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★にわか四国遍路(13)に戻る四国遍路からすっかり遠ざかってしまい、東国暮らしが長い今日この頃。そういえば、2013年10月に大宝寺・岩屋寺へ行った事をすっかり記録し忘れていたので、思い出しながら過去の記憶を引き出して記録に残すとする。久万の遍路道<杉本智彦『カシミール3D GPS応用編』(実業之日本社、2011年)の地図より引用し加筆>2013年(平成二十五年)10月12日と13日に2日に渡り久万を訪れた。初日は黄色い道(久万→大宝寺→河合→八丁坂→岩屋寺)を母親と辿り、二日目は赤い道(二名→農祖峠→中野村→八丁坂→岩屋寺)の旧遍路道をIさんと辿った。なぜ2日間に渡って岩屋寺に行ったのかさっぱり覚えていないが、2日連続で岩屋寺を訪れるという機縁に恵まれた。【1日目】2013年(平成二十五年)10月12日★四国霊場第四十四番札所・菅生山大宝寺本堂(愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生)伊予鉄バスで三坂峠を越えて、久万営業所へ。大宝寺は久万の街中にある。大宝元年創建と伝わる事が寺名の由来であろう。大宝寺の裏手から山手の道を進み、峠御堂へ出る。↑峠御堂への登り道↑峠御堂トンネルの下に出る↑河合の集落河合には最盛期15件の遍路宿があったようで春の彼岸の頃は300人の宿泊があったようだ。遍路は河合に1泊し、荷物を置いて、岩屋寺に参拝した後、来た道を再び河合へ戻る「打ち戻り」を行ったそうである。↑河合からは県道12号線沿いを歩く↑途中から道を折れ八丁坂への山道へ↑八丁坂八丁坂は、河合からの道と槙ノ谷から来る道が合流する場所で、かつて茶店があったようである。ここには、七鳥村の組内30戸の人たちが、槇ノ谷の道こそが本来の遍路道である事を示そうと、この地に1748年(延享五年)に建てた立派な大石碑を見ることができる。↑尾根道を歩く↑「従是岩屋迄十一町」と刻まれた石仏★四国霊場第四十五番札所・海岸山岩屋寺大師堂(愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥)久万を経って、およそ4時間で岩屋寺に到着した。岩屋寺は名前の通り、奇岩が幾重にも聳え立つ岩屋が魅力だ。↑仙人堂と本坊を眺める、仙人堂までは梯子で登る事ができる【2日目】2013年(平成二十五年)10月13日執筆中★にわか四国遍路(15)に進む●今回の歩行距離・・・10.3キロ(1日目)、14.1キロ(2日目)●総歩行距離・・・250.3キロ(四国遍路全行程1,108キロの約22%)
2021/07/18
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4日目へ戻る☆2017年5月25日(月)オーストリアを後にして、4か国目のチェコに入国。入国とは言っても欧州のいずれの国もシェンゲン協定に加盟しているため、イミグレーションなどはなく、高速道路で日本の県境を超えるかのような感じで入国できるので、なんとも島国の人間からすると不思議なものである。南ボヘミアの小さな町、チェスキークルムロフに到着した。巷間では「世界で一番美しい町」とも言われ、カレンダーなんかでもこの感じを見たことがある人もいるのでは。言わずもがな、この町は、世界文化遺産に登録されている。赤い屋根とモルダヴ川をはじめとする自然的景観が実に美しい。そして、あのエゴン・シーレ(ウィーンでたまたま知った画家)のミュージアムである「エゴン・シーレアートセンター」がこの町には存在する。余談だが、Googleでチェスキークルムロフと検索すると、「チェスキークルムロフ つまらない」という候補がなぜか検索される。決してつまらない町ではないのだが、町がコンパクトな割に観光地の要素が凝縮されており、正直何をみていいかわからないというのは行った人間の感想である。チェスキークルムロフを後にして、首都プラハへ。いよいよ旅も佳境に近づいてきた。プラハは「百塔の街」と呼ばれ古い町並みがくっきりと残っている。人口120万人ほどの街に年間800万人の観光客が訪れる、欧州きっての観光地だ。それでは6日目へ続く
2020/02/20
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3日目へ戻る☆2017年5月24日(日)↑ザットレットでハイウエイを降り休憩4日目はウイーンからザルツブルグへオーストリア横断。この日、私は29歳の誕生日をささやかに迎えた。↑静かな湖畔のハルシュタットハルシュタットというアルプスの景勝地に降り立つ。ちなみにハルシュタットとは・・・ハルシュタット湖の湖畔に家々が並び立つ景観は、世界でも最も美しい湖畔の町の一つとして知られています。一帯は「ハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として、1997年にユネスコ世界遺産に登録されました。土地が狭いので山の斜面に家々が立ち並ぶ。教会のある古い街並みは湖と調和し、典型的なオーストリアの風景としてよくカレンダーにも使用されています。引用:ハルシュタット(オーストリア政府観光局公式サイトより)↑ハルシュタットのスパーでお買い物ハルシュタットのような僻地にもスパーがあるのは驚いた。この村では岩塩が有名で、今回は行けなかったが岩塩坑などもあるらしい。バスソルトや食塩など大量に売られており、いろいろ購入してしまった。※2018年5月現在、塩は消費しきれていない。笑↑ナイスなボートに乗って・・・ここは韓国人や中国人にも人気のスポットだそうで一瞬、極東アジアに来たような気分になった。とくに中国人の数に任せるパワーは偉大で、列には並ばない、大声で叫ぶなど、マナーの悪さは際立つものがあった。ハルシュタットを後にして、ザルツブルグへ。↑サウンドオブミュージックにも登場したミラベル庭園サウンドオブミュージックといえば、そうだ、京都行こうの「私のお気に入り」を思い出してしまう。↑遠くホーエンザツルブルグ城いわずもがなザルツブルグは、世界文化遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」に認定されている。今回は時間の関係で行けなかったが、ホーエンザルツブルグ城にもいつか行ってみたい。↑モーツアルト生家音楽家モーツアルトはこの町で生まれた事も有名であるが、驚くことなかれ・・・モーツアルトの生家はまさかのスパーになっていた。今日はスパー三昧ですな。笑↑晩飯はまたもや芋芋と肉も飽きてくるかと思ったが、バリエーションが違うので毎日でもオーケー。5日目へ続く
2018/05/04
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すっかり更新ができないまま年を越してしまいました。ふと仁井田の三日月軒の中華そばが無性に食べたくなりまして、ここを思い出しました。おかげさまで15周年となります、本年もよろしくお願いいたします。平成三十年一月以下、更新が滞っていたヨーロッパ旅行記を。2日目へ戻る☆5月22日(土)この日はブダペストからウイーンまでの移動。大陸を西へ。↑途中のサービスエリアから風力発電を眺める。ウイーンは、オーストリアの首都である。言語はドイツ語。店先で「Danke schÖn(ダンケ・シェーン)」といえば、ありがとうという意味になる。オーストリアは、歴史的にマリーアントワネットを輩出した、ハプスブルグ家が治めていた事でも知られているが、1919年の第一次世界大戦が終結した際に敗戦国であったハプスブルクの国が解体され、戦勝国側の都合によって便宜的な国境が引かれ誕生した国である。と、ウイーンに到着。早速昼食。↑ミュラーバイスルというレストランでウィナーシュネッツェルを頂くウィナーシュネッツェルとは、つまりウイーン風の仔牛のカツレツのことらしい。日本風に言えば牛カツということか。こっちに来てから、つけあわせで芋がよく出てくるが、芋の腹持ちのよさにしびれるばかりである。↑世界文化遺産・シェーンブルン宮殿「ユネスコ世界文化遺産にも登録されているハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿は、17世紀の末、皇帝レオポルト一世の命で、建築家フィッシャー・フォン・エルラッハにバロック様式の壮麗な狩猟の館に改築させたもので、18世紀の半ばに、女帝マリア・テレジアの指示でニコラウス・パカッシが拡張・改装を行い、現在の姿となりました。外観はバロック様式、内部はロココ様式で、1400室の部屋があり、現在その内の40室が公開され、外観の黄褐色はマリア・テレジア・イエローと呼ばれています。」引用:世界遺産 シェーンブルン宮殿(オーストリア政府観光局公式サイトより)バロックとかロココとかいろいろなデザインの用語が出てきているが、ヨーロッパ旅行の前に背景を抑えるべきであった・・・と後悔しているがあとのまつり。バロック様式とは、16世紀から18世紀頃において、均整や調和を重視した端正なルネサンス美術に対して曲線の多様と過剰な装飾が特徴の様式だそうな。一方、ロココ様式は、18世紀頃にフランスから流行りはじめた女性的で優美かつ繊細な特徴があるとの事。参考:石川マサル・フレア共著『絵ときデザイン史』(エムディエヌコーポレーション)↑内装は筆舌に尽くしがたい美しさであったが、内部は写真撮影禁止のため外観のみ。↑シェーンブルンは、庭園も実にすばらしい。市街地に戻り、ウイーン市街散策。↑Bitzingerというソーセージスタンドドイツ語メニューで何か書いてあるかわからないが、なんとか注文に成功し、飯にありつく。相当ソーセージがうまい。↑アルベルティーナ美術館ではエゴン・シーレの企画展をやっていた。エゴン・シーレという画家を私は知らなかったが、夭折したオーストリアのたいそう有名な画家ということだ。帰国して銀座SIXのTSUTAYAに行ったらエゴン・シーレの図録があった。日本でも有名なのね。↑Slukaというカフェでコーヒーを頂く。これが世にいうウインナーコーヒーか。子供のころウインナーコーヒーとは、コーヒーにウインナーが入っていると思っていた・・・。ウイーン風のコーヒーという意味なんだね。この後、シュテファン大聖堂にも行ったが、ウイーンはいかにもヨーロッパな町であった。↑どこを切り取っても絵になる。↑ケバブを食べる宿に戻る。郊外に宿泊をしたのだが、その近くにあった中東の人がやっているケバブ屋さんのケバブが死ぬほどうまかった。国境のないヨーロッパには、シリア情勢の悪化以降、陸路で移民が入り込んでいるため、多様な文化に触れる事ができる。↑オーストリアのビール、中でもゲッサーがうまい。4日目へ続く
2018/01/21
