飛び降りるとかのように、工夫されたアクションがなくなっているのが、少しさびしいかな、と思ってしまいました。 また、前作のように、多くの伏線が絡み合うような、凝ったところがなく、全体に単純なストーリーになっています。まあ、味方だと思った特殊部隊が、実は敵だったという、ちょっとしたどんでん返しはありましたが、そんなに驚くほどではありませんでした。 輸送機に脱出装置はないだろうとか、燃料のほとんどない飛行機はあんなに大爆発はしないだろうとか、ジェット燃料はガソリンじゃないから雪の中では火はつかないだろうとか、いろいろと、突っ込みどころはありますが、1番の突っ込みどころは、空港の管制部長と警察署長が、なんでこんなに無能なの、ということです。 管制部長は、最初、荷物室で侵入者2人をやっつけてきた部外者のマクレーンに対し、話を聞こうともしない警察署長を押さえ、物分かりのいいところを見せて、頼りになる男かな、と思ったのですが、管制室の機能を、テロリストどもに抑えられてからは、全くの無策で、何もしていません。散々な無能ぶりです。テロリストに脅されているとはいえ、空港の責任者として、もう少しやれることはなかったのでしょうか。 そして、警察署長は、それに輪をかけた無能ぶりです。最初マクレーンを全く相手にしなかったのは、前述の通りですが、その侵入者にまったく気がつかないで、マクレーンがやっつけた後も、荷物泥棒と勝手に決め付けて、ろくに調べもせず死体を運びださせています。また、工事中の別館の作業員が、実はテロリストであることに気がつかないばかりか、簡単に武器を持ち込ませています。滑走路で、旅客機が激突する事故が起きたと言うのに、空港内にいる、一般人を避難させたり、護衛させたりすることなく、あとで、TVに事件がスクープされた時に、全く落ち着かせたりすることなく、パニックを起こさせています。空港の安全を守るものとして、これでいいのでしょうか。 そして何より、テロリストたちが、空港のそばにいることが分かっているはずなのに、全く探そうとしていないところが、最大の無能なところです。 テロリストたちは、管制塔の電気系統のすべてをジャックし、完全に別の場所に、管制塔の機能を移してしまいました。ということは、空港内の別のところか、近所のところで、電線などから、ジャックしていると考えるのが普通でしょう。犯人は必ず近くにいるのです。なぜ、事件の初めから、図面をチェックするなどして、テロリストの居場所を探そうとしないのでしょうか。 旅客機が1機犠牲になった後から、チーフ・エンジニアが気が付き、マクレーンと2人でテロリストの居場所を見つけていますが、責任者である彼らが、早くから動くべきではなかったのではないでしょうか。僕は、かなり早い段階から、どうして、テロリストたちの居場所を探さないのかと、気になり、違う意味で、ハラハラしてしまいました。 確かに彼らが無能で、事件が起こらなければ、マクレーンの活躍する場がなくなり、お話が成り立たないのですが、首都ワシントンD.C.の玄関口を守るものとして、こんなに無能で、いいのだろうかと思ってしまいました。 ところで、前作に引き続き出演のTVリポーター、何か前回の最後にマクレーンの妻ホリーに殴られた意味が分からず裁判を起こしたみたいですが、全く懲りていず、前作に輪をかけたKYぶりで、自分の名声のみを考えて、事件をスクープし、空港内にいた乗客たちにパニックを起こさせています。出口あたりで、ドミノ倒しを起こしたり、車で事故を起こしたりしていましたが、もし、死者が出ていたりしたら、彼はどう責任を取るつもりでしょうか。アメリカの報道陣というのは、こんなやつばかりなのでしょうか。機転を利かせて、スタンガンでやっつけたホリーのファインプレーでした。 ということで、前作とは違い、迫力ばかりが目につく、お金がかかったアクション大作に成り下がった「ダイ・ハード2」でした。でも、何も考えずに見ていれば、面白いと思いますけどね。 ジョン・マクレーン刑事は、クリスマスは穏やかに過ごせないのですね。ちょうど、両さんの誕生日(3月3日)みたいですね。(最近、作者秋本治先生は、忘れているみたいですが。)
2011.10.17
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「縞模様のパジャマの少年」The Boy in the Striped Pyjamas 2008年 アメリカ・イギリス映画監督 マーク・ハーマン ついさっき見ました。レンタルビデオ屋で、前からちょっと気になっていたので、借りてきたのです。ショックが大きかったので、書いています。 8歳のブルーノは、軍人である父親の仕事の都合でベルリンから田舎に引っ越します。友だちと別れるのはいやだったが仕方ありません。両親と12歳のお姉さんと暮らす新しい家には、頻繁に軍人が出入りし、父親は「所長」と呼ばれています。ブルーノの部屋の窓からは、遠くに「農場」が見え、「縞模様のパジャマ」の人たちが大勢働いているようです。ブルーノは、友達がいなくて退屈なので、ある日、こっそりと「農場」にやってきて、電気の通った鉄条網の向こうにいる、「縞模様のパジャマ」の少年シャムールと友だちになります。 第二次世界大戦中のドイツの話です。「農場」というのは、もちろんユダヤ人強制収容所です。ブルーノの父は、ナチスドイツの高官で、そこの所長として、家族を伴って赴任してきたのです。 これは、戦争映画です。戦闘シーンは出てきませんが、ナチスドイツの所業を描いた戦争映画です。90分台と短い映画ですが、ナチスの悪行がよくわかるエピソードが盛りだくさんなので、ショックなラストがネタばれしない程度に、書かせていただきます。 田舎なので学校がないようで、姉弟に勉強を教えるため、家庭教師が来ることになります。結構年輩の男の先生で、使うテキストが、ナチスドイツの思想や業績を書いた本です。小さいブルーノは理解できず、つまらなそうですが、お姉ちゃんはみるみるナチスに染まっていきます。引っ越してきたとき持ってきたたくさんの人形は地下室にしまってしまい、お姉ちゃんの部屋は、ナチスのポスターでいっぱいになります。 一家の台所には、縞模様のおじさんがひとりいます。いろいろな汚れ仕事をするための使用人です。ある日、庭の古タイヤで作ったブランコからブルーノが落ちてけがをします。おじさんは手際よく手当てします。話していると、おじさんは元医者だといいます。そのことをブルーノはシャムールに話します。「元医者なのに今はうちでイモの皮むいているよ。」「うちのパパは時計職人だけど、今はクツ作ってるよ。」と、シャムールは答えます。 父親の側近で、若い中尉がいます。イケメンなので、お姉ちゃんのお気に入りです。彼は、縞模様のおじさんに強く当たります。命令口調でいつも怒鳴るのです。ある日、ブルーノがひとりダイニングに行くとシャムールがいました。小さい手がグラスをふくのにちょうどいいので呼ばれたのです。ブルーノは友だちにお菓子をあげます。そこへ中尉が入ってきて、シャルームに怒鳴りました。ブルーノはその剣幕に、ぼくがあげたと言えず、シャムールがつまみ食いしたことになってしまいます。 中尉は一家の夕食に呼ばれた席で、所長に父親はどこにいると聞かれ、答えられませんでした。中尉の父親は、ナチスが嫌で、海外に亡命していたのです。それを上官に報告していなかったので、しばらくして、中尉は前線に飛ばされてしまいます。 「農場」の煙突からは黒い煙が出る日が時々あります。その時はひどいにおいもします。ブルーノにそのことを聞かれた母親は、中尉の言葉に耳を疑います。「あいつらは焼いても臭いですからね。」彼女は、夫の残酷な所業を知り、嫌悪し、混乱します。 ある日、お父さんが、同僚たちと何やら映画のようなものを見ています。ブルーノは、ドアの上の窓からのぞきます。それは、ユダヤ人収容所の様子を宣伝するフィルムでした。ユダヤ人は昼間働いた後は自由時間があり、スポーツをしたり、映画を見たり、カフェでおしゃべりしたり、快適に過ごしていますという内容でした。もちろん国民を安心させるためのウソの映像ですが、ブルーノは真に受けてしまいます。 おじいちゃんから電話が来ます。新居を見に行きたいが、おばあちゃんの具合が悪いので、ひとりで行くと。実はおばあちゃんはナチスが嫌いで、行きたくなかったのです。そんなおばあちゃんが爆撃で亡くなります。お葬式でナチスの高官である息子は総統からの花束をささげます。そんな夫をますます嫌悪する妻でした。 そんなエピソードが続く中、ブルーノは何回もシャムールに会いに行き、友情を深めます。無邪気なブルーノは幼いが故に、お坊ちゃんが故に、無知でした。シャムールや縞模様のおじさんがユダヤ人であることを知りながら、「農場」が収容所であることを知りながら、それがどういう意味を持っているのか、知りませんでした。ドイツは戦争中で、父やその周りにいる人たちがどういう人たちなのか、知りませんでした。 ラストは、なかなか衝撃的です。思わず「えっ、うそ!!!」と叫んでしまうでしょう。この後、描かれてはいませんが、間違いなく夫婦は離婚し、父親は軍をやめてしまうかもしれません。もしかしたらこの家族の中に自ら命を絶つ人がいるかもしれません。家庭崩壊は免れないでしょう。
2011.08.05
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「インデペンデンス・デイ」 Independence Day 1996年 アメリカ映画監督 ローランド・エメリッヒ出演 ジェフ・ゴールドブラム ビル・プルマン ウィル・スミス SF映画大好きなので、TVCMで大迫力の宇宙船にひかれ、ワクワクして鑑賞しました。そして、打ちのめされました。疑問に思うところや、ご都合主義のところが多すぎます。 550kmもある宇宙船が、月のあたりまで来て、電波を発するまでわからなかったのは、なぜでしょう。 小型宇宙船(550kmの母船に対して小型です。24kmもあります。)が目標の都市上空に行くまで、燃えているような雲の覆われているのはなぜでしょう。(米軍の偵察機が、雲に遭遇して燃え上がっています。) エイリアンの電波妨害がカウントダウン(警告?)だと気付いたのは、地球上でデイヴィッド(ジェフ・ゴールドブラム)だけでしょうか、そんなわかりにくいメッセージって意味あります? エイリアンの警告に気付いた唯一の人類デイヴィッドの元妻が大統領補佐官って都合よすぎないですか。 デイヴィッドからの最初の電話、重要なことを言っていたと思われますが、勝手に切ってしまうというのは、大統領補佐官としては、いかがなものかと思います。そのおかげで大統領(ビル・プルマン)の避難令が遅れて多くの人が亡くなったと思うんですが、全く責任を感じてないですよね。 スティーブン・ヒラー大尉(ウィル・スミス)が出かける時、休暇だからとか、宇宙船のせいで心配だとか言って、地球の危機のため出動する兵士を止めている彼女が、避難する時には、大統領夫人はじめ多くの遭難者を助けていますが、途中で人格変わったんでしょうか。 米軍の攻撃隊第1陣が、戦闘機で飛んできたとき、エイリアンは戦闘機を出して応戦しています。シールドで守られているので、ほかっておけばいいのでは。 パワースーツの上から人間に素手で殴られただけで気絶してしまうエイリアン、弱すぎではないですか。というか、パワースーツの意味がないのでは。それとも、スティーブンがすごい強いのでしょうか。 大統領は、エイリアンの宇宙船に核攻撃するのをためらっていますが、宇宙船の下にあるニューヨークやロサンゼルスの都市は壊滅してるんですよね、問題ないのでは。 実際に核攻撃するとき、発射されるミサイルの下に街の明かりらしき光が見えますが、壊滅しているのではないですか? 核攻撃を監視するために装甲車が1台、爆風を受ける位置にいますが、放射能の心配はないのでしょうか。 デイヴィッドって、ものすごいCPの天才ですね。ニューヨークから父親の運転でワシントンのホワイトハウスに行く間(おそらくは2,3時間)に、カウントダウンを表示する画面を作り上げています。また、やはり数時間のうちに、シールドを破壊するのみのコンピューターウィルスを送り込むプログラムを作り上げ、その表示画面も作り上げています。彼のお父さんじゃないけど、そんな人がなぜケーブルTVで働いているのでしょうか。 どでかい宇宙船で地球にやってきたほどの高度な科学技術を持ったエイリアンが、コンピューターウィルスに対抗する術を持っていないのは、なぜでしょう。 農薬散布の親父が宇宙船に特攻するとき、都市を一撃で破壊するほど強力な宇宙船の主砲がすでに発射されています。親父の戦闘機がそのビームを浴びながら進んでいけるのはなぜでしょう。 550kmもある超巨大なエイリアンの母船がたった一発の爆弾で破壊されてしまいます。どういう構造でしょう。 母船が破壊されたため、デイヴィッドとスティーブンの乗る宇宙船は飛べないはずです。帰還するための動力は、母船爆破の勢いと、地球の引力しかないはず、同じく母船爆破の勢いと地球の引力で飛んでくる母船の破片と一緒に飛ぶはずです。最後の場面、すでに地球に着いて歩いている2人の後ろの空に母船の破片が落ちてくるのはおかしくないですか。 以上、思いつくままに、突っ込みどころを挙げてみました。でも、これらの細かい多くの疑問点が、すっ飛ぶほどの最大の突っ込みどころは、やっぱり、エリア51が、まじめに登場しているところですよね。ロズウェル事件で捕まえたエイリアンを、エリア51で研究しているという、だれが言い出したのか分からない、劇中でも大統領が馬鹿にしているような、都市伝説を、これほど真剣に取り上げているところにぶっ飛びました。 そして、最後の大統領の演説に始まる、いかにもアメリカ万歳の総攻撃の描写、打ちのめされました。 細かいところを気にせずに、純粋に楽しむだけなら、大迫力の映像で、最高の娯楽超大作だと思います。さすが、ローランド・エメリッヒというところでしょう。
