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次に訪れたのは茨城のお伊勢さんとして親しまれている、大神宮(→→→こちら)です。和銅元年(708年)の創建と伝えられます。古くは「村松五所大明神」と呼ばれました。中世戦国時代には戦火で荒廃しましたが、江戸時代に第二代水戸藩主、水戸光圀公(水戸黄門)が神殿を造営、伊勢神宮より分霊を奉還して、大神宮と称しました。そこから「茨城のお伊勢さん」として親しまれています。こちらが社殿です。「茨城のお伊勢さま」という通り、伊勢神宮の「内宮」と同じ「天照皇大神」「天手力男神」「萬幡豊秋津姫神」の三柱の神様を御祭神としてお祭りされています。境内にあった烈公お手植えの梅です。烈公とは水戸藩第9代藩主、徳川斉昭公のことですから、水戸藩とも縁の深さをうかがい知ることができます。境内にあった「なで犬」です。石像の親犬の自分の干支の犬をを撫でると、安産祈願、子孫繁栄、そして健康成長が叶うそうです。社殿の扁額には、天照皇大神宮と記されていました。境内の裏からは村松海岸へ続く道があったので、今度は村松海岸へ行ってみることにしました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その7) 茨城一の宮 大神宮
2024年11月27日
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階段を登り切ると、芝生の広がる丘の上に出ました。ここにも歌碑が建立されていました。説明板によると、「晴れし日の砂山の上濡石はみづから濡れて膏(あぶら)のごとし」という歌で、昭和43年12月この地を訪れた歌人佐藤佐太郎(→→→こちら)が来県したおりに、四季を通じて、常に濡れていて、愛好者に「濡石(ぬれいし)」と呼ばれて親しまれていた村松晴嵐碑に深く興味を持ち詠んだ歌だそうです。この丘の上からの眺めが、村松晴嵐なのでしょう。水戸八景(→→→こちら)の説明板がありました。水戸八景とは、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が水戸藩領内の景勝地を中国の「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」ならって8つを選んだ風景評価とそれを詠んだ詩になるそうです。その水戸八景の一つがここ村松晴嵐(むらまつせいらん)になるそうです。村松晴嵐とは、説明板にもありますが、「真砂地に雪の波かと見るまてに塩霧晴れて吹く嵐かな」と烈公(水戸斉昭)に詠まれた景勝地です。そして、この自然石に漢隷書体で書かれた「村松晴嵐」の文字は,徳川斉昭によるものです。石の表が常にぬれていたため「濡石」とも呼ばれていたそうです。ここから白砂青松の景色が見えるかと思っていたら、原発関連施設で海までは見ることができませんでした。この村松晴嵐の石碑の奥に隠れていた、この建物は、日本原子力研究開発機構の放射能のモニタリング施設のようでした。さて、奥之院のあった丘を降りてくると、村松虚空蔵尊の裏手にあるお堂に出ました。扁額には、「鍾馗霊神堂」と記されていました。説明板によると、お堂の中には鍾馗霊神の絵馬が祀られているそうです。延宝三年(1675)に伝染病が大流行した時、鍾馗霊神の絵を奉納したところ、大流行が治まったと伝えられているそうです。今も新型コロナウィルスをはじめ、様々な感染症があるので、神仏のご加護を求めて鍾馗霊神の絵を描いてこのお堂に奉納する価値はあるかもしれませんね。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その6) 村松晴嵐
2024年11月26日
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村松虚空損尊の奥之院に向かって歩くと、三重之塔が見えてきました。平成10年(1998年)に再建されたそうです。塔の高さが21メートル、大日如来が安置されています。三重之塔の手前にある階段を登ったところに奥之院がありました。その階段途中にあった板碑です。何が書いてあるのかわかりませんでしたが、由緒がありそうなのでとりあえず撮影してみました。この建物が奥之院で多宝塔とも呼ばれているそうです。この奥之院は、本尊大満虚空蔵菩薩が安置されています。50年に一回の開帳記念として、昭和9年(1934年)に建立されたそうです。再び三重之塔に戻って来て、その前にある歌碑を調べてみました。山村暮鳥(→→→こちら)の詩碑だそうです。おう土よ生けるものよその黒さに太古のかほりがただよってゐる録暮鳥詩犀星、昭和十四深秋と刻まれていました。調べてみると山村慕鳥と言う詩人、水戸や常陸太田、平(現 福島県いわき市)など各地で伝道活動を行いながら、創作活動を行っていたそうで、ここから近い大洗町で生涯を閉じたそうです。さてこの三重之塔から、さらに上に登る階段があったので、登ってみました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その5) 村松虚空蔵尊奥之院
2024年11月25日
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村松虚空蔵尊(→→→こちら)の山門です。三重県伊勢の朝熊山金剛證寺、福島県柳津の霊厳山円蔵寺とともに日本三体虚空蔵尊の一つとして信仰集めているそうです。真言宗豊山派の寺院で、山号は村松山。寺号は日高寺というそうです。その歴史について説明板がありました。大同2年(807年)に空海(弘法大師)によって創建されたとされ、創建の際、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜わったそうです。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて常陸国を治めた佐竹氏の庇護を受け隆盛を極めたが戦火により焼失し、長享元年(1488年)に白頭上人により再建され、名称を「村松山神宮寺」から「村松山日高寺」に改めらたそうです。さらに、江戸時代には、徳川家康から朱印50石を寄進され、また、水戸藩2代藩主・徳川光圀は寺を竜蔵院、竜光院の二院に分け、宗派を修験道に改め、虚空蔵菩薩を修飾しその台座に「日域三虚空蔵之一而霊応日新」と刻んだそうです。明治3年(1870年)の廃仏毀釈より「星の宮」と改称されたが、翌明治4年(1871年)には「虚空蔵」と称することが許可され再び「真言宗日高寺」となりました。明治33年(1900年)に堂塔伽藍すべてが消失しており、現在の建造物はすべて近代になって再建されたものになるそうです。こちらが本堂です。虚空蔵菩薩は丑年生まれと寅年生まれの守り本尊(→→→こちら)と言われるので、本堂の前には、牛と虎(多分)の石像がありました。本堂の扁額です。山号の村松山と本堂は大摩尼殿と呼ばれているのでその扁額もありました。本堂の裏に回ると、本堂裏についての説明書きがありました。白砂青松・村松の海岸この東に広がる村松海岸は白砂青松の景勝地で、天保4年(1833年)水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。この碑は村松晴嵐の碑と呼ばれ、この階段を上り。さらに80m程行ったところにある。また、この上の奥の院のわきには、俳聖芭蕉の「埜を横に 馬引きむけよ 時烏」の句碑と、詩人山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。砂浜には、ハマボウフウやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物も見られる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。とありました。そして、この階段を登って、本堂の裏も尋ねることにしました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その4) 村松虚空蔵尊
2024年11月24日
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国道245号沿いに「茨城のお伊勢さま」という看板がありました。これは東海村村松にある豊受皇大神宮のことです。次の目的地はこの豊受皇大神宮と村松虚空蔵尊になります。国道245号をそれて、矢印の方向に向かって歩くと、3基の案内板がありました。こちらは茨城県全体の観光案内です。こちらは東海村にある12ヶ所の景勝地の案内で、ここには村松晴嵐(→→→こちら)という美しい白砂青松の景勝地があります。こちらは村松虚空蔵尊(→→→こちら)と「茨城のお伊勢さま」の大神宮(→→→こちら)について説明されていました。写真の向かって右側が大神宮の鳥居、左側が虚空蔵尊の山門になります。そして、大神宮への参道に東海十二景の村松晴嵐(むらまつせいらん)の石碑がありました。これから、この3ヶ所を順次訪れて参ります。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その3) 村松虚空蔵尊と大神宮、そして村松晴嵐
2024年11月23日
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まず訪れたのはこちらの東海原子力館別館(→→→こちら)です。太陽を手に入れた東海村ですが、日本初の商業用原子力発電所である東海発電所の廃炉がすすめられ、首都圏にある唯一の大型原子力発電所である東海第二発電所は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から停止したままで、再稼働を目指して地震・津波への対策工事を進め営業運転再開を目指しているそうです。しかし、東海村はもとより周辺自治体の理解を得らない事や原子力規制員会からの運転再開の許可が出ない事などで、その太陽の火も消えかかっているそうです。この東海原子力館別館では、原子力の仕組みや安全性を模型や映像・人形劇などで紹介rする施設で、原子力発電所の営業運転再開への広報を行っています。もちろん入場料は無料です。館内で原子力発電に関するクイズに答えると、このような記念品がもらえました。ここから東へさらに海に向かって歩いいくと、こんな看板をつけた建物がありました。こんな看板を掲げている建物、県会議員の事務所のようでした。次は海沿いの国道245号にある原子力科学館(→→→こちら)を踊れました。ここは、日本で唯一の原子力に関する総合博物館です。「原子ってなぁに?」「放射線ってなぁに?」「核分裂ってなぁに?」といった原子力や放射線についての基礎的な事柄を紹介しているそうです。この施設で原子力について正しく理解し、これからの日本のエネルギーあり方について考えようと思いましたが、残念ながら、訪れた日は臨時休館日でした。そして次の目的地に向かって、国道を南に向かって歩きます。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その2) 東海原子力館別館と原子力科学館
