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戦争前のドイツも、他国の経済制裁によって貧窮し、我慢しきれなくなって戦争を起こした。貧窮し、国家が孤独になった時に何が起こるかというと、ナショナリズムだ。自国の個性、優位性に立ち戻り、国民性を誇示し、弱体した自国を鼓舞するかのように国家主義に陥る。そして他国へ戦争を仕掛けるのだ。弱体した者が虚栄を張るように侵略を始める。世の中を無茶苦茶にする。戦争を起こす前の国は皆同じだ。今の日本がそうでないと誰が言えようか?日本は今そういう危機的状況下にあるのだ。かなり危険な状況だ。誰も気づかないのか?それこそ平和ボケしているのだろうか?考え直すべきだ。一人一人が、ヒットラーに加担したあの時のドイツ国民のようになってはいやしまいか?自分で自分自身に問い正すべきだ。そして戦争を始めた国はいずれもどうなったか?結果が良くなるはずがないことを気づくべきだ。もう二度と同じ過ちは繰り返さないでほしい。
2013.07.23
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ノストラダムスの詩「平和の名の下にマルスが支配するだろう」とある。あの有名な詩だ。「アンゴルモアの大王が空から降ってくる。平和の名の下にマルスが支配するだろう」平和の名の下に、戦争でも使われていた「原発」が、今、平和利用だと言われながら、世界を支配しようとしている。もちろん「原発」はイコール平和ではない。平和の使者でもない。むしろ今、戦争に続く、第二の諸悪の根源であることがすでに分かったのだ。「原発」という魔法の言葉は、原発に携わる人々の感情を支配し、人間性をそれと気づかせずに変えて行く。毒素のように人々の感情に染み渡り、結果対処不能の「原発」は地球の癌化して行く。人類の歴史上の責任として、愚かなことだけはもう止めなければいけない。
2011.10.16
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日本には日本人の良さがある。いまさら他国のマネをしてたくましく生きろといったって温室育ちの我々には無理だ。けれども、もっと政府の政策としてたくましくあらゆることを試しつつ寛容に何事も受け入れ、積極的に行動していかなければ、今までどうりの保守的な論理では国が発展しないのはいうまでも無い。やはりここでも政府が問題になってくる。いつになったら発展的な、いや、それ以前にまともな政府が実現するのだろう。実に嘆かわしい状況だ。脚本家の倉本聰が言っていたが、まさしく、小国でもいいから世界で一番恥ずかしくない国にしたい。しかし、経済的には発展しないと国がつぶれては困る。日本の他国に誇れるテクノロジー、人間力、技術力で恥ずかしくない国として発展したい。それには時間がかかるのかもしれないが、できることで負けていては困る。今、できることでは負けたくない。ただ、何でもするという訳ではない。日本人には日本人の美徳がある。日本人らしく、クリーンに、正々堂々とサムライらしく戦うべきだ。侍とは何もしなくても(偉ぶらず)人々から威厳と寛容さ、知性で尊敬される人物だ。勝ち負けにとらわれるのではなく、心の中の正しい判断に従って、清く美しく強くあるべきだ。せめてそれには、政治家は嘘をつかないで欲しい。偽善を行わないで欲しい。
2011.07.04
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今回の原発の件で日本政府が今まで国民に当たり前のように吹き込んできた統計や事実が覆される可能性がある懸念が出てきた。日本も完璧ではないのだ。我々は日本の政治家は信用していないくせに日本政府の情報は常識の範囲であるように受け取ってきた。しかし、それは間違ないのだろうか?たとえばクジラに関して。捕鯨は現在研究目的以外には行われていないというがそれも本当だろうか???クジラの数が減っているというのは嘘でクジラは逆に増えてて困っているなどという話も嘘だろう。そんな話を当たり前のように嘯いて、聞く方も当たり前のように聞いていたなんて。なんて日本人は遅れているそれこそ、欧米の考えからすると野蛮な民族なのであろうかという事になる。「そもそも、クジラを乱獲したのは欧米人で、我々日本人はその足元にも及ばない数のクジラしかとっていない。それに、クジラを取ったとしても欧米は油としてしか使わないが日本人は骨まで何も無駄にしないで使い切る。命の尊さを知っているのだ」という論法だった。ところがどうだろう、最後の命の尊さ云々は正しいにしても、この論法、どこかで聞いたこと無いですか?そうです!あの中国と同じ論法なのです。我々より先に資源を犯しておいて、十分に甘い汁吸っておいて、それがなくなりつつあるといって急に制限するなんて勝手な話だ!自分たちが自粛するなら分かるが他の国にまでちょっかい出して権利を侵害するなんてなんて傲慢なんだ!と。中国は言っています、我々がおとなしくしている間に先に世界に侵略して出て資源を奪い取って、大量生産で地球を汚し、排気ガスを出して作り出したもので金を稼いで、十分に金を稼いでもうこれで追いつかれることは無いと安心しきったところで他の国が資源を手に入れて排気ガスを出して金を稼ぐのをくい止めようと利権を制限しようとする。これが公平だといえるのかという論理と同じなのではないですか?要するに我々が中国が上手いこと頭働かせて排気ガスを出す権利を得て、為替を制限して何とか金持ち国になって、庶民は西洋で資本に物を言わせてブランド化した物の偽者を作り、堂々と?販売し、やっと先にずるいことを始めたずるい奴らと肩を何とか並べることができた。。。日本はまともだ、中国とは違う、そう思っていました。しかし、中国に感じるように日本も野蛮と思われてもおかしくないことをしているのではないでしょうか?もちろん我々庶民に罪は無いかもしれない。政府が勝手に言っていることを鵜呑みにしてしまっただけかもしれない。しかし、そうだとしたらそれは我々全員の責任ではないだろうか?無知は罪だというのはもうご存知ですよね?まあ、最もこういうことを誰も言わないから我々も知らなかったわけだし、政治家を信用しない割には政府を信用していたということだ。我々の責任だ。それは、我々が自分たちの利益になることにしか目をやっていなかったということなのだ。もちろん日本政府の嘘が原発の件で発覚したように、クジラの問題だけではない、我々日本人が仏のように知らずに信じきっていたことで、外国にとっては至って迷惑な、野蛮なことが見落とされているかもしれないのだ。少しでも各々で何か気がつくことがあればうれしいです。
2011.07.03
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辞める辞めないでもめてる場合じゃない、といっても官首相の今回の緊急時への対応の責任がなくなったわけではない。福島原発の事故で漏れ出した核燃料棒の周りをセメントで固めて防御壁を作るという。その費用が莫大な費用がかかるが政府はやるしかないと言っている。専門家も参加して意見交換したに違いないが、本当にそれが有効なのだろうか?もちろん私もど素人だ。偉そうな口を利けたものではないが、核燃料棒は熱で溶け出してそのまま自から高熱を発しながらまっすぐ地球の引力にしたがって落ちて行くのではないのだろうか?あの映画『エイリアン』の唾液のようなものと考えてもらえば分かりやすいだろう。落ち始めたら誰も止めることはできない。一度溶け出した燃料棒はあらゆる物質を貫通し続けて地球の裏側に到達すると聞いたがそれが正しいのではなかったのか?とすれば、問題なのは周りではなく、おちて行く方向に先回りしたその先の底をなんとかして核燃料棒が溶け落ちるのを食い止めるのが正論なのではないのか?周りはすでに地下深くで放射能の影響はほとんどないのではないのか?もっとも雨水が地下でしみこんで放射能に触れ、それが海に流れ出ては困る。その点では周りを囲むのは正解なのかもしれない。しかし、もっとも危険なのは核燃料が溶けおちて行く先で、それを一番に食い止めなければいけないのではないのか?もし地球の中心の、外郭という鉄が溶けてどろどろと渦巻いている部分に達したら、地球の裏側に貫通したら?誰も経験のない世界にそれこそ突入するのではないのか?しかし本当は底をどうにかする手立てはもうないのかもしれない。落ち始めたらもう誰に求められない。高熱を伴っていかなる物質をも溶かして突き進む。コンクリートで防御するとしたらそれこそお笑い種の悪あがきになってしまう。鉄でも岩でも貫通してしまう。もうどうにもならないのだ。政府は、もっとも危険な情報を隠していた。燃料棒が溶け出してメルトダウンどころかメルトスルーしていて、しかも原子力建屋の外側にもれ落ちていると言うことを隠蔽していたらしいのだ。それは原発事故が発生した早い段階から起こっていたことを知っていたのだ。そんな何よりも大事で危険なことを隠していた。その罪は大きい。国民は無知だとバカにされているのだ。原発容認は日本政府、もともと自民党が昔から推し進めていたことだ。その中でもでたらめな情報を我々日本人は押し付けられていたことが明らかになってきている。参照http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110623-00000000-toyo-bus_allその掲げてきた数値が信用性のないものだったとなると、日本政府は自民党・民主党関係なく大きな失敗を、大きな罪を国民に対して犯したことになる。それは反対者を洗脳するようなほとんど強制的に行われてきた原発推進だった。原発を推進して来た国は何も日本だけではないだろうが、これから日本の罪が世界に対する罪にならないように願いたいものだ。この緊急時、日本はやはり世界に助けを求めるべきだ。日本のメディアはなぜこんなにも落ち着いていられるのか?世界の人々はこれがどのくらい危険なことなのか知っているはずだ。
2011.06.26
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メルトダウンからメルトスルー。そして今、溶けた燃料棒は原子炉の底を突き破って外に漏れているのではないかという懸念があるらしい。地下水脈に突き当たると汚染した水が海に流れ出す可能性が高い。事態は取り返しのつかないところまできている。いや、そもそも原発を容認すること事態が許されないことだったのだ。昔、ハリウッド映画でジェーン・フォンダ主演の『チヤイナ・シンドローム』という映画が衝撃を与えたことがある。今、それが現実のものとなりつつある。日本の場合、地球の反対側はアメリカなので正しくはアメリカ・シンドロームだろうか?いずれにしろ事の重大さに気づいて欲しい!辞めさせられるなら辞めさせてみろと笑っている場合ではないのではないか?この危機になんと日本という国は何の対応もできないのだろうか?もし首相が福島原発の事故処理や復興に障害であるなら、今すぐ辞めさせるべきだ。いや、辞めさせるのなんのと言っている間は言う方も言われる方もお互い様で最悪だ。こういう緊急時には特別チームを作っても良いのではないか?またそこで意見が割れてもめるようではさらに困るが。。。とにかく、勝手な判断ではなく専門家の意見を優先に、多くの意見の中から有効で効果的な意見を取り入れられるように柔軟な対応ができるようにすべきだ。それももたもたせずに今すぐに!それから、事故対応をないがしろにしながら未来のことばかり考えている場合ではない。それも自己保身ではないか?誰かのパフォーマンスに近いことではないのか?もちろん未来は大切だがその前にやるべきことがあるだろう?今までの事故対応を見てみると、小学生でも分かりそうな対処のしかたを誤っていると思われる。日本人らしからぬ稚拙な対応ではないか?これで日本人の緻密さに関する神話はそう簡単には崩れ去りはしないだろうが、日本が意外にトップの判断の遅い、また誤った判断をする政治的に遅れた国だということを明らかにしたと思う。とにかく今までのような子供じみた稚拙な対応がこれ以上今からでも無いように願うばかりだ。ひとつの対応だけでは足りない!あれもこれも対応しないと手遅れになる。第二、第三の対処を考えていないと、いや、同時進行させないとぎりぎりの背水の陣ではこの大惨事に対応できないのだ。事故対応は今からでも遅くないと信じたい。今からでは遅かった!あの時こうすればよかった!はもう通用しない!!数十年前に読んだノストラダムスの予言の本の中で「日本が原因になる」とあった。当時はまさかと思った。ありえるとすれば、隣国が戦争を仕掛けてくるとか、それにしても戦争なら中東の方が危険ではないか?そう思っていた。しかしどうだろう、その可能性は大いにありえるのだ!日本が世界の破滅の原因になりえるのだ。今まで日本人は仕事には勤勉だが、その一方で今流行のドラッカーの言葉にしきりに出てくる他人に対しての『真摯』さ、に関しては、まるっきり恥ずかしいくらい世界でも劣っている国に成り果ててしまったのではないだろうか?逆に真摯さが日本人の取り柄だったのに!資本主義が浸透しすぎて(いや、ドラッカーによればやはり人間の受け取り方や扱い方次第ということになる)、お金お金で世の中成り立ってしまってはいないだろうか?そんな日本は、皆さんに問うが、いつ制裁が下ってもおかしくなかったのではないだろうか?自分本位で他国に迷惑をかけていることはなかったのか?自ら負の負債を背負ってきてはいなかったのか?もちろん災害は誰のせいでもないけれど人命は大切だし、起こってはいけないものだ。しかしそれを、本質的には悪でないものを、悪にしてしまったのは人間ではないのだろうか?原発を悪いものと知りつつ容認し、事故処理も保身を第一にして、国民の安全を第一に考えなかった対応が、それを悪にしているのではないか?村上春樹が言うように日本は唯一の原子爆弾の被爆国であって、ガンとして原発は反対するべきだったのではないか?今なにをすべきか?!!最善を尽くして欲しい。日本の首相は、この緊急時だが、あのように笑っていると言うこと事態が問題である。そういった問題のある人にこの大切な局面は任せられない。しかし、未だに日本には誰に任せても同じ、どの政党に任せてもどうせ同じという呪縛から逃れられないのか?日本的で保守的な政治システム自体が結局それを作り出しているのではないか?それは結局、他人を信用できないと言うシステムである。もちろん無知な人間の暴走は困る。それだけ政治家は誰も信用できないくらい無知で無責任なのか?今、恥をかいてでも、世界に助けを求めるべきだ!まだ本気で”助け”を求めてはいないし、事の重大さを理解してはいないと思う。汚水処理と平行して更なる対策を考え、実行すべきだ!大変でも仕方ない、いくらかかろうが仕方ない。世界に助けを求めて世界で危機を共有すべきだ。世界が嫌だと言ってもだ。あるいは専門家の意見を聞くばかりでなく、専門家のチームを結成すべきだ。力を合わせてこの危機に立ち向かうべきだ!!保障や責任の問題は後で話し合えばいい。今すぐに!世界で地球を救わなければいけない!!その体制を作るには今の小国の一首相は障害になるだけなのかもしれない。何物もこの局面に障害となってはならないのだ!世界が平和で、その平和が続くように願う。「逃げよ逃げよ、全てのジュネーブに逃げよ」意味は分からないがこの言葉で救われる時がくるのかもしれない。夏の電力供給の話は大事だが第一ではない!今なにができるのか一人一人で考えて欲しい。2011.6.18
