全13件 (13件中 1-13件目)
1
物語の嗜好は、その人が過去に何を好んだかでだいたい固定されてくる。どのような教養の中で育ったか、それによって何を読むか(観るか)が決まってくるといってもいいだろう。Mizumizuが手塚治虫を好むのは、この天才漫画家が感動した小説や映画にMizumizuと共通するものがあるのではないか――そう思って、手塚自身のエッセイを読むとき、そうした言及に注意を払うようにしてみたことがある。結果――手塚の興味、いわゆる守備範囲は広すぎて、大きな円にMizumizuの小さな円が含まれてしまう感じだ。Mizumizuは手塚治虫ほど読書家ではなし、映画好きでもない。ただ、手塚治虫が具体例として解説などで挙げている物語は、わりあい限定されている。『シラノ・ド・ベルジュラック』もそのひとつ。これはMizumizuも大好きで、小学生のころ、何度も読んだ。といっても、読んだのは少年少女向きにやさしく描き直された『悲劇の騎士』という作品名だったのだが。あとは手塚漫画の中に、元ネタを探して「やっぱり手塚先生もアレ読んでるな」と、過去の読者体験を思い出すのも楽しみのうちになっている。『アッシャー家の崩壊』のように、手塚自身が作品(『ロバンナよ』)の中で元ネタをバラしているものもあるが、たとえば『ブラック・ジャック 人間鳥』の、何とも言えないラストシーン。これを見て、Mizumizuは『スガンさんのやぎ』が元ネタだと勝手に確信してニヤニヤした。これに気づいた読者は日本中に何人もいまい――と得意になっているのだ。幸いなことに、Mizumizuの主張(思い込み)が作者によって覆されることは、もう、ない。最近のSNSの発達で、いろいろな人の手塚評が読めるようになった。やはり「知られざる元ネタ」を誇らしげに推測して「そう思う人いませんか?」なんて書いてる人もいて、「おんなじやな~」と、またニヤニヤした。残念ながら、その方の挙げた手塚漫画も元ネタだという作品も、Mizumizuは知らないので、当たりかどうかは判断つかないのだが。手塚治虫は『スガンさんのやぎ』を読んだか? なんて愚問だ。当然読んでいる。断言してもいい。同書は自由、命をかけた闘争…という手塚漫画を共通のテーマを持っている。勝てない相手に挑み、死という悲劇に終わりながら、その命がどこか輝かしいのも、手塚作品に共通する。『スガンさんのやぎ』は、やはり小学生だったMizumizuが絵本で読んで、衝撃を受けた作品だ。やぎの選び取った生き方とその結末について、ずいぶん考えた。スガンさんのやぎは、一晩の自由を得て、幸せがったのだろうか? スガンさんがやぎの運命を知ったとき、どんなに泣いただろう? そんなことを想像した。こうした逆説的な「自由意志」の賛美は、日本人の作品には滅多にない。あるとすれば手塚作品だ。例えば『ジャングル大帝』。レオは恩を受けた人間との約束を守るために、「行かないほうがよい」と分かっている場所へ赴く。自分が帰ってこれないかもしれないと分かっていても、自由な意志で彼の中の道徳にしたがうのだ。まるでカント哲学の実践のように。だから、レオの最期は悲愴ではあっても無残ではない。最近始まったインタビュー記事の連載の中で、水野英子は『ジャングル大帝』について以下のように語っている。https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20240222-OYT8T50085/最終回のことは忘れられません。本屋で「漫画少年」を買って家まで待ちきれず、店先で読み始めました。吹雪のムーン山で、レオがヒゲオヤジを助けるために自ら身をささげ、毛皮となる場面では、感動でポロポロ涙がこぼれました。親が死んでも泣かなかった子が、手塚先生のマンガにこれほど泣かされたんです。(引用終わり)ジャングル大帝の悲劇は、多くの子供には重すぎる。トラウマ級のショックだろうし、拒否反応を示す子供も多かっただろう。水野英子はもともと文学少女で、作品の質を見抜く眼が鋭かったのだろう。その「感性のエリート」ぶりは、藤子不二雄とも共通する。手塚漫画は、その時代その時代で、必ずしも「雑誌アンケート1位」の作品ではなかった。つまり、もっと大衆的な人気のを集めた作品は別にあった。だが、手塚漫画の真価を分かる読者が、あまりに才能豊かで、「物語るために生まれてきた」、いわば「物語のエリート」とも呼べる逸材だったのだ。そして、彼らがのちに人気漫画家として手塚を脅かすほどの存在になったことが、なんとも逆説的に手塚治虫という存在を「まんがの神様」にまで高めたと言える。「感性のエリート」水野英子は、小学4年生の時に『ホフマン物語』を見て、感激している、https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20240221-OYT8T50100/母と見た映画で一番印象深いのは、オッフェンバック作曲のオペラを原作にしたイギリス映画『ホフマン物語』です。小学4年生の時でした。幻想的な美しさに感激し、映画が終わった後も椅子にしがみついて「もう一度見たい」とだだをこねた記憶があります。この映画は、その後の私のファンタジー感覚の源になりました。(引用終わり)手塚治虫も、『ホフマン物語』に触発されて、『ばるぼら』を描いたと言っている。「『ホフマン物語』は、ぼくにとって青春の感慨であり、人生訓なのです」(講談社 手塚治虫漫画全集 『ばるぼら(2)』 あとがきより)青春の感慨――うまい言い方するなぁ。こういう「教養で完全武装したような言葉」をさらっと使える人が(多くの人がバカにしていた)戦後日本の漫画界に現れて超人的な仕事をしたことで、「教育上よろしくない」漫画を集めて焼いたりしていた人たちは、最終的に退場せざるを得なくなったのだ。水野英子を見出したのは手塚治虫で、手塚治虫の紹介で雑誌「少女クラブ」に描き始めるが、徐々に育ってきたことで、編集者の丸山昭は、「手塚治虫のバトンを完全に水野さんにタッチできた(佐藤敏章『神様の伴走者 手塚番13+2』)」と安心したと語っている。水野英子自身はインタビューで、自分は少女マンガ家だとは思っていないと述べている。https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20240218-OYT8T50108/「少女マンガ」というジャンルは1970年代に成立したものだと思います。私たちが50~60年代に少女誌に描いたものは「少女向けマンガ」と呼んだ方がいい。「少女マンガ」は、私たちの後ろにできた新しい言葉です。(引用終わり)水野英子自身の意識はそうかもしれない。だが、手塚治虫が切り拓いた「少女向けマンガ」のバトンを受け取り、次に水野に憧れた才能のある女の子たちがその分野に進出する。やがて、有名女性漫画家が次々生まれて「少女マンガ」が一大ジャンルとなる――その流れの源泉を作ったという意味で、やはり水野英子は「少女マンガの先駆者」だろう。彼女が「女手塚」と呼ばれる所以も、その影響力の強さにある。『神様の伴走者 手塚番13+2』でインタビュアーも、「水野さんが手塚先生の占めていたパートを担ったという印象はありますね」と述べている。手塚治虫から水野英子へ。この2人の先駆者の感性を刺激した作品が、同じ『ホフマン物語』だったというのも、偶然ではないのだろう。ちなみに、Mizumizuが最も好きな小説はゴーゴリの『外套』。感性が鋭かった若い時代に感動した小説はほかにもあるが、年を重ねて読み返しても昔とは違った視点で楽しめると感じた小説はこれだけだ。多くの小説は、それこそ『ばるぼら』の松本麗児じゃないが、昔受けた感動が古色蒼然として見える。だが、『外套』は時間が経ってもMizumizuを裏切らなかった。ゴーゴリはホフマンの影響下にあったという。その意味で、Mizumizuの嗜好も手塚・水野に水面下でつながっているのかもしれない。少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録 [ 水野英子 ]【中古】神様の伴走者 手塚番13+2 /小学館/佐藤敏章(単行本)ばるぼら (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.02.28
昨日紹介した記事の中にある鈴木伸一の「漫画家とアニメーション(アニメーター)というのは、本質的に違うもの」の好例がある。月岡貞夫と石ノ森章太郎の若き日の短いエピソードだ。月岡貞夫は小学生の頃から手塚治虫にファンレターを送り、それに返事をもらったりしていた。そして高校二年の時に、手塚からアシスタントにならないかと誘いを受ける。月岡は1年待ってもらい、高校を卒業するとその翌日に父親に黙って上京、手塚治虫のアシスタントになった。石ノ森章太郎は高校1年生の時に手塚治虫に乞われて『鉄腕アトム』のアシスタントを経験、その後すぐ17歳で漫画家としてデビュー。上京して一人暮らしをするが、生活能力ゼロ。見かねた赤塚不二夫が、同居して食事などの面倒を見始めた。なかなか仕事に恵まれない赤塚と違って、石ノ森にはコンスタントに仕事が入ってきていた。今では押しも押されもせぬアニメ界、漫画(萬画)界の巨人たちだが、月岡・石ノ森のこの二人、20歳前後の数か月(何か月だったかはっきりしないが、半年以上だったという説が有力)、東映動画で「同僚」だったことがある。1958年、東映動画が手塚治虫に『ぼくのそんごくう』をマンガ映画にしたい(当時はアニメという言葉はまだなかった)と持ち掛け、そこから始まった「手塚治虫、多忙につき」の迷走が、この二人の運命をほんの短い期間交差させることになる。アイディアを出した東映の白川大作氏のインタビュー記事が以下にある。http://www.style.fm/log/02_topics/top041115.html手塚さんは、アニメーションをやりたくてやりたくてしょうがなかった。それで、ディズニーについても、非常によく研究していたし、知識もいっぱいあった。それで「ストーリーボードから入りたい」と言い出したわけですよ。ストーリーボードを全部描くと言い出したわけ。こっちにしてみれば願ってもない話だった。ところがそれは手塚さんの、いつもの安請け合いだったんです(苦笑)。 とにかく、その時は手塚さんはアニメーションをやるという事で意気込んだわけですよ。そうすると当然、雑誌の仕事にしわ寄せが行くわけだ。その時、すでに大売れっ子でしょ。本当は漫画の連載だけで目一杯のはずなのに、アニメーションの方にウエイトを置いちゃったから、雑誌の方が全部押せ押せになっちゃうわけですよ。あの人は、連載の仕事にしても話がくるとほとんど断らんわけですよ。それだけの量がこなせる超能力者ではあったんだけどね、人間だからいつも上手くはいかない。