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再び、洗足流れに戻って歩いていきます。水路の側壁に穴が開いている区間がありました。おそらく、洗足流れの水路へ雨水が流れ込んで溢れそうになった場合に、この穴からオーバーフローして下水道に流れ込むようになっているのでしょう。このあたりから車道を離れて、住宅街の細い道沿いに水路が引かれています。住宅の間を抜ける細い路地沿いを洗足流れの水路が通っています。このあたり、水路の中に草が繁茂していますが、これは昆虫などが棲みやすくするための配慮か?、それとも管理の手が回らないのか? どちらなんてしょうかね。暑さのせいか、かなりうなだれているひまわりの花壇がありました。桜のプロムナードの案内板がありました。蝉山橋という橋の名称は、このあたりの地名が蝉山と呼ばれていたからでしょうか(→→→こちら)?洗足流れ東雪児童公園という公園があり、木陰にあったベンチでひと休みしました。残念ながらトイレはありませんでした。ここに洗足流れ沿いの低地の稲作農業と洗足流れが野菜の洗い場として使われていたことを説明した案内板がありました。水が濁っていましたが、赤い鯉の姿が見えました。このあたりの水路では、鯉が泳いでいるようですね。洗足流れはこの先から暗渠になっています。暗渠の上の歩道をさらに歩いて行きました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その22) 再び洗足流れを歩きます
Sep 7, 2026
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2020年10月31日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して御岳渓谷を歩いた報告です。御岳渓谷で、カヌーというかカヤックというのかの練習をしている人たちです。「杣の小橋」を渡って、多摩川の右岸に出ます。(ちなみに右岸とは川下け向かって立った時に右側ある方のことですね)また、杣というのは木を植えて木材をとる山を指すそうで、それに従事する人を杣、または杣人と言い、採れた材木も杣、または杣木と言うそうですね。国語の試験に出そうなので覚えておきます。その「杣の小橋」の下には、ラフティングのゴムボートがあり。カヤックで急流と格闘している人も見えました。杣の小橋の下流側です。こちらは流れが緩やかですね。杣の小橋を渡り、右岸側を上流に向かって歩いて行くと、こんな施設がありました。東京都交通局発電事務所多摩川第三発電所(→→→こちら)です。二酸化炭素などの温暖化ガスを排出することがなく、水の循環サイクルによって再生可能な、自然の恵みを最大限活かした環境にやさしいクリーンエネルギーです。SDGs(Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標))ですね。東京都交通局というと都営地下鉄、都バスを思い浮かべますが、明治44年(1911)に交通局の前身である東京市電気局が発足し、東京市の路面電車を運営していた東京鉄道株式会社を買収した時に、引き継いだ3か所の火力発電所(品川、深川及び渋谷)の運営を開始したことに始まる発電の歴史も持っているそうです。こちらは、かつて発電所で使われていた水車と弁を展示していました。水車は多摩川第一発電所(→→→こちら)で使われていたもので、弁の方は多摩川第三発電所で使われていたそうです。平成19年に50周年を迎えたということは、交通局の水力発電事業は昭和32年(1957)から始まったわけですね。この鉄管は、上流にある白丸調整池ダム(→→→こちら)からこの第三発電所まで水を送っています。ちなみに、多摩川の上流には4カ所の水力発電所があって、交通局が運営しているのは、小河内ダムの直下流にある多摩川第一発電所、白丸調整池ダムにある白丸発電所、そしてこの多摩川第三発電所です。平成12年(2000)に完成した白丸発電所は、周辺の環境に配慮して、その大部分が地下に設置されています。そして、多摩川第一発電所と白丸発電所の中間にある氷川発電所です。実はこの発電所が一番古く昭和6年(1931)から水力発電を行っています。今は、昭和32年(1957)に完成した小河内ダム直下から導水路と経て氷川調整池に送られた水を使って発電しています。ところで、第一と第三があるのに多摩川第二発電所がないと思われますが、氷川発電所を東京都が買収して多摩川第二発電所となる予定だったのが、水利権の関係で東京電力の施設のままになっていたとか、さらに平成19年に、東京電力から子会社の東京発電株式会社に譲渡されています。【つづく】人気ブログランキングへ御岳渓谷を歩く(その2) 東京都交通局多摩川第三発電所
Dec 21, 2020
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名古屋に出張して、久屋大通駅で名古屋市営地下鉄の桜通線から名城線に乗り変えようとしたところで、この案内板に気がつきました。何分、名古屋は地理不案内でこういう案内板は役に立ちます。で、行きたかったのは名古屋城駅だったんですが、気になったのは「右回り」という説明。この名城線って環状線になっているんですね。そして、久屋大通から名古屋城へは右回り、ということは、進行方向の右手側が名城線の描く環状線の中心にあるっていうことですね。名古屋城駅で降りたら、路線図があったので、確認すると、確かに、久屋大通駅から名古屋城駅へは右回りになっていました。反対側のホームにあった路線図だと、名古屋城駅から久屋大通駅は、進行方向にむかって左手側に中心があるので、確かにこれは「左回り」でした。山手線だと右回りは外回り、左回りは内回りになるんですね。そして大阪環状線だと、右回りは外回り、左回りは内回りになるんですね。なんか慣れない土地に行くとややこしいですね。人気ブログランキング名古屋の地下鉄は右回りと左回り
Aug 18, 2024
