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あしたは、ハロウィーンです。そこで今日は、「瀬戸内海を旅する」は、ちょっとお休みして、我が家の奥さんがつくったフラワーアレンジメントを紹介しましょう。ハロウィーンのテーマカラーである、オレンジと黒を組み合わせ、カボチャの顔は、紙を切り抜いて貼り付けています。ハロウィーンを祝う家庭は、カボチャを刻んで怖い顔をつくり、悪霊を追い払うのですが、これでは笑っているようで、魔よけになりませんね。鉢巻きしているオバサンみたいと言ったら、怒られました。でも、わたくし、けっこうこの顔、気に入っています。
Oct 30, 2005

江田島に向かう途中、左舷にかわったものが見えてきました。 大きな雪山のように見えますが、実は、これ、塩なのです。メキシコから輸入され、倉橋島の沖合にある三子島(みつこじま)という無人島に山積みにされています。メキシコの天日塩は、粒子が大きいため、このように山積みにしていても、溶けないそうです。最近は、輸入量も減少したとのことですが、それでも年間150万トンもの塩が太平洋をタンカーによって運ばれてきます。工業用の塩とはいえ、間近で見たら、迫力がありそうです。 呉の沖合には、最近、配備されたばかりの海上自衛隊の「くにさき」が停泊していました。2003年2月26日に就役したばかりの最新鋭艦です。停泊しているだけでも、かなりの存在感があります。長さは178.0mメートル。その姿は、航空母艦のようにも見えます。戦前の海軍の航空母艦「龍驤」(りゅうじょう)や「大鷹」(たいよう)と、ほぼ同じ大きさです。しかし、艦橋が大きすぎて、ヘリコプターの発着しかできません。防衛庁は「輸送艦」と説明しているようですが、ただの「輸送艦」ではありません。その実態は、LCAC(Landing Craft Air Cushion)と呼ばれる高速の上陸用艦艇を2隻装備する揚陸艦です。後部のハッチを開けて、上陸用艦艇を出撃させます。しかも、この揚陸艦は、戦車も搭載できる、LST(Landing Ship Tank)、戦車揚陸艦です。大型の輸送艦が接岸できないような場所でも、上陸用艦艇に、戦車と陸上部隊を乗せて出動させれば、どのような場所でも上陸させることができます。その意味では、きわめて攻撃性の強い兵器といえましょう。呉は、いまなお軍港としての役割を持ち続け、その基地機能は強化されているのです。まもなく江田島です。 江田島は、1889年(明治22)、それまで東京の築地にあった海軍兵学校が移転してから、「海軍の島」として発展・変貌をとげてきた島です。画面の左側に、江田島のシンボルともいえる、古鷹山(ふるたかやま)が見えます。頂上が三角形にとがっている山です。かつては兵学校の生徒、現在は、海上自衛隊の学生や幹部候補生たちの鍛練の場としても使われています。その古鷹山の麓にある小用(こよう)港にまもなく到着です。
Oct 28, 2005

音戸ノ瀬戸は、平清盛が、厳島への参詣ルートを短縮するために切り開いたと伝えられています。難工事を進めるにあたり、人柱の代わりに、お経を石に一文字ずつ書いて海底に沈め、工事を完成させたという話も伝わっています。この清盛の開削伝説は、ガイドブックにも紹介されていますから、ご存じのかたも多いでしょう。しかし、この話、あくまでも伝説です。当時の文書や記録からは、確認できません。それどころか、開削伝説じたいも、鎌倉時代はおろか、足利義満の時代になっても、生まれてはいなかったようです。たとえば、足利義満の厳島参詣に同行した今川了俊は、『鹿苑院殿厳島詣記』のなかで、瀬戸の潮の速さや狭い地形などには触れていますが、清盛の開削伝説については、ひと言も触れていません。いまだ伝説が生まれていなかったか、生まれていたとしても広く流布してはいなかったことを示しています。