2011.06.20
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ある世界的ピアニストの女性が言っていた。 日常で、みな人間はネガティブな感情にはなりたくない。悲しい思い、苦しい思い、悔しい思い、そんな思いは誰もしたくない。しかし、音楽ではネガティブな感情を表現する。なぜ人はネガティブな感情は好きではないのに、音楽では聞くことができるか?聞いて泣いてなぜそんな感情を楽しめるのか? それは、「音楽がネガティブな感情を浄化するからだ」 その通りかもしれない。芸術とは、浄化作用なのかもしれない。
2011.06.14
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今、官総理が辞める辞めない、辞めろ辞めさせろと騒いでいるが、その前に被災地の状況をすぐさま何とかしろという声が被災地の方々、各方面から上がっている。その通りだと思う。今すぐ被災地、そしてなによりメルトダウン・スルーまで起こした(起こしていた!)原発を何とかしろ。直ぐになんとかできないならせめて方針を決めて直ぐに「こうこうこうだからこうすべきなので今すぐこうします!」くらいの方針を皆に示してほしい。いや、事の始めから端的に、示してほしかった。だいたい原発が爆発した段階で対処の方法に誰も意見が出なかったはずがない。専門家の意見は一致する意見しか出てこないのではないか?答えはひとつ。方法は少しはいくつかあったかもしれないがそんなことを会議をしたかなにしたか知らないがああでもないこうでもないと迷ったこと自体が腹立たしい。日本人はいつもこうだ。皆でよってたかってのらりくらりと会議する。こんな時にお偉いさんの間違った意見をハイそうですか、とかしこまって聞いている場合じゃないと思う。上も上で偉ぶって人の意見を聞こうとしないのだろう。身の保身に無駄な頭を働かせて、民間で言えば「顧客」のことなどまったく頭にないのだ。この非常時には「人民」を第一に考えるべきなのだ。まだ非常事態は続いている。会議で専門家の中で色んな意見が出て迷って困ったというようなことはあるはずがないと思う。いかに素人がヨコヤリを入れて対処が遅れたかが分かると思う。今にでも『チャイナ・シンドローム』が起ころうとしているのだ!そうなったら世界を道ずれにすることになるのではないですか?まさしく、今すぐ何とかしなければいけない。それができないなら今すぐ他の人に代わってほしい。今まで何度日本人は無責任な政治家に泣かされてきた事か。誰が変わってもダメ、同じ。じゃあ政党が変わったら?ダメ、同じ。。。そんな日本の政治に、日本の社会の性質に今こそNO!と言わなければならない。今まで我慢して人々は耐えてきた。ごまかされてきた。今こそ、気がつくべきなのだ。これはおかしいと!異常事態が続いているのだ。放置しているのだ。今こそ皆でNOと言うべき時が来たのだ。でないと、原発と同じで日本はこのままズルズルとダメになってしまう。もうこの危機には”底”が見えてきているのだ。
2011.06.13
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MHKでやっていた三輪明宏の『美話』「挫折とはパズルである」挫折を味わった時、落ち込んだりやけになるのではなく、どうすれば良いああすれば良いと論理的に考える。「愛は人生のパスポート」自立していないと愛せない。愛は人生を楽しむためのパスポート。「歳をとることは洗練されること」若い頃分かったつもりのことがあれはこういうことだったのだと分かることがある。芝居のこと小説のこと映画のこと、歌の歌詞のこと。一週間ごとに利口になる。=人生を面白がること。数字に振り回されないこと。「私は数字とは関係ありません」「正統派が一番」
2011.06.11
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悪い考え/良い考え怒り/喜びそこには超えてしまうと全てが変わってしまう線がある。人を”良い人”と”悪い人”に分けるものはなに?良いことを考える人が”良い人”で、悪い事を考える人が”悪い人”だ。あるいは”楽しい人”であり、もう一方は”いやな人”である。真理はしごく簡単なのである!良いことを考えるか、悪い事を考えるか。・・・ただそれだけなのである。人生を明るくするにはただ、いい事を考えていれば良い。複雑なのはその後のことである。”良い考え”とは何でもいい。「自分はお姫様である」でも「コーヒーが好きでたまらない」でも何でもいいのである。人を分けるものは、普段その人が何を考えているかによる。しかし、あまりにも現実に根ざさない考え方は自分を崩壊させる。「自分はお姫様である」と考える人は幸せだが、いつか現実と向き合わなければいけない日が来るとしたら、彼女にとってはその日が地獄になる。同様に”怒り”と”喜び”にもある一線がある。怒りにとらわれた人はマイナスの考えしか浮かばない。イコール幸せではなくなる。何人もなるべく”怒り”を自分から遠ざけるべきである。お金は悪いものではない。お金がある生活はストレスを極限に減らすことができる。人生は選択だという人があるならば、その選択の余地を増やすことができる。あのレストランは対応がいいがお金がないから行けない。不愉快な思いをしてもお金がないから選ぶ余地がない。同じレストランでもお金を持っている人とお金の無い人では対応が違う。この土地は住みにくいからあっちに引っ越したい。それよりもあのリゾート地はどうだろう・・・。お金の無い人は迷惑な隣人にも我慢してそこに住むしかない。”怒り”からなるべく自分を遠ざけるべきである。それらは神の国には必要のないものである。もし、毎日をどうしても不自由に過ごさなければならない状況にいる人がいるとしたら、あなたは彼らに手を差し伸べて少しでも彼らを楽な気持ちにしてあげることもできる。本来はそういった格差がない世界を作り出すべきだが、それはまた別の話。究極的には人類は未来のために、世の中から”怒り”と”悪い考え”を追い出さなければならない。真の平和はそこにある。
2011.06.03
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人から受ける害は、この世の中でもっとも受け入れがたい理不尽なものである。いじめ、ねたみ、そねみ、足の引っ張り合い、嫌がらせ、罠、嘘、騙し、暴力、暴言、違法行為。これらを人災と呼ぶならば、人災は人の人生で最悪のことである。なぜなら、それは仕方が無いことではないからである。そこには事件の原因となった悪意や私利私欲がある。そしてそれは、決して神が望むものではない。子供の頃には見えなかったそれらが、同じ世の中でも歳を取るにつれて目に付くようになってくる。子供の頃のように大人の特別扱いがなくなったこともあるだろう。歳を取れば、もう大人の庇護は無くなり、子供だから、若いからと大目に見られることはもう許されない。しかしそれだけだろうか?世の中の人々の心がすさんできているのではないか?しかし最近、日常生活で起こる人災は天災よりはまだましなのではないかと思うようになった。人からの害は理不尽だが、自分の責任のうえで起こったことであると思えば大したことではないような気がしてくる。人災は自分の責任の内で処理することがある程度必要なのではないか?私の心が映し出す世界であるように、相手にとってもその世界は繋がっている。人類の心は全て繋がっている。仕方がないといえるのは、天災よりも実は人間の心の方ではないだろうか?あまりにもあきらめきった考えだろうか?
2011.06.03
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世の中資本主義が蔓延しすぎている。世界中の資本主義にまだ侵されていなかった人々や若者が、今、お金を得ることに心を失いつつある。彼らにとってはお金が第一で、相手に対する思いやりや優しさは二の次なのである。お金を得られるチャンスがあれば彼らはそれを得ようとする。自分や他人に嘘をついてでも。こう言ってしまうのは批判を受けるだろうが、日本人もその例外ではない。いや、むしろ日本人はそれを文化にまでしてしまった唯一の人種なのだ。彼らは深々とお辞儀をしながら相手をけなし、見下している。忙しく働かされながらその報酬によって、自分が働いて稼いだ金なのだからなにに使おうと自分の自由だと、消費生活においては思い切り自分勝手に過ごそうとする。そうして次第に他人を無視した自分本位になって行く。欲望の追求にしか自由な時間が費やせなくなる。若者は年上の者からお金をねだり、奪うことを悪いこととは思っていない。悪いのはお互い様と言うのが彼らの考えだ。要するに若い者はお金や権力のあるものに甘えがある。そうするのは当然だと。お金を自分の欲望のために彼らに与えてしまう人間もそレらの人種となんら変わりない。彼らはゆがんだ考えで彼らの正当性を主張するだろう。このように日本の現代の文化にはすでにゆがんだ資本主義の毒素が浸透している。いつかは神の制裁を受けるときが来るのではないか?そうしたことがあったとしてもそれはなすべくしてなされたことではないか?しかしそうした時、いつも貧しいものや弱いものが被害を受け、権力者や本当に悪い者は警告を受けるだけで、真の被害をこうむることはない。それは非常に悲しく、許せないことだ。日本のこうした文化は世界に飛び火している。世界が日本化しつつある。悪い意味で影響を与えたくないものだ。
2011.06.03
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次から次へと放射能の問題が明るみに出ている。しかしこれだけその問題に対して静かであるのは日本人の国民性なのだろうか?外国だったら大騒ぎになるような問題ではないのか?もっとも、騒いだところで仕方がない、といったところではあるが。しかしそれは決して政府や東電の問題に対する対処が十分であるということではもちろんない。今まで、半場国民を騙し騙しやってきたことへの罪がここへ来て問われているのである。考えられないような大量の放射能が外へ漏れ出している。そしてそれは世界へ広がりつつある。大げさではない。本当のことだ。なぜ日本人はこんなにものんき?でいられるのか?問題の地域以外では、まるで人事のように「放射能など大げさに・・・」と人々が語っているのが信じられない。いつから彼らは日本人で無くなったのだろう?放射能の専門家になったのだろう?この日本が、大量の放射能によって汚染されつつあるというのに。ノストラダムスの予言に関する本によると、今までヨーロッパの人種(ノストラダムスの子孫たち)が支配していた世界が、少数派のアンゴルモアたちによって奪われ、彼らの勢力が世界を覆いつくそうとする時期に、多くの奇形の人間が生まれるとある。そして野獣に戻った人間は。。。この先のことは信じたくないし現実になって欲しくは無い。語りたくも無い。その記述の後の、また聖書にあるように「天上の世界がこの地上に実現する」事を私としては願うばかりである。その多くの奇形の人間が生まれるとあるのは、日本で無いことを願うばかりである。皆、もっと未来を真剣に考えて欲しい。私が良くても、その子孫は?いったいどういった環境でどういった世界に生きることになるのか。。。早く福島原発を何とかして欲しい。一刻も早く!これは深刻な問題だ。
2011.05.21
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日本という国は、広島・長崎の原爆投下にしろ、今回の福島原発の問題にしろ、原子力エネルギー、核の脅威を世界に知らしめる役割を担っているような気がする。近年、日本の文化や自然、経済に世界から注目されていたのは、まるで今回の核の脅威を知らしめるため神が日本という国に世界でも類のない特別な個性と任務を与えたようだ。もちろん、福島の問題は軽視できるものではないし、軽々しく持論を口にすることもはばかられる。被害に遭われた方には本当に災難でしかない。しかし、事件前も(裁判での原発運営に関する判決・行政の考え方と行い)事件後も(核拡散後の対応の仕方)相い変わらず臭い物へは蓋をして隠してしまおうとする日本人の?あるいは日本の政治家・企業家の恥ずべき民族性があからさまになった。日本は法治国家である。独裁国家ではない。もういい加減、ごまかそうとか自分の利益ばかり考えるのではなく、世界の、人類の利益から行動する時代が始まるべきである。こうなると、風力発電や水力発電はクリーンだが全国の電力需給量のほんの1パーセント?(10%?とにかくごくわずかな数字だった)しかまかなえないとかいう電力会社と政府の説明も、まったく信用できないでたらめだった可能性がある。そもそも現状の風力や水力の設備のないところで電力不足を語っても意味がないのではないか?やってみなきゃわからないし、やるべきなのだ。どうしても電力需要をまかなえないなら、強力でクリーンなエネルギー源を研究あるいは研究支援するべきだし、風力や水力、太陽光発電をできうる限り発展させるべきである。その上で、まだいくら足りない、どうしよう、という話なら分かるのだ。そこで初めて数字の話になるべきなのではないか?とにかく、情けなくて口惜しい現状だ。
2011.04.28
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9.112011.3.11これらの数字に何か関係があるのだろうか?