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)駅間歩きといいながら大宰府の歴史に触れています。国の特別史跡に指定されている大宰府政庁跡に到着しました。地元では、「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称されることが多いようで、都府楼之跡という石碑も隣に建っています。ここが政庁の玄関だったところでしょうか。大宰府跡の説明板がありました。そもそも、大宰(古代では「おほ みこともち」と呼ばれていました)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官のことを意味しています。南門跡の説明板です。7世紀後半から奈良・平安時代を通じて九州の政治外交の中心であった大宰府は、古代における地方最大の役所でしたから相当な広さがあります。特別史跡大宰府跡のほか、664年に造られた水城や大野城、「府の大寺」といわれた観世音寺、筑前国分寺跡、そして太宰府天満宮。これら史跡の発掘調査は昭和43年より始められました。その成果として出土した建物の基礎石があります。この建物は大宰府展示館です。史跡の発掘調査の成果が展示されています。都府楼跡の名で親しまれた大宰府政庁跡はその中心的な場所であり。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説があるほどの広々とした政庁跡です。この政庁跡の面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍だそうです。政庁跡の中心部と思われるところに三柱の石碑があります。なんと記されいるのかわかりませんが、古色蒼然としていますね。真ん中に建つのは「都督府古址」(ととくふこし)の石碑です。この石碑も大きいです。一番上には「太宰府碑」と彫られていました。歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いることになっているのに、この石碑を揮毫したした人は間違っているのかも。大宰府政庁の脇を小川が流れていました。この川の下流の池には、スイレンの花が咲いていました。このスイレンも古代の大宰府のお役人たちもこのスイレンを見ていたのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ駅間歩き 西鉄太宰府線(西鉄五条~西鉄二日市)(その7) 大宰府政庁跡
Aug 2, 2017
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JR東日本の「駅からハイキング」(→→→こちら)で予定されていたのですが、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言のため中止となった「新春の北千住界隈で福めぐりと和文化にふれる」のコースを歩いてみました。北千住駅前通りの商店街を進んで行きます。数字の「1,010」で千住と読むのですね。北千住駅前通りの北側が宿場町通りと呼ぶそうです。この道が旧日光街道になりますが、駅前通りを境に、南側から千住ほんちょう商店街という名前に変わっていました。こちらを進んで行きます。千住ほんちょう通りから西側を見ると、立派な赤い門が見えます。この赤い門のお寺が三宮神山大鷲院勝専寺(→→→こちら)です。赤い門が目立つので、「赤門寺」という通称があるそうです。ちなみにこの赤門、普段は閉じられており閻魔さまのご縁日がある1月と7月にだけ開門するのだそうです。鐘楼は当初安永4年(1775)に建設され千住地区の時の鐘として、役立っていましたが明治に入って破損し明治24年(1981)再建されたそうです。またさらに鐘は昭和20年(1945)戦時中の金属供出で失われたため長く鐘楼だけになっていましたが昭和34年(1959)檀家及び地元有志の募金で再鋳されたそうです。こちらにお寺の由緒が記されていました。また、開基した新井政勝の父・新井政次が荒川(現・隅田川)に網を投じたところ、千手観音像が網にかかったのが寺の由緒だとも伝わっており、この千手観音は今でも勝専寺の寺宝となって残っていて、さらにそれが地名「千住」の由来といわれているそうです。本堂は明治39年(1906)の建立でコンクリート造で化粧レンガで覆われ近代的な建物です。この紋所、徳川家忠・家光・家綱の利用があった徳川家の御殿が造営されたことと関係あるのでしょうか。【つづく】(七福神めぐりのコースです)人気ブログランキングへ【追記:夫婦別姓について】一昨日のMoMo太郎の「夫婦別姓について」の記事に関して、アメリカ在住の方から、時差の関係でしょうか、遡って一日遅れで、コメントをいただいきました。どうでもいいようなMoMo太郎の意見に対して、わざわざ遡ってまで、コメントをいただいたので、この方は「夫婦別姓」について、真剣な意見をお持ちのようなので紹介させていただきます。(全体のコメント)夫婦別姓、考えるときだと思います。まあ、それは、戸籍と言う考えに立った男性の視点ですね。同じ姓の下でも、頃はバラバラで家庭崩壊もありますし・・・。性が違っても、家族とは何かをしかり考えて変える勇気を持ってほしいです。(MoMo太郎の感想)まあ、それは、戸籍と言う考えに立った男性の視点ですね。"戸籍と言う考えに立った男性の視点ですね。"という意味が理解できません。この方はアメリカにお住まいの方ようで、すでに国籍もアメリカなのかもしれませんが、戸籍という制度で国民を管理しているのは、おそらく日本だけかもしれませんが、戸籍とは、国民一人一人を(日本国内外の居住に関係なく)出生関係により登録する制度で、かっては徴兵や徴税と言う目的もありましたが、今では、日本国籍を有する者のほとんどについて、氏名生年月日などの基本情報と、婚姻などの事跡が記録されており、パスポートの発行や相続人の確定などのために使われている、行政目的の制度であり「戸籍と言う考えに立った男性の視点」という意味が理解できません。それとも戸籍をやめてアメリカのような住民登録制度にすべきということなのでしょうか?