ところが、戦国時代にはいると、開削伝説が記録のなかにも登場してきます。いまのところ、厳島神社の大宮棚森職を継承した棚森房顕(たなもりふさあき)の著書『房顕覚書』に、「清盛、福原より月詣であり、音渡(おんど)瀬戸、その砌に掘られる」とあるのが、最初のようです(『広島県史古代中世資料編3』1107頁)。こうした点からすると、清盛の開削伝説は、室町時代から戦国時代のどこかで、創られた話だと考えられます。かりに古くからあった伝承だとしても、地元で、ほそぼそと語り伝えられてきた程度のものだったのでしょう。人柱のかわり経石を沈めたという話も、福原の大輪田泊(現在の神戸港)の築港伝説を、音戸ノ瀬戸にもあてはめて創った話のようです。しかし、清盛の開削伝説を、まったくの創り話として否定するわけにもいきません。清盛が厳島への参詣を繰り返し、貿易立国をめざして瀬戸内海航路の整備をすすめたことは、確かなことです。また、平安時代の後期、音戸ノ瀬戸の周辺は、八条院の領地であった安摩荘(あまのしょう)に属し、実質的な支配者は、清盛の弟の平頼盛でした。頼盛は、1179年、収入の一部を厳島神社にも寄進しています。つまり、このあたりは、平氏ゆかりの土地だったのです。こうした点から考えると、清盛が瀬戸内海航路の整備事業の一環として、音戸の瀬戸になんらかの手を加えたこと、たとえば、狭い水路を拡張したといった程度のことは、あったとしてもおかしくはありません。開削伝説がたとえ創作だとしても、清盛が音戸の瀬戸を切り開いたと考える余地は、高いとみてよいでしょう。その音戸の瀬戸を、いよいよ通過します。時刻は、9時27分です。音戸ノ瀬戸の入口にあたる鰯浜(いわしはま)の岩礁上には、清盛塚とよばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っています。船から撮影したため、よくわからないかもしれませんが、石の柵で囲まれた囲いの奥にひときわ高く立つ石塔が「清盛塚」です。高さは、2メートル5センチあります。清盛塚という名前から、清盛が立てたものだと言われていますが、形から見て、室町時代の宝篋印塔であり、清盛の時代のものではありません。はじめから、この場所に立っていたのか、このあたりも、はっきりしません。ただし、天正16年(1588年)の『輝元公御上洛日記』に、音戸の瀬戸に「清盛ノ石塔これあり」として登場します(『広島県史古代中世資料編1』641頁)。このことから、少なくとも戦国時代には、清盛に関わる石塔だという認識は生まれていたようです今後、細かな調査をする必要がありますが、清盛の開削伝説が広まるなか、瀬戸の近くにあった宝篋印塔が、いつのころからか「清盛の石塔」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。かりに、清盛ゆかりの宝篋印塔だとしても、それは、室町時代の人が清盛を供養するために立てたものでしょう。ちなみに、宝篋印塔の立つ瀬戸の周辺(音戸町音戸)は、15世紀以降、竹原を本拠とした小早川氏の領地でした。小早川氏は、領内に多くの宝篋印塔を立てています。もしかしたら、この宝篋印塔も、もともとは小早川氏に関わる宝篋印塔だったのかもしれません。 その清盛塚を、いま真横に見ながら瀬戸を通過します。宝篋印塔は、木にかくれてよく見えませんが、相輪の先端がわずかに見えています。これから音戸の瀬戸をあとにして、江田島に向かいます。
Oct 26, 2005