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1日目に戻るそもそも「中欧」とはどこまでの範囲を指すのか・・・調べてみたが、はっきりとした線引きはないようだ。似たような言葉として「東欧」という言葉も出てくるが、これは90年前半までのソ連による社会主義陣営の東側諸国という意味合いが強い。ガイドブックによっては、ハンガリーを「東欧」に区分するものもある。参考:中欧(ちゅうおう)とは - コトバンク☆5月21日(日)時差ぼけがひどいため早朝に起床した。日本との時差はマイナス7時間。↑ホテルの前のNepszinhaz ST(ハンガリー・ブダペスト)ここからバスに乗って王宮の丘に移動しブダペスト市内観光。ブダペストは1873年にドナウ川を挟んだ丘側(ブダ)と市街地側(ペスト)が合併してできた。この2つの町はくさり橋でつながれている。↑第二次大戦後に修復された王宮(現在は大統領官邸がある)↑王宮からドナウ川を眺める、正面はくさり橋(ハンガリー・ブダペスト)↑バロック様式のマーチャーシュ教会↑マーチャーシュ教会の裏手、漁夫の砦をバックに・・・↑昼食はパプリカチチンDomus Vinorum Wine Cellarというワインセラーを改装したお店で、ハンガリーの郷土料理パプリカチキンをいただく。見た目は辛そうだが、まったく辛くない。ここから高速道路でスロバキアを目指す。↑ハンガリーの大草原ハンガリーは、「ヨーロッパに投げられたアジアの石」と呼ばれているそうで、ウラル山脈の麓に住んでいた騎馬民族であるマジャル人が建国したと伝えられており、そのルーツはアジアにある。どこまでも続く大平原を見ていると、いつの間にかスロバキアに入っていた。EUの中では国と国の出入りが自由であり、国境を超える検査がないのには驚いた。↑ブラチスラヴァ城(スロバキア・ブラチスラバ)ドナウ川のほとりにそびえたつブラチスラヴァ城は、その外観から「ひっくり返したテーブル」と呼ばれているそうだ。18世紀にはオーストリアの女帝、マリア・テレジアの居城にもなった。↑ブラチスラバの旧市街地はよく残っている。↑16世紀の建物がそのまま飲食店として使われている↑こんなところで懐かしい国旗が・・・在スロバキア日本大使館ブラチスラバの町を2時間ほど散策し、再びブダペストに戻る。↑グヤーシュというハンガリーのスープこの後はドナウ川ナイトクルーズへ。↑世界一美しいといわれるブダペストの国会議事堂3日目に続く
2017/05/28
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28歳を過ぎるまで海外に行ってみようともしなかったが、昨年、会社の旅行で訪れた台湾をきっかけに海外旅行にも行ってみたいと思うようになった。もっと時間があったであろう学生時代に海外に行っておけばよかったとも思うが、学生時代に国内47都道府県の隅々まで歩けた事は、今を生きる上で大いに役に立っている。が、お隣の台湾といへども、カルチャーショックは計り知れず、改めて日本のありがたさを痛感した。そんなわけで、ほんとうは、昨年行きたかったのだが、業務に忙殺されていけなかった新婚旅行はぜひ海外と思いHISに相談したところ、たまたま中欧4カ国のツアーがあるとのことではじめてのヨーロッパ向かう事になった。☆5月20日(土)まったく準備ができず、前夜は徹夜で準備を開始。一度、会社を経由して早朝のスカイライナーで成田空港へ。成田空港の第1ターミナルには初めてやってきた。昔はLCCを利用してたので第2、第3ターミナルがお馴染みだったが、どちらかといえば、古めの印象。これよりアエロフロートロシア航空で、モスクワ(シェレメチェボ)へ10時間30分の長旅。↑機内食2発目(炭水化物まつり!!)機内の中は、実にたいくつである。映画もロシア語で字幕は英語のみ。機内食は2回出るか、アルコールは機内食提供前のワインがあるのみでビールは有料との事。↑やっとの思いでシェレメチボ国際空港に到着(ロシア・モスクワ)トランジットのパスポートコントロール。ロシアへの入国はビザが必要なため、入国することはできない。空港の中をぶらぶらするが、お土産がマトリョーシカやプーチン大統領に関するもの等、実にロシアらしい。↑雨漏り対策の受け皿は、まさかのバケツアエロフロートのブダペスト行きに乗り換え一路ハンガリーへ。ブタペストに着陸した瞬間、乗客から拍手が沸き起こったので驚いた。少なくとも初めて遭遇した。この拍手について、ネットで調べてみると様々な見解があるらしい。参考:アエロフロート機が着陸する時にはなんで拍手が起きるのだ? - ゲインオーバー今回の旅でアエロフロートには4回乗ったが、モスクワ→ブダペスト、プラハ→モスクワの便でしか拍手は起きず、成田⇔モスクワの便では拍手が起きなかった。これはロシア人が少ないからなのかな。↑リスト・フェレンツ国際空港(ハンガリー・ブダペスト)さてブダペストに到着し、空港内のスパー(あのモミの木のマークのホットスパー)でお買い物をした。ヨーロッパでは大きなスーパーマーケットチェーンとの事。スパーを見るのは実に20年ぶり。昔、秋田市保戸野新川向にあったような。ここから宿へ移動。↑ハンガリーのビール、ショプロニを飲む2日目に進む
2017/05/28
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↑岩茸石山の山頂は三等三角点(標高793m) ↑東の眺望 たしかに、岩茸石山からの眺望は素晴らしい。しかし岩茸石山は、なんて読むのか……と思いググると、「いわたけいしやま」ということだ。 岩茸石山は、そもそも高水三山の一つということで、高水山、惣岳山を含めて縦走するのが一般的とのこと。 今回は登山口に到着したのが昼過ぎであったので、単純に八桑から岩茸石山をピストンするつもりであったが、その道すがら誰にも遭遇しなかった。 (岩茸石山の山頂はすごい人だったが…笑 というわけで、山頂で小休止した後は、元来た道を下山というかなり生温い登山。 ↑名坂峠へ下る ↑樹林帯を一文字に下る というわけで20分くらいで、八桑に下山。 そこから川井駅に向かい車道を歩くと、右側に「なかい」という飲食店を発見。釜飯専門店らしい。 ↑きのこ釜飯をいただく!うまかった。 そこから車道を20分歩いて川井駅に。 ↑川井駅から大正橋 こっからは青梅線で少し戻り御嶽へ。御嶽はこのあたり有数の観光地。 ↑御嶽の河原 さあ、ここからは青梅線の終点・奥多摩へ。ここで一っ風呂をあびよう。 吊り橋を渡り、もえぎの湯という日帰り入浴施設へ。 実に充実した、ハイキングになった。
2017/05/02
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世の中は、ゴールデンウイークとはいえ、連休中もお仕事タイム。 今日は、たまたま休みだったので、ひさびさに山登りへ。 これまで、東京の山といえば、八丈富士くらいしか登ったことがなかったが、せっかく関東に住むなら奥多摩や秩父に行くよりも、南アルプスに行かないともったいない等と不埒なことを考えていた自分がいた。 東京に住んで、4年目、初めて奥多摩を訪れる事になった。登る山は、展望がよいという理由だけで岩茸石山に相成った。 2016年は山に登ろうともしなかったが、今年は少しでも近場の山に登りたいと思うが、果たしていつまで続くのか……笑 ↑青梅線古里駅 青梅線は、福生より先に行ったことがなかったが、青梅より奥は、多摩川を縫うように走るんだね。 ↑西東京バス 八桑停留所 古里駅から八桑へ。ここから急な登り道となる。 が、この登山道は、名坂峠を挟み都道202号線上成木川井線の一部であり不通区間となる。 ↑分岐にある新しそうな石碑には「右ハちちぶ道、左ハ山道」と書かれている。 かつては奥多摩方面から名坂峠を挟んで飯能、秩父へと繋がっていた往還の一部なのだろう。 しばらく車道が続くが、しだいに獣道程度の登山道となる。 やまぶきが咲いている。そういや、昔、やまぶきの種子をもらって植えたことがあったね。 長い七折八折を歩み続けると…… ↑やっと稜線へ抜ける(標高617m) 体力のなさを痛感。ここまでは、ヤマケイのコースタイム通り。 二つの沢をまきながら、名坂峠への歩みを進める。 八桑から約50分、名坂峠に到着。 ↑名坂峠は四辻 名坂峠は、棒ノ折山と高水三山、上成木、大丹波方面を繋ぐ交通の要衝。 今度は、なんとなく棒ノ折山方面に歩みを進めたいなあ。 最後の登りを抜ければ、春紅葉。 そして、いよいよ高水三山の一つ、岩茸石山へ。 ↑岩茸石山の頂
2017/05/02
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21回目の献血をしにソラマチへ。 https://www.tokyo.bc.jrc.or.jp/rooms/roomhp/room105.html 内装がいい感じの献血ルームフィールへ。10階にあるので眺望がいい。都内にしては、そこまで混んでない穴場である。 ここには、よくある無料の自販機はなく、エスプレッソマシンがあるカフェスタイル。 看護師さん曰く場所柄、観光客が多いそうだ。 とりあえず30回の献血を目標に、精進していきたい。
2017/03/20
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旅行貯金という趣味の世界がある。私が考える旅行貯金の定義について旅行貯金考にまとめているが、その世界は実に懐が深い。【参考】「旅行貯金の楽しみ」(外部リンク)↑いい雰囲気漂う横浜中原郵便局2005年2月14日に遠軽郵便局をスタートしてから12年。ついぞ、私の訪局数も450局を突破してしまった。その記録は、旅行貯金の記録にまとめているが、実は、ブログをさぼっている間もひそかに更新し続けてきたページである。しかしながら、年数の経過と訪問局の増加により、同じ郵便局を訪れてしまうというアクシデントも起こりうる。(実際、一回そういうアクシデントが発生した。)これを回避するために何かうまい方法はないものか・・・・★ジオメモ - 自分だけの地図が作れるを App Storeで(外部リンク)10年前と比べると、科学技術の進歩も著しく、ガジェットやアプリも進化しつつある。Google Map等で容易に郵便局を検索することができるようになった。昔は秋田県道路地図に書き込みながら回ったもんだが・・・笑iphoneにこのアプリを入れているのだが、自分が訪局した郵便局を地図に落とす事ができ、外出先でも非常に重宝する。↑懐かしき秋田市内周辺の訪局をプロットもうこれはかなり昔の話だが、秋田市内周辺をチャリで回ってた頃の局を落とし込んだものだ。なんだかんだでこの頃が一番熱心に回っていたような・・・↑瀬戸内の島々にまたがるプロット旅行貯金のよいところは日付と地名から記憶をフラッシュバックさせることができる点だ。あ、そういやあのとき周防大島行ったな・・・とか、あのときの展示会で福岡だったなぁ・・・とか、いままでの自分の軌跡を追える。この趣味が終わることがないが、やっとこさ今までの訪局をジオメモに同期させた。ここは人力になってしまうのはしょうがないが、以前から比べると格段の進化である。
2017/03/19
