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勘八稲荷神社や波岩神社が鎮座する波岩地区、今回はそこから車で2.3分程の場所に鎮座する枝下川神社を掲載します。鎮座地は赤枠部分。矢作川右岸にあたり、矢作川を見下ろす小高い山の頂に神社は鎮座します。現在の地図で勘八稲荷神社から県道11号線に出て右折、青木町1丁目信号の手前100m先で斜め右に進み、民家裏の右方向の突き当りが現地になります。県道から神社に続く入口が見つけにくいかもしれませんが、制限速度で走っていれば見付けられるはずです。民家裏の細い道の突き当りが写真の枝下川神社社頭になります。石段が小高い山の頂に立つ鳥居に続いています。石段右の「枝下(しだれ)用水と枝下川神社」解説。「米作りに必要な水は、昔から変わりません。明治時代取水は、主に溜池でした。安定した取水に向け枝下用水の開削に乗り出し、農民の要望に応え中心として尽力したのは、西澤真蔵です。西澤眞蔵は弘化元年(1844) 近江の国に生まれ、家業の麻布問屋を営み財を成します。明治20年(1887)枝下用水の工事許可が下りると、出資者としてこの事業に参加しました。枝下用水の工事は、西枝下村の矢作川から取水することから始められました。工事は人力で行われ、岩石の破壊、撤去など難工事です。また、毎年の大雨による土砂崩れや明治24年(1891)の濃尾地震で、工事のやり直しが続きました。そのため、工事費は計画の予算を越え、ほかの出資者は手を引いてしまいます。西澤真蔵は農民に安定した水を与えるという使命のもと、最後まで枝下用水の完成に精魂と私財を投じるのです。明治23年(1890)第1回水路祝賀式典で「全財産は使い果たし、借財も多額に残ったが悔いはない、水田が増える喜ばしいことだ。」と自分に言い聞かせるように話しました。しかし、明治30年〈1897〉労苦が重なり、生涯を閉じました。明治27年(1894)高岡村駒場までの竣工を記念し、ここに枝下川神社が創建され、 昭和43年(1968) 西澤真蔵命を合祀しました。枝下用水の開削に身を投じた西澤真蔵と関係者に感謝を込めて、毎年4月16日に例大祭及び始水式が行われています。」枝下用水は豊田市越戸町内で矢作川から取水し、豊田市南西部へ供給する農業用水で、水路の延長は幹線・支線合わせて約110kmに及びます。灌漑用水の計画は明治9年(1876)頃から計画され、越戸、花本、荒井の有力者らが幾度となく愛知県へ開削計画を提出しましたが、県や国からの許可は下りませんでした。当初は官民共同事業として進められ、県は西枝下村から四郷村唐沢川までの水路の試掘などを行いましたが、現在のような土木機械での作業ではなく、人力の鍬による難工事で、自然災害により工事費用は当初計画の二倍(現在の価値で約6億程)に膨らんでいきました。膨れ上がる工事費用のため、県は事業から撤退、以後は民間事業として行われました。民間事業として支えていた実業家もやがて撤退しました。その後は西澤真蔵と農民有志により進められ、明治27年(1894)に枝下用水の全幹線が完成しました。その功績により、大正9年(1920)には約1,200ヘクタールの土地が開墾され、畑から水田に変わりました。私財を投げ打って完成させた枝下用水ですが、下流の明治用水との取水権問題や、昭和に入って越戸ダム建設に伴い取水口がダム湖に没するまでの39年間、当地に水を供給し続けました。現在は枝下水力発電所から分水された水が枝下用水に導かれています。石段左の社記、内容は以下。「神社名 枝下川神社鎮座地 豊田市平戸橋町波岩86-8祭神 大水上祖神、西澤真藏命例祭 4月16日由緒本社は西加茂郡西枝下村の矢作川を水源として、岩海群高岡村に至る枝下用水十二里三十一町二十間の竣工を記念して明治27年創建された。主神に大水上祖神を勧請し報賽の誠を捧げると共に、更に一層の加護を祈請して奉祀したものである。枝下用水は明治17年、愛知県の補助を得て越戸・花本・荒井の農民の手により、水源から越戸までがまず開鑿され、次いで同20年 滋賀県愛知郡八木荘の西澤真藏大人外が本格的延長工事に着手し、同27年迄に幹線水路・東用水・中用水・西用水が順次開鑿された。同事業の困難は、筆舌に尽し難く多くの人士と資材を投じ、十有余年の歳月を要し1700町歩にわたる一大灌漑事業はここに完成した 。爾来、枝下用水は営々と改修・改良が続けられて今日に至るが、身命を賭して水路開塾にあたった西澤大人の鴻恩に報いるべく、昭和43年、用水の守護神として合祀した。社殿は昭和63年枝下用水通水百年を記念して、四月新たに造営されたものである。昭和63年4月16日 」鳥居へ続く石段の眺め。手摺はないけれど、途中に踊り場もあって、見た目ほど急ではありません。最後の石段から鳥居と境内の眺め。石の神明鳥居を構え、その先の境内の右に手水鉢、正面の社殿と至ってシンプルです。境内の周りは、濃い緑に包まれ、西側の県道を走る車の騒音、近隣の民家からほどよく遮断された静かな環境です。手水鉢から社殿の眺め。社殿正面全景。玉垣に囲まれた本殿域に本殿以外の社の姿は見られません。静かな境内の最深部に佇む社殿の姿が印象的です。祭神は社記にあるように、大水上祖神。川の守護神で、矢作川の水で潤う周辺の守護神。そして、私財を投じてこの地に矢作川の恵みをもたらし、神となった西澤真藏命が祀られています。安城市東栄町の明治川神社には明治用水の守護神として同神が祀られています。本殿全景。昭和63年(1988)に新たに造営された流造のこぢんまりとした社ですが、細部には寄進者の思いが感じられます。向拝柱を結ぶ水引虹梁の上には中備の龍が入れられています。木鼻の像。脇障子には矢作川の流れを昇る鯉の姿が描かれています。川の守護神と矢作川の水の恵みをもたらした西澤真藏命らしい意匠ではないだろうか。本殿域から境内の眺め。創建が新しいとはいえ、手前の松の剪定や雑草が見られない境内から、地元の人から親しまれているのが伝わってきます。境内の鳥居から南の眺め。鳥居の寄進年は昭和8年4月と刻まれています。〆の子の先には矢作川と平戸橋を眼下に望みます。間近に水源がありながら、旱魃に苦しんで来たこうした土地は、なにも当地に限らない。こうした大事業に拘わらず、山奥の沢から里に導く小さな導水路などはどこでも見られます。耕作放棄地や宅地化され、田畑は消え導水路の有難味を肌で感じる事はないかもしれない。そうした当たり前の水が先人達の智恵と情熱の結晶の賜である事を忘れてはいけない。枝下川神社創建 / 明治27年(1894)祭神 / 大水上祖神、西澤真蔵命境内社 / ・・・祭礼 / 4月16日所在地 / 豊田市平戸橋町波岩86-8参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 波岩神社から移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神・波岩(ハイワ)神社
2024.11.23
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波岩(ハイワ)神社。波岩神社へは、前回掲載した勘八稲荷大明神から、枝下用水沿いに5分程上流の越戸発電所の東側に向かいます。鎮座地は赤枠の位置になり、越戸発電所の東側の発電用取水口付近に鎮座します。波岩神社から徒歩5分程で社頭に至ります。波岩神社の詳細について以下に目を通しました。大正15年(1926)出版の西加茂郡誌、昭和46年(1968)猿投町誌に目を通してみましたが、波岩神社の記述は見つけられませんでした。地図上からも鳥居の記はみられず詳細は不明です。越戸発電所全景。左のフェンスが枝下用水で、矢作川から取り込んだ発電用取水口から分流し灌漑用に導いています。施設後方右手の森が波岩神社の社叢になります。ここから導水路の橋を渡った右側が社頭になります。橋から取水口の眺め。枝下用水はここから分流され、下流の田畑を潤しています。昔は矢作川上流の枝下から取水していましたが、水力発電施設完成後の枝下用水はここが源流となります。波岩神社社頭正面全景。社地後方には杜若高校があり、神社は発電施設と学校の施設に挟まれるように、小さな杜の中に祀られています。社頭には石の明神鳥居と左に手水鉢がありますが社標は見られなかった。寄進年は未確認ですが、特徴のある手水鉢。冒頭詳細は不明と書きましたが、ただ、境内の鳥居、常夜灯の寄進年が昭和8年(1933)11月となっていました。ここからは推測になりますが、昭和8年は、地元実業家前田氏により前田公園が整備された年で、寄進者名は確認していませんが、恐らく公園整備に伴い創建されたか、越戸ダム・発電所の運転が昭和4年(1929)なので、この施設の建設・運用に伴い祀られたものかもしれません。或いは、波岩の地名を冠するだけに、前田公園から平戸橋にかけての地域の鎮守の可能性もあるかもしれませんが、寄進物に昭和以前のものが見当たらずその可能性は低いのかな。鳥居扁額は「波岩神社」鳥居の先の本殿。外から見た社叢は鬱蒼として暗い印象を持ちましたが、程よく伐採され以外に陽光が入る明るい境内です。本殿は見世棚造で鰹木4本の外削ぎの置き千木が付くもので、これをもって祭神が男神・女神かを問う人はいないと思います。時代はジェンダーレスです。境内から社頭の眺め、道路の先は発電所敷地のため、周囲はこうしたフェンスに囲まれています。波岩神社社頭全景。由緒がなく、詳細が分からない神社ですが、境内は定期的に手入れされているようです。帰り道はフェンス沿いに発電所をひと回りすれば、枝下用水に続きます。波岩神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・祭礼 / 不明所在地 / 豊田市平戸橋町波岩参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 勘八稲荷大明神から移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神
2024.11.22
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11月12日。名古屋から近鉄電車に揺られ、奈良県桜井市の安倍文殊院を訪れ、周辺を歩いてきました。今回はその時のトピックスを掲載します。最寄駅は近鉄桜井駅、名古屋からだと伊勢中川で乗り換えないと桜井には止まってくれません。車窓から見える山々は、紅葉にはまだ早かったです。それでも途中の長谷寺駅では、海外から訪れた親子連れなどが秋の奈良を目当てに連なって降りる姿が見られました。私たちも秋の装いに包まれた磐余の道と山の辺の路をのんびり歩き、安倍文殊院と三輪山近くの今西酒造を訪れ、季節限定の酒を買い求めるために訪れました。・・・と多少紅葉を期待しましたが、車窓から眺める山々はその気配すらなかった。桜井駅から約15分弱歩いた桜井市谷地内の三叉路で見かけた「左 土舞臺(台)、右 安部文殊院」とある道標。(道標の位置)ここは道標に従い100㍍ほど先の三叉路で左の緩やな登り坂を進んでいきます。小さな溜池を右手に見ながら、心細くなるような細い道を道なりに進んで行けば安部文殊院までは近い。道標から10分程で、写真の安部山文殊の石標に辿り着きます。ここを先に進めば文殊院の駐車場に至ります。G先生は山門まで導いてくれなかったが、まぁ良しとしよう。桜井駅からここまで1.5km程、途中Google先生を信じられずに遠回りしたため、移動時間は30分程かかりました。安部文殊院と文殊池。所在地は奈良県桜井市阿部645。安部丘陵の西端に鎮座する華厳宗の寺院で、山号は安部山、院号は文殊院。正式名称は安倍山崇敬寺文殊院で、別名「知恵の文殊」、学業成就の寺として知られ、獅子に乗った国宝の文殊菩薩像を本尊とする寺。また、平安時代の陰陽師、安倍晴明の出生地といわれる寺で、境内東の文殊池を見下ろす高台には晴明が天体観測を行った「天体観測の地」があります。そこから西の眺めは伽藍を一望でき、その先の藤原京跡や、耳成山、畝伏山、遠く二上山が一望できます。境内の伽藍は安倍倉梯麻呂、安倍晴明、開運弁財天を祀る金閣浮御堂霊宝館と本堂、礼堂、清明堂、稲荷社、白山堂、不動堂が主な伽藍です。拝観料は、金閣浮御堂前の発券所で浮御堂と本堂の共通拝観券1200円を買い求め、最初に本堂から参拝するルール。本堂の祈祷所で記念品として文殊菩薩像のポストカードと落雁、御守りを頂いて本堂拝観の流れです。この日は、幸運にも奈良四寺を巡る団体様御一行と一緒になったため、個人拝観ながら御祈祷もして頂けました。御祈祷を終えると内陣手前から本尊の文殊菩薩像を拝むことができます。ツアー客は慌ただしく拝観を終え本堂を後にしていきます、 個人拝観の自分達は静まり返った本堂でじっくり鑑賞できます。こちらが騎獅文殊菩薩像(HPから引用)。何かで見た記憶があり、実物を見るのは今回が初めて。内陣中央の獅子に乗る文殊菩薩は高さ7mの日本最大といわれます。仏師快慶が建仁3年(1203)~承久居委2年(1220)の17年をかけ作られたもので、国宝に指定されています。文殊菩薩の両脇でお供するのは、右側が優填王(左)、善財童子、左側が仏陀波利三蔵(右)、最勝老人です。群像は、文殊菩薩が乗る獅子の手綱を優填王が持ち、善財童子が先導役を務め、仏陀波利三蔵と最勝老人が左に付き添う姿で構成されています。この姿は、雲海を渡り、衆生の魔を払い、智恵を授けるための説法の旅に出かけている様子を表しています。この姿が本来の姿です。しかし2024年7月~2025年5月の期間だけ、文殊菩薩が約15年ぶりに獅子から降りている姿を拝観できます。上記期間だけ、獅子から降りた文殊菩薩が公開されています。獅子の上から降りて、訪れた者と同じ目線で進むべき方向へ導いてくれます。今回も天眼鏡を忘れたため、脇侍の表情や光背の細部まで見る事はできなかった。御真言はオン・アラハシャ・ノウ。堂内には、大化の改新で談合の地多武峰に鎮座し、廃仏毀釈で廃寺となった妙楽寺(現談山神社)の本尊釈迦三尊像(重要文化財)も安置されています。文殊池に浮かぶ金閣浮御堂。こちらの境内は四季折々の花に包まれます、この時期はピークは過ぎていましたが秋桜が境内を彩っていました。対岸にはこの時期にコスモス迷路が作られますが、大部分がピークは過ぎており、浮御堂右側の花が比較的綺麗に咲いていました。秋桜迷路が見下ろせる天体観測の地から眺める浮御堂と境内、遠く耳成山と二上山を望む。安倍文殊院は孝徳天皇の勅願によって大化改新の時、左大臣となった安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立した「安倍山崇敬寺」が始まりです。当所の安倍寺は、現在地から南西約300メートルの地にあり、法隆寺式伽藍配置の大寺院だったようです。この地へは鎌倉時代に移転し、塔頭寺院二十八坊を有する大和十五大寺の一つとして栄えました。永禄6年(1563)、松永弾正の兵火により伽藍を焼失。寛文5年(1665)、現在の入母屋造りの本堂(文殊堂)を再建し、本堂前に礼堂(能楽舞台)が建てられました。また、京都府の知恩寺の切戸の文殊、山形県の大聖寺の亀岡の文殊、そして安倍山文殊院の安倍の文殊は、日本三文殊として称されます。手前の浮御堂内陣には、安倍倉梯麻呂はじめ、阿部清明、大和七福神の一つ開運弁財天像が安置されており、なかでも秘仏十二天軸は春夏秋冬において3幅ずつ公開され、4月末の弁財天大祭では全てが公開されます。拝観は受付時に七枚のおさめ札を頂く事から始まります。ひとつ祈願をしては浮御堂を一周、おさめ札を1枚ずつ納め、全7周した後に内陣拝観する。祈願の仕方は「〇✖にならないように」と祈願するもので、「〇✖になりますように」とお願いするものではないらしい。境内の白山堂左にある東古墳。飛鳥時代に造立されたもので、「閼伽井(あかい)の窟」と呼ばれています。閼伽井とは「閼伽水の井戸」の意で、横穴式石室や横穴墓など、玄室と外部を結ぶ通路の中程に、古来より枯れることのない泉があったことに由来しています。この他に浮御堂前の境内に西古墳があります。飛鳥時代に造立されたもので。国の指定史跡の中で特に重要でとされる「特別史跡」に指定されています。古墳の特別史跡指定は明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳と共に、当山の境内の二か所が指定を受けています。内部は、大化元年(645)当時のまま保存されており、巨大な花崗岩を加工し、左右対称に石組みがされています。また玄室の天井岩は一枚の石で、大きさは15㎡あり、中央部分がアーチ状に削られ、築造技術の美しさは日本一の定評があります。内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」がお祀りされていますが、本来は大化元年に初の左大臣となり当山を創建した安倍倉梯麻呂の墓と伝えられています。まだまだ見所の多い文殊院ですが、御祈祷や七参りやらで、間もなく正午になろうとしていました。文殊院は改めて別の機会に纏めることにして、磐余の道から山の辺の道に向かいます。安倍山文殊院山号 / 安倍山院号 / 文殊院宗派 / 華厳宗開基 / 安倍倉梯麻呂本尊 / 大化元年(645)境内社 / 稲荷社、白山大権現、清明堂所在地 / 奈良県桜井市阿部645近鉄桜井駅から文殊院 / 南に1.4km、約20分強文殊院を後にして東に向かい、艸墓(くさはか)古墳を横目に寺川方向の等彌(とみ)神社を目指します。写真はそちらに向かう途中の桜井市河西で見かけた村社 天満神社。寺川左岸の住宅が立ち並ぶ中、古墳のように小高い山があり、参道はその頂に続いていました。かみさんには少し待ってもらい、社殿を写真に収めてきました、由緒はなく今のところ詳細は分かりません。天満神社所在地 / 奈良県桜井市河西373目的地の等彌神社は寺川を越えた県道37号線沿いになります。文殊院から1.5km、約25分程で旧縣社 等彌神社社頭に到着。こちらの参拝を済ませ食事の計画ですが、こちらの神社は三輪山の南にある鳥見山の西麗に鎮座し、往古は鳥見山山中に鎮座していたようです。延喜式神名帳に大和国城上郡等彌神社に比定される神社で、広大な境内には下津尾社・上津尾社など鎮座しており、そこまでは参拝しましたが、山頂にある庭殿や霊畤まではとてもじゃないが廻れなかった。等彌神社下津尾社社殿の提灯には昼でも灯りが入れられていました。ここはモミジの色付きを期待して経由地にしましたが、残念ながらモミジは青々としていました。等彌神社創建 / 不明上津尾社祭神 / 天照大神下津尾社右殿祭神 / 神武天皇、応神天皇、右殿祭神 / 高皇産霊尊、天児屋命境内社 / 黒龍社、弓張社、鳥見山稲荷社、愛宕社、金毘羅社、恵比須社、護国神社、桃神社所在地 / 奈良県桜井市桜井1176さて、随分遅れてしまいましたが昼食に向かいます。一語一笑。等彌神社から約10分程県道37号線を北進した薬師町交差点の角にある活魚・ちゃんこのお店。当初はラーメンを予定していましたが、歩いて火照った体はラーメンの気分でもなくこちらに立ち寄りました。ランチの時間はとうに過ぎていましたが、店内は結構賑わっていました。お昼の献立。ラーメン一杯1000円越えが当然の様になり、観光地にあって比較的良心的な価格か。二人が選んだのは六角弁当1500円なりと瓶ビール。六角形の重に二段で6品が盛られ、これにそぼろ御飯に吸い物が付いてきました。昼にしてはボリューム満点、味付けもしっかりしており、煮物と刺身が美味しかったです。11月ながら上着なしでも暑いほどの陽気、冷たいビールがうれしく感じます。今回の社寺巡りはこれにて終了、あとは三輪神社方向に向かい、目当ての酒を買い求め、かみさんリクエストの団子屋を目指します。一語一笑奈良県桜井市桜井565-1次の目的地今西酒造本店まで、Gマップでは戻れのルートしか作れませんが、一語一笑の前の国道157号線を越えて細い路地を2km程北に進みます。今西酒造本店。酒造り発祥の地、酒の神が鎮まる三輪で、万治3年(1660)に創業を始めた三諸杉で知られる蔵元。我家との相性がいいのか、何を飲んでも美味しいお酒を造っています。この時期になると、ほぼ毎年訪れ買うお酒があります、昨年は既に売り切れで飲めなかったけれど、今年はどうかな。このために奈良を訪れたようなもので、期待に胸を膨らませ店内へ。11月中旬、手に入れたかった「三輪のどぶろく」を手に入れることができました。良し、これで来た甲斐があった。今西酒造本店所在地 / 奈良県桜井市三輪510番地後は近鉄大和八木駅付近の団子屋をクリアすれば今回の奈良行も目的達成だ。酒蔵から最寄り駅JR三輪駅まで徒歩5分程と一歩きだ。JR三輪駅。ローカル感に溢れた駅舎ですが、山の辺の路を散策するハイカーや大神神社の最寄り駅として乗降客は多く、一本の巨木が駅のシンボルだろう。ここから大和八木に向かいますが、電車は一時間に1本と少なく、直前に過ぎ去った後だった。次の電車まで1時間、歩くか、待つかどうしたもんだか。ダイヤを確認し振り返ると駅の向かいに見慣れた暖簾が目に入る。今西酒造 駅前店 Cafe 三輪座。こんな店があったとは知らなかった、考えて見れば電車で三輪を訪れたのが初めてなので知るはずもない。店舗前にテーブルと椅子もあり、これは一時間楽しめる、ここで次の電車を待つことに。ラインナップにはどぶろくもあるではないか。しかし、どぶろくは家での楽しみとして、他のお酒にしておこう。写真は純米吟醸ハーフ(左)とかみさんが選んだ鬼ごのみ無濾過生酒ハーフ。純米吟醸は米の旨味を感じるすっきりとした飲み心地で自分には合っていた。鬼ごのみ無濾過生酒は金色に色付き、まろやかな雑味のあるまったりとしたお酒。胡瓜の奈良漬けを肴にちびちび時間調整。二杯目も同じ大吟醸、一合にサイズアップ。店内につまみもありますが、駅前の精肉店が出すアツアツのコロッケは美味しかったな。味のある駅を眺めながら、屋外で美味しい酒が飲めるとは、何と羨ましい環境だろう。次から電車で来よう。少し早めにホームに入り、大和八木行の電車に乗り込みました。目的の団子屋は大和八木駅から徒歩5分程南のだんご庄 八木店。こちらの、きな粉団子が最終目的でしたが、当日火曜日が定休日のようでシャッターが下りていました。事前に調べなかったことが悔やまれますが、またのお楽しみです。参考までに。だんご庄 八木店所在地は奈良県橿原市内膳町1-3-8それにしても、この時期に遠出すると、すぐに陽が落ちて動ける時間が少ないのが困りもの。名古屋に戻ると、とっぷりと日も暮れてしまい、気分まで一日終わりモードに入るのが嫌だね。これから寒さが増すと歩きはつらくなりますが、11月とは思えぬ暖かい陽気のせいか、節々の痛みを感じないのがありがたい。国宝も拝観し、充分歩き、美味しい御飯や酒も味わえ、いい一日を過ごせました。爆発もさせず、無事自宅に戻り、二年振りの再会。以前とラベルが変わった気もするなぁ。上が今年手にしたどぶろくのラベル。下が2021年のもの、こじゃれたデザインに変わったようですね。保管している間にも発酵が進むので、開栓時は要注意。900ml瓶に750mlしか入れていないところなど見るからに恐ろしい。しばし冷蔵庫で寝かしてから飲む事にします。訪問日2024/11/12過去記事・ほんとに注意「三緒杉 濁酒」
2024.11.21
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胸形神社から平戸橋西交差点を北進、県道11号線を200㍍ほど進んだ先で右折、枝下用水沿いに続く細い道で豊田市民芸館方向の前田公園内に鎮座する勘八稲荷大明神に向かいます。所在地は豊田市平戸橋町波岩86。昭和8年、地元実業家前田氏により整備された前田公園に勘八稲荷大明神が鎮座します。公園内は越戸発電所取水口から取水された灌漑用の枝下用水が流れており、社殿は用水右岸の丘陵地に鎮座します。周辺は矢作川右岸にありながら、高い台地の上に平野が広がるため、矢作川の恵みを直接得られず旱魃に見舞われていた。枝下用水は明治9年(1876)西澤眞蔵を始め、民間主導で着手された灌漑用水で、それまでは溜池に頼っていたものが、矢作川の恵みを授かれるようになった。現在は近隣の越戸発電所より取水していますが、当初は上流の枝下の取水口から引かれていました。写真は洞ヶ峯前田公園の入口。用水に架かる橋の先から長い石段が森の中へ続いています。入口付近の公園マップ。園内は石仏など安置され散策ルートがあるようです。勘八稲荷神社はマップの赤丸の位置に稲荷大明神として表記され、石段手前の左に常夜灯が連なる参道先に鎮座します。石段前の全景。訪れた時は森は色付いていませんが、石段脇にはモミジが多くみられるので、ハイシーズンには綺麗な紅葉が見られるでしょう。石段脇にある前田栄次郎翁(1874-1961)の胸像。当地出身の前田栄次郎は、前田組として土木・建築事業で成功した実業家であり、私財を投じて当公園や神社等の復興に尽力しました。越戸天満宮(越戸町松葉)、灰宝神社(越戸町松葉)、前回掲載した胸形神社など、多くの神社の復興や各地への寄進を行った人物です。「我が富は我が富にあらず、社会より預かりし富なり。これを効ある社会に還元することは、現時の我が使命なり」として、故郷に報うために尽力しました。胸形神社の鳥居や社標などにも、彼の名が刻まれています。この公園内の聖観世音菩薩像や三十三観音石像、銅像などの寄進物はすべて彼の寄進によるもので、銅像などは戦時中に供出させられ、台座だけが残されています。胸像の左側には石灯籠が連なる参道があり、その参道は杜の中へと続いています。石灯籠が連なる参道の先には石段があり、その先は大きく開けているようです。左に石塔と朱色の建物が見えてきます。石段を登り切ると、再び石灯籠が続きます。正面には銅像があり、右手に朱色の勘八稲荷大明神の社殿が現れます。境内の左側にも燈籠が続いており、その先の六角堂は前田家記念堂(昭和8年建立)と呼ばれ、法隆寺夢殿をモデルに造られたものといいます。左の塔は祖先感謝の碑です。六角堂前の狛犬の外見は犬そのもの、前田家の愛犬トンがモデルになっているという。境内正面には、聖徳太子の銅像が建っています。当初は大山巌像、東郷平八郎像、伊藤博文像などの銅像がありましたが、これらは戦時中に供出され、現在は台座だけが残され、当時の面影を忍ばせます。勘八稲荷大明神全景。縦長の鳥居と茶色の狛狐が印象的です。社殿は切妻妻入りの拝殿と平入の覆屋が連なったものです。ピンと立った大きな耳が特徴の茶色に塗られた狛狐が社殿を守護しています。拝殿の蟇股は白狐が描かれています。拝殿から本殿の眺め。愛知県神社庁には登録はないようで、勘八稲荷大明神の祭神、創建時期については不明。過去の地図から、昭和8年に前田氏が前田公園として開園する以前には、鳥居の姿もないこと、寄進物の多くが昭和のものであることから、公園化に伴い創建されたものと思えます。あの石段から境内に繋がっていたようで、写真の鳥居が立っていました。石段付近の民主記念碑の台座。ここには伊藤博文の胸像があったそうですが、戦時中に銅像を始めとして台座の銅板すら剥ぎ取られ、銅像は武器に形を変えていった。石段から勘八稲荷大明神の明神鳥居の眺め。鳥居の正面が前田家記念堂、左手に社殿が鎮座します。鳥居前から石段の上を眺める、この石段脇や上には見所もあり、一通り見ていくと結構時間がかかりそう、今回はこれ以上登らなかった。この山全体が祈りの山として整備されているように見られますが、一種独特な宗教感が漂う某所とは違って、散策道も程よく整備されており抵抗感はない。10月も下旬ながら、陽を浴びた樹々の緑が鮮やかでした。ここが赤く染まるのはいつ頃だろうか。次の神社は石段を下り、歩いて越戸発電所がある左に向かいます。勘八稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・祭日 / 不明所在地 / 豊田市平戸橋町波岩86-100参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 胸形神社から平戸橋西交差点北進、県道11号線を200㍍ほど先で右折、移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社
2024.11.18