2024年11月22日
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茨城県那珂郡東海村にやって来ました。JR常磐線の東海駅(→→→こちら)です。平成6年(1994年)にこの駅舎が完成したそうです。今回は、JR東日本の駅からハイキング「東海村の歴史を学び・原子力に触れるハイキング」に参加しました。東海村と言えば、日本三大虚空蔵堂の一つ村松虚空蔵尊(→→→こちら)があることで有名です。駅前にはこのような石碑が建立されていました。そして、東海村を全国で有名にしているのは、やはり、昭和31年(1956年)、原子力施設の設置先が東海村に閣議決定され、昭和32年(1957年)7月には日本原子力研究所の東海研究所を設置し、翌8月に臨界実験に成功。日本で初めて「原子の火」が灯り、「日本の原子力発祥の地」となったことでしょう。さらに、昭和38年(1963年)10月26日には原子力発電の試験に成功し。その後、昭和32年(1957年)に、電力大手各社の出資により設立された日本原子力発電(原電)は、昭和41年(1966年)に日本初の商業用原発である東海発電所の営業運転を開始しています。つまり、東海村は原子力による太陽を手に入れた村です。そんな、太陽を手に入れた東海村を歩く、駅からハイキングのコースマップをここ東海村三業・情報プラザの事務室でもらいました。こちらの施設は、もちろん、原子力研究関係のため施設のようですね。こちらの道は、日本原子力研究開発機構(→→→こちら)という、原子力に関する研究と技術開発を行う国立研究開発法人の本部だそうです。村の中にはこんな広い道路が整備されています。原子力災害が起こった時は、この広い道がきっと避難の役に立つことでしょう。ちよっと、気がつかないで、いつまで経っても信号が変わらないとなと思っていた押しボタン式信号機がありました。(東海村を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 東海村(その1) 太陽を手に入れた村
2024年11月21日
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いよいよ今日から年末ジャンボ宝くじの発売が始まるそうですね。宝くじ、競輪や競馬のように自分でデータを分析して予想して、お金を得るのと違い、宝くじを買いに行くということさえすれば、後は大した努力もせずに、抽せん日を待つだけというものですが、折角、買った宝くじ。せめて当選祈願の神頼みをしてみてはどうでしょうか。宝くじ当選に力を発揮する神様、各地にいらっしゃるとは思いますが、東京モンなら日本橋堀留町にある椙森神社(→→→こちら)へお参りしてはいかがでしょうか。こちらが椙森神社の由緒です。藤原秀郷が平将門の乱鎮定のため戦勝祈願したことがこの神社の始まりですが、江戸時代に宝くじの前身と言われる富興業が行われていた神社です。こちらが現在の社殿です。古い社殿は関東大震災で焼失し、昭和6年(1931年)に鉄筋入り耐震構造で再建されたそうです。その時は富くじは発行されなかったのでしょうね。こちらの神社では江戸時代には大変栄え。数多くの富くじが発行されたそうです。それを記念して冨塚が建立され、現在でも宝くじ当選の祈願においでになる方も多いそうです。こちらがその富塚です。ちなみに、MoMo太郎、もう40年以上も宝くじを購入したことがありません。多分、今年も買わないと思います。人気ブログランキング椙森神社で宝くじ当選祈願を
2024年11月20日
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鶴橋本通商店街にやって来ました。ここに来ると、雨が上がって晴れてきました。ここから長い商店街が続いています。この先、大阪鶴橋卸売市場協同組合、高麗市場、大阪鶴橋市場商店街、東小橋商店街、そして鶴橋商店街といった商店街が続いています。近鉄とJR(旧国鉄)が交わる鶴橋は戦前から交通・物流の要衝だったそうです。幸いにも、戦時中の空襲でそれらの鉄道が壊滅的な被害を受けなかったため、戦後間もない昭和20年の秋に広まった闇市として機能するようになったそうです。昭和21年頃にはいくつかの商店街が結成され、現在の商店街の原型が出来始めたそうです。さらに、今ではそれぞれの商店街が入り組んで迷宮の様になっていまるそうで、ちょっと通りがかりの人間には、中に入るのがためらわれるようなエリアでした。とりあえず、大きな道(千日前通りから続く府道)に出て、JR大阪環状線の鶴橋駅を目指しました。こちらがJR鶴橋の入口です。ここから環状線に乗って、帰りました。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【了】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その10) 鶴橋の商店街は迷宮
2024年11月19日
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御幸森天神宮に接してあるのは、この大阪コリアタウン(→→→こちら)があります。子供の頃は、一緒に暮らしていた祖母などは、「朝鮮市場があるからね」と、鶴橋や生野の方はなんとなく嫌っていた雰囲気がありました。ちなみに祖父母と住んでいたのは、島之内のあたりでした。大阪コリアタウンは、御幸森天神宮の脇から、平野川までの500メートルの通りに150険の店舗がある商店街です。名称のとおり、在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが豊富に揃う商店街です。そして、最近では韓流ブームなどもあって、日本人も訪れる観光地になっているようです。歴史的には、1910年の日韓併合を経て、多くの朝鮮半島の人が出稼ぎ働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となりました。さらに、猪飼野周辺は昭和に入る頃には中小企業の密集地帯となっていたため、そこで働く朝鮮半島出身者の人が増え、その人たちのために商品を扱う市場が形成されていったようです。もう少しこの商店街も歩いてみたかったのですが、写真でもわかるように雨が降ってきたので、ここから北の鶴橋に向かいました。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その9) 大阪コリアタウン
2024年11月18日
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つるのはし史跡公園から北に少し歩いたところにある神社です。この神社は、御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)(→→→こちら)という神社です。天神と言う名前ですが、御祭神は、仁徳天皇(→→→こちら)、少彦名命(→→→こちら)、忍坂彦命(→→→こちら)を祀っています。仁徳天皇といえば、「民のかまど」の逸話があるように仁政を行った天皇として有名ですね。少彦名命は、大国主神の相棒として国造りに協力した神様で、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な特技を持つ神様のようです。忍坂彦命は、今日の皇室の系統につながる皇子で、本人は天皇になれなかったが、子は舒明天皇、孫の孝徳天皇と女性天皇の皇極・斉明天皇(同一人物で二度天皇となった)、そして孫が天智天皇となっています。仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされます。仁徳天皇崩御の後の反正天皇2年(406年)、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸宮と称されたことがこの神社の始まりで、後に疫病が流行ったので少彦名命を勧請したところ、疫病が治まったそうです。そして、この頃から天皇天神社とも天神宮とも呼ばれるようになったそうです。次に、玉造の清水谷あたりに押坂山という小さな山があり、忍坂彦命をお祀りしている天神社がありましたが、大坂夏の陣の兵火に遭い消失しため、元和2年(1616年)に当宮に忍坂彦命の御霊が合祀されたそうです。ちなみに、天神様と思って合格祈願に訪れた人には、この境内にある菅原神社もお参りした方がいいでしょう。猪飼野小路(現勝山北五丁目)に祀られていた菅原道真を祀った社を明治18年(1885年)に合祀したものです。また、神社の本殿の横には、王仁博士歌碑が2009年に建立されています。王仁(わに)博士(→→→こちら)とは、応神天皇の時代に辰孫王(百済の王族だった人→→→こちら)と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物だそうです。その人が、仁徳天皇の即位を祝して「難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花」という歌を詠んだそうです。こちらが、歌碑です。日本と韓国・朝鮮との友好・共生の時代が続くことを願って建立されたそうです。大阪で育ったにもかかわらず、このあたり(猪飼野)の歴史に疎かったので、色々と調べて書いたため文章が多くなってすみませんでした。思えば、若い頃を過ごした大阪や神戸、そして京都についてほとんど知らなかったんだと改めて自分の勉強不足を反省するMoMo太郎でした。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その8) 御幸森天神宮
2024年11月17日