同じ姓の下でも、頃はバラバラで家庭崩壊もありますし・・・。姓が同じだから、家庭崩壊しないといったことではなく、日本では家族という単位で、国民を記録しているので、家族のそれぞれの人間は同じ姓でないと不便ではないかということです。また、組織として強固にするためには、山口組系〇〇組ではないですが、同じ名前にするということで同じグループの団結心は高まりやすいと思っています。性が違っても、家族とは何かをしかり考えて変える勇気を持ってほしいです。「性が違っても」というのは同性婚という意味なんでしょうか、それとも「姓が違っても」という誤字なんでしょうか。「変える勇気を持ってほしいです」というのはどういう根拠で勇気を持てばいいのでしょうか。例えば、今までの制度に不備があって困っているとか、制度をこうしたらもっと女性の国会議員が増えるとか、今の制度ならSDGs(持続可能な開発目標)のジェンダー平等を達成できないというのに対して、効果があるんだという説明がないと、「変える勇気」というか「変える論理的な根拠」がわかりません。ということで、もう少し、わかりやすく論理的に説明いただけると、ありがたいですね。北千住七福神めぐり(その2) 勝専寺の赤門
Apr 5, 2021
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清澄通りを南に下って、森下の近くまでやって来ると、こちらにあったのが、「茶店 笹や」です。弥勒寺の門前にあり、平蔵が放蕩無類の日々を送り「本所の銕」と呼ばれていた頃をよく知るお熊婆さんのお店です。火盗改の長官になってからは出先のような役割を担い、多くの作品に登場しています。ところで、実際の弥勒寺(みろくじ)(→→→こちら)は、この高札のある場所からかなり離れた、墨田区立川にあるこちらのお寺です。弥勒寺は「万徳山聖宝院」という真言宗豊山派の寺院です。慶長15年(1610)僧宥鑁が小石川鷹匠町に創建し、元禄2年(1689)本所に移転したそうです。江戸時代には新義真言宗の触頭寺院であり寺領100石の朱印状を与えられ、安政大地震まで塔頭6ヶ寺、及び多数の末寺を擁した格の高いお寺だったそうです。境内には、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉に鍼灸師として仕え、その病を治したことで綱吉の信頼を得た杉山検校(→→→こちら)のお墓と鍼供養碑が建立されています。真ん中の五輪塔が杉山検校(本名:杉山和一)のお墓で、左側の石碑がはり供養塔です。説明板に杉山和一について記されていました。ちなみに杉山検校の「検校」というのは室町時代以降、盲官(盲人の役職)の最高位の名称のことで、平曲(平家物語を琵琶を弾きながら語ること)・地歌三弦(三味線)・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩などに従事する男性盲人の自治的職能互助組織(「当道座」と呼ばれる)のトップのことになります。ちなみに、映画やテレビで有名な座頭市の「座頭」もその当道座の冠位の最下位のもので、座頭市も普段は按摩を生業としていました。こちらの観音像は、「戦災殉難慰霊観音尊像」として1967年(昭和42年)3月の建立されたもので、太平洋戦争による数多くの殉難者の慰霊のために建てられ、付近で亡くなった3500柱の遺骨が納められているそうです。初代林家三平さんの奥さんで、八代目林家正蔵さんや二代目林家三平さんのお母様である海老名 香葉子さんもこのあたりの出身です。ご本人は疎開していて無事でしたが、兄一人を除いてご家族を空襲で亡くされたそうです。戦後はその生き残った兄とも生き別れ、親戚の間をたらい回しにされていたそうですが、父親が有名な釣り竿職人だった縁で、父親の知人で釣り好きで知られた三代目三遊亭金馬に引き取られて、そして初代林家三平さんと知り合い結婚され現在に至っているそうです。(鬼平犯科帳ゆかりのコースです)【つづく】人気ブログランキングと鬼平情景(その3) 弥勒寺門前の茶店笹や
Mar 26, 2023
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フジテレビ系の「トリビアの泉」という番組で、「トリビアの種」というコーナーがあって、例えば、日本人は何々な人が多い、みたいなトリビアの種で、それを調査するために何人の人に訊けばいいかという時があります。 そのたびに、著名な統計の大学の先生、例えば、政府の統計審議会会長で青山学院大学経済学部教授の美添(ヨシゾエ)先生なんが、そのたびに2000人と答えています。 まあ、国勢調査をはじめ各種の政府の行う各種の統計調査は美添先生が「うん」といわなければ実施できないという偉い先生ですが、このくだらないテレビ番組(小職は結構見ていますが)に付き合っているというのも、先生の人柄でしょうか。 さて、この2000人という答え、結構、美添先生もまじめに答えているのではないでしょうか。というのは、標本調査の精度は次の式で表されます。ここで、p’は標本(抽出された調査対象)の比率。pは母集団(つまり日本人全体)の比率、Nは母集団の人数、nは標本の人数、Pは基本的には母集団の比率ですが、実用上は、統計理論的にも標本の比率でいいようです。 この式の意味は、母集団の比率は、標本の比率のプラスマイナス1.96sqr((N-n)/(N-1)×P(1-P)/n)の範囲内に95%の確率で入っているということです。 ここで、標本の比率±2%くらいの誤差で、母集団の比率Pを適宜変えて計算すると、だいたいP=50%の時にnが最大値なり、2000人くらいの必要なことがわかります。実際の調査では、回答を拒否する人もいると思うので、まあ3000人くらい調査することになるでしょう。 しかし、この種の調査でも、例えば渋谷の街頭で主に聞いていると、若い人が調査の中心になり、調査結果に偏りがでるのではないでしょうか。それを非標本誤差として、統計の専門家は気にするはずなんですが。そのへんの注意は、美添先生はテレビ局の人にちゃんとやっているのかな???