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四郷八柱神社から平戸橋に向かい、橋の手前の平戸橋西交差点を右折した左側に鎮座する胸形神社。今回はこちらを掲載します。因みに多少場所は離れますが、矢草ICから東方向の猿投山西山麗にも同名の胸形神社が存在します。県道58号線沿いの歩道から見る社地。南北に長い社地を持ち、県道沿いに社標を構えていますが、ここから境内に降りることはできません。少し南側の住宅地の裏側に矢作川の堤沿いに道があるため、そちらを進むと境内に繋がっています。鎮座地は矢作川に架かる平戸橋右岸下流100㍍程の平戸橋町波岩の川沿いに鎮座します。矢作川沿いのこの辺り、かつて下流の越戸町にかけて、港を中心に水運の要衝として賑わったようで、現在の川沿いは公園として整備され、川を身近に感じられる憩いの場になっています。明治当時は丘陵地が広がっていたこの辺りも、山は造成され住宅地となっています。一説には延喜式内社に格付けされるともいう、胸形神社の社標。社頭から石の明神鳥居の眺め。鳥居から境内の眺め。社地左は県道58号線が南北に伸びており、社地は県道沿いにあります。結構頻繁に車の往来があります。鳥居の扁額は胸形神社。参道右の神橋。モミジが色付くには少し早かった。鳥居から先の境内。幹線道側に手水鉢、その先に砲弾で囲われた一画がある。拝殿は四方吹き抜けで入母屋瓦葺の拝殿と神楽殿が一つになったもので鬼には二つ巴の紋が入っています。拝殿から本殿域の眺め。拝殿から弁天池に架かる神橋の眺め。モミジが色付くと艶やかな趣に変わるのだろう。境内東側の石碑。本殿域全景。綺麗に積まれた石垣の上に本殿と左右に境内社祀られ、それぞれに石段が設けられています。本殿域正面全景。石段左に解説がありますが脱色して読みにくく、祭神の解説は記されていましたが、創建時期や境内社についての記述はありませんでした。内容は以下。「平戸橋胸形神社の祭神 市杵島姫命は漁業、開運の神様で宗像三神の美人トリオの中でも抜きんでていたため弁天様に見立てられたという事です。これらのことから往古に栄えた越戸港がしのばれます。」祭神の市杵島姫神とは、須佐之男命と天照大御神の誓約により生まれた五男三女神で、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の三姉妹を宗像三女神として呼ばれ、市杵島姫命は三女にあたります。寛文年間に編纂された【三河志】に目を通すと、胸形神社と思われる興味深い記述を見つけました、現在の言葉使いに置き換えた内容は以下。「越戸村の東の川端に波岩(ハイワ)社という小さな南向きの社があります。この社は昔、川の中の中州にあったが、後に西岸に移されました。これを灰宝の社と村人はいい、現在は弁天を祀っており、波岩の弁天と称します。」とありました。平戸橋の下流に非常に大きな一枚岩が露出していますが、現在でも「波岩」と呼ばれています。明治の地図には中洲があり、その昔はここに祀られていたのでしょう。中洲は徐々に縮小し、昭和43年の地図からは姿を消しています。具体的に、いつ頃現在地に遷されたのか分からなかったが、遷座は明治以降なのかもしれません。大正5年に出版された【西加茂郡誌】の灰寶神社として三河志同様の記述が見られました。面白いことに平戸橋南傍らの波岩辨天(当社)は、明治元年挙母藩が式内社と定め、社号を灰寶神社と復したとあり、式内社灰寶神社とする説があるようです。式内社灰寶神社は、豊田市越戸町松葉に現存しており、真意は良く分からない。【愛知県神社庁】の胸形社記載内容はつれないものでした。祭神 市杵島比咩命祭日 7月第2日曜日本殿域の前を守護する狛犬は昭和8年寄進のもの。因みに拝殿前の常夜灯、社頭の明神鳥居の寄進年も昭和8年で、社標は昭和9年に寄進されたものでした。本殿右の神明造の境内社。ここは銀杏の宝庫だね、酒のつまみに最高だが、食べられるようにするのに手間がかかる。踏まないように注意しないと・・・本殿左の境内社、一間社流造で軒唐破風が付くもの。けっして大きな社ではないですが、各所の彫飾りはしっかり彫られたものです。一間社流造の胸形神社本殿。この社殿は細分まで手が掛けられた彫が見事。向拝中備えの宝珠を握りしめる龍の彫刻。向拝柱の木鼻は獅子と獏(象かも)。綺麗な曲線の海老虹梁と波が描かれた手挟、妻壁の青海波や波間を駆け抜ける兎など手の込んだ彫は見事です。脇障子は牡丹と獅子が施されています。パッと目には目立たないが、よく見ると作り手の拘りが感じられます。境内から見る平戸橋と波岩。小さな神池に架かる神橋、渡って渡れない事もないが、眺める橋と捉えた方がいい。市杵島姫命を祀る波岩の弁天とも呼ばれた胸形神社らしい光景です。矢作川堤から見る胸形神社社地全景。赤い神橋は県道からでも目立つ存在ですが、杜のイチョウも色付き、間もなくモミジが赤く色付くと主役の座も譲る事になる。胸形神社の参拝者駐車場は矢作川堤のこの辺りに止めることができました。堤を下りれば境内から見えていた波岩まで行く事も出来ます。胸形神社創建 / 不明祭神 / 市杵島姫命境内社 / 本殿域に不明社2社祭日 / 7月第2日曜日所在地 / 豊田市平戸橋町波岩1参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 四郷八柱神社から東へ平戸橋西交差点右折、移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社過去記事・胸形神社・椀貸し池・白龍王大明神
2024.11.17
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これまで猿投山周辺の神社を巡って来ましたが、今回から籠川以東の矢作川方面の神社を巡ります。訪れたのは10月22日、少しは紅葉が始まっているものと期待したものの、まだ山々は青々としていました。四郷八柱神社の鎮座地はマーカーの位置になります。四郷は江戸時代、名古屋と飯田方面を結ぶ飯田街道(中馬街道)や矢作川の水運など物流の要衝で、古くから城も築かれた地域。神社は四郷町東畑地区の県道58号線南側に鎮座します。西参道全景。境内へ続く参道は県道沿い、社地西側、同南側の三か所あります。ナビが西参道へ誘導したため、車は参道脇に駐車させて頂きました。西参道は石の明神鳥居があり、境内手水舎脇に繋がっています。社地南側に正参道がありますが、境内へは石段を登る必要があるので、石段を避けたい向きにはこちらか、県道沿いから訪れるといいかもしれません。西参道鳥居扁額は「八柱神社」西参道の「四郷八柱神社と棒の手」「以前は八王子神社と称して、籠川左岸の宮下河原にあった。 その辺りの籠川はたびたび氾濫をおこしていたため、明暦5年(1656)に神社は一旦四郷村予茂田の八幡神社に仮に移されていたが、天保4年(1833)になって現在地に移った。御神体が天忍穂耳命を始め、八柱であることから、明治7年に名称が八柱神社となった。 慶長5年(1600)に、尾張岩崎村の城主が伊保村の城主に移った際、岩崎村を発祥地とする棒の手が、伊保村に伝わり四郷村へと伝わった。毎年八柱神社の祭礼には、盛大に奉納されている。」自分はここから社地沿いに正参道へ向かいました。後から紹介しますが、県道58号線の四郷町東畑交差点を平戸橋方向に進むと右側に北参道があり、車で境内に入れるようです。社地南側の正参道全景、こんもりとした杜の入口に明神鳥居を構え、石段が境内に続きます。鳥居から石段の眺め。鳥居右に八柱神社の社標がある。石段を上りあがると広い境内が広がります。当日は祭礼を控えていたのか、正面に資材が置かれていました。境内左の手水舎と社殿全景。手水鉢。写真から昭和の元号は読めますが年度が飛んでしまい分からなかった。手水舎脇の四郷「棒の手之碑」と社務所。豊田市内では猿投地区や足助地区、藤岡地区にも伝わり、県の無形民俗文化財に登録されている地区もあります。棒の手は、戦国時代に農民が自衛のために身に付けた武術が起源とされ迫力ある演武が特徴。四郷地区では5自治区に3流派が伝わっており、保存会員により毎年10月に神社に奉納されます。社務所から東方向の境内の眺め。社地周囲は鬱蒼とした杜に包まれていますが、社殿に対しとても広い境内を持っており、ここで棒の手警固祭りが奉納されるのだろう。社殿は南西を向いて建てられており、一段上がって拝殿、更に一段上がって本殿域があります。入母屋瓦葺で近年補修されているのか比較的綺麗な拝殿です。拝殿は入母屋瓦葺で、平成に入り建立されたことから全体に綺麗な印象を受けます。鬼板には八柱の文字が入り、蟇股には波と左巴紋が彫られています。拝殿内から中門方向の眺め。【愛知県神社】庁の八柱神社解説は以下。「氏子地域 豊田市四郷町 例祭日 10月第2日曜日祭神 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、滝津姫命、田心姫命、市杵島姫命」とつれない回答でした。【西加茂郡誌(1926)】の四郷八柱神社記載内容は、祭神 八王子、創建 不詳としか記載がなかった。西参道の解説にある当初の鎮座地の「宮下河原」、現地は確かに籠川が氾濫をおこせばすぐに影響を受ける立地でした。「明暦5年(1656)に四郷村予茂田の八幡神社に移された」とありましたが、この八幡神社の所在が掴めませんでした。付近の八幡神社としては、伊保町宮本に八幡神社があり、創建も応安2年(1369)となっていたので、年代的にはおかしくはないが少し西に離れており、四郷八柱神社は創建どころか、予茂田の八幡神社も分からなかった。機会をみて、四郷町予茂田交差点付近を探して見るかな。因みに御神徳は五穀豊穣、無病息災、家内安全、商売繁盛、縁結び、厄除け。中門前を守護する狛犬は昭和11年(1936)に寄進されたもの。本殿域左側の眺め。本殿は三つの大きな扉が付く神明造で、5本の鰹木と内削ぎの千木が付くものです。左側に5社祀られていますが社名は不明です。本殿域右側の眺め。こちらには4社祀られていますが社名は不明です。拝殿左から回り込んで本殿域の眺め。拝殿から正参道方向の眺め。毎年10月に棒の手が奉納されるとあるので、祭礼用の資材が置かれていました。境内右の忠魂碑。左の碑文は以下。「昭和6年(1931)9月。満州国奉天市(現中国瀋陽市)郊外柳条湖の南満州鉄道爆破事件から満州事変が勃発、その後、日中戦争、太平洋戦争へと戦火は拡大していった。 この戦争に、当時の猿投村より、859名の方が召集されされ極寒の満蒙、広漠果てしない中国大陸をはじめ北太平洋、東南アジア、インド洋を転戦され、ひたすら祖国の興隆と同朋の安泰を念じながら奮戦されたが、悲しいかな234柱の方が武運つたなく散華された。惜しみても余りある痛恨の極みである。 この碑はこれらの霊に対し衷心より感謝の誠を捧げ、永遠に鎮まり賜えと祈念するために建立されたものである。現在平和にして幸せな社会はこうした尊い犠牲によってもたららされたことを深く認識し、ここに子々孫々に至るまで、手を携えて平和への努力を続けることを誓うものである。 この碑は昭和13年、前田栄次郎氏を以って旧猿投村役場地内に建立され、この度の豊田市猿投コミュニティセンター増築に伴い遺族会と協議し四郷区出身戦没者の英名を録し、この地に移築した。」忠魂碑から広々とした境内・社殿の眺め。稲刈りも終え、空はすっかり秋の様相です。右手に写り込んでいる鳥居が県道から直接出入りできる北参道です。境内から北参道の眺め。鳥居は平成5年に寄進された白い鳥居、舗装も新しく新たに造られた参道なんだろうか。個人的な印象ですが、猿投山周辺には八柱神社が多く見られます。この神社の歴史は良く分かりませんが、こうした八柱神社の多くは、神仏分離・廃仏毀釈以前は八王子と呼ばれ、社地には古い社標も残されている場合があります。自分で見た限り、当社でそうしたものは見かけなかった。今年は猿投山一帯の八柱神社を巡っていますが、まだまだありそうです。八柱神社創建 / 不明祭神 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、滝津姫命、田心姫命、市杵島姫命境内社 / 本殿域に不明社9社所在地 / 豊田市四郷町東畑192参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 猿投グリーロード八草から一般道で保見方向へ約25分。過去記事・八幡神社(伊保町)
2024.11.16
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豊川城山稲荷。高山城は、高山市街の東部丘陵地の城山(臥牛山)に、金森長近により天正16年(1588)から築城された城で、北に平湯街道、西に白川街道や益田街道を見下ろせ、戦略的にも絶好のロケーションにあります。現在は城山公園として遊歩道など整備されており、市街の混雑から逃れ、しっとりとした雰囲気を味わうには良い場所で、これからの時期は紅葉も綺麗に見られるはずです。今回の豊川城山稲荷は案内図の赤丸部分になり、二の丸の金森長近像から徒歩2・3分程の照蓮寺東隣に鎮座しています。青紅葉の先に石の明神鳥居と朱の奉納鳥居が連なる豊川城山稲荷。今頃は紅葉に染まって趣のある姿を見せてくれているでしょう。豊川城山稲荷由緒がありましたが脱色と汚損の為内容が読み取れません。一部の記述から分かったのは、「本尊 豊川叱枳尼真天」〇✖稲荷神社と呼ばれ、奉納鳥居の連なる伏見系の神社を思い浮かべますが、こちらは多くの奉納幟と狐が見られる豊川稲荷(妙厳寺)と同じ寺となるので神社は付きません。とはいえ、こうして朱の奉納鳥居が連なることから、外観は稲荷神社の趣が漂います。右側の建物は真宗寺院中野照蓮寺。高山市街には高山別院照蓮寺とここ中野照蓮寺の二つの照蓮寺がありますが辿っていくと元は同じ寺です。建長5年(1253)白川郷で照蓮寺として創建された寺院で戦禍で焼失し、後に白川郷中野に光曜山照蓮寺として復興され、天正16年(1588)金森長近により、伽藍の多くは現在の高山市鉄砲町に移設されたのが高山別院照蓮寺です。本堂などの一部は白川郷中野に照蓮寺掛所心行坊として残されていましたが、それも御母衣ダム建設に伴い、昭和36年(1961)に高山城二の丸跡に移設されたのが中野照蓮寺です。境内には浄土真宗寺院としては日本最古(1588)で国指定重要文化財の本堂があります。豊川城山稲荷について当所隣接する中野照蓮寺の鎮守?のように見え、高山市史から照蓮寺を調べて見ましたが記載は見られなかったが、当地の五穀豊穣・招福・商売繁盛を祈願し創建されたものと思われます。上が由緒なんですがほぼ読み取れません、その中で豊川城山稲荷の創建は明治11年(1878)、現在の主管は雲龍寺のようです。創建時期と本尊が分かっただけでも良しとしますか。本堂全景。大棟には豊川稲荷の稲荷紋が入れられています。花頭窓のあたりに照蓮寺の外壁が来ており、照蓮寺とひとつながりになっているのだろうか。本堂正面全景。向拝柱の木鼻や梁の白狐など彩色された彫飾りが施されています。向拝の額は注連縄で隠れてしまいましたが、豊川城山稲荷ではなく本尊の銘が入っていました。稲穂を担いだ豐川吒枳尼眞天は、白い狐に跨って現れたと云われるだけに、豊川稲荷では狐の姿を見かけますが、豊川城山稲荷で見かけた白狐はこれだけでした。木鼻の獅子。鳥居や注連縄、なんとなくお寺ぽくない豊川城山稲荷です。豊川城山稲荷創建 / 明治11年(1878)本尊 / 豊川叱枳尼真天所在地 / 岐阜県高山市堀端町8大雄寺から飛騨豊川城山稲荷 / 南の城山公園二の丸まで徒歩15分程関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)・秋葉神社(吹屋町)・海蔵山 雲龍寺 (若達町)・大雄寺(愛宕町)
2024.11.15
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前回掲載した海蔵山雲龍寺の南隣の愛宕町67に鎮座する大雄寺、今回はこちらを掲載します。写真は平湯街道(国道158号線)に架かる歩道橋から見た大雄寺(だいおうじ)の仁王門。雲龍寺の脇参道から直接大雄寺本堂横の境内に繋がっており、今回は立ち去る時に門前を撮影しています。門前左には愛宕町の秋葉神社、その上には六角形の屋根を持つ観音堂、石段正面が大雄寺仁王門になります。こちらの仁王門も重要文化財に指定されているものです。今回はコースと外れていたため、門や仁王像を間近に見る余裕はなく外観のみですが、別の機会に再訪したい寺です。歩道橋から見た大雄寺仁王門と本堂方向の眺め。二層の入母屋銅板葺の門で重厚感が漂う外観です。境内から見る仁王門。高山市街東方の東山地区と呼ばれる丘陵地の裾に鎮座しており、東山寺院群の一角をなす寺院です。門からは城下町を一望できます。大雄寺山門解説。「大雄寺山門(県指定重要文化財) 所在地 高山市愛宕町67番所有者 大雄寺 指定年月日 昭和47年9月18日構造形式 重層入母屋造銅板葺 大雄寺は、もと吉城郡上広瀬村(国府町)にあったが、金森氏入国後 現在地に移され、浄土宗の道場となった。上広瀬には「大雄寺屋敷」 という地名が残っている。 市内唯一の楼門造で、法華寺、宗猷寺の本堂と共に東山寺院群伽藍の代表的な建物である。十二本の丸柱は太く、カツラ材である。通常のヒノキやスギではなく、カッラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも、木材を知り尽くした飛騨匠の技の大きな特徴である。 落し込み板で囲まれた仁王座前の南北が、透し菱形欄間になっている。透しを通して東山景観を見せようとの配慮からである。 両脇に仁王像を安置している。二層柱間は下層より狭く、柱頭の二手先和様斗組が深い飛檐軒を支える。 下層屋根上に三斗組腰組で縁を張り出し、高欄で四面を囲む。ここからの市内の眺めはすばらしい。 寛政3年(1791)の大風で倒壊したが、17年後の文化4年 (1807)、飛騨権守宗安の流れをくむ近世の名工水間相模の手で再建された。」仁王像や細かな細工は間近から見ていないので語れませんが、解説のようにこうした規模の仁王門は見た記憶がなく、雲龍寺の特徴のある山門とこちらの仁王門は高山にあって象徴的な建物と言えます。また境内には元禄2年(1689)に建てられた飛騨地方最古の鐘堂もあります。大雄寺は、元々国府町上広瀬にあったものを天正14年に金森長近公により移された浄土宗の寺院です。飛州志(明治42)によれば、大雄寺の開創・開基時期は未詳。中興は源誉受徳上人で浄土宗に改宗、浄土宗京都知恩院末寺、天正14年上広瀬村から移し東林山と改める。本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師、勢至菩薩像は聖徳太子の作、鎮守愛宕権現と記されていました。写真の本堂は宝暦12年(1762)の建立でしたが、昭和44年(1969)に焼失し、現在の本堂は昭和46年(1971)に再建された新しいもので、本尊は阿弥陀如来。本堂左に十王堂があり、更に奥に進むと雲龍寺に繋がっています。方丈前の薬師如来石仏(イボの仏様)の眺め。年季の入った石仏で、薬師如来と云われるまで分からなかった。石仏の前には岩を削った器が置かれています、この器の用途は解説を読むと分かってきます。「石仏「薬師如来」(通称イボの仏様) 元禄13年(1700)造立。昔、疫病が流行った頃、地元の庶民は薬を手に入れることが出来ず、代わりにこの仏様が手に持つ薬壺(やっこ)を少しずつ削って飲むことで病を免れたと伝えられています。(そのため前腕部が無くなっています) 仏前の石台のくぼみ「菩薩の足跡」に溜まる水をイボにつけてお参りするとよく治ることから「イボの仏様」として地域の人達に厚く信仰されています。《お参りの仕方》イボには水をつけた後、境内にある蜘蛛の糸を巻く。目もらいには水に浸した小豆をよく拭いて、上まぶたは患部に挟んで下へ、下まぶたは挟んで上向きに落とす。」 医療技術の発達した現在ではありえない療法ですが、昔はこうした御呪い療法が当たり前のように信じられていたのでしょう。しかし像の変貌ぶりは御呪いの域を越えたものです。方丈全景。境内右にあり、むくり屋根の向拝が付くもの。上は高山城二の丸に建てられた長近像。金森長近(1524-1608)、別名 五郎八。美濃国土岐氏の一族で信長、秀吉に仕え、越前大野城に居住、天正年中には高山一円を治めた初代高山藩主、天正16年(1588)、飛騨国高山に高山城を築城・居住、城下町高山の基盤はじめ寺社を整備した。慶長13年8月12日、京都に於て85歳で没し、墓所は京都の大徳寺塔頭龍源院で、法名は金竜院殿要仲素元。今回はイベントに参加しながらで、時間に追われていましたが、ゆっくりと見て回りたいところです。大雄寺宗派 / 浄土宗山号 / 東林山院号 / 香荘厳院創建 / 不詳中興 / 天正14年(1586) 源誉受徳本尊 / 阿弥陀如来札所 / ・・・所在地 / 岐阜県高山市愛宕町67雲龍寺から大雄寺 / 徒歩10分程参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)・秋葉神社(吹屋町)・海蔵山 雲龍寺 (若達町)
2024.11.12
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インバウンド客で賑わう市街から、東方向の東山地区と呼ばれる一帯には桜山八幡宮や多くの社寺が鎮座しています。今回は先に掲載した桜山八幡宮から徒歩10分程の若達町1に鎮座する雲龍寺を掲載します。桜山八幡宮から江名子川沿いを若達町方向に進みます。左側に石標の立つ細い参道があり、そこを進むと前方に雲龍寺の特徴のある鐘楼門が現れます。上は江戸時代末期に描かれた高山町絵図で、東山地区の桜山八幡宮(左)から江名子川沿いの若達町方面を切り取ったもので、多くの寺社が鎮座するのがわかります。この絵図が描かれた当時は右手の高山城も取りこわされ、二之丸や空町にあった武家屋敷は既に畑になっており、宮川に架かる筏橋の先にあった海老坂も真っすぐな通りになっています。雲龍寺は丸の部分になります。雲龍寺鐘楼門全景と参道左の東山遊歩道久昌寺石標。……雲龍寺ではないのかい?右手の解説板は雲龍寺の由緒ではなく雲龍寺鐘楼門の解説でした。「雲龍寺鐘楼門(市指定文化財) 所在地 高山市若達町1丁目86番地所有者 雲龍寺 指定年月日 昭和44年2月19日 構造形式 重層四注造鋼平板葺 高山城破却の際、城内の「黄雲閣」という建物を当寺へ下げ渡されたと伝えられる雲龍寺鐘楼門は、天正10年(1582)本能寺の変に際し二条城において19歳で戦死した金森長近の長子忠郎長則の菩提寺として長近が修営した。屋根はゆるやかな曲線をもち、頂部に露盤と宝珠をのせる。 初層中央通路の両側にふところを設け、南東側に階段がある。上層外廻りに戸溝があり、中央通路の両側が入り込みとなっていることなどから、元は寺院の鐘楼門ではなかったことが分かる。 慶長6年(1601)、金森長近より「黃雲閣」という建物を賜り、のち鐘楼門となったと『高山市寺院由緒記』には記される。享保14年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕をとどめただけで焼け残った。 東山白山神社は、雲龍寺の鎮守として祀られてきた。塔頭(境内にある小寺)に栄鏡院、久昌寺がある。」海蔵山雲龍寺は高山市街東部の東山地区に鎮座する曹洞宗の寺院で、創建は養老4年(720)とされます。奈良時代に白山を開山した泰澄大師が当地に東山白山社を勧請した際、別当として開かれたのがはじまりと伝わります。当初は妙観寺と称す天台宗の寺院でしたが、応永2年(1395)、総持(現総持寺祖院:石川県輪島市)4世竹窓智厳和尚により再興され曹洞宗に改宗、雲龍寺に改めています。境内には応永6年(1399)に天神堂、稲荷社、同10年塔頭の久昌寺、宝徳2年に栄鏡院が建てられた。方形屋根が特徴の雲龍寺鐘楼門。銅平板葺の重層四注造で、桁行4.15m、梁間3.7mとされ、梵鐘を吊る二層部には高欄が付いています。今はない高山城、数少ない遺構の一つです。門前から境内の眺め。楼門に架けられた山号額は「海蔵山」境内から伽藍の眺め。飛騨三十三観音霊場第三番札所(十一面観世音菩薩)で御詠歌は「父母の 恵みも深き 雲龍寺 仏の誓い 頼もしの身や」で本尊は十一面観世音菩薩。寺宝には、円空が彫刻した如来像や橋本閑雪作の観世音菩薩の軸などを所蔵すると云われています。入母屋銅葺屋根の木造平屋建ての本堂は、外壁は白漆喰仕上げで妻壁側に花頭窓が施されています。境内南から鐘楼門、久昌寺方向の眺め。宝珠が載る方型の楼門は、雲龍時を象徴する建物です。天明4年の大火ではこの門の手前まで延焼していたようです。海蔵山 雲龍寺宗派 / 曹洞宗山号 / 海蔵山創建 / 養老4年(720)再興 / 応永2年(1395)本尊 / 十一面観世音菩薩札所 / 飛騨三十三観音霊場第三番札所所在地 / 岐阜県高山市若達町1-86桜山八幡宮から雲龍寺 / 徒歩10分程参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)・秋葉神社(吹屋町)
2024.11.11
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前回掲載した大門の秋葉社から、今回は大門の秋葉社から江名子川沿いを上流に徒歩3分程の吹屋町に鎮座する秋葉神社を掲載します。これは前回使用した昭和10年の江名子川沿いの周辺地図。鎮座地は現在の吹屋町、かつての空町にあたり、空町は高山城に向け続くえび坂一帯の地域で、東山と呼ばれる社寺が多く鎮座する地域を指します。因みに吹屋町の由来は安政時代、この辺りの山間部の鉱山から産出した鉱石から、銀や鉛などを吹き分ける吹屋があったことに由来しています。かつての空町一円は、現在は馬場町、吹屋町、愛宕町、天性寺町と町名がついていますが、吹屋の名は今も町名として残っています。町を歩いていると空町の名を冠する商店や駐車場の名が見られますが、現在空町は存在していません。鎮座地は江名子川左岸沿いの吹屋町東端の江名子川沿いに鎮座(矢印)しています。当時の地図には橋はありませんが、小さな人道橋の脇に秋葉神社が鎮座しています。訪れたのは10月16日、秋の高山祭も終わり、見た目は紅葉のこの字も感じられない状況でした。今こうして写真を改めてみると桜の葉などが色づいており、秋は深まっていたようです。写真は吹屋町の秋葉神社全景で右側に人道橋が架けられています。玉垣で囲われた社地に、大きな覆屋、玉垣の左に一基の常夜灯が建てられています。覆屋内の本殿。大きな自然石の上に基壇が乗せられ、その上に5本の鰹木と外削ぎの千木が飾られた神明造の三社相殿の社が祀られています。昭和28年(1953)発行の高山市史(神社)から、創建時期・祭神など調べて見ましたが、当神社に該当するものは見つからず詳細は不明です。市内の秋葉社は古いもので天文(1532 - 1555)、享保(1716 - 1736)、延享(1744 - 1748)、明和(1764 - 1772)、安永(1772 - 1781)、天明(1781 - 1789)、寛政(1789 - 1801)、文化(1804 - 1818)、文久(1861 - 1864)と様々な年代のものがあり、一般的な祭神は迦具土神、天照大御神が祀られています。三柱となると地元、名古屋の屋根神様ならともかく、高山となると見当がつきません。いずれにしても我が町から火は出したくない、そんな火伏と平安を願い祀られている。上は社地左の常夜灯、竿には文政12年(1829)己丑と彫られています。かつての空町にあって、当時の空町一円を物理的に守っていた火消し組は東組でした。現在の吹屋町の精神的な火伏の拠り所はこの秋葉神社が担っています。秋葉神社(吹屋町)創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市吹屋町180参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)
2024.11.10
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アーア、長年持ちこたえていた有線ルーターが、ここにきてご機嫌斜めの時が増えてきた。直近ではかみさんのPCの接続が日に一回程度接続が切れており、都度電源を入れ直し一時的に立ち直って来たものの、遂に自分のPCも繋がらなくなった。10年以上使ってきただけに代替を買う必要に迫られました。当時の無線ルーターは積極的に買う気はしなかったが、そろそろ無線ルーターも・・・・・ありか。とはいえ、それなりの値段もするので、少ない小遣いではとても買えず、かみさんの決済をもらわなければならない。ならばこれまで使って来た後継機とばかりに探して見たらこの機種に辿り着く。送料は付くが、この価格なら小遣いでなんとかなる価格。当面は電源を入れ直し様子を見守るとして、後継機の選定だけは確定しておこう。時代遅れ?の有線ルーター、この先どうなるか分からないけれど、今回はこれでいこう。10年は望まないまでも、5年も持てば納得できる価格だ。・・・これで今月は千べロ無理だわなぁ。BUFFALO(バッファロー) BBR-4HG(有線ブロードバンドルータ) BBR4HG [振込不可]価格:2,670円(2024/11/09 18:49時点 )感想:0件今度はキッチン水栓か・・・【11/25(月)限定!エントリー&抽選で最大100%還元のチャンス!※上限あり】SF-HM451SYXU リクシル LIXIL/INAX ハンドシャワー付シングルレバー混合水栓 エコハンドル 一般地仕様 送料無料[]価格:21,928円(2024/11/20 13:54時点 )感想:0件
2024.11.09
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高山市大門町秋葉社。前回記載した若達町1の秋葉神社から葵橋を渡った突き当りに鎮座しています。若達町1の秋葉神社から徒歩で1分程、消防団詰所の左に大門の秋葉社が祀られています。こうして消防団詰所の傍らに火伏の神、秋葉さんが祀られているのは良く見かける光景です。城下町高山は木造の長屋が連なり大きな火災を経験してきました。そうした経験から火に対する意識や火災予防・消火体制が築かれていきました。そのなかでも重要な役割を担うのが火消組になります。以下は高山市史より抜粋した火消し組の起源。「古くは天明3年(1783)、大原郡代は、大工や木挽職の152人に火消の役を勤めさせ、木製の御用印鑑を持たせた。 文化11年(1814)には夜廻りが始まり、文政13年(1830)には5つの火消組と「講」も合わせて10組となった。嘉永4年(1851)には陣屋前で火消組が駆け出しを行い、当地の出初式の始まりといわれる。」明治12年当時でも消防組として10組存在し、各組毎に固有の記が描かれた纏いを持っていました。現在、高山市内にはこうした分団が39組織されているようで、消防団詰所と火伏の神さまのツーショットが他にも見られるかもしれません。上は昭和10年当時の地図上に、これまで確認した秋葉神社を示しています。昭和13年(1938)発行の「ひだびと 第6年12号」から参照しており、記載されている町名や橋名に合わせるため当時の地図上に示しています。その後架けられた橋や道筋もあり、現在と一部異なります。秋葉神社は主に古い町並みとして賑わう一之町から三之町、宮川、江名子川沿いに多く見られます。赤の矢印が今回の大門の秋葉社になり、人で賑わう場所は避けている傾向が明らかです。市内だけでも60社近く鎮座するとされるので、これまで参拝した秋葉社を合わせても、まだまだ一口かじった程度で道のりは遠いけれど、高山を訪れる動機付けにもなり、少しずつ訪れていきたい。大門町秋葉社全景。市内の秋葉社としては広い社地が与えられ、定番の一基の常夜灯とその先に大きな覆屋が建てられています。その下には大きな岩の上に神明造の相殿が祀られています。軒下には秋葉社の額が掛けられ、奥には白馬の奉納額が見られます。神明造の社は三社相殿で、5本の鰹木と外削ぎの千木が付いています。創建時期や祭神の詳細は不明ですが、この社殿や境内は街で見かける同様の社とは異なり、今も人々の手が入って火伏の神さまとして親しまれています。秋葉神社(大門町)創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市大門町39参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)