2011.03.22
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近年やっと資本主義のヒズミに対する批判が海外でも日本国内でも盛んに言われるようになって来た。世界の人が「自分勝手で他者に対して無責任」になっている。資本主義とは、一部の金持ちが行っている作為的な人権侵害である。資本主義とはねずみ講に似ている。早い者勝ち、貧富の差をおのずと広げる構造なのである。敗戦後、資本主義の大国アメリカそして当時の日本国家は私たちに「(醜悪な)漫画」「パチンコ(賭け事)」「タバコ」等を与えて一過性の娯楽に講じることによって「政治への不満」や各々の「人生の目標」から目をそらせることに成功した。そうやって国民の自立心や怒りや不満を麻痺させることで多くの働き蜂を育て上げることに成功し経済成長を成し遂げた。結果そういった働き蜂は現在、リストラその他で仕事を失ってしまうことで一人では生きていけない状態になっている。今まで学校教育から社会生活まで全て自立心を奪われて生きてきた人たちに、いきなり自立しろといっても無理な話である。今までの学校教育は企業兵士、あるいはブルーカラーの労働者を作るためのシステムだったのだ。そして現在、その「(醜悪な)漫画」「パチンコ(賭け事)」「タバコ」に取って代わるものがある。それは「パソコン」「携帯」である。麻薬は政府によって禁止されてきた。それは社会を崩壊させる可能性があるからだ。麻薬は働くしか脳のない人間を作るどころか、働かせる目的も達成できない人間を大量生産してしまう。資本主義の社会では誰かが働いてくれなければ一部の人間が富を享受するという目的を達成することができない。だから麻薬は禁じられてきたのだ。もっとも麻薬は、使う人間にとっても本人自身を崩壊させてしまう。もうひとつ、これは70年代ヨーロッパのヒッピー達若者がよく言っていたことだが、麻薬よりタバコの方が麻薬的習慣性を持ってしまうのに、なぜタバコは政府に(日本ではかつて政府が製造・販売していた)認められて麻薬はダメなのか?それは麻薬には人を覚醒させてしまう作用があるからだ。アメリカや日本の政府は国民が覚醒して政府の偽りに気づいてしまうことを恐れたのだという話がある。事実は定かではないが、そこには禁じられているはずの麻薬や大麻を吸う若者の言い訳以上の何かがあるかもしれない。その麻薬にいつの間にか似てしまっているものがある。それが「パソコン」「携帯」のネット環境である。「インターネット」はその始め、テレビやロック音楽などの娯楽のご多分に漏れず危険なものではないか?人間の神経を麻痺させるのではないか?人間の精神を悪に染めるのではないかと危惧された。今、その通りになっている。もちろんいい意味で社会の裏側が明らかにされたり、世界の人たちと無限につながっていけるかのような可能性を感じさせてくれたり、良いところもたくさんあるだろう。しかし、結局現代人は「パソコン」「携帯」の麻薬性にどっぷり浸りきることになってしまっているのだ。政府は明らかに崩壊をもたらす麻薬と比べて「パソコン」「携帯」社会にはそれほど危機感を感じていなかった。しかし、人々はネット環境の麻薬性にどっぷりと足を突っ込んで精神が崩壊し、それらは人と人との繋がりをリアルに感じることのできない不能の人間を作り上げてしまっている。あるいは70年代のヒッピーたちが言っていたように彼らは”覚醒”し、政治や社会に目覚めたのだ!彼らは知恵をつけ「2001年宇宙の旅」、あるいはゲーテの「ツァラトゥストラはかく語りき」、あるいは若者に分かりやすい最近では「マトリックス」に出てきたような「超人」に進化しようとしている。かつては麻薬性のある物は政府によって管理され、その政府を左右する一部の金持ちの都合のいいように動かされてきた。全ては政府の管理下に置く事が可能だったのだ。しかし今、「ネット環境」という麻薬は政府の管理下に置くことはもはやできない。そういった顕著な例があの「ウィキリークス騒動」、あるいは日本の「尖閣諸島衝突映像流出」ではないだろうか。人々はもっと資本主義社会の一部の富を独占する金持ち達(資本主義の弊害)に「インターネット」を使って反旗を翻すべきである。そして若者達はもっと「携帯」や「パソコン」の麻薬性を認識してそこから一歩引いて見て、もっと賢くならなければならない。大人たちはそれらを若者が有効利用できるように導いてあげるべきである。政府も参加して。「ゆとり主義」等の教育によって若者達を白痴化することに専念するのではなく、人間的に豊かな人間を作る教育を目指してほしい。それがこれからの社会に役に立つ人材を作ることに逆行するものでは決してない。しかし、インターネット環境は自ら変わりつつある。かつてはインターネット社会の弊害が浮き彫りにされるばかりだったが、明るい未来を感じさせるようなネット環境が徐々に整いつつあると思う。人々の意識は変わりつつある。ネットによって21世紀の革命が起こるかもしれない。ある本に書いてあった、人間の幸せとは唯一「人と人のつながりによって得られるものである」と。
2010.12.26
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ノストラダムスのあの大予言の詩の中に「アンゴルモアの大王が蘇る」とあった。「アンゴルモアの大王」とは「中世ヨーロッパで野蛮な民族として虐げられていたマイノリティの民族」のことである。その虐げられていた人々が復活する。ヨーロッパから見た「アンゴルモア」。しかも「大王」なのである。それはアジアだ!大国中国を初めとするアジア民族。それが復活する。少なくとも経済の世界では復活し始めている。我々日本人も目覚めなければいけない。
2010.11.23
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日本人は道に迷っている。道を見失っている。外国人が作った未来のシナリオに「いつの間にか」参加させてもらえず、ヒノキ舞台で仲間はずれにされている。それどころか、舞台上の吸血鬼に生き血(マネー)を吸われているのだ。それもアメリカの後にくっついて、未だに「鹿鳴館」ビジネス(猿真似)を行って得意になって己を省みなかったせいだ。それも、自分では気づかずに誰かに踊らされているせいだ。聞いてみると日本の行政機関や会社重役は考え方が狭い。いや、日本人全体が考え方が狭い。いわゆる島国根性だ。ヨーロッパの先進国は優しさ、つまり「自由・平等・博愛主義」の考え方から行政なり会社経営なり行っている。総合的に国を企画・運営しているといっていい。しかし、日本人はどうだ?己の利権を守るのに精一杯でろくに考えもしないで未だに猿真似を続けている。昔は大変立派な猿真似だった、だが今は?只の猿真似以下だ。海外からシステムや考え方を持ってきて自分に都合のいいところばかり勝手に抜粋してつじつまが合わなくなり、余計にヒズミを作り出すような事なっている。日本人は、商品は質が良ければ高くても売れるという考え方だそうだ。確かに資本主義競争の理論からして質のいいものが売れるということがある。しかし、程度が悪くても安いから売れるという事もあるのだ。その程度が悪いという考え方も一概にこれは程度が悪い、これは程度がいいと判断できるものではなくなってきている。確かに日本製品は世界から、特にアジアから品質の良さで高く評価されている。しかし考えてみれば、程度がいいから高くても売れるという考えは我々日本人が作り出した概念ではないのだ。元々は資本主義が始まった場所、ヨーロッパから来ているのだ。しかも日本にはヨーロッパほどの歴史がない。到底ヨーロッパの猿真似でしかないのだ。技術力はどうだろう?世界に誇れる日本の技術。確かに高い技術力は未来のアイデアを現実的な形へと変えていくための大切なものでもある。その中に多くの可能性も秘めている。しかし、今の時代はもう技術力ではない。日本の技術力は国内が不景気なために中国に次々売り飛ばされている(提携という形で)。技術力だけで生き残れる企業はほんのわずかだ。今はむしろ大きな考え方の転換が必要なのだ。新たなハードを開発するなり、新しい生き方を提案するなり、まったく新しい、今までの考え方では発想できなかったような何かが必要なのだ。その何かが経済の世界も、さらに政治の世界も動かしていく。世界全体を動かしていく。もう3Dテレビを作ったからといって嬉々としている時代ではないのだ。マニファクチュアは大事だが、もうマニファクチュアの主役の時代は終わったのだ。かといってバーチャルマネーなどの実体を伴わない経済は人間の身を滅ぼす。もっと、実のある新たなビジネスの形が求められている。それこそ「自由・平等・博愛」の考え方から発する新たな誠意の経済システムである必要があるのだ。私の言うことが間違っているだろうか?間違ってはいないが具体的なものの形が見えてこない?それを皆で考えようじゃないか。個々人で、企業、企業で。ミーティングのたびに。あなた一人一人が、その大切なものが何かを常に念頭に入れながら。
2010.11.23
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すばらしかった。ドキュメンタリータッチの退屈な映画かと思ったら、昔の映画のような骨太な男の映画だった。ハンフリー・ボガードはどこに出ている?こういう映画をどんどん見て、世界の現状は今どうなっているのかも学んでほしい。現代の戦争の姿は?まるでタランティーノの映画のような混乱した戦場。。。あのタフな主人公が泣きながら愚痴をこぼす同僚についほだされて本音を漏らしてしまう。しかし、誰も彼の苦悩の深さを救うことはできない。ただ「俺が知るか」と突き放されるだけ。ハードボイルドの主人公は常にタフで無口で、そして限りなく優しい。映画として本当に見ごたえがある。
2010.10.27
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最近の教師いや、最近の日本人はおかしい。言ってみれば総オタク化している。血なまぐさいことばかり考えている。教師の品格もない。自分が不幸だからだと思う。子供をなぜ善行に導こうとしないのか?未来をになう子供に何かを伝えられる、教えられるということは貴重なことなのだ。仕事に対する自覚や自信と責任感を失っている。日本人はなぜこんなにも不潔になってしまったのか?コンピュータやゲームのせいだ。昔はテレビやロック音楽が不良を作るといわれていたが、今はそれとは違う。テレビやロックは自由を教えてくれた。精神の開放を教えてくれた。しかしパソコンやゲームは、精神を崩壊させる。もちろん良い使い方をすれば良い結果が生まれる。けれど、ネット社会やゲームの世界は不の側面に偏りがちなのだ。死や、性の不の部分に。パソコンの世界に春の風を送ろう。でないと人間はおかしくなってしまう。学校には教育に悪いから子供を行かせられない。そんな時代が来る。
2010.10.27
