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くそ暑かった夏も過ぎ、漸く半袖短パンの出番もなくなり衣替え。一気に冷え込み、雪も舞うようになってきた。富士山麓で秋キャンプを考えていたが、家の修理やなんやかんやで機会もなく、気が付けば温度差で体の節々の潤滑油も固まりだし行き逸れてしまった。そんなことから最近は、東部丘陵地帯の低山散策や周辺の寺社を訪れる機会が多く、紅葉の時期を控えてそうした場所に行きたくなる欲求も増えてくる。最近マスコミは熊出没情報を盛んに流しているが、なにも急に増えた訳ではなく、身近な場所でも以前から熊は出没している。そこで直近の愛知県内の熊出没情報を閲覧して見ました。上は昨晩10/24に確認した愛知県が発表している県内の確認情報。情報が届いていないのか、リストに打ち込み最新化するマンパワーがないのか、7月末以降更新されていないようで、情報は実態の数値とかけ離れ、リストから見れば8月以降確認されていない事になる。上は目撃情報の地域を〇で囲ってみました。こうして見ると山間部のみならず身近な里山でも目撃されているのが分かります。黄色の〇はなんじゃい?これは豊田市が公表している目撃情報の一部を黄色で示したもので10/24の情報も含めています。愛知県情報と市町村情報の情報共有が出来ていないのか、紙で伺い書を作り、膨大な承認系統を経ないと更新ができないのか、役所のすることは良く分からないが市町村情報とは遅れがあるようです。冬眠を前にして熊の餌となる木の実が凶作と伝えられます。実態を見ていないのでなんとも言えないけれど、人里近くまで来ているのは確か。情報には上がらないものを含めると、件数は更に増えるのだろう。これから紅葉で足を運びたくなる県東部の情報は豊田市を見た方がいい。「鈴は役に立たないし、最近の熊は人を見ても逃げない」高山の山間部に住む方の生の声でした。渓流釣りをされる方は一度や二度は出くわしたこともあると思いますが、今や独りで低山ハイクに向かったり、山中の神社を訪れる場合といえど、何かしら対策をしていくのがいい。具体的になんだ、となる。コストを考えると言い古されたラジオや鈴となるのだろう。クマ除けスプレーは効果を見ていないので分からないし、小遣いでは買えない。ラジオは電波次第だし沢筋では音は消される。爆竹?山火事になるだろう。・・・と考えるとお守り程度にお手軽な鈴なんだろう。最近の自分は鈴とポール、併せてキャンプ用のナイフを持っていき、見通しのきかない山道では柏手を打つことにしている。柏手に効果あるかは不明ですが、不安な気持ちが落ち着くことは確か。出くわさないのが一番だろうが、こればっかりは分からない。獣は何も熊ばかりじゃなく至る所にいる、豊田市が公開する「ツキノワグマ痕跡識別ガイド」は知っていて損はなさそうです。独りで出かける事の多い自分、最近は実に危ないおやじになっている。令和5年度愛知県公開 ツキノワグマ確認情報豊田市 ツキノワグマ痕跡識別ガイド豊田市 令和5年度の出没情報関連記事 / くるみ温泉&キャンプ(高山市朝日町胡桃島)
2023.10.26
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名古屋市瑞穂区瑞穂通1丁目『秋葉神社』瑞穂区を南北に縦断する環状線片側3車線の道路は交通量は多く、車で走ると制限速度は何キロなのよ?と感じる程の早い流れと路上駐車も多く「落ち着いて走れない」道路の印象が強いそんな環状線も早朝は行き交う車は少なく、静かで落ち着いた表情となります(写真は環状線博物館前交差点から『秋葉神社』のある桜山交差点方向の眺め)市営地下鉄桜通線「桜山」駅4番出口から地上に出ると目の前が秋葉神社とても便利なところですが、車で訪れると不便な場所です歩道沿いに狛犬がいて玉垣かある、とても身近にある神社神社全景硬質な印象の街中にあって、木造の神明鳥居のナチュラルな色合いは存在感があります歩道沿いの提灯掛、まもなく天王祭が近い事を道行く人々に告げています祭となれば屋台、子供の頃はこれが結構待ち遠しかったものです歩道際から神社を守護する狛犬の面々郊外の神社とは違い、ここは人通りも多くさぞかし忙しいだろう・・・・・表情には現れていないが常夜灯の奉納年は1808年(文化5)と彫られています随分と古くからここに鎮座しているようです少し前のこの辺りの移り変わり左上が明治、右が大正、左下が昭和中頃、右が現在赤い丸が秋葉社の位置で、緑の線は塩付街道です(信州に塩を運搬した江戸時代の街道です)明治、大正時代は田園と東部の丘陵地帯の雑木林と畑が点在する長閑な地域、そこを真っ直ぐに続く塩付街道が見てとれます、当然環状線などありません新田開発のため街道の西に十五軒の集落が出来ます、そこから十五軒屋と呼ばれますが、秋葉神社は集落の北外れに位置しています地図上で神社を示すものは見えませんが、常夜灯の奉納年が1808年なので既に当時から鎮座していたものでしょう都市開発で大きく変貌しているので、それに伴いここに遷座された可能性もあるかもしれませんね境内は東西に短く、南北に長い敷地で鳥居をくぐるとすぐ右に手水鉢があり、正面は社務所兼集会所の様です南を向いて四方が吹き抜けの瓦葺拝殿と本殿が並ぶそれにしても境内に対しこの位置関係、周辺から遷座したのでは?と感じてしまう要因でもあります拝殿から渡廊の先の本殿を眺める渡廊の先に、6本の鰹木と内削ぎの千木が施された本殿・・・・・女神を祀っているの?俗説ですね祭神 / 火之迦具土神本殿右に津島社軒下の吊り灯籠陽が落ちてから前を通りがかると、街灯りの中でぽっかりと神社のある一画だけは別世界この吊り灯籠の明かりが拝殿を照らし出していますこの地の氏神として今日までの移り変わりを見続けてきた秋葉神社見上げる様なビルに囲まれてこれからも受け継がれていってほしいものですこちらを訪れた際には、塩付街道に佇む「みやみち地蔵」や「川澄地蔵」等のお地蔵さんもすぐ近くです歩いて訪れれればとても身近、車で訪れるにはとても遠い存在です2019/07/13『秋葉神社』創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神 住所 / 名古屋市瑞穂区瑞穂通1丁目35アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」
2019.07.24
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2021/7/18エコキュート入替工事、結局はハウスメーカーの取引先に依頼し工事も終わり、請求書を待つばかりとなった。暫定見積は以下の内容大金さんのサービスマンから聞いていた相場の価格帯だったので安い見積りもあったがハウスメーカーとの顔つなぎを考慮して決めた。助成金もなく、安い買い物ではなかった。さて見積りを見る、相変わらず定価と販売価格に開きのある事。オープン価格という事でユーザーはとても得した気にはなる、実際のところ卸価格はいくらなのか実態がさっぱり見えてこない。消費者にとって商品選択の際の具体的な価格相場の目安が付けにくいだけで、小売店側の価格を実勢と照らす労力が必要となる。相場は良く6掛けと云われるが、この見積りや巷の価格は一体なんだろう。製造原価の元値はいくらなんだ、小売店の利幅はどれくらいなのか怪しい世界だ。因みに価格COMの平均価格が240,000円前後、webで見かける同型機種の見積りが以下となる。もっと安く販売している、それらは一部に何か交換すると別途〃で値が張ってくる。我家の見積りでもそれはある、全てが工事費と云う形で盛り込まれてくる。限られた予算の会社の中でこの見積りが出てくれば値引き価格、工事費は即刻見直しをさせるところ。ましてやかみさんと業者間での見積り対応、女性は言い値で受け入れやすい。「元値は幾らなんだろうね」と一声で千単位の金額がなくなった。ネゴは恥ずかしいものでもなく、お互いの妥協点を見出す作業だと思っているし、この探り合いも楽しみの一つだと思っています。今回の業者好意的に対応してくれ、丁寧に仕事をしてくれたし、ハウスメーカーの取り分も考えてこれで良しとしよう。安いものに手を出すと、いざという時に迅速な対応はしてもらえない。それは過去の台風で家の屋根瓦が被害を受けた時の事。以前の家は知り合いの工務店で建ててもらった、高齢に伴い廃業した後の為、修理先がなかなか見つからない、見つかっても顧客が優先され修理に時間がかかった苦い経験がある。どこが着地点となるのか、消費者にとっては買う前の楽しみかもしれないが、値段だけで手にすると意外な落とし穴があるかもしれない。今回のこの結果、同じ思いをする方の一つの妥協点として参考になれば幸いかも知れない。言えるのは10年保証もいいけれど10年後存在する会社である事、ネゴを相談してみる事、施工中はたまには見る事。それにしても夏でよかった。2021/7/72005年製の大金エコキュートついに天命を全うしたそもそも10年交換を推奨するメーカー、2018年にエラーコード「J3」が頻発して出るようになり、本体電源を落としリセットしながら半年、結果サーミスタの故障でメーカー出張修理を依頼。その際にそろそろ更新しなければとメーカーからも推奨されていた。しかし人は目の前の課題が無くなると当然の様にそのことを忘れるもの。あれから3年かみさんから「悲しいお知らせ」という事で見せてもらったのがエコキュートの操作パネルそこには「警報」とエラーコード「C72」が表示されている。その前にエラーコード「U0」が表示されていたらしい。一度電源をOFFにして再度電源投入すると「U0」は消え、代わりに「C72」が表示されるようになる。