どっかで穴が開いたり、編集が待たされたりするわけなんだけど。漫画界でも、劇的な変化が起ころうとしていたころだ。小学館と講談社が同時に週刊誌の創設を決め、時代が月刊誌から週刊誌へ移ろうとしていた。手塚治虫争奪戦も起こった。東映動画の『西遊記』(手塚の『ぼくのそんごくう』)は迷走していた。手塚が描くと言っているストーリーボードが完成しない。というよりも、手塚に描く時間がなかった。雑誌の仕事は、それまでは月の後半に集中して月刊誌を描いていけばよかったが、週刊誌連載も始まったので、毎週締め切りが来る事態となっていた。東映動画の打合せにも定刻通りに着いたためしがなかった。東映動画では手塚への不信感が増していき、雑誌の編集者たちはこれまで以上に原稿の締め切りが遅れるのでいらだっていた。両立は無理だった。手塚と編集者たちの間に立つマネージャーの今井は、「もう大泉(東映動画)へ行くのをやめてください」と言わざるを得ない。手塚もさすがに両立の困難さを痛感していた。(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より引用)。こうした事態を打開するために派遣されたのが、実家が映画館を経営していて子供のころからアニメの研究をしていた月岡貞夫。手塚のラフなストーリーボードを完成させる役割だった。しかし、いかに作画の速い月岡でも一人では手が足りない。そこで追加派遣されることになったのが、手塚と同じくらいディズニー好きで、手塚をして「ディズニーが放棄していった抒情性を、突き詰めるだけ突き詰めたような作品」を描くと言わしめたを石ノ森章太郎だった。彼らの人件費も自分が出すと手塚は申し出ている。上の絵は、数ある手塚関連本の中でもバツグンの面白さを誇る(笑)『ブラック・ジャック創作秘話』から。月岡貞夫(左)と石ノ森章太郎が東映動画にバス通勤をしている情景。もともとはストーリーボードを完成させるだけの短期間の派遣だったのだが、東映動画に通ううち、二人はどんどんアニメ制作にのめり込んでいったという。石ノ森章太郎は仕事に迷いを感じている時期だった。もともと漫画をステップに映画監督になりたいという希望をもっていたのもある。当時の漫画家という職業は世間的にはまだまだ認知されておらず、社会的な地位も低かった。赤塚不二夫は東映動画にマジメに通う石ノ森章太郎の姿を見て驚いたようだ。「ストーリーボードを描くために、毎日サラリーマンのように東映に出勤していく君に、また驚いたものだ。自由業で不規則、生活はかなりワガママいっぱいに暮らしていた君が、あんなにキチンと通うことは不可能だと思っていただけにね」(赤塚不二夫『石森章太郎氏への手紙』)。月岡・石ノ森の両人は、ふたりとも東映動画に就職したいと白川氏に相談したようだ。ここで白川氏は二人の才能の方向に見合った決断をする。のちに「天才アニメーター」の名をほしいままにする月岡貞夫に関しては、白川が保証人となって東映動画に入社。石ノ森章太郎はそれについて、「アニメーションに向いた体質だったというか、才能があったんだな」と、『ことばの記憶』で書いている。石ノ森に対して白川は、漫画を続けたほうがよいとアドバイスする。http://www.style.fm/log/02_topics/top041115.html白川 月岡くんと石森は、最初は手塚さんが連れてきた助手なんだけど、やってるうちに2人とも「このままアニメーションをやりたい。東映動画へ入りたい」と言い出したわけ。その時、僕はまだまだ入って2年目ぐらいのペーペーだけど、僕が保証人の1人になって、月岡君を東映動画に入れたんですよ。石森は個性が強すぎて、上手いんだけどアニメーターには向かないと思ったんです。── 石森さんの後の活躍を考えると、正しい判断でしょうね。白川 「やめろ。あんたは、ちゃんと漫画をやれ」と言ったんですよ。「もうちょっと漫画を描いて、漫画が売れるようになったら、その頃は、俺ももうちょっと偉くなってるだろう。その時はお前の原作買いに行くから」って。それが後の『サイボーグ(009)』になるんですよ。その後ですよね、石森が段々売れ出したのはね。もし、その時に彼が東映動画へ入ったって、途中で辞めたと思うけどね。あの東映のアニメーションの制作システムの中で、石森章太郎が、大工さんや森さんの下についてアニメーターになれたかって言ったら、多分、なれないですよ。だけど、月岡君は天性のアニメーターだったから。月岡氏を「天性のアニメーター」と呼び東映動画に引き入れた。石ノ森氏のことは「個性が強すぎて、上手いんだけどアニメーターには向かないと思った」「東映のアニメーションの制作システムの中で、石森章太郎が、大工さんや森さんの下についてアニメーターになれたかって言ったら、多分、なれない」と判断して、自分の世界だけで勝負する道を奨めた。その後の漫画界での石ノ森章太郎の超ド級の大活躍を見ると、白川氏の目の確かさには、唸る。さて、手塚制作のキャラクターについて、東映動画のアニメーターはケチョンケチョンにけなしたらしい。白川 『西遊記』の話に戻ると、キャラクターも手塚さんが全部作ったんですよ。ところが、これが東映のアニメーターから総スカンだったんです。要するに「デッサンがなっちゃない」とか「前と後ろが違う」とか、画としてしっかりしてないと描けないというのが、アニメーターの意見だった。── このパンフレットに掲載されているのが、その時の手塚さんのデザインなんですか? これが総スカンを食ったものと考えていいんでしょうか。白川 そうそう。これが総スカンを食ったものですよ。それでね、清水崑さんの画をみんなが直したのと同じように、みんながそれぞれ修正を始めたわけです。だけど、そこに月岡君がいたから。彼は東映動画の中では全くの新参の若者だったわけだけど、才能もあったし、鼻っ柱も強かったからね。キャラクターデザインのかなりの部分を月岡君が担ったんです。白川氏は手塚漫画のファンだったということもあり、東映動画の中では「手塚寄り」のスタンスだった。「手塚の回し者」などと悪口も言われたそうだが、才能を見抜く目の確かさは、東映動画アニメーターが束になってもかなわない。内部にいて見えた東映動画の悪い点も冷静に指摘している。白川 ここで、あえて東映動画の悪口を言いますとね。── (笑)。白川 後に虫プロは、手塚治虫の画をアニメーター達が描いたわけですよ。ディズニーも最初はディズニーの画をアニメーター達が描いたわけですよ。ところが東映動画は全然違ったんですよ。どっちの結果がよかったかは別として。『白蛇伝』も最初は岡部一彦のデザインで、それは後になって大工さん(大工原章)や森さんが描いたものは、かなり違うんです。── そうですね。白川 あの頃、日本のアニメーターは、人の画に合わせて描こうという意識があまりなかったんですよ。ちなみに、白川氏は東映本社の人物で、東映動画の社員ではなかった。だが、東映動画の企画部で働いていた人間。だからといって、東映動画内の声ばかりを代弁するような人だったら、その後の白川大作の活躍もなかっただろう。上の発言を読むと、当時の東映動画に何が欠けていたかを冷静に見ているのが分かる。月岡氏にとってはもちろんだが、石ノ森氏にとっても白川氏との出会いは、その後の「自分にもっともふさわしい道」を選ぶきっかけとなったという意味で、非常に貴重だ。そして白川氏は約束を守る。石ノ森章太郎の『009』をアニメ化したのだ。そこから今日まで続く009伝説が始まったのだと思うと、その業績ははかり知れない。手塚治虫に倣うように早世してしまった石ノ森章太郎とは対照的に、月岡貞夫は日本人の「国際的アニメーター」の草分けとも言える存在になり、長くアニメ業界で活躍する。後進の指導にもあたり、アニメーションの技法書も多く執筆している。現在は大学でも教鞭をとり、2024年2月6日には中国で作品展も開き、本人(80歳超え!)も現地に飛んでいる!https://www.takara-univ.ac.jp/tokyo/news/2024/02/0206news.htmlアニメーション作家として活躍し、本学の特任教授を務める月岡貞夫氏による展示「不行不至-月岡貞夫作品展」が良渚文化芸術センター(中国・浙江省杭州市)にて、1月8日(月)から2月3日(土)まで開催されました。 月岡氏は、2009年に中国美術学院伝媒・動画学院(現:動画・遊戯学院)の客座教授に任命されており、日本と中国のアニメーション教育に深く携わっています。のちに業界を代表する存在になる月岡貞夫、石ノ森章太郎、そして白川大作の3人の若き日の出会いとエピソードは、「どうやって自分にもっともふさわしい、自分の道を切り開いていくか」のお手本のようにMizumizuには映るのだ。【中古】 月岡先生の楽しいアニメ教室 4 / 月岡 貞夫 / 偕成社 [単行本]【宅配便出荷】【中古】 NHKみんなのうた絵本 3 / 月岡 貞夫, 加藤 直, 井出 隆夫 / 童話屋 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】ブラック・ジャック創作秘話手塚治虫の仕事場から 3【電子書籍】[ 吉本浩二 ]
2024.02.24
トキワ荘の住人で、早い時期に漫画からアニメーション畑に転向した鈴木伸一(現・杉並アニメーションミュージアム名誉館)。その長いキャリアについてはWikiを読んでいただくとして、彼が藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らと設立したアニメーションスタジオ「スタジオ・ゼロ」が、一度だけ、当時一世を風靡していた日本初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の作画を請け負ったことがある。第34話「ミドロが沼」の巻だ。今、You TUBEで手塚プロダクションにより、この「お宝」映像が限定公開されている。https://www.youtube.com/watch?v=Zgw-jfzSXM4どうしてお宝なのかというと、この「ミドロが沼」、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが描いたアトムが見られるからだ。手塚治虫を追って漫画家となり、のちに押しも押されもしない大家となる面々は、手塚治虫の後を追いかけて、アニメ制作にも足を突っ込んでいた時代がある。その様子と「ミドロが沼」のエピソードについて当事者だった鈴木伸一が語ったサイトが以下。『アニメと漫画と楽しい仲間』の出版に際してのインタビューだ。https://www.mag2.com/p/news/583417/3(ミドロが沼)は、スタジオ・ゼロの実質的な初仕事として手塚治虫氏から受けたものだったが、トキワ荘の漫画家たちそれぞれの作画タッチがそのまま各パートに出てしまい、手塚氏がラッシュを観て頭を抱えたという有名な逸話の詳細が本書のなかで述べられている。