2011.09.07
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「7月4日に生まれて」 Born on the Forth of Jury 1989年 アメリカ映画監督 オリバー・ストーン出演 トム・クルーズ ウィレム・デフォー オリバー・ストーン監督が「プラトーン」に続いて、ベトナム戦争を描き、米アカデミー賞の監督賞を受賞した作品です。ロン・コーヴィックというベトナム帰還兵の自伝的小説を映画化したものです。 ロン(トム・クルーズ)は、アメリカ独立記念日7月4日に生まれ、強い愛国心を抱いて成長します。高校卒業後、自ら志願して海兵隊に入隊し、ベトナム戦争に従軍します。 ベトナムでの戦闘は熾烈でした。ロンは、軍曹として部下を従え、あるベトナム人の村を襲撃しますが、ベトコンだと思って殺した村人は民間人で、ショックを受けているところに、ベトコンの襲撃を受け、混乱したロンは、敵と間違えて、部下のウィルソンを打ち殺してしまいます。ロン自身も、銃弾を受け、下半身不随になってしまいます。 ベトナムの病院では、ひどい扱いを受け、絶望感を募らせます。 故郷に帰還すると、家族からは歓迎されますが、世間は冷たい目で見るばかりでした。ロンがベトナムに行っているうちに、世論は完全に反戦ムードになっていたのです。 自暴自棄になったロンは、酒におぼれ、暴力をふるったり、暴言を吐いたりするようになってしまいます。 静養のため渡ったメキシコでも、ロンは自堕落な生活を送っていましたが、そこで知り合った、同じくベトナム帰還兵で、車いす生活のチャ-リー(ウィレム・デフォー)の厳しい言葉で、目を覚まします。 帰国したロンは、まず誤って殺してしまった部下のウィルソンの両親を訪ねます。ウィルソンの両親の優しい慰めの言葉に元気づけられたロンは、反戦運動家として、立ち上がるのです。 ロンの書いた同名の自伝的小説は、アメリカで売れたのかもしれませんが、はっきり言って、僕は、この主人公に、まったく感情移入できませんでした。 まず、根本的に、アメリカ独立記念日7月4日に生まれたということが、どれほど特別視できるものか、アメリカ人でない僕には、まったく実感できないということです。 ことあるごとに、7月4日に生まれたということを強調され、愛国心を叩き込まれて大きくなってきたロンですが、その特別性が、まったく理解できないのです。 アメリカ合衆国という国は、まだその歴史が浅く、今から数世代前の移民が、イギリスの支配から、自らの手で独立を勝ち取り、原住民(かつてはインディアン、今ではネイティヴ・アメリカンと呼ばれています。)を、追い払い、自ら開拓し、建国してきたという思いがあり、国民たちはみな、強い愛国心を持っているのでしょうか。 その辺、もう何千年も前からこの地に住み、いつの間にか国が出来上がって来ていた、我々日本人とは、根本的に、国に対する思いが違うのでしょう。(もちろん、日本人にも、強い愛国心を持っている人はいますが。) われわれ、日本人の感覚としては、建国記念の日(昔は紀元節といったそうですが。)2月11日に生まれたからと言って、「毎年、誕生日が休みだからいいねえ。」という人はいると思いますが、我が国の申し子というような思いは全く持たないでしょう。(いたらごめんなさい。) だから、題名に掲げるほど、独立記念日に生まれたことが特別視されるという感覚が、理解できないのです。 また、世間知らずのおぼっちゃんが、戦争というものがどんなものか深く考えずに、その愛国心から自ら進んで戦場に赴き、戦場の悲惨さ、世間の冷たさから、酒におぼれ、暴れ、自暴自棄になり、まったく見ていられませんでした。はっきり言って、自業自得と、思ってしまいました。 その後、反戦活動家となっていくのですが、それまでの、わがままぶりが印象に残っており、いまさら、何やってんだよ、という思いしか生まれませんでした。 あの当時としては、当たり前なのかもしれませんが、どう考えても似合わないロン毛と、口ひげ姿に、非常に違和感を覚えたせいかもしれませんが。 ベトナム反戦映画としては、戦場の悲惨さは「プラトーン」や「フルメタル・ジャケット」や「ディア・ハンター」の中盤のほうが生々しいですし、戦争から生まれる異常さということになると、「地獄の黙示録」や「ディア・ハンター」の後半、「タクシードライバー」のほうがショッキングです。 ベトナム反戦映画の1つとして、名作に数えられる映画の1つなのかもしれませんが、僕は、今一つ、感情移入することができない、残念な映画でした。
2012.03.07
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「八日目の蝉」 2011年 日本映画監督 成島出出演 井上真央 永作博美 小池栄子 渡邉このみ 劇団ひとり 森口瑶子 ということで、「八日目の蝉」です。 以前「金曜ロードショー」で放映していたのを、録画していましたが、内容が重いことが分かっているので、なかなか踏ん切りがつかず観ていなかったのを、昨日、「ディープエンド・オブ・オーシャン」を観たことにより、これは観なければと思って、観てみました。 日本アカデミー賞10部門受賞(作品賞・監督賞・主演・助演女優賞など)を筆頭に、数々の賞に輝いた、角田光代原作の同名小説の映画化です。 野々宮喜和子(永作博美)は、不倫の末妊娠した子を中絶し、子宮が癒着し二度と子が産めない体になります。 喜和子は同時期に生まれた不倫相手の本妻(森口瑶子)の娘・恵理菜を一目見たいと、夫婦が2人で外出した夜、家に忍び込みます。 赤ん坊を見た喜和子は、愛おしいあまり赤ん坊を連れて逃げてしまい、生まれるはずだった子につける予定だった名前・薫と呼び、育てます。 4年後、小豆島で逮捕され、薫こと恵理菜(渡邉このみ)は本当の両親の元へ返されました。 17年後、恵理菜(井上真央)は、大学生になり、都会でひとり暮らしをしていました。ある日、バイト先に、誘拐事件のことを調べているので話を聞かせてほしいと、千草(小池栄子)という女が現れます。 恵理菜は、岸田(劇団ひとり)という妻子ある男と不倫しており、妊娠していることが分かり、ひとりで産む決意をします。 現代の恵理菜の元に千草がやってきて、事件のことを振り返り始めるのと並行して、喜和子と薫(恵理菜)の逃亡生活の様子が映し出されていきます。(恵理菜は逃亡中は薫と呼ばれているので、逃亡生活の部分では、薫と書きます。ご注意を。) 序盤から目がウルウルして来て、要所要所でこみ上げて来て、観終わったらボロボロでした。喜和子が赤ん坊を持ち去るシーンから始まり、とりあえず入ったホテルで泣きやまない薫におっぱいをあげようとするがあげられなかった(当然)シーン、家に戻ったばかりの恵理菜が逃げ出し、「知らないおじさんとおばさんの家にいる。」と警察に保護される回想シーン、恵理菜が“お星さまの歌”を歌ってと言われ分からず、ヒステリーを起こした母親に「お母さんごめんなさい。お母さんごめんなさい。……」と何度も繰り返し謝るシーン、喜和子がエンジェルホーム(傷ついた女性たちが救いを求めて集まってくる謎のボランティア団体)に入れてもらおうと泣きながら話をするシーン、エンジェルホームに警察が来ると聞いて、喜和子と薫が逃げ出すシーン(“お星さまの歌”は“見上げてごらん夜の星を”でした。)、喜和子と薫が小豆島(あずき島ではない「しょうど島やでぇ。」)で、きれいな海を見ながらいろんなもの見に行こうというシーン、それと呼応して恵理菜がお腹の子のエコー写真を見て「この子にいろんなきれいなものを見せてやる義務があるんだ。と思い、産むことを決意した。」と千草に打ち明けるシーン、お祭りで宵闇の段々畑に松明の光が並ぶのを見て、喜和子と薫が見とれるシーン、島の写真館(たぶん唯一)で写真を撮るシーン、フェリー乗り場で喜和子が捕まるシーン、それと呼応した、フェリー乗り場でそのシーンを恵理菜が思いだすシーン、そしてラストシーン、もう涙が後から後から溢れて来て止まりません、でも、全く映像を止めることなく、2時間ちょっと、一気に観てしまいました。 とにかく、女優陣の演技がどれもこれも、最高です。 永作博美さんが前からうまいなのはわかっていましたが、明るい可愛い娘ばかりだった井上真央さんがこんなにシリアスな演技ができるなんて思いませんでした。小池栄子さんも、いつも男勝りなきつそうな女ばかりだったのに、こんな控え目な優しい女ができるとは知りませんでした。 そして、お母さん役の森口瑶子さん、ヒステリックで神経質な女を、見事に演じていて、心の底から嫌な女と思ってしまいました。 あっ、そうそう、忘れちゃいけない、子どものころの恵理菜(薫)を演じていた渡邉このみちゃんも最高でした。この子の顔のアップで、涙があふれてきたのが一番多いです。 しかし、恵理菜のお父さんといい、岸田といい、男って、何て身勝手なんでしょうか。子どもができて困るんなら、初めからキチンと避妊しておけよ。欲望に任せて女を抱いて、避妊もせずに、「おろせよ。」とか、「できちゃ困る。」とか、馬鹿じゃないの。 それと、恵理菜のお母さん、自分のヒステリー気質がすべての原因だと気が付いていないのですね。かわいそうな女です。確かに、生まれたばかりの赤ん坊を置いて2人で出かけちゃあ行かんぜよ。 恵理菜はきっと、生まれた子に「薫」と名付けますね。男でも女でも。そして、愛情たっぷりに育てますね。きっとかわいい、いい子に育ちます。
2013.03.17
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「ミッション・トゥ・マーズ」 Mission to Mars 2000年 アメリカ映画監督 ブライアン・デ・パルマ出演 ゲーリー・シニーズ ティム・ロビンス ドン・チードル ホラーやサスペンスが得意なブライアン・デ・パルマ監督が、なんとSFに挑戦したという意欲作です。調べてみると、デ・パルマ監督、実は数学や工学が得意な理系男子で、大学も最初は物理専攻(途中から映画専攻に変えたそうですが。)だったそうで、SFも好きだったようです。 明日、初の火星有人探査機“マーズ1号”で火星に赴くクルーの送別パーティが行われていました。そのクルーは、ルーク(ドン・チードル)を含め4人です。本来ならそこのジム(ゲーリー・シニーズ)も加わる予定でしたが、彼は直前に、同僚でもある妻のマギーを病気で亡くしており、精神的に不安定な彼はクルーから外されたのです。(彼は、「アポロ13」でも、直前にはずされていましたね。そういう星の下に生まれているのでしょうか。) 13か月後、火星の滞在中のクルーたちは、岩山の頂上に、白く光る幾何学的なピラミッド状のものを発見します。氷かと思い、調査に赴くクルーたちは、成分を調べようとレーザー波を照射します。すると、明らかに意図的な砂嵐が起こり、岩山の近くにいた3人は飲み込まれてしまいました。ただ1人残ったルークは、地球に危機を知らせる通信を送った後、消息を絶ってしまいます。 NASAでは、第2次の探査機である“マーズ2号”を、救助隊として送ることを決め、ウッディ(ティム・ロビンス)を隊長に任命します。ウッディは、副操縦士としてジムを強く推薦し(トム・ハンクスあるいはケヴィン・ベーコンに頼まれたか?)、認められます。 かくして、ウッディ、その妻のテリー、PCの専門家フィル、そしてジムが、“マーズ2号”で、火星へと向かうのでした。 序盤、明らかに火星の知的生命体の存在をにおわせる、謎のピラミッドのため、1号のクルーたちが消息を絶ち、NASAの皆さんがその対策を話し合っているところまでは、さすがサスペンスが得意なデ・パルマ監督だと思わせる緊張感でしたが、その後、2号の道中の船内の描写の緊張感のなさと言ったら、拍子抜けでした。 ウッディとテリーの夫婦が、妻を亡くしたばかりのジムの前でイチャイチャしたり(どうしてジムは怒らないんだ、と思ったのは私だけじゃないはず。)、無重力の中でダンスを踊ったり、フィルがM&M’sで、DNAモデルを作っていたり、と、楽しく過ごしている描写ばかりです。 確かに、道中に半年かかるので(これは事実のようです。アポロやスペースシャトルと同じようなスピードで行くと。)、終始、緊張しているわけにはいかないのは分かりますが、もう少し考えたほうがよかったのでは、と思いました。 だいたいが、たとえ宇宙飛行士同士の夫婦とはいえ、同じ宇宙船に乗せるというのは、どういうことでしょうか。もし、事故が起こって2人とも亡くなってしまったら、残された子どもはどうなるのでしょうか。もし、危機的な状況に陥って、感情的になって判断を誤ったらどうするのでしょうか。 実際、この後2号が危機的状況になって、宇宙空間でウッディだけ弾き飛ばされてしまったとき、テリーが感情的になって、ジムとフィルが止めているのにもかかわらず、何が何でも助けに行こうとします。 普通、一般企業では、社内恋愛で結婚した夫婦は、必ず違う部署に配置換えされますよね。それとも、アメリカあるいはNASAでは、あり得ることですか? 冒頭、パーティの場面、「あれ、『アポロ13』?」と思ってしまったのは私だけでしょうか。また、火星へ赴く途中の“マーズ2号”の居住区の船体を回転させて遠心力によって引力を作っている船内の様子、「あれ、『2001年』?」