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気が付いたら30万アクセスを超えており衝撃を受けました。2017年も細々と更新できたらしてゆきます・・・本年もよろしくお願いいたします。先日、仕事の道すがら、有馬温泉に行ってきました。3ヶ月ぶりくらいにまったりしました。↑切手文化博物館↑吸い込まれそうな竹林↑噂の炭酸泉↑太閤殿下の居有馬は実ははじめて。神戸から少しばかり距離があるので・・・特に秀吉と有馬との繋がりという視点は、これまであまりもっておりませんでしたので、感じるところが大いにありました。
2017/01/29
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台北のFamily Martに売りよる甘草瓜子というスイカの種みたいなものを食べたが、食い方がまったく分からない。台湾ではメジャーなおやつであるみたいだが。 どうにも中の白い部分を食べるそうだ。 世の中にここまで食べ方が難しいものがあるのかと閉口したが、意外と病み付きになる代物だ。 ピスタチオもしかり、はじめてbarに行ったときに、食べ方が分からず、殻まで食ってしまい、お姉さんに笑われる始末。 仕事帰りに新宿で命の水を補給。結婚してから一人で酒を飲む事も少なくなったが、たまには一人酒もよいもんだ。
2016/09/04
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遥か昔の記憶を辿る。2010年。もはや6年が過ぎた。大叔母が亡くなったという報せを受け、私は四国から関東へ下ったが、このとき何の交通機関で向かったかは、まったく思い出せない。高崎駅から遠く神流川を上流へ。その帰途、八ッ場ダムに沈むという川原湯温泉へ向かったのだが、この時、笹湯という素晴らしい公衆浴場に出会えたのだった。2010年4月23日の日記さて、吾妻線で新しい川原湯温泉駅を過ぎたので、昔の記憶をがふとよぎった。今日は18きっぷの消化作業。草津へ。近頃は、得体の知れないものに身体も心も蝕まれ、温泉に入ることさえもあまりなかったが、久々にこういうリアルな温泉に入る事と相成った。↑高崎駅西口、栄寿亭のかつ丼↑湯畑↑湧き出す湯畑↑西の川原公園西の川原の露天風呂と大滝の湯に入れたものの、湯もみは時間不足で見れず。草津白根山同様、次回の課題。
2016/09/03
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屹度誰にでも、どこにいても片時も忘れることのないふるさとというものがあるだろう。もしそういうものがあるとしたら、わたしのふるさとは湾曲した駿河湾の先に富嶽を望める、あの鄙びた海村「西伊豆・土肥」である。というわけで、ゴールデンウイークは6年ぶりに土肥へ帰ってきました。変わっていくもの、変わらないもの・・・今まで以上に伊豆がぐーんと近くなりましたので、行く機会も増えるでしょうけど。西伊豆は遠い・・・いい原点回帰になりました。(・。・)追伸楽天写真館が廃止になるとは・・・
2015/06/07
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コーヒー界の“Apple”「ブルーボトルコーヒー」が日本に上陸!!http://macaro-ni.jp/1320というわけで、月曜日の真昼間なら比較的すいてるだろうと思い、アメリカ西海岸でブームとなり「第3の波」と呼ばれているブルーボトルコーヒー日本1号店に行ってまいりました。 場所は町人地・清澄白河。(すなはち深川) 「南総里見八犬伝」の曲亭馬琴はこの町で生まれ、岩崎弥太郎が東京府に寄進した清澄庭園が著名。 銀座でも渋谷でも表参道や青山でもない。日本1号店はまさかの清澄白河とはなんとも粋じゃありませんか。30分程度の行列でドリップコーヒーにありつく事ができましたが、ドリップを客の目の前で見せて名前を呼んで手渡しをするという珈琲を作る過程を大切にしている印象。コーヒー豆は焙煎にこだわり、フェアトレードを使用。そこにはアンチスタバの精神があるんでせうな。新幹線が品川に止まるようになった2003年。新しくなった品川駅の中のスターバックスコーヒーという、その当時は田舎には全然なかったなんともおしゃれな人魚マークのコーヒーチェーン店で飲んだカプチーノは、田舎者であった中二病患者を魅了したもので、この世にこんなうまいものがあるのかと思ったほどであったが、あれから12年。鳥取にまでスタバができそうな今日この頃。ブルーボトルという新しいコーヒーの波が席巻するのか、しないのか。乞うご期待ですね。あ、肝心の味ですが、焙煎珈琲特有の酸味が好きな人にはたまらないと思います。スターバックスコーヒーの本日のコーヒーよりははるかにうまい。でもでも、もっともっとおいしいコーヒーは日本各地にたくさんあると思いますが、450円でこの珈琲が飲めるというのは中々だと思います。まだまだミーハーさんたちの観光地ですが、そのうち国内のいたるところで気軽に並ばずに行けるような存在になったらいいですね。
2015/02/24
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↑鴨川デルタ(京都府京都市左京区)新年あけましておめでとうございます。もはや半年ぶりの更新ですが、年末年始は久しぶりに四国に帰りました。途中、岐阜県中津川や京都あたりをぶらぶらしましたが、ほぼ鈍行で北九州まで下り、そこから船で松山に着くまで3日ばかりの移動と相成りました。年越しは松山で過ごしましたが、焼酎を飲みすぎてあまり記憶にありません。昔懐かしい友人・後輩たちと楽しいお酒が飲めたので本当に楽しかったです。年が明けて早速、現実に引き戻され仕事に明け暮れる毎日ですが、無理をしながら無理をせず、今年も社会の荒波にもまれながら、生きて行こうと思うのでした。というか、ここを定期的に見てる人などもはや皆無でしょう。笑本年はブログ開設12年目ですが、まぁまったりやっていきますので、またーりお付き合いいただければ、幸甚に存じます。今年もよろしくお願い申し上げます。
2015/01/10
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住めば都といいますが、今はすっかり東の人間になりました。たまには、西に帰りたいですが、そのうち西にも行くでせう。というわけで、東京くらし3か月目。早速、電気代を滞納しております。笑すっかり、こちらはご無沙汰ですが、なんとか、生きてます。まぁ、諸々時が来たら更新します。とにかく、忙しい毎日(まぁいうほどでもないが・・・orz)なので、またそのうちお会いしませう。(・。・)
2014/06/05
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☆3月6日(木)松山で所用を終えて、自宅へとんぼ帰り。青春18きっぷを使おうと思ったのが、寝過ごしてしまい、しおかぜ+新幹線でおのぼりさん。無駄な出費がかさむ。↑はとむぎげんまいぷーあーる、そーけんびちゃこのパッケージ懐かしいね…爽健美茶よりは綾鷹派だけど、昔コカコーラから販売されていたまろ茶が好きだったりする。6日のうちに東京へ帰り、北へ向かう準備を開始。寒波が襲来する模様で、長靴が必要と判断。北海道にミツウマという長靴メーカーがあるそうで、東京販売部に電話をかけると、東京近郊では、築地の伊藤ウロコでのみ取り扱っているとのこと。これは買うしかあるまい。☆3月7日(金)始発で築地へ。ミツウマの長靴を買いに築地の伊藤ウロコさんへ。ほしかったグリーンフィールドという長靴の在庫が無かったので、違う商品を調達。朝食を吉野家築地1号店で食す。↑吉野家あたまの大盛おかげさまで110周年の吉野家は、まだ日本橋に魚河岸があった時代から市場関係者の腹を満たしてきた。今や全国区の早い、安い、うまいのルーツは、吉野家が市場との関わりの中で育まれてきた長い歴史にあるのだろう。幾度もの困難に立ち向かいながらも不死鳥の如く蘇ってきた吉野家が、この先何百年もあまたの人々の空腹を満たしてくれる事を願ってやまない。一時帰宅する途中、三ノ輪で道を間違える。あってはならない事だ。笑そして上野へ。快晴の雪のない東京で長靴をはくとは滑稽だが、北へ向かう者なのでしょうがない。秋田新幹線で秋田へ。トランヴェールが北条五代特集で黒田基樹さんが執筆しておられた。↑雪だぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁとまぁ、久々に雪を見たわけだが、鑓見内あたりでホワイトアウト。笑こんな場所で12年も暮らしていたのね…もはや雪とも無縁なものである。☆3月8日(土)~9日(日)↑3月やというんに…。寒波襲来。↑真冬の墓まいり秋田では墓参りに行くという目的を達成し、親戚のお宅と高校時代の山岳部顧問の先生のお宅に厄介になった。積もる話と秋田の酒に囲まれて幸せな滞在期間でした。本当にありがとうございました。また帰りますので、その節はよろしくお願いいたします。秋田空港まで送迎して頂き、セスナ機で新千歳へ。いよいよ10年ぶりの北海道の東の方へ!!※画像のサイズを従来のサイズに戻しましたー
2014/03/27
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東京の住人となりおよそ一週間。 ほぼ新生活の準備と引越の荷物整理に明け暮れていたが、東京の街に出歩いたり、それなりに楽しい生活を満喫していた。 いよいよ、今年はいよいよ26歳となるわけだが、このブログを開いたのが15歳の時。 今思えば、あの頃何を考えていたが分からないしょうもない少年であったが、その結果、私は高校に不合格となり、一年間無職となり予備校に通う羽目になった。これがら16歳の時である。 この頃は、焼きおにぎりを販売したり肉屋につとめたり等、勉強以外の活動に没頭した事は言うまでもないが、勉強そのものに純粋に取り組めた一年となり、何よりも同じような境遇の仲間と出会えた事で、無職という現実を軽減する何かがあったような気がする。 また、後になって分かった事だが、この私にとっての「空白の16歳」は、自身にとって極めて重要な時間であった。両親と予備校への入学を率先してくれた先生方には本当に感謝せねばなるまい。 ターニングポイントというものがあるとしたら、間違いなくこの時を指すのだろう。なぜならこの年度の2月に私は、北方を旅する機会を得て、北の大学への進学というものをおぼろげながら意識したのである。 しかし世の中とは全く面白く不思議なもので、高校を卒業した後、私は1000キロ以上西に離れた大学に進学し、同地の大学院まで行くというモラトリアム三昧な日々を過ごす事になる。 ターニングポイントとなる北方を目指した旅の名前を「北出羽の国から」と名付けた。お察しの通りだが、その由縁は、あの有名なテレビドラマから来ている。また、単純に北出羽(秋田)から北を目指すという、16歳の少年が考える精一杯の思考でもあった。 私は、肉屋につとめた大金をみどりの窓口に持って北海道行きの切符を買った。これ以降、私は10年間親の脛かじりとなったため、現時点で一番かっこよいお金の使い方をしたのは、この時だけであろう。 と、前置きが長くなったが、北出羽の国から10年たった今、北出羽の国へ帰る旅をしたい。 