わたしのこだわりブログ(仮)

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2015年07月16日
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星 ラストにルードビッヒ2世に関する リンク先を載せました。


スマイル)

ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)

聖ミヒャエル教会(St. Michael)(Michaelskirche)
ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)
ルードビッヒ2世(Ludwig II)の棺

ミュンヘンにある聖ミヒャエル(St. Michael)こと、ミヒャエル教会(Michaelskirche)は、ルードビッヒ2世の家系ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)の一つです。

聖ミヒャエル教会(St. Michael)(Michaelskirche)
pict-ミヒャエル教会 1.jpg


聖ミヒャエル教会(St. Michael)は、その名の通り大天使ミカエルに献げられた教会です。
しかし ミヒャエル教会創建(1583年礎石~1597年完成)の時代はすでにルターによりカトリックは否定され宗教論争になっていた時代 でした。(プロテスタントの台頭でカトリック教会はピンチ)

当時バイエルンを統治していたヴィッテルスバッハ家のヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)はカトリック信仰を守る為にイエズス会と協力しカトリック教会の存続をかけてこの教会やカトリック大学を創設。
なぜイエズス会かと言えば、ヴィルヘルム5世自身が幼少期よりイエズス会の教育を受けてきた事による。
(おかげでバイエルンは宗教改革に対抗する旗手となった。)

pict-ミヒャエル教会 2.jpg
この教会は当時のイエズス会のローマの母堂(ジェズ教会)を元に造られた教会です。

ジェズ教会のファサードは「世界初の真のバロック様式のファサード」と呼ばれいるように内部も礼拝堂と本堂はアーチでつながれたドーム式のバロックの構造です。(
バシリカは無い)
世界中のイエズス会系の教会はジェズ教会をモデルに建造されているのでミヒャエル教会 も同様。
内部はドーム式でバロックです
。エントランスの形のみルネッサンス風ではありますが、イタリアから来たバロックをドイツ風に造った・・と言う所でしょうスマイル

pict-ミヒャエル教会 3.jpg
内部は新しくされているもののバロックの要素は沢山残されていて清潔で美しい教会です。
特に目をとめたのが入り口にある大天使ミカエルをあしらった聖水盤です。
pict-ミヒャエル教会 5.jpg
何だかありがたい感じのする聖水盤です ぽっ
pict-ミヒャエル教会 13.jpg

pict-ミヒャエル教会 4.jpg

pict-ミヒャエル教会 6.jpg

主祭壇
pict-ミヒャエル教会 7.jpg
この 主祭壇の真下にヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)があります。
入場料2ユーロ。

ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)
pict-ミヒャエル教会 9.jpg
740年の歴史のあるヴィッテルスバッハ家の墓所は他にもたくさんある。ここに埋葬されているのは36人程。
ルードビッヒ2世の棺の他、創設者となる ヴィルヘルム5世を含め、その子マクシミリアン1世(Maximilian I)などバイエルン国時代の家族墓所だ。 (ここに葬られなかった王もいる。)
pict-ミヒャエル教会 10.jpg
ヴィッテルスバッハ家、最初のバイエルン公はオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に遡るようだ。
その子孫はバイエルンを拠点に神聖ローマ帝国の中で有力家系として発展。
最初はローマ皇帝を選ぶ選挙権を持つ選帝侯であったが、ナポレオンが神聖ローマ帝国を解体するとナポレオンと契約を結び、バイエルンの領地は2倍になり王国に昇格するのである

バイエルン王国となるのは1806年から1918年まで。マクシミリアン1世に始まりルートヴィヒ3世で終わるまで7人の王が君臨。ルードビッヒ2世は4人目の王であった。
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ルードビッヒ2世(Ludwig II)の棺
pict-ミヒャエル教会 12.jpg

ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)
第4代バイエルン国王(在位1864年~1886年)
芸術を愛好する血統故か? ホーエンシュヴァンガウ城で育った彼はロマン主義に心酔していく。
特に16歳で観たワーグナーのオペラ「ローエングリーン」の世界観を現実に造り上げる事に情熱を献げたのである。

1864年3月、18歳で王位に就くと夢の城の建設に取りかかる。リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城、ノイシュヴァンシュタイン城。それだけでは無い。調度、絵画など装飾品のみならず、馬車やソリに至るま でこだわっている
その莫大な費用が国庫を揺るがしたのである。
pict-ミヒャエル教会 15.jpg
豪華な馬車を考えると何て質素過ぎる棺なのだろう号泣

側近も政府も敵に?  事件が起こったのである。
1886年6月12日、ルートヴィヒ2世は逮捕され廃位させられた 後、夏の離宮として使用されていたベルグ城(Schloss Berg)に送られ軟禁。
翌13日、フォン・グッデン医師と夕刻散歩に出かけ行方不明。
13日23時55分。二人を湖で発見の一報。(両者弱いながらもまだ息はあったはずなのだが・・。)
6月15日付け新聞ではシュタルンベルク湖(Starnberger See)で二人は水死と発表された。

遺骸はミュンヘンのレジデンスに運ばれ病理解剖と防腐処理がされているが検死結果は不明。

1886年 6月19日ミュンヘンで葬列後に聖ミヒャエル教会の地下墓所に安置 された。
しかし、心臓だけは1886年8月16日、アルトエッティング(Altötting)のホーリーチャペル(Heilige Kapelle)(Gnadenkapelle)に移されたそうです。

pict-ミヒャエル教会 14 .jpg

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見る美貌の王が創作した ノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーのシンデレラ城のモデルになった。とも言われる女性のあこがれの城。王の悲劇と相まって超人気の観光スポットとなっている

それにしても死の真相は未だ不明。
彼は本当に狂っていたのか? 単にオタクだっただけなのか?

関連リンク先
リンク ​ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)
リンク ​ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬
リンク ​ ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザー

リンク ​ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)
リンク ​ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)
リンク ​ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)
リンク ​ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)
リンク ​ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)







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Last updated  2022年11月10日 17時21分36秒
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