2019.09.15
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カテゴリ: 表沙汰
行き着く先が皆同じであることを知ってか知らずか人生を意義あるものにしようとして、サイコパスになる人たちばかりの社会では、「自分以外存在しない説」が心にとても甘く響くものである。

「我思うゆえに我あり」つまりCogito(私は考える) ergo(したがって) sum(私は存在する)「私は考えている=私は存在する」「考えることができる範囲=存在・実在の範囲」私が私と名付けるものは、つねに私の思考が及ぶものなのだ。裏を返せば、自分の考えの外にあるものは、他者とは、私の妄想か、あるいは私が「存在している」と思い込んでいるだけの存在で、そんなもの何も存在していないかもしれない。

 そんな風に「私以外、いないのかもしれない」(たしか、矢井田瞳の曲の歌詞)と仮説をたて、自分の心を慰めているのは他ならない、他者の意見に嫌悪感を持つからだ。

 私は他者から「世界」に関するなんらかの情報と、同時に「世界」に対する意見と意思を聞く。その積み重ねで、私は「世界」を認識する。他者からの意見と意思で、私の「世界」への姿勢も決まる。他者からの情報をもとに、世界がどのようにできているかを想像し、それが私の「世界」に対する認識となる。

 他者からの情報に合致する情報を別の他者からも得るかもしれないし、得ないかもしれない。やがて、その他者からの意見で私が想像した世界のありかたが、私の気にくわなくなる。それは、私が私の想像した世界の物理法則から脱却することを意思する力となる。

 結局は、私の思考を化学変化で変容させるために、情報は投げかけられているだけなのだろう。これをもっとわかりやすい言葉で言えたらいいなと思う。ということは、私は誰かに伝えたいのだろうか?私はまだ何かに期待しているのだろうか?
 私は、私が生き延びることに、期待しているようだ。哲学や宗教は、この世の享楽にありついている人に対するルサンチマンなのだろうか?





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最終更新日  2019.09.15 23:35:37
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