全2854件 (2854件中 1-50件目)
一応、移転します。https://arroyo.theblog.me/でも場合によってはこちらも使い分けるかもしれません。
2020.08.24
コメント(0)
安楽死のことを英語でユータナジーと言うが、ギリシャ語euthanasiaの英語訛りなわけなので、エウ(良い)+タナトス(死)で「良い死に方」の意味になる。 自分の場合、自殺衝動は小4あたりが最初だったと思う。それから、中学の頃に学校の図書館にブラックジャックの文庫本全巻があって、それを全部読んだ。そのときにドクター・キリコという安楽死を進める医者のキャラクターによって、それまでなんとなく聞いたことがあった程度だったかもしれない安楽死についてしっかりと理解したかもしれない。 自殺は安楽死であるか?唯物論的に考えればそれは将来病気やら仕事やらで苦しむよりずっとましで、それを言ったら更には生まれない産まないが一番になる。だから唯物論的には自殺は、手段によるが安楽死になる。 そして勿論、唯物論、現代常識が正しいという絶対的証明はこの世に一切存在しない「なんとなくそれで世界がまわっている」のだ。もしいまある物理法則が今限定のものであったなら、物理法則が全く変わってしまった後世から「あの時代は唯物論なんて信じていてバカだなあ」なんて揶揄されるようなものだ。それを私たちの世代が前の世代に対してやっているのと同じで。 スイスに外国人の安楽死の施設があるというので、去年くらいにNHKでそれに関する番組やってたんですが、自分の場合は大学入る前くらいの年齢でネットでそれを知っただろうか。それでスイスは公用語いっぱいあってよくわからないがとりあえずドイツ語っぽいのでドイツ語を勉強したいと思ってドイツ語を勉強しだしてそれを教える仕事すらやった。 ここ最近は「アタリマエの繰り返し」にちょっときりがついてきたのか、世界が変わってきているので、死んでしまうにはもったいないくらいだろう。「世の中がひっくり返ってくれればなあ、でもそんなわけないよな」と言って皆自殺していくのなら、今はそうやって世の中のひっくり返しがあり得る時代なのだから。
2020.06.21
コメント(0)
サイレンが痛いと言うが最近割とまじで一部の機械音、騒音が痛い。シナステジアというべきか、ちょっとした聴覚過敏です。アヴァローキテーシュヴァーラ(観音=音を見れる人)って言葉共感覚とか聴覚過敏HSPとかそういうことなんかなって思ったり。アジカンのpv公式あがってるけどサイレンがないのは何で?自分にとってはなかなかの思い出の曲なのですが。
2020.06.20
コメント(0)
私たちが原子や分子の塊であるなら、量子の世界の色々な存在たちが原子や分子をつくっている。そして量子の世界はまるでネットの世界の存在のように「私は思考している、故に私は存在する」ないしは「私は観測している、故に私(と他者は)存在する」が物理法則なのだ。 原子や分子の集合体である私たちはさらにいえば量子の世界の存在たちの集合体でもある。私たちの体細胞ひとつひとつに量子の世界の物理法則が最も深いところで適応され、そこからはあまりにマクロな視点である私たちの視点からは世界はもっと「重いもの」に見えるかもしれないが、量子の世界の物理法則はまるでバタフライエフェクトみたいによりマクロにまで影響し存在しているはずなのだ。 私たちが観測したり、思考したり、想像したりできる時点で、私たちの肉体レベルの重い「物理法則」ではなく、量子の世界の物理法則を使用しているような気がしてならない。原子や分子の化学反応が人間の「認知・知覚作用」なのではなくて、というよりそれを含む形になるかもしれないが、その根本である量子の物理法則を適応する、量子の世界の動きを用いることこそが私たちの観測・思考・想像といった能力である気がする。 量子の世界では空間・時間などの制約がない。それは私たちの観測・思考・想像のあり方と似ている。「想像が現実化する」のには確かに量子から私たちのマクロ世界にまでバタフライエフェクトが浸透するという時間がかかるかもしれない。 人は皆ホモ・サピエンスだというが、人によって「サピエンス度」みたいなのが違うようにも感じる。勉強ができるとか、偏差値が高いということが「サピエンス」ではない。この観測・思考・想像といった量子の世界の能力を用いる力がサピエンスのような気がする。もちろん、認識力・思考力・想像力の向上のためには知識という経験が必要かもしれない。ただなぜこんなことに気づかないのか、なぜこんなに思考が固定しているのか、と思うような相手がたまにいるから。 ただここでの「サピエンス」の意味では、動物の直感だってサピエンス的ではある。だが本来はホモサピエンスなんて自分を主張するってこと自体、それが動物を人間と区別したいがために存在している言葉だってことになる。 そして人間が他の動物と区別したい時におそらく「違い」となるとしたら人々が昔から「理性」とか呼んできたものが違いということになる。 ただサピエンスが「気づく」すなわちサンスクリットのBudhのような意味だとしたら、「自分を認識する」ことだってサピエンスだが「自分と相手が一体化する」ことだってサピエンスになる。いわゆる「さとり」の領域、または思考状態にあるということは、少なくとも常識にとらわれていたり、共感力や繊細さが弱いということをささないからだ。
2020.05.10
コメント(0)
なぜかおすすめにでてきた。イタリアの地方の風景は大好きだがコロナや地震が危ないやらお金がかかる以前に飛行機に13時間も乗れない。ディズニーシーで満足してました。自分が中学校の頃占星術みてもらって、イタリアには行かない方がいいと言われたのを思い出す。
2020.05.07
コメント(0)
東京から名古屋に転勤して感じたこと 東京より名古屋のほうが圧倒的に良く感じるのは地元が近いからだろうか。例のごとく、名古屋に一度住んでみたら全くそんな風に思わなくなるかもしれないけど。 10代の頃、名古屋の塾に通学していたときは、塾の居心地が良くて、電車に乗ったりタワーズ行ったりするのがちょっと楽しかったせいか、名古屋に対してネガティブイメージがほとんどなかった。 なんというか明るい土地と暗い土地みたいなのがあって、同じような田園風景でも、街の通りをひとつすぎると明るさが失われたりもする。結構名古屋は明るく感じるけど…思い出補正だろうか。 コロナがなかったら、今年もっとあの素敵な場所にある名古屋の会社と関わっていたかもしれないなと思いつつ、外出自粛なので自分の能力とか今まで勉強してきたこととか全く関係ない近所の単純作業アルバイトをやっている。あと今まで勉強が好きだっただけの人間にとって農作業は筋肉痛が2日続く。 色々予定が狂った感はあるけど、何かとてつもなく各種タイミングが精密で、なんとも言えない。ピタゴラスイッチのように精密に全てが「狂っている」。 収束してほしい感と収束してほしくない感がある。収束することで始められることもあるし、収束することで始まってしまうこともある。 何よりも全てが変わってほしい、変わりたいという欲求に呼応する世界的現象でもある。この出来事の最悪のパターンは、被害数とかではなく、これを通して世界が何も変わらないことだ。深く考える必要なんて、全くないけれど、物理法則はもう今までと同じ反応はどうせしない。 自分においては、2020年以前にもそれが起きてもおかしくなった、いやむしろそれが普通だったはずの「別に今年じゃなくてもよかったはずのこと」が同じタイミングにいっぱい来て、そのせいでいくらかの進んだらヤバかった道を回避できている感もある。まあ、コロナ関係なくそれらはすべて極めて恐ろしい出来事なのには変わりないのだが。 胃が痛い。PTSDが、その出来事やってくる「直前に」病理的反応をする。予知能力?時間と空間にとらわれない「量子」で原子や分子ができてて、その原子や分子で人間ができてるのだから、人間は体に時間や空間にとらわれない物質をもっているのだから、予知的な行動があってもおかしくはない。 まだあまり占星術を知らないころ、自分が占星術師の人に見てもらったとき、恒星で自分のスピカの配置のことを言われた。天文学的には乙女座の星だが、占星術的には天秤座の星だ。これがなかなかの吉星らしい。 リロケーションで自分はドイツが、スピカのASCになるから良いと言われた。スピカと誤差のないトラインを持つカイロンがMCに来る。カイロンの仕事なんて最高じゃないか。自分にとっては。メンヘラを理解するには、自らもメンヘラにならねばならぬという運命法則があるらしい。
2020.05.05
コメント(0)
赤緯占星術とやら、あんまりまだ情報がない占星術技術ですね。赤緯のほうで自分のホロスコープで出してみました。 Star Navigator「天体の位置」で赤緯と書いてある数字です。もはやそこには星座もハウスもないようです。 自分は天王星の数字が高くてオーバードライブ状態でした。オーバードライブって名前じゃないな、アウトオブバウンズとかそういう名前のやつ。でもイメージ的にはオーバードライブです。天王星が一歩前にでている星だそうです。なんでもっと天王星を大事にします。 通常ホロスコープでも自分の中では比較的吉相が多い星なので天王星は好きです。なので多少エキセントリックで変なことを言っているような人はむしろ好意を感じます。普通のこと言ってる人は苦手です。でも「凶星」です。 封神演義のマンガの楊戩のセリフみたいだな。「僕はこれからもずっと崑崙の味方です…でも…妖怪です…」みたいなセリフがあった。封神演義なんかまじ天王星ウケするマンガでしょ。 赤緯占星術サビアンで言われている良い度数(0度)を持っていたのは冥王星。 あとは普通のアスペクト表では見れなかったパラレルというアスペクトがでてくる。自分は太陽=水星=土星=海王星でパラレルでした。コンジャンクションと同じような意味らしいですが、個人的には何かもっと強い運命的つながりを感じます。相性で言えば、金星=月のパラレル同士の相性図がいいみたいですね。 赤緯占星術で見ると、強調されているのが天王星、冥王星、パラレルの中に巻き込んでいる土星と海王星。自分はトランスサタニアンばっかりだな。そのなかでも土星、天王星、海王星、ぜんぶ12室に入っていて、オーバーロード。冥王星は、10室にあり、蠍座が10室全部を覆っています。怪しい星が、怪しい力を意味して、私の天職を覆っています。 普通に生きられるわけがない。普通を受け入れようとするといつも痛い目にあいます。 小惑星入れたら、もっと(12室の)家族がふえるよ!やったねたえちゃん。世捨て人度、宇宙人度が増すがな。生きづらいぜい。 それにしても、赤緯のサビアンシンボルも書かれているという、赤緯占星術の本読みてえな〜。kindle unlimited入るか…!?最初のイントロでもう気に入っちゃいます。普段はたぶんもうちょっと音圧ある曲きくけど…。いつも思うけど、このバンドのギターの音がとても好きだ。曲をつくっている人と自分で、ジョジョ風に言えば『波長が合う』ということかもしれない……。 シュタイナーは440Hzはダメで432Hzが良いと言っていた。実際にyoutubeとかにあがっている440Hz vs 432Hzみたいな動画できいてみると432のほうが、聞きなれないので最初違和感あって音が外れてていて間抜け感ますが、そのおかげか体が疲れないというか、緊張感がなく落ち着くかもとは思います。 ドイツのロックバンドのjuliのAm besten Seinという曲のサビの歌詞を思い出します。「Wir wollen nichts am besten sein, wir wollen unsere Herzen nicht verliern (私たちはベストでありたくない、心を失いたくないから)」。 440という数字は確かに432よりずっと完璧な数字かもしれません。音できいてもそういう印象を受けます。でも432のほうがエンジェルナンバーでは威力高そうな数列ですね。 普段自分がよくきくタイプの音楽、「いい感じの不協和音」って感じのメタルとかトランスコアなんかだと、ねるねるねるねはねればねるほどって感じで音が大量に混ざってるから、もはや何Hzでできているのか想像もつかん。でも不協和音がうまく使ってある曲好きなのは、440より432に近いものに対する思いいれかもしれない。 何にしても音楽きいてないよりはきいているほうがずっと落ち着く。ipodがあったおかげで、私は家から出て街で歩くことができるようになった。どの周波数であれ、自分にとって音楽が最高の除霊だと思っています。
2020.04.12
コメント(0)
中学の頃に、乗っていた車が交通事故にあって大破し、自分だけ怪我をして救急車で病院に運ばれたけど、あれから4、5年くらい「コミュ障」におちいったことがあります。命の危険を体験すると生物は危険を避けるために「慎重」になるます。トラウマ的な出来事を通して色々なものを信用できなくなるってのは、生物学的にはアタリマエのこと。 最近も車に関する出来事を経験したためか、その感覚が結構あります。中学の頃のコミュ障も、今回の出来事によって再発してはじめて今思えばあれはPTSDだんだなあとわかった始末。仕事とかでは、まともに会話できないひとになってきています。そのせいか、めっちゃ霊障がありそうな仕事場で単純作業にまわされてしまった。部屋の床に大量のシミ、外よりずっと寒い廃墟の倉庫。たった数時間のアルバイトで凄い鬱を得てきています。クッソ疲れます。 でも占星術の仕事の際は、なんでも話せます。言葉が溢れてきます。そして仕事終わりにはとてつもない幸福感を感じます。そういう話題でしか輝けなくなってきた。人生にとって大事なことと、大事でないことの違い。 とはいえ、小学校の頃はよくCDでこれ聞いてました。音楽きいてないと乗り物なんでもよってしまうんで。幼稚園の頃はバスで酔ってばかりで悲惨だったなー。
2020.04.12
コメント(0)