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このあたりは、古代・仁徳天皇の時代には猪甘部(いかいべ、猪飼部)として朝廷に献上する猪(ここでは大陸から持ち込まれた豚と考えられている)が飼育されていたと伝えられ、この地域は「猪飼野(いかいの)」と呼ばれていたそうです。この猪飼野(→→→こちら)には、多くの「渡来人」が当地にやってきた。また、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に猪甘津橋いかいつのはし)が架けられ、時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となったそうです。しかし、その「つるのはし」は大正12年(1923年)に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1940年)に埋立てられて、「つるのはし」は廃橋となりました。平成9年(1997年)に橋があった近くに「つるのはし史跡公園」が作られたそうです。ここが「つるのはし史跡公園」(→→→こちら)です。入口には「つるのはし跡」の石柱があります。このあたりに鶴が多数飛来したことから「つるのはし」の名となったようです。こちらの記念碑は昭和27年(1952年)に建てられ、周囲に当時の親柱4本を保存しているそうです。記念碑には「つるのはし跡」と刻まれています。また、「つるのはし跡」についての説明文と、江戸時代の周囲の地図が示されていました。「つるのはし」が架けられていた旧平野川は、かつては旧大和川(久宝寺川)から分岐し、ほぼ現在の流域に沿い、千間川(今川)、猫間川などと合流し、寝屋川に注いでいた。現在の平野川も同様に、大阪府柏原市古町の大和川右岸にある取水口を水源(一級河川の起点)とし北流。大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流しています。大正年間には曲がりくねる平野川を直線化し周囲を区画整理する工事が行われ、現在のような河道となったのですが、その過程で猪飼野には工事に従事した朝鮮人がそのまま住み朝鮮人街を形成したそうです。小野小町の歌碑もありました。「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」(忍んではいても、人がそれだと見ているなかを、はじめて猪甘津の橋を渡った)という歌が記されていますが、「小町歌集」には記載がないため幻の歌だといわれているそうです。こちらには、この公園の説明と建設に尽力された(お金を出した)人の名前がありました。大阪の町は東京よりも古くから栄えてきた歴史ある町なので、このような記念碑を探せば、東京よりももっと沢山あるんだろうと思いました。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その7) つるのはし史跡公園
2024年11月16日
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御勝山古墳の東側は、桑津街道、鶴橋街道、俊徳街道の交点となっており、かつては交通の要所であったそうです。街道といっても、昔の道だったので、人が行き交う程度の道幅だったのでしょうか、このような狭い住宅街の中の道が街道となっています。桑津街道とは、天王寺区細工谷から生野区を抜け、東住吉区の桑津神社に至る街道で、高津宮の仁徳天皇が妃髪長媛(かみながひめ)に会いに行くために度々通られたとされる道だそうです。鶴橋街道とは、大阪都心の東に並ぶ城東区、生野区、東住吉区の住宅地を南北に貫く道です。城東区鴫野から、ちょうどJR大阪環状線の東側を沿うような形で進み、針中野で八尾街道に合流します。鶴橋街道の名前は、明治時代に大阪府が管理する主要道の一つとして名付けられたみたいです。俊徳街道(→→→こちら)は、奈良時代の頃から難波・四天王寺と平城京を結ぶ街道のひとつとして整備された道で、現在の大阪市・四天王寺南門付近を起点とし、大阪市内の御勝山古墳の東側、北巽駅付近を経由し、東大阪市の三ノ瀬付近で十三街道に合流します。また、その十三街道は、大阪市内の玉造駅付近からはじまり、十三峠を超え奈良県生駒郡斑鳩町の竜田までを結ぶ街道です。こちらの西俊徳地蔵尊は、桑津街道、鶴橋街道、俊徳街道の交わる地点にありました。こちらの説明板によれば、此の地蔵尊は宝暦時代(1750年頃)、約230年前より祀られていたと思われます。石仏で等身大で蓮華上の座像でございます。御堂の前の道は俊徳街道で、平野川に架けられた石橋の傍らにありましたので、清い流れと共に景色も良かったので、河内高安の長者の嗣子の俊徳丸が四天王寺へお参りの際には休憩されたものと、古老より言い伝へられております。東地蔵尊と共に当地の西の守り仏として、昔より住民の皆様より大変親しまれて、朝夕はお線香の断へたことがない有難いお地蔵尊でございます。とありました。こちらの道が鶴橋街道です。この道を歩いてきました。大阪市生野区って全国で最も外国人比率が高い都市らしく、その多くは在日韓国・朝鮮人だそうで、よくテレビ見かけるアンミカ(→→→こちら)さんも韓国人で生野区で育ったそうです。そんなわけで、韓国料理の飲食店もあるんですね。古くから道ということでしょうか、こんな道標が道端に残っていました。解説板も設置されていました。説明板には、このように記されていました。道標 東面 (文字なし) 西面 右八尾 久宝寺 信貴山 南面 左大阪 北面 慶応丙寅二年 鐘講この道標は 慶応二年(西暦一八六六年)に建てられたものです 当時は 江戸時代から明治時代に移り変わる寸前で 幕末の混乱した時代でした江戸時代では 「大坂」の字が多く用いられていましたので 「阪」の字をつかったこの道標は 非常に珍しいものといえましょう西面に「右八尾・久宝寺・信貴山」とあるのは 当時 近畿地方の人たちが さかんに信貴山に お参りしたことを示しています南面に「左大阪」とあるのは 鶴の橋をわたり大阪へ向う人びとの正面に読めます郷土の人たちが残されたこの貴重な文化財をいつまでも大切にしたいものです 昭和六十二年十一月 猪飼野保存会生野ライオンズクラブがこの説明板を寄贈したんですね。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その6) 西俊徳地蔵尊
2024年11月15日
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勝山通の北側に残る御勝山古墳の方へ行ってみました。何勝山古墳についての説明板がありました。もとは岡山と呼ばれ、元和元年(1615年)の大阪夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。古墳の大きさは、南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と勝山南公園になっており、写真の後円部を残すのみiになっているそうです。円部の墳丘は国土地理院の標高点では標高14m、公園内の看板の表記では標高13.25mであり、大阪五低山のうちの一つとされているそうです。大阪五低山とは、港区の天保山(てんぽうざん 標高4.53m)、阿倍野区の聖天山(しょうてんやま 標高14m)、生野区の御勝山(おかちやま 標高14m)、住吉区の帝塚山(てづかやま 標高19.88m)、天王寺区の茶臼山(ちゃうすやま 標高26m)の5座を指すそうです。帝塚山、子供の頃は「てづかやま」とは読めなくて「みかどつかやま」と呼んでいました。そういえば、吹田も「すいた」ではなく「ふいた」と呼んでいましたが、中学生になって吹奏楽があると知って「すいた」と読むんだと納得できました。大阪の地名も難しいですね。1972年3月31日に大阪府指定文化財 史跡に指定されたそうです。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その5) 御勝山古墳
2024年11月14日
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勝山通りを東に向かって歩いて行くと生野区役所(→→→こちら)があります。生野史跡遊歩道案内図とありました。生野区って古くからの歴史のある街だったんですね。ということで、その史跡の一つがこの公園、御勝山南公園です。ここには御勝山古墳(→→→こちら)という前方後円墳があったのですが、勝山通りで南北に分断され南側の前方部は崩されてこの御勝山南公園になったそうです。近くの歩道橋から見下ろして撮影してみました。意外と樹木がまばらにしか植えられていないですね。この公園の敷地には、昭和8年(1933年)から昭和43年(1968年)まで大阪管区気象台(→→→こちら)として利用され、昭和49年(1974年)より御勝山南公園として利用されているそうです。公園の片隅に折口信夫(→→→こちら)歌碑もありました。折口信夫(1887 ~ 1957)は、浪速区で生まれ、釈迢空(しゃくちょうくう)の名で知られている歌人で、万葉学者であり文学博士だった方ですが、ここには、「小橋過ぎ 鶴橋生野来る道は古道と思ふ 見覚えのなき」という歌が刻まれています。歌碑は昭和57年に建立されたみたいです。歌碑の裏側には、折口信夫について、解説が記されていましたが、字がところどころ剥げていて読めませんでしたが、折口信夫は、明治の末、天王寺中学校在籍の頃より、大阪近郊の名所旧跡の地理に詳しく、放課後や日曜日などには友人とよくこの辺を散歩していたそうです。ちなみに、今でいうLGBTで、弟子にセクハラまでした人物ということは記されていませんでした。(→→→こちら)。まあ、学問上の業績までは否定しませんが、仮にLGBTであっても、それでセクハラやアカハラまでやっては不適切にもほどがありますね。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その4) 御勝山南公園
2024年11月13日
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勝山通り(→→→こちら)に出てきました。ここでいったん西向かって歩いていくと、この建物がありました。この建物は「プール学院(Poole Gakiun)」(→→→こちら)です。大阪では有名な古くからある私立女子中学校・女子高等学校です。子供の頃の思い出で、MoMo太郎の伯母さんが、どうしてもこの学校に行きたかったようですが、諸般の事情で、御堂筋の大きなお寺の近くにある学校に通っていました。子供の頃は、プール学院と名前から、大きなスイミング・プールがあって、生徒さんは水泳選手や指導者になる練習に取り組んでいる学校で、伯母さんは、いわゆるカナヅチだったので入学できなかったと思っていました。ちなみに、プール学院の卒業生には、八千草薫さん、三ツ矢歌子さんという綺麗な人が多くて、最近では、女優の国分佐智子さん(→→→こちら)、女性アナウンサーの竹崎由佳さん(→→→こちら)がおられます。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その3) プール学院
2024年11月12日
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さて、桃谷駅から出発します。今まで、このブログにも書いたことがあると思いますが、MoMo太郎は小学校から高校まで大阪に住んでいたことがありますが、この町に来たのは初めてです。桃谷駅前商店街です。商店街でも脳神経外科の宣伝があるんですね。長く続く商店街です。このあと桃谷本通商店街が続きますが、ここで右折して勝山通りの方へ向かいます。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その2) 桃谷駅前商店街