Jan 15, 2006
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千葉県の歌というのがあるそうです。「せがれ館山 毛は茂原 ちょいとそこらを佐原せて~ 本当にあなたは銚子よい 早く入れてよ千葉つけて~ちんちんぷらぷら まんまんぱくぱく佐原あたりは良いけれど 九十九里まわせば銚子よい 姉ケ崎から五井五井と 八街いけない ちょい松戸~ちんちんぷらぷらまんまんぱくぱく」という歌詞を以下のメロディーで歌うそうです。忘年会や新年会で、本気で歌うと、セクハラになるかもしれませんから、気をつけて下さいね。昨夜、間違って書きかけたままアップしてしまいましたので、削除して再度アップしました。コメントをいただいた皆さん大変申し訳ありませんでしたm(__)m。人気ブログランキングへ千葉の歌
Dec 5, 2015
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10月22日に、JR東日本が開催した「駅からハイキング 蒲田・大森の今と昔を巡る散歩コース」に参加した時の報告です。こちら蒲田駅西口からの出発です。蒲田駅から南に向かって歩くと、旧蒲田電車区、今は大田運輸区(→→→こちら)と呼ばれています、電車区の傍にあるこの建物は、カムカム蒲田という愛称で呼ばれる新蒲田一丁目複合施設(→→→こちら)です。「区民活動施設、保育園、子育てひろば、中高生ひろば、地域包括支援センター、シニアステーション」といった機能がまとめられた施設です。カムカム新蒲田の近くにある六郷用水散策路の標識(→→→こちら)がありました。六郷用水とは、江戸時代に現在の大田区東部、大森・蒲田・羽田といった平坦なエリアを、新田開発し、そこに水を送るために建設された水路です。また「蛸の手」とは、その六郷用水が今の大田運輸区の敷地付近で糀谷、羽田、六郷方面に分かれて行った様子が、あたかも蛸の手足のように分かれていることからそう呼ばれていたようです。大田運輸区に留置されている京浜東北線の車両です。随分、沢山の電車がありますが、京浜東北線の車両は南浦和にあるさいたま車両センターに配置されていてここには検査のために車両が留置されているそうです。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その1) 蛸の手と旧蒲田電車区
Nov 22, 2022
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(この記事は7月5日~6日にかけて福岡県・大分県に発生した豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)市役所の近くにあった「道の駅うすい」です。建物はこんな感じの多角形のデザイン。ここで嘉麻定食550円をいただきました。かけうどん、かしわおにぎり(鶏肉の炊き込みごはんをおにぎりにしたもの)、魚のフライ、刺身こんにゃく、そして漬物もついてこの値段はお得ですね。大坂冬の陣や夏の陣で活躍した後藤又兵衛ゆかりの地だったんですね。福岡藩黒田家の支城益富城がこの嘉麻市にあり、そこの城主を努めていたのが後藤又兵衛だったそうです。で二代目藩主の黒田長政とソリが合わなくて浪人したそうです。そして、大坂城の豊臣軍に参加したというそうです。そして、真田丸、昨年のNHKの大河ドラマだったですね。哀川翔が演じてましたね。その前は2014年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では塚本高史が後藤又兵衛役でした。この嘉麻市出身者には、NHK第21代会長 籾井 勝人氏がいます。郷土の英雄、後藤又兵衛が活躍するドラマを作るということは、NHK職員のみなさん、会長への「忖度」でしょうか?その他にも、出身有名人には、将棋名人 加藤一二三劇作家 つかこうへい画家、二科会理事長 織田広喜俳優 瀬戸康史とそうそうたる顔ぶれではないでしょうか?そして、この人、おすぎさん???いえ!違います。出身というわけではなく「おかま」つながりで嘉麻市の観光大使となっているそうです。【つづく】人気ブログランキングOH!嘉麻市(その2) ゆかりの人物
Jul 16, 2017
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葛飾区郷土と天文の博物館の郷土展示室の展示を紹介します。こちらにあるのは葛飾区で発掘された土器です。縄文時代は葛飾区は海の底だったので、縄文時代の土器は展示されていないようです。弥生時代の土器が展示されていました。こちらは中世の葛飾区を紹介している展示でした。こちらは近世、江戸時代の葛飾区に関する展示です。明治以降の葛飾の暮らしを紹介する展示です。「文化フライ」という小麦粉を練ったものをパン粉をつけて揚げたもの。昔はこんな食べ物が人気あったんですね。葛飾区では染め物も盛んだったようです。こちらは葛飾区にあった町工場の様子です。昔の葛飾区の庶民の住宅の様子。なつかしいオート三輪。MoMo太郎の子供の頃はこの車が活躍していました。葛飾区郷土と天文の博物館、またゆっくり見学に来たいと思います。(亀有開運巡りのコース)【つづく】人気ブログランキング亀有開運巡り(その8) 葛飾区郷土と天文の博物館の展示を見学
Mar 18, 2026
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今年は国勢調査の年みたいですね。だいたい5年に一度あるようなので、そういうことですね。 しかし、国勢調査も色々な人の御協力によりhttp://plaza.rakuten.co.jp/kanata9/diary/200509130000/支えられているわけですね。 統計法という法律では、虚偽の申告をした人も、その情報を目的外に使用した人も罰せられるようですが、もう40年以上は生きているのですが、そういうことで罰金を払った人がいると聞いたこともないので、まあ、スピード違反みたいなもので、見つからない限りオッケーみたいな世界ですか。 しかし、こういう統計調査に一体、どんな効果があるのでしょうか。実際、各種の経済統計って、なんか余り有効でないような話しぶりですね。この日経の記事では、http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20050613AT1F1001810062005.htmlこうなると、「民でできることは民へ」への流れで、統計調査も変えたほうがいいのかもしれませんね。 しかし、会社にこんな調査票がやってきて、「御社の今月の売上は?」、「今月の社員数は?」、「景気はよくなりますか?」なんて細かく聞かれてたら、中央青山監査法人に聞いてくれとでも言いたくなりますね。 そんなわけで、記入する側の負担は経団連が代表してくれるんですか?まあ、そんなに景気が知りたかったら、この垂れ幕をかけているスーパーの前で何人入ったかでも、毎日カウントでもしたらとも思いますけど。 いずれにせよ、まあ国勢調査は選挙の一票の格差是正なんかにも使われるので、最低限は協力してもいいかもしれませんね。国民の義務として。
