全1136件 (1136件中 1-50件目)
『スピノザ学基礎論 スピノザの形而上学 改訂版』松田克進 勁草書房実体と属性と様態のうち、「実体」の単一性と「属性」の無限個数性の整合性について、いくつかの論考の検討をもとに、自説を論じた作品。属性の観念論的理解と実在論的理解について、緒論を引用しての検討は興味深い。属性をカント流の主観的形式の適用対象としてみなすと、その実在性が毀損され、実在としての実体と属性との一致という考え方において整合性を欠くと言われればなるほどで、逆に属性の実在性を認めた場合、その多数性イコール多実体論となってスピノザの言い分に矛盾をきたすという。実体を意味内容で属性が記号にたとえるとその混同に、幾何学的形式における論立ての順序にムリが生じるという話だが、この混同事態は、因果性についての様態間のそれと、実体と様態との関係にそれとの混同によるものらしいのだが、それと、実体属性関係との関連も含めた全体的な理路はつかみきれなかった。
2023.07.28
コメント(0)
『赤い殺意』★★★★★1964年 監督:今村昌平、出演:春川ますみ、西村晃、露口茂、音楽:黛敏郎傑作というよりも怪作とでも言うしかない、当時の日常のリアルさを感じつつも、独自の境地で撮られた作品で、その独自性に圧倒される。「重喜劇」というらしいが、みていてほんとにうっとうしいくらい「重い」のだが、奇妙な人間関係の緻密な描写や話の展開の妙さとあいまってとてもない魅力を引き出す。それになんといっても春川ますみを中心に俳優陣がすばらしい。独特の映像描写も絶妙だ。『エロ事師たちより 人類学入門』★★★★1966年 監督:今村昌平、出演:小沢昭一、坂本スミ子、近藤正臣、佐川啓子、音楽:黛敏郎性そのものというより、性をめぐって展開される人間どもの悲喜劇が予期せぬストーリー展開と映像の連続で、戦後の高度成長に入りつつある日本の風景をリアルに感じられるように描かれてはいるもの、まったく何の古(くさ)さも感じず、斬新でひきつけられてしまう。小沢昭一と坂本スミ子がすばらしい。『選挙2』★★★2013年 監督・製作・撮影:想田和弘、出演:山内和彦前作に比べて、候補者である山内よりも、選挙立候補者を描く割合が増えた分、ポイントが弱くなったような気がするが、観察映画としてあえて物語らないとすれば、時の流れのままであるかのように雑然と流れていく展開でよいのかもしれない。山内氏の選挙のやり方はおそらくしごくまっとうなのだろうが、しかしでは、他の候補者たちの旧来型の選挙活動でどれくらい有権者に声が届くのか、届いたから当選なのか、それとも何か別の要素があってそうなのか、少なくても辻立ちとか選挙カーや自転車での巡回、街頭演説でそれが当選に必要とされる人数に伝わるとはとても思えないので、「1」では自民党の活動としてそれが描けていたのが興味深かった分、今回は山内さんの内輪の話か、候補者たちの外ずらに終わったようなきもするが、「2」である以上、それを描くことに意を尽くしてそれで選挙を多面的にとらえられるということなのだろうか。『ベルファスト』★★★★2022年 監督・脚本・製作:ケネス・プラナー、出演:ジュード・ヒル、カトリーナ・バルフ、ジェイミー・ドーナン歴史的背景(北アイルランド紛争)にもう少しなじみがあればもっとたのしめただろうが、それを抜きにしても、おそらく監督の思い入れを強く反映してか、モノクロフィルムが映える、すばらしい出来になっている。自分の生まれ育った地域や家族をめぐる物語が、主人公の少年を中心に興味深いエピソードを重ねつつ、慎重に丁寧に描かれていくので、歴史的背景に疎くても魅了される。昔ながらの、生存に不可欠とも思われる共同体的関係を断ち切ってしまうほどの対立・軋轢が生じてしまった結果、主人公たちは故郷を去らねばならなくなるのだが、その原因については暴動という形でしか描かれていないので、なにか突拍子もない災難の様で、それはおそらく主人公の少年の受け止めかたと相似的なのであろう。『レディ・バード』★★★★2017年 監督・脚本:グレタ・ガーヴィング、出演:シアーシャ・ローナン、ローリー・メトカーフかならずしも好ましくないのだが、しかし実のところ深い絆で結ばれた母と娘の関係の葛藤と和解の過程を、興味深いエピソードをふんだんに塗せながら描いた快作。主人公の演技が出色なのは言うまでもなく、彼女をとりまく俳優陣も若いのに自然で、英語がいまいちわからないのでセリフなど当世風なものが並べられているのだろうことは感じとられもして、見ていて実にリアルな感じがした。アメリカで高評価なのはきっと彼らの琴線に強く触れるだろうからで、じつのところ、定石にのっとった正統なアメリカ映画の青春ものにかなっているように感じさせられてしまう。
2023.06.11
コメント(0)
『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』★★★2014年製作、監督・製作:マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール、出演:アリアンヌ・アスカリッド、アハメッド・ドゥラメ、ノエミ・メルラン実話に基づく成功譚だから、中途の綻びも最終的には収束されることが約束されているわけで、その過程をいかに興味深く描くかが問われているわけなはずだが、想定内の範囲だったので、それなりの作品に仕上がってはいるものの、きれいごとだけでおわってやしないかと危惧されるのが後半の事態が改善していく流れの性急さに垣間見られる。『にっぽん昆虫記』★★★★★1963年 監督・脚本:今村昌平、出演:左幸子左幸子ほか俳優陣がすばらしい。方言そのままのようでセリフが聞き取りにくいところもあるが、人間のある種の卑しさやみっともなさ、狡さなどダメさ加減が実に如実に描かれているような気が強くして、本来なら目をそむけたくなるようなありさまが実にリアルで、その分みていてまた、実に興味深く感じられるのが自分でも不思議なくらい魅力的な映画。
2023.06.10
コメント(0)
『ミナリ』★★★2020年 監督・脚本:リー・アイザック・チョン、出演:スティーブン・ユァン、ハン・イェリ米国で一獲千金を夢見た韓国人移民の物語。移民一般の物語としてはかなりアメリカンな感じというか、ある種紋切り型で、そこにコリアン風味を聞かせたといった感じで、移民の物語としてアメリカ人にとってはさらにそうだろうが、そうした物語を共有していない者にも、わかりやすいというか分かりやすすぎる内容になっていて、正直新味があまりない。アカデミー賞候補にもなったらしく批評家的には「絶賛」らしいのだが、それがその「分かりやすすぎる」ことによるのであれば、すくなくても驚きはなかった。努力して成功を目ざる過程での、登場人物たちの葛藤や喜怒哀楽が、さまざまなエピソード、出来事をえて描かれていくが、物語としてはおもしろくもあるが、それだけでなような感じがしなくもない。
2023.06.03
コメント(0)
『バイオハザード:ザ・ファイナル』★★★2016年 監督・脚本・:ポール・W・S・アンダーソンあいかわらず人を驚かせるのがうまい映画だが、ファイナルをうたっているだけあって、物語を終わらせるための終わらせ方のせいか、話に広がりが薄れ、その分、おもしろみも薄れてしまっているように感じた。たとえばウェスカーというふてぶてしく不死身なキャラは、その演者もふくめてなかなか興味深いキャラ設定なのだが、あっけなく最期をむかえてしまう。前作までの流れからするとその扱いがあまりにぞんざいというかあっけなさすぎて鼻白む思いがした。
2023.05.28
コメント(0)
『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえりお母さん~』★★★2022年 監督・撮影:信友直子前作の焼き直し感が無きにしも非ずではあるが、「おかえりお母さん」という題名に反して、母は死に父が残る。母親の変化の過程には人間の悲しさを目の当たりにして再見ではあるものの涙を誘われざるをえないが、少しうがった見方をすれば、インテリの父親の妻の死に接して取る姿にカメラ意識がないとは言えないような気もして、母も父も娘の映画製作に対する協力姿勢が垣間見まれ、家族総出の家族ムービーという感は無きにしも非ず。前作よりもそのショッキングさという意味合いでドキュメンタリー色が薄れたかなという感も無きにしも非ず。『精神0』★★★2020年 監督・撮影・編集・製作:想田和弘最初、前作同様、精神疾患者と医師とのやりとりの映画と思われていたが、後半は医師と妻との話になってきて、展開が妙だなと感じつつも、精神科医の妻の苦労があぶりだされていく構成となっており、それに対する夫の感謝と慈しみと愛の映像がが決して表立った形ではないもののたんたん、しかしそのたんたんがその思いの強さとして続く。患者はどこかへ行ってしまったような感じもしたが、痴呆を併発しているらしき妻との付き合い方は対患者とのそれとは異なっていて、仕事としての精神科医をリタイアしてプライベートでの妻との向き合い方であるのだから当たり前と言えば当たり前の話だが、そうするとこの作品そのものが分裂しているようにも感じられ、とまどいを感じた。『リチャード・ジュエル』★★★★2019年 監督:クリント・イーストウッド、出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ正義をめぐっての攻防は見ごたえがある。