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番組ではビル・ゲイツのような億万長者の利益から国の課税をかけ、貧しい人に利益の再分配を行うことに関して(福祉)正か否かを学生を前にして経済学者?が問いかける。経済学者によると、アメリカにはリバタリアにズムというのがあって、彼らは個人の利益の権利を主張している。リバタリアニズム=課税に反対 人間の自由の主張者 再分配の否定 課税による個人の利益の侵害を否定(課税によって利益を国に提供すること) 再分配の拒否 彼らは「個人の利益を守る」と言う立場をとっている。つまり、課税による富の再分配は許さない。たとえ必要以上、個人の実力以上(民衆の善意や好意に支えられて得た富)であっても、富は全て働いて稼いだ者の物であるという。しかしそれは富の独占を許すことになる。彼らは平和の名の下に自由資本主義を広めている張本人ではないのか?彼らは自由資本主義を自由の名の下に世界に広げながら、あくまで彼ら自身の個人の利益を追求しているだけではないか?個人は個人が所有する。そうかもしれない。しかし、個人は社会によって生かされている。資本家、あるいは一部の金持ちの富は本当に個人の富と言い切れるだろうか? その影には多くの貧しい労働者が働いているのではないか?あるいは搾取されているのでは?また、架空のイメージで作り上げられた架空の価値が市場を操作していないだろうか?それによる富とは本当に個人の富なのだろうか?この番組で討論されていたことは全て間違ってはいない。なぜなら、私たちは民主主義の世の中に育っているのだから、我々には我々の意見を言う権利が全ての人にあるのだ。話し合いは平和的解決として必要不可欠だ。しかし、話が逆ではないか?個人の自由を主張する前に、世界がどうやって上手く共存できるかから話し合うべきだ。なぜなら、やはり人間はひとりでは生きていけない、社会に生かされている。お金があっても世の中にあなた一人だけでは何も使いようがない。はっきり言わせてもらうと、富とは本来地球の資源なのだ。土地も石油も人々の労働力もフルーツも米も、個人は個人が所有すると言うのなら、それこそ人々のサービスさえも地球資源、人類の資源なのだと思う。つまり、本来が誰のものでもない皆のもの、誤解を招かないようであれば言い換えれば神が与えた物だ。アメリカインディアンが西洋人が来て土地の権利を譲渡する書類にサインしろといわれてまったく意味が分からなかった、本来はそういうものなのだ。資本家は自分で労働することなく人に働かせて富を得ている。管理している?営業している?それも労働だが、100パーセント自分のおかげだと言えるのだろうか?この社会で、そういうチャンスが訪れたのもラッキーだったといえないのだろうか?「リバタリアン」は今やっと日本の巷でも認知され始めた「フリーメーソン」ではないかと思う。彼らは、富から更に富を生み出して富の独占を進めている。自由をふれまわりながら自由を侵害することだってあるのだ。自由は特定の誰かのものではない。マハトマ・ガンジーは「失敗を犯す自由のない自由など自由ではない」と言っている。
2010.05.11
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テレビで見たのだが、筑波大学の世界的に有名なプラズマを研究している教授がデータ改ざんの容疑をかけられて解雇されている。解雇を取り消すには世界的に有名な科学雑誌に取り上げられたプラズマ研究に関する論文を取り下げろと脅迫されているらしい。仔細はテレビで見ただけなので詳しくは知らないが言語道断だと思う。教授は世界的に有名なその雑誌に二回も論文を取り上げられているほどの逸材だそうだ。普通は一回でも取り上げられたら科学者にとってはかなりの栄誉なのだそうだ。世界の科学者がこぞって取り上げられるのを目指して研究に励んでいる。また、その掲載論文を選考するのが世界的権威の教授たちらしい。要するに世界で認められたものを筑波大学は認めないというのだ。なぜデータ改ざんだというのかというと、研究論文で取り上げた実験のデータが消えたらしい。大切なものは別の人間が別々に2箇所で保管するが、それをまかされていた学生が二人ともデータを紛失らしい。使っていたハードが壊れたからデータも消えたと言うのだ。しかし、その学生と言うのが、実は筑波大学にその教授の論文の研究成果が偽りである、「データの改ざんがあった」と告発した本人なのである。今、裁判になっている。家族を巻き添えにして責任を感じている教授の悲痛な表情がテレビの画面に映し出された。日本の地方の裁判所に向かう教授の姿は地味で、今回の事件性をありきたりな出来事のように見せている。しかし、これは世界の運命を左右する大事件である!教授はすでに研究をもう一度やり直し、データも前回の実験とほとんど寸分たがわないくらいの結果を提出し直している。しかし大学側はどういう訳か聞き入れない。同じ実験をしてほぼ同じ結果をえられるとは考えてもなかったようだ。それも裁判で徐々に明らかになったのだが、大学側はその告発した学生たちから消えたデータとまったく同じデータの再提出は二度と不可能だという確証を取って高をくくっていたらしい。教授は無実を証明するために、世界の権威的科学者に論文を検証し直してもらうように新たな実験結果に元づく論文を提出している。彼らは教授の論文のまったくの非の打ち所のない正当性を認めている。それどころか、大学側の科学に対する侮辱的行為に対して怒りさえ感じているようだった。大学は教授の論文の共著である学生たちにも名前を取り下げるように脅迫していたらしい。取り下げなければ学生生活の保証はないというのだろう。なんという愚かさだろうか?この日本では時代は逆行しているのだろうか?日本という国はまだまだ遅れているのだ。なによりも大事件なのは、プラズマと言うのは太陽を形成しているエネルギー体なのだそうだ。その太陽と同じエネルギーを、人間がプラズマを研究することによって得られる可能性があるのだ。今、石油エネルギーだけに頼らない世界を目指して研究が進められている。しかし、実質風力発電や太陽光発電などは消費電力全体に対する割合はごくごくわずかでしかなく、これからも人類は石油エネルギーに頼らなければこの先も生きていけない状況である。今流行りの「エコ」など、エネルギー問題からすると風が吹いたら消えてしまうほどの弱弱しい試みなのだ。世界の大方の政府は石油エネルギーの代わりに「原子力エネルギー」に移行させていこうと今大金を使って施設を整備し始めている。しかし、そこには新たな数々の問題や、国家的エネルギーの確保、施設のための土地の確保、核廃棄物を捨てる土地の確保に関する世界の競争が始まっている。世界の一部の金持ちたち、つまり政治的権力を握っている人間が、益々自分たちの懐を肥やすのにはどうすればいいか今も戦々恐々としてやり合っているのだ。そういった状況にあって、まったく新しい次世代エネルギーの開発は不可欠なのである。ところが、まったく新しいものというのは世の中に受け入れられにくいものなのだ。新しいものができれば、新しい体制が必要になる。新しい政治も必要になる。そういう新しいものは古いまま生きようとしていた人たちにとって彼らの利益を破壊するものなのだ。つまり、プラズマなどの新しいエネルギー開発が成功するのは、石油エネルギーの系譜で金を稼いできた人間には邪魔でしかないのだ。彼らの生きる術さえ奪いかねないものなのだ。だからそういう状況が発生したら彼らは全力で阻止するのではないかという想像はかなり昔から映画の世界やヨーロッパの知識人の世界では言われて来た事なのだ。それが今筑波の片田舎で起こっているのではないか?教授は学生は悪くない、そういった若い学生を使ってまでなんらかの力が働いているのではないか?もしそうなら残念だという意味のことを語ったように思う。教授は自分の立場が危ない状況でも学生をかばっているのだ。正しいのはどちらなのかはっきりと分かる。正しいものは嘘をつかない。当たり前のことだが、嘘をつくものは矛盾があるものだ。矛盾、物事は古くなって腐ってくると矛盾が生じてくる。新しいもの、皆にとって良いものを拒むものは矛盾だらけなのだ。
2009.10.27
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私たちが生きる世界には表層の一層目とその裏の世界とも言える二層目がある。そして普段気づかないのが三層目で、それは一番深くの普段見えないところにある。一番上の層は日常私たちが感じる世界。表面上の世界だ。二番目は深層心理や隠された本音の世界。インターネットの世界もこの二層が混在している。三層目は真実の世界。この世界はもっと日常やその隠された世界よりももっとシンプルで、真理に近い層。絶対の真実の層。ナポレオンはこの真理に気づいていた。三層目は運命や宿命、直観力の層とも言えるだろう。私たちは上の一層目と二層目の間を行き来したり混在させたりして迷いの中に暮らしている。まだ一層目だけで生きている人は幸せだ。一層目に生きてなおかつ三層目に生きる人はなお幸せだ。二層目ばかり気にする人は不幸だ。三層目だけで生きる人は楽に生きて一番幸せだ。三層目に気づいて、今何が必要か、今何をすれば一番いいのか、どうしてこうなったのか、それらを知る人は幸せだ。
2008.10.25
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さあ、資本主義よ。君は悪くない。民主主義はもっと悪くない。人間は独りでは生きていけない。資本主義社会無しには我々日本人は生きていけないし、世界の大方の人々も生きていけない。以前の日記を読んだ事のない人に一応言うが、もちろん共産主義がいいといっているのではない。それはとっくの昔に崩壊をした。そして今現在、復興してきているとはいってもそれは名前を変えた資本主義でしかない。しかし、資本主義で本当に人間は幸せなのか?資本主義社会を支えてきたエネルギー資源が今にも尽きようとしている。少なくとも環境破壊その他でそれに頼ることができなくなってきている今、資本主義社会でいいのか悪いのか、社会的仕組みも強く考え直さなければなならない時期が来ているのではないか?ましてやアメリカの株の大暴落。続いて日本も。数字という虚構で虚構の富を作り上げた資本主義は、今アップアップと水面であえいでいる。新しい未来は、新しい社会と共にある!のだ。
2008.10.07
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人生は神様の実験だから私が私であるのは神様が決めたこと私がどうあろうと他人がなんと判断しようが関係ない私は私でしかない私にはどうしようもないだって神様が決めたことだから神様が、私のような人間が人生でどうなるか実験して試しているのだよく人は自分と比べて他人を審判しようとする他人の個性、つまり生きる権利さえも奪おうとするただ、悪いところがあれば正さなければいけない失敗したら今度は失敗しないようにしなければいけない良いところは伸ばすように努力しなければいけないそういった、私が私自身の判断を任されているのも神様の意思だからだ運命と宿命の違いのようなものがここにある神様の実験は決してわがままではない美しく、壮大なものなのだその美しさを汚してはならないただそれだけ
2008.06.19
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アメリカのサイコセラピーの有名な言葉だ。映画「ピンクパンサー2」でもパロディで使われていた。でも、私なら日本語では「私は確実に良くなっている!更にもっと良くなる!」と言いたい。実際私は良くなっている!人とのいい出会いもあった。出会ってた人が私のために色々してくれた。それは人間だから少々意見の相違、不理解はあるだろう。でも気にしない。あくまでいい人だと信じる。実際それだけしてくれたのだから。良くしてくれたいい奴との別れもあった。でもこれからもっといい出会いがある。これから良い出会いが広がっていきそうだ。そうして良い人とだけ付き合って行きたい。良い人と出会って、道が更に開けてきそうだ。良い人との出会いは光に満ちた道を示す。これからは振り返ることなく光に向かって進みたい。新しい人と共に歩みたい。
2008.06.16
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人間はすばらしい人は生まれながらに優しくて親切だ人は人を傷付けることは無い人を裏切ることも無く、人を妬むことも無い皆が自分は自分はと主張しなかったら世の中はどうなるだろう皆が自分なんか自分なんかと卑下したら世の中はどうなるだろう人は、決して生まれながらに卑しくも無知でも無い時々人を信じられなくなるでもそういう時こそ声を大にして自分に暗示をかけないといけないなんて人間はすばらしいと
2008.05.24
