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2024年06月22日
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第43回 東方 洩矢諏訪子のモデル神、ミシャグジさまについて、
今回は第43回 東方 洩矢諏訪子のモデル神、ミシャグジさまについてついて紹介します。東方の神様でパッと思ったのがミシャグジさまでした。前回​ 第42回は 潮の流れを司る神、塩椎神について ​紹介しました、塩椎神については以前​ 特別編 ​として紹介させていただいた神様ですね、まさか2回も紹介するとは。前回が2月17日とだいぶ前、これやるのダルいんだよ、中途半端な時期やし夏場は暑くて余計に…ようやく梅雨になってやり易くはなりましたが、最近再び『東方Project』の特に旧作が気になって、気が付くと同人アニメ『幻想万華鏡』まで視聴してました、、マジでクオリティがマジでえぐすぎる、これが2次創作の同人、お金をかけまくった『鬼滅の刃』と遜色がないし、そりゃ途中で制作中止になるわ。『東方Project』本編はまだアニメ化されていない、原作者のZUNさんが難色を示しているとか、アニメ化は運ゲーみたいものだから、どんな有名漫画でも外すとイタイ『チェーンソーマン』と『怪獣8号』の後半はその影響モロに受けてますし。
なお、今回の洩矢諏訪子のモデル神ミシャグジさまとは神の一種であり、諏訪地方においては諏訪子のモチーフである洩矢神や建御名方神と同一視されることも、建御名方神はだいぶ前に紹介しましたが覚えてる方はいらしゃいますか…って言っている本人が覚えてないのですが。​ 第25回 お諏訪さま 建御名方神(タケミナカタノカミ)について ​で紹介しました、ミシャグジの紹介の関係上建御名方神も含めて今回も紹介します、っか、ミシャグジ様のモデルの諏訪子と八坂刀売神のモデルである八坂神奈子どちも記紀に記載された神様でない事が実に興味深い、建御名方神も出所が怪しい様で。
↑↑はパンケーキですね、100円ショップのアレを使うと分厚めに作れます。…つか溢れて出てますが。

(​ 東方ロストワールド ​より、)
権利関係すら不透明な旧作キャラをこのゲームで取り扱うのは難しいだろうとされてましたが、ついに登場しました、まだ本編未登場ですが。旧作をイメージした博麗靈夢と霧雨魔理沙、ここでは別人とされています、どうやらこの博麗靈夢は先代の巫女ではない様です、パラレルワールドの博麗靈夢と霧雨魔理沙だそう、これから旧作キャラもどんどん登場すると思われます。魔理沙は片目が隠れていてセクシーで可愛い、ま、旧作でも魔理沙は最後の方は黒服に変わっていたし。靈夢も霊夢も ”暴力は全てを解決する” みたいのスタンスだし…なお、『東方Project』は最近小学生に人気だとか、キャラが可愛いからね、新たなユーザーが増える事はいいことだ。

こちらは6月22日 午前0時直後の月になります、
あまりにも綺麗だったので撮影しましたが、どうもスマホでは伝わりにくい、ほぼほぼ満月の様なものだ、6月22日は満月🌕でした、正、雨で今日の夜は見られません、



( 東方ダンマクカグラ より、)
ミシャグジさまのモデルである洩矢諏訪子かわいいですね、神奈子よりパイセンなのに容姿が子供なのは童子を現人神としたため、昔の成人は数え15歳、13~14歳で、古代の成人はもう少し早いかも、諏訪子は10歳前後と思われます。現在の現人神である早苗は17歳ぐらいで、現18歳が成人だからその前だと思う、それは成人前の童子を依代に使っていた事に由来してます。

75頭の鹿の首を捧げる「御頭祭」って? 縄文時代は終わったあともスゴかった!【長野】
Travel2019.08.21(和樂webより、)
この記事を書いた人 笛木 あみ
諏訪の縄文が本当に「すごい」のは、むしろ縄文時代が終わってからのお話だからです!