「それぞれが漫画家ですからね、漫画家っていうのは癖があってこそ漫画家、癖が出てくるのが当たり前、それを考えもしないで受けて、手がないからみんなで分散してやったわけですから、当然そうなるというのは明確なんですけど……。手描きっていうのは本当によっぽど訓練しないと統一できない。だから作画監督制度というものを東映動画あたりがその後始めたわけです。ただ、当時のスタジオ・ゼロの面々は、だれもが僕より手塚先生の漫画に心酔して漫画家になった人たちだし、それを僕が直すのも失礼だし、それがそのままアニメーションになっちゃった。それがそのあと色々話題になったり面白がられたり。だから、漫画家とアニメーションというのは、本質的に違うものなんですね」実際に見てみたら、確かに時々アトムのプロポーションや顔が明らかに変で、それが普通のアトムと混ざって出てくるからおかしくて仕方がない。どのアトムが石ノ森アトムで、藤子不二雄アトムで…と指摘したサイトもあるので、興味のある方は検索を。こういう手作り感のあるアニメ、今ではありえないから、返って楽しめた。鈴木氏は手塚治虫との思い出についても触れている。「手塚先生は横山(隆一)先生のことを大変尊敬されておりましたし、ディズニーも大好きでした。そんなわけで、横山先生の弟子でありディズニーが好きという共通項をもった僕に、よく電話をかけてくれて、ちょいちょいいろんなところへ遊びに行きました。今考えるととても幸せなことです」こうした古い話から、現在のアニメーション技術の見張る進歩についても語っている。表現しようとしているものが変わってきていますか?「変わってきていますね。描線ひとつにしても今はもうぜんぜん綺麗で美しい。僕らの時代はまだまだそこまでいっていなかった。アニメーションがこれから拡がっていくという時代です。今アニメ界を代表するような宮崎駿さんなどもその時代にダーッと入ってきた時代。手探りでしたね」「ただ、そういった昔のものには、今のものとは違う力強さや存在感があった気もします。今僕らがやっている個人やグループ製作のアニメでは、僕のパートでダーマトグラフ(グリースペンシル)なんかで乱暴に描いたところがみんなの評判がいい。綺麗に描くのもいいけど、『かんじ』を、それが欲しいなと思っています」その「かんじ」とは、いったいどのようなものなのだろう。お話をうかがいながら、鈴木さんが横山隆一氏のおとぎプロにいたころのアニメ制作にヒントがあるような気がした。当時鈴木さんも他のスタッフも、絵コンテというものの存在を知らなかったとのこと。「今考えると、よくあんなやり方でアニメーションが作れたな、と思います。横山先生が一枚さらさらとお描きになった原画を、このシーンを何枚で、というのがない状態で動きをどんどん描いていくわけです。長さはできてみないとわからない。僕はそういうもんだと思っていました、知識がなかったから」もしかしたら、当時の自由なアニメ製作の楽しさや創造性が、今鈴木さんが参加されているグループでのアニメ作業に回帰してきているのかもしれない。「今やっている個人製作は自由で楽しいです、ぜんぶ一人で、グループのみんなそれぞれが自分の世界を作っている。頭の中の世界と、手の技術で」「手探りで試行錯誤の製作、できてみないとわからない楽しさ、そこへ行っちゃうと逆にちゃんとしたアニメーションの作り方のような元に戻れない。つまんないから。そういう手作りの世界へどっぷり浸かっちゃうことになっちゃう」技術が進歩すればするほど、ひとりの人間の力量でできる範囲は限られ、やがて作り手は大きなシステムの中の歯車になっていく。分業が細分化すればするほど、作画という作業のもつ原始的かつ根源的な楽しみが、作り手から奪われていくと言ってもいいかもしれない。鈴木氏の話しているのは、そういうことだ。こういう日本アニメの歴史の話のできる人も、こういう「昔の」アニメ制作の楽しさを知る人も、すでにほとんどいなくなっている。鈴木氏は90歳超え。よくぞ生きて、語ってくれました。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.02.22
トキワ荘マンガミュージアムに行ってきた。現在、企画展「ふたりの絆 石ノ森章太郎と赤塚不二夫」展が開催中。小学校の集団見学があったとかで、今日は11時からの開館。午前中にかなりの訪問客があった。平日ということもあってか、年配者が多い。初めて行ったのだが、区立のミュージアムとしてはかなり頑張っていると感じた。直接トキワ荘とは関係のない里中満智子氏の尽力もかなりあったらしく、彼女の言葉が掲示されている。なにより良いと思ったのは、1ページの漫画ができるまでのステップを絵とビデオで紹介しているところだ。漫画を描くのがいかに大変な労力を必要とするかよく分かる。小学生の見学はどんどん受け入れるべきだし、宣伝もすべきだろう。Mizumizuの子供のころは、こういう施設はなかったから、週刊誌時代の連載漫画を見て、いったいどうやってこんな緻密な絵を毎週毎週描いているのか想像もつかず、まるで魔法使いだと思ったものだ。実際の制作過程を見ると、漫画を描くというのが、いかに地道な作業かが分かる。読む立場だけではなく、作る方の立場に立って物事を考える機会を与えられる施設になっているから、修学旅行での訪問先としてもふさわしい。「トキワ荘通り」に漫画の読めるスポットや昭和の暮らしを紹介する施設を配置したりと、前豊島区長の「漫画による地域振興を」の意気込みと熱意が伝わってくる。今回の企画展は石ノ森章太郎と赤塚不二夫。ふたりの友情を軸に、トキワ荘での青春時代のエピソードを紹介しつつ、貴重な原画展示などもあった。2024年2月18日のエントリーで紹介したデビュー前の赤塚不二夫の『ダイヤモンド島』の原画もあった。細かいコマ割りで、少し紙面がごちゃごちゃしてしまってはいるが、いかにも手塚風のストーリー漫画。のちの赤塚スタイルとはまったく違うが、うまい。手塚治虫はディズニーの「白雪姫」を何十回も見るうちに観客の反応を観察するようになり、名場面に無反応な観客を見てひそかに憤っていたそうだ。藤子・F・不二雄は、少年時代に手塚漫画を友達に見せて、反応がイマイチだと「コイツ、感性鈍いな」と憤慨している。こういう他人の反応の観察というの、Mizumizuも結構やるほうだ。今回は、めったに見られない石ノ森章太郎の原画展示のコーナーで、「昔は日本中の男のコが仮面ライダーに夢中だったわよね~」などと思い出話だけしてロクに絵を見ないでサーッと通りすぎてしまったおばさんに、「おいおい、そんな話より、原画だよ、原画。よく見なよ~」と言いたくなった。ま、つまり、この人は基本、漫画にあまり興味がないということだ。作品は、作品そのものも面白いが、それを見ている人がどう感じるか、その反応もまた面白い。石ノ森章太郎と手塚治虫の「ジュン」事件は、ネット上でよく話題になっている。例によって、「手塚治虫は嫉妬深い」と神棚から引きずり下ろすことに快感を覚える凡人はこの手の話ばかり広めるが、石ノ森の手塚治虫に対する敬意は、以下のエピソードに端的に表れている。石ノ森は少年時代に読んだ『ジャングル大帝』の動物オーケストラのシーンで、「音楽が聞こえた」のだという。そして、まるで手塚漫画の主人公のようにすっくと立って空を見上げ、「この感動を分かち合わなくては」と決意した自分の姿を漫画に描いている。石ノ森はクラシックマニアで、まだ駆け出しの時代に、原稿料が入ると、右から左へとクラシックレコードを買ってしまうほどだった。そんな石ノ森だからこそ、手塚治虫の音楽表現をダイレクトに受け取ることができたのだろう。手塚治虫の死後、その回顧展を東京国立近代美術館で開くべく力を尽くしたのも石ノ森だった。その時、美術館サイドは「あまりイベントくさくなっては困る」と石ノ森に言ったらしい。同時期に三越は手塚展を「大々的なイベントに」したいと石ノ森に話している。「イベント」にしたくない美術館とイベントとして盛り上げたいデパート。今では美術館のほうがイベント臭くっさくさの展覧会を開いているから、時代は変わったものだ。今回の石ノ森章太郎のエピソードは、以下より。【中古】 漫画家が見た手塚治虫 マンガに描かれた漫画の神様 / 手塚 治虫, 藤子 不二雄?, 石ノ森 章太郎ほか / 秋田書店 [コミック]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.02.20
Mizumizuが「線の美しさ」に惹かれた巨人をの名を思いつくままに挙げるとしたら、雪舟、ジャン・コクトー、手塚治虫だ。漫画の始祖とも言われる「鳥獣戯画」の筆遣いにも感動したが、あれは誰が描いたのかはっきりしない。複数の作者がいるとも言われ、大いなる感動は鳥獣戯画の有名ないくつかの場面に限られる。ここで言う「線」とは、いわゆる西洋絵画のデッサンは含まず、あくまで絵画技法でいうひと筆ひと筆の「タッチ」に限定しての話。子供の頃、まず感動したのは雪舟の作品を見たとき。この人はどうして、こうも「(横に)まっすぐな線」をきれいに描けるのかという単純な、しかし深い感動だった。雪舟が実際にどのようにまっすぐな横線を描いたのかは分からない。だが、定規のようなものを当てて描いているとは思えない、「有機的」な勢いがその「タッチ」には確かにあった。あまりに有名な『慧可断臂図』も、達磨の体の大胆な筆遣いに驚かされた(絵画の主題などそっちのけ)。後景の緻密な表現と対象的な、きわめてシンプルな衣をまとった達磨の白っぽい表現。筆をどこで止めたかまで分かる勢いのある線の有機的な美しさ。謎もある。背中の真ん中あたりと腕でいれば肘のあたりでいったん筆を継いでいるのは、なぜ? これがずっと気になっている。特に、背中の真ん中でいったん筆を止めたのはどうしてなのか。ここの筆継ぎは、ちょうど構図の中央あたりにあるので、変に目立ち、見ようによっては一気呵成に描いたゆえの稚拙な失敗の印象にもなる。でも、全体の作画の力量を見ると、そんな簡単なミスをして、そのままにする画家とは思えないのだ。お尻の丸みを出すために筆の方向を変える必要があったのかな、と個人的に推測したこともある。だが、それなら、もう少し下で筆の方向が変わっているから、そこで止めたほうがよかったはずだ。もちろん、他の仮説も可能だが、真実は雪舟に聞かないと分からない。ところがここの筆止め、見ているうちに不思議なアクセントにも見えてくる。謎かけというか、遊びというか…雪舟の絵には、こちらの想像力を刺激する奇妙な違和感があり、それが「単にうまいだけの画家」にはない、独特な魅力になっている。有名な「秋冬山水図」もそうだ。「秋」の図は、わりにきっちり描かれていて、技法の巧みさは堪能できるが、面白くはない。雪舟の真骨頂は「冬」のほうにある。