マルスの遺言

マルスの遺言

愛は怒っている、愛は唯一の個人体験




愛は「孤独」の裏返しではない

愛は「憎しみ」の裏返しである


愛と憎しみは隣り合っていて、愛がいつ憎しみに変わるか

それを怖れて女は男を信用できず、男は自分自身を恐れ愛に狂う


愛は呪文ではない

キリストがみだりに神の名を唱えるのを禁じたように、愛をかたくなに唱えすぎるものは愛の奴隷となる

最後には他者をも奴隷にしようとする


愛は押し付けではない

愛は愛ゆえに、愛を不謹慎に唱え、押し付けるものに怒っている


誰も聖人たり得ない

それは聖人が聖人ではなくなってしまうから

聖人は約束されて生まれてきた人間を超越した人物で、
人間が人間を超えようとすれば、それはただの世間知らず


ましてや誰も神たりえない

なるがままになるしかない、受け入れるしかない


しかしそこに「愛」があれば、調和の元に全てが上手くいくハズ


愛は憎しみをも凌駕するハズ


愛は神、そのものだから

だとすればそういった意味では愛を実現したものは
皆、神たりえる


「愛」は怒っている

本当の愛を知らないもの全てに・・・


本当の愛を讃えよう

憎しみが裏側にない、本当の「愛」を



昔、愛は人生での、自分自身が自分として生まれてきて体験できる唯一の価値あるものであると考えていた。

人類の歴史は長い。その中で、人間の魂が何度生まれ変わろうと、新たな生で、新たに個人的に体験できる唯一の新鮮な経験というものは「愛」だけだと考えていた。

ビジネスで成功したり、勉強がよくできたり、スポーツをしたり、車に乗ったり、悪いことをしてつかまったり、あるいはつかまらなかったり、旅行に行ったり買い物をしたり、別れたりくっついたり、貧乏になったり金持ちになったり、そんなようなことはたいがい多くの過去の人間が経験してきていて、それを現在も繰り返しているようなところがある。

だが、その中で本当に大切なのは、人と人とのつながりの中や、苦しいときや嬉しいときに見つけた「愛」だけなのだと思っていた。

自分の人生で経験した数々の小さかったり大きかったりする「愛」は、自分の愛であり、他人のどの「愛」にも似ていないはずである。他人の生きた人生のどの「愛」とも違うものであると思う。
だからこそ、自分の「愛」は、その人にとって大事なものなのである。

センチメンタルな考えだろうか?いや、きっとそうではないはずだ。

自分のこの生で経験する「愛」は、誰のものでもない、自分だけの貴重な経験なのである。

そしてそれは、来世にも持って行けるその人の財産になるに違いない。












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