本日、宇宙元旦とやら。最近、行き詰まりすぎて、自分でもびっくりです。今の自分の星配置をみて、他の占星術師さんたちはなんて答えるっていうのだろう。セカンドオピニオンみたいだけど、正直聞いてみたいところ。そう思って、人を占っている自分が、youtubeで占いばかり見ている。 ぶっちゃけ、自分に特別な配置が何もないんです。占星術やりだして、そういう時期に入るのが、はじめてです。そういうときだからか、いまんとこ、15歳以来の人生最強のやばいときです。前は純粋に逃げただけだったが、今はなんか打つ手なし感が凄い。 沼の中に沈んでいる手を、助けてくれる手を待つしかできない。現実的な自分の思考回路では解決方法がみつからないので、超自然的助けを待つしかない…。 私のなかはそうでも、実際の今のエフェメリス、実際の宇宙の天体は逆に今、イベントだらけです。確かに冥王星と土星と木星が重なる頃にコロナがはじまって、いままた、似たように大きなことがおこりうる配置ではございます。 吉相がしばらくない時…でも、今まで凶相の日にいいことが起きたりして、実は吉凶ってなんなのかわからないときもあった。 ヘビロテかもしれない。音圧がある曲ではないけど、変調が多い曲がよく好きになる。 ロマサガのソシャゲ、白薔薇・メサルティム・零姫ガチャまわして、SS零姫だけでて、底がつきました。バレンタインじゃなくても白バラおりゅしたかったです。 ビューネイガチャで45000ジェム使っちゃったんで…マドレーンがでなくて天井でようやくマドレーンメダル交換したんだけど…その価値があったかどうか。ちなみに、天井でマドレーン交換までに、SSビューネイ10回以上でました。ビューネイに祝福されすぎ。どういうこっちゃ。復刻でアセルスもでたので、幻影持ち二人。確かに異次元に強いです。 アセルス・ビューネイ・白バラ、やっぱ異次元なんですね。 ビューネイ戦の音楽といえば、子供の頃一番好きなゲーム音楽だったかもしれない。四魔貴族戦。もちろんソシャゲではなく、スーファミのほうの。同じ時期で言えば、ff7の音楽なんかも。
2020.03.20
コメント(0)
腸が超死んでます。2年前にもやばくなって病院行った、そんときと同じくらい。最早打つ手なしか。普通の人で言えば、インドに旅行した感じ?ストレスの根元を止めないと、治らないとしたら…。 スピ系の本とかをよく読んでいるので、悪い気・感情を感じたらそれは低い周波数だから「外す」「周波数をあげる」という感情訓練をしないといけないのはわかります。今日も夢から現実に戻る時「いやだ!戻りたくない」と思って心臓も痛いしお腹も痛いし。寒いのもあって、全然布団から出られません。 低い周波数、恐怖という感情、その心臓のどきどき、ノルアドレナリンの過剰、ヤギの集団でひとりだけ痙攣を起こして肉食動物の犠牲になってもらうスケープゴート、それを外そうと思ってがんばった。でも無理だった!デカすぎる。 よく夢とかで「雑夢」「メッセージ性のある夢」にわけられるというのを見たことがある。記憶整理のための意味のない夢と、より高次の存在からのメッセージとしての夢という違いです。雑夢はメモでもとらないとすぐ忘れるし、メッセージ性のある夢は起きてもずっと覚えている。 今日の夢は今でもまだはっきりと覚えている。夢のメッセージ性を解釈するといいことがあることにはなれる…でも今はそんなことより深刻な問題が。 ところで、ベテルギウスの超新星爆発のガンマレイはいつ届くのでしょうか。現状をなんとかしたいです。明かし語ろう…新しい思索、超次元を!さらば人類!お疲れさま! とんでもなく懐かしいPVでござった。ここロケ地どこだろうと思って調べたらすぐでてきました。東京のどこだろうと思って調べたらニューヨークだったみたい。全然異国感がないから驚き。 でも確かに、ニューヨークに行ったとき自分、こんなに苦労して遠くまで高い金払って来て、東京と風景かわらんやん!東京より若干不便で汚いだけやん!って感想しかなかった。 でもこのPVも子供の頃の自分に、東京住んでみたいって気持ちにさせて東京の大学受けさせた要因ですね。他にもいくつかある。アジカンのPVなんかは完全に自分の東京のイメージだったな。 東京にいられなかったのは、トイレが少なかったからに他なりません。スマホいじっててトイレの個室が開かないなら、スマホの普及のせいだとも言える。なんかスマホの時代なるまで、東京のトイレ不足あんまり感じたことなかった気がするんだけど。 両親が一緒に住んでた頃は、そもそも自分も東京に住んでいました。だから若干懐かしさもあった。それもこれも。別に、東京が悪い、というか、でもダメなんだ。トイレがないのが悪いんだ。 ヒトカラでは一番歌ってる曲だけど人といくカラオケでは歌えない曲。でもこんな曲歌ったりしても自分は別に誰かこの曲の歌詞みたいな嫌いな人がいるわけじゃありません。ただradでは実は曲調だけで言えば一番好きなレベルの曲。Xと○と罪とが個人的には一番好きなアルバムだわ。どんな人と一緒にカラオケ行ったらこの曲熱唱できるっていうんだ。
2020.02.22
コメント(0)
自分は一応、小学校くらいから今のところ治ってない病気を持っていて、またその病気を治す方法は解明されていない。といっても、別にそれのせいで死にはしないのだが、生活にはとんでもなく支障がでていて、それにそった生き方には完全になってしまっている。 仕事選択にはとんでもなく影響を受けているだろう。もちろんこの病気のための社会的配慮なんてない。そのために「この病気と共存できる環境」の範囲しか選べない。仕事の幅はもちろん狭まる。普通のひとがどうでもいいことの一部が、こちらにとっては死ぬほどつらいことになるのだから。 そのような社会的配慮において中途半端の病気で想うのはやはり将来的なことである。占星術では近未来しかそうそう見てなかったので、確かに遠未来を見た経験があまりない。ハーフサムを使ったとき、この辺で死ぬのかな、病気になるのかな、とかって遠未来を見たりしたことはある。でもいつも使っているトランジットやプログレス表を何十年先まで見るのは大変だ。 親の介護、自分の介護、そういうものは問題になる。そのためには、まず金が必要。そして読めない寿命。占星術で寿命を割り出すことはできる…しかし占い以前の問題、ある問いが頭をよぎる。「本当に、それで正しいのか?」それはどんな事柄にも現れることができる、最強の呪文なのである。 早死にとかしない限り親の介護みたいなのは将来問題になってくるだろう。そのとき、どのような環境に住んでいるのか。自分の両親は離婚している。老老介護にはならないかもしれない。そして自分はひとりっこ。別に、兄弟がいたらなあとか思ったことはない。あと20年ちょいくらいか。その頃までに、自動運転とか、ちゃんと実装されてればいいのだが…。 そして自分の介護もある。一応そちらは50年以上先の話。老人ホームが足りなくなると、よく言う。個人的には、命が増えすぎているので、命の価値を少しくらい下げてもいいのでは、といっても、暴力的に扱えという意味ではない。死よりも苦しみのほうが忌むべきものと考えるべきでは、というくらいである。安楽死とかそういうものが。「未来への恐怖のために動くのは愚か」だとスピリチュアルではよく言う。が、どうもそんな未来への恐怖のために今動いているかもしれない。ただ、「現代人が思い描く未来は、実際やってこない」とどこかで信じている。90年代に、今の時代が予想できてた感じはしなかったから。 とはいえ、強大なパラダイムシフトへの期待をする感じは、キリストの再来と最後の審判を待ち続ける人々みたいでもある。すなわち「悟空ーっ!!!はやくきてくれーっ!!!」ってやつ。
2020.02.20
コメント(0)
youtubeのおすすめにでてきて、いい曲だな、と思うと、だいたい凛として時雨TKが関わってる。あなたへのおすすめにバレている。 そのように音楽やエンターテイメントで相変わらず感動できますが、最近はとある出来事によって、毎日吐き気と食欲不振、寝る前に二度と目覚めませんようにと祈る日々です。今来ている状況は、一生に一度レベルでしょう。仕事が変わったけど、その影響ではありません。そう、車校です。 運転や車、マシーンの操縦みたいなのに全く興味が持てず、ロボットアニメだのゾイドだの、子供の頃とかも周りのそういう話に全くついていけず、電車・バスですら乗るのも嫌。大学や大学院の言語学の勉強は楽勝にこなせてとても楽しめるのに、何だかわけのわからない車校の学科の授業は本当に苦痛も苦痛です。 自分が生まれた日に家族が交通事故をしたし、自分もまた中学の時、交通事故で大怪我をして服が血まみれになり、まあ一週間くらい学校休んだくらいで済んだけど、当たりどころが悪ければ、その時死んでいたのだろうか。むしろ今、自分が痛みなく死ねるなら、すぐに死を選ぶかもしれないが。 そしてそれ以上に過敏性胃腸症候群です。自動車事故のトラウマには病名はないが、こちらには医者でもらったありがたい病名がありますし、自分の名前よりもそのありがたい病名で呼ばれるほうが早いかもしれません。 実際これは、交通事故前後からもともと弱かったお腹がより一層色々おかしくなったかもしれません。この病気が原因で数年後引きこもり・不登校・中退になるのもやむなしという感じです。 ホロスコープを見ても、私は3分の1の星は死者と霊の世界にいます。3分の1が現実的人間ではないです。そんなトラウマをたくさん持つ身です。誰でもいいから、まわりの誰かそれを配慮してくれてればなあ。 実際、免許をとったところで乗る気はゼロです。ようやく離婚できたDV男くらいにしか考えないでしょう。そのようなものと復縁するために、なぜこんなに苦労を?自分のため、という意味はまったくありません。新しい仕事も、車も電車もバスも乗らないで済むからこそいままでの仕事捨てて選んだ仕事です。 車がいるとしたら理由は、親が将来体悪くなって、病院に必要だろうか、とか、もうそれ以外なにもないです。自動運転が普及すれば、私は苦労しないですみます。でも、それがなかったら?とただの将来への恐怖です。実は、直感では自動運転が普及し、苦しみが無駄になると感じています。 人生最大の恐怖だとは思っていたけど、実際車校入ってみるまで、こんなに自分にとってそれを超えるやばさにあるとは思わなかったから。(まあ、途中退学すれば残り科目数に応じて返金されますけどね…) ただ自分の星回りとして、今の悪い星の息が長くないのが不思議すぎる。現実的状況としては、車高はまだ4分の1くらいしか住んでいない。時期が悪く、1週間に1回実技あるくらい。それがあと30回ほど。今のノリで、30週くらいか。今の星は2月末にはもう終わるけど、現実の予想される感じとかみあってない…のが救いといっていいのか。「結婚したくない、子ども産みたくない、恋人いらない、自分が稼いだお金で好きなことして早めに死にたい」と思ってる若い女性が急増中の模様 男だけど、これはわかるなー。結婚まではいいと思ってるけど。こういう嫌な状況に遭遇すると、より一層思います。免許持ってない人いやだ、とかって結婚に自動車免許が必要とかだと、もう結婚自体いらなくなります。 自分の死ぬ時がわかっていれば、そこまで計画を立ててうまく生きることはできるでしょう。ネットに自分の死期をみるフリーサイトとかいっぱいあります。占星術にも、そのように言われるものはあります。医学・心理学的根拠から体の健康不健康を測定するそういう系だとまあ合理的な答えしかでてこないので、割と自分が健康的な習慣を持っているせいもあり、それでは満足する結果がもらえません。なのでよりオカルト的なものに答えを求めたくなります。 占星術では、死期というより死因はぱっとみで出ますのでをきかれたりしたとき話しますが、自分の場合、心臓、宿命的愛、運命の意味(獅子座 - リリス - バーテックス)がでて、まあ心臓なら長く苦しまなそうだからいいほうか、と思ったりします。ハーフサム含め、数字で出せるものもあるだろうけど、日本語で得られる情報の限りではいまいちぱっとしないです。英語で、インド占星術のことをちゃんとみていったら、ちょっとひっかかったのでありそうだけど。 ネット他の適当な計算やタロットみたいなのだと、あなたの死ぬ時みたいなのをランダムで出すやつだと、あなたが死ぬのは、2018年です!とか言われて、もう死んでんじゃん!シックスセンスみたいに、実は私生きてると思ってたら成仏できないで死んでました!だったら最高なのに!!!って思ったり。 4年後です!と言われて、ああー、そんくらいなら色々計画できるよなーって思ったり。80歳まで生きます!とか言われるとそれはそれで萎えます。今の気分だと萎えますが、幸せな気分の時は80じゃ短い!とか思うくらいかもしれません。 ただ「好きなことをして早めに死にたい」の「好きなこと」が意外とないのも生きていく上で問題です。田舎は都会に憧れ、都会は田舎に憧れる。でもその両方を知っている人は、何に憧れることもない。どっちもどっちだとわかっているからです。ブリーチでいうところの「憧れは理解から最も遠い感情だよ」というセリフ、理解するってのはつまらなくなります。哲学に憧れて、それを探求しても、その最先端まで言ってしまうと、哲学は魔力を失うんですね。占星術はでも、理解しても憧れてても割と好きです。 まだ体験していないことはいっぱいあるけど、ハイヤーセルフがなんと言おうと、苦しみは体験する価値があるとは思っていません。
2020.02.19
コメント(0)
生まれてしまった理由がなんであれ、そこから細胞が増え続け、物心ついたころにはもう体が大きすぎて取り返しがつかない。細胞だけでない。運命的要素ももう増えすぎて、取り返しがつかない。私の中に住んでいる住民が多すぎて、住民たちの意見も多種多様、もう引き退いてもらうこともできない。 悪魔的なプログラムは、そのような取り返しがつかない詐欺を、より広めようとする。「遺伝子を残したい本能」そのたったひとつのプログラムによって、詐欺はどんどん広がっていく。 取り返しのつかないことが、どんどん感染拡大していって、増えていく。「遺伝子を残したい」という本能から生まれた別の個体もまた、「遺伝子を残したい」という本能から別の個体をつくる。 ひとつの詐欺からはじまり、取り返しのつかないものが、ただ増えていくばかり。人間のなかには、常に「遺伝子を残したい本能」の時限爆弾がある。特定の年齢を見計らって、本能が強い力で個体を増やす欲求を爆発させる。子供の頃には、全くなかった欲求を。たったそれだけの悪魔的なプログラムだ。 そうして取り返しのつかないものが、増えていくばかり。 新しい年になって、新しい周期に入るどころか、先祖帰りだろうか。葬式はお祝い事である。私たちのウイルスが、ひとつ減ったのだから。だが逆に、結婚式やら出産祝いは、悲しむべきことである。私たちのウイルスが、ひとつ増えたのだから。 物質は、観測という運動をおこしてはじめて物理学でいうところの「運動」がはじまる。プリママテリアとは、観測それ自体である。 それは超弦理論の開閉の違いかもしれない。まさに0と1そのものである。0を1にするのが観測という運動である。超弦理論は、どのような立派なグラフィックのゲームでも、つきつめれば2進数の数列に還元できる、ということと同じかもしれない。世界だってそれと変わらない。 私たちの観測が、私たちの世界をつくる。世界をみるメガネが曇っていたら、世界それ自体が曇っている状態にある。シュレーディンガーの箱の中身を猫の死体と思えば死体がでてくるし、生きた猫だと思えば生きた猫がでてくる。 そのような基本的世界設定の上に、上述の悪魔的なプログラムが存在する。本当は、なんでもできる世界を、「遺伝子を残したい本能」が抑制している。時限爆弾が爆発すると、本来融通無碍の世界に亀裂が生じ、色眼鏡が強制される。世界のベースが融通無碍なのだから、世界の根源は愛である。しかし本当の愛を妨げるものそれこそ、「遺伝子を残したい本能」であり、私たちが愛だと思っているものに他ならない。 そして私たちが宇宙に向かって、泣きながら必死で助けあるいは許しを求めるのは、この「遺伝子を残したい本能」をなんとかしてくれと、そういうことが全てなのである。それは別に生殖欲求ということだけではない、自分の命への執着が苦しみなのだから、その苦しみから解放してほしいということでもある。