中央やや左よりに縦にひかれ、ところどころ途切れた、目立つ線。これはいったい何なんだろう? 見た人は必ず疑問に思うはずだ。岩肌の境にも見えるが、変に浮いている。まるで、このようなラフに線をまずひいて、そこからどんな絵が描けるか即興やってみたかのような、奇妙な不調和がある。でも、そんな無計画な描き方をするわけがない。画家の力量の高さ、緻密な構図のつくり方は、「秋」でこれでもかと示されている。「冬」はまるでそれを全否定するかのような、幻想的な作品になっている。木は生気を失い、うなだれた老人のよう。岩も木も家屋も、雪をいただいている。雪を屋根につんだ遠くの家屋は、屋根の線を途中で止めてしまうことで暗示的な表現になっている。細かいが、高度な技巧だ。こうした雪舟の謎かけ、写実をいったん捨てた幻想性、つまりは伝統的な山水画の中に雪舟が隠し入れた「自由」の精神が、実は雪舟の一番の魅力ではないかと思うのだ。自由は可能性を生む。その可能性が後世の画家を鼓舞し、破格のインスピレーションを与えたのではないか。この後世に与えた影響力――誰かを思い起こさせないだろうか? そう、漫画界における手塚治虫だ。これは今年開催される雪舟展のポスター。この煽りなんて、まるっきり「手塚治虫」に書き換えられる。「手塚治虫伝説」「漫画の神様の誕生!」藤子不二雄・石ノ森章太郎・横山光輝・赤塚不二夫・水野英子・里中満智子・萩尾望都・・・みんなの憧れ、みんなのお手本。ポスターでは雪舟と若冲の絵が並んでいるが、手塚治虫と並べてソックリな絵は、のちの有名漫画家の初期の作品からいくらでも探せるだろう。藤子不二雄の「手塚信仰」とも言える敬意はあまりに有名だが、石ノ森章太郎も自著『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』で、こう書いている。「戦後間もない昭和22年、手塚治虫の『新宝島』という単行本が登場した。僕がこの本を初めて見たのは、刊行から3年ぐらいたった小学校6年のときだった。それは今までみたことのない漫画だった。絵が動いている! 映画少年だった僕には、そのマンガは背筋がゾクゾクするほど魅力的に見えた。絵画を原点とする『漫画』が、紙の上に描かれた映画という『マンガ』になったのだ」。「ギャグの王様」である赤塚不二夫の出発点が手塚だという話は、ライトなファンには初耳かもしれない。そうしたファンのために中学1~2年のころの赤塚不二夫のエピソードを紹介しておこう。手塚治虫の『ロストワールド』を一読して、藤雄少年(のちの赤塚不二夫)は自分もマンガを描こうと決心し、ミカン箱に紙をはって机にして毎晩漫画を描いた。最初は手塚治虫の真似だったが、やがて128ページの『ダイヤモンド島』という長編が完成した。藤雄は自分で製本もして表紙もつけた(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』)。少女漫画界の手塚とも言われる水野英子も、手塚作品との出会いが人生を変え、手塚の口添えがあって世に出た漫画家だ。「この時(手塚の『漫画大学』を読んで)受けたショックは言葉に表せないものでした」「絵の美しさ、巧みさ、かわいさ、内容の文学性、メッセージ性・・・。どれをとっても素晴らしくて『これこそ自分の探していたものだ!』と思いました」。(水野英子インタビューより)そして、1955年、少女漫画誌の編集者が手塚治虫に、以前描いた原稿を探してくれと頼まれ、押入れの天袋を探したとき、手塚のものではない原稿を見つける。「これはなんですか?」「下関の中学生の女の子が送ってきたものだよ。けっこういいセンスをしているから、育ててみたら?」雪舟は日本人の間では、押しも押さぬ「画聖」として認められている。ところが、海外での認知度はいまひとつだ。中国の水墨画とどう違うんだ? むしろ中国の亜流では? そう思う人が多いとも聞く。雪舟が日本で尊敬されるのは、単に「物凄く巧い画家」だからではない。その不思議な遊び心、幻想性といったオリジナリティが、のちに続く画家たちに幅広い影響を与えたからだ。こういう天才が、何世紀かに一度、ある分野に現れる。そして、天才の才能に圧倒されながら、独自の世界を構築しようと、あがきながら才能を開花させたものたちが、その分野のすそ野を広げ、新たな価値を生み、その職業につく者たちに対する世間の評価までを変えていく。昭和という時代に生まれた、手塚治虫という超ド級の天才が漫画を、日本をどう変えたか。それを目撃できた、私たちは幸運だ。
2024.02.18
手塚治虫は『ばるぼら』(昭和48年)のラストに、漫画家で本の収集家でもある「松本麗児」なる人物を登場させ、芸術というものの正体について語らせている。松本麗児はもちろん、松本零士がモデルだ。松本零士は、実際に古い漫画本のコレクターで、手塚自身も持っていない初期作品を所有していた。矢口高雄も『ボクの手塚治虫』を執筆するにあたって松本零士の手塚治虫コレクションを見せてもらいに出向き、対談している様子を同書の中で描いている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]『ばるぼら』では、レオナルドの「モナリザ」が日本に来たとき、初日に2万人もの人が一目鑑賞しようと押し寄せたり、ケースにカラースプレーをかける女が現れたりといった狂乱ぶりを、「国をあげてのセンデンに乗ったのだという声もある…」と書いている。そして、「だが一方、おなじくらいの、いや、もっと古い文明の産物である日本の芸術品が、国でろくな保存もされないままに、訪れる鑑賞者もまばらである」と続く。そのモノローグに描かれているのは、東大寺戒壇院の広目天。「これらの芸術品の中にはまるでたきぎのようにころがされ、並べられたまま、見返る人間もなく朽ち果てようとしているものもある」の絵はどこかの寺で乱雑に「保管」されている仏像群。この寺が昭和48年当時のどこを描いたものかはっきり断定はできないが、Mizumizuの昭和50年代前半ぐらいの東大寺三月堂の印象は、これにかなり近いものだった。今はもちろん、ちゃんと管理されているが、昔はあまりにラフというか、てきとーな仏像の置き方で、まるでただの倉庫だと、子供心に驚いたものだ。今の日本人は仏像の価値を理解している。芸術作品にふさわしい保存・管理が進んでいるし(それによって神秘性が損なわれたものもあるとMizumizuは思っている。たとえば三十三間堂がそれだ)、国宝というハクをつけた仏像の展覧会は非常に人気が高い。『ばるぼら』に登場する松本麗児は、「元来、感動とか情熱とかいうものとは別に、発表の場とかアッピールとかによってそのねうちがきめられちゃんです…」と語る。さらに、松本麗児は学生時代に最高の芸術だと思っていたものが、年を経た今になると古色蒼然として見える…と続ける。「だから芸術というものについてもかなり懐疑的なんです」。つい最近、総額2億円超えの「芸術」作品が、6年もの間劣化や盗難のおそれがある状態で保管されていたというニュースが出た。https://www.ktv.jp/news/feature/230725-bijutuhin/https://news.yahoo.co.jp/articles/27db41f57f947c02e3f1361b33d0acbbc90423b3(引用)駐車場に保管されていたのは、約7900点に上る「大阪府20世紀美術コレクション」のうち、鉄製の大型立体作品など105点。黒川弘毅(武蔵野美術大学 名誉教授)と山崎哲郎(彫刻家)による調査で明らかになったのは、ずさんな管理体制だった。資料によると、どの作品にも複数の種類の粘着テープ・ステッカーが目立つ位置に直接貼り付けられており、剥がすと粘着剤が付着する状態。また錆も発生していた。この錆は外気吹き出しダクトの位置と関係しており、作品を2017年に咲洲庁舎10階から地下3階に移動させたタイミングで急激に進行したと考えられるという。地下駐車場の湿度・気温は作品にとっては不適切で、外気温湿度の変動が直ちに影響する状態だとしている。(引用終わり)駐車場で保管…(苦笑)これなどは、むしろ、バブル期のアートブームにのって、「たいしたことない」芸術作品にやたらと高い「評価額」をつけて収集したものの、バブルがはじけて巷からマネーが消滅したら見向きもされず、困って放置した…という図に見える。評価額が本当なら、「盗難のおそれのある」場所で、今まで盗まれることもなく置かれていたというのがおかしいではないか。誰も欲しがらない、人知れず劣化してしまった「20世紀アート」を修復するのに、今度はいくらかけるのですか? で、それを誰が見ると?そうかと思えば、ピカソ作品が210億円で落札されたりといった、ニュースもある。https://jp.reuters.com/life/entertainment/BMSGPDXRDJLGFAMJYLURJPJRWE-2023-11-09/ピカソは確かに偉大な画家だが、だからといって210億って… バカバカしいにもほどがある。もはやこうしたビッグネームによる絵画は、芸術としての価値がどうかという問題ではなく、投資アイテムとしての価値がどうなのかという問題になってきている様相だ。松本麗児というキャラクターをとおして、手塚治虫は昭和40年代にすでに、時代によって「価値」の変わる芸術というものの正体を暴いている。「多分、今世界中に残っている芸術作品の、おそらく百倍か千倍の量のものがつくられたでしょうね。そのうちの何割かはこわれ、埋められ、焼けてなくなってしまいました。また芸術とみとめられずに、そのまま行方不明になったものもあります。そういうものが何百年もたってから急に最高の芸術品としてみとめられて、もてはやされることもあるし、芸術品と思われたものが急に飽きられて価値がダウンすることもあります」。モナリザ以上に古い文明の産物でありがなら、長い間見向きもされずにずさんに管理されてきた日本の仏像。評価額700万円のものもあるというのに、地下駐車場で保管されても盗まれもせず劣化してしまった現代アート。西洋ビッグネームアーティスト作品のバカげた落札額。「芸術とはしょせんそういうものですよ」(松本麗児に語らせる手塚)。もちろん重層的テーマをもつ手塚の『ばるぼら』は、斜め上から芸術の正体を暴いてみせる物語ではない。これは「芸術のデカダニズムと狂気にはさまれた」有名作家が主人公。彼はミューズに魅入られ、自らの正気と命を引きかえに、最後の作品を執念で書き上げる。「しょせんそういうもの」である芸術に殉じた作家の物語だ。
2024.02.14