今からおよそ2500年〜3000年前、西日本に入ってきた「水田稲作」という文化は、わずか400年足らずの間に全国に広がっていきます。それに伴い、1万年以上もの間日本列島を覆ってきた「狩猟民的」縄文文化は、またたく間に「農耕民的」弥生文化に塗り替えられていきます。ところが諏訪は、日本がどんどん「弥生化」していく中にあって古い形の信仰を守り続け、独自の道を歩んでいたというのです。かつて「縄文銀座」とまで呼ばれた諏訪は、いかにして「農耕民的」弥生文化との共生を図り、日本列島のど真ん中で縄文スピリットを守り続けたのでしょうか? 縄文諏訪旅第3回は、代々諏訪大社の「狩猟民族的」祭祀の一切を取り仕切ってきた守矢家の敷地に建つ「神長官守矢史料館」、そして信濃国一之宮を誇る「諏訪大社」より、弥生時代以降、諏訪の地で静かに、しかしたくましく生き残ってきた縄文スピリットを紐解きます。
神長官守矢史料館」に行ってきた!
守矢(もりや)家とは、明治期まで諏訪大社上社の筆頭神主「神長官」を務めてきた由緒正しきお家柄。その系譜はなんと神代まで遡ることができるといいます。守矢家の祖先神「洩矢神(モリヤガミ)」は縄文に起源を持つ狩猟の神とも言われ、古来よりここ諏訪の地で厚く信仰されてきました。「神長官守矢史料館」には、守矢家に古から伝わる諏訪神社の祭礼に関する古文書など、県や市の重要文化財にも指定される貴重な史料がたくさんあります。縄文好きが諏訪に行くなら間違っても外せない、マストビジット聖地の1つです。
中部・関東の縄文は頑なだった・・・!「縄文銀座」へ弥生文化が届くまで
大陸からもたらされたとされる水田稲作の文化は、非常に短期間の間に西日本、大阪平野の辺りまで広がっていきました。しかし、濃尾平野(三重県〜岐阜県)以東の東日本には水田にできない深い森が広がり、縄文人の人口密度も高かったために、弥生文化の広がりはここで一旦足止めを喰らいます。この「西の弥生、東の縄文」という文化の構図は、その後実に200年ほど続いたと見られています。(「弥生」の侵入を阻んでいたのは、濃尾平野以東に広がる深い森。)さらに驚きなのは、この構図がついに崩れるその時です。弥生文化はなんと中部・関東・北陸をスキップして、まず青森にもたらされるのです。それからまたたく間に南下していき、およそ2100年前、ついに中部・関東にまで達しました。中部・関東の縄文人、どれだけカタクナなのよ・・・と言いたいところですが、なにせこの地域は縄文時代に一大文化圏を築いていた「縄文大都会」だったわけですから、外来文化をなかなか受け入れられなかったのだとしても、無理もありませんね。
諏訪で縄文文化を守っていたのは誰だ?
最後まで残った中部・関東地域で「縄文銀座」を守っていたのがどこの誰であったか、あるいはこの地に外来文化を持ち込んだのがどこの誰であったかは、もはや誰にもわかりません。しかし、諏訪に伝わる神話の中には、そのキーを握ると思われる神の話があります。その神こそ、守矢家の祖先神「洩矢神(モリヤガミ)」です。室町期に編まれた諏訪大社の縁起を記した書物、「諏訪大明神縁起絵詞」には、洩矢神についてこんな記述がされています。 ”洩矢の悪神神居を妨げんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝をとりてこれを伏し給う。ついに邪輪を降し正法を興す(「諏訪大明神縁起絵詞」1356年より)” 「明神」とは、現在諏訪大社の祭神「諏訪大明神」として知られる大変ありがたい神様、「タケミナカタノミコト」のことです。この神様、元々は出雲(現在の島根県)の神だったようで、その名は我が国最古の書物「古事記」にも登場します。天上の国を司る天津神(あまつかみ)が、出雲を統治する国津神(くにつかみ)のトップである大国主(オオクニヌシ)に国譲りを迫るシーンです。 ”国を譲るよう、天津神がオオクニヌシに迫ると、オオクニヌシが言うには「自分は構わないが、私の2人の子供がなんと言うか・・・」そこで、くだんの2人に聞いてみたところ、1人目の御子、ヤヘコトシロヌシは快諾するが、2人目のタケミナカタは猛反対。無謀にも天津神を相手に戦いを挑む。(かくかくしかじかあった後)結局力敵わず、天津神に負けてしまったタケミナカタは東へ東へと逃亡し、ついには「洲羽(すわ)の海」まで追い詰められてしまう。そして、今後「諏訪から決して出ない」ことを条件に命拾いをする。” ・・・というお話です。(だいぶ端折りましたが)「諏訪大明神縁起絵詞」に出てくるタケミナカタのお話は、他でもない、この古事記のエピソードの後日談というわけです。「洲羽の海」でタケミナカタを待ち受けていた洩矢神は、「鉄輪」を持って戦いますが、タケミナカタの「藤の枝」の前に負けてしまいます。それからのち、タケミナカタは諏訪大社の祭神「諏訪大明神」として君臨した、とあります。 ”諏訪にはこの神話を裏付けるように、天竜川を挟んで諏訪側に「洩矢神社」が、そして西側に「諏訪明神入諏の地」として伝わる「藤島神社」があります。ちなみに、「鉄輪」と「藤の枝」だったらどう考えても鉄のほうが強そうですが、この「戦い」は武力争いではなく、呪術比べだったと言われています。” 以上が、嘘か真か、伝説あるいは神話の中のお話。しかし「神話なんて、古代人の考えた絵空事」と一掃してしまうのは、あまりにも早計です。諏訪は縄文時代、人とモノが集結する大都会だったのであり、弥生時代に入っても洩矢神に象徴される 「洩矢族」をトップに、巨大な「縄文文化圏」を守っていたのだとしても不思議ではありません。タケミナカタに象徴される何者かがこの地になんらかの「異文化」を持ち込み、新しい文化形態が生まれたと考えるのはそれほど荒唐無稽な話ではないかもしれません。 さて、タケミナカタに負けてしまった土着の神「洩矢神」ですが、実はそこで滅ぼされてしまったわけではありません。なんと諏訪では、 相反する2柱の神が潰し合うことなく共存することで、独特の文化の形を築いてきたというのです。
諏訪大社の二重体制に見る「縄文」と「弥生」共生の姿
洩矢神に象徴される「縄文」文化と、タケミナカタに象徴される「弥生」文化共存の姿は、神道としてはちょっぴり風変わりとも言える諏訪大社の体制に見ることができます。諏訪大社は、全国に数万社あるとも言われる諏訪神社の総本社であり、信濃国一之宮を誇る日本最古の神社の一つでもあります。諏訪大社は大きく上社と下社に分かれ、諏訪湖を挟んで南側に上社(前宮と本宮)が、北側に下社(春宮と秋宮)があります。これら4社を合わせて「諏訪大社」というわけですが、その祭の性格は上社と下社で全く違い、 上社が「狩猟民的」 であるのに対して、 下社は「農耕民的」 であると言われています。つまり、諏訪大社は一つの神社の体制の中に、相反する2つの文化を内包しているわけです。
また、「狩猟民族的」祭を行う上社には、明治時代まで、下社にはない独特な「二重神職体制」がありました。通常、神道では祭を取り仕切るのは神職の長(諏訪大社の場合「大祝《おおほうり》」と言います)の仕事ですが、諏訪大社上社の場合、 大祝に次ぐ神官「神長官(じんちょうかん)」守矢氏が実質全ての神事を取り仕切ってきたというのです。 神話では、洩矢神はタケミナカタに祭政権を譲ったのち、今後その身をタケミナカタの祭政するために捧げると誓ったことになっています。この神話をなぞるかのように、 諏訪大社上社では洩矢神(神長官守矢氏)とタケミナカタ(生き神=大祝)が「祀る側と祀られる側」として、代々共存してきたのです。
諏訪大社上社の奇祭「御頭祭」とは
では、守矢氏が代々取り仕切ってきた諏訪大社上社の「狩猟民的」祭りとは、いかなるものだったのでしょうか。「神長官守矢史料館」の展示から、ほんの一部をご紹介しましょう。史料館の入口をくぐるとすぐに眼前に現れる、度肝を抜かれる展示のハイライトです。はいこちら。このエキセントリックな展示は、古代より諏訪大社上社の例大祭として執り行われてきた「御頭祭(おんとうさい)」のジオラマです。江戸時代に諏訪を旅した博物学者にして旅作家、菅江真澄(すがえ・ますみ)のスケッチを元に再現されたといいます。記録によると、当時の御頭祭では75頭分の鹿の首が神饌(しんせん・神に供える食物のこと)として捧げられ、胴体部分は人間が食す神人共食(神と人とが同じ食物を味わうこと)の形をとっていたとか。血を穢れとする神道にあって、獣を神饌とする珍しい「狩猟民的」祭であるばかりか、75頭の首をそのままの形で供える生々しさに原始的自然信仰の形が伺えます。(祭では鹿の頭だけでなく、イノシシの脳みそや、白ウサギなどの小さな獣、サギやキジなどの鳥類、鯛や海老などの海鮮物など様々なものがことごとく奉られたといいます。)現在でも毎年4月15日には、5頭分の鹿頭の剥製を供える縮小バージョンの祭が行われていますが、本来の御頭祭は、「廻り湛(まわりたたえ)」と呼ばれる神事に出かけていく童子を送り出す祭でした。「廻り湛」とは、これまた上社独特の古い古いお祭りで、この祭では選ばれし諏訪明神の代役となる6人の童子が、神の依代となる木や石を回り、縄文に起源があるとも言われる精霊「ミシャグチ」を地上に降ろしたのだといいます。(古代の神事「廻り湛」でミシャグチ神の依代とされてきた木や石は、「七木湛(しちぼくたたえ)」あるいは「諏訪七石」と呼ばれています。図は諏訪大社前宮の奥にある、七木湛の一つ、「峰たたえ」です。)
縄文人の祈りをつなぐ精霊「ミシャグチ」とは
諏訪の縄文を語る上で、「洩矢神」と共に覚えておきたい神、あるいは精霊の名が「ミシャグチ」です。ミシャグチは、古代より長野県を中心に、主に中部〜関東で信仰されてきた神様で、そもそも諏訪大社上社の「狩猟民的」祭の根幹にあるのは、このミシャグチ信仰なのだとも言われます。現在、ミシャグチは「子孫繁栄」のご利益があるとされることが多いのですが、そもそもは「石の神」だったとも、「蛇の神」だったとも言われています。ところで「石の神」「蛇の神」「子孫繁栄」と聞いて、思い出すものがありませんか。そう、連載第1回の「尖石縄文考古館」で見た、諏訪の誇るエキセントリックな土器「蛇体取手土器」です。蛇体取手土器は縄文時代中期に諏訪のあたりで生み出されたと見られ、中部〜関東まで派生していったスタイルの土器です。尖石縄文考古館の山科先生によると、この蛇体取手土器が生み出されたすぐ後に、縄文人のマツリの道具「石棒」も大量に作られるようになったのだそうで、両者は元々同じ動機から作られたのかもしれないのです。すなわち、蛇の「多産」と、脱皮をする「再生」の能力、また石棒に象徴される「子宝」と「再生」への願いです。ミシャグチの起源が、縄文時代の蛇体取手土器、あるいは石棒や石皿にあるとする説は全く推測の域を出ません。しかし現在分布するミシャグチ信仰の根強い地域と、縄文時代に「蛇体取手土器」によって築かれていた一大文化圏は、非常に奇妙な一致を見せています。また、現在ミシャグチを祀る神社はその御神体として、縄文中期の石棒と石皿を祀るのが典型的なのだそうです。縄文人が蛇体取手土器や石棒に託した祈りが、形を変えつつ現在までつながってきたのだとしても決して不思議ではありません。
中部〜関東のミシャグチ文化圏を守ったのが洩矢神?
呼び方は、ミシャグジ、ミサグジ、ミサクチ、など地域によって様々ですが、ミシャグチを祀る神社は全国におよそ2000社あると言われています。そしてその総本社の形をとっているのが、諏訪大社上社の前宮です。上社前宮は諏訪大社4社の中でもっとも成立が古く、また古代「洩矢族」の本拠地であったと考える研究者もいます。そもそも、諏訪大社上社の神事を神長官守矢氏が取り仕切ってきたのも、守矢氏がミシャグチ信仰に関する一切の権限を有する司祭であり、ミシャグチ神を降ろす秘法もまた、神長官のみが行うことができるとされてきたからです。もしかしたら守矢氏の祖先神「洩矢神」とは、蛇体取手土器、あるいはのちに石棒・石皿、あるいはその後ミシャグチとなる縄文的祈りでつながった中部〜関東の縄文文化圏を守る神だったのかもしれませんね。
諏訪に逃げてきたのはタケミナカタだけではない?!
古代、「農耕民的」弥生文化が全国を覆い尽くしていく中で、なぜ、諏訪には古い「縄文的」信仰の形が残り続けたのか? その答えはひとえに、誇り高き土着の神「洩矢神」に連なる神長官守矢氏が守り続けた祭祀の形にあるような気がします。そしてそれを可能にしたのは、諏訪大社の4社体制、すなわち上社と下社の「異文化共存」の姿勢にありました。神話の中でタケミナカタは、「以後、絶対に諏訪の地から出ないことを約束するから許してくれ」と懇願します。実はこうして諏訪の地にやってきた神はタケミナカタだけではありません。「伊勢国風土記逸文」によると、天津神によって伊勢の国を追われた神、イセツヒコもその後「信濃の国に住んだ」とあります。また他でもない諏訪大社上社の大祝家、神(ミワ)氏もまた、元々は奈良の大神(オオミワ)神社を祀っていた氏族だったとする説もあるのです。もしかしたら諏訪は、弥生時代以降、古代を生きた縄文人の「駆け込み寺」的な役割を担っていたのかもしれません。独特な信仰形態により「縄文スピリット」を保ってきた諏訪は、「銀座」だった時代をすぎても、縄文人にとっては文化のふるさとであり、祈りのふるさとであり続けたのかもしれません。(和樂webより、)


