2008.07.03
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カテゴリ: つぶやき
本人は風刺コラムと書いていても、好き勝手書いて世間を斬ってるつもりになってる素人ブログと大差ない。
しかも「風刺コラムはつくづく難しいと思う」や「表現の方法や技量をもっと磨かねば」といった返し方も稚拙だ。
これじゃ反論されたときに「そういうつもりで書いたのではないのですが、わかりにくい表現ですいませんでした」と、あたかも相手が自分の本意を解釈できなかったかのように受け流すのと同じ技法である。
反論するのはこちらの意図が汲み取れていないからだという自分本意、ある意味エリート意識、そして選民意識。
これを日本語では馬鹿ともいう。

なぜならそれは頭が悪いからである。

なぜ朝日新聞の記者が頭が悪いかというと、それは歴史が物語っている。
歴史といってもそれほど古い話ではない。
朝日新聞の記者が銃撃されて亡くなったという事件がそれだ。


だがこれを朝日新聞が「言論の自由を暴力で圧殺しようとする事件」として報道してきたことに問題を感じる。

その理由は簡単明瞭、わざわざ相手の得意分野で戦う奴はいないということだ。口達者な奴に口論を挑むより、こっちが暴力が得意ならそれを使うまでである。相手の土俵で戦わないのは戦法の基本中の基本だろう。

だいたい仕事というものには常に危険がつきまとう。事故でも事件でも天災でも人災でも、命が懸かっていない仕事をみつける方が苦労する。
いまどきコンビニの夜勤などは最も緊張する仕事といっていい。

20年前とはいえ、そういった緊張は当時からあったように思う。
少なくとも事件を扱うマスコミ人なら持たなければいけない。
なぜなら暴力が蛮行なら、自分の思想を紙に書き連ねて配るというのも決して崇高な行為ではない。少なくとも人の怨みや憎しみ、反感はかって当然だろう。

というよりも、事の本質は手段などではなく目的にあると思う、といった方がいい。

たとえば、無差別に人を斬りつけて暴れるのは蛮行であるが、その犯行を止めるがために犯人を射殺するのは蛮行とは思えない。同じ暴力であっても目的の違いで行いに雲泥の差がある。
同じように、社会正義と秩序を守るために人々に訴えるのと、自分本意の雑文を読ませるためにまき散らすのでは天と地ほどの違いがある。

朝日新聞のしてきたことが前者だとは思えない。


それは本人たちの問題である。

犯人が捕まれば死刑を覚悟で襲ってくるなら、記者は死を覚悟で書くまでである。
それが嫌なら記者を辞めてしまえばいい。プロ野球選手が球を怖がれば即引退である。高いところが恐いなら鳶は務まらない。プライバシーを守りたいなら有名人にはならないことだ。

勝つことが目的なら手段を選ばない人間は必ずいる。核保有国にわざわざ宣戦布告する国はなく、刃向かうにはテロリズムしかないとまず考える。
マスコミを相手に原論で勝つのは難しい。ならば手っ取り早く暴力でと考えるのは極自然な流れということになる。

それに対処するにはふたつしかなく、覚悟して言論を続けるか、もしくは相手に暴力をふるうまでもなくす土俵をあたえてやるかだ。





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最終更新日  2008.07.03 23:37:10
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