2024年11月11日
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大阪へ出張に行った時に時間が空いたので、軽く駅間歩きをしてみました。まずは、大阪駅から環状線に乗ります。西九条、新今宮方面へは、大阪環状線(内回り)になります。名古屋市営地下鉄に倣えば「左回り」ですね(→→→こちら)京橋・鶴橋方面へは大阪環状線(外回り)になります。名古屋市営地下鉄に倣えば「右回り」ですね。大阪環状線の車両です。山手線と違い色んなタイプの車両が走っているみたいでした。桃谷駅に到着です。JR西日本のホームのベンチはこんな形の配列でした。それから、山手線と違って、ホームの幅が広い感じでした。(駅間歩き 桃谷~鶴橋コース)【つづく】人気ブログランキング駅間歩き 大阪環状線(桃谷~鶴橋)(その1) 環状線は内回りと外回り
2024年11月10日
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ある人のブログに「東京ディズニーランドに行ったことがありません」とコメントすると、知っていますよ。何回も聞きましたね。いつも教えてくださりありがとうございます。この情報は、私の頭にもインプットしております。とコメントを返してもらいました。同じことを繰り返して言うようになると、耄碌した証拠だと思っていましたが、確実に耄碌しているんだと思い知ったMoMo太郎です。さて、日高屋で、もう何年かぶりに中華丼(650円税込み)を食べました。学生の頃、学食のメニューにあって、野菜もたくさん入っているので、ライスカレーなんかよりは身体にいいだろうと思って、週3くらいの頻度で食べていた時期がありました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 中華丼
2024年11月09日
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そして、再びJR両毛線の岩宿駅に帰って来ました。JR両毛線の全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれていますが、イメージとしてはローカル線の小さな駅でした。駅舎横に跨線橋です。岩宿駅からは桐生競艇場への無料バスが発着しているんですね。競艇のある日には乗降客が多いのかな?駅の構造は、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線を有する列車交換可能な地上駅となっています。高崎駅行の上り列車に乗って帰ります。使用車両は3ドアの211系でした。(岩宿遺跡コース)【了】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その8) 岩宿駅から帰ります
2024年11月08日
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岩宿博物館からJR岩宿駅へ戻る途中にあった、相沢忠洋氏(→→→こちら)の銅像です。在野の考古学者というのは、学会の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられたこともあったそうですが、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見したことで、考古学者として正当な評価をされるようになったそうです。アカデミズムの世界、保守的な側面は今でも変わらないところがあるかもしれませんね。この相沢忠洋氏の銅像の前にあるのが、史跡岩宿遺跡保護観察施設(→→→こちら)。通称「岩宿ドーム」と呼ばれる施設です。岩宿遺跡B地点の地層断面を保存・展示するため、1990年に建設されたそうです。こちらが、中にあった地層の断面図です。そして岩宿遺跡発見に関するビデオも上映されています。入場無料で入れるところも、また嬉しい施設でした。さらに岩宿ドームと道路と挟んで向かい側には、史跡岩宿遺跡に関する説明板と、岩宿遺跡A地点に関する説明がありました。相沢忠洋氏がの、この道路の切通に露出していた関東ローム層から黒曜石の打製石器を発見し、さらに明治大学教授杉原荘介の主導する調査団によって調査がおこなわれ、さらに石器が発見されることにより、日本における旧石器時代の存在が立証されたそうです。これぞ本当の「神の手(ゴットハンド)」の皆さんのがここに集まったんですね。ゴッドハンドといえば、旧石器を捏造して発見したといった事件もありましたが(→→→こちら)、これも誤ったアカデミズムのせいでしょうか。しかし、岩宿遺跡は本物で、国の指定史跡である岩宿遺跡の石柱が建てられ、文部大臣灘尾弘吉(1899-1994)(→→→こちら)揮毫による石碑もありました。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その7) 岩宿ドームと史跡岩宿遺跡
2024年11月07日
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岩宿博物館の近くにある鹿の川沼(→→→こちら)です。春には桜が咲いてきれいな所だそうです。よく見てみると、釣りを楽しんでいる方も多いですね。やっぱりヘラブナ釣りかな?この鹿の川沼、農業用水のための池らしいですね。渡良瀬川から取水されたこの沼までやってきているんですね。薮塚台土地改良区(→→→こちら)というのがここを管理しているみたいですね。土地改良区(→→→こちら)、耳慣れない人も多いかもしれませんが、江戸時代に岡上景能(おかのぼり かげよし)(→→→こちら)が造った用水路を現在に伝えるため維持管理している大切な団体なんですね。以前「北関東の旅 岩宿(その2)岡上景能公銅像」で紹介した岡上景能公の銅像です。この空地、なにやら看板が立っていますが、「ゴミを捨てるな」というような看板かと思いきや、許可なく掘るなという看板でした。ある意味、遺跡があったこのあたり大変価値のある不動産なんですね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その6) 鹿の川沼
2024年11月06日
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北関東の旅 岩宿を続けているところですが、なかなか記事の作成が捗らないので、昨日訪れたJR両国駅にある旧駅舎をリニューアルして造られた複合飲食施設-両国-江戸NORENの紹介でお茶を濁します。今年最後の三連休の最終日、11月4日、天気もいいので両国あたりまで散歩してきました。-両国-江戸NORENの前に飾られていた東京ドイツ村(→→→こちら)から送られてきたマリーゴールドです。東京ドイツ村って千葉県袖ケ浦市にあるのに、東京とついているのが、なんか不思議ですね。千葉県浦安市にある東京ディズニーランドは、まあ、東京都江戸川区の隣なのでなんとなく東京とつけても違和感はないんですが、袖ケ浦までとなるとね・・・。また、建物の中では、愛好家の皆さんにより相撲甚句の公演がありました。こういう民謡とか相撲甚句とか、趣味で楽しんでおられる方って結構いるんでしょうね。人気ブログランキング-両国- 江戸NOREN
2024年11月05日
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鹿田山フットパスから、ぐるっとのんびとかな田園地帯を歩いて、再び岩宿博物館(→→→こちら)に戻ってきました。みどり市岩宿博物館は、いうまでもなく、群馬県みどり市にある旧石器時代の岩宿遺跡に関係する展示を行っている博物館です。入場料310円のところが、駅からハイキングの参加者は200円と割引になりました。岩宿遺跡(→→→こちら)というのは、群馬県みどり市にある旧石器時代の石器文化の遺跡です。昭和24年(1949年)に相澤忠洋さんが発見し、明治大学が発掘調査し、旧石器時代(先土器時代)の長期的な歴史と文化の変遷を明らかにした遺跡です。この遺跡が発見により、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された画期的な発見だったそうです。このような石器が多く展示されています。MoMo太郎のような凡人が、仮に、このような石を発見しても、ただの石ころにしか思えないですが、やはり、志(こころざし)のある人がみればわかるものなんですね。こちらの石器は石斧に使われたものだそうです。こちらの石器はナイフなどの刃物として使われていた石器です。これらの石器を使って、当時生息していたオオツノジカ(→→→こちら)を狩猟していたようです。このオオツノジカ、肩高1.8m、体長2.6mに達した大型の鹿だそうです。しかし、こんなに大きな角が毎年、生えかわるとすれば、相当、この骨を作るためにカルシウムやリンが必要だったでしょうね。骨粗しょう症のオオツノジカはいなかったんでしょうね。マンモスゾウの骨格標本も展示されていました。岩宿にいた旧石器時代の人たちはマンモスも食べていたんでしょうかね。こちらは石器を作るのに使われた道具だそうです。黒曜石やサヌカイトといった石をハンマーとなる石で叩き割って、さらにその隙間に動物の骨や角を挟みこんで細かく削ったり、また、角や骨を石材の削りたい面に直接押し付けて少しずつはがしていくよう方法で、細かい石器を作っていたようですね。そうやって作られた石器を槍や斧として利用していたということです。岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さん(→→→こちら)、納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたそうですが、その相沢さんが愛用していた自転車が展示されていました。岩宿遺跡発掘の後も各地の旧石器時代の遺跡発見を行った相沢忠洋氏、やがてこのスクーターで発掘に回ったようですね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その5) 岩宿博物館リターンズ
2024年11月04日
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のどかな田園風景の中を歩きます。庚申塔(→→→こちら)が道端に建てられていました。庚申塔の「申」は干支で猿に例えられるから、神道では猿田彦神とされ、猿田彦神は天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神ですから、道案内の神様。その神様のお導きで、次の目的地、鹿田山フットパス(→→→こちら)の駐車場にやって来ることができました。多分、フットパスとは英語書くと、"FootPath"、つまり歩道という意味でしょうから、ここまでは車で来ても、鹿田山フットパスで里山ハイキングを楽しむところなんですね。案内図では、池の周りの里山、鹿田山の中を歩けるようでした。こちらの池が鹿田山フットパスの中心地になる清水新沼という農業用のため池です。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その4) 鹿田山フットパス
