ゆえにそれは、「観念を形成する」という点で「知性の働き」であるとともに、「肯定や否定を行う」という点ではデカルトが「意志」に帰したはたらきをも担うことになる。
「観念形勢」と「肯定や否定」、「認識」と「意志作用」は、まさに同じ一つのものなのであり、またそのすべては、「思惟する事物の行為」ないし「思惟的行為」であることになる。
思惟する事物がなす思惟行為のすべてが、「観念形成としての肯定や否定」である。
「行為者因果的な因果モデル」によれば、人間精神のような有限な個物における「思惟的行為」すなわち「観念形成」は、すべての有限者の行為と同様、「内在的原因」と「他動的原因」の「協働的因果」による変状の形成という三項モデルにより捉えられねばならない。
それは観念の「無からの創造」でもなければ、「非決定の自由意志による創造者的な活動」でもなく、むしろ「無限知性に含まれる一観念としての人間精神」が「内在的原因」となり、「他動的原因としての外的事物の観念」からの「因果的決定」をうけ、「自己の本性必然性」に従って一定の変状、つまり「身体変状の観念」という変状を形成する、という「過程」、あるいは「思惟的行為」である。
「事物の力あるいはコナトゥス」には、「行為へのコナトゥス」ち「自己の有への固執のコナトゥス」という2つの側面がある。
いかなるコナトゥスあるいは「現実的本質」も、「何かを為しつつある自己への固執」である。
「何かを為しつつある」において、「行為へのコナトゥス」と外的・他動的原因からの決定は一体となり協働的に働いて、個物を様々な行為や状態へと向けている。そしてそのような「行為や状態」を産出し維持しつつある「自己に固執」するのが「自己の有への固執のコナトゥス」である。
「能動する(行為する)agere」とは、わたしたちの内外に、わたしたちがそれの「十全な原因」であるような何かが帰結する場合である。他方で「受動を蒙るpati」とは、わたしたちがそれの「部分原因」でしかないような何かが、「わたしたちの内に帰結する」、あるいは「わたしたちの本性から帰結する」ような場合である。
他動的原因(因果的に「決定する」事物)と内在的原因(因果的に「決定される」事物)との双方に「十全な観念」が含まれている場合、それらか産出されて結果は、その観念に関する限りは、他動的原因を参照せず、内在的原因を参照することだけにより、「十全なまま」で見出される。それゆえその結果は「十全な観念」を含む点においては、「十全な結果」であり、精神は十全な結果を含む点において「能動」であり、また「十全な観念」をより多く含む精神はそれだけより「能動的」である。
〇「真なる観念」はその「観念対象」ideatumと一致しなければならない。
〇「十全な観念」とは、「対象との関係なし」で、そのものにおいて考察された限りで、「真なる観念」の諸特質ないし「内的諸徴表」denominationes intrinsecasのすべてをもつような観念である。ここで「内定諸徴表」と言うのは、「外的諸徴表」すなわち「観念と観念対象との一致」を除外するためである。
観念が「真である」とは、「その観念対象と一致すること」を指し、これは当の観念にとっては「外的徴表」である。一方観念が「十全である」とは、「対象との関係なしでそのものにおいて考察された限りでの」特徴であり、それゆえ「内的徴表」と呼ばれる。
「十全な観念」とは、観念相互の包含関係に関わる規定であり、したがって「思惟属性外の対象を参照せず」、思惟属性内で完結する規定である。