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前は無かったのです。基本撮影ができない所なので、どこかが許可どりして撮影した写真なのでしょう。非常に助かります。
今回トイレ事情が一番悪かったのがイタリア、ミラノでした。
欧州の常識は、トイレが少なく、かつ有料が原則。
トイレがタダなのは空港や美術館の中、レストランくらい。
駅のトイレも有料です。だから逆にトイレでしない人がいるから街の衛生が悪くなる現状もあるわけです
今回のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院もトイレ事情が悪い所の一つです。
教会にトイレが無いのはあたりまえ。
カフェで飲食 すればタダで借りられますが、トイレだけなら有料。
近辺にこれといったカフェもあまり無いところです。チケットを持っていて「最後の晩餐」を見学した人は出口のお土産コーナーにあるトイレを借りる事
ができますが清潔・・とは言えないトイレでした。(便座が無い洋式が一つと、汚れたアラブ式。しかも男女共用)
因みに近所のカフェのトイレも便座がありませんでした。
どうもイタリア人は女性でも便座に座らずにするようです。
行く前にどこか比較的きれいな所ですませて行く事を勧めます (;^_^A
修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復
完成後から崩れ始めた壁画
ナポレオンが発注した複製モザイク画
事務所で受け付けしてもらったチケット。(2人分)
予 約した人の名前が入っている。2枚は当日借りたオーディオ・ガイドのチケット。
オーディオ機器は、借りる時にIDを預け
返却の時にIDを返してもらう。
CENACOLO VINCIANO(最後の晩餐)事務所
待合室

わずかな座席しかないので次の回に入る人で一杯。(見学は15分で入れ替え)
CENACOLO VINCIANO(最後の晩餐)の壁画 は
もちろん撮影禁止。(本から撮影)
部屋の広さに呼応している遠近方、食堂の長さを1.5倍にしている。(実際はもっと薄暗い)
当初質素な食堂は、ブラマンテか? あるいはダ・ヴィンチが絵画との調和を考えてルネッサンス風に改築。
また、後世、戸口を付ける為にキリストの足が描かれていた部分が壊されている。
さらに ダ・ヴィンチは壁画を描く壁の裏を砂袋を入れた袋を並べて壁自体の保護補強をしている
。
そのおかげで1943年の爆撃で食堂の東の壁と天井が崩れ落ちたのにこの壁画のある壁は生き残った。
まさにミラクル![]()

教会の方の売店で買ったポスターから撮影
下はウィキメディァから
前は無かったのです。
近年の修復は1977年~1999年まで行われた。
この修復はできるだけダ・ヴィンチのオリジナルに戻す事 とされ
、従来の修復の概念に反した為に物議を醸したようですが
、 保存と美的観点から、この修復計画は成功
したようです。
何しろ18世紀に行われた修復では顔、表情、物腰、色までゆがめた上にダ・ヴィンチが陰影によって表現した時間軸や使徒達の属性をも塗りつぶしてしまっていたようです。
要するにダ・ヴインチの作品か? と言うほど変貌していたようだ。
ダ・ヴィンチはこの絵画を科学的考察により描いている。
多才なダ・ヴィンチはこの頃、力学や弾道学など物理学の研究もしている。
解剖学の勉強はデッサンに生かされ、建築学、幾何学と彼の興味は枚挙(まいきょ)にいとまがなかった
。
彼はただの芸術家では無かったので、この絵の中には彼の実験がたくさん閉じ込められている。それが近年の新しい修復により、500年前の姿が取り戻された
のである。
今、ダ・ヴインチが見る者に伝えたかった真実を見せてくれているのである。
限りなく、 オリジナルに戻すと言う修復方法は、絵画においては、今後の修復の基本になる事だろう。
下もウィキメディアから
色彩は飛び、壁もかなり剥落しかけているが、人物にダ・ヴィンチらしさが感じられる。

完成後から崩れ始めた壁画
しかし、実際オリジナルに戻す事はかなり難しい問題があった。
普通のフレスコ画で描かれていないこの作品の元の壁がどこまで残っているか?
上の加筆された壁を取り除いた時にどれだけオリジナルが残っているかは、やってみなければ解らない一つの賭けだったようだ。
上の写真はもちろんポスターを写しとったものであるが、壁や色の剥落がこの写真からも解ると思う。
おそらく、私達が今まで本などで見ていた修復前の色あざやかな作品とは別物になっている事だろう。
壁の土台は石膏2層の壁。それにテンペラ画で描かれている事が科学的解析で判明。(数カ所油性)
通常フレスコ画の場合、まだ湿った状態の漆喰層の上に絵の具を染みこませて色を付けるのが一般的。
だが、彼 は後から絵の具の上塗り(加筆)による効果を考えて 普通のフレスコ画の技法では描かず、
テンペラの絵の具を使用したようだ。
その実験的趣向のせい? あるいは湿気のせいか? 「最後の晩餐」は完成後から20年目には早くも傷み始めたと言う
。
さらに50年すると壁画はもっと悲惨な状況になり、修復の仕方で大論争も起きている。
1770年の修復ではユダ、ペテロ、ヨハネ、キリスト以外の使徒の元絵そのものを全て塗りつぶして書き換えられたと言う![]()
ナポレオンが発注した複製モザイク画

写真は、
ウイーンのミノリーテン教会(Minoriten Kirche)に置かれている「最後の晩餐」のモザイク画
である。
これは 本物の複製として造られたモザイク画
らしい。
制作年は1809年
。製作者はGiacomo Raffaelli。
依頼者はナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(
1769年~1821年)
このモザイクはナポレオンが皇帝時代に発注してパリに運ばれるはずだったものだそうだ。
完成時にナポレオンが皇帝ではなくなっていたので、フランツ1世が買い取りウイーンに運ばれ、どう言う経緯か解らないがここに飾られる事になった。
※ 確かにナポレオンは サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院に来ている。
さすがに壁画は持ち去れなかったが、教会の聖母像前から銀の燭台(しょくだい)を持ち去ている。
上のダ・ヴィンチの作品とは似て非なるもの。
非常に細かなモザイクでカメラでアップしてもモザイクには思えない。モザイクの腕はすばらしいが・・。
制作年から推察すると、この作品はひどい修復時代の作品がモデルになっている。
構図だけが最後の晩餐を示しているもののダ・ヴィンチの作品としては見る影もない
。![]()
もし、これが修復以前の最後の晩餐の姿であったのなら、やはり真実の姿に戻してくれてありがとう。
・・と、言いたいです。m(_ _)m アリガトォ~★
関連back number
リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)
リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)
リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)
リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)
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