「C72」はタンクのある本体側に着く三方切替バルブの故障信号らしい、メーカーに問い合わせると「C72」より最初に出た「U0」が致命的らしい。「「U0」が出たら交換しましょうね」と軽く答えが返ってきた。所謂ガス漏れ、密閉されていた冷媒ガスの漏れによるものらしい。ならば漏洩ヶ所の部品交換と冷媒補充で復活だ。・・・・・素人考えでそう目論んだがエコキュートはそうした仕様で作られていないそうだ。現在の表示は三方弁エラーの「C72」のコードが出ている、三方弁を交換すればこのエラーは消えるだろうと質問すると、これが消えても恐らく「U0(もう交換)」が再び表示されるだろうとの事。「パソコン繋いで幾つエラーが出ているのか吸いだして分かるのでは」と聞くもそうした機能はないのだそうだ。という事はひたすら表示されるエラーを消すため部品を交換する事になる。そのゴールが「U0(もう交換)」が出れば交換部品そのものが無駄となる。この辺りのモニタリング機能は要改善の余地がある。メーカー交換推奨を越えた設備、あの時交換も考えただけに潔く引退してもらう事にしよう。ひとまず、ハウスメーカーを通し設備メーカーに見積依頼、そしてもう一社CMで見かける評判の宜しくない業者に見積は依頼した。取り敢えずハウスメーカーなら巷で耳にする悪質な商売はしないだろう。幾らかかるものか、懐が心配なところだが、あの時動かなかった当然の結果だ。それにしても悪い時期に重なったものだ、世の中半導体不足で車の生産ラインは止まり、些細なものまで「半導体が無くて・・・・・」と一言目には出てくる。大国の采配や国内工場の火災で直ぐ身近に影響が出てしまう。これが食糧であったなら、ぞっとするがそんな国だ。貯湯量は少ない、適時設備が見つかればいいが、下手すれば水風呂だ、救いは夏だった事か。コロナで封印していた銭湯通いが始まりそうだ。それにしてもたった一回の「U0(もう交換)」で逝ってしまうとは。16年も動いて来たんだから、逝くときはそんなものか。・・・・・風呂に浸かりたい。2018/02/20ここ数年は1年に一回の頻度で出ていたアラーム「J3」 こいつの一時対応は本体ブレーカーのON⇒OFFで一時復旧するので厄介だ 頻度は半年に一回に変わり、毎月⇒毎週、今年に入りほぼ毎日アラームが出るようになった 初めてエラーが出る状況を目の当たりにした こいつは不調ケ所がさっぱり分からない 意地になって夜中に屋外で調べていたのが最大の要因だろう 脱力感から始まり、節々の傷み、ついには指の関節まで動かせなくなった、風邪だ エコQはこの間も相変らず「ピィ~~」という音と共に毎日エラー表示とお知らせが出る このエラー出ると湯を作らなくなる 量が少ない状態で昼間に一時復旧させると契約電力に関係なく貯湯動作となり、湯量グラフはあがるが かみさんの眼は三角になっていく 大概のものは楽しんで自分で修理してきましたが今回はもうギブです 基盤交換か、10年タイマー(そんなものはないが)をリセットするのか知らないが 専門家に任せる事に決め、考えないことにした「ピィ~~」はもう聞きたくない 毎日使う設備なのだから10年タイマー?があるとしたら、それいらないでしょう? J3アラーム厄介な奴だ どこが悪いのか自己診断で教えて欲しいものだ おっさん? 風邪の影響で腰と指の関節に痛みが伴い 「体力年齢リセットJ3」アラームが出ている 2018/02/22大金エコQ「エラーコードJ3」どうにも面倒なのでついにメーカー修理依頼若いお兄さんがやってきた交換内容を遠目に見ていたら、「エラーコードJ3」はブレーカーのある本体側に故障がある訳ではなく本体の横にあるエアコンで言えば室外機側の様でした狭い隙間に設置された室外機の外カバーを外し、ファンの右側あたりから下の吐出サーミスタを取り外す10年以上使用し取り外した吐出サーミスタ(湯温センサー)、被膜も汚れています交換用サーミスタ「J3」アラームの要因はリード線とセンサーを繋ぎ、密封する○部分の密封材に穴が開き センサー内に湯が入り込むことで湯音コントロールが出来なくなるもののようです密封方法がこんな構造なんですね、意外にシンプル こうした部品、単価は安いんだよね お兄さんに聞いてみたQ.「部品設計寿命はどんなもんだろうね?」 ユーザーとしては10年の耐久性は欲しいよねA.「5~6年くらいでしょうか、良くもった方ですよ」Q.エラーコードから交換部品の選定・公開や部品販売なんかしてくれるといいのにA.「ダメ」 そうですか、狭いところでお疲れ様でしたね 作業時間は運転確認含め90分 頂いた修理代は上の金額、部品代470円、そんなもんだわナ作業費・出張費はつきものだけに、もう少し部品寿命と構造しっかりしてもらって、10年安心にしてもらえるとユーザーは嬉しいよね ここ数年ごまかしながらJ3と付き合ってきたけれど、やっと解放されると思えばこの金額許せるか? エアコンの室内温度センサー交換した時はメーカー部品販売が確か2.3千円していた事を思えば安い!それにしても明細は見ない方がいいよね
2021.07.07
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清信神社から中央線沿いを戻り、JR中央線第一新街道踏切を西に直進すると次の目的地太平寺の門前に至ります。移動時間は徒歩で5分もかからないでしょう。右手に春日井市生活改善センターの施設があり、その西側が太平寺の参道となります。参道右に「臨済宗妙心寺派 太平寺」の寺標が立ち、参道はその先の杜に続いています。参道を隔てて左側に「尾張三弘法第三番札所」の石標があります。参道の先は石垣と白壁が連なり山門に続きます。切妻瓦葺の山門の前に「名勝虎鬆(こしゅ)庭園」の石標が立つ。山門軒丸瓦に文字が入るが…太平寺?だろうか、読めません。山門の額「太平禅寺」玉野の歴史を伝える寺で、後醍醐なか刀自媛大神や御所中明神でも出て来た、なか媛一行の位牌を安置するお寺。その他にも町内を流れる玉野用水の創設者・加藤助左衛門はじめ、名宮大工・川地白河守、漢方医・小島小太郎、村の歴代庄屋、組頭らの位牌が安置されているという。玉野村に伝わる伝記の人や村出身の賢人たちが眠り、その他にも中央線敷設工事の犠牲者の碑など玉野の歴史を伝えるお寺と言えます。太平寺の寺宝の一つに尾張藩主・徳川義直公が玉野川を渡船されたおりに使われた催(かい)2本が下賜(現在1本)されており、貴重な宝物が数多くあるといいます。境内から山門の眺め、境内左側に手水石や聖観世音菩薩像などが安置されている。大きな自然石をくり抜いた手水鉢。臨済宗妙心寺派・普光山太平寺本堂全景。玉野町住民の多くを檀家に持ち、身近な存在の寺です。太平寺は、明應6年8月(1497年)に尾張の国・春日井郡水野村(太平山)に寂曳和尚が定光寺の末寺として開山、創建された寺で、本尊は木像立像の聖観世音菩薩です。HPによれば「寛文年間尾州春日井郡覚書帳(1660 ~ 1672)によれば、平紫山・泰平寺は定光寺の末寺となっています。山号・寺名の変更はあるが、宝永6年2月(1709)に9世・知鞭和尚が本堂を改築、水野村を始め玉野村の人々が檀家になり隆盛を極めました。「泰平寺」の檀家だった玉野村の人達は玉野川を“岩割瀬の渡し”を利用し太平山中にある泰平寺に行くのは不便なことから、寺を玉野村内に建立する事を働きかけました。移設先は玉野村南屋敷の有力な檀家が用地を提供するとともに多額な建立費を負担、檀家の支援により玉野村内に寺が完成しました。寺は弘化3年(1846)に火災で全焼し、跡地に仮本堂を建立しました。12世・全密和尚は、檀家の協力を得て玉野村新田に本堂を新築再興させました。13世・戒宗和尚は平地ではなく丘陵地(現在地)に本堂および山門を建立(大正11年11月)し再建しました。現在は16世・峯仙和尚が立派に檀家をお守りしておられます」名勝虎鬆庭。本殿の南一面に作られた枯山水の庭園。写真は白く飛んでしまいましたが、砂紋が入り手入れされた庭園は禅寺らしい趣があります。庭園西側に建てられた堂。尾張三弘法第三番札所の一つである冬至弘法大師のお堂。弘法大師霊場、各地に似た名称があり、札所一覧は良く分からない。年2回、地域の人々によって扉が開かれるそうだ。堂の左側に複数の石像があり、達磨大師らしき像も見られます。本堂左の納骨堂から玉宮稲荷大明神方向の眺め。室町時代から玉野町の歴史を見続け、当地の発展に寄与した様々な人々を弔い、趣のある庭を持つのが太平寺です。普光山太平寺宗派 / 臨済宗妙心寺派創建 / 明應6年8月(1497年)本尊 / 聖観世音菩薩所在地 / 春日井市玉野町1108信清神社から徒歩 / 西へ5分関連記事 /・信清神社・後醍醐なか刀自媛大神(春日井市玉野町)・御所中明神・高蔵寺第5号墳(春日井市玉野町)・津島神社(春日井市玉野町)・五社神社(春日井市玉野町)・皇大神宮 山住彦大神(春日井市玉野台1)
2023.08.19