特に正論を突きつけられてFBIの捜査官が何も言えないシーンが印象的であった。物語として悲劇の主人公をひきたて最後には報われるような描かれ方をしてはいるものの、その過程で、たとえばマスコミに対する描き方は多少誇張が過ぎるようにも感じられ、勧善懲悪は楽しめるもののやはりどこか鼻白むシーンがないではない。その点を除けば、描かれ方はやはり丁寧なので秀作である。『15時17分、パリ行き』★★★2018年 監督:クリント・イーストウッド子どものころは問題児であった少年たちが成長してテロを防いで大殊勲という実話。3人の物語というよりそのうち大怪我を追った1人の信仰みたいなものがベースとなっていて、それ自体は人助けの重要性という意味で普遍的でもあり、分かりやすい内容になっている。他の2人は取ってつけたようで、彼らの子供のころからの交流の流れと最後の勇敢な行動とのつながりがいまいち描き切れていないというか、単にその場に居合わせて勇敢な行動をしたという話にも見えなくもなくて、物語の大半を占める3人の物語が子供の頃はやんちゃだったという単なる昔話というかエピソードに終わっていしまっているようにも感じなくもない。彼の行動そのものの顕彰という意味ならわかるがそれ以上の意味ある映画なのかどうかは何とも言えない。『A2 完全版』★★★2016年 監督・撮影・編集 森達也2001年制作の作品に、削除部分を追加したものらしい。地域住民とオウム真理教との対立が興味深い。当時の事件の衝撃を鑑みれば、地域住民としては必死の思いの運動なのだろうが、当初の対立から交流に発展する地域もあったりして、その対応が様々さが描かれてもいて興味深い。が、何といっても教団内部の信者たちの様子には興味が尽きない。彼らの異常な言動もないではないのだろうが、全般的にいたってふつうなその在り方には見ていて安心感もあるがあれだけの事件を起こしたことを鑑みれば不信感もわかないではない。「ふつう」のまだ若い青年たちがあれだけのことをどのようにして起こすに至ったのかそのつながりは最後までよくわからなかった。それと信者たちの若さと地域住民の中核を担う中高年齢者たちの際立った世代のコントラスもきになるところで、そこは世代間の考え方や日本特有の社会的歴史的背景も垣間みられ気になるところではある。
2023.05.28
コメント(0)
『パンとサーカス』★★★ 島田雅彦 講談社登場人物が何かスカスカした感じがして、フィクションならでは「ホラ」もそこそこ、どうにもこうにも作り物めいた感じが最後まで否めなかった。政治や社会、国際関係についての内実がそれなりに描かれてはいるのだろうけども、どこかどれもリアリティを感じにくい。ノンフィクションで描いた方がリアルだったかもしれない。現実の上を行くフィクションならではの凄みがないので、きっと一定の事実に基づいて創作されているのではあろうけれども、それに対するどこかベタな批判しかないような気がして、良くも悪くもフィクションの予定調和にどこもかしこも収まっているかと思いつつも、登場人物たちを描き切れてないようなところが悪い意味で物語として破綻というか中途半端の感が否めず、鼻白む感が否めない。なんとか「カルテット」とか出しては見たものの物語上全然機能していなくて、取ってつけたような感じでなにかそうした中途半端なところが鼻につくし、それに対応してか登場人物たちのうちで、魅力的に描こうとして紋切り型を当てはめようとしているのが見え透いてしまっているその分、魅力が減じてしまい、興味深い人物は皆無であった。今ある日本社会のありように対する批判だとしたら、そもそも批判たりえているのかどうか、批判とは何か、凡庸さについて考えさせられた。『Ryuichi Sakamoto: CODA』★★★ 監督:スティーブン・ノムラ・シブル2023年3月に逝去した坂本龍一のドキュメンタリー。2012年から5年にわたって密着取材を行った。坂本龍一ファンにはたまらない作品だろうけれども、彼を知らない人が見たらなんのことだか分からないのではないか。坂本龍一という人はおそらく個として際立った人だったのだろうけども、その坂本龍一が個として際立つ作品とはなっていないと思う。この映画を見て、彼の作品にふれてみたいと感じる人がどれくらいいるのだろう。同時代人だったから興味深く感じる部分があったけれども、そこを除けば、彼の所感の羅列からは彼の凄みみたいなものが描かれてはいないように感じた。
2023.05.03
コメント(0)
『グッドフェローズ』(1990)★★★★監督:マーティン・スコセッシ、出演:レイ・リオッタ、ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシアメリカ版ヤクザの無軌道ぶりを描いた映画。仁義なき戦いであることから、題名が皮肉になっている。実話を基にした勧善懲悪に収まっているが、マフィア・ギャングの風俗を垣間見る上で、また日本のヤクザ、極道と似ている面もあれば違う面もあって興味深い。ただし、そうした風俗的関心を呼び起こしはするものの、登場人物たちの印象や関係性がいまいちよく描き切れてないような気がして、その点「ゴッドファーザー」に劣るように感じるのは、もう一度、見てみたとは思えないことからもわかる。吹き替えのせいでおもしろさも半減してしまったようであるし、デ・ニーロの演技はいいのだが人物造形上のキャラもいまいち。むしろジョー・ペシ演じる人物造形の過激さぶりが、吹き替えのせいで台無しになってしまってはいるものの、秀逸で、印象に残る。
2023.04.15
コメント(0)
『ブリグズビー・ベア』(2017):★★★監督:デイヴ・マッカリー 原案:カイル・ムーニー 出演:カイル・ムーニー · クレア・デインズ・マク・ハミル家族が主人公を受け入れる場面は確かに感動的ではあるけれど、それ以外の設定がどうにも贅沢すぎて、あまり感情移入できなかった。トランプや「ノマドランド」のあるアメリカ社会の実相とはかなりかけ離れているというか、確かに誘拐事件のという設定自体は否定的要素として挙げられるけれども、その過程があまり丁寧に描かれていないのと、受け入れ先の実父母の家庭環境があまりに恵まれて過ぎているように感じて、少々はなしらむ思いがして、正直、視聴後感はいまいちでした。あのような上位中産階級とも思われる家庭環境っていまどのくらい成立しているんだろって、ヘンな事ばかりが気になるというか、違和感がありました『カプリコン1』(1978):★★★監督:ピーター・ハイアムズ 出演:エリオット:グールド設定が面白いし、描かれ方も悪くない。展開に多少瑕疵や紋切り型がみられないではないものの(あまり新味はない)、その強引さも許せる範囲に収まっている。背後にある巨大組織の描かれ方が、最後まで抽象的なままにとどまり、その正体は明らかにされなかったのが良くも悪くも、その捉えられ方として興味深かった。『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』(2013):★★★監督・脚本:スティーブン・ソマーズ 出演:アントン・イェルチンテンポもよいし二転三転する物語展開もよくできているんだけど、大量無差別殺人の動機の説明が紋切り型過ぎて内容が伴わないので、悲劇的ラブストーリーの借景みたいになってしまっている。問題の掘り下げがなく、ただ意匠的に扱っているので、陰謀論者がみたら勘違いしかねない気がした。
2023.04.09
コメント(0)
『ドライブ』★★★監督:ニコラス・ウィンディングレフン、出演:ライアン・ゴズリング、キャリー・マリガンふつうにみれるが、映画の可能性を感じさせてくれるような、特に際立った点が感じられない。独特の美意識というか様式美のようなものが感じられなくもないし、それが一定の評価対象になってることも分からなくもないが、それが何かを生み出すような感じもなかった。主人公の「スーパーヒーロー」ぶりにはすくならず違和感を覚える。ただしその周囲のわき役陣は一癖もふた癖もある俳優陣を排して合って、それはそれなりにリアリティを生んでいて視聴継続の意欲を生む。
2023.02.23
コメント(0)
『慨世の遠吠え 強い国になりたい症候群』内田樹 対論 鈴木邦男 鹿砦社(2015)★★★★内田節炸裂でそれはそれで読み応えあるし教えられるところも少なくないのだが、先日訃報に接した鈴木邦男という人の考えも知りたかったので、内田との対談という事でこれは勿怪の幸いと思い読んだのだが、鈴木邦男の意見や考えについての発言は合いの手程度にとどまっていて少々消化不詳の感あり。しかし橋本治同様内田がこれほど高く評価し対談相手として受け入れている以上、やはりそれなりの識見があるとみるべきで、実際、全集をことごとく読み漁っているところなどその教養には驚いた。この後、彼の単著に進んでみたいとまでは思えなかったが、この本のセカンドバージョンがあるが、図書館にはないようなので残念だ。
2023.02.19
コメント(0)
『話せばわかる!養老孟司対談集 身体がものをいう』養老孟司(清流出版)★★★批評的な言説がいたるところにちりばめられてはいるものの、(雑誌)対談という形式のせいか、それが論じ詰められることはなく、どこか尻切れトンボというか、物足りなさを感じてしまう。論拠なしに断定的に思い付きが述べられており、それなりに批評性もありそれぞれの立場からの経験則や知見に即した見解であることはわからなくもないのだが、しかし十分にそれがそうといえるのかどうか、またどうしてそう言えてしまうのかの論証は、対談という性質上からか免除されているようで、読み物としては興味深いがそれ以上の域は出ない。