音戸の瀬戸が近づいてきました。画面中央より、やや左側に、青い屋根の家と白い建物がみえますが、このあたりが、瀬戸の入り口になります。まだ水路は見えませんが、画面のほぼ中央、木々の間から赤い橋の一部が見えてきました。1961年、倉橋島の音戸町と呉市との間に架けられた音戸大橋です。もう少し近づいてみましょう。 音戸大橋がはっきりと見えてきました。瀬戸の入り口に造られた燈籠も見えてきましたが、肝心の水路は、まだ見えません。さらに近づいてみましょう。 ようやく水路が見えてきました。ここが音戸ノ瀬戸です。ちょうど資材を積んだ船が小型船に牽かれて出てきました。その水路をめざして、船は大きく右にカーブしていきます。たいへん狭い水路です。さらに船が右に傾くと、ようやくそのさきに、呉の海がみえてきました。 このように、音戸の瀬戸は、ほぼ直角に右折しながら突き進むルートになっていたのです。その地形は、上空から見ると、一目瞭然です。 この写真は、フリーソフトのGoogle Earth からの転載ですが、音戸ノ瀬戸が呉側の休山半島と倉橋島の音戸町の間を切り開いて作られた様子がよくわかります。長さ800メートル、幅は、もっとも狭いところで70メートルしかありません。海上タクシーの船長さんも、このコースは、たいへん神経を使うと話されていました。その音戸に瀬戸に、いよいよはいります。時刻は、9時27分です。
Oct 24, 2005

正面に、大きく倉橋島がみえてきました。時刻は、9時16分です。 倉橋島の音戸(おんど)町と、画面右側に写る、緑濃い、呉市の休山(やすみやま)半島との間を通る800メートルほどの狭い水路が、有名な「音戸の瀬戸」です。もっとも狭い場所で、幅が70メートルしかありません。その入口も、すでに見えていますが、船からは、どこに水路があるのか、まったくわかりません。それどころか、倉橋島が壁のように行く手をさえぎっています。いったいどこに音戸の瀬戸はあるのでしょうか。もっと船を近づけてみましょう。 しばらくすると、呉海上保安部の灯台見回り船、LS201「あきひかり」とすれ違いました。呉湾周辺に浮かぶ灯浮標(船舶に岩礁、浅瀬などの障害物を知らせ、また航路を示すために海上に浮かべた灯火を発する航路標識)をまわって、整備点検にあたっています。室町・戦国時代、海賊衆によって守られていた瀬戸内海西部の安全は、いまは、呉海上保安部の所属する第六管区海上保安本部によって守られています。
Oct 23, 2005

呉市の仁方(にがた)と下蒲刈(しもかまがり)島とをつなぐ安芸灘大橋が間近に見えてきました。全長1175メートル、2000年に完成したばかりの新しい橋です。 すぐ下の海域が、蒲刈(かまがり)の瀬戸です。古くは「かまかりのせと」と呼ばれましたが、江戸時代になると「猫追門」(ねこせと)、そしていまは「女猫(めねこ)の瀬戸」と呼ばれています。なぜ、猫なのかわかりませんが、近くに猫山があり、瀬戸の入口に女猫島があることに由来するようです。画面の右側、安芸灘大橋の北側橋脚が設置されている小さな島が女猫島です。この島には、船の安全のため、小さな白い灯台も設置されています。女猫島の海側に、小さな白い塔が見えると思いますが、これが灯台です。このあたりの水深は、27メートル。古くから「潮が引くときは渦を巻き、船の通行が難しい」(芸藩通志)と言われた海の難所です。この日の潮は、さほど速くはありませんでしたが、それでも川のように流れる潮の筋は、はっきりと確認できました。しかも、潮の流れに逆らって船を進めているため、時折、大きく揺れます。その蒲刈の瀬戸を正面にみながら、左舷を見ると、下蒲刈島と上蒲刈島の間に「三之瀬(さんのせ)の瀬戸」が見えます。 幅は300メートルほどですが、潮が三方から集まるため、海面が高まり、風もないのに白波がわくという、海の難所です。私たちが乗船している海上タクシーの船長さんも、このあたりの海域でもっとも難しい瀬戸は、この三之瀬の瀬戸だと言います。このため、このあたりの海域は、猫瀬戸と三之瀬の瀬戸の存在によって、たいへん複雑な流れになっています。潮が均衡するところの海面は、鏡のようになめらかな状態です。この均衡がやぶれると、渦を巻きはじめます。 