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信濃國一之宮 諏訪大社 本宮 #2今回は本宮周辺にある寺社の一部を見て回ります北大鳥居から右に進みます社務所を左に見ながら先に進むと正面に浪除鳥居に出ます優美な姿の鳥居をくぐり境内を出て齋館の西裏手に向かいます左手の「宮之脇公館」の脇に山に続く小道がありますその先にの斜面に鳥居が見えると思いますこの斜面を登ると「大国主命社」に続きます参道入口右側には石灯籠と複数の石標、小さな社が視界に入ります地元ではあまり目にしない庚申塔(こうしんとう)ですが、こちらでは目にする機会が多い庚申塚(こうしんづか)とも呼ばれる様で、庚申信仰に基づいて建てられるもの写真のように「庚申」や「庚申搭」と彫られたもの、時には金剛像が刻まれたものなど多様なものがあります人の体内には三尸(さんし)の虫という虫がいるそうです三尸の虫は庚申の日に人が寝ている時を見計らい天帝(仏教でいう帝釈天)にその人の悪事を告げに行くといいますそれを避けるために庚申の日(60日/1回)は夜を徹し、天帝や猿田彦や青面金剛を拝み続け、宴を催す風習です庚申の年や庚申講を一定の回数続けた時の記念にこうした塔を建てられるようです後方の小さな社は秋葉社表札も掲げられ分かり易いものです、この小さな社の周りも四本の御柱が囲んでいます斜面に建てられた木造鳥居その正面に白い御柱が見えます、目的地「大国主命社」です見上げるような右の斜面にも一社あるようです「大国主命社」傾斜地に建つ神社は、素木造の自然の色合いで周囲に溶け込むように鎮座しています地元では「榧ノ木様」と呼ばれる様で、左手に大きな榧ノ木が聳えていますこの社殿は本宮で遷座を終えた旧宝殿それを移築再利用したもの、なのでここを訪れれば宝殿の全容が見れると言う事ですどことなく神明造に似ているような気もします諏訪の神社は先程の秋葉社もそうであるように、神社には御柱が立てられるのが一般的な光景かもしれません階段も上がれるようですが、御柱に囲まれた領域なので内部を窺うのはやめておきます杜に佇むこの神社の姿、とても好きになりました「大国主命社」の脇の石標大聖不動明王、月山、湯殿山、目黒山大権現と彫られていますその先は蚕玉社蚕玉社祠には額らしきものがあり、何か書かれていたような跡は見えます地元宮之脇の神社で「蚕の神」を祀るそうで、諏訪大社の摂末社ではない様です祠の内部、中央と両脇に鈍く輝く紋は葵の紋の様に見えないでもない少し調べてみる必要がありそうです斜めった場所、祠前にもカメラを構えるほどの余裕がないので、下手をすると斜面を滑り落ちる事になるやも、結構な斜度があります住所 / 長野県諏訪市大字中洲神宮寺次は東参道に戻ります東参道のニノ鳥居から左に上り、赤い山門の法華寺へ向かいます神宮寺配置図後方の神社は蠶(こ)玉神社蚕の女神様ですかねこちらも御柱は四方を囲んでいます蠶玉神社も大国主命社同様で諏訪大社の摂末社ではないようです蠶玉神社後方にも庚申塔、あっちこっちで見かけることができます鷲峰山法華寺、古くは天台宗の寺だったけれど鎌倉時代に当時の領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改宗したといわれ、諏訪大社上社の神宮寺その事を示す様に、山門と本堂の大棟には諏訪大社の神紋が飾られています往時には七堂伽藍を誇る大きな寺として栄えた法華寺信長の武田家滅亡の本陣として諏訪大社本宮を焼き払いに使わたり、神仏分離と廃仏毀釈で建物が払われたり、1999年(平成11)には火災で焼失するなど様々な出来事を見てきました現在の本堂は焼失後に再建されたもの、現在は特徴のある赤い山門と本堂、寺務所と庫裏のみの伽藍諏訪大社鳥居入口にありながら、ここを訪れる参拝客は意外に少ないようですそんな山寺の趣のある法華寺ですが「赤穂浪士」や「本能寺の変」につながるきっかけの舞台となった場所1582年(天正10)、信玄の高遠城を攻め落とした織田勢は、その勢いのまま北上し諏訪大社上社本宮を焼き払った、その戦火から免れた法華寺は信長勢の本陣として、武田家滅亡後の論功行賞が行われた場とされます信長はその場で明智光秀を叱責したとされ、面子を潰された光秀は本能寺の変を起こすきっかけとなったと伝えられています赤穂浪士と法華寺のつながりはよく分からないけれど、吉良上野介の養子だった吉良義周は1702年(元禄15)の吉良邸討ち入りの当事者の1人とされ、領地を取り上げられここ高島藩に流されたそうです義周は1706年(宝永3)に他界、その亡骸はここ法華寺に土葬されたとされます文殊、普賢菩薩、釈迦如来・・・・・原発?まだ前宮と本宮を参拝しただけですが、秋を感じるこの時期になると陽が陰るのは早いものです夕陽の差し込む境内、大棟の神紋が輝いてきます吉良義周の亡骸はここに眠っています境内左の石碑群と大黒様を祀る小さな社法華寺住所 / 長野県諏訪市中州神宮寺856石碑の左手には更に上に続く道があります短い坂道の先に墨繩神社の明神鳥居と社殿、その前に立つ御柱が見えています白い御柱が間近に近づいてきました墨繩とは聞きなれないかも知れませんこれは大工さんが使う、線を引くための道具の事墨の中に糸がまかれ、糸を引き出し摘み上げその糸を離せば、真っすぐな長い墨の直線を引くことができるもの現在も使われる現役のアイテム、ここは名前の如く大工さんに縁のある神社墨縄神社住所 / 長野県諏訪市大字中洲神宮寺更に上を目指しますすると視界は開け、傾斜地に平坦な一画が現れますそこには鐘楼、神宮寺仁王門、五重塔などの跡が残ります神宮寺伽藍は今はほぼ現存しません、現在残るのは「神宮寺」の地名のみこの平地は現在マレットゴルフ場として地元で使われていますその南側の急斜面に登れとばかりに「信玄公墓碑」の看板が導いています現在の根羽村で亡くなった信玄は、この地の諏訪湖に沈められたと云われますその信玄の墓碑がこの斜面にあります、それも目立たない様にひっそりと小さな岩が置かれるのみここまで登ると解説があるものと思っていたけれど、解説板はありませんでした三つある石の左のものが「信玄公墓碑」となります信玄の墓は諏訪湖含めて複数あり、どれが真実なのか気にはなりますがそこを明らかにする必要はないものかも知れません「信玄公墓碑」から斜面をまっすぐに下っていくと墨縄神社の後方に出ます後ろにも御柱ありますねそこから下に続く石段を下りていくと東参道に戻る事ができます参道脇の案内図法華寺のある右から左に横断し、下に下ったことになりますここから一の鳥居のある右方向に行きたいところですが、相当かみさんを待たせています駐車場に戻る事にしますそれにしても信玄公墓碑の斜面は足にきました、一日で4社巡りの予定はタイトなようです車中泊で決まりかな?
2019.10.21
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春日井市神領町1『貴船神社』神領町の『三明神社』の前の通りを南へ5分程歩きます。やがて左手の保育園を通り過ぎると小学校が正面に現れ、道はそこから右に続きます。右手の角地に舗装された保育園の駐車場、その先の小さな杜が目的地「貴船神社」。周囲は北と西が住宅街、東は保育園がありその先に庄内川右岸の堤防道路、南は小学校、静かで自然を身近に感じる事が出来る環境。左は1891年(明治24)と右がほぼ現在の地図、こうして見ると随分宅地化されたものです。貴船神社は現在も明治の頃も記載はされていません。神社の由緒は分からなかった事を最初に書いておこう。貴船神社は社号標や鳥居、狛犬などはなく、灯篭と拝殿、覆屋に納められた社の伽藍。村の社そのものかもしれない。境内入口右の「神領銅鐸」の立派な解説板が目に付く。手前の石標は社号標ではありませんでした。「神領銅鐸出土地」と刻まれた石標。今は出土当時の面影は残っていませんが、発掘当時は神社境内に接する小川があったようです。その小川の堤から銅鐸が2点出土したようです。この石標は銅鐸が出土した場所に建てられているそうです。解説板江戸時代末期の1858年(安政5)、現在の保育園付近から2点の銅鐸が発見され、状態の良い1点は地頭が所有、もう1点の銅鐸は地元に保管されたと伝えられます。その時の状況が 名古屋藩士の細野要斎(1811~1878)の「感興漫筆」で「神領村農民長蔵が次子仙左衛門、村東の堤畔を掘て、銅鐸二を獲たり」と記録が残る。また、昭和4年の考古学雑誌に「庄内川の右岸堤防を隔たる西十数間、無格社木船神社の接している何等特長のない低い地点」で出土したことが紹介として掲載されているといいます。2点の銅鐸は一つは破損、一つは原型を留めていたそうです。破損した銅鐸は復元され、神領区有の銅鐸としてここから西に5分程の臨済宗瑞雲寺に保管されているそうです。原型を留めた銅鐸の行方は分からないようです。この銅鐸は雨乞いの神具として使われ、干ばつ際には、貴船神社に住人が集まり、銅鐸を持出し庄内川の水を中に入れ、洗い清めた銅鐸を持ち帰ってたらいに入れ、竜の掛け軸の前に供え神主の祈願の祝詞と村人がお参りを繰り返したそうです。その祈願を行うと必ず雨が降り、日照りは解消したと伝えらるそうです。銅鐸がそうした用途で用いられていた頃は貴船神社の屋根裏に保管されていたようです。そうした事も用心の悪さから瑞雲寺に移されたらしい。銅鐸が作られた当時の用途は分からないけれど、そうした神事に使われてもそれはそれでいいのではないかな。物が残ってさえいれば。行方の分からないもう一方は今頃は海を渡っているのかもしれません。さて、神社に進みます右に石が組まれた常夜灯があり、その奥に小さな社と拝殿があります。岩の上に置かれた社は「秋葉神社」です。拝殿全景。瓦葺の切妻で四方吹き抜けの拝殿で、その奥の覆屋の中に社が窺えます。貴船神社の鬼瓦も菊紋が入っています、三明神社の様式の流れを受けているのでしょうか。拝殿内から社の眺め。社は南を向いて祀られています。創建や祭神については分かりませんが、先ほどの考古学雑誌の記述で「無格社木船神社」とあるけれど、それ以前の「感興漫筆」に社名が出てこない事から推測し江戸以降の創建ではないかと思います。こうした事が解説として整備されていくといいのだが。一段高い台座の上に祀られた板宮造りの社、秋葉神社はまめに訪れる方が見えるようです、最近は水事情も良くなり、こちらに頻繁に訪れる方は少ないようです。境内のさつきが唯一彩りを与えています。貴船神社側面全景銅鐸が出土した古墳の痕跡を留めるものは石標以外皆無です。いずれにしても春日井や東部丘陵地帯には多くの古墳があり、宅地化に伴い現存しないものも多いですが、古くから人が住み、豪族がいたという事でしょう。春日井市神領町『貴船神社』 創建 / 不明 祭神 / 不明 住所 / 春日井市神領町1丁目14 公共交通機関アクセス / JR中央本線「神領」駅下車、南へ徒歩15分程関連記事 / 春日井市神領『三明神社』