2020.02.09
コメント(0)
自分の場合、この曲で初めてヨルシカというバンドを知ったパターン。凛として時雨をはじめてしったのがそもそも15年以上前、まだyoutubeも何もない時代、名古屋のタワレコまでいかないと売ってなかった。 自分には通学定期券があったら、名古屋にちょくちょく、塾サボりながら通うことができたのだ。 人格形成に大きくそれが作用したと思う。そう思うと、本当に将来役に立ちもしない学校の勉強で若い時間を無駄にしてしまう人たちが、かわいそうだ。学校の勉強が無駄にならずいいところに入れてその後もいいところに行けた人たちも、そのリズムと得たものを死ぬまで維持しなければならないのが、かわいそうだ。るさんちまんかな?ただ、自分には何もできないのだが。 引っ越しのために、いろいろ整理していると、まさに14年近く東京にいたから、14年前のものがいろいろでてくる。15年だと本当に時代が違うと感じる。ネット文明の浸透度が違うってことなのだけど。今はもう電子化したかさばらないものを買うから買わないだろうってものがぼろぼろでてくるんです。 生きている救いは、時代の進化くらいでしょう。
2020.02.01
コメント(0)
大学生の頃の自分に、30代の誰かが、「若いうち、こうしとけよ」とか「この道を進むと危ないからやめろ」とかって助言したとしても、私は聞かなかっただろう。私の人生は私の人生であって、私はあなたのようにはならない、と思うだけだっただろう。 今の大学生たちに、30代になった自分が、そういう助言をしたりしようとするときに、このかつての自分を完全に思い出す。30代の教員が今、若者に話す言葉は、そのくらいの力しかないのだと。 ただまあ、「大学の先生」としてなら少なくともそうなだけ。面白いもので、「大学の先生」としてではなく「占い師」として助言していたら、全く違うだろうから。 なんといっても、若いうちは、社会に出る前は、いまやっている勉強が必ず何かに役に立つだろうと思って勉強し続ける。自分がそのような時期を経て思ったのは「決してそんなことはない」ということだ。 もちろん、例えば介護士の資格とか、会計士の資格とか、何か具体的な仕事に結びついている勉強は必ず役に立つ。 でも大学の多くの勉強や受験勉強なんかはさすがに役に立たない。大学で言えば、経済とか科学・技術に関することならいいが、実学じゃない教養とか結構含まれている。資格とかそういうものは、大学というより専門学校とかカルチャーセンターみたいなところ担当みたいなのもあると思う。 そういうのに比べたら、大学は役に立たない学問が「比較的多い」。高校教科の発展物や、文学部とかがそれにあたる。 数学や物理学の高度な数式を教えたり、昔の流行りの作家の情報を頭に詰め込み細かい外国語の違いを吟味するよりは、好きなゲームとかアニメとか漫画とかスポーツといった切り口でいいので、その業界の経済的動向を自分なりに未熟でもいいから考えて、どんな特徴があるか、どうなるだろうかと話し合ったりするような授業科目のほうがずっと将来のために良いと思うが。 本来、長い歴史が育んだ人間の教養は大事なものなので、アメリカのように合理的なら教養・哲学の大事さを逆に主張できそうだが、日本の大学のブラック企業倫理的か外国崇拝な教養主義のあり方では、全くそれを言う気がしない。 「学校の勉強は将来役に立たない」という助言は色々なところで聞いていたが、自分は全く信用しなかった。(ある意味では、アメリカのような大学のあり方が大学だと思い込んでいたのだ。) そしてかなり長くそれを勉強した。その結果、はじめてその話が本当であるとわかったのだ。だから、私も自分より若い人にそれを言ってみるけど、若い人は確かに昔の自分と同じでそれを信じることはない。 教員になったら、勉強科目は役にたつだろう。ただ、人間に必要ないものに自分で需要を作って、自分で売る、その自作自演感がハンパナイ。 ある意味での20代の誤算は、年をとればとるほど、社会貢献とか、他者の役に立ちたいとか、そういう気持ちが芽生えてくるということだ。 だから、自分の勉強したことを話すということは比較的楽しそうに見える。だけど、だけれど、それは社会にとって何も役に立たない。そう考えると、年をとってから、全くやりがいを感じなくなる。 ただ、多くの学生と接していて、やはり思う。機械のような人、人間のような人とがいる。今の時代、人間はレアだ。種からそうなのか、教育がそうさせるのか。 それでもって、人間的な人は20人に1,2人なので、このおかしな教育は別に構わないのか。人間的な人は、日本の教育とそのカルト宗教にどっぷりの家族とかに本当に苦しむことになると思うのだけれど。 人間は人間的テーマに集い、機械は機械的テーマに集う。ある意味では、受験戦争、脱ゆとり教育、ブラック企業、というのも、塾や大学、企業や国の特定層の利潤とかの他に、そういう需要があるのかもしれない。そんな風に思った。人間的働き方が向いている人もいれば、機械的働き方が向いている人もいる。機械的な人に、人間的テーマを話しても、まず理解されることはない。 機械の心といっても、機械であるAIがこれからどんどん人間に近づいていくのかもしれない。質量保存の法則みたいに、それによって人間のうちに機械の心の割合が増えていってるのだろうか。この世界で、知能というものは有限なのかもしれないな。 ともかく、そのように、どんどん世界は両極化している。豊かさの基準はひとそれぞれなので、本当に思うのは、とにかく住み分けが大事だ。機械の心の世界には、関わらないようにしよう、本当に、もう関わらないようにしよう。
2020.01.31
コメント(0)
実家の近くに川がある。川といても大きさは色々なのだけれど、東京で言えば多摩川をわたる橋、京王多摩川、二子玉川なんかの駅の辺の川幅よりもちょっと広いくらいの川だろうか。 2年前か3年前くらい、夏の記録的大雨で川が氾濫しそうになってたとき、臨時ライブカメラが設置されyoutubeで結構視聴者がいた時があった。あの川が最も多くの人に見られていた時があるとしたら、その日だろう。 その川から歩いて帰る夢をよく見る。子供の頃、自分はあの川で死にかけたことがあるので、何か自分の魂がそこで分かれて、一部がそこから帰りたがっているのだろうか。とはいえ、家の近くの川なので、散歩にもよくいく。死にかけた場所の近くにもよくいく。故郷だからかもしれないが、そこはとても良い場所だ。 今日もそこから歩いて帰る夢を見た。ただ、毎回その周囲の風景が違う。名鉄の東岡崎駅前みたいになっているときもあったし、もっと全然違うどこに似ているのかもわからない時もある。そういえば、夢の中で岡崎はよくでてくる。 岐阜〜豊橋間の名鉄には幼少期からなんども乗っているけど、岡崎に降りたことは、少なくとも記憶のなかでは一度もない。だからほぼ想像上の岡崎だけど、よく夢にでてくる。 2000年頃の映画とかは、岩井俊二とかに多いけど、映像が暗くて青みがかかっているみたいなのが多かった。アジア映画でも、pvでもそうだったと思う。夢の中がそんなコントラスト色調バランスのときがある。その色調はある意味、死者の世界、あの世の感じを表しているのだろう。時代の産物。
2020.01.27
コメント(0)
子供の頃によく映画を観につれていってもらったショッピングモールの廃墟がyoutubeにあがっておりました。つぶれて廃墟化する前の生前の(?)モールの動画もありました。 廃墟探索動画、凄い好きなんですけど、気持ち悪くなるのできつい。別に霊障とかそういうのじゃなくて、主観カメラ酔いです。ゲームでFPSの動画とか観てるだけで気持ち悪くなるのと同じです。ホラーゲームとかも、一人称多いからな。観てると凄い楽しいのだけれど、代償がきつくてみれない。 自分はかなり相当なレアさの三半規管の弱さを持っています。三半規管の弱さを競う試験とかあったら偏差値東大レベルだと思ってます。幼稚園の頃とか乗り物酔いの記憶とかばっかやで。しかし返す返す、一人称視点の動画、FPS、ホラゲ、廃墟探索とか、面白いものがありすぎてきつい。
2020.01.26
コメント(0)
☤ いやいや文字コードでこんな記号あるんかいっていう。古いPCではでないかも。二体の蛇の螺旋と翼のある、ヘルメースの杖です。昔の錬金術や占星術でたまによくある。 自分のなかで、占星術を知らなかった頃の残留物の最も大きなものが、もうすぐなくなる。占星術は運命論ではなく助言者みたいなものなので、もしも占星術で現れる意見が気に入らないなら、それを無視すればいいし、占星術で現れた意見が気に入ったなら、取り入れればいい。それだけのことだ。友人から仕事を話をもらったときに、いいと思えばその話を受ける、都合が悪ければやめておく、というようなそれと変わらない。 いわば自分は占星術を知る前、大学生の頃に目指していた特殊分野の研究者・教員という職業をある意味研修5年実務4年という感じでやってきたが、そこには民間には決して伝わらない金銭、年齢、健康、等問題を激しく抱えており、それらが最初思っていた理想と全く違ったので方向転換しようとした。 チャンスが来ればいつでも方向転換したいと思っていた。ちょうどいわば自分の太陽に冥王星が重なる時にたまたまチャンスが来たので方向転換しようと思った。冥王星によって、自分の人生を意味する太陽が一段階修正されたように感じる。 自分が最初、研究者・教員という職業のアドバンテージだと思っていたものは全て実際にやってみたらそんなもの何も存在しないことがわかった。もちろん、もし職場の近くにたまたま持ち家があるとかいった状況なら、これは良いアルバイトになる。というかこの職業で残っている人はそういう人たちが多い。あるいは結婚している女性。すなわちあくまで「アルバイト」でも大丈夫でなければならない。1年中あるわけではないアルバイトに居場所を拘束されても大丈夫な人。仕事もないのに家賃を払い続ける必要がない人。そうでなければこの仕事はまず色々人生やっていけないからだ。 そして自分のホロスコープでは、9室がサウスノード乙女座で、研究職は過去生にすでにやり終えたことだった。3室ノースノード魚座なのだから、もっと柔らかい地味な世界を目指さなければならなかったのだ。そしてアストロマップで言えば最も自分にとって悪い領域を研究対象として無意識に選んでいた。 これはなんというか、逆に占星術を知らなかったということに運命を感じる。というか自分は、どうしても自分の目で見ないと納得できないらしい。占星術でこの領域は違う、と言われても、実際体験してみなければ、納得できないようだ。それが結構面倒なことだ。去年は、サウスノードに審判の星土星や冥王星なんかが重なっていて、その人の「もうやらなくてもいいこと」に目を向けさせられる傾向があったことだろう。 今は縁あって人のホロスコープを見させてもらったりもしているが、当時は自分もがっつり見てもらう側だった。その頃からのタームが一個終わったと感じるところである。
2020.01.23
コメント(0)
土星は時間、草刈、すなわちものごとの線分をあらわす、現実的感覚、時間感覚、物質的感覚、そういったものはすべて無限の広がりに「線分」をもたらすことで生まれるように。例えば、時間が無限にあったら、時間を認知できない。はじまりと終わりがあるから、時間を認知できる。人生というのも同じである。それが「線分」の力である。 土星を意味するサトゥルヌスはギリシャではクロノスなので、時間を意味し、サンスクリットならカーラを意味し、カーラの女性形はカーリー、すなわち土星の女神である。 カーリーはたくさんの剣を持って、それでもって刈り取った人間の生首の首飾りをしている。切るという意味でまさに時間、線分の女神である。時間は区切ることではじめて存在できるのだ。 よくスピリチュアルっぽい自己啓発で、「この人のようになりたい」という偉人をあげて意識するといい、というのがある。部分的には、自分はラーマクリシュナがそれにあたる。もっと部分的には、アレイスター・クロウリーだってそれにあたるかもしれない。もちろん、一生ニートでも金に困らなかった名もなき富裕層の人がいたら、その人は完全に私の「この人のようになりたい」かもしれない。 人生は霊的修行の場、という考えから、苦労する人生のほうが意義がある、という意見もよくわかるが、いまは自分は「いかに人生をやりすごすか」で必死であるという現状には言い訳ができない。 一生ニートでも金に困らない人も幸せだが、「精神的に幸せ」な人も幸せである。「満足な豚より、貧しいソクラテスのほうがいい」という言葉は「のほうがいい」という言葉を除けば、なんとなくまだ享受できるかもしれない。つまり「満足な豚と貧しいソクラテスは、同じくらい幸せである」と。 精神的に満足していそうな人としてラーマクリシュナを、「主に伝記から読み取れる分には」ではあるけど、個人的にはあげられる。ああいう境地が本当なら、最も「宗教」を有効活用できた人なのではないだろうか。多くの人にとって、宗教、特にカルト宗教と言えるものは、不安を不足感を煽って宗教団体が儲かるシステムのために、教徒はむしろ幸せでなくなってしまうようなことが多いのだが、ラーマクリシュナは話が本当なら、宗教によって幸せになることができた人だからだ。 実際のところは、ラーマクリシュナはいわば古代のシャーマンのような生き方をしたわけで、つまり薬物や別にそういうものでなくともトランス状態の維持といういわば現代で言えば狂人にあたるものの力でずっと幸せだったという話にすぎないかもしれない。 ただ、古代から「しらふでトランス状態にある人」というのがずっと「聖人の条件」だったりして、すなわちドラッグに頼らなくてもドラッグの状態になれる人、という聖人の話は昔からいくらかある。実際に、「脳内エンドルフィン」を自在に操ること、これは何一つ物質に頼らず幸せに生きていけることなので、それを習得したら、無限のお金を持っているのと等しい。お金は基本、快楽を得るための交換物なので、快楽を無限に得られるなら、無限のお金と同じものである。 脳内エンドルフィンを支配下に持つ何も持たないソクラテスが無限のお金を持つ豚と同じくらい幸せになれる可能性だ。 これはまさに仏教とかのいう「ニルヴァーナ」なのかもしれないが、ドラッグによってのみ、そうなっている間はドラッグを得られない状態という「物質」の欠乏の可能性を持つので、ずっと幸せというわけにはいかない。病気の間、「麻酔」がずっとかかっていれば、痛みはないが、麻酔が切れるということがやがて起きるのと同じ。そして「麻酔がなぜ効能があるのか」はまだ科学でもよくわからないと聞いたこともある。自分の力で自分の脳内に麻酔を作り出す、それができれば人は永遠に幸せである。