と思ってしまったのは私だけでしょうか。(確かに、この宇宙船の設計は長期間無重力で生活するためには、非常に理にかなっているものですが、しかし、『2001年』に比べると回転部分の大きさがずいぶん小さいような気がして、これで充分な引力が作り出せるのかどうか疑問です。) 何か、他の宇宙旅行ものの名場面を持ってきたような映像に、興ざめしてしまった人は多かったでしょう。 また、いったいこれはきちんと科学考証したのかと思われる場面もありました。 例えば、“マーズ2号”の形、先頭がとがっていて、その後ろに回転するバームクーヘンのような居住区がついていて、その後ろに長く燃料タンクのようなものがあり、一番後ろは大きなロケット噴射口です。 衛星軌道に浮かんでいる宇宙ステーションがしっかりと存在していたはずですが、NASAの皆さんは、そこに滞在していたはずですが、つまり、“マーズ2号”は、地球から飛び立ったのではなく、宇宙空間に浮かぶ宇宙ステーションから飛び立ったのではないですか?(そう考えると、冒頭のパーティの場面、出発の前日に地球でパーティしているのも変ですね。やるなら当然宇宙ステーションでやるはずです。) それなのに、どうして、とがった頭や、大量の燃料や、でかい噴射口が必要なのでしょうか。それらのものというのは、空気に覆われた中を切り開いて進み、超強力な地球の引力から脱出するために必要なものではないでしょうか。 宇宙ステーションから飛び立つ場合、少ない燃料で、少しの噴射で飛び立つことができ、地球や月の引力を利用したスイングバイで加速していくのではありませんか?そういうことが、まったくわかっていない宇宙船の造形ですよね。 また、2号は火星にたどり着いて、さあ着陸態勢に入るぞ、というときに、突然数cmの微小な隕石がぶつかり、船体に穴が開いて危機になってしまいます。そういう非常に微小なものが宇宙空間には有り得ることがわかっていながら、そんなに簡単に穴が開いてしまう宇宙船って、それでいいの、と思ってしまいました。しかも、同じような物体で傷ついたであろう燃料パイプから燃料が漏れ、その後ロケットを噴射させたら爆発してしまいました。燃料パイプが船外に剥き出しの宇宙船って、有りなの?? 僕は、1号のクルーの事故で、知的生命体の存在を匂わせていることから、その知的生命体がわざと邪魔しているのかと思っていましたが、後でわかりますが、まったく偶然のアクシデントのようですね。そういうのって、有りなのか??? それから、その事故の後、火星を周回している補給船がたまたま近くにいたので(まあ、なんて都合のいいこと。)、宇宙船を捨て、全員宇宙服で宇宙空間を飛んでいき乗り移ろうとします。そのアイディアは、とても面白いと思いますし、理にかなっていると思います。(でも、アイディアの出所はやっぱり『2001年』かな。) しかし、その後、思ったよりも距離があり、ウッディが1人で加速して補給船を捕まえに行き、速度が速すぎて、弾き飛ばされてしまいます。(ちゃっかりワイヤーは結び付けるのは成功しているので、他の3人は無事です。) そこで、前述のとおり、妻のテリーは感情的になり、ひとり助けに行こうとします。宇宙服にある、姿勢制御用のわずかな燃料のロケット噴射で、ウッディに向かって飛んでいくわけですが、あそこは宇宙空間なので、ウッディが進んでいるスピードよりも、速いスピードを出すことができれば追いつけるはずで、噴射量と距離は関係ないはずです。実際、2人の距離は縮まっているので、もう少し粘れば追いつけたはずですよね。 まあ、そのあと2人分の質量を逆方向に加速できる燃料があるかどうかの問題は残りますが。逆方向なので、かなりの燃料が必要になるはずです。 最後のオチ(ネタバレしたくないので、詳しくは書きません。)については、ネットで見る感想の中には、「がっかりした。」とか、「オカルトになっちゃった。」とかいう人が多くありましたが、僕は、なかなかいいと思いました。 実際、かつての火星は、水もあり、生命もあったかもしれないという説があり、そこに、あの「彼」(「彼女」かもしれませんが。)のような存在がいたとしても不思議ではありません。これは、決して、オカルトでも、超常現象でもないと思います。科学的に十分あり得ることです。 ただ、この地球上に多細胞生物が生まれて数億年、それより以前から、「彼」が、地球人を待っていたのかと思うと、疑問がありありですが。どうやって生きてきたんネン! ということで、なかなか面白かったですが、突っ込みどころも多かった作品でした。やっぱり、慣れないことはしないほうがいいね、ということでしょうか。 ところで、この映画のキャスト、ちょっと地味なのも気になりました。ゲーリー・シニーズ、ティム・ロビンス、ドン・チードル、3人とも、演技派のいい役者さんたちですが、多くの映画で、脇役として、いい味を出している人たちです。主役として映画の看板となるには、ちょっと………。 3人とも、僕は好きな役者さんですが。
2012.04.23
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「アマデウス」 Amadeus 1984年 アメリカ映画監督 ミロス・フォアマン主演 F・マーリー・エイブラハム トム・ハルス ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(トム・ハルス)の生涯を、宮廷音楽家アント二オ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)の目を通して描いた物語です。 米アカデミー賞作品賞をはじめ、数々の賞を受賞している傑作です。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、誰もが知っている、天才音楽家ですが、その生涯は波乱に満ちており、晩年は貧困にあえぎ、最期は35歳という若さで、不遇のうちに亡くなっています。妻に毒殺されたとか、サリエリに毒殺されたとか、うわさがあり、共同墓地に埋葬され、今では墓がどこにあるのか分からないそうです。 オーストリア皇帝ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男で、マリー・アントワネットの兄)に仕える宮廷作曲家サリエリは、宮廷で女性と戯れ、下品な冗談で甲高く笑う、非常識な若者を見かけます。それがモーツァルトでした。 モーツァルトは神童と呼ばれ、7歳の頃から作曲し、音楽家である父親に連れられ、ヨーロッパ中を演奏して回っていました。その頃には、かなりの有名人で、サリエリも1度会いたいと思っていたのです。 ヨーゼフ2世がモーツァルトにオペラを製作させるため、招待したいと言い出し、サリエリは彼を歓迎するため、歓送曲を作ります。その曲を1度だけ聞いたモーツァルトは、その場で即興で編曲し、よりいい感じの曲に仕上げます。 その様子に驚愕したサリエリは、彼のあふれ出る才能に驚き、憧れ、そして嫉妬します。神を深く信じるサリエリは、いい曲ができた時にはいつも神に感謝してきましたが、今度ばかりは、神の与えた不公平を呪いました。なぜ、この下品で礼儀知らずの若者に、神はあふれんばかりの才能を与え、自分には平凡な才能しか与えてくださらなかったのか。 サリエリは、モーツァルトの音楽を愛していました。その斬新さ、美しさに魅せられ、誰よりも理解していました。だからこそ、嫉妬するのです。 この最初の出会いが、この後のサリエリの行動につながっていきます。 映画の冒頭、年老いたサリエリが、精神病院に面会にやってきた神父に「私がモーツァルトを殺した。」と語る、サリエリの行動に。(どんな行動かは書かないでおきましょう。) 一方、モーツァルトは、現在、クラシックの天才的作曲家として知られているのですが、この映画では、どちらかというと、音楽だけでなく、歌、演技を含めた総合芸術としてのオペラを創ることを熱望しています。 当時、優れたオペラを作り上げることが、音楽家としてのひとつのステイタスであったこと、交響曲などを作るよりも、手っ取り早くお金になることなど、いろいろとその理由は考えられますが、やはり、芸術家として、総合的な芸術を作り上げることに喜びを見出していたのではないでしょうか。 そして、彼の斬新的芸術家魂は、当時の神話や伝説を題材にしていた宮廷オペラの常識を打ち破り、トルコのハーレムを題材とした「後宮からの誘拐」や、皇帝から禁止されていたバレエを取り入れたオペラ「フィガロの結婚」や、舞台装置をラストにぶち壊してしまう大胆な演出を取り入れた「ドン・ジョバンニ」など、斬新なオペラを作り続け、皇帝を中心とした観客の貴族たちには不評だったのです。 しかし、芸術家のモーツァルトは、自分自身の創るものに自信があり、こだわりを持っています。それは、「後宮からの誘拐」の上演後、皇帝ヨーゼフ2世から「音が多すぎる。」と言われた彼の返事「ちょうどいいです、陛下。」という言葉に、表れています。 ことごとく上演するオペラが不評だった彼は、仕事がなく、どんどん貧困に陥っていき、当時、貴族社会だけでなく、民衆の間にも広がりつつあった、“大衆オペラ”に、光明を見出していくのですが、それが、非常に悲劇的な結末につながっていくのです。 モーツァルトは、神童と呼ばれもてはやされた幼少期から音楽漬けの毎日を送ってきました。そのため、普通の人なら成長とともに獲得してくる常識や生活力を、ほぼ獲得しないまま、大きくなってきたのではないでしょうか。それなのに、結婚し、子どもをもうけ、唯一のよりどころであった父親を亡くし、一家の大黒柱として、収入を得なければならなかったのです。そこに悲劇の根本があったのではないでしょうか。 そんな先進的な芸術家にありがちな悲劇的なモーツァルトの人生を描いた、感動作です。もちろん、劇中に流れる音楽は、オペラの場面はもちろんのこと、全編モーツァルト作曲のものばかりです。 今回、ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。なかなか仕事が忙しく、平日の更新が難しくなってしまいました。 今後も、週末中心の更新になってしまうと思いますが、よろしくお願いします。
2012.02.11
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「未来世紀ブラジル」 Brazil 1985年 イギリス映画監督 テリー・ギリアム出演 ジョナサン・プライス キム・グライスト ロバート・デ・ニーロ イアン・ホルム テリー・ギリアム監督お得意の変な映画です。架空の国を舞台にした、SF風刺映画です。 クリスマスの夜、ショー・ウィンドウがテロのために爆発します。こわれなかったTVでは情報省次官のヘルプマンが、情報管理の重要性を力説しているところを写し出しています。 情報省の官吏がオフィスに現われた虫を追いかけ、はたき落された虫がタイプライターの上に落下。おかげで、タイプ中の容疑者の名前がタトル(Tuttle)からバトル(Buttle)に変わってしまいます。 平凡なバトル一家に情報省の連中が闖入し、有無を言わせずにバトル氏を連れ去ってしまいます。その様子を目撃した、上の階に住む女トラック運転手ジル(キム・グライスト)は抗議するが、相手にされません。 情報省記録局ではカーツマン局長(イアン・ホルム)が、局員のサム(ジョナサン・プライス)にバトルの件について問い正そうとして、彼の欠勤に気づき怒っていました。 その頃、サムは銀色の羽根をつけたヒーローに扮し、美女と出会う夢をみていました。局長の電話で起こされて情報局へ向かいます。そこで、抗議に来ていた夢の女性そっくりのジルを見かけます。 サムの母アイダは整形外科医のオフィスで治療を受けつつ、息子の出世欲のなさをなげき、裏から手を廻して昇進を画策したことを認め、友人の娘シャーリーと彼を一緒にさせようとしています。 その夜、サムは、アパートの通気口が故障したので、セントラル・サーヴィスに電話しますが、夜間の修理はしないと言われてしまいます。すると、そこへ、タトル(ロバート・デ・ニーロ)と名乗る武装した男が現れ、非合法の修理屋だと自己紹介して修理をします。公式にはセントラル・サーヴィスしか工事をしてはいけないのだが、書類仕事が嫌でもぐりの修理工をしているのだそうです。 翌日、サムはバトル家に検束費用の超過分払いもどし小切手を届けに行き、出かけようとするジルを見つけ、追いかけますが、逃してしまいます。 アパートにもどると、セントラル・サーヴィスの係員が勝手に入り込み、タトルにやらせたなと怒り、部屋を散らかしたまま帰ってしまいます。その夜、彼はまたヒーローになってサムライ・モンスターと戦う夢を見ます。 サムは、ジルのことを調べるために、情報省剥奪局への昇進を承知し、出頭します。 そこでは旧友のジャックが容疑者を拷問し、白衣を血だらけにしていました。ジャックはバトルの誤認逮捕を隠蔽するために、目撃者のジルを拘留しなくてはと言います。何とかジルを救いたいサムは、僕にまかせてくれと言い、受け付けにまた抗議に来ていたジルを連れ出すのです。 邦題は“未来世紀”となっていますが、原題は“Brazil”(主題歌の題名をそのまま映画の題名にしたそうです。実在の“ブラジル”という国とは無関係です。)となっており、冒頭に“20世紀のどこかの話”とクレジットが入るので、実は誰も未来のお話だとは言っていないのです。ということは、邦題を付けた日本の配給会社が勘違いしているだけということでしょうか?公開が1985年で、その時点より15年以内という設定ですから、あまり未来という認識ではないでしょう。邦題を付ける人というのは、映画を見ていないのでしょうか?(冒頭すら。) 舞台は、個人情報が政府によって管理され統制されている、架空の国です。その情報省に務める役人が主人公です。この国民の個人情報をつかさどるであろう、情報省が巨大な役所として描かれており、いかに国民の情報を多く細かく処理しているか、というのがうかがえます。 そういった情報統制ももちろん、役所を始め、町中に書類があふれている様子、役所の役人たちが怠慢で仕事をしていない様子、町には情報があふれ、整形手術など、健康に関する産業がはびこっている様子、貧富の差が激しい様子、そして、自らの不祥事を隠ぺいしようとするお役所仕事の様子、現代社会の病的な部分をより強調した社会として、この架空の国は描かれているのです。 そんな中で、情報省に勤めるエリート社員、つまり富裕層に属する男が、どう見ても貧困層に属する、トラック運転手の女に惚れてしまい、社会に反抗し転落して行く姿が描かれているのです。 そこに、転落する男サムの妄想が絡んで来て、だんだん妄想と現実の区別が分からなくなってくるのです。どこまでが現実で、どこからがサムの妄想なのか、しっかりと見極めて、ストーリーをしっかりと把握してください。 ということで、なかなか面白いカルト映画の名作です。 ところで、主人公のサム、ギョロっとした目が非常に印象的な人で、どこかで観たなあ、と思っていたら、なんと、キャプテン・エリザベスのかわいそうなお父さんでした。若い頃はスマートで、主役を張ったこともあるのね。
