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先日ですが弊社のメンバーで京都東山の建仁寺に見学にお邪魔してきました。そこで見学した古美術のひとつが「風神雷神図屏風」もちろん、多くの人に知られているように尾形光琳作の本物は国立博物館に収蔵されています。その美しさ、技巧に感銘いたしました描かれた当時はまだ電気もスポットライトもありませんから、おそらく南に向かって建てられたものでしょうせっかく貼られた金箔が活きるようにねということは、この絵は左右という視方をするのではなく、東西という見方をするのではないでしょうか五行思想と言うのがありまして、東西南北に意味がありそもそも平安京からして東西南北に都市建設されています東は色でいうと青であり、季節でいうと春になります。青は現代信号機の青色が実際は緑であることや若い人を青年というように植物の新緑を表しています風神は緑色で東にあたり、色は青(緑)に描かれています。太陽が昇る方ですしね。一方、この風神雷神図屏風においては雷神は白色で描かれています本来、カミナリ様は赤で描かれるものとされていますが、五行思想で言えば西は秋であり白であるとされることから雷神は白で描かれたのではなかと考えます。右双は春が描かれ、おそらく風神の袋の中には穀物の種、米がどっさり入っていてそれをもたらすものとして描かれ、一方の雷神は秋の稲刈りの際に訪れる雨や台風だとかを表しているのでしょう台風は困るという物の、雷神がもたらすものは「稲妻」です稲妻というだけに稲の妻、英語で言うとライスワイフですが稲妻が起こることに拠って米が実るというところから稲妻となったとされています。もしかすると、雷神の姿は稲刈りの体勢を表現し、両腕が右手であるのは稲刈りにおいて鎌を持つ手であるからではないでしょうか・・・多分違うけど風神と雷神の目線はこちらを向いています中央の空間はたいへん緻密に計算されたものでしょうこの2神の目線が交差するところには麒麟がいるはずですこの屏風を見る者がまたその位置であり「麒麟」と呼ばれる最も尊い神獣となり、それは米を生産する農家の人々では無かったかと思います
Feb 13, 2024
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ニューアムステルダムという街をご存知ですか?アムステルダムなだけにオランダと関りがあるように見えますこのニューアムステルダム、多分17世紀くらいだったかと思いますが、どっかの国の多分イギリスだったかと思いますが、ヨーク公という人がいてお金を出して買ったか奪ったかして自国の領土としました。ヨーク公だったので、「ニューヨーク」これがニューヨークの呼び名の始まりと言われています。このニューヨーク、日本も随分昔だったので鎖国もほどほどにしておいたからか、ニューアムステルダムだった当時のオランダなどとは通商があったようで、どうも情報の行き来があったと思われます。日本人の関係者が居たか、あるいは三浦按針と呼ばれたウィリアムアダムスか、東京駅の八重洲口の語源となったヤン・ヨーステンか誰かはさっぱり分かりませんが、日本人が関与していたことを匂わせる証拠がありますそれは何か。大きな声では言えませんが、小さな声では聞こえませんニューヨークは京都を模して建設されました一部のある京都人は頑なに主張していますニューヨークがニューヨークたる中心部のマンハッタンマンハッタン島と呼ばれるとおり水に囲まれており、西はハドソン川、東はイースト川、北はブロンクス、南にニューヨーク湾に囲まれていますこの地勢は明らかに京都と一致します。京都は四神相応と呼ばれる東西南北を神獣に守られた土地とされています西は桂川、東は鴨川、北に船岡山、南に巨椋池と全く相似形です更には京都御所のある部分にはセントラルパークがあります世界ではあたかもマンハッタンのみがニューヨークであるような認識を生みがちですが、これは京都が京都府を指すのではなく、山科区、伏見区などを含む京都市でもなく、洛中と言われるごくわずかな範囲のみ京都としてしか認めない京都人の心根にあるものと大変一致しますマンハッタン島が京都の模倣をしているもう一つの理由が、「ストリート」と「アベニュー」の存在ですこれは条坊制といわれる、長安の都、ひいては平安京を倣って碁盤の目の都市計画を行ったことに他なりませんこれはどう考えても当時からニューヨークは京都になりたかったということに他ならないでしょう。身の危険を顧みず大胆な予言をすれば、500年後、ニューヨーカーと呼ばれる人々は、皆イケズになります