いまは、下蒲刈島と上蒲刈島に蒲刈大橋(480メートル)が架かり、下蒲刈島と本土側も安芸灘大橋でつながったことで、楽に行き来きができるようになりました。しかし、人と風の力だけで船を操っていた時代は、よほどの技量がない限り、この海を乗り切ることはむずかしかったでしょう。ただし、うまく潮に乗れれば、スピードアップにつながります。だからこそ、このあたりの海を知り尽くしている海賊たちの手助けを必要としました。そして海賊たちも、こうした水運の発達に比例しながら、成長を遂げていったのです。その蒲刈の瀬戸にかかる安芸灘大橋を、いまくぐります。時刻は、8時47分。写真からも、潮の流れと、鏡のようになめらかな海面の様子がわかるかと思います。 レインボーブリッジを見慣れているせいか、幅の狭さを感じますが、そのぶんスマートな姿をしています。もうすぐ、上蒲刈島と豊島も、豊島大橋で結ばれるそうです。そうなれば、本土側から、下蒲刈島~上蒲刈島~豊島~大崎下島の順で、島々がつながります。車での移動はたいへん便利になりますが、瀬戸内海から船が減ることは、寂しい気持ちもします。 橋をくぐって振り返ると、遠くに三之瀬の瀬戸にかかる蒲刈大橋が見えます。かつて平清盛も、足利義満も、この蒲刈の瀬戸(猫瀬戸)を通って、厳島におもむきました。いまその同じコースをたどって、これから音戸の瀬戸へ向かいます。
Oct 19, 2005
蒲刈(かまがり)島が見えてきました。画面の左手前に見える島が、上蒲刈(かみかまがり)島。そのむこう、画面ほぼ中央に見える島が、下蒲刈(しもかまがり)島です。いまは、本土側の仁方(にがた/画面右側)と橋で結ばれています。その橋の下の海域が、船の難所として知られる蒲刈の瀬戸(女猫の瀬戸)になります。上蒲刈島と下蒲刈島は、古くは、日高上(ひだかかみ)島・日高下(ひだかかみしも)島と呼ばれていました。奈良・興福寺の荘園であった日高荘があったからです。その後、室町時代になると、日高上島(上蒲刈島)は、日高島、日高下島(下蒲刈島)は、蒲刈島と呼ばれ、「蒲刈」といえば、下蒲刈島をさすようになりました。ついで江戸時代になると、両者を含めて蒲刈島と呼ぶようになります。15世紀の記録(『老松堂日本行録』)には、「可忘家利」と記されていますから、古くは「かまかり」と濁らずに呼んでいたようです。いまは「蒲刈」と言っても、ご存知ないかたが多いでしょうが、中世、瀬戸内海を旅するものにとって、蒲刈は、たいへん有名な場所でした。それは、ここが海賊の巣くう拠点のひとつだったからです。1410年(応永17年)、朝鮮の使者は、この海域で海賊に襲われ、衣服や食料、さらには船まで奪われています(『老松堂日本行録』)。しかし、中世の海賊は、海の強盗集団ではありません。彼らは、いつも船を襲い、掠奪を繰り返していたわけではないのです。彼らの主たる収入は、通行料でした。海賊たちは、島や、半島の先端に城を築き、その周囲の海を縄張りにして、そこを通過する船から「関銭」(せきせん)と呼ばれる通行料を徴収していました。また、船を警護して、「警固料(けいごりょう)」という名前の収入も得ていました。このほか、海運にも携わり、国内の交易にとどまらず、朝鮮や中国との貿易にも深く関与していました。このように、中世の海賊とは、海を支配する領主、海の武士団だったのです。彼らは、こうした通行料や警固料を徴収する見返りに、船の安全運航に関する情報を教え、ときには外敵から船を守ってくれました。しかも、こうした徴収行為は、社会的にも認められていました。そうなると、海賊は、海の強盗集団どころか、海の平和を守る集団だったといってもよいでしょう。しかし、自分たちの海を、通行税や警固料も払わずに通る者に対しては、強制的に徴収しようと、船を襲撃して、強制的に通行料を徴収しました。いまなら、電車をキセルして、割増料金を取られるのと同じです。