Sep 14, 2005
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さて、間宮林蔵の墓は、茨城県つくばみらい市上平柳の専称寺にもありますが、東京都江東区平野にもあります。間宮林蔵は江東区の深川(本所ともいわれています)あたりで没したそうです。つくばみらい市にあるお墓よりも立派ですね。確かにつくばみらい市にある間宮林蔵の墓は、蝦夷地の探査に行くときに作った決意のお墓ですが、東京のこちらは、功成り名を成した後にできたものですからね。間宮林蔵、生涯独身だったそうで子供がなかったそうです。農家としての間宮家(つくばみらい市の方)では親類の者が間宮の家を継ぎ。武士の家であった東京の間宮家は、養子をもらって家系のつないだそうです。その他にも、アイヌ女性との間に子供がいたのそうでこちらの方は「間見谷」という姓で北海道に在住しているそうです。墓石には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれていますが、水戸藩主・徳川斉昭の撰文だそうです。この墓は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で破損したそうですが、戦後の昭和21年5月に拓本を基に再建されたそうです。大正14年5月には史蹟に指定されていたようですね。こちらは、間宮林蔵の墓からほど近い同じ江東区平野にある日蓮宗の本立院です。もともと間宮林蔵の墓はこちらの墓所にあったそうです。本立寺の境内にある間宮林蔵の記念碑「間宮林蔵先生之塋域」です。建立された昭和30年(1955年)当時の総理大臣鳩山一郎氏の揮毫によるものです。【つづく】人気ブログランキングへ間宮林蔵(その5) 間宮林蔵の墓 東京編
Feb 22, 2017
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南関町のキャラクターはこの「なんかんトッパ丸」だそうです。刀の代わりに南関そうめんを持っていて、冠木門入りのあげを下げています。トッパ丸は、難関を突破しようと頑張っている人を応援するのが大好きな、ちょっとやんちゃな男の子という設定だとか(→→→こちら)。こちらの建物は、南関町役場です。こちらは南関町公民館です。南関町、もうひとつのキャラクターは、NHK大河ドラマの主人公? 金栗四三のようです。【つづく】人気ブログランキング「なんかん」突破(その2) トッパ丸
Apr 5, 2019
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北関東を旅してきた記録です。2023年10月の秋晴れのある日、上野駅から、常磐線にの乗って、茨城県石岡市へやって来ました。石岡駅、2016年に建て替えられた新しい駅舎です。石岡と言えば、毎年9月の「敬老の日」を最終日とする3連休(計3日間)に開催される、関東三大祭の1つ「常陸國總社宮例大祭」(→→→こちら)で有名です。このおまつりで使われる山車が駅前に展示されていました。また駅前広場には、みんなのタローという犬(→→→こちら)の銅像も建てられてました。みんなのタローとは、昭和39年,一匹の犬が石岡市立東小学校に迷い込んできました。誰が呼ぶともなく,「タロー」と名付けられ,児童たちにかわいがられていた犬です。このタロー 朝と夕方,石岡駅に向かいます。そして,いつも駅の待合室から改札口をジッと見つめています。誰かを待っている目です。午後4時から3時間も待っています。待ちくたびれたタローは寂しそうに帰って行きます。それは17年も続いたそうです。そんなタローのことは映画にもなったそうです(→→→こちら)。ちなみに、タローが待っていたのは、飼い主だった5歳の幼稚園児(女児)だったそうです(→→→こちら)。ちなみにタローの本当の名前はコロというそうです。飼い主は当時5歳の幼稚園児(女児)で、1人で自宅のある鹿島鉄道(07年に廃線)玉造町駅から幼稚園のある11駅目の石岡駅へ通っていたそうです。自宅から玉造駅までは彼女のタロー(コロ)が送迎をしていたそうでした。タロー(コロ)は列車の車内まで女児を見送りに来ており、頭を撫でられると電車から降りて帰路についていたました。しかし、ある朝、頭をなで忘れたのか、タロー(コロ)は列車を降りずに、石岡駅までついてきてしまう。「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれた。犬を乗せたことを怒られると思って女の子は首を振り、そしてタロー(コロ)は駅員に追い払われました。それが女の子とタロー(コロ)の別れとなり、その後幼稚園を卒園した女の子は石岡駅を使うこともなく、時が過ぎていったということです。でも、地元の人ですからその後石岡駅を使うこともあったでしょうけど、女の子が成長して大人になったらタロー(コロ)にはわからなかったかもしれませんね。(石岡市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、茨城県石岡市(その1) 忠犬タロー
Jan 24, 2024
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。校名に「淀橋」を冠した小学校を訪ねてみることにしました。こちらの西新宿にある東京医科大学の近くの高層ビルに囲まれた区画にあるいかにも小学校を思わせる建物もかっては小学校という雰囲気ですね。門柱には「芸能花伝舎」(→→→こちら)という看板が掲げられています。芸能花伝舎とは、「日本芸能実演家団体協議会(芸団協)」が開設した文化拠点だそうで、新宿のまちづくりと文化芸術振興を目的として廃校になった公立小学校舎を改修して造られた施設だそうです。廃校になった公立小学校舎ということであれば、多分淀橋第なんとか小学校と思い、裏側に回ってみました。こちらの門柱には、渋い書体で書かれた芸能花伝舎の看板が埋め込まれていました。この横に設置されていた避難場所の案内図には芸能花伝舎(旧淀橋第三小学校前)と記されていたので、ここは旧淀橋第三小学校があった場所なんですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その70) 旧淀橋第三小学校
Jun 13, 2025