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1のあらすじ主人公富田は、バブル時代の15年前、ある画廊で画商として働いていた。笑いが止まらないくらい儲かった。右から左に商品を横流しすることもしょっちゅうだった。まるでバカを相手に商売しているようだった。まさに当時は皆金銭感覚がバカになっていたのだ。プライベートでも無茶をした。次から次に女を変えたと言うわけではなかったが、振られたにせよ振ったにせよ、別れて次が見つからないで困ったと言うことは無かった。彼女がいないことは半年を過ぎた事はなかった。富田は業界でも注目されるくらい見た目は悪くなかった。今まで、若さと美貌で勢いに乗って来たといえる。金遣いも荒かった。衝動買いばかり。いつもバカにしている顧客と同じことをプライベートでは自分がしていた。よく見もせずに言われるままに金を払って買った。高級ブランド品など当たり前だった。クラブにも毎週のように週末になると通った。富田は調子に乗ったバカ者だった。世の中が皆バカだった。金は水と同じ物でいくらでも溢れ出てくるものと思っていた。富田は金をバカにしていた。同時に労働もバカにしていた。世の闇も、本当の怖さも、貧困も、本当の意味の孤独も知らなかった。そしてバブルが崩壊して商売は上手く行かなくなった。あっという間に仕事を失った。いや、嫌気がさしたのもあった。友人であり、ライバルである同期の男に裏切られたのだ。やはり人間は権力や金の前では弱いものだ。結局この業界で同じ目的を競い合う者同士がせめぎ合っているのだから、裏切りの一つや二つ無理も無いことなのかもしれない。逆にタイミングが良かったのか?富田はここぞとばかり全てを放り出して旅に出た。旅に出れるだけましだと言う人もいるだろう。そう、富田はリストラされたわけでも会社が潰れたわけでもない。自分から止めたのだ。本当に世の中がダメになる前に。富田はヨーロッパを旅して回った。ドイツ、イギリス、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、そしてフランスに戻った時、金も尽きた。稼ぐのに何年もかかった金は使うときには一気に無くなっていった。そういう常識の感覚さえ失っていたことに今更ながら思い知らされた。人間として失格だと思えた。皆が自分を笑っているように見えた。誰も自分を相手にしないどころか、悪意の目で見つめられているように見えた。冨田は浮浪者のように金を物乞いしては酒を煽るようになった。しかし、旅は続けていた。同じところに留まることはこの頃の冨田には死を意味していた。他に希望も無く、同じ状況に見捨てられて生きるのは辛かったのだ。それでもなお、新しい状況に、新しい人生を探していた。食べるものも無く富田は南フランスの暖かい陽気の中でただ一人不幸を背負って歩いていた。そこへ通りがかったのがアントニオ小父だった。このハンチングを被った初老の田舎の気前のいい爺さんアントニオは、富田のただならぬ雰囲気におんぼろのシトロエンを止めた。小説その2アントニオはとりあえず死にかけの富田に食事を与え、身の上話を聞く気もなく勝手に自分の話ばかりした。陽気なアントニオに心をほぐされて、二人は意気投合した。冨田は感謝を述べお別れしようとしたが、そのあとアントニオに連れて来られたのはある一軒家だった。そこには30代の夫ジルと見た感じ魅力的だが優しく少々ふくよかなイボンヌ夫人とまだ6歳のかわいらしい娘、マリーがいた。彼らはアントニオの隣人だった。オリーブ畑の農作業に人手が足りなくなるので食べ物にも困っている富田を住み込みでどうかというのだ。夫婦は直ぐに富田を気に入って納屋に住み込ませることにした。納屋しか空いていないので二人は申し訳なさそうだった。しかし冨田には快適でこの世の天国だと思えた。その夜アントニオ小父と富田、ジルとイボンヌ、そしてそのかわいい娘マリー、それから農作業をお互いに手伝うはずになっている近所の人たちでささやかな歓迎会が開かれた。久しぶりのご馳走に富田は食べ物が喉を通らなかったが、陽気で強引なアントニオにしこたま飲まされてべろんべろんになって床についた。冨田は翌日から朝ごはんをたっぷりと食べ、良く働いた。雨露をしのぐ屋根があり、食べ物を口にできるだけでありがたかった。そうやって日が暮れるまでしっかりと働いた冨田は次第に家族の信頼を得るようになった。娘のマリーも人見知りしていたが次第に富田の本来の人懐っこい性格に懐いていった。アントニオは絵を描いていた。富田は広大な草原で風に吹かれ絵を描くアントニオに画家の本来の姿を見た。アントニオは熱心に覗き込む富田に君も絵をやるのか?と聞いた。いえ、学生のときに少し描いたきり仕事に終われて忘れていました。そう言ってとぼとぼと帰る冨田の背を見てその夜、アントニオは富田のいる納屋に行き油絵の道具をごっそり置いて帰った。冨田は決してそれに手をつけなかった。なぜなら、自分が画廊で売り飛ばしていた数々の絵画を思い出していたからだ。絵とはもうすでに冨田にとって罪深い対称だったのだ。冨田はしばらくの間絵筆に手をつけないでいた。しかし、家の庭で遊ぶかわいいマリーを見ていると急に思い立ったように納屋からキャンパスとイーゼル、絵の道具を持ち出した。そしてそのままマリーを描いた。一気に描き上げた。冨田の中で不満と満足が入り混じった達成感で満たされた。マリーは一言、じょうずと言ってくれた。
2008.04.22
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たまには怒ることは必要だ。「怒る」とは、現状に対する不満を意味する。とすれば「怒る」とは改革、前進するモチベーションにもなるのだ。しかし、「怒る」ことは世間を狭くする。自分の生きられる環境(生活空間及び思想空間?)を狭くする。人間関係を狭くする。怒ることは自分を否定すること。自分の生きているこの世は自分が主役。自分がリアリティなのだ。怒るという事はネガティブな思考を自分に植え付けるということ。自分が生きている世界をネガティブに捕らえると言うことは、自分の可能性を破壊してしまうこと。未来を暗いものにしてしまう。良く「転落人生」と言う言葉をニュースで耳にする。ナチス「ヒットラーの最後」や、シェークスピアの「オセロ」、映画「スカーフェイス」を観ればどういう意味か分かるはずだ。人生の転落とは怒りが発端なのだ。そして怒りは、連鎖して、泥沼のようにあなたを地獄へ連れて行く。それは抜けようのない蛇のようにしつこいものなのだ。怒りはただ怒りだけではない。自分に向けられた怒りもある、冷静を装う怒りもある。それは全て、マイナス思考ということなのだ。マイナス思考こそが罠なのだ。悪魔が、地獄が仕組んだ罠だ。私は絶対に光を見つづけると言い切ろう!明るい未来を先ず頭の中に描こう。それはただ、なんでもないことを楽しいと思えばいい。アホでもバカでも利口でも貧乏でも金持ちでも少数派でも多数派でも女でも男でも、真からの笑顔こそ、神の大好物なのだ。
2008.04.12
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少し昔、自己啓発の色んな言葉が流行った。感謝します、ありがとう、忘れること、念じること・・・その他もろもろ。その言葉たちは頭の中で色々考えてしまう言葉だった。言った後、あるいは考えた後に色々と反省してしまう言葉だった。でも、こういった言葉を自分のものとして身に付けて理解して経験してきた人には結局この一言で十分だ。『楽しい』もちろん無自覚な楽しさ、思いやりに欠けたり人に迷惑をかける楽しさなどは問題外!でも、本当の人生の楽しさを理解した人にはこの言葉で十分!『私の人生(今)は楽しい!』
2008.04.05
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主人公『私』富田は、バブル時代の15年前、ある画商で働いていた。笑いが止まらないくらい儲かった。右から左に商品を横流しすることもしょっちゅうだった。まるでバカを相手に商売しているようだった。まさに当時は皆金銭感覚がバカになっていたのだ。プライベートでも無茶をした。次から次に女を変えたと言うわけではなかったが、振られたにせよ振ったにせよ、別れて次が見つからないで困ったと言うことは無かった。彼女いない歴は半年を過ぎた事はなかった。『私』は業界でも注目されるくらい見た目は悪くなかった。今まで、若さと美貌で勢いに乗って来たといえる。金遣いも荒かった。衝動買いばかり。いつもバカにしている顧客と同じことをプライベートではしていた。よく見もせずに言われるままに金を払って買った。高級ブランド品など当たり前だった。クラブにも毎週のように週末になると通った。『私』は調子に乗ったバカ者だった。世の中が皆バカだった。世の闇も、本当の怖さも、貧困も、本当の意味の孤独も知らなかった。そしてバブルが崩壊して商売は上手く行かなくなった。あっという間に仕事を失った。いや、嫌気がさしたのもあった。友人であり、ライバルである同期の男に裏切られたのだ。やはり人間は権力や金の前では弱いものだ。結局この業界で同じ目的を競い合う者同士がせめぎ合っているのだから、裏切りの一つや二つ無理も無いことなのかもしれない。逆にタイミングが良かったのか?『私』はここぞとばかり全てを放り出して旅に出た。旅に出れるだけましだと言う人もいるだろう。そう、『私』はリストラされたわけでも会社が潰れたわけでもない。自分から止めたのだ。本当に世の中がダメになる前に。『私』はヨーロッパを旅して回った。ドイツ、イギリス、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、そしてフランスに戻った時、金も尽きた。稼ぐのに何年もかかった金は使うときには一気に無くなっていった。そういう常識の感覚さえ失っていたことに今更ながら思い知らされた。人間として失格だと思えた。食べるものも無く『私』は南フランスの暖かい陽気の中でただ一人不幸を背負って歩いていた。そこへ通りがかったのがアントニオ小父だった。このハンチングを被った初老の田舎の気前のいい爺さんアントニオは、『私』のただならぬ雰囲気におんぼろのシトロエンを止めた。次回2へ続く
2008.04.04
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『ノー・リスペクト = ノー・ライフ』『お互いの尊敬の無い人に、豊かな人生は無い』
2008.03.26
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感謝します。あのとき面接に受かったのも、あのとき手伝いに呼ばれたのも、あのときあの仕事ができたのも、あのときあの子と出逢って付き合えたのも、あのとき優しく声をかけてもらえたのも、あのとき久しぶりに電話をくれたのも、あのときあの言葉を聞けたのも、あのときお金が入ってきたのも、あのとき心配してくれたのも、あのとき無理なことを無理にでもしようとしてくれたことも、あのとき看病してくれたことも、あのとき笑顔で別れてくれたことも、あのとき辛く当たってくれたことも、あのとき笑われたことも、あのとき笑顔を向けてくれたことも、あのとき才能を認めてくれたことも、あのとき信じてくれたことも、あのとき幸せを願ってくれたことも、全て感謝します。私は子供でした。あなたたちになんの恩返しも、優しい気持ちすら持つことができなかったかもしれない。反省しています。ただ今、感謝するしかない。後悔はするべきじゃない。いま、本当にあなたたちのしたことが分かりました。私は全ての人に、全てのことに感謝します。感謝しています。
2008.03.23
