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統一地方選挙の後半戦の昨日、当市でも市議会議員選挙があった。その数日前、今回の選挙について、末娘と話をする機会があった。今回の市議選に立候補しているのは41人、定員は34人、7人が落選する。現在20歳でまだまだ選挙ビギナーのムスメとしては、候補者が多過ぎて、誰に入れるべきかの見極めがまったくできないという。確かに選挙公報を熟読して、各候補者を比較検討しようと思ったら、結構大変なことだ。市議選で何度も投票している年長者ならそんなに迷うこともないだろう。それぞれに普段から支援している党があったり、親密にしている人がいたり、日常的に議会での発言や議員活動をウォッチする上で候補者を品定めしているだろうが、選挙ビギナーにはそういう下地が無い。そういうムスメへのアドバイスとしては、次のようなことを言った。まず、どうしてもイヤだと思うような党や団体の候補者を除外しろ。所詮83%が通過できる広い門なのだ、残りの誰が通ってもいいやと割り切れ。あとはパッと見で一番共感できそうな公約を掲げる人に入れてもいいし、単に「女性」だとか「若い人」といったファクターで判断してもいい。いい加減に思われるかもしれないが、棄権するよりはずっといいのだ。それにしても地方議会選挙のこのシステムも、何とかならないものかと思う。聞くところによると世田谷区議会など、定数50に対し候補者が75名いるそうだが、それは極端だとしても、せめて候補者全員の名前が頭に入るくらいにしたいものだ。例えば定数がある一定の数値を超える自治体は、2~3程度に区割りして、有権者の選択肢の数を現実的なベースまで抑えるようにするとか。どのみち実現は極めて難しいことだろうが、問題意識だけは掲げておきたい。
2019年04月22日
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ツイッターって、議論に向かないツールだな、といつも思う。こう言うと、もしかすると「えっ?」と思う方がいるかもしれない。なぜなら、現にツイッター上で議論している光景は日常茶飯事だからだ。私が考える「議論」というものは、互いが違った見解をぶつけ合いながら、より良い結果を導き出すための手段である。だから決して「ケンカ」ではない。しかし今ツイッター上で繰り広げられている「議論」は、ほぼ「ケンカ」だ。まず、「妥協」というものが無い。リアルな議論では、必ずしも言いっ放しだけでは無く、相手の言い分に耳を傾け、部分的に納得するところがあることを認める。しかしツイッター上の議論では、一切の「妥協」が無い。妥協することは、負けを認めるに等しい、とでも思っているかのように感じる。そもそもが例えば「右翼」と「左翼」の争いみたいなものだったりするので、余計に互いが相容れない状況になっているのだろう。私が「ツイッターが議論に向かない」と言う所以は、そんなところにある。しかしこれは決してツイッターだけに収まる問題ではない。リアルの世界であっても「議論」が「議論」になってなかったりする。「朝まで生テレビ」のような討論番組を観てると、特にそう思う。目的は、自分と異なった意見を持つ者を論破すること、その一点にあるように見える。一応、田原総一郎という行司役は居るが、ほぼ「ノーガードの打ち合い」状態だ。いち視聴者として観ていると、言い合いのスリリングさは感じるが、そこから何かを生み出していこうという、建設的な姿勢が感じられないのだ。ツイッターが出現してからこうなったのか、元々そういうものだったのか、今となってはどちらかよく分からないが、議論というものの本質を考えさせられる今日この頃。
2019年04月19日
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新元号「令和」が発表されて一週間が経った。全体的に祝賀ムードの中、この元号を良しとしない、と考える方も少なからずいる。「令」の字が「命令」などのように上からの言いつけや掟といったニュアンスを含んでいて、政権のおごりを感じさせるというのがその根拠らしい。その辺りは「そう言われればそうかも」くらいには思うが、私はあまり気にしてない。そもそも言葉の意味というのは常に多面的に捉えられるべきもので、他人の解釈を否定するというのは、慎むべきものと考えるからだ。それよりも私としては、元号の「意味」などどうでもいいんじゃないかと思っている。過去の元号を見てみても、元号がその世相を象徴しているものには思えないし、新しい時代に期待することなど個々人によってバラバラで、いわんや政権にそれを委ねるというのも面白くない。私も過去に「昭和」と「平成」のふたつの時代を生きてきたが、日常生活においてその元号の意味するところを反芻することなど、皆無であった。元号は今上天皇が退位した後の呼称になるが、一般庶民にとっては一種の記号でしかない。それなら日常生活で使うのに不便の無いものであれば、それでいい。要は「言いやすさ」と「書きやすさ」、これに尽きる。「令和」はそのどちらにおいても特に問題のない、まあまあの元号だと思う。
2019年04月08日
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今年5月からの新元号が「令和」と発表された。菅官房長官の発表会見をドキドキしながらリアルタイムで観ていたが、発表直後はポカ~ンとした、呆気にとられたような気分になった。これは「平成」の時にも同じように感じたものだ。何なんだろうな、この気分は。もちろん当てが外れた、とか、気に食わなかった、というようなことでは無い。むしろ悪くない名前だと思った。発表されるのがどんな元号であれ、同じ気分になったことだろう。逆に聞いた瞬間、「やったー!」とか「すごい!」などと思う人も少ないんじゃないか。巷で新元号の予想だとかやっているのを冷ややかに見つめながらも、私も私なりにいろいろと考えをめぐらせてみた。昭和の「昭」、平成の「成」と、2回連続で新出の漢字が使われたので、今回も今まで使われたことのない漢字が出てくるのではと思っていたが、正直なところ「令」はまったくの想定外だった。また菅官房長官が初めに「音」を口に出して、字を見せるまでに間があったので、「れい」という音に一瞬「霊」の字が浮かんだことも、ポカ~ンとした原因かもしれない。このタイムラグは平成の時も感じた。小渕官房長官(当時)が「へいせい」と口にした時、「けいせい」と誤った聴こえ方がして、一瞬頭の中を京成スカイライナーが走り抜けたものだ。まあここまで何十年と生活に沁みついたものの代わりになるものだから、なじむまでにはそれなりの時間は掛かることだろう。元号不要論も囁かれているが、日本人は変革を嫌うから、無くなったら無くなったで寂しく感じ、結局は残っていくことだろう。
2019年04月01日
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