2020.05.26
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柯柄(えがら)八幡神社の参拝を終え、高山線で下呂までやってきた。写真上段は下呂駅前に掲げられている観光マップ。 下段は下呂大橋から飛騨川上流の眺め、河原に見える噴泉地。以前は全裸で入浴が出来、山からの帰りはここで汗を流すのが楽しみだった。 それも世の流れと共に水着着用になり、マナーの悪さから今では足湯に変ってしまったようだ。下呂温泉の歴史は古い。 1728年(享保13)、幕府直轄領である飛騨国代官となった長谷川忠崇が編纂した地誌飛州志に「天暦年中(947~957年)この地の山中に、温泉湧出せり、地名を湯ガ峰という」という記載がある。古くは室町時代の僧・万里集九の『梅花無尽蔵』に優れた温泉地として「湯島(下呂)、草津、有馬」で既に書き残されていた。 また、江戸時代の儒学者・林羅山が「我が国には多くの温泉がある、最も著名なのが、有馬、草津、湯島(下呂)である、有馬、草津は広く世の知るところ、湯島は古来の霊湯なことを知る者は少ない。 だが入湯者はその験を得ざることなし」と書き残したという。それにより下呂温泉が草津、有馬と並び「日本三大名湯」として、1000年の歴史を誇る名湯として広く知られるようになったようだ。 街中で見かけるマンホールには白鷺がデザインされています。下呂の温泉街から少し登ると温泉寺が鎮座します。 そこには「白鷺伝説」が伝わり、「薬師如来が傷ついた一羽の白鷺に姿を変え、飛騨川でその傷を癒し、源泉のありかを村人に知らせた」と温泉発見にまつわる話が今も残る。白鷺はこの地のシンボルだ。下呂大橋を渡り左に進みます。 下呂温泉街の北の入り口で、その道路脇に大きな樹の姿が見えてきます。あの杜が今回の目的地「若宮八幡神社」、中根山(下呂富士)の麓にある湯之島の氏神様です。社頭は通り沿いにあり、この大きな杉並木と玉垣が目印。 何度も通っている道筋で神社の存在も知ってはいたが、駐車場もなく訪れるのは今回初めて。社頭から境内の眺め。 鳥居と右に「若宮八幡神社」の社標、その先に一対の狛犬が守護する。手水舎は左側にある、後方には中根山(下呂富士)が迫っている。石の明神鳥居の扁額も若宮八幡神社と彫られている。 参道中央に♡型の赤い茅の輪があり、その先に入母屋造の拝殿が見える。境内から社頭の眺め。 温泉街の北外れに鎮座する事もあり訪れる参拝者は少ないようだ。清水が絶え間なく注がれる手水鉢。拝殿全景、左には社務所。神輿の保管庫がある。 赤い♡の茅の輪、若い観光客をターゲットにしたスポットやグルメが増えてきたが、この茅の輪もその一環だろうか。当神社の鳥居始め常夜灯、狛犬等の寄進物は昭和に寄進されたものが多い。 岐阜神社庁を調べて見たが掲載されておらず、若宮八幡神社の由緒については定かにはならなかった。ただ、「飛州志」の中でこの地域に鎮座する若宮宮の一社として「益田郡湯島村若宮宮」として記述があったが、祭神の記述にとどまり創建時期は記されていなかった。 それによれば祭神は「應神帝仁徳帝」とあり、仁徳天皇とその父応神天皇が祭神のようだ。1728年(享保13)に編纂された「飛州志」に記述が残る事から享保以前に創建されているようだ。拝殿前の子持ち、毬持ちの狛犬。 社殿全景。 入母屋銅板葺の拝殿は幣殿と繋がりその先に鞘殿に続くようだ。左側が社務所で境内の左に若宮稲荷が祀られています。「湯之島五ヵ所まいり」 「輪をくぐって祓い清め良縁安産健康を授かりましょう」とある、お求めの方は是非一度。帰りにはおがわや酒店に寄ってみよう、更にご利益アップのアイテムが手に入る。 お酒大好き派は有料で利き酒や角打ちも出来る。拝殿額は「若宮神社」拝殿右からの眺め。鞘殿?だろうか、樹々に包まれ良く見えなかった。社務所。 若宮八幡神社は夏に行われる下呂温泉龍神火祭りの道行の出発地点とか、今は閑散とした境内ですが祭りのときは多くの人で賑わうという。若宮稲荷。 参道は石の明神鳥居の先にある覆屋に続く。鳥居扁額。渡廊の先に赤い玉垣に囲われた覆屋が見える。覆屋全景。 内部に祀られる本殿は檜皮葺の流造のようだ。使いの狛狐の姿は見られない。覆屋の額、・・・・若宮稲荷と書いてあるの? いやいや「福〇神社」或いは「稲荷神社」・・・・覆屋内、目立たなかったが本殿の左右と前にちゃんと狐が守護している。 若宮稲荷も詳細は分からなかった。 彼女と下呂温泉に訪れ、この赤い茅の輪を「くぐろう」なんて云われた時は潔く腹を括ろう。 さて本日はここまで、ウエルカムビール飲み放題のホテルに向かうか。若宮八幡神社創建 / 不明祭神 / 仁徳天皇、応神天皇若宮稲荷創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 岐阜県下呂市湯之島309参拝日/ 2022/06/28高山本線下呂駅から徒歩ルート / 下呂大橋を経由15分前後関連記事 / 「柯柄(えがら)八幡神社」岐阜県下呂市金山町 岐阜県下呂市 温泉寺 GoToトラベルで「下呂」
2022.08.23
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名鉄瀬戸線(瀬戸電)「尼ヶ坂駅」から南へ徒歩約10分も歩くと、北垂れの傾斜地が現れます。この辺りは芳野2丁目、静かな住宅街が続き、小洒落たお店も点在します。瀬戸電の清水駅から森下駅周辺を車窓から南を見ると、小高い丘の様相。崖下から北へ低地が続き、その先は矢田川に広がりを見せています。その昔の名古屋台地の北外れと言っても過言ではないでしょう。この丘の高台にある高校の北斜面に細い道路があり、その道の奥に赤い鳥居が見えるはずです、今回の目的地は「義市稲荷社」。神社前から道は右に折れ、瀬戸電の高架下に向け緩やかに下っていきます。左手の建物が高校の校舎、その建物を支える法面と境内の高さ比較すると結構な斜度なのがよく分かります。この時期なので草木も枯れすっきりした印象がありますが、夏場には赤い鳥居以外は鬱蒼と生い茂る木々に包まれ全体が見通せないかも知れません。右手の義市稲荷社と刻まれた社号標、奉納されたのが昭和49年とあります。義市稲荷神社扁額。恐らく伏見から勧請したものだと思います。創建は1628年(寛永5)と云われ、尾張徳川家、名古屋藩付家老の竹腰正信の屋敷に祭祀されたのが始まりの様で、1871年(明治4)の廃藩置県により上地となり、1874年(明治7)に共祭公許となったようです。この神社は片山八幡神社の管轄にあるようなので、こちらに問い合わせると詳細な事もわかるのかも。鳥居脇の手水鉢、年号未確認です。本殿前の狛狐、痩せ(狐はこんなもんか?)ていて、右の狐の顔は風化して表情はよくわからない。台座の奉納年度は意外に新しく1938年(昭和13)とあった。妙に哀愁が漂う狐です。切妻瓦葺の建物は本殿かと思いきや、鞘堂のようです。薄暗い堂内を覗かせて頂き、ノールックで撮影する、そこには正面に社殿と左右に小さな社が祀られているようです。社の屋根は多分檜皮葺きだと思われますが、屋根はグレー一色で不思議な色合いを呈している。これは何?、埃りが堆積しているのか?よもや・・・・・相殿の祭神は良く分からない、宗像社と春日社、天神社の合殿だとも語られていますが、この絵だけでは何とも確証が得られません。言えるのは、供えられた榊はフレッシュで小まめに面倒みられている事ぐらいでしょうか。こうした方や参拝に来られた方に直接伺う機会があるとすっきりするのでしょうが、どなたにも遭う事はありませんでした。祭神は食物の神、倉稲魂尊を祀ります。義市稲荷社から北の眺め、道は瀬戸電の高架に向け緩やかに下り続けています。静かな住宅地そのもの、地名の芳野は竹腰氏の家臣吉田弥四郎が、ここから少し西の高台にある片山神社境内に吉野桜を植えた事に由来するらしい。この地が竹腰氏のお膝元だった事はここからも伺えます。義市稲荷社創建 / 1628年(寛永5)祭神 / 倉稲魂尊住所 / 名古屋市東区芳野2丁目7-29公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ヶ坂」駅から瀬戸電高架沿いに東へ徒歩約10分
2020.01.15