2023.02.12
コメント(0)
『善き人のためのソナタ』(2006)★★★監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク出演:ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲデック旧東独のシュタージの話。主人公の信念の貫き方やその一編の詩的な結末にあざとさばかりが感じられてしまい、リアリティがなかった。旧東独体制の「非人間性」なら非人間性をそのまま描けばいいのに、その方がかえって「人間的」だったりするわけで、ただそうすると救いがない話になるからあのような展開になるのだろうけれども、それでもってかえってせっかくの歴史的設定がお伽話化してしまっていて面白みに欠ける。『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(2015)★★★★★監督:フレデリック・ワイズマン、撮影:ジョン・デイヴィー傑作である。ニューヨークの一地区を多様な視点から淡々と描いているのだが、興味深い映像とテンポよい編集のコラボで最後まで魅せられてしまう。想田和弘がその手本としている監督らしいのだが、想田作品に比べて取り上げる対象の人間臭さが多くてその分、興味深い。『アメリカン・スナイパー』(2014)★★★★監督:クリント・イーストウッド、出演:ブラットリー・クーパー、シエナ・ミラー実話をドラマ化したものらしいが、スナイパー同士の撃ちあいはどこか西部劇の決闘シーン的であり、一緒に死線を潜り抜けてきた戦友の死や、母国でまつ家族の苦しみ悲しみ、帰還後の不具合、おそらくはそのあまりに平安さへの違和感、嫌悪感等々いつかどこかで見た風景であって、それをあえてキッチリ描くことでもっての繰り返しへの対抗なのとも読めないこともないが、それよりむしろ善意への裏切りともいえる結末の前提因果についての掘り下げた話の方に興味が湧いてしまった。『無頼』★★★(2020)監督:井筒和幸、出演:松本利夫、柳ゆり菜、中村達也激動の戦後史を描くには、要所要所の俳優陣もその演技も軽すぎて、何を描いてもどこか悪い意味でコミカルでリアリティーがない。それぞれのエピソードもそれなりに裏付けあってのものなのだろうが、展開の妙はあっても、どれもショートコントを見ているようである。
2023.02.12
コメント(0)
『革命的半ズボン主義宣言』★★★★日本戦後史を踏まえての現代社会についての分析・記述がたいへん興味深かった。とくに日本社会のありようについて著者独特の視点でしかもそれが恐ろしくリアルでまた、論述の仕方の私小説なところ、フィクションナルな部分が、いわゆる評論家とは違って、どちらかといえば小説のように書かれて読めてしまうのに、扱っている対象のせいか、時にあまりに冗談が過ぎるというか毒がありすぎもして、妙にリアルで面白くも不気味にも感じた。『TALK橋本治対談集』★★★日本文化の造形の深さには感嘆を禁じえない。そうした日本文化の深み・厚み・広がりのみならず、西洋近代も相対化して論じる軽やかさに、知性とは自由のことだと感じさせられる。『アメリカン・ヒストリーX』★★ネオナチとか白人至上主義とかの意匠は使われているものの、描かれているのは、そうしたものの本質ではなく、どちらかえといえば陳腐な家族愛だったり紋切り型の差別問題だったりで、ついぞ、そうした危険思想の持ち主のよってきたる所以についてはまったくといっていいほど視線が向いていないので、参考にはならない。『さらば愛しきアウトロー』★★★ロバート・レッドフォードの「俳優引退作品」らしいのだが、彼がなぜこの作品を最後に決めたのかがわからない。映画自体はそつなくよくできているし、レッドフォードのみならず、ケイシー・アフレックやシシー・スペイセクも演技自体はたいへんすばらしく文句のつけようがないのだが、いかんせん、登場人物のナゾに迫り切れていないようで、いまいちリアリティ(魅力)が感じられなかった。銀行強盗「グループ」の存在はすこし興味深いのだが、描かれるのは主人公の言動が中心だとすると、スタンドプレーのそしりは免れまい。
2023.01.31
コメント(0)
★★★『ビバ・マリア!』1965年仏 監督:ルイ・マル、出演:ブリジット・バルドー、ジャンヌ・モロー★三谷幸喜『大空港2013』 2013年 監督:三谷幸喜、出演:竹内結子、香川照之、神野美鈴、石橋杏奈★★『12モンキーズ』1995年米 監督:テリー・ギリアム、出演:ブルース・ウィリス、マデリーン・ストウ、ブラッド・ピット★★★★『インターステラー』2014年米英 監督:クリストファー・ノーラン、出演:マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイ、ジェシカ・チャスティン★★『パッセンジャー』2016年米 監督:モルテン・ティルドゥム、出演:ジェニファー・ローレンス、クリス・ブラット『ビバ・マリア!』は、テンポよい話の展開の妙もあるが、なんといってもブリジット・バルドーの魅力に尽きる。おとぎ話でも彼女がいるだけで画面に見入ってしまうくらい魅力的に描かれている。コメディーとはいえ細部にもいちいち配慮がなされていてきっちりと描かれているためか、話の展開がご都合主義ではあっても不快感というか興ざめしないのは、ルイ・マル監督の力量かとも思う。『大空港2013』は「テレビ映画」らしく、たしかに「映画」としてはその構想の点でいまいちの感なきにしもあらずではあるが、やはりこの作品も主演の竹内結子が引っ張っていて最後まで見せられてしまった。惜しい女優を亡くしたものである。お話しの展開にいまいち深みがないために、薄っぺらな感じがいなめず、取ってつけたようなエピソードはいくら重ねられても、興ざめこそすれ、あまり感心しない。おそらくコメディーというものは、深みではなく軽みでとられていこうという意図でもって作られているようで、それが徹底されているところを見ると、それはそれで楽しめばよいのかもしれないがやはり物足りない。『12モンキーズ』は、とてもよくできているのだがいまいちグッとこないのはなぜかと考えされられてしまう作品。ブラッド・ビット他、俳優陣には文句のつけようがないものの、なにかしっくりと来るものがない。描かれ方も隙間なくきっちと詰められていて素晴らしいのだろうが、おそらくは脚本の問題かもしれない。『インターステラー』は壮大な作品でそのリアリティーには圧倒された。俳優陣も素晴らしい。脚本が少しひねりすぎの感なきにしもあらずだが、それでもそれなりの緊迫感はあるし、家族の物語を絡めた時間論はなかなかに興味深くもあった。つけたし的のラストのラブストーリー転換は蛇足の感あり。逆転した親と子で紡がれる歴史の流れで終わっておけばよいのにと思った。『パッセンジャー』は古典的なラブストーリーなのだが、その絵描かれ方の大掛かりさには、一見の価値ありとみた。しかし収まるところにあまりひねりがないために、広がりや深みが感じられない。この映画も時間を扱ってはいるのだが、活かしきれていないように感じた。時間というものをどのように捉えたらよいのか考えさせることが多い。
2023.01.03
コメント(0)
自己原因から、「因果」ではなく「表現」という考えが導き出されるというところに目から鱗の感じがした。つまり「主体」というものはなく、神が唯一の実体であるとして、個物はなべてその「表現」ということになる。しかしその表現の在り方の読み取りにおいて、喜びが生じたり生き方の方向性が定められたりするという話らしいということはボンヤリわかった。意識と理性の関係や、それがスピノザ哲学の下でどのように規定され、かつその哲学体系の中でどのように機能しているのか、もろもろの諸概念がうまく整理されているようで、認識を新たにした面が少なくなかった。
2022.12.28
コメント(0)
Dの到来を待つことしかできないのか、というのが正直、直後の読後感。何をしたらよいのか、という指針が示されていないわけではないが、つまり(ローカルに留まる)Aの基づく社会の形成ということらしいのだが、そうしたAの「高次の回復」がDだとして、その「高次性」とはおそらくAにまつわる諸問題の改善という事らしいから、それについてはついてはもう少し詳しく論じてほしくかった。「交換様式A(互酬性)を単に否定することはできない。それは人間にとって基礎的な在り方であるから」といのはおそらく、家族のようなものを想いうかべれば想定しやすいのであろうが、その「高次での回復」の内実については、それを「人が願望し、あるいは企画することによって実現するものではない」といってしまうと、ただただ待つのみができることで、よるべなさ、風前の灯火、運に任せるしかないと言われているようで、これだけの長大な論考の結論としてはなんだか拍子抜けしてしまうような気がする。「Aの高次の回復」=Dについてのさらなる論考が待たれるところである。
2022.12.28
コメント(0)