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私は色んな経験をしてきた。人生はすばらしいとばかり思っていた。人間は大好きだとばかり思っていた。ところが最近はどうだろう。その逆になってしまっている。そのことに気づいたのはごく最近だ。そんな状態が長年続いていたというのに。私は考えを変えるようにした。考えだけ変えるというわけには行かなかったので、行動からも徐々に変えていくことにした。つまりできるだけ地域になじみ、人はすばらしい!人生はすばらしい!と思えるように環境を変えていくことだ。環境を変える。それは、自分を変えることに他ならなかった。だって、他人や社会は思いどうりにはならないから。受け取り方を変えてみることにした。受け取り方を変える?それは自分と言うものを知ることだ。自分が何をどう感じてどんなときに腹が立つか、なぜ我慢できないか、苦しいか、悲しいか、嬉しいか、楽しいか、を先ず知ることから始めることにした。私は徐々に自分のことを、性格をなんとなくではあるが知ることができるようになった。私はできるだけ人と上手く行くように努力をするようになった。相手の良いところも知り、悪いと思ったところも「同じ人間だから」と理解するように勤めた。私にも弱いところはあり、悪いところもある。「お互い様だ」そう思うようにした。皆仲間なのだ。自分の性格を知ると同時に自分が何を望んでいるか、何をしたいかを考えた。できるだけ自分を悪く思わないようにした。自分に自信があってなにが悪い?根拠のない自信であっても、人に迷惑がかからなければ問題ない。全ては人に迷惑がかかるかかからないかである。一切人に迷惑をかけないで生きることは不可能だ。甘えてもいいし、たまには頼ってもいい。それは迷惑をかけることとは少し違う。私は同時に精神面だけでなく、フィジカル面でも自分を労わるようにした。あのマッサージに行ったときの生き返った気分はいったいなんだろう!今までお金のことや時間やその他の都合を心配して行かなかった。早く行くべきだった。この世ではこの身体が資本なのだ。いくらでも生き返ればいい。始めは上手くは行かなかった。失敗したり、恥をかいたり、二度とこんな目には合いたくないと思うことばかりだった。そしていつの間にか自分がスタート地点に戻っていることを知った。そんなことを繰り返していた。しかし今はどうだ!私はすばらしい仲間に出逢った。すばらしい人々の中にいる。節度を持ち、思いやりと愛に溢れた人々の中に。彼らは何も奪わないし、何も恐れない。人を怖がらせようともしないし、貶めもしない。蔑みや嘲笑などどこへ行ってしまったのか。皆がそれぞれの成功と幸せを願っている。彼らは決して人をおとしめるようなことを口にしないし、春のそよ風のような言葉を奏でるすべを知っている。お互いがお互いを尊敬し合って生きている。仕事は社会と個人を結ぶ。社会的に生きていくにはやはり仕事が必要だ。私はすばらしい仕事についている。その仕事で、多くの人に喜んでもらえていると確信を持っている。私の仕事は大変意義のあることである。私を介して多くの人が集まってきて繋がっている。私は世界の中心である。そうやって集まる皆もそれぞれがその人の世界の中心である。私はすばらしい女性と出逢った。美しく可愛らしい、素直で優しい心の持ち主の若い女の子。彼女は何かを勝ち取ろうということはするが、争うということをしない。彼女は動物が好きで、でも執着するわけではなく、生まれつきの優しさで彼らを愛しているだけだ。彼女は誰もが羨むような女性だ。誰もが好きになる女性だ。彼女は何よりもこの私を愛してくれる。まるで自然の中で一番大切なもののように。彼女の愛で私はやがて、長年の孤独で染み付いた変なクセも無くなり、心の錆も消え、心に絡みついていた鎖も解くことができた。彼女のおかげで世の中の永遠というものに気づかされた。私はこの世の全てに感謝している。全ての出逢いに感謝している。全ての出来事に感謝している。私は成功した。お金がどんどん入ってくる。もう私は飢えることは無い。愛情に飢えることが無いように。皆が私の才能を認めてくれた。受け入れてくれた。私が皆の才能を尊重するように。私は感謝の気持ちでこの世に何ができるかを考えた。できるだけのことをして、この世に恩を返してこの世を去りたい。私は少しでもこの世をよくすることができれば幸せだ。私にできる少しのことでいいから。私は結婚した。そして子供ができた。美しい男の子と素晴しい女の子だ。これで少しは私が生まれてきたかいがあっただろうか?世の中も私がこの世に産まれてきたことで少しは変っただろうか?私は私の愛する人々に囲まれてなに不自由ない、申し分の無い幸せの中にいる。私は全てをやった。私にできること全てをしなかったことはなかった。ありがとう。世界。
2008.03.20
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どれだけビジネスで成功するかはそれにかかっている。あるいは多くの人に接している、サービスを施している立場の人とどれだけ接するかだ。直接的でも間接的にでも、先ずはできるだけ多くの人に接することができるかでビジネスは成功するかしないかが分かれ目になってくる。結局内向的ではダメだ。孔子だか誰だかが冷たく言った通り「話ベタでは私の弟子になることはできない」のだ。私がそうだ。孔子の弟子にはなれない。始めるなら先ず、その壁をぶち破らなければいけない。一人の人を相手にして稼ぐしかないビジネスは一人で一日に相手にできる人数は限られている。できるだけ質を高めて単価を上げるしかない。できるだけ多くの人を相手にしている人物を相手に商売をするしかない。
2008.03.19
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日本は作り物の世界だ。これほど人間の頭の中で作られた人工物で埋め尽くされた世界は他にはない。ヨーロッパでもアメリカの都市でもどこかカントリーな部分や考え方と言うものが残っているものだ。例えば、チョコレート菓子の作り方一つにしても砂糖を使わないで蜂蜜で作っていたり、ビジネスにしても効率効率と言いながらも外国の場合はどこかで個人の欲望とかモラルみたいなものがあって日本のように集団的な効率主義ではない、どんな世界にも隙間にどこか人間臭い部分が残っているものだ。日本は産業革命の大量生産、資本主義社会の生産効率、利益第一主義が我々が自ら始めたものでなく人まね(ヨーロッパ諸国の)から始まっているだけにそこに人間臭みが失われているのではないか?西洋諸国は歴史の中でああしたこうしたの葛藤や泥沼の経験があって結果資本主義があるのだから。まあ、その無機質潔癖主義的、完ぺき主義的な体質は日本人独特のものでもある。世界の中でかろうじて近い感性の国は唯一、お隣の韓国のみであろう。今できている社会は潔癖主義、完ぺき主義から作られたため、頭の中でつくられたアイディアをそのまま現実にしているような世界だと思う。頭の中で考えないと人間は物を作るはずがないのだから、全ては頭の中から始まっている。その無機的な感覚の世界が、現実に移し変えられるとさまざまな無理を生じる。例えばいい例が、人間の頭の中で考えられて作られた動物園の中で、自然に生きていたハズの動物園の動物たちは無理やり押し込められて生活している。彼らは自然界では感じなかったさまざまなストレスや新しい病に犯され、野性の感覚を失いつつ生きている。人間もこれと同じだと思う。たとえ人間が作り出したこの近代という社会にも、人間が生活する上ではさまざまなストレスや病、人間特有の精神的苦痛や狂いを生じてくる。なぜなら、結局人間は野生のものであったのだから。少なくとも肉体は未だに野生なのだ。当然狂ってくる。社会的にも矛盾を抱え込んだままになってしまう。さまざまな矛盾、それはもう現れているし、これからはもっと大きな問題として我々の前に現れるだろう。私が思うに原子力発電の問題はそのいい例でかなり大きな問題だ。昔映画「猿の惑星」で猿たちの神は「核爆弾」だった!核爆弾、つまり「核のパワーが神」だったのだ。今、電力の供給に化石燃料にばかり頼って入られないと言うことで原子力開発に本格的に世界は動き出した。日本は遅れをとっている。なぜなら、日本人は潔癖症だから核の脅威に不信感がまだまだあるのだ。それを払拭しようと政府は各地でNPOをリーダー的存在として民間人を巻き込んだ講演を行ってなんとか原子炉開発と核廃棄物の処理場をどこにするか国民参加型で考えてもらおうと、理解をしてもらおうと躍起になっている。しかし、それは凄く危険なことだと思う。もちろん原子力に頼らなければもう我々はやっていけない。しかし、原子力にすれば全てOKではないのだ。原子力万能主義を、将来的にも絶対安全の幻覚を国民に植えつけるようなことになっては間違っているのだ!話し合いに参加することで民間人は何かをやり遂げた気分になっている。行政に参加した気分になっている。それも危険だ。彼らは何もしていないし、なった気分になることは愚かなこと以上に危険なことなのだ。話し合い自体が主催側に都合のいいように上手く誘導されているにも関わらず鵜呑みにして納得してしまうのは危険だといっているのだ。もっと自分を信じて欲しい、自分の感覚に最後まで正直でいて欲しい。大げさだがまるで戦時中のマインドコントロールを見るようだった。ナチスも広告宣伝をうまく使って人々を扇動したが、最近はおおっぴらにではなくても色々と工作できる時代なのだ。何を信じたらいいか、本当に微妙だ。そのうちおばさんが立ち上がって「原子力万歳!」と叫び始めないか怖い思いだった。若い才能ある学生たちにしても始めは強気で反対意見を語っていたがそのうち直ぐに素直に納得してしまった。若者、それでいいのか?と言う思いだった。なにも原子力を否定するわけではない。この社会を存続するためには仕方ないことだ。次世代クリーンエネルギーが開発されるまでは必要なことだ。けれどもその逆の意見も発言できる、逆の立場から詳細を教えてもらえる場所も作らなければ不公平だと思う。話を元に戻すと、そういう政府の勧める原子力に頼った結果出る核廃棄物は何億年も放射能を放出するのだ。これで安全ですとか、地下数百メートルに埋めるので大丈夫ですとか言えるだろうか?一年間にどのくらいの廃棄物が出るのだろう?それが日本の国土深くに埋められるとしてもどのくらいで日本国中の地下が廃棄物だらけになるのだろう?時間の問題だろう。しかもその廃棄物の放射能はもうほとんど半永久的に放出され続けるのだ。かなりの強い放射能が!これがどこが自然なのだろう?どこが安全と言い切れるのだろう?どこが大丈夫?誰が保障できる?できっこない。廃棄物は人間のクソである。人間が勝手気ままに好き放題した結果、臭いクソを地球に残すことになるのだ。廃棄物は地球にとっての癌細胞だ。地球には人間がすでに癌細胞かもしれないが、廃棄物こそ正真正銘の地球の癌細胞だ!その癌細胞は増殖していく。人間が電力や資源を無駄に、無限に消費していく限り。地球には蘇生力がある。ある程度自然に人間活動で有害なものが出たとしても地球のキャパシィティ内でやっていれば蘇生できるのだ。二酸化炭素を木々が光合成で酸素に変える様に。けれども人間の欲望はここまで来てしまった。知らずとはいえ、もう地球が限界に来るところまで来てしまったのだ。地球温暖化だけではない、人間の進化は、環境破壊の中でも最大の核廃棄物と言う地球の癌細胞さえ生み出してしまった。そしてそれは埋めても埋めても増える一方だ。最早人間は、新しい自然に優しいエネルギー源が開発されるまで原子力に頼るしかない。そして、人間は、人類滅亡と言う危機を乗り切るためにできうる限りの無駄な電力の節電を(笑い事ではない)今すぐに!実行していかなければならない!組織的に!世界的にだ!そのためには社会を「社会のあり方」を変えていかなければならない。なぜなら、危険な核廃棄物を地球に溜め込む計画などどれほど危険か・・・分かってもらえたと信じたい。それからもうひとつ大きな問題は、先に述べた「人間は自然の生き物」なのだ。そして核廃棄物は「モンスターである人間」が頭で考えて現実に生み出した最大の癌細胞、殺しても死なない怪物フランケンシュタインなのだ。そんな癌細胞がはびこる現実の社会の中で、まともにこの敏感なデリケートな存在である人間が、人間の若者たちが、子供が、お年寄りが、あなた自身が、まともに存在できるわけがあるだろうか?無理だ!
