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金型職人のみならず、微細加工を必要とする職人は、指で触れただけでわずかな狂いが解ると言います。技術で補える部分は、知恵と工夫で対応しています。しかし、市場が大きくない場合、または費用対効果を考えた場合、まだまだ、人の感覚に頼る世界は残す必要があるようです。脳は発達しすぎたため、全てが利用されないで、寿命を迎えると言う話を読んだことがあります。つまり、脳は私たちの現在の生活水準では一生かかっても使いきれないほど、能力を秘めているということです。また、脳は、各人の環境に合わせ構築されるとも。外国人が日本人の感覚を理解できないのも、逆に我々が外国人のことを理解できないのも当然なんですね。例えば、子供の頃からずっと竹刀を振り回していると、それが体の一部として組み込まれ、使い慣れている竹刀にわずかな変化があっても、その違いがわかり、まるで、自分の手足の如くなるそうです。私たちの脳は、自分の五体だけではなく、道具も自らの身体と同じレベルで感覚の一部として取り込み、使いこなすことができるということです。そう言った観点から見ると、何十年も職人を実直にこなして来た人が、常人が感知できないミクロン単位の微細な違いや変化に気づく能力を身に着けるのは、我々凡人からすると超人的に見えても、生物学的には意外なことでは無いようです。脳は学習し、記憶し、そして、思考し、判断するのですが、五感というセンサーに偏りがあれば、自ずと結果は異なってくるでしょう。情報過多やストレスにより、五感というセンサーが偏って機能している場合、軌道修正はままならないかも知れません。それ故に、自分の感覚を改めて見直し、触れて、感じることで、より精緻な情報を取り入れます。握手一つで、その人が感覚として掴めるように、視て、聞いて、そして触れることを他人に対して行うように、自分自身に対しても行うことは可能です。視ること、音を聞くことだけではなく、触れることでメッセージを発信し、また受け取ることで、私たちはもっと潜在力を活かすことが出来るはずです。
2013年03月24日
セルフセラピーに必要なモチベーションは、本人の動機付けです。対面セラピーと異なり、自らが明確な目標(問題の明確化とそれを乗り越えるメリット)を持たない限り、三日坊主にも成りかねません。著名な心理学者の中には、セルフ・セラピーに対して、「自らの髪の毛を引っ張って、自分自身を吊り上げようとするようなものだ」という見解を出されています。その意味するところは、自分のビリーフ(信じ込み)で自分を見るのだから、曇ったレンズで、自分の問題点を正しく見ることはできないということです。一見、「なるほど!」と思えるのですが、そのように考えている人は、それまでです。「できるのではないだろうか?」と考えている人は、それを見出すことができます。その理由の一つは、釈迦や達磨、その他、様々な人々が見事に達成している歴史があるからです。現代の心理療法家の中にもそう言った人は存在します。「何を感じ、どのように想うか?」は、人の意識であり、気づきや修正も自分自身が行なっているのであり、セラピストは、それを補助しているに過ぎません。自分の人生を決めているのは、所詮自分自身です。人に依存するのも、結局は自分が決めいることに変わりはありません。何時も、依存していると、無意識に依存するようになります。考えることをやめ、自分の考えは二の次になり、支配されて行きます。マインドコントロールという言葉があります。マインドコントロールした人が悪いように世間では受け止めます。確かに、成人になっていない子供はそうかも知れません。しかし、ひとかどの大人であれば、マインドコントロールされる方にも問題があるのは確かです。自分の虚栄心や恐れ、不安様々な執着がマインドコントロールの遠因にあるからです。自信を喪失(自分を疑っている)している時、恐怖心が芽生えている時などは、どんな人間でも、人の信条を受け入れてしまいます。(自ら、考えることを放棄し、本人不在の状態で、他人への依存状態になっているのですが。)TVのコマーシャルや番組は、視覚と聴覚を効果的に活用し、目的のイメージに誘導します。至る所に、無意識にリーチする手法が此処かしこにあり、意識が汚染されることさえ気づくことは、難しい昨今です。自分が何を気にしているのか、どんな行動をしているのか?そして、何が遣りたいのか?自分自身に目を向けることで、そんな意識の汚染から逃れ、何時もの自分であり続けることができます。無条件に委ねるのは、時として役立ちますが、拘りとは違う目覚めた感覚が重要です。
2013年03月14日
アドラー心理学、その影響を受けているTAWでは、被害者意識というキーワードを多く活用しますが、被害者意識が存在すると何がまずいのでしょうか?自分は悪くないという立ち位置にいる限り、自分を変えようとはしません。そのような人は、人を変えようとします。時には、攻撃的になり、落ち込み、悲しんでみたり、理解できなくなったり、情動や無意識に絡む行動により、人をコントロールしようとします。望む結果を得る方法は様々です。絶対的に人をコントロールできる環境は、子育て時に現れます。子供は、本能や情動、無意識に絡む行動により、親をコントロールします。特に、人間の赤ちゃんは、無力で生きるために必要な行動です。(赤ちゃんが、親をコントロールすることが悪いわけではありません。人は、無力で生まれます。これは、動物と異なり、適応環境を後天的に整える能力を有する為の結果です。)しかし、大人になった時点で、それは通用しません。子供時分には、通用した方法が大人になるに従って、通用しなくなります。(親が子供の自立に向けて、上手く育てた場合、大人になって苦しむことが少なくなります。)望む結果を得ることが難しくなり、それは、自立と対極に存在するものです。※自立とは環境適応能力心理や意識学を魔法のように考える人も居ますが、当たり前のことを遣ってるだけなのがお分かりになると思います。人の心は、信念(執着)に左右されており、当たり前のことが解らなくなる(幻想の中に居る)のです。親から甘やかされた人(甘やかされた人とは何かに依存する人です。共生の関係ではない。)は、自分は特別な存在であると勘違いします。大人になっても、それを掴んで離さない人は意外に多いのです。(褒めてくれる人だけを好きになる。好き嫌いが激しい。煽てると別人格が現れる。他人は駄目な人であると信じる。常に、自分は間違っていないと信じている。自分が出来る範囲はこれだけだと信じている。などなど)それら執着をなくす方法の一つがパナシアです。パナシアは、例えば、 【対象物】 【波動】 「悪いもの」 = 「悪い気分」 「良いもの」 = 「良い気分」と考えて説明したと思います。(表現が正確ではありません。良い悪いという表現は適切ではありません。ゼロ化とは、良い悪いの中庸であり、反応を消し去るものです。)悪い気分が減れば、その分、良い気分に使えます。悪いと思っていたものが、単なる幻想だと気づいたとき、また、悪いと思えたものが、良いものとして活用できると気づくことは、マイナスが減り、プラスが拡大することを容易に想像できます。(アークの遊行禅という技は、プラスを容易に増幅させることを目的としています。「良いものが増える」という技でもあります。) 常に良い気分 ⇒ 雲門禅師の『日々是好日』となる※良い気分とは居心地の良い状態(アドレナリン全開とは違います)スポーツ選手であれば、目の前の競技に集中することが自然にできるようになる。(余計なことは一切考えない状態。気負いもなく、心地よく「いま、ここ」になる。)物事や自分自身をありのままに観る能力 正しく見る、正しく思う、正しく話す、正しく行なう・・・八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)です。そして、同じ波動は、同じものと共鳴し、類は友を呼びます。(共鳴の法則)昨今は、環境(情報)がめまぐるしく変化するため、ストレスは発生しやすい状況です。人は、過去を背負い生きています。時代の変化が乏しいときは、役立つのですが、過去の経験が通用しにくい変化の激しい現在では、成功体験や失敗体験、教育、世間とのシガラミ等が、環境適応能力の妨げになっています。行動パターンに変化を及ぼすには、その元になる自分自身を変えていくことが結局は、近道です。ただ、それには、苦痛やコストが必要です。それを正面から受け止める自らの決意がなければ、その道は閉ざされていると考えても良いでしょう。(おわり)
2013年03月02日
-------後半--------また、TAWの話に戻りますが、TAWでは、360度自分、相手は鏡という概念がありますが、鏡の中の人を変えたければ、自分を変えれば良いというふうに解釈していますが、間違ってはいませんか?間違いがないとして、話を進めますが。この仕組みは、理解ができるのですが、パナシアでは、問題意識をゼロ化にする事で、悪い物が減り、良い物が増えていく、という表現をどこかでみました。この辺りは、何故そうなるのか、その仕組みを知りたいのですが、よろしくお願いします。(パナシアについてまだまだ、理解できていないかもしれませんので、的外れな質問でしたらすみません)。-------------------TAWは、自分が全てを創っているという考えが基本です。そこから生まれるドグマは、「この世は自分一人」という思想です。(一元から生まれた個という考えであれ、それは言葉の遊びです。)アークは、自と他の調和によりこの世は成り立っているという考えです。従って、自分が変わることで、再秩序化が起こると説明します。(自然の摂理)また、アークでは、 「自分が変わる」 = 「波動が変化する」と考えます。難しく考えることはなく、同じ人物でも、機嫌が悪いとき、機嫌が良いとき、声を掛けたくなるのは、後者だと思いますが、微細な変化も人は同調し共鳴し、行動に変化を及ぼすのです。(自分の行動(波動)が変われば、他も自然と変わります。空気を読むという言葉は良い例です。)自分も他も存在し、その調和の中で生きている。そして、調和が乱れれば、それに従って他が適応する。(自分が存在するのは、他があり、他と分離しているからこそ自分が存在する。生命は、細胞膜を作り外界との分離から始まりました。)従って、TAWのような、この世は自分一人という考えでは、導けない考え方です。この考え方の違いが、大きな違いを生み出します。現象化論の内容も当然違ってきます。どちらの考え方を選ぶかは自由です。私は、再秩序化を支持します。それ故、再秩序を前提として話を進めます。多くの心理本で言う、相手は鏡というのはメタファです。相手の嫌な部分を見るとき、それは、自分の中にある意識が動いていることは、お分かりになると思います。自分の中にある意識が外界の対象に反応している訳です。それ故、相手に映っているもの(観ているもの)は、自分の意識の中に反応するプログラムが存在し、鏡のように映しているようなものだということです。(外界から己の内なる姿を観る。)そして、360度自分というの言葉は、メタファとして使われるべきです。自分が認識できないものは、無いものと同じですから、自分の意識(五感)が認識できるものしか、人は解釈(反応)ができません。しかし、自分が認識できないものは、存在しないということにはなりえません。ところが執着がなくなると、視野が広くなり、観ていなかったもの(無意識に避けていたもの)が見えるようになります。(人であれば相手の無意識の考えが見えてくるようになる。一見ネガティブな行動でも、深い意識には肯定的な意図が存在します。)これらは、意識の仕組みが肌で解るようになると理解できるようになります。上記の内容を十分に知ることができれば、対人のみならず、モノ、環境、全てに応用できることになり、現象化のヒントを得ることができるでしょう。(つづく)
2013年03月01日
刺激に対して、ネガティブな反応をしないのは、その人のメンタル面を支える条件によって変化します。自分に自信があるときで、所謂、絶好調のときは、何をやっても、放っておいても、問題にならないでしょう。しかし、一度スランプになると、何もかも上手くいかず、どんなアドバイスもマインドに変化を与えることができなくなります。私の提案ですが、まず、以前ブログに紹介した小出監督の記事を再度ご覧ください。『フェルト・センス』ここで、重要なのは、「信頼関係」です。仕事が出来る人の特徴の一つは、「信頼関係」の構築の上手さです。これは、先生、生徒の間でも同様です。優秀なセラピストは、クライアントと短時間で「信頼関係」を構築することがとても上手です。(つまりクライアントは、心がオープン状態になっている。傾聴、ペーシングなどの手法は、心(クリティカル・ファクター)を開かせる為のメソッドです。)昨今の体罰の議論も、生徒との信頼関係がある教師であれば、問題になる頻度は低いでしょう。しかし、信頼関係が構築できていない場合は、先生からすれば愛の鞭なのでしょうが、生徒から見ると単なる暴力となり、問題化する確立は高くなります。(暴力を肯定しているわけではありませんので誤解なきようお願いします。)まずは、信頼関係を作り(「やま」さんの話を受け容れる関係を作り)その上で、「禅と弓」などメタファを利用します。生徒にメンタル面の強化について、問題意識とその解決に向けて、モチベーションを高めるプロセスに誘導できれば、切っ掛けを掴むことができるかもしれません。多少手法が奇抜であっても、結果と実績を踏まえ役立つことを明確に証明します。上記は、あくまで例ですが、信頼関係構築には、これが良いというものはありません。(NLPなどで紹介されている、信頼関係を構築する技術ペーシングは、モデリングであり、一般の方が現場で即座に役立てることは難しいでしょう。それよりも、声を掛ける、時間の共有、選手の目線になる、スポーツ以外の悩みを聞く、同じ釜の飯を食う、共通の話題で盛り上がる、お風呂に一緒に入る・・・心を通わせ、信頼関係を構築する術は、日常の中に隠されています。)小出監督は、一日の殆どを選手との時間に費やすそうです。寝食を共にする関係が、信頼関係を作る上で果たす役割は見過ごせません。前半の質問に対して、気になることがあるので、付け加えさせて頂きます。「やま」さんは、メンタル面が強くなったということですが、自分自身では、未だ未だだと思われているようです。つまり、深い意識で、自分自身のメンタル面の弱さが残っていることをご存知だということです。(完全に克服されていない)そのため、生徒のメンタル面の弱さが露呈したとき、生徒との関係はギクシャクしたものになります。何故なら、かつての自分自身をそこに観るからです。信頼関係を築く上で、それは障害になります。人に強要して、人は変わりません。同調(共感)したとき、人は自ら変化を見せ始めます。(共感の重要性)人は、自分が変わろう、変わりたいと、意識のどこかで想い始めると切っ掛けがあれば、変わります。(動機の重要性)結論として、私は、「やま」さん自身が変わることなく、望みのものは、容易に手に入らないと考えています。既にお分かりのことと思いますが、深い意識で、生徒と共感し導くことを妨げる意識が存在するからです。※この辺りは、ヒプノや意識の原理を学ばなければ、理屈を理解するのは難しいかも知れません。(つづく)
2013年02月28日
話を戻します。「弓と禅」をご覧になったのですね。以前、ブログに「日本の弓術」(弓と禅の姉妹版)について、内容をそのまま引用し、紹介させて頂きました。『悪い射に腹を立てないことはもうご存知のはず、良い射に喜ばないことを付け足しなさい』ゼロ化すると、悪い射、良い射に対して、妙な情動が働かなくなります。それが、ゼロ化の威力です。余談ですが、現在のアーク(レガリア)は、「日本の弓道」に出てくる以下の行(くだり)にある内容を実行してると受け止めています。(補足ですが、人によって、解釈が異なりますから、必ずしも、私と同じように感じているとは限りません。)『仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。』高校生に試してみるということですが、「やま」さんと同じ学習(経験)をしてきた人には、同じような効き目があるかも知れませんが、そう簡単ではないと思います。刺激に対して、ネガティブな反応をしないのは、その人のメンタル面を支える条件によって変化します。『悪い射に腹を立てないことはもうご存知のはず、良い射に喜ばないことを付け足しなさい』の言葉は、人によって捕らえ方が違うからです。そして、そもそも『悪い射に腹を立てない』ことが出来る方は、実際のところそう多くないでしょう。表面的には、繕っても、意識の奥底では、悔しく想い、怒りを感じているかも知れません。『良い射に喜ばない』も同じことです。心の底から、「あぁ!そうか!」と言う想いが出てこない限り、容易に人は変わりません。(つづく)
2013年02月27日