資本と国家を揚棄した共産主義社会の可能性の追求「交換様式A」は人類が定住した時点での生じた。その時人々は、太古の「遊動的段階」にあったような在り方ができなくなったが、別の形でそれを維持しようとした。定住を強いられた諸個人は、定住共同体の掟に自発的に従うようになったが、同時に遊動的な段階にあった「個体性・独立性」を維持した。それが「士族社会」である。しかし国家の出現とともに事態が変わった。「氏族社会」が終わっても人々は国家の下で村落共同体を維持したが、それまであった「個体性・独立性」を失った。そのとき交換様式でいえば、AがBに抑え込まれた。その後、近代国家・資本主義の発展、つまりBとCの拡大とともに、村落共同体Aは解体されていった。しかしそれはある意味で「回復」された。つまり資本主義経済の下で、ネーション(想像の共同体)が形成されたからである。とはいえそれはAの「低次元での回復」に過ぎない。その結果として成立したのが、資本=ネーション=国家である。CのもとでのAとBの結合。宗教A 呪術(祈願=神強制)・相互扶助B 教団組織の権力C 経済的な動機「社会民主主義」←「科学的社会主義」(エンゲルス)「議会制民主主義」を通じて、「国家」の力を制限しつつ、同時に「資本主義」を制御しようとする考え➡国家や資本主義経済を、人々の自由な意志によって制御できるものであるかのようにみなしている。交換様式の観点からみると、CはBは人間の意志を超えた「力」をもつ。➡民主主義的な国家体制において人々は自由になったと考えているが、CやBの「力」に対して、いっそう屈従的になったにすぎない。国家や資本を揚棄すること、交換様式でいえばBやCを揚棄することはできない。揚棄しようとすること自体がそれらを回復させてしまうため。唯一可能なのは、「Aにもとづく社会を形成すること」。しかしそれはローカルにとどまる。BやCの力に抑え込まれ、広がることができないから。ゆえにそれを可能にするのは、「高次元でのAの回復」すなわち「Dの力」によってのみ。しかしDはAと違い、人が願望・企画することによって実現されるようなものではない。それはいわば「向こうから」来る。
2022.12.28
コメント(0)
「社会主義革命」資本主義から共産主義への移行➀「社会主義」プロレタリアートが国家権力を掌握すると、それがまず「生産手段を国有」にする②「共産主義」プロレタリアートがプロレタリアートを止揚し、一切の階級差別と階級対立を止揚し、そしてまた「国家としての国家も止揚」する「社会民主主義」多数決によって得た国家権力を行使することで、資本主義を揚棄しようとするもの。資本主義は消えても国家権力は残る。民主的に得られたものであろうと、国家権力が自然に消滅することはなく、むしろ民主主義に裏付けられて、国家権力は存続する。
2022.12.27
コメント(0)
「神への知的愛」精神が「原因としての神の観念」を伴いながら、自己自身を観想するはたらき「自己の能力の観想」➡人間が望みうる最高の喜び最高の満足を与える「自己の能力の観想」が、自己と神とものを経めぐる「第三種認識の運動の過程」に組み込まれた時、この観想により得られる喜び、すなわち自己満足・名誉を、人間は他との比較によってもはや乱されることはない。「神を意識する」とは、自分になし得ることを想いながら、自分に似た他人という同類の表象ではなく、無限なる神の観念を意識するということ。理性的概念は、私の身体ではなくて共通概念を基礎としているため、意識とは言えない。意識は、意識にとって他なるものである「理性」(的認識)を経由して、先の過程に身を乗り出す。意識(第一種認識)は、意識でないもの(第二種認識)を経由して、再び意識(第三種認識)へと戻る。「人間精神は、身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する」わたしたちがそれであるところの観念は、神の永遠の必然性の一部である限りにおいて永遠である。人間精神は身体とともに完全には破壊されえないといっても、死後に「意識」が残るわけではない。身体がないのだから意識もない。精神は身体の持続する間だけしかものを表象することはできない。死後、肉体を離れた意識だけが残る、ということはない。
2022.12.25
コメント(0)
人間身体の諸部分における運動・静止の相互割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反してそれが異なった割合をとるようにさせるものは悪である。(共通概念)➡コナトゥスの維持こそが善、その阻害が悪。「個体」➀諸部分②諸部分の「構成関係」➂諸部分に作用しているコナトゥス(本質)個体の本質➡「自己の存在に固執する」コナトゥス「自由」➡「自己の本性の必然性のみにより存在し、自己自身のみにより行動に決定されるものは自由であると言われる」「意識」➀原因について無知②何事も目的において捉える(意識の目的論)➂何事も善悪の価値判断の下で、つまり道徳的に受け止める(意識と良心の同一性)身体の変状=衝動を引きおこす無数の原因の連鎖を意識することは困難➡衝動の原因は目的として意識される➡第一種認識「第一種認識としての意識」身体の変状がもたらす結果を受け取っているだけの、「静止」状態。自らの身体の内部にとどまっていて、その外部にある一般法則についての認識に自らを届かせられていない。「第三種認識としての意識」身体の変状の観念を「自己・神・もの」に関係づける。「身体・精神・神・もの」の対象間を経めぐるようにして「運動」している。身体がなんらかの変状を起こしたとき、意識は、その変状に適用できる一般法則を知っているならその法則を手掛かりにして、その変状が自らの身体・精神のいかなる特性と結びついているかを意識し、この変状という結果を原因において捉えなおすことができる。その際、意識は、自らに関係するものへと、また、無限なる全体としての神へと向かい、これらとの因果関係を「永遠の必然性」において把握する。人間の意識は、第一種認識からはじまりつつも変状という結果をもたらした原因について観念を形成することができる。第三種認識とは、孤立した一観念ではなく、繰り返される認識の過程そのものであり、「自己と神とものを意識すること」。
2022.12.25
コメント(0)
監督・脚本 劇団ひとり出演 大泉洋、柳楽優弥、門脇麦、土屋伸之、鈴木保奈美それなりに「泣かせる」映画ではあるが、ビートたけしという借景あっての映画であって、物語の展開は実話に基づいたものらしいとはいえ、どこか紋切り型が鼻につかないこともなく、しかしそれが一篇の娯楽作品に仕上がってはいることもあるので、楽しめるけどどこか物足りない贅沢感を抱かせる映画。もちろんあくまでビートたけしの映画として見ればその設定は崩せないだろうから、フィクションの物語に託して語ろうとすればこのような語り口は1つのそれとしてはそれなりによくはできているものの、特段驚きはない。ビートたけしとその師匠との深いつながりとか信頼とかまたそれをとりまく当時の浅草フランス座の温かいコミュニティー感とかは、際立ったリアリティーを感じられるものではないものの、それなりに描かれてはいて、でもやはりどこか作り物感は否めない。でも最後まで見せられてしまったのは、やはりビートたけしという設定のなせる業だったように思う。
2022.12.25
コメント(0)
〇理性➡理性的認識の集合。基礎は「概念」(「身体の変状」ではない) 「理性的認識」➡「観念の秩序」の中に存在している、「自然法則」から取り出された認識➀精神の中にある能力ではない。「理性的認識」という「観念」だけがある。 精神➡諸々の観念、身体を対象とする観念からできている。②理性的認識は、意識から峻別されるべきもの。理性は意識ではない。 身体の変状を基礎とする意識とは異なり、理性は「共通概念」を基礎にしているから。➂・意識は「わたしの身体の変状」を基礎にしており、その対象は必ず「わたしが出会う具体的な個物」 ・理性的認識は、事物に共通して適用できる「一般的な規則」を基礎にしている。➡具体的な個物そのものを「説明」しない。具体的な個物にたんに「適用」されだけ。【カント】わたしたちの認識の形式が、わたしたちにとっての現実を「現象」として作り上げている。【スピノザ】自然法則を理解し適用するとき、わたしたちは「自然界に存在している観念」に直接にアクセスしている。「共通概念」は「作り上げるもの」ではなく、すでに自然の中に存在している観念の発見理性的認識もまた「身体の変状」という不純さを伴わないわけにはいかないが、この認識それ自体には、「意識から独立している」という特別な存在論的地位が与えられている。「善悪の認識」➀意識から発生するもの。➡主観的な認識➡「善悪の認識」②理性的認識により獲得された法則について、一定の基準(活動能力の増減)に基づいて判断されたもの。➡客観的な認識➡「善悪の『真の』認識」各々の人間にはそれぞれに異なった性質、「自己固有の本性の法則」がある。この本性に従って行動できるとき人は「有徳的」である。「徳とは、自己固有の本性の法則に従って行動すること。」有徳的であるとき、人はそれぞれの仕方で、それぞれの本性に従って、人間をめぐる一般法則である「理性の法則」に従っている。
2022.12.24
コメント(0)