2024年11月03日
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岩宿を訪れたのは10月6日でしたが、ここ群馬県みどり市笠懸町吹上地区のひまわり花畑は9月下旬から10月中旬にかけて開花する珍しいひまわり畑です。ここには約20万本ものひまわりが咲いているそうです。このひまわり畑を俯瞰で撮影しようと思いましたが、展望台は閉鎖されていて、ちょっと残念。また、この日は天気も悪く、ちょうど雨も降り始めてきましたが、折角来たので遅咲きのヒマワリの花を楽しみました。後ろの山は、みどり市笠懸町にある鹿田山です。この山麓一帯約2haがひまわり畑になっています。夏の盛りの暑い中ではなく、幾分涼しくなった秋のひまわりもじっくり楽しめていいかもしれませんね。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その3) ひまわり花畑
2024年11月02日
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岩宿博物館の近くにあったこの銅像。岡上景能(おかのぼり かげよし)(→→→こちら)という、江戸時代前期にこの地域を治めていた代官の銅像です。この銅像が建立された由来などが記された石碑もありました。このような銅像が建てられ顕彰されているのは、以下の事績によるものです。岡上景能の生まれた岡上家は、徳川幕府開設以来の18代官の1家として、代々代官職を務める家柄でした。足尾代官を勤めた景能は、足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図るため、大間々-平塚河岸間に最短ルートとなる、足尾銅山街道(現・群馬県道69号)を建設したそうです。さらに、渡良瀬川から水を引く「笠掛野御用水」の開削も行ったそうです。この笠掛野御用水は、生活用水としてでなく、笠懸野の原野に新田を開発することも目的とされ、笠懸野には、本町村のほか久々宇村・桃頭村(笠懸町久宮)などの新田村がたくさん生まれることになりました。このように数々の業績を上げた景能でしたが、幕府から罪を問われ切腹を命じられました。どのような罪に問われたのかわかりませんが、景能は現在も笠懸野の住民の尊敬を集めているようですね。現在で言えば、田中角栄みたいに新幹線や高速道路を作ったけど、ロッキード事件などで総理をやめて金権政治を批判されたとしても、亡くなった今でも未だに色んな人から尊敬を集めているみたいな感じかな。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その2) 岡上景能公銅像
2024年11月01日
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10月6日(日) JR東日本が催行している「駅からハイキング 秋のひまわりと日本のあけぼのタイムトリップハイキング」に参加するため、JR両毛線の岩宿駅にやって来ました。岩宿駅からは色んな史跡を訪れることができそうです。というか群馬県って古墳とか遺跡とか多い所なのかも。岩宿駅の駅舎、木造の小さな駅舎です。これでも、大都市近郊区間の「東京近郊区間」で、かつIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている駅です。駅からハイキングでは、普通は駅でハイキングコースの地図がもらえるのですが、今回はここではなく1.5km歩いた先にある岩宿博物館(→→→こちら)で地図がもらえます。ということで、岩宿駅から博物館に向かって歩き始めます。でも地図がないので、スマホを見ながらの岩宿博物館へ向かいました。途中にあった、歌手の看板、桐生出身とありますが、岩宿は群馬県みどり市ですよ、星ゆたかさん。こちらは途中にあった不動明王様の石像です。立派です。岩宿遺跡(→→→こちら)などがある岩宿の里という公園に岩宿博物館がありました。こちらが博物館の入り口です。鹿の川沼(→→→こちら)という大きな沼がある公園です。そして、この半分地下に隠れたような建物が、岩沼博物館でした。ここでハイキングコースの地図を頂くと、博物館の人から、「帰りに立ち寄って下さい」と言われたので、帰り道にゆっくり博物館を拝見することとして、「駅からハイキング 秋のひまわりと日本のあけぼのタイムトリップハイキング」に出発しました。(岩宿遺跡コース)【つづく】人気ブログランキング北関東の旅 岩宿(その1) 岩宿博物館へ
2024年10月31日
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中央線快速では2025年春からグリーン車サービスが開始されるそうです(→→→こちら)。そのため、グリーン車を連結した12両編成の電車 を2024年10月13日以降順次導入されていて、2025年春のサービス開始までの間は、グ リーン料金不要(普通車扱い)てグリーン車にお試し乗車できます。ということで、別に狙っていたわけではないのですが、荻窪駅から、偶然、そのグリーン車を連結した編成に乗り合わせることができました。グリーン車が連結されているのは、4号車と5号車です。普通車とドアの位置が違うので、乗客が間違えないように誘導する係の駅員さんが立っていました。二階建てになっているので、多分、座席数としては、普通車と変わらないと思いますが、やはり人気で展望のよい二階席は満員で、一階席に運良く座ることができました。車内はこんな感じです。トイレもついていました。座席はリクライニングシート、テーブル、電源コンセントもついていました。中央線快速では初めてのグリーン車サービスですが、首都圏では、東海道線、東北線、高崎線、常磐線、総武線、横須賀線ではずっと前から導入されていましたし、これで中央線沿線の利用者の皆さんも、グリーン料金さえ払えば、快適な移動ができると思います。また、グリーン定期券もあるので通勤が楽になる人もおおいでしょう。しかし、残念なことに普通列車グリーン車は自由席なので、私鉄各線で運行されている〇〇ライナーのような座席指定列車サービスではないので、グリーン車に乗っても必ず座れる保証はないです。どれくらいの利用者が見込めるのでしょうかね。MoMo太郎が子供の頃は、国鉄でしたが、京阪神を走る快速列車にはグリーン車が連結されていたように記憶していますが、いつのまにか無くなっていました。多分、所要時間は同じなのにわざわざ特別にお金を払ってまでグリーン車に乗る必要はないと考える人が関西には多かったのかな。人気ブログランキング中央線快速のグリーン車にお試し乗車
2024年10月30日
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江ノ島駅を降りたら、雨が降っていました。天気が悪くなるとは聞いていたけど、出る時は東京は青空だったので午前中は持つと思っていたのが間違いでした。でも折角、ここまで来たので江ノ電の江ノ島駅から江ノ島弁天橋へ向かうまでの道、商店や旅館が並ぶすばな通りを歩いて行きました。「すばな通り」って漢字で「洲鼻通り」と書くらしいです。フェンスで囲われた石碑がありました。この石碑を寄贈した会社の名前が、裏に彫られてました。「ここは湘南」と刻まれた石碑もありました。裏にある寄贈した会社は、すばな通りの石碑と同じだったんですね。かなり降ってきたので、江ノ島に来た証拠として、ここから写真だけ撮って、藤沢に戻ることにしました。江ノ電の駅までは遠いので、小田急の片瀬江ノ島駅から藤沢に戻ることにしました。片瀬江ノ島駅(→→→こちら)、竜宮城みたいですね。新宿からロマンスカーもやって来る駅ですが、止まっていたのは藤沢行の各駅停車です。東京へ帰るときも藤沢駅から新宿行の急行で帰ることにしました。ということで、大したこともない報告になりました。ついでではなく、今場は江ノ島の弁天様にお参りするぞ、いうしっかりした目的でないと、弁天様も江ノ島上陸は許してくれないんでしょうね。【了】人気ブログランキング江ノ島に行ったけど雨だった話(その2)
2024年10月29日
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藤沢に住むむかしお世話になった人の家に行きました。その時の話です。藤沢駅のホームにあったJRのコンビニは店舗は、往年の湘南電車80系の形でした。訪問の約束は午後からでしたが、昼ご飯は藤沢で済ませてから伺うことにして午前中に藤沢に到着です。ちょっと時間があるので、中学生の時に行って以来となる50年ぶりぐらいになる江ノ島を見てみようと思って江ノ電に乗って行くことにしました。江ノ電って、結構、きれいな電車なんですね。江ノ島に到着です。【つづく】人気ブログランキング江ノ島に行ったけど雨だった話(その1)
2024年10月28日
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この子、永尾柚乃(→→→こちら)さんという人気のある子役だそうです。「子役は大成しない」といわれていますが、この子はどうなんでしょうね。子役で人気があったけど、いつの間にか消えてしまった人って多いですよね。例えば、「ケンちゃん」シリーズで人気を集めた宮脇健(旧芸名:宮脇 康之)さん、「崖の上のポニョ」を歌っていた大橋のぞみさん。また、なんとなく芸能界に残っているけど、子役の頃に比べるとパッとしない、「あっぱれさんま大先生」で活躍していた内山信二さん、「渡る世間は鬼ばかり」で人気だったえなりかずゆきさん。「おしん」で人気だった小林綾子さん。とはいえ、今でもテレビなどよく見かける、芸能界で活躍している人といえば、「同情するなら金をくれ」の安達祐実さん、「ちびノリダー」だった伊藤淳史さん、「北の国から」から今ではDr.コトーになった吉岡秀隆さん、そして、活躍の場が違っていますが「パパと呼ばないで」で人気となり中学生で妊娠した杉田かおるさん。など多くの方がいますね。そして、文句のつけようがない成功者が「マルモのおきて」を守り、「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」で祝賀メッセージを述べた、慶応大学生でもある女優の芦田愛菜さん。しかし、最も成功した子役上がりの芸能人と言えば、女優、歌手、タレントとして活躍され2023年12月31日に89歳で亡くなられた中村イメコ(→→→こちら)さんですね。永尾柚乃さん、どうなるのかな?人気ブログランキング子役は大成しない?