2013.04.06
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「シャレード」 Charade 1963年 アメリカ映画監督 スタンリー・ドーネン出演 オードリー・ヘップバーン ケーリー・グラント ウォルター・マッソー ジェームズ・コバーン ジョージ・ケネディ オードリー・ヘップバーンは好きです。美人だけど、気取ったところがなく、表情豊かで、茶目っ気たっぷりなところが大好きです。最近、「オードリーが好き。」というと、勘違いされるので、名字まで言わないといけないのが、悲しいです。トゥース!(だから、違うって!!) 実は彼女の主演作の中では1番出来がいいとも言われる、この映画、まだ観ていなかったのです。CATVでなぜか放映していたので録画しました。 レジーナ・ランパート(オードリー・ヘプバーン)は、スキー旅行先で、富豪の夫・チャールズとの離婚を決意しました。 旅行からパリの自宅に戻ると、家財道具一切が部屋から持ち出されており、夫の姿も見えません。そこへ、司法警察のピエール警部が現れ、チャールズが線路わきで死体で発見されたことを告げます。 警部によれば、チャールズは家財道具のすべてを競売にかけ、その落札代金25万ドルを持ってパリ脱出のために列車に乗ったのですが、列車から何者かに突き落とされたのでした。 警察署で、レジーナが受け取った夫の遺品は、小さなバッグに手帳、櫛、万年筆、レジーナに宛てた、切手を貼った未投函の手紙などのほか、パスポートが4通もありました。そして、あるはずの25万ドル(あるいは125万フラン)は忽然と消えていたのです。 レジーナが、何もない電気も止められてしまった自宅で途方にくれていると、スキー旅行先で知り合ったピーター・ジョシュア(ケーリー・グラント)が現れます。ピーターは彼女に「夫の事件は新聞で知った。何か協力できることはないか」と申し出ます。 チャールズの葬儀は寂しいもので、出席者はレジーナと、レジーナの親友でスキー旅行に同行したシルヴィ、そしてピエール警部だけでした。途中、ハゲた小柄な男・ギデオン、やせた背の高い男・テックス(ジェームズ・コバーン)、そして、大柄で右手が義手の男・スコビー(ジョージ・ケネディ)が順次現れ、三者三様のやり方で、チャールズの死亡を確認していきます。 レジーナはアメリカ大使館の、CIAの捜査員と名乗るバーソロミュー(ウォルター・マッソー)に呼び出され、4通ものパスポートを所持したチャールズの素性を知らされます。 本名はボス、そして証拠写真に写っていた若い頃の夫・チャールズは、葬儀に現れた3人と一緒でした。彼らは第二次世界大戦中、OSS(CIAの前身)で対ドイツ戦に従事していたのです。25万ドル相当の金塊の輸送任務の時、チャールズと3人、そしてダイルという男の5人は金塊を盗まれたことにして、密かに地中に埋めてしまいます。間もなく戦況は悪化し、ドイツ軍の攻撃を受け、ダイルは命を落とし、スコビーが右手を失い、散り散りになってしまいます。そんな中でチャールズが金塊をこっそり掘り返し、持ち去ったのだというのです。 チャールズが持ち去った25万ドルのありかは妻のレジーナが知っているに違いないと信じている、ギデオン、テックス、スコビーの3人は、レジーナの前に現れ、「金をよこせ」と脅迫します。ピーターは、3人の脅迫から何とかレジーナを守ろうとします。 しかし、スコビーからの電話忠告により、レジーナは、ピーターも3人の仲間で、実は25万ドルを狙っているのではないかとの疑いが芽生えさせてしまうのでした。 やがてスコビーが、次にギデオンが、順に何者かに殺されてしまいます。 監督は、以前このブログでも紹介した「雨に歌えば」「略奪された7人の花嫁」や、「踊る紐育(ニューヨーク)」「パリの恋人」など、50年代を風靡したMGMミュージカルでヒットを飛ばしているスタンリー・ドーネンです。 そんな明るく軽快なミュージカルを得意とする監督が、“ヒッチコック張りのサスペンス”を撮りたいといって作ったのが、この映画です。 だから、オードリーの小悪魔的魅力を十二分に引き出した、明るくウィットでおしゃれな会話が楽しく、謎が謎を呼ぶ二転三転するストーリー、当時はまだまだ新人ですが、今思うとなかなか豪華な共演陣、半世紀たった今でも全く色あせず、十二分に楽しめる、ロマンティック・サスペンスに仕上がっています。 また、ジバンシィが、この映画のオードリーのために、わざわざデザインし、提供している美しい衣装も、当時話題になり、彼女の美しさを引き出しています。(ただ、未亡人が自分の夫の告別式の直後、アメリカ大使館に向かうのに、真っ赤な服で登場するのはどうかと思いましたが。) というように、半世紀前に作られたのに、十二分に現代でも楽しめる映画ですが、僕はひとつ気になることがありました。 それは、25万ドルに関することです。 賢明な方は気が付いておられると思いますが、この映画25万ドルが2種類出てきます。戦時中チャールズたち5人で着服した金塊の25万ドルと、チャールズが失踪するときに家財道具を処分した25万ドルです。 60年代当時のレートで、25万ドルというと9000万円です。(当時は固定相場制で、戦後すぐから70年ぐらいまで、1ドル=360円でした。) 半世紀前ということで、お金の価値はだいぶ違うとは思いますが、この25万ドルという金額、なんか中途半端ですよね。 レジーナは警察やCIAに取り調べを受け、夫のことはよくわからない(どうやらほとんど仮面夫婦状態だったらしい。だから、告別式の直後赤い服を着ていても平気ということでしょうか。)と言いながら、職業については、「無職じゃない?」と答えています。 でも、彼は大富豪でした。しかし、25万ドルで大富豪というのは、今の価値よりもかなり上だとは思いますが、やっぱり変ですよね。 チャールズは、独り占めした25万ドルを元手に、戦後のどさくさに紛れて大成功し、10年足らずで巨万の富を手に入れ、第一線を退いていた。と考えるのが普通でしょう。 そして、世間体のため美しいお嬢さん(レジーナのことです。)を形だけの妻にし、高価な家具・調度品(何しろ、売れば中古で総額25万ドルになる代物です。)に囲まれ、悠々自適な生活を送っていたということでしょうか。 ということは、この25万ドルなんて彼にとっては、ほんの端金ということですよね。 ここです、僕が非常に疑問に思ったところは。 この映画に描かれている事件の発端は、はっきり描かれてはいませんが、この金塊の25万ドルを仲間を裏切り、独り占めしたことを犯人(おそらくはかつての仲間のひとり、もちろん映画の最後には明らかになっていますが、ここでは秘密にしておきます。)に脅され、家財道具を売り払って、そのお金は見つからないように隠し持って(このお金の隠し方が、非常に巧妙で、この映画のミソです。)、逃げ出したチャールズが、見つかって殺されるところです。 彼は、すでに自分にとっては端金に過ぎなくなっている25万ドルを惜しんで、命を落とすのです。なんかおかしくないですか? そんなかつての仲間に脅されたからと言って、彼にとっては、たかが25万ドルです。お詫びも含めて、倍の50万ドルでも、もっと色を付けて100万ドルでも、彼は払えたと思うんですよ。 チャールズが僕だったら、「100万ドル払うから命だけは助けてくれ。」と、犯人に交渉すると思うけど、違いますかね。 ということで、お話の根本的なところで疑問を持ちつつも、なかなか楽しい、ロマンティック・コメディ・サスペンスの名作でした。もちろんオードリーがとってもかわいかったのは、言うまでもないことです。。 ちなみに、題名の「シャレード」というのは、“謎解きゲーム”という意味です。まあ、「スティング」と同じような意味の題名ですね。かなり一般的な名詞(スラング?)ですが、「スティング」同様、映画があまりにも有名になってしまったので、一般的には使いづらい言葉になってしまっていますね。
2013.05.21
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「小さいおうち」 2014年 日本映画監督 山田洋次出演 黒木華 松たか子 吉岡秀隆 倍賞千恵子 妻夫木聡 片岡孝太郎 4代目相棒、決まりましたね。反町隆史さんで、役名は冠城亘(かぶらぎわたる)だそうですね。だから言ったでしょ、仲間由紀恵(社美弥子)さんじゃあないって。まあ、彼女が、河北満(かわきたみちる)とか柏原春(かしわばらはる)とかって名の別人役で、っていうことなら話は別ですが。 ところで今回は、中島京子の直木賞受賞作を、山田洋次監督が映画化した作品です。 主演の黒木華(くろきはると読みます、はなではないんですね。)が、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞し、話題になった作品です。 大学生の健史(妻夫木聡)の大叔母のタキ(倍賞千恵子)が亡くなりました。遺品の中に、健史宛てと書かれた四角い缶が見つかります。開けてみるとタキが健史にうながされて大学ノートに書き記していた自叙伝でした。 昭和11年、タキ(黒木華)は山形から上京し小説家の女中を経て、おもちゃ会社の常務をしている平井家へ奉公に上がります。平井家は東京郊外にあり、昭和10年に建てられたばかりの少しモダンな赤い瓦屋根の小さいおうちでした。 平井(片岡孝太郎)とその妻・時子(松たか子)、かわいらしいが小児まひになった息子・恭一らとの穏やかな暮らしでしたが、おもちゃ会社に新しく入った芸大卒の青年・板倉(吉岡秀隆)の出現で状況が変わってくるのです。 大叔母の自叙伝を現代の青年(健史はタキの孫ではありません。タキは生涯独身だったようですから。)が読むという形で、戦時中の内地の中流家庭の生活を描くというお話かと思ったら、青年・板倉の登場で話は意外な方向へ向かい、ちょっとびっくりしました。でも、そのおかげで、とてもドキドキして楽しく観賞できました。松たか子の妖艶さ、見事です。どういう展開かは、まあ、秘密にしておきましょう。 ところで、僕としては、ネットでいろいろと話題になっている吉岡秀隆ミスキャスト説について、一言申し上げたいと思います。 まず、大前提として、この板倉という青年は、徴兵検査で丙種(甲・乙・丙の丙です。)ということになり、戦時中であるにもかかわらずに徴兵されていない存在だということです。つまり、いかにも女性にもてそうな健康的なイケメンはすべて徴兵されて内地には残っていないということなのです。 だから、この板倉という青年はどう考えても兵隊としては不向きな、軟弱な青年でなければならないということで、しかも、どう考えても、微妙な表情など、難しい演技が不可欠なんですよ。 結局、この板倉という青年を演じられる若い俳優は、彼ぐらいしかいないということですよ、今の日本の映画界には。確かに、実年齢的に(実は、今年45歳)無理があると言えばそうなんですが、はっきり言って、本当に他にいないということですね。あまりにもブサイクな男だと物語が破綻してしまいますし、ジャニーズ系の子たちじゃあ、どう見ても丙種じゃないからね。 だから、批判されるべきなのは、吉岡秀隆を板倉役にキャストしたスタッフではなく、この役を見事に演じられる俳優が彼ぐらいしかいない、今の日本映画界の現状ではないでしょうか。 ということで、実は137分というちょっと長めの映画ですが、まったく退屈せず、のめりこんで見入ってしまった名作を紹介しました。 あっ、そうでした。松たか子さんの妖艶な奥様もいいですが、黒木華さんの控えめだけど実は芯の強そうな女中の演技が最高です。彼女の地味目な容貌(ごめんね。)も、役にぴったりです。
2015.08.25