2008.03.11
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というアントニオ・ネグリ著の本が新聞に紹介されていた。「個人原則と言う常識へ異議」と注釈がついている。内容は近代人の骨の髄までしみこんだ常識の一つは「一人一人が社会を作っている」ということで、今はそんな常識は通用しない世の中になっていると言うのだ。著作権の問題が個人が通用しなくなっている現代社会の裏っ返しだと言う。確かに世の中は大量生産された物質で溢れている。最近中国の農薬事件など、食の安全からも「地産地消」が言われている。その先には「賞味期限問題」でも浮き彫りになった現代の一種の社会の病『大量の無駄』を無くすこと!現在の消費電力を供給するために化石燃料に頼っていられない世界各国は原子力発電所の開発を進め、核廃棄物の処理場を自国での開発を進めている。日本はそれに遅れをとっているが、その大きな理由は核への不安で、国民の廃棄物などもってのほかという考えが根強いからだ。政府はその考えを払拭っしようと躍起になっているが汚染物が危険なのには変りはない。それも社会の大量の電気消費が引き起こしている大きな人間の無駄である。危険物の無駄。地球の癌細胞だ。そんな大きくて人類規模で危険な癌細胞を抱え込むような生存に関わる無駄も無くしたい。ちょっと話が大きくなってしまったが、普通に考えたらどうしたらいいか。理想に立ち返ることだ。その無駄のない社会を作るにはかつてかの有名な作家の宮沢賢治が唱えた自給自足で必要なものを必要なだけ作っていく「ユートピア」?の実現が理想となってくる。ただ、その時問題として立ちふさがる大きな壁となるのは、先に言った産業革命以来、民主主義の元に発達した資本主義社会における大量生産によって生み出される数々の製品であると思う。(もちろんそれによって生じる電力消費量や、それによる大変危険な廃棄物の問題もあるが)宮沢賢治の言うことが全て正しいわけでも、資本主義社会にどっぷり浸かった企業が私利私欲のために語る自己擁護の詭弁も全て間違っているわけでもない。もちろん私たちはもう、悲しいかな!原始時代に戻るわけには行かないのだ。大量生産物の中には有益な物もあるし、大量生産あってこそ私たちが恩恵を受けている数々の科学の発展もある。それがこの世から無くなってしまう事は考えられないのだ。少なくとも、この先の科学的発展無しには逆に私たち人類の存続さえ危うくなってしまう。それは、私たちが生きていく上で必要不可欠な恵みを与えてくれるこの地球が危ないのと同じくらい大切な事なのだ!なぜなら、神の恵み?が私たちの罪深い過去の行いによって途絶えようとしている今、頼れるのは人に残された英知と、思いやりの心だけだから。いずれにしても人類の未来は危機的状況にあると思う。しかし、私たちが確実に生きていくために必要なのは「この二つの問題の間でバランス良く生きていくこと」なのだ。要するに科学と、自然の。自然のための科学といっても差し支えない。この本の内容に立ち戻ると、著者は”現代人は個人が社会を作り上げていると思っているが、現代は「共(コモン)」の時代であると、「共」(分かりやすいのは会社)から個へ所得として利益を変換して「部分」であるある階級に帰属させるため発達してきた社会だ”と言う。分かりにくいが・・・つまり、社会を作っているのは個(一人一人ですよ)と言いながら型にはめて帰属させようとしている。またまたつまり、国や民主主義という(資本主義)社会は搾取の(利益を得る)システムを上手く作っていて大なり少なり国民は常識と言うものの前で騙されて操られていますよという意味だと捉えた。それをストレートに言うと問題があるといけないので評者は、あるいは著者?は、こういうクドイ言い回しをしたのではないかと思う。評者はさらに『現代社会は個人的な「利」によって生産を刺激しようとしてきたがそれはもう端的な自己矛盾でしかない。「共」が生産したものは「共」へ。だから「さらば近代民主主義」なわけである』としている。バブル崩壊以後、小泉によって唱えられた個人の能力によって生産を高める。つまり、職にあぶれた人は起業しましょう!というかつてのメッセージは一部のラッキーな人間だけが享受しただけで、ワーキングプアーや就職漂流民のように極貧からは個人の力だけではなかなか抜けられないことや、貧乏はますます貧乏に金持ちはますます金持ちになると言う法則からは抜けられないことは未だに不況が続いて格差社会が広がっている事実から分かるだろう。起業理想主義が機能しないことが今はっきりしてきた。現実は「共」から「共」へなのだ。実質社会主義的時代に入っているとまで著者は言いたいのだろうか?それは分からない。しかし考えさせられる部分はある。社会主義の理想のように当然この現代の「共」は国民全体では決してないのだ!人類全てでは決してない!今ではごく一部の人間なのだ。彼らが帰属するある階級なのだ!そこから落ちこぼれる人も溢れ出てしまう人も実際いるのだ。では、彼らだけが生き残るためにそれでもいいというのか?もっとモアベターな(良い)方法があるはずなのだ。皆が上手く生きていける方法があるはずなのだ!今回、この本の評から先に記した「ユートピアにおける大量生産(資本主義の置き土産)の問題」を連想したが、この本の言う「近代的な民主主義」を卒業して、皆で生き残っていく良い方法を本気で見つけないといけない!え?皆で生き残らなくてもある階級の人間が生き残ればいいって?なぜなら私はある階級の人間だから?このような人は歴史が繰り返した過ちを知らない。人間として成長したことがない未熟な人なのだ。その行いや考え方は自分に返ってくることを知らないのだ。ナチスのヒットラーがなぜいけなかったか分かっていないのだ。スタンリー・キューブリックの映画「博士の異常な愛情」を観ていないのだ。とにかく、私たちは変革を起こさなければいけない。それは急務で、物を生産することよりも明日会社に行くことよりも、世界で最も大切なことなのだ。
2008.03.02
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混乱の末世には預言者や占い師がもてはやされる。ロシアの最後の皇帝にひいきにされたラスプーチンと言う怪しい預言者はかなりの退廃ぶりだったらしい。ラスプーチンによってロシアは崩壊したとまで言われている。何がほんとうか?何が根も葉もない誹謗中傷か?オーストラリアの過激自然保護団体なんとか・・・は、日本人の常識的感覚、感性からはかけ離れたところに住んでいる人のやり口だと思う。アンビリーバブル!だ。外国ではまだあのような姑息な手段が政治手段として成立するのである。いったい何をまともと信じればいいのか?彼らはただ因縁つけたいだけなのではないか?なら立派なケンカの売り方である。さすが自由主義、たいしたものだ。嘘や偽り、それによって人々が翻弄されるなら、それも怪しい予言のようではないか?
2008.01.18
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私が長い間研究所など科学の現場から離れて情報が入らなくなっている間に、あの期待の常温核融合は偽科学とまでいわれるようになってしまっていたなんて。知らなかった!信頼は地に落ちてしまっていた。恥ずかしい。知らなかったとはいえ、もう常温核融合を研究したり可能性を信じるものは老科学者しかいないそうだ。あれからすでに十数年。そんなにも時間がたって成果が出ない研究などそう言われても仕方がないのだ。なぜなら、期待して研究費を出した人もいるわけだから。お互い様とはいえ、世の中は厳しいのである。しかし、ここ数年でカリフォルニアの大学などから常温核融合に関する好ましい研究成果も上がってきているらしい。また常温核融合に期待する人々が増えてきている。それは、かつての常温核融合という科学とはまた違った形のものではあるだろうが。私としては人類の未来のためにがんばって欲しいものだと思う。ただ、最も自然に近い形で、十分に巨大なエネルギーを得るという考え事態が不自然なもので、たとえそれが成功したとしても自然界に与える影響は今の状況より良いものであるのかどうか疑わしい。かつての常温核融合そのままとしてではなく、そういった研究成果や考え方を他の形で、例えば海水の有効利用とかあるいはコ・ジェネレーションとかに利用したりでき、発展できればそれでいいんじゃないかと思う。もちろん、決定的な次世代エネルギーの登場は人類の夢だが、これからの時代は100パーセントエネルギーをまかなうエネルギー源を求めるより、地域や人に合わせて何パーセントかは水力で何パーセントかは太陽エネルギーで、後の何パーセントかは○○でとか臨機応変でいいのではないか?SF映画のように、あの地域では風力発電エネルギーで生活している民で、こちらは海の民で・・・といった方が個性豊かになっていいと思うのだ。やはり自然が一番なのだ。自然を生かす形であらゆる研究が進めばいい。その結果として、良い結果が得られることを願う。本当にそう思う。
2007.12.16
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久々に映画館!!映画の日だから・・・。『椿・・』を観たかったが(どうせガッカリするだろうけど、あるいはノスタルジックなだけかも)時間が合わなかったのでこっちを観た!あ、ついでに、名監督の過去の作品をリメイクするにあたって脚本そのままって言うのは普通のことです。その上、アメリカハリウッドではヒッチコックの名作『サイコ』をカット割りまでそのままにリメイクしました。観たけどこれはあまりにもオリジナリティがなさ過ぎて時代的に絵作りとしても空疎な感じでつまらなかった。ところで『ベオウルフ』だが、すばらしい!アニメにしかできないことをCGで名優たちを総出演させて可能にした。何を可能にしたかって?もちろん飛んだり跳ねたりではなくて、キャラクターが普通なら映画には出来ないような物(つまり製作者が金を出し渋りそうなもの、アニメならいいけど的なもの)をきちっと名優をCG化することで大人でも納得できる作品に仕上げていることだ。あの主人公のテイノウなキャラは普通ならダメかもね。しかしだ!人々が本当に求めている伝説、物語はこういう主人公のものなのだ。彼には激しい目的(欲望)がある。そしてむちゃくちゃ弱いところがある。普通の人とはこういうものだ。私は彼を我がこととは始め思えなかったが物語が進むにつれ我がことのように思った。物語はこうでなくちゃいけない。伝説らしく?この物語にはきちんと教訓がある。「密約は決してしてはならない。身を滅ぼすことになるだけだ」ということだ。欲にまみれた裏取引で失敗している人は現代では数えるにこと欠かない!そう、あなたも、あなたも、我がことのように彼を思うべきなのである。そして、ヒーローは「決して嘘をつかない」のである。人がそれぞれ違う花を咲かせるように、皆でそれぞれ自分自身のヒーローになろう!!ヒーローは後のナポレオンのように権力欲にかられたり、裏取引きや卑怯な真似をしないのである。特に、欲には目もくれず、ひたすら自分の目的のみを追求すべきなのである。
2007.12.02
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観た観た。面白かった!って最近何観ても面白いとか書いてる気がするので気をつけたいが、歳のせいで慎重になって(面倒だし)自分が面白そうなものしか見なくなったともいえる。でもこれは文句なしくらいにドキュメンタリーとしては面白いと思うよ。だって俺の好きな女のこのことだし。誰だって女優やタレントに憬れることはある。しかし、今の日本の女優やタレントの価値は下がっている。昔みたいに超!のつく存在ではないのだ。身近な隣のお姉さんの延長で、付き合おうと思えば付き合えるかもというくらいの存在でしかない。昔は違った。それにあのハリウッドで「ET」に出たドリュー・バリモア」ともなるとやっぱりビッグとはいえないまでもそうめったに出逢える存在ではないのだ。映画の主人公には完全なる目的があって(バカらしければバカらしいほどいい)障害は大きければ大きいほうがいいのだ。この映画は退屈しない。(DVDで見たからこんなことをいえるのかもしれないが)昔のトリュフォーのようにテンポが良く、バカバカしい占いに頼ったり、偽ドリューと本物とデートしたときのためにデート練習したりと、まさにトリュフォー顔負けにいろんなバカバカしい手でみせてくれる。そして最後には・・・彼の夢が私たちの夢として実現するのだ。笑顔笑顔で、まるでゲイのようになった彼にこちらも安心し、笑顔になってしまうのだ。
2007.11.18