2024.11.09
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若達町2丁目の秋葉神社の社頭から右手の東山遊歩道を直進し、国道158号線を右に曲がり宝橋方向に向かいます。ウオーキングコースは江名子川に架かる宝橋から左に向かいます。写真はその入口で見かけた白山神社御旅所。御旅所とあるため祭礼の巡行の際に神様がこちらに立ち寄る場所と思われます、解説は掲げられていません。東に東山白山神社が鎮座しており、そちらで調べてみましたが詳細は掴めず、観光協会にも伺いましたが、この立派な蔵造りの御旅所について何も分りませんでした。御旅所後方の全景。ここに若達町1丁目の秋葉神社が鎮座しています。前回使用した高山町火災図に若達町1の秋葉神社を落として見ました。明治28年の火災では、大雄寺の西から若達町1の秋葉神社鎮座地の一画が類焼していることがわかります。上は大雄寺の山門全景ですが、山門に続く石段左側、ここにも秋葉神社(愛宕町)が祀られています。若達町1の秋葉神社はそちらを向いて見据えるように祀られています。老松の脇に常夜灯と石積の基壇が作られ、三方を腰板で囲み、腰板から上はガラス張りの覆屋の中に社が祀られています。祭神は迦具土神。社の扉は、一枚のものや、二枚・三枚の相殿のものがあり、そうした相殿の多くは天照大御神が配祀される場合が多いようです。昭和13年(1938)発行の「ひだびと 第6年」に高山市街の秋葉神社25社のリストがあります。創建時期・祭神が記載されていますが、若達町の秋葉社は1社しか記載がなく、当神社ついてなのか、若達町2の秋葉社なのか定かではなく、どちらにしても、記載内容は創建不詳、祭神は軻遇槌神、天照大神までしか書かれていませんでした。神社左に石段があり、江名子川の堤に降りることができます。写真はそこから秋葉神社後方の眺めで、立派な覆屋の基礎の一部は迫り出すように作られています。後方の橋は葵橋で、橋を渡った突き当りに大門町の秋葉社が祀られています。細い流れの江名子川、汚く淀んで蓋をされた街の流れとは違い、生活の中で澄んだ流れを見るのはいいものです。昨今の尋常でない雨の降りかたは、住む側から見ればそんな気分ではないのかもしれない。秋葉神社(若達町1)創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市若達町1-31-5参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)
2024.11.06
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飛騨高山、軒を連ねた町屋や造り酒屋が点在する城下町の風情漂う三町伝統的建造物群保存地区は国内外から訪れる観光客でいつも溢れるところです。先に掲載した桜山八幡宮参道脇の秋葉社もそうした場所に鎮座していましたが、桜山八幡宮から寺院が多く鎮座する右方向の東山遊歩道方面はしっとりとした静かな高山を感じられます。桜山八幡宮の南を流れる江名子川沿いに5分ほど遡ると道路左側に若達町2の秋葉神社が祀られています。こうした町角の秋葉神社は高山市内だけでも約60社近くも祀られ、規模の大小や社の造りなど様々のものがあります。それらは親しみを込め「秋葉さま」と呼ばれ、現在も各町内の当番制で大切に守られる身近な神さまです。城下町の趣漂う高山の町角に小さな社が祀られているのには、そこに住む者しか分からない過去の戒めがあります。過去の記事から引用すると、「奈良時代には飛騨の中心として栄えていた高山ですが、現在の城下町の礎が築かれたのは、金森長近による高山城の築城より形作られたといっても過言ではないでしょう。木造家屋が軒を連ねる事から、高山の町は江戸時代からでも幾度も大火を経験しています。享保14年(1729)には975軒、天明4年(1784)には2342軒を全焼する大火を経験しており、一度火が出れば延焼を防ぐために周囲の建物を壊すことが当時の消火のセオリーだったはず、火に包まれなくとも火元近くの我家は壊されていく。城下町に住む者は運命共同体として火に対する意識は高くなって行き、意識だけで補いきれない不安は火伏の神を祀る事で心の安心を得た。高山市内には多くの秋葉さんが祀られ、それらは今も変わることなく身近な存在として大切に護られています。地元名古屋の旧城下町も同様で、火伏の神は減ったとはいえ、四間道などでは屋根神として軒下に祀られる姿が残ります。」上は大正15年に発行された高山町火災図。左は天明4年(1784)3月20日の火災範囲と、寛政8年(1796)7月6日の火災。中央が天明7年(1787)、天保3年(1832)、嘉永3年(1850)、明治、大正時代の類焼図。右が享保7年(1722)、天保元年(1830)、明治、大正時代の類焼図。類焼範囲が赤で記されており、中央の図の青丸が今回訪れた秋葉社の位置になります。こうして見ると宮川右岸の城下町はほぼほぼ大火に見舞われていることが良く分かります。時代も変わり、住宅の建築様式や消防技術は向上しても、古い町割が変わる訳ではないので、住民の防火意識や禍除けを祈願する気持ちは今も変わりません。若達町2の秋葉神社全景。社地の四方を壁で囲い、覆屋の妻壁に秋葉神社の額が掛けられています。自然石の基壇の上に神明造の社が祀られています。社地に一基の燈籠が建てるのが一般的な様で、夕方になると灯りが灯されます。こうした秋葉社の例祭日は1月、5月、9月の各17日に行われてきたそうですが、今では4月、9月の彼岸に行う組もあるようです。時折インバウンド客も通り過ぎますが、見向きもされず通り過ぎていきますが、小さな神社にも意味があり、その土地の歴史を語る存在です。秋葉神社創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市若達町2丁目参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)
2024.11.05
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高山市桜町鎮座「桜山八幡宮」宮川沿いの朝市を下流に向け歩いて行くと宮前橋に立つ大鳥居。櫻山八幡宮へ導く象徴的な存在、この大鳥居からはじまり、ニノ鳥居、三ノ鳥居の三つを構えていますが、海外の観光客にとって鳥居は絶好の記念撮影スポットなのか、どこも人で溢れています。参道中ほどの交差点の角に立つ桜山八幡宮の大きな社標。ニノ鳥居。参道脇の由緒内容は以下。「桜山八幡宮祭神 八幡大神、熱田大神、香椎大神 仁徳天皇の御代(377年頃)、両面宿儺(りょうめんすくな)誅伐征のため難波根子武振熊命が応神天皇を祀って奉告祭を斎行された斎場といわれる。清和天皇の御代、この地を八幡宮の神域と定められたと伝えられている。 大永年間、石清水八幡宮より神霊勧請し産土神として祀られた。元和9年、領主金森重頼公 社殿を造営し神領を寄進し高山府の総鎮守社とし祭事を統括、北半分の地を氏子と定められた。 天領となってから代官・郡代の崇敬厚く奉行祭が行われた。明治以降、郷社、縣社、戦後別表社に加えられ郷土の守護神、特に文化神として広く崇敬されている。試楽祭 10月7日 例大祭 例祭 10月9日、神幸祭 10月10日」岐阜県神社庁の当社解説は以下。 「創建は遠く仁徳天皇即位(377)の御代にさかのぼると伝えられる。当時飛騨山中に両面宿儺という蛮勇豪猛の凶賊がおり、天皇の命に叛き猛威を振るい人民を脅かしていた。 この両面宿儺討伐に、難波根子武振熊命が朝廷より征討将軍に任命された。武振熊命は官軍を率いて飛騨国に入り、先帝(御父君)応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝祈願せられたのが桜山の神域であったといわれている。 その後、聖武天皇の御世と清和天皇の御世に諸国に八幡宮が祀られたとき、飛騨ではこの神域を八幡宮境内と定め御社殿は整えられたといわれる。室町時代の大永年間、京都の石清水八幡宮を勧請し更に郷人の敬神思想は高められたが、その後戦乱の時代が続き一時荒廃していた。 元和9年(1623)高山の領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡宮旧跡の桜山老杉の傍らに応神天皇の御神体として奉安し社殿を再興、神領を寄進し、高山の安川以北を氏子と定め、神事を管理高山府の総鎮守府とした。飛騨が天領となってからも、地域住民をはじめ代々の郡代の篤い崇敬を集めて興隆の一途を辿った。 明治4年(1871)郷社に指定。同8年に高山の大火にあい、惜しくも秋葉社を除いてほとんど類焼した。 同33年に社殿を復興。昭和7年に県社に指定、同26年に式年大祭再興。 昭和43年屋台会館完成。同51年総檜造りの本殿並びに拝殿・神門・瑞垣の御造営し、別表神社に加列。 同55年社務所参集殿を改築。同56年5月飛騨国中300余社の神社を招請して式年大祭を再興し今日に至る。 当桜山八幡宮は、氏子崇敬者の信仰にささえられ、当神社の例祭は「秋の高山祭」として全国からの参拝者で賑う」と書かれていました。日本書紀では一つの体に二つの顔を持ち、それぞれに手足がある朝廷に背く怪物扱いの両面宿儺。しかし、この地方では両面宿儺の印象は異なります。位山に潜む鬼を退治する英雄伝説や、丹生川町には両面宿儺が開山した千光寺(高山市丹生川町下保1553)があり、そこには円空作とされる両面宿儺像が祀られるなど、豪族として讃えられている側面もあります。伝説では宿儺の生誕の地は、千光寺から更に小八賀川上流にある飛騨大鍾乳洞の手前の両面宿儺洞とされ、鍾乳洞へ向かう麓の善久寺にも宿儺像が安置されています。表参道ニノ鳥居から三ノ鳥居の眺め。木造の明神鳥居で昭和48年に建立されたようです。境内マップでは一ノ鳥居となっています。手前左に高山祭屋台会館と正面に三ノ鳥居(ニノ鳥居)。青銅の社号額を持つ石造明神鳥居で享保15年(1730)、飛騨代官長谷川忠崇の寄進によるもの。往古は数百本の桜が境内を彩ったとも言われます。櫻山八幡宮HPの境内マップ。鳥居から神門の眺め。手水舎。明治十一年に寄進されたもので、大岩を刻んで作られた手水鉢には寒澄清徹と彫られています。現在の社殿は昭和51年(1976)~55年(1980)にかけ造営とあり、全体的に綺麗な印象を受けます。神門から拝殿の眺め。扉には金色の八重山桜の紋が輝いています。拝殿正面全景。入母屋銅葺で千鳥破風と大きな唐破風向拝付く堂々たるもので、主祭神は応神天皇、相殿神に熱田大神、香椎大神を祀ります。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社に掲げられています。境内左の照前神社と天満神社照前神社(左)祭神は浪速根子武振熊命。両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神。武勇の神・歯の神。年の数だけ煎った豆を御供えすると歯痛が治ると言われている。社殿は平成二年に新築造営。例祭日 四月二十四日天満神社(右)祭神 菅原道真公宝暦四年(一七五四)、京都の北野天満宮より勧請。学業成就の神。例祭日 七月二十五日傍らの筆塚。使い込んだ筆の供養をすると書道が上達するといわれます。稲荷神社。祭神 倉稲霊神、相殿 猿田彦神、松尾神伏見稲荷大社より勧請。五穀豊饒・商売繁盛・養蚕・各種産業の神。相殿の猿田彦神は、導きの神、松尾神は国土建設と酒造の神。明治以前は庚神堂として境内に祀られていたもの。社殿は平成10年に改築造営。例祭日 三月二ノ午日(これに近い日曜日)例祭日は団子撒きで賑うようです。社殿全景。ウオーキングイベントの途中に立ち寄ったため境内全域は回っていませんが、境内にはまだ琴平神社、秋葉神社や高山祭屋台会館もあり見所は多いと思います。桜山八幡宮創建 / 仁徳天皇の御代(377年)祭神 / 御祭神:主祭神 応神天皇相殿 熱田大神、香椎大神境内社 / 照前神社、天満神社、稲荷神社、琴平神社、秋葉神社祭礼 / 10月9日・10日(秋の高山祭)所在地 / 岐阜県高山市桜町178参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)
2024.11.04
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10月16日、バスツアーで高山の町を訪れた際、市内の町角に鎮座する秋葉社を何社か写真に納めました。今回はその中から大新町1に鎮座する秋葉社を掲載します。鎮座地は宮川に架かる宮前橋の大鳥居から、正面の桜山八幡宮方向に向かう参道右に鎮座しています。高山の歴史は古く、奈良時代には国分寺と国分尼寺など建てられ飛騨の中心として栄えていました。現在見る城下町の礎が築かれたのは、戦国時代の金森長近(1524~1608)が高山城の築城して形作られたといっても過言ではないでしょう。参道中ほどの交差点の角に立つ桜山八幡宮の大きな社標、その右側が鎮座地になります。大新町の秋葉社社頭全景。石の明神鳥居と常夜灯を構え、町角で見かける社としては規模は大きなものです。綺麗に剪定された一本の大きな松が御神木です。鳥居脇に立てられてた解説、内容は以下になります。 「鳳凰台組秋葉社秋の高山祭(十月九日十日)には、祭りの華ともいうべき屋台が十一台出ます。 この一台一台の屋台を維持管理するのが屋台組と呼ばれる町内組織です。屋台組には組内の火防鎮護と町内安全を願って、古くから秋葉神を祀る風習があります。 この秋葉神は鳳凰台組内の火伏せの神として、遠州秋葉山本宮よりご分霊を勧請して深く尊崇され、篤い信仰を集めてきました。祭神は迦具土神。 又の名を火産霊神とお呼びします。 鳳凰台組。」高山祭は、春と秋の年二回開催されます。春の高山祭(4月14・15日)は日枝神社の「山王祭)」、秋の高山祭(10月9・10日)は桜山八幡宮の「八幡祭」として行われ、春と秋の二つの祭を指して高山祭と呼ばれています。祭の起源は当地を治めた金森長近の時代⁽1585-1692⁾とされ、屋台は享保に入ってからの起こりと言われています。古都飛騨高山の町を絢爛豪華な屋台が、からくりを奉納しながら巡る光景は高山の風物詩と言えます。高山の町は江戸時代だけでも幾度か大火を経験し、享保14年(1729)には975軒、天明4年(1784)には2342軒を全焼する大火に見舞われています。一度火が出れば、周囲の建物を壊し延焼を防ぐことが当時の消火のセオリーだったはず、火元近くの我家は火に包まれなくとも壊されていったことでしょう。城下町に住む者は火に対して意識が高くなり、それだけで補いきれない不安を火伏の神を祀り、崇める事で心の安心を得てきたのだろう。その火伏の神や屋台を維持管理するため発足したのが屋台組という町内組織で、屋台や秋葉社の存在が町民の結びつきを強めてきたのかもしれません。我々が住む街からなくなったものかもしれませんね。大新町秋葉社の扁額。境内全景。高く積まれた基壇の上に覆屋が建てられ、その下に神明造の社が祀られています。鰹木は5本、千木は外削ぎで扉が複数ある相殿。岐阜県神社庁による解説は以下。「当社の創始は享保二十年、欠ヶ上甚五郎なる者が遠州秋葉山本宮より勧請、大工布目屋幸三郎により三社造りの社を祀ったのがはじまり、明治八年炎上に依り、現在地に遷された。」とあります。当時のものとは違いますが、シンプルな神明造ながら、側面から棟持柱を注視すると昇り龍が彫られています。町角の小さな社ながら飛騨の匠の拘りが感じられます。観光客の多い時間帯の撮影は難しいですが、時間帯をずらし、こうした町角に佇む社を巡るのも高山の楽しみ方の一つかもしれません。鳳凰台組秋葉社創建 / 享保二十年(1735)祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市大新町1-100参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加過去記事・高山市内の秋葉神社
2024.11.03
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前回の祖霊社を後にして、岡本1丁目交差点から外宮域の森沿いを右に向かいます。今回は、こちらの森の中に鎮座する山田産土神八社のひとつである茜社、豊川茜稲荷神社、茜天神社を掲載します。上の写真は岡本1丁目交差点、茜社へは交差点に立ち右に進みます。歩道を少し進み、観光バス駐車場の手前に茜社の入口が現れます。上は入口の茜社(あこねやしろ)由緒、一部読み取れず割愛していますが内容は以下。「茜社(あこねやしろ)所在 伊勢市豊川町274番地主祭神 天牟羅雲命御玉・宇迦之御魂神、他に蛭子命・菅原道真公など合祀山田産土神八社のひとつ例祭 7月15日特殊神事 1月15日御頭神事宝物 獅子頭1個、永保2年(1559)在銘、(県文化財)、太刀二口 外宮神苑・勾玉池のほとりのこの地は、上古「赤畝」と呼ばれた土地。古くこの地に鎮座した本社は「赤畝の社」と呼ばれ、外宮の摂社にあったものと推定されます。 創祀は不詳ですが、十四世紀ごろの記録(豊受大神宮你 宜補任次第)がそれを語っています。 しかし、やがて本社は、歴史の流れの中で荒廃、室町時代に至って土地の人々の産土神としてよみがえります。かつての赤畝の社は訛って「あこね」となります。 「西」の字があてられたのは明治初期です。以来、「あこねさん」は、域内の茜稲荷大神とともに土地の人々(産子)の願いをきいてきました。 豊饒·商売繁昌·家内安全・学業成就など。本社は、山田産土神のひとつであり、また神宮御遷宮のたびにその残材の払いさげを受け、神宮にならって遷宮をしてきたのは、右のような歴史によるものです。」三重県神社庁の解説は以下。 「茜社(あこねやしろ)地元の人々には「あこねさん」と呼ばれ親しまれている。 神社参道には崇敬者奉納の鳥居が数多く立ち並び、その鳥居をくぐり抜け参拝者を社殿へと導く。境内中央に仲良く厳かに聳える樟と杉の御神木は、注連縄で結ばれ、夫婦和合・縁結びにご利益あり。 当社は、伊勢神宮(外宮)神苑勾玉池池畔に鎮座し、創立は一条天皇の御世以前(986年以前)とされている。上古、此の辺りを赤畝と称し、赤畝の社・赤うね明神とも称し茜社となったのは江戸期か明治初年であろうと言われている。 古代より豊受大神宮の摂社として祭事を斎行されたと推察され、その後赤畝は世の移り変わりにより産土神となる。山田七産土神の一つとして御神宝に獅子頭を有し、お頭神事の祭儀が今に至っている。 茜社神域内に稲荷と称する岩窟があり、其の所に宇迦之御魂を御祭神として祀られたのを豊川明神・豊受稲荷と崇め称え多数の崇敬者参拝の音絶える事なし。蛭子命は元豊川町字下馬所の祀られていたが明治42年2月に菅原神と共に茜社に合祀される。 当社の菅原神は古来より牛天神として親しまれ学業成就に霊験あり。御祭神 天牟羅雲命・蛭子命。 祭祀 例祭7月15日。お頭神事1月成人の日。」以上のように紹介されています。茜社参道は緑濃い杜の中に続き、境内から勾玉池に繋がっています。参道の先の社頭。常夜灯は昼でも灯りが灯され、木造神明鳥居の先には多くの奉納鳥居が連なり崇敬の篤さが伝わってきます。左に豊川茜稲荷神社、右に茜社の社標が建てられています。社標右に立てかけられていた茜社由緒。境内まで連なる素木の奉納鳥居。朱塗りの鳥居が連なる光景にはない厳粛な趣がある。境内に入ったすぐ右側の茜牛天神。学業成就、諸道芸能、慈悲救済に御利益があります。 「茜牛天神この神様は学問の神諸道芸能慈悲救済の守護神として信仰の高い菅原道真公の御霊を牛像に入魂してお祀りしております。 元外宮下馬所に在った外宮師職 山田大路家の鎮守神でありましたが、後に周辺一般の崇敬社となり明治四十二年茜社に合祀されました。特に学業芸能に志す人々に慈悲 救済の霊験あらたかであります。 什宝の牛像土製黑色 身長 四尺四寸、胴廻 四尺六寸 天保十四年(一八四三年)、製作は山田一本木瓦工 中西甚兵衛彫刻による。」 杉と楠の御神木。右の楠と左の杉が寄り添うように聳え立ち、根元部分はお互いの根が交わるように絡み合っており、共存共栄のシンボルとして家庭や職場などの円満や縁結びの御利益があるという。豊川茜稲荷神社全景。入母屋造の平入で大きな千鳥破風と唐破風向拝を持つもの。稲荷社というと朱の印象が強いですが、奉納鳥居同様に印象は随分と違います。置き場に困るほど置かれた白狐の数には驚かされます。豊川茜稲荷神社の拝殿額。拝殿内から本殿の眺め。社殿全景。天牟羅雲の井戸(左)、外部は屋根と板塀で覗くことは出来ません神社解説は以下。「 当社の主祭神、天牟羅雲命の力によって大地に注ぎ込まれた清水は、まだ混沌としていた日本の大地に生命を吹き込みました。その清水は山を削り、岩を砕き、尾根を流れて川を作り、大海へと続く中で大地を潤し、森を育み、豊かな緑の大地を造り上げました。 この清らかな水はやがて稲作を育み、水に育まれた緑豊かな国が形作られていきました。戦後、水道水の普及により一時閉鎖されたこの井戸を、天牟羅雲命の偉業を称え感謝を込めて皆様に共感していただくために神輿事業として発足し、現在の形になりました。「受け」という言葉は「食」と同義であり、当社境内社である豊川茜稲荷神社の御祭神、宇迦御魂大神は五穀豊穣や所願成就に大きな力を与えています。 また、当社には東を守る青龍がおり、井戸の水が動くことでそのご神威を一層発揮します。かつては外宮の摂社として、外宮宮司度会家の御祖神として祀られていましたが、この地域の氏神様として百五十年以上にわたり、氏子・崇敬者の皆様に支えられ、敬神の心と感謝をもってその役割を果たしています。 この先も、はじまりの水を守り続けます。」茜社。鳥居前で狛犬が守護し、社殿は伊勢の社に共通する造りとなっています。丸々とした狛犬は口の部分に彩色が施されています。拝殿から板垣に囲まれた本殿域は伊勢神宮別宮の流れを感じさせます。茜社の左にも二本の古木が聳えています。勾玉池に続く参道と手水舎。その途中から見られる茜の社本殿。豊川茜稲荷神社社殿側面。鳥居を抜けた先の社頭。インバウンド客も少なく厳粛な雰囲気が漂う歴史のある神社です。鳥居を抜けるとは勾玉池が広がり、右手に式年遷宮記念せんぐう館を望むことがてきます。遷宮館の前を進めば外宮に至ります。山田産土神八社 茜社創建 / 創祀不詳主祭神 / 天牟羅雲命御玉・宇迦之御魂神境内社 / 茜牛天神、豊川茜稲荷神社祭礼 / 7月15日特殊神事 / 御頭神事 1月15日所在地 / 三重県伊勢市豊川町274参拝日 / 2024/09/28祖霊社から徒歩 / 岡本1丁目交差点を右へ徒歩5分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝・伊勢豊受稲荷神社 (箕曲中松原神社境内社)・山田産土神八社『箕曲中松原神社』・祖霊社(伊勢市岡本)
2024.10.31
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前回の箕曲中松原神社から外宮に向かう道筋で見かけた祖霊社、今回はこちらを掲載します。箕曲中松原神社から南西に10分程歩いていくと岡本1丁目交差点が見えてきます、正面の杜は外宮域になります。この交差点手前で写真の社標と手水舎が見えてきたので立ち寄ってみました。傍らの由緒から一部抜粋。「所在 伊勢市岡本1丁目17番9号祭神 天照大御神、宇布須根神例祭 春季例大祭 三月春分の日、秋季例大祭 九月秋分の日碑 松尾芭蕉の阿木塚、寛居翁碑、出口直庵碑明治二年、神式での葬儀・先祖祭祀を執り行ったのが当社のはじまり。神道の教化活動のため、明治六年に常明寺跡(伊勢市倭町)に建設した説教所は、後に「第一番神風講社」と呼ばれ、同九年には豊宮崎文庫に場所を移します。以来、伊勢固有の神葬祭を行い、各家の神霊をおまつりし、今日に至っています」境内には祖霊社講堂はじめ、手水舎、斎殿、祖霊殿があります。斎殿。祖霊殿。伊勢神宮が鎮座する神都伊勢、自ずと神道比率が高いであろう地域において、祖霊社は身近な存在なんだろう。我家は代々臨済宗妙心寺派の檀家。読経のなか妙鉢や太鼓の鳴る葬儀を経験してきましたが、歳を重ね人生の終焉も見えてくると、シンプルな神式の方があっているように思う。いずれにしても考えておく年代になってきた。祖霊殿脇から境内を出ると県道の向かいが以前の鎮座地「旧豊宮崎文庫」国指定史跡で、内宮の旧林崎文庫とともにわが国における図書館史上に異彩を放つ施設。慶安元年、外宮権禰宜の首唱により創説され、寛文元年には幕府から永代修繕料の寄進を受けています。以来、外宮祀官子弟の修学道場として発達しましたが、明治元年に廃止され、明治11年の火災で講堂を焼失しましたが、火災を免れた書籍類二万余冊はその後神宮に献納されたそうです。現在敷地跡地には何もなく、冒頭の交差点を直進すると白壁と築地門があるのみです。門は普段閉ざされていますが、敷地内の市の天然記念物「お屋根桜」が咲く時期には解放されるようです。祖霊社創建 / 明治二年祭神 / 天照大御神、宇布須根神、檀家神霊境内社 / ・・・祭礼 / ・・・特殊神事 / ・・・所在地 / 三重県伊勢市岡本1-17-9参拝日 / 2024/09/28箕曲中松原神社から徒歩 / 南西へ徒歩10分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝・伊勢豊受稲荷神社 (箕曲中松原神社境内社)・山田産土神八社『箕曲中松原神社』
2024.10.30
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前回の伊勢豊受稲荷神社に続き、今回は箕曲中松原神社を掲載します。鎮座地は前回の伊勢豊受稲荷神社と変わりありません。写真は社地南側から箕曲中松原神社の社頭の眺めです。社頭から境内の眺め。右手に「縣社箕曲中松原神社」の社号標、正面の木造神明鳥居の先に二ノ鳥居と社殿が見えています。昭和6年(1931)に寄進された狛犬が境内を守護します。境内から社殿と社務所の眺め。境内の【箕曲中松原神社】由緒。「箕曲中松原神社所在地 伊勢市岩淵1丁目14番地25主祭神 大歳神他に若雷神・蛭子の神・菅原道真公はじめ十八座を合祀山田産土神八社の一つ例祭 八月二十一日特殊神事 一月十六日御頭神事宝物 獅子頭二個(但一個は天文二十一(1552)年在銘 伊勢市文化財)、太刀一口 「みの」は、この土地の古名「美乃」「美野」、あるいは勢田川の流れが曲がるところを意味する「水曲」「箕曲」に由来していると言われます。中松原も地名で「美乃社」「箕曲社」「中松原社」「大歳社」などさまざまに呼ばれてきたものが、後代現社名に定着しました。 創祀は古く、長徳三年(997)の古記にこの社名があり、千余年前から水辺の美しい野にあって土地の人々に敬拝されてきたことがわかります。主祭神大歳神は土地の豊饒と平安の神ですが、早く明治八年には「県社」に指定され、その後多くの神々が合祀されました。 この社は、日々の生活や商いや勉学のすべてをつかさどり、この土地に住む人々「産子」の幸せを守る神の社です。なお、宝物の獅子頭二個は文化十二(1815)年、太刀は寛保二(1742)年、それぞれ敬神家から寄進せられたものです。」 【三重県神社庁 箕曲中松原神社】解説は以下。「通称:箕曲社 当社は豊受大神宮(外宮)参拝玄関口に在り、正月には初詣の参拝客で賑わう。境内には樹齢千年の老楠樹があり、古来より神霊として崇敬され、特に疱瘡の守護神として現在も崇敬されている。当社は古来、大歳社・中松原社・美野社などと称していたが、後世にいたって箕曲中松原神社と改めたものである。 創祀年代は不詳であるが、長徳3年(997)の柏木社の註に「柏木社在大歳社中松原」とあり、また元応2年(1320)豊受大神宮所管神社の條に「中松原神社」とあって、大歳社を祀る千年以上の旧祠である。明治4年12月には郷社に列せされ、同8年12月には県社に昇格した。 明治42年3月、倭町の神落萱神社、他4社、尾上町の菅神社、岩淵町の柏木社、他5社、勢田町の山神社、他3社を、同年4月、岡本町の五日蛭子社、他7社を、同43年6月、桜木町の櫻木社、中之町の御岩社、他5社、古市町の長峯社、他2社、久世戸町の菅原社を、同年8月、境内社5社、箕曲社を合祀している。尚古市町の長峯社、倭町の神落萱神社、金刀比羅社を分祀している。」箕曲中松原神社と長い社名だなぁと思いましたが二つの地名が合わさったもののようです。因みに「山田産土神八社」とは以下の七社(藤社は坂社に合祀)を指します。・須原大社(伊勢市一之木)・茜社(伊勢市豊川町)・世木神社(伊勢市吹上)・今社(伊勢市宮町)・坂社(八日市場町) 藤社(坂社に合祀)・須原大社(伊勢市一之木)★箕曲中松原神社ニノ鳥居から拝殿の眺め。切妻の四方吹き抜けの拝殿の先に板垣に囲まれた神明造の本殿、印象は伊勢神宮の別宮に見られる社殿の流れを感じさせます。右手には結界のはられた更地があり、恰も遷宮御用地のようにも見えます。拝殿から神門と板壁で囲われた本殿域の眺め。社名が長いと扁額も長くなる。主祭神の大歳神は農耕、穀物、方位神で、諸産業興昌、家内安全、開運、除災招福、夫婦和合、縁結び、厄除け、子宝などの御利益があります。由緒にあったように多くの神社が合祀されているので、拝んでおけば何にでも御利益がありそうです。まさに、この土地に住む人々の幸せを守る神社です。境内左の祓所。少し離れて楠神社から社殿の全景。神明造の本殿は鰹木が6本と内削ぎの千木が付く。拝殿から東側の楠神社と伊勢豊受稲荷神社方向の眺め。その先の鳥居を出れば宇治山田駅のロータリーも目の前です。拝殿から南側の社頭の眺め。歴史のある古い神社は見事な巨木も育みます。箕曲中松原神社(みのなかまつばらじんじゃ)創建 / 不明(長徳三年(997)の古記に名が見える) 祭神 / 大歳神、若雷神、大山祗神、宇迦之御魂神、蛭子神、建日丹方神、建御名方神、春日大神、山神、伊都岐島神、倭姫命、菅原道真公、地護社、箕曲社、相社、柏木社、小田社、鏡宮境内社 / 楠神社、伊勢豊受稲荷神社祭礼 / 8月21日特殊神事 / 御頭神事 1月16日所在地 / 三重県伊勢市岩渕1-14-25参拝日 / 2024/09/28近鉄宇治山田駅から徒歩 / 宇治山田駅から徒歩2分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝・伊勢豊受稲荷神社 (箕曲中松原神社境内社)