私にとっての北出羽の国とは、何だったのか……この回答が果たしてでるかは分からないが、多くのものを失い、それ以上の多くのものを得たこの頃、久しぶりに原点に帰りたいと思ったのであった。 ☆2月28日 ↑新宿御苑 私は、とある人物に会うため新宿にいた。この人物は、「空白の16歳」を共に切磋琢磨した馬鹿野郎であるが、ここ5、6年音信が絶えており昨年久しぶりに会う事ができた人物である。 私の同窓生は、たいてい「空白の16歳」を黒歴史というが、私とこの人物は、ターニングポイントという理解がある点では、共通している。 この人物は、難関私立高校に進学したが、様々な紆余曲折があったが、今は東京で営業マンをしている。 私も四月から営業マンをする事になるので、そういう意味でもまた切磋琢磨する事ができるのだろうか。 新宿では西口の牛タンの店に行った後、高知の郷土料理の店に行き、私の新居に移動して昔の話をして盛り上がった。 この人物から見習うべき事は、闘争心である。私にはないものだが、一番になるという意気込みが大切なのであろう。 ☆2月29日もとい3月1日 朝3時半に叩き起こし、4時半の京浜東北線始発電車で最寄の田端駅を出発。対岸のホームで酔っ払いが線路に落ちたり騒がしかったが、都会は、朝から人がいるのね。 品川で前述の人物を見送り、東海道線始発で西を目指す。 ↑東海道線品川駅 寒さのあまり全然寝付けなかったが、平塚を過ぎたら爆睡しており、気がつくと終点の小田原であった。が、なんとすでに接続の電車を見送ってしまい、次の電車を待つ事に。 ↑小田原城を眺めて(神奈川県小田原市) 小田原は、昨年就活で久しぶりに訪れたが、小峯の大堀切という小田原城の総構は圧巻であった事を思い出す。 ここで後続の沼津行きに乗車。この日は、天気が悪い。根府川あたりの相模灘を見ながら電車は熱海へ。熱海からは丹那トンネルを抜け函南、三島、沼津と続く。 沼津からは静岡行きに乗るも、乗客が多くて座る事ができず。静岡駅では、第五福竜丸デモの集団が大量に乗り込んできて、車内の混雑はピークに。この集団は焼津で下車したので、それ以降、浜松までは着席に成功した。 浜松からは、新快速で名古屋へ。名古屋で彼女と合流し、名鉄で神宮前へ。 ひつまぶしの名店、あつた蓬莱軒へ向かった。前々から行って見たいと思っていたが、中々訪れる事ができなかったが、ついに訪れる事ができた。 なんでも一時間待ちという事ではあるが、その間はどこに行ってもいいとの事。 その間、熱田神宮に参拝。私は、ゼミ旅行以来の熱田である。 ↑信長塀 この塀は、織田信長が桶狭間の戦いの勝利後、寄進したものだそうな。 蓬莱軒に帰るとほどなくして席に通された。 ↑あつた蓬莱軒のひつまぶし 実に3800円。ランチとしては、ここ最近の人生の中でも一番高いのではないだろうか。いやはや、うまかった。 名駅に帰り、喫茶店で休憩し、米原へ移動。米原駅前の平和堂を久々に訪れたが、懐かしかった。 彦根といえば、名物彦根ちゃんぽん。これがうまいんだね。 ↑彦根ちゃんぽん いつも彦根城天守には行けず仕舞いであるが、またいつか機会があれば行きたい。 この日は野洲で一泊。 ☆3月2日 野洲を経ち、新快速で大阪へ。中崎町周辺を訪れ、念願の大阪支所を堪能した。 その後、なんばへ。お好み焼きを食べ、喫茶店に行き、いつものわなかでたこ焼きを食べるというミナミ定番の食い倒れツアーを挙行。 ↑戎橋のグリコ ここで彼女と別れ、松山行きのバスに乗りこんで、大阪を後にする。淡路室津での休憩も忘れしばらく寝ていたが、気がつけば一週間ぶりの松山であった。 ↑松山大街道
2014/03/03
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2月8日、太平洋側を低気圧が通過し、首都圏では40年ぶりに大雪となったようですが、西日本でも雪が降り交通機関が麻痺して、えらい事になりました。(-。-; 元々、北日本の人間とはいえ、瀬戸内でこういう目に遭うとは、想定外。笑 しかも、この日はひと月前から海を渡った尾道で飲む予定があったのです。が、案の定高速が通行止めでバスは運休。なんでこんな日にしたんやろ…と激しく後悔しました。が、天気には逆らえず。 なんとか、しかしさすがの海上交通は安定でした。呉まで船を使い、呉線で三原へ。山陽線は100分くらいダイヤが乱れてましたが、呉線は強かった。 尾道到着。 ⤴︎朱華園で中華そば ⤴︎千光寺へ ⤴︎天寧寺三重塔 ⤴︎千光寺から雪の尾道を眺める。 とまあ、定番の千光寺まで行ったのですが、前日、原因不明の膝の痛みを引き起こしていたので、きつかった。むしろこんな日に山登りなんてするもんじゃない。ヽ(´o`; 夜は久々に友人たちと楽しい飲みとなりました。いや、ほんとに楽しかったね。
2014/02/09
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SNSが普及して、言いたい事もいえないこんな世の中(笑)ですが…特に言いたい事もないので、よしとしませう。(・。・)とまぁ、特に言いたい事もない2014年は、忘れかけてた存在であるこの場所でしょうもない事を、にわかにつぶやいて行こうかと。↑記念すべき1ページ目2005年2月14日、道内・遠軽郵便局から始めた旅行貯金は、現在352局を数えました。日本47都道府県中、まだ未訪問局がある都道府県は、宮崎・富山・鳥取・徳島・滋賀・高知・埼玉・鹿児島の8県と相成りました。(当方47都道府県すべて訪問しているので、おそらくこの8県は銀行窓口が空いている平日に訪れていないのだろう…)改めて、エクセルでまとめてみたのだが、なんだか、あの日あの時あの場所を思い出しますね。郵便局訪問の記録から思い出を抽出できるとは、思ってもみませんでしたが。今年は頑張って旅行貯金100局訪問を達成する事を目標にします。単純に100円貯金でも、100円×100局=10000円☆本日の一曲松浦亜弥 - 気がつけば あなた
2014/01/26
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今年こそは、ちゃんと周年企画をしたい。3月29日で、11周年を迎える今年、何をしようかと考えたのですが、しばらく旅行にも行けないだろうので、久々に18きっぷ旅行をしたいなぁと思ってみました。まぁ一人卒業旅行も兼ねて…3月10日頃。目指すは、南の島もいいけど、試される大地でもいいなぁ。題して、かえりみち11周年記念企画・北出羽の国へ2014!!乞うご期待。以前、北出羽の国から2005・厳冬という北海道フリーきっぷでの旅行をしたのですが。そのパロディみたいもんですね・・・www旅の最終目的地は、タイトル通りもちろん北出羽の国を目指す予定です。当面はある物を食いながら生活します・・・・きみにとどけ今更ながら、君に届けを一気見しました。
2014/01/21
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ホットメールの11年分のメールを整理する機会に恵まれ、めくりめくると懐かしさに駆られてしまった。私のこの11年は、なんだったのだろうか・・・・と振り返ると、15歳から18歳くらいまでは、いろんな意味で熱かったな・・・・と思ったりもした。大学に入ってからはなんというか、楽しかった日々であった。いろんなものを得て、いろんなものを失った11年に蓋をする事ができないし、過去に戻ろうとも毛頭思わない。未来は明るいに決まっている。ふと、そう思ったので記した。
2014/01/09
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あけましておめでとうございます。いよいよ平成二十六年がはじまりました。年末年始カウントダウンは、お世話になっているBarで常連の皆様方と過ごす事ができ、楽しい年越しと相成りました。↑カニ鍋を食べ…↑カウントダウンと同時にモエのマグナムボトルを開けました!!そして、カウントダウン終了後、近くの神社にみんなで参拝しましたが、一合升でお神酒を頂いたせいか、予想以上に酔ってしまい、ご来光を見に行く事ができませんでした。↑改めて初詣「久しい間のくるしみも時が来て、おのずから去り、なにごとも春の花のさく様に次第次第にさかえてゆく運です、安心してことにあたりなさい。」という御籤を受けました。今年は、いよいよ脱モラトリアムというわけで、すべての事に責任を持ちながら、食わず嫌いをせず成長できる年にしたいと思います。というわけで4月以降、環境は大きく変わりますが、残り少ない最後の学生生活、楽しまずんばこれいかん。皆様にとってよい年になります事を心から祈念いたしております。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。付、ちなみにこのブログは、3月29日で11年目に突入しますが、相変わらずまったり更新していきますので、あしからず。遍路についてもやっていかねば…平成二十六年元旦管理人
2014/01/01
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世の中、お金がすべてとはいいますが…金がなきゃ、年もこせやしないですぜぃ、だんなぁ…とまぁいってみたものの、どうにも年の瀬は物入りですねぇ。wwあと、いくつもの忘年会をクリアしたら今年もつひに終わりですねぇ。しまった明後日は駅伝があったんだった…2013年は、みなさんにとっていかがでしたでしょうか。今年は、なんというのかね…去年よりはよかったのかもしれませんが、どうにもこうにも閉塞感が漂う一年でしたね。20代前半のように、未来もなければ明日もない。あるのは、社会へ出るという不安やつらい現実だねぇ。まぁ不安ばっか言っててもしゃーなしなので…今年をちーと、チートに振り返ってみようわい。2013年も佳境に。今年の軌跡を振り返ってみませう。↑天橋立(丹後国宮津)●1月・実家に帰らず、正月を一人で過ごし、おせち料理なんかを作ってみる。・宮津、天橋立、多賀大社、京都へ●2月・しまなみへ・発表会等・ミニ集会・宇和へ調査・院生室引っ越し●3月・黒川温泉、別府へ・大田区、新宿、宇治へ・岡山、福山、新見へ●4月・市ヶ谷へ●5月・市ヶ谷へ●6月・東博へ・小田原へ・霊場調査●7月・霊場調査・京都、大阪、河内長野へ・引っ越し・上野へ・岐阜へ●8月・上野へ・盆、実家へ・上野へ・しまなみへ・高松へ●9月・小豆島へ・寺院調査・遍路へ●10月・遍路へ・日田、中津へ・学会・友人の結婚祝●11月・上野、秋田、米沢へ・引っ越し、実家が松山になる。・東京、伊勢へ●12月って、歩きすぎやろ。よう、お金も出ましたね。大丈夫、お金はなんとかなる…という根拠のない自信を胸に来年を迎えましょう。本年も格別の御厚情を賜りましてありがとうございました。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。管理人追伸このブログも10年目という事で消そうか、消すまいか、悩んでいるところなのですが、これも私の黒歴史。笑放置気味ではござれども、来年もまったりやっていく次第であります。ほんなら、また!!