2024年10月27日
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この人の政権、意外と支持率が低いみたいで、明日の結果次第では、こういうポスターももう作られないかなと思って、記念になると思って撮影してみました。ところで、この間、道で信号待ちでぼんやりと立っていたら、突然、「〇〇党です」と後ろから、1922年の創立以来、一度も名称が変わっていない政党の運動員の人から声をかけられて、生まれて初めて心臓が止まりそうな経験をしました。ビラを配るなら、正面から普通に声をかけて欲しいものですね。それから、公約で「インフレ対策として季節ごとに10万円を支給する」とか「1人当たり月1万5千円の児童手当を支給する」とか言っていますが、あれって投票してくれたらお金あげますみたいな、買収されているみたいで気分悪くないですか?まだ、「少子化対策として出産費用を無償化します」くらいの方が政策っぽい響きがあってマシかなと思います。人気ブログランキング記念になると思って撮影しました
2024年10月26日
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通洞駅から、わたらせ渓谷鐡道を使って帰ります。タイミングよく、わたらせ渓谷鐵道のキャラクター「わ鐵のわっしー」をモチーフにデザインされたトロッコ列車の「トロッコわっしー号」に乗ることができました。しかも、この日は有料の「トロッコ整理券」が必要のない快速列車としての運行だったので乗車券のみで乗ることができました。ちなみにわたらせ渓谷鐡道、交通系ICカードは使えません。窓ガラスのないオープンタイプの車両。きっと爽快だと思って乗ってみましたが、いざ乗ってみると、列車がスピードを上げると強い風が吹き込んできて、前の座席に座ったロングヘア―の女性の髪が後ろの座席のMoMo太郎の薄くなった後頭部に当たるし、停車すれば変な虫が入ってくるし、それに座席は板張りなので、長く座っているとお尻が痛くなってくるし、こういう列車に乗るのもいかがなものかと思うだけでした神戸(ごうど)駅には、むかし東武日光線を走っていた特急「けごん」の車体を利用した「列車のレストラン清流」がありました。また、途中で渓谷の景色の良いところでは停車してくれたり、この滝のところでも停車してくれました。相老駅で東武桐生線に乗り換えて、東武鉄道の特急「りょうもう」に乗って浅草駅まで帰ります。車内の様子です。大型のリクライニングシートが疲れた体を休めるのにピッタリでした。浅草駅に到着すると、新型特急のスペーシアX(→→→こちら)が停車していました。いつかはこれに乗って鬼怒川温泉なんか行ってみたいです。(足尾銅山を歩いたコース)【了】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その15) トロッコわっしー号
2024年10月25日
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わたらせ渓谷鐡道の通洞駅(→→→こちら)です。柱や梁が外に出ているのが特徴の木造の駅舎です。この建築様式はハーフティンバー様式と呼ばれているそうで、北方ヨーロッパの木造建築技法だそうです。また、駅舎及びプラットホームが登録有形文化財として登録されています。駅の前にある青銅製のレリーフは、足尾の四季という楽曲があるんですね。こんな曲らしいです。楽曲と言えば、大正元年に敷設された足尾鉄道は、直後に歌われた鉄道唱歌に7曲も組み込まれていたそうです。足尾線編の歌詞です。31.♬町をめぐれる渡良瀬の 水上(みなかみ)深く尋ねれば いにしえ勝道上人が 白き猿(ましら)に案内(あない)させ32.♬分け入り初めし(そめし)所とて その名に因む庚申山 百間幕(ひゃっけんとばり)の巖石を ながめてゆけば茸石(きのこいし)33.♬さきにそばたつ櫓石(やぐらいし) 見るもいぶせき女体石(にょたいせき) おののきおののき一の門 くぐれば数丈(すじょう)の梵字石(ぼんじせき)34.♬谷間にそいて屹立(きつりつ)し 風に傾(かた)ぶく風情なり さらに進めば富士見石 拳に似たるさざえ石35.♬ろうそく石は道野果て ここに踵をめぐらせば 胎内くぐり二つあり 小なるほうは葡匐(はらば)いつ36.♬大なるほうは立ちしまま くぐりくぐれば奥の院 数えつくせぬ怪石の 奇景は真に別世界37.♬山に続きて二里南 銅鉱出だす足尾なり 富田すぐれば佐野の駅 葛生越名にいたるみちおそらく、渡良瀬川の渓谷の景色が歌い込まれているのでしょうね。登録有形文化財のプラットホームです。駅名標には、右から、日光市観光協会キャラクターの日光仮面。栃木県マスコットキャラクターのとちまるくん。そしてわたらせ渓谷鐡道マスコットキャラクターのわ鐡のわっしーが並んでいます。左端は通洞坑から出てくるトロッコ列車ですね。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その14) わたらせ渓谷鐡道「通洞駅」
2024年10月24日
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わたらせ渓谷鐡道の線路です。ここを渡って、古河足尾歴史館(→→→こちら)にやって来ました。ここには、旧足尾鉱業所等のジオラマ、古河創業家の写真や銅像、古河家と交流のあった関塚家(フランス料理界にて活躍が顕著)ゆかりの品、そして、日本の安全第一運動のさきがけとなった小田川全之の写真および関連品の展示などがあります。入場料は、大人が400円ですが、駅からハイキングの参加者は300円で入場できたので、中に入ってみました。こちらのお勧めは、野外展示場の足尾ガソリン軌道・歴史館線です。こちらのガソリンカーがけん引するトロッコ列車に乗って、展示場内を一周するイベントです。遊園地の列車に乗るような楽しさがありました。そのほか、足尾鉱山で使われていたようなトロッコや機関車も展示されていましたが、ちょっと面白いのがこれです。茨城県日立市にあった、日立セメントの太平田鉱山索道で使われていた「箱索道バケット」も展示されていました。この古河足尾歴史館、ちょっと高台にあるので、足尾町通洞地区を見下ろすことができました。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その13) 古河足尾歴史館
2024年10月23日
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足尾銅山観光の報告、長く続いて飽きられたかもしれませんが、まだまだ続きます。こちらは、砕女(くずめ)と呼ばれた女性作業員、掘り出した鉱石を金づちで砕く役割はこういう女性が担っていたんですね。坑道から外に出ると、このさく岩機体験コーナーがありました。こういう体験も楽しいでしょうね。保存されている坑内作業に使われたバッテリー式の電気機関車、作業員の乗るトロッコ、そして運搬車です。こちらが、通洞駅から乗ってきたトロッコです。この坑道の中に入って行きます。通洞坑という標識がありました。こちらの建物は、鋳銭座。ここでは足尾で鋳造されていた寛永通宝、裏に「足」の字が刻まれていたので足字銭と呼ばれいた、の製造過程を人形を使って再現しています。大きな足字銭が建物の壁に飾られていました。ここで足尾銅山観光(→→→こちら)の紹介は完了です。この施設、入場料の830円の値打ちはあると思います。(足尾銅山を歩いたコース)北関東の旅 足尾銅山へ行く(その12) 足尾銅山観光part5人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その12) 足尾銅山観光part5
2024年10月22日
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こちらは坑道の一部が広くなっているのを利用して作られた銅(あかがね)資料館のエリアです。ここに展示されているのは坑内輸送用の3t電気機関車B形No.47と1t箱形坑車です。電気機関車にはトロリーポールの集電装置がついていたので、坑内に架空線が張り巡らせていたんでしょうね。「安全専一」とは、銅の採掘と製錬技術の調査のために訪米した足尾事業所長の小田川全之は、アメリカの製鉄会社で提唱されていた「SAFETY FIRST(セーフティファースト)」の考え方を持ち帰り、「安全専一(あんぜんせんいち)」と翻訳し、足尾銅山に安全専一の表示板を掲示し、従業員に安全意識を根付かせ、安全活動を推進しました(→→→こちら)。今でいうところの「安全第一」の標語ですが、古河機械金属株式会社では、今でもこの「安全専一」を使用しているそうです。ちなみに古河機械金属株式会社は、この安全専一を特許庁へ出願して、2020年4月3日および5月25日に商標登録されているそうです(→→→こちら)。坑内で使われるダイナマイトの説明黒板です。こちらは坑内で働く人たちへの安全の心得のようでした。こちらは、銅の製煉(せいれん)所のジオラマです。こちらは坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていた選鉱所のジオラマです。こちらに展示されているのは、足尾銅山で採掘された鉱石です。この中に銅が含まれているんですね。この板は電解精製用の銅アノード陽極板と呼ばれるもので、鉱石から取り出された精製粗銅をこのように鋳造します。この銅アノードを硫酸銅溶液を張った電気分解槽にステンレス製カソード板と交互に沈めます。電流を流すと、銅アノードから硫酸銅溶液に溶けだした銅がステンレスカソード板に電着して品位の高い銅が造られるそうです。ということで、できたのがこの銅のインゴットです。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その11) 足尾銅山観光part4
2024年10月21日
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ここからは、明治・大正時代の鉱山の様子が再現されています。この頃は削岩機(ロックドリル)を使って掘っていますね。動力には油圧式と圧縮空気式があります。ただこのロックドリルで掘るといっても、岩に穴を開けて、そこにくさびを打ち込むか、硬い岩盤だと、掘削した穴に火薬を詰めて爆破することをやっています。掘り出された岩石はズリと呼ばれていて、大きなトンネル断面だとダンプなどでも運びますが、炭鉱や鉱山では、レールを敷設して、このような運搬車で運び出します。MoMo太郎のいた炭鉱では、この運搬車を「ずりトロ」と呼んでいました。ここからは昭和の時代の鉱山です。MoMo太郎も炭鉱ではこのようにヘルメットをかぶり、じん肺(→→→こちら)予防のためのマスクをして働いてました。鉱山の中に開運洞という祠があり、山の神が祀られていました。当然ですが、箱根駅伝の五区を走る山の神とは違います。ました。この祠で、いい鉱石が多く産出されることや、作業の安全を祈ったのでしょうね。ちなみに山の神は一般に女神であるとされているので、普通の家庭でも、外から女性を連れ来ると奥様が嫉妬してお怒りになるのと同じで、鉱山の中に女性は入れないという、労働安全衛生規則とは違う、鉱山で働く男たちの掟がありました(→→→こちら)。食事は、鉱山の中で弁当を食べます。弁当と怪我は自分持ちといいますが、昔はいざ知らず、ちゃんと労災保険はおりますよ。足尾銅山でもそうだったと思いますが、炭鉱では三交替制で働いて、24時間営業でしたので、お昼だから弁当ではなく、夜中にお弁当食べていました。まあ、一日中、お日様とは関係なく暗い地下に居るので、朝とか夜の感覚ってなくなるかと思っていましたが、意外とそういう感覚って残るもんでした。山が落ちてこないように、ここでも支保工の点検は、この人形がしっかりやっていました。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その10) 足尾銅山観光part3