2024.10.29
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伊勢豊受稲荷神社。三重県伊勢市岩渕1の箕曲中松原神社社地に鎮座する稲荷神社。9月28日、イベント列車「つどい」で鳥羽を訪れた際の帰り道、伊勢神宮外宮参拝のため宇治山田駅に降りたちました。今回掲載する伊勢豊受稲荷神社は駅のロータリーの向かいに鳥居を構えています。 当初は大きな杜を持つ稲荷だなと感じていましたが、伊勢豊受稲荷神社は箕曲中松原神社の杜に鎮座する境内社です。伊勢豊受稲荷神社の朱の明神鳥居。 右に「伊勢豊受稲荷神社」の社標が立っており、すぐ先に朱の社殿が見えています。手前の歩道を少し進むと箕曲中松原神社の脇参道に続いています。鳥居をくぐった参道から社殿の眺め。 鳥居の先が拝殿ではなく、本殿脇から左に進み、箕曲中松原神社脇参道に出た右側が拝殿正面となります。参道脇の【箕曲中松原神社】由緒。 「箕曲中松原神社所在地 伊勢市岩淵1丁目14番地25 主祭神 大歳神他に若雷神・蛭子の神・菅原道真公はじめ十八座を合祀 山田産土神八社の一つ……創祀は古く、長徳三年(997)の古記に社名があり……その後多くの神々が合祀されました」と詳しく書かれていたが伊勢豊受稲荷神社には触れられていなかった。箕曲中松原神社脇参道の右側に立つニノ鳥居。参道脇の手水鉢。伊勢豊受稲荷神社の拝殿前の鳥居は三ノ鳥居になるのだろうか、一ノ鳥居以外は朱の神明鳥居。 切妻妻入りの拝殿は唐破風向拝を持つもので、白狐の破風飾りが施されています。緑の杜のなかに白壁と朱のコントラストが鮮やかです。 鳥居手前の常夜灯の竿には「奉献 白子圓稲荷」と刻まれており、稲荷が二社祀られているのか??拝殿額には「伊勢豊受稲荷神社」とあり、間違いないようです。 となるとあの常夜灯の白子圓稲荷とはなんだろう?白子? 鈴鹿市の白子しか思い当たらない、過去の社名なんだろうか。 由緒がなく、三重県神社庁に当社名の登録はありません。箕曲中松原神社に当社の写真が貼られていましたが詳細は記されておらず、なにひとつ分かりませんでした。 社名に豊受と入り、伊勢神宮外宮に近いことから、祭神は恐らく食物・穀物を司る豊受大神かと思われます。拝殿内から本殿方向の眺め。 本殿前には陶製の狐が幾つも安置され、本殿を守護しています。古くから鎮座する箕曲中松原神社にあり、多くの周辺神社を合祀しているため、当社の創建や合祀時期の推測はできません。 ヒントはあの常夜灯にあるのかもしれません。伊勢豊受稲荷神社から箕曲中松原神社方向の境内の眺め。 社地中央には一際枝振りが見事な楠が聳えているのが印象的です。注連縄が巻かれた大楠は、箕曲中松原神社の境内社「楠神社」 樹齢は定かではないですが、力強い根回りと幾つもの樹洞を持ち、大楠の前には鳥居も作られ、神の宿る雰囲気を漂わせており、御神木としての風格を感じさせる。こうした古木には蛇や龍が宿るとも言われるが、何者かは住み着いていそうな雰囲気だ。次回は箕曲中松原神社を掲載します。伊勢豊受稲荷神社創建 / 不明 祭神 / 豊受大神境内社 / ・・・所在地 / 三重県伊勢市岩渕1-14参拝日 / 2024/09/28近鉄宇治山田駅から徒歩 / 宇治山田駅から徒歩2分関連記事・ほろよい列車つどいで伊勢神宮外宮参拝
2024.10.28
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今日は衆院選投票日政権与党のこれまでの実績・失態・政権運用・現状・今後の政策の進め方。有権者の其々の思いを投じよう。
2024.10.27
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10月19日、名古屋タワーズに出向く機会があり、混みあう地下鉄に乗るのを見送り、歩いて円頓寺商店街に向かいました。目的もなく歩いて来ましたが、円頓寺本町商店街に来るとついつい立ち飲み屋に立ち寄ってしまう。無意識のうちにここを目的にしているのだろうか。平日午後の商店街は行き交う人も少なく、お酒の神さまも先客ふたりと寂しい限り。こちらで一杯ひっかけ、商店街を堀川方向の最寄りバス停まで歩いて行きました。写真は円頓寺商店街の中ほどに鎮座する圓頓寺。円頓寺商店街は、この圓頓寺山門前の門前町が始まりです。過去に何度かイベントで訪れていますが、今回はこの山門前の題目塔を取り上げます。山門右の寺号標。日蓮宗 長久山 圓頓寺山門全景。承応3年(1654)に、普敬院日言上人によって開創されたお寺。開創当初の寺号は普敬院と称しましたが、明暦2年(1656)に圓頓寺に改名されています。当初は、中橋の西の浅間神社あたりに鎮座していました。しかし享保9年の大火(1724)で伽藍を焼失、翌年に今の場所に再興されました。太平洋戦争で山門を残して灰燼に帰したが再建され、平成16年(2004)に現在のコンクリート造りの伽藍に生まれ変わった。山門横の解説は以下の内容です。「長久山 圓頓寺日蓮宗 承応3年(1654) 普敬院日言上人により創建。当初は普敬院と称したが圓頓寺に改められた。 本堂脇の堂には、子供の守護神にと藩祖義直公の側室より寄進された鬼子母神像を安置している。名古屋城天守閣棟木の余材で刻んだこの像は、毎月18日に公開される。」鬼子母神の由来についてHPでは以下のように記載しています。「奉安されている鬼子母神様は「子安の鬼子母神様」。 子安とは「子育て安産」のこと。現在は、子供は生まれて育つのが当たり前と思われがちです。 しかし江戸時代は違います。当山が尾張徳川家より鬼子母神様御尊像を拝受いたしました江戸時代初期は、徳川御三家筆頭の尾張家であっても母子共に健康に出産できるとは限らない時代だったのです。 無事出産を感謝して贈られた御尊像です。当山第2世 玄収院日道上人は加持祈祷に優れ、尾張初代藩主、義直公の側室のご信奉あって、安産祈願・子育て祈願。 後に尾張徳川家2代 光友公を出産し、名古屋城築城時の棟木の余材で作られた鬼子母神像を寄進されたと伝わります。」上は国立国会図書館デジタルライブラリー「尾張年中行事絵抄(文政13年)」に、鬼子母神参詣で賑わう円頓寺山門前の様子が描かれており、左手の丸部分に石の燈籠と宝塔の姿が描かれています。これは当時描かれたものと同一の常夜灯。寄進年は「文化十年癸酉九月吉日」と刻まれており、外観から今から211年前に造られたものには見えません。当時は堀川も整備され、火災により拡幅された四間道は多くの蔵が立ち並び人で賑わっていたはずです。後の空襲で焼かれても、古い町並みや屋根神さまが残った背景にはこの四間道の存在もあるのでしょう。常夜灯の先に立つ題目塔。光明点書法で書かれた独特の文字は日蓮の書体を模したものとされ、髭題目とも呼ばれています。名駅の西で見かけますがこのあたりで、この塔を見かけた記憶はありません。全周が撮れず申し訳ないですが、後方には「文化十年癸酉十一月」と刻まれていました。空襲により伽藍を焼失しながらも、塔の中央に走る大きな罅や黒ずみは空襲により傷ついたものなんだろうか?何度も訪れながら、改めてその存在に気付かされました。長久山 圓頓寺 題目塔所在地 / 名古屋市西区那古野1-11-7訪問日 / 2024/10/19関連記事(髭題目)・髭題目塔(中村区塩池町)
2024.10.25
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まだまた暑かった9月19日、笈瀬村米野、牧野、下中村周辺の神社巡りもここ石神社で一旦終わりとなります。石神社社頭から東の名駅ビル群の眺め。前回の下中八幡宮から東へ5分程、住宅地の中の二本の御神木の聳える場所が石神社になります。上は明治31年の地図とほぼ現在の地図の比較、赤枠が石神社の鎮座地で、左下の下中八幡宮とは僅か5分程の距離にあります。明治東島地図から見ると、鎮座地は柳街道から分かれて下中集落に繋がる道筋の入口側に位置しています。社頭には提灯櫓、明神鳥居を構え、社殿と社務所が主な建物。境内の二本の御神木のうち、大きな松の樹が印象に残ります。社頭の解説と石神社社標。解説の内容は以下です。「石神社 倉稲魂命昔より子供の熱病神、通称石仏で村内の崇敬高き神社で、創祀300年位前と言われ。 当時より子供の熱病(オコリ病)の折祈願するとその平癒は速であることが有名である。」因みに愛知県神社庁には記載されておらず詳細は不明でした。国立国会図書館デジタルライブラリーから「中村区の歴史(名古屋区史シリーズ5)」に目を通すと以下の記述があったので掲載します。1983年に出版された同史の石神社解説。「中村本町3丁目44番地。 祭神倉稲魂。当社は八幡社の末社である。 むかし農夫が大八車で名古屋から帰る途中、路傍の石仏をバランスをとるため乗せてここまで来たところ、動けなくなり捨てていった。それを祀ったという。 「愛知郡村邑全図」によると現在地の東方、惣兵衛川西の杁の北側にあったことがわかる。そこは郷の入口でもあり、地割の伝承も伝えられている。よって「オシャグシ」と推測される。 「オコリ」(熱病)の神とされており、現在地に祀られるまでに2.3ケ所場所を変えている。」とあった。オコリ(瘧)病とはなんぞや、ググってみると腹痛、高熱をともなう病気とある。三日熱とするサイトもあればマラリアに似た熱病と書くものもある。親の立場からすると子どもの成長期に高熱が続くのは不安でしかない、医療の発達していない当時になんとかしてやりたい、その思いの拠り所が石神社なのだろう。我が家の息子達の幼少期もそうした時期があり、熱が出るのはイベント前日の夜と決まっていた。夜間診療所やキャンセルの電話に追われた時期はありました、そこまで御利益のある石神社の存在を知っていたらひょっとして祈願に訪れていたかもしれない。上は寛政期(1789-1801)に編纂された愛知郡村邑全図の下中村の石仏である。現在の八幡宮の位置から見ると少し北側に位置していたようで、何度か遷座しているとあるので当時はこの辺りに祀られていたのだろう。文中に八幡社の末社とありますが、ここでいう八幡社とは恐らくすぐ西側の下中八幡宮を言っているのではないだろうか。今昔マップの年代別地図には神社を示す記載は見られなかったが、中村区の歴史・愛知郡村邑全図・解説から創祀300年は間違いないのだろう。捨てられたとされる石仏については、どの記述にも見られず、その後が気になるところでもあります。石神社社標。戦前の昭和16年に立てられたもので、寄進年を確認した唯一のもの。境内右寄進年未確認の手水鉢。切妻平入の拝殿に長く延びる向拝が付く。拝殿前の狛犬。年代は未確認ですが、社標の寄進年より後のものと思われます。向拝から御神木の眺め。社頭から下中集落に向かうこの道筋も以前は松並木が続いていたのかもしれない。大きな松は害虫の影響から数が減っているとも聞きます、古い街道から松並木が消えてしまう日も訪れるのかもしれない。拝殿から脇障子が付く流造?の本殿の眺め。境内右から社殿の眺め。本殿後方から社頭の眺め。壁の先の本殿域には石仏の姿は見られなかった。往古は田んぼの広がるこの辺り、祭神からして五穀豊穣の守護として祀られたのが始まりだったのかな。捨てられていた石仏を村人が祀り、子の熱病を案じ祈願し平癒した事から認知されたのだろう。医療が発達した現在とはいえ、家族が病に伏せれば誰しも医療技術以外の何かに救いを求める衝動があるのは事実だろう。石神社創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命境内社 / ・・・参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区中村本町3下中八幡宮から徒歩 / 下中八幡宮から東へ5分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社・天王社(中村区太閤4)・日之宮神社(中村区日ノ宮町)・下中八幡宮(中村区押木田町)
2024.10.24
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下中八幡宮。前回掲載した日之宮町の日之宮神社から北へ10分ほど先の押木田公園に向かいます。今回はこの公園の東側に鎮座する下中八幡宮を取り上げます。押木田公園と下中八幡宮社頭全景。昭和24年に整備された広々とした明るい印象の公園ですが、過去にはあまり良くない出来事があり、個人的に記憶に残っている公園です。下中八幡宮は押木田公園の南東角に社頭を構えています。上は明治31年当時と現在の地図の比較です。明治時代の地図では、下中村集落を取り囲むように広がる水田が見られ、鎮座地は集落の中央の西側に位置しています。日乃宮神社でも触れたように、中村区は豊臣秀吉の生誕地とされ、当時は上中村、中中村、下中村に分かれており、太閤素生記(寛永2年)によれば、秀吉は中中村で生まれたと記されています。押木田公園南東角に銅巻の明神鳥を構える社頭全景。右手に下中八幡宮の社標、左手に由緒が掲げられています。下中八幡宮由緒記「祭神 應神天皇(譽田別命)、神功皇后(息長帯比賣命)例祭 2月21日龍神楠大神祭、8月8日夏大祭、10月9・10両日秋大祭下中八幡宮は後白河天皇の保元元年(1156)に鎮西八郎為朝が創祀に係るこの地域の古社です。当時、この地は東海・東山両道の要衝であり、為朝が平清盛の専横を憤り、崇徳上皇を讃岐に遷したことを慨し、配所の伊豆大島を脱出して尾張国尾頭に来ました。ここで、東海・東山の諸源氏を糾合し、平家追討の機を窺っていた頃に創建されました。豊臣秀吉の氏神でもあったと伝えられ、寛永13年(1636)の検地帳によると、神田と公田が定められていたといいます。昔、この地域で疫病が流行した時、村民全員が当宮にその平癒を祈願し、神威により忽ち全快したと伝えられています。それ以来、毎年大祭を行い、その御神徳を仰いでいます。現在では、家内安全、商売繁盛、厄除け開運、交通安全などの御神徳は広大です。社殿は創建以来、歳月の経過とともに修復が重ねられ、現在の本殿祝詞殿は昭和5年、拝殿は昭和46年に氏子と崇敬者の力を合わせて荘厳に改築されました。当宮は古くは八幡宮と呼ばれていましたが、明治初期に八幡社と改称されました。しかし、その後氏子の総意の念願が叶い、昭和58年9月に神社本庁の認証を得て下中八幡宮と改められました。」【由緒の疑問】「保元の乱(1156)に源為朝が創建」とされていますが、為朝はその年に伊豆大島へ配流され、後に自害した、あるいは琉球に渡ったという説もあります。「尾張国尾頭に来て平家討伐・・・」は疑問も残ります。【佐屋路と下中村散策コース解説】「加藤清正が勧請した中村の三つの八幡社の一つ。下中八幡宮の栞には、『当八幡宮は鎮西八郎為朝の創立に係る古社で、創立保元元年(1156)』と記されています。明治初期までお鍬祭が行われていました。隣に押木田公園があります。」とあります。加藤清正(1562-1611)が建てた三つの八幡社とは以下を指します。・中村区東宿町2の中村公園内に鎮座する八幡社・中村区元中村町2に鎮座する春日社(八幡社と合殿)・ここ押木田町の下中八幡宮【愛知県神社庁解説】下中八幡宮祭神 / 應神天皇 神功皇后例祭 / 10月第2月曜日氏子域 / 中村区乾出町、大宮町、沖田町、押木田町、上石川町、京田町、下中村町、白子町、城主町、砂田町、千成通、豊国通、中村中町、中村本町、鈍池町、日ノ宮町【wiki下中八幡宮】「下中八幡宮社伝によれば創建は保元元年(1156)で源為朝が関わるものであるという。加藤清正が中村に勧請した3つの八幡社の1つとされるが、後に衰退。寛永20年(1643)に再興された。古い棟札が複数枚残されており、延宝3年(1675)のものが最古とされる。なお、明治時代初期まで61年毎に「お鍬祭り」が行われていたという。」とあります。地史まで確認していませんが、創建は保元元年(1156)、呼称は八幡宮、八幡社、下中八幡宮と改称され、祭神は應神天皇、神功皇后のようです。銅巻の明神鳥居。扁額はなく、島木に橘の神紋が施されています。参道から拝殿の眺め。境内の全景。楠やイチョウを主とする杜は適度に間引かれ、程よい木陰もあり、風の通りのいい境内でした。拝殿左の楠木の根元に龍神大神が祀られています。左の龍神大神社標は昭和初期に寄進されたものでした。龍神社。「龍神楠木大神。願い事、絵馬掛けをして心願成就の諸祈願を行っている。」境内右の手水舎と社務所。切妻造に唐破風向拝が付く拝殿は、渡廊で祝詞殿に繋がっています。拝殿前を守護する平成13年に寄進された巻髪の狛犬。拝殿脇に折り紙手芸の犬の置物があった、犬…でよかったかな。拝殿額は「八幡宮」。拝殿内の眺め。社殿はコンクリート造りで、由緒では拝殿が昭和46年、祝詞殿・本殿は昭和5年に建てかえられたもの。拝殿と龍神社。拝殿右から祝詞殿・本殿と境内社塩竃神社。ここにも狛犬が。こちらの狛犬は明治43年寄進のもの、時代によって髪型やメイクも変わってくる。塩竃神社と境内右の東鳥居と社標、鳥居は昭和3年に寄進されたもの。塩竈社。創建は不明。祭神や神徳は以下。「塩土老翁神・武甕槌神・経津主神。安産の神として昔から崇敬されている。延命長寿、交通安全、産業開発の守護神としても崇敬されています。」社殿後方からの眺め。本殿は5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付き、海老虹梁も見られたので恐らく流造と思われます。鬼板や破風飾りには橘の神紋が飾られています。北側から龍神社(龍神楠木大神)の眺め。御神木の楠の幹を囲むように覆屋が作られ、社は東向きに祀られている。ひと昔前は田圃が広がっていたこの辺りも、その姿はなくなり一面住宅街に変貌、押木田公園の緑地帯と下中八幡宮の杜の緑は貴重な存在となっています。秋の大祭、この記事がアップされる頃は既に終わっていますが、抹茶の提供や子供獅子など催されるようです。また、町内の美化活動など地域のコミュニケーションは今も良好のようです。我が町からこうした活動が消えて10年以上は経つだろう。お洒落な自宅は綺麗にしても、一歩外に出た歩道は草ぼうぼう、大切な御犬様の糞すら取ってもいかない。毎週車は洗っても、自宅周辺や地域清掃・地元の祭りを受け継ぐ意識は風化し、自分中心の地域になってしまったようだ。拝殿から社頭の眺め。住民により綺麗に手入れされた参道は、訪れても気持ちのいいもので、町の美観は住民同士の繋がりを現しているようでもあり、我が町が恥ずかしいと感じる場面でもある。下中八幡宮創建 / 保元元年(1156)祭神 / 應神天皇・神功皇后境内社 / 塩竃神社、龍神社参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区押木田町1-1日之宮神社から徒歩 / 日之宮神社から押木田公園の下中八幡宮まで北へ10分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社・天王社(中村区太閤4)・日之宮神社(中村区日ノ宮町)
2024.10.23
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中村区日ノ宮町「日之宮神社」前回の太閤4の天王社から次の目的地日之宮神社までは、20分程西の日吉公園に向かいます。鎮座地の所在地は日ノ宮町、明治22年以前は愛知郡下中に属し、後の昭和14年(1939)誕生した日ノ宮町に編入された地域。日ノ宮とはどことなくありがたい地名ですが、由来はここ日之宮神社からきていると思われます。日吉公園南側から日之宮神社社叢の眺め。公園の東側が社地で、公園南側に社頭を構えています。社頭全景。石の神明鳥居の脇に「日之宮」の社標があり、右に解説板が掲げられています。名古屋市教育委員会「日吉丸生母祈願の跡」解説。「日の宮神社は、もと日吉権現といわれ、豊臣秀吉の母大政所が、男子を授かるよう日参した社で、秀吉は天文5年(1536)元日、日出づるころ、力強く産声を発したといわれる。 幼名日吉丸といったのは、この日吉権現の霊験によるところから名付けられたと伝えられる。」境内には由緒はなく、創建などは分からないことが多い。明治から現在までの地図を見てみると、ここに鳥居が記されるのは昭和43年になってから現れます。現在は日吉公園の一角に神社が鎮座しますが、過去の地図を見る限り、公園そのものが社地であったように見られます。愛知県神社庁から中村区日ノ宮町、日の宮神社として記載は見られなかった。佐屋路と下中村散策コースによれば、「豊臣秀吉の母、大政所が男子を授かろうと日参し、日輪が懐に入る夢を見て秀吉を産んだという由緒あるお宮、それが日之宮です。かつては「日吉権現」とよばれ、秀吉の幼名「日吉丸」もこのゆかりによるものといわれています。」として記載されており、秀吉の生誕地についての記述にとどまっていました。尾張徇行記(1822)に日吉社として以下の記述が見られました。「村の南に日吉社の旧跡があり、今は田中に楠の木が一本残っている。 これは太閤(豊臣秀吉)の母がこの神に祈願し、太陽が懐に入る夢を見て秀吉を生んだため、小字を日吉と称するようになった」…と記されています。現在は日之宮神社と呼ばれますが、古くは「日吉権現」・「日吉社」として呼ばれていたことが伺われます。日吉社と言えば、滋賀県の日吉大社が全国の日吉・日枝・山王神社の総本山として知られます。当社の創建時期は定かではありませんが、日吉大社から勧請されたものであることに間違いないと思われます。当神社は日ノ宮町1の下中八幡宮の境外社で、境内には由緒がなく、日吉社と呼ばれたことから祭神は大山咋神と思われます。鳥居から境内の眺め。楠の樹を主とする社叢の先に二対の常夜灯とその先に玉垣で囲われた本殿域があり、右手にも玉垣が見えます。公園と社地を隔てるものはないので、暑い日に公園で遊んでいる時などは社叢は絶好の木陰を提供してくれます。竿のくびれが印象的な二対目の常夜灯。寄進年は昭和8年(1933)。参道右の手水鉢。本殿域全景。狛犬の寄進年も常夜灯と同じ時期に寄進されたもの。大きな岩で組まれた本殿域に神明造の本殿が鎮座しています。本殿は6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。俗説に従えば、祀られるのは女神ということになりますが…実際の祭神はどうなんでしょうね。本殿右に見えていた玉垣には二つの石碑が立てられていました。右が「日吉丸 生母 祈願乃趾」左は名古屋市教育委員会の碑文が彫られた石碑。「日の宮神社は口碑によると、もと日吉権現と称し、豊臣秀吉の母大政所が一子を授かるよう日参した神社で、秀吉は天文5年丙申正月元旦に出産、幼名を日吉丸といったのは、この日吉権現の霊験により授かったところから名付けられたと伝えられる。」中村区は秀吉の生誕地とされます。当時は上中村、中中村、下中村に分かれており、秀吉の生涯を記した太閤素生記(寛永2年)によれば、秀吉は当時の中中村で生まれたと記されています。現在の豊国神社東隣の常泉寺が生誕地とされ、境内には産湯の井戸や碑もありますが、この付近は上中村にあたり、秀吉の出生地は特定されていないようです。明治の地図から日ノ宮神社の鎮座地は下中村にあたりますが、「なか」が上中村、或いは中中村から下中村の日ノ宮神社まで日参したとしても何らおかしくない距離にあります。秀吉の生誕が天文5年(1536)とあるので、日ノ宮神社の前進である日吉権現の創建はかなり遡るものと思われます。本殿前から社頭の眺め。分からないことの多い日之宮神社ですが、「なか」が日参したと伝わる日之宮神社の今は、参拝者の姿はなく、公園の一部に鎮座する小さな神社として今も受け継がれています。日之宮神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区日ノ宮町1-30-28天王社から徒歩 / 天王社から西の日吉公園まで20分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社・天王社(中村区太閤4)
2024.10.22
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10月16日、「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 日帰りバスツアー」に参加してきましたので当日の様子を掲載します。そもそも「ONSEN・ガストロノミーウォーキング」とはなんぞや。「ガストロノミーツーリズムとは、その土地の気候風土が生んだ食材・習慣・伝統・歴史などによって育まれた食を楽しみ、その土地の食文化に触れることを目的としたツーリズムで、欧米を中心に世界各国で取り組まれています。ここに日本が世界に誇る「温泉」をプラスした新しい体験がONSEN・ガストロノミーツーリズム」の趣旨らしい。高山祭も終わり、少しは紅葉も始まったかもしれない高山の町を歩いてみようという乗りでかみさんが申し込んでくれた。旅行社の支払いは1名7500円。これにイベント参加費4000円が含まれており、実質3500円で高山往復ができるので以外にお得な価格だと思います。約6kmの食べ歩きコースの各チェックポイントでは以下が提供されました。・オリジナルポーチ・甘酒1杯・みたらし団子・高山ラーメン小サイズ・フランス・アルザスの厳選ワイン・トマトジュース1本・飛騨牛串焼き1本・ちょっぴり漬物ステーキ・プリン1個・地酒おちょこ1杯・飛騨高山天然温泉陽だまりの湯入浴券・屋台会館入場券・高山陣屋入場券名古屋駅集合は7:00。5:00には起きて地下鉄に乗る必要があり、久し振りの早起きとなる。上は名駅に展示されていたWRCイベントカー。11月21日〜24日フォーラムエイト・ラリージャパン2024が開催されることから、展示されていた。こちらのチケットも取ってあるので今から楽しみです。受付を終え、バスに乗車しひと眠りで高山へ。現地の天候は曇り一時雨、この時期の高山は上着が必要になるものですが、半袖でも問題ない気温でした。駐車場からスタート地点に向かい、受付の際に飲食チケットや入場券が入ったポシェットが配布され、地図を頼りに市内を巡る。散策ルートは宮川右岸の市内散策。観光地であり、食べ歩きの町でもある高山市内はどこも海外の観光客で溢れかえっていました。コースはそうした混む場所を避け、名所・旧跡を巡るルートになっているように思えました。このバスツアーゴールの時間が決められており、1:30には戻らなければならず、6㌔とはいえ結構時間に追われました。平瀬酒造に寄りたかったので、陣屋と中橋をスルーしてなんとか時間に戻る事ができました。スタート地点でまずは甘酒の提供を受け、いよいよスタート。宮川下流の弥生橋の東にある「福太郎」でみたらし団子を頂く。醤油味の素朴なもので美味しかった。こうしていく先々で地元の名物が提供されるので、程よくお腹は満たされます。次の目的地は更に下流の宮前橋から桜山八幡宮を目指します。写真は桜山八幡宮の大鳥居、目指すは正面の杜。参道中ほどの社標と右に秋葉社。市内の各町内には秋葉社が祀られており、全てコンプリートを目指していますが未だ回り切れていません。今回3社ほど写真に収めることができたので日を改めて掲載します。桜山八幡宮。この手前の高山屋台会館は入場チケットがついているので久し振りに拝観してきました。桜山八幡宮境内がチェックポイントCで高山ラーメンが提供されていました。高山ラーメンの印象は醤油辛い印象が強いけれど、提供されたものは出汁の旨味もあり美味しいと感じるものでした。店の名前が分からないのが残念。雲龍院。高山市内東の丘陵地は東山と呼ばれ、その一帯には多くの社寺が鎮座しており、坂さえ気にしなければ周り応えのあるところです。あわよくば最寄りの神社に参拝、なんて考えていたが時間に余裕はなかった。大雄寺。雲龍院の南隣に鎮座し、平湯街道沿いに山門を構えています。ここまでくるとインバウンド客の混雑は緩和されてきます、何せ食べ物屋や土産物屋がないので、歴史や文化に興味のある観光客しか訪れないだろう。大雄寺西側の江名子川に架かる葵橋、コースはここを左ですが、ここまで何社も秋葉社をスルーして来たので正面の大門の秋葉社に立ち寄ってみました。チェックポイントDの高山市図書館煥章館。こちらではアルザス地方のワインとタルトフランベ(ピザ)にパン・デビス(柔らかいクッキー)が提供されていた。本場フランスのシェフがフランスの郷土料理として振舞われていました。かみさんの赤ワインは若く、スパークリングワインはさっぱりとしてのど越しが良かった。これも銘柄を撮り忘れてしまった。次のチェックポイントはここから南下した城山公園にあります。コース最大の急登が待っていました。長い上り坂の途中の城山公園案内図。城山の名が示す様にここはかつての高山城があった場所で、かつての二の丸がチェックポイント。金森長近銅像。金森長近は初代高山藩主で高山城や城下町を整備し高山の礎を築いた武将。この像の前がチェックポイントE。長い上り坂を登ったご褒美としてトマトジュースが提供されました。次の目的地は坂を下り照蓮寺方向へ向かいました。その傍らに鎮座する豊川城山稲荷。かすれた由来書によると本尊豊川叱枳尼真天で創建は1879年、豊川稲荷を勧請してここに創建したそうです。照蓮寺を過ぎ、高山市文化伝承館がチェックポイントFとG。こちらの座敷で飛騨牛串焼きと漬物ステーキ、お酒も振舞われました。ここから、宮川に架かる中橋と高山陣屋が本来のコースですがこの二つをスルーしてチェックポイントFとHの舩坂酒造店でワンコイン分の日本酒の試飲を済ませ、ここから我が家はコースアウトして平瀬酒造に向かう。(写真は2023年のもの)久寿玉の銘柄で知られる平瀬酒造での滞在時間は10分程しか残っていない。大急ぎで500円の試飲をして、土産を買い求める。この平瀬酒造の試飲はいつ来てもリーズナブルで、クーラー内の商品は全て飲むことができます。ただし同じものは飲めないルールになっています。コインサーバーと違い、好きなだけ注げるのでありがたい。軽かったリュックは酒の重みでズッシリ肩にくる、酒も程よく回り後はゴールしてバスに乗って温泉に浸かればイベントは終了。帰りによったひだまりの湯は、安価に宿泊可能な天然温泉なのですが、露天風呂は稼働しておらず、洗い場の設備は湯垢で白くなっていたりして今一つの施設だった。汗を流し、冷たい缶ビールが販売されていただけ良しとしよう。山からの帰りや予定外に一晩泊るには有難い存在なのかもしれない。高速に乗る前に立ち寄った「道の駅ななもり清見」こちらで飛騨牛コロッケと自宅の在庫が切れていた荘川名物「いちまのけーちゃん」を買い求め、渋滞もなく19:30頃には名古屋に到着できた。「いちまのけーちゃん」が名古屋でも手に入ればいいのですが、近い所でも郡上まで行かないと入手できない。6月19日に白山のいとしろ大杉を訪れた際に買ってきたが、これでしばらく食いつなぐことができる。おいそれと買い物にいけないだけに、ツアーに参加できて良かったかもしれない。こうしたツアーが各所で行われているようです、再び参加してみたいイベントでした。※温泉ガストロノミーツーリズム 公式サイトはこちら鶏ちゃん合衆国 加盟店 高山市 飛騨荘川いちまの けーちゃん 260g 2〜3人前 冷凍便 / ケイチャン けいちゃん 鶏チャン K /