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「女王陛下の007」 007 On Her Majesty’s Secret Service 1969年 イギリス映画監督 ピーター・ハント出演 ジョージ・レーゼンビー ダイアナ・リグ テリー・サバラス では、007を一気に見ようシリーズの第4弾です。 今回は、2代目ボンド、ジョージ・レーゼンビーが唯一主演している、シリーズ第6弾です。前5作でジェームズ・ボンドを演じていたショーン・コネリーのイメージが強かった上、モデル上がりで、ほぼ役者の経験のなかったレーゼンビーの抜擢で、007シリーズとしては、今ひとつヒットしなかった作品ですが、近年、DVDなどで家庭で見ることができるようになり、再評価されてきた作品です。 宿敵ブロフェルド(テリー・サバラス)を捕らえることを目的としたベッドラム作戦を遂行中の007ことジェームズ・ボンド(ジョージ・レーゼンビー)は、ポルトガルで偶然トレーシー(ダイアナ・リグ)という若い女性と知り合います。美しく、そして車の運転やギャンブルなどで大胆な行動力を見せる彼女に、ボンドは興味を抱きます。 彼女は犯罪組織ユニオン・コルスのボスであるドラコの一人娘だったが、不安定な生活を送る彼女の身を案じたドラコは、ボンドにトレーシーと結婚してくれるよう頼み込みます。ボンドはこの機会を利用し、ドラコからブロフェルドの情報を得ようとしますが、いつしかトレーシーに本心から惹かれてゆくのでした。 ロンドンに戻ったボンドは、Mによってベッドラム作戦から外されてしまいますが、ドラコの情報からブロフェルドの行方を探り出し、ついに彼がアルプスに構えたアレルギーの研究所で謎の計画を企てていることを突き止めます。 ブロフェルドが、爵位を申請しているという情報をつかんだボンドは、紋章院のヘンリー卿と名乗り、研究所に潜入し、ブロフェルドの計画が被験者の女性たちに催眠術をかけ、殺人ウィルスを世界中にばら撒かせることだと知ります。 正体がばれて監禁されたものの、ボンドは隙をついて研究所から脱出します。だがブロフェルドとその部下達による執拗な追跡はやまず、あわやという所でボンドはトレーシーに助けられます。 しかし、スキーで逃走する途中、ブロフェルドが人為的に起こした雪崩に巻き込まれた挙句、テレサは研究所に拉致されてしまうのです。 結論から言いますと、なかなかいい作品じゃないかと思いました。 ほぼ原作に忠実に作られた作品で、派手なアクションや、秘密兵器やSFチックな展開など全くない作品ですが、サスペンス色が強く、ボンドが体を張って、孤軍奮闘しているのが、好感が持てます。また、シリーズ中唯一、ボンドが真剣に恋愛している作品で、しかも、他の作品のように、敵や同僚のスパイではなく、任務とは関係ないところで知り合った女性です。決して行きずりの女性ではないのです。 しかし、残念ながら、主役のジョージ・レーゼンビーが、ほとんど素人同然なため、お世辞にも演技がうまいとはいえず、恋愛に際しての感情表現が今一つで、ボンドがどう恋に落ちたのか、というところがうまく伝わって来ません。でも、恋愛映画ではないし、脚本や演出がうまくカバーしている感じで、まあまあうまくいっていたなという印象です。 で、肝心のアクションですが、派手な爆発や変わった兵器を使ったトリッキーな戦いなどはなく、銃撃戦やカーチェイスも少ないです。 前半は、体を張った殴り合いの場面が多い印象です。レーゼンビーは身体能力は高いようで、体を張った戦いは結構見ごたえがありました。(でも、ジャッキー・チェンだったらもっとよかったかなと、思ってしまいましたが。) 後半、スイスの山中に舞台が移ってからは、スキーチェイス、雪道でのカーチェイス、ボブスレー上での戦いなど、その舞台を十二分に生かしたアクションが見ごたえがありました。 特に、今回の敵のボス、ブロフェルド役のテリー・サバラス、TVシリーズ「刑事コジャック」で有名な、スキンヘッドと強烈な目力が印象的な人ですが、御大自ら体を張ってしっかりアクションしているのがいいですね。 ということで、意外といい映画だったなあ、という感想ですが、やっぱり007としては、地味な作品だなあ、という印象でした。 一応断わっておきますが、題名に反して、イギリスのエリザベス女王は出てきません。題名は、ただ単に、イギリスのスパイという意味なだけです。
2013.02.06
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「センター・オブ・ジ・アース」 Journey to the Center of the Earth 2008年 アメリカ映画監督 エリック・ブレヴィグ出演 ブレンダン・フレイザー ジョシュ・ハッチャーソン アニタ・ブリエム SFの父とも呼ばれる19世紀のSF小説家ジュール・ヴェルヌの「地底旅行」の何度目かの映画化です。 10年前行方不明になった兄マックスの後を継いで大学で地球物理学を教えるトレバー・アンダーソン(ブレンダン・フレイザー)は、兄の遺児ショーン(ジョシュ・ハッチャーソン)を10日間預かることになります。 ショーンとともに義姉から預かった兄の遺品の中の愛読書ジュール・ヴェルヌの「地底旅行」に書き込まれていたメモから、突然思い立ち、トレバーはショーンを連れてアイスランドへ向かいます。 兄マックスのメモにあったアイスランドの火山学者シグビョルン・アスゲリソンの研究所を訪ねると、目当ての彼は亡くなっており、その娘ハンナ(アニタ・ブリエム)に迎えられました。 ハンナの案内で、兄の設置したセンサーを探しに山へ行くことになりました。急に変わった山の天気から洞窟へ避難しましたが、落雷のため入り口を塞がれてしまった3人は、奥へ進んで出口を探すしかありませんでした。 “地球空洞説”を信じる男が、大学で“大陸移動説”を教えているのはおかしいだろとか、兄マックスが世界に設置したセンサーは何のセンサーなんだとか、火山島であるハワイやアイスランドはわかるが、大陸・プレートの真ん中で地震が少ないであろうモンゴルにセンサーを設置していた意味は何だとか、山の谷間のちょっとした広場に短いパルス状に何本も落ちてくる雷というのは何なんだとか、落ちている途中で会話できるほどの長い落下って、いったい何km落下しているんだとか、そんなに落下したのに無傷というのはどういうことかとか、地中の空洞が明るいのはどうしてかとか、地中の空洞にどうして植物がいっぱいあるのかとか、水上にいる自分よりも大きい獲物を狙ってくる魚というのはありえないだろうとか、首長竜が変な魚よりもうまそうな人間を狙わないのはなぜかとか、何kmも地中の洞窟で携帯電話が通じたのはなぜかとか、三葉虫や首長竜やティラノサウルスなど、全く時代がバラバラ(何億年も)な生物が混在しているのはなぜかとか、磁気を帯びている岩が宙に浮いているということは、その下の地面もかなり強い磁気を帯びているはずなのだが、その場をちょっと離れただけで方位磁針が使えるようになったのはなぜかとか、ティラノサウルスより人間の方が速く走れるってどういうこととか、科学的な突っ込みどころが満載ですが、はっきり言ってここではナンセンスでしょう。(ちなみに、入り口がアイスランドで、出口がイタリアだったことは別に科学的におかしくはないですよ。立体的に考えてみよう。) そもそもが地球空洞説という、現代科学が完全に捨ててしまっている学説が大元にあるお話で、原作は150年ほど前の小説で、映画を作っている側が、科学的なにおいが漂うだけでいいと思っているようで、もう初めから科学的つじつまを合わせようとしていないのが明らかな確信犯だからです。 それから、トロッコでジェットコースターするのが「インディー・ジョーンズ」みたいだとか、ティラノサウルスに追っかけられるのが「ジュラシック・パーク」みたいだとかいう突っ込みもナンセンスです。 なぜなら、150年前の原作にも同じ描写があるとしたら、明らかにこちらの方が先で、「インディー・ジョーンズ」や「ジュラシック・パーク」の方が後にできているからです。 だから、はっきり言って、突っ込むべきは、21世紀に入っている今、この前々世紀のお話を映画化するのはなぜかという、一点のみです。 よっぽどハリウッドではアイデアに枯渇しているのだなという感じがしてさびしい限りです。 最近、昔からのアメコミを原作とした映画や、日本のアニメを原作とした映画や、韓国やフランスなど他国の映画をリメイクした映画などが目白押しです。 そして、とうとう150年も前のSF小説を原作に持ってきて作ってしまったということです。歴史物や恋愛物ならともかく、日々科学が進歩している昨今のことを考えると、そんな古いSFを原作に持ってくる勇気は、僕には信じられません。しかも、とりわけ新しいアクションのアイデアがあるわけでもないのに。 しかし、実はこの映画、3Dという新技術のおかげもあり、意外とヒットしたんですから驚きです。まあ、上映時間などから、明らかに子ども向けに作られた映画だからいいのかな。 そう考えれば、お話の組み立てなどは、なかなかうまくできていたので、家族で夏休みなどに見に行けばいい映画ですね。(そう考えると、10月に公開した日本の配給会社は馬鹿ですね。) でも、子ども向けに作ったということは、ツバつけたのくだりとか、ハンナがどんどん薄着になっていくところ(気温がだんだん上がっているのだからしょうがないですが。)とかは、どう考えたらいいのでしょうか。 ところで、僕はこの映画、当然ながらディズニーの製作だと思っていたんですが、違ったんですね、驚きです。 たまたま、例の同名のアトラクションとこの映画の原作が同じだったということなのですね。 この邦題にした配給会社に、著作権に異常に厳しいディズニーの追及はなかったのでしょうか?非常に疑問です。
2012.03.31
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「交渉人 真下正義」 2005年 日本映画監督 本広克行出演 ユースケ・サンタマリア 國村隼 寺島進 柳葉敏郎 水野美紀 では、お約束通り、もうひとつの「踊る大捜査線」スピンオフ作品です。 2004年12月24日、地下鉄“東京トランスポーテーション・レイルウェイ”、通称・TTRの最新鋭実験車両フリーゲージトレイン“クモE4―600型”が何者かにジャックされ、遠隔操作で暴走する事件が発生しました。 クリスマス・イヴで利用客200万人に膨れ上がった地下鉄網は、たちまちパニックに陥ってしまいます。そんな中、“弾丸ライナー”と名乗る犯人から挑戦状を叩きつけられた警視庁初の交渉人・真下正義(ユースケ・サンタマリア)は、交渉課準備室のメンバーと共にTTRの指令室へ出向すると、早速、犯人との交渉を開始しました。 地下鉄を知り尽くし、周到に練られた計画。真下は、なかなかよそ者を受け入れようとしないリーダーに片岡(國村隼)ら、地下鉄マンたちや地上捜査班を仕切る木島警視(寺島進)らと連携を図りながら、様々な情報を精査し、犯人に迫っていきます。 なかなか面白いサスペンスになっているではありませんか。「踊る…」を知らなくても、全く楽しめる一品です。「踊る…」のメンバーも、上司としての室井さん(柳葉敏郎)と、真下の彼女としての雪乃さん(水野美紀)が登場するのみで、「容疑者 室井慎次」の時のスリーアミーゴスの登場のような無理やり感が無くて、非常にいいです。 「THE MOVIE2」で初めて登場した、警視庁初の交渉人(ネゴシエーター)としての真下正義というキャラクターを生かした、地下鉄ジャックというテロ(愉快犯?)というアイデアも、緊迫感とスピード感を伴って、とてもいいと思いました。(なんとなく「古畑任三郎」のTVシリーズの最終話と似通っている感じがありましたが。) 最後の決着の場面も緊迫感があって、いい感じでしたが、どこかで観たなあ、と思っていたら、「イーグル・アイ」の最後と同じだったんですね。でも、実はこっちの方が先に作られていますので、もちろんまねではありません。どちらかというと、巨匠ヒッチコックの「知りすぎた男」を参考にしているのではないでしょうか。 ただ、「ボレロ」は最後の曲で、その前にモーツアルトの「フィガロの結婚 序曲」、ベートーベンの交響曲第5番「運命」、チャイコフスキーの「くるみ割り人形 花のワルツ」を演奏しているので、それまでにシンバルを使っているかどうか、気になるところではありますが。(観ていない人は、「何故ここでクラシック音楽だ?」と、思いますよね。でもネタバレになりますので、秘密です。) やっぱり主役の真下役のユースケ・サンタマリアさんがいいですね。 彼は、元々はミュージシャンで、ほぼ初めて出たドラマが「踊る…」(調べてみたら、2つ目でした。)なのですが、最初は、青島刑事たちノンキャリア組と対比させるための、キャリア組のひとりとしての扱いで、そんなに重要なキャラではなかったのですが、頭はいいんだけど気が弱いキャラとして、CPなどを使って後方支援するのにぴったりで、回を重ねるごとに重要なキャラになっていくのです。 そんな賢いけれど人はいいキャラを、テロ犯などを怒らせないようにうまく交渉する役、つまり交渉人(ネゴシエーター)として生かしていこうというアイデアがよかったと思います。 彼をTVで初めて見たのは、「笑っていいとも」にレギュラーで出ていた時で、「なんだ、このいい加減な男は?」と印象を持った覚えがあります。その後、「ぷっすま」などでも、結構いい加減で横着なキャラで、いつも相方の草薙剛を困らせている印象でした。 ところが、ドラマでの彼は、どちらかというと、見た目の印象からか、平凡で気の弱い男を演じることが多いのですが、なかなか達者で、驚かされました。 「踊る…」もそうですが、「20世紀少年 第2章 最後の希望」での、サダキヨ役の怪演は、出番は少なかったのですが、非常に印象的でした。 また、この映画、木島刑事役の寺島進さんがいいですね。 いつもヤクザや肉体労働従事者など、ガラが悪い役ばかりやっていますが、今回も刑事ですが、非常にガラが悪く、怒鳴ってばかりいますが、経験からくるカンを重要視するたたき上げの刑事で、非常に行動的で頼りがいのある男として、真下の指示で、実働部隊として、東京中を走り回っています。 褒められて照れるところとか、無理を言って逆に怒鳴られておとなしくなるところとか、ガラは悪いけど実はいい人キャラがにじみ出ていて、いい味を出していました。(刑事に見えなくて、どこへ行っても警備員に留められるという描写が、いちいちウザったい感じがしましたが。) 今までの「踊る…」に居そうで居なかったキャラとして、存在感にあふれていました。彼がいなかったら、この物語は成立していないのではないでしょうか。 ということで、スピンオフ作品ではありますが、本編を離れてみても、鑑賞に堪える、なかなかの作品に仕上がっている逸品を今回は紹介いたしました。