以下の質問に回答させて頂きます。-------前半--------刺激 → 反応 → 結果と言う点では、実力を発揮する人も、発揮出来ない人も同じ見方ができると言う点に、目から鱗でした。 この二つの現象は全く違うと思っていましたので。でも、本当にそうだなと思いました。この視点にとても興味深く感じています。実は私も全日本の試合で、勝ち上がって行ったことがあるのですが、メンタル面がとても弱く、何とかしたいと思い、自分なりに本を読んだりしていました。ある日、弓と禅の本に出会いました。その中で印象に残っていることは、『悪い射に腹を立てないことはもうご存知のはず、良い射に喜ばないことを付け足しなさい』と言うくだりに、大変感動し、その後はこの言葉を心がけて試合したのを思い出します。それからはメンタル面がとても強くなったのを思い出しています。今思えば、刺激に対して、反応がマイナスに働かなくなったのかもしれないと思いますが、いかがでしょうか。もしそうなら、現在指導している高校生あたりに、試したらどうなのかとも思うのですが、どう思われますか?------------------- 刺激 → 反応 → 結果この「反応」の部分がプログラムということです。人は、学習を通して、このプログラムを作り上げます。学習とは、学校で習うことも含まれますが、経験や習慣なども含まれるのは、ご理解頂けると思います。心理セラピーは、この「反応」の部分にアプローチし、変化を起こし、今までとは違うプログラムを構築するという見方をするとわかりやすいでしょう。アレルギーや病状も「結果」と捉えると、「反応」を制御することで、望ましい結果に変えることが可能だということになります。病気でも、スポーツでも、ビジネスでも、この公理の視点から見ると同類となります。もっと言うと、生活上の「問題」、「願望」さえも、同じ公理の中に存在します。「やま」さんのメンタル面が改善したのは、脳に対して、ある変化を起こさせたと考えてください。きっと、「腑に落ちた」感覚があったかと思います。腑に落ちた結果(全脳一致)により、メンタル面に変化がありました。脳は、三層構造で、大雑把ですが、脳幹、大脳辺縁系、新皮質(右脳、左脳)の計4つの部位を持っています。(各部位のプログラムはそれぞれ特徴があります。そして、海馬を含め小脳等の詳細については、未知数で此処では取り上げることはできません。それは、私がその分野では無知だからです。その点は、ご配慮ください。)脳の各部位は、連携しています。それぞれが影響しているが故に、リーチの仕方で、良い結果もでれば、予想外に悪い結果を導くこともあります。それでも、同じ環境下で結果が変わったと言うことは、何かしらプログラムに変化が起こったと言うことになります。4つの部位のどこにリーチし、修正を行なうか(プログラムの変化)により、セラピーの手法が異なると理解することで、心理セラピーや心理コーチングが何をしようとしているのかが明確になります。従って、同じ目的を達成するには、様々な手法があることが解ります。それ故、手法に拘るのではなく、自分に合う手法を見つけるという訳です。何故、自分に見合う手法が必要なのでしょうか?人は、判で押したような同じ素養の人間は、多くないでしょう。各人の脳はそれぞれ共通した部分もあれば、過去の五感による学習により、ビリーフ(信念)を通して反応します。その結果、脳が受け入れやすい反応パターン(逆に拒否する反応パターンも存在)を作り上げます。一億人居れば、一億通りの人が存在するという訳ですが、それでは、セラピーが大変なので、一定のパターンに分けて、モデリングを行ないます。その機軸の一つは、優位感覚によるアプローチです。簡単に言うと、その人の癖のようなものです。視覚(Visual)、聴覚(Auditory)、身体感覚(Kinesthetic)、嗅覚(Olfactory)、味覚(Gustatory)は、V、A、K、O、Gとして表されます。Vは、意識に与える影響を50~60%を占め、Aは、10~20%と言われます。Vを含め、その他は、合計で10~20%前後です。そのため、V、A、Kが優位感覚の識別方法として、NLP等で取り上げられます。印象操作に於ける優位感覚は、 V > A > Kしかし、脳の進化の歴史から実際の身体的影響力は、 V < A < Kとなります。例えば、実際に温泉に入ったところをイメージしてください。見た目が良くても、お湯の肌触りがNGだと・・・見た目が良くても、騒がしいと・・・逆に、見た目は今ひとつでも、心地よいぬくもりと滑らかな湯ざわりがあると・・・見た目は今ひとつでも、清流の流れる音が遠くから聞こえると・・・優位感覚は、後天的学習と先天的な進化の過程に連動しますが、その優位性のバイアスは人によってマチマチです。それにしても、体感覚の記憶は強力であり、ポジティブな身体を創り上げる上で、とても重要な要素なのです。(身体の癖は、心の癖でもある訳です。)赤ん坊や小さな子供は、言葉や表現ではなく、身体感覚(波動)で「愛情」を理解し記憶します。自信の無い子の背中をやさしく押してやる。勇気付ける為に肩を抱く。手を握って、相手に期待を伝える。言葉や表情や文字ではなく、そういった小さなケアに、コミュニケーションの極意があります。(つづく)
2013年02月25日
先日の質問者の方から、以下の問合せを頂きました。引き続き、回答させて頂きます。----------------------(前半省略)何かの機会に体験できればと思っています。また、私はスポーツ指導を行っている者ですが、今後、スポーツの結果を出す事に応用出来ないかと考えているところです。例えば、メンタルが弱く、力を発揮出来ず、負けて行く選手をたくさん見て来ましたが、巷のメンタルトレーニングは、何か実用的ではない様な気がしています。精神的に弱い選手や怪我をする選手もいろんな手法で改善の余地があるのかと…ただ、どんな時にどんな手法が効果的なのか、見当がつきません。スポーツとは無縁でしたら、的外れな質問になりますが、もし応用できそうなら、何かヒントを頂ければ幸いです。----------------------選手に十分な成果を出して欲しいということですね。ご尤もなことです。結論からお話します。メンタル面のトレーニングは可能です。これは、パナシアが得意とする部分です。参考に、エクスポージャー(暴露療法)を調べられると良いかと思います。パナシアの方法については、アーク関連のサイトに掲載されていますので、既にご覧頂いているかと思いますので割愛します。エクスポージャーにせよ、パナシアにせよ、自らの認知の歪み(認識の逃避)があるため、セルフセラピーを行う上で、最も難しく乗り越えなければならない壁の一つが存在します。単に技法を知りえただけでは、乗り越えられない方が居るのは確かです。以前、私のブログで「縁なき衆生」の話を書きましたが、この方は私よりも知識は豊富ですし、アーク在籍暦も長いのですが、長く結果を出せないでいます。理由は簡単で、解決すべきターゲットがズレているからです。過去の無用な成功体験や様々な精神世界の知識が邪魔をし、無明に陥っているため空回りをします。また、ターゲットは場合によっては、変化しますので、それに惑わされること無く対応する力が必要です。迷いが迷いを呼ぶようになると、恐れが増幅し、混乱を招き自滅します。人によって様々ですが、疑心暗鬼にもなります。私の場合は、変化が明確に解る自分の身体の問題(アレルギーなど)の解決から取り組みました。次に、身近な子育ての問題に取り組み、仕事に関わる人たちへと広げ、一つ一つエビデンスを造る事に注力しました。迷ったときの対応方法は、波動干渉をマスターしていた経験が随分と助けてくれました。恐らく、新田さんなどは、他のセミナーや修行経験がパナシアを活かす結果へと繋がったと思います。さて、スポーツマンのメンタル面のトレーニングですが、平素、才能がある選手が本番になると、実力以下の結果しか出せないという場合と、才能に恵まれていなくとも、本番になると、実力以上の能力を発揮する選手が稀にいます。前者も後者も環境が変ったことによる変化という面では同じ見方が可能です。 刺激 → 反応 → 結果環境が変ることによる刺激が、いつもとは異なる反応を示し、問題の結果を生み出したと考えることができます。つまり、本人の反応がいつもとは変ったということです。前者の選手の場合は、マイナスに変化し、後者の選手の場合はプラスに変化した。この反応の部分にメスを入れることが、今回の問題の解決のポイントとなります。瞑想をやっても、お経を読んでも、ヘミシンクを聞いても、全く効果が無いとは言えませんが、火事になっている家の隣の家に放水しているようなものです。怪我をする選手は、実力以上のことを行ったか、実力以下、または応分のことをやっているにも関わらず、怪我をしてしまうのは、何かしらの負担(歪み)があるのかもしれません。(本来の目的が違う可能性もあり、一言では片付けられません。)メンタル面に関わることが原因であれば、それを予防し、改善することは可能です。何れにしても、「やま」さんが自分自身で実体験し、スポーツに対応する方法へと落とし込むことです。様々な選手に対応するとなれば、ご自身にとって平坦な道ではありませんが、チャレンジしてみる価値はあります。そして、自分の経験が糧となり、様々な選手の問題点を見分けることができるようになると思います。オールマイティに開発されたものでも、専門分野を深く知りえる人は、些細な部分でも取り組み方が異なりますし、選手とのラポール(信頼)や意識の共鳴は自ずと深くなります。まして、セルフセラピーに取り組む余裕がない選手には、コーチングで取り組む方が時間と即効性では有益なように思います。(適正のある選手をピックアップし、成功事例をつくることも重要です。)安田先生に見学や率直な意見をお聞きになりたいとのことでしたらご一報ください。(誰でも対応する訳ではありません。場合によってはお断りさせて頂く場合があります。また、可否は安田先生の判断となります。)僭越ですが、簡単で構いません。先生宛に簡単な自己紹介と目的等(対処したい問題)主旨と連絡先をまとめてご連絡ください。「アメーバブログ」の「メッセージを送る」からご連絡ください。(新田さんや、安田先生に直接相談されても宜しいかと思います。自分でやり易い方法を選んでください。)
2013年02月16日
【どんなときに、どの技を使うのか?】身体的な問題。人間関係。願望実現。などなど、自分が解決したいと思う内容に対して利用します。現在、私は、波動干渉とパナシアのみ使っています。TAW的な原因を分析する手法やインナーチャイルドセラピーは、今や興味がありません。(原因を分析やインナーチャイルドセラピーを否定している訳ではありません。)なぜなら、望む結果に導くために殆どの事例で不必要だからです。ただし、波動干渉は、広義の意味も含まれます。(広義という意味は、様々な心理メソッドは波動干渉の応用だからです。)例外としては、どんな技を使っても、症状が一向に改善されないとき、自ら誘導瞑想を行い原因を明確にし対処方法を練り直します。波動干渉をマスターしてからは、他者に対面セラピーを行なうとき、相手からの問題の提示を求めなくとも対処できるようになりました。理由は、その人の波動を利用すれば対応できるからです。利点は、コミュニケーションが不得手な子供でも対処できることです。(但し、波動を体感できない方には、この限りではありません。)誤解なきよう、お伝えしておきますが、分析系セラピーを利用することで、簡単にカタルシスを起こすことができる場合もあり、どんなメソッドも適材適所で行えば、大変有効に作用します。話は戻り、願望があった場合、現在と達成した未来との差異は、波動干渉を使えば即座に体感できます。その差が解れば、目的が明確になり、対処可能となります。上記、波動をパナシアでゼロ化することも多々あります。また、ネガティブな想いは、その場か、余裕があるときに別途波動を再現してゼロ化しています。ポジティブな想いにもネガティブな想いが裏側に潜む場合もありますので、その点も留意しています。(慣れれば直ぐに解るようになります。)波動干渉もパナシアも深い意識に恒常的に落とし込むまで、やりぬくことが重要なことです。その説明はご容赦ください。どんなセミナーにしても、受ける方がその目的に合わせ取捨選択をするのは当然のことですが、実際には受講して見なければ、自分がイメージしていたものと合致しているかは、解りません。セミナーは、受けた方が満足すれば、100点を出す人もいるでしょう。同じセミナーを受けても、自分が欲しいものがそこに無ければ、20点かも知れません。よって、人によって評価はまちまちでしょう。自己啓発系の書籍は、誇大なキャッチコピーを掲載し人の期待を煽ります。自分の意識や心の世界は、知っているようで、知らない世界です。自分自身を見つめることで、他人をより深く理解でようになります。見えなかったものが見えるようになるのですが鶏卵の関係です。その手段は、一様ではありません。アークは、本来の面目、つまり、本当の自己に出会い、その人生を生きることを一つの目的としていますが、それには理由があります。その応えは、私から述べるものではなく、各人が見出すことができるものです。シンプルな回答ではなく、つい余計な内容も多くなりました。体で考えるという表現が正しいかは別として、文字で伝えることができなことも多々あります。その点は、ご配慮をお願いします。勝手な解釈と表現があり、読みづらい箇所もあったように思います。その中でも、ご理解頂ける部分もあったのではないでしょうか?長くなりましたが以上です。(おわり)
2013年02月11日
【パナシア】パナシアは、上記問題点を考慮し、万人向けに考案された技法です。シンプルですが、根気が必要な分、その人のやる気に依存しているとも言えます。シンプルな分、疑問が出てくるのは当然です。それを如何に消化するかも課題です。私が友人等に伝えるときも、面白い質問が沢山でてきますので敢えて記述しました。波動干渉は、慣れてしまえばどこでも出来ますが、パナシアの方が慣れてしまえば、より自由度は高いと思います。歩きながら、電車の中、仕事中でもどこでも使えます。従って、量をこなすことが可能となり、軌道に乗れば、不要な自我を簡単に処理できるようになります。波動干渉がポジティブな成功体験等本人の資質を利用する場合がありますが、パナシアの特徴は、人間本来が生来持っている本能的な機能を利用し問題解決を図るところです。パナシアのセミナーが始まってから、「ゼロ化」という言葉が飛び交うようになりました。解りやすく言うと「ネガティブな情動を取り除く」ということです。パナシアの効果は、この点にあります。パナシアの目的は、全脳一致状態を日常的に作り出すことです。そして、パナシアをより深く役立てるには、「受動的集中(拡散的集中法)」「能動的集中」「禅定」をマスターする必要があります。【パナシアの更なる発展系】これは、昨年から今年に掛けて開発中のものです。どこから、どこまでパナシア?と呼ぶのか今は明確な定義はありません。故に、技法は松竹梅とありますが、本質的なパナシアは、未だ進化の途中と認識しています。今は案内できる時期ではなく、許可も必要ですから割愛します。詳しくはアークのサイトをご覧ください。【波動干渉、パナシアの問題点】先にも述べましたが、シンプルが故の難しさがあります。アークの特徴は、米国系のセミナーに見られるような、ぎっしりと記述された教科書的なものはなく、技(メソッド)中心としたものです。それ故、学ぶ(真似る)、やってみる(経験する)、その中から芽生える疑問や質問や経過に対して、アドバイスを個々人に対して行なうという手法を採っています。自らが求めていくことで、スキルがアップするという点では、受身教育慣れしている方にとっては、得るものが少ないでしょう。そもそも安田隆氏が、この世界に関わる切っ掛けとなったのは、ドラマー時代に神掛かった経験を論理的に解き明かし、何時でもその状態を再現できるようになるという目的から始まったと本人から聞いています。宮崎氏とは、動機の部分で異なり、同じような分野にカテゴライズされそうですが、辿った道や視点、考え方には大な違いがあります。「悟り」の定義については、TAWの指す悟りとアークの指す悟りは異なります。定義が異なるため、両者の「悟り」を比較することはできません。一つ言えるのは、アークの「悟り」が昔から言うところの「悟り」を示しているのは間違いありません。安田氏の「本質」を捉える視点は一品です。心理分析も表情以外からセラピーなしで読み取る力があります。アークは一朝一夕に理解できるものではなく奥が深いです。(つづく)
2013年02月10日
TAWから「波動干渉と共鳴」に出会うまで、1年ほど間が空きました。その間、セルフセラピーを中心にしたメソッドとNLP、フォーカシング、EFT(TFT)、催眠療法、その他役立ちそうなセラピーを独学で学んでいました。様々な観点から、一度総括したいという考えもありました。心理学の流れを掴むため、諸富祥彦先生の入門シリーズを頼りにしました。ロジャース、POP、トランスパーソナル心理学まで、解りやすく丁寧な記述でお勧めです。気功やタオ、ビパサナーなど東洋思想、脳科学についても興味深く気になる本を読み漁りました。特に、池谷祐二先生の脳の認識力に関する記述は大変参考になったのを覚えています。アークに通うようになってからは、特に、「禅」に関する書籍を参考にしました。玄侑宗久禅師の本は、心理学を理解されているため読みやすいです。あるとき、amazonで目的とは別の本を参照していた時に、購入者関連本に「波動干渉と共鳴」があり、その書評を読んで注文したのを記憶しています。「波動干渉と共鳴」を読んだとき、一度読んだだけでは、捉え切れなかったのですが、探していたものを見つけたと思いました。気になり、安田隆先生に率直な目的をワードに記述し、郵送しご縁ができました。前置きが長くなったのですが、質問の内容を記載します。【波動干渉と共鳴】波動干渉と共鳴は、心理セラピーのみならず、古今東西の効果的な宗教儀式、武道、健康法や問題を取り除く、または願望実現に効果があったメソッドの本質的な部分を纏めたものです。 簡単に言うと、どうやれば効果(結果)が出るのか?能書きよりも、結果を重視するという点が私の琴線に触れました。TAWは、エッセンスという言葉を使いますが、アークは波動という言葉で対比できます。エッセンスと波動では、深さが違います。TAWを受講されていると同じように思えるかも知れませんが、似て非なるものです。TAWが好む相対性理論と心理を結びつけるような軽い話ではありません。そして、スピリチュアル系で表現する波動とも異なります。波動干渉については、言うは易しで、実際は人によって結果が早々に出る人と出ない人に分かれます。本は、シンプルに纏められていますが、自分のモノとするには其れなりに時間が必要です。または、先生に付きっ切りで、セラピーして頂くかのどちらかになるかと思います。私の場合は、セラピーは受けず、マンツーマンのセミナーを初めに受けましたが、ブログで紹介したとおり、波動干渉をマスターするまで其れなりに時間を要しました。セラピーですと、目的が明確ですので、問題解決の意識が高ければ効果もでることでしょう。しかし、以下の方は要注意です。(1)問題や願望が明確ではない方(2)心身分離が激しい方(3)日常的に逃避癖や幻想癖のある方(4)結果の有無に関わらず困らない方(どうにでもなる方)現在、「波動干渉と共鳴」は積極的に行なわれていませんが、個人的にパナシア会の前に希望者を相手に私がミニレクチャーを行なっています。ミニレクチャーを行う目的は、波動干渉で様々な実績を上げて来たため、その有効性とメリット、デメリットを伝えたいという想いからです。波動干渉を理解すれば、頭の中で多くのセラピーを大局的に視ることができると信じています。但し、それも本人のやる気(目的)次第であることは言うまでもありません。(つづく)
2013年02月06日