2013/12/05
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★にわか四国遍路(14)に戻る★にわか四国遍路(7)大頭~横峰寺も参考に!!2013年11月23日(土)夜様々な偶然が重なり、Iさんから久方ぶりにご連絡を頂いた。伺うところによると、数日前に調査されたそうだが、道を発見できず断念されたそうだ。翌日、朝8時15分。不甲斐ない事に寝坊をしてしまい、出発が遅れてしまった。申し訳ない気持ちのまま、今回のスタート地点である西条市小松町大郷字馬返に到着した。杉本智彦『カシミール3D GPS応用編』(実業之日本社、2011年)の地図より引用上の地図を見るとお分かり頂けるだろうが、現在、西条市丹原町大頭から横峰寺へ行く遍路道は妙之谷川沿いの県道を通っていくのが一般的である。ところが、かつては川から離れ、山を縫うように歩く遍路道があったそうだ。今回は、おそらく歩いたであろう軌跡を、地図上に赤線で示した。途中、廃道となった部分もあり、まさに藪漕ぎの世界であった。まず、県道から左手の山を上がっていくと、小さい尾根の上に出た。ここに四十四丁を示す、舟形地蔵石がある。↑四十四丁石(地図番号1)この地点までは、迷う事なくやってきたのだが、ここから先が道路と重なってしまい、迷ってしまった。前回の調査では、この地点で下の道路を下ってしまい、発見できなかったそうである。ふと左を見ると、道路の法面から左にまっすぐに道のような感じの雰囲気が漂っている。こっちだろうか…とりあえず歩ける箇所を歩いていこう。先を進むと、シダやら草に阻まれ、もはや道ではない。↑廃道化している…(地図番号2)もう道ではないので、草木をかき分け、またぎながら歩み進める。これが正解の遍路道がどうかわからずに不安になっていた、まさにその時…↑草木に埋もれた四十二丁石を発見(地図番号3)やはりこの道であっていたのだ…疑心暗鬼の気持ちが晴れ、思わず笑みがこぼれる。草木を手でむしり取り、丁石に光が当たった。この丁石が人間を見たのはどれほど久しぶりなのだろうか。さて、歩みを進めて沢を渡る。ここからは、歩きやすい道を行くが、林業関係者が作った道だろうか。今までの道に比べると、楽な道であった。しかし、途中である事に気づく。左を見ると、高い位置に丁石が見えるではないか。どうも、この歩きやすい道は、本来の道より下に作られているのだろう。と思っていると、本日の目的地である武田徳右衛門の道標に到達した。背丈くらいある立派な道標である。↑武田徳右衛門の五十丁石と舟形地蔵武田徳右衛門については、武田徳右衛門 ―亡き子の菩提を弔うために―(参考サイト1)を参考にして頂きたい。五十丁石には「是より横峯迄五十丁」とあり、隣の舟形地蔵には「峯ヨリ五十丁 大江村中」とある。この舟形地蔵は、これまでの丁石と趣が違っており、その年代は不明である。また、地蔵にある大江村についてはよく分からないが、小松町大頭を経て横峰寺・香園寺へ(参考サイト2)によると麓の大郷村であるとしている。さて、どうも遍路道を間違えてしまった事については前述した。すると、先ほど下から見た丁石(三十九丁)の前に立つと、遍路道が続いているではないか。いったいどこまで戻ることができるのだろう。と、戻ってみると…↑道が途切れている(地図番号5)やはり沢を渡るところで廃道になってしまった。どうにもここから先は進めない。再び五十丁石に向かって戻る↑シダの中を進む(地図番号6)↑四十丁石(地図番号7)↑三十九丁石(地図番号8)というわけで、三十九丁石の前に戻り、五十丁道標の前を通過し歩みを進める。すると、道の先に丁石が転がっていたので、再度ひっくりかえらないように寝かせておいた。↑三十八丁石(地図番号9)↑三十七丁石(地図番号10)この先に明治期の曼荼羅に関する供養塔があったが、このあたりから再び道が不明瞭となった。すぐ下に県道が見えるが。ついに遍路道は、消えてしまった。しかしながら、元来た道を戻るのはあまりにも酷な選択肢である。というわけで、無理矢理ショートカットをして沢を下り、県道に降りた。↑脱出(地図番号11)無理矢理脱出した感は否めないが、地図を見ると旧遍路道は、もう少し先に出るらしい。ここからもう少しいった先から川を越え湯浪の集落へと続いていく。↑妙之谷川を渡り遍路道は続いていく…(地図番号12)地元の人に話を聞くと、遍路道は対岸に続いているどうで、かつてはお堂等もあったが流されてしまったそうだ。その後、県道から上へあがっていくアスファルトの道路を上がるとしきみ畑(地図番号13)が広がり、そこから左に入る道を発見した。ここを進むと、すぐ近くに「道がない!!」と判断し地図番号11に降りる事を決意した地点に到達し、意外にもあっさりと旧遍路道はつながった…【参考サイト】[1]愛媛県生涯学習センター「武田徳右衛門 ―亡き子の菩提を弔うために―」 (四国遍路のあゆみ・平成12年度、データベースえひめの記憶)[2]愛媛県生涯学習センター「小松町大頭を経て横峰寺・香園寺へ」 (伊予の遍路道・平成13年度、データベースえひめの記憶)★にわか四国遍路(16)に進むいつになる事やら・・・・●本日の歩行距離・・・2.6キロ
2013/11/25
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★にわか四国遍路(12・後編)に戻る大きな西からの風が吹いてきたのだろうか…来年3月をもって、ついに私は四国を離れることとなった。六年間の四国での暮らしは、遥か羽州からやってきた私にとって充実した日々であり、四国遍路という一つのテーマを私に与えてくれた。ここに来て、皆が勧める水曜どうでしょうでも見ようかとも思うのだが、私の遍路は完成していない。とかく長い事、遍路から遠ざかっていた最大の理由は、距離が遠くなり日帰りが難しくなったということであろうか。とまぁ、上記のような理由で遍路に出ることを躊躇していたのだが、ここで一つの転機が訪れた。きっかけは、私がとある寺院に調査に出かけたときに、ひょんな事から、学芸員のIさんの道しるべ調査に随行することになったのである。道しるべというのは、遍路道上で見かける標石の事である。が、今まで気に留めてみることもなかったのが、正直なところである。(そういや、昔、授業の課題で荏原の遍路道しるべを調査しに行ったとき、法量を測るのを忘れて課題当日にいそいで測定しに行ったことがあったっけ)2013年9月22日(日)、Mさん送迎のもと、Iさんと特別ゲストのYさんと共に四国中央市へ向かった。途中のコンビニで蚊取り線香を購入。九月も末とはいえ、虫等出る心配があった。車で三角寺へ。皆さんはご存知であると思うが、伊予国最後の札所である。現在、私のにわか四国遍路は予讃線伊予三島駅で止まっており、三角寺には来た事がない。本来は、ここから椿堂を経由し徳島県三好市への山を越え雲辺寺へと向かうのだが、今日のルートは三角寺より山を越え、奥ノ院仙龍寺へと向かうルートを歩くルートである。★四国霊場第六十五番札所・由霊山三角寺山門(愛媛県四国中央市金田町)三角寺は、山門に鐘があるお寺で、出石寺を彷彿させる。詳細については、また後日記したい。この三角寺の南から奥ノ院への道が始まるのだが、なんとも案内が少ないように感じる。その理由としては、現在このルートは悪路であり、あまり歩く人がいないルートであるからとのことだ。↑彼岸花咲く秋の遍路道↑お願い…道中をゆくと「お願い」という表札を発見する。「お時間の在る方、へんろ道維持にご協力下さい、次の方の為にこの先三十M(メートル)草刈りお接待をお願いいたします。鎌はここにお戻しください、感謝(梵字)南無大師遍照金剛」草刈りの接待とは、はじめてであるが、しっかりと刈らせて頂いた。↑地蔵峠(愛媛県四国中央市)草を刈った後は、勾配の急な山登りとなる。平石山の東側にある峠、地蔵峠。峠道の右側に4体の地蔵があり、仏海上人の地蔵道標もある。↑桜馬場にある十八丁を示す標石奥之院仙龍寺経由の遍路道(参考サイト1)によると、桜馬場には、その名の由来ともなった樹高20mにおよぶ桜の大木が枝を広げており、戦前には、遍路を相手にした無人の販売所があり、唐黍・かんころ芋・ふかした薩摩芋などが売られていたという。↑不動堂のある大窪分岐ここは、仙龍寺と平山(雲辺寺・箸蔵寺方面)への分かれ道である。「四国遍路道指南」には、「大久保二三軒有、荷物をきてよし、但おくの院一しゆくの時は荷物持行」という記述があり、仙龍寺への遍路客を相手にする宿屋が数軒あったと思われる。この写真を右にゆけば平山に行くルートなのだが、残念ながら、もはや道は消滅してしまっているように思える。人が歩かなくなると道もなくなってしまうのか…↑不動堂↑不動堂から八丁坂(後藤玄哲坂)を下る途中いくつもの享保期丁石が残る途中、あの中務茂兵衛が発起人となって1914年(大正三年)に開設された新四国霊場が見えてくる。石像の寄進者には九州出身者の名前も見える事から、仙龍寺は、四国だけではなく遠く九州からも信仰されていたのだろう。↑中務茂兵衛が作った新四国霊場の中にある仙龍寺四国霊場を模したミニ四国というものが各地にあるが、ここ仙龍寺にもミニ四国霊場が設置されている。必見すべきは、ミニ四国霊場の中にも仙龍寺が存在している事だ。ルートから、少し横道にそれ、洞窟の中に弘法大師像が安置されている。★四国霊場第六十五番札所奥の院・金光山仙龍寺本堂(愛媛県四国中央市新宮町)いよいよ下山してきた。思いのほか、新四国霊場の下りがきつかった。はるか岩場を望み、境内は崖の上に建てられている。その景色は、実に壮観である。その後、Mさん送迎のもと松山に帰り、ありがたいことではあるが、Iさん、Yさんに楽しい宴を開いて頂いた。感謝感激。ありがとうございました。【参考サイト】[1]愛媛県生涯学習センター「奥之院仙龍寺経由の遍路道」 (伊予の遍路道・平成13年度、データベースえひめの記憶)★にわか四国遍路(14)に進む●本日の歩行距離・・・4.2キロ●総歩行距離・・・225.9キロ(四国遍路全行程の約16%)
2013/10/14