また、通行料も一定ではなかったため、交渉を決裂させて、船を襲撃することもありました。そうなると、確かに海賊です。しかし、敵の船ではない限り、いきなり襲撃はせず、まずは、通行料の交渉から始まります。そして、一定の銭を支払いさえすれば、彼らは、むしろ船を守ってくれたのです。瀬戸内海には、こうした大小の海賊たちが、あちこちに縄張りをもって暮らしていました。そのなかでも、重要拠点のひとつが、この蒲刈だったのです。1420年(応永27)に来日した朝鮮の使節ソンギヒョンは、蒲刈島(下蒲刈島)には、東西の海賊がいた、と記録に残しています(『老松堂日本行録』)。そして、東から来る船は、東の海賊を一人のせてくれば、西の海賊は手を出さず、西から来る船は、西の海賊をのせていれば、東の海賊は手はださないというルールが出来あがっていたことも記しています。この東西の海賊の名前は、はっきりしませんが、少なくとも蒲刈島は、東西の海賊たちに属する島として認識され、その連絡地点とされていたようです。このころの瀬戸内海には、島伝いに、こうした海賊たちのネットワークがいくつもできあがっていました。戦国時代、日本一の海賊と呼ばれた能島(のしま)の村上氏や、来島(くるしま)の村上氏も、こうしたネットワークを基礎にしながら、やがて大きく成長した海賊たちだったのです。その蒲刈の海賊たちの海に、これからはいります。今日は、東の海賊を乗せていないので、どこからか海賊が近づいてくるかもしれません。緊張の一瞬です。中世の人々は、そんな思いをいだきながら、この風景を見ていたのでしょう。時刻は、午前8時29分です。
Oct 16, 2005
大崎上島を左手に見ながら進むと、その近くに細長い島が見えてきました。画面左側に写る、津久賀(つくが)島です。いま、午前7時59分。海上は、少しガスがかかっていますが、島の様子はよくわかります。この島は、いま、まるまる一島、売りに出されています。販売価格は、6700万円。東京なら、4LDKのマンション程度の価格です。しかし、その広さは、なんと1万10000坪。現在は、無人島ですが、みかん畑があり、井戸もあるそうです。島は、飲み水を入手しがたいため、井戸があることは、それだけでも大きな魅力です。みかんも食べ放題。新鮮な魚も、タダで手に入ります電気はありませんが、発電機を設置すればすむ問題です。夜は、満点の星空。聞こえるのは、波の音だけ。まるごと島を独り占めしたいかたには、お勧めの物件です。ただし、船便はありません。このため、小型船舶免許とモーターボートが必要です。これがないと、本土との行き来ができません。本土側の一番近い港は、安芸津ですが、島まではおよそ7キロ。海上タクシーをチャーターする方法もありますが、3万円ほどかかるそうです。津久賀島の前方に小さな三角形をした島が見えますが、この島も売りに出されているそうです。しかし、井戸があり、みかんが作れる津久賀島のほうがお買い得でしょう。1万10000坪という広さも魅力です。この海域では、三津湾の入り口にある藍之島も、1億5000万円で販売されていましたが、こちらは安芸津の風早からモーターボートで5分という近さだったため、すぐに売れてしまったそうです。近々、大型ホテルなども建設されるとのことです。このため、残る物件は、あと二島。さあ、あなたなら、この島、お買いになりますか。
Oct 15, 2005