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名古屋市北区大杉1白壁の秋葉宮から名鉄瀬戸線尼ケ坂駅に向かう途中、高架沿いを走る道端に赤い幟が立っています。尼ケ坂駅前から西を注視すると見えるかもしれません、尼ケ坂駅の南の交差点から歩いて2~3分程です。尼ヶ坂延命地蔵菩薩を安置する小さな地蔵堂です。堂前に「尼ケ坂延命地蔵菩薩」の複数の奉納幟が立てられています。古くからここに暮らす地元の方々から、今も慕われ、地域のコミュニケーションの場として欠かせないもの、幟の数はそれを物語っています。堂の左に手水鉢が置かれています、側面に寄進者伊藤萬蔵(1833~1927)と彫られているようです。某神社を訪れた際、地元の老人から「ここの狛犬は伊藤萬蔵さんが奉納してくれたもの・・・・・」と教えられた事がある、その方の名をここで改めて知る事となった。この方、名古屋城下塩町で「平野屋」の屋号で開業し財を成した方で、狛犬や灯篭など多くの寺社へ寄進された方だという。荒廃する小さな社を見かけることも多い、現代の伊藤萬蔵さんはいないものだろうか。開け放たれた堂の扉から中に入らせてもらいます。最初に目に入るのは壁一面に安置された菩薩や地蔵さん。赤い前掛けに帽子を被った像や座布団の上に座るものなど様々な像が安置されています。手前に目をやると、天井から吊るされた多くの奉納提灯と赤い幕が吊られています。奉納提灯は「南無延命地蔵大菩薩」小さく、狭いお堂に多くの方がお参りに訪れ、崇拝されている事が奉納提灯の数からも伝わってきます。中央の像が「延命地蔵大菩薩」どこまでも穏やかなその表情は、眺めているこちらの気持ちも妙に穏やかにしてくれます。騒がしいいこの頃、こんな時こそ穏やかで冷静な振舞いをすべきと示しているかのようです。地蔵菩薩は安産、健康、長寿、智恵、豊作、求財などにのご利益があると云われていて、壁に掛けられた手書きの解説に「みなさんのお地蔵さま」と書かれているように、地域の身近な仏様なのかもしれません。中央の座像は「光明菩薩地蔵」延命地蔵菩薩の左側のお地蔵さまは前掛けはなく、しっかりと彫られた像の全身がよく見られます。静かに目を閉じ穏かな表情をしています。延命地蔵菩薩の右側には五鈷杵を持つ弘法大師像が安置されています。これらの像の年代や、いつからここに安置されているのか、諸事情でここに纏められたものなのか詳細は分かりません。伊藤萬蔵さんの生没年から、寄進したのが大正頃として、その頃が堂の建立時期なのか?このあたりの事は管理されている大杉の普光寺で尋ねると分かるのかもしれません。見るものに何かを教えてくれるお地蔵さま達に、新しとか、古いとかは必要ないのかもしれません。おやじが地蔵さまから感じたのは「周りに惑わされることなく、冷静に振舞いなさい」です。尼ケ坂「延命地蔵菩薩」住所 / 名古屋市北区大杉1-21-7公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」下車、西に2~3分
2020.02.28
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春日井市朝宮町朝宮神社。鳥居松3の神明社から徒歩で20分程北西に鎮座する。町名の朝宮の由来は朝宮神社から付いたとされます。朝宮神社全景。静かな住宅地の一画に東を向いて社頭があり、右手に春日井市朝宮地区集会施設がある。境内へはここの他に社地北側にも鳥居を構えた脇参道があります。左手に朝宮神社社標、一段上がって境内が広がります。鳥居の先右手に手水舎、その先に蕃塀と拝殿が見えます。石の神明鳥居の左に石碑が見える。朝宮神社由緒「朝宮神社祭神 阿太賀田須命 建手和爾命 菊理比売命 鎮座地 春日井市朝宮町7054由緒 創建不詳 延喜式神名帳(延喜5年927年)の式内社和爾良神社と伝えられるが定かではない。 建保6年1218年 加賀白山より菊理比売命を合祀し朝宮白山宮と称した。寛永19年1642年徳川源敬公により改造営され朝宮神社となる。 文禄4年1595年の「奉再建和爾良白山宮御本殿」の棟札が残る。今回、区画整理に伴い境内地の変更があり本殿・拝殿とも鉄筋コンクリート造りで再建し境内も整備し、 昭和63年1968年遷座祭を行う」和爾良神社ですかぁ、名東区の和示良神社や春日井市宮町の両社宮神社、上条町の和爾良神社の他に新たに候補が増えたようだ。正直な所どこが本家でも構わない、はっきりしなくてもいいものの様に思える。境内全景。由緒にもあるようにコンクリート造りの伽藍は全てが新しく、境内は良く手入れされ居心地のいい空間。手水舎後方に古い鉢と左に「和爾之井」と掘られた空井戸、江戸初期には「和爾清水」という湧き水が湧出していたという。蕃塀と拝殿正面全景。石造の蕃塀の下部には波が描かれ、波間を飛ぶ鳥が描かれている。銅板葺の平入拝殿、こうして屋根を見ると僅かにむくりが入っているように見える。拝殿左に注連縄の架けられた覆い屋がある。拝殿、幣殿、本殿が一体となり連なっている。新しく綺麗な社殿に対し、その脇の狛犬は同時期のものとは思えない風貌だ。年代までは確認していませんが、建て替える以前の面々か。東から見た社殿、全体的にシャープな印象を受ける。本殿は四本の鰹木と内削ぎの千木が付く。まずは朝宮神社参拝。拝殿の額と拝殿内から本殿方向の眺め。1968年にコンクリート造りに建て替えたとあったが、半世紀を経たとは思えない程綺麗な印象を受ける。拝殿左脇の覆屋には津島神社が祀られています。津島神社の左に朝宮神社由緒。一部抜粋「祭神の和爾命は当地と関係のある和爾族の祖神である。社殿によれば尾張藩祖徳川義直および二代目光友は当社の崇敬厚く義直は社殿の造営、光友は亡母貞松院の祈願所とされた。なお、神社の近くには源敬公の朝宮御殿跡の碑があり、これは春日井原においてお鷹狩りの折の休憩所の跡である」はて?それらしき碑は見つけられなかった、近くとはどこだろうか。家に帰りグーグル先生に聞けば、社頭左の道路を西に行けば玉垣の切れ目があり、そこから階段を上るとその碑があったようだ、少し悔やまれるが後の祭りだ。またの機会にしよう。上境内から北側参道の眺め、鳥居の先は参拝者駐車場ではなさそうでした。下社頭方向の眺め。、鳥居からセミの鳴き声が聞こえてくる。鳴き声の主はアブラゼミ。石の鳥居が好みなのか、ひと際大きく鳴きまくっていた。参拝を終え、車を停めさせてもらっている慈眼寺まで急いで戻るとする。2021/8/16朝宮神社創建 / 不明祭神 / 阿太賀田須命 建手和爾命 菊理比売命境内社 / 津島社所在地 / 春日井市朝宮町1-12徒歩ルート / 鳥居松3「神明社」から北へ徒歩20分関連記事 / 春日井市鳥居松町3「神明社」 『両社宮神社』春日井市宮町 和示良神社(名東区) 和爾良神社飛地末社「大日社」 「和爾良神社 / 大光寺」春日井市上条町
2021.09.16
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源兵衛町源兵衛公園、何やらすごいネーミング それにつられて名古屋市南区を訪れました目的地は須佐之男社 名鉄常滑線「柴田」で下車、20分程歩いただろうか源兵衛公園に到着、公園の南側に隣接する様に玉垣で囲われた杜が現れた神社の西側には紅白の梅の花が咲き誇り彩を与えていました 写真奥が源兵衛公園ですが、公園内、神社内は子供達の遊び場になっています自分も子供の頃に身近に神社があり、陽が傾くまで遊んだなァ西側にある鳥居、二の鳥居まで見えます 早速境内へ一の鳥居を過ぎた右に手水舎と手水鉢、水は僅かに注がれていました 左には社務所兼集会所?でしょうか本殿の側面も正面に見えています、拝殿はこの先の左に回されるのかナ?二の鳥居から一の鳥居を眺める力石と石標が祀られている 境内が広がると共に南側に別の鳥居が見えてくる、あれ?南側に回り込み仕切り直し南側からの眺め、鳥居とその先に拝殿、やっと見慣れた風景になりました 背後には天白川の堤防が迫っています、海抜はゼロ鳥居左の石標には由緒が刻まれています 右の社号標は村社「須佐之男社」とありますが、古い社号標には「村社式外須佐之男神社」と彫られ残っています 社号標の右奥が手水舎になります 色白のかえるくんがお出迎えです 水は絶え間なく注がれ、澄んでいて気持ちがいいよね境内左の銀杏の古木 社創建の際の記念樹として植樹され、現在もその姿を留めています鳥居から拝殿を臨む 拝殿前で優しい表情で見守る狛犬です参拝前に拝殿右から鳥居方向を眺めてみました どっしりとした鬼瓦と破風飾りも誂われた拝殿の先には堤防が見えています外見に対し拝殿内は飾りっ気のない質素な印象を与えます須佐之男社由緒九州大友家の家来で知多郡大高町の山口源兵衛は1706年(宝永3)、堀川の材木庄大山屋二代目の神戸文左衛門より資金融資を受け干潟に築堤、新田を作りそこに天王社を祀ったのが始まりとされます約300年の歴史を綴ります源兵衛町の由来はここから来ていると思われます源兵衛の新田は今では住宅地に変貌しコンクリート堤防で守られ面影は感じられません 幣殿と本殿、夕陽を浴び、装飾飾りが黄金色に輝いています拝殿左には二つに分かれる参道 左は西側の鳥居へ、右参道は境内末社へとつながります末社は左が伊勢皇大神宮、右は秋葉神社拝殿右側参道先の境内末社「水天宮」 小さいながら神社伽藍も形になっています源兵衛が作った新田、その氏神に見守られ、源兵衛公園では子供達の戯れる声が聞こえてきます いい情景だと思います 須佐之男社 御祭神 / 須佐之男命創建 / 1706年境内末社 伊勢皇大神宮・御祭神・天照大神 / 秋葉神社・御祭神・迦具土の神 水天宮・御祭神・天御中主之神住所 / 名古屋市南区源兵衛町5丁目-1385アクセス / 名古屋市南区源兵衛町5丁目-1385
2018.03.06
