PR
Keyword Search
Category
Freepage List
ウイーンにあるカールス教会(Karlskirche)がペスト撲滅を祈願して建立された教会・・と言う事は以前紹介した事がありますが、そこに祀られていた聖人ポロメーウスの正体が実はカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)だった・・と言う事が今回わかりました。
カルロ・ボロメオを調べている時にカールス教会の天井画の司教(聖人ポロメーウス)図が共に紹介されていたからです。奇しくも今回ミラノに行く前にウイーンでまさにカールス教会に行き上って教会クーポラに描かれた天井画を見て来たばかりだったので・・
(以前調べた時は聖人ポロメーウスは不明のままでした。)
ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
守護聖人の認定とは?
ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)追悼の為の墓碑
福者(Beatus)と証聖者(Confessor)
聖カルロの十字架の祭壇

生前から信徒に崇敬されていたカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)は彼の祝福を望む者達の所に自ら訪問(旅)したとされている。
例えばスイスの谷を訪問した時は奇跡を起こして人命救助。また悪霊から多くの者を解放。
そんな風に 生前から奇跡をもたらすと呼び声高かったそうで亡くなった後も彼の亡骸を訪問して奇跡の治癒の恩恵を受けた者が後を絶たなかったと言う。(奇跡の伝説)
現在に続くガラス張りの柩と遺骸の公開はそこにもあるのか?
祭壇真ん中(下の写真)の磔刑姿のキリストの木彫は カルロ・ボロメオ大司教が1576年のペストの時、地域を訪問する時に持ち運んでいたとされるキリスト像だと言われている
。
(残念ながらその伝説を立証する有力な資料は見つからなかったし、ドゥオーモの公式ガイドブックにも書いて無かった。)
守護聖人の認定とは?
聖カルロはペスト退治の聖人として、かつてはウィーンの守護聖人としても祀られていたようです。
現在のウイーンの守護聖人は別の聖人です。(守護聖人は事情により時々変わるようです。)
聖人認定は列聖省が行っていますが 地域の守護聖人認定も教皇庁への許可申請が必要
だそうです。
(今は1つの教会で1人の聖人が望ましいとされている。)
中世は地域単位でも聖人があふれるほどいたようです
。
地域信仰から聖人になった人、中には地域でかってに信仰されて聖人視されていた人や出自の不明な信仰もあったでしょう。また地域での呼び名が異なり複数に数えられていた聖人もいたかも・・。
それらを整理すべく? 17世紀、聖人をリスト整理してカテゴリーに分けた教皇がいました
。
それがウルバヌス8世(Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644)年らしいです。
彼は教書の中で 聖人の仕分けをしてランク付けし、ランクにより典礼の種別を行った と
言います。
目的は膨れあがった聖人の整理と典礼の削減
。(典礼が重なった時の優先順位など・・)
前回ふれましたが、多神教にならないよう、かってに地域で典礼ができないように制限をかけた・・と言う事もあったかもしれません。(その改革後に守護聖人が変わった街もあるようです。)
さらに 近年も聖人の見直し判定がされているようで、聖人リストからはずされた元聖人もい る ようです。(聖者か否か? の判定は時代と共に変わる?)
特に今年列福される パウロ6世(Paul VI)は自身の教皇在位中の教書で何人かの聖人をリストから外していると同時に、枢機卿団の人数や列福者の数は逆に増
やした
ようです。
また ヨハネ・パウロ2世も多くの列聖者、列福者を許可
。
その理由は今後の司祭達の励みになる・・と言う目的
が上げられています。
ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)追悼の為の墓碑