「善・悪の認識は、わたしたちに意識された限りにおける喜・悲の感情にほかならない。」「感情」➡身体の変状及びその観念のこと「意識」➡身体の変状(感情)を対象としている「意識された限りにおける喜・悲の感情」➡意識が意識するのは自分の「身体の変状」➡「意識」のこと「善悪の認識」➡「良心」➡良心と意識は同一「良心の呵責」=悪の認識 ➡ 悲しい ×「悲しい」➡ 悪の認識(良心の認識) 〇「意識」は、喜びを感じることで善を認識し、悲しみを感じることで悪を認識するにいたる。「意識」は常にすでに、善悪の認識に至ってしまっており、わたしたちは世界を善か悪かどちらかの価値において眺めるよう運命づけられている。➡「善悪の判断から独立して中立的な意識」が存在するという考え自体を否定している。「わたしたちは、あるものを善と判断するからそのものへ向かって努力し、意欲し、衝動し、欲望するのではなく、反対に、あるものへ努力し、意欲し、衝動し、欲望するがゆえにそのものを善と判断する。」「さまざまな原因」により何らかの対象を求める衝動が生じた「あと」で、そのようにして求められた対象が善い目的として意識される。意識による転倒により、衝動(結果)が目的と見なされる。➡自らが立てた目的によって行為していると信じている限りにおいて、人間の意識は身体の変状の中に閉じ込められている。
2022.12.24
コメント(0)
〇第一種認識「一般的観念」ideae universales偏見praejudicium➡人間が何につけても目的を見出そうとするがゆえに生じる「人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をあるものに衝動を感じるように決定する諸原因は知らない」目的=衝動「意識」は、原因の連鎖をたどりきれない。だからその代わりに「目的」を「原因」としておく。〇第二種認識「それ自体においてみられた事物は完全でも不完全でもない」➡わたしの身体とは独立して捉えられている➡あらゆる事物に適用される、一般性が極めて高い、理性に基づく共通概念「善」➡「わたしたちが形成する人間本性の型に、ますます近づく手段になることを、わたしたちが覚知するもの」➡「人間本性の型に近づく」とは形相formaとしての本質が変化することをいっているのではない。➡「人間の活動能力agendi potentia(そん人の本性を活動能力と解する限りにおいて)が増大あるいは減少すると考えられるという意味で」事物はそれ自体でみてみればよくもわるくもないのだが、何かとうまく組み合わさり、そのことでもってそのものの活動能力が増大するとき、その何かはそのものにとって「よい」。➡「より小なる完全性からより大なる完全性へに移行している」
2022.12.24
コメント(0)
「信仰」➡「神への服従」➡「道徳心をもって生きること・隣人を愛すること」「神との契約」➡道徳心の価値の内面化「理性による利得計算を基礎とする契約」➡集団を形成➡人が神と一対一で結ぶ契約自然状態ならば人は自らの「欲望」に従って、つまりは「意識を伴う衝動」によって自らの「自然権」jusを行使しているだけである。それに対してすでに契約が成立していて、法lexが存在している場合、行為のもたらす意識は法についての表象を伴う。「法に従っている」「法を破る」といった意識である。このような意識が契約のもとでの「意志」である。法が有意味に存在しうるのは、法を表象する意識としての「意志」に対してであり、また同時に、そのような「意志」を生み出すのも法なのである。「契約」はこのような円環構造を生み出す。「法的な意志」は、「自然状態」においても想定できるようなものではなく、「契約」によってその「効果」として「生み出される意識の一様態」である。
2022.12.24
コメント(0)
〇自然の法「自然権」jus naturale=その個体に与えられた「力」そのもの個物が自然においてもつ権利「自然の法」によって決められた権利➡あり個体がどうしようもなくそれにそって行為しなければならない法則➡それを認められた者の「能力」と正確に一致している★自然権は人間の「能力」そのものであるから(武器のように)捨てることはできない。が、やろうと思えばできるがやらない、つまり自制することはできる。〇社会の法「権利」=許可社会の法制度により認められた資格や自由法制度は何をしてよくて、何をしてはいけないかを決めている。人々のなし得ることのなかで、社会の法制度により許可された自由が権利。「できるがしていない」「やろうと思えばできるがそれが許可されていない」➡社会の法が認める権利とは、それを認められた者の「能力」から独立して定められたもの
2022.12.24
コメント(0)
「能動」わたしたちは、自らがある出来事あるいは行為の「妥当な原因」であるとき「能動」である。自らが自らの行為の原因になっていること。「妥当な原因」その出来事ないし行為が、わたしたちのほんしょうによって理解されうるということ。「内在因によって定義される因果性」原因は結果を「引きおこす」というよりも、結果によってその力を「表現する」原因のもつ力が結果によって「説明される」原因はその結果によって自らの力を表現する➡わたしたちの行為がわたしたちの力を表現しているとき、わたしたちは能動である。➡わたしたちの行為はわたしたちの本性のみによって、明瞭判然と理解されうる。完全に能動的な行為とは、行為者の力以外の何ものも表現していないような行為。それは神にしかありえない。わたしたちの行為は、どれほど能動的であろうとも、どこかに自分以外の存在の力を含んでいる。➡どんなに受動的な行為であろうとも、どこかに能動性がある。完全に能動的な行為がありえないのと同様、完全に受動的な行為もありえない。そもそも完全に受動的な存在があるとしたら、それは「コナトゥスを完全に放棄した存在」であるから、存在し続けることができない。「感情の模倣」affectuum imitatio「わたしたちの同類のもので、かつそれに対してわたしたちが何の感情も抱いていないものが、或る感情に刺激されるのをわたしたちが表象するなら、わたしたちはそのことだけによって、類似した感情に刺激される。」「悲しみ」精神は自己の無能力を「表象する」imaginaturとき、悲しみを感じる※「無能力」は表象の対象。無能力は他者との比較によって見出されるほかなく、他者との比較は同類という「表象」に基づいている。「喜び」精神は自己自身ならびに自己の活動能力を「観想する」contemplaturときに喜びを感じる。
2022.12.24
コメント(0)
神の存在は神の本質にほかならない。神の存在と神の本質とは同一である。神が存在しているという事実そのものが神の本質である。神の本質は、神のうちに想定されるものではなくて、「神が存在しているという事実」そのもの、「無限に多くの属性からなる実体として存在しているということ」そのもの。神の能力は神の本質そのものである。能力potentiaとは、発揮されるべく神の中で待機している潜在力のようなものではない。「神をつらぬく法則に従って神が作用していること」そのもののこと。どこかに存在している神の存在の証明を行ったのではなく、神が自然としてここに存在していることを描写している。神の存在論的証明神は完全なのだからその完全性には存在も含まれていなければならない。したがって神は存在する。神が完全であるならば、神という「事象」についてその内容を示す述語を付すことはできるし、神が完全であるならそれらは真であろう。だがそれが「ある」とか「ない」とかいった「存否」に関わることは、主語の事象内容から独立しているであり、「神は完全である」のような万能に見える述語であろうと、主語を存在させることはできない。スピノザは「どこかに神が存在している」といっているのではなくて、わたしたちがその一部であるところの自然が確かに存在しているということ、この事実そのものを神の観念によって説明(描写・表現)した。エチカにおける神の説明は、神の存在証明ではなく、神の存在描写。有限であるとはその存在の本性の部分的な否定であり、無限であるとはその「絶対的肯定」である。(実)無限としての神には外部がないのだから、自分以外のものから影響を受けることがない。時間的にもそのように言えて、神は永遠であり、始まりも終わりもない。外部からの影響が一切ないから、神は存在し作用するにあたって自身の法則以外のものに左右されない。在るモノはすべて神の内に在るとは、あらゆるものが「神の一部」であることを意味する。神こそは存在する唯一の「実体」であり、さまざまな個物はその実体の「変状」である。「変状」とは何かが性質や形態を帯びることをいう。実体の一部がなんらかの刺激を受けて変状し、個物が成立する。だから個物は現れてきたり消えていったりするが、実体そのものは現れることも消えることもない。存在する実体は神ただひとつであるが、実際には、神はつねに変化して存在している。この自然ないし宇宙は、どこをとっても神の変化である。つまり神は、無数の仕方、無数の様態で存在している。万物はそのそれぞれが神の存在の仕方、つまり様態である。あらゆる個物は、神がどのような仕方で存在できるのかを、それぞれがそれぞれの仕方で説明(描写・表現)している。スピノザの考える個物は、そのそれぞれが、神がいかなる仕方で存在しまた作用するのかを説明(描写・表現)する「副詞」のようなもの。存在するすべてのものは、神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する。いいかえれば存在するすべてのものは神の能力、万物の原因である神の能力を一定の仕方で「表現する」exprimere神は万物の原因であるとは言っても、それは「他動原因」causa transiensではなく、「内在原因」causa immanensとして理解されなければならない。内在原因においてとられられた因果性の中では、原因は結果を引き起こす(他動原因)ではなく、結果によりその力を表現する。