【TAWの問題点】五感を現実と定義している点は、斬新ですが矛盾点を多く含みます。(深く知りたい方は、物理学を多少勉強されるとよいのですが、面倒な方は、TAW的現実と一般論的な現実のどちらが、得なのか、損なのかを考えるとよいでしょう。そして、考えるべきポイントは、この定義がなくなると、TAW理論が簡単に崩壊するということです。)また、五感による錯視、錯覚に対する解釈が心理による歪だけではなく、肉体的な要件との関連性は何も説明されていません。量子論的な論争になると、シュレディンガーの猫の如く、あー言えばこう言うような話になるのですが、推論どおり実験を行えば明確になります。しかし、TAWはそれに対応しないでしょう。そもそも、自然科学は、確定的な未来を予測する方法を模索するのが目的の一つでした。そういった思想から考えると、確定的な予測ができない理論は科学の対象外であり、量子論は、少なくとも観察としての裏づけはできないまでも、理論どおりの予測可能な振る舞いをするという考えに於いては、信じるべき根拠があります。自分の五感で感じたものは、確かに現実(錯覚等は除外)だと仮定できても、だからと言って、自分が認識しない出来事が現実世界で起きていないという証明にはなりえません。その点の証明が、TAWでは抜け落ちています。TAWを受講すると良く使われる言葉に「人に言いたいことは、自分に言いたいこと」という被害者意識を指す表現があります。実は、この表現は間違いです。正しくは、「人に言いたいことは、過去自分に言われたこと」であり、ネガティブな情動を含む場合に被害者意識が根底にあることを示唆します。詳しい説明は行いませんが、このように、誤解を招くような表現や利用方法が多々あります。そして、TAWの最大の問題点は、修正法が未熟な点です。基本は、インナーチャイルドセラピーに頼っていますが、工夫や発展がありません。修正法が稚拙な一面として、様々な面(セラピスト以外の一面)で、宮崎なぎさ氏と対すると、インナーチャイルドから解き放たれているとは言いがたい行動が目に付きます。(少し厳しい表現になりますが、多分に情動に振り回される部分。光背効果を多用する点。統一感がなく自ら例外を作る。単なる錯覚を量子論に基づくという虚言癖。自らを天才と言う意味不明な執着を見るとインナーチャイルドの修正が足りないと言えます。)NLPなど他のセラピーを研究しているようで、その内、変化があるのかも知れません。(これは、古くから座席していたアークの会員で、サクセスTAWを受講し、宮崎なぎさ氏にTAWに対しての技術協力を依頼された方から聞きました。)TAWは、自分の意識を、修正するには、セラピストに依存する方向に誘導する展開が多いのも特徴です。(現在、セルフセラピーは国際的にも主流になってきており、セラピストを常に必要とするタイプのものは一昔前のものです。)開発者本人の修正がまま成らない結果を見ても解るとおり、社会生活の現場に於いて、インスタントに役立つものではなく、思考を現実化させるための技術が稚拙で、私が求めていたものではありませんでした。思考が現実化するTAW理論は、簡単に言えば仮説であり結果を伴わない机上の空論です。「輪廻する歴史」は彼女の処女作ですが、時間軸など詳細に調べると理論の信頼性が解ります(つまり科学的根拠がない)。そこまで、調べる人は稀でしょうが、TAWを評価する前提として、宮崎なぎさという人物を客観的に検証考察する上で役立ちます。良くも悪くも、TAWの問題点(使える部分と使えない部分)を解決したいと言う想いが「波動干渉と共鳴」へと繋がって行きます。(つづく)
2013年02月06日
【TAWの長所と短所】TAWの分析(ヒプノ)は、十分に使えます。これが最も役に立つが故に、TAWの根底を支えていると言っても過言ではありません。しかし、全て自分に原因があるという拠り所も、意識(認知)の観点に立てば正しいのですが、解釈が一般的な心理学とは異なり、あまりに曖昧な部分が多いと思います。アドラー心理学とはこの部分で一線を画します。TAWは、根拠無き飛躍が多すぎ、実用となる部分の有益性を阻害します。(過ぎたるは及ばざるが如し)不要な部分を取り除けば、心理セラピーに活用は出来ます。意識の解釈のポイントは、意識に登場する人物は、全て自分自身であるという前提に立つとセラピストの分析が飛躍的に説得力を持ちます。(セラピーに長けていれば当たり前なのですが。)どのポジションにいるかを見極めると、その人の優位人格が明確になります。ヒプノを通じて、自分(人)の思考パターンや信じ込みなどが浮き彫りになります。TAWは、自分を知ると言う点で満足度は高いでしょう。自分で、意識の仕組みや心理状態を知りたい方にはお勧めです。セラピストを目指す方にはよいでしょう。特に、原因分析に比重を置き、気づきを促し変化させるセラピスト向けです。しかし、原因分析はさておき、問題解決を主軸にするM・エリクソン的なセラピーの深さを求めるのであれば、物足りないでしょう。(多くの分析系セラピストは、問題解決に対して万能性を謳いますがそれは井の中の蛙です。)彼女の誘導瞑想による原因分析のセラピーは非凡だと思います。TAWを受講されるのであれば、宮崎なぎさ氏自身が講義する時がお勧めです。後半の最も宮崎なぎさ氏が主張したいTAW理論については、私の経験から言って役に立ちません。(解釈として面白い部分でもありますが、実用的ではありません。宮崎なぎさ氏の家族に基づくトラウマ話が上級の最後の落ちにあります。テキストに載っているのではないため、いつもではないかもしれません。彼女は上級のクライマックスだと思っていたようですが・・・。)特に上級などで、喜んでいたのは、家族関係のトラブル(トラウマ)があった方だと記憶しています。相手に対する認識が大きく変われば当然ですね。家族関係が良好な人たちは特別な感慨もなかったと思います。(私もその一人でしたが)最終章は、半日で終わるような内容で内容は薄いです。個人的には、前半の誘導瞑想と心理分析(インナーチャイルドセラピー)の部分のみが良いのですが、それであれば、他のセラピスト養成セミナーでも良いかも知れません。美容瞑想は、フォーカシング、イメージセラピーに誘導瞑想を掛け合わせたものです。LDPは、多少学習すると解りますが、ヒプノ、NLP系、その他セラピーでも似たような技法が登場しますが、唯一セルフセラピーのメソッドとして役立てることが可能です。(つづく)
2013年02月06日
以下の様な質問を頂戴しました。一度整理するには良い機会と判断致しました。謹んで、回答させて頂きます。(幾つかに分けて回答します。)■質問があります始めまして。楽に悟ろうというブログは貴殿のブログでしょうか?こちらの記事を見ましたら、同じ内容でしたので。同じブログ主だと思って、質問したい事があるのですが。楽に悟ろうのブログは、興味があり、記事を読ませて頂きました。その中にTAWの記事にとても興味があり、関連の本やブログを拝見させて貰っている途中です。また、パナシアや波動干渉についても、書いておられ、興味を持っています。波動干渉については、10年以上前だったと思いますが、本を読みました。同じ本かはわかりませんが。でも大変面白かった記憶があります。友人に貸して以来、帰ってこないので、そのままとなっていますが…そこで、質問ですが、TAW、パナシア、波動干渉についてもう少し詳しく知りたいのですが、また、それぞれのメリットやデメリット、どんな時にどれを用いるのが効果があるのか、等教えて下さい。抽象的な質問でお答えにくいかと思いますが、よろしくお願いします。---------------まず、楽天ブログとアメブロに二重に掲載しているのは、楽天ブログに掲載されていた知り合いのブログが障害で全てなくなってしまったため、バックアップを目的に二重に掲載するようになりました。検索に同じような内容が引っかかる可能性がありますね。混乱させてしまい申し訳ありません。はじめに、このブログで十分な説明は、できないことを前提として回答させて頂きますね。私のブログをご覧頂ければ、お分かり頂けると思いますが、私の主観ですので、事実はご自分で、ご確認頂くのがよろしいかと思います。TAWから離れて、随分経ちます。現在は変わっているかも知れませんので、ご了承をお願いします。【TAW】TAWは、様々な心理セラピーを宮崎なぎさ氏自身が纏めたもですが、独自の解釈と仮説を取り入れています。独自部分が盛り込まれていることが、TAW理論と呼ぶ理由の一つです。TAW受講者の解釈は様々ですが、最大のポイントは、意識のフラクタル構造と物理学に沿った(当てはめた)心理(意識)仮説の構築です。遠くにあるもの(過去または空間)を意識の時空間と連動させ、意識に与える影響を論じています。そして、その思考のエッセンスを素材とて各現象化に当てはめ、様々な現象が過去の思考を基に現象化したことを説明しています。前半は、目的論に基づいた心理解析で、自分の表層意識と深層意識の関連を分析します。深層意識が様々な意識と関連があり、無意識な価値観の実相が表層意識の価値観に反映されていることを解きます。(夢や趣味、嗜好の偏りなど)中盤から後半は、独自色(個人的な思い)が強く、意識のフラクタルを用いたTAW理論の説明になります。(つづく)
2013年02月06日
4週間前に一本の電話が掛かってきました。「ちょっと大変なことが起こって、是非パナシアを教えて欲しい・・・」詳しい内容は、控えさせて頂き、私は、パナシアの方法を伝えました。それから、毎日の様に電話があり、その都度対応方法と留意すべき内容を伝えました。私は結末がどういう風になるか?については、知る由も無く、それから1週間後、驚くべき結果で事態は幕引きとなりました。これが、パナシアの効果であるか、単なる偶然であるかは、率直に申し上げ私には証明する術はありません。翌日、過去に録画していたVTRをチェックしていた時に、地球気候の大変動のドキュメントがあり、こんなもの撮っていたんだと思いながら見ていると、南極ペンギンの子育ての場面が写り、子ペンギンが、餌として天敵に食べられるシーンを描いていました。かわいそうと視るか、自然の摂理であり当然と受け止めるのか、人それぞれでしょう。結論から申し上げると、上記、一連の出来事は、今始まろうとしているビジネスの問題に対して、私の心の内にある葛藤が映し出されていることに、直ぐに気が付きました。「大道廃れて仁義あり」自分の価値観は、本当に無用なもので、自然の側から見れば、どうでも良いことなのですね。単なる邪まなもので、未だそれに拘りがあることを教えてくれた一件でした。以前、ある方から、この世を渡るコツは「なんでもあり」と言われたことがありましたが、全くその通りです。また、一つ捨てるものが見つかったようで、すっきりしました。
2012年12月27日
今日、1週間前にある企業の開発案件の見積もりに、消費税抜きの明記を忘れ提出したことに気づきました。粗利は20%でしたので、-5%は結構キツイ状態でした。そこで、この件について、あるチェック技を行いました。(簡単に言えば自分に聞くのですが・・・。)回答は「問題なし!」すぐさま、先方の担当者にお詫びと、消費税の件お願いしました。メールには、ちょっとした細工もしましたが、結果は既に手元にありましたから、躊躇無く、率直なお願いをしました。5時間後には、問題なしのメールが返信されて来ました。昨今、売り上げの数字の間違いは、お咎めなしとは行かないのですが、大きな問題もなく収束しました。このように、簡単に応えてくれるとき。「応え」が返ってくるときは、すいすいと物事が進みます。問題は、ナカナカ「応え」が帰ってこない時です。私は、この時のネゴシエーションが未だ未だ上手く行かず試行錯誤中です。一昨日、古くから付き合いのある韓国のコンサルタントから、大手企業の開発したある特殊な機能をもった超高性能カメラの輸出について問合せがありました。日本では、軍事目的の商材はしがらみが多く、単純な輸出やOEMは難しいのですが、当てにしていた企業は自分の「応え」の通りNGでした。さて、これからこの課題に挑もうと思います。丁度良いエクササイズになります。ビジネスの話は、深く話ができませんからこの辺にして、心理療法にしても、波動干渉やパナシアにしても、実生活で如何に役立てるかが、ポイントであり、生きたものでなければ、お金の無駄になります。単なる「修行」に挑むのではなく、日々の生活の中に浸透させることができれば、自分の人生が更に楽しくなるのではないでしょうか?少なくともこの分野については私は、人に説教できる身分ではなく未だ未だです。相変わらず私は一歩一歩です。明日から12月、師走ですね。2012年は、アセンションの年と言われていましたが、何事も無く過ぎようとしています。人の話もOK!自分との話もOK!11ヶ月を振り返れば、そんな2012年でした。最後の1ヶ月を楽しく過ごし結果を残したいですね。
2012年11月30日
昨日は、神秘倶楽部の1時間前に、波動干渉のミニレクチャーを行ないました。(ラッキーなことに、安田先生から、「波動干渉と共鳴」の新品の本を参加者全員にプレゼントして頂きました!改めて、ありがとうございました!)そもそもの発端は、10月の神秘倶楽部で一人の女性に片腕を利用したタイムラインを即席で行なったことが切っ掛けでした。そして、その席で、タイムラインも波動干渉の原理原則を理解すれば、簡単にものにすることができることを伝えました。同席した方たちは、波動干渉に興味があるとのことでした。そういった流れで、11月の神秘倶楽部開催前に、波動干渉のレクチャーを行なうことを数人の方に約束させて頂きました。(もちろん、安田先生は了承済みです。)兼ねてから、波動干渉の有効性について、安田先生に上奏していましたので、波動干渉の話を行なうことについては許可を得ていました。しかし、神秘倶楽部では、時間も限られているため、ポイント、ポイントで披露していたものの、集中して理論的な話をすることは難しい状況でした。波動干渉は、習うより慣れろで、直ぐに体感でき、波動とは何かを掴むことができます。「波動干渉と共鳴」は、一読しただけでは深い分部を理解することは容易ではありません。一部の天才的な人やあらゆる確度で、多くの経験を積み重ねてきた人は即座に習得できるかもしれません。私自身、半年間先生に指導して頂きながら効果を上げるまで、習い始めてから8ヶ月もの時間を要しました。その後も、随分と先生に質問を重ね、回答を頂き、「波動干渉と共鳴」を繰り返し読み、また、関連しそうな本を読み、自宅で一人実践しながら、自分の中で本質を掴むことに留意してきました。私は腑に落ちる、納得が行くまで約1年掛かった訳ですが、その収穫は私にとって貴重な財産となりました。白隠の軟酥の法、インナーチャイルド療法、NLPに登場するビジュアル・スクワッシュ、タイムライン等の技法、ホ・オポノポノ、EFT(TFT)、セドナ・メソッド等は、全て波動干渉の原理原則が把握できれば、簡単に習得でき、且つ欠点を克服し、如何すれば高い効果を導き出せるかを理解できるようになります。(神秘倶楽部では、キネシオロジーの欠点について話をしました。)個人的には、波動干渉を知ることで、パナシアの立ち位置が明確になり、セラピーの技法のみならず、神秘的な技法など、その特技に潜む本質を見分ける力がつくと考えています。私は、「ボールに当てたければ、バットを振れ」という話をします。頭で考え、分かった気になっても、実際使えないものです。自分で、思考錯誤を繰り返し、ボールに当てるためには、どのようにすれば良いかを自分で編み出し、工夫し実践することが重要だと考えています。スポーツや勉強、習い事でも優秀な指導者が居れば上達は早いでしょうが、当の本人にやる気がなければ、何事もモノには出来ないでしょう。(余計な信じ込みが強いとやる気があっても大変ですが・・・。)一流の人たちは、自分の試行錯誤と先人のアドバイスや理論から多くのことを読み取り、自分のスタイルに落とし込みます。私のような凡人が、諦めず只、実践することで、波動干渉の技を使えるようになったのですから、多くの人が当たり前の様に使えるようになることは不思議なことではありません。波動干渉の技を掴むには、幾つかのポイントがあり、その点を私なりに伝えることができればと考えています。昨日、参加して頂いた3名の方には、面白い、または何かを掴みたいという想いがあったかと思います。そして、実際に体感してみて、得たことがあったかと思います。(参加後、喜んで頂けたのが何よりでした。一人の方は、花粉症の改善に挑戦するそうです。神秘倶楽部でカタレプシーを起こしていた方は、「原因を知りたい」とのことでした。実は、波動干渉を使えば簡単に割り出すことが出来ます。しかし、原因を知らなくとも、問題の解決は図れますから、パナシア一本入魂で良いかと思います。)参加者の皆さんからは、神秘倶楽部の雑談時に色んなコメントが聞けて思わぬ収穫でした。波動干渉ミニレクチャーでは、・波動干渉とは何か?・波動干渉の体験・脳の中で何が起こっているか?を話しました。自分の中に潜む力を目覚めさせ活用するには、深い自分との信頼関係、つまり、純粋な自信が必要です。自分自身の中に答えがあることさえ理解できれば、いつでも、どこでも、自らが考え進むべき道を自分の中から導き出すことができるようになります。過去、私が関わったセミナーでは、自分を変えるには、必ずセラピストが必要だと主張する人たちも居ましたが、私はそれを鵜呑みにすることは出来ませんでした。理由は、社会の現場で、人に頼らず自分で自分を変えている人を数多く見てきたからです。私は、多くのものに騙され、迷わされて来ましたが、その分野で、自分が無知で、自信がないからこその結果だったことを身にしみて感じています。私が自ら掴んだものは、経験を踏まえ、お伝えすることが出来ると思いますが、それ以外のことは、ご容赦頂き、12月も神秘倶楽部開催前、10:05~「波動干渉と共鳴」のミニレクチャーを行ないます。(先行されている3名は、タイムラインをモノにして頂きます。初めての方は、「波動干渉とは何ぞや」、「波動干渉の準備」と「波動干渉の体験」を考えています。)興味のある方は、どうぞご参加ください。もちろん無料です。(神秘倶楽部参加者で、「波動干渉と共鳴」を読まれている方のみでお願いします。3名は決まっているので、後、3~5名程度が限界かも。)次回は、クリスマス・イブ・イブですね。良いクリスマスが迎えられるかも知れませんね。(追伸)参加希望の方は、Arkには、フープが6輪しかありません。100円ショップにフープが売っています。1輪を8本に分割して収納しているので、持ち運びも簡単です。2輪購入頂きご持参ください。ご協力をお願い致します。
2012年11月26日
どうしても、結果が出ない方から、メールを頂戴しました。努力が報われなければ、自暴自棄になります。自分を信じきれない結果、外に救いを求め彷徨います。いくつか、メールの遣り取りをし、納得されたようです。但し、頭で理解しても、本当にモノにできるかは本人次第です。本人の意思なくして、誰も施しようがありません。原文を省略して掲載させて頂きます。-------------こんばんは!お釈迦様は、全ての衆生に仏性があるとおっしゃいました。万策尽きた××さんの意見が正しく、お釈迦様が間違っているかは、私の判断することではないので、ご自分でご判断ください。ただ、お釈迦様は、「縁なき衆生は度し難し」とおっしゃっています。僭越ですが、私が思いますに、××さんは縁なき衆生のように見えます。自分に嘘をつく以上(嘘に気づかない)、「縁なき衆生」です。本当に縁を結ぶのは、「仏」ですが、それは内なる「仏」です。人は誰でも、「仏」を内在しており、それに気づかないで外に「仏」を見出そうとします。万策尽きる人は、アークから離れて行きますし、枝葉末節に拘り、人が気になり外に救いを求める以上、その六道は終わりなき輪廻となります。疑問や遣る瀬無い時、また、行き詰ったとき、先生に聞くのではなく、自分自身に聞くのです。そうすれば、必ず光が見えてきます。××さんは、先のメールで、自分の怒りがわかったと言いました。それで、よいのではないでしょうか?