鎮西大社 諏訪神社
主祭神 諏訪大神(武神・厄除けの神)
 建御名方神(たけみなたのかみ)  八坂刀売神(やさかとめのかみ)(公式HPより、)

本居宣長 6月21日は国学者・本居宣長の誕生日(享保15年5月7日)。源氏物語などの古典研究、古語の研究で業績を残し、35年かけて完成した「古事記伝」で古事記を再評価しました。三重県松阪市には宣長の邸宅を保存した本居宣長記念館があります。皆様良い1日を。 (刺田比古神社 岡の宮(公式)より、)


丁度 古事記伝を完成させた本居宣長の話題がありました、彼が研究したお陰で今日まで残って訳ですが。

ミシャグジさま『女神転生』ではアレ…マーラ様も然り。祭りの道具として石棒が沢山作られた為にそんな表現になったとか、、、よく怒られなかったですね、だから ミ シ ャ グ ジ さ ま か、、
大阪万博のマスコミキャラクターミャクミャクさまとミシャグジさまは何だか響きが似てるな(十分酷い)、まさかの現代に現れたミシャグジさまでは???…にしてもキモい、、よくアレを考えついた。
ミシャグジさまは個人的に姿を表した時はかなりのイケメンでした、お姿が東方の諏訪子にも共通してるかも、信じるか信じないかはあなた次第ですが、しかし、便利な言葉ですね。多分、東方の諏訪子や八坂神奈子はいわゆるウマ娘みたいなものでしょか、男神も娘化する様な、、、あちらも牡馬の娘化しているし。
しかし、全国に2000社…ミシャグジさまパイセンそんなに祀られていたのですね、記紀の神様ではないのにそれは凄い、実は記紀に載ってない神様はもっと居たはず、明治期に記紀に載る神様に変えられたともされます。ミシャグジさまと八坂刀売神が今でもお祭りになられる事がいかに凄い事が分かります。建御名方神(諏訪明神)はミシヤグジさまと戦って勝利はしたけれども、ミシャグシさまパイセンとして敬っている。なお、『東方Project』では鉄の弱点を知っていて鉄輪を藤の枝を巻き付けて湿気で錆びさせて勝利したとか。