2024.10.19
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金山神社から北へ10分程の中村区太閤4に鎮座する天王社。今回はこちらを掲載します。最初に、当社について地史を調べた結果由来・創建時期について情報が得られず、現地で見た事しか記載できない事を了承願います。この地図は明治31年当時(左)とほぼ現在の地図の比較になります。茶色の線は柳街道、水色の線が笈瀬川を示しています。鎮座地は当時の笈瀬村米野集落のひとつで、柳街道の一本南の通りに鎮座しています。この天王社Gマップには天王社として表記されます、現地に行くと天照皇御大神、熱田皇御大神、須佐之男大神、加具土大神、水大神の石標。それとは別に「白玉龍神」単独で二つの石標が立てられており、天王社としての表記はどこにも見られなかった。「天王社」として現れるのは、賽銭箱の「天王社」と社地西側の掲示板に「天王社再建寄付者」と「平成26年天王社新築」の2枚の木札に表記があるだけで石標としてはありません。これらから以降は「天王社」と表記していきます。天王社鎮座地周辺の眺め。太閤5丁目の交差点角地に鎮座し、西側には法泉寺と智興寺が隣接して鎮座しています。天王社正面全景。外削ぎの千木と5本の鰹木が載り、横長の社から何社かの合殿と見えます。玉垣の左にふたつの石標が立てられています。愛知県神社庁を調べて見るがこの住所に天王社として登録はみられなかった。神社幕の神紋は織田木瓜だろうか、その先の扉が何枚あるのかまでは分からなかった。ふたつの石標。右手の石標は昭和6年(1931)の寄進で、上段に天照皇御大神、熱田皇御大神、下段に須佐之男大神、加具土大神、水大神とあります。左手の白玉龍神の石標は大正14年(1925)に寄進されたものでした。その左の石標には「米野町有志一同」と刻まれていました。街道沿いの古い町なので、創建が大正時期と一概に推測する事は無理があるかもしれません。西側から天王社の眺め。明治当時の地図からも鎮座地は集落の中心に祀られています。周辺は古い町並みが残りますが、新しい住宅や駐車場もみられ、天王社の横長の社と天照皇御大神、熱田皇御大神、須佐之男大神などの祭神から、以前は屋根神さまとして祀られていたのかなと思わせるものがあります。そして水大神は白玉龍神として、稲の生育に不可欠な水をもたらす神として祀られたものだろうか。天王社創建 / 不明祭神 / 天照皇御大神、熱田皇御大神、須佐之男大神、加具土大神、水大神境内社 / ・・・参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区太閤4-17金山神社から天王社徒歩 / 北へ10分程関連記事 / ・白山神社(中村区太閤2)・村社 金山神社天王社の西側の法泉寺の角に地蔵堂が祀られていました。堂内には二体の御地蔵さまが安置されており、年号を探しましたが、いつ頃のものかは分かりませんでした。法泉寺 地蔵堂所在地 / 名古屋市中村区上米野町5-5地蔵堂から天王社と住宅街の眺め。住宅街に聳える大きな公孫樹の樹が天王社の御神木のようです。公孫樹は昔から燃えにくい樹として知られ、集落の防火を司る天王社と火伏の樹はそうした願いが込められているのだろう。法泉寺の西隣に隣接して鎮座する智興寺。寺号標の左の石碑に目が止まり立ち止まって見ました。福田兼助の碑。明治34年(1901)に建てられた碑で、中村区史跡散策路「笈瀬川筋散策コース」の中に含まれています。「名古屋西地区近代教育の祖といわれた兼助は、1830年米野村の農家で生まれましたが学問を好み、徳川時代末期に村の子弟の教育に尽くし、明治になり学制が敷かれたとき望まれて村校の教師になった人物。この碑は門人・知友達が敬愛の念を表すため、明治34年に建てたものです」と紹介されていました。現在の米野小学校は、福田兼助が開いた「上米野義校」が源流の様です。福田兼助の碑。所在地 / 名古屋市中村区上米野町5-6
2024.10.18
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前回の中村区太閤2に鎮座する白山神社から、近鉄名古屋本線沿いを南東に進んだ先に鎮座する金山神社へと向かいます。写真は近鉄米野駅から平池町方向の眺め。長く分断されていた当地と平池町も椿町線の整備で解消されましたが、歩いていても易々と向こうには行けないようです。黄色のトラス橋が象徴的な向野橋、近鉄・JR・あおなみ線の長い線路を渡るための陸橋で、以前は車も通れたが現在は自転車や歩行者専用橋になっています。鉄道を入れた夕景写真を撮るのには絶好の場所で、この先にあった転車台はそのうち行こうと思いながら機を逸してしまい、昨年撤去・埋め立てされてしまいました。金山神社へは正面の道を進んでいくと、右側の住宅街に金山神社の杜が見えてきます。上は明治と現在の地図の比較ですが、当時の地図には鎮座地に鳥居の姿は見られません。当時の金山神社は赤丸部分にあたり、昭和2年に名古屋駅整備に伴い現在地に遷されています。位置的には向野橋下、少し名古屋駅よりの位置にあり、当時の関西鉄道の南側にポツンと鎮座していたようで、現在は線路の下ということです。金山神社社頭。玉垣で囲われた社地南側に社頭を構え、右側に「村社 金山神社」の社号標があり、正面に石の神明鳥居と二基の常夜灯を構えています。鳥居左の由緒。「祭神 金山毘古神由緒 当神社は美濃国一宮南宮神社より分霊を勧請申し上げたと伝え、寺社志(寛政年間1661-1673)に尾張国則武庄米野村に社三ヶ所ありと記され、張州府志(宝暦2年 1752)米野村に金山祠在りと記されて居る。 祭神金山毘古神は三種の神器を造られた神とされて居り、文献尾張徇行記(文政5年 1822)、尾張志(天保14年 1843)にも金山社ありと明記されて居る。大正2年10月 無格社西宮社(祭神 多岐理比賣命、狭依比賣命、多岐津比賣命)、無格社宗像社(祭神 天照大神荒御魂)の二社を村社金山社に合祀し金山神社と改称した。昭和2年2月本社敷地(現向野橋南坂中程)が名古屋駅拡張用地に該当、鉄道用地となった為現在地に移転を余儀なくされた。 神徳 当地域住民の生活の守護神として崇敬され、特に鉄工・鉄筋・鋳造の御神徳あらたかで金属関係者の信仰の的となっている。例祭日 10月18日」ここに記載の地史に目を通すと、確かに記載の通りで、地史に基づいて良く書かれており、これだけで十分事足りる内容でした。 その際、中村区笈瀬川散策コース金山神社解説に目を通すと以下のように解説されていました。「鎮火・農耕の神としてあがめられている金山毘古神(カナヤマヒコカミ)を祀った神社。 鍛冶業の守護神であり、昔、露橋附近で名古屋城築城時(1610)の石垣用の石を切ったとき、石工達に信仰されたといわれます。」と新たな情報が得られました。この内容について、拝殿左の玉垣の傍らに「名古屋城の石垣用の石」として今も保存されていました。このことから神社は江戸時代初期には既に存在していたことまでは分かりましたが、結局創建は不明のままです。境内左の手水舎と社務所。参道から社殿の眺め。中央に狛犬が守護する拝殿と左に神馬像、その奥に境内社があり拝殿右にも鳥居が見られます。拝殿正面全景。瓦葺の入母屋妻入りで妻側に大きな向拝が付けられています。昭和3年に寄進年された狛犬は一部彩色されたもの。鬼飾りには金の文字が入り、破風飾りに輪宝紋のような神紋が入れられています。拝殿には龍の透彫りが施され、目は赤く彩色されていました。拝殿左の御霊社。後方の建物は幣殿と繋がっており、社務所兼神饌所と思われます。御霊社本殿。拝殿と幣殿は渡廊で結ばれています。名古屋城の石垣用の石。「名古屋城築城の際、このあたりを流れていた笈瀬川を使って石材を運んだ際に、現在の露橋付近に石切場を置いていたと伝わっており、ここで働く石工たちの信仰を集めたとされる。笈瀬川から出土した名古屋城築城の際の残石とされる石が、社務所前に置かれている。」境内右から社殿全景。幣殿から本殿も渡廊で結ばれています。本殿は神明造のようで、内削ぎの千木が載るが、鰹木は数えていません。境内右の境内社。由緒には西宮社、宗像社は合祀とあるので、それではないようです。左から不明社本殿の眺め。神明造の鰹木6本、内削ぎの千木が施されています。本殿域燈籠の竿を見ましたが明治42年(1909)寄進年は分かりましたが、社名に繋がるものは見られませんでした。鳥居は大正7年(1918)に寄進されたものでした。境内右の一角に戦没者記念碑。鳥居は明治45年(1912)、手前の常夜灯は昭和2年(1927)に遷座した年に寄進されたようです。この地の神社を巡って見ると、地域の文化や歴史に触れることができ、訪れるたびに新たな視点で楽しむことができます。村社 金山神社創建 / 不明(昭和2年(1927)向野橋付近から遷座) 祭神 / 金山毘古神、多紀理比売命、多岐津比売命、狭依比命、天照大御之荒魂境内社 / 不明社、御霊社祭礼 / 10月18日氏子地域 / 中村区熊野町、黄金通、下米野町、大正町、長戸井町、深川町参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区長戸井町1-2白山神社から徒歩 / 白山神社から南西の近鉄名古屋本線沿いに10分前後関連記事・白山神社(中村区太閤2)
2024.10.17
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どうにもならない暑さも過ぎ去り、朝夕は秋らしい風が吹くようになってきました。この時期になると冷たいビールからお酒の方に切り替わっていくものです。今回は直近で行われる酒フェスから三つ紹介します。1. 秋酒祭 岐阜 〜岐阜の地酒に酔う2024こちらは岐阜の金公園で開かれ、昨年も訪れましたが、岐阜県の32の酒蔵のお酒が味わえます。詳細はこちらで確認を2. 第19回AJUワインフェスタin多治見修道院 2024年11月4日(月・振休)開催こちらは岐阜県多治見市の多治見修道院で行われるワインフェス。何度か訪れましたが、多治見駅から無料シャトルバスも出ておりアクセスが楽。なによりぶどう棚の下で好きなワインを味わえるのが嬉しい。参加チケットは割高のように思えますが、フルボトルのワインが付く。なにより、収益はここで働く障害者を持つ方々に収入として還元されます。ボランティアの募集もあるようなので只今考え中。詳細は公式サイトで確認を過去の様子・「AJUワインフェスタin多治見修道院」に行ってきました3. 始禄・小左衛門 蔵開きこちらは岐阜県瑞浪市の土岐川左岸にある中島醸造で開かれるもので、春の宴と秋の宴の年二回開催されています。小左衛門で知られ、我が家お気に入りの酒蔵のひとつ。詳細は公式HPで確認を過去の様子・2024「小左衛門 春のお披露目会」行ってきました10月、11月は我が家のイベントも幾つか入っていますが、全てとまではいかないまでも、都合が合えばひとつは行きたいと考えています。行楽の秋、食欲の秋、名古屋から離れて見るのもいいかもしれませんよ。
2024.10.16
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9月19日、久し振りに駅西エリアを訪れる機会があり、前回8月2日に回り切れなかった中村区南部の神社を巡拝してきました。今回は、近鉄名古屋駅から近鉄名古屋本線沿いに1㌔程南下した中村区太閤2に鎮座する白山神社を取り上げます。名古屋駅から徒歩15分の距離にありますが、近鉄に乗り米野駅で降車すれば北に5分程と近い。待つくらいなら歩いたほうがいい、そんな事だから敬老パスの更新費も回収した試しがない。上の地図は明治31年とほぼ現在の地図の比較。鎮座地の中村区太閤2周辺は、明治22年周辺の日置村、牧野村、平野村、米野村、露橋村、北一色村が合併した笈瀬村の一部で、合併以前は米野村平池集落の一部でした。関西鉄道の北に位置し、後の関西鉄道の愛知駅(現在の平池町)の西にあたります。現在は関西線を隔てた平池町は急速に再開発が進み、高層ビルが立ち並ぶ洗練された街に生まれ変わりましたが、線路を隔てた鎮座地周辺は住宅が連なる静かな街並みが広がっています。中村区太閤2「村社 白山神社」社頭全景。西側の椿町線の整備に伴い、少しずつ町の雰囲気も変わりつつあるようです。まず最初に白山神社については由緒や創建時期につて詳細は不明です。地図の履歴から見ていくと、明治当時は現在地に鳥居の記はみられず、昭和43年頃に鳥居の記が現れます。これをもって創建時期は新しいとは言い切れず、事実境内には明治まで遡る寄進物もあります。社頭正面から神社の眺め。境内左が社務所で正面の拝殿は鞘殿と繋がっています。社頭の常夜灯、竿には大正2年(1913)と刻まれています。写真左は社号標で常夜灯と同じ時期の寄進年、左が神明鳥居の寄進年で明治41年(1908)とあります。拝殿正面全景。拝殿右の赤い社は境内社の大白龍大神。参道右の手水鉢から大白龍大神の眺め。龍とつくだけに、三匹の蜷局を巻く蛇の姿があります。三匹の蛇。重軽石かどうか定かではないが、座布団の上でこちらを見つめています。その先の大白龍大神本殿。手水鉢から本殿は長い覆屋に覆われています。拝殿前の個性的な顔つきの狛犬、こちらも大正2年の寄進。大正2年になにがあったのだろう。上は明治・大正・昭和・ほぼ現在の鎮座地の鳥居の記、寄進物の年代から以下は勝手な推測になります。明治の地図にはなかった鳥居の記は、大正(上段右)になり現在地のすぐ西に現れ、この神社はその後の地図から姿を消しています。そして昭和(下段左)になると現在地の南に現れ、その後再び姿を消し、現在に至っているように見えます。地図の正確性に疑問があるとしても、一つの神社が動いているように見えます。明治31年の地図以降の明治時代に創建され、椿町線周辺の整備に伴い白山神社は二度ほど動いているような気がします。駄目もとで愛知県神社庁を検索すると、写真付きで以下内容で紹介されていました。「社名 白山神社、祭神 白山比賣神、氏子域 太閤、例祭 10月18日」・・・やはり創建や由緒までは記されていなかった。これ以上考えていても進展しないので先に進みます。拝殿から本殿方向の眺め。祭神の白山比売神(菊理媛神)は、良く縁結び、夫婦円満、家内安全の神様として知られます。明治頃の当地は集落を取り囲むように田んぼが広がる一帯、五穀豊穣を願って祀られたものだろうか。神紋は亀甲紋に花は撫子?…良く分からない。拝殿から社頭の眺め。右の狛犬の脇に立つ幟立ての寄進年は明治40年(1907)、自分が見たなかでは一番古い寄進年でした。昭和以前は田んぼが広がっていた一帯も、住宅地となり名残も見られない。社頭西側から白山神社の全景。椿町線の整備によって、あおなみ線、JR関西本線、近鉄名古屋線の鉄道で長く分断されていた太閤と南側の平池町とはアンダーパスで繋がるようになりこの辺りも変貌していくのだろうか。白山神社創建 / 不明 祭神 / 白山比売神境内社 / 大白龍大神祭礼 / 10月18日参拝日 / 2024/09/19所在地 / 名古屋市中村区太閤2-2-10近鉄名古屋駅から徒歩 / 南西に15分程過去記事・熊野社
2024.10.13
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白花彼岸花2024/10/04 西区洗堰緑地にて
2024.10.12
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9月6日に訪れた猿投山南麗神社巡りも鈴ヶ滝不動明王社で終わりとなります。この日10社目の鈴ヶ滝不動明王社の所在地は豊田市加納町馬道通、というより猿投温泉といった方が分かりやすいかも。亀首熊野神社から猿投神社方向に北上し加納川に架かる加納橋の手前を左折、ひたすら直進し猿投温泉に向かいます。移動時間は10分程で到着できると思います。鎮座地は猿投温泉の前を流れる加納川を堰き止めた灌漑用の溜池鈴ヶ滝湖の下流に位置します。駐車場は猿投温泉駐車場に駐車し、帰りは温泉でひと汗流して帰ることができる。写真は駐車場脇のマップ、不動明王社はマップの一番奥に架かる橋の袂に鎮座します。癒しのパワースポット 不動明王社(創建1554年)と鈴ヶ滝。「山容が秀麗で深山の趣にことかかない猿投山は「神霊が鎮ります山」として古くから崇められ、猿投山に詣ずる修験者や信者たちは加納の澤 (現、猿投温泉内の加納川)を通り、滝(現、岩風呂棟に隣接)で身を清めて 頂上に向った。 鐸杖の音が絶えなかったことからこの滝(落差10米)は「鈴ヶ滝」と呼ばれ、滝前の「不動明王社」にお参りすることを常とした。北の明王である「鈴ヶ滝不動明王」は、不動明王の中でも一番力をもっており、あらゆる災難を除き参拝者を強いパワーで守ります。 「不動明王社」と「鈴ヶ滝」周辺は中部有数のパワースポットで温泉内で一番美しい場所です。御神体 不動明王尊(三体)、御嶽山大神、白龍霊神、猿投大神、天戸御中大神、 白蛇霊神、観音菩薩、弘法大師、道祖神、南無大師遍照金剛」とある。駐車場から大和橋を渡り、右手奥の鈴ヶ滝橋に進みます、ここから先は車は通行不可。すぐ正面に不動明王社、傍らの鈴ヶ滝橋から鈴ヶ滝を正面から眺められます。橋を渡ると左手に鈴ヶ滝湖への散策路、直進すれば金泉の湯を通り駐車場に至ります。ここから先は森の木陰に包まれ、昼でも薄暗く、滝から噴き出す涼やかな風が心地いい。しかし蚊がいるので、虫除けは持って行った方がいいと思います。下を流れる加納川。名古屋からも近く、地下鉄東山線藤ヶ丘駅から無料巡回バスも運転されており手軽に温泉を楽しめます。その昔、事故に遭った際、後遺症の療養や、猿投山散策後の汗を流すのに足繁く通った馴染みのある存在です。長らくご無沙汰していましたが、今日の目的は不動明王社なので温泉はあとまわし。鈴ヶ滝橋下流から不動明王社(左)と鈴ヶ滝。道の正面に石の明神鳥居を構える不動明王社が見えてきます。社頭全景。左手に南無大師遍照金剛や道祖神が安置され、鳥居の先の朱塗りの堂が不動明王社になります。鳥居の束には「鈴ヶ瀧大神」と彫られているようで、鳥居は昭和39年寄進のものでした。岩と真砂土の印象が強い猿投山ですが、ここも後方の大きな岩や川底など通じるものがあります。鳥居左の経塔と道祖神。光背に「右??」「左 山??」…ピントが甘く読み取れない。鈴ヶ瀧を正面に眺める堂内、昼でも灯りが灯されています。正面右奥が猿投大神、左の祠は文字が刻まれていませんが恐らく鈴ヶ瀧不動明王と思われます。後方の大岩の上に石の祠が見られますが詳細は不明です。鈴ヶ滝橋から大蛇の体を祀ったとされる堂と猿投大神の眺め。自然の中に包まれて佇む社は全て石です。大蛇が傷を洗い清めたとされる滝壺。鈴ヶ瀧の由来と伝説「昔から山は信仰の場になっており、猿投山(標高629㍍)もその一つ。 猿投山に詣ずる修験者たちがこの沢を通り、この瀧で身を清めて頂上に向かった、錫杖の音が絶えなかったことから、この瀧を鈴ヶ瀧と称した。戦国時代は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、北条早雲など割拠し、この地方は三河北部の重要拠点をなしていた。 当時、松平清康がこの地を治め、現在の豊田を中心に広瀬城、上野城、寺部城、衣城、福谷城、八草城が在り、この城主たちは共謀して松平清康に反抗したが敗退。天文18年、この地を中古広見城主中条将監秀正が代って治めていた。 文和4年(1554)秀正の育てていた鷹が沢の大樹に巣をかけた、これを猿投山を徘徊する大蛇が見つけ窺っていたので、秀正は村人に命じて監視させていたが、ある日大蛇が現れ巣を襲わんとしていた。村人は弓矢で18本の矢を放った。 この時空は一天俄かにかき曇り大雨が降り出し、その凄さに村人は恐れ震え逃げ帰った。大蛇は矢に耐え切れず猿投山の山中に姿を消し、猿投山の西北の鈴ヶ瀧の滝壺に逃げ込み傷を洗い清めた。 村人は鈴ヶ瀧で喘ぐ大蛇を切り、体を鈴ヶ瀧の傍らの祠に祀り、頭は村へ持ち帰り弁財天として祀った。その時大雨が降ったことから、旱魃の時はここで難を祈れば効果があるとされ、鈴ヶ瀧のすぐ下流の釜石に供え物をして雨乞いをするようになった。 猿投山麗は5世紀末から窯業がはじまり、平安・鎌倉・室町時代にかけて発展し、日本の6古窯のひとつに数えられ、数千基の古窯が発見されています。陶工は定住せず、燃料を求め次々に窯を作っていき、瀬戸や常滑に流れ受け継がれていった。 鈴ヶ瀧のある加納村から、赤津村三軒屋へ至る道は、後に瀬戸と交流する道路となり、加納川の水を利用した水車小屋で陶土を作り、瀬戸へ供給する交通の要道となり、この道を通る人は鈴ヶ瀧で休憩し鈴ヶ瀧不動尊でお参りするのが常となった。現在も猿投神社や鈴ヶ瀧不動尊に厄除け参拝する人々は多い。 釜石は鈴ヶ瀧下流20㍍に今も現在する。鈴ヶ瀧不動尊は瀧の洞から、現在の場所に移されたが、その年代は定かではない。 猿投神社創建は西暦313年の創建で、主祭神に大碓命、両側に景行天皇、垂仁天皇が祀られており、猿投山周遊道の入口である。」解説から鈴ヶ滝不動明王社の創建は文和4年(1554)、当初の鎮座地とされる鈴ヶ洞は特定できなかったが、解説からすると、さほど離れてはいないだろう。下流の村に祀られた弁財天についても所在は分からなかった。いずれにせよ、猿投山周辺では蛇の姿を見かけることが多かった、山中には大碓命が猿投山で蛇にかまれたさいに血を洗い流したとされる血洗いの瀧などがあり、蛇やら龍は縁がありそうです。不動明王社から200㍍奥に進むと鈴ヶ滝湖がありますが、そこに至る道もそんな道です。猿投山はせめてトレッキングシューズで足固めして行くべきところで、今は蛇よりも世代が代った熊や猪の方が怖い存在かもしれない。役に立たないかもしれないが念のため熊鈴も必要な所です。鈴ヶ滝不動明王社創建 / 天平元年(729) 祭神 / 不動明王尊(三体)、御嶽山大神、白龍霊神、猿投大神、天戸御中大神、 白蛇霊神、観音菩薩、弘法大師、道祖神、南無大師遍照金剛境内社 / …祭礼 / …所在地 / 豊田市加納町馬道通21-21参拝日 / 2024/09/06亀首 熊野神社から車移動 / 亀首熊野神社から猿投神社方向に北上し加納川に架かる加納橋の手前を左折、猿投温泉に向かいます。 移動時間10分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社・八幡社・大鳥居 白山神社・亀首 熊野神社猿投山周辺の巡拝した神社仏閣のマップはこちら
2024.10.11
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大鳥居の白山神社から5分程北上し、青木橋西交差点で左折すると、正面に森が見えてきます。所在地は亀首町下向イ田、今回の目的地「熊野神社」の鎮座地です。参拝者駐車場は見当たらず、周辺の生活道路も幅員が狭く駐車余地はありません。自分は亀首町森腰集会所に停め、森の南側の社頭に向かいました。熊野神社は猿投山南麓の亀首集落の籠川右岸丘陵地の亀甲山に鎮座します。亀首の由来は社地南を流れる本徳川と籠川が合流する、籠川盆地の形が亀の首に似ているから付けられたという事です。中世頃、高橋庄と呼ばれており、明治頃の大字はその頃の一村で、明治22年廣瀬村大字亀首、明治39年猿投村大字亀首・・・と編入の結果、現在の豊田市亀首町となりました。明治頃は丘陵地に雑木林の広がる一帯でしたが、現在は大手企業の工場が建てられ、物流トラックが行き交うようになりました。熊野神社社頭。一旦社頭を通り過ぎて、南側に鳥居がないか先に進んで見ました。その先の角に霊神碑と龍王大権現が祀られており、ここから南の本徳川には鳥居は見られなかった。社頭に戻るため振り返ると森の中に複数の社が祀られていました。蜘蛛の巣の先に4社祀られており、右手の山神は分かりますが、他の3社の社名は分からなかった。もう少し踏み込むべきだったか…村社 熊野神社社頭全景。石の神明鳥居の先から石段が続き境内と結んでいます。社頭の狛犬。寄進年は見忘れましたが、後方の石灯籠は昭和13年に寄進されたものでした。鳥居から一直線に続く石段。石段の先の社殿。左側に陽に照らされた石像があるようです。熊野神社社殿全景。石段の左に手水舎があり、手前に久しく見ることは無くなった、二之宮尊徳の像があります。少し前までは金次郎の像が校庭に立てられていたいたものですが、最近はめっきり姿を見かけなくなった。今の時代に子どもが仕事をしながら勉強する姿は、そぐわないのだろう、今は本の代わりに手に持つのはスマホなんだろうなぁ。熊野神社の龍口。社殿右からの眺め。社殿全体はコンクリート造りの尾張造り。立て替えからそれ程経っていないように見受けられます。拝殿脇の由緒。「熊野神社亀首村磯谷氏の祖である佐竹権之進維高が、熊野三所権現へ七度参拝して七度目の満願で霊亀を得て、現在の丸山に創建しました。 維高は姓を磯谷と改め、代々にわたり、熊野神社の神官を務めました。熊野神社の鎮座する地は丸山といわれ、又、山の南側に亀の首に似た松が聳えていたことから亀甲山と呼ばれる様になりました。 亀首の地名は本徳川と籠川が合流する形 、松、霊亀に由緒があると云われています。(出典 豊田市教育委員会発行「猿投村に関する口碑伝説集」) なお、神社の敷地面積は20118㎡であり、そのうち境内地は3908㎡となっています。猿投地域会議 」愛知県神社庁の熊野神社記載内容は祭神の記載に留まり、創建など記されておらず、愛知縣神社名鑑を買えという姿勢の様で、もう少し他県の情報と比較し創建程度は掲載してもらいたいと感じる。大正15年(1926)に出版された【西加茂郡誌】には以下のように記されています。「祭神 速玉之男命、他2柱創建 天平元年(729)9月 祭日 10月18日所在地 亀首 氏子 102戸」【猿投町誌(1968)】の記載内容は西加茂郡誌と同様で創建年は「不詳」となっていた。熊野神社拝殿額、神紋は左三つ巴の様です。拝殿内から幣殿、本殿方向の眺めです。右翼殿から本殿の眺め、5本の鰹木と外削ぎの置き千木が載る。境内に左の社務所後方には東郷元帥と乃木大将の像と大東亜戦争殉国碑が建てられています。(写真は乃木大将像)そこから更に亀甲山の頂に向け石段が伸び、その先に境内社の姿があります。境内社全景。正面に板宮造りの4社と右に石の社、左に少し離れて1社が祀られています。左の社は御嶽神社。左から天道神社、秋葉神社、金比羅大神と続きますが、4社目と石の社の社名は読むことができませんでした。社務所から見る社殿の全景。地史を見ているなかで、この辺りの神社は「古くから続く神社が多いが古来の面影を残すものは少ない」とありました。熊野神社も天平元年(729)創建とされる長い歴史を持つ神社です。近代工法の綺麗な社から昔の姿は描けませんが、こうした流れは今時の金次郎像と同じなんだろう。創建以来、亀甲山の頂から、氏子が住む亀首集落の五穀豊穣と無病息災を見守ってきたのが熊野神社です。社頭の先の稲の出来具合はどうなんだろう。亀首 熊野神社創建 / 天平元年(729) 祭神 / 速玉之男命、伊弉冉命、事解男命境内社 / 御嶽神社、天道神社、秋葉神社、金比羅大神他祭礼 / 10月18日所在地 / 豊田市亀首町下向イ田参拝日 / 2024/09/06白山神社から車移動 / 豊田市消防団伊保詰所から北上、青木橋西交差点で左折、直進移動時間5分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社・八幡社・大鳥居 白山神社