2012年10月31日
(省略)私が弓術を習得しようと考えた本来の問題に、先生はここでとうとう触れるに至ったが、私はそれでまだ満足しなかった。そこで私は、「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」と尋ねた。すると先生の答はこうである。「あなたの代りにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなけれぽ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知識や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい」先生はこの深い集中に到達する仕方を教えた。弓を射る前の一時間はできこるだけ静かにしていて心を凝らし、正しい呼吸によって心中を平らかにし、外部のあらゆる影響から次第に身を任して行き、さてそれから冷静に弓を引き、その他はすべて成るがままにまかせておく。そのようにして次第に、完全な無我の境に近い状態、したがって無我の境に移りうる状態になる。矢が放たれて緊張が弛み、無限の力が活動に入った時に初めて、ふたたび我に引き戻されるのである。(省略)「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」こう言って先生は私を戒めた。それに対して私が「少なくとも無心になるっもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私には分からないのですから」と答えると、先生は途方にくれて、答える術を知らなかった。人づてに聞いた話だが、先生はそのころ、私といううるさい質問者を満足させうるものが引き出せるかも知れないという希望をもって、日本語で書かれた哲学の教科書を数冊手に入れた。その後しばらく経って、先生は首を振りながらその本を投げ出し、こんなものを職業として読まなければならない私から精神的には碌なことは期待できないというわけが大分わかって来たと、漏らしたそうである。(省略)このようにして四年の後、先生は私たちにいよいよ最後の課題を与えるべきだと認める日が来た。それは的を射ることである。それまで的の代りに使っていたのは、固く束ねた大きな藁束で、それをニメートルほどの距離に置くのだから、いやでも中たるはずであった。今度は私たちは、たっぷり六十メートルも離れた的を前にして立たされた。先生は私たちに、これまで稽古したことをただ繰り返すようにと勧めた。私はさっそく、的に中てるには弓をどう持てばいいかを尋ねたことは言うまでもない。「的はどうでも構わないから、これまでど同様に射なさい」と先生は答えられた。私は中てるとなればどうしても狙わないわけにいかないと返した。すると先生は声をはげまして「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」と答えられた。そう言って先生は弓を執り、引き絞って射放した。矢は的のまん中にとまっていた。それから先生は私に向かって言われた。「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在るーこれをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます」私は先生の言われた通りにやってみようと試みた。(省略)すると先生はついに、私の行き悩みは単に不信のせいだと明言した。「的を狙わずに射中てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手ではあるが」そして先生は私に、その夜あらためて訪問するようにと言われた。九時ごろ私は先生の家へ伺った。私は先生のところへ通された。先生は私を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ちあがり、ついて来るようにと目配せした。私たちは先生の家の横にある広い道場に入った。先生は編針のように細長い一本の蚊取線香に火をともして、それをあずちの中ほどにある的の前の砂に立てた。それから私たちは射る場所へ来た。先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見える。しかし的はまっ暗なところにあり、蚊取線香の微かに光る一点は非常に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と二本の矢を執った。第一の矢が射られた。発止という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこまれた。先生は私を促して、射られた二本の矢をあらためさせた。第一の矢はみごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈に中たってそれを二つに割いていた。私はそれを元の場所へ持って来た。先生はそれを見て考えこんでいたが、やがて次のように言われた。「私はこの道場で三十年も稽古をしていて暗い時でも的がどの辺にあるかは分かっているはずだから、一本目の矢が的のまん中に中たったのはさほど見事な出来ばえでもないと、あなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しかし、ニ本目の矢はどう見られるか。これは私から出たのでもなけれぽ、私が中てたのでもない。そこで、こんな暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか。まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持になろうではありませんか」(省略)そして私が自分でも中てることはまったく二の次であると考えるようになると、先生が完全な同意を示す矢は、次第にその数を増して来た。矢を射るとき自分の周りにどんな事が起ころうと、少しも気に懸からなくなった。私が射る時に二つの目が、あるいはそれ以上の目が私を見ているかどうかということは頭に入らなかった。のみならず先生が褒めるか既すかということさえ、私に次第に刺激を与えなくなった。実に、射られるということがどんな意味か、私は今こそ知ったのである。(省略)引用:日本の弓術(オイゲン・へリゲル)
2012年10月11日
禅定については、一年前に書きました。今では、電車の中だろうが、会社に居ようが、どこでも一時の時間があれば、瞬時に禅定し、執着を煩悩の炎で焼き尽くします。そして、ネガティブな波動をパージします。「直ぐやる。必ずやる。出来るまでやる。」日本電産の永守重信さんの標語ですが、個人的には、これが尤も、情動のゼロ化に、効果があります。最近は、一念に禅定していた自分が、外界と禅定していることに気が付きました。つまり、いらぬ想念がなくなってくると、禅定する対象が、なくなり、自然と、自分自身に禅定してしまいます。従って、自分自身に禅定すると、周りの空間に禅定することになります。五感が冴え渡り、五感と共に、自分自身が寄り添っています。一念であるが、意識は拡散している、所謂、集中的拡散状態が自然と体感できるようになりました。何を言っているのか、意味不明と言われるかも知れません。これが、どんな形に発展していくかは、今の私には、明確に応えることはできません。唯、嘗て、技法や論理に拘っていた自分から離れ、一念である時間を作ることが何よりも大切に想えるのです。目指すべき方向は、ぶれることなく、此処に存在します。結局、それに役に立つか、立たないか、それだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもありません。
2012年10月08日
「悟り」とは、何事にも捕らわれず、ゆえに何事にも繋がることができる状態です。何事にも繋がる「悟り」は、現象創出の必須条件です。現象創出がピンと来なければ、願望実現という言葉でも可で、言葉は選びません。「何に繋がりたいのか?」「何が望みなのか?」「何を手に入れたいのか?」パナシアの現象創出は、特定の「目標」に対して行なう訳ですが、その目標に対する捕らわれない状況を部分的に作り上げ、「部分悟り」の状態を作り出します。ゆえに、「満たされながら、悟って行く。」という所以です。ゴールは悟りではありません。悟りがゴールであるはずがありません。悟りは、スタートラインです。よりよく生きるために、望むものと繋がって行く。積極的に望むものと相対し、縁を繋ぐのですが、恋愛同様、相思相愛になる必要があります。感覚・情動がゼロ化できている状態のみで、全てを適えることはできません。はじめから繋がっていたからこそ、無用なもの(執着)をゼロ化すれば、現象化が引き起こされます。はじめから繋がっていない人は、何も起こりません。それが実力であり、現実です。それこそ、「悟り」でさえ!故に、我々に必要なことは、行動し、実践し、経験とういう智慧と新たな知識を養うことです。世を捨て、世相から離れれば、「悟り」易い環境が整いますが、目的が「悟り」である以上、それ以外のモノは手に入りにくいのです。しかし、我々は世俗に生き、娑婆でよりよく生きるために、どうするか?どのように結果を出すのか?が重要であり、肝要です。「悟り」も一つの状態であり、処方箋だとすれば、宗教チックに考える必要もなく、PCやスマホを使いこなすべく、利用することに留意できます。 「思考の現実化」まるで、パラドックスであるかのように、「欲」を活かし、「欲」の中の執着を取り除きます。それが一元的思考であり、外界と自己の一元化を推し進めます。望むものを見つけ、そこに意識を持っていくことが「縁」であるなら、縁を繋ぐにはコツと工夫が必要です。本人に備わっている現時点でのリソースにより、相手も選ぶ権利があります。相思相愛でなくとも、お友達には成れるかも知れませんね。いえいえ、貴方に寄り添う部下や秘書、姉、弟になってくれるかも・・・。呼びかけ、それが、応えることで、天の声を確認します。あるいは、相思相愛になりたければ、天にその手段を教えてもらえば良い訳です。手段にも繋がれる。(人のフンドシで相撲をとればよい。)それ故、可能性は無限とも言います。難しいと言えば難しい、易しいといえば易しい。自分だと思っていたものが、自分ではなく、単なる錯覚であったと気づけば、「欲」も幻想かも知れません。しかし、「欲」が、我々が本来の自分となるための、プロセスであり、真なる願いであるならば、「欲」さえも単なる通過点ではありません。
2012年10月07日
久しぶりに、ブログを書きます。一年前と私の周りの風景は一変しました。変化は、正に自分自身に対する壁を一つ一つ丹念に見つめなおし、それと対峙することで確実に促されます。自分の思考の中に埋没しているときは、思考が生み出す幻想に気がつきません。それは、特殊なことではありません。誰しも、自分の想いがすべてだと信じ、また、深い無意識の世界でも、それに意識することなく従っているのですから当たり前です。何を信じ、何を拠り所にすれば良いのかさえ分からず、堂々巡りを続けていきます。確かなものを外へ見出しても、それは、内なる世界が期待した幻想であり錯覚です。そして、また彷徨う自分に戻ります。それでも、自分の想いが幻想であることを微かに気がつけば、そこから道は徐々に開けて行きます。そして、想いという幻想を確実に意識できるようになれば、それを境に一気に河を渡り始めます。しかし、僅かなことですが、それを体験し、自分自身で変化を促せる技を身につける必要があります。以下は、先日、知人から送られてきた相談ですが、名前をイニシャルにして公開します。僅かなことに気が付きさえすれば、他愛もないことなんですね。しかし、河向こうに渡っても、そこからが本当の自分の始まりになります。原点、つまり、スタートラインに立ったということです。-----------こんばんは!パナシアはNGという訳ではありません。ツールの一つです。それも、波動干渉の進化系ですから、通常の波動干渉よりは、万人向きに作られています。このことは、Uさんは良くご存知だと思います。欠伸は、笑いの一種であり、その無条件反射と学習してきた自我をぶつけ合う訳です。多くの説明が要らない分、何故?欠伸??と疑問を持つ人も多いでしょう。ところが、旧来の波動干渉は、万人に効かないかも知れませんが、体感覚で干渉前と干渉後が理解しやすいメリットがあり、頭でっかちな人には、その効果が分かりやすく、現代人向きとも言えます。そういった意味で、波動干渉をマスターすれば、パナシアは更に便利なものと理解できる訳ですから、体験に基づいた確信が育っているということでは、迷いがないと思います。それでも、禅定抜きにはどんな波動干渉でも効き目はないと思います。それ故、パナシアもツールであり、旧波動干渉もツールです。ホオポノポノもツールですし、禅も同様です。前回のメールではそれが言いたかっただけです。秘伝という大げさなものよりは、この単純明快なことを唯、自分自身に対して検証する方が、早いと思います。先生がいつも話していたように、秘伝とは、伝えてしまえば「あーそう」というもので、複雑でもなんでもないから、秘伝となっていると言います。私も嘗て、気功の先生から、同じような話を聞きました。その先生は、結局何も話してくれなかったのですが、今では、教えてもらう必要はなかったと思っています。> その期待すら禅定してゼロにするということですか?そうです。期待があるということは、ネガティブな想いがあることに気づくべきです。期待の裏に存在する感情や感覚が存在することが、Uさんをはじめ、多くの人が気づきません。ところが、KさんやNさんは理解しています。だから成果が出やすいのです。目的、目標が分かっている人と、暗中模索の人では効果が歴然として当然ではないでしょうか?
2012年05月18日
心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな最明寺入道時頼の詩です。この詩を初めて見たのは、中村天風の書でした。4、5年前だったと記憶しています。この世のあり方を観ようと思うなら、この世界が心で造られたものだと見極めよ。そして、その心に自らを委ねるなということです。心に、心を許すな。心で考えた心に、心を許すなと言う訳ですから、なんだか変な話です。自分自身を感じ、捕らえている時でさえも、雑念が次々と浮かび、迷いを造ります。自らを感じ取ることを主としているにも関わらず、雑念に支配されてしまう。そんな迷いに心を許すことなく、唯、唯、一念であり、素の自分と対峙することを述べていると理解しています。確かに、心理学では超えられないこのような壁を「禅」の世界では、上手く表現しています。自らの分離感を分離していると感じている自分である以上、分離し続けます。一旦、心を脇に置き、そのままの自分に成りきる、つまり、深い自分と一緒に居ることを唯、唯、続けます。これが、今の私の日課です。心に心を許すことなく、唯、成りきる事を続けます。心身一如これを実践します。心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな以前は、この詩が何を言っているのか、皆目検討もつきませんでしたし、興味もありませんでした。「禅定」こそが私のターニングポイントです。
2011年09月18日
「禅定」この言葉を私は知りませんでした。この言葉で、メタの位置(俯瞰的位置)に立って自分をコントロールすることと、自分が人をコントロールすることと、何も違わないことに気がつきました。自分の中に、問題を見出し、己の中にその答えを見つけ望ましい結果を導き出す。そんな自分自身の中にさえ、自分と己を区別している内在者が存在することに改めて気付かされたのです。偉そうな事を書きながら未だこの程度です。ことの発端は、3歳の娘に「パパ大嫌い!」と言われたことでした。この程度のことは良くあることと思われるかも知れませんが、親バカの私にとっては自分の中での怒りに気付くには十分でした。いつかは、こんな思いが来るだろうと想像していたものの、それに対する備えはゼロでした。そこで、「パパ大嫌い!」を材料に、意識的に感覚を増幅し、インターベンションで解放しました。(約1時間)小さな娘も私の態度には敏感に感じていた様です。翌日には、その時、私が感じたことや、それがどう言う意味かを話し、娘が感じたことを逆に聞きました。私と娘の会話は単なるセレモニーでしか在りませんでしたが、その後は、何時どおりにご飯を食べ、花火をし、普通の一日が過ぎて行きました。ところが、メデタシではなく此処からが本番でした。翌朝、自分の腕に蕁麻疹が出ました。そこで、蕁麻疹という症状に対し、インターベンション(パナシア)を行ったところ、翌日は、更に症状が悪化してしまいました。このことを師に相談すると「感覚」と「感情」を分けて対応したことに問題があり、「感覚」、「感情」、「思考」を一体とし処理する、つまり意識を禅定すると良いとのアドバイスです。つまり、今の問題を起こしている自分と客観的に見ている自分(メタの自分)を分離することなく、意識を禅定し、「感覚」、「感情」、「思考」そのものに成り切ることが必要だということでした。(「禅定」の意味は、検索すると出てきます。)そう言われると、花粉症を解決したインターベンション(クロス技法)の時は、「感覚」、「感情」、「思考」を一度に対処しました。ところが、今回の蕁麻疹は、「感覚」のみをその時、処理したため「感情」がブロックされたままで、その「感情」でブロックされたエネルギーにより、症状が悪化してしまいました。そもそも、「感覚」、「感情」、「思考」は分離することなく同期するものであり、一体として扱うことで、自我(小我)を処理することが可能な訳で、それをコントロールしている「自我」が分離(当事者ではなく第三者の立場)したまま、インターベンションを行っていると、何時までも解脱できないという訳です。問題、葛藤が生じるのは、「感覚」、「感情」、「思考」が分離している結果であり、それに対処していながら、本末転倒ということです。改めて、蕁麻疹の「感覚」を増幅し、「感情」、「思考」に禅定することで、蕁麻疹は消えました。心理療法や自己啓発の問題点は、「感覚」、「感情」、「思考」の一つをピックアップしアプローチする方法が殆んどです。この様な方法は、当初効き目があっても、時間と共に元の状態に戻る(ホメオタシスが働く)ということがあります。その原因が今回の件で明確になりました。禅定を知りえたことは、大きな前進でした。
2011年09月03日
今日は、意識の話ではなく、ガイガー・カウンターの話をしてみたいと思います。というのは、先日、某通信大手のグループ会社の役員がインキュベートとした会社にお邪魔した時に、ガイガー・カウンターのことが話題になったからです。その会社の方々とは、3年前にA大学主催のビジネスフォーラムで知り合ったのが縁で、時間が合えば、フォーラムに出席していたため、今では、様々な相談をして頂くようになりました。また、その会社の所在地は、自宅から徒歩で遊びに行ける距離であり、相談ごとがあれば電話一本で駆けつけることができることも縁を育んでくれた遠因でもあります。さて本題ですが、ダークファイバーを接続し、近距離広域ネットワークを構築する光システムについて伺いに行ったところ、A大学の教授が、ガイガー・カウンターを私の目の前に差し出しました。ガイガー・カウンターは、ロシア製、米国製、中国製の3つで、価格は何れも4万円前後でした。もう一つ、米国製を持っているとかで、計4つのガイガー・カウンターで数字の精度を検証しているとのことでした。目的は、一般の人が生活で使えるガイガー・カウンターを調査し発掘することでした。その結果、米国製の2種類は、仕様上危険レベルに達するとアラームが鳴る仕組みになっており、食物、住居、土地に対して、詳細な判断ができないため除外としたそうです。残るロシア製と中国製の二つに絞って、持ち歩いているとか。先日、知人に福島にロシア製と中国製のガイガー・カウンターを持っていって貰ったそうです。すると、ロシア製のガイガー・カウンターは東京より数値が増えたものの、中国製は数値に変化がなかったそうです。(中国製は数値が低い東京近辺では使える??)そもそも、中国製とロシア製は、2マイクロ・シーベルト程度の誤差があり、どちらが信用足りうるかという風に考えていたそうです。(結局、2者択一では、信頼できるか判断はできませんが。)少なくとも、中国製はボツとなり、ロシア製が残った訳です。私にガイガー・カウンターを見せたのは、韓国製のガイガー・カウンターを手に入れたかったからでしたが、レアモノであれば、私が知りうる限り多くは中国製です。ヤフオクやamazonでは、2万円前後で売られているものもありますが粗悪品も多くありそうです。A大学の教授は、ロシア製は政府公表値より値が高いとぼやいていました。そこで、私の方でもいろいろ調査をし、入手ルートや価格を精査していたところ、YouTubeで、ガイガー・カウンターの製品別測定比較が掲載されているのを見つけました。既にガイガー・カウンターを持っている方も、これから購入を検討している方も、一度覗いてみては如何でしょうか?
2011年08月29日
マイケル・ポランニーという人をご存知でしょうか?ポランニーは、ハンガリー出身の物理化学博士です。ポランニーが書いた『暗黙知の次元』という本を読みました。執筆は古く、内容は率直に言って難解でした。「人間には、言語の背後にあって言語化されない知がある」例えば、リンゴをイメージし言葉にすると説明するのに限界があります。リンゴを生業にしている人であれば、リンゴの手触り、香り、色、風の動きなど多くの言語化できない達人的知識を持っています。直感など閃きは、そういった達人には、一般人が持ち得ない「暗黙知」が作動しやすくなるのですが、知識のみならず、奇跡的な偶然や肉体的変化を人にもたらします。ある臨界点に達すると、暗黙知が発動し、「創発」点に達するという意味を指して、エジソンは、「99%の努力と、1%のインスピレーション」と言いました。困難なものや達成したい、得たいものの背後にこの「暗黙知」が発動する機会があるということです。誰でも成し遂げるものを人は奇跡と呼ぶことはありません。誰しもが容易に得られることに、人は感動することもありませんし、当たり前として対応します。しかし、進化の過程を思うとき、サルからみれば、人がやっていることは奇跡でしょう。人がサルを見て、木から木へ移動する運動能力を見ると、それも然りかも知れませんが、私達人間は、どんな環境にも対応できるようになる為に「暗黙知」を使い、その結果、大脳の進化を獲得して来ました。ポランニーは、「暗黙知」が私達の活動の中に潜んでいることを発見し、それを伝えました。この発見は、ポランニーが初めてではありません。多くの宗教家や武術家、音楽化など芸術家、識者、科学者達は、身をもって「神掛かる」世界を体験しています。「自分に何かが乗り移って、演奏をしている。」「自分に何かが乗り移って、執筆をしている。」「自分に何かが乗り移って、作品を彫り上げる。」いつもの自分とは違う感覚により突き動かされているような錯覚。それは、紛れもなく、あるときの自分です。ついている人は、それをラッキーと呼び、運が良いと表現します。ある人は、セレンディピティと呼び、シンクロニシティと呼びます。そんな潜在力を「火事場のバカ力」と呼ぶのは勿体無いでしょう。いつ、どのような時に、どういう方法で「暗黙知」は発動し「神掛かる」のか?それを突き詰め解明し、人生に活用する。そんなプロジェクトが進行中です。心理学や哲学、カウンセリングやコーチングでもない世界。まして、自己啓発ではなく、断捨離のように意識の中の無駄なものを棄て(執着に気づき常に己と対峙し覚醒させる)、意識をつみ上げをやめるというテクニックはパラドックスな世界観です。外に答えを見つけるのではなく、常に内側にアプローチすることは普遍的な行為です。「内在する苦しさ」を都合よく人のせい、自分への言い訳にしたり、抽象化することは、単なる思考の歪曲化であり弱点です。そこに意識の光を当てること。そうする事で、苦しみさえも幻想であることを暗黙知は教えてくれます。自我という意識と暗黙知の連動は、大我へと続く道標となります。
2011年08月22日
今、我が家の子供(3歳のマリア)は夏休み中です。4月から幼稚園に入園し、初めての夏休みです。夏休みの宿題はありませんが、日課があり、天気予報、早寝、早起き、家のお手伝いをシールで表現します。先日、外食から帰ってきたとき、娘は眠たかったのか、横になってしまいました。嫁さんが「今日は、お手伝いしないの?」と聞くと、娘は「しない!」と言います。嫁さんは怒って「お手伝いしないとシール貼らないからね!」と言うと、娘は、それで良いと言います。そこで、私はシールを貼った紙を取り出し「マリちゃん!ここまでシールが全部貼ってあるよ」「全部、シールが貼ってあったら、気持ちいいよー・・・」「先生もお友達も、みんな凄いなーってきっと言うんじゃない?」「ほら、全部シールで一杯になったら、シールがいっぱいでピカピカ光って、良かったなーと思うんじゃない?」と言うと、むくむくと起き出し、「お手伝いやる!」と言いました。これは、ミルトン・エリクソンがよく利用した「asifフレーム」ですね。よく、プレゼンテーションで活用されていますが、イメージを拡大し、膨らませることで、感情を誘発し、その結果行動に結び付けることが可能です。刺激 → 反応 → 結果言葉 → 情動 → 行動言葉の使い方は、人の心を動かし、行動に結び付けます。以前、小泉劇場と揶揄された小泉純一郎が、この手の演説に長けていました。聞く者を魅了する話術は、実は、心理的な法則に従っているものなのです。自分のスタイルで、相手を魅了することができれば、貴方の願望も自ずと叶う様な気がしませんか?人は、常に幻想(空)の中に座している。であれば、自分自身で幻想を作り上げ、己を変える切っ掛けを作る。それには、自分自身に対して、「asifフレーム」を利用し変化を感じてみては如何でしょうか?