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背振山系にある蛤岳というところに「蛤水道」(→→→こちらです)という古い用水施設があるというので行ってみることにしました。蛤水道は蛤岳山頂北側の山腹から筑前(五ヶ山町大野)方面に流れていた水を肥前側へ通す人工の分水界水路であり、1626年に佐賀藩鍋島氏の家臣、成富茂安により築造されたものです。蛤水道へ行くには、国道385号線の旧道の坂本峠から九州自然歩道を辿って行くのが、登山ルートのようでしたが。あいにく、旧道から坂本峠に行く道は通行止めとなってました。仕方ないので、道の駅「吉野ヶ里」に車を止め、そこから林道を歩いて坂本峠へ向かうことにしました。道の駅「吉野ヶ里」からは筑後平野が一望できます。ここには、東背振トンネルからの湧水が引かれていて、その地下水を汲んでいくことができます。しかし、お坊ちゃん、そのまま飲んでも大丈夫なんでしょうか?あの山の方へ向かって歩いていきます。久しぶりの山行なので緊張します。まずは、道の駅からこのさざんか遊歩道を歩いていきます。サザンカの自生北限地帯だったのですね。そうするとここから北に咲いているサザンカは人為的に植えられたものなんですね。いかにも山を切り開いて建設された道という感じですね。ちなみにこの道は林道だそうです。道の駅から見えたループ橋です。坂本峠にはこのループ橋ではなく、その下の林道を進みます。通行止めですが、歩いていくので問題はないでしょう。杉林、国有林らしく、枝が払われていますね。左の永谷林道を行くと蛤岳への最短アクセスルートですが、ここは登山者らしく、この道を直進して、坂本峠から尾根伝いに蛤岳へアタックです。さすがにこんな状態だと、通行止めになりますね。途中に、背振山中宮霊仙(りょうせん)寺跡というのがありました。霊仙寺跡は、8世紀初頭の和銅年間から江戸時代にかけて存在した天台宗の寺院。山岳仏教の修験場として脊振山系千石山の中腹に開山し、中世期(平安 - 鎌倉時代)は付近一体の山地に広まり、脊振千坊と呼ばれ、肥前国のみならず北方の筑前国側にも及ぶほどるほど栄えたそうです。戦国時代の混乱で荒廃し半ば遺棄される。江戸年間には、鍋島家の支援を受け再興したものの、明治時代にぱ廃藩置県により鍋島家の支援が絶たれ、廃絶したそうです。ここからは、あっちこっちに行けるようですね。目指すは坂本峠、蛤水道、蛤岳の方面です。ここが坂本峠、福岡県側から撮影しました。道路標識です。そして、ここからこの山道、九州自然歩道を歩いていきます。イノシシとか出てきそうな道ですね。【つづく】人気ブログランキングへ山行「蛤水道」(その1)
Dec 1, 2018
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宇都宮駅東口にあった石像です。この姿かたちからみるとお相撲さんの石像のようですね。台座に記された名称は、「日下開山 初代横綱 明石志賀之助」(→→→こちら)とありました。明石志賀之助は、下野国宇都宮出身で、江戸時代前期に存在した力士とされ、最強の力士に与えられる称号である「日下開山(ひのしたかいざん)」を受けたとされているそうで、現在、日本相撲協会では、明石志賀之助を大相撲の初代横綱として認定しているようです(→→→こちら)。また、この明石志賀之助は身長221センチ、体重225キロの巨漢だったと伝わっており、この石像もむ台座を除いた高さが志賀之助の身長と同じ221センチあるそうです。そして、東に向かう宇都宮ライトレールが走る鬼怒通りに沿って、MoMo太郎も歩いて行きました。(宇都宮市で歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅、宇都宮を楽しむ(その2) 初代横綱明石志賀之助
Feb 21, 2024
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鵜の岬国民宿舎周辺を散策してみました。美しい海岸と太平洋の景色がいいですね。海桐が晴れてよかった。碁石ヶ浦と呼ばれるこの入り江です。ここにあったのが「愛と絆の鐘」、鳴らしてみると結構大きな音が響きました。こちらで有名なのはウミウ捕獲場所です。実は、鵜は保護鳥で、1947年一般保護鳥に指定されており、捕獲はできないのですが、この鵜の岬では、鵜飼いのためのウミウの捕獲が日本で唯一許可されており、有名な岐阜県の長良川をはじめ、全国の鵜匠・鵜飼いに海鵜(ウミウ)を供給しているのだとか。しかしながら、公開されている時期と時間が決められていて、もう時間はとっくに過ぎていました。時間は過ぎていましたが、とりあえず行ってみました。このトンネルの先が捕獲場所なのですが、扉は閉じられていました。こちらにウミウ捕獲場の説明がありました。今回は海霧で高萩の高戸前浜や北茨城の二ツ島などの茨城の海岸を楽しめなかったし、ウミウ捕獲場も見学ではできず、やや心残りでした。そんなわけで、改めて茨城の海岸を楽しみにリベンジで訪れたいです。(茨城県北部の海を巡るドライブ)【了】人気ブログランキング茨城の海岸物語(その13) 鵜の岬part2
Aug 13, 2026
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10月18日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して善福寺川沿いを歩いた報告です。善福寺池は武蔵野台地から湧水池だそうですが、「上の池」の畔に小さな滝がありました。「遅野井(おそのい)の滝」と呼ばれています。滝の近くにあった説明です。源頼朝が奥州征伐の帰路この地に立ち寄った際、この地で飲料水を求めたが、折からの干ばつでなかなか水が出ず、頼朝が弁才天に祈り、自ら弓の筈(はず)で土を7か所掘ると、しばらくしてその7か所に水が湧き出たそうです。水の出を「今や遅し」と待ったところから「遅の井」と命名されたというわけです。傍らには「遅の井」と刻まれたちょっと古びた石碑がありました。こちらは黒御影石が使われた新しい石碑も建立されていました。ちなみに、現在は泉が涸れてしまったので、新たに井戸を掘り、ポンプで汲みあげて遅の井の滝として復元しているそうです。遅野井の滝の向かい側あった善福寺池にある小島には、社がありました。昔は橋が架かっていたような痕跡がありましたが、今はないのでお参りはできませんね。市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)というそうです。源頼朝が奥州合戦の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所に穴をあけた時に、弁財天に祈り、やっと水を得たという故事に倣って、建久8年(1197年)に江ノ島弁財天を勧請したのが当社の始まりであると伝えられています。善福寺公園の周辺はベンチやテーブルが整備されて、ちょっとしたピクニックにいいですね。また、こんな銅像もありました。内田秀五郎という方の銅像です。この内田秀五郎は旧井荻町の長で、現在の井荻界隈に影響を与えた政策をいくつも立案し、地域発展に貢献したということです。上の池のバス通りにあった自動販売機、「おそ乃井」と屋号が書いてあるテントがありました。遅野井の故事にちなむ、古くからあるお店があったのでしょうか。【つづく】人気ブログランキングへ善福寺川ウォーク(その16) 遅の井(おそのい)
Nov 23, 2020