「内在原因という関係は、それを構成する能動的な要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろそれが第二の要素の中で自らを表現するということを含意している」認識するとは、観念を獲得すること、観念を有する(もつ)ことを意味する。観念「である」ことと、観念「をもつ」こととの相違。スピノザは「わたしたちがそれであるところの観念」と「わたしたちが持つ観念」とを区別している。わたしたちは精神として観念「であり」、その観念の対象は身体であるが、そのことはわたしたちがただちに身体についての観念を「持っている」こと、つまり身体を認識していることを意味しない。「人間精神は、身体が受ける変状の観念によってのみ、人間身体を認識し、またそれの存在することを知る」精神が身体について認識するのは、「身体に起こること」だけである。「妥当な」「十全な」adaequatus:その観念が「真」verusであること真であるとは、対象と一致することを意味するが、妥当な観念そのものは真の観念の「内的特徴」を備えているものとして定義され、対象との一致をその基準とすることは避けられている。真であることは観念の外側からは確かめられない。妥当な観念は結果として対象と一致するだろうが、対象と一致するから真なのではなく、真であるから対象と一致するのである。第一種認識「意見」opinio「表象」imaginatio虚偽の唯一の原因人間の十全な認識とはまったく相容れない材料からできているのではなく、十全な認識をもたらしうる材料が不適切な仕方でまじりあったり、必要な材料が欠けたままであることで生じている認識真なるものを含んでいるinvolvere第二種認識十全な観念を持つ認識共通概念 notiones communes:複数のもの適用可能な概念ある対象について妥当する法則「理性」ratio ➡ 推論を行う真の認識であり、真の認識は、たんにそれが真であるだけでなく、真あるものと偽なるものとの区別そのものを精神に教える。なぜなら、精神が真の観念について観念を形成することで、この観念の観念が真であることそのものの規範となるから。意識とは身体の変状の観念の観念である。しかし観念の観念すべてが意識であるわけではない。なぜなら第二種認識における観念の観念は、(わたしの)身体の変状の観念を対象としていないからである。それは共通概念を基礎とする認識についての観念である。第二種認識すなわち理性が行うのは、推論としての観念操作であり、身体の変状の観念を対象とする認識からは区別されなければならない。第二種認識は、わたしが自分自身の身体からは独立して獲得する認識である。
2022.12.18
コメント(0)
〇脚本・監督:原田眞人出演:役所広司、樹木希林、宮崎あおい、南果歩、キムラ緑子描かれる生活水準に違和感を感じつつもリアリティーに〇。家族愛とか母子愛といったものは、見方を変えるとどうかなと思う半面、ついつい涙してしまう。
2022.12.03
コメント(0)
「人間精神は人間身体の観念であるが、人間身体の観念をもたない」「観念である」ことと「観念をもつこと」の違いに注意しなければならない。「いかなる事物であれ、それがなぜ実在するのかという原因ないし理由、あるいはなぜ実在しないのかという原因ないし理由が割り当てられなければならない」ところが「神から産出された諸事物の本質は、実在を含まない」つまり、個物が実在することの原因は、個物の本質ではない(個物そのものにはない)。むしろそれは、個物の実在の最近原因である他の諸事物に求められる。こうして個物の実在は、諸事物の「因果連鎖の総体」から説明されることになる。
2022.10.08
コメント(0)
私は正義者を、「各人に対し各人のものを認めようとする恒常的願望を有する者」と解するこの願望は、敬神者にあっては、彼が自分自身と神とについて有する明瞭な認識から必然的に発生する。
2022.07.27
コメント(0)
出来事因果原因となる出来事は、結果となる出来事の必要十分条件を提供し、つまり後者を全面的に決定する。しかしその原因もまた先行する原因となる出来事によって全面的に決定されてる。こうした全面的被決定の無限の連鎖のこと。行為者因果個物が他動的原因により行為へと決定されるとき、その個物は(完全に無化されない限りは)他動的原因に対する全面的被決定の関係に置かれることはなく、むしろ内在的原因として、結果の産出において何らかの度合いで因果的寄与を果たす。つまり個物の被決定はあくまでも部分的被決定に留まる。
2022.01.29
コメント(0)
『エチカ』における「肯定と否定」は、知性によって与えられた観念に対する、意志による承認や否認の心的行為ではなく、むしろ肯定的観念や否定的観念それ自体を精神が形成する心的行為である。ゆえにそれは、「観念を形成する」という点で「知性の働き」であるとともに、「肯定や否定を行う」という点ではデカルトが「意志」に帰したはたらきをも担うことになる。「観念形勢」と「肯定や否定」、「認識」と「意志作用」は、まさに同じ一つのものなのであり、またそのすべては、「思惟する事物の行為」ないし「思惟的行為」であることになる。思惟する事物がなす思惟行為のすべてが、「観念形成としての肯定や否定」である。「行為者因果的な因果モデル」によれば、人間精神のような有限な個物における「思惟的行為」すなわち「観念形成」は、すべての有限者の行為と同様、「内在的原因」と「他動的原因」の「協働的因果」による変状の形成という三項モデルにより捉えられねばならない。それは観念の「無からの創造」でもなければ、「非決定の自由意志による創造者的な活動」でもなく、むしろ「無限知性に含まれる一観念としての人間精神」が「内在的原因」となり、「他動的原因としての外的事物の観念」からの「因果的決定」をうけ、「自己の本性必然性」に従って一定の変状、つまり「身体変状の観念」という変状を形成する、という「過程」、あるいは「思惟的行為」である。「事物の力あるいはコナトゥス」には、「行為へのコナトゥス」ち「自己の有への固執のコナトゥス」という2つの側面がある。いかなるコナトゥスあるいは「現実的本質」も、「何かを為しつつある自己への固執」である。「何かを為しつつある」において、「行為へのコナトゥス」と外的・他動的原因からの決定は一体となり協働的に働いて、個物を様々な行為や状態へと向けている。そしてそのような「行為や状態」を産出し維持しつつある「自己に固執」するのが「自己の有への固執のコナトゥス」である。「能動する(行為する)agere」とは、わたしたちの内外に、わたしたちがそれの「十全な原因」であるような何かが帰結する場合である。他方で「受動を蒙るpati」とは、わたしたちがそれの「部分原因」でしかないような何かが、「わたしたちの内に帰結する」、あるいは「わたしたちの本性から帰結する」ような場合である。他動的原因(因果的に「決定する」事物)と内在的原因(因果的に「決定される」事物)との双方に「十全な観念」が含まれている場合、それらか産出されて結果は、その観念に関する限りは、他動的原因を参照せず、内在的原因を参照することだけにより、「十全なまま」で見出される。それゆえその結果は「十全な観念」を含む点においては、「十全な結果」であり、精神は十全な結果を含む点において「能動」であり、また「十全な観念」をより多く含む精神はそれだけより「能動的」である。〇「真なる観念」はその「観念対象」ideatumと一致しなければならない。〇「十全な観念」とは、「対象との関係なし」で、そのものにおいて考察された限りで、「真なる観念」の諸特質ないし「内的諸徴表」denominationes intrinsecasのすべてをもつような観念である。ここで「内定諸徴表」と言うのは、「外的諸徴表」すなわち「観念と観念対象との一致」を除外するためである。観念が「真である」とは、「その観念対象と一致すること」を指し、これは当の観念にとっては「外的徴表」である。一方観念が「十全である」とは、「対象との関係なしでそのものにおいて考察された限りでの」特徴であり、それゆえ「内的徴表」と呼ばれる。「十全な観念」とは、観念相互の包含関係に関わる規定であり、したがって「思惟属性外の対象を参照せず」、思惟属性内で完結する規定である。
2022.01.08
コメント(0)
〇観念「思惟様態」「理解することそのもの」「思惟の概念」「精神が思惟する事物であるということのゆえに、精神が形成する、精神の概念である」※「知覚」perceptionemではなくむしろ「概念」。知覚は精神が対象によって受動を蒙ることを示すが、概念は精神の能動を表現する。「精神の内に、観念である限りの観念が包含する意志作用、すなわち肯定や否定以外の意志作用は与えられていない」
2022.01.07
コメント(0)