2011年08月11日
今日まで、BSプレミアムで、「空海 至宝と人生」が放送されました。直ぐに再放送があるでしょうから、興味があればご覧ください。第二話は、空海の筆さばきから、空海その人を感じ取ります。相手と同じ言葉、息遣い、仕草を真似ることで、相手の心を読み取る読心術が武術に存在します。芸の道にも、師匠を真似ることで、師の心を読み取り、言葉で現されない芸の極意を学びます。催眠のペーシングは、相手の仕草に同調し、信頼関係を短時間で作り上げることを目的にしますが、信頼関係とは、相手が素になり、心を開くことでもあります。武道では、相手に合わせ、そして、相手を意のままに同調させ、引き込むものもありますが、同等の相手では、非同調から、技を繰り出し必殺とします。空海が残した書から、空海の意識を読み取る。故人の絵画、動画からその人を感じ取り自分のモノにすることは可能です。全ては、自分の中に存在する所以です。第一話は、「仏像革命」でした。怒りの表情を持つ仏像。人の本質は、慈悲のみではなく、阿修羅の如き、怒りがあり、喜怒哀楽こそが仏性であると説きます。誰にも仏性が備わり、それを知らずに人はこの世を去ります。己の想いを全て自分であると認め、中道に目覚めたとき、己の仏性と出会い、その能力が開花するということです。見えないものを見える形で残したい。それが、密教の表現だとすれば、見えないものとは何かを追求しなければ、形から理解するのは、曲解を招くかもしれません。外に見るのではなく、今あるそのままの自分自身を知ることで、同じ道を歩むことができます。
2011年08月09日
前回は、イメージ療法について書きました。イメージ療法は、自己啓発系ではイメージトレーニングになり、自己暗示ではイメージと抱き合わせることで、願望実現を早めるなど、様々なカウンセリングで活用されています。私はコツが解るまで、イメージ療法に効果がなかったと書きました。その意味は、深い意識にそのメッセージが伝わらなければ、何の効果も無いばかりか、逆効果になる可能性があります。深い意識とは、大きく分けると顕在意識、無意識、潜在意識の3つの中の潜在意識に当たります。潜在意識からのメッセージを「暗黙知」と表現する人もいます。暗黙知は、身体を癒すのみならず、多くの科学的大発見やアイディア、身体的変容に役立っています。例えば、遺伝子学で有名なメンデレーエフは、元素の周期律を3日間徹夜で考えましたが、夢の中で元素があるべき位置に配置されている表を見て、それをそのまま活用することで、周期律の表を完成させました。ドイツの科学者ケクレは、夢の中で蛇が曲がりくねり始め、自分の尾に噛み付く様子を見て、ベンゼン環の表記を思いつきました。そして、フランスの数学者ポアンカレは、ある微分方程式が解けず、眠ってしまったところ自分が学生に講義をしている夢の中で、それを解いている夢を見て、起き上がったときにそのまま、解答を紙に書き写したそうです。音楽の分野では、イタリアのタルティーニが「悪魔のトリル」というソナタを作曲した逸話を残しています。タルティーニが、長年どうしても作曲できなかったソナタを夢の中の悪魔がバイオリンで弾いたものをそのまま書き写したと言われています。何れも「暗黙知」が発動した結果、一夜にして結果を導き出した例です。願望を引き寄せたければ、「願いがかなったように振舞え」と言います。また、「願いをイメージし、直ぐに忘れなさい(手放しなさい)」とも言います。「願いがかなったように振舞え」=「既に当たり前の如く振舞う」=「出来て当然」こんな方程式を思うとき、子供の頃、竹馬に乗れるように練習した時を思い出します。竹馬に乗れないときは、「竹馬に乗りたい」という願望でしたが、ひと度乗れるようになると、「出来て当然」となり、竹馬に乗りたかったという思いは忘れてしまいます。何れにしても、意識の深い部分にある「潜在力」や「暗黙知」をどのようにして発動させるか?がポイントです。暗示であるアファメーションも単に、肯定的な文章にしたり、何度も唱えるという単純な方法では、時にはネガティブな結果を導いたり、不必要に時間を要します。「神」や「他人」によって、「潜在力」や「暗黙知」の発動を叶える人がいます。それは、時に「奇跡」と呼ばれ、崇められます。しかし、外側にそのトリガーである条件付けを見出すことには疑問を感じます。私は、自分自身に合った遣り方を探し、「潜在力」や「暗黙知」の発動を意識的に行えるように学習し、修練することに価値を見出します。何故なら、全ては、「自分の中に全てが備わっている」と考えるからです。外界に対して、原因を求めるのではなく、全てを内なる自分の中に求めます。「他人軸」を止め、常に「自分軸」とすることで、自らの潜在力を手に入れる準備が出来るからです。
2011年07月31日
3週間前に治療した奧歯の痛みが収まらなく、5日前にふと、セルフ・セラピーで解消してみようと思いました。(治療した後、痛みが収まらない場合は、条件付けされた痛みである場合が多い。)歯の痛みの場合、集中すると、体感覚が解りにくいので、痛みそのものをターゲットにやってみることにしました。痛みを増幅し集中します。その後、水平変換で、具体的なイメージに変換します。痛みのイメージに対応可能なイメージを探します。痛みのイメージは、鋭い針が骨を突き刺すというもの。それに対抗できるイメージを探します。何巡目かで、ゴムの板を差し込むイメージをしたときに、急に痛みが引き始めました。その次の日に、ゴム板と共に、グリーンのジェル状の液体を流し込む処置を加えると、痛みは半分に減りました。3日目は、針の先を丸くする処理を加えたところ、痛みはほぼ解消しました。4日目には、痛みに対する感情の処理を行い終了です。既に痛みはないのですが、若干違和感があるので、5日目は、総合的なチェックと再度セラピーを繰り返そうと思っています。案外単純なように思えるかも知れませんが、過去、コツを掴むまで、なんの効き目もありませんでした。自分で、試行錯誤しながら、モノにしてしまえば後は応用するだけです。モノにするまで、疑心暗鬼になったり、諦めてしまう人もいるでしょう。例えるなら、泳ぎを覚えるといくらでも泳げますが、泳げないうちは、どうやれば良いのか四苦ハ苦するような感じです。シンプルに見えるものでも、やってみると意外と難しい。皆さんも是非チャレンジして見てください。
2011年07月12日
私は、多くの矛盾を抱えながら生きてきました。「どうしたら、お父さん、お母さんが喜んでくれるのだろう」「どうしたら、大人から怒られなくて済むのだろう」「どうしたら、嫌われないですむのだろう」自分の湧き上がるような意志で考えた時、または、親の期待に応える方法を上手く身につけ、自分が望んで、行動するときは大きな成果を上げました。しかし、周囲の目を気にし(恐怖、不安)、やりたくない(逃げ出したい)という想いを押し殺すしか術が見つからなかったとき、我慢しながら遣り通すという道を選んできました。交流分析で言うなら、私がチャイルドで、相手がペアレントの時に、この信じ込みが出現しました。平常時には、隠れていた人格が表出する訳です。「あるがままに生きる!」どんな環境でも、どんな人の前でも、そのままあるがままの意識でいること。決して、人前で失礼な振る舞いや礼儀をわきまえないということではありません。人前でどんな演技をしようとも、心の中は普段と変わらない状態であるということです。自分が何者であるかを知るには、この中道である意識状態を目指す必要があります。あらゆる賢者が、中道、中庸を重んじるには、それなりの理由があります。己を見極めることつまり「海の悟り」です。トマトが、自分で勘違いをしリンゴの木を目指し、美味しいリンゴを実らせようと努力するのではなく、己がトマトであったことを知るのが「海の悟り」です。トマトは、季節を選び、適度な栄養を与えれば、なんの苦労も努力もなく、実をつけることでしょう。此処までが、「海の悟り」です。「空の悟り」は、トマトがより能力を発揮する条件や環境を整え、多くの人が喜ぶ美味しい実を沢山実らせる術を学び実践することです。「あるがまま」で、豊かになる方法は存在します。ダイヤやサファイアも磨かなければ、価値はそれなりですが、確りと磨き、輝きが増すカットを加えれば、価値は数倍に膨れ上がります。あのドラッカーでさえ、「成功したければ自分が好き(得意)なことをやれ」と言っています。※単なる好き、嫌いではなく、どんな分野でも自分なりの視点や得意な方法を見出す(イノベーション)ことが可能であるという意味で捉えます。あるがままという生き方が、何もすることなく、ただ漠然と人生を送ることだとすれば、単に我執という煩悩を捨てた状態であり、または、世を捨て、世間から隔絶し逃げの人生を送るようなものです。そこに、「よりよく生きる」という考えはありません。私達人間は、地球の進化を生き抜いてきた動物です。どんな環境(問題)にも対応し、生き延びてきました。我々のDNAには、困難や環境に対応できる能力を発動する力が組み込まれており、自然に適応しながら、新たな能力を開花させ「よりよく生きてきた」歴史が存在します。様々な賢者達は、その力を「神」または「仏性」と呼び、自らの内や空間から答えを導き出しました。「神」は、私達自身の中に存在し、その力は眠っています。自らがそのポテンシャルに気づき、見出そうとしない限り、大きな力を呼び覚ますことはできません。そういう意味では、左脳の果たすべき役割は大きく、全ての脳がその得意とする能力を発揮するコーディネーターが左脳であると言えます。心理分野では、信じ込みを無くし、新たな信念に書き換えることを「修正」と呼びますが、最近は、この言葉がなじまなくなりました。前回のブログで書きましたが、そこにある不要な意識を取り除くことで、十分であることがその理由です。セドナ・メソッドのような「手放す」という感覚が近いでしょう。私達の意識の中には、既に役立つ信念が存在し、その意識は外界を通して、出会いを演出します。いわゆる「縁」です。その妨げとなるのが、我執であり煩悩です。人の為ではなく、自分の為に、生き始めたとき隠されていた「縁」が起こり人生が流れ始めます。その流れを作り出すのも、妨げるのも自分自身でしかありません。
2011年07月02日
先日、セルフセラピーで修正を行いました。「自分だけ・・・」というキーワードに違和感(不一致)を感じたからです。「自分だけ」という言葉を繰り返しながら、しばらく目を閉じていると、小学校6年生のときのイメージが浮かんできました。当時の担任の先生は、最も嫌いな先生だったのですが、事ある毎に私を名指して面白おかしくみんなの前でちゃかす先生でした。例えば、小学校2年の時(小学校1、2年も同じ先生だった)に、私は包丁で左手を切り、9針ほど縫ったのですが「左手にリンゴを乗せて、包丁で切れば、手が切れるのは当たり前だ!」と古い話を持ち出しては、幾度となく話をする先生でした。忘れていた光景ですが、目の前に浮かびはじめました。そのまま波動を味わいながら、過去の記憶を遡っていると、祖母の顔が浮かんできました。私の兄弟は、初孫である二つ違いの私の兄と私と六つ下の妹の3人でした。祖母は初孫である兄に対しては、大変な可愛がりようでした。また、自分の子供が全て男であったため、妹はへの対応もまた格別でした。祖母は、旅行が好きだったのですが、兄に対しては一泊、二泊は当たり前でも私の場合は日帰り時に連れて行く程度でした。私は、祖母のことが大好きだったので、なんだか寂しい想いがあったにも関わらず、口には出しませんでした。そんな記憶がふつふつと蘇り、次第に怒りがこみ上げてきました。その次には、「俺だけ我慢」というフレーズが浮かび上がりました。はじめに、引っかかっていた「自分だけ・・・」の次のキーワードは「我慢」でした。大好きな祖母を責めたり、怒ったり、文句を言うのは、ご法度であるという信じ込みで、抑圧したエネルギーが蓄積されたままになっていました。先ほどの先生についても、先生に何を言われても、我慢しなければならないという信じ込みがあった訳です。「自分だけ・・・」というキーワードを聞いたときに、その心理的なエネルギーが反応し、違和感を私に教えてくれたのですが、既に記憶は失われ、気分、感覚というエネルギーになっていました。この状態を再度イメージという記憶(右脳記憶)に戻し、キーワードという言葉(左脳記憶)まで戻したのが、このセルフセラピーの流れでした。「自分だけ我慢」というキーワードが分かってしまえば、その「怒り」のエネルギーを放出させます。おおよそ、10分~15分ぐらいだったでしょうか。(キーワードのみで解放が起こるときもあれば、数分で終了まで様々です。エネルギーの蓄積具合で状況は変わります。)さて、エネルギーの解放が一通り終わると、新たな記憶が蘇りったり、記憶の意味づけが異なってきます。小学校6年のときの担任に対しては、「そういえば、他の生徒も散々揚げ足を取られていたな・・・そういう先生だったんだ。」祖母に対しては、「好きな孫を自分のお金で連れて行くんだから、当たり前か・・・私もお気に入りの部下とお酒を呑みに行くし、今では同じことをしているし・・・」とこんな具合です。そして、「自分だけ・・・」「自分だけ我慢」というキーワードに対しての違和感は喪失します。(キーワードに付随する情動の変化ありなしで判断可能)ネガティブなエピソード記憶は、単なる記憶となり、歪曲化された記憶はニュートラル化し、意味記憶へと昇華します。抑圧したエネルギーを放出すると、体に変化が現れます。ネガティブな心理的エネルギーを溜め込むためには、筋肉を緊張させ溜め込む必要があります。こういった解放を行うと、体がスッキリします。つまるところ、ネガティブなエネルギーは、体に無用な緊張を生み(交感神経優位)、エネルギーを浪費させ、骨格の歪みに繋がり、疾病等の遠因になります。なんだか、何もやっていないのに、疲れるとか、眠った気がしない、以前に比べてやる気がでないなど、思い当たることがあれば要注意です。このような修正は、必ずしも記憶を蘇らせる必要はなく、抑圧したエネルギーをそのままターゲットにし、解放することで、同じ効果をもたらすことが可能です。(これは以前に書きました。)いろんな技法を試し、身につけたいという思いがあり様々な技法で解放しています。たまに上記のようなカウンセリングしていると、「新たな行動プログラム(新たな選択)が必要ではないでしょうか?」という質問を受けることがあります。そこそこの社会人経験があり、人付き合いをこなして来た人であれば、大人としての知識があり、問題ないことが殆どです。(引きこもり、他人との係わり合いが希薄な人など世間離れした人は難しいかも知れません。もし、上記以外で明確な答えが見つからない場合は、解放すべきエネルギーが残っている可能性があります。)エネルギーの解放を行わないで対応する場合、セラピーの中で、新たな選択を注入してやる必要がありますが、初めにエネルギーの解放を行えば脳が的確なプログラムを提供するのです。もっと簡単に言えば、エネルギーの解放と共に、インナーチャイルド、アダルトチルドレンは消滅します。私もそうでしたが、この辺の感覚は、読むだけ(知識)では理解できないかも知れません。その理由は、多くの心理セラピーは、大脳新皮質からのアプローチが多く、間脳や大脳辺縁系に直接働きかける手法が確立されていないためです。実は、驚くことに、宗教や武術など古典的な逸話や教義、儀式の中には、脳幹や大脳辺縁系を利用して修正する技があり、特に新皮質と辺縁系、脳幹を統合、調和する手法を提供していることが珍しくありません。東洋の教義は、政治と密接に関わっていた歴史があるためか、願望実現に通じる道も記されており、意識、心、医療のみならず、人の本質を養う技法が多いのです。密教、易など陰陽論は、願望成就などをモチーフにしています。ルック・イーストという感じでしょうか?そういった教義の中から面白そうなものを活用し始めています。目処が付けば、紹介したいと思います。
2011年06月25日
心理学や意識学などを実践されている方であれば、外界を通して、自分の意識が見えるということはお気づきだと思います。これをフロイトは、「心的現実」という言葉で表現しました。つまり、「客観的現実」ではないということです。NLPでは、「実際の領土(体験)と地図(解釈)は異なる」と表現しています。故に、 「自分の意識が外界に投影される」という表現を利用することも可能です。このような表現は、自分の意識の状態を把握するのに分かりやすく、掴みやすいのです。外界に対する印象を利用したセラピーは、形を変えワークショップ等にも広く活用されています。オーラソーマのように色の印象を利用するもの。寓話セラピーなど物語を利用するものや、形や絵など様々です。外界の印象こそ、そのときの自分の心中を表しています。それ故、それぞれのテクニックが有効になります。ワークショップのみならず、宗教的儀礼では天啓に用いられ、面白いところでは、インディアンのシャーマン達が、森の中で自らの啓示を知ることに利用しました。使い方によっては、現在の意識状態のみならず、深い意識に存在するメッセージを知る手がかりとして活用できます。 「疑問(問題)が出たとき既に答えを知っている」と言います。外界にその答えを見つけることが上手な人は、欲しいモノを素早く手に入れられるでしょう。「問題」と「答え」を結びつけるものは「行動」です。 刺激 → 反応 → 結果と同じです。反応が違えば、自ずと結果は異なります。逆に反応が同じであれば、結果も同じです。 1+2 → 3は、同じ反応を多くの人が行うから、結果が同じな訳です。しかし、感覚というセンサーからの印象は、人それぞれで同じではないようです。五感から入ってくる情報を自らの脳が編集し、人それぞれのカラフルな世界を作り上げます。 「似て非なるもの」が、目の前の現実(心的現実)というものです。感情を誘発するニュースや映画、ドラマは、この「似て非なるもの」を私たちに教えてくれます。 「人は観たい様に見て、聴きたいように聞いている」 「そして、感じる」映像情報は、視覚と聴覚の二感ですが、ブログや新聞(写真は別)などは一感です。情報量は、一感より二感の方が多く、誤解も少なくなりますが、そこに書き手の意図が巧みに盛り込まれているとすれば、誤解も大きくなります。同じようなものを五感でフルに感じていても、人それぞれ印象が異なる上に、他の意図が介在すれば、本当の現実を知ることは出来ないでしょう。(故に、本当の現実は、知る由もなく、自分が作り出した世界であるという「空」の思想に繋がります。)確か、養老先生が書かれた「バカの壁」に、「NHKが、公平、中立な報道」と謳っていることもバカの壁の一つとして取り上げていた記憶があります。そもそも、そんなことを出来るはずがないという訳です。ただ、新聞社や報道機関が、「嘘も入っています」とは言えないでしょう。私達の周りには、そういった 「人による意図」が着色されていることを前提としなければなりません。特に、重要なことを判断する時には、感情に流されているようでは自分が欲しいものを手に入れることは難しくなります。まして、 「人の意図+自分の解釈」となると、相手の癖や長い間、共に切磋琢磨し、「ツーカーの仲」でなければ、人の意図を容易に汲み取ることはできないでしょう。(読心術、相を見るテクニックや心理分析を身に着ければ別ですが)現実を「データ」というグラフや数字で表わす目的は、効率だけではなく、無用な意図を排除するという目的があります。企業の経営者が「数字」など人の意図が介在しにくい客観的なデータという形で、現実を見ようとするのは、当然の成り行きです。政治の世界では、それを悪用し、有識者が作成したという幻想を散りばめながら意図的なデータを作り上げ、作為的に事実無根の根拠を作り出す政治家や官僚が後を絶ちません。ところが、人ぞれぞれであるはずの印象という癖が、1+2 → 3のように同じ感覚を生む場合があります。 同時に強烈な危機意識を感じたとき 団結して同じ目標をクリアしたとき スポーツ観戦など劇的な結果を共有したとき 音楽の演奏者が一体となったとき魂の中に刻まれている共通の感覚で体験したときは、自我の入る余地はありません。情動ではなく、感覚で捉えている印象は、受けての不要な錯覚を排除します。これは、人が本来持つ(後天的ではなく先天的)優位感覚が進化の過程で構築された順序と関係があるのかも知れません。先日書いたNLPなどコミュニケーションを中心とした心理療法がビジネスの現場で利用されているのは、アメリカという多民族国家であるがゆえに、発展したように感じます。クリントンをはじめ、その後の歴代の大統領やビジネスリーダー達が、共通した文化を利用しながらも、人固有の印象学を利用し、聴衆のモチベーションをアップするという演説は、観る者を魅了します。オバマ大統領の就任演説を聴いたとき、困難に立ち向かう過去の成功事例などを活用し、脳裏に浮かびやすいものを散りばめていたのが印象的でした。私達は、観たい様に見て、聴きたいように聞いているのですが、深い意識の底には求めてやまないものがあるようです。それを見つけ出すには、過去の感情的記憶のバイアスを取り除く必要があります。
2011年06月14日