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★にわか四国遍路(12・中編)―大洲市豊茂~出石寺に戻る↑出石寺売店で頂く出石寺うどん(愛媛県大洲市豊茂)出石寺参拝を終え、出石寺売店へ。豊茂の三島神社離宮で昼食を取って以来、何も食べずに登山をしてきたので、空腹に襲われたが、食事処があって本当に救われた。登山後の食事は、実に体に染みわたるうまさであった。出石寺売店で西大洲駅への帰り方を教えて頂いた。感謝。↑出石寺から大洲への下り道(愛媛県大洲市・八幡浜市)大洲市と八幡浜市の境界上に道がある。出石寺からこの道を見つけるのに若干手間取ったが、参詣道の石段の下を降りていく道がこの道であった。↑瀬田戻りへの分岐。左に向かえば大洲方面↑ひたすら下り道↑眼前に大洲盆地が見えてきた↑途中、車道を下る(愛媛県大洲市高山)↑大洲城を目視できたら、西大洲駅はもうすぐそこ西大洲駅の写真を撮っていないのは、疲れていたから…というしょうもない理由である。それだけ、出石寺から西大洲駅への道のりは長かった。出石寺へ行くバスは近年廃止されてしまったため、公共交通機関を利用した出石寺への到達は困難である。つまりは、車を除けば歩いていくしか道はないのである。私の歩いた道は、険しい道のりであったが、その苦労を差し引いても出石寺参詣は価値あるものだと思う。今回、私は伊予出石駅から歩いたが、ウェブサイト等で管見の限り、出石寺への遍路道は伊予平野駅から歩いていく道が一般的であるように思える。私は、そもそも出石寺に行く予定はなかったものの、なんとなく出石寺への歩みを進めてしまったおかげでこのルートを歩くことができたことは幸いな事であった。そして、後で気づいた事だが、伊予出石駅は、かつて出石寺へのバスが発着する最寄駅であった。(いまでは、尋常じゃない距離を歩かなければならないが…)ところで、伊予出石駅周辺にも道しるべがあったり、豊茂からの立派な参詣道がある事から、伊予出石駅方面からのルートを利用する参詣者も多かったのではないだろうか。ゆえに、遍路道からは若干それてしまうが、にわか四国遍路の中に該当ルート(伊予出石駅~出石寺)を含めた事を追記しておく。さて、大洲から先は久万への道をゆかねばならないが、いつ歩く事ができるのだろうか…●本日の歩行距離・・・32.2キロ●総歩行距離・・・221.7キロ(四国遍路全行程の約15%)★にわか四国遍路(13)に進む
2013/10/14
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★にわか四国遍路(12・前編)に戻る 「出石寺は無理だろうけど…もう少し先の宇都宮神社まで歩いてみよう。」と、歩みを進めていると地元の軽トラのおじさんに声をかけて頂いた。豊茂の宇都宮神社は、山の上にあるらしく、なんと神社まで軽トラで送っていただいてもらった。↑ありがとうございました!!↑豊茂の宇都宮神社「宇都宮神社沿革」によると、願主の笠間蔵人により1475年(文明七年)9月14日に笠間城の守り神として創祀されたという。また沿革では、笠間蔵人=宇都宮宣綱と比定している。宣綱は、孫の正綱を笠間城主としたが、1543年(天文十二年)宣綱が笠間城で没すると正綱はこれを嘆き宇都宮大明神の称号を贈り氏神としたという。さて、笠間城は大洲地蔵ヶ岳城主・宇都宮氏一族の城である。「大洲旧記」によると、宇都宮清綱の次男・正綱が笠間城に居し、正綱の三男は藤堂高虎に仕え伊勢に行った後に帰郷し当地の庄屋になった。また、正綱の三男は、藤堂高虎の眼病を治した事で羽織を賜ったという。大洲の宇都宮氏は、1585年(天正十三年)豊臣秀吉の四国征伐に伴う小早川隆景の軍勢を前に開城した。その後、戸田勝隆が入部し中世以来の勢力が再編された。この笠間城主の宇都宮氏も他の諸氏同様、戸田勝隆入部の際に下城したと伝えられる。↑宇都宮神社を西へ…↑豊茂の三島神社離宮離宮から少し歩くと三島神社の本殿がある。三島神社は、愛媛県神社庁HPによると、1159年(元治元年)に出石寺の守り神社として創建され、豊茂の氏神となったという。↑三島神社本殿にある大洲市指定天然記念物のイチョウ(樹齢400年)↑豊茂を眺めて(愛媛県大洲市豊茂)さて、この先どうしようか。西を向くと雄大な出石寺山が見えている。これは、いくしかあるまい。出石寺には、確実な到着が見込まれる。だが、公共交通機関がある場所まで到着する事はできるのであろうか。不安が募る。が、考えていても仕方がない、出石寺を目指してみよう。↑県道28号線を振り返るとけっこうな標高を登ってきた事が分かる↑道幅が急に狭くなる(愛媛県大洲市豊茂字別府)不安になる道のり。急に道幅が狭くなる。その割に交通量は多い。出石寺へ参拝する方々であろう。↑突如として現れた金山出石寺参道しばらく道のりをゆくと突如として「金山出石寺参道」と書かれた立派な標柱が立っていた。どんなもんかと地形図を見ると、ぐねぐねした県道28号線を何回も越えながらほぼ直登するルートであったが、一見すると入口は整備されていた。さて、車道を行こうかどうしようか迷った挙句、直登ルートを行くことに決めた。(この判断は後で分かったことだが正解であったと思う)↑ひたすら登る↑県道28号線との最後の交錯↑郷峠(愛媛県大洲市・愛媛県八幡浜市)大洲と八幡浜の境界線、郷峠に到着した。ここは、ちょうど出石寺の直下になる。それにしても郷峠っていい名前。英語にしたらGo passという訳だ。出石寺までもう少し。↑参道入口から40分歩き、やっとこさ見えてきた出石寺★番外霊場・金山出石寺銅鐘(愛媛県大洲市豊茂)四国八十八箇所霊場第四十三番札所準堂、四国別格二十霊場七番札所に数えられる出石寺。標高812メートルの高嶺である。出石寺について「大洲旧記」の記述を見てみたい。此寺高山、雲にそびへ、遠海目前ニ迫り、肩を並山なし。養老年中、宇和郡の猟師、猪追て来、地裂巖開て千手観音、地蔵尊の石像湧出す。其威容凡様にあらず。則奇怪の思をなし、忽発心して剃髪し、道教と号して草庵を此山に結び、二仏を供養す。其後、弘法大師、此山に入て、久しく行有。其節の法具、其後色々の宝物有。中にも龍の爪冷し、奉納の文有。この銅鐘は、藤堂高虎が朝鮮出兵の際に朝鮮から持って帰ってきたものと伝えられ、国の重要文化財指定を受けている。★にわか四国遍路(12・後編)へ続く
2013/10/14
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★にわか四国遍路(11)に戻る2013年(平成25年)4月18日10時44分。予讃線伊予出石駅。伊予出石駅と遍路?いや…このルートは遍路道ではない。遍路道は肥沃な宇和盆地を大洲に抜け、喜多郡内子~大瀬~浮穴郡久万に抜けるのが一般的なルートである。そもそもこの旅立ちのきっかけは、自身の研究に関係する地名を訪れてみようと思ったからである。しかし、この計画が、まさかのにわか四国遍路になってしまうとは…。↑伊予出石駅時刻表↑乗ってきた列車を見送り(愛媛県大洲市長浜町大越)伊予出石駅で降りるのは、もちろん初めてである。ここから、大和川に沿って目指すは豊茂地区である。↑肱川と大和川の分岐↑まっすぐのびる愛媛県道28号線最近は便利なもので、ストリートビューでも県道28号線を追っかける事ができるので、マニアな方はどうぞ。↑大和小学校近くにある「柿の久保」への分岐と出石寺への標柱柿の久保というのは、実に気になる地名であるが、標高446.7メートルの鼻欠山の付近にある集落名であるそうだ。鼻欠山というのも実に面白い山名。しばらくまっすぐ進むと、大元神社の付近に標柱がたたずんでいた。↑明治14年に穂積村の有志が穂積地区へのルートを開削したそうだ↑穂積地区への道…実は、この道を通って穂積へ抜けようと思ったのだが、4月でさえもこのような有様である。あきらめて県道28号線を歩いてゆくことにしよう。↑大和川沿いに沿って道はゆく(愛媛県大洲市長浜町穂積)↑相生橋の付近↑大久保への分岐↑斎藤山…どんな由来があるのだろうか。↑生御院時間の関係上行くことはできなかったが、生御院という史跡を発見した。江戸時代中期以降の天災により、下土谷村(当時)の危機を感じた猪ノ尾の百姓が、石の御室を作り生御院と命名し、食を断ちここに籠り亡くなったという事である。↑人面岩人面岩はマスコミでも取り上げられたことがあるそうだ。地元の人がいたので、歴史の事等聞きたいことをお伺いした。↑見えてきた豊茂地区↑豊茂郵便局は街の図書館である。平日だったので豊茂郵便局を訪れ、必要だった為替を購入した。明らかに歩いている格好だったので、「出石寺に行くんですか?」と聞かれたが、その予定はなかった。しかしながら、まさかその出石寺に行く事になってしまうとは、この時は知るよしもなかった…★にわか四国遍路(12・中編)に進む
2013/09/27
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珈琲がないと生活に支障が出るのは、昔から。七度目の引っ越しは、町外れ。いや、はたからみたら十分な町なのかもしれないが。 明日は、有益な一日にしよう。 さうしよう。
2013/08/07
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あ、どっこいしょーどっこいしょー ひっさしぶりに竿灯へ。 よう考えたら10年ぶりかな。 今年も東北さ短い夏がやってきました。^ ^
2013/08/06
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ご無沙汰いたしております。 すっかり、ココも過去の遺物になってしまいやした。ヽ(´o`; 久々に発掘しに参りましたが、どうにもiPhoneから楽天ブログが更新できるそうで。 世の中は、進化していきますなあ。個人的に楽天写真館の使い方がいまいち分からんですね。 なぜか、私は『商店建築』なる雑誌を読んでいますが、今までとは、違う道に進んでいるような気がします。 さあて、この先、どうなるんだか。 気がついた時に更新してゆきます。
2013/08/06
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2003年(平成15年)3月29日宵、しょうもない中坊が楽天広場に開設した紫色のけったいなページ…ブログなんて単語はなく、ネチケットとかいう言葉があふれていたそんな時代。あれから10年。私は生誕から四半世紀。四捨五入したら30代。四捨五入しなければ25歳。世の中もいろいろ変わりました。私自身もその周辺もいろいろ変わりました。とりあえず、皆様のおかげで当ブログも10年目を迎えることができました。生きてこの日を迎えられたことに感謝しております。この鬱ブログの閉鎖も何度となく考えましたが、ただでさえ過去の記憶を忘れて行っているのに、唯一の証人である記録がなくなることの怖さを知っている日本史研究者の端くれの心情が、その閉鎖を思いとどまっている次第であります。ここに皈る事は、自分の歩んできた道を振り返るいいきっかけという事でしょうか。このブログの行方は不明です。どうなるかわかりません。何かいい活用法や方策があれば教えていただければ嬉しいです。改悪にならない程度にデザイン等改変する予定です。今後とも何卒、よろしゅうたのんます。平成二十五年四月二十二日管理人
2013/04/21