2024年10月20日
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坑道の中を歩いて行くと、江戸時代の鉱山で働く人を人形で再現されていました。こちらは、鉱石を手押し車で運んでいる人の様子です。こちらは、鉱石を背負って運んでいる人ですね。鉱石を掘り出している坑夫の人とそれを監督している役人の様子です。ノミと槌を使って鉱石を掘り出しているんですね。全長で約300メートルの坑道の中を歩いて行きます。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その9) 足尾銅山観光part2
2024年10月19日
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俳優 西田敏行さん死去 76歳 北野武さんら悼む声相次ぐ(→→→こちら)大門美知子先生でも治せなかった病気なんでしょうか。自宅で亡くなったというので、榊マリコ研究員と風丘早月教授が検死解剖されるのでしょうかね。とテレビの世界と現実の世界の区別がつかなくったMoMo太郎です。さて、足尾銅山観光(→→→こちら)とは、江戸時代から銅の産地として栄え、かつては「日本一の鉱都とも呼ばれた足尾銅山の閉山後に坑内の一部が開放され、トロッコ電車に乗って全長約460メートルの薄暗い坑道に入っていく観光施設です。こちらの駅舎からトロッコに乗ります。入場料は830円ですが、駅からハイキングの参加者は730円で入場できました。神木隆之介(→→→こちら)と同じように若い頃は炭鉱で働いていたこともあるMoMo太郎です。このようなトロッコに乗って炭鉱の中に入っていました(嘘ですょ)。でもこのトロッコ、やっぱり観光用にきれいな塗装がされていますね。駅舎の中には、江戸時代の銅山で働く坑夫さんの人形が展示されていました。こちらのホームからトロッコに乗ります。観光客はここから坑内に入って、坑内を歩いて戻ってくるので入ってくるトロッコに乗客は乗っていません。また、鉱山のトンネルの中に入るのですが、労働安全規則による保安帽(ヘルメット)の着用はなかったです。昔、炭鉱で働いていたMoMo太郎としては、ヘルメット無しで炭鉱に入るのは、下着のパンツなしでズボンを穿くような不安な気持ちになります。炭鉱夫だった頃(あくまで、嘘ですょ)を思い出すMoMo太郎、トロッコを降りて採掘の切羽(きりはけ:トンネル掘削の最先端箇所のこと)に行くのでしょうか。このバッテリーロコ(トンネル工事で使用される蓄電池機関車のこと、排ガスの出ないので使われています)で乗客を乗せたトロッコを引っ張ってきました。鉱山が稼働していた頃は、資材や功績を運搬していたんでしょうね。この先も坑道は続いていたのでしょうが、今はこのように立ち入り禁止になっています。トロッコを降りて、いったん坑口の方へ向かって少し戻って、こちらの脇に掘られている坑道に入っていきます。坑道を支える松丸太(多分、松だと思います)で作られた支保工(トンネルの中で上からの荷重を支える仮設構造物)がかって働いていた炭鉱を思い起こします。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その8) 足尾銅山観光part1
2024年10月18日
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このあたり、足尾町の中心にあたる通洞(つうどう)と呼ばれる地区にやってきました。「通洞」とは鉱山用語のひとつで、探鉱のほか運搬・排水・通気等の役割を担った鉱山の基幹となる坑道のことです。中心ということで、かっては足尾銅山労働組合の建物があつたそうです。今でも中心地らしく、消防署や日光市足尾庁舎などの施設もあります。こちらの建物が、日光市足尾庁舎(→→→こちら)です。住民票の手続きなど日光市庁舎まで行かなくてもできたり、公民館もあったりします。また足尾町の観光振興や商工業、農林業に関する施策の担当部署などもあるようです。ここでちょっと休憩して、いよいよ足尾銅山観光のメインである足尾銅山観光(→→→こちら)に向かいます。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その7) 通洞地区
2024年10月17日
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次に訪れたのが「足字銭と鋳銭座跡碑」(→→→こちら)説明板はかなり傷んでいましたが、内容は以下の通りです。「江戸幕府直山の足尾銅山は産銅量の減退に伴い、銅山師達は山元(やまもと)の困窮を救うため、寛保元年(1741年)幕府に足尾銅山で「寛永通宝・一文銭」の鋳造許可を願い出、鋳銭することとなりました。特に足尾で鋳造の寛永通宝一文銭は、裏に「足」の字が刻まれ「足字銭(足尾銭)」と呼ばれ、お銭(かね)のことを「おあし」と言っていたのも足字銭が語源といわれます」お金のことを「おあし」というのは、足があるようにどんどん使われて、お金が貯まらないから「おあし」と呼ぶんだという、MoMo太郎の祖父の話は嘘だったのか。このあたりから足尾の町の商店街ができていました。こちらのお店はプリントショップで、オリジナルのマグカップ、のほり、Tシャツ、ステッカー、缶バッチなどを作ってくれるお店です。ここで駅からハイキングの参加者に缶バッチをプレゼントしてもらいました。商店が所々に並んでいました。が、足尾の町の中にコンビニは見たりませんでした。こちらはお菓子屋さん。一応、お土産になる最中やドラ焼きを売っているんでしょうね。店休日だったのはちょっと残念でした。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その6) 足字銭と鋳銭座跡碑
2024年10月16日
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足尾駅から足尾の町の中を歩き次の目的地である宝増寺(ほうぞうじ)にやって来ました。山門の前には、寺号碑と宝増寺の歴史が説明された看板もありました。この説明板によると、・・・。本堂には「足尾」の地名の由来となった勝道上人作の”波之利大黒天"の木像・・・とありますが、「足尾」の地名の由来とは、毎年穂をくわえて日光中宮祠に現れる白ネズミはどこから来るのか、これを確かめるために勝道上人がこの白ネズミの足に紐(緒)を結わえて放ったところ、現在の足尾の村落に至ったことから、それ以来この村落を「足緒」と呼ぶようになり、白ネズミが入った洞穴を修験の場に選び大黒天とネズミを祀ったという。ということだそうです。宝増寺の境内です。寺の奥には山に向かって多数のお墓が建っていますが。これは無縁墓だそうです。本堂の中です。宝増寺を出てしばらく歩いたところにあるこの建物は、足尾キリスト教会です。足尾で初めての本格的な教会堂で、また唯一の現存例であり、当時の銅山従事者の信仰の様相を伝える建築物であることから、国登録文化財になっています。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その5) お寺と教会
2024年10月15日
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こちらの旧国鉄時代の雰囲気を残す足尾駅(→→→こちら)。1912年(大正元年)に建てられた木造駅舎は、国指定の登録有形文化財になります。琺瑯(ホーロー)看板の駅名標もレトロでいいですね。わたらせ渓谷鐡道では、貨物の取り扱いをしていませんが、旧国鉄の時代からJR東日本の足尾駅の時代には貨物の取り扱いをしていたそうです。その往時を偲ばせるように貨物車両が保存されていました。かって使われていたキハ35系気動車も保存展示されていました。ホームにはわたらせ渓谷鐡道のトロッコわたらせ渓谷号(→→→こちら)が停車していました。トロッコわたらせ渓谷号は、窓ガラスのないオープンタイプのトロッコ車両2両を、窓ガラス付きの普通車両2両で挟み込んだ格好で連結します。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その4) 足尾駅
2024年10月14日
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こちらの橋は渡良瀬橋(→→→こちら)。森高千里の歌になった渡良瀬橋(→→→こちら)は栃木県足利市ですが、こちらの渡良瀬橋は栃木県日光市足尾にあります。当初は鉄製のアーチ橋だったのですが、昭和10年(1935年)にその鉄製本体をそのまま鉄骨として、トラスの垂直材を1本おきに取り除き、鉄骨コンクリートに改造したコンクリートアーチ橋になりました。設計施工は往時の足尾銅山の技師たちが携わったと思われますが、優秀な技術者たちだったと思われます。そして、こちらの古河掛水倶楽部(→→→こちら)を見学しました。入場料は500円ですが、駅からハイキングの参加者は400円で入場できました。今回の駅からハイキング「産業遺構と環境の町 足尾」で歩く距離は約5kmなので、のんびりと施設の見学などができました。このお屋敷が古河掛水倶楽部です。足尾銅山の隆盛期に貴賓客の接待や宿泊施設として利用されていた迎賓館で国の登録有形文化財になっているそうです。今でも持ち主の古河機械金属の社員研修などにも利用されているようです。こちらが入口。中ではカメラでの撮影禁止だったので、紹介できる写真が撮影できませんでした。内部を知りたい方は古河掛水倶楽部のホームページ(→→→こちら)をご覧ください。その代わり、同じ敷地に内にある電話資料館を紹介します。電話といえば、足尾鉱山を足掛かりに発展した古河鉱業会社(現古河機械金属株式会社)をはじめとする戦前の古河財閥の流れを汲む企業グループの古河グループには、通信機事業をベースとして発展した富士通もあるので、なかなか興味深い展示があるかもしれません。1965年に導入された自動交換機です。もちろん富士通信機株式会社製です。携帯電話などの発達により、2000年にその役目を終え、2016年には栃木県指定有形文化財となったそうです。昔使われていたダイアル式の電話機ですね。こちらは。昔の電話機ですね。1876年、ベルが発明した電話器は1877年に日本へ輸入され、1886年に民間で最初の電話機として足尾銅山の坑内外で使用され始めたそうです。相手先の電話番号を伝えると、電話の交換手が相手側の番号につながるジャックにプラグを差し込んで通話ができる。手動の電話交換機です。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その3) 古河掛水倶楽部