セラピーでは、自分自身に信じ込みがあり、そのビリーフ(信念)がある以上、自己分析を行ってもカウンセリングにならないという論者がいます。なるほど、説得力のある話です。ある程度、博識があり、地位ある論者がこのような話をするとセルフセラピーなどありえないという風に思うでしょう。鵜呑みにすれば、それでThe end!です。様々な覚者は、辻説法の末、大悟している訳ではありません。エイモス・トラベルスキーは、次の様な問題を提起しました。「バットとボールは、合計で110円。バットはボールより、100円高い。ボールは幾ら?」多くの人は、10円と答えるでしょうが、正解は、バットが105円。ボールが5円。紙面で方程式を用いるとX+Y=110X-100=Yこれを解けば、簡単に正解を導き出せますが、私達は見えない信じ込みにより10円と答えてしまいます。これが、人が騙される所以です。尤もらしい、理論も紙に書いて、精査したとき「??」という疑問が出てきますが、自分自身は客観的に見ているつもりでも、錯覚の中では正しい判断は望めません。宗教の多くは、このような人間特有の錯覚を駆使していることが多く、いくら高学歴であろうとも錯覚の中では無力です。。客観的な視点、つまり、紙で書く、多くの意見を聞く、または、様々な知識を多様な角度で取り入れることで、錯覚を排除する必要があります。「清濁併せ呑む。」これも客観的な視点で、全てを見渡す力を私達に教えてくれます。私達は、常に錯覚に捉われる生き物であり、それを排除することが重要であると知れば、自ずと正しい道を模索できます。私という掛け替えの無いこの瞬間を生きる魂を大切にするには、意識の怠慢を捨て、客観的な視点を構築する必要があります。人の意見もそれは、その人の信念によって構築されています。自分を信じ、可能性を信じることで、例え尤もらしい話でも他人の信念を打ち破ることは可能です。
2011年06月07日
「王子さまになったカエル」は、1991年に日本語訳が発売され、米国では1979年に発売された初期NLPの概要を纏めたリチャード・バンドラーの作品です。日本で今やNLPは市民権を得て、多くのセミナーが開催されているようです。現在のNLPではタイムラインをはじめ観念運動信号など様々な心理手法を取り入れ初期のものとは随分異なるようです。40年近く経てば、もっともなことです。人間のパターンをモデリングしたNLPは、論理的で分かりやすく、誰にでもとっつきやすいため、多くの指示を集めるのも納得できます。「王子さまになったカエル」でバンドラーは、心理手法が誰にでも通用する訳ではないと記述しています。その為か、NLP自体も流派が混在し、NLPのセミナーのみならず、他の心理療法を別立てで開催するなど特徴を出しているようです。NLPについて天才達とか万能をうたうセミナーも多く存在しますが、それならば、NLP一本で対応できるはずであり、多くの流派も存在することは無いでしょう。私が受けたY先生のセミナーは、半分位NLPのトレナーコースを卒業した方がいますが、アバターコース修了者など、セミナー不完全燃焼者の集まりです。NLPを批判するつもりで書いている訳ではありません。私は、NLPの本を多く読み、参考にしています。実際NLPは役に立ちますし、心理手法を整理するのにはとても重宝しています。その手法をアレンジしてセルフ・セラピーに役立てています。セミナーも出会いであり、自分に完全に合うものを見つけられる人も居れば、物足りなさや結果を出せなく所謂、セミナー難民のように受けまくる人も居ます。自分の欲望や問題の大きさ、また深刻さによって、セミナーに対する満足度も異なるでしょう。心理セミナーの多くは、欧米から入ってきたものが多くありますが、アバターの前進と言われるダイア・ネティックスなどは、東洋の宗教やその手法のエッセンスに大きく影響を受けています。東洋にも気(意識)を活用した武術や武道、その教えが存在します。例えば導引術は、西洋のイメージ・セラピーと身体感覚を上手く活用したセラピーの様であり、即効的な結果も導きやすく侮れません。東洋も西洋も目指しているものは同じで、直ぐなのか、あの世なのか、来世なのか、それぞれですが不都合な状態や状況を変えるということだと認識しています。かつての私の師は、「朝夕、平凡であることを満足できればよい」と言っていました。一見、尤もらしい話ですが、そこには、「より良く生きる」という思想はありません。十人居れば、十人の悟りがあると私は信じています。師のいうような悟りで満足しているのであればそれを尊重します。夜空の星がどれ一つ同じものが無いように、私達にとって「より良く生きる」とは、それぞれの「自分らしさ」という輝きを放つことだと考えています。他の人の輝きを真似できないように、唯一無二のその人らしい輝きを認める。例え多くのセミナーが存在しても、「自分らしい」解釈、即ち自分が満足する結果を導くことが重要です。「自分らしさ」は、誰が教えてくれるものでもなく、自分自身で掴み取るしかありません。セミナーで納得できないこと(不一致感覚)があれば、「自分ならどうする?」という思考を大切にします。自分のやり方、自分に合う手法は、誰にも真似することは出来ません。故に、自分自身のマスターは自分でしかありえません。同じ人生を歩んできている人は居ないのですから、自分と隣の人が異なるのは当然です。人の考え方を真似て学ぶことから、一歩進んで、自分独自の色に染めます。「より良く生きる」とは「自分らしさ」から外れることはありません。自分にもっとも合うカウンセリング手法を見つけるとそれは最高のパートナーになります。
2011年06月05日
世の中には、いろんな人がいるもので、動物と話ができる獣医が居るようです。真偽の程は定かではありませんが、どんな言葉で話をしているのでしょうか?「わんわん!わぉー・・・。」とか??それとも目をパチパチと動かしアイ・コンタクトでも行うのでしょうか?例えば犬と話ができる人がいるとすれば、「話ができる」というのは比喩であり、何らかの方法で、コミュニケーションができるのだと推測しています。私達の脳の中には、動物と同じ部位が存在していることはご存知でしょうか?大脳辺縁系は別名、哺乳類脳と呼ばれ、脳幹は別名、爬虫類脳と呼ばれています。そして、私達が人間らしい振る舞いを果たすための脳として大脳新皮質が存在します。大脳新皮質は別名人間脳と呼びます。(新皮質は人間のみにあるのではありません)爬虫類脳、哺乳類脳は進化の過程で脳という機能もまた新たな機能を拡張して来た証とも言えます。「自分とは何者だ」という問いには、この脳の機能を理解しなくてはなりません。言語、イメージによる思考は、人間脳の役割です。哺乳類脳は、気分など情動の思考を担当します。爬虫類脳は、生命維持的な思考、つまり生きる為の思考を担います。まずは、大まかに脳を3つの役割に分割します。脳について異論はあるかも知れません。専門家からみれば、無責任な内容かもしれませんが、このように分類するのは、自分の思考を整理するために、理解し易いからです。頭で話せば、頭に入る。気持ちで話せば、胸に入る。気力で話せば、腹に入る。論理的思考 ⇔ 上丹田情動的思考 ⇔ 中丹田生命的思考 ⇔ 下丹田私達が、犬とコミュニケーションをとる時、どのように行うでしょうか?「お座り!」「お手!」このような簡単な言葉を犬は理解しますが、人間のような話は不可能です。スキンシップを行ったり、目でアイコンタクトを行う。犬の方では、シッポを振ったり、お腹を見せたり、吼えたり、鳴き声、また、舌を出すことで、相手に自分の状態を教えようとします。トカゲや蛇は、このような態度で接することはできませんが、撫でてやったり、居心地の良い環境を提供してやると、気持ち良さそうにしているのが分かります。このような話をするのは、脳は一つのように見えて、それぞれ役割が異なり、コミュニケーションの方法が異なることを示すためです。いくら論理的に自分に言い聞かせても、体は言うことを聞きません。病気を例に取り上げると、言葉ではない症状という形で、私達に何かを伝えようとしている(ある種の表現方法)と考えると、どうでしょうか?哺乳類脳(情動脳)は何を言いたいのでしょうか?アメリカのスターリン・コーエン博士は、「体の痛み(疾患)の役割は、隠されていた感情を表現することではなく、その感情が意識に浮上してくることを防ぐことではないか。」と論じています。感情の抑圧は、身体の症状に現れることがありうるということです。抑えられない感情は、態度に表れます。抑えられる微細な感情は、気が付きにくいものです。我々人間は、進化の過程で様々な能力を身に着けてきました。多くの生き物の遺伝子が私達の中にも利用されています。自分を知り、自分と対話をするということを考えるためには、自分自身のコミュニケーション方法を理解する必要があります。心理療法、宗教的儀式、自己啓発など様々なやり方で、脳の各部分にアプローチする手法が取り入れられていますが、如何せん論理的に本質を話してくれるところはなく、また大雑把な例え、またはアイディア(結果が伴わない)として表現されています。本質を理解する。ここでいう本質とは、自分にとって、メリットの大きい考え方です。自分自身にとって最大級のメリットをもたらす考え方、つまりメリットのある結果を導き出す手法こそが重要です。直感、運、偶然、神など説明しにくい現象の本質を理解し、最大級のメリットを導き出す方法が分かれば、多くの問題に対処できるでしょう。自分が自分を一番よく知っていると思うのは錯覚かも知れません。「何も知らないとすれば?」と思うことで、謎解きが始まります。
2011年05月22日
図書館で、某有名セラピストの本が目に留まりました。「心のブレーキの外し方」というタイトルで、何千人ものセラピーをこなしたという方で、その筋では有名人のようです。書いてある内容は、やる気がでない場合、何でも簡単なことから始め小さな成功体験を積み上げることで、加速を付け、最終的には、目標を達成するというものです。何でも、「現状維持メカニズム」というものが人間には存在し、それが心のブレーキの正体だそうです。この現状維持メカニズムを無理なく変えて行く方法が、小さな成功体験を積み上げることだとか。脳のメカニズムを書いた本には、小さな成功体験を積み上げて、脳内ホルモンを活性化し、「やる気」を感化する話はよく書かれているため、そういうことを書きたかったのかも知れません。唯、脳科学者が書くのであれば、「なるほど!」と思うのですが、セラピストが書いたということであれば、「??」というのが、率直な感想でした。やる気が出ないとすれば、確かに心理的なブレーキ(ブロック)があるのですが、セラピストであれば、このブロックに焦点を当てて、処方するのがスジではないかと思ったわけです。自己啓発的な「やる気!」「元気!」「達成する!」というような方法を否定しているのではなく、これが心理セラピーなのだろうかとう疑問です。心理セラピーの部分が抜け落ち、自己啓発にいきなり走っている様な内容でした。(若しかするとこの人は、心理セラピストではなく、自己啓発家になったのかも??)まず、小さな成功体験を積み上げることについて、私は異論はありません。その前に、すべきことがあると思うのです。それは、「やる気がでない!」つまり、「やりたくない!」ということをまず、自分自身が認めるべきではないでしょうか?もし、このブログを読んでいる方で、同じような想いがあるのであれば、まず自分の中の「やりたくない!」ということを率直に認め、今、取り掛かろうとしている目標をイメージしながら、「やりたくない!」と心の底から、声を出して言ってみて欲しいと思います。もし、声に出すことにためらいがあるのであれば、心の中で「やりたくない!」と何度も言って見てください。(ポイントは、心から素直になってネガティブな想いを認めることです。)ふつふつと怒り(感情)が増してくるかも知れませんし、気持ちが悪くなる人もいると思いますが、そのまま続けます。(けっしてこの感覚から逃げないこと!!)きっと、自分の体に変化を感じることでしょう。(体に意識を向けてください)今までとは異なる感覚が目覚めるのを意識してみてください。ブレーキ(ブロック)があるのであれば、それは自分の中の声なのです。まず、それを認識し、受け止めることから始めます。偽りは「毒」です。自分を欺けるはずはありません。私もそうでしたが、自分が自分を騙しているという感覚を見失っているとき、この発想ができませんでした。まず、ブロックを受け容れます。その感覚を増幅(強く大げさに感じる)し、徹底的に感じ尽くします。(これは一例でPOPの方法です。別の修正方もありますが錯綜するため割愛します。)その感覚を認めていく内に、すっきりする人も居れば、過去に帰り、その感覚を覚えた時の情景が浮かぶ人がいるかも知れません。または、気になる人やモノがイメージに中で見えてくるかも知れません。徹底的に感じつくせば、エネルギーは浄化し、まったくやる気がでなかった事でも以前よりは、苦痛を感じなくなっていることでしょう。ネガティブな気持ち(ブロック)を受け容れることとは、こういうことです。(一度ならず、ブロックが残っているのであれば時間を置いて何度でも繰り返します。)幾らアファメーションをやっても、ブロックを受け容れないで対処してもネガティブなエネルギーを増幅し、やがて破綻します。人から与えられた目標は、「しんどい」「やりたくない」と思えるのは当然です。その当然を認めることから始めることで、ちょっとしたパラダイムが生まれるかも知れません。自分の深い意識をケアできるのは、自分しか居ません。これは序の口です。どうぞ、自らの心の声を聴いてあげてください。それが出来るのは、あなただけです。
2011年05月14日
思考が現実化する!この思考とは何でしょうか?この定義が曖昧なままだと混乱を招くことになります。この点を明確にしているものは多くありません。一般の方が考えるように、多くは左脳的思考を思考と扱っています。ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という本の内容も同様です。私が考える思考とは、計算し文章を書くなど論理的な思考のみならず、イメージ、感覚、反応など人間が刺激を加えられたときに、それを処理(思考)し出力することです。先のブログに書いたように 刺激 → 反応 → 結果この反応こそ思考です。ですから、手をつねられたときの思考は、 「痛い」 「怒り」 「不快」 「反撃」 「言葉の表現」 「感情を声に出す」など、一連の反応を指します。意識的な思考や無意識のみならず人間本来の本能的、生理的反応を含め「思考」と定義します。私達は、「梅干」をイメージしただけで、唾が出ます。これも思考です。言葉で表せる思考ではなく、言葉にならない思考すべてを扱わなければ、多くの人は「思考が現実化する」とは思えません。「何となく嫌な感じがする・・・」こんなとき、あなたの脳はどこで思考しているのでしょうか?体が感じるこの感覚的な思考は、時に直感とも言われます。また、スピリチュアルな世界では、霊や邪気などとも表現されます。「嫌な感じ」をビジュアル化するのが得意であれば、それが「霊」や「悪魔」となって、見える人もいるかも知れません。この「嫌な感じ」や「相性が悪い」という場所、モノ、人、それぞれが自分に与える影響は大きいのです。相性が悪いモノを身近に置いておくだけで、視界に入らなくとも体は感じ、体が思考します。体はいつも気配を感じているのです。朝、部屋の空気を入れ替える。身の周りの掃除をきっちりと行う。これらは、道徳的な話ではなく、自分の意識に大きな影響を与えているということに気づく人は多くありません。日本電産の永守重信氏が、赤字の会社を黒字化させるコツは、整理整頓と掃除だと言います。私は、最近、改めて不要なものや捨てられなかったものを思い切って捨てました。モノに宿っている不要な過去を清算するためです。その昔、人は言葉を知りませんでした。そのため、様々な手段で、コミュニケーションを取っていました。私達にとってのコミュニケーションの方法は、言葉やおしゃべり、文字だけではありません。人間の脳が発達し、聴覚や視覚のコミュニケーション方法が主流となりました。しかし、感覚的なコミュニケーションが全く無くなった訳ではありません。あなたは、自分の体が思考した意味を理解できるでしょうか?思考の鍵と秘訣は、この辺りに隠されているようです。
2011年05月07日
過去に引きづられると、「いまここ!」を味わうことはできません。これが執着の正体です。執着を取り除くには、自分自身の意識の反応に気付き、感情を伴う意識を消し去る必要があります。雑念は過去の記憶です。雑念を見れば、自分の執着が見えます。過去に消化できなかった記憶が感情を伴い、私達の思考を汚染します。その為、今をありのままを観る事は難しくなります。過去の感情や記憶が、目の前の物事を歪め、錯覚を助長します。「何だか、苦手な人だな・・・。」「やってもどうせだめだろう、結果は見えているし・・・」「夢はどうせ夢でしかない・・・」自我の判断は、全て過去からやってきます。過去の記憶がよみがえったとき、私達は、過去へと意識をシフトします。その為、「いまここ」を味わうことは出来ません。目の前の出来事と過去の記憶が繋がったとき、私達は、過去に戻りそのときの感情を味わうのです。(ですから目の前の問題は過去の記憶を清算する絶好のチャンスです)何年も前の消化不良の記憶を何度でも味わい、自分の運命を作り上げて行きます。それも無意識に。輪廻とは、記憶の汎化(一般化)であり、錯覚と歪曲によって作り上げられていきます。記憶の汎化が出来事を均一に歪める相似形の正体です。人は、同じような体験(形、場所、人、時期が異なるだけ)つまり感情と感覚を繰り返します。そして、輪廻が作り上げられて行きます。人は、見たいように現実を観る!脳の回路を変えない限り、このパターンは永遠と続きます。誰一人、同じ脳の回路を持った人はいません。そして、その回路は自分で作り上げたものです。最終的には、自分でしか回路を修正することはできません。五感から入った情報を好きなように解釈し判断します。十人十色とは、私達が常に錯覚(思考のフィルター)で現実を捉えているという証明でもあります。錯覚、即ち「空」であり、錯覚により情動(喜怒哀楽)が生まれ「生」を実感します。故に、この世界は自分しか居ないとも言えます。しかし、他人が存在しないという話にはなりえません。「この世は自分しか居ない」と言うのは一つのものの見方であり表現です。自分とそれ以外という二元の世界がこの世界です。自分次第で現実を変えられます。理由は、現実と思っているモノは錯覚だからです。 刺激 → 反応 → 結果反応(錯覚の処理)を変えれば、結果は異なります。病気も同様です。私の花粉症は、反応を変えることで、結果を過去と異なるものに変えました。先日、TVで震災で避難している子供が食物アレルギーで食べ物を口にしないで触れただけでもアレルギー反応を起こすので母親が困っている場面が放映されていました。この子供はアレルギー食品に条件付けされているのです。パフログの犬と同様、見ただけで体が反応しアレルギーを引き起こします。このアレルギー反応を起こす条件付けを変えることができれば、アレルギーは改善することでしょう。無意識の無用となった条件付けというフィルターを一つ一つ変えていきます。無意識に存在するエネルギー化した意識を表層意識の智慧によって、修正変更して行きます。インターベンションとは、そういう方法です。
2011年05月02日