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大樹(?)選手の反則問題は明らかに良くない行為だ。もうすでに派手なパフォーマンス?で一線なんか越えてしまっていたのかもしれないが、越えてはいけない一線のひとつを大きく越えてしまった。反則を促したセコンドも当然いけない。大樹選手は大きく落ち込んでいるらしい。精神科に通っているという噂まである。なぜ、彼があそこまで大きく落ち込んでしまったか。それは負けたら切腹の件や、世間のバッシングの件やいろいろと原因はあるだろう。ひょっとしたら彼女に振られたかもしれないがそんなのはどうでもいいことだ。でも、彼の中で一番大きなことはきっと前の会見で「信じていた父親が反則を促したことを認めなかったこと」ではないか?私には大樹選手が自分の意思で何か言おうとしたのを父親が口をふさいだように見えた。彼はボクシング界を辞めた。しかしはっきりと自分の口からそれを認めたわけではない。兄の興起(?)はチャンピオンとしての責任から認めた。しかしそれは父親の会見の時には出てこなかったことだ。とすると、兄の興起が謝罪するまでの間、本人の大樹は信じていた父親の言うとおりにして、その父親が反則行為を促す発言をしていないと言った、そうすると大樹は反則や全てが全部自分の責任になった、「信じていたものに裏切られた」ということになるのではないか?私が大樹だったらそのことが何よりも一番ショックだと思う。今、大樹選手は自分の中で大きな格闘をしていると思う。信じていたものに裏切られた。しかし今でも信じている父親にはそれをぶつけられない。そしてその怒りや苦しみは自分に向かっている。心の中で自分を傷つけている。兄が謝罪会見で認めて初めて、大樹は少しだけ救われたのではないか?彼は兄の愛を感じていると思う。皆は親子愛だけを言っているが、今回は兄弟愛がその裏にあるのではないか?今回の件は、派手にやった分ツケは必ず回ってくるのだと若い人たちや私を含める世間の人たちへの教訓になったと思う。礼儀を欠いてはいけないのだ。大樹選手にまた元のように?元気になって欲しいと思う。
2007.10.28
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マジヤバイ!灼熱地獄が来る!!!氷河期が!!洪水が!!飲み水がなくなる!!!台風が全てを洗いざらい消し去ってしまう!!!アル・ゴアは映画の中で世界のCO2量のグラフを指し示す。CO2の量と温暖化の気温は正比例するそうだ。そしてグラフは、ここ数年で会場の天上を突き破る勢いで伸びている!ということは、気温も想像を絶するくらい上昇するということだ。灼熱地獄だ!もし灼熱地獄がくれば人間は黒焦げになるだろう、もし生き延びても、その肉体は変形し、目玉は飛び出て、四つんばいで歩き始めるかもしれない。そんな世界は、そう、黙示録やノストラダムスの予言にしかなかった!!!ノストラダムスの予言は、1999年を過ぎて当たらなかったといわれている。しかし、ちょうどその時期にあの9.11があったのだ。私のホームページの本文を読んで頂いた方は分かってるだろうが、ノストラダムスは人類は滅亡するとは書いていない。あの「恐怖の大王が降ってくる(飛行機が降ってきて、ビルが崩壊する)」と書かれたその1999年は9.11のことを予言した詩だったのだ。それ以降、「マルス(軍事力でアメリカは)は平和の名の下に(対テロという名目で)支配するだろう」これがはずれだと誰がいえる?と私は訴えた。そしてゴア氏が示す未来の姿にぞっとした!それはまさに、ノストラダムスが予言している未来の人類の世界に違いないからだ。人間は変わり果てた姿で四つんばいになって生活するものもいる。迫害されていた民族が優勢になり、そこに法はなくなる。無法地帯になって多くの犯罪が犯される。そしてなにより飲み水がないのだ!アル・ゴアは、世界の人々の飲み水の40パーセント?が氷河の溶けた水から支給されていることを語った。そしてその氷河は!ここ数年姿を消していっているのだ。これはなんという恐ろしい事実。灼熱地獄にしろ、氷河期が来るにしろ、洪水で流されるにしろ、大都市が大地が水の下になってしまうにしろ、台風が人々を吹き飛ばしてしまうにしろ、まるで聖書の黙示録のような恐ろしい世の中が待っているのだ。聖書の黙示録くらいならまだ良いが、ノストラダムスの言うような恐ろしい人間が人間として生存できなくなってしまったら。生き延びたとしても最早それは人間ではない。人が人としての姿を失ってしまった後も人類は生存していくなんて、罪を犯し続けるなんて!それは地獄の下等動物でしかない。未来はまさに地獄だ。そんな地獄を現実にしてしまってはいけない!!私だって別にキリスト教でもなんでもないが、できれば神の楽園がこの地上に実現する未来を願っている。人々が人間のすばらしい姿のまま平和に暮らす未来。その方が数百倍も、数千倍もすばらしい。インディアンは言い伝えている。「人間は、人類滅亡の危機をいずれ迎えるが、そのサインは世界のあらゆるところに現れる。そしてきっと人間は悔い改めて、その危機を回避するだろう」と。
2007.10.20
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民主主義とは、なんぞや?最近、民主主義が民主主義たるゆえんを飛び越えて他国に横暴になり、民主主義の権利を政治力、あるいは武力によって主張している。最早それは民主主義ではなくなっているのでは?ミイラ取りがミイラになっているのでは?もちろん!ミャンマーのような国民の人権を奪い取ってしまう軍事政府を黙って野放しにする必要はまったくない。それこそ民主主義の出番だ!人権と自由のために、隣人の命と生活のために我々は戦うべきである。しかし、それだけではない他国民の人権や生活、命を脅かす行き過ぎが最近の民主主義国家には目立ってきているのではないか?それはもはや民主主義ではない!民主主義とは博愛の精神で国境を越えた人々にまで民主的であるべきだ。それは決して強制、独断的なものではない。皆人類は全て平等であるという基本概念の元に行われるべきだ。人間が抱える問題は多い。人類が抱える問題は宇宙が膨張するように膨らんで行っている。人類の、地球の幸せを願わんばかりである。
2007.10.20
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失望した!民主党。小沢。この間はアメリカに「NO」とはっきり言ったことを評価して日記を書いた。しかし、思い違いだった。彼らは自民党と同じだ。少なくとも小沢氏は特に。そんなにもこの国の年寄りたちは若者を戦争に送り込みたいのか?!自民も頼りの綱の民主も!結局。とにかく戦場に向かうことは平和ボケだろうがなんだろうが、給油だろうが派兵だろうが全てNOなのだ!!それで何が悪い!あのね小沢さん。国連の認めた範囲の派兵?そんなごたくは私は期待していない!私が言った政治的に国民が納得する形とはそんなことを言ったのではない。それじゃあ国民を口八丁手八丁でうまく騙そうって魂胆しか見えないのだ。そんなごたくには誰も耳を貸さない。今時そんな理論で騙される頭の鈍い国民はどこにもいないのだ。自民や民主、古い政党を離れて新しい政党に皆投票しようよ。自民じゃなきゃ民主だって、やっぱりお粗末だったね。お願いだから若者を戦場に送り込もうなんて考えの政治家はいなくなって欲しい。もっと被爆国の日本にできることを国際社会に訴えていこうよ。始めは聞いてもらえなくてもいい。徐々に徐々に、分かってもらえっれば良いんじゃないの?
2007.10.20
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アマゾンの3人しかいなくなった民族。あまりの悲惨さに腹が立った。「白人は私たちを喰うのか?」という言葉は、無知から出た言葉ではない。白人は先住民族を無駄に殺していく、何の目的で?それが理解できないのだ。喰うしかないだろ?まさか他に利益になることがあるのか?現代人はゆがんでいる。そう質問する彼らの方が正しいのだ。人は、現代人はそんなくだらない理由で人を殺せるのか?!くだらないこと、石油に代わるエネルギーでトウモロコシが必要だから。それがビジネスとして儲かるからその土地が必要なのだ。それで先住の民族を殺す!ひどい話こんな話聞いたことがない。それが現代だ。
2007.10.09
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それは日常的に武器を携えた、あるいは携えた者と共に生活をしていた民族なのだから仕方がないのかもしれない。心中とか、自殺とかもそうだ。しかし、それが日本の美徳であると同時に悪い因習でもある。死の美意識は日本絵画を、戯曲を、小説を、暗く、陰鬱なものにしてきた。その反動で豪華絢爛な美意識が発展することもあったが、いずれもそういった文化は日本では刹那的な現れ方しかしなかったのではないだろうか?死を表現することは日本人の武器でもある。国際的に認められるきっかけともなる。しかしいい加減、日本の枠を超えたなにか新しい文化が、花開いても良いのではないかと思う。芸術とは何か?その難しい質問に答えようとすると、キリスト教の神(善)と悪魔(悪)の明確な対立がない日本ではどうしても、死を考えざるを得ない。そして、死を考えると、悪の認識が曖昧になるのではないか?
2007.10.08
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「オーラの泉覚書」の日記に書き込みいただいたさゆりさん、今気づきました。すみません。ありがとう。もうブログは削除されたのですか?誰も読んでないかと思って、たまに書き込みがあっても不謹慎サイトの書き込みだったりしてもう当てにしてなかったのです。フェイクの書き込みもありますので、これもそうかなと。。。(平井堅の「フェイク・スター」いいね。最近の歌詞かなりプライベートになってきたね)今更ですが、感謝の言葉を書き込みたいと思います。私の日記なんぞを楽しみにしていただいていたなんて本当に嬉しいです。もう見ていないかもしれませんがありがとうございました。
2007.09.15
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地球が狂い始めている。世界の破滅が近づいている?日本の猛暑に世界各地の異常気象、沖縄の美しい珊瑚の白化現象、スイスの氷河が消えた、秋刀魚が早い時期に大漁・・・ノストラダムスだったかアメリカ先住民だったか忘れたが「地球の破滅がやってくる前に色々なサインで破滅が近づいていることが分かるだろう」とあった。「そして、地球の破滅、人類滅亡は止められるのだ。早い時期に人間がそれに気づいて、改めるなら・・・」と。いま、まさにそれを認識しなければならない。今すぐに改めなければならない。もうすでに破滅は迫っている!サインは現れている。どうすればいい?とにかくできることから始めるしかない!無駄なことを止めよう。できるだけ全ての人のことを環境の事を考えて行動しないとその分カルマが己に、皆に返って来る。そして無責任なことを止めよう。君が捨てた空き缶が、岩に叩きつけたビンのガラスのかけらが、乗り回した水上バイクが君の知らないところですっかり海を汚している、利潤追求のために企業が切り開いた森林が海の生き物を壊滅させ、くしゃみするくらいがんがんに冷えた空調が温暖化を加速する・・・楽しかった分、楽をした分、他の人が迷惑している。異常気象で地球の反対側で食べ物がなくて飢えているかもしれない。自然が汚されている。汚れのないものが汚されている。これぞカルマ。新しいエネルギー開発を進めていくと同時に、国民が代替エネルギーに移行しやすいように国が補助すべき時代になっているのかもしれない。
2007.08.25
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「考え過ぎるからだ、直そうと。魔法の解決法を探してじたばたする。なぜ直す?人にできるのは考え、努力し、望む(hope)だけだ。自分が答えだなんて思うな。大切なのは答えなしに生きる力だ」さすがインディアンとの混血のキアヌ・リーブスの言うせりふだ。ネイティブ・アメリカンの言い伝えに「私の生きる意味はなんですか?」と旅を続けた青年の話がある。彼は、目的に達する前にある老婆から教わる。「目的を求めてお前が旅をしたこと自体が答えなんだ」と。そんな言葉を思い起こさせる映画『サム・サッカー』でのキアヌ・リーブスさまの言葉。何か今までになく心にジンと来て、ひらめいた。世の中には失恋の痛手や肥満、楽して金をもうける方法、孤独、苦しみから逃れようとあらゆる手を使ってあれでもないこれでもないと魔法の方法を求めてジタバタあがく人々がいる。最近は特にそうだ。魔法の方法で何でも夢が叶うと思っている。自分が答えだと思うな。・・・その意味は自分が完全だと思うなということだと思う。完全であろうとするから魔法の方法を捜し求める。答えはないし、自分自身も決して答えにはなりえないのだ。人生に答えがあるとしたら、あの世に行ってから気づくものなのかもしれない。答えなしに生きる力だ!多分ね・・・多分・・・。かっこよく語った後にキアヌはしょぼくれてこう続ける。誰も答えなんかわかりゃしないのだ。それをこの映画は、指しゃぶりのしょぼくれた若者が変っていくさまを映像で見せて示してくれる。さえないキャストにさえない主人公、そしてストーリー。しかし久しぶりにいい映画に当たった。こういう真理を伝える映画に出会えることはうれしい。ニューエイジの世代を通り抜けてジタバタしてきたアメリカならではの映画だ。アメリカ人は純粋な若者のストーリーは伝統的に上手なのだ。
2007.08.05
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