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池月橋は、洗足池西岸の入り江のようになった場所に架けられています。その入り江の奥まで歩いてみました。 また、ここには「新東京八名勝洗足池」の石碑がありました。新東京八名勝とは、昭和7年(1932年)に東京市が周辺5郡82町村を合併し新たに20区を設置して、15区から35区に拡大したことから、報知新聞社が新たに東京市となった20区の中から読者投票によって「新東京八名勝」を選定したものです。新東京八名勝には、この洗足池のほかに、足立区の西新井大師(總持寺)、大田区の池上本門寺、江東区の亀戸天神社、品川区の品川神社、目黒区の祐天寺、板橋区の松月院、そして荒川区の諏方神社が選ばれているそうです。入り江の最奥部にはこのような湧水があり、洗足池に流れ込んでいました。洗足池には、武蔵野台地から滲みだしたいくつもの湧水からの水が流れ込んでいるんでしょうね。この湧水のすぐ近くにあった竹垣で囲まれた日本風の邸宅がありました。この邸宅の門は松風荘門(→→→こちら)として国指定の文化財となっていました。いかにも昭和初期に建てられたような趣のある門ですね。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その15) 松風荘門
Aug 30, 2026
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いつもの通勤途中で通り過ぎる駅、どんなところか気になって途中下車してみたくなりやってきた日暮里駅周辺を紹介しています。通勤途中で乗る乗り物と言えば、電車、バス、自家用車などがありますが、職場のあるビルや駅のホームにあるエレベーターというのも、乗り物ではありますね。そんなエレベーターで、ちょっと気になるのは、エレベーターのドアの脇のボタンを押すところのすぐ脇に立つ人。あれって、ちょっと迷惑では・・・?後から入ってきて行き先階のボタンを押すのに邪魔なんですよね。それとも、ボタンの前に立っている人は、三越のエレベーター係りのお姉さんみたいに、行き先階を言えば、代わりにボタンを押してくれて、「ご利用ありがとうございます。〇〇階、〇〇資材の専門商社の〇〇商事」とでも説明もしてくれるのかな。羽二重団子からさらに南へ鶯谷へ向かって進むと、旧王子街道と尾久橋通りとの三叉路があります。昔はこのあたり川が流れていて、橋があったみたいですね。御隠殿橋ですね。下御隠殿橋というのは、鉄ちゃんの間では有名なんですが、これは知らなかったです。【つづく】人気ブログランキングへ
Jul 11, 2015
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開業して10年を迎えた東京スカイツリー。その周辺にある、ちょっと目立たない、マイナーな場所を紹介しています。押上駅から北十間川沿いを東に向かって歩いたところにある十間橋から見た東京スカイツリーです。ここは逆さスカイツリーが楽しめる場所として、結構、知られたメジャースポットかもしれませんね。向こうに見える西十間橋からも水鏡に映るスカイツリーが見えますが、こちらから見たほうがスカイツリーの全体が水鏡に映っていいと思います。スカイツリーと水鏡に映る逆さスカイツリーを同時に撮影しようとしましたが、持っているレンズでは全部は写せませんでした。ということで、スカイツリー周辺にあるマイナースポットを中心に紹介してきました。今度スカイツリーに遊びに行かれることがあれば、参考にしていただければ幸いです。【了】人気ブログランキング東京スカイツリー周辺のマイナースポット(その17) 十間橋から見るスカイツリー
Jul 21, 2022
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駅間さるき、足腰鍛えています。久留米のある筑後地方では歩くことを「さるく」と言います(→→→こちらです)。東甘木駅です。相対式ホーム2面2線が設置されている駅ですね。鉄路は終点大牟田まで真っ直ぐ延びています。こちらはJR鹿児島線の踏切です。こちらはJRの線路です。これもまた真直ぐですね。【つづく】人気ブログランキングへ駅間さるき 西鉄天神大牟田線(東甘木~西鉄銀水) (その1) 西鉄とJR
Feb 20, 2018
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久留米高校前というJR九州久大本線の駅があります。高等学校の名前が駅名になっているって余り聞かないので、行ってみました。まず、久留米市西町にある久留米高校に行ってみました。近くを通る県道758号線からこの道を入った先に校門があります。ここが校門です。県立高校だそうです。調べてみると卒業生に石橋 凌(いしばし りょう)(→→→こちらです)という俳優さんがいるそうです。校門の横に掲示された看板です。確かに気を付けないと危ないですよね。といってここで写真を撮影しているMoMo太郎も不審者と思われているかも。表通りの県道に戻って、南に少し歩くと久大本線の踏切がありました。踏切をやめて歩道橋にすることに反対みたいです。多分、交通渋滞も激しいので、他所の人は高架橋にしてもらいたいでしょうね。まあ、鉄道の方が高架にすることはないでしょうね。踏切から駅のホームが見えました。単式ホーム1面1線ですね。立派な道路標識がありました。こちらが駅舎です。結構新しい感じです。小さな駅舎ですね。一応、駅員さんはいました。駅舎の前にあった石碑です。なかなか凝ったデザインです。右側は腰かけてもいいのでしょうか。石碑に埋め込まれた銘板です。これによると、この駅は久留米高校の卒業生が資金を提供し、近隣の久留米高校、福岡教育大学付属中・小学校、久留米商業高校などの請願で建設されたみたいですね。開業したのは平成21年3月というので、最近のことですね。しかし、駅を建設するという強力な同窓会パワー、歴史のある伝統校ならではのものでしょうか。【つづく】人気ブログランキング久留米の町さるき(その6)久留米高校前駅
May 29, 2018
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夜勤明けは、やっぱり吉野家の朝定食でガッツリといきます。年をとっても胃袋は健康なんですね。頂いたのは、このハムエッグ納豆定食(437円税込み)です。ご飯はお替り無料なのは更にうれしいです。しかし、消費税の関係で1円単位で支払わないといけない時って、お釣りで一円玉とかあると小銭入れが膨らむので、最近はSuica等のICカードで支払っています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 朝からガッツリ、吉野家で
Oct 1, 2023
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麻布のこのあたり、道を間違えるとどこに出るのかわからない迷路にようになっています。このモダンなデザインの建物を目印に東に向かって右折します。この住宅街の細い道を歩いてゆきます。この道は狐坂、きつねざか、港区元麻布二、三丁目境で長玄 寺前へ下る坂。昔はさびしいところで、狐が時々人を化かしたという。という標識がありました。この坂道を下って行くと、アラブ・イスラ-ム学院(→→→こちら)というのがありました。サウジアラビア政府が設立したアラビア語学校だそうですが、今は閉鎖されているみたいですね。狐坂を下ったところで、今度はまた登り坂。元麻布付近の道路、人生と同じで、下ったり、登ったりが続きます。こちらの道は狸坂たぬきざか 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。という標識がありました。むかしはこのあたりにはキツネとかタヌキがいたんでしょうね。狸坂を登ると高層マンションが見えました。元麻布ヒルズ(→→→こちら)です。そして今度は、この坂道を下って行きます。暗闇坂くらやみさか 樹木が暗いほどおい茂った坂であったと言う。以前の宮村町を通るため宮村坂ともいった。という標識がありました。かなりの勾配の坂道ですが、暗くはなかったですね。(恵比寿。広尾・麻布のお散歩コース)【つづく】人気ブログランキング東京で住んでみるなら(その4) 狐坂・狸坂・暗闇坂