蝦蟆神退治
『上社物忌令』と『陬波私注』には以下の伝承が見られる。
"正月一日の蝦蟆狩之事 蝦蟆神成大荒神、乱悩天下時、大明神彼ヲ退治御座し時、四海静謐之間、陬波ト云字ヲ波陬なみしづかなりと読り、口伝多し。望人ハ尋へし、于今年々災を除玉ふ、謂ニ蟇狩是ナリ。 — 『上社物忌令』(神長本)より"
つまり、諏訪明神が大荒神となって天下を悩ませている「蝦蟆(蛙)神」を退治して、四海が静謐となった。このことから「波しずか」とも読める「陬波(すわ)」という名を得た。口伝によると、元旦に行われる蛙狩神事はこの出来事を模した神事である。 更に明神が退治した蝦蟆神を竜宮城に通ずる穴に閉じ込め、石でふたをし、その上に座した、ともいわれている。 この話については、蛇神としてのタケミナカタと土地神(ミシャグジあるいは洩矢神)による神権争奪を意味するという説や、陬波大王の悪龍退治の同系異伝もしくは変奏とみる説、あるいは諏訪明神と同定される降三世明王と宇賀神の三毒退治を表すという説などがあげられている。(ウィキペディアより、)


諏訪子といえばカエルですが、こういう事だったのでしょうね、他国でもこういった祭が多いですが最近は動物保護の観点からヌイグルミや人形、或いは人が動物を演じたりと代わりに見立てるところも増えている様です。今は田植えの時期ですが、どうも田植え機でカエルたんぐっしゃんなら元も子もない気がする、そもそも他の生き物もぐっしゃん、今更昔に戻る訳もいかないし、そもそも意味を成さない。あいつらは苦労なんて分からないし…主語がデカいからね、お前ら一度もから揚げやステーキを食べた事がない事はないだろう、お前は今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?…というレベルやん。

まあ、縄文時代から農耕はあったし、中には大規模なことも。諏訪と言えば黒曜石の産地、ナイフの様によく切れるし、調理や狩の道具や武器としても使用されました、ただ、黒曜石は割れやすい、誰かか間違って口に入って血だらけになったかも…言っておりましたが。あと、鉄鐸等もあったとされてますし。これだけ多くの鹿を神饌に捧げるなら、鹿牧場等もあったかもしれません、そうでないと成立しない。奈良に鹿が多いように、鹿がそこらじゅうにいたのかもしれませんし、冬場の仕事と食料確保に必要不可欠だったと思います。後、果樹園とかもあったかも、ここではないものの、三内丸山遺跡とか跡があったとされてます、お互いに川や海等を船で行き来していたでしょうか。ちなみに、果樹園はじめ森とか木は冬場は防風林になります、例えば、御柱祭りは冬場冷たい北風から木々が守ってくれるからだと思う。縄文時代が劣っていると誰が言ったか、、、だったとしたら生活も文化も弥生文化入ってこないぞ…それどころか他国から仕事や居場所を求めて人が流入してくる。
( 東方ロストワード より、)
八坂神奈子は建御名方神と、その妻神である八坂刀売神がモデルとされています。蛇神、水の神、狩猟の神、風鎮めの神、また軍神としても知られ、武将からの崇敬を集めた。だから八坂神奈子は女性なのに男性ぽい、それは恐らく武将の男神をモデルにしているからでしょう、なお、御柱祭りは木落しという奇習もありますし、ちなみに、次の御柱祭りの木落しは2028年になります。
…にしても、
…似てないか、八坂神奈子の立ち絵が戦艦娘ぽくてすごくいい。


幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?
ホシナ コウヤ 2019年11月13日(tenki.jpサプリ・ライフより、)
諏訪大社コラムの前編では、現在諏訪明神とされている建御名方神(タケミナカタノカミ)と、その子孫で依り代ともなった諏訪氏について掘り下げました。タケミナカタが古事記で創作された神で、もともと諏訪明神とは非業の死を遂げた豪族・物部守屋を祖ともする守矢氏により祀られる憑き神「ミシャグチ」が、依り代である大祝(おおほうり)と一体化した神であることまで解き明かしました。後編ではこの不思議な名前のミシャグチ神について追っていきましょう。
ミシャグチは「縄文の神」でも「自然の精霊」でもない!?
タケミナカタ(を祖とする大祝)が諏訪明神となる以前の諏訪の神と説明されるミシャグチ神。伝承では蛇神であるともいわれ、出雲(国つ神)系の神がおしなべて蛇神であるということから、この地域の古い蛇神が習合されていることは確かでしょう。ミシャグジ、ミサグチとも表記発音され、「御作神」「御左口神」「石神」「御社宮司」「射軍神」「赤口神」「宿神」「お杓文字」などなど、さまざまな字があてられ、その正体についても、さまざまな説が唱えられる「謎の神」です。 そもそも「タケミナカタノカミ」という神名は、中世になってもまったく一般人や祭祀の祝詞にも登場してこず、 神官長守矢氏が奉じ、大祝諏訪氏の依り代に降りてきた諏訪明神の呼び名は、一般的には「諏訪明神」「お諏訪様」でしたから、「タケミカヅチに敗れて諏訪からもう出ませんと詫びたタケミナカタ」という神話すら当の諏訪地方では長く知られておらず、諏訪上社においてはずっと変わらず諏訪明神=モレヤ神=ミシャグチ神として捉えられていた、というのが真相のようです。民俗学者や文化人類学者の多くは、ミシャグチ(ミシャグジ)とは「御石神(ミシャクジン)」のことで、石や木、あるいは森や山や川・沼などの自然造形・現象そのものを神として扱う縄文時代の原初的な自然崇拝=アニミズムが残存した神である、と主張しています。
とりわけ、諏訪大社の背後にそびえる守屋山こそ諏訪大社のご神体だ、という説が跋扈(ばっこ)して多くの人に信じられています。奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の三輪山や、島根と鳥取の境にある比婆山久米神社の比婆山などが山そのものをご神体とするのと同様、諏訪大社の本殿は守屋山そのもので、本殿のない諏訪大社上社本宮・下社春宮秋宮の形式は、古い日本の自然信仰のかたちを残しているのだ、と。しかし三輪山や比婆山が、それぞれの神社の神域として奥の宮や、神体の中心である磐座(いわくら)が祀られているのに対して、守屋山には諏訪大社の奥の宮もなければ聖地もありません。守屋山が諏訪大社のご神体であると明記された文献も一切ないのです。諏訪大社の四宮のうち三宮に本殿がないのは、諏訪のご神体が大祝という人間そのものだからです。 諏訪大社が縄文時代に起源を持つ自然崇拝=アニミズムの聖地だ、というのは現代人の思い込みでしかありません。
特異な祭事が満ち溢れる諏訪大社神事は現代人のファンタジーをかきたてる
なぜ、諏訪大社は、現代人の縄文アニミズム幻想をかきたてたのでしょう。それは、他では見られない謎に満ちた神事が多いことにあるのかもしれません。諏訪大社には、元旦に行われる「蛙狩神事」や、4月に行われる「御頭祭」(酉の祭・大御立座神事)など、小動物や獣を生贄(いけにえ)として神前に供える祭りが知られています。かつては75頭の牡鹿の首が捧げられたという御頭祭(現在では供え物の鹿の首は剥製で、いわば形式的なレプリカとなっています)をはじめ、他にも、ウサギを丸ごと串刺しにしたもの、キジを飛んでいるように加工した串刺しなども供えられるのです。こうした神事を、縄文アニミズムであるとする立場の学者は、狩猟採集民の縄文祭祀が残ったものだと捉えました。中沢新一氏は「ミシャグジとは宿神」、先史時代の太古の日本列島で信仰された古層の神であるとしています。その古層の神々への信仰は、国家に管理された「神社」へと塗り替えられていく過程で、次第に表舞台から消えて裏の世界、能や猿楽などの芸能、それを支え体現する漂泊民・被差別者たちの神として命脈を保つようになっていったとし、ミシャグジとは、そうした古層のアナーキーでプリミティブな神=精霊だ、と言っています。ロマンチックで魅力的な説ではありますが、果して本当にそうだろうか、と筆者は思うのです。宿神信仰、つまり宿曜道の占星術法が、社会の表舞台から裏へと追いやられたのは事実ですが、それは日本国家成立の古代にではなく、近世以降の時代からなのです。平安期には陰陽師と宿曜師は、ともに暦の製作に協力するようにと、命がくだっています。生死・勝敗が身近だった武士たちの中でも、特に戦国時代を勝ち抜いた徳川家康は熱心な宿曜道の信者でした。そしてその占いによって天下を獲ったと本人が認識していて、幕府成立以降、その強力な呪術が反幕府勢力によって政権転覆に利用されることを恐れて封印したのです。以降、細々と庶民の信仰に受け継がれてきた宿曜は、明治政府にも「迷信」として禁止されたにも関わらず、したたかに現代まで生き抜いています。カレンダーに記される「大安」「仏滅」「友引」などの謎の文言。また、四柱推命、九星占星術、姓名判断など、それらこそが現代まで生きついでいる宿曜であり宿神信仰です。これを果して「縄文の精霊」と言えるのでしょうか。宿曜の体系は古代バビロニアで発生し、やがて空海が唐からもたらし、最澄らによって広められた密教の占術・呪術から広まった外来の信仰体系なのです。諏訪の武士団が解消された江戸時代に入っても、諏訪明神の神事は盛んでした。江戸後期の国学者、菅江真澄「すわの海」によると、当時は神の依り代であり生贄でもある八歳の童「おこう(御神)」が、鹿肉が大量に串刺しにされた「御贄柱(おにえばしら)」に縛り付けられ、儀礼的に解放されるという不思議な儀式があったようです。あくまで想像ですが、近世江戸時代以前の混沌とした中世には、神の軍隊である諏訪武士団に、勝利や栄光をもたらすために本当に人身御供の呪術が行われたかもしれません。十二支の寅と申の年に執り行われる、諏訪大社でもっとも知名度の高い奇祭「御柱祭」も、死者が出ることもある荒々しい武士集団のエネルギー解放の祭りという側面を強く感じます。御柱自体は、諏訪神社の境界を示すために立てられる柱であり、「ここは俺たちの縄張りだ」と荒くれ者が巨大な柱を立てて他を威圧する示威神事と言ってもよいものです。
諏訪神事に顕著な生贄(いけにえ)のモチーフ。でも縄文の神・民は「生贄神事」を行わなかった
日本のルーツともいわれる縄文時代/縄文文化とは何でしょう?縄文時代とは「縄文土器」という独特の縄紋様が刻まれた土器が使用されたことから名づけられた、紀元前1万数千年から紀元前2,400年ごろまでの一万年余も長く続いた先史の一区分です。世界的に見れば新石器時代に属しますが、新石器時代の定義である牧畜と農耕による人類の定住生活のはじまりとは内実がやや異なり、その時代、温暖な気候で食料が豊富だった日本列島では、半ば定住しつつも動物の狩猟、海産物の漁労、植物や昆虫などの採集を中心にして生活を営んでいました。これを「縄文時代」と呼び習わします。縄文時代、人々は自然からの恵みを受けて最低限の住環境でつつましく暮らしていました。このような、自然に依存し一体化した生活様式の人々の神へのささげ物は、自分たちが得た獲物などではありません。人は神からの恵みをいただく代償に、神(自然)が作ることの出来ない手工芸品や酒、踊りや歌などの芸能を供物として返して感謝したのです。こうした縄文祭祀の形式は、縄文文化の名残として知られるアイヌ民族の熊送り(イヨマンテ)を見ても明らかです。そう、狩猟採集民は、生贄の儀式などは基本的に行わないのです。生贄という習慣が発生するのは、人類が自然の地形を大きく切り開き、村や町、国家共同体を形成、自然の資源を利用し財産を蓄えるようになる歴史時代に入ってからなのです。 軍神の元祖である経津主神(フツヌシノカミ)の本拠である香取神宮(千葉県香取市)でも、11月30日に行われる「大饗祭」では、利根川で捉えた雌雄一対のカモをさばき、内臓を取り出したあと外皮を飛行する形に仕立て上げて供える奇祭が行われます。 強力な軍事力を伴う国家体制と強力な宗教的権威に基づく祭事が形成されると、大型の鳥獣や時に人間を生贄として神にささげる祭祀が出現します。 それは古代エジプトやイスラエル、中国の古代王朝・殷のさまざまな生贄祭事、メソアメリカのインカ、マヤ、アステカなどの王国の生贄神事と共通するものです。ヨーロッパでは、バイキングが11世紀ごろまで残酷な方法で生贄を解体し、死を司るオーディンに捧げていました。歴史上の生贄は枚挙に暇がなく、それは王・司祭などの権力の誇示と、自然・神への恐怖の両側面によって支えられてきた王権時代の人類史の特性です。 日本の宗教祭祀は、それらの大陸文明と比べて、比較的穏やかであるのが通常ですが、大陸から渡ってきた王権の生贄祭事が、諏訪明神や香取神宮のような軍神を祭る神社にわずかに残されてきたというのが、諏訪大社の奇祭の数々の由縁ではないでしょうか。諏訪明神が神道信仰の中で特別特殊な地位を占めることは間違いありません。今後さらに、歴史的経緯・根拠に基づいた研究が進められていくことを願います。
神社と古代王権祭祀 大和岩雄 白水社
精霊の王 中沢新一 講談社
アイヌの霊の世界 藤村久和 小学館
諏訪大社と諏訪神社
大饗祭
イケニヘ譚の発生-縄文と弥生のはざまに 三浦佑之
(tenki.jpサプリ・ライフより、)