上のタイトルは手塚治虫漫画全集(講談社 1982年)『ばるぼら』のあとがきからの引用だが、漫画をテレビの実写化するにあたっての改変が世間の衆目を集めている今、なんともタイムリーな言葉ではないか。漫画原作者からは、改変にまつわる「嫌な思い出」がさまざま語られているが、里中満智子氏の意見は、非常にニュートラルで冷静だ。https://dot.asahi.com/articles/-/213175?page=2私は、ドラマやアニメなどの二次創作は、原作とはまた別の世界だと思っています。というのも、自分の少女時代を振り返ると、好きな漫画作品がアニメ化されたときに満足したことがなかったんです。原作ファンとしては、「このキャラクターはこんな声のはずがない」とか「原作のこの部分をもっと生かしてほしかった」など否定したくなるポイントが次々と出てきてしまって。たとえば手塚治虫先生の『鉄腕アトム』は、漫画だと、世の中の不条理に対する独特の絶望感が漂っています。私はその暗さが好きだったんですけど、アニメになると、小さな子ども向けにすっきりとした明るさにまとめられていました。アニメ版も手塚先生が手掛けていたんですけど、夕方にお茶の間で流れるテレビアニメだと、まったく違った表現になるんだなと思いました。――ご自身の作品も、『アリエスの乙女たち』(1987)『鶴亀ワルツ』(1998~99)などドラマ化されていますが、“改変”をめぐるトラブルはありませんでしたか?出来上がったドラマは原作通りではなかったけれど、原作が持っているメッセージを伝えたいという気持ちが見えたので、楽しく拝見しました。私は、たとえ表現方法は変わっても、原作の芯の部分は伝えて頂けるだろうと、映像のスタッフさんを信頼したいタイプなんです。作品の世界をきっちり守る考えの漫画家さんからは「丸投げじゃないか」と言われるかもしれませんが、どっちがいいではなくて、作者によって違うし、同じ作者でも作品によって違うこともあります。みんなが納得できる理想形は、一つの作品ごとに関係者たちが模索して、築いていくものだと思います。だからこそ、映像のスタッフさんには、是非、ご自身が好きだと思う作品を二次創作して頂きたい。みなさん、お仕事だからいろいろなことを考えなきゃいけないのでしょうけど、「これだけ人気の漫画を実写化すればヒットするだろう」とか「原作のおいしいとこだけつまみ食いしよう」とか、そんなことだけを考えていらっしゃるとは思いたくないです。里中氏には同じクリエイターとしての「映像のスタッフ」に対する信頼感があるようだ。だが、そうした気持ちを踏みにじるような「改変」があるのも、また確かだろう。これはもちろん、基本的には「映像のスタッフ」の態度によるものだが、原作者のスタンスによってもその捉え方は違ってくるだろう。好例が、白戸三平と横山光輝だ。(Wikiより引用)自作品の映像化に関して、横山はその点については現実的かつ寛容で、商業作品は第一に経済的に成功させなければならないという点に対して理解を持っていた。白土三平が『ワタリ』について先に制作された映画版の表現や完成度への不満からテレビドラマ化を拒否し、手配されていたスタッフやキャスト、予算などが宙に浮いてしまった際に、代替企画の原作者として横山に急遽白羽の矢が立てられ、このために『飛騨の赤影』(仮面の忍者 赤影)の連載を開始し、こちらは正統派の忍者漫画であったのに対して、テレビドラマ版は東映スタッフが知恵を絞り原作とは大幅に毛色の異なる作品となりながらも、いずれも人気作品となった。(引用終わり)白戸三平はいかにも「孤高の存在」という気がする。といって、横山光輝が「妥協した」というのも少し違うだろう。横山は現実的で、商業作品は経済的に成功させなければならない、それを最も重要だと考えていた。これは妥協というより信念だ。横山のこうしたスタンスを早い段階で指摘した慧眼のマンガ家がいる。それは赤塚不二夫だ。赤塚は売れない時代に、有償で横山光輝のアシスタントをしたことがある。横山の仕事が終わると赤塚は石森章太郎や藤子不二雄など「いちばん気の合う仲間」のところに飛んで帰った。そして、横山について「彼の持論は即物的で、漫画家なんて、大衆小説だけ読んでいればいいとさえ、極言した」と自著『ボクはおちこぼれ』で書いている。それより前、石森、長谷邦夫と赤塚が手塚治虫を訪ねた時、手塚は3人にこうアドバイスした。「マンガを描きたかったらマンガだけ読んでいてはダメだよ。いい音楽も聴きなさい。いい映画も見なさい。いい芝居も見なさい」。その場で長谷が『第三の男』の音楽が好きだと言うと、手塚はピアノで弾いてくれたという。耳コピですかね? スゲー横山光輝は手塚治虫の作品で漫画家を志した。そして、手塚の推薦でデビューし、デビューに当たっては手塚が原作まで提供している。手塚治虫にここまでの後押しを受けた漫画家はほとんどいない。その後は『鉄人28号』をはじめ、さまざまなヒット作を世に出し、後期には歴史物で評価を得るが、同じ手塚治虫を出発点としながら、藤子不二雄や石ノ森章太郎といったトキワ荘の有名ストーリー漫画家たちとは、何かが決定的に違う。それを赤塚は敏感に感じ取ったのだ。Mizumizu個人は、横山原作のアニメやドラマはよく見ていたが、横山漫画には興味がなく、読んだこともないし、これから読みたいとも思わない。ただ、漫画史に残る巨匠であることは確かだ。作家の渡辺淳一は「(年を重ねて)想像力がなくなってきた作家にとって歴史物は好都合だ。歴史の経緯を書くことでページを埋めていくことができるから」というようなことを言っているが、晩年になってもオリジナル作品にこだわり続けた手塚治虫やトキワ荘出身の有名漫画家(藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫)とは対照的に、横山は後年は原作のある歴史物の漫画化を多く手がけた。このあたりスタンスの違いは、むしろ手塚やトキワ荘出身漫画家たちとの「インプットの差」のようにも思える。横山が本当に大衆小説しか読まなかったかどうかは分からないが、「いい音楽、いい映画、いい芝居を」と、幅広いインプットを後輩に奨めた手塚とはくっきりとした境界線が見える。このインプットの差が、生涯に生み出した作品のジャンルとその傾向に現れているように思うのだ。だが、横山光輝のように、改変に寛容な、ある意味で「即物的な」漫画家がいたからこそ、『魔法使いサリー』『仮面の忍者 赤影』のような、原作とは離れた改変ヒット作がテレビから生まれた。これは原作者横山の立派な実績だと言って差し支えないだろう。あるいはそうした成功例が、テレビ局側の「改変」に対する安易な考えを招く元になったという側面も、もしかしたらあるのかもしれないが・・・
2024.02.12
手塚治虫については、「若い才能に嫉妬して…」などというエピソードがやたらと語られる。そういう話のが面白いからだが、手塚がどれほど若い漫画家の卵たちに親切だったか、ファンを大事にしたか、傷ついたかもしれない表現者にやさしかったか、そちらのほうのエピソードのほうがよほど多いのに、忘れがちになるようだ。藤子不二雄がトキワ荘に入る際、先住者だった手塚治虫が敷金を置いておき、藤子のふたりは家賃だけ払えばよいようにしてくれたのは、『まんが道』で有名だが、彼の見返りを求めない親切はもっと語り継がれるべきだと思う。なので、今日はネットではあまり拾えない、そうしたエピソードを紹介したいと思う。赤塚不二夫「どんなチンケな、漫画家のタマゴでも、手塚先生のところを訪問すれば、手あつくもてなしてもらえた。彼は、そんないそがしいのに(注:徹夜続きで編集者に睨まれながら仕事をしていることを言っている)、東京駅や上野駅にわかい連中をタクシーで自らおくってあげるほど、心くばりのふかい人だった」(『ボクはおちこぼれ』より)松本零士:(原稿を描くために旅館にカンヅメにされたとき、手塚が来て)「ここにいるくらいなら、僕のうちに来なよ」と言って、初台の新しい家に連れて帰った。松本が「お金がない」と話すと、手塚はいくらか渡した。そのお金で、松本は新宿で『OK牧場の決斗』を見て、九州へ帰った。(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)つげ義春:ホワイトの使い方が分からず、編集部に問い合わせたものの、それでもはっきりしなかった。そこでトキワ荘の手塚治虫を訪ねると、たまたま彼はいて、「ファンです」というつげ義春を招き入れ、丁寧に教えてくれた。原稿料についてつげが聞くと、それも教えてくれた。(同上)サトウサンペイ「ある時、私の描いている『フジ三太郎』がどっかの雑誌で誰かにたたかれたと聞いた。多分それを意識してであろう、パーティでお会いしたら、『うちの女房はフジ三太郎のファンでね』と、ウソか、マコトか知らないけれど、言ってくれた。なんと心やさしい人だろうと思った」。(朝日ジャーナル『手塚治虫の世界』より)永六輔「毎年、障がい者のためのバザーでご一緒になりました。その時に、山のような色紙を前にどんな主人公でも手を抜かずにキチンと描き続け、バザーが終わっても待ってる人がいる限りやめない方でした。その色紙を僕が売るのですが、高くすると、『安く! もっと安く!』と言いながら描き続ける、そういう方でした」。(同上)
2024.02.09
前回のエントリーでは、手塚治虫の原作漫画とかけ離れていても名作になったアニメの話をしたが、今回は、「この企画がボツって良かった」例を挙げたいと思う。それは、『0マン』。1959年に「週刊少年サンデー」で始まったSF超大作で、初期手塚の最高傑作の呼び声も高い作品。漫画史における歴史的意義としては、それまで月刊誌が中心だった少年漫画の潮流を週刊誌へと変え、毎週「次はどうなる」と読み手をワクワクさせて引っ張っていく、「週刊誌における長編漫画」のスタイルを確立したエポックメーキングな作品だ。このあたりの詳しい話は、You TUBERの某(なにがし)氏による動画がオススメ。https://www.youtube.com/watch?v=V_kQm_RyDUQまた、コージィ城倉による『チェイサー』では、漫画雑誌の編集者(つまり、大人)たちが「面白い」「次が気になって」と夢中になっている様子が描かれている。この『チェイサー』については、後日詳しく書くつもりだが、日本の高度成長期、漫画が新しい庶民の娯楽として爆発的に人気を得ていく――その「昭和の熱気」の雰囲気を背景に、手塚治虫を口では批判・否定しつつ、本当は大好きで手塚の真似ばかりしている漫画家を媒体にした、一級の手塚治虫論になっているところが素晴らしい。…だそうだ。重層的なテーマをもった手塚作品にふさわしく、何を面白いと思って読んだのかは、人それぞれなのだが、もう人生の終盤(苦笑)になって、初めて『0マン』を読んだMizumizuがヤられたのは、主人公リッキーのかわいさだ。コンパスよりきれいな円を描く――と言われた手塚タッチが生み出した、とことん「丸い」お顔のリッキー。大きな、独特のお目目、いつもかぶっている赤いキャップ、足首のない「末広がり足」――そして、ふわふわの大きな尻尾。