2012.11.12
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「ブリキの太鼓」 Die Blechtrommel 1979年 西ドイツ・ポーランド・フランス・ユーゴスラビア映画原作 ギュンター・グラス監督 フォルカー・シュレンドルフ主演 ダーフィト・ベンネント カンヌ国際映画祭のパルム・ドール、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞している、名作中の名作です。 実は僕、この映画、若い頃観ています。公開時に観たと思うんですが、定かではありません。当時レンタルビデオもCATVもなかったことを考えると、劇場で観たのでしょう。 しかし、主人公の母親が生魚をむさぼり食べている場面を覚えているだけ(よっぽど印象深かったようです。)で、内容をほとんど覚えていませんでした。 このほど、CATVで放映していましたので、録画しておきました。 1899年のダンツィヒ郊外のカシュバイの荒野で4枚のスカートをはいて芋を焼いていたアンナは、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェクをそのスカートの中にかくまいます。それが因でアンナは女の子を生み落とします。 第一次大戦が終わり、成長したその娘アグネスはドイツ人のアルフレート・マツェラートと結婚しますが、以前から恋仲だった従兄のポーランド人ヤンと愛し合っていました。アグネスは、1924年、ヤンの子と思われる男の子オスカル(ダーフィト・ベンネント)を生みます。 3歳になったオスカルは、その誕生日の日、母からブリキの太鼓をプレゼントされます。 この日、彼が見た大人たちの狂態を耐えられないものと感じたオスカルは、大人になることを拒み、自ら階段から落ち成長を止めました。周囲は事故のせいだと信じていました。 そして、この時からオスカルには一種の超能力が備わり、太鼓を叩きながら叫び声を上げるとガラスがこなごなになって割れるのでした。 毎週木曜日になると、アグネスはオスカルをつれて、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクスの店に行きます。彼女はマルクスにオスカルをあずけて、近くの安宿でポーランド郵便局に勤めるヤンと逢いびきを重ねていたのです。それをそっと遠くから目撃するオスカルは、いたたまれない気持ちで、市立劇場の大窓のガラスを割るのでした。 街には、第三帝国を成立させ、ダンツィヒを狙うヒットラーの声がラジオから響いていました。 第1次大戦の前、主人公のオスカルの母親の母親(つまりおばあちゃん)が妊娠するところから始まりますが、ナレーションはオスカル自身が務めるという、ある意味シュールな展開から始まり、やはりオスカル自身のナレーションで、自分が生まれるシーンも、すでに社会に批判的な姿勢で、自身で解説しています。その生まれる直前のお腹にいるオスカル(そういう映像があること自体シュールです。)も、生まれてすぐの産湯を浴びているオスカルも、ダーフィト・ベンネントが演じています。さすがに幼児大の子どもが産湯を浴びている絵はシュールです。 こういった冒頭のいくつかのシーンから、「この映画普通ではないぞ。」と思わせてくれ、オスカルが大人たちの言動から絶望感を覚え、「自分はあんな大人にはならないぞ。」と、3歳の時点で成長を止めることを決意させ、自ら地下室の入り口から階段を落下し、成長を止めること、甲高い声で叫ぶとガラスを割ることができるという能力を持っていること、という超自然的な展開を肯定できる説得力を与えています。 オスカルは成長せず、子どものままでいることで、周囲の社会から孤立し、その情勢を、距離を置いたところから、冷めた目で見つめ、語っていくのです。 2人の男と愛し合う母親が、予期せぬ妊娠をして心を壊していく様子、ナチスの党員として活動に燃える父とポーランド人としてのプライドを大切にしたいヤン(実の父)、ナチスが力を付け軍隊が街に増えてくる様子、などなど、そして、徐々にナチスが追いつめられる様子などなど、激動の時代の中で、うごめき合う大人たちの愚かさや汚さなどを、一歩離れた地点から見て描き出しているのです。 それは、ダーフィト・ベンネントという、実際には撮影時11歳だということですが、見た目4.5歳に見える天才少年の存在がなければ、描くことは叶わなかったでしょう。 見た目は3歳のまま成長しないのだけれども、その心は着実に年相応に成長していっているという少年の物語を的確に理解し、その豊かな表情で見事に演じきる、彼の存在があってこそ、この物語は成立しているのです。 というわけで、3時間近くある(ディレクターズ・カット版でしたので。)長い物語ですが、まったく退屈することなく、途中トイレ休憩で1回止めた以外、一気に観てしまった、30年以上前の作品ですが全く色あせていない名作を今回は紹介しました。 激しく求め合うアグネスとヤンとか、水中に沈めた馬の首に無数のウナギがうごめく場面とか、生魚を無表情でひたすら貪り食うアグネスとか、見た目は幼児のオスカルのベッドシーンとか、エロ・グロ満載の映画ですので、そういうのが苦手な人はご注意を。
2013.06.06
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「ターミネーター3」 Terminator3:Rise of the Machines 2003年 アメリカ映画監督 ジョナサン・モストウ主演 アーノルド・シュワルツェネッガー 今、TVでやってます。前にレンタルDVDで観ましたので、確認のため、TVを見ながら書いています。 監督が、「T1」「T2」のジェームス・キャメロンから、まだ無名のジョナサン・モストウという人に変わっています。聞くところによるとキャメロン監督は、2作で完結しているといって、断ったそうです。残念です。彼が参加していれば、もう少しましな作品になったかもしれません。 しかし、彼は間違っています。この第3作は作られなければならなかったからです。この映画の中でも、ジョン・コナーが勘違いしていますが、スカイネットの反乱、核戦争、つまり「審判の日」は避けられないのです。ジョン・コナーの存在がそれを証明しています。 未来からやってきたカール・リースと、サラ・コナーの子どもであるジョン・コナーです。スカイネットの反乱が起こらなければ、マシーンと人類との戦争が起きて、カール・リースが未来からやって来て、サラ・コナーと出会うことはなかったのです。2人が出会わなければ、ジョン・コナーは生まれないのです。つまり、「審判の日」が避けられたのなら、ジョン・コナーは消えなければならなかったのです。「T2」の最後で、ジョンが消えなかったということは、スカイネットの反乱は起こり、「審判の日」は起こるということになるのです。物語は完結していないということです。 こういう風に、未来から人や物がやって来て、歴史が変わり、矛盾する状況になることを、タイムパラドックスと言います。詳しくは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズがわかりやすいです。1955年のジョージとロレインがなかなかいい感じにならないおかげで、舞台上でギターを弾いている2人の息子であるマーティは消えかかってきます。しかし、2人がキスした途端、マーティは生気を取り戻します。また、1985年(劇中の現代)で、マーティが悪友の挑発にのらず、事故を起こさなかったことで、未来から持ってきた解雇通知のファックスの文字が消えます。ドクとマーティは、タイムパラドックスを起こさないように、時間を行ったり来たりして、奮闘するのです。 ということで、「T3」ですが、アクションはとにかく派手になっていますね。何といっても、クレーン車を使ったカーチェイスですかね。クレーンの腕を横にしたまま疾走するクレーン車なんて、思いついても、なかなか実行できません。何しろ、電柱から、街路樹から、沿道の建物まで、すべて破壊して疾走するんですから、もう迫力十分です。 しかし、肝心の新型ターミネーターT-Xがいまいち生かしきれてない感じです。T-800と同じような機械の骨格の上に、T-1000の液体金属がかぶっているようですが、T-1000が登場した時のような衝撃がなかったです。 変身するのも、ケイトの婚約者に化けたときだけですし、武器をいろいろと内蔵しているようですが、それらを派手に使うわけでもないですし、しつこくジョンの行く先々にやってきますが、そのたびに、結構あっけなくやられてますし、一度バラバラになってまでも復活してきたT-1000の方がすごかったです。 特に、ケイトの婚約者に化けて墓場にやってきたとき、化けたままでケイトとハグすれば、簡単にケイトを抹殺できたのに、まだ距離があるうちに元に戻って、ケイトに逃げられるし、重力加速器(?)のところにやってきたとき、制御盤を注意深く見ていたのに、ジョンが何をしたか確かめずに、そのまま追ってくるし、機械のくせに頭悪いなあ、と思ってしまいました。 せっかく、セクシー美女を起用しておいて、それを生かしたアクションや行動がなかったのが、一番のがっかりですね。 また、ジョン・コナーのヘタレぶりにがっかりしました。 まず、見た目にがっかりです。このニック・スタールという役者さん、なんか、見るからに情けないような感じの人で、いくら「T2」のエドワード・ファーロングが事情で使えなかったとしても、もう少しかっこいい人いなかったでしょうか。 それから、「審判の日」がなくなったと思いこんで、目標を失くして、放浪の旅に出ていたり、覚悟を決めて、戦い始めた後でも、ケイトに助けられて、「ママみたいだ」とは、情けなさすぎでしょう。「T2」の勉強は出来そうもなかったが、頭の回転が速く、非常にたくましく、行動力にあふれた彼が、いったいどうしたんだという感じです。 以上、作品の出来としては、いまいちですが、シリーズをうまくつなげたとして、大事な3作目でした。
2011.09.23
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「コントロール」 Control 2004年 アメリカ映画監督 ティム・ハンター出演 レイ・リオッタ ウィレム・デフォー また、無名の映画を借りてきました。 主役のレイ・リオッタは、「ハンニバル」で、あのレクター博士にすごいことをされている男です。(どうすごいことかというと、あまりにもおぞましすぎて、書けません。はっきり言ってトラウマになります。) 準主役のウィレム・デフォーは、「プラトーン」や「7月4日に生まれて」など、様々な映画で印象に残る演技を見せる名脇役です。ああ、1番有名なのは、「スパイダーマン」のグリーン・ゴブリンですね。 そんな、脇役ばかりの2人を中心にした、はっきり言って、地味な映画です。 死刑囚リー・レイ(レイ・リオッタ)は、数多くの凶悪犯罪に手を染めたため、ついに致死注射による死刑執行の時を迎えました。しかし、彼は死なずに死体保管室で目を覚ましました。注射内の薬品が入れ替えられており、彼の死刑は偽装されたものだったです。 それは脳科学の権威であるコープランド博士(ウィレム・デフォー)の指示によるものでした。状況が上手く飲み込めないリー・レイに、博士は「自分が研究・開発しているある薬品の実験台になれば、死刑を見逃してやる。」と提案します。その提案に彼は同意するしかありませんでした。 その薬品「アナグレス」とは、被験者の脳の性質を変化させ、その者が持つ凶暴性や暴力性を抑えるという画期的な物でしたが、凶悪犯のリー・レイが大人しく捕まっているはずもなく、監視の隙を見つければ脱走を企て、その際に大勢の研究員・監視員を傷つけるのでした。 しかし、実験を開始した数日後、彼の心に変化が生じてきます。罪の意識や自責の念が芽生え始めたのです。これを知った博士は、実験を第二段階へと進めることにします。それはリー・レイを社会に出し、一般市民と共に生活させるという危険なものでした。 今回は当たりでしたね。なかなか面白いサスペンスでした。 凶悪犯リー・レイは、初めのうちは凄みのある顔で、何かと難癖つけては暴れていました。その彼が、だんだんと穏やかな表情になり、自らの犯罪を省みて涙を流すように変わっていきます。その様子が手に取るように伝わってきました。脚本の巧みさとリー・レイ役のレイ・リオッタの演技力のたまものだと思いますが、この凶悪犯の変化がこの物語の肝なので、そこが良かったのでしょうか。 また、見た目は強面だけど、実はいい人という役が多く、またよく似合う、ウィレム・デフォーの演技力は相変わらずで、変わっていく凶悪犯を支える役を巧みに演じていて見事でした。 凶悪犯を収容して実験しているのに、研究所の設備や警備が手薄すぎる(なにしろ、窓ガラスを1枚割ったらもう外に出てしまうくらいですから。)とか、第二段階で街に出てからも、アパートの監視カメラを見ている警備員がひとりしかいないのも手薄すぎだろとか、リー・レイを付け狙うマフィアの殺し屋の存在は余分だろうとか、突っ込みどころも色々とあるのですが、やっぱり主役2人の演技力の巧みさが物語を支えているのだな、と思いました。 ということで、華のあるスターは出ていないので、どうしても玄人受けする作品にしかならない、どう考えてもヒットはしないであろう作品ですが、なかなか面白い作品を今回は紹介しました。