諏訪神社(長崎市)
当神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様です。 諏訪・森崎・住吉の三社がおまつりされ、 厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されています。(公式HPより、)


ここの 蛙の御朱印 が可愛いかった、この時期限定の様ですね。

縄文時代ではない、ここは思いきった説を上げてますね、どうみても狩猟民族の系統としか思えませんね、もしかしたら先に上げたとおり鹿をはじめ兎等も飼育していたかもしれませんし、ヤギや牛に比べ鹿は山岳地で育てやすい。後、鹿は栗等食べさせて太らせ肉質よくして、フリーズドライみたいに乾燥させた鹿ジャーキーを作り他国に輸出するとか、主な輸出品は黒曜石、木材、鹿ジャーキー、特産品みたいだ、そこまでは流石に無いよね。縄文時代狩猟採集というイメージが往往にしてあるのですが、高度縄文社会なら更にその先を行っていてもおかしくはないかな。江戸時代は儀式だけ残ったので、外部から来た者はそれを見て「うわっ、エグい…」と思ったに違いない、ちなみに肉食解禁は明治期で、どうかは大体想像できます。儀式に関しては平安貴族は占いに影響受けてるし、戦国時代も武将等もいつ領地を攻められるか、いつタヒか分からないため心理的な平穏の為に占いはかかせなかったと思う。
なお、いわゆる一般的に農耕民族が我々日本人とされ、狩猟民族が欧米とされています、諏訪の周辺の人々は大陸寄りの狩猟民族の系統だったかもしれませんし、なお、生贄を立てる文化は狩猟民族に多く見られます。

※質問でこんなことがありました。
タケミナカタと洩矢神について    『古事記』によるとタケミナカタノカミはタケミダヅチに両腕を引きちぎられ、諏訪まで追い詰められたとされています。 しかし、『諏訪大明神絵詞』によると その後タケミナカタは藤の枝を持ち洩矢神を打ち倒し、配下にしたとされています。  ここで一つ疑問なのですが、両腕をタケミカヅチによって引き千切られたタケミナカタはどのようにした藤の枝を振るったのでしょうか。皆様の解釈をお教えください。

そもそも記・紀の「国譲り」自体が脚色されており、「出雲国風土記」などに書かれる「国譲り」などとかなり違った書かれ方をしています。タケミナカタは、古事記だけに出てくる神で、日本書紀では、コトシロヌシの消極的同意のほかに抵抗を示す記述がありません。タケミなカタは、ほかの神話、恐らくは諏訪の神話の神が流用されているだけです。川を挟んで洩矢神と戦う話は、そのもともとの神話でタケミナカタが諏訪に入る際の話なので腕があってもおかしく無いのです。古事記の編纂者が、タケミナカタ挿入を実行したはいいが、細部で更正漏れがあったということでしょう。

長野県内各地にはタケミナカタの逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する。下伊那郡豊丘村に伝わる伝承によれば、タケミカヅチがようやくタケミナカタに追いついたところ、タケミナカタが降参し、タケミカヅチと和睦を結んだ。 同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の手形を彫り残したといわれる石がある。 その後、タケミナカタが豊丘村から隣の大鹿村に移って、しばらくそこに滞在したという。このことから、大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社はかつて「本(もと)諏訪社」と呼ばれていた。また、塩尻市の小野神社や、上田市の生島足島神社にもタケミナカタが諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られている。北安曇郡小谷村にある大宮諏訪神社も、タケミナカタの信濃入りの際の神跡と伝えられる。(ウィキペディアより、)


『女神転生』では腕のないタケミナカの神が登場しますが、これは、どうも腕があった描写しかないのですがね…編纂者が好きなように書くのは同人誌でもよくあること???なお、タケミナカの神は中世以降登場したともされています。ここで、『東方Project』での話が成立しますね。
他に諏訪神社関係の写真が無くて長崎の諏訪神社を出しましたが、 例えば長崎など、諏訪地方以外の諏訪神社は中世以降にお祀りされたものが多いかも知れません、やはり、ミシャグジさまの方が先輩、何故ならば建御名方神は戦国時代に武人の神とされたから増えたのだと思う。なお、武人が崇拝する建御名方神は敵わなくても最後まで抵抗したという事がカッコ良かったのだろうか、伊勢の国を追われた神、イセツヒコも諏訪に落ち着いているんですよね、私個人は諏訪に逃げた人々は弓矢を使いゲリラ作戦で最後の奮戦したように思えるのですが。

東風谷早苗は現人神で、諏訪大社の第78代神長官守矢早苗氏のモデルとされています、ガチの実在の方ですね、ZUNさんはその方に頼みに行き許可を貰ったとされています、もしかしたら、アニメ化はそういう事もネックになっているかもしれない、信仰を広める為に諏訪子と神奈子一緒に幻想郷へやってきました。
(​​ 東方ロストワールド ​より、)
そーいえば、6月はジューンブライドあと少しで終わりますが、、、
左から、天使諏訪子、天使早苗、天使神奈子…明らかにジューンブライドを意識した様にみえますが、去年の秋ごろ実装、つまり、ジュンブライド限定でない様です、だから天使なのか、、しかし、神奈子さま可愛い、色々見てるとこれが強いとも…
ちなみにジューンブライドとは6月に結婚式を行うと一生幸せな結婚生活を送れるとされており、ギリシャ神話に登場する神主ゼウスの妃で、結婚や出産を司る女神ジュノ=ヘラの事(ローマ神話ではユノ)が守護する月が6月(June)であることから、縁起が良いとされています。それにヨーロッパでは6月が最も結婚式が多いといわれています。…だからか、梅雨の時期はないよね。なお、神奈子さま八坂刀売神のモデルだからジュノ、ヘラの様なものか。