最初、表紙でこの絵を見たときは、「うーーん、少年向きのマンガだよね」と、なかなか食指が動かなかったのだ。だが、評論家を含め、面白いと言っている大人が多いことに背中を押されて、図書館で借りて読んでみた。で、今は…全集版のサイズ(B6)では飽き足らず、それよりデカいB5判を揃えてしまった。しかし…実はこれはカラーでないのが気に入らない。B5サイズでカラーの限定版も過去に出たようだが、当然、今はプレミア価格で当時の定価では買えない。ま、多分、また出るでしょう。カラー&大型サイズの豪華版(また買うのかよ)。カラーではないとはいえ、サイズが大きいので、流麗な手塚タッチが堪能できる。リッキーは運動能力に優れ、屋根から屋根へピョーンピョーンと飛び移ったり、ありえない跳躍を見せたりするのだが、そこがまたカワイイ。卑怯な真似が大嫌いなのは手塚ヒーローの定番設定だが、人間のためにやらざるを得なくなったときは、うつむいてキャップで顔が隠れている。そんなひとコマにも、ヤられてしまった。健気なリッキーは、自らの苦悩を大人に漏らさず、自分の中にそっと閉じ込めて、周囲に悟られないようにする。幼いルックスからは想像もつかない独立心の強さも魅力のひとつだ。驚かされたのは、うたたねをしていた田手上(たてがみ)博士が目覚め、その間に重大な決意をして涙するリッキーを見て、そのいきさつをしらないまま、「(自分だけが寝てしまって)さみしがっている?」と誤解し、丸っこい小さなリッキーを抱き寄せて、「かわいい子じゃ。わしの孫みたいじゃ」と愛おしむ場面。このリッキーをパッと抱き寄せて、抱きしめている嬉しそうな表情は、まさにかわいくて仕方がない孫をいつくしむ祖父の姿。この漫画を手塚治虫が描いたのは、30歳になるかならないか。その若さで、「孫に対する(年寄りの)気持ち」をさりげなく、しっかり描き切っているところに驚かされたのだ。山田玲司は手塚治虫を「オトナなんだけど、子供でもいたい人」と評したが、若くして老成した視点も持っていたことがこのシーンから分かる。ところが、だ。手塚治虫の「あとがき」によると、発表からだいぶたって、『0マン』を(旧)虫プロダクションでアニメ化しようという企画があり、パイロットフィルムを作ったそうだ。ところが、当時は『巨人の星』『明日のジョー』に人気が集まっていたとかで、かようなチマチマした可愛らしいキャラクターではどうも、というテレビ局からのつよい要望で、でき上ったテレビ用のリッキーは、星飛雄馬がシッポをつけたようなチグハグな人物でした。れいの跳躍をしてみても、ただの体操選手の走り高跳びのようにみえて、あんまりおもしろいアクションにはなりませんでした。(手塚治虫漫画全集 『0マン』より)手塚プロダクションの公式ホームページには、その時のキャラクターが載っている。https://tezukaosamu.net/jp/anime/103.htmlゲーー なんじゃこれ『0マン』の最大の魅力は、幼くまるっこく、かわいいリッキーのルックスにある。それを流行りにのっかって、変えろと? 当時のテレビ局の担当者が、いかに『0マン』を理解してなかったか分かる。ボツって良かった!しかし、アニメにならなかったのは個人的には残念だ。作りようによっては面白い作品になったハズ。「手塚流悲劇」が控えめで、主要人物がほどんど死なないというのは、当時よりも、むしろ今の時流に合っている。どこかで作ってくれませんかね。金星への移住など、現在の常識では無理だと分かっている部分もあるから、そこは「改変」が必要だろうが、ストーリーの骨格は今でも十分楽しめるから、アニメ化は荒唐無稽な話ではないはずだ。オートメーション化が進み、「ひと」が仕事を失ってヤケになっているシーンなどは、むしろ現代のほうがリアルに見る者に迫ってくるのではないか。手塚治虫の先見性は、ときに恐ろしいほどだ。アニメ化することで原作漫画の認知度が上がるというのは、まぎれもない事実。だから原作者は弱い立場に置かれる。その結果、『0マン』パイロットフィルムに見るように、「テレビ局の意向」で作品の良さが完全に損なわれてしまうこともある。富野由悠季氏が『海のトリトン』の最終話のシナリオを隠したというのは、勇気ある英断だった。テレビ局に漏れたら100%改変を強要され、名作と再評価されることもなかっただろう。
2024.02.08
<前回、2024年2月6日のエントリーから続く>アニメ版『海のトリトン』は、番組の最初と最終話がYou TUBEにアップされている。アトランティスやオリハルコンといったワードから連想されるのは、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。宿敵への復讐を遂げて、ピピとイルカたちを伴って海の彼方に去っていくラストシーンは『モンテ・クリスト伯』を思わせる。ただ、最終回は、富野由悠季が「こういう終わりにすると話したら絶対に反対されるので内緒にしていた」というように、意表をつくどんでん返しが用意されていたのだ。それは主人公トリトンの属するトリトン族は、過去にポセイドン族を人身御供として扱っていた、という歴史的事実だ。被害者と思われていたトリトンが実は加害者の子孫であり、わずかに生き残っていたポセイドン族も、トリトンが、そうとは知らずに根絶やしにしてしまっていたという大いなる罪の告発だ。富野氏の見解は、「少年は大人になる時、なにかしら罪を背負うもの」。それをこのアニメのラストで描きたかったのだという。善と思われていた側は実は悪でもあったという二重性を、子供向けアニメにぶっこんだというのは、実に挑戦的かつ革新的だ。ただ、番組上でのその説明…かなり長く一方的なので、多分当時の子どもには分からなかっただろう。もちろん、そんなことは承知のうえでのシナリオだろう。手塚漫画が子供時代によく理解できなくても、大人になってその重層的な意味に気づくように、富野由悠季も加害者と被害者、善と悪は逆転しうるという哲学を、子供たちの未来へのメッセージとして残したのだ。このラストシーンでのどんでん返しがなければ、たとえ『ガンダム』があろうとも、アニメ版『海のトリトン』の再評価はなかったはずだ。一方の、手塚版のトリトンも、一族の血を守るため、ポセイドンの子供たちをすべて葬る。そして最後は、不死身のポセイドンとともに「ともだおれ」となることを選ぶ。手塚版で感じるのは、戦争体験の根深さだ。満身創痍になりながら、倒せない敵にどこまでも向かっていく姿は、まるで特攻隊員。そして、死にゆくトリトンの目に映るのは…「地球は海でいっぱいだ。青いうつくしい海。あのどこかにピピ子と子どもたちがすんでいる」そして、帰ってこないトリトンを待つピピ子は、まるで美しくも哀しい戦争未亡人。彼女は残された子供たちの「自ら成長しようとするたくましさ」を見て、(おそらくは)悲劇を乗り越えていく。戦乱の不条理の中で生まれた子供は、はやく大人になるのだ。父親トリトンの遺志を継ぐべく、自ら立ち上がるブルートリトンの幼くも凛々しい姿は、ある意味、親の描く理想の子供像でもある。戦争による飢餓を体験したからこそ思い付いたのだろうと思える怪物も出てくる。いくら食べても食べても満足できず、食べた分だけ毒の排泄物をまき散らして歩くゴーブだ。奇怪で滑稽なこの怪物は、その破壊的な行為とはうらはらに、どこか哀れですらある。アニメ版『海のトリトン』は、のちの評価はともかく、放映当時はさほど視聴率が取れなかったが、実は南米でも放映されていたようで、You TUBEで面白い投稿を見つけた。https://www.youtube.com/watch?v=QPcCNfepLRQ投稿によると、なんと最終回は「(子供向け番組としては)暴力的すぎる」という理由で放映されなかったというのだ。You TUBEで字幕付きで最終話をアップしている動画を見て、感激している海外ファンが昔を懐かしんでいる。ワールドワイドな人気を博した日本のアニメの一つと言っていいのだろう。トリトン役の塩谷翼の声が、また傑出している。ホンモノのボーイソプラノで、日本の少女たちを虜にしたようだ。少年役は女性が当てることが多いなか、この塩谷少年の声と迫力は、アニメを一層感動的なものにした。と、同時にこの魅力的な声が「大人になるトリトン」を描いた手塚版との違いを決定づけた。手塚版のトリトンでは、あの名曲『GO! GO! トリトン』も生まれなかっただろう。イメージが違いすぎる。このように、『海のトリトン』は、天才漫画家の作品も素晴らしいが、アニメ版を作るために集ったメンバーも才能あふれる面々で、まったく違う魅力をもった別々の作品になったという、珍しい好例だろうと思う。ただ、富野由悠季氏の、手塚治虫自身も漫画のほうは失敗作だと思っていたのでは――などというのは、とんでもない言いがかりだ。それは手塚治虫漫画全集『海のトリトン』4巻(講談社)の手塚治虫自身のあとがきを見ても明らかだ。サンケイ新聞に、長い間「鉄腕アトム」を掲載したあと(編注:「アトム今昔物語」のこと)、編集部との話し合いで、"海を舞台にした熱血もの"をかくことにきめたときは、まだ、こんなSFふうのロマンにするつもりはありませんでした。(中略)かいていくうちに、物語は、はじめの構想からどんどんはなれて、SF伝奇ものの形にかわっていきました。よく、主人公が作者のおもわくどおりに動かず、かってに活躍をはじめることがあるといわれますが、トリトンの場合もそのとおりで、あれよあれよと思っているうちに、ポセイドン一族やルカーやゴーブができていってしまったのです。↑このように、キャラクターが勝手に動き出す…というのは、作者自身がノって描いている証拠だ。手塚治虫の代表作の一つだという人もいる。トリトンやピピ子が、変態によって一挙に4~5歳成長するという設定も、それこそ「格の違う変態」手塚先生ならではのエロチシズム。変態を終えて成熟したピピ子の美しさにトリトンがドギマギするシーンなどは、Mizumizuが好きな場面の一つ。超自然的な存在であるガノモスが、最後に浮き島となってトリトンの家族を守るというのも、絵画的に美しく幻想的なラストだ。複雑に絡み合う多彩なキャラクター、予想もつかない展開、重層的なテーマと詩的なラスト――やはりMizumizu個人としては、手塚版トリトンに軍配を上げたい。
2024.02.06