2013.03.29
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「バリー・リンドン」 Barry Lyndon 1975年 イギリス映画監督 スタンリー・キューブリック主演 ライアン・オニール 僕が敬愛する、巨匠キューブリック監督ですが、この映画はまだ観ていませんでした。大作であることはわかっていましたので、なかなか手が出なかったというのが、正直なところです。これで、「スパルタカス」以降の巨匠の作品はすべて観ました。(「時計じかけのオレンジ」と「シャイニング」はすでに観ていますが、記事はまだ書いていません。また、書きます。) 18世紀半ば、アイルランドの農家に生まれたレドモンド・バリー(ライアン・オニール)は従姉のノーラに初恋をし、恋人同士となりますが、ノーラはクイン大尉とも恋仲になります。大尉が非常に裕福なため、彼女の家族は貧困から抜け出すために結婚を望んでいたのです。 バリーは、クイン大尉に決闘を申し込み、バリーの弾が命中してクイン大尉は倒れてしまいます。バリーは警察の追及から逃れるため、母ベルから旅費として20ギニーのお金を渡され、村を出ます。でも、バリーの銃には麻弾が装填されていたため、大尉は気絶しただけでした。ノーラと大尉の結婚を望む兄弟たちが、バリーを村から追い出すために仕組んだものだったのです。 バリーは、ダブリンへ向かう道で追いはぎにあい一文なしになってしまい、途中立ち寄った村でイギリス軍の兵員補充に志願して大陸に渡り、七年戦争に参加します。 軍隊の中で頭角をあらわしたバリーはやがて旧知のグローガン大尉と再会し、彼の部下となります。しかし、ミンデンの戦いでグローガン大尉は戦死し、悲しんだバリーは脱走を決意し、将校の服・身分証・馬を奪って同盟国のプロイセンに渡ります。 イギリス軍の将校になりすましたバリーは、プロイセンからオランダへ抜け、アイルランドへ帰る道中、プロイセン軍のポツドルフ大尉に職務質問を受け、逃亡兵であることがばれてしまいます。バリーは逮捕を恐れ。ポツドルフ大尉の下で兵卒になることを選択します。 プロイセン軍でバリーは、厳しい兵卒生活を送りますが、戦地でポツドルフ大尉を救出した功績により、戦地を離れ、プロイセン警察でスパイとして働くことになります。 バリーは、ギャンブラーのシュバリエ・ド・バリバリーを探る任務を与えられ、召使いとして潜入しますが、シュバリエが同郷人なことから、プロイセン警察を裏切り、シュバリエの相棒として二重スパイとして働き、やがてシュバリエが国外追放になるとバリーは策を凝らし、プロイセンから脱出し、彼と共にヨーロッパ各国の社交界でイカサマによって荒稼ぎするのでした。 そんな中、バリーは病弱なチャールズ・リンドン卿の若い妻レディー・リンドンに出会い、彼女といい仲になります。そして、リンドン卿が病死すると、バリーはレディー・リンドンと結婚してバリー・リンドンを名乗るようになるのです。 長々とあらすじを書きましたが、ここまでで半分くらいです。何しろ、3時間を超える長い映画です。しかし、主人公レドモンド・バリーの二転三転する人生を淡々と描いているためか、まったく退屈することなく引き込まれていきます。 でも、はっきり言って、「ある愛の詩」の大ヒットで大スターとなったライアン・オニールですが、評判通りの大根ぶりで、ほぼ無表情で変化しない顔(演技は顔だぞ!顔!パンサー尾形も言っていただろ!!)で、棒立ち、格闘や剣技は元々スタントマンなので、案外上手ですが、ほぼ感情表現はできていません。 でもでも、僕は気が付いてしまいました。彼の無表情って、顔の作りが元々そうなっているのでしょうか、何となく悲しい顔に見えるんですよね。その悲しい顔の無表情が、淡々と進むお話に、結局は真に幸福をつかむことができなかったレドモンド・バリーの人生に、ぴったりなんですね。 そういえば、彼のヒット作「ある愛の詩」「ペーパームーン」(娘のテイタムが最高です。)って、やっぱり悲しいお話ですよね。 なるほど、さすが巨匠、そこまで見抜いての、彼の起用だったのですね。 それから、この映画なんといっても見るべきは、その映像の美しさ、徹底した時代考証です。 わざわざ当時のものを手に入れて、当時よりも大きくなっている現代人に合わせてすべて縫製し直した衣装、本物の城にこだわった貴族の住まい、銃・剣・カード・楽器などの小道具や家具・調度品、田舎の風景まで、まさに完璧主義なこだわりの映像です。 とりわけ、当時の室内のロウソクのみの明かりにこだわり、わざわざNASAから当時の最新鋭の超好感度のカメラレンズを借り受け、撮影したという逸話も残っています。 アカデミー賞での、撮影賞・美術賞・衣装デザイン賞を受賞は当然でしょう。(あと、バロック音楽にこだわった音楽賞も受賞しています。作品賞・監督賞にもノミネートされていますが、例のごとく、受賞は逃しています。) しかし、当時の貴族の間で流行していたという、男女とも、おしろい・ほお紅につけボクロといったメイクは、ちょっと勘弁してほしかったですね。(一説によると、当時の貴族は結構不衛生で、顔を洗う習慣がなく、そのための汚い顔を隠すためだったということです。) ということで、やっぱりさすがキューブリックという映画でした、 とにかく、その完璧すぎる映像を観るだけでも、必見の映画です。
2013.06.29
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「HOME 愛しの座敷わらし」 2012年 日本映画監督 和泉聖治出演 水谷豊 安田成美 橋本愛 濱田龍臣 草笛光子 荻原浩のヒット小説を映画化した作品です。 同じく水谷豊主演作、伊藤蘭との夫婦共演で話題になった映画、「少年H」公開の宣伝のために、TV放映しましたので、録画しておいたものです。 父・晃一(水谷豊)の転勤で、東京から岩手の田舎町へと引っ越してきた高橋一家。 晃一がよかれと思って選んだ新しい住まいは、なんと築200年を数える古民家でした。 東京での暮らしに馴れていた妻の史子(安田成美)は、突然の田舎暮らしに不安と不満でいっぱいです。老人ばかりの近所付き合いにも乗り切れないでいました。 中学2年の長女・梓美(橋本愛)にも古民家はただのボロ家にしか見えず、転校先の学校生活を考えると心が落ち着きません。転校前の学園生活でも人間関係で悩んでばかりだったからです。 同居する晃一の母親・澄代(草笛光子)は田舎住まいには支障を語らないものの、最近、認知症の症状が始まりつつある様子です。 唯一、古民家への転居を楽しんでいる小学4年の長男・智也(濱田龍臣)は、治りかけている喘息の持病を今も史子にひどく心配され、サッカーをやりたくてもやれずにいます。 五者五様、どこかギクシャクしている一家をやんわりとまとめたい晃一でしたが、家族の不平不満をなかなかうまく解消することはできず、異動先の支社でも馴れない営業職に悪戦苦闘の毎日でした。 そんなある日、不思議な出来事が高橋家に起こり始めます。誰もいない場所で物音が聞こえたかと思えば、囲炉裏の自在鉤が勝手に動いたり、掃除機のコンセントがふいに抜けたり、手鏡に見知らぬ着物姿の子どもが映ったり……。 どうやらこの家には東北地方の民間伝承で有名な“座敷わらし”が住んでいるようなのです。 ということで、いろいろな問題を抱えた家族が、座敷わらしとの交流を通して、問題を解決し、幸せになっていくという、ほのぼのストーリーです。 その問題は、当人にとっては結構深刻かもしれませんが、ハラハラドキドキするわけでもなく、人類の存亡がかかっているわけでもなく、はっきり言って、気の持ちようで変わってくるような問題ばかりです。結局、座敷わらしとの交流で気持ちに余裕ができて、状況が好転したという感じです。 まあ、いい話だなあ、という感じの、ほのぼのホームドラマでした。 そんなわけで、もっとドキドキするお話の方が好きな僕としては、非常に物足りなく、はっきり言って、退屈なお話でしたので、お話の流れとは関係ないところが気になってしまいました。 まず、座敷わらしの設定についてです。 本来伝説の座敷童というのは、ある特定の部屋および家屋に住み着いているもののはずです。(だから“座敷”なんですよね。)東北地方の座敷童が出るということでTVなどで取り上げられ、有名になった旅館でも、出現するのはある一部屋だけというお話です。 だから、この映画で描かれているように、庭(「トトロ」の家みたいに、庭と森の境界線があいまいな家なので、家の敷地内かは怪しい。)の祠に出現したり、坊主と庭でくつろいでいたり、ましてやこの映画の結末(一応秘密にしておきます。はっきり言ってがっかりしましたが。)のようなことはあり得ないのではないだろうかと思ってしまいました。(屋根裏の梁に腰かけて微笑んでいるというのは、ギリ・セーフだと思いますが。) 飢饉や貧しさのために生まれる間もなく、口減らしさせられた子どもの霊だとか、その家に幸いをもたらすといった設定は、伝説通りなので、なんか、(特にラスト)単なる子どもの幽霊のような扱いに非常に疑問を持ってしまいました。 それから、お父さんの会社についてです。 時期的には、6月の終わりか7月の初めのことだと思われます。はっきりとは語られていませんが、引っ越してすぐ、お姉ちゃんは転校先の中学校に登校しており、弟は病気のこともあるので夏休みが終わってからということにしていることから推測できます。(その割には、晴天ばかり続いているのは変ですが。空梅雨?) そこで疑問を持ってしまったのです。いくらプロジェクトの失敗の責任を取ってのこととはいえ、学校に行っている子どもがいる男をこんな非常に中途半端な時期に左遷させるのか、ということです。しかも東京の本社から遠く盛岡の支社まで。 なんて非人道的な会社でしょうか。これって、組合とかは何にも言わなかったのでしょうか。 しかも、数か月後には………。(結末にかかわるので、濁しておきます。) それに、会社としては、全国いたるところに支社があるような大企業ではなく、どう見ても、中小企業です。なぜ東京本社と盛岡支社なのか。非常に疑問です。 どうも、初めに座敷わらし有りき、な感じですね。やっぱり“座敷童”なら東北でしょう。という安易な設定でしかない感じですね。そして、お姉ちゃんは学校の人間関係で悩んでいたわけですから、学校に行かせなけりゃいけないし、絵的にはやっぱり夏の方がいいし、ということで、この1学期の終わりという非常に中途半端な時期設定になったのではないでしょうか。 原作の小説は読まずに、映画だけ観て批評しているので、どこまでが原作の設定で、どこが映画オリジナルなのかわかりませんが、はなはだ設定的な部分で疑問を持ってしまったため、心が癒されるはずのほのぼのストーリーに、今ひとつほのぼのできなかった作品でした。 ところで、いけませんね。「相棒」の観すぎでしょうか、水谷豊さんが、杉下右京警部にしか見えないのですが………。困ったものです。 ちなみに、お姉ちゃん役の橋本愛さん、今「あまちゃん」のサブヒロインとして、大ブレイク中の子です。「告白」でも、存在感バリバリでした。今後大女優になる予感バリバリです。
2013.10.04