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今宵はつかれたので、友人宅で少し、お酒を入れて帰宅。こんな夜更けなのに、塩気のあるものをとカップきしめんを買いました。何よりも幸せなひと時です。吉幾三が、新日本ハウス~♪のなかで・・・「お元気ですか?幸せですか?そしてあなたにはどんな夢がありますか・・・♪」と歌っているので、なんだか泣けてきました。やはり吉幾三は農作業用ですね。長らく農作業せんな~。米でも育てたいな。明日も御仕事に御座候。がんばっていきまっしょいー^^
2013/02/27
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たいへん、ご無沙汰しております。今年もこの季節がやって参りました。年末年始は去年に引き続き、一人で過ごします。さて、今年を振り返るといろんなことがありました。人生を振り返っても、今年のような激動な年はなかったような気がします。(・。・)変革の年とでもいうのでしょうかね。来年はいいことがあるといいねっ。それでは、皆様、よいお年をお過ごしください。来年はここも10周年です。何卒、今後ともよろしくお願いいたします。平成二十四年師走も晦日かえりみち管理人ぶぎゃふ
2012/12/30
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さて今日は久々の雨。もう一か月くらい降ってないような気がしたので、たまの雨はいいもんです。しかしながら、雷注意報も出てるので、十分に注意しましょう。世の中は増税だの、竹島だの、世話ない話が多いです。竹島に関しては、いくら朝鮮が実効支配しようとしていても、日本固有の領土であるのですから、今度の大統領訪島を受けて、我が国は大使召還のみならず、経済制裁など強硬策を行うべきでしょうね。日本人としては、どんなことがあろうとも、竹島は日本固有の領土であるといわなければなりません。相手国の弱みをもって嫌がることをするのが外交であり、どこまでもっていけるか、かけひきするものですからね。相手の顔色をうかがい、なぁなぁにしてしまったら、相手に付け入られるだけですよ。争いを好まない、日本は昔から外交が下手なのですね。朝鮮は近頃、「対馬も韓国の領土だ」と言っていますが、そんなことを、日本が「はいはい!!」と流していたらたいへんな事になりますよ。国益を失うことでの損失は大きいです。このように、日本と朝鮮はいつの時代も政治的には敵対しますが、そうはいっても民間レベルでの交流は盛んに行われていますし、在日、在朝の両国人は多くいるのですから、この流れを止めることは誰にもできませんね。これは新羅・百済のずっーと昔から繰り返されていることです。それだけ文化的にも近い国ではあるのですが、隣国同志というのは共通の利害関係が働くので、世界中、どこの国でも隣国は敵対するものです。しかしながら、日本人の島国気質と、朝鮮半島の人々の気質は違いますので、価値観そのものが違いますので、そのことを割り切らないと、やっていけないですね。日本と朝鮮半島が仲良くやっていくことは、これからも生涯無理でしょう。しかしながら、国交が断絶しようと、万が一戦争という災禍が訪れようとも、両国の交流は続けられ、お互い良い刺激を受け続けなければならないというのは何とも皮肉なものです。東アジアのバルカンと呼ばれている朝鮮半島を隣国に抱えながら、21世紀を生きていく我々は、どのようにしなくてはならないのか。常に考えなければなりません。それにつけても21世紀を迎え、これまでのような帝国主義という時代も、社会主義の時代も昔話になっていき、グローバルな時代に突入しました。これから先の時代は国家という枠組みをビヨンドする時代が来るのでしょうか。我々は、100年先の末裔に誇れる国を作り、そして守っていかなくてはなりませぬ。
2012/08/11
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初夏の候、いかがお過ごしでしょうか。こちらはさまざまな事象に追われていますが、なんとか体を壊すことなく生活をしております。大学を卒業して、親しかった友人も離れてしまう中でも新しい事をやってやろうと心だけは勇んでいる次第です。しかしながら、身内の方で予期せぬ問題に遭遇し、やるせない思いを経験しているところです。半分学生、半分社会に足を突っ込んだ人という事で、何かと面倒な事は多いですが、これもまた勉強だと思いありがたく思っております。さまざまな後悔とつけに追われながら、明けない夜はないものと信じて頑張っていきましょう。
2012/06/02
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ご無沙汰しております。(・。・)当ブログは2003年3月29日からはじまり、9年目を迎えることができました。本当に皆様のおかげです。最近は専ら更新はしておりません。楽天ブログも時代の流れとともに変わっていき、私が頻繁に更新した時代とはすっかり様変わりしてしまいました。写真やブックマーク、BBSの終了はなんとも寂しいもので、これらの仕様変更は、長年楽天ブログをやってきた私にとっては改悪なのかなと思ったりしていますが、運営が決めたことですので、まぁこれも時代の流れだと受け止めるのは、世の常だとも思っていたりもします。笑ここは愛着のある場ですし、定期的に見てくれる人もいるので、閉鎖は致しません。あくまでもここはかえりみちですので。笑今後も、たまーに更新いたしますので、何卒見守っていただければ幸いです。四国松山でも桜が咲きました。まだ、しばらくはこの土地にいることになりました。帰る場所はまだ沢山あります。ww平成二十四年四月八日かえりみち管理人 ぶぎゃふ
2012/04/08
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たまには歴史の話でもしましょうか・・・ さぁ、今年も椿まつりの季節がやってきました。(・。・) 椿まつりは、愛媛県松山市にある伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)神社(通称、椿神社)で行われております。 ↑椿まつり初日深夜 ↑お忍びの渡御、みこし ↑貸銭の神事 椿神社のホームページによると、小額の守り金を借り、翌年は倍額(多いとの意)にしてお返しする行事です。借りる際に神社側より氏名・住所を尋ねられる事は無く、誰もが無条件に借りることが出来る神と人との信仰と信頼に基づいた特殊祭儀であり、本年も生活に励み、来年無事にお返しの参拝が出来る事を祈る祭儀ですとのこと。 ↑境内 椿神社では「愛比売命(えひめのみこと)」という神を祀っていて、何を隠そう、愛媛県の名前の由来はこの神様から頂いております。日本47都道府県数あれど、神様の名前のついた都道府県は愛媛県だけでございます。 ところで、律令国家は神社の祭神を組織化しようととし、全国の神社に幣物を分け与えました。この神社の一覧が『延喜式』に掲載されており、これを延喜式内社といいます。伊予国には二十四の延喜式内社がありました。 一般的に伊豫豆比古命神社は伊予国伊予郡に位置する延喜式内社に数えられているとしていますが、異説もあります。 この説の根拠として以下の史料を挙げているそうです。 『続日本紀』天平神護二年四月甲辰条 伊予国神野郡伊曽乃神、越智郡大山積神並授従四位下、宛神戸各五烟、久米郡伊予神、野間郡野間神並授授五位下、神戸各ニ烟、 これによると、伊予神(イヨズヒコノミコト)を祀っている神社は久米郡に位置していることが分かります。また『新抄格勅符抄』という史料からは、二つの伊豫豆比古命神社があることが分かり、これを根拠にすると久米郡と伊予郡に二つの伊豫豆比古命神社があって現在の椿神社は久米郡の伊豫豆比古命神社となり、延喜式内社に書かれた伊豫豆比古命神社ではないことが分かります。 延喜式内社に記載された伊豫豆比古命神社は伊予郡松前町にある伊予神社ではないかという説があります。どちらにしろ伊豫豆比古命というのは古来より中予の人から崇敬されたものなのでしょうね。(゜o゜)
2012/01/29
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明けない夜はない。どうも、明けましておめでとうございます。ところで、マヤ文明によると今年で暦が終わっているとか。2012年に地球は滅びるなんていう人もいます。wwま、それ以前の平安時代から我が国は末法に入っており、もはや神も仏もない時代。人間が人間らしからぬ時代。そう考えたら人間は何処から来て何処に向かっているのか?たまに私は分からなくなります。(゜o゜)きっと今年は明るい一年になるでしょう。自分を見失わず頑張っていきましょう!!早速ですが、今年の紀州根来寺の干支のモニュメントがどうなったのか気になります。知っている方はコメントください。平成二十四年元旦このブログも8年目今年は厄年だよ、かえりみち管理人ぶぎゃう(・。・)
2012/01/01
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すっかりここからも遠ざかってしまいました。中々、ここを更新する機会もなく、気がつけば年の瀬。あっという間に、師走は過ぎ去っていきました。思い返せば、今年は大変な年でした。3月に起こった、東日本大震災で多くの人が命や住むとことろを失い、いまだ収束が見込めない福島原発事故が発生し現在も深刻な状況をもたらしています。私事でも、今年は色々な事件がありました。オトナの階段を登る今、私はまだまだ子供です。色々な面でオトナになっていきたいと思います。懐かしい友人の就職が決まり、今日は少しだけ電話しました。内定が決まったといえども現実は厳しいわけで、それでも好きなことができるというのは羨ましいことだと思います。まだまだ若い、頑張れよ。そして私も恵まれた環境であることを感じました。めげずに頑張っていきたいと思います。さ~来年は辰年。24歳。ついに2廻り目が来てしまうのか…当たり前のことに感謝しながら今日も生きていきます。本年はたいへんお世話になりました。来年も皆様方が繁栄しよい年になることを願っております。よいお年を!!平成二十三年十二月二十九日かえりみち管理人・ぶぎょう
2011/12/29
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すっかりご無沙汰ですね。(^^♪最近は、面倒なこと、厄介事など様々な問題を抱え意気消沈しているところでございます。そして待ち受けるは卒論。まったく手付かず。そんな中、腹が減ったので、ちょっと歩いて中華料理屋に行ってきました。深夜の中華料理を腹いっぱい食べたのですが、どうにもこうにも、幸せな気分になりました。飯っていうのはこんなおいしいものだったんだろうか…帰りしな自販機で缶コーヒーを買って、月を見ながら帰ってきました。なるようになるとは思うけれども、無理せずやっていこうじゃあーりませんか。楽天ブログのBBS、足あとなどの機能がいろいろと終了するみたいですね。長いこと楽天をやってきたので、寂しくもありますが、時の流れというのはそういうもんでしょうねー