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我が家にサーモスイージースモーカーがやってきてから、かれこれ1か月程経ちましたチーズ、たくあん、ソーセージ、ささ身等のスモークを作り、かみさんの楽しみが増えたようです最近はベーコン作りにチャレンジしていたようで酒の摘みに自家製ベーコンが出てきましたそれが結構おいしかったのでその際のレシピを投稿します以前のベーコン作りといえばダッチオーブンなどの熱燻製法で作ってきましたが、どうしても火の番や燻煙が気になり気軽に楽しむ事は出来ませんでしたサーモスイージースモーカーが当時あればもっとオリジナル燻製の腕はあがっていたのかもしれません以前はソミュールに漬けこんで作ってきましたが、今回かみさんはお手軽に作った様ですまずは1.素材豚バラ500g程のものを用意2.バラ肉をフォークでこれでもかと云わんばかりに突っきます3.スパイスは以下 ・塩、白糖、ブラックペッパー 比率は肉重量に対し各々4%、2%、2% ・セージ、タイム、バジル等のハーブをお好みで これをバラ肉にしっかりと擦り込みます 擦り込みが終わったら、ローリエを上に添えて「ピチッとクッキングペーパー」で包む かみさん曰く「このクッキングペーパーはさすが」だそうで、くっつかなくて扱いやすいらしい タコ糸か輪ゴムで縛るといいのですが、そこは割愛したようです4.ストッカーに入れ、冷蔵庫で寝かせ毎日ひっくり返す、この工程を4日やった様です5.バラ肉を取り出し、ボウルに水を貯めて塩抜きを行います、水は1時間毎に入れ替え3時間塩抜きをしました、塩抜きの時間が出来上がりに大きく影響します短いと塩辛いだけ、やり過ぎるとボケた味になるので、お好みで時間をもっと短くしてもいいのでしょう6.塩抜きが終わったバラ肉はキャンプ用の食器乾燥ネットに入れ、風通しのいい場所で半日程水分を切ります7.いよいよ燻製にします ・アルミ箔をイージースモーカーの底部に敷き、肉重量の2%程度のチップを入れ、網をセットしバラ肉を乗せ準備完了、今回使用したチップはミックスタイプを使いました ・燻煙が立つまで最初は強火で加熱します、スモークのいい香りが漂います ・燻煙が立ってきたところで弱火にして蓋を被せ待つ事20~30分(火力に応じ) ・タイムアップ後は保温容器に入れ30分程保温します完成したベーコンが下の写真ですダッチオーブンやキャンプ用の熱燻製器だと、色の付き加減は強くなる傾向がありましたがイージースモーカーでスモークしたものは丁度いい加減の色合いでスモークの香りは充分肝心の塩加減も我が家の好みのやや薄め早速ビールのお供としておいしく頂きました下処理に手間はかかりますが、それも手作りの楽しみです試行錯誤の結果、究極の自家製ベーコンが出来れば、それまでの手間は吹っ飛んでいきます【送料無料】サーモス イージースモ−カー RPD-13
2019.05.30
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今年久し振り戸隠へキャンプに出掛け、以来ちょっとしたキャンプブームビンテージ物のテントや用品のメンテナンスに時間を費やす事が多い二人だけのキャンプ、子育て時代とは違い用品のダイエットが必要になっているなか、意に反して新たに追加されたのがスキレット。以前から家用としてかみさんが興味を持っていたが、ボンボンと机の上に並べられた黒いフライパン。我家のキャンプブームに乗じて決断したようだ。サイズは6.5インチ(16.5㌢)とやや小さめのものですが、家や二人のキャンプならこれで十分。既にダッジオーブンはあるけれど、鋳鉄の鍋はとても重い、なので出番は確実に少なくなる。スキレットも同様で6.5インチ(16.5㌢)なれど蓋を付け片手で持ち上げると結構手首の筋トレになる。総重量は約1.5㎏程と普通のフライパンと比べたらとても重い。見た目は味があって、そのまま食卓に出しても洒落ていて魅かれるかもしれないが重さは覚悟が必要。こうして現物を見ると既にシーズニングされている、これは助かる。シーズニングとは製品表面の酸化防止用のワックスを落として匂いを取り、オリーブオイルなどで新たに油膜を張りなおす作業。初めてのシーズニングはくず野菜などで野菜炒めをして済ませてもいい。使用後はお湯で洗い、熱をかけて乾かしたあと、オリーブオイルなどを塗って保管する事になる。結構手間のかかる代物なのも間違いない。その代わり蓄熱性がいいので、焼いたり、カバーを乗せて煮込みなどする時に食材に熱がむらなく伝わり、幅広く調理ができる。普通のテーブルにフライパンでドンと置かれていると「今日はご機嫌斜め?」と思いたくもなるが、スキレットで置かれていると料理も冷めにくく感じが違う。スキレットカバー内側のイボの様な突起は蓋をして調理をすると、素材の旨味を含んだ蒸気がカバー内面に沿って突起にぶつかり液化して再び素材の上に垂れて戻る仕組み。この手のものは直火しか駄目だろうと思っていたがIHにも対応した製品もある、となれば家での用途も増え、使い込めばさらに味わい深くなっていくだろう。さあ、これがテーブルの上に乗るのはいつなのか、楽しみだ。これを日常的に使いこなすようになると、かみさんには腕っぷしでは歯向かえまい。楽天市場「Zモール」スキレット・カバー付き
2021.08.02
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愛媛県・広島県の一之宮巡り二日目。 鞆の浦から次の目的地「備後國一ノ宮の素戔嗚神社」へは県道22号線で福山方向に向かい、芦田川の左岸を遡る約1時間の移動時間だった。素戔嗚神社の駐車場は社頭前と社務所後方の二か所に無料駐車場が用意されています。 私達は社務所後方の駐車場に駐車、社地北側の銀山街道(旧山陽道)沿いを社頭まで歩く事にした。素戔嗚神社西門 (相方城移築門) 素戔嗚神社南西の芦田川右岸に聳える城山に、嘗て存在した相方城から城門2棟と櫓1棟が素戔嗚神社に移築されたと云う。戦国時代の山城の城門としては最古級とされる城門2棟は、神社北門、西門として移築されこうして現存するが、櫓は1970年代の火災で焼失したと云う。 街道沿いに小さな堀が続き右手が境内。素戔嗚神社北門 (相方城移築門) 切妻の薬井門で建築年代は不明という、建築様式と部材の風化具合から16世紀末から17世紀初めではないかと云われている。北門の前に安置されている狛犬は躍動感があり、阿形は球の上で逆立ち、吽形は二本足で立ちあがった姿。街道沿いの社頭右に「縣社」「式内社」の石標。 素戔嗚神社社頭。 石の明神鳥居と左に由緒書き、参道の先に随神門と遥か先に神楽殿が小さく見える。右手が参拝者駐車場。社頭の素戔嗚神社由緒、内容は以下。 「式内社・備後一宮 素戔嗚神社、茅の輪くぐり発祥の地御祭神 / 本殿 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八王子 天満宮 / 管原道真公蘇民神社 / 蘇民将来 疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神疫隈の郷(江ノ隈の里) この付近は江熊の里と呼ばれたところ、古くは江隈とも記された。 「江」は入江であり、「隈」はかたすみとも読め、江ノ隈の読みから穴の海の入江であったことが伺われる。奈良時代は古山陽道がこの辺りを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えた。 茅の輪神事 備後の國の風土記に疫隈の国社。昔、北海に坐します武塔神…南海に出てまししに日暮れぬ、その所に将来二人ありき。 兄の蘇民将来甚く貧しく、弟の巨旦将来富て屋倉一百ありき…即ち、詔詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。 現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。素戔嗚尊は武塔天神或いは祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖である。 本社は備後三祇園社の一社で七月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり、祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司、彌宜が当神社に参詣し「無言の神事」が行われている。 明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した」鳥居の額は「素戔嗚神社」、相変わらず笠木の上には石ころが乗っかっている。石の明神鳥居の先には注連柱鳥居が立ち、その先に随神門と神楽殿が見通せる。 注連柱に刻まれた八紘一宇、武運長久。寄進年は見ていないけれど、日本に勢いのあった頃に寄進されたものだろう。1820年(文政3)に寄進された狛犬。 垂れ耳のドングリ眼で尾は九尾狐のように彫り出されている。随神門。1764年(明和元年)に当時戸手村だった庄屋により奉納されたもので、櫛岩間戸尊(左)と豊岩間戸命(右)の門守が安置されている。境内は正面に神楽殿、拝殿、本殿、拝殿左に蘇民神社、疱瘡神社、拝殿右の正面が社務所、天満宮が主な伽藍。 境内は幅・奥行ともにゆとりがあり解放感がある。参道右の手水舎。 鉢の側面には一面に大きな龍が施された大きなもので、その鉢を下で支える邪鬼の表情がいかにも辛そうな表情をしています。北門から見る神楽殿と社殿。 素戔嗚神社の創建は天武天皇の御代(673~686年)頃の創建とされ、「延喜式神名帳」には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記された古社。神仏習合により牛頭天王を祭神とした「早苗山 天竜院天王寺」とも呼ばれたが、明治に入り明治政府が発布した神仏分離令により祭神は素盞嗚尊になり現在の素盞嗚神社に改められた。 地元では親しみを込め天王さん、祇園さんと呼ばれていると云う。訪れた4月20日はこの時期にしては強烈な陽射しが降り注ぎ、広い境内に参拝で訪れていたのは我が家だけだった。神楽殿。 入母屋瓦葺で四方吹き抜けのもので、内部天井は防鳥ネットが張られ、その先には複数の奉納絵馬が掛けられているのだが上手く撮れず載せられなかったのが残念。右手の社務所と天満宮。素戔嗚神社拝殿。 注連柱の両脇で毬を持った狛犬が本殿域を守護している。