2020.01.21
コメント(0)
DLC込みのやつでたんですね。PS4でやっておきたいと思ってるゲーム現状ではシャドウオブトゥームレイダーと無双orochi3ultimateくらいだったもんだから、これは嬉しいです。中古で買ってDLCも買ってたらどうせこのくらいするだろうから、通常盤買わなくてよかった。 DLC入りでも多分プレイ時間30時間程度かもしれんけど。 ゲームをディスクでなくダウンロードで買うと中古屋で買うより高いしプレイ後売れないじゃないって割と長い間思ってたけど、荷物としてかさばらないほうがずっといいとわかった。kindleなんかも同じかもしれない。部屋がスペースが少しでも広くなり、引越しのときに面倒が省けるほうがずっとお得なきがした。その上PS4画面上でディスク入れ替える手間まで省けるというか。
2020.01.21
コメント(0)
岐阜の廃墟探検動画探してたら見つけた。このタイトルとサムネだとこの柳ヶ瀬商店街が廃墟みたいに思われそうですがちゃんと店がいろいろやってる商店街です。むしろ再開発でこれから息を吹き返してくるやもしれませぬ。 この岐阜駅前の柳ヶ瀬商店街には、高島屋の隣にとてもおいしいタイ料理屋とかあります。名前を忘れた…。個人店ですが、新宿のマンゴーツリーよりずっとやすい上においしいほどです。岐阜は飯がうまいから、自分は東京にどうしてもなじめなかったのかもしれませぬ。
2020.01.19
コメント(0)
もしヒンドゥー教みたいに過去生があるとして、その過去生で誰かに言い忘れたことがあっても、過去生である以上ふたりとももう死んでいるはずなので、今はもうそれを言う相手はいない。 それでもって、私が過去生で誰かに言えなかったことがあって、しかもその人と現世で出会っても、過去生のその人と現世のその人が違うから、あの時言えなかったことを、言うことができない。 だけれど、現世のその人に、過去生のその人の幻影が覆いかぶさって、全く違う人なのに、過去生のその人に言いたかったことが言いたくなる。でも、やっぱり違う人だから、話すにはふさわしくなくて、言うことはできない。 相手に言うことができないせいで、私は自分の中でそのことを自分に言い続けている。相手に伝えずに、自分に伝えている。その言葉が愛の言葉ならいいのだが、怒りの言葉だとしたら、自分で自分に怒り続けることになるので、ひどい話だ。 言葉も質量保存の法則みたいなのがあって、自分から相手には行き場があるのだが、自分から自分には行き場がない。「私を忘れないで」と、過去生が言う。ある意味では、成仏されていない霊って、そういうものだろうか。
2020.01.08
コメント(0)
なぜか2035の星配置なんてのを調べてしまう。15年後なんて、何をしているか想像もつかない。でも図を見ると受ける印象。周期的に、人生がアップダウンを繰り返して、最終的に、勝者も敗者もないという感じで、永遠に眠りにつくようなときに、なんらかの「満足」のようなものがあるのだろうか? 自分には自分の幸せがある。自分の幸せは、誰かにとって不幸だし、誰かの幸せは、自分にとって不幸にもなる。お互いの幸福に吸い込まれないようにしなければならない。 そういう系の人から教えてもらったアファーメーションが「アークエンジェル(ミカエル)の炎の剣で切ってもらう」ということである。なんどもなんども、切ってもらっている。そのうちマントラみたいになってしまうかもしれない。 誰も通らない近道と、皆が通っている遠回りの道がある。近道を通れば人生を有効活用できるものだけれど、近道を通るものを多数派は非難するだろう。カインとアベルの関係のように。「神に祝福されている者」は殺されるべきだとするだろう。 ある人は、破滅を定められて生まれているのかもしれない。だから、他の誰が何を言っても、破滅的未来というアファーメーションから目をそらすことができないのかもしれない。それはその人生で、破滅を体験する役割だからかもしれない。
2020.01.07
コメント(0)
海王星と木星が合した。自分の場合は、海王星、ASC、太陽と続くので、短期間で連続でそれら三つが木星と合することになる。1月末くらいまで、そんな日々です。2008年はどうであっただろう。再現性があるなら、しばらく人生にとって重要な出来事が起きます。 海王星と木星の合自体は、「バブル相」、すなわち躁鬱。アップダウン、きっと、後から考えたら、別にどうでもいいことで鬱を経験しているのだろう。気持ちが、本当にころころ変わります。2008は、そんな感じだった気はあまりしないのだが。 実際のところ、「鬱になる」という言葉よりも「鬱が覆いかぶさる」みたいな感じが正しいのかもしれない。楽観的な視点と、悲観的な視点がコロコロ点滅する。同じ人に対して、1日の中で嫌悪感と親近感を数時間おきにころころ変わりながら感じる、この感じ。 ミクシーとかって、今はもう廃れてんだよなあ。のぼって、すぐさがっていく。「根拠がないもの」は皆躁鬱を経験する。だからといって根拠を求めて、真実がいつもひとつになると、人生がつまらない。そこで、躁のない鬱を経験する。自分に言わせてみれば、これは「初体験」の象徴だ。期待と全く違うものであったが、人生の最も印象的な出来事だ。今日も明晰夢を見た。昔よりは、「期待通りのもの」を手に入れやすくなっているとは思う。その前に、とんでもない妖怪の城を降っていったのだが。
2020.01.06
コメント(0)
学びはそんなに良いものだろうか。学びを欲して、必死に楽しんでたくさん学び続けると、あるときふっと、学ぶことで得られる利益という憧れが消えて、我に返ってしまう。それがたぶん「無知の知」だと思う。憧れが、理解に変わった瞬間だ。そうなるともう学びなんてどうでもよくなります。学びの目的は、学びを捨てることにある。 憧れを払拭することには大きな意義があります。憧れでなくなることで、対等な存在になれるのだから。学びが憧れである人は、例えば子供に勉強しろとかいい大学行けとか言う。学校で、何を勉強しているか知ってるか?別にそれをしたら幸せになるわけでもないのに、その世界が憧れである以上は、それ以上に考えられないのです。 しかしながら自分においては、学びによって、学びを捨てる「無知の知」を知ったところで、誰か他の人の持っている、大学や勉強への古臭い田舎的なそういう盲目的な価値観には反発してしまう心が、どうしても捨て去るこができないのです。 般若心経がいうように、この世は全て「空」、すなわち自分で作ったプログラムを、作ったことを自分で忘れて、このプログラムに感情移入することで、現実世界だと思い込んでいる、自作自演にすぎないということは、よくわかります。しかし、「悟った人」がいうように、感情を対象化すること、怒りや痛みを「第三者視点」から見ることで、怒りや痛みを消そうという試みは、どうもうまくいきません。怒りや痛みを「これは何だ?」と感覚的に凝視しても、別に消えてくれません。この世が空だとわかって、それが腑に落ちても、相変わらず、痛みや怒りを私は感じ続けています。 怒りは確かに、そこに理由がないと知ると、消えてくれるものはあります。合理的でないとわかれば、消えてくれることもあります。何度もなんども、やってくるけど。 けれども、痛みは、そこに理由がなくても、合理的にはいないほうがよくても、消えてくれないものが厄介です。 痛みは、恐怖であって、恐怖は、自分の命を生きながらえさせるシステムだと。そこで、自分の命に、すがりつく理由がなくても、痛みは別に消えてくれません。麻酔のような、外的手段を用いなければ、基本、消えてくれません。これもまた、思い込みだと、言えてくれるだろうか。 なつかしかった。
2020.01.01
コメント(0)
何日か前、夜中にすごい腹の痛みがきたので、この痛みというものを意識して「見よう」と思って、痛みに意識を集中させてみた。「心頭滅却すれば火もまた涼し」みたいなことにはならない。捉えても、別に消えたりはしない。「幽霊の正体見たり」にはならないで、痛みは痛みだ。私の体の痛みが本体なのか、痛みを感じるということ自体が本体なのか、わからない。 できることが、できなくなることを苦しみだとはいうが、こういう痛みは、それとは違う。ただ痛みは存在しているのだ。 交通事故で、昔Tシャツが血で真っ赤に染まってしまうくらいになったときは、痛みはなかった。大きすぎる怪我には痛みが麻痺するという。人が死ぬ時もそうであって欲しい。 同じく、昔、川ではまって死にかけたとき、最初は抵抗していたが、やがて「ああ、これで人生終わりだ」と思った瞬間、苦しみはなくなった、その瞬間、助けられたことがある。人が死ぬ時もそうであるならなんと心強いことだろう。死ぬことそれ自体にはきっと痛みはないだろう。 ただやはり、生きているとどうしても痛みが、自分は決して欲していないのに向こうからやってくるから、それはどうにも許せないものである。
2019.12.19
コメント(0)
私たちの人生において、苦しみが存在するという事実はなんなのだろうか。まずは、ひととひとが競争するから、苦しみが生まれる。そこは正直、自作自演なのだ。 競合し、勝ったものには栄誉かモノを与える。支配権を与える。勝ったものは、他者をある程度自由自在にできる。負けたものは、従わざるを得ない。勝ったものたちの間で、そういうシステムを引き継ぐ。人々に信条や判断基準を植え付けることでそれを維持する。その役割を持つメディアは、昔で言えば宗教の中心のことだ。その宗教の定義を作り出す勝者たる支配層たち。 競合で勝ったものがその宗教の定義をつくる力を得る。そしてそれが各界に浸透する。いわゆる偏差値の高い大学の人材は、支配層として各界に偏在しているのだから。 そこで、やはり競合するというシステムを維持する。すなわち、受験である。だが、彼ら自身だって、受験は辛いものじゃなかったんだろうか?やはり自作自演だ。 競合し、勝者と敗者をつくりだす。上位者と下位をつくりだす。別に、そんなものなくたっていい。でも、なぜか人間は格差というものをつくりたがる。幸せな人間と、不幸せな人間をつくりたがる。それは幸せな人間にも不幸せな人間にも備わっている本能である。生きていることが、もっともくだらないと思うのは、この本能に直面したときだ。社会がまずそれでなりたっているが、それだけじゃない。ちょっとしたゲームをやったりしても、勝者と敗者ができる。でもそのゲームを楽しいと思うのだから、その瞬間に格差という本能が備わっていることを確認してしまうのである。 格差という本能はしかし、進化という本能にも結合するということもわかる。何か憧れがなければ、人は今の状態を変えようとしないからだ。それがないなら、進化はない。格差があって、上に行きたいという気持ちがなければ、別に動こうともしない。 けれども別に、進化という行為を肯定する気にも自分はなれない。そんなことして、なんになる?憧れがあっても、でもなんか気持ちはその憧れのほうじゃなくて、別の遠くにいってしまうのだ。集中することができない。なぜあんなにがんばれるのだろう?別に苦しまなくたっていいじゃないか?なんて思ってしまうものだから。 というより、人生で何をしたとしても、それがどのように裁かれるかは、知る由もない。普通の人間が観察できる範囲内では、どんな偉人でもどんな格差における上位者でも、いつかは死ぬ。いつかは死ぬと考えると、格差なんてなくなってしまう。死んだ後、もし偉人の葬儀がとんでもなく盛大に行われるとしよう、しかしその偉人は死んでいるのだから、自分の壮大な葬儀をどうやって見ることができるのだろう?幽霊の存在を肯定するならば、話は別かもしれないが。それも、生前と全く感覚が変わらない幽霊の状態を。 陰謀論とかというより、私たちの本能が、その陰謀論の内容であるところのような格差をつくっていることが見て取れるのである。なんてくだらないんだ、と思いつつ、じゃあそれがなくなるには、どうすればよいか。人間がいなくなったら、きっとまた別の動物が、その本能に従って、人間社会のようなものをつくってしまうのでは、と思う。じゃあ生物自体よくないんだ、と思いつつも、この世の仕組みが生物が自然生成されてしまう原理だとしたら、いつかは人間社会が結局またできてしまう。 生物が生まれる確率がなんかすごい低いといっても、時間制限がなかったら低くても関係ないだろう。競合本能を乗り越える。それはどういうことだろう。私たちの本能に、私たちがNOと言う力。例えば、ウィルス駆除のソフトウェアが、自らウィルス駆除機能を捨てることができる、というようなものだ。 昔の仏教徒とかは、そういう本能を乗り越えられたら、幸せになれますよ、と簡単に言う。ニルヴァーナとはそういうことなのだが、どうやってニルヴァーナにいけばいいのか。生きながら死んでいるようになるには、どうすればいいのか。別に社会に格差があったって構わない。ただ、自分の中の本能に格差への欲求、力への意志が存在していることはどうしても許せない。生物でありたくないということかもしれない。ニルヴァーナに行きたいということかもしれない。抗うつ剤みたいな何かそういう本能を抑える力を持った薬でも飲めば、そうなるのだろうか。いつも、生命という構造への疑問にまでさかのぼってしまう。人生なんてもういやだ、もう2度と人間に、はたまた生物自体に生まれないですむには、どうすればいいのか?古代インドの人たちがしていた探究だ。 本能は、自分の中の他者だ。自分がそれを捨てたがっているのだから。けれども、生理現象は自分の都合に関係なく、やってくる。本能のない人生、なんと素敵なのだろう。欲しいも手に入れたいものないから、味気ないというかもしれない。でも飢えているよりはずっとましである。 たくさんの勉強をした。するとわかったことは、満足な豚は、飢えているソクラテスよりずっとましでだってことだ。「満足な豚より、飢えているソクラテスのほうがましである」といったイギリスの哲学者は、まさに飢えているのだ。格差への欲求、力への意志に従っているのだ。知識をカルト宗教的に崇拝する憧れに飢えているものにありがちな態度だ。憧れは、理解から最も遠い感情だよ。
2019.12.19
コメント(0)
学者は平気でウソをつくすっっっっっっげーーわかるわこれ!一番最後の「日本人は宗教を持たないというが、学問を宗教のように信じて、学者を無条件に信用してしまう人が多すぎる。」が素晴らしく言い表してくれています。 経済学だけの話じゃないよ。その世界は、かつて身をもって感じさせていただきました。まあ、本自体は読んでないんですけど、書評だけでもうすでに自分が学会的な場所で感じたこと、言いたいこと全部書いてあったわ。大学生の必読図書にしてもいいレベルなんじゃないの。
2019.12.16
コメント(0)