ミシャグジ信仰:洩矢神と守矢氏とともに
一般に、古事記と日本書記(記紀)が正史とされていますが、日本の神話には、記紀以外にもたくさんの神さまがいます。今回はミシャグジという神さまをとりあげます。
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ミシャグジという神さま
ミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)とは、記紀には登場しない、太古より日本に伝わる、諏訪湖の土着神で、ミシャグジに対する信仰は、大和民族に対する先住民の信仰とされていました。その起源は縄文時代といわれ、当初は、主に樹木、笹、石など、自然万物に降りてくる精霊・自然神と言われていました。また、諏訪の御射山(みさやま)をご神体とする山神として、マタギ(猟師)をはじめとする山人達から信仰されていました。さらに、時代を経るにつれて、ミシャグジは、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(モリヤ/洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)を、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)(=境界の神)とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神さまです。現在、ミシャグジ神は、諏訪大社上社(かみしゃ)に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。東京の練馬区に石神井(しゃくじい)という地名がありますが、「シャクジ」「シャクチ」という名前が入っている土地にはミシャグジが祀られていた場所が多いそうです。このミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)という神さまを理解するためには、記紀の国譲り神話や、同じ諏訪の土着神である洩矢(モリヤ)神、守矢氏、物部氏などについて知識が必要になります。
建御名方神vs洩矢神
「古事記」の国譲り神話には、出雲の国の伊那佐(いなさ)の小浜で、天孫族の建御雷神(タケミカヅチ)との力競べに敗れた建御名方命(タケミナカタノミコト)は、諏訪(洲羽)に逃れてきて、諏訪の神になったと書かれていますが、諏訪にはタケミナカタ以前に「洩矢(モリヤ、モレヤ)の神」がいました。モリヤ(洩矢)神は、諏訪大社に祀られているタケミナカタ(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した土着神とされています。室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」にも、「大和朝廷による日本統一の前の時代、諏訪の地には、モリヤ(洩矢)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいましたが、そこに出雲王国の建御名方神(タケミナカタノカミ)率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た」という記載があります。神戦の舞台は、江戸時代の伝承記録によれば、天竜川のほとりとあります。現在でも両者の戦った場所は残っているとされ、出雲族の建御名方神(タケミナカタノカミ)の陣地跡には藤島明神(長野県岡谷市)が祀られています。その一方で、洩矢神(モリヤノカミ)の陣地跡には天竜川を挟んで洩矢大明神が洩矢神社(岡谷市)に祀られています。戦いは、地主神のモリヤ(洩矢)神と洩矢族が負け、侵入者である建御名方神(タケミナカタノカミ)に諏訪の統治権を譲り、建御名方神が諏訪大社の御祭神となったという経緯があります。ただ、現在も建御名方神は、諏訪様(諏訪大明神)として、人々に親しまれています。これは、勝者である建御名方神が、侵略者として圧政は敷かず、むしろ、洩矢族とともに諏訪を統治したことがあげられています。それどころか、この地に稲作を伝え、諏訪の国も豊かにしたことから、先住民である洩矢の人々と新しく来た出雲系の人々は、共存するようになったと言われています。さらに、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官として認め、洩矢族に代々祭政を任せたのでした。今もこの神官の地位(神長官)を守矢氏が引き継ぎ、現在78代目(守矢早苗さん)なのだそうです。
諏訪氏: 建御名方命(タケミナカノミコト)の子孫
守矢氏: 洩矢(モリヤ)神の子孫
守矢氏
諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神を氏神とする氏(うじ)が、守矢一族とされ、守矢氏は洩矢神の後裔とみられています。前述したように守矢氏が受け継いできた神官名が、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)です。この役職は、次に述べる「大祝(おおほうり)」という神職の即位式を含め、神事全般を掌握するだけでなく、土着のミシャグジ(ミシャグチ)という神さまを降ろしたり上げたりするという祭事を担います。大祝(おおほうり)とは、神職の最高位の階級で、成年前の童子が、決められた地域からそれぞれ1年毎に選ばれて即位しました。選ばれた童子は、即位式に当たり、神長官の屋敷の一室に一定期間籠り、儀式に臨みます。儀式は、諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、そこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝(おおほうり)」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。守矢(モリヤ)氏が代々務めた神長官(神長)は、「諏訪大社上社大祝(おおほうり)の職位式」などの神事を行ったり、呪術によって神の声を聴いたり、豊作祈願など祈祷する力などを持つとされました。これに対して、諏訪神官の最高位である大祝という生神の位に就いた氏が、建御名方命の子孫である諏訪氏=神氏(みわし)です。諏訪氏といえば、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重が思い出されます。諏訪一族は、「大祝(おおほうり)」を代々務め、当時、頼重は信濃の名族・諏訪氏の惣領家でもありました。武田信玄は、諏訪の地を支配するために、諏訪頼重を討ち、頼重の娘を側室にしました。そして二人の間に生まれた勝頼を諏訪惣領家の後継に据えたのでした。諏訪神社上社において、この「大祝(おおほうり)」を補佐して実質的に祭祀を取り仕切る役職が、洩矢神の子孫の守矢氏によって引き継がれた諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という筆頭神官(諏訪大社の神職の長)の位です。
大祝(おおほうり): 諏訪氏
神長官(じんちょうかん): 守矢氏
そして、守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。そこで、改めて、洩矢(モリヤ)の神と、ミシャグジという神について、みてみましょう。
守矢氏=洩矢族の長、洩矢神の氏子、ミシャクジを祭る?
洩矢神=ミシャクジ?