1909年(明治42)寄進の狛犬で、耳は横に、尾はピンと上に立てた姿で頭が小さく俊敏そうな姿。 入母屋瓦葺の拝殿は建立年代不明ですが、全体は派手な飾りを避け落ち着いたもの。向拝の鬼瓦には五瓜に桔梗?の紋が施され、兎毛通には羽を広げた鳥の姿が彫られていた。 その下には上を向いた姿の龍が彫られている。拝殿、幣殿、本殿方向の眺め。上備後國一ノ宮 素戔嗚神社社殿の眺め。 社殿を遮るものが無く全体が良く見通せる。本殿は入母屋檜皮葺の平入で大棟から大きな破風が付き、棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が乗せられている。 社地周囲の杜は樹々が生い茂っているが、境内に樹々が少ないので真夏の炎天下は木陰が恋しくなる。本殿の鰹木と乗せ千木。 派手な彩色や光物もなく、個人的にはこの落ち着いた佇まいに魅かれるものがある。拝殿左に鎮座する蘇民神社と疱瘡神社の相殿。 向かって左に蘇民神社、右が疱瘡(ほうそう)神社。 「茅の輪くぐり」発祥の地 蘇民神社 「備後風土記によれば、昔、素戔嗚尊がこの地を訪れた時、一夜の宿を求め大きな屋敷を構え栄えていた弟の巨旦将来を訪ねたが断られた。 次に兄の蘇民将来を訪ねたところ蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し暖かくもてなした。歳を経て、蘇民将来は素戔嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びる事が出来ました。 この伝承が基となり、素戔嗚尊をお祀りする神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われる様になりました」とある。一説によればこの社地は茅の輪を授かる機会を逸し病にかかり途絶えた巨旦将来の屋敷だと云う。 また由緒にある「疫隈國社」とは蘇民神社を指すと云う話もあるようだ。疱瘡神社。 疱瘡と聞くと疫病神のイメージが先に来ていい印象はないけれど、全国各地に祀られている事から単にそうとも言えないようです。疱瘡とは天然痘を指すようですが、広い意味で伝染病を指し、記録に残るものでは天平の疫病大流行や戦国時代にも大流行しています。 周囲を海で囲われた島国の住民は大陸から持ち込まれる疫病に対し免疫は脆弱です。昔は感染すれば処置も出来ず、江戸時代に緒方春朔が行う種痘まで打つ手はなかった。 それまでは自然治癒するのを待つか、天に祈るしかなく。禍をもたらす疱瘡神ですが、時にその禍を持ち去ってくれる事もあるようで疫病退散を祈願し祀られたようです。 素戔嗚尊から茅の輪が授けられなかった巨旦将来、案外天然痘に伝染したのかも知れない。因みに疱瘡神は赤が苦手だという、何年か前に着た赤いチャンチャンコや赤丸神事の赤の意味にはそうした意味合いもあるのだろう。 天満宮。 向拝下に吊るされた提灯と賽銭箱に梅紋の入り一目でそれと分かる。入母屋瓦葺で向拝が設けられている。「元は戸手祇園社(早苗山天王寺)の本地堂(観音堂)。1748年(縁起5)に再建されたもので、明治の神仏分離令の際、須弥壇等を撤去、神座を作り天満宮として取壊しを免れた。 現存する本地堂は、全国的にも二十例しかなく、広島県内でも二例だと云う。又、全国の祇園社で本地堂が現存するのは素戔嗚神社のみで、本来の祇園信仰の祭祀形態を留めている。 18世紀初期の三間堂の寺院建築様式が良く残っている建物で、素戔嗚神社本地堂として福山市の重要文化財の指定を受けている」祭神 / 菅原道真毎年7月15日には祇園祭が3日間行われるという、その最終日はけんか神輿が行われます。境内北側に神輿の収納庫があり、祇園祭にはこの静かな境内は人で埋まるのだと云う。 ガラスの反射で良く見えなかったが、少なくとも3基の神輿が保管されているようだ。備後國一ノ宮、それは素戔嗚神社だけではありません、二社が一ノ宮を称しています。 それも、ここから車で10分程西の神谷川上流に鎮座する吉備津神社も備後國一ノ宮です。一ノ宮の御朱印全制覇を目指すかみさんにとって、「一ノ宮一つでいいんじゃない」となるんだろう。 備前、備中、備後として考えれば備後の一ノ宮は吉備津神社、二つあるのには大人の事情があるのだろう。備後國一ノ宮 素戔嗚神社創建 / 天武天皇年間(673~ 686)祭神 / 素盞嗚尊、櫛稲田姫命、八王子天満宮 / 菅原道真公蘇民神社 / 蘇民将来疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神参拝日 / 2022/04/20所在地 / 広島県福山市新市町大字戸手1-1公共交通機関アクセス / JR福塩線上戸手駅から徒歩5分ほど関連記事 / 鞆の浦に鎮座する「住吉神社と胡神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.07.07
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2023/07/07~08にかけて、兵庫県神戸市の灘の酒蔵と有馬温泉を訪れました。名古屋から電車を乗り継ぎ阪神電鉄魚崎駅に降り立った。ここから徒歩で灘五郷の一つ魚崎から御影郷、西郷まで初日に訪れた酒蔵を掲載します。まず駅を降りたつと写真の「灘は日本一の酒どころ」の看板が目に飛び込んでくる。ここから左の魚崎方向に向かい南下しながら酒蔵巡りのスタート。上は駅から5分程の桜正宗記念館付近の酒蔵マップ。桜正宗記念館。こちらはスルーして最初の目的地に浜福鶴に向かう。ホームセンターのある交差点を左に向かうと正面左に赤レンガの煙突が見えてきます。以下は浜福鶴HPより。「江戸時代の後期、現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた初代小山屋又兵衛が、この灘の土地で杜氏として学んだことが、浜福鶴とその親会社にあたる小山本家酒造の始まりです。灘で学び、埼玉へと渡り歩き、酒造りに邁進した又兵衛の情熱は代々受け継がれ、1989年には所縁のある灘で、浜福鶴の前身にあたる当時の「福鶴」と力を合わせ、伝統の酒造りを継承していくことになりました。」こちらでは工場見学をさせて頂きました。プラントの一部写真。施設内では酒造りの工程を資料で学び、最後に販売所で試飲をしましたが、たまたまだろうが買うかどうか分からない国内の見学者より、大陸から訪れた爆買いを期待できる見学者を優先する傾向があり、無料試飲だけ味わって次に向かいました。小山本家酒造浜福鶴所在地 / 神戸市東灘区魚崎南町4-4-6休業日・営業時間 / 毎月曜日・10:00~17:00(有料きき酒処は16:15まで)酒蔵通りをに西に向かい、右手に一時期よく飲んでいた剣菱酒造魚崎蔵を見て、住吉川に架かる島崎橋を渡り少し行くと菊正宗酒造 菊正宗酒造記念館に至ります、移動時間は約10分。馴染みのある酒で脳裏には今もCMのフレーズと美味しそうな肴の映像が摺り込まれています。創業は万治2年(1659)とされ、押しも押されもせぬビッグブランド。神戸・御影の本嘉納家本宅屋敷内に1659年(万治2)に建てられた旧酒造記念館を、昭和35年に現在の地に移築し、酒造記念館として保存・一般開放したもの。平成7年1月17日の阪神淡路大震災によって倒壊、平成11年1月25日に復興されたもので、展示用品は震災を免れ、昔ながら酒造りの様子を伺い知る事が出来ます。一通り見学を終えるとコースの出口が販売・試飲エリア。無料試飲のよく分からない僅かな量に比べれば、有料試飲は程よい量があり、香りも味わいも素人には分かりやすい。一つ提案、有料試飲のコインは交換機にしてはどうだろうか?外国人観光客が大量買いし、混雑するレジに試飲コインを買い求めるため並ぶ、実に無駄。灘の酒蔵全般で感じた事は、とにかく円の価値が下がっているのを実感する。有料試飲で左の三銘柄を試飲しましたが、左から三番目の「百黙純米大吟醸」が好み味だった。菊正宗酒造 菊正宗酒造記念館営業時間 / 午前9:30~午後4:30休館日 / 年末年始所在地 / 神戸市東灘区魚崎西町1-9-1菊正宗酒造から西に徒歩10分程の場所にある、白鶴酒造資料館。白鶴というと個人的には電車旅で良く買い求めるカップ酒でお馴染みだ。灘五郷のひとつ、御影郷の地で材木屋治兵衛が1743年(寛保3)に酒造業を始めたのが始まり。資料館は昭和40年代中頃まで実際に清酒醸造に使われていた本店壱号蔵を改造して開設されたもので、内部は昔ながらの酒造工程をそのまま保存し、作業内容を再現するため、人形が配置されるなど、清酒が生まれるまでをわかりやすく展示しています。而今に目が行く、米を通じて各地の蔵元と繋がっていく。こちらもコインで有料試飲ができる、人を介さないこのシステムで良いんじゃないだろうか。白鶴酒造資料館開館時間 / 9:30~16:30休館日 / お盆、年末年始所在地 / 神戸市東灘区住吉南町4-5-5次に訪れたのは東灘区御影塚町1の福寿の蔵元 神戸酒心館。白鶴酒造資料館から一旦南に進み、灘浜住吉川線に出て、港沿いに右方向へ進みます。御影塚3丁目交差点の手前を右に直進すると神戸酒心館の長屋門の前に出ます。所要時間は概ね20分程でした。施設は4つの蔵を改修した観光施設があり、料亭も併設されています。こちらでは東明蔵というショップに立ち寄ってみました。創業が宝暦元年(1751)、手造りにこだわる酒蔵として「福寿」の名を守り続けています。こちらで試飲させて頂いた三銘柄。何れも自分には美味しいお酒でしたが、かみさんの好みではなく購入は見送り。