2024.10.10
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先日横断歩道を通行中、人を縫うように駆け抜けていった電動ママチャリに引っ掛けられた。すぐに呼びかけたが、止まる事もなく無視して走り去っていった。自転車で人と接触した場合、それは事故です。立ち去れば当て逃げです。チャリは車両であり、人が歩行している横断歩道を乗って通行する、歩行者の通行を阻害する運転、人と接触することが違反であり事故である意識は全くないようだ。交差点でも一旦停止せず曲がってくる、歩道を人波を縫うようにスマホ片手に右に左に無秩序に走り抜ける。便利なはずの自転車や電動キックボードも交通法規は全く順守されていない。こうしたことは日常茶飯事だ。法令順守意識が低くなり、人身事故が増えれば厳罰化、軽車両の運転免許制も視野に入る。自動車運転も厳罰化されるのも当然だろう。これも我々利用者が招いた当然の結果だろう。自分自身、チャリにヘルメット着用の努力義務化されて以降乗らなくなった。理由は簡潔、ヘルメットを被りたくないそれだけのことです。思い起こせば、原付のヘルメット着用義務化以降、原付に乗らなくなったのと同じ行動をとっている。来月11月から自転車の罰則が強化されます。当然キャンペーン期間なので集中取り締まりも予想されます。子供を乗せてスマホ片手に駆け抜ける方、歩道を並んで走るその習慣は改める時が来ています。自分も含めて、一ヶ月の間に初心に戻った行動をとるように習慣化した方がいいようだ。チャリとて人にぶつけたら、立ち止まって怪我の有無を確認するのは当前の行為です。今年は、車をぶつけられた事もあり、先方の口実(見ていなかった)や被害者の怪我の状況を気遣う初動の無さから、車も自転車感覚なんだなと痛感した。加害者側にはなりたくないものだ。
2024.10.09
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豊田市伊保町大鳥居「白山神社」。八幡神社から東へ4分程の伊保町下川原交差点北角、豊田市消防団伊保詰所の西隣に鎮座しています。車でとても近い距離にありますが、県道沿いや鎮座地周辺に駐車余地はなく、結局最寄りのコンビニに引き返し、買い物を済ませ駐車の了解を得て歩いて向かうことにしました。明治24年当時の地図で見ると、飯田街道を保見から下伊保集落を過ぎ、籠川を渡る手前から猿投神社に通じる道筋の入口に白山神社が鎮座します。明治24年と現在の地図上(右)ではここに神社の記は見られません。社頭から伊保町下川原交差点のある南側の眺め。街道から白山神社社頭は自動車展示場の奥に参道がありますが、分かりにくいかもしれません。伊保詰所の左から境内につながる裏参道があるのでそちらを目指した方が分かりやすいです。街道からかなり奥まった位置に白山神社の鳥居があります。地名の伊保町大鳥居の由来は定かではありませんが、白山神社のこの鳥居から付いたものか、街道から猿投神社に通じる入口でもあり、過去に大鳥居でもあったのかもしれませんね。鳥居から先の境内。大きな杉が聳え立つ境内には、左手に社務所があり、高木の樹々に包まれた杜の中に白山神社の覆屋あります。白山神社由緒。「祭神 白縫姫之命創祀 仁寿元年十月 (西暦851年)由緒 当社は一般には安産の神として尊神されてきました。町内では別名「大鳥居神社」、「大鳥居さん」の名で知られ、婦人の方々の信仰を集めた神。 これは古より村人たちが大鳥居の神に妊婦と子どもの安全を祈願してきた風俗に由来すると考えられます。例祭 四月第一日曜日 昭和58年」猿投神社が現在地に創建されたのが仲哀天皇元年(192)とされますが、小さな白山神社ですが見た目から測り知れない歴史を持っているようです。白山神社といえば祭神は菊理媛尊や伊邪那美命となりますが、由緒にある白縫姫之命は馴染みがなく、個人的に源為朝の妻のイメージしかない。西加茂郡誌から白山神社を調べて見たが、記載はなく詳細は不明です。境内右側から見る白山神社の全景。中央の根元から二つに分かれて聳える杉は、注連縄こそ巻かれていないものの、御神木の雰囲気が漂います。こんもりと盛られた頂の上に覆屋があり、その右側に結界が張られた石の社が祀られています。このあたりは、6世紀中頃から後期に造られた古墳が複数確認されている土地柄なので、この雰囲気は古墳を想像してしまう。結界が張られた石の社。由緒にはこの社について記されておらず、新たに近隣から移されてきたものでしょうか、基壇だけが新しい。社をひと回りしましたが、詳細は分かりませんでした。覆屋へ続く参道の全景。左手に手水鉢があり、石段の手前には昭和48年に寄進された一対の常夜灯が建てられています。大きな屋根の覆屋の下、石の基壇の上に白山神社の社が祀られています。社は外削ぎの載せ千木に4本の鰹木が載るもので、社名札は架けられていません。覆屋は昭和48年に寄進されたものなので、社もその際に建て替えられたかも知れません。昔は出産そのものが穢れとされ、今のように医療がなかった時代、出産は妊婦にとっては命がけでした、幸運に恵まれ、この世に生まれた子も無事に成長する事は少なかったでしょう。仁寿元年(851)の創祀以来、この集落の女性の安産と子の成長を祈願する拠りどころを白山神社が担ってきました。街道から少し高くなった境内から南の眺め。境内は遊具もあり、子供たちの遊び場になっていました。白山神社創建 / 仁寿元年(851) 祭神 / 白縫姫之命境内社 / 不明社1社所在地 / 豊田市伊保町大鳥居参拝日 / 2024/09/06八幡神社から車移動 / 伊保町的場交差点を右折、県道58号線伊保町下川原交差点を左折、80㍍直進した左側。移動時間4分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社・八幡社
2024.10.07
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豊田市伊保町宮本鎮座「八幡社」前回掲載した豊開神社から北進し、県道58号線(飯田街道)を右折し東に進み伊保町的場交差点で右折、1本目の道を右折直進すると今回の八幡社に至ります。上は明治24年(1891)当時と現在の比較地図。神社は街道沿いに出来た下伊保集落の南側に位置し、南に伊保川が流れ、すぐ東に籠川が合流する田園地帯に鎮座します。古くから要衝として開け、天正19年(1591)に原長頼により検地が行われ、延宝8年(1680)、当時の殿貝津陣屋の支配に置かれていた。八幡社の創建も古い様で当時の地図に既に描かれています。社地全景。細い道を西に進むと伊保町区民会館に至り、その脇に南北に長い社地を持つ「八幡神社」の社頭に出ます。右に昭和12年寄進の「村社 八幡神社」の社号標が立ち、その先に社殿が広がります。社頭全景。西から南にかけて田んぼが広がり、周囲に高い建物もなく開放感のある社地。昭和62年健之の石造明神鳥居と八幡神社の額。鳥居から先の境内。左に手水舎、中央の拝殿・本殿、右手の境内社が主な建物。手水舎から田んぼの先のお助け地蔵や開豊神社が鎮座する浄水町方向の眺め。周囲の田んぼは概ね稲の収穫を終えるころでした。八幡神社の龍口。手水舎右手の社記。「社記社名 八幡神社所在地 豊田市伊保町宮本20番地祭神 誉田別命(応神天皇)由緒 創設は応安2年(1369)8月15日、京都府石清水八幡宮の分社として勧請 旧下伊保の氏神として奉斎し村民の尊崇極めて厚く今日に至っている 明治5年10月村社に列せられる 昭和14年10月18日神饌幣帛料供進神社に指定される例大祭 10月10日境内末社 【神明社】 祭神 天照皇大御神、【津島社】 祭神 素戔嗚尊、【秋葉社】 祭神 加具土命、 【天神社】 祭神 天満天神、【金毘羅社】 祭神 大物主命、【風神社】 祭神 不詳、 【御嶽神社】 祭神 伊佐波登美命境内 1991㎡氏子 134戸崇敬者 76戸昭和62年5月吉日」西加茂郡誌に目を通しましたが、内容は社記に及ばぬものでした。舞殿。入母屋妻入りで四方吹き抜けのもので、昭和62年の寄進物が多いのでこの時期に改修されたのだろうか、全体に社殿は綺麗に保たれていました。舞殿右から社殿全景の眺め。舞殿から拝殿方向の眺め。拝殿全景。昭和62年寄進の狛犬。拝殿額。拝殿内。拝殿左から流造の本殿。外削ぎの置き千木で鰹木は3本、鬼板の紋は左三つ巴の紋が入る。境内右の境内社。社記によれば神明社、津島社、秋葉社、天神社、金毘羅社、風神社、御嶽神社があるとあったが、境内で他の社が祀られている様子もなく、この社に全て合祀されていると思われます。社前の狛犬。狛犬、常夜灯共に寄進年を見忘れましたが、昭和初期に寄進されたもののようです。蟇股の龍。この社、彫には相当拘って作られています。向拝柱木鼻の獏。海老虹梁の波と肘木の牡丹の彫。脇障子にも手の込んだ彫が施されていますが、この部分は後付けか?小さな社ですが、よく見れば随所に拘りが詰め込まれています。拝殿から社頭方向の眺め、綺麗に手入れされた居心地のいい神社です。車を停めさせて頂いた伊保町区民会館から南の眺め。あの頂からかつては多くの若い世代が飛び立っていった、その空にアキアカネが飛び交っていた。八幡神社創建 / 応安2年(1369) 祭神 / 誉田別命(応神天皇)境内社 / 神明社、津島社、秋葉社、天神社、金毘羅社、風神社、御嶽神社所在地 / 豊田市伊保町宮本20参拝日 / 2024/09/06開豊神社から車移動 / 開豊神社から浄水町原山東交差点左折・直進、貝津町蓑輪交差点を右折し県道58号線へ、500㍍直進し右折、伊保町区民会館方向へ。移動時間7分程。関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社・開豊神社
2024.10.06
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豊田市浄水町原山『開豊神社・神風特別攻撃隊 草薙隊之碑・十三塚』長いタイトルで恐縮です。この神社は先に掲載した日守神社から、南に続く上り坂を上り切った右側の浄水町区民会館の東隣に鎮座する神社。すぐ北側には愛知少年院があり、昭和37年のお助け地蔵復興を支援した。神社は南を向いて鎮座し、石の明神鳥居と拝殿・覆屋が一続きとなったもので、境内右側には開拓碑や神風特別攻撃隊 草薙隊之碑と十三塚が立てられています。近年境内整備・社殿改修されたものと見え、境内・社殿は至って綺麗な状態です。明治頃の鎮座地は伊保川右岸の丘陵地で樹林や荒れ地ばかりの一帯で、民家や神社の記は見られません。この地が開かれたのは昭和に入ってからのこと、そのきっかけになったのが、旧海軍名古屋航空隊伊保原飛行場建設により変貌がはじまり、終戦後飛行場用地は払下げ、戦後の食糧難を補うため開墾し農地に開拓されて来た町で、神社も飛行場の跡地に鎮座します。神社の南側に東西に真っすぐに伸びる道路が滑走路の名残を留め、境内には巨大な砲弾や錨が置かれ、訪れる者に戦争の愚かさを伝えています。社地に兵器が安置されているため、神社は戦争と関りがあるように見えますがそうではないようです。愛知県神社庁、西加茂郡誌、猿投町史など目を通すが社名はなく、開豊神社の創建時期、祭神について定かにならなかった。戦争というより、「開豊」の名からこの地の開墾事業に伴い祀られた神社かと思われます。社頭正面全景。昭和44年寄進の鳥居に架かる額は「開豊神社」。境内から見る社殿の全景。参道左に手水鉢と一対の白い狛犬があり、入母屋妻入りの拝殿と切妻平入の覆屋が連なっています。手水鉢と龍口。拝殿前の狛犬は昭和44年に寄進されたもの。平成29年(2017)の拝殿額。戦後の昭和21年(1946)、この地に入植した人々により、伊勢神宮から分霊し伊保原神社を造営した事にはじまり、昭和44年(1949)に「開豊神社」に改称した神社のようです。昭和44年の寄進物が多いのは改称時に合わせ寄進されたからでしょう。額の平成29年は現社殿の改修年度かもしれない。本殿は神明造で鰹木が6本、内削ぎ千木が付くもの。祭神は天照大神と思われます。かつて特攻機が飛び立っていった滑走路のあった社頭の眺め。社頭右手の開拓碑。碑文は以下。「沿革 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和21年7月多くの人達によって開拓事業が始められた。 県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。 この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。 屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し26年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。 30年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先、伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお、33年和田ヶ池、36年愛知用水の完成により水田17ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。 漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積170ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 昭和46年12月吉日建立之 伊保原開拓農業協同組合」神風特別攻撃隊 草薙隊之碑。碑の前には日進日露戦争で活躍した巡洋艦三景の32㌢砲弾が置かれている。砲弾の解説。碑の傍らに名古屋海軍航空隊を語る碑が立っています。「此の地は昭和17年4月1日開隊、昭和20年9月2日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 昭和20年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 4月5日・12日の両日各20機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出、菊水一号二号四号作戦に参加 同月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還28機、戦死56 彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり 志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也 昭和47年4月吉日 豊田海友会」草薙隊之碑後方に置かれている錨と消火栓。「特攻花 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。 みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。 今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 慰霊50年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。 和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 平成七年四月 草薙隊之碑保存会」因みにオオキンケイ菊とはこの花です。堤防などで良く見られる花で、群落を作り綺麗いなものです、人の都合から法面緑化で植えられらながら、繁殖力が強いから特定外来生物だそうです、都合のいい話です。右の五省の碑と十三塚の石碑。「十三塚のいわれ 室町時代末期のものと推定される径4㍍程と1㍍程の大小13個の塚より ある先年其の内の一つから永正の頃と思われる経筒を発掘した(郡誌)大正8年に銅経筒と仏光背一つが出土したという。」発見された経筒はその後行方不明となったようですが、「猿投町史」か「豊田市史」に目を通していた際に白黒写真で紹介されていました。開豊神社創建 / 昭和21年(1946) 祭神 / 天照大神(推定)境内社 / ・・・所在地 / 豊田市浄水町原山参拝日 / 2024/09/06日守神社から車移動 / 日守神社から車で南進・1.2分関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵・日守神社
2024.10.05
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豊田市貝津町西向畑「日守神社」嘗て伊保郷と呼ばれた地域で伊保川左岸の平地は豊かな稲作地帯で、右岸は丘陵地が迫る地域。江戸時代は三河国加茂郡殿貝津村の一部で明治に入り伊保村の一部となり、その後も猿投町に編入を繰り返し、現在の豊田市貝津町となった。地域には室町時代と思われる十三塚があり、経筒や光背が出土されるなど古くからの土地柄です。鎮座地は右岸の丘陵地の北麓の森の中にあり、近くのお助け地蔵から歩いても1.2分で社頭に辿り着けます。日守神社西参道入口。後から分かった事ですが、社殿東に石の明神鳥居を構える正参道があります。しかし、現在はあまり利用されないのか、鳥居から先の参道は雑草が生い茂り、社頭まで行く気にはなれなかった。西参道入口右側には「日守神社」社標があり、舗装された参道の左側に社殿が建てられています。駐車場はないので最初に書いておきます。平成5年健之の「日守神社」社標と、真新しい舗装された参道。社殿全景。周囲を白壁で囲い、コンクリート造の本殿と右に拝殿が主な建物になります。本殿域を囲む白壁は神門と繋がっています。本殿は流造。この辺りにくると、右に正参道が見えてくるのでそちらに向かいます。杉に包まれた正参道から拝殿、神門方向の眺め。参道の先の鳥居、その先は蛇嫌いな自分にとって好んで立ち入りたくない雰囲気。鳥居前から境内を眺める。この鳥居が寄進されたのは平成5年の事、草むらの先にはひょっとして一ノ鳥居があるのかもしれません。鳥居扁額。では、改めて社殿に向かいます。切妻瓦葺の建物で拝殿と社務所が一体となったもので、斬新な造りかもしれない。拝殿から神門の眺め。神門前の狛犬の寄進年は見忘れました。当神社について、愛知県神社庁、西加茂郡誌(大正15)、猿投町史など目を通すが、日守神社としては情報が得られず、創建時期、祭神についても定かにならなかった。今昔マップを遡ると昭和52年には鳥居が見られ、昭和43年には鳥居もなく建物らしき印が付き、昭和34年に遡ると何も表記されていなかった。また、寄進物の寄進年も大正時代のものが見られず、創建時期は昭和に入ってからなのかもしれません。しかし、地図に現れないだけで、何らかの形でそれ以前から祭祀されていた可能性もあります。本殿には木札もない、祭神・・・分かりません。社名の日守を夷守(ヒナモリ)と読み替え妄想を膨らませると、祭神は神功皇后(応神天皇の母)なのかな?だとすると安産・子育てのご利益が得られるのか?本殿の全景。本殿は流造で棟に鰹木・千木はなく、男神・女神の推測すらできません。境内の手水鉢。上は拝殿左側のもので、下は本殿右に置かれているもの。ここも寄進年を見忘れていました。上はともかく、下の手水鉢は外周を見ておくべきだった。拝殿から正参道の鳥居の眺め。帰り際、車で伊保川の下流から社地東側をひと回りしましたが、鳥居の先がどこに通じているのか見つけられなかった。日守神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・所在地 / 豊田市貝津町西向畑参拝日 / 2024/09/06お助け地蔵から徒歩移動 / お助け地蔵から徒歩1.2分関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社・お助け地蔵
2024.10.04
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観光列車「つどい」で行く「三重の地酒 ほろよい列車」の続きとなる今回は、当日の様子を掲載します。当日は曇天。折り畳み傘と缶ビール・つまみをリュックに入れ近鉄名古屋駅に集合。10:06発のつどいを待つ。近鉄のイメージカラーに近い車体色のメタリックレッドの「ひのとり」ホームに入ってくると、写真に収める人の多い車両。ポップなカラーリングの「つどい」がホームに入ってくる。なにやら風変わりな車両が入ってきて、車内を覗き込む人も多い。いろいろなイベントで使われる「つどい」、自分自身初めての乗車なので興味は尽きない。今回は三重の日本酒を堪能する「ほろ酔い列車」として鳥羽までの約2時間、三重県産食材を詰め込んだお弁当をつまみながら、県内七蔵のお酒を堪能し蔵元の説明が聞けるもの。当日の七蔵のお酒。どれも三重のイベントでは良く目にしますが、後藤酒造と早川酒造部のお酒とは縁がなかったので楽しみにしていました。各席に用意されたのが、地元駄菓子ベビースターラーメンと地元の食材を使用した「あて」、お猪口と樹脂カップが用意され、みえの水まで用意されていました。事前に飲み放題ではないとあったので、色々と持ってきましたが、結論は全く不要。酒は何度もお代わりができ、二時間では十分すぎる「あて」もあり、とても満足できお値打ちなイベントでした。各蔵、持ち時間の中で酒蔵のPRと酒造りの拘り、そして代表銘柄の試飲が行われます。どの蔵元も甲乙付け難いお酒ばかりでした。上。最初はガラスのお猪口で後藤酒造の颯で乾杯。我家の好みに合っていたお酒。下。伊藤酒造の鈿女。天鈿女が描かれたラベルが印象に残る。上。清水清三郎商店「柞」と大田酒造の「半蔵」これはもう知名度が高く、比較的容易に手に入るようなり、有難味は薄れたが味わいは流石。上。天一の銘柄で知られる早川酒造部の「magic hour」。田光の銘柄で知られる早川酒造があり、同じ蔵元と誤解していましたが、どちらも別物で血縁関係にあるようです。其々味わいに特徴を持つお酒を生み出しています。下。丸彦酒造の「三重の寒梅」。四日市のお酒は美味しいと教えてくれた酒蔵。飲む機会もあり、どの銘柄でも安心して飲めるお酒。上。河武醸造。代表銘柄は鉾杉で名は以前から知っていたが、「式 mellow」初めて飲むお酒。ラベルの色違いで4種類あり、今回試飲できたのが青ラベルのmellow。これも今回試飲した中で、我家の好みに合っていたお酒。七蔵ともに社内で即売すれば買っていきたいお酒ばかり、残念ながら即売はない。捜すというのも楽しみですが、次回その点をなんとかしてもらえると有難いなぁ。2時間30分のほろ酔い列車も海が見えてくれば終着駅の鳥羽も近い。終わりが見えてくると、各蔵元の在庫一掃と云わんばかりに注ぎに来てくれ、カップはフル稼働。一杯だけかと想定していただけに、嬉しい誤算、これでお楽しみ抽選会で当たれば最高なんだが、くじ運のない我が家は想定通り二人とも外れたが、それでもお得感満載のほろ酔い列車でした。予定時刻通りに12:37に鳥羽駅到着。当所は駅近くの鳥羽さざえストリートで海産物を食べて帰る予定でしたが、宇治山田駅にとんぼ返りし、伊勢神宮外宮近くのお店に寄る事となった。鳥羽の振興と趣旨が外れるが三重県の振興には逸れてはいないはず。13:20宇治山田駅到着。酔い覚ましに最寄りの神社を経由しながら、外宮を参拝し目的地に向かう。上。駅ターミナルのすぐ前の赤い鳥居の伊勢豊受稲荷神社へ参拝。下。伊勢豊受稲荷神社社頭右の明倫商店街、アーケドが付く昭和レトロな趣が残る商店街で、右手奥に続いています。シャッターを下ろした店舗が多く寂しい限りだが、今の若い世代なら再び活気のある通りになるやもしれない。上。伊勢豊受稲荷神社から西に10分程の豊川茜神社、ここから勾玉池沿いに火除橋方向の伊勢神宮外宮へ。伊勢神宮外宮、豊受大神宮。主祭神の豊受大御神は、内宮の天照大御神の食事を司る神で、衣食住、産業の守り神として崇敬されており、今回は豊受大神宮を参拝し、外宮参道を伊勢市駅方向に向かう。伊勢角屋麦酒 外宮前店。今回、ここのビールと隣の若松屋 外宮前店の伊勢ひりょうずが食べたいとの事で宇治山田に戻って来た。写真は4種飲み比べセット(@1200)。ベルギービールに通じるフルーティーで女性好みのビール、飲みたかったかみさんにして「少しやりすぎ」という感想。どっしりとしたビールが好きな自分にはあまり合わなかった。所在地 / 伊勢市本町13番6号若松屋 外宮前店。ひりょうずと練り物にチーズが入った揚げ物、いずれも揚げたてで、つまみには最高ですね。豚捨 外宮前店。テイクアウト専用受付があり、そちらで豚捨コロッケ(@120)を購入。こちらも出来立てで、先ほどまで散々飲み食いしていながら、こうしたものは別腹のようで、どうしても吸い寄せられる。どちらも素朴の味でビールともよく合う。所在地 / 伊勢市岩渕1-1伊勢角屋麦酒から徒歩5分程歩けば伊勢市駅。16時過ぎの電車に乗り名古屋に戻る。今日一日、電車に揺られ、美味しいお酒や食事を味わい、それなりにウオーキングも出来て満足のイベントでした。後は電車に揺られひと眠りして帰ろう、乗り越す事はない。初めてのつどい乗車の感想。走行中あまり動き回れず良く見ていないが、景色を楽しむため窓際に設けられたテーブル席、椅子も良かったが、車窓の景色が・・・・長良川鉄道の「ながら」と比較すると内装の造りは若干負けてるかな。2024/09/28、伊勢市徘徊ルート関連記事 / 観光列車「つどい」で行く「三重の地酒 ほろよい列車」
2024.10.01
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問題児ハスラーとの決別の続きとなる今回はデリカの下取り価格と次の車となる予定のフリードとシエンタの商談について。そもそもこの二車選択に当たって、実家の両親の乗り降り、かみさんが運転する場合を想定すると4駆と大きな車体は無理、しかも自分やかみさんが高い座席へ上るのに「よっコラショ」と声が出るようになった。上は某デーラーの下取り価格算定根拠として出してきたもの。ハスラーは71万で売却済み。残るは21年乗ったデリカが下取りとなる、そのデリカも20万とのこと。ここでハスラー同様に一括見積に出したところ、下はこの20万で上は某社で41万で、この先乗っても下落する事は少ないと出た。所謂付加価値と希少性が評価されているようだ。ならばこの下取り額を指標にメーカーと交渉するが、なかなか40万までは届かない。現行フリードは2024年のモデルチェンジで最新のもの。候補はクロススターHEVモデル。試乗しましたが、セカンドシートをフラットにした場合、荷室はフラットになるものの、座面が全席後方に立って残り室内長が狭められる、後部荷室とシートの隙間を埋めるためのボードを付けなければならず、完全なフラットではない。気になる点車椅子の収納を念頭に入れているため、床が低くリアゲートの開口が大きく、慣れないと体にあたる。良い点荷室のボード下の床面に窪みがあり、テントやタープくらいなら縦に収容できる空間がある。装備としては最新式のため電子サイドブレーキが運転席中央に付くので、万一の時は助手席で車が止められる。outdoorをイメージさせるCM作りですが、荒れたキャンプ場などでは気を遣うので普通の乗用車。この車種は3ナンバー登録となります。フリードクロススターHEV見積。(下取りはハスラー金額)この車とにかく後付けするものが多く、それら部品代・取付工賃がプラスされるので合計金額は400万近くの車になる。課長クラス対応の値引きは一声3万。ここに先程のハスラー下取り50万が加わり、それでも330万の出費となる。ハスラーは既に買い取り業者に71万で売却済みなので、デリカの場合360万となる。結論として価格に見合う程、外観・内装に優位さがなく、値引きも渋いので、しばらく待った方がいい。現行シエンタは2022年のモデルチェンジ。そろそろこなれて不具合は抽出された車と思われ、グレードは3グレードあり、上級グレードZ、G、Xがあり、街中でもよく見られ大半がZグレードのようだ。我が家は中間グレードのG・HEVを候補にしています。ZとGのどちらを選択するかは、外観のフロントのキラキラやテールランプのデザインを好むかどうかだと思います。かみさんはそれら受け入れられないのでGグレードで交渉。アルミホイールのデザインも好みでないのでノーマルホイールとした。シエンタの良い点セカンドシートがフラットに収納されるので凸凹は少ない事。荷室は若干狭くなるが、全席と荷室に余裕があるので、その空間を板等で埋めれば就寝スペースが広がる。全車は5ナンバー登録となります。気になる点前席のドア開閉ノブが使いづらそう、オプションのカーテンが後席以外マジックテープ。サイドブレーキが今もフット式。余程整備されたキャンプ場でなければ行けないかもしれない。落石ゴロゴロの林道も相当気を遣いそうな車。両車に通じるマイナスポイントがスペアタイヤなし、最低地上高が低い、あと2センチ高いと有難い。評価できるのは、女性を対象とするためか両車ともに運転もしやすく、ハンドル操作はどちらも軽く、特にフリードは軽すぎる印象すらあった。街乗りではなんら不満はないと思う。結論として、マイチェンの噂もあり(その際電子サイドブレーキになるとも)、値引きもそこそこ期待できる。拘りが無く二車を選択するなら、シエンタかと思います。一方のシエンタは同じ内容を求めた場合、既に標準で付いているものもあり、取り付けるものは減る。値引きは一声53000円、2年経過しているが強気の価格だ。一般営業職の値引き枠上限は10万で線が引かれています。見積当時の値引きが5万。ここに同じデリカ下取り20万の相場価格が加わる事になり。総額は約260万となる。車両総額でフリードとはざっくり100万の差がある。そうして見ると外観からクロススターにその差があるかと言えば、値段の割にチープに感じてしまうのは自分だけか。今は値引きの渋いクロススターはしばらく待った方がいいのかもしれない。購入候補としてクロススターはここで対象外となり、シエンタ1本で交渉を行い、最終的に下取り値引き込みで50万を車両総額から割り引いてもらいシエンタG・HEVで契約しました。因みに同クラスの中古車価格が250万前後なので頑張ってくれたと思います。長年ノントラブルでどんなところでも連れて行ってくれたデリカ。スタックする車を助けた台数は2台。そんな相棒ともあと少しの付き合いとなり、20年の出来事が浮かんでくる。納期は来年春、その間はデリカで野山に出かけられる。本音はまだ〃乗りたいが、部品供給も難しくなり、長年乗るなと云わんばかり、ストックで買っておいたパーツを最後の御奉公で交換してやるかな。今の税制や部品供給体制は長年乗らず、買い替えろと云わんばかり。脱炭素・エコと称して大陸の安価なEVにまで補助金を垂れ流し買換えを促すが、EVはまだ未成熟。車が変わると、キャンプや山岳路、雪道では意識を改めないと痛い目に遭いそうですが、20代から続いた4駆とオフロードも卒業する時がきた。二回に別けて記載しましたが、この二車の新車を選択している方、愛車を手放す方、なにかの参考になれば幸いかと。関連記事・問題児ハスラーと決別