声がすごくいい〜。今ある音楽家のなかで、一番好きなレベルの歌声です。arkやrayとかの頃のラルクのhydeの歌を結構思い出します。なので思い出補正にクリティカルヒットみたいなところもあるというべきか。ある意味、90年代後半のV系?みたいなところあるのかな。 けどやっぱ、ちょっと違うか?ものごっつなつかしうございます。ready steady go以降、hydeの歌い方が結構変わったんだよね。子供の頃の写真以上に、やっぱ音楽が一番思い出の気分を高揚させる。
2019.12.12
コメント(0)
シュタイナーよりも100年ちょいか前、あれはまだ量子力学とか、超弦理論とかそういう話がまだ少しもない時代、いわば、アトムすなわち原子が、ほんとうにそのギリシャ語の意味「ア・トモス=切ることができない」という意味そのものを表していて、今みたいに結局原子を切ると、中により小さい原子核だの中性子だのさらにクォークだの超ひもだのといくらでも「原子を分割することができる」わけでもなかったあの時代。あの頃にあったものの考え方として、「精神から物質が生まれた」という考えがある。 我々は総じて過去を見下しがちで、過去に対して五感的記憶喪失になった頃に「昔はよかった」、はたまた「昔もっと勉強しておけばよかった!」なんて無根拠なことを言いたがるものである。私のように、過去のトラウマを決して忘れない根に持つその根が深すぎる人間は、いつまでも過去のことを覚えているせいと、まあ実際結果的には勉強はしたので、そのような気持ちになかなかなれないのだけれど。 それはさても、やはり「精神から物質が生まれた」というと、啓蒙主義者以降の支配からいまだ抜けられない「現代常識」という形のない非存在と言えるものの集合体は、その言葉に彼らが頑張って打ち倒して息の根を止めたはずの「有神論」の気配を感じ取ってしまい、相手のアンチになるまでもなくそれを門前払いするものである。 しかしそこには、実際現代のそういった量子力学の世界と別に何か激しく対立する愚かさがあるわけでもない。私たちの現代は、むしろ世界がプログラムでできていると、むしろとても思いやすい時期にあると思う。世界はプログラムであると言えば、「プログラムしたのは神だ!」という発想に結びつきさえしなければ、コンピューターという非宗教的な言葉の響きに啓蒙主義者たちの精神的子孫である啓蒙主義主義者たちもある程度はいいねと言うかもしれない。 ともかく、世界には物理法則があり、それはプログラムのようなものだとしか言えないのは事実である。実際、物理法則なんてなくたって良いのだが、そのように「あらかじめ書き込まれている(ギリシャ語で、プロ・グラム)」のである。そして、物質を物質たるものは、物理法則に他ならない。物質とは、物理法則というプログラムによって成立しているものなのである。 では、そのような「物理法則」のない世界が、この世のどこかにあるだろうか。「この世」の範囲にもよるが、それはない、というと、皆は大喜びである。常識が守れるからである。 とはいえ、間違いではない。現代において、「物理法則」とされているもののなかに間違ったものもあるだろうし、逆に「物理法則に反している」と思われているもののなかに、実は正しいものがあるってことだって考えられる。それは大前提です。だからその度に常識は変わってしまいますが。 ではそのプログラムとはなんだろう。すなわちそれは「制限」である。物理法則というのは、つまり制限である。この事物は、こういう動きしかできない、という「制限」である。 物質に硬さがあるのは「不可能性」があるからで。まあミクロの世界でもそのイメージが通用するんじゃないかとは思うのですが、何か存在に対して、指でつついた時、その対象がつつかれた場所がへこんでしまう。それもまた物理法則にすぎないですが、そういう可能性が排除されるとものは「硬さ」を持つ。そうして同時に、ものごとはすべて「硬さ」を増していく。 精神というものは、存在の最もフレキシブルな状態である。想像のなかで人は、色々な現象を一応「体験」することができる。想像の中では、とんでもなく硬い物質に指でつついた時、パン生地より柔らかくつついた場所がへこんでしまうことができる。しかし現実の「物理法則」ではそれがない。 これすなわち、想像すなわち「精神」でできること、そして「物理法則」のある「物質」あるいは「現実」でできること、とがあるということでもある。その上で「精神」から「物質」が生まれたのである。 それはつまり「精神」が自分に自己催眠的なプログラムを組むのである。「鉄の塊を指でつついた時、鉄はへこまない。鉄のほうが強く硬いから。」もっとミクロな世界の物理法則では、もっと複雑なことが起きていて、それが累乗的に波状的に複雑に混ざり合い、その鉄の塊に対するアクションの物理法則の現象をつくりだす。ミクロの視点で言えば、そのように「鉄の塊を指でつついた時へこまない」という原子配列だか質量計算的だか知らないがそのようになれるプログラムを組み、ミクロの世界とマクロの世界で同時にその現象が成立するのである。 ミクロの世界の原子がどうという現象とマクロの世界の「鉄が指でへこまない」という現象が同時に発生するわけなので、ミクロコスモスとマクロコスモスの一致でもある。 そこからは同じく、この「私たちの指によって鉄がへこまない」というのがむしろミクロコスモスで、人間の大きさがその者にとって原子あるいはそれ以下にすぎないような、もっと巨大な存在の世界において、そこで同時に何か現象がマクロコスモス世界での現象として発生しているとも言える。そのようなミクロコスモスとマクロコスモスの一致でもある。 何か存在が「精神」の状態にあると、想像の世界で素材さえあれば基本何でもできるように、現象および経験としてはそこでは完全に自由、何でもできるのである。ある意味では、素材がなければ何もできないので自由というべきかわからないが、ともかく「物理法則」を無視できるのが「精神」の本質である。それに対して、「現実」あるいは「物質性」では、「物理法則」のプログラムあるいはルールが適応される。「自由=精神の状態」に「制限=物理法則」を設けて「硬さ=物質」をつくるという図式のなかで、物理法則が先にあってそこから「ナゼか」(これを唯物論者は決して問おうとはしない)制限から自由が生まれたという考えか対して、精神が先にプログラムを組んでいるという観点が「精神から物質が生まれた」である。 これはニワトリが先か、卵が先か、の議論だろうか。「自由」か「物理法則」どちらが先に「物理法則」というプログラムを組んだか、がその違いである。自由(全てであるためすなわち無でもある)の中で、自由が扱える「素材(化学反応)」欲しさに自分の本質を制限する「物理法則」を生み出すのはわかる。例えば、人間の視界は目に入るもの全部見ていたら風景にならないから。 それに対し、先に物理法則が存在しているなら、なぜ同じものをもう一度欲しがるというのだろう?というか、制限されているから、そもそも同じものを作り出せないだろう。 仮に作り出すとして、自分がすでにいて、自分をつくるか、異性をつくるか、どちらを選ぶか、ずっと0進数のままでいるか、1進数の世界に飛び出してみるか。どちらが自然な欲求だろう。私たちひとりひとりのなかにも、この原理が働いている。そうでなければ、成長などしない。
2019.12.04
コメント(0)
結構こういう動画あがってて嬉しいんです。昔の名鉄岐阜のあの建物、いまでも夢でよく見ます。2004でももう15年も前。自分は名鉄ではなくJRで名古屋まで、週に数回だけど通学していた、ちょうどその頃だろうか。一回人身事故の振替輸送で名鉄に乗ったこともあったな。
2019.11.30
コメント(0)
子供が言う「勉強なんかして、何になるの?」という問いかけは、実に鋭く、この世の真実を見通している。大人たちは、「若い頃の勉強=将来の幸福」という宗教にはまっていて、疑うことすらできないので、それに対して「そんなこと言ってないで、勉強しなさい」と言うのである。この姿を、カルト宗教以外の何と言えるだろうか? 中学の中盤くらいまでの勉強は、将来にどんな仕事につくにせよある程度役にたつ可能性が高いのでいいとしよう、しかしその先が問題である。そもそも大人になって、高校以降の学びのどれほどが役に立っているだろうか。科学分野の仕事や教員の仕事はある程度役にたつだろう。しかし教員の仕事は「勉強宗教」の宣教師・司祭・牧師のようなものであって、自作自演に近い。 文章を読んだり、何かを考え発表したりできるような多少なり創造的な教養科目は、人間の無意識の教育に良い影響を与えるだろう。家庭科や技術、競争や古めかしいドラマの真似事の熱血授業ではなく肉体的健康の為の筋トレ的な体育のようなものは将来必ず役にたつだろう。なぜなら人間の生活と密接に関わっているからである。 料理を作ったり、料理がどのような素材によってつくられているか、作物はどのように育つか。それも含め、人間の肉体の健康とは何か。それは数学とか偽物の高校世界史なんかよりもずっと大事な人間としての常識のはずである。 無機質な為政者の名や真実かどうかもわからない年数、ものの言い換えが得意なだけの哲学者たちを覚えるただの言葉遊びという名の歴史よりも、農業を知ることのほうが、人間の歴史をずっと深く理解できるだろう。 しかし現状は、そういったことと関係ない知識を詰め込まされ、脳という名のHDDを余計なデータでいっぱいにし、本当に大事なプログラムやシステムをインストールする容量すらなくなる。そのようにして無思考状態が形成される。 無思考状態、それはカルト宗教にとって最も望ましい人間のあり方である。 だからこそ、「勉強なんかして、何になるの?」という言葉は実に本質を突いていると言えるのだ。逆に、そういうことを言えない子供たちは実に危険だろう。もちろん、勉強が将来何の役にたつかわからないから、そう言えるのだが、実際真実とは、勉強が何のためにあるのか、それは人間に格差という無意識を植え付け、格差というものが存在すると思い込ませるためにある。 このようなシステムの起源を、カインとアベルの神話に辿ることができる。努力をして、結果、得られるものに関して、自分と他人を比べて嫉妬するのである。 勉強、受験戦争、そこから生まれるもっとも重要なものは、格差である。テストの点数の差、合格不合格の差、そういった格差を見せつけられる。すると、高い点数を得たものは低い点数に対して低い人間という認識を作り出し、逆に低い点数を得たものは高い点数に対して高い人間という認識を作り出す。そこからすべての、学者たちのいう「ルサンチマン」、普通の言葉で言えば「嫉妬心」というものが生まれる 高い人から低い人への嫉妬心もあれば、低い人から高い人への嫉妬心もある。高い点数の人間は、低い点数の人間が成功するのを恨むだろうし、逆も全く一緒である。そしてそこには「憧れは理解から最も遠い存在である」という原理がよくはたらき、より一層それを強めるのだ。「勉強なんかして、何になるの?」と聞かれれば、「それはね、塾産業や大学産業を儲けさせるシステムの構築と同時に、社会において高い者も低い者も苦しむような格差社会を作るためだよ」と答えるべきなのである。 私たちは、昔の人々の宗教のあり方を見下したりするが、受験と大学という名の宗教においては私たちもどうせ変わらない。彼らが自らの信条を疑うことができないように、現代も勉強という常識的正義を疑うことができない人があまりにも多いのである。(そのうちにある程度、本物の正義も含まれてるからではあるが ) そしてそれは「憧れ」である限り「理解」できないからだ。
2019.11.30
コメント(0)
ストア派とかエピクロス派とか話していると思ったことである。ストア派っぽいこと=ストイック=禁欲主義的、で、エピクロス派っぽいこと=エピキュリアン=快楽主義者という意味がある。 英語という、古代ローマやギリシャ文化圏からしたら未開の野蛮人の住む田舎の言葉においては、そのような意味を持っている。日本語でもストイックな人=禁欲的に努力する人、の意味だがしかし、そもそも「快楽主義者」であるはずのエピクロス自体、その思想は禁欲主義者みたいなものだな。エピクロスはストイックな人なのである。日本でいう、わびさびの美、みたいなところがあるから。 だいたいこういう対立事項は、後世の人や近現代の哲学者がカテゴライズしたい病にかられてわかりやすいヴィランとヒーローみたいな二項対立を作ろうとしたがってしまい、そのような矛盾した言葉ができあがるものである。だいたいそういう二項対立は、実際そこまで対立していなかったりすることも多い。 だからこそ、おそらくエピクロスを読めば読むほどストイックだなと思うことはあるかもしれない。学問の世界でもよく、冒涜的な人というのは大体とても真摯で純粋な人だったりするように。 エピクロスの文中に「快楽」という言葉があるならそれもまた、ギリシャ語の語源を辿ればまた今の意味と全然違う意味を含んだものになるのだろう。ただ、そのために本を買ったり借りたり、調べたりする気力がなくなってきた。 ストイシズムという言葉は、椎名林檎のアルバム曲のせいで昔から知っているというのか。その曲自体は、そんなに好きってわけでもないけど、最も好きな「罪と罰」と「月に負け犬」の間にはさまっていたせいで、なぜかよく再生されたというか。罪と罰のプロモは、カラオケで散々見た。
2019.11.29
コメント(0)
「歴史にもしもはない」とか言うが、逆だろ!っていつも思う。歴史には「もしも」しかないです。「歴史にもしもはない」というのは、歴史を信頼しすぎでしょう。
2019.11.28
コメント(0)
missgestaltきくと、涙が止まらないです。サガフロンティアが合計100週以上してたのにくらべたら、たぶん3週くらいしかしてなくて、そこまで思い出深いゲームだとは思ってなかったけど、実はとても心に突き刺さっているのです。第二次性徴期頃のものは、色々やばいんです。
2019.11.20
コメント(0)
曲もだけど、歌詞がすごく良い。
2019.11.20
コメント(0)