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「トレマーズ」 Tremors 1990年 アメリカ映画監督 ロン・アンダーウッド主演 ケヴィン・ベーコン スター不在で、低予算なB級映画ですが、傑作という評判のモンスター映画です。 主演のケヴィン・ベーコンは、今でこそ、「アポロ13」や「ミスティック・リバー」などで、演技派スターとして、名の知れた存在ですが、当時はまだまだ若く、こうした低予算映画に、多く出演しています。 砂漠の中の小さな町パーフェクションで、バル(ケヴィン・ベーコン)は、年上の相方アールと「なんでも屋」を営んでいます。なかなかいい仕事にありつけない2人は、見切りをつけ、町を出ていこうとしますが、鉄塔に上がったまま数日経つ、町の住人の死体を発見してしまいます。 また、町はずれの農場では、羊の群れがいなくなっており、土に埋もれた老人の死体を発見してしまいます。町へ戻ると電話が通じなくなっていました。 仕方なく、バルとアールは車で隣の市へ知らせに行こうとしますが、さっきは通れた町からの唯一の出口の道路は、工事現場のところで土砂によりふさがっており、肉片のついた工事作業員のヘルメットが落ちているだけでした。 車を切り返して町へ戻ろうとすると、なぜか車が動きません。思いっきり吹かして何とか車を発進させ、町で唯一の酒場へ戻ってきました。 車の後ろには、大きな蛇のような未知の生物のちぎれた死体が食いついていました。連続する町の異変は、このおかしな生物の仕業と推測されました。断崖絶壁と山に囲まれ、唯一の道もふさがり、電話も通じない、陸の孤島と化した町で、酒場に集まっていた町の住人達と、対策を相談し、酒場の主人の馬で、バルとアールが助けを呼びに行くことになりました。 翌朝、馬で出発した2人は、途中、町はずれで自力で家を建設中の医者夫婦に危機を知らせに立ち寄りますが、夫婦の姿はなく、車が地中に埋まっているのを発見します。 より一層馬で急ぐバルとアールは、突如何者かに怯え、暴れる馬に振り落とされます。すると、倒れた馬に、あの蛇のような生物がからんでいます。その時地面が持ち上がり、地中から大きな生物が現れました。とっさに走り出す2人。2人が走る傍らでは、柵の支柱が次々とすっ飛んで行くので、謎の生物が地中で2人を追っていることがわかります。 必死で逃げるバルとアールは、勢いでコンクリートで護岸された用水路(水はない)に飛び込みます。すると護岸のコンクリートが激しく砕けました。そして、ひび割れから血まみれの蛇のようなやつが力なく出てきました。 そこへ、町の郊外に地震計を仕掛けに来た地質学を研究している女子大生ロンダが現れ、3人で砕けたコンクリートをはがしてみると、大きな口をもった10mぐらいある怪物の死体が現れました。 何とか怪物を倒すことができ、ほっとする3人でしたが、近くに仕掛けてあった地震計の数値から、怪物があと3頭いることがわかります。 砂漠の中の町で、南は断崖絶壁、東西は山に囲まれ、北にある唯一の町からの出口の道は、怪物による土砂でふさがれてしまい、陸の孤島と化してしまった町の人々が、如何にして怪物(グラボイズと名付けられます。)を退治するのか、ドキドキして画面に観入ってしまいます。 怪物の姿をなかなか見せず、死体や襲われるところだけを小出しに見せられ、どんどん話に引き込まれていきます。なかなか心憎い演出です。 現代のように、CGなどを駆使して怪物の姿を映し出すのではなく、おそらくは模型などを使っての特撮であろう、その映像は、怪物をはっきりとは見せないため、その恐怖をより湧きたてています。 砂漠の中の小さな町が舞台のため、未知の怪物が現れることにリアリティがあり、登場人物も少なくて済んでいます。 低予算の映画でも、アイディアと演出で、見ごたえのある作品を作ることができるという見本のような作品です。細かく探していけば、突っ込みどころはたくさんありそうですが、そんなことをしようとは思わないほど、楽しく鑑賞することができ、満足できる作品です。 しかし、この作品が思いがけずヒットしたおかげで、続編がこのあと3本も作られています。きっと劣化しているんだろうなあ。
2012.07.08
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「SUPER8/スーパーエイト」 Super8 2011年 アメリカ映画製作 スティーヴン・スピルバーグ製作・監督・脚本 J・J・エイブラムス出演 ジョエル・コートニー エル・ファニング 去年、盛んにTVで宣伝していました。しかし、子どもが主役ということと、何かモンスターが出てくるであろうということ以外、全くわかりません。非常に気になりました。何かしら今までにない新しいアイディが有りそうな予感がして、すごく観たかった覚えがあります。しかし、劇場に行けなかったので、レンタルでもいいので、必ず見ようと思い、このほど、やっと旧作100円になったので借りてきました。 1979年のオハイオ州。ある夜、ジョー・ラム(ジョエル・コートニー)ら6人は、自主制作のゾンビ映画を作るため、スーパー8mmカメラを持って線路のすぐ近くで撮影をしていました。 しかし、映画の撮影中に線路上でアメリカ空軍の物資を運んでいた貨物列車と線路を走っていた1台の車が激突し、大事故となります。列車が大炎上するほどの大事故でしたが、ジョー達は奇跡的に全員無事でした。 電車に衝突した車の運転手、ジョー達の通う学校の生物教師であるウッドワードは、ジョー達に「今見たことを決して誰にも言ってはいけない。そうしなければ君達と、君達の親も殺される。」と意味深な言葉を残したが、その言葉の真意はわからないまま、事故処理のため、軍隊がやってきたので、ジョーたちは逃げ出すしかできませんでした。 そして、その夜から街では、住民が失踪、犬が逃げ出す、停電が続くなどの奇怪な事件が続出し、ジョーがひそかに思いを抱く、仲間のアリス(エル・ファニング)も何者かにさらわれてしまいました。 結論から申しますと、はっきり言って、がっかりしました。特に目新しいところもなく、この日本の膨大にある漫画文化の中で、誰かが書いていそうだな、というのが第1印象でした。 確かに、最初の列車事故の場面はなかなか迫力ありましたし、ジョーとアリスの淡い恋の描写などは、超有名子役ダコタ・ファニングの妹としての、エル・ファニングのさすがの演技力もあり、見ごたえがありましたが、それだけでした。 ど迫力の貨物列車事故のすぐわきにいた6人の子どもたちが、みんな無事だったり(スピルバーグがからんでいる映画では、必ず子どもは無事です。)、アメリカ空軍がモンスターの秘密を知りながら、秘密裏に処理しようとするため、悪者として描写されていたり、頼りになりそうな保安官代理、ジョーの父親が、秘密を知り何とかしようとするが、結局何もできなかったり、酒飲みで悪態をついていたアリスの父親とジョー親子が、事件のゴタゴタを解決する中で、和解することができましたし、何か思った通りの展開ばかりで、目新しいところはちっともありませんでした。 とりわけ、僕が気になったのは、モンスターの正体をなかなか明らかにしないところと、ラストにジョーたちが危機に陥ったにもかかわらず助かった唐突感です。(一応、ネタばれにならないように、ラストに関しては、ぼかして書かさせていただきます。) おそらくは、ホラー的な恐怖心をあおることが目的なのでしょうが、終盤まで、なかなかモンスターの姿を見せないように作られています。しかし、最後のジョーたちが助かった理由を考えると、モンスターの正体を中盤あたりで明らかにしておき、ジョーたちと交流させるという展開の方が、唐突感や無理やり感がなく、より分かりやすい展開になったのではないでしょうか。まあ、そうなると「E.T.」の二番煎じと言われるかもしれませんが。だいたいが、見た目がグロテスクなモンスターですが、知性がある存在に、人間を襲わせてなおかつ食べさせてしまうというのは、変でしょう。 また、電子レンジや電線が盗まれた理由はモンスターの隠れ家を見てわかりましたが、住人の飼い犬たちがことごとくいなくなった理由がまったくわかりません。わざわざ犬の消息を尋ねる張り紙でいっぱいな掲示板をいかにも意味ありげに映し出している割には、全くラストで解明されていません。 大々的に宣伝していた割に、内容に関しては極力秘密にしてきた大作の割には、はっきり言って、稚拙な出来上がりで、がっかりしたというのが、正直な感想です。 もっと、もっと、脚本を練ってほしかったです。ネットで多くの人が語っているように、「エンドロールに流れる子どもたちの作ったゾンビ映画の方が面白い」って言われていちゃあ、いかんでしょう。(でも、僕もそう思ったけど。) というか、実際は子ども向けの内容なのに、勘違いして大々的に宣伝していた配給会社の方に問題があるのでしょうか。 ところで、エル・ファニングちゃん、お姉ちゃんに負けず劣らず、かわいくて、演技上手です。将来がとってもとっても楽しみですね。
2012.09.23
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「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」STAR WARS EPISODE II:ATTACK OF THE CLONES 2002年 アメリカ映画監督 ジョージ・ルーカス出演 ヘイデン・クリステンセン ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン クリストファー・リー サミュエル・L・ジャクソン お待たせしました、「エピソード2」です。 遠い昔、はるか彼方の銀河系で…。 10年後、腐敗による機能低下が進む銀河共和国を見限り数千の星系が離脱を表明し、元ジェダイのドゥークー伯爵(クリストファー・リー)を中心に分離主義勢力を形成して共和国との間に緊張状態を生じていました。この事態に対して、共和国の軍隊保有の是非を問う投票のため惑星コルサントを訪れていたパドメ・アミダラ元老院議員(ナタリー・ポートマン)は爆破テロに遭遇し、侍従らに犠牲者を出してしまいます。 ジェダイ・マスターのオビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)と若きアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)がボディーガードをし、刺客から彼女を守る事に成功しますが、捕らえようとしたところ、別の刺客によって、殺されてしまいます。 オビ=ワンは凶器から手掛かりを得て、惑星カミーノへ向かい、アナキンは初の単独任務として、パドメを護衛し、惑星ナブーに向かいます。 オビ=ワンは惑星カミーノで、亡きジェダイ・マスター、サイフォ=ディアスが10年前に極秘裏に生産を依頼していたクローン・トルーパーの大軍隊を視察します。そのクローン・トルーパーの遺伝子ホストであるジャンゴ・フェットこそが追っていた刺客であると判断したオビ=ワンは、捕獲を試みるも反撃にあい、取り逃がしてしまいます。 一方、以前から母に関する悪夢に悩まされていたアナキンは、パドメと共に故郷タトゥイーンを訪れ、母が盗賊タスケン・レイダーに誘拐されているという事実を知ります。アナキンは必死の捜索で母を発見しますが、時遅く彼女は息子の腕の中で絶命してしまいます。アナキンは怒りのままにタスケンを皆殺しにしてしまいます。 ジャンゴを追って、惑星ジオノーシスに到着したオビ=ワンは、そこで分離主義勢力陣営のドロイド工場を発見しますが、ドゥークー伯爵に捕らえられてしまいます。 アナキンとパドメはオビ=ワンの救出に向かいますが、結局捕らえられ、3人揃って闘技場で怪物に処刑されそうになります。 メイス・ウィンドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)率いるジェダイ軍団が救援に現れますが、ドロイド軍の圧倒的な物量の前に追い詰められてしまいます。そこへヨーダ率いるクローン・トルーパー部隊が乗り込んできます。 この作品、実はこの年のゴールデンラズベリー賞(略称ラジー賞、毎年アカデミー賞の前日、この年アメリカで公開された最低な映画に贈られる賞です。)に、7部門(最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞、最低助演男優賞、最低助演女優賞、最低リメイク・続編賞、最低スクリーンカップル賞)ノミネートされ、最低脚本賞と最低助演男優賞(ヘイデン・クリステンセン)を受賞しています。 確かに、場面転換が唐突なところがあったり、説明不足な場面がある中で、ナブーでのアナキンとパドメのイチャイチャ場面がやたら長かったり、パドメの心の動きがよくわからなかったり、明らかに敵側の刺客のジャンゴ・フェットのクローンの兵士たちを共和国側の軍団としてヨーダが指揮していたり、いろいろと不可解な点があり、脚本的に問題があるのは非常に感じました。 しかし、ヘイデン・クリステンセンの最低助演男優賞については、ちょっとかわいそうだなと思ってしまいました。確かに、この映画の実質主人公のアナキン・スカイウォーカーという青年(実際何歳かはわかりません。何しろ「1」の記事にあるように彼らは宇宙人ですから。)は、自信過剰でわがままで自己中で、イケメンで才能あふれる、そして非常に美しいお姫様の心を射止める、はっきり言って鼻持ちならない非常に嫌な奴です。 でも、忘れないでください、彼は、世紀の大悪役、あのダース・ベイダーになる男なんですよ。最初の「スター・ウォーズ」、のちにシリーズ化されてから「新たなる希望」という副題がつけられた「エピソード4」を観た時から、その絶大なる悪役ぶりに圧倒された、あのダース・ベイダーなんですよ。 そんな憎むべき男が悪に染まっていくきっかけが描かれているこの映画、いかに彼が嫌な奴かが描かれていて当然でしょう。 そういう視点で観ていくと、ジョージ・ルーカスが「ダークな雰囲気を持っている」と彼を抜擢した理由で語っている通りの容姿にも助けられてはいますが、結構頑張っているのではないでしょうか。まあ、この彼のラジー賞受賞は、演技が下手というよりは、多くの人が嫌な奴と思える奴をいかに頑張って演じたかという点で選ばれたと思いますね。 ということで、シリーズ中一番出来の良くない作品という評価を受けながらも、やっぱり大人気シリーズのお話をつなぐために非常に大事な作品として、アナキンが悪に染まっていく道筋が分かりやすい、という点では評価できる作品を今回は紹介しました。 この映画ですっきりしなかった点は、次の「エピソード3」でいろいろとはっきりするので、まあ、良しとしておきましょう。 ところで、今年のラジー賞発表されましたね。新しいメンバーでリメイクされた「ファンタスティック・フォー」が最低作品賞や最低監督賞などを受賞したようですね。昔のアニメ「宇宙忍者ゴームズ」(邦題)、好きだったけどね。 さあ、明日はアカデミー賞だ。
2016.02.28
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