Mizumizuが手塚漫画にハマるきっかけになったのは、『海のトリトン』を読んでからなのだ。そして、この漫画に行きついたのは、アニメ『海のトリトン』のオープニングを飾った『Go! Go!トリトン』からだ。https://www.youtube.com/watch?v=LIetONBzm9kいきさつは、こうだ。このアニメは子供時代、テレビで放映されていた時に、数回見た記憶がある。少年向けアニメにありがちな、「次々現れる敵と戦う(そして、倒す)」というストーリーにすぐ飽きて見なくなったのだが、オープニングの曲とトリトンと白イルカの躍動感あふれる海洋でのアクションシーンは大、大、大好きだった。『Go! Go!トリトン』は不思議で、いったんはまったく聞かれなくなったのが、ずいぶん経ってから復活して、なぜか甲子園でよく演奏されるようになった印象があった。You Tubeで検索したら、『Go! Go!トリトン』はやはり人気で、アップされた動画にはたくさんのファンのコメントがついていた。歌詞も大人へのステップを踏み出す少年と神秘的な海のイメージを融合させた素晴らしいものだし(作詞は林春生)、曲もいい。調べてみたら作曲はジャズ畑の鈴木宏昌。子供向けのアニメソングに、なんともオトナな異色の才能をもってきたものだ。メロディラインはもちろんのこと、楽器の使い方もカッコイイ。成熟した男性歌手の歌もうまいし、そこに児童合唱がかぶさってくることにもテーマ性を感じる。このアニメソングを聞いて、デーモン小暮閣下は歌手を目指したとかいう噂も聞いた。『海のトリトン』の原作は手塚治虫。ところが、一部アニメファンの(元)少年たちの原作に対する評価が、えらく低い。「アニメと全然違って、つまんなかった」「面白くなくて、メルカリで売った」等。演出…といいながら、最終回の脚本は完全に自分のオリジナルだと話す富野由悠季に至っては、「原作漫画はつまらなかった」「手塚先生も失敗作だと思って、自分の自由にさせてくれたのだと思う」などと勝手なことを言っている。手塚漫画はたいていストーリー展開が複雑で、ドンパチアニメが好きな少年たちにあまり受けないのは、分かるのだ。しかし、手塚治虫自身が自作の『海のトリトン』を失敗作だと言った――という話は聞いたことがない。いろいろ調べてみると、「アニメのトリトンはぼくのトリトンではない」「ぼくは原作者という立場でしかない」という発言は見つかった。「ぼくのトリトンをあんなに改変しやがって」的な発言はまったくない。ちなみに実写映画『火の鳥』と『(宍戸錠版)ブラック・ジャック』については、「火の鳥をあんなにしちゃって。あの映画は失敗です」「(宍戸錠のメイクに対して)あんな人間いません!」と酷評したという話は残っている。だが、アニメ『海のトリトン』の出来に関しては、公けには否定も肯定もしていない感じだ。あえて触れないようにしているようでもある。それは、もしかしたら『海のトリトン』プロデューサーで、天下の悪人、西崎義展とのトラブル…というか、手塚の信頼につけこんで西崎が起こした著作権かすめ取り事件…のせいかもしれない。Mizumizuは手塚版トリトンを読んだことがなかったのだが、それほどおもしろくないと言うなら、どんなつまらない作品なんだろう…と思って図書館で借りてみた、というわけなのだ。で、読んでみたら…面白いじゃん! これ!なんとまあ、アニメとはまったく別作品と言っていい。これって、原作って言えるのか? というレベルのかけ離れ方だった。原作は実によく構成されている。先が気になって、どんどん読んでしまう。以下のように漫画版『海のトリトン』を奨めている人もいる。アニメと原作の違いを短い文章でうまく説明している。https://konomanga.jp/guide/66230-26月8日は、国際的な記念日である「世界海洋デー」。もとは1992年の本日に開かれた地球サミットにて提唱されたもので、2009年より正式に国連の記念日として制定された。その趣旨を要約すると「海の環境と安全を守ることは、人類の責任である」といったところだが、そんな記念日に読んでいただきたいマンガといえば……海を舞台にした作品は数あれど、やはり手塚治虫の代表作のひとつである『海のトリトン』をまずはオススメしておきたい。本作はテレビアニメ化された映像作品のほうで知っている人も多いとは思うが、原作とアニメでは登場人物や設定がかなり異なっていることはご存じだろうか?もちろん、手塚治虫のどメジャー作品だし「読んでて当然!」……と言いたいところではあるが、アニメの直撃世代の人に「原作にはオリハルコンってまったく出てこないんですよ」とか言うとたいがい驚かれたりするのもまた実情だったりする(※少なくとも観測範囲では)。そもそも当初は主人公がトリトンですらなく、アニメに登場しない矢崎和也という人間の少年を軸に物語が展開するのだが、ほかにもトリトンに海中での戦い方を指南する丹下全膳や、トリトンに心惹かれ、大きな役割を果たす少女・沖洋子、さらにトリトンをつけ狙うポセイドン族の刺客でありながら、その洋子に情愛の念を抱く怪人・ターリンなど、原作のみに登場する重要キャラクターは多数。そして何よりも重要なのは、トリトンと人間との出会いはアニメ以上にセンシティブな問題をはらみ、人間の身勝手さが強調されていることかもしれない。『海のトリトン』の原作においては、人間が海洋汚染などにもう少し敏感でいれば回避できたであろう悲劇もたびたび描かれている。そして海に生きる者からの視点もしばしば登場する本作は、「世界海洋デー」に読むにはピッタリだろう。<文・大黒秀一>大黒氏は、明らかに手塚のトリトンを面白いと思って書いている。Mizumizuも同感だ。Mizumizuなりに追記するとすれば、『海のトリトン』は『ジャングル大帝』と双璧をなす親子3代にわたる大河ロマンだ、ということだ。『ジャングル大帝』アフリカのジャングルを舞台にしたライオン、『海のトリトン』は海を舞台にした海洋族が主人公。そして、初代、つまり主人公の親は、人間界とはかかわりを持たない存在として、さっそうと登場するが、すぐ亡くなる。2代目、すなわち物語の主人公は人間と深いかかわりを持ち、成長していく。その中で様々な闘争に巻き込まれる。そしてちらっと出てくる3代目は、2代目が持ったような幸せで親密な関係を人間との間にもつことはなく、どちちらかと言うと人間の醜い面を目の当たりにして、おそらくは物語の終了後、人間社会とは離れた存在になっていく(であろう)――というような展開も共通している。アニメ版主人公のトリトンの顔は、髪の毛の色以外は…まぁ確かにギリシア風の衣装とか、手塚アイデアだろう(ただし、手塚作品では、トリトンは少年から成長し、大人になって子どもを作るのだ)。イルカのルカーも色と目つき以外は、原作に近い役割のキャラクターだ。アニメのオープニングで海洋爆発があるが、これは原作にあると言えば、ある。だが、アニメ版の最初、上から爆発の場面をとらえ、次にカメラを引いて、それが海洋上であることを示し、さらに、古代チックな石が吹き上がってきてタイトルの文字になる…というのは完全にアニメチームのアイデア。秀逸ではありませんか! それに続くルカーとトリトンそのアクロバティックな海のシーンも、アニメでしかできないダイナミズムと美しい色彩にあふれている。素晴らしいじゃありませんか!<長くなってきたので続きは次回>
2024.02.06
https://www.nippon.com/ja/news/kd1126400523543085894/文化的な価値を持つ漫画の原画の散逸や劣化を防ぐため、文化庁は管理や活用に関する調査を始めた。「あしたのジョー」で知られる漫画家ちばてつやさんに協力してもらい、適切な保管やデジタル化の手法を検証する。調査はちばさんが保有する原画や下書きに当たる「ネーム」といった資料計7万点余りを借りて実施。目録を作って全体を整理し、適切な保管の仕方を探る。権利関係も確認し、一般公開など活用しやすくする。数十点を対象に写真撮影し、デジタル化して保存する方法も確かめる。日本の漫画やアニメは海外でも人気が高い。原画など制作過程の資料に関心を寄せる愛好家もおり、オークションで「鉄腕アトム」の原画が高額で落札された例がある。管理は作家や遺族らが個人で担うケースが多い。相続などで権利関係が複雑化することもあり、保存状態や国外流出を懸念する声が高まっている。調査は2023年度予算の3400万円で今年3月まで行い、24年度内に結果を公表する。24年度予算案ではアニメも含め、資料の保存活用事業として1億8500万円を計上した。2024年2月3日付で上記のような記事が出た。「ちばてつやさん原画の散逸防止へ」というタイトルだが、記事の内容を読めば、「文化的な価値を持つ漫画の原画の散逸や劣化」を防ぐのが目的であり、ちばてつや氏にまず白羽の矢が立ったのは、一世を風靡した『あしたのジョー』の作画者であり、かつ本人が存命であるというのがその理由だろうと思う。そして、ここにきて急にこの話が進み始めたのは、まぎれもなく「オークションで『鉄腕アトム』の原画が高額で落札された」からだ。大方の予想を上回る26万9400ユーロという高値にびっくらこいた極東の衰退国のお役人が慌て出したという図だろう。里中満智子氏などが、漫画原画の傷みやすさ、個人が保存・管理していくことの難しさを懸念して必死に訴えたときは「国立漫画喫茶」などと、あちこちから揶揄されて計画は頓挫してしまったというのに、おフランスでテヅカ原画が一発高値落札されたとたん、コレだ。ちなみに「まんだらけ」によると、手塚治虫の最初のベストセラーであり、多くの才能ある少年たちをまんが道へと導いた『新宝島』を、大英博物館が買い取りたいと打診してきたそうだ。原画はすでにないから、手塚本人が「最低」といった描き版の印刷本を、だ。もちろん、日本国の美術館からの打診は、これまで一度もないという。読み捨てられるだけのモノから保存すべき文化遺産へ――価値観をひっくり返し、またも歴史を動かしたのは、手塚治虫なのだ。亡くなって、30年以上もたつというのに。そして、今、その流れにまずのったのが、ちばてつやというのは、Mizumizuにとっては感慨深い。ちばてつや氏は、あの時代にありながら画風の面で手塚の直接的な影響を受けていない(つまり、手塚風丸っこいタッチを出発点としていない)非常に稀有な漫画家で、しかも手塚漫画とは対極にある梶原一騎(高森朝雄)原作の作品を大ヒットさせた実績の持ち主だ。そういうと、ちば氏と手塚治虫の関係は良くなかったのではないかと想像してしまうが、実際には良好だっだ。これは手塚治虫逝去に際して『朝日ジャーナル』にちば氏が寄せたカット。ちば氏は手塚治虫を「御大」と呼ぶ。2023年3月のブログにも「手塚治虫御大の話」というのを載せていて、そこで、この上のカットの「みんなに色紙をたくさん描いてくれた」ことの詳しいエピソードを明かしている。まだ『あしたのジョー』が出る前の話だ。ちば氏の結婚を祝い、ちば氏の家(まぁ、はっきり言って、まだ売れてないからボロ家)に漫画仲間が集まってワイワイやっていた。そこへ突然、多忙なはずの大スター・手塚治虫が花束をもってお祝いにかけつけ、騒然となる。悪書追放でやり玉にあがった話などをして「御大」中心に漫画論で盛り上がっていると、酔っぱらった漫画仲間の一人が「お、おれ、アトムの大ファンなんスー」「こんなチャンスめったにないんで」と御大のサインをねだる。