2024.09.30
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名古屋市守山区森孝3「三十三観音堂と道標仏」前回の天王社から7分程西に向かった山口街道沿いに鎮座します。幅員の狭い交差点の南東角に鎮座する三十三観音堂全景。左の道を直進し、東名高速をくぐってしばらく行けば天王社が鎮座する西山町に至ります。この辺り、明治頃は東春日井郡大森村大字森孝新田で、昭和に入り守山市大字森孝新田、昭和38年に名古屋市に編入された地域で、矢田川左岸沿いは一面田んぼの広がる地域でした。昭和に入り急速に宅地化が進み、それとともに田畑も減少し、今ではあまり見かけなくなりました。交差点から見た三十三観音堂。左の小さな覆屋と観音堂が西向きに連なり、右手の建物も観音堂のお務めするため建物だろう。左の覆屋には一体の馬頭観音が祀られています。光背に「右せと 左のふらい 」と刻まれており、山口街道り道標として祀られたもので、年号までは分からなかったが、風貌から江戸時代後半のものだろうか。右手の観音堂。三十三体の観音像が安置され、西国三十三所の観音霊場の本尊が安置されている。今のように誰もが簡単に巡れなかった時代、地域の代表が霊場を巡拝する講が組織され、地元に戻るとその証として像を安置、巡礼に行けなかった者はそれを拝むことで遠い霊場を巡拝した気持ちを得た。これらの像の銘が見えず、年代は分からなかったが、素朴な顔立ちの三十三体の像が収められ、今も地域から崇敬されているようで、堂内も綺麗に維持されていました。ここの細い路地を南に進むと弘法堂や八劔神社などあり、守山区森孝・四軒家地区散策コースになっているようです。周辺は細い路地が入り組んでおり、駐車余地はありません。三十三観音堂と道標仏創建時期 / 不明所在地 / 名古屋市守山区森孝3-1509関連記事・天王社(尾張旭市西山町)過去記事・名古屋市守山区森孝『八劔神社』
2024.09.29
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人生最後を飾る車の選択長い人生、無駄とは知りながら何台も車を乗り継いできました現在、2003年式の三菱デリカスペースギヤと2014スズキハスラー(4WDノンターボ)は2台所有してきました。ゆくゆく息子にと思っていましたが、独り立ちした息子達は車を所有しない方針(正解!)なので一人で乗り回してきましたが、軽の車検も迫り、車を一台に整理する事にしました。まずは真っ先に手放す2015スズキハスラーについて。『2015スズキハスラー』この車は新車(下取り除く150万)で購入した時から問題が多かった。・製造年月日の虚偽(今契約すれば今月中に納車可能)と云われるが、急がない翌月でよいとした。 これは後の原因不明のトラブル究明のおり、製造ロット調査依頼の際に製造日が契約半年前に製造され、モータープールで眠っていた在庫車と判明。【原因不明のエンジンかからない件】 1.新車として納車され2週間目、自宅でエンジンが始動せずスズキを呼び現認の上で要因調査と対応を求め引き取らせる。 2.1か月後、何の要因も分からないまま、瑕疵がないので安心して乗って欲しいとして納車される。 3.再び再発(二回)、1.2の繰り返し。 4.再発、要因究明を依頼、判明するまで受け取りを拒否。 5.4.の報告の際、調査結果・ロット調査の際に半年前に製造された在庫車両と判明、車交換を申し入れるも、瑕疵がないの一点張りで拒否。(要因も突き止められず瑕疵無し、再発を繰り返す事実もある中、スズキアリーナの姿勢と営業マンに不信感) 6.全ての整備・保険・営業のポイント稼ぎにJAFなど加入したが、アリーナから別の業者に切替、縁を切る。【その後】営業所は統合し東区に移転・新店舗となるが、所長やセールスマンは現在もいるようだ。その他トラブル、シフトレバー切替不具合で交換・安全センサーの過剰な反応・コンピュータ交換など山や電波の通じない遠出には使用できない車として扱って来た。【長所】・小回りが利き維持費が安い・燃費はCM公表値の半分程度だがデリカよりまし。【短所】・軽にしては燃費は想定値以下、満タン450㌔程度。・情報パネルの情報が馬鹿(不要な安全運転ポイントやhaloの表示) 燃料残量一目盛りになると、後続可能距離を表示しない、オドメーターは画面を変えないと出ない。 ドアを開けると画面も切り変えられない。 無意味な表示より時計やオドメーターの常時表示が欲しい。・一般的になってしまったがスペアタイヤがない、バーストすれば戻ってこれない。・安全装置の感度が敏感で誤作動多く、ワンボックスが割り込むだけでブレーキが作動し、次の加速が抑制され、後続の車から見るとぎくしゃくした危ない動きをする。・純正タイヤサイズが市販でも高い。・安全装置精度が低く誤作動が多い、制御を切っても、エンジン切ると再びONになる。・軽ゆえか車間を取らず詰められる、被せるように車線変更される。・積雪5センチ降雪しただけでドアミラーが展開できない。総括・人生初めてスズキを買ったが二度と買う事はない。・普通車も高騰するなか、200万近いが軽の価格の安さは魅力かもしれない。・・・が軽以外の選択肢もある・それなりに装備も付くが、センサーの精度が悪く信頼度に欠ける、ナビの画質も悪いので後方画像が不鮮明。CMのイメージからoutdoorで使用するのであれば、最低地上高の低さは行動制限、慎重な運転が求められ、用品一式積載し二人乗車時の山道は騒がしくて辛い。ヤリスの方が燃費も走行安定性も上回る。2015年式、車検1ヶ月を残したハスラー4WD Xノンターボ、走行72,000km買取業者の一括査定は以下大阪 A業者 即決なら 40万H社新車デーラー下取り 50万新聞を賑わした買取業者 70万ということで某モータースへ冬用タイヤ付71万で売却。一般的に売却する場合の残価率は3年で50〜60%、5年で40〜50%、7年で20〜30%とされるようです。この200万の車、9年乗って71万、35%なので良い条件とは思います。この金額が妥当なのかはともかく、30万の差が生じる事は事実です。即決なら幾らと煽られますが、下取する前に調べて見るべきでしょう。また中古車相場は年式・走行距離考慮すると高騰しており、中古のお値打ち感は過去の話の様ですね。この車、130万浪費し、これ以外に任意保険9年分、車検・点検、消耗品交換、燃料、自動車税諸々約170万を合算し、日割り計算で一日1000円が消え、1㌔移動に40数円掛かった事になる。 息子達にやると云っても「いらん」と云われる様に「車は無駄な消耗品」が正解だろう。デーラー・サービスマンの当たりが悪かった事例だが、短所が分かったうえであれば車自体は悪くはないと思いますが、自分は今後スズキはお断りだ。漸く問題児と縁が切れた。1台にするための候補車はかみさんが決めますが、フリードかシエンタの二択になりそうだ。そのあたりの商談、デリカの下取りについては改めて記載します。
2024.09.28
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来る9月28日、近鉄電車の観光列車「つどい」に乗って「三重の地酒 ほろよい列車」が名古屋から運行されます。運行区間は名古屋➡鳥羽間を結ぶもの。車中では三重の7種の地酒の試飲ができ、蔵元の商品紹介を聞きながら、三重の食材で作られたアテを味わいながら鳥羽まで揺られていくもの。往復の乗車券付なので鳥羽到着後は好きな時間で帰ります。残念ながら車中でお酒の販売はなく、試飲も飲み放題ではないので、つまみや酒類の持ち込みは自由。運行日時:24年9月28日(土曜)運行時刻:名古屋10:06 → 鳥羽12:37、帰路は各自旅行代金:¥85008月に駅西の神社を巡ったのはこのイベントの参加申し込みの為だった。近鉄のイベント申し込み・チケット受け取りはアナログで、営業所に行かないと手続きができず、面倒と言えば面倒。改良の余地があるが、自分には神社を探す(歩く)動機にもなるのでアナログで助かっている。これが鳥羽まで運んでくれる観光列車「つどい」近鉄と言えば「近鉄マルーン」と呼ばれるシックな茶色がイメージカラー。上は近年リニューアルされる前の「つどい」、シックな色合いは個人的に気に入っていた。下がリニューアル後の車体色、「どうしたぁ」と思わせるほどポップな色合いにイメチェンされた。いまどきの流れなんだろうが、あすらろう鉄道の絵と重なってくるのは自分だけか。車内も内装・床・テーブルなど刷新されたようなので乗るのが楽しみです。試飲できる酒蔵は上の7蔵で、試飲と聞くと量的な部分が気になる、蔵開きで良くある30mlのあのカップか? やはり酒を持っていくか。車内で即売をしないのはやや残念だね。鳥羽で土産用の酒を探すしかないか・・・秋風も吹き出し、車窓の景色を眺めながらのんびりと行ってみよう、ひょっとして彼岸花も見られるかもしれない。
2024.09.27
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いつか息子たちに譲ろうと長年所有してきた2台の車。しかし、息子たちには車を所有する気もなく、軽自動車が5回目の車検を迎えることになりました。これを機会に我家の車を一台にするため、車検が迫った問題児の軽自動車を手放す事にしました。車の下取りのやり取りや、新車商談については機会を見て独り言として紹介するとして、その買い取り先が四軒屋だったので、引き渡しを済ませ、最寄りの引山バス停まで歩くことにしました。尾張旭市西山町の西山公園の東で天王社を見つけたので、今回はそちらを掲載します。尾張旭市西山町、この所在地表示の北側が天王社の鎮座地になります。上は大正9年(1920)の尾張旭市西山町界隈と現在の比較になります。鎮座地は少し前まで東春日井郡印場村の一部で、昭和53年(1978)印場の一部より成立した町で、北に矢田川、南に香流川と二つの河川に挟まれた地域。当時と比較して水田はなくなり、周囲は舗装された道ばかりの造成された住宅地となり、体感温度は名古屋市中心街と変わらない。むしろ大きな影を落とすビルがない分だけ暑く感じる。西山公園南東角から公園の眺め。大きな樹も聳え日陰を作ってくれているので熱波から一時避難するには有難い存在だ。天王社は公園東側のビルの北側に鎮座します。この辺りの天王社というと守山では赤い社の印象が強いけれど、こちらの社はそうではなかった。西山町の天王社全景。大きな覆屋の中に板宮造り小さな社が祀られています。社標などはなく、赤くもないので天王社感を感じないけれど間違いなく天王社です。覆屋正面全景。大きな覆屋の中の小さな社。この神社の由来や地図から創建時の推測は分からなかった。覆屋内の社の扉に天王社の社名があり、祭神は恐らく素戔嗚尊と思われます。田んぼが広がっていた森孝新田の北東の小さな集落の守り神、或いは住宅街となった西山町の守り神として祀られたものか定かでなく、境内に寄進年など刻まれた寄進物もないので推測が出来ません。西山公園から眺めた覆屋。覆屋や社など手入れが良く、社頭に提灯櫓もあることから、地域では知られた社と思われます。天王社創建 / 不明祭神 / 不明祭礼 / 不明所在地 / 尾張旭市西山町2-6-4参拝日 / 2024/09/17公共交通機関アクセス / 基幹バス2で四軒屋西口バス停降車、北へ徒歩10分
2024.09.24
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貝津神社から南の県道58号線を右折、一本目を左折して伊保川を越えた右側に赤い幟のはためく小さな堂を見付け立ち寄ってみました。赤い幟が立つお助け地蔵から南の眺め、伊保川沿いの田んぼが広がる一帯に貝津町、猿投山の眺め。この道を更に南に上ると高台の伊保原町に至ります。緑の看板は貝津町リサイクルステ―ション。上は明治頃と現在の周辺の比較です。これまでは伊保川左岸を巡って来ましたが、今回は貝津神社から車で2・3分程の伊保川右岸にやってきました。大きく変わっていないように見えますが、山にはゴルフ場、丘陵地は造成され里山は住宅地へ姿を変えている事が分かります。お助け地蔵全景。祠はリサイクルステ―ションの入口左に鎮座しています。たくさんの赤い奉納幟がはためくお助け地蔵、これがなければ素通りしていただろう。切妻の拝所と開けっ放しの堂で、左に緣起が刻まれた石碑が立っています。地蔵堂としては奉納旗の数が多く、それだけ地元で親しまれている証だろう。「地蔵尊の緣起大正の中頃、詠歌講六人あり、その中の深見はま女、霊夢の中に「湧き清水のほとりに地蔵を祭って人々の幸せを守るように」とのお告げを受け、講の人々と相談して地蔵尊を建立した。 その前に、きれいなおいしい清水が滾々と湧いて桶からいつも流れ出ていた。通行人、村人たちは、この清水に喉をうるおし、 お地蔵様にこの清水をおかけしては、お参りして幸せをを願い「水かけ地蔵さん」と呼んて親しんでいた。 重病で食物が喉を通らないとき、この清水て命をつないだとも伝えられている。時移り第二次世界大戦起り、伊保原に海軍飛行場が建設され、このあたりもその一部となった。 終戦時、世は混乱し、お堂も傾き清水の桶もなくなったが気にとめる人もなかった。 昭和24年、渡辺広吉氏夫妻が当地に来住され、ここに休むおり、草むらの中に放置されている地蔵尊に気づき、ほこらを起して清掃し信仰をしていた。 昭和37年水野元夫氏や渡辺広吉氏が中心になり、村人や少年院の方々の援助によってお堂は完成した。 人々、尊像の多くのお助けに誰いうことなく「お助け地蔵」と呼ぶようになった。雨来益々参詣する者多く「祈願してかなえられざることなし」と信者いや増し村人そのお慈悲に感謝している。平成6年六月吉日 お助け地蔵奉賛会 」ここにあった伊保原の海軍飛行場の場所について、過去の地図や航空写真で調べて見たが地図には現れなかった。ここから南の愛知少年院の南側に、東西に2㌔程の直線道路が延びており、このあたりが滑走路の跡と言われています。(右の地図の赤線部分)お助け地蔵の鎮座地も基地の一部とあるので、かなり大きな規模だったと思われます。終戦が昭和20年、草むらの地蔵尊が見つけられたのが昭和24年、終戦直後の混乱の時代、人々の記憶から地蔵が忘れ去られるのも当然かもしれない。お助け地蔵祠の正面全景。大きなおたすけ地蔵尊の額の先には二体の石像が安置されています。手前の椅子に腰かけ、内に抱えた悩みを聞いてもらうのだろう。堂内の石像。左がお助け地蔵で、右の像の詳細は良く分からなかったが、戦前、戦後の混乱の中で野に打ち捨てられていた地蔵。お告げを受け人々の救済のために地蔵を祀ったその思いは、その後もこうして受け継がれている。悩める人を助ける地蔵と人々の助けにより護られているお助け地蔵、ともに助けられ存続している。お助け地蔵創建 / 大正中頃祭神 / お助け地蔵境内社 / ・・・所在地 / 豊田市貝津町西向畑参拝日 / 2024/09/06貝津神社から 車移動 / 貝津神社から南へ県道58号線を右折、一本目を左折、伊保川を越えた右側移動時間2・3分程関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社・貝津神社
2024.09.23
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貝津神社。貴船神社から南東へ5分程の伊保川左岸鎮座し、社地裏側には愛知環状鉄道が横切っており、道路を隔てた西側に栄岳寺と隣接しています。江戸時代は三河国加茂郡殿貝津村で、明治11年西加茂郡に属し、同22年伊保村の大字殿貝津となる。その後も保見村大字殿貝津、猿投町大字殿貝津、豊田市大字殿貝津など編入を繰り返し現在の住所となる。周辺一帯には当地の盟主を埋葬したと思われる6世紀頃の根川古墳群があり、猿投山南部のこの平野には古くから人が居住する地域で、その後も飯田街道(下街道)が作られるなど、物資移動の要衝地となり古城も点在する地域です。社頭は県道58号線の貝津町鉄砲迫信号を左折し一筋目を右折した左にあり、貝津町区民会館と敷地を共有しています。社頭は石造の明神鳥居と右側に村社貝津神社の社号標が立っています。上は明治24年と現在の鎮座地の比較で、当時の地図にも鳥居の記が見られます。集落周辺は水田の広がる一帯で、当時の殿貝津集落の中心に鎮座します。社頭右から境内の眺め、左の寄棟の建物は栄岳寺。社号標は大正11年、鳥居は昭和17年に寄進されたもの。鳥居前を守護する狛犬。鳥居扁額は貝津神社。鳥居から境内の全景。左に手水舎、右に社記があり、正面の社殿と本殿左右に境内社が祀られています。手水舎と龍口。三本指で凛々しい姿の龍ですが、口元は苦しそうでもある。境内右の由緒。「貝津神社社記。鎮座地 豊田市貝津町柚ノ木83番地祭神 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島毘売命、多岐都毘売命。 社殿には、天照大御神と建速須佐之男命との誓約の際になした、五男三女神が祀られている。社格 旧村社、十二等級由緒 社伝によれば、今から871年前、75代崇徳天皇の御代、平安時代後期の天治元年(1124)に八王子が勧請されたとある。 又、仁孝天皇の御代江戸時代後期、天保13年(1842)に神祇官により八王子大明神が奉幣、八王子様として住民から親しく呼ばれ、殿貝津の氏神として崇拝されている。 明治5年、郷社定則令により村社に列するとともに貝津神社へ改名された。社殿 昭和3年に改築、翌年に神門、玉垣、社務所を改築。 現社殿は昭和43年神明造へ、社務所は平成3年に改築。境内神社 白山神社・御鍬神社・津島神社・天山祇神社・神明社。神事 10月12日(または第二日曜日)」猿投周辺には八王子を祀る神社が多く、この神社もその一つのようです。「隣村が祀ったからうちも」なんて動機ではなく、数々ある神の中から、八王子を祀った背景は自分自身未だ分かっていません。拝殿正面全景。一対の狛犬と入母屋瓦葺の鉄筋コンクリートの拝殿。拝殿前を担当する狛犬。寄進年は見忘れましたが、社頭のものに比べ新しいように見えます。拝殿右側から社殿全景。左が社務所になります。貝津神社拝殿額。拝殿内の眺め。拝殿内には五三桐と丸に十字紋が見られ、中央の蟇股にも丸に十字紋が入れられており神紋は十字紋だろうか。拝殿鬼や軒丸瓦にも丸に十字紋が入る。本殿側面。本殿後方から拝殿方向の眺め。本殿は鰹木4本、外削ぎの置き千木が載り、鬼板には五三桐の紋が入れられています。本殿の裏は一部公園で本殿後方に境内社の覆屋あります。覆屋右側の社。他の社には木札が掛けられていたが、こちらにはなく社名は定かではない。右が吉野の行者、左が稲荷と書かれた木札が掛けられています。右から「ちゅうき」、「金毘羅」、「愛宕神社」、「秋葉神社」、「稲荷大明神」。これらの神社は平成26年、秋葉神社一本化に伴い愛宕山より移設されたものといいます。京都の愛宕山とも思えず、周辺地図から愛宕山を探して見たが、御船町の愛宕神社を指すのだろうか特定できなかった。覆屋から本殿後方の眺め。本殿右側に神明造の社が祀られています。本殿後方から行くことができず、拝殿左に向かう。拝殿左から先程の社に通じる参道。右手の神明造の社は津島神社、左手の社の常夜灯に社名が刻まれている。貝(具かも?)渓(?)神社とも読め、調べて見たが詳細すら分からなかった。二社の左から覆屋方向の眺め。すぐ後方には愛知環状鉄道の線路が続く、電車で訪れるなら貝津駅が最寄り駅になります。境内西側の道路から北の眺め。そろそろ彼岸花を見かけるようになる時期、この土手沿いにも彼岸花が彩りを添えるのかもしれません。こう暑いと彼岸花は花の成長を止めると聞きます。未だ熱風が吹き抜け、秋風とは程遠く、彼岸花の花期はいつもより遅れるのかもしれません。貝津神社創建 / 天治元年(1124)祭神 / 五男三女神境内社 / 白山神社・御鍬神社・津島神社・天山祇神社・神明社所在地 / 豊田市貝津町柚木34 参拝日 / 2024/09/06貴船神社から貝津神社 車移動 / 南へ進み県道58号線で左折、貝津町鉄砲迫信号を左折、一筋目を右折移動時間5分程関連記事・賀茂郡7座 射穂神社・村社 貴船神社
2024.09.22
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琵琶湖西岸の大津市南部の長等山中腹に鎮座する天台寺門宗の総本山。山号を長等山と号し、正式名は園城寺で三井寺として知られ、三井寺は西国三十三所第14番札所でもあります。先に掲載した三尾神社から、北へ3分程の園城寺前交差点を左折すれば三井寺になります。三井寺総門。駅から訪れるとこの総門にたどり着きますが、私達はこのまま直進し園城寺前交差点から仁王門に向かいました。石垣沿いの歩道を歩いて行くと、左手に三井寺の鎮守社のひとつで鬼子母神を祀る護法善神堂へ続く小さな門が現れます。更に直進し園城寺前交差点を目指します。交差点を左折すると仁王門が現れます。左が駐車場で、更に進むと護法善神堂に至ります。ここでひとつ、護法善神堂の参拝は仁王門をくぐる前に済ませておかないと、後回しにして観音堂まで行くと戻るのが厄介になり、結局参拝せずに終わてしまいます。三井寺境内マップ。マップのように広大な境内には多くの伽藍が点在するので、帰りの電車を気にしながらだと回り切れないかもしれません。西国14番札所園城寺(三井寺)表門の大門(仁王門)。宝徳4年(1452)の建築とされ、もともと湖南市西寺鎮座の常楽寺の門で、秀吉により伏見城に移築、後の徳川家康が慶長6年(1601)に園城寺に寄進した入母屋檜皮葺で三間一戸の楼門。両脇の間には康正3年(1457)に制作された金剛力士像が安置されています。門前から境内の眺め。左右の間に安置されている金剛力士像は、運慶作ともされるようですが、康正3年(1457)制作となると運慶は作れないような。作者はともかく、網の向こうの像の表情は力強く、一部に彩色の跡も残っています。参道右の食堂。桁行七間、梁間四間の入母屋檜皮葺の建物で、正面からの眺めは安定感のある姿をしています。解説には本尊は清涼寺式釈迦如来立像を祀り、須弥壇は室町時代のもので、建物は文政13年(1830)に唐破風向拝が増築されたもので現在は釈迦堂と呼ばれています。宮中の清涼殿を三井寺に移築したものとされます。清涼寺式釈迦如来立像解説。清涼寺式とはなんぞやと思ったが説明されていました。「着衣は袈裟を通肩に着し、上半身は首元からさざなみが広がるかのように同心円状に衣文を表し、下半身は大腿部の隆起に沿って茶杓状に衣文を交互に配しています。下半身には裳を二段に着しています。右手を施無畏印、左手は与願印とし蓮華座上に直立しています。このような図像を持つのが京都市清涼寺に伝わる木造釈迦如来立像です。東大寺僧然が入宋中にインド伝来という釈迦如来を模してさらに我が国に請来した像で三国伝来として有名な像です。この生身の釈迦ともいわれるこの像を模刻したのが「清涼寺式 釈迦如来」とよばれる。」堂前から堂内方向の眺め。正面が清涼寺式釈迦如来立像。食堂左の辨財天社。天和三年(1683)の建立、学問・技芸の御利益がある。食堂から先の参道は石段の左に手水舎、正面の石段の先が三井寺金堂。手水舎。金堂水由来園城寺金堂は白鳳8年、天智弘文天武勅願により建てられ、本尊は弥勒菩薩で、金堂畔の閼伽井屋には三井の霊泉が今も湧き続けている。龍口。天智、天武、持統の3代の天皇の産湯として三井の霊泉が用いられたことから「御井(みい)の寺」と呼ばれ、後に智證大師円珍が三部灌頂の法水に用いたことから「三井」と呼ばれ三井寺と変わっていったようです。石段の脇には城壁のような石垣が続き、この石段を上れば金堂です。境内右手の金堂後方にある教待堂。教待和尚の御像を安置しており、教待和尚は智證大師入山まで当寺を護持していた老僧で、 大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠したといいます。のちに大師はこの石窟上に一宇を建て廟としたもので、この堂は慶長四年に再建されたものという。境内左手に近江八景「三井の晩鐘」で知られる鐘楼があります。切妻檜皮葺で、周囲は腰板で囲われ、その上には縦格子が入れられた特徴のある建物です。吊るされる梵鐘は、慶長7年(1602)に当時の園城寺道澄師の発願によって「弁慶の引き摺り鐘」を模鋳した二代目という。この梵鐘には弁慶に纏わる伝説や不思議な言い伝えが残ります。金堂(本堂)。現在の金堂は慶長4年(1599)、北政所により再建された、入母屋檜皮葺で三間の向拝を持つ重厚な建物で、内部は外陣・内陣・後陣の三区画に別けられています。本尊の秘仏弥勒菩薩は内陣に安置されています。伽藍は金堂の西側に閼伽井屋、一切経蔵、唐院潅頂堂、裏側に教待堂、熊野権現社。南に微妙寺、西国14番札所観音堂と鎮座します。三井寺の創建は定かではありませんが、7世紀に大友氏の氏寺としてはじまったようです。平安時代の第五代天台座主・智證大師円珍和尚により、天台別院として中興され、源平の争乱、南北朝の争乱等の焼き討ちに遭いましたが、都度復興され不死鳥の寺として今日に至ります。現在の金堂は、豊臣秀吉の正室・北政所によって慶長4年(1599)に再建されたもので、重厚さのなかに檜皮葺の屋根が美しい建物で、堂内は、外陣・内陣・後陣に区切られ、秘仏の本尊・弥勒仏を祀る内陣中央は、床を張らず一段下げて土間にするなど、天台系密教仏堂の形式を伝えています。金堂の正面に建つ石灯籠「堂前灯籠」天智天皇が大化の改新で曽我氏一族を滅亡させ、その罪を消すため天皇自らの左薬指を切り、この灯篭台座に下に納められている。燈籠の別名を円城寺金堂無名指燈籠というようです。金堂左から閼伽井屋(左)の眺めと金堂向拝の意匠。金堂左の閼伽井屋。閼伽井屋正面の蟇股に施された左甚五郎作の龍の彫刻と霊泉。耳をすませば、ボコッ・ボコッと地下深くから湧き出る霊水の音が今も聞こえます。金堂後方の智證大師円珍像。 弘仁5年(814)、現在の香川県善通寺市に生まれ、弘法大師空海の姪にあたります。15歳で比叡山に登り、延暦寺の義真に師事、12年間の籠山修行にはいられ、後に延暦寺の学頭となる。 仁寿3年(853)、新羅商人の船で入唐、同年8月に福州の連江県に上陸。以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。斉衡2年(855)には長安を訪れ真言密教を伝授された。 天安2年(858)、四百四十一部一千巻の貴重な経典をたずさえ唐商人の船で帰国。帰国後、一時故郷の香川県に居住、後に比叡山の山王院に居住し、貞観10年(868)に延暦寺第5代座主となる。 これに先立つ貞観8年(866)に三井寺の長吏に補任され、三井寺を伝法灌頂の道場とした。寛平3年(891)10月29日、78歳をもって入滅される。 24年間の長きにわたり仏法の興隆に尽くされました。その門下には5百余人の弟子が育ち、教えを受けた人々は三千余人といわれています。 三井寺には国宝の智證大師像など多くの像を所蔵しています。金堂後方から大日如来坐像の眺め。像高は約95㌢、ヒノキの寄木造の像で、以前は境内の長日護摩堂に安置されていたといいます。堂内は拝観できますが撮影禁止で間近で拝観でき、天眼鏡はOKです。拝観後金堂後方に廻ってみたところ、開け放たれ扉の先に大日如来坐像を眺められました。熊野権現社。檜皮葺で桁行3間、張間2間で正面に3間の向拝が付くもので、神仏習合時代の名残を留めています。「智證大師が入唐求法され法華、密教の奥儀を究め、大峯・熊野三山の入峯練行された事跡に則り、平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請、三井修験道の鎮神とされた。現社は天保8年(1837)の再建」とあります。霊鐘堂。熊野権現社から左に進んだところにあり、奈良時代に鋳造された初代梵鐘(弁慶鐘)が公開されています。この鐘には伝承があり、その昔、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したいう。その後、山門との争いで弁慶が奪い比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたそうだ、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒り、鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。霊鐘堂から南に進んで石段を上ると一切経蔵に繋がります。