Aug 12, 2024
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御松庵妙福寺を奥へ進んでいくと、大きな松の木がありました。こちらの真っ直ぐ伸びた松の木が石塀に囲まれていて、「御袈裟懸松」と刻まれた石碑があり、この松が日蓮聖人がこの松に袈裟を懸けて、池の水で足を洗ったという場所なんでしょうか。このことから「千束郷の大池」と呼ばれていた池が「洗足池」と呼ぶようになったと伝わっています。しかし、この松に袈裟を架けたとすれば、日蓮聖人ってウルトラマンくらい背の高い方だったんですね。日蓮聖人が、袈裟を松にかけて手足を洗ったところ、法華経を守護する七面天女が現れ、日蓮の道中を守護したらしいので、七面天女は、ひょっとしたら「ウルトラの母」?また、こちらにも松の木が。こちらには、「六代目御袈裟懸松」と刻まれた石碑がありました。、日蓮聖人がここに袈裟を懸けたのは、弘安5年(1282年)のことですから、袈裟懸けの松も744年も生き続けて子孫を残していたということでしょうか。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキング洗足池探訪(その10) 袈裟懸けの松
Aug 25, 2026
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洗足池西岸から見た池の全景です。池の周りょ歩いていると見つけた「ナツミカン」の木です。確かに、ナツミカンらしい黄色い実が見えました。そして、洗足池北西端にあった無料休憩所です。ここでようやく洗足池の全周を歩いたことになりました。ここでしばらく休んで、さらに洗足池の川の流れを追いかけて歩いていくことにします。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その18) ナツミカンの木
Sep 2, 2026
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再び中原街道に戻ってきました。ここから更に、洗足池から流れ出した川の流れを追いかけて行きます。 東急池上線洗足池駅です。この駅の下を洗足池から流れ出た水路が(多分)通っているようです。洗足池駅の改札口は中原街道に面した改札口が一か所のみで、駅の横にあるこのガードを抜けて駅の南側に向かわないといけません。ガードを抜けた先は、洗足池商店街となっています。しかし、商店街を行かず、駅の南側の坂道を下っていくと、東雪谷と上池台の境界にあるこの道を歩いていくことにします。ここで洗足池から流れ出た水がこの側溝の中を流れて行きます。この脇に「この流れは洗足池の水を利用しています」との看板がありました。この水路が「洗足流れ」(→→→こちら)と呼ばれるものです。かつては農業用水として利用されており、洗足用水、池上用水とも呼ばれています。全長1.5 km程の短流で、洗足池を始点として東雪谷と上池台の境界に沿って流下し、仲池上で呑川に合流します。また、清水窪湧水から続いている桜のプロムナードという遊歩道としても整備されています。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その19) 洗足流れ
Sep 4, 2026
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洗足流れに沿って整備された桜のプロムナードを歩いて行きます。洗足流れの水路と桜の並木が整備されて、のんびり散策するのにいい遊歩道が続いています。下流に行くにしたがって、側溝から幅の広い水路に変わっています。この小池橋という橋のところで、桜のプロムナードから外れて、東の方へ住宅街の中に入っていくと、坂道の途中にあったのは、大田区立小池小学校です。さらに、上池台の台地の坂道を登って行くと、住宅街の中に広がる池がありました。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その20) 小池へ
Sep 5, 2026
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こちらは小池公園(→→→こちら)と呼ばれています。これは、洗足池の大池に対して、小池と呼ばれていた溜池だからです。洗足池公園と小池公園をめぐるコースを「池のみち」として設定されているようでした。古くは農業用水に使用するために、谷あいの湧水をせき止めてつくった池です。つまり、小池は湧水池で、水源になる川がないそうです。確かに、池の周囲はこのような住宅街となっていて、川があるような様子はなかったです。農業用水の溜池でしたが、昭和9年(1934年)からは釣堀として使われていましが、釣堀を経営していた業者が営業を中止し、数年この池は放置されていたそうです。そのため大田区がこの池を整備することにし、平成19年(2007年)後半から工事が始まり、平成21年(2009年)に公園としてオープンしたそうです。また、整備後の新しくなった池を洗足小池と呼ぶことになりました。釣り堀はなくなったようですが、魚などが残っているのでしょうか?網をもって歩いているおじさんが見えました。池の水はこの水門から流れ出しているようです。「小池流れ」と呼んでもいいような水路を追いかけてみました。小池からの水は住宅に挟まれたこの小さな水路を流れているのでしょうか?しかし、水門の規模から考えて、水路の断面積が小さいので暗渠となって地下を流れているようです。この道路の右側が暗渠となっているのでしょう。しかし、その暗渠の様子が小池小学校のグランドあたりで途切れています。この先も探ってみたのですが、「小池流れ」が「洗足流れ」に合流していることは確認できませんでした。Wikipediaで「洗足小池」を調べてみると、「流れ出しからは暗渠の小川になっているが、洗足流れに合流することなく、合流下水道に落とされている。」とありました。おそらく、想像するに、釣堀として利用されていた時に、底に残された釣り用のオモリの鉛が溶け出したり、整備工事をした時に使われたセメントの影響や底にたまっていたヘドロが流れだすことで、洗足流れやその先の合流している呑川(のみかわ)の生態系への影響が懸念されるからではないかと思います。(洗足池探訪コース)【つづく】人気ブログランキングへ洗足池探訪(その21) 小池公園
Sep 6, 2026
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