先月、広島県の竹原港から呉港まで、瀬戸内海を船で旅する機会に恵まれました。旅といっても、仕事を兼ねての行動ですから、のんびり船旅とはいきません。それでも、さすがに瀬戸内海です。陸から見る海とは、また違った表情を見せて楽しませてくれました。そこで、このときの船旅のスケッチを、これから数回にわけて紹介することにしましょう。まずは、早朝、6時50分の竹原の内港桟橋の風景です。7時10分発の契島(ちぎりしま)に向かうフェリーが出航時刻を待っています。契島は、竹原の南、およそ20分のところにあり、東邦亜鉛の主力工場である精錬所によって占められています。このためこのフェリーは、もっぱら通勤客用です。各地の島を結ぶフェリーの乗り場は、内港桟橋から500メートルほど南になります。ここからは大崎上島・大崎上島・愛媛県今治市の波方に向けて、多くのフェリーが発着しています。この日も、3隻のフェリーが出航時刻を待っていました。それを横に見ながら、一路、大久野島(おおくのじま)をめざします。大久野島は、忠海(ただのうみ)の沖合3キロのところにあります。したがって呉とは反対方向なのですが、今回、船をチャーターしてくださったFさんとご学友が乗船されるため、そのお迎えです。朝日を浴びながら、潮の流れに乗って進むと、まもなく、正面に大久野島が見えてきました。いま、午前7時13分です。この島は、アジア太平洋戦争中は、地図から消されていました。陸軍の造兵廠火工廠忠海兵器製作所(1929年竣工)があり、毒ガスを製造していたからです。その種類は、皮膚や粘膜を破壊して死亡させるイペリット(きい1号)、呼吸器系統に障害を起こさせて窒息させるホスゲン(あお1号)、眼に灼熱的な刺激をあたえる催涙ガスのクロロアセトフェノン(みどり1号)など7種類に及んだといいます。それぞれの毒ガスに、「きい」「あお」「みどり」といった色の呼び方がついていたのは、毒ガスとしての存在を隠すためでした。そして、その工場の存在を隠すため、大久野島も地図から消されてしまったのです。その生産量は、敗戦の1945年まで、およそ6616トン。生産された毒ガスは、催涙ガスなどは、忠海兵器製造所でタンクや缶に入れて保管されたほか、放射筒・砲弾・投下弾に装填されました。また、イペリット・ホスゲンなどは、北九州市(当時は企救郡曾根村)にあった陸軍の造兵廠曾根製造所に運ばれて、砲弾・爆弾に注入されまた。こうして生産された毒ガス弾の総生産量は、およそ207万4000発。それらは、中国各地の日本軍に送り届けられました。そして、日中戦争がはじまる1937年から使用され、1939年からは、その使用も日常化していきます。さらに、アジア太平洋戦争がはじまると、イギリス軍やアメリカ軍の一部に対しても使用されました。こうして、1930年代から第二次世界大戦にかけて、日本軍は、戦場で継続的に毒ガスを使用しました。これほど継続的に戦場で毒ガスを使用したのは、日本軍だけでした。いまは、こうした過去の歴史を消し去るかのように、大久野島には、国民休暇村が建設され、多くの観光客で賑わっています。しかし、この島で毒ガスが製造され、多くの中国人に対して使用されたこと。そして製造に携わった人のなかにも犠牲者が出たこと。さらに、敗戦後、その毒ガスを中国に遺棄したため、いまなお中国では被害者を出ていること。こうした歴史の事実は、大久野島の毒ガス工場の存在とともに、ながく記憶しておかなければならないでしょう。なお、大久野島の戦争遺跡に関しては、毒ガス島歴史研究所のHPを参照してください(赤文字をクリックすればサイトにとびます)。また、日本軍の毒ガスに関しては、吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店(2004年)が参考になります。関心のあるかたは、一読をお勧めします。大久野島を出航すれば、いよいよ呉をめざして、瀬戸内海クルーズのはじまりです。右手に、小早川警固衆(水軍)の基地のひとつだった忠海の賀儀城をみながら、これから一路、蒲刈をめざします。
Oct 13, 2005