御大が、一瞬ムッとしたような表情を見せたのを見逃さないちばてつや。しかし、仲間たちが次々と「おれはウランちゃん」「リボンの騎士」…とせがみだすと、「わかったわかった」と(おそらくはイラストとサイン)を描き出す御大。こうして、ちばてつや家があっという間に手塚治虫サイン会会場になった。手塚御大は、イヤな顔ひとつ見せないで、みんなにたくさんたくさんサインを描いてくれて、忙しい仕事場へ帰って行かれました。・・というお話。(ブログより抜粋)ううう…作品でも泣かされるが、こういうエピソードでも泣かせてくれるなぁ、手塚治虫。2018年にちばてつやが「第22回手塚治虫文化賞特別賞」を受賞した時は、スピーチで、「手塚先生に(『あしたのジョー』でそうしたように)『こんな漫画のどこが面白いんですか!』と言って踏みつけてもらいたい」と、有名な(?)手塚治虫伝説を引き合いに出して笑いを誘っているのを見た記憶があるのだが…雑誌を床に投げつけて踏みつけたって、『巨人の星』じゃなかったですか? あるいは『ドカベン』? この2つの「説」は読んだことがあるのだが…それにしても…『あしたのジョー』のラストシーンの絵は素晴らしい。手塚原画に並ぶ傑作だと言って差し支えないだろう。実は原作者はラストには別のシーンを考えていて、この「真っ白に燃え尽きた」ジョーの姿をラストにもってきたのは、ちばてつやの強い要望だったらしい。普段は妥協しない原作者も「手塚治虫とちばてつやは別格だから」とちば案を受け入れたとか。それで、この歴史に残るシーンが生まれたというのだから、この原画はまさしく、ちばてつやだけのもの。漫画の神様・手塚治虫を読んで漫画家となることを運命づけられ、神の存在に最も近づいた、あるいは分野によってはしのいだと言ってもいい藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎は、手塚治虫とほぼ同じ、62歳、60歳でそれぞれ亡くなっている。ちば先生、長生きしてくれてありがとう!(涙)『ひねもすのたり日記』の続きを楽しみにしています。皆さん、この作品のマンガチックなペンタッチ、ほのぼのとした色づかい――イイですよ。ひねもすのたり日記(第5集) (ビッグ コミックス) [ ちば てつや ]
2024.02.04
「11日ひきのねこ」で有名な馬場のぼるは、朝日ジャーナル1989年臨時増刊4月20号『手塚治虫の世界』で、手塚さんは、どんなところでも原稿を描いた。列車の中でも、蒲団の中でも……。あれは人間わざではないです。と手塚治虫の超人技を追悼している。言わずもながだが、馬場のぼるだってめちゃくちゃ巧い人だ。ねこたちの描き分けなど、手塚治虫に勝るとも劣らない。だから、今でも馬場のぼるのねこキャラは人気だ。その馬場氏をして「人間わざではない」と言わしめる手塚治虫の作画の技量よ。しかも、蒲団の中でも描ける、つまり「寝そべって延々と描ける」というのは、後にも先にも手塚治虫だけではないだろうか。寝ながら描けたらラクだと思うかもしれない。でも、やってみたらすぐ分かる。寝ながらでは、逆にすぐ疲れてしまうし、そもそもうまく描けるものじゃない。「寝ながら手塚」のイラストは、それを目撃した漫画家によってあちこちで描かれている。こちらは馬場のぼる(前掲書より)。ふたりが親しく交流できた、おそらくは初期のころのイメージだろうと思う。ニコニコ顔で楽しそうに描いている手塚治虫。それを「へーーっ」という顔で見ている馬場氏本人。どこか牧歌的なほのぼのとした雰囲気が漂うのは、時代もあるだろうけれど、馬場のぼるのイラストならでは。これはコージィ城倉の『チェイサー』より。これは、福元一義著『手塚先生、締め切り過ぎてます!』中の著者本人によるカット。若き日の手塚治虫に編集者として出逢い、その後一時漫画家として売れるも、最終的には手塚プロに入社し、チーフアシスタントとして長く手塚漫画を支えた人物なので、締め切りに追われながらシャカリキになって描いている手塚治虫の姿は、さすがに臨場感がある。ちなみに右下で待っているのが、「手塚番」と呼ばれる編集者たち。福元一義氏は、基本的に「描く」側の人間なので、『手塚先生、締め切り過ぎてます!』も、描き手としてのアプローチで手塚治虫の実像に迫っており、非常に読んでいて面白い。中でも「スピードの秘密」として書かれたエピソードは、手塚治虫の作画手法がいかにユニークなものだったかを明かしている。手塚治虫が生涯でもっとも多忙をきわめた昭和49年~51年のある日、アシスタントの福元一義に先生が話しかけてくる。「福元氏はペンだこの痛いことがあるかね?」「あります。とくに、締め切りに遅れて徹夜した時など、疼くように痛みました」「僕も、ここのところ疼くように痛くてかなわないんだ。ホラ、こんなに堅くなっている。触ってごらん」と右手を差し出すので、人差し指と中指のグリップ(握り)のあたりを触ってみましたが、それらしい部分がありません。そうすると先生は不思議そうな顔で、「君、どこを触ってるの? ここだよ、ここ」と手裏剣をかざすような仕草をしました。唖然としながら見つめると、なるほど小指から手首にかけての部分が少し赤紫色になっており、触ると堅くごわごわして、デニムのような肌触りでした。ふつうペンだこといったら、少々の個人差はあっても人差し指か中指のどちらかにできるものですが、先生の場合は違っていたのです。(福元一義著前掲書より抜粋)ここで面白いのは、手塚治虫は普通の人は、「ペンだこ」と言ったら、人差し指か中指にできるものだと思う――ということを知らなかったことだ。そして、この多作の漫画家のペンだこは、「小指から手首にかけての部分」にあったということ。この独特のペン使いを見抜いた漫画家がもう一人いる。『鉄腕アトム』の人気エピソード「地上最大のロボット」をリメイクした、天才・浦沢直樹だ。ごくごく最近だが、『手塚治虫 創作の秘密(1986年初放送のNHK特集)』で原稿を描く手塚治虫の映像を見て、浦沢直樹は、「小指が浮いてるね」「手首を中心にして描いているみたい」と指摘していた。こんな描き方は普通できない、というような話になり、その場に同席していた堀田あきおが、「浦沢さんならできるかも。僕はできない」と言っていた。福元一義は、さすがに元漫画家のチーフアシスタントだけあって、(手塚)先生は、手首を支点に、手先全体を使って大胆にサッと描かれるのに引き換え、私たちの場合はグリップを中心に小さなペン運びで描くので、その違いがペンだこのできる場所の違いになったのだと思います。(前掲書)と端的に説明している。『手塚治虫 創作の秘密』では、残念ながらペン入れ時の手塚治虫の手元はあまり鮮明には映っていない。だが、手塚治虫の筆致の大胆さと繊細なディテールと比べ合わせると、Mizumizuは氏の描き方が中国の伝統的な墨絵(日本で言う水墨画の本家)に似ていると思うことがある。中国の伝統的な墨絵(Chinese ink painting)の描き方は、日本の今の水墨画の描き方とは似ているようで異なる。さまざまな技法があり、一概には言えないのだが、以下の描き方は、手塚作画に非常に似ている気がする。https://www.youtube.com/watch?v=UAmZ3Hb0aQM中国人のChinese ink paintingのプロが、壁に張った紙に墨絵を描いて見せる動画もYou TUBEにはたくさんあがっているが、手塚治虫もよく講演などで、観客に見えるように大きな模造紙を床に垂直におろして、そこに即興でキャラクターの絵を描いて見せていた。こうした手塚ショーは観客の驚きを誘い、いつも場は大いに盛り上がったそうだが、みなもと太郎氏によれば、こういうことができる漫画家は1960年以降は、ほとんどいなくなったようだ。そのエピソードが載っているのが、以下の『謎のマンガ家 酒井七馬伝』だ。酒井七馬は手塚治虫を一躍有名にした『新宝島』の共作者であり、手塚本人はそうとは思っていなかったようだが、ある意味、手塚治虫の師匠と言ってもいい存在だ。【中古】 謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影 / 中野 晴行 / 筑摩書房 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】酒井七馬(1905年~1969年)が活動していた時代には、漫画家なら似顔絵ぐらい描けて当たり前で、よく漫画家がイベントに登壇し、大きな模造紙に即興で似顔絵を描いたりするショーは人気。実は若き日の手塚治虫も酒井七馬とこういうイベントに参加していたのだという。ところが、酒井七馬の晩年、たまたまこうしたイベントに参加したみなもと太郎は、酒井氏の司会で、呼ばれた漫画家が大きな模造紙に即興で漫画を描くように言われても、まるで原稿のひとコマを描くように、チマチマとした絵しか描けない姿を見て、酒井氏が当惑する様子を目撃している。「似顔絵を描いて」と酒井氏に促されても「描けませ~ん」と言われたそうで、当然、場は盛り上がらない。『謎のマンガ家 酒井七馬伝』の著者である中野氏は、みなもと太郎から聞いた、この「盛り上がらなかったイベント」の終焉が、酒井七馬が「自分の時代が本当に終わった」ことを実感した瞬間であろうと、大いなる寂寥を込めて書いている。酒井氏は、若い漫画家に筆で描く練習をするようにとアドバイスをしていたという話だが、そんなことをする漫画家は彼の晩年にはいなかったのだろう。ちなみに、漫画を描き始めたころの手塚治虫は墨を自分ですっていた。使っているペンはガラスペンだったという。ガラスペンの形は筆の穂先に似ていて、滑りは軽く描き具合は良好だが、1回分の浸けるイングの量が少ないので、しょっちゅう浸けていなければならず、時間のロスが大きいので、手塚治虫が東京に出て連載を持ってからはお役御免となったという(福元一義、前掲書より要約)。手塚治虫の登場で、ストーリー漫画は隆盛を極めていき、さらに発表する雑誌も月刊誌から週刊誌へとスピードが速まっていく。その経過の中で、「漫画家」という者に求められる技量が変わっていったということだ。実際、石ノ森章太郎は、自分を「漫画家」ではなく「萬画家」と称している。伝統的な呼称との決別は、自分の描く世界は「漫」ではなく「萬」だという自負もある。手塚以前・手塚後で変わったものはあまりに多いが、マンガ家に求められるものが変わるにつれ、消えていった描き手の素質もあったということだ。消えていく技量を高いレベルで維持していたのが手塚治虫本人だった、革新者でありながら実は伝統の継承者であったというのも、あまり指摘されることはないが、まぎれもない事実だろう。手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書) [ 福元一義 ]
2024.02.02
全13件 (13件中 1-13件目)
1