2020.01.21
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カテゴリ: 表沙汰
土星は時間、草刈、すなわちものごとの線分をあらわす、現実的感覚、時間感覚、物質的感覚、そういったものはすべて無限の広がりに「線分」をもたらすことで生まれるように。例えば、時間が無限にあったら、時間を認知できない。はじまりと終わりがあるから、時間を認知できる。人生というのも同じである。それが「線分」の力である。

 土星を意味するサトゥルヌスはギリシャではクロノスなので、時間を意味し、サンスクリットならカーラを意味し、カーラの女性形はカーリー、すなわち土星の女神である。
 カーリーはたくさんの剣を持って、それでもって刈り取った人間の生首の首飾りをしている。切るという意味でまさに時間、線分の女神である。時間は区切ることではじめて存在できるのだ。

 よくスピリチュアルっぽい自己啓発で、「この人のようになりたい」という偉人をあげて意識するといい、というのがある。部分的には、自分はラーマクリシュナがそれにあたる。もっと部分的には、アレイスター・クロウリーだってそれにあたるかもしれない。もちろん、一生ニートでも金に困らなかった名もなき富裕層の人がいたら、その人は完全に私の「この人のようになりたい」かもしれない。
 人生は霊的修行の場、という考えから、苦労する人生のほうが意義がある、という意見もよくわかるが、いまは自分は「いかに人生をやりすごすか」で必死であるという現状には言い訳ができない。

 一生ニートでも金に困らない人も幸せだが、「精神的に幸せ」な人も幸せである。「満足な豚より、貧しいソクラテスのほうがいい」という言葉は「のほうがいい」という言葉を除けば、なんとなくまだ享受できるかもしれない。つまり「満足な豚と貧しいソクラテスは、同じくらい幸せである」と。

 精神的に満足していそうな人としてラーマクリシュナを、「主に伝記から読み取れる分には」ではあるけど、個人的にはあげられる。ああいう境地が本当なら、最も「宗教」を有効活用できた人なのではないだろうか。多くの人にとって、宗教、特にカルト宗教と言えるものは、不安を不足感を煽って宗教団体が儲かるシステムのために、教徒はむしろ幸せでなくなってしまうようなことが多いのだが、ラーマクリシュナは話が本当なら、宗教によって幸せになることができた人だからだ。

 実際のところは、ラーマクリシュナはいわば古代のシャーマンのような生き方をしたわけで、つまり薬物や別にそういうものでなくともトランス状態の維持といういわば現代で言えば狂人にあたるものの力でずっと幸せだったという話にすぎないかもしれない。
 ただ、古代から「しらふでトランス状態にある人」というのがずっと「聖人の条件」だったりして、すなわちドラッグに頼らなくてもドラッグの状態になれる人、という聖人の話は昔からいくらかある。実際に、「脳内エンドルフィン」を自在に操ること、これは何一つ物質に頼らず幸せに生きていけることなので、それを習得したら、無限のお金を持っているのと等しい。お金は基本、快楽を得るための交換物なので、快楽を無限に得られるなら、無限のお金と同じものである。


 これはまさに仏教とかのいう「ニルヴァーナ」なのかもしれないが、ドラッグによってのみ、そうなっている間はドラッグを得られない状態という「物質」の欠乏の可能性を持つので、ずっと幸せというわけにはいかない。病気の間、「麻酔」がずっとかかっていれば、痛みはないが、麻酔が切れるということがやがて起きるのと同じ。そして「麻酔がなぜ効能があるのか」はまだ科学でもよくわからないと聞いたこともある。自分の力で自分の脳内に麻酔を作り出す、それができれば人は永遠に幸せである。





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最終更新日  2020.01.21 22:24:44
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