製作はレオーネ・レオーニ(Leone Leoni
)(1509年~1590年) 制作年は1560年~1563年
レオーネ・レオーニは当時欧州でで活躍した彫刻家です。
得意顧客はハプスブルク君主チャールズV、神聖ローマ皇帝とスペインのフェリペ2世とセレブ御用達の彫刻家です。
この霊廟はジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)(1498年~1555年)に献げられた・・とされているが・・。
実際は ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)とジョバンニ・アンジェロ・メディチ (Giovanni Angelo Medici)の2人の兄弟の墓碑である
。
おそらく 製作依頼者は弟のジョバンニ・アンジェロ・メディチ
(Giovanni Angelo Medici))(1499年~1565年)
実は 彼がミラノ出身の教皇ピウス4世(Pius IV)(在位:1559年~1565年)なのである
レオーネ・レオーニ(Leone Leoni)のこの霊廟はしばしミケランジェロの影響がある・・と言われているが、 ジョルジュ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)によればこれはまぎれもなくミケランジェロによって提供されたデザインに基づいて製作されているそうだ
。
そしてそれはレオーニにとっても革新的挑戦であったとされている。
福者シュスター枢機卿とマティーニ枢機卿の記念日
ミラノ大聖堂で特別典礼されていた祭壇が2基ありました。(1基しか撮影していなかった)

下はおそらくミラノ大聖堂の大司教であった カルロ・マリア・マルティーニ(Carlo Maria Martini's)枢機卿 (1927年 ~2012年)の柩

2012年8月31日にガッララーテで亡くなったそうで今年が マルティーニ枢機卿の2年目の記念
日。
もう1基の祭壇には福者シュスター枢機卿が同じようにガラスの柩で公開されていました。
アルフレド・イルデフォンソ・シュスター(Alfredo Ildefonso Schuster)枢機卿(1880年~1954年)
(ミラノ大司教 在位:1929年~1954年)
今年はシュスター枢機卿の死後の還暦記念日
だそうです。
(聖者は亡くなった日を以て天国に生まれ変わる・・と言う思想なので「死後」とは失礼な表現だが・・。)
シュスター枢機卿は1996年にヨハネ・パウロ2世により列福された
。
福者(Beatus)と証聖者(Confessor)
聖人には、殉教者と証聖者がいるそうです
現在殉教者と言うのはほぼ無いでしょうから列福する人のほとんどは証聖者(Confessor)となります。
殉教の場合は、説明無く簡単ですが、 現代の証聖者の証明はなかなか大変です
。
キリスト教徒としての信仰の正当性は当然、生き方でゆるぎない信仰を示した人。生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要です
。
不思議なのは奇跡の証明です
。現在もこれがあるのか解りませんが、 時代の科学で証明できない奇跡の認定がされないといけないそうです
。
また、 一般信者からの自発的礼拝
がなされているか? と言う事は 候補者の人徳の高さなどを見る上で重要な項目
のようです。
前出のシュスター枢機卿は亡くなって3年目に墓から掘り出されて新しい祭壇が造られ祀られたようです。おそらく、すでに列福の為の候補にあがっていたと考えられます。
しかも 遺骸は腐敗せずにきれいな姿で残っていたそうで、それも聖人である証明の一つになる
ようです。
聖人認定の話しが不完全であったので書き直ししています。
リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
マルコ・カレッリ(Marco Carelli)の石棺
1408年フィリピーノ・デリ・オルガニの造った石棺に彫像はヤコビーノ・ダ・トウラダーテ(Jacopino da Tradate)派の彫刻家により彫られている。
マルコ・カレッリ(Marco Carelli)は1390年の記念祭に莫大な金額を寄贈した大商人であり銀行家。
彼のおかげで大聖堂の建築は弾みがついたのでミラノ大聖堂の大貢献者と言う事で民間人ながら教会に墓がもうけられている
。
また大聖堂の最初の尖塔(1395年~1404年)も彼に献げられている。
ミラノ大聖堂おわり
back number
リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)
リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)
リンク ミラノ(Milano) 3 (ミラノ大聖堂 1)
リンク ミラノ(Milano) 4 (ミラノ大聖堂 2 屋上テラス)
リンク ミラノ(Milano) 5 (ミラノ大聖堂 3 外壁の装飾)
リンク ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)
リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)
ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾
リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 … 2024年03月03日
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí) 1 高… 2024年01月22日
ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日 2023年10月08日