2024年10月13日
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わたらせ渓谷鐡道の間藤駅から歩き出しました。「鉄道」と表記すると金を失うと書くので、「鐡道」と表記しているのでしょうね。この車両、「わ89-200形気動車」です。銅山にちなんだ赤い色に塗装されているんですね。また、車体にはカモシカのマークが描かれていました。間藤駅から正面に見える山です。名前はわかりませんが、この山の地下に鉱山が彫られていたんでしょうね(→→→こちら)。駅の近くにあった渡良瀬取水塔(→→→こちら)です。足尾銅山の閉山に伴う旧足尾町の振興策として、建設された足尾発電所のための取水施設です。発電所の建設で、電源三法による交付金、市町村交付金により、旧足尾町の財政改善に寄与したのでしょうね。こちらの橋梁は、わたらせ渓谷鐡道第一松木川橋梁(→→→こちら)です。登録有形文化財と土木学会選奨土木遺産に認定されている貴重な構造物だそうです。さすがに鉄道橋を歩くわけにはいかないので、隣にかかる人道橋で川を渡ります。こちらの橋もかなり年季の入ったトラス橋ですね。橋の下を流れる松木川です。一般的に日光市足尾地区渡良瀬にある神子内川との合流部から下流が渡良瀬川であり、これより上流は松木川(と呼び分けられているのですが、国土交通省の定義では、足尾ダムから神子内川までの合流部分も含めて渡良瀬川と定めているので、法律的には渡良瀬川と呼ばないといけないですね。足尾駅に向かって、わたらせ渓谷鐡道の線路沿いの道を歩いて行きます。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その2) 第一松木川橋梁
2024年10月12日
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9月15日、JR東日本の「駅からハイキング~産業遺産と環境の町 足尾~」に参加するため、浅草駅から足尾銅山に向かいました。東武鉄道を利用して、東武日光へやって来ました。足尾銅山といえば、桐生からわたらせ渓谷鉄道(旧国鉄足尾線)を利用していくのが、一般的なルートではないかと思われるでしょうが、実は足尾銅山は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあったのです。ということで東武日光へやって来たのです。山小屋をイメージした三角屋根の駅舎が特徴的な東武日光駅です。連休ということもあって、駅前には大勢の観光客。ここから、この路面電車に乗って、というわけでなく、これは、保存展示されている、かつて日光軌道線で使用された100形路面電車です。日光軌道線とは、日光駅前から馬返までを結んでいた、東武鉄道運営の路面電車です。日光東照宮、輪王寺、二荒山神社等の観光地への旅客輸送や古河精銅所からの貨物輸送に活躍していましたが、モーターリゼションの影響で昭和43年(1968年)に廃止されました。ということで、足尾銅山に向かうのは、日光市営バスの足尾JR日光線を利用して、足尾に向かいます。このバス路線、テレビ東京の路線バスの旅などでもよく利用されているので、知っている人も多いかも。JR日光駅と足尾を結んで一日6往復が運行されています。結構、乗客が乗り込んでいますが、乗客のほとんどの人が駅からハイキングの参加者の方でした。日光東照宮の前を流れる大谷川に架かる神橋(→→→こちら)です。日光東照宮までは、渋滞していましたが、そこを過ぎると、快調なバス旅が、・・・と思っていたら。国道122号の日足トンネルを過ぎたところで、突然バスが止まってしまいました。理由は道を塞ぐように横転していたトラック。消防車やパトカーがやってきて事故処理を始めましたが、この状態だといつ通行できるようになるか、わからないという警察官の話でした。こういう時って、バスの乗客同士でなにか軽い連帯感ができて、みんなで話し合った結果、駅からハイキングの受付時間もあるので、受付場所の間藤駅まで、約9キロの道を歩いていっても、多分歩けば2時間くらいで到着して、受付時間に間に合うだろうということで、みんなバスを降りて歩いて向かうことになりました。駅からハイキング、思わず駅までハイキングに変わりましたが、とにかくみんな歩き出しました。この時、熊よけの鈴を持ってくればよかった後悔しながら、山あいの国道を歩きました。しかし、1時間も歩かないうちに、トラックが移動できたようで、車が走り始めました。そうすると、バスもやってきて、歩いている人達を途中で拾ってくれて、バスに乗ると、あっという間にわたらせ渓谷鉄道の終着駅で、駅からハイキングの参加受付場所の間藤駅に到着しました。受付を終えると、記念品にクマよけの鈴をいただきました。間藤駅の説明板です。本当は、ここから歩くのですが、これに乗って帰ろうかとも思いましたが、日光市観光協会キャラクターの日光仮面にも励まされて、ここから足尾銅山に向かって歩き始めることにしました。(足尾銅山を歩いたコース)【つづく】人気ブログランキングへ北関東の旅 足尾銅山へ行く(その1) 足尾銅山は日光市にあります
2024年10月11日
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最近はカスハラというのが問題となっているそうですね。先日も東京都で全国初のカスハラ防止条例が成立して来年4月から施行されることなったそうです(→→→こちら)。カスハラとはカスタマーハラスメント(Customer harassment)の略語で、暴行・脅迫・暴言・不当な要求といった、顧客(消費者・企業間取引問わず)による理不尽で著しい迷惑行為のことだそうです。もちろん、暴力や脅迫などの行為をMoMo太郎自身がしたことはないですが、「バカヤロー」くらいは言たくなることがありました。【笑う女性店員さん】スマホを買い替えようと思って、店に行った時です。店員さんから「どのような機種がよろしいですか」と聞かれたので、「できるだけ安いもので」と答えたら、店員さんが「ハッハッ」と大きな声で笑った。思わす、店員さんに「そこ笑う所ですか」と強い口調で言ってしまった。【言い訳する女性店員さん】コンビニでおにぎりを1個買って、まあ200円も出せば足りるだろうと思って、百円玉二枚を出したら、店員さんから、「足りません、552円です」と言われた。「なんで、おにぎり一個でそんなするんだ」と言うと、店員さん「えっ」と言ってしばらくレジを操作して、「138円です。さっきのお客さんの入力を消し忘れてました忘れてました」と謝りもせず金額を言ったので、「言い訳するより謝るのがさきじゃないのか」と店員さんに言った。【約束を守らない銀行員】それほどお金に余裕があるわけでもないMoMo太郎ですが、ちょっと世間の流行りに押されてNISA(→→→こちら)というものをやっていたのですが、その件で聞きたいことがあって投資信託をしている銀行に電話で問い合わせをした。ちなみに、その銀行が勧めてくれた投資信託は元本割れのまま、5年経っています。最初、応対してくれた女性の行員さん、「調べて折り返して電話します」と言ったので、2時間くらい待っていたが、電話はなかった。それで改めて電話すると。別の男性行員さんが対応してくれて、「さっき尋ねたが折り返し電話すると言ってましたが、2時間たってもなかったので」と言った。またその人も「折り返して電話します」と言ったので「何年くらい待てばいいですか」と聞いた。「いえ10分お待ちください」「じゃあ、ちゃんと電話ください、お名前は」と言った。行員は「ナカヤマと言います」「それじゃあ、10分待っています」一応、10分後電話が掛かってきた。なんとなく、対応が悪い行員がいるので、その銀行との取引は辞めました。そんなわけで、カスハラの種を播いている人もいるんだと思う。人気ブログランキングカスハラあってもしょうがないなと思う時
2024年10月10日
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國學院高校の向かい側には明治神宮野球場があります。大正15年(1926年)に開場以来、東京六大学野球や東都大学野球1部リーグの試合が開催されるほか、高校野球都大会など主要な野球大会の会場となり、また東京ヤクルトスワローズの本拠地でもあります。野球と言えば、今シーズンは、ほとんど毎日、メジャー・リーグのロスサンゼルス・ドジャーズ(Los Angeles Dodgers)の大谷翔平選手の活躍が報道されていましたね。そのニュースを写るユニフォームの"Dodgers"の文字を見て、思ったのは、"Dodge"する人というのが、Dodgersの由来とすれば、本当はドジャーズって、ドッジボール(Dodgeball)をする球団で、むかし、アメリカではドッジボールの人気が高く、ドッジボールをするチームとして発足したところ、そのドッジボール人気が無くなって、野球をするようになったのではないかと想像してしまいました。そしてドッジボール、ワールドカップも開催されている(→→→こちら)、ちゃんとしたスポーツらしいです。そのうち、オリンピックに採用されるかな?そして、こちらは明治神宮外苑スケートリンク(→→→こちら)です。60m×30mの広さのスケートリンクがあり、世界大会も開催できるスケートリンクがあり、フィギュアスケートのレッスンなども受けられるそうです。そして、こちらの歩行者専用の跨線橋兼跨道橋を渡ります。向うに見える建物は慶応大学附属病院です。まず、跨道橋の部分です。下は首都高速4号新宿線です。次はJR中央線を渡る跨線橋の部分になります。そして、この橋の名称は無名橋というみたいです。橋の名称そのものが「無名」なのか、それとも橋の名称が無いということなのか、ちょっと不思議な感じです。そして、こちらのJR信濃町にやって来ました。参加している「駅からハイキング~開業120周年の駅から鉄道発祥の地へ仲秋のお散歩コース~」の予定では、ここから神宮外苑のいちょえ並木を抜け、乃木坂、六本木と進んで愛宕神社を抜けて、鉄道発祥の地、新橋へ行くのですが、暦の上では仲秋なのかもしれのませんが、残暑が厳しかった9月14日。余りの暑さで、疲れ果ててしまい、軽い熱中症ではないかと思い、信濃町駅の駅ビルのアトレ信濃町に入って、しばらく休んでいましたが、続きは後日、秋らしい気候になった時に歩くことにして、結局ここでリタイアして、家に帰りました。(千駄ヶ谷のお散歩コース)【了】人気ブログランキング千駄ヶ谷を散歩(その7) 明治神宮野球場と無名橋
2024年10月09日
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