柳生新陰流の石舟斎が剣術の奥儀を教えるために禅を取り入れたという話は、先日書きました。この話がなければ、私はSATORIに気付くことはなかったかも知れません。頭では、「自分を生きる」、「本来の自分になる」ということは、事ある毎に解ったつもりでいましたが、知識にすぎなかったことを今ではつくづく感じます。本来の自分を探し、それを見つけ、生きれば良いという教科書通りの考えでした。何が本当の自分で本来の自分であるのか?その区別は、どのようにして見極めるのか?自我は巧妙です。悟りを得たいと思った人間には、「なんちゃってSATORI」を提供します。あたかも道が開けた様な錯覚を用意します。自我は自分の煩悩を満たすことが目的ですから、そんなことは朝飯前です。石舟斎は、剣の奥儀を体得する条件の一つは、「相手に隙を見せないこと」つまり、自分であり続けるということを教えたかったのです。隙を見せないとは、 気を取られない 弱気にならない 自分を見失わない 邪念が入らない 力まない 勝とうと思わない 気取らない 焦らない 中心がぶれない むやみに吠えない アドレナリンを出さない(笑)唯、自分であり続けることです。つまり、全部自分の意識次第で勝敗が決まるということです。(最近の脳科学では、数秒前に既に勝敗の行方は決しているとあります。思考の現象化です。)自分が自分で無くなった時、自分のエネルギーは、弱まり本来の潜在力は喪失します。合気の奥儀は、力で相手を倒しません。ですから、体力も腕力も必要ないのです。(厳密に言うと抗重力筋を使うので、意識して筋力を使う必要がない。)奥儀にのっとり技を掛けられるかというだけです。ですから、型を覚えそれを習得するのです。力で勝負(力む)しようとした時、相手に負けます。心が揺らいでいるときも同様です。悩みや気になることに惑わされていると技は掛りません。奥儀とはそれだけ繊細です。心を整えていなければ使えないのです。心が整ってこそ、真の強さがある。石舟斎は、それを禅に求めたのです。(周りがどんな状況であっても惑わされないという不動心を得る。体を鍛えるだけではなく、意識の訓練が必要だった。)表層意識では自分の嘘が見抜けません。去勢を張っても体は本物ではないことを知っています。そして、自分が本来思ってもいないことを一生懸命行動し、周りがいくら称賛してくれる事でも、そこに自分の心がなければ(喜びがなければ)、徳を積むことはできません。自分の心とは、先ほどの例でいうと意識の中の抗重力筋を使うということです。意識の中の抗重力筋とは、既に持っている深い意識の中の大望のことです。「徳」は運を呼び込みます。「運」を学習するとは、本来の自分になることであり「徳」を積むことです。難しく考える必要はありません。朝、朝日を浴びて、気持ちよさを味わう。「おはよう!」と気持ちの良い挨拶をする。(挨拶が重要ではなく、自分が気持ちよさを感じることがポイントです。)小さな幸せを「今ここ」で感じることが「徳」の達人です。自分が自分と一致し、「今ここ」に存在すればするほど「徳」が満ちてきます。偽善者になり、不平不満、後悔、罪悪感が溜まれば溜まるほど、「不徳」が積み上げられます。(不一致こそ「毒」)唯、生きる喜びを感じるために「行」を行う人もいます。なんだか、偉そうなことを書いてしまいました。なるべく解り易く無駄なことを書かないようにしましたが理解して頂けたでしょうか?解ってしまえば、とてもシンプルなのですが、ボタンを掛け間違えるとそのままです。自我は、偽善が大好きです。人の為と書いて「偽」となります。一時的な快楽は、自我を満たすだけであり、その奥には、トラウマや罪悪感など本来の自分ではないネガティブな意識がうごめいています。このドロドロとした観たくない意識と対峙し、それを消化することで、雑念や煩悩は消えていきます。自我は、意識という光を与えると消えていきます。なぜなら、実体の無いものだからです。ドロドロとした意識の正体こそ、「無明」であり清算していないネガティブな感情を伴う過去の記憶なのです。(強いポジティブ感の裏には強いネガティブ感が存在しますので、要注意です。)今や21世紀です。大昔のように、難行、苦行で煩悩を滅する必要はありません。様々なテクニックで、それを取り除くことができる時代です。私たちが一人一人、真なる自分の人生を歩めば、紛争や政治問題、病気、貧困などがなくなる世の中が到来するように感じます。そういう意味では、SATORIが必要な時がすぐそこまで来ているのだと想うのです。誰でも悟ることはできます。そして、その後は、誰でも無用な意識の垢(自我)を取り除き、真の幸せを掴める時が来ると信じています。唯、条件があるとすれば、それを自らが真摯に求める(唯、自分の為に)ということだと思います。知りたい!という純粋な好奇心があれば必ず悟れます。このブログに書いたことで、既に悟った人もいるのではないでしょうか?悟りの後は、自分の意識を磨いていくことです。自己実現という「行」をしながら、本来の自分自身になって行く!欲しいものを欲しいという想いの中に、自分が解決すべき「行」が潜んでいます。満たされながら、大悟していくという意識の進化こそ、深い意識が望んでいることなのです。自我こそ、進化のパートナーとも言えます。人って上手く出来ているんですね。凄すぎ!!(笑)自我から解脱し、堂々巡りの運命の輪から抜け出します。古い思考を捨てカルマを拭い去ります。最終的には、すべてに繋がれる意識となり、更なる世界が私たちを待っています。始まりもなければ終わりもない。螺旋階段のごとく、意識の進化が続きます。二元(物質の次元)の世界で一元(真我の次元)となる。一元と二元は表裏一体です。一元と二元を明確にすることで、パラダイムが大きく変わります。
2011年04月22日
悟ったという人は、自己申告ですから、今悟ったんだと言えば、誰でも悟ったことになります。多くの人が悟りの本を書き、悟ったと言います。どの人が悟り、どの人が悟っていないかという話は、価値観や評価の違いがあり、基準がないため、議論は不毛です。しかし、一度悟ってしまえば、誰が悟っているかは判断できます。「悟った!」と想ったその日、家に戻り、ラジニーシの本に目を通しました。今まで理解できなかった文脈が読み取れました。ずっとそこに書いてあったのに、私には見えませんでした。勿論彼と同じような洞察はありません。しかし、根底に流れる主旨は、同じものでした。私は、まだスタートラインに立ったばかりの小悟の段階です。自我を滅するまでに至っていません。唯、唯、本当の自分を生きる!自我と本当の自分を区別できればこの感覚を理解できます。通常自我というフィルターの中から世の中を見ているので、本当の自分(真我、神、仏、高次の自己とも言われます)に気がつきません。実は、多くの人は、自我が無くなり、真我が顔を出し同化している時を経験しています。しかし、その時の感覚を誰も教えてくれないので、解らないだけなのです。私たちの傍に常に真我は存在するのですが、自我により見えなくなるのです。本当の自分で居る時は疲れません。努力も頑張りも消えます。唯、心地よく生きているので、無用な力は必要ありません。唯、リラックスした時間が過ぎていくのみ。真我から(真我に意識を持っていく)自我が見えるようになると、自分の人生観が大きく変わります。自我を無くし、真我を大きくして行くことがこれからの作業です。釈迦は、私と異なり大悟しました。釈迦は悟ると共に真我になった人です。自我の中で生きるとは、映画のスクリーンを見て喜怒哀楽を味わっている様なものです。映画を観ている時、感情が動きます。泣いたり、喜んだり、怒ったり、失望したり、良かったと思えたり。しかし、映画館を出ると、いつもの自分に戻ります。人生も映画で観るスクリーンと同じなのです。自分の観念というスクリーンを通して、喜怒哀楽を味わっているに過ぎない。そういう意味で、映画と人生は同等とも言えます。喜怒哀楽は、二元の世界の産物であり、表裏一体です。しかし、真我の世界に二元はありません。一元の世界ですから、唯、心地よい世界が続くため、見返り、恨み、怒りとは無縁の世界です。真我は、頭で考えても発見することはできません。体験を通してのみ見つけ出すことが可能です。悟った人は、それぞれ自らの体験を通して説明します。二元の世界で一元(ワンネス)を味わう。それは、自分を生きている時にやって来ます。楽しく、踊っている時、楽しく、歌っている時、楽しく、仕事をしている時・・・。自分と意識が一体となった時、自分のために自分が踊る時、誰にも見返りや祝福を求めることはありません。故に、一元であり、真の瞑想状態となります。悟るために、激しい修行や戒律、ヨガ、経文、それらのすべては無用です。権威や外に悟りを求めても、いつまで経っても鬼ごっこが続くだけです。人の教えにすがっても、得るものはありません。心身一如。私の場合、悟りは、頭ではなく、体が教えてくれました。声なき声を聴く!誰でも、どんな人でも悟ることはできます。
2011年04月16日
前回のブログで書いたオマケとは、「悟り」のことです。合気の前に、柳生新陰流の柳生宗厳(石舟斎)が、新陰流の奥儀を弟子たちに伝えるために、禅を取り入れたという説明がありました。新陰流の奥儀を体得するには、「動じない心」つまり、心を奪われないという境地が必要だったのですが、それを剣の稽古で伝えることが難しかったというのがその理由だそうです。そして、「動じない心」をなんちゃって剣道で再現していた時に、突然「あぁ!」と腑に落ちたのです。なんとも言えない感覚と共にすべての辻褄が合った瞬間でした。師から、いくつかの質問を出され、それに答えると頷かれました。私は、「「手放す!」ことと「諦める」ことの違いが解りました!」と言いました。釈迦の言う「煩悩」や「執着」の意味が腑に落ちました。そして、「ずっと迷いと執着の中で生きて来たことをようやく知りました。」と付け加えました。「見えない者にあの月を説明しようと思っても伝えるのは難しいだろう・・・悟るとはそう言うことだ。」と言われました。愛とは、「なる」ことであり、「滅する」こと。つまり、私は偽善的に生きて来たことを知り、本当の自分を生きてこなかったということです。本物だと思っていたものが実は偽物で「偽物を生きて来た!自分が存在しなかった。」そう思ったのです。本当に偽善者だったのです。「そうか!そうだったんだ!!」と納得が行きました。私は、晴れてスタートラインに立ったと思いました。あれから3週間ほど経ちますが、今では「海の悟り」を得たのだと実感しています。スタートラインに立ったというのは、これから自らの執着と煩悩が引き起こす自我から自由になる作業が残っているということです。そして、同時に「空の悟り」(現象化論)に挑戦します。(海の悟りも空の悟りも私が勝手に考えていることです。)おおよその勘所は既に、頭の中にあります。後は、理論と裏付けを確認したいだけですが現在検証中です。中国禅六祖である慧能(えのう)は、文字も読めない身で僧になり、二六歳のある日、通りがかりの僧が、自分の知らないお経を読んでいるとき突然、悟ったそうです。慧能は、その後、「悟り」とは特別なものではないとし、王侯貴族のみならず、一般の民衆に広く禅の教えを広めました。「人は誰しも仏性を備えており、それに気付くか気付かないだけの違いである。貧富の差や能力は悟りと一切無関係である。」これは、慧能の言葉です。悟るのにお金は要らない。悟るのに袈裟や立派な建物も必要ない。悟ったからといって、何かが変わるわけではない。超能力や特別な力が備わる訳ではない。唯、唯、普通の時間が流れ、過ぎていくだけのことである。故に特別ではない。前後の違いは、「本当の自分の人生を生きる」というこを知ったということです。その深い意味がようやく解ったということです。悟れば突然、昏々と深い意識の底からなんとも言えない安心感が湧き上がってくるようになりました。体感覚でいうとへその下から伝わるように湧き上がってきます。意識が自分から離れた時は別ですが、ここ最近の変化は、中心軸がとても気になるようになりました。「ん~ん!」人間の凄さが解って来たこの頃です。
2011年04月10日
今年は、例年の8倍~10倍の花粉が飛散するという予報通り天気予報では花粉の飛散が非常に多いというニュースが流れています。私の花粉症との付き合いは20年弱です。1月下旬から2月に入る頃には、目の痒みと、鼻水が止まらず目薬とマスクは必需品でした。私の花粉症は、重度の花粉症で、乳酸菌のサプリメントで改善した嫁さんと同じような処方をしても全く効果がありませんでした。私が住んでいる場所は、都内に比べると、花粉の密度も高く、電車で家路に着くと家に近づくに連れ、目の痒みが始まり早くこのうっとおしい季節が早く終わることを祈っていました。今年も例年通り、2月上旬には花粉の症状が出始めました。以前、心理療法で花粉症が改善するという話を聞いていたため、噂を聞いては、試してみたのですが、効果が見られず諦めていたのですが、インターベンションという技法(自己セラピー)を使ってから連日改善が見られるようになりました。1週間は毎日行い、その後は、花粉に反応するときに合わせ、ワークを行っていると2週間後にはマスクなしで、たまにくしゃみが出る程度まで改善しました。そして、3週間後には、目薬が必要なくなるまでになったのです。花粉症は、過剰な免疫反応であり、心理療法系での説明は「敵ではないものまでも敵だという思い込みがあり過剰反応している」つまりどうでも良いことに過剰反応し深い部分で怒っているという訳です。(※この原因の解釈は、一例であり人によって様々です。)私が行ったインターベンションという技法は、インナーチャイルドワークの様に原因を突き止め、チャイルドを癒し修正する方法ではなく、花粉症という現象そのものをターゲットにし、自分自身の中に眠る花粉に対応可能な思考パターンを目覚めさせ(あるいは探し)、新たな思考経路を構築し、脳の回路を修正するという全く新しい手法です。上記の例を解り易く説明すると、「敵ではないものを敵だと思う」という思考パターンはそのままで、花粉に対する反応を別の思考パターンとリンクさせる(学習させる)ことで、症状を回避するということです。メリットは、自分が無意識に怒っていることさえ気づかない、微細な思考が作り出すエネルギーを捉える必要はなく、複雑な修正法に頼ることがないため、手法を習得すれば、一人で対応でき、他の症状などに応用が可能なことです。各種アレルギー症状の改善、腰痛、肩凝りなどに応用する方もいるようです。最近は、多くの修正法を身につけましたが、人によって相性があるようです。その理由ですが、個人的には、自分の人生経験を通して培ったトレジャーというべき強力でパワフルな思考パターンがどのように形成されてきたかによると考えています。私は、人間関係や仕事上の問題解決のみならず、花粉症の様な身体的問題の解決は、インターベンションの様な技法が理論通りに通用するのか?というエビデンスが必須と考えていました。過去、事業を失敗した時から慢性的な蕁麻疹が発症するようになっていました。冬場の寒いときには、ここ何年かは、毎年痒みに襲われることもありましたが、今年は、全く症状が出ませんでした。(これは、他の問題を修正していた時に同時に解決されたと推測)これが、偶然なのか、明確な切り分けがつかなかったため、花粉症は格好の材料でした。また、一見有効そうな手法も結果が出ないものには興味はなく、自分自身が身をもって体験することで確信できるという思いもありました。花粉症の対応は、他のアレルギー症状に比べ、心理的な影響が複雑に絡んでいることが多く私のように重症者は、何が何でも解決するという強い意思が必須でした。 病気は自分で作り出すのであれば、自分で治すことができる!これが真実であるなら、修正法は必ず存在する。病気に限らず、人間関係や仕事上のトラブルなど現象化論を構築する上で、一つハードルを越えた訳ですが、実は、思いもよらないオマケが付いてきました。それは、合気の稽古中に突然やってきたものでした。この件については、また何れ報告したいと思います。
2011年04月03日

アドラー心理学の野田俊作先生の本には、感情についてこのような記述がありました。(これは、以前ブログでご紹介した内容です。)【感情を処理する】(1)怒り 「今ここ」に関係した感情 「怒り」=「悲しみ」 同じ感情要素(2)不安 未来を考えたとき 「思考」と関係した感情(3)憂鬱 過去を考えたとき 「思考」と関係した感情上記(2)、(3)は「今ここ」を見れば解消できる。つまり熱中するものを見つける。 ⇒ 瞑想を利用する未来に関係する感情 不安、心配、恐怖現在に関係する感情 怒り、イライラ過去に関係する感情 ゆううつ、後悔、自責、罪悪感感情の仕組みについて書かれた本は、存在するかも知れませんが、私はこの内容で十分でした。感情は、意識の重みにより、如何様にも変化する!そして、一見複雑に見える感情も元は、単純なものからの派生である!赤ん坊の感情は単純です。「泣く」か「笑う」が基本です。つまり、「快」「不快」な訳です。人は、自分の記憶を基に様々な意味づけを行います。同じものを観ても、心地よく思う人がいれば、逆に、不快に思う人がいます。自分の感情による錯覚、錯視が、物事を忠実に捉える目を奪います。感情を単純に分析し、悪者にすることが主旨ではありません。感情の中に溶け込んでしまった古い記憶を導くために役立つからこそ、感情というエネルギーを理解する必要があります。この世は、「陰」と「陽」の派生である。つまり、「0」と「1」で表現が可能です。今やITそして、デジタルが生活の見えないところでは、当たり前のように活用されています。TVや音楽すべてが「0」と「1」の組み合わせ、つまり「陰」「陽」によって表現できるのです。全ての感情がこの陰陽によって表現できる!このような大枠の仕組みを自分の中に落とし込んでいくことで、考えをシンプルにし、視点を育んでいきました。最近、「海」の悟り、と、「空」の悟り、をしりました。「海」の悟りが、深く自分を見つめ、知ることであるならば、「空」の悟りは、自分に眠る力を目覚めさせ、より高い理想の自分を作り上げることです。この二つの悟りを成し遂げた人物こそ、「空海」その人だとか。密教では、人の欲望を積極的に肯定します。仏教でいう「割愛」とは、本来、「目標」である。欲そのものや目標に執着することではなく、目標持ち中道を進むことで、新たな道が開ける。何を言っているか分からないかも知れません。今日は、この中道、つまり「空」を体感してきました。中道を作れば、自ずと「空」となる!「空」になれば、自ずと中道となる!そして、全ての問題を解決へと導く!最早、実践あるのみです。□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年09月05日

現象化論に興味を持ち始めたのは、津留晃一氏の本に出会ってからでした。スピリチュアル系にやや偏った表現や曖昧さがあるものの、自分の想念(想い)が全てを創り上げていること、そして、全ては、自分自身の中に答えが存在し、自分の想念に変化をもたらすことで、目の前の現象を変える事ができるという彼の論法とその視点は、とても刺激的でした。彼に会おうとしても、既にこの世にはいなく、50代でこの世を去っていました。そして、彼の弟子も同様に亡くなっていました。津留氏のセラピーは、一言で言うと「浄化する!」です。否定的な想念が否定的な現実を呼び寄せ、現象化させるなら、その想念を手放すことで、外界に変化を呼び込むのです。独自のM2テクニックは、そんな発想から生まれました。今ある想念は、自分が持っている感情から推測できます。その想念を手放すことで、過去から連綿と続く否定的な現象を再生させないようにします。この方法は、目の前の問題は自分の中にある想念が、引き起こしているため、直面する問題を避けることなく対処することで、そのカルマを断ち切るという訳です。「感じ尽くす!」または、セドナメソッドに利用されている「手放す!」という方法と同じものです。以前、安藤理さんから八ヶ岳の自宅で、ソースを受講したとき、セドナメソッドの話を聞きました。(今、安藤さんの翻訳で、本が昨年リリースされたようです。)もう、数年前の話ですが、安藤さんは、このセドナメソッドで、随分自分の人生が好転したことを話していました。八ヶ岳に移り住むことを決めたときは、不安に思ったそうです。セドナメソッドの手放すワークを行いながら、その時感じた不安を消化していったとか。私の疑問は、津留晃一さんとその弟子の天地勇人さんが年齢的にも若くして、そして、同様に癌で亡くなったことでした。想念が現実化するなら、癌でさえ、想念の現実化に他なりません。私が考えた結論は、「想念を手放す」ワークは、それなりに効果があるが、それだけでは足りない!ということでした。その後、TAWを受講しましたが、前世療法など誘導催眠やインナーチャイルド療法を学ぶも、そこには、満足する答えはありませんでした。もちろん、前世療法など誘導催眠やインナーチャイルド療法を通じて、いくつかの問題を解決することは可能です。理論的には、新たな気づきを得て、弁証法的な解決方法で、ネガティブなマインドを統合することはできても、主催者のセラピスト自体が、ネガティブな想念を統合できないでいる現状を見れば、限界も自ずと見えてきます。その時私が選んだことは、今まで学んだものの原点を整理することでした。手始めに行ったのは、「感情」の正体を追求することでした。□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年08月01日