洩矢の神
侵攻してきた建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いに敗れた洩矢神(もりやしん、もりやのかみ)には、守宅神(もりたかのかみ、もりたくのかみ)と、多満留姫命(たまるひめ)の二柱の御子神がいました。多満留姫命は、建御名方神の御子神・出早雄命(いづはやおのみこと)に嫁ぎました。このことは、土着神という洩矢神系と建御名方神の出雲系が婚姻したことを意味し、神話的には、戦いに敗れた守矢神が、娘を、建御名方神の御子に嫁がせ、延命と勢力保持を図ったという言い方が可能です。洩矢神のもう一人の御子である守宅神(もりたかのかみ)は、洩矢神の祭政の跡継ぎとなり、千鹿頭神(ちかとのかみ)をもうけました(母神は未詳)。守宅神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲した後に生れたことがその名の由来のようです(現在も千鹿頭神は、狩猟神として信仰されている)。
洩矢神⇒守宅神(守達神)⇒千鹿頭神⇒
千鹿頭神(ちかとがみ)は、洩矢神の祭政官としての地位を、守宅神から引き継ぎましたが、後に松本、奥州へと追放されてしまいます。このため、千鹿頭神の後継者となったのは、建御名方神のひ孫である児玉彦命(こだまひこのみこと)でした。このことは、土着の洩矢神の血族がこの段階で断絶してしまってことを意味します。その後、洩矢神の祭祀は、児玉彦命(こだまひこのみこと)から、その子の八櫛神(やくしのかみ)、そして守矢氏が引き継ぎました。ですから、守矢氏は、洩矢神の後裔と言われていますが、血筋は直接にはつながっていないことになります。それにもかかわらず、その祭祀を受け継いだ守矢氏は洩矢神を一族の遠祖としています。というのは、児玉彦命は、守宅神の娘・美都多麻比売神(みつたまひめのかみ)を娶って八櫛神が生まれたからです。このため守矢氏の系図では、児玉彦命は、四代目に数えられます。
洩矢神⇒守宅神⇒千鹿頭神⇒児玉彦命⇒八櫛神⇒守矢氏
洩矢氏=物部氏?
古代史を紐解けば、仏教の受け入れを巡り、587年、崇仏派の蘇我馬子に討たれた物部守屋という人物がでてくると思います。日本史の教科書には、この結果、神道護持の物部氏は滅び、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事に・・・式の説明がなされています。しかし、諏訪では、物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れた後、諏訪の地まで落ち延びて、この地に祀られたとの伝承があるそうです。その祀られた場所が現在の守屋神社(長野県伊那市)です(この諏訪にある守屋神社と、岡谷市にあるモリヤ神を祭る洩矢神社は別の神社)。さらに、諏訪大社の裏に守屋山(もりやさん)という山があり、諏訪大社上社の御神体である神体山とされ、その神官が、前述したように、古代この地を治めていた洩矢族の78代目の守矢氏です。ところが、「もりやさん(守屋山)」の字は、ミシャグジ神を代々祭る神長官・守矢氏の「守矢」ではなく、物部‘守屋’の「守屋」であることが興味深いですね。さらに、守屋山の頂上には磐座があり、洩矢神の奥の宮とされているのです。まさに、洩矢神も物部守屋、どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体として、諏訪信仰の聖地に祭られているのです。なお、物部氏と守矢氏の関係では、物部守屋の次男の武麿が、守屋山に逃れ、やがて、守矢家へ養子入りして神長官となったという説があります。実際、その人物のお墓とされる古墳もあるようです。
旧約聖書イサク=ミシャグジ?
古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地がありました(現エルサレム)。「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。この伝承に従えば、諏訪の国を侵攻してきた建御名方神(タケミナカタノカミ)も、この「モリヤ」が何であるかを知っていたからこそ、洩矢族の祭っていた神を認め、諏訪大社にも祀られるようになったのではないかと言われています。さらに、同じイスラエルの支族の物部氏も、大和政権成立後、政治の中心にいましたが、「崇仏論争」で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、そこで安住した…という説もでています。日本とイスラエルの古代史は融合できるとする説があります。実は、ミシャグジもユダヤ民族と関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名も珍しいですよね?この立場に立てば、ミシャグジ(ミシャグチ)とは、正確には、ミサクチ⇒ミ・イサク・チだそうで、これはヘブルアラム語のミ・イツァク・ティン=イサクに由来するとされています。イサクは、旧約聖書にでてくるアブラハムの息子です。諏訪大社神社のミシャグジ降ろしの祭祀の過程で、人身御供(ひとみごくう)の慣例があったとの見方を紹介しましたが、生贄の慣習は日本にはなかったとされていることを考えると、ミシャグジと古代イスラエルとのつながりもあながち絵空事とは言えないかもしれません(このテーマについては、後に記事にします)。さらに、語源からいえば、ミシャグジは、アイヌの音に通じるという説もあるなど、ミシャグジの神さまに関する研究がさらに進めば、古代の秘められた史実がもっと明らかになるような気がします。
<参考記事>
記紀④(国譲り):神代の政権交代、出雲からヤマトへ
諏訪大社:はじまりは建御名方神?
聖書のイサクはミシャクジ神か?諏訪大社「御頭祭」にみえる類似性
アラハバキ信仰:知られざる東北の神!
安曇氏の伝承:海の民はどこから来たか?
瀬織津姫の伝承:「記紀」から消されたわけ
<参照>
信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト)
諏訪大社とはー御柱祭
諏訪大社/上社前宮(3)
日本の神様辞典、やおよろず
ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏 古代史日和
倭国、大和国とヘブライ王国
諏訪大社・上社前宮/神旅、仏旅 むすび旅
トランヴェール2019/9JR東日本
Wikipediaなど
(2019年12月2日、最終更新日2021年2月27日)


↓↓↓↓これを見つけると良いとか。
御由緒
長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社を、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まりです。  さらに、慶安元年(1648)には徳川幕府より朱印地を得て、現在地に鎮西無比の荘厳な社殿が造営されました。 安政4年(1857)不慮の火災に遭い、社殿のほとんどを焼失しましたが、孝明天皇の思召しにより、明治2年(1869)に約十年の歳月をかけて以前に勝る社殿が再建され、さらに、昭和59年の御鎮座360年祭、平成6年の370年祭を記念して、二度の造営を行い現在の社殿が完成されました。 当神社の大祭(長崎くんち 10月7・8・9日)は、絢爛豪華で異国情緒のある祭として日本三大祭の一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。(公式HPより、)

イエズス会もやべー事やっているのだからお互い様ですよね、
古代イスラエルなんか登場しましたが…人によって書くことが違って興味深いです。
2019年と全体的に少し前の情報ですが、丁度その頃に頻繁に特集されたに違いない、なお、守屋氏が物部氏であることは『東方Project』でも語られておりました、理由が仏教と昔ながら神道との対立とされています。

それから、※余談ですが、須佐之男命様に白い龍神がまとわりついたり、肩のあたりに体を靡かせていたと知り合いが言われていました、それで、 須佐之男命=瀬織津姫 と確信しました、長年そうはならんやろと半信半疑な所がありましたが (本人はおっしゃられていましたが…) 、ぶっ飛んだ説であり瀬織津姫からは最も離れてるし遠い、普通どうかしてる思うのですが、数は少ないがこの説がない事はない様です、色々な事が変わってきますが…信じるか信じないかはあなた次第、本当に便利な言葉ですね。こんな奇説誰が信じるか、なお、知り合い曰く、白い龍神は他にも白馬に変わる様です。瀬織津姫に関しては以前​ 第34回 謎の祓戸の女神 瀬織津姫について ​として紹介しております、この時も 須佐之男命=瀬織津姫 の説があったのですが、半信半疑で曖昧にしてました、世間では概ね 瀬織津姫=天照大神 の荒魂とされている事が多くあります。​
東方キャラで今回以外で何かありましたら今後紹介していきたいと思います。

第43回 東方 洩矢諏訪子のモデル神、ミシャグジさまについて でした。





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最終更新日  2024年06月24日 20時52分04秒
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