「基本感情」端的な「喜び」・「悲しみ」「派生感情」原因の観念を伴った喜び・悲しみとしての「愛」・「憎」「基本欲求(欲望)」端的な「自己保存」のコナトゥス=自動詞的行為へのコナトゥス「派生欲求(欲望)」愛・憎から派生する他動詞的行為へのコナトゥス〇善・悪の認識とは、わたしたちに意識された限りにおける、喜び・悲しみの感情にほかならない。善・悪とわたしたちが呼ぶのは、わたしたちの「有の保存」に役立つ・妨げになるものである。すなわたちわたしたちの「活動力」を増大・減少させ、促進・阻害するものである。したがってわたしたちを喜び・悲しみへ変状する事物をわたしたちが知覚する限り、わたしたちはその同じ事物を善・悪と呼ぶ。したがってまた、善・悪の認識とは、喜び・悲しみの観念、すなわち、喜び・悲しみの感情から必然的に帰結する観念にほかならない。しかしこの観念は、精神が身体と合一しているのと同じ仕方で感情と合一しており、すなわちこの観念は、感情そのものから、あるいは(感情の一般的定義により)身体変状の観念から、ただ概念上でしか区別されない。ゆえに善・悪のこの認識は、感情そのもの、つまりわたしたちがその感情を意識している限りにおける感情そのものにほかならない。我々が対象の内に見出す善・悪という特質は、じつは我々自身の身体または精神の特質、つまり「身体における活動力」の促進と阻害に相当する「身体変状」、および精神における喜びと悲しみの感情にほかならない。それゆえ我々がもつ「善の観念」「悪の観念」の実態は、我々の「喜びの感情の観念」「悲しみの感情の観念」にほかならない。そして「喜びの感情」「悲しみの感情」とは「身体変状の観念」であるがゆえに、「喜びの感情の観念」「悲しみの感情の観念」とは、「身体変状の観念の観念」にほかならない。
2022.01.06
コメント(0)
神自身にあっては、本質と現実存在は「1つの同じもの」であり、自己の現実存在そのものが、自己の現実存在の作用因になっているという、神の力の構造そのものが、神の永遠本質である以上、「神は諸事物の現実存在の原因であるばかりでなく、諸事物の本質の原因でもある」ことになる。諸事物の無時間的本質や、幾何学が見出すような諸事物の無時間的な関係は、神のこのような因果的な力の産物としての「現実的本質」からの「抽象物」である。単に論理的に可能であるだけのの事柄は、現実には因果的に必然化不可能化が確定しており、われわれがそれらに無知であるからそのように呼ばれるにすぎない。スピノザにとって、論理法則やその形式的な組み合わせとしての、現代なら可能世界意味論によって記述される論理的可能性という概念そのものが、唯一のリアリティの源泉であるこの現実世界からの抽象物、あるいは、「理性の有」ないし「想像の有」でしかない。それゆえスピノザは、この世界の組み合わせ以外の他の整合的な組み合わせ(他の可能世界)があるかないかといった問いそのものが真剣な哲学的問いに値しないか、あるいは少なくても存在や世界そのものの在り方に関わる問いだとは認めなかった。神の本質は現実存在であり、この現実世界に固有の持続を有して現実存在することこそがもっとも勝義の現実存在のあり方である。神あるは自然が永遠の現実存在をもち、すべての事物は内在的原因としての神あるいは自然に内属せざるをえないからこそ、もっとも希薄な、つまりもっとも現実から遠い無時間的本質ですら、それをつなぎとめる現実的存在を欠くことがないのである。精神の無時間的な本質はたしかに「精神の永遠性」と無縁ではないが、すくなくてもそれが無時間的な本質として現実存在を捨象されたものと解されている限りは、それのみでは勝義の「永遠性」にもとる。それ以前に、精神の永遠性を振り返る精神、そして身体変状としての「精神の眼」が、勝義の現実存在ないし持続を有さなければ、そこで振り返られるべきその自らの永遠本質がそもそも与えられないことになる。
2022.01.04
コメント(0)
現実存在している様態を、「その原因から切り離してそれ自体で見る」場合、それが現実存在していないと虚構することは矛盾なしに行える。スピノザによればこの点こそ、本質に現実存在を含む神と、含まない様態との、根本的な区別であった。
2022.01.03
コメント(0)
esse (動詞)「存在(する)」「在る」 (不定詞)「有」eesentia「本質」existentia, existere「現実存在(する)」res paticulares「個別的諸事物」res singulares「個的諸事物」attributum「属性」substantia「実体」subjectum「主体」 文法的な「主語」ないし項に対応する存在者→「事物」や「個物」 「それ自身において在り、それ自身に基づいて概念されるもの」modus「様態」affectio「変状」accidentia「偶有性」 文法的な「述語」に対応する存在者→事物や個物に「内属する」(inhaerere)「性質」「状態」「行為」 「他のものの内に在り、他のものに基づいて概念されるもの」 →「実体」ないし「基体」に「支えられて」初めて存在できる性質や状態や行為(1)「実体」 「唯一実体」である神は究極の主体であり、それ自身が他の主体に内属することはない。 永遠かつ無限の神(2)「様態」 〇実体を主体とする変状 実体を主体として、それに内属する状態が「様態」modus 「無限様態」 「直接無限様態」「思惟」においては「絶対無限なる知性」「延長」においては「運動と静止」 「間接無限様態」 無限の仕方で変化しながらも常に同一に留まる「宇宙の相貌」 「有限様態」(個物) 思惟の有限様態→「人間精神」 延長の有限様態→「人間身体」(3)様態の「変状」 〇様態を主体とする変状 「思惟」の変状→「観念」→理解・知覚・想像・感情・欲求 「延長」の変状→「身体変状」→身体内の運動、身体的行為 個物(有限様態)を「主体」とし、それに内属する「諸変状」 「行為」=「身体変状」 「想像作用・感情・欲望」=「(身体変状の)観念」「内在的原因」 causa immanens「他動的原因」(「超越的原因」) cause transiens伝統的に「神」とは、本質的に「行為者」であり、他方で「自然」が「行為者」と呼ばれるとしてもそれは「擬人化」または「神格化」によってでしかない。それゆれ「神あるいは自然」という定式化をスピノザが採用した動機の1つは、行為者概念の存在論的な原初性という哲学的真理を保存するためだった。そして「神あるいは自然」の背景にこのような考察があるとしたら、この定式は「神概念の保存」であるよりもむしろ「自然概念の革新」であった。スピノザが「神」の名とともに保存しようとした行為者概念は、自由意志も目的指向性も内的に含意しない行為者性であり、これは伝統的な神概念の保存であるよりもむしろ破壊であり、あるいは伝統的神概念の「自然化」である。出来事因果的な因果モデルは、「出来事としての身体変状の連鎖」のみに目を向け、先行する項を後続する項の「原因」と呼び、それらの項の連鎖のパターンの規則性、法則性をただちに因果関係とみなすが、これに対してスピノザは、「因果的力の主体としての個物」を、内在的/他動的な「原因」として名指す。ここにおける因果関係は、身体変状を産み出す内在的原因と他動的原因の協働的因果の連鎖である。出来事あるいは出来事の構成要素(個物や性質)の内に出来事と出来事を結び付ける内的原理を与えない出来事因果モデルをスピノザは、「前提なき帰結のごとき認識」と呼ぶ。
2022.01.01
コメント(0)
「充足理由律」「十分な理由の原理」あらゆるものにはしかるべき理由reasonがあり、説明がつくのでなければならない、という原理。「自己原因」存在していることそのものによって存在し続けるような、永遠に存在すること以外は不可能であるような存在のこと。
2021.12.28
コメント(0)
「四原因説」(説明原理)「家」の場合(1)目的因(目的原因)「何のためにあるか」→「居住」(2)形相因「いかなる形式(形相)を備えているか」→「設計図や図面」(3)作用因「何によって引き起こされたか」→「大工による施工作業」(4)質料因「いかなる材料からできているか」→「木材」アリストテレスは、プラトンの「イデア」にあたる「形相」を、「あの世」にではなく「この世」の中に位置づけた。つまり、プラトンのイデア同様、「形相」はある事物をその事物たらしめ、その事物として定義することを可能にする「本質」なのだが、それはいまやイデア界にではなく、その事物の「質料」と一体化したものとされた。
2021.12.27
コメント(0)
個物の現実的本質を構成するコナトゥスにおいては、自分自身の現実的本質が原因となって、自己自身のその後の現実存在がもたらされ、あるいは維持されるという、自己維持的な構造において、自己の本質に現実存在を含むという、神の本質的な性格が部分的ではあれ具体化されている。神以外の事物も、神の自己原因性に与った部分的な自己原因者であるが、その存続がつねに外部の他のものに脅かされているという点でも、また、その存続にはつねに他の事物への依存が必要であるという点でも、完全に自律的な自己原因者ではありえない。しかしより大なる自己保存力を備えた個物ほど、より能動的でより合理的でより神的な自己原因性に近い仕方で、現実存在を継続する。それは神の本質そのものとしての、この世界における現実存在により多く与かることなのである。スピノザにおいて「力」と「行為」は、アリストテレスの「デュナミス=力=可能態」と「エネルゲイア=行為=現実態」のように対立する概念ではなく、一体のものとして与えられる。それは行為において行使され、働きつつある力である。スピノザにとっては、論理法則やその形式的な組み合わせとしての、現代ならば可能世界意味論によって記述される論理的可能性という概念そのものが、唯一のリアリティの源泉たるこの現実世界からの抽象物、あるいは理性の有でしかない。論理や数学によって不可能とされたものが可能に転じたり、論理的な必然性覆ることをスピノザは断じて認めないが、反面で、単に論理だけによって偶然や可能とされたものは、因果的必然性に関する我々の無知によってそう呼ばれているにすぎない、というのがスピノザの思想。