今日は、最近何冊か目を通したY先生(以前、ブログで紹介したY先生とはことなります。)にお会いしました。Y先生の特長は、なんと言っても、修正法の極意が満載なことです。セルフセラピーを意識してからは、その手の本を手にすることが多くなり、ハウツー本を濫読していました。「思考は現実化する!」現象化理論にとって、修正法こそがキモの部分です。優れた修正法を探求してこそ、理論に命が宿る訳です。優れているという意味は、シンプル且つ単純であり、効果の即効性です。絵に描いたモチは、焼いても食えません。Y先生の本を数冊読み、共感する箇所が余りに多いため、連絡を取りました。Y先生は、元ミュージシャンです。なんとも異色の経歴ですが、Y先生に相談に来る人は、ビジネスマンが多いそうです。それなりの地位を持っている方から、重要な責務についている管理職まで、様々だそうです。Y先生の守備範囲は広く、武道、心理学、禅や仏教、物理学、易、顔相、風水まで幅広く網羅しています。私も同じ部分に興味があったため、のっけから、話が盛り上がってしまいました。Y先生も私と同様、様々な宗教や学問の知識の中から、重要なことを引き出し、それを如何に活かすかがポイントであり、兎に角、本質を手繰り寄せれば、自ずと応用ができるというものでした。「現象化の本質」と「その修正法」。それを教わることにしました。「現象化の本質」については、おおよそ、ずれはないと感じているので、「修正法」のノウハウと経験的な知識を私は学ぶことにしました。すでに、催眠療法や多くの修正法が存在しますが、Y先生のものは独特です。個人的には、意識論を解明していけば行くほど、「今ここ!」にこそ鍵があり、全てが宿っていることに気がつきます。それが、病であっても、不都合な事実であっても、「今ここ!」にこそ、問題の行方や解決の糸口、全てが現れます。最近は、意識も表層と深層という単純な意識分けではなく、いくつものレイヤー(層)に分かれていることに気づき始めていました。(自分の意識を注意深く観る様にすると誰でもわかってくると思います。)そして、そのレイヤーに分かれた意識にそれぞれの目的が存在する!修正法とは、そのレイヤーに分かれている意識の扱い方とも言えます。現象化の修正法は、いくつか書籍などで、紹介されていますが、経験則からの話が多く、意識の階層にまで踏み込んでいるものは多くありません。そんな時、Y先生の本に出会いました。本を読んでいるときに、「この人は同じ考えを持っている」と思いました。私が自分とは何か?そして、何者か?という答えを自分の中に仕舞いこんでいましたが、Y先生と数分の会話で一致しました。修正法の極意!ご期待ください。□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年07月25日

最近、考えていたことは、サイコセラピーと自己啓発との違いです。 同じ様に人の意識や心の部分を扱います。 人の意識や心を扱うという捉え方から考えると、哲学や禅、宗教なども元は、同じものでもある訳です。 それぞれが、同じような部分をもっていますが、明確な違いは何だろうと考えていました。 ピタゴラスは、万物に存在する定理を探し出しますが、背景にあるものは宗教であり哲学です。 西洋は、自然をコントロールし、支配するという価値観が根底に存在します。 戦略、戦術という言葉が、欧米では当然のように出てきます。 調和というよりは、コントロールする。 コントロールと言えば、聞こえは悪いですが、原子力によって、潤沢な電力が賄えるのも、車に乗れるのもこのコントロールの力です。 コントロールすることで、メリットとデメリットが生まれます。 そういった価値観が、絶対的な神や超越した神のような存在を明確にしているようにも思えます。 私たち日本人は、絶対的な神というよりは、万物に神が宿るというように、生きとし生けるものには、生命という神が宿り、動かぬ石でさえ、ある時は神と呼び、万物に意味を見出そうとします。 このような文化は、西洋と東洋では、未だ感覚的に理解することは難しいようです。 欧米から入ってきた哲学や心理学は、日本人の感覚とは異なる文化より派生してきたと言えます。東洋と西洋。日本人の特筆すべき特長は、仏教や儒教など、東洋の思想も受け容れ、文明開化に象徴されるように、西洋の文化をも受け容れる力ではないでしょうか。良いものや役立つものを取り入れ、まずは、遣ってみる!そんなDNAが私達の中には存在します。話を元に戻します。サイコセラピーや自己啓発を追い求めていくと、同じ点に辿り着きます。そして、本質的な解決方法を持っているセラピスト達(講義の意味で)は、どんなものでも対応します。中国では、気功のある一面だけを取り上げるのではなく、本質について、研究した人たちは、結局のところ同じ点をいわんとします。ただし、その手法が異なるだけだと気がつきました。数ヶ月前までは、脳の3つのパーツについて、研究をしていました。脳幹(感覚)、大脳辺縁系(感情)、大脳新皮質(思考)。それでは、足りなく、4つのパーツに分けて初めて、説明が矛盾なく行えます。個人的には、最近、多くの事実が分かってきた小脳も区別する必要があるかもしれません。大脳新皮質の右脳と左脳を明確に分け、4つの脳の機能と関係性を見ることで、多くのセラピーや気功などのエクササイズが何をしようとしているかが理解できるようになります。脳の4つのパーツは、それぞれがセラピーの入り口として、機能させることが可能です。例えば、感覚、感情、イメージ、言語という4つから、適切な誘導を行う能力があるセラピストや師、カウンセラーであれば、問題解決の糸口を見つけることができます。ある気功の本では、「精、気、神」という言葉が、下丹田、中丹田、上丹田に対応します。それは、結局のところ、脳の仕組みを体の分布に置き換えたに過ぎません。ソリューションと言う問題解決の方法が、表層意識から入るのか、肉体という感覚から入るかの違いです。詳細な話をすれば、異論を唱える人も居るとは思いますが、単純明快にしていくことで、全体が理解しやすくなります。何れにしても、セラピーでいうブロックは、気功では邪気として扱われます。一部のセラピーでは、気功で用いる邪気を払う技術を利用しているものも存在します。インナーチャイルド療法は、何を示しているのか?そんなことも、本質を追い求めれば自ずと答えが見えてきます。以前、カール・ロジャーズの本を何冊か読んだとき、ロジャーズが晩年、トランスパーソナル心理学に理解を示すなど、単なる心理技法に収まるのではなく、自分の本質を求めていけば行くほど、新たな視点を持つに至ったことが伺えました。良いカウンセリングがあるとすれば、それは心理セラピーでもなく、自己啓発でもなく、今ある、自分の望みを叶えるものでは?と想い始めました。全てには、目的が存在する!たとえ病であろうと、その病の本当の声を捉えることができれば、解決方法は存在する!我々の思考は多元的です。思考とは?意識とは?1年前の私は、全てをひとくくりにしていました。私達は、如何に生き、何処へ行こうとしているのか?そんな目的も、思考と意識の仕組みから見出すことができます。□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年07月04日

有森裕子、高橋尚子など女子マラソンのメダリストを育成した小出義雄監督。 多くの女性アスリートを育てて来た手腕は、多くの人が注目しました。 小出監督の発想は、 『物事は「無理だ」って思っているうちは本当に無理。 よく、「できるかなあ、と思うことはできないよ」ってコーチに言うんだけど、「できるかなあ」ではダメなんです。 僕は、「どうすればできるか」「金メダルを取るにはどうすればいいか」を考えるんです。 すると「世界記録より速く走るには、1kmあたりこれだけ短縮すればいい」となるじゃないですか。 おのずと練習方法も見えてくるわけです。』 まさに目的論ですね! そこに、「頑張る」という論理はありません。 『選手を指導していく上で、何より一番大切で基礎となるのは信頼関係なんです。 有森(裕子選手)もQちゃんも強くなりたいと思って自分から僕のところへ来た。 でも、入って半年くらいは信用されてなかった(笑)。 半信半疑なんだよね。 だけど練習で「おまえはこれくらいの記録で走れるようになるぞ」って説明をしながら指導していると、そのうち僕の言ったとおりの記録が1秒も違わずに出るようになるんです。 すると選手たちは指導者としての僕を信用するし、自分はできると信じるようになる。 また、こうなりたいっていう目的意識を持つようになる。 こうなればもうしめたもので、後は僕の指導のとおりガンガン練習するようになります。』 監督業とはカウンセリング業と同じですね。 オリンピックという大舞台で金メダルを取るという「夢」も、自分が心から望む「夢」も、「どうすればできるか」から始まります。 誰もが例外なく、この一歩から踏み出すとすれば、目的意識とは、 「どうすればできるか!」 「そのために今、自分にできることは何か?」 ということではないでしょうか。 私たちは、自分が好きなものに対しては、瞬時にこの二つの動作を無意識に行ないます。 「夢」とは、未だ自分が手にしていないと考えているものの象徴です。 手に入れば、それは最早、「夢」ではありません。 夢が大きければ大きいほど、時間とエネルギーを必要とします。 時間とエネルギーを上手くマネージメントするには、多くの人の知恵や協力は必須です。 『もうひとつ大切なのは、指導者が本当に陸上競技が好きなんだということを選手に分からせること。 ご飯よりも、遊びよりも、ゴルフよりも、この人は本当に陸上が好きで、言われたとおり練習すれば結果がついてくるとなれば、もう選手は離れない。 会社でも同じでしょう。 上司が社員よりも早く来ていて、指示された通りに仕事すると結果がついてくる。 失敗した時もちゃんとフォローしてくれる。 そうすれば黙っていても社員は「あの上司はすげえな。 よし俺もがんばろう」ってなるじゃないですか。』 監督であろうが、アスリートであろうが、 「自分が好きなこと!」 に幸運のカギが隠されていることは、納得できるのではないでしょうか? 一流や二流という視点ではなく、「好き」であることが一流の条件と考えた方がすっきりします。 人から指摘されて初めて、好きだったものが分かる場合もあります。 苦にならないこと。 毎日続けられること。 気がつけば、気にしていること。 そんな中に、幸運のカギは潜んでいるかも知れません。 「自分が何をしたいか分からない!」 「欲しいモノが見つからない!」 「生きがいがない!」 そんな状況は単に、自分を見失っているからに過ぎません。 自分の心や意識の底で感じている何かを探すためのセンサーをもう一度使ってみるのです。 例えば、 一番食べたいものは何か?を考えてみる。 そして、じっくり、味わってみる。 子供の頃、楽しかったTVの主題歌や好きだった曲をじっくりと聞いてみる。 ぐっすりと眠りたいのであれば、マッサージを受けたり、お風呂に入り、リラックスできる環境にするために、香りや曲を用意し、体の隅々までじっくりと感じ尽くす。 五感と感情を繋ぎ合わせます。 心の内なる声に耳を傾けます。フォーカシングというセラピーでは、体で感じる部分を見つけ発見することで、自分を癒し、問題さえも解決します。自分が感じている意味ある感覚のことをフェルト・センスと呼びます。私が行っている自己セラピーには、このフェルト・センスと同様の仕組みが存在します。サイコセラピーのその先には、変性意識にシフトするとき、本当の自分が目覚めるという境地が例外なく、存在するようです。自分を知るということを、お金や時間を掛けて、カウンセリングによって目指すのは、特殊な環境を持つ人以外に難しいでしょう。著名な心理学者や哲学者、そして修行者などは、自分への探求に対しては貪欲であったように感じます。時間を掛けて、生み出されたノウハウや手法は、私達が短期間で、自分を探求する方法を教えてくれます。頂点を目指す方法は、多くの共通点が存在します。それらのエッセンスを掴み取れば、自分自身にも応用が可能です。□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年06月20日

前回は、マイケル・サンデル教授の「ハーバード大学 白熱教室」について書きました。私は、マイケル・サンデル教授が、講義の主題として掲げている「JUSTICE(正義・公正)」を見るとき、サンデル教授が如何に不公平さと戦ってきたかを彼の過去の人生に感じます。「自分についての物語」を知ることが最大の目的であれば、恐らく、幼少時に味わった公平と不公平というエッセンスが大きなエネルギーとなり、哲学という場を得ることで、今日の「JUSTICE」を生み出したと考えられます。もちろん理由などは、後付でしかありません。サンデル教授の活き活きとした授業を見れば、意識の奥底には、シンプルな人生のシナリオがあったに違いありません。同じように、公平と不公平というエッセンスを反社会活動に費やす人も居ます。公平・不公平を政治、労働組合、NPOに、活かす人もいるかも知れません。どれが良い人生であるかは、問題ではなく、仮に、良い人生かどうかを判断するとすれば、それは本人達の判断に委ねられます。公平・不公平という視点から正義を見れば、ヒーローものの善玉、悪玉とは随分異なります。先日の日曜日に放送された「ハーバード大学 白熱教室」には、目的論から見た正義について、触れていました。目的によって、正義が変わる!面白いですね!全ては、相対的であるというこの世の真理と一致します。話は変わります。昨日、久しぶりに同窓であるセラピストの方と食事をしました。いつも面白い話題を提供してくれる方です。私は、トマトの話をしました。(今、子供と軒先でトマトを育てています。)トマトは、条件が揃えば、勝手に大きくなります。もし、上手く育たないとすれば、それはトマトにとって良い環境ではないということです。トマトは人間のように、努力をしませんが、適した条件さえあれば、勝手にすくすくと育ち、沢山の実をつけます。私は、人は適した心(意識)の条件下になれば、その後は努力する必要もなく、みずからの潜在力で、勝手に幸せの道を歩むものだ考えています。トマトのように。もし、努力を必要としたり、頑張らなければならないと感じたり、上手く行かない人生だと感じるのであれば、自らの潜在力を妨げているものがあると考えるほうが自然です。逆の見方をすれば、上手く行かない人生を自らが選んでいるとも言えます。アンデルセンが書いた童話「みにくいアヒルの子」は、自分がアヒルだと思っていました。自分の周りは、みんなアヒルだからです。そして、苛められ、生きる希望がなくなったとき、殺して貰いたいという思いで、白鳥の群れに近づき、自分が白鳥であったことに気がつきます。(この物語は、アンデルセンの人生の投影のようです。)稲が育ちやすい環境で、トマトは育ちません。自分は何者か?それを知ることは、とても重要だということが解ります。私達の目の前の出来事から、自分の内なる意識のエッセンスを捉えることができます。この世に多様な人々が存在することによって、自分自身が意識できない潜在化された自分の本質を読み取ることが可能です。人は鏡であり、自分の心を映すという所以です。他人が存在しなければ、望むべき人生や望まない人生をさえも判断するのは難しいでしょう。自分は、キュウリだと思っていたけれど、実はトマトだった!こんな話を誰でも一度や二度は聞いたことがあるはずです。自分は何者?自分に問いかけてみましょう。------------------------------------------------ セミナーのご案内------------------------------------------------「潜在的な強みを見つけ、活かす方法」溝口和広 ×「セルフイメージを書き換える方法」佐藤英6月6日(日)13:30~横浜ワールドポーターズ6F料金:\10,000-申し込みはこちらから!------------------------------------------------未だ残席があるようです。初夏の自分探しに出かけませんか?□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年06月03日

今、日曜の夕方NHK教育TVで放送されている「ハーバード大学 白熱教室」をご存知でしょうか?現在のプログラムは、再放送で、今年の4月に放送し、教育番組では異例の視聴率を獲得した為、再放送が実現したそうです。私は、3週間前に偶然車の中で、放送の一部を見てからその後必ず見ています。内容は、政治哲学の講義です。そして、主題は、「JUSTICE(正義・公正)とは何か?」です。何だか難しそうに思うかも知れません。また、「正義」などというと、白けてしまいそうですが、善悪のような正義というより、「公平性とは?」という政治の大前提の要素が強いと考えた方が良いように思います。米国で行われるこのような授業を見ると、私達日本人の考える政治哲学とは隔たりがあるように感じます。JUSTICEは、自由と平等という命題をも同時に解決してくれます。講義を進めるマイケル・サンデル教授は、我々の身近な問題を例に取り上げ、哲学と実生活との距離を縮めることで、誰もが議論に溶け込み、自分自身の問題定義として哲学を論じていきます。心理的な側面からみても、大げさな問題を論じることは、自分の思考パターンを明確にし、そのパターンに変化をもたらすと言う意味では、セラピーと同様です。講義の内容が素晴らしく、ハーバード大学で最も人気のある講義としてTV放送されることになったのは、恐らく番組を見た方であれば、納得されることでしょう。「見ていない人はどうするのか・・・?!」大丈夫です!!You Tubeにアップされているので、是非見てください。 第1回 part1(犠牲となる命を選べるか) 「殺人に正義はあるか?」http://www.youtube.com/watch?v=VI44XfcN-ik&feature=related※part2、3で1講義です。マイケル・サンデル教授は、心理学にも通じる手法を講義の中に盛り込んでいます。例えば、ハーバードに進学する7~8割の生徒が長男、長女である点を参加した学生に挙手させることで、「努力とは何か?」を別の視点から考えさせるなど、参加者を引き込ませるテクニックに応用しています。※確か「、富は誰のものか?」に登場したと思います。そして、心理学の欠点と言える同様の問題点を哲学の欠点として明確に述べています。(※)第1回の講義のレクチャー(Part3)に登場します。哲学を学ぶリスクを2つ程、挙げています。その一つに個人的リスクを説明しています。『哲学は、私達が慣れ親しんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことで、喚起するのではなく、新しいモノの見方を喚起することによって変えてしまうのだ。しかし、ここにもリスクがある。慣れ親しんだモノが見慣れないモノに変わってしまえば、それは二度と同じものになりえない。自己認識とは、純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが、私達はみなそんな思いを経験し、探求し続けてきた。この試みを難しく、しかし面白くしているのは、道徳や政治哲学は物語であり、その物語が、何処に連れて行ってくれるのかは分からないが、それが自分についての物語であるかは分かっている。ということだ。これが個人的リスクだ。(中略)哲学と言うものは、人を社会から距離を置かせ衰弱させるような活動だからだ。(中略)ソクラテスの友人カリキュレスは、彼に哲学をしないように説得する。カリキュレスは、ソクラテスにこう言う。人生のしかるべき時期に節度をもって学ぶなら哲学はかわいいオモチャだ。しかし、節度を越えて哲学を追求するなら破滅する。私の助言を聞きなさい。カリキュレスは、こう続ける。議論を捨てよ。行動的な人生の成果を学べ。気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な、生活と評判と他の多くの恵みを持っている人を手本にせよ。(中略)哲学は、私達を常識や約束事、なんとなく「そうだ!」と信じていることに、疑いを抱かせる学問だ。(中略)そして、これらのリスクに直面したときに出される言い訳は、「懐疑主義」だ。(中略)これが懐疑主義の言い訳だ。これに対しては、私は次のように答えたい。確かに、これらの問題はなくならない。長年に渡って議論されてきた。それが繰り返され、議論されて続けてきた。という、まさに、その事実が、この問題は例え不可能であっても、議論を続けるのは避けられないということを示唆している。何故、避けられないかと言うと、私達は、毎日、これらの疑問に対して答えを出しながら生きているからだ!(中略)単に、懐疑主義に同意しても、理性の不安を克服することは決してできない。私は、対話や議論を通じて、ある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。この講義の目的は、理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いて行くのか見ることだ!と述べて締めくくりの言葉としたい。』熱い、熱い、情熱的な講義に感動です。「自分についての物語」スピリチュアルであれ、哲学であれ、心理学であれ、宗教であれ、純粋にそれらを探求したいという願いの中には、「自分を知りたい」という願望が込められていると思うのです。「私達は如何に生き、何処へ行こうとしているのか?辿り着けるかどうかは、問題ではなく、その想いがあるからこそ、それに向かっている。誰もが例外なく、日常的に!」というのが、サンデル教授の言いたかったことかも知れません。みなさんは、どんな風に感じましたか?□┓心理学と美容学サイトへGo! ┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━□┓ひでぞう「才塾」!┗■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━クリック!━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2010年05月29日
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