福寿の蔵元 神戸酒心館営業時間 / 未確認定休日 / 年中無休所在地 / 神戸市東灘区御影塚町1-8-17福寿の蔵元 神戸酒心館から西国浜街道を西に向かい、新在家若宮神社を経て、西郷酒蔵の道を更に西に進み、都賀川を越えれば沢の鶴資料館到着です。概ね30分程の移動時間です。既に掲載した神戸市灘区大石南町に鎮座する住吉神社の西隣りとなります。1717年(享保2)創業の沢の鶴は、米屋を営む初代が、副業として酒造りを始めたことから始まります。を発祥としています。酒名の由来についてHPでは以下の様に語っています。「太陽の神・天照大神を伊勢にお祀りしたとき、伊雑の沢で頻りに鳥の鳴く声が聞こえたので、いぶかしく思った倭姫命がその啼き声の主をたずねたところ、真っ白な鶴がたわわに実った稲穂をくわえながら鳴いているのを見つけた。鳥ですら田を作って大神へ神饌を奉るのかと深く慈しんだ倭姫命は、伊佐波登美神に命じてその稲穂から酒を醸させ、初めて大神に供え奉るとともに、その鶴を大歳神(おおとしのかみ=五穀の神)と呼んで大切にした…」という伊雑の宮伊勢(伊勢内宮と同じ地位を許されている別宮)の縁起が元になっています。」ビッグブランドだけに何気にどこかで口にしているはず。上は資料館入口。施設は阪神・淡路大震災により建物は全壊、1999年に免震システムを施し復興されたもの。施設は昔の酒造りで使われていた道具が工程毎に展示され、当時の酒造りの様子を知る事が出来、別棟に試飲・販売スペースがあります。下は涼しい館内に入ると真っ先に目に入ってくる神棚。槽場。渋袋に入れた醪を重ね、てこの原理で酒を搾り、垂壷と呼ばれる壺に酒を受ける作業場。震災による倒壊から復興作業中に偶然見つかった遺構。館内二階中央に一際目を引く和船の模型。西宮市内の宮水井戸、その地下から湧き出る地下水を仕込み水とするため、当時は樽に入れられ海上輸送されていたという。現在も仕込み水はタンクローリーで運ばれているという。当時は仕込みに欠かせない水のサスティナブルなど考えられてはいなかっただろうが、時代も変わり持続可能な水源維持のため、酒造会社による水源保全活動と水の収支を管理しているようです。そうした活動から宮水は今も安定して恵みを与え続けているという。以前に滋賀の酒蔵を訪れ試飲させて頂いた時に「飲み残しはしないように」と盛んに訴えていた事がある。自社製品の誇りもあるだろう、しかし一番は自然の恵みと共に酒造りを営んでいる者の思いが言葉に現れている。有料・無料試飲にかかわらず、飲み切った後に「おいしいね」と一言添えるのが作り手へのお礼かも知れない。出来上がった酒は灘の酒として樽廻船で江戸を始め全国に流通し名を馳せて行った。街角の酒屋さんや居酒屋にはこうしたポスターが必ず貼られていたものです。最近は酒屋自体が減り、あまり見かけなくなりました。見学棟から試飲・販売棟の間には竹石大明神が祀られています。朱の玉垣に囲まれた一画に、鳥居と社が祀られ、敷地には石臼が置かれています。酒造と神様はつきもの、酒蔵入口で見かける杉玉、その下に吊るされている小さな木札には酒の発祥の地とされる「三輪明神」の名が記されていたりします。この神社は沢の鶴の私的神社と思われます。竹石大明神。詳細は分かりませんが、祭神は稲倉魂命かと思われます。販売棟内。伝統的な日本酒だけでなく、時代やニーズに合わせ、当然ながら海外を意識した多様な商品が販売されています。無料試飲、当日の二銘柄。各酒蔵では、とても美味しい酒が提供されます、そうしたものは非売品で貴重な体験が出来ますが駄々をこねても販売はしてもらえません。ここを訪れた者しか味わえないものです。沢の鶴資料館開館時間 / 午前10:00~午後4:00休館日 / 毎週水曜日、盆休み、年末年始所在地 / 兵庫県神戸市灘区大石南町1-29-1魚崎からはじまり御影郷、西郷の一部の酒蔵しか巡れていませんが、美味しいお酒を堪能し気分は絶好調。重いリュックを背負い、ここから大石駅に向かい今夜の宿有馬温泉に向かいました。当日の大まかなルートはこちら、コース距離は6㌔程。訪問日 / 2023/07/07関連記事 / 神戸市灘区「若宮神社」、神戸市灘区大石南町 「住吉神社」・一部定休日の蔵もあり事前に調べていくといいかもしれない。・外国人観光客の集団に遭遇すると接客はそちらに力点が置かれるようです。・無料試飲は倉によって量はバラバラ、これで決めろ呟きたくなる量の蔵もあり、有料試飲がお勧め。
2023.08.18
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名古屋市千種区城山町にある天台宗のお寺西蓮寺前の道路から傾斜地についた狭い歩道を登った中ほどに鎮座します坂道を上り始めると直ぐ左に寺標が見えてきます、もみじを左に配した山門は紅葉すると綺麗でしょう山門から境内へ、宝形りの本堂が正面に見えますコンパクトな境内です 本堂の露盤と留蓋境内右の大黒堂武靖大黒天が祀られており弘法大師作と云われる大黒天は甲冑に身を固め、右手に知恵袋、左手に宝棒を持った珍しいものらしく「知恵さずけのなごや大黒」として親しまれているそうです実物を見る事は出来ませんでしたが一度は見たいものです 堂の前に置かれた七福神の置物台観寺へのもう一つの道筋です案内板があります、案内板の左のこの道を先に進みます幟の並ぶ坂(左に見える屋根は西蓮寺)をしばらく歩く、正面に大黒堂と左側に道引地蔵が見えてきます台観寺創建 / 1918年(大正7)建立宗派 / 天台宗本尊 / 阿弥陀如来住所 / 名古屋市千種区城山新町2-74 ℡ / 052-501-3867アクセス / 名古屋市営地下鉄東山線 覚王山下車徒歩20分
2017.10.21
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愛知県瀬戸市八王子町の『長谷山観音堂』へ行ってきました東海環状自動車道「せと品野」インターで降り、15分程走った左側にある寺標で左折小さな橋を渡り、直ぐ右側に看板のある空地が見えてきます『長谷山観音堂』は以前東海自然歩道を歩いた際に見かけ、いつか来てみようと思いながら○年 やっと来ることが出来ました入口左のお地蔵さん、石段の正面に赤い幟が立つ瓦葺の屋根が見えています、それが仁王門になりますう回路は仁王門手前を左を進めば本堂に出られます 是非とも仁王門から本堂を訪れましょう左右の仁王像と門の入口を切り取って並べてみました 色々な仁王像を見ましたが、思わず「えっ!?」愛嬌のある表情といい、ふくよかなフォルムといい、とっても印象に残ります この個性的な仁王像に会いに来ませんか?なかなかの大きさですよ、像の高さは3.6Mあるようです 門の先は壁の様な石段になります壁の様な石段の両側には「六地蔵様」とよばれる、六つの地蔵様が祀られています 手摺りはしっかり掴んで登ってくださいネ当日は風が強く、写真の様な立派などんぐりが上から降ってきます 上を見上げるのは避けた方が賢明でしょう石段の先は赤い幟が一杯立つ開けた境内と本堂 本堂左には弘法大師像が祀られているようですが拝む事は出来ませんでした毎年、8月、11月8・12日に例祭が行われ、地元や近隣の参拝者で賑わう様です江戸時代のものと云われる賽銭箱、地蔵尊、石仏などがあるようで、かなり隆盛であったと思われます創建は寛文年間(1661年~73年)と云われ 現在の本堂は天保10年(1839年)に再建され現在に至っているようです屋根は近年手を掛けられた様で部材が新しい 建物は本堂、仁王門からなり、本堂の本尊は11面観音像、木彫りの脇立仁王像が祀られているガラス越しに写真を撮り、PCで露出調整し浮かび上がった堂内画像が上になります本堂の右の山道を上ると直ぐに、鳥居が見えてきます 杉林の中に「長谷山稲荷大明神」が祀られています看板では狐が書かれていたが、不在? お参りをすませ祠を覗いて見たいたいた、お狐様発見「長谷山稲荷大明神」でお参りの後、正面の舗装路を下る途中で見かけた祠が二つ祠の正面の斜面に水色の幟と参拝道が目に入る 東海環状自動車道の下を潜り、ひたすら石段を登るとやがて高速を見下ろす高台まで上りきる尾根沿いの落ち葉が敷きつめられた参拝道の先に「秋葉三尺坊大権現」と「金毘羅大権現」が姿を現す尾根の木々を一部伐採、開けた場所に「秋葉三尺坊大権現」と「金毘羅大権現」が祀られていた 左が「秋葉三尺坊大権現」で右は「金毘羅大権現」お参りの後、中央の腰掛けで一休みいやはや、すぐ先だろうと思っていたが、道中なかなかのもの 高速の下を潜った経験はこれまでなかったのでは『長谷山観音堂』個性的な仁王像が強烈に記憶に刻まれる 2017/11/15住所 / 愛知県瀬戸市八王子町アクセス / 東海環状自動車道「せと品野」インターから15分程
2017.11.22
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名古屋市天白区大根ケ越針名神社の北側に隣接する秋葉山『慈眼寺』木々に覆われ真っ直ぐ伸びる緩やかな参道参道入口の曹洞宗の文字が消された寺号標秋葉山休跡斎の碑・・・・・とは?京都御所炎上の鎮火祈願で京に上った遠州秋葉山の三尺坊尊、帰路この地に立ち寄り創建したとあるが、この跡はその事を指しているのか?駐車場脇の由緒書き御嶽神社もあるようです参道入口右の戦没者慰霊碑と顕彰台平和な日々を過ごせることに感謝、お参りしてから参道へ天白区史跡散策路「姫街道とハイキングコース」より明治の戦争に従軍した人々の忠魂碑と昭和の戦争での戦没者を祀った顕彰台などがあり、毎年4月に慰霊祭が行われている。参道中ほどの左に「徳又迦龍王堂」に導く看板、行ってみました龍王とは雲を呼び雨を降らせる神力をもつと云われ、雨乞いや止雨の祈願の神として信仰されるそうです法華経の守護