2011/12/15
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ここもすっかり放置しておりますが、それなりに元気に暮らしております。ぶぎゃうです。(・。・)いよいよ秋も深まり、自分が卒業論文を書く時期になってしまいました。本当にこんなの書けるのか!?と思っていましたが、大學4年間の集大成でもあり、来年度以降も大學に残る可能性を考えると、ここは終止符ではなく通過点なのだなぁと思います。この四国という島にはもうしばらくいることになりそうですね。
2011/10/28
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どうも、ぶぎゃうです。(^^♪なんとか生きております。↑七月中旬は実家へ帰省↑せっかくなので平泉の中尊寺金色堂へ。↑帰松後は徳島旅行へ↑四国最強の秘境駅、坪尻↑先日は尾道へ!!(千光寺公園より)とりあえず、最近の近況はこんな感じです。色々、行事がさしせまってますが、なんとかやらねばならないでしょうなー。
2011/08/12
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★にわか四国遍路(10)に戻る2011年6月5日。ふと、遍路を歩く機会に恵まれた。続けて打っていこうと思うのだが、もはやそのような悠長なことは言っていられない。歩けるうちに歩かねば。宇和島駅スタート。↑南予特有のスコールみたいな雨(愛媛県宇和島市)だらだらと長い坂を根無川沿いに三間方面へ。 ピークを超えると視界が開け感動の光景が見えてきた。 「あぁぁぁぁ、三間盆地だ!!!」 盆地を見て興奮するのも歩き遍路の醍醐味である。(笑) ↑三間盆地 三間は南予屈指の穀倉地帯である。↑お寺と思いきや鳥居。これぞ神仏習合。 三間の龍光寺は、神仏習合が色濃く残る。 通称「三間の稲荷さん」と呼ばれている。 ★四国霊場四十一番札所・龍光寺本堂(愛媛県宇和島市三間町) ここから、次の仏木寺(ぶつもくじ)までは、若干の距離がある。 ↑仏木寺の鐘楼は茅葺 ★四国霊場四十二番札所・仏木寺本堂(愛媛県宇和島市三間町)ここで妙な足の痛みを感じた。アスファルトを登山靴でずっと歩いたせいだろうか。 三間から宇和へ抜ける道は「歯長峠(はながとうげ)」といって難所である。由縁はその昔、東国武士の足利又太郎という人物がこの峠の頂に庵を結んだそうだ。この足利又太郎という人物の歯が長かったので、歯長峠というそうだ。 ↑辛いのは最初だけ!! そしていざ、絶頂。↑歯長峠 ほんとうは吉田の海が見えるはずなのだが、何にも見えない。 ここから7キロ。卯之町は近いはずだが、肱川沿いに延々と道をゆく。 どうして卯之町に肱川が流れているのか地形的にまったく理解できなかったが、卯之町から野村に流れて、そこから大洲、長浜へとU字に肱川は流れていることに地図を見てやっと理解できた。 そして宇和の明石寺(めいせきじ)へ!!★四国霊場四十三番札所・明石寺本堂(愛媛県西予市宇和町)やっとこさ、明石寺に着いた。次回は卯之町から旅をつづけよう。 ●本日の歩行距離・・・23,8キロ●総歩行距離・・・189,5キロ(四国遍路全行程の約13%)★にわか四国遍路(12・前編)に進む
2011/08/12
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「原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。」村上春樹氏による(カタルーニャ国際賞スピーチより)東日本大震災から3ヶ月が経ちました。復旧の目処は立たず、事態は深刻化・悪化の一途を辿るのみです。とりわけて福島第一原子力発電所事故に関する報道には政府・東電・保安院・安全委員会の意図的な隠蔽が見受けられます。さて「空き菅」や「菅 無能」と検索される我が国の総理大臣は史上に汚点を残す総理大臣になりましたが、彼のせめてもの功績を述べるとすれば浜岡原子力発電所を停止したことでしょうか。浜岡は東海地震の震央域に位置しています。これは停止すべき原発であり、停止は当然です。私が住んでいる愛媛県にも四国電力の伊方原子力発電所があります。愛媛県伊方町は佐田岬半島という日本一細長い半島に位置します。↑伊方町名取の海岸この伊方町は風光明媚な海岸線とおいしい魚、人情あふれるステキな町です。しかし、ここの伊方原子力発電所も安全な原発ではないのです。そう、この伊方原発は世界で最も活発な中央構造線の真上に位置してるのです。これ以上、国民に危険な思いを強いる原発など日本には必要なのでしょうか。私は疑問に思います。たしかに我々は今度の震災が起きるまで、原発の恐怖を知ることなく、電気を浪費して生活してきました。私は原発などに興味も示さず生きてきました。しかし、政府や電力会社、先生たちは、原発は危険なものであるということを国民に認識させてきたでしょうか。「原発は安全である」「地球温暖化を解決するクリーンなものである」といって国民をだまし、地震大国日本においても津波対策や地震対策をせず老朽化した原発を動かしてきた責任があります。実際に原発はクリーンなものではなく、放射性物質を含んだ熱水が海に放出されたり原発ジプシーといった社会問題を生む原因にもなっています。本当にこれがGDP2位の先進国がしていることなのでしょうか。みんな自分のことしか考えず、将来のことなど誰も考えていない。福島県の皆様の心中を思うと、心が痛いです。これ以上、ふるさとを失う人がでない為にも、ふるさとを守るためにも日本国内の原発54基は即刻停止すべきです!!原発がなくなったら停電にするという電力会社の圧力に負けてはいけません。原発がなくても十分電力は足ります。広島の平和記念公園には次のような言葉があります。「あやまちは繰り返しませぬから」以下、参考リンク☆6.11 脱原発100万人アクション -Action June 11 No Nuclear Power-☆武田邦彦ブログ3年ほど前に京都で武田先生の講演を聞いたことがありましたが、地球温暖化はないという斬新な発想をもっています。原子力にも詳しい武田先生は信用できる情報を発信してくれています。☆広瀬隆さんの書籍・追記↑名取の石垣(愛媛県伊方町)伊方町名取地区は、陸奥國名取郡(宮城県名取市)から宇和島藩伊達家にしたがって移住してきた人たちが住み着いたところだそうです。こんな四国の果てにも東北の香りを感じることができるのですね。
2011/06/11
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ゴールデンウイーク序盤戦、石鎚山頂上にアルバイトに行ってきた。(゜o゜)今年は例年よりも雪が多いみたいだが、残雪期の石鎚山は初めてだ。↑石鎚山東稜↑頂上からニノ森・堂ヶ森方面を眺める移り変わる景色に思いをはせながら、八十八夜の夜をすごしているところだ。
2011/05/02
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☆2011年4月17日~18日月1で関西に行ってるような気がするし、予算もバカにならない。破産寸前(いや、破産してるし!!)ですけど、まぁやるべきことなのでしょうがない。ちなみに今回の旅は移動でありまったく観光ではないので悪しからず。↑東海道新幹線から見る京都駅いや、京都に新幹線で来るとは我ながらvipになったもんだね。(^^♪東海道線に乗り換えて安土へ。↑安土駅前の織田信長銅像っていうか、安土はもう30回以上通ってるけど降りるのは初めて。農道を歩いて目的地へ。↑安土城跡しかし、安土城を目の前にして今回はスルー。(笑)また、そのうち来たいですね。↑滋賀県立安土城考古博物館菜の花と桜がイイネっ。(゜o゜)ここで箱詰め。いろんな人がいろんなこと言うてはる。近江八幡で懇親会、急いで京都へバック。↑定番の塩小路たかばしの新福菜館やっぱ新福は最高だね。なんだか、秋田の末廣を思い出しちまった…そりゃそうだがね。wwwあぁ、いいねこの味は。第一旭とはしごしたかったのだが、金もないので、お宿へ。東海道線で大阪へ。御堂筋線でなんばへ。↑南海なんば駅、夜の町に繰り出さず寝る。おやすみなサイ。翌日…↑阪和線の大和川橋梁大阪市の一番南で半日くらい箱詰め。有意義な一日だった。↑大阪駅はリニューアルして東京駅みたく立派になってる。あぁ昔の大阪駅の面影が・・・・まだあるけどね。急いで、東海道山陽本線を西へ。姫路でえきそばタイム。↑関西と中国の中間として著名な相生駅(兵庫県相生市)相生マジック♪…の舞台。(相生→岡山を新幹線に乗ることによって、岡山から先の特急券を半額にするというマジカルなお話を体験できます。)ここでわざわざ一駅だけ新幹線に乗るのです。↑300系ひかり新幹線はステキですね。やっぱりこれだけ所要時間が短縮されると、飛行機いらず。日本の技術は素晴らしい。↑淡路屋の弁当で一杯そしてイマにいたる。明日はバイトだ。寝よう。疲れた。
2011/04/18
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ご無沙汰です。なんとか生きております。(゜o゜)とはいえ、最近まったくブログを書いていなかったので、ちょっと振り返ってみましょう。2月…紀州和歌山へ。久々の和歌山訪問。というか、和歌山に行ったことすらブログに書いていなかったのか…。3月…東北関東大震災発生。未曾有の大惨事。イマまで日本人が当たり前にやってきたことが大幅に見直されなくてはならないだろう。大きな変革元年である。これだけの悲しみは決して無駄にはしない。残された者はやるべきことをやらなくてはならないと思う。4月…いい日旅立ち、西へ。九州横断。 ↑五高の桜(熊本県熊本市黒髪・熊本大学黒髪キャンパス)↑日豊本線から桜島を眺める(鹿児島県鹿児島市) ↑肥薩線をゆく(鹿児島、宮崎、熊本県境)鹿児島まで行ってきたけど、さすがに遠かった。熊本でも遠いのに。最近は所用の為、県外を訪れる機会が多いような気がする。いよいよ卒業の年であり、そして分岐点。早いものだ。。。。ではでは、またそのうち日記を書きますので、それでは。
2011/04/16
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