「それ自身において考察された様態の本質」すなわち事物の抽象的本質とは、その様態を取り囲み、実際に決定する他動的諸原因を捨象し、度外視するという意味で、統制された無知によって見出される抽象的対象である。 十全な普遍観念としての「共通概念」、およびその対象である事物の「特質」もまた、統制された無知によって見出される抽象的対象と言える。そして抽象的本質からの諸特質の帰結関係、あるいはむしろ抽象的本質から帰結するものとしての諸特質およびその観念(すなわち「共通概念」)もまた同様に見出される対象だと言える。スピノザは、posseとpotentiaやpotestasの意味上のつながりは当然自覚しつつも、「なし得るにもかかわらずになされていない」という消極的な意味ではなく、「なし得ることをまさになしつつある」あるいは「なし得ることがまさに確証され、遂行されている」という局面において、potentiaやpotestasの概念を捉えようとしている。神の本質は現実存在であり、この現実世界に固有の持続を有して現実存在することこそがもっとも勝義の現実存在のあり方である。神あるいは自然が永遠の現実存在をもち、すべての事物は内在的原因として神あるいは自然に内属せざる得ないからこそ、最も希薄な、すまり最も現実から遠い無時間的本質ですら、それをつなぎ止める現実存在を欠くことがないのである。
2021.12.26
コメント(0)
日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命を懸けるような生活様式を意味する。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形式なのである。そこには内面がないだけでなく、他者もない。他人指向型は、伝統指向型とは違って、一定の客観的な規範をもたない。他人指向とは、他人の欲望、つまり他人に承認されたいという欲望なのである。彼らが思考する「他人」とは、それぞれが互いに他を気にして作り上げる想像物である。疑似出来事や新しいメディアにおいてあられたのは、このように伝統的規範から離れて主体的であるように見えて、実はまったく主体性をもたず浮動する人々(大衆)なのである。日本のバブル経済において顕在化したのは、江戸時代の三百年の平和の中で知性と道徳性を嘲笑しつつ洗練してきたスノビズムの再現だった。明治以来の日本の近代文学や思想はそれを否定し、いわば自律的な「主体」を確立することに努めてきた。ところが1980年代に顕著になってきたのは逆に、「主体」や「意味」を嘲笑し、形式的な言語的戯れに耽ることである。グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統指向と内部指向を根こそぎ一掃し、グローバルな他人指向をもたらしている。そこでは「抑圧」に基づく集権的な権力、あるいは知識人の権力は衰微している。たがそれは権力の消滅なのではない。「排除」による権力がグローバルになりつつあるということを意味するだけである。
2021.12.25
コメント(0)
「現実存在」している様態を、「その原因から切り離してそれ自体で見る」場合、それが現実存在していないと虚構することは、矛盾なしに行える。この点こそ、「本質に現実存在を含む神」と、「本質に現実存在を含まない様態」との、根本的区別である。「神から産出された諸事物(様態)の本質に現実存在は含まれない」という「個物の神への全面的な依存性」が、「神の個物への現前」を常に要求せざるをえない。様態自身の本質には、いっさい「現実存在」が含まれないがゆえに、我々自身を含むすべての現実存在する個物において、それを支える神の力が常に現前している、あるいは常に「表現されて」いるのでなければならない。「永遠本質」と呼ばれるべきは、時間ないし持続のただなかに置かれた本質としての「現実本質」である。ただしそれは「本質」というものを、捨象された無規定な「持続」の中に置かれた本質ではなく、「神の内に在る限りにおける」本質、すなわち、永遠なる必然性としての神の力が、まさに現実に行使されつつあるさなかでの本質と解すべきである。【スコラ学】「本質」essentia「それによりその事物がそれであるところの質」「特質」proprietas,propria「本質に属するわけではないが、本質から帰結する質」「偶有性」accidentia「様態」modus「その事物の本質からは帰結しない質」〇「共通概念」 commune「共通な」 共通性の範囲における様々な度合い 「共通のもの」 「それを有するものたちの間で共有されている」〇「特質の十全な観念」 proprium「固有な」 複数の諸事物に共有される 「固有のもの」「特質」「固有性」 「それを有するものたちにのみ固有である」「因果的な産出関係」と、「論理的ないし幾何学的な無時間的帰結関係」を、無差別に「帰結する」と特徴づけるスピノザの語法。「本質」が抽象的、無時間的に考察された個物そのものであり、「諸特質」が抽象的、無時間的に考察された個体の諸変状であるならば、「本質」から「諸特質」の「帰結」の関係とは、個物と諸変状の「内在的な依存関係」を抽象的、無時間的に捉えることで得られたものである。
2021.12.19
コメント(0)
〇理性 「理論的」使用 →「悟性」→理論的認識 「実践的」使用 →「理性」→道徳性〇想像力 「感性」と「悟性」を媒介〇判断力 「悟性」と「理性」を媒介〇美 自然対象に「目的なき合目的性」の形式が見出されることにより生じる 構想力+「悟性」 美の根拠は外的な対象〇崇高 「目的なき合目的性」の形式が見出し得ないところになお、別種の合目的性を見出そうとするとき生じる 構想力+「理性」 崇高の根拠は、我々の内部にあり、それが外的対象に投射されている 圧倒的に巨大なものの前で、それを超えるような自己の「無限性」の自覚 自らの「現実的無力」を超越する自己を誇示することではない 崇高なものは、自己ではなく、外の対象の側にある 「対象の巨大」さと「自己の無力」を認めつつ、「そんなことは何でもない」とつぶやく 「超自我」が働いている
2021.12.12
コメント(0)
構成的理念 現実がそれに向けて形成されるべきなんらかの理想統制的理念 現実をたえず批判する根拠を与える理想
2021.09.26
コメント(0)
われわれが自然的・社会的因果性によって動かされている次元において、善悪はありえない。しかも実際には、自由(自己原因)などない。あらゆる行為は原因に規定されている。しかし自由は自分がやったことをすべて自己が原因である「かのように」考えるところに存する。ニーチェのいう運命愛とは、弱者の人生を、他人や所与の条件の生にはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり超人である。運命愛とは、カントで言えば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるという事にほかならない。それは実践的態度である。ニーチェが言うのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。議会は封建制や絶対主義王権制においても存在した。しかしこうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって人々を自由にする。しかし同時に、それは誰かに投票したしという証拠を消してしまう。そのとき「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば「代表するもの」は実際にはそうではないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。
2021.09.23
コメント(0)
社会民主主義的政策資本主義的市場経済を認め、ただ、それがもたらす諸矛盾を民主的な手続きを経た上で、国家による規制と再分配によって解決する、という体制こそが最終的なものだ、という考え。資本=ネーション=国家
2021.09.14
コメント(0)
人間はさまざまな原因に規定されている。だから親が悪い、社会が悪い、ということになる。しかしそう言ってしまえば、個人の意志や責任がなくなる。その場合、自分があたかも自分の意志ですべての行動を起こしたのであり、自分があらゆるものの原因である「かのように」ふるまう。それがニーチェのいう「運命愛」であり、そのような人間が「超人」。「超人」は病弱で無力な人間である。しかしそれそ、他人や社会のせいにせず、あたかもそれを自分で選んだ「かのように」生きる、そういう人間である。
2021.08.12
コメント(0)
語られたこと、伝達された内容は、顔と顔とを見合わせたこの関係を通してしか届かない。この関係において他者は認識されるに先立って、まず対話者としてそこにいる。みつめるまなざしがみつめ返される。みつめるまなざしをみつめ返すこと。それは身を放棄せぬもの、身を委ねぬもの、にもかかわらずこちらをめざすものをみつめることである。これが顔を見るということである。ルールを拒否することがかえって自分をルールに依存させてしまう。だからこれからはルールのコントロールの仕方を探究することになるだろう。
2021.06.05
コメント(0)
全1136件 (1136件中 1-50件目)
![]()
![]()