三井寺唯一の禅宗様建築で、慶長7年(1602)に毛利輝元により、山口県の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を移築したもの。宝形の檜皮葺で二層のように見えますがひとつの空間になっており、内部に一切経を納める八角形の輪蔵が据えられています。一切経蔵から南を眺めると目の前に三重塔が聳えています。慶長6年(1601)に徳川家康が寄進したもので、もとは奈良県吉野の比蘇寺(現世尊時)の東塔で、豊臣秀吉が伏見城に移したものを再び移建したもの。高さは25㍍で高欄が付き、組物は三手先。唐院潅頂堂(手前)と長日護摩堂。唐院は、三井寺の開祖・智證大師の御廟として三井寺のなかで最も清浄な聖域です。その名称は、大師が唐からもたらした経典・法具類を納めるため、清和天皇(850-881)から御所の仁寿殿を下賜され、伝法潅頂の道場としたことに由来するという。現在の建物は慶長年間(1596-1615)に大師堂の拝殿として、また密教の奥義を伝える伝法潅頂の道場として再建された入母屋檜皮葺で、正面に軒唐破風が付く。後方には唐門を構えた太子堂があり、潅頂堂はその拝殿的役割を持つようです。長日護摩堂は灌頂堂と渡廊下でつながる3間四方の瓦葺宝形造りの小堂で、後水尾天皇(1611-1629)の寄進により、寛文6年(1666)に建立されたもの。堂内に不動明王二童子像を祀り、人々の所願成就を祈願し護摩法が行われる。唐院潅頂堂の四脚門。解説板の内容は以下。「江戸時代(寛永元年1624) 檜皮葺。 現在の唐院は、正面に土塀をめぐらせた区域に四脚門を建て、西側の山手に向かって潅頂堂、唐門、大師 堂が一直線上に建ち並びます。四脚門は、寛永元年(1624)に建築され、当初は棟門形式でしたが造営後に控柱を添えて四脚門に変更したものです。 門前の石畳の参道に配された探題灯籠とともに聖域への入口として清浄な雰囲気をかもし出しています。」とある。上四脚門から潅頂堂の眺め。下参道に配された灯篭は歴代探題によって奉納されたもの。村雲橋。唐院潅頂堂の参道前から南に向かったところにある石橋。智證大師がこの橋を渡っている時に、中国の青龍寺が焼けていることを悟ったとされ、閼伽井の水を撒いたところ、橋の下から村雲が湧き、中国に向け飛び去ったという。翌年、青龍寺から鎮火御霊の使者訪れたという。携帯もSNSもない時代のことだ。参道突き当りの微妙寺。正暦5年(994)、慶祚阿闍梨による開基で本尊に十一面観音を祀る。「微妙寺は三井別所のひとつ。 別所とは、平安期以降広く衆生を 救済するため本境内の周辺に設けられた別院で、水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺があり総称して「三井寺五別所」という。 往時に、除病、滅罪、開運の利益を求める参詣者が境内には溢れ、頭にかぶる笠が破れ脱げるほどであったことから「笠ぬげ観音」、「ばづれ笠の観音」として知られる。」創建時は本堂、薬師堂、三重塔の伽藍を有し、後に園城寺南院の別所寺院となる。現在の本堂は安永5年(1776)に再建された入母屋瓦葺の建物で、昭和54年(1979)長等公園の頂から三井寺境内のこの地に移転されたもの。本尊の十一面観音は平安頃のものとされる。秘仏金色不動明王は承和5年(838)、比叡山で修業中の智證大師の前に出現したもので、日本三大不動のひとつとされます。向かいの三井寺文化財収蔵庫(@600)では、十一面観音はじめ勧学院客殿障壁画や訶梨帝母倚像、智證大師坐像などの重要文化財の絵画や仏像が収蔵されている。本家力軒。微妙寺から観音堂に向かう途中にある創業1810年の茶屋。写真はこちらで出されている辨慶力餅。かみさん曰く「これを食べるため…」という事らしい。求肥餅にきな粉と抹茶、和三盆糖をまぶした柔らかい餅で、見た目ほど甘々ではなく二本は無理かなと思っていたが、ペロリとたいらげられる。タップリとまぶされた抹茶がポロポロ落ちるので食べ方には要注意。茶屋から右手に向かい西国三十三所14番札所観音堂に向かいます。毘沙門堂。観音堂に向かう参道の右側には、写真の毘沙門堂と十八明神社が鎮座します。毘沙門堂は境内の伽藍の中では珍しく、朱塗りで色鮮やかに彩色された建物。正面一間 側面二間の桧皮葺の宝形造で本尊は毘沙門天。元和2年(1616)に三井五別所のひとつで、尾蔵寺の南勝坊境内に建立され、明治42年(1909)に三井寺南院に移され、昭和31年(1956)に解体修理に伴いこの地に移築されたもの。桟唐戸の花狭間などの意匠が桃山時代の様式を留めており、現在の彩色は平成元年(1989)に復元されたもの。上十八明神社。三井寺の鎮守社のひとつで「ねずみの宮」とも呼ぶこともあるようです。その由来は、三井寺が戒壇道場の勅許を得たところ、比叡山延暦寺の宗徒の横槍により取り消されてまった。これを怨んだ頼豪阿闍梨が21日間護摩を焚き、比叡山に向って強く念を送り続け遂には果ててしまった。その後、この怨念が8万4千の鼠となり比叡山を駆け上り延暦寺に押し寄せ、多くの堂宇や寺宝、経典などを食い荒らし、いつしか、十八明神社をねずみの宮と呼ぶようになったと伝えられています。現在の社は天保7年(1836)に再建されたもので、社の正面は延暦寺に向け建てられています。下参道の先に写真の石段が現れればその先が観音堂です。石段上り口から見上げると左側に見えるのが百体観音堂で舞台造りの建物は観月舞台。樹々で隠れていますが右手に鐘楼があります。上、手水舎。石段を上り切ると正面に6角形の手水舎があります。明治14年(1882)に建てられたもので、屋根の上の露盤から下は水鉢を含めて全てが6角形。下、絵馬堂。絵馬堂は寛政13年(1801)に建てられた桁行3間、梁間2間の入母屋瓦葺で、四方は吹き放しの建物。名の通り絵馬を掲げるための建物で、ここから東には大津の街並みの先に琵琶湖が一望できる。上石段の右側に建つ鐘楼。文化18年(1814)の建立で、入母屋檜皮葺きで腰袴の付く立派なものです。下鐘楼内から梵鐘を見上げる。 かつては「童子因縁之鐘」と呼ばれる、不思議な伝承が伝われ梵鐘が釣られていました。「その鐘を鋳造する際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。 とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事、しかたなくそのまま帰ってくるということがあった。いざ梵鐘が出来上がると、不思議なことにその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日に富豪の子供三人が行方不明になったという伝説が伝わっています。 その童子因縁之鐘は先の大戦で供出され武器に姿を変えていった。上、百体堂。宝暦3年(1753)に建立された瓦葺の宝形造で、右手回廊で観月舞台と繋がっています。三井寺観音堂の本尊と同じ如意輪観音像を安置し、左右に西国礼所の三十三観音像が二段に祀られています。また、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の本尊を安置する事から、百体堂と呼ばれるそうです。下、観月舞台。嘉永3年(1849)の建立された檜皮葺の入母屋造で北側は舞台造りになっていますが普段は立ち入りできません。桜の時期には予約が取れさえすれば舞台に上がることができ、床のアクリル板に写り込む桜と眺望が美しい所でライトアップも行われます。予約制の瑠璃光院の事を思い出すと、ハイシーズンに訪れる踏ん切りがつかないところです。傍らには謡曲「三井寺」と観月舞台なる解説が立てられていました。「駿河の国清見が関の女が京の清水観音に参籠し、行方知れずになった我が子千満丸との再会を祈るうちに霊夢を得て近江の三井寺に来た。 折しも中秋名月の夜、鐘の音にひかれて夢中で鐘楼にのぼり、鐘をつきながら鐘の功徳をうたい、月に浮かれてたわむれつつ、 子を求めて心乱れる母親を、はからずも寺僧に伴われて月見に来ていた我が子に見出され共に郷里に帰ることが出来た。」という物語が謡曲「三井寺」である。観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に月を配して創られた詩情豊かな曲として名高い。 観月舞台は月見の絶好の場所で、謡曲 「三井寺」を謡いながらその脳裡に様々な場面を描くことであろう。」西国三十三所第十四番札所 観音堂。解説は以下。「江戸時代(元禄2年1689)札堂 桁行9間、梁間5間、二重入母屋造、向拝3間、本瓦葺。合の間 正面14.3㍍、奥行5.9㍍、一重、両下造、桟瓦葺。正殿 桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、桟瓦葺。西国三十三所観音霊場の第十四番札所です。 琵琶湖と大津市街を一望する景勝地にあり、古くから文人墨客に親しまれ てきました。観音堂は、南院札所伽藍の中心建築で、 後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建されたと伝えます。 その後、現在地への移築と焼失を経て、元禄2年(1689)に再建されました。本尊で重要文化財の如意輪観音坐像は三十三年ごとに開帳される秘仏です。 本尊をまつる「正堂」と外陣に相当する「礼堂」を「合の間」で繋ぐ本瓦葺の大建築で、堂内には元禄期の華やかな意匠を施しています。」内部には多くの絵馬が奉納されており、その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されています。上観音堂境内からは眼下に大津の町と琵琶湖の眺望が広がります。下世継地蔵堂。絵馬堂から下に続く石段の途中に鎮座する宝形の堂で、文政2年(1819)に建てられたもの。内部には子授け、安産祈願に御利益があるされ、庶民から崇敬を受ける中坂世継地蔵が祀られています。この石段を下ると右側に馬身神社、長等神社の横に至ります。三井寺の全てを巡拝できていませんが、石段を下って大津の町に向かいました。園城寺(三井寺)山号 / 長等山宗派 / 天台寺門宗創建 / 7世紀中興 / 貞観元年(859)、智證大師円珍開基 / 大友与多王本尊 / 弥勒菩薩札所 / 西国三十三所第14番所在地 / 滋賀県大津市園城寺町246 関連記事・西国三十三所霊場13番札所 石山寺・14番札所 園城寺(三井寺)・石光山 石山寺・湖南の大社 長当(ながら)神社・三尾神社
2024.09.21
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射穂神社から東へ5分程車で走った保見町根川地内に鎮座する貴船神社。今回はこちらの神社を訪れます。貴船神社社叢。大きく伸びた樹々に包まれ、その隙間から日差しに照らされた社殿が姿を見せている。猿投山の南に位置し、社叢の南に集落、集落の周囲は田畑が広がる一帯。駐車場のある西参道へは突き当りを右折します。上は明治24年とほぼ現在の地図の比較。かつての愛知県西加茂郡の一部で、明治22年伊保堂村、下伊保村、殿貝津村、上伊保村、田籾村が合併し伊保村となった地域で、鎮座地は当時の伊保堂村集落の北外れにあたります。社叢から覗く社殿の眺め。社殿はコンクリート造りのようです。西参道の鳥居と参道。社標はなく、参道は境内の西側に繋がっており、鳥居左に駐車余地があります。鳥居右の保見ウォーキングマップ。射穂神社から東に向かい、中間ポイントの貴船神社を経て、東の北野天満宮付近をゴールとする約3㌔のコースができているようです。西参道の石の明神鳥居。この参道には「秋葉山」や「貴船神社」と刻まれた燈籠が立っています。ここから右に進んだ憩い家の横に社頭を構えています。社頭。左が憩い家で、その前に「村社 貴船神社」と刻まれた社号標が立っています。石の大鳥居の先に境内が広がっています。鳥居から境内の眺め。昭和45年健之の鳥居の脇には一対の狛犬と像が安置されています。大正13年(1924)に寄進された愛嬌のある顔の狛犬と台座に社司 宮川増太郎と刻まれた像。社殿全景。左に手水舎、右手に役行者の像を安置した祠があり、正面の拝殿右に境内社が鎮座します。手水舎、手水鉢には龍の姿はなかった。西参道はこの手水舎の横に通じています。上境内から西参道の眺め。下参道脇の石灯籠の竿に秋葉山の文字が見える。境内入口にも燈籠があり、こちらの竿には「貴船神社」と刻まれていました。境内左側の祠。祠の前には陶器の狛犬が置かれ、内部には役行者(左)と石仏の二体が安置されています。右の石仏はマップによると弁財天とあった。彫られて月日が経つのか、頭部周囲の輪が弁財天の衣なのか、光背なのか像容が良く分からなかった。貴船神社社殿全景。コンクリート造りの入母屋平入の拝殿に唐破風向拝が付くもので、拝殿右には境内社一社が祀られています。向拝には菊花紋章が入れられています。上拝殿額は「貴船神社」とあり、ここにも菊花紋章が入る。下拝殿内の眺め。懸垂幕には五三の桐の紋が入っており、こちらが神紋かと思われます。拝殿左の由緒と手作りので分かりやすい境内マップ。由緒内容は以下。「十四等級 貴船神社 村社鎮座地 豊田市東保見町根川556番地【祭神】 闇龗神(くらおかみのかみ)【由緒】創建は明らかではないが、棟札に寛文8戊申年(1668)2月に、家内子孫繁昌、息災延命、守護所として奉建再御設とあり。 元禄11寅年(1698)2月二日、奉新地春 井戸田赤羽根へ移し奉るとある。明治6年(1873)5月村社に列す。 同42年(1909)8月31日、字柵口58番 子守神社と本社の境内社 元貴船神社を本社に合祀合霊した。昭和45年本殿、幣殿、渡殿、廻廊、手水舎、社務所を改築する。 例祭日 10月第一日曜日、祈年祭 4月第二日曜日、新嘗祭 12月第一日曜日。【社殿】本殿流造、神門、拝殿、神饌所【境内社】【琴平神社】祭神 大物主命・木花咲也姫命 勧請不詳 明治42年8月31日富士浅間神社境内社を合祀。祭神2柱となる。【秋葉神社】祭神 迦具土命 勧請不詳 境内神社牛天神 祭神不詳、明治42年8月31日合祀。【八劔社】祭神 日本武命・伊佐波登美命 勧請不詳 境内神社 御鍬神社 祭神 伊佐波登美命明治41年8月31日合祀、祭神2柱となる。【津島神社】祭神 須佐之男命・大山祇命 勧請不詳 境内神社 山神社 祭神 大山祇命明治41年8月31日合祀、祭神2柱となる。【養蚕社】祭神 天照皇大御神。 大正8年(1919)4月20日、養蚕守護神として合祀。」京都の貴船神社から分霊されたものと思われますが、祭神の闇龗神は水を司る神で農業に水は不可欠なものです。拝殿左から本殿の眺め、昭和45年の改修されたもので綺麗な印象を受けます。本殿域に境内社が祀られているのかは定かではありません。この辺りに置かれている古い手水鉢、今も現役の様です。拝殿右の境内社。一間社流造で境内マップによれば、琴平神社、八劔社、養蚕社の三社相殿。大きな社ではないですが、各所に手の込んだ意匠が施されています。脇障子には瀧を遡る鯉が描かれています。昔から出世を象徴する縁起のいい柄ですが、鮎や鮭のように登るこの姿、実際の鯉はこうはいかない。さて、これで境内は参拝したつもりでいましたが、この社の右の斜面の先にも境内社があったようで、鳥居の右から上に続く細い「観音道」を奥に進むと石仏や稲荷社などに繋がっています。貴船神社本殿の大棟。造りは良く分からないが5本の鰹木と外削ぎの置き千木が施されています。写真は社頭から南の眺め、田畑の先に愛知環状鉄道、伊保川へと続きます。鳥居の先に瓦葺の建物があり、一部見落としていた事に気も付かず、神社を後にしてそちらに向かう。入口が開け放たれた堂は根川集落の弘法堂で、堂内には弘法大師はじめ4体の像が安置されていました。街にはない田畑が広がり開放感のあるこの地域、道端に彼岸花が咲き出すのも間もなくか。村社 貴船神社創建 / 寛文8年(1668)の棟札が残る祭神 / 高龗神境内社 / 琴平神社、秋葉神社、八劔社、津島神社、養蚕社所在地 / 豊田市保見町根川556 参拝日 / 2024/09/06射穂神社から貴船神社 車移動 / 東へ4分程で西参道参拝者駐車場関連記事・賀茂郡7座 射穂神社
2024.09.18
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大津市園城寺町鎮座「三尾神社」既に掲載した長等神社から、琵琶湖第一疎水を右に見て、北に2・3分程進むと今回の三尾神社に至ります。琵琶湖から導かれた疎水は、三尾神社のすぐ南から長等山を貫く第一トンネルを経て京に導かれます。三尾神社はそのトンネルの入り口鎮座します。三井寺への近道として境内を横切りましたが、三尾神社の唐門や神楽殿を見て足を止める事にしました。神楽殿の右手に社頭へ続く参道が伸び、その先に大鳥居を構えています。神楽殿西側の唐門。左に手水舎、正面に拝殿が望める。手水鉢に清水を注ぐのは龍ではなく兎。常夜灯の竿にも兎の姿。銅葺の屋根の唐門は、左右の透塀が連なり、門の先に拝殿が眺められる。提灯にも兎の紋の神紋が入れられています。兎で思い出すのは、鳥取の白兎神社や埼玉の調(つき)神社で、境内のいたるところに兎がいた。この神社も兎と所縁がある神社のようで、境内の「三尾神社とうさぎの由来」には以下のように書かれていました。「三尾明神が太古 卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・卯の方より出現されたという古い伝えから、昔から「うさぎ」が神様の使いとされ、それ故御神紋は「真向きうさぎ」とされた。卯年生まれの方の守り神として崇められている」手水の兎の姿は、波の上を飛ぶ因幡の白兎に通じるものがある。兎は子宝に恵まれる縁起のいい動物として知られていますが、三尾神社もまた安産・縁結びの神社として知られるようです。唐門から先の境内。社殿の左右に境内社が祀られています。三尾神社のはじまりは太古、伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神として鎮座されたのがはじまりとされ、後の園城寺(三井寺)初代長吏の円珍が、園城寺の鎮守として祀ったことが神社のはじまり。後の神仏分離により神社は独立するも、社殿西側には園城寺(三井寺)につながる神門が神仏混合の名残を留めています。境内の由緒。「太古、伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神として鎮座されたのを創始とする。伊弉諾尊は常に赤、白、黒の腰帯を身に着け、その形が、三つの尾を引くのに似ていたことから三尾明神と呼ばれ、社名が付いた。貞観元年(859)、園城寺(三井寺)開祖の智証大師(円珍)が琴尾谷(琴緒谷)に社殿を復興した。応永年間、4代将軍・足利義持が現在の社殿を再興。慶長年間、豊臣秀吉により社殿の修理、社領を寄進される。明治9年(1876)、本社を園城寺琴尾谷(琴緒谷)から現在地に遷座。明治22年(1889)、内務省保持資金下賜明治43年(1910)、縣社に昇格。御神紋 真向きの兎」神紋の真向きの兎は、本体の伊弉諾尊の赤・白・黒の三つの腰帯が、赤尾神、白尾神、黒尾神の三尾明神となり、赤尾神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の方角から出現した事から「真向きの兎」が神紋とされています。拝殿右の境内社。右から白山神社と愛宕神社の相殿。左へ天満宮、 蛭子神社と白髭神社相殿、日御前神社と続く。白山神社(結びの神)と愛宕神社(火除けの神)の相殿全景。白山神社の祭神は菊理媛神、愛宕神社の祭神は伊弉冉尊を祀ります。右が学問の神、菅原道真を祀る天満宮、左が延命長寿の白髭神社と商売繁盛の蛭子神社の相殿。後方の一間社流造の社殿は子授け・安産、夏虫に御利益のある日御前神社。祭神は天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。手前は拝殿右手の狛犬(阿形)。拝殿全景。入母屋平入で軒唐破風が付く。拝殿左で守護する狛犬(吽形)。拝殿右手にこちらにも卯の姿。拝殿から本殿域の眺め。祭神は本体の伊弉諾尊の他、三尾明神を祀り、本殿前には二対の狛犬と随神の姿が見える。拝殿左の本殿解説。「三尾神社本殿は桁行三間、梁間二間の三間社流造の檜皮葺。正面に縁を廻らせ背面柱筋に脇障子が立つ。内部は梁間中央の柱筋で二分し、前方の外陣と後方の内陣に二分、内陣は三室に区分けされている。本殿は応永33年(1426)の建立で、慶長14年(1609)全体的に修理を受けた。室町時代中期に建立された本殿は、木太い軸部や簡素な意匠による古風かつ雄大な形態を保守している事から、中世神社建築を理解するうえで高い価値を有する事から、平成26年(2014)国の重要文化財に指定された。」拝殿左から見る社殿の眺め。日御前神社側から眺める本殿。社殿左の境内社は阪下茂畑稲荷神社。 五穀豊穣、商売繁盛、家業繁栄、産業降盛の神稲荷神を祀る。阪下茂畑稲荷神社本殿柵面の全景。三尾神社創建 / 貞観元年(859)祭神 / 伊弉諾尊、三尾明神境内社 / 白山神社・愛宕神社、天満宮、白髭神社・蛭子神社、日御前神社、阪下茂畑稲荷神社所在地 / 滋賀県大津市園城寺町251 参拝日 / 2024/08/22祭礼日 / 5月 2日 例祭、3日渡御、7月2日 朝瓜祭り長等神社から三尾神社 / 北へ徒歩約5分又はJR東海道線大津駅石山駅から京阪電鉄石山線で三井寺駅降車、琵琶湖第一疎水沿いに徒歩7分関連記事・西国三十三所霊場13番札所 石山寺・14番札所 園城寺(三井寺)・石光山 石山寺・湖南の大社 長当(ながら)神社
2024.09.17
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豊田市保見町北山鎮座「射穂神社」矢草ICから国道248号線を南下し保見地内の保見塚原交差点を左折、一つ目の信号のない交差点を左折しひたすら直進します。上は明治の頃とほぼ現在の保見町の比較。鎮座地は伊保川左岸の猿投山から連なる山並みの南端に位置する標高131㍍程の三祖山(現在の北山)の頂に鎮座します。これまでも猿投山周辺の神社を巡って来ましたが、ようやく保見町周辺の神社を巡る事になります。西古城地内の住宅街に立つ射穂神社大鳥居。右手に熱田神宮宮司の揮毫による社標「射穂(いぼ)神社」があり、鳥居前に一対の狛犬と常夜灯を構えています。射穂神社はここから更に先になります。鳥居は昭和53年(1978)に寄進された明神鳥居で扁額の揮毫は愛知県知事によるもの。狛犬も昭和53年に寄進されたものでした。鳥居の先は緩やかな上りとなり、ニノ鳥居を越え先に進むと道は突き当り、社殿前の駐車場に続きます。杜の入口にニノ鳥居が立っており、地味に上りが続きます。道に迷ったら、右手に見える保見町公民館の鉄塔が目標になるかも。ニノ鳥居の先は、杉が生い茂る杜となり木陰のなかを参道が続きます。左手の射穂神社由緒。「射穂神社1、創祀沿革 白鳳元年9月(672)創建 永承7庚午年(1052)再建上伊保村領主松平左兵衛尉定勝建立 永正7年(1510)戦焼後再建、松平右兵衛佐建立2、社格 六等級社 昭和52年9月(1977)認証 明治の制(郷社)3、祭神 広国押武金日皇命(安閑天皇) 春日山田皇女(欽明天皇二女) 神前皇女(安閑天皇御妹)4、御末社 八幡神社、津島神社、秋葉神社、他十社5、宝物 伊保郷印、仏像、鏡6、例祭日 10月(第2日曜日)7、特殊神事 豊年祭「おためし」(5月) 左儀長祭(1月)」ニノ鳥居、こちらも明神鳥居、寄進年は未確認。地味に上る参道、聳え立つ樹々が容赦のない陽射しを遮ってくれます。右手の斜面に保見神社の社標と鳥居が立っているが、参道から鳥居に向かう事は出来ない。参道の先から右に分かれる参道があり、この鳥居の先に繋がっています。保見神社鳥居方向へ。鳥居は昭和25年(1950)の寄進。鳥居の先は社殿はなく、二つの石碑が立てられています。左は昭和38年(1963)に建立された平和の礎で、右の石碑には当地出身の戦没者の名が記されていた。この辺りは南に保見の町並み、そこから先は稲田が広がり伊保川に続き、この高みから故郷の繁栄を見守っている。また、この辺りは飯田街道があり、交通の要衝であったため、北山周辺には幾つか城址も残ります。参道に戻り正面を見れば射穂神社の社殿が広がります。参道右に神馬像、左に手水舎があり、一段上がって社殿が建てられています。射穂神社は延喜式神名帳に賀茂郡7座のひとつで「射穂神社 三河国 賀茂郡鎮座」とあり、三河志や西加茂郡誌にも記される古社で神社HPから抜粋した内容は以下。 「古い伝えによると、三河国賀茂郡高橋の庄伊保郷は和銅6年(713年)に開発されました。村の名前は「射穂」または「伊穂」とも書かれ、後に「伊保村」となり、御獄市場と合併して「上伊保」と呼ばれるようになりました。 神社の土地は藩政時代に城主の戦国地とされましたが、火災が多く発生し、鎮座地を池之坊洞から御獄山頂に移し、さらに三祖山に移し、明治維新の際に「北山」と改称されました。境内地は1170坪で、祭神は左相殿に春日山田皇女、中殿に安閑天皇(廣国押武金日尊)、右相殿に神前皇女が祀られています。 延喜式内の3132座のうち、三河国加茂郡伊穂之神社の祭神は蔵王大権現とされ、通称「伊保天神」と呼ばれていましたが、享保年間に「蔵王宮」と称され、その後「射穂神社」と改称されました。和漢三才図絵によると、蔵王大権現の祭神は不明ですが、社伝によると清見原之皇子大友皇子が征伐の際に勝利を祈願し、白鳳年間に即位し神社を建立したとされ、古代の創建であることがわかります。明治5年(1872)8月に郷社に列せられ、明治43年(1910年)には末社の八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀しました。 昭和18年(1943)8月に県社昇格の申請を行い、内定を得ましたが、大東亜戦争の終息により実現しませんでした。旧氏子区域は上伊保村、田籾村、伊保堂村、殿貝津村、下伊保村、挙母町、宮口村、本地村、千足村、土橋村、梅坪村、金谷村、下市場村、下林村、長興寺村、今村、山室村、福谷村、黒笹村、莇生村、三好村、西一色村、福田村、明知村、打越村の25町村でしたが、明治15年(1882)頃に挙母町ほか10余町村は挙母神社の氏子に分区されました。例祭は陰暦9月10日でしたが、明治維新以降は陽暦10月15日に変更されました。特殊神事として鎮火祭や御粥占豊年祭があります。 例祭には奉納献馬棒ノ手や空砲などの行事が行われ、氏子の各村は提灯を持って参拝します。今回、氏子一同より本殿再建の提案があり、昭和39年(1964)11月に仮遷宮が行われました。昭和40年(1965)3月23日の夜に御殿入りし、翌24日に完了しました。」境内社については以下。「八幡神社は寛永14年(1637)丹羽式部少輔氏信公奥方の建立。 神明社、伊豆社は元禄2年(1689)、御鍬社は寛保2年(1742)、八柱社は元禄10年(1672)、津嶋社は宝暦2年(1752)、秋葉社は宝暦13年(1763)に創立」ここに出てくる賀茂郡7座とは以下の七社。 野見神社 豊田市野見山町 野神社 豊田市野口町水別日面 兵主神社 豊田市荒井町松島 済 射穂神社 豊田市保見町北山 狭投神社(三河国三宮) 豊田市猿投町済 広沢神社 豊田市猿投町小黒見 灰宝神社 豊田市越戸町松葉神馬像。社殿全景。右手に手水舎、石段り先の境内に拝殿、社殿が建てられている。手水舎の龍。ここから後方斜面を100㍍程下りると雷石があるらしい。しかし下草も生い茂り、嫌な予感しかしないので今回は下りなかった。石段を上がり切った境内の拝殿。入母屋瓦葺で四方吹き抜けのもので、明治26年熱田神宮より社殿を譲り受け拝殿としたとされ、明治32年竣工。均整の取れた外観の拝殿だと思います。拝殿から本殿域の眺め。中央の本殿は昭和40年に改築されたコンクリート造で3本の鰹木と内削ぎの千木が載せられています。築地塀に囲まれ本殿域は、本殿の左右に相殿があり其々に中門が付く。中央の八幡神社本殿の左右に二つの社が祀られています。右手の相殿。八幡神社本殿。八幡神社を守護する小さな狛犬。右の社は秋葉神社、金刀比羅社、八王子社。左が津島神社、天神社、武稲種社。中門の社名札から右相殿だけで7社が祀られています。射穂神社本殿の中門の棟には鯱が載り、狛犬が躍っている。中門前の狛犬は昭和に入って寄進されたもの。射穂神社本殿の中門。中門両側の柱には龍の彫が施され、左右の中門とは差別化しているようです。社名札がないので良く分からないが、この本殿に広国押武金日皇命、春日山田皇女、神前皇女の三柱が祀られている。本殿域全景と左手の相殿の中門。コンクリート製の本殿の全体像は今一つ見えなかった。左相殿の中門正面全景。社名札から本殿は千穂稲荷社と神明社の相殿で、本殿前は狛犬が守護する。6本の鰹木と内削ぎ千木が付く神明造のようです。本殿右の板宮造りの境内社。伊豆社、山神社、社宮司の相殿。左に御鍬神社が祀られています。左相殿にはこれら6社、右相殿に7社、中央が1社の14社、由緒の「八幡神社、津島神社、秋葉神社、他十社」とあったが数が合わないような・・・、由緒が書かれた後に合祀された神社がなにか、それは分からない。社殿域から下の境内の眺め。ここまでは車で入ってこれるので、駐車も転回も支障はないと思います。参拝を終え、ニノ鳥居から保見の街並みの眺め。射穂神社創建 / 白鳳元年(672)祭神 / 広国押建金日命、春日山田皇女、神前皇女境内社 / 八幡社・御鍬社・津島社・秋葉社など所在地 / 豊田市保見町北山26 参拝日 / 2024/09/06矢草ICから射穂神社車移動 / 国道248号線を南下し保見地内の保見塚原交差点を左折、一つ目の信号のない交差点を左折直進12分程。公共交通機関 / 愛知環状鉄道保見駅から北西に徒歩20分関連記事賀茂郡7座・猿投神社境外摂社 廣澤神社
2024.09.16
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