哲学を学ぶ上で、占星術の9室という感覚は、最も重要なものだ。もともと、占星術の9室自体は、射手座を表し、哲学それ自体の意味がある。そこから派生して、宗教、主義主張の戦い、外国、大学、も同時に意味する。 宗教、哲学、外国、大学その四つが同じものとして取り扱われるのには意味がある。私たちが、哲学や外国や大学に憧れるとき、それは宗教になっているのだから。哲学と接点を持つ人はそれほど多いわけではないが、外国や大学と接点を持つ人は割と多いはず。 外国よりも、大学のほうがより宗教性がわかりやすい。私たちは「大学」に憧れる。受験は、「憧れ」によって成り立ち、憧れのためにお金を惜しまない人から、塾や大学は金と子供の生きる大事な時間を奪う。自分らしく生きる大事な時間を奪っていることもあるし、悪いシステムのなかでも自分らしく生きることができる人もいる。 しかし、あの大学に入りたい、という気持ちには、まず憧れがあり、同時に「憧れは理解から最も遠い感情」なのである。憧れているということは、それを理解していない。理解したら、憧れることができないから。でも、大学に入ってみないと、大学がどういうところか、理解できないんだな。大学に入らないと、大学という憧れが払拭できないんだな。 親は子供に勉強を奨励するが、そこにはまず勉強という名のカルト宗教にすでにはまっているのである。大学に入って、じゃあ、それで人生は幸せになるのか?そんなわけがない。偏差値の高い大学に入ったほうがその後の人生の幸福が保証されると、なぜ言えるのか?そこには宗教的な論理の飛躍が存在している。そしてそれは、そう思い込ませる洗脳なのである。 大学進学率がどんどん上がってきて、大学は形骸化していく。なぜなら、教員数は増えず、生徒数がどんどん増えていくわけなのだから。ひとつの授業に対して、学生の数はどんどん増える。ということは、手が行き届かないということである。 教員に対する学生数が増えていくとどうなるだろうか?1対1の授業なら、学びの効率は最大で、そこから学ぶ人が増えれば増えるほど、「対話」ではなく「一方的な押し付け」「一方的な話」だけが教育になっていく。すなわち、それは小中高と変わらない。違いがあるとしたら、大学に入ればそれより上の受験勉強がなくなるだけで。無意味な時間の浪費である。 将来就く仕事のための序章になるような教育ができればそりゃいいのだが、だって「勉強」は多くのひとにとって人間が生きているための絶対条件じゃないんだから、直接役に立つわけじゃない。少なくとも、高校以降の知識は万人が持つ必要のないものだ。 むしろ一番問題なのは、そういったよりハイレベルな知識が本当に必要な人のための学びの席が、その知識が生涯必要ないような人に占領されているという現状でもある。 宗教的な「ありがたみ」が勉強を通して感じる人もいるだろう。しかしその態度から感じられるのは中世の「自分で自分を傷つけて、苦難を通してありがたみを受け取ろうとするキリスト教徒」たちと同じ元型だ。 勉強は苦しみで、「苦しみには見返りがつきまとう」という「カルト宗教的思考」がこの世にはある。若いうちは、特にそうである。しかし、なんということでしょう、実はこの世の本質は「苦しみに対する見返り」ではないのです! この世は「苦しまなければならない」苦しまなければ立派ではない、と皆思い込んでいる。そう、思い込んでいれば、この世はそうなるように確かにデザインされております。だから、苦しみたければ苦しめばいい。苦しみというメガネを通して世界を見れば、世界は苦しみで満ちている。でも別のメガネを通して見れば、世界はその別のもので満ちている。 ひとびとは、そこでなぜ苦しみという名の色眼鏡を選ぶのだろう?苦しんだ方がエライという優越感、ルサンチマンもある。それが肥大化して、無意識に押し込まれ、もはやアタリマエに意識されなくなってしまったのだ。 カルト宗教の恐ろしさは、何か勧誘がきて「あ、これはカルト宗教だな」と思える時には全く心配はいらない。対象化さえできれば、カルト宗教は存在できないのだ。でも、私たちの日常のごくごくアタリマエに潜み、テレビもネットも周囲の友達みんなもその思想に生きているとき、それをカルト宗教だとすら認識できない。そのときカルト宗教は成立するのだ。何かを名指しして「お、あれはカルト宗教だな」と言えるとき、それはカルト宗教の力を持たないが、それすら認識できないとき、カルト宗教の最大の力が発揮されている。そこでいえば、現代、誰も「勉強」を疑わない。学校の先生も疑わないし、両親も疑わない、学生も疑わない。皆洗脳されているのである。 勉強の苦しさに反応して、良心が囁く「こんなことして、将来何になるのだろう?この世には、もっと楽しいことが、いっぱいあるのに!」そう思うと、勉強が何も頭に入らない。 当然だ!なぜなら、その受験科目は、将来役に立つ知識じゃないんだから。本当に人生に必要な知識は、詰め込む必要もなく頭に入ってくる。だから仕事になればできるときはできるじゃないか。 頭に入ってこない段階で、それが楽しくない段階で、人生のためになる知識ではないと気づくべきである。皆がこの精神を大事にできれば、それこそ学びが必要な人、学びが快楽になれる人へ学びを提供するというシステムができるのに、勉強がカルト宗教化していて、勉強が必要ないひとまで勉強して分母数を無意味に大きくするから、勉強が本当に必要な人に適切に席が回ってこないのである。 勉強する人の勉強の苦しみを直接経験するわけではない他者は、自分は勉強の苦しみを受けないからといってより一層勉強を子供に押し付けようとしたりする。その姿を、カルト宗教的と言わずして、なんというべきだろう。 それもこれも「苦労しなければ立派ではない病」なのである。キリスト教の聖書というより、ひとつの人類の普遍的無意識と心理的パターンを表した神話物語として、そこで「カインとアベル」の話を想起させられる。 アベルとカインが同じように苦労して作物を育て、神にそれを捧げた。しかしそのうち、神はアベルには「苦労の報酬」を支払い、カインには支払わなかった。それを恨んで、カインはアベルを殺した。 世界はそのカインのような無意識でできている。神という言葉が現代風にそぐわないなら、それは運命の動きの力のようなものとして解釈すれば良い。 カインとアベルは同じくらいに努力をした。だがアベルはその努力が報われ、カインは報われなかった。大学に当てはめてみると、もっとわかりやすい。カインとアベルは同じくらい勉強した。だがアベルは実力以上の大学に合格し、カインは実力以下の大学にも合格できなかった。 そしてはカインはアベルを恨むようになった。 この話のなかには、「努力したら、報われる」という法則を求める人間の無意識が存在している。そしてその法則に反することが起きた時、人は凶暴になり、怒り、他者に損害を与える。人々の間で連鎖して、損害を与え合う。勉強には、その力がある。他者へ怒りをぶちまけられなければ、自ら死を選ぶという強烈な事実でもって、私の死を認識した他者に私の怒りと悲しみをわからせたいという欲求がひとには生まれることもある。 人の原点に「わかってもらいたい」がある。9室にはその原動力があり、わかってもらえなかった恨みもまた、9室の力である。あれは宗教だ、というのも「私の意見をわかってもらいたい」という原動力がある。経験論的に築かれた自分の価値観に反するものや、過去の恨み、努力と結果の不釣り合いの恨みがつのりつのった対象に対して、「おまえは間違っている」という意見をわかってもらいたい、という欲求もまた、9室的衝動である。 古代から、宗教同士で「お前は間違っている、俺は正しい」という意見のぶつかり合いがずっと続いてきた。現代でももちろん「科学・非科学」「教養・無教養」などの間でのレベルでも、それは起きている。先ほどのように、見えない対象を祭り上げて、何かをカルト宗教と呼ぶ、そんなことを人間は昔から繰り返してきたし、今でもそうだ。 そこでは、お互いにもっともらしい意見をつくりあげて戦わせるが、そこに確信的意見などない。どんな意見もこねくりまわした屁理屈ばかりだから。簡単な言葉を難しく言うことで優位に立とうとする人も言えば、声の勢いで優位に立とうする人もいる。なんとかして相手の悪いところをひねり出そうと努力している。ただそれだけの違いなのである。 すべては、「お互いにわかり合いたい」という原動力がある。私たちが個別の存在たらしめ、人間たらしめているのは「他者との隔離」にある。相手の気持ちがわからない。それが現世の特徴である。そこではじめて、「お互いにわかり合いたい」という衝動が生まれる。平和的であれ、暴力的であれ。相手の気持ちがわかったら、わかりあいたいなんて気持ちになることもない。それに憧れることもない。これもまた、かつては全てがひとつであったことへの、何か郷愁のような衝動だと言える。
2019.11.19
コメント(0)
酒、タバコ、それは思考を麻痺させる。それと似ていることと言えるのは、人は何かに夢中になっている時、時間を忘れ、部分的には楽しさを感じることだ。 幸福が時計の針を早めるように、人間にとって不幸な時というのは、時間がとても遅くなる。それすなわち、「思考の時間の流れ」と「現実の時間の流れ」が別々に存在しているのである。 あっという間にすぎる時計を見て、時間のもったいなさも感じるが、しかしそれこそが人間の幸福である。思考が麻痺する状態で人はクセになる幸福を得るというのなら、人は、多くを考えなければならないとき、不幸である。しかし、何かに没頭しているという意味で考えるときは、幸福である。 何か作品を生涯で創り上げたい、と言う人もいる。それはわかる。己の魂の底まで、何か形にして吐き出せたなら、それは幸せだろう。全力で打ち込むこと。そこには幸福もある。善人にも悪人にも誰にも邪魔されたくないし、口出しもされたくない。誰かにあわせていたら、私の魂の底まで表現することができないから。全力でできないことは、それにふさわしくない。誰かに邪魔されるようなことも、それにふさわしくはない。 人が何かをするとき、「私は生き長らえたい」それが根底にある。しかし、それに縛られるのも癪だ。ただ食っていく生活に満足できないのも人間のサガで、そういう生活に満足できないというのは「私は生き長らえたい」という本能に反してさえいる。しかし、人は「私は生き長らえたい」よりも「ワクワクすること」へと向かってしまうのである。
2019.11.18
コメント(0)
安楽死に関するテレビ番組を夜中に見ていた。実際は、それについて人が語るところはここではないのだろうが、最も印象深かったのは、眠るように人が死んでいくところを見れたところだ。 多くの病気は、こんなにも安らかに死ねないだろう。いわゆる「よくできた人」は「人に苦しまないでほしい」と願いながら「長生きしてほしい」と思っていたりして、慈悲深いと人は言うだろうが、そのふたつは矛盾することだって多々ある。場合によっては、どちらかひとつしか取れない。 これほどまでに安らかに死ねるなら、人は皆そうなってしまえば幸せなのに、と思う。このような安楽死の技術がある限り、ある意味、人間の最大の幸福の手段は、もうすでに明かされているようなものだ。 しかしそこで思うのは、人類がこの世から滅んだとき、また別の人類があらわれるのではないかということだ。いまはこれは、スピリチュアル的思考ではなく、唯物論的思考をベースにして考えを進めていくと、ここにいきつく。 それは、人間が滅んでも、別の生物が人間と同じ役割に立ち、世界を解明し支配しようとする。そして今の人類と同じく貧乏くじに苦しむ人と幸福に飽き足りない人が生まれる。富はうまく分配されず、どこかで「悪魔の見えざる手」のようなものが世界経済に働きかける。 きっと、そういう役割の存在が、この世の物理法則のなかにプログラムとして組み込まれてるのだろう、と思う。まさにそれで、人類という立場もまた、プログラムなのだ。全生物か、あるいは森羅万象全てに、何か欲望、「力への意思」、憧れのようなものがプログラムとして仕組まれている。 それは「私には欠けているものがあるので、何かがほしい」というプログラムである。すべてに組み込まれたこのプログラムを前提に、世界は動いている。 プラトンが『饗宴』でディオティマとソクラテスの会話でなされた「エロース」の話のようなものだ。ある意味、ニーチェの「力への意志」にも似ているのだろうか。 実際、「私に欠けている、それがほしい」という気持ちがなければ、ビックバンもないというか、この世はずっと静止しているだろう。ディオティマがいうように「神々は完全で満ち足りているので、哲学することもなく、何も欲することもありません」的なことを。 しかしこの世はいわばその「エロース」すなわち何かを欲する気持ちがすべてに備わっており、すべての生物は、その意志を少なからずもって生きている。あるいは、生きているということがそれなのだ。ということは、それは同時に「進化しようとする」気持ちでもある。進化しようとする気持ちは生き甲斐になる。だから人は、学校の勉強は嫌でも、何かそのうちいろいろ勉強したくなる。仕事が生き甲斐という人は、何か仕事をしているというそれ自体が、何か進化している気分になっているということでもある。 すべての生物に備わっているわけなので、人間の今の気持ちが、人間がいなくなったあと、他の生物が同じ気持ちを感じるほどに「進化」していても不思議ではない。 もしそうなると、人間がいなくなっても、全ては結局同じことである。人間が理性を「進化」させ、今の現状、このようなことを思うようになった。そして、唯物論の世界では「安楽死」が最もこの世の価値あるもののように思えてくる。そして、それを遂行することは正義となるだろう。「未来に、何があるかわからない」と色々言われても、あてにはならず、少なくともこれによって私が、これ以上苦しまないようになるのだから。 この「安楽死は最大の幸福」を否定できる力は数学的確率論、この2019年現在の物理法則、唯物論に矛盾しない世界の常識、それにそった経験論、そういった学校の知識とも矛盾しない世間一般世俗的アタリマエのもののなかにはもはや何もない。外れ者の思想であるスピリチュアルには、これを否定することができる論理がいくらかあるだろう。しかしそれは例えば大きな病院でその話をきけるような常識的論理ではない。 ともかく、私たちがこのように理性を発達させ、その最終的な結論として、「一切皆苦」に気づき、世界が動いていないということが最も幸福だと言うようになる。そしてもしその考えに基づいて、人類が皆安楽死したとしても、別の生物がまた人間と同じような進化をとげ、最終的に同じく生きていることは一切皆苦であるとして、また滅ぶ。 それらは「私に欠けているから、ほしい」という進化の最果てでゼロになるのを繰り返すことなのである。私たちがそこから脱却するには、何があればいいだろうか。それはすなわち「進化への欲求」がなくなることだろう。それは、すべての細胞ひとつひとつに組み込まれているプログラムである。この世を成立させている原因である。このプログラムのせいで、このような結果になる、まったくひどい物理法則だが、その法則も「悪法も法である」と言ってしまうのだろうか。「欲望」を制御できる人は聖人であると、ヒンドゥー教でも仏教でも言われるだろう。しかし、果たしてそのような人がいるのだろうか。この世の大前提プログラムに抵抗できるような人が。
2019.10.27
コメント(0)