Feb 12, 2024
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先日私どものホテルにお泊りになられましたお客さま。いわゆるインバウンドでフランスはパリのそれこそ本当に中心に近いところへお住まいの方でした。ご職業は建築設計士。やはり日本の建築には大変興味がおありのようです「やはり京都は素晴らしい。美しい庭や光にあふれた寺社仏閣など目を見張るものがある。」「何をおっしゃいますか、私もあこがれのパリ。世界ナンバーワンの観光地でもあり羨ましゅうございます。」お互い世界でも有数の観光都市、文化資産の多い街と褒めたたえあいながらも、ふと心の中で思う(とはいってみても、京都人はイケズでっせ~)こう言っては誤解を生むかもしれませんが、インバウンドの方にとっても京都のお人は大変排他的です。「上ル下ル東入ル西入ルが無いところは京都とは言いまへん」例えば伏見。伏見稲荷の千本鳥居はインバウンドの方で溢れ世界に知られた神社、増してや伏見と言えば安土桃山時代、豊臣秀吉が置いた今でいう政府のあった場所でもあります。洛中で尚且つ数百年に渡って住み続けていないと京都人とは呼ばないそうです。このパリジャンと京都人に見られる差は同じ人類としてどこから由来してきた物でしょうか。お客様との会話の中で、ある日突然気づくことも多いものです私は数百年前のそもそもの都市開発に拠るものでは無いかと仮説を立てましたパリです。パリのような形状は城壁都市と呼ばれます。エスカルゴといった仇名もありますが、これはそもそも蛮族からの襲撃に備えるための街の周りをぐるりと囲んだ城壁が始まりです。この城壁、同じ敵を想定した人々が中に飛び込んでくる。この人は味方、そうすると城壁の中にいる者どおしは市民と呼び合う関係に相応しく進化してきます。すぐれた城壁都市はそうこうしているうちに人口が増えてきます。この時に人口を減らしたり疎外することなく城壁の方を外へ大きく広げていきました。おお、なんと寛容なことか。一方の京都。こちらは平安京です。これは四方を船岡山、桂川・山陰道、鴨川、巨椋池に囲まれた四神相応に恵まれた土地と言ことで、この土地に都を移しました。これがいけない。四方にいっぱいいっぱいまで最初に設計してしまったもので、パリを囲むイル・ド・フランスのような土地の余裕が無くなってしまったといえます。実際に平安京は建都された時からグダグダで、朝見の外国人を圧倒しようと、85メートル幅に及ぶ幅の朱雀大路を設けたものの、渤海が唐に吸収されたことなどから朝見ブームは去り当時のインバウンドはほぼ来日することは無かったとの様子。また、鳴くよウグイス平安京のはるか昔から右京区の南側は沼地であり水はけも悪く最後まで開発されませんでした。折角持ってきた材木は藤原のナントカに持っていかれて、別荘になったそうです。1,000年の歴史の中で度重なる大火に御所は東へ東へと移動し、応仁の乱では平安京の北の方と南の部分か戦乱で分断され、この時上京区と下京区という概念が出来ました四方を神獣に守られているとはいいながら、日本らしく自然災害は平均的に起こっているようです。あと人口密度が高いので火事ねこれでは不寛容な京都人が生まれても何ら不思議はありません。ここまで言うと京都人からクレームも来そうですが、ご安心ください。京都人は皆、映画やテレビで描かれる京都人を自分たちとは違う京都人だと思っています。実際に京都では「ぶぶ漬け」などという食べ物を見ることは皆無です。何故か!? 本物の京都人は皆パン食だからです
Feb 10, 2024
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