先日は、けいこちゃん2115さんが撮影された、筑波のススキを紹介しましたが、神奈川県でススキといえば、箱根・仙石原高原のススキ。それはもう、見渡すばかりのススキの群生。まるで金色の絨毯を敷き詰めたようです。そのススキが、今年も見ごろを迎えたそうです。ゆっくり秋の風情を楽しみたいかたは、平日がお奨めです。かくいう私は、今年も多忙で行けませんが。残念。 写真は、2001年10月31日に撮影したものです。旬ではありませんが、秋の高原の雰囲気をどうぞ。なお、ススキをはじめとする箱根の最新情報は、日々更新される「旬・箱根」(小田急電鉄)や、箱根町の観光情報などを参考にしてください。それぞれの赤文字をクリックすればサイトにとびます。
Oct 9, 2005

みなぞうくんの死因が発表されました。肺気腫による呼吸不全とのことです。しかし、なぜ肺気腫にいたったのか、その原因については、現在、日大の獣医学科において調査中だそうです。こうしたなか、7日の13時から、新江ノ島水族館の湘南お祭り広場において、みなぞうくんのお別れ会が開催されました。献花台も設けられたとのこと。参加できませんでしたが、同じ神奈川県内から冥福をお祈りします。新江ノ島水族館のHPにも、館長と飼育スタッフによる追悼文が寄せられています。アッカンべーをするみなぞうくんの写真は、このページからの転載です。
Oct 7, 2005
いつも私がお邪魔している「私の写真日記」に、金色に輝くススキの写真がありました。その一枚に深まりゆく秋を感じ、ちょっと拝借して、少し手を加えてみました。なにせ人様が撮影された写真ですから、ブログに掲載するのもどうかと思いましたが、けいこちゃん2115さんより、ぜひ見たいとのお声がかかったものですから、紹介することにしました。もとの写真は、横位置で撮影されていますが、ここでは、ススキを強調するため、左右をカットしています。また、夕日のすぐ横に電柱があったため、これも除去しました。山陰の家なども除去しています。あとは、濃度を上げて、赤みを増し、わずかにコントラストをあげています。深まる秋、感じていただけましたか。だとしたら、それはもとの写真が良かったからでしょう。ぜひ、「私の写真日記」で、もとの写真もご覧ください。つくばの秋だそうです。もとの写真のほうが、空間的な広がりがあるぶん、落ち着きます。そのうえ、夕日に輝くススキの美しさにシャッターを切った、けいこちゃん2115さんの思いが、伝わってきませんか。
Oct 6, 2005
以前、このブログでも紹介した江ノ島水族館の人気者、みなぞうくんが、昨夕、急死しました。我が家でも、そろそろみなぞうくんに会いにいこうと話していた矢先の出来事だったけに、たいへんショックです。君は、あの大きなからだにバケツをもち、アッカンべーをしては、子どもはもちろん、大人たちまでも、楽しませてくれましたね。人間では、まだ30代後半ということですから、あまりに速すぎる死でした。死因はいまだ発表されていませんが、連日のショーのストレスがたまってしまったのでしょうか。これからは、広い海のなかを自由に泳ぎながら、ゆっくりとすごしてください。君の大きな瞳は、子どもたちの心のなかに、いつまでも輝いています。ありがとう。在りし日のみなぞうくんは、ここにいます。http://plaza.rakuten.co.jp/makobei/diary/200508100000/
Oct 5, 2005
ここのところ忙しく、撮影にも出かけられません。今日も、たいへん良い秋晴れですが、一人家に引きこもって、留守番をしながら、たまった仕事を片付けています。せっかく訪れてくださったかたのために、今日は、我が家の奥さんがつくったフラワーアレンジメントを紹介します。写真ではわかりにくいかもしれませんが、なが~くまかれているのは、黒に限りなく近い濃茶と濃い紫の和紙です。よ~く見ると、色の違いがわかるかと思います。飾る場所がないため、いつものように、洋間のボードの上に飾りましたが、デザイン的には、和室のほうがあいそうです。
Oct 2, 2005
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