クリアするのが難しいゲームなんかでは、いろいろ育て方をミスったとか強武器入手のチャンスを逃したとか、そういうことがある場合は、はじめからやり直したほうがスムーズに最後まで攻略できるときがある。人生における自殺衝動はそれに似ているのだろう。 ゲームをはじめて、一番最初に引くガチャが肝心な場合は、そのあたりがでるまで、ゲームをアンインストールし続ける。そうすると、難易度も変わってくる。 人生をやり直したいという気分は、人生をよりよくしたいという意思に基づいている。ガチャを引きなおしたいという意思に基づいている。私たちが輪廻転生をしていて、今の私を含め、そのほかの過去生や来世などいくつもの人生を経験することとなる「私を超えた私」あるいは「私の操作主」のようなものの存在が前提として必要だが。 ヒンドゥー教やプラトンの『国家』にでてくるような輪廻転生は、その存在の前提がある。それはいわゆる「魂」と呼ばれるものだ。もし私たちは肉体が血を巡らせて機能している間のみが「存在」なのだとしたら、人生にはそのような意味は全く存在できない。人生というガチャを引け直せる存在がないのなら、人生というガチャも意味はない。 ヒンドゥー教の「カルマ」はそのよりよいガチャを引けるようになるポイントのようなもので、過去生で特定の「善」的な行動をすることでポイントがたまっていく。 私たちはとくかく「強くてニューゲーム」がしたいのである。でも強くてニューゲームをしても、周りが皆「強くてニューゲーム」だったら成り立たない。自分だけ強くなければ、その意味がないから。この世に「劣った者」「優れた者」があることが人間の最大の苦しみの核心なのだが、それがないと生きられないようなところもあるらしい。 ニーチェの永劫回帰なんかは、「輪廻転生」しているけどカルマもガチャもどこにもないというものだ。同じ人生を、永遠に繰り返す。それだけ。それを耐えられる力を持つ者を、超人と呼んだ。ときどき、スピリチュアルでは、自殺をすると、そのような永劫回帰的状況に陥るという考え方がある。「自殺禁止論」はプラトンからキリスト教まで、太古からずっとあるものだ。それに対し、「自殺」で落とし前をつけるような文化もある。 これはゆゆしき問題である。なぜなら、人は死を乗り越えることで、おそらく最も強く、最も自由に生きられるからだ。死と、その過程である痛みにたいする恐怖がなければ、人は何でもできるだろう。現代の自殺も、実のところ、むしろ「死と痛みへの恐怖」で行われている。 将来、破滅することを恐れ、まだ破滅していないうちに人生を終わっておく。そのほうが、受ける痛みが少ない。それが自殺というものの合理的解釈である。 自殺すると、他者が悲しむ、他者が損害賠償を迫られ、苦労する。そういう自殺禁止論の場合は、「私が他者になりえるか」という可能性について考える必要がある。私が私の経験のみで完結するならば、強烈な共感覚性を持っていない限り、私は他者の悲しみを本当の意味で体験することはないからだ。簡単に言えば、他者が私の死で悲しんだり損害賠償や死後処理で苦しんでも、私はもうこの世にいないので、その情報が受け取れない可能性があるということだ。 唯物論では死後を経験できないので、死後の誰かの悲しみは私に全く関係ない、と結論を下すことができる。 だがそれに対して、多くのスピリチュアル的な考え方は、死後にも「私」が続くこと、また死後は「私」と「他者」の境界線が生前と常識から転じる可能性があること、そこから他者の悲しみや苦労を死後「私」が味わう可能性がでてくる。 いわゆる現代でも「霊的な人」「あの世と通じてる人」というのは、他者の気持ちを簡単に汲み取ることができる、共感覚にすぐれた人間のことを言う。エンパスともよばれるが、おそらく、他者をモノとしか考えないサイコパスの対極にあるのだろう。他者の悲しみが伝わってくるのなら、他者の苦しみが自分の苦しみに直結してしまうので、そのときはどうしても慈悲心みたいなのが生まれてしまうはずだからだ。 唯物論的な立場からすれば、「他者の考え」は全て妄想にすぎないと結論づけることもできる。私たちは、他者が「こう思っているだろうな」と思って、それに適切な接し方をする。エンパスが強い人なら、そういう気持ちが強くなるだろうが、そもそもその他者が「こう思っているだろうな」は全て私の中の勝手な妄想だと結論づけることはいくらでも可能である。私の「こう思っているだろうな」がその通りだったと相手から聞くことはできるが、それが他者の言葉である限り、その言葉の真偽も究極的には実証できない。 私たちにとって真実が何であるか、私が判断するしかない、だから、エンパスもサイコパスもありえるのである。「人生設計」を、唯物論的な考え方においては「生まれてから死ぬまで」、スピリチュアルな考え方において「死後も含めて」、考える際に、真実というものがどうしても必要になるのである。 自殺することに関して、唯物論的に考えると全くそこにはマイナスがないのだが、スピリチュアリズム的に考えると、マイナスがでてくる。それでもって、自殺衝動というのは、論理的思考ではなくフィーリングであるから、同じく論理的思考ではないフィーリングに近い考え方が対策としてよくきくのである。しかし哲学は「何が真実かは、わからない」という考え方に戻し、スピリチュアルへの懐疑心をそそる。ただ哲学は比較的フィーリングに訴えかける力がなく、どちらかといえば論理的思考の存在なので、論理的思考は「社会常識」を扇動するみたいな方法でしか味方を増やすことができない。
2019.10.20
コメント(0)
私たちは、他者の苦労を喜び、推奨する。私はそうではないが、多くの人はそうだ。目的の達成ではなく、勉強していることを美徳とする。苦労という名の夢を持ち、苦労のために苦労しているところに美徳を見る。苦労する理由から目をそらし、苦労は美しいとする、現代最大のカルト宗教。そして、苦労した末にいつかやってくる死。死はすべての記憶を洗い流してくれるというのなら、苦労をしてもしなくてもそこで同じにしてはくれる。 私たちは、苦労という言葉に惑わされてはいまいか。人間は、生きている限り、行為をする。その多くは、基本、破滅的行動だ。死への欲求「デストルドー」というのは、確かにあるかもしれない。人は挑戦することを美徳とするが、それは一歩間違えば死なのだから、死を美徳としているわけだ。安全な生き方は、人として奨励されない。安定に甘んじず、挑戦し、克服し、淘汰のなかで生き残る者となること。これが世界の多くの人の美徳である。私はそうではないが。 挑戦し、克服し、淘汰を生き残る。これが人類の美徳だとしたら、人は、苦労するために生まれてきていることになる。苦労している者には、苦労していない"ように見える"者への強いルサンチマン・嫉妬がある。だから苦労している者は、苦労していない者を名指しで、卑下する。もちろん、皆が皆ではないが。 人間はルサンチマンに満ちている。自分が苦労したのだから、おまえも苦労してほしい、といくらかの人は思う。そして、世界はそれでまわっている。というのも、苦労がなくては、人生でないからだ。 その標語は、受験とか勉強といった現代最強のカルト宗教の原動力となっている。そのカルト宗教に巻き込まれて、教員も、生徒も、苦労をする、自作自演の苦労。畑を耕し、作物が実る喜びではなく、ただただ、頭を回転させて、吐き気を得る。そこで思うのは、人間は何のために存在しているかである。 挑戦し、克服し、淘汰を生き残るために人間が存在しているという無意識を持っている人は多いだろう。その人は、研究者たちが新しい研究を発表することに期待をするだろう。受験という名目で、皆に一度は研究者の真似事をさせるが、もちろんそんな鍛錬を受けるすべての人間が研究者になるわけではない。この世が研究者だけになったら、地味な労働を行う人間がいなくなり、作物はまともに育たず、世界は破滅である。 私たちは本当に、挑戦し、克服し、淘汰を生き残るために存在しているというのだろうか。私たちが死んでも、「私が認識できない他者」であるところの私の子孫が存在していれば、私が存在することになるのだろうか?私たちに子孫が存在して、子孫を気にかけることになっているならば、その子孫もまた、同じ感性を持っているなら、自らの子孫のことを気にかけなければならないし、その子孫のまた子孫もまた・・・悪循環である。このつながりを、勇敢な誰かが切る必要があるのだろうか。 しかしこの世で自殺は霊的にも俗的にも禁止されている。なぜだろう?幼い頃、死にかけたとき、自分は死の瞬間の諦めのようなものを感じたことがある。そのせいか、死が悪いものには思えない。ただ生の、痛みが悪いものなのだ。自殺の際には、この世でやりたかったことやり残したこと、の後悔のエネルギーがどかっと来るようだ。 事故死とかではこないのだろうか?霊的なものはそこに区別をつくるのだが、その根拠はよくわからない。生まれた以上は、どれほど辛くても、生は貫き、病魔あるいは事故、老いといった他者に殺されなければならない。というのが霊的な考えの主流である。 挑戦し、克服することが人間の存在意義なら、その相当数の、挑戦し、死んでいったものがたちがいることになる。人間は、常に「他者は他者」であるから、他者に対してそういうことが言えるのである。もし他者の気持ちになれたら、世界平和は実現され得るだろう。しかし人間の意識同士にはバリケードがある。ある程度、そのバリケードが薄い人間もいる。「場所の悪い気」を察知し、体調まで悪くなる人間もいれば、何も影響を受けない人もいる。でもそれは特殊な形ので、その人と別のタイプの人同士では価値観があまりにも違いすぎて、お互いのバリケードがより硬くなったりもするのだが。 私たちは「仲間」を探すことを至上としている。この世は皆仲間ではなく、むしろ敵だらけである。時に仲間が敵にかわってしまうこともある。お互いの相性が、皆違うからだ。「ソウルメイト」の考え方は、プラトンの『饗宴』のアリストパネスの演説にまで遡れるであろう。私たちに、世界への希望を持てるとしたら、敵だらけの蟻地獄のなかから、仲間を探すことくらいかもしれない。 ところでやはり、私たちは一体何のために存在しているのだろうか?多くの人が、ジェネレーションという視点を持っていることは、不思議なものだ。なぜなら、現代の常識では、その人の死後、その人が世界のいく末を見ることはできないからである。だから、自分の後生、ジェネレーションなんて考えてもしょうがないのである。魂が、輪廻転生するというのなら、話は全く別だ。それなら、世界をなんとかしなければならない。下手なところに転生したら、えらいことになるからだ。その輪廻転生を終わらせようというのが、仏教だが、その方法は、いまだかつて明確になったことはない。 私たちは一体何のために存在しているのか、その結論を是非持ちたいものだ。その時点で、結論を下すことはできる。しかし、この世は、どんな結論も疑いうるようにできている。科学は、実証主義は永遠に完成しないのである。私たち全体が集団で「世界の進化」を達成しようとしているのなら、それを観測する主体とは一体何だ?一応、私という存在は、人間全体ではなく、人間の中の個体である。だとしたら、人間全体という存在を、観測するような存在とは何だ。もしそれが人間としての「善」であるなら、私が個体である理由とは何だ。 自分の中にある鬱と向き合うと、その苦しみから、「なぜ私は存在するのか」を考えるようになる。でも答えがでない。世界には何かなすべきことが存在し、それは私であってもこなせるというのなら、何も問題はないだろう。それをこなせないなら、何か別の方法を考えたりする。しかしその「なすべきこと」がまず変幻自在で、何かわからない。霊的な教えはそれは「自分が心からワクワクするもの」とだいたいそこで言う。ワクワクするようなことは確かに、挑戦し、克服し、淘汰から生き残るようなやる気を出させてくれるだろう。 ただ、個人的にこの世の原理を表しているなあという言葉にブリーチの藍染隊長の「あこがれは、理解から最も遠い存在だよ」というのがある。ワクワクしているというのは、あこがれている状態で、まだ理解できないということだ。そして理解すると、ワクワクがなくなって、鬱になる。自分を騙していると、鬱は解消するだろう。またあるいはそもそも「将来に対する漠然とした不安」が鬱なのだから、将来の食費だけでも保証でもされれば、急にとはいえないが、ゆっくりと鬱は解消するだろう。 私たちの恐れはすべて痛みである。空腹という痛み、怪我という痛み、病気という痛み。「それまでできたことが、できない」というのが病気、老いの核心で、それらがきたとき、今普通の生活しているその「アタリマエ」をとんでもなく感謝するようになる。理解からあこがれへとグレードダウンしたからである。 私もまた、死をまだ理解していない。まだあこがれの段階である。この世でいいことがないなら、死んだら何かいいことがあるんじゃないか、天国を思想体系中にもつ宗教の心理でもある。今までできたことができなくなったとき、人はそれまでのアタリマエを感謝し、憧れるようになる。でもだからといって、今を大事にしようとしても、1秒1秒は止められはしない。 メメント・モリというラテン語は「もうすぐ死ぬというのなら、何がしたい?」みたいな意味にも解釈はできるかもしれない。ラテン語が使われていた時代の発想っぽくはないので、現代において、のみであるが。何をするのだろうか。もうすぐ死ぬなら、仕事なんて、もう誰もやらないだろう。キャリアなんて、もう誰も積まないだろう。それはある意味、苦労が人間の本質ではないという証なんじゃないのか。ただ、現代の社畜みたいなレベルで苦労というカルト宗教に盲信な人々は、明日破滅するとしても冗談抜きで出社するようなのもいるんじゃないか、というレベルで無思考な無感覚な人間も、たまにいそうで怖い。 死んだ後、少なくとも私の肉体はなくなるが、それでも残る何かがあるなら、肉体を持つ今よりもずっと軽いものだろうか。つ
2019.10.17
コメント(0)
ディズニーランドができたのが、1983なんで、生まれたてくらいからディズニーランド行っていて今年で最も年上なのは、36歳くらいになる人たちだろうか。2012年のCMと書いてあるので、2012年ならまだ29歳なのか。ディズニーランドができた、1983から36年、このサイクルで、再び今年、来年、同じ星回りでござる。私たちは、何もかもが限界だ。だから、今年来年で、少なくとも表にはでなくても、何か世界は大掃除されるような、そんな原動力も動いているだろう。日本には、バブル経済が訪れた。ディズニーランドができた。ファミコンが発売された。インターネットの一番最初のサービスくらいのものができた。 それと同じ星配置で、2020年以降、訪れるのは、何者だろう。この世の限界を思わせるお話ばかり、耳に入ってくるだろう。それは変革の予兆かもしれない。この世への「感情移入」をやめなければならないのだろうか。私たちの望みはただひとつ、新しいものを見て高揚することである。残虐な話がはびこるこの世にはもう飽きた。来年までの星合わせは、破壊の星ではあるが、そのような気分にとっては良いものではあるかもしれない。 私たちは、永遠に終わらないものを想定し、自分の未来すらそのように錯覚する。しかしこの世は同じことが繰り返されないというプログラムをされて始動しているから、逆に永遠が存在できない。そのなかで、私たちは将棋AIが永遠に勝ち続ける方法を模索しとても強くなっていく、それと同じような目的を持って生かされて…いるとは、断じて思えない!
2019.09.25
コメント(0)
入学式も卒業式も、特に印象深くなくて覚えていないかそもそも出ていないかのどちらかだったりしたし、その頃に誰かの結婚式にでたわけでもないから、この映像と経験的に感情移入できるところはない。ただ、覚えているのは、いまの自分の年齢の半分前の頃、15だか16だかわからない頃に、たまたまカウントダウンTVを見て、10位にも入れない後ろの方で、3月9日がランクインしていて、はじめてきいたのを覚えている。あの頃は、誰もレミオロメンなんて知らなかった。粉雪あたりまで。なぜかその10年後くらいに、この曲がヒットした感じがあった気がするが、その頃にはもうレミオロメンなんて全然きいてなくなっている頃だった。今では、カラオケにいくたびにこのmvを見ている気もする。#6キーをあげると歌いやすくなるのだが、機種によってうまく音があわなくて、おかしくなるのをなんとかしたいところ。 これは自分が15か16くらいの頃に聞いていた曲だったから、堀北真希と自分が同い年なのもあるのか、映像の雰囲気が、2004とかあのへんの世界を伝えてくる。あの頃はその西暦自体が現実だったはずなのだが、今はもう映像のなかの世界だ。今の空気感と、この映像の中の空気感に超えられない距離ができてしまった。2004にこの映像を見たときは、距離はなかっただろう。 あの頃の自分と今の自分とでは、考え方も知識も経験も、全く360度違う。でも正直自分の魂自体はこの2004くらいの16才くらい止まっていて、あの頃の生活の続きを、いつでもはじめられる準備はできているのに。
2019.09.21
コメント(0)
行き着く先が皆同じであることを知ってか知らずか人生を意義あるものにしようとして、サイコパスになる人たちばかりの社会では、「自分以外存在しない説」が心にとても甘く響くものである。「我思うゆえに我あり」つまりCogito(私は考える) ergo(したがって) sum(私は存在する)「私は考えている=私は存在する」「考えることができる範囲=存在・実在の範囲」私が私と名付けるものは、つねに私の思考が及ぶものなのだ。裏を返せば、自分の考えの外にあるものは、他者とは、私の妄想か、あるいは私が「存在している」と思い込んでいるだけの存在で、そんなもの何も存在していないかもしれない。 そんな風に「私以外、いないのかもしれない」(たしか、矢井田瞳の曲の歌詞)と仮説をたて、自分の心を慰めているのは他ならない、他者の意見に嫌悪感を持つからだ。 私は他者から「世界」に関するなんらかの情報と、同時に「世界」に対する意見と意思を聞く。その積み重ねで、私は「世界」を認識する。他者からの意見と意思で、私の「世界」への姿勢も決まる。他者からの情報をもとに、世界がどのようにできているかを想像し、それが私の「世界」に対する認識となる。 他者からの情報に合致する情報を別の他者からも得るかもしれないし、得ないかもしれない。やがて、その他者からの意見で私が想像した世界のありかたが、私の気にくわなくなる。それは、私が私の想像した世界の物理法則から脱却することを意思する力となる。 結局は、私の思考を化学変化で変容させるために、情報は投げかけられているだけなのだろう。これをもっとわかりやすい言葉で言えたらいいなと思う。ということは、私は誰かに伝えたいのだろうか?私はまだ何かに期待しているのだろうか? 私は、私が生き延びることに、期待しているようだ。哲学や宗教は、この世の享楽にありついている人に対するルサンチマンなのだろうか?
2019.09.15
コメント(0)
自分が社会不適応な理由として自分が人に厳しくするのも嫌いだし人から厳しくされるのも嫌いだしまあ、そういう機会も最近はないからいいけどいわゆる「直感で危険を回避する」能力が強い自分だがそういう人に厳しくしたり厳しくされる機会を直感で回避しているので必然的に社会的にフツーのものの多くを回避していることになっているやも
2019.09.14
コメント(0)
もしもこの世を霊的に見ようと思えば、まずはそう見える。唯物論者をベースとして、出来事の意味に霊の要素を加えればいいだけ。認識は偏見であり、宗教でもある。 唯物論という偏見で世界を見ればそうなるし、霊的な偏見で世界を見ればそうなるだろう。唯物論だろうが、霊的世界だろうが、やってこないものがある。「何かがやってきている」と見なすこともできるし、「何もやってきていない」とみなすこともできる。 何かが来る年だとみなしてはいたが、とにかく人生にむかついてばかりである。人生は、一体私に何をして欲しいのだ、と。しかしまだ期待している。まだこの時期は終わっていない。来年一月には私にアポカリプスでもやってくるだろうか。答えを決めかねていたが、いわば、いやでしょうがない出来事がやってくることではじめて「こっちはいらん!こっちのほうがマシ!」と断言できる、その不甲斐なさ。 人と出会えば、普通に、普段通りに、接するだろう。しかし、私の心の奥は、魑魅魍魎で、思えば毎年この時期はこうだ。夏の暑さにやられ、(冬は冬で冬の寒さにやられ)、そのままお盆がはじまると…。霊が帰ってくる時期だとはいうが、そういう霊的世界の偏見でものを見れば、確かに霊に取り憑かれているかのように、私の心の奥は、うるさすぎる乱戦状態だ。 あくまで、あくまでも、人と出会えば、普通に、普段通りに、接するだろう。仕事があれば、普通にやるだろう。でも心の奥だけは、踏み荒らされている痛みがある。外にはでないが、心と通じているこういうブログだけにはそれが現れる。 エヴァの映画の最後のセリフが「気持ち悪い」だが、自分も世界に対して同じ言葉を何度も感じている。世界からDVを受ければその言葉を吐くが、でもいいものをもらったらきっと全部記憶喪失になって「人生って素晴らしい」なんて思ってしまうんだろうね。終わりよければ全て良し、なんだろうけど、でもDVが過ぎると死んじゃうってことも、本当にわかって欲しいのだ。
2019.08.08
コメント(0)
夢を見すぎて、疲れた、夢から目覚めても、まだ夢の中だった。夢の中で、死にそうだった、あとから思えば、死ねばよかったと思う。そうすれば、本当に死ねたかもしれないと。でも、死に瀕すると、「死にたくない」なんて思ってしまうよくわからないプログラムがあるもんだから、死ねなかった。 今日も含め、寝ている間に、自分が、気づいたら死んでいたらいいのに、と思って眠りにつくのを、子供の頃から、何度繰り返しているのだろう。もう2度と起きたくないと、思いながら眠ってばかり。特に、この家で。 何かが不足しているというわけでもない。ただ人はいつも、「進歩の必要性」によって焦らされている。人は常に前進し続けなければならない、それが正義になってしまっている。だから、不足がなくても、現状維持だと、気にくわない。人はいつも向上を目指し、なかなかその病気が拭えない。向上を目指す人だらけなせいで、皆が皆向上を目指さなければならない。向上を目指さなければ、一切皆苦もないはずなのに。進化も、ビッグバンも、生命の誕生も、向上のなせるわざである。向上のせいで、なんとも生き地獄だ。 死に際して、どんな金も名誉も権力もあの世にもっていけないという。そう考えなければ、世の中は不平等だ。どう生きても、同じ。だからこそ、愛がある。向上した人も、向上しなかった人も、等しく扱われなければ、それは愛ではない。 この世に神の正義があって、それに反する生き方が死後裁かれるかどうか、は確かに死んで見ないとわからない。死後は、生前より合理的な世界なら、そういうことになるだろう。でも合理性も、人によって意見が違う。死ぬこと、それは生きることの最大の目的だ。怖いのは、生と死の境目だけ。 忘れると、人はそれを憧れすらする。ブリーチで愛染隊長の「憧れは、理解から最も遠い存在だよ」みたいなセリフがあったと思うが、読んでいた当時はなんとも思わなかったが、いまになるとわかる、この言葉はほんとうにほんとうに、いやほんとうに世界や大衆の心の核心をついていると思う。カルト宗教は、常識の中にひそんでいるものほど、多くの人が意識できないから、たちが悪い。あなたがそれを憧れている限り、あなたはそれを見誤っていると言っていいはずなのだから。 大人になると、これほどまでに子供の頃を忘れているのか。いや、自分は忘れていないけど、自分が子供の頃を忘れている大人たちが、こんなにいるものなのか、といつも思う。勉強を子供に押し付けている親とかは、自分が勉強していて辛かった気持ちを忘れて、「あの頃、もっと勉強していれば」なんて言ったりするが、それは完全に記憶喪失だと思う。あの頃はあの頃で全力だったはずだからだ。自分はまだ、それを覚えている。 それは、過去を許していないということだろうか。だから、この家に来るたびに、体力は溢れるのに、精神は病む。東京では逆で、精神が病んでいるときもあるが、ここよりずっと軽く、交通などが発達しモノが流通し、なんでもできる場所なので、気持ちは比較的楽かもしれない。でも自分の体内の、体力の溢れる泉みたいなのが枯れて、欠落する。どちらがいいのやら。
2019.08.08
コメント(0)
憂鬱は「死」が癒すのだろう。この世は心持ち次第で、天国にも地獄にもなるということは、よく知っている。しかし、その心持ちをコントロールするというときは、いつやってくるのか。それは「努力」で得られるものかのかすら、さだかではない。 古代から、キリスト教だって、仏教だって、人間の持つ「アセンションした人」への憧れの象徴のようなものだ。私の思念は、世界に反映する。 しかしそれはテーゼであって、そこにはアンチテーゼもやってくる。シュタイナーは言っていた「ヘーゲル哲学は、古代の叡智である秘密結社の哲学の流出である」というようなことを。だから、それを当てはめて考えなければならない。 私たちの世界は、私たちの思念の反映である。そこは前提=テーゼとして存在する。しかし、その思念の反映に矛盾する出来事が起きる。それが反前提=アンチテーゼである。そこで、私たちは、私たちの思念は世界に反映しないという経験論的結論を下す。そのようなアンチテーゼが訪れる理由を、ヘーゲルはなんと言っていたか「アウフヘーベン」である。アウフヘーベンとは、「上に上がっていくこと」すなわち進化のことだと言っていい。 アセンションは、ラテン語で「登ること」なのだから、「上に上がっていく」アウフヘーベンとほとんど概念が近いと言っていい。でも、アンチテーゼがあるなら、私たちの思念は現実に反映されない!なぜ私たちの思念が現実に反映されないのか!それは私たちがアウフヘーベンあるいはアセンションするためだ。アセンションした人とはしかし、その「思念が現実に反映される状態」のことを言うのではないのか。だとしたら、アセンションを妨げているのは、アセンションに他ならない。だとしたら、アセンションなんて、進化なんていらない!進化の必要があるから、いつまでも苦しまなければならない。アセンションがなければ、アセンションができるのだから。 何度か、人の相談に乗っていて、それには誰にでも親身になって答えるつもりでいるが、自分のこととなるとだめだ。来ている星が、なんであるかもわかっている。そこまでわかる、相談相手がほしい。代わりに、相手の星の相談にも乗るから、というくらいに。実際、いいアドバイスってのは、自分から自分には与えられない。他者からの意見だけが、思いもしない良策を与えてくれる。それはどんな霊能者とて同じだろう。 映画が、テレビが、いろいろな洗脳をしている。都市伝説とか、そういうことを言ってるんじゃない。特定の職業に対する、印象操作をしている。それは別に意図的であろうが、そうでなかろうが、かまわない。何かを隠すための話題づくりだろうが、そんなものなかろうが、どちらでもいい。 だが、メディアが作り出した、「大人像」に苦しんでいる人は、たくさんいるはずだ。自殺者もいるはずだ。面白い話のために、未来を犠牲に。
2019.08.07
コメント(0)
考えると、精神的にまずくなる。だから、考えない必要がある。 自分が人と比べて、異常に疲れやすいのは、筋トレとかでよくなったりするかなと思ったが、全く変わらない。今までのTシャツが筋肉のせいで窮屈にはなったのだが。 この疲れは、いわゆるバイタルとか体力みたいなのとは別次元の疲れのようだ。運動して疲れるのはさわやかさや達成感なんかがあるものなのだから、そういうものではない。夏の暑さにやられてもいるのも確かだ。しかし腹の奥底にこの無気力感はしっかりと染み渡る。 やりたくないことがある。車の免許を取ることだ。でも皆はそれを当たり前のようにやっているし、人によってはそれをわくわくしながらやるらしい。交通事故で大怪我した過去を、トラウマとしてただ言い訳に使っているだけかもしれない。というか、暑すぎて車校にいけない、を毎年繰り返している気がする。夏冬以外はまとまって同じ場所にいる期間がない。東京はともかく、地方都市って、「外に出れない状況」が多い気がする。40度近い夏の時期と、花粉症がやばい時期。というか、それらの時期に限っていつも地方都市にいる。 これらの疲れは、生きるために働いたところで、帰ってきてからそれだけ分ベッドで横たわる必要がでてくるようなものだ。好きな仕事と、嫌いな仕事の両方を掛け持ちしている。好きな仕事だけになってくれれば、人生は幸福になれるのだが。 などと、ものを考えるということは、心を病ませる。私は決してやらないが、大人になると、酒やタバコ、コーヒーなんかを好むようになる。それらの効能は、きっと考えることをやめることができるからだろう。どちらも、麻酔あるいは場合によっては麻薬のようなもので、考えることをやめさせてくれるから、きっと皆そこに幸福を見るのだろう。 自分の場合は、そのために、空き時間は全力の戦いの必死さから忘我ができるようなゲームをしないと、考えや学問によってネガティブに陥った心に「英気が養われない」気がする。具体的には、mhwでベヒ救援をする。 没頭できる仕事はいい。でも没頭できない仕事は、考えさせてくる。私の生命の残り時間とかを意識させてくることもあるし、もしそれを意識して、残り時間で最も生きがいを感じることをやりたいと思ったところで、「明日死ぬとしたら、何がしたい?」といった問いに対する答えも、なぜか全く見つからなくなってくる。 よくオカルトみたいなので、枕の下に「飽きた」と書かれた紙を入れて眠ることで、私はこの世に飽きているということを超越的存在に訴えかける方法があるのが、まさに、少なくとも現状には、この世界にはやりたいことが見つからないくらいに飽きている。「やりたいことがある世界」を想像はできる。パラレルワールドにいきたい。そこでは、自分の好きな仕事をしていても、飯を食っていけるようなところへ。
2019.08.07
コメント(0)
なぜか、youtubeのあなたへのおすすめにでていた。小学校の頃は、マトリックスという響きがかっこよく感じたが、よくよく考えれば、matr=母なので、母体という意味だ。日本語で母体、母性なんて言ったらかっこよくは感じないだろう。哲学史でいえばソクラテスが発端だった、「この世は仮想現実である」という考え。歴史でソクラテスに関する文献が確認されているだけで、もっと昔から人はそれを考えていたのだろう。だからマトリックスだって「現実=仮想現実」と「目覚め」をテーマとしている以上、ソクラテスのこの思想の後継者、すなわちネオプラトニズムだ。この世は仮想現実である、VRである。私たちは、「現実と思い込む」という強いプログラムのもと現実を生きていると思い込みながら、どこかこの現実から遠い場所で、VR装置で現実を五感で感じているだけだ。現実は映像にすぎないし、五感や感情は、そのVR装置が用意して、私の体に電流を流しているだけだ。マトリックスでは、目覚めると、よりひどい現実なのだが、私たちの現実世界では、どうであろう。アセンションという言葉がよく言われる。地球的周波数という名のVRを外し、本来の宇宙的存在に戻ることがアセンションだともいう。マトリックスでいえば、なんかカプセルかなんかを飲んでた気がするが、それを使って目覚めることだ。ネガティブな周波数を全て外して、ニルヴァーナの感情だけになって悟る、というのにくらべて、飲むだけでいいなんて、実に楽なことだ。ブッダが悟ったのも、「苦行」ではなく「飲んだ」ことだったが、私たちも、「苦行」でしか悟れないと思い込んでいて、それがそういう現実をつくっているだけかもしれない。「飲む」ものを与えてくれるスジャータなりモーフィアスなりを、待つしかないというのだろうか。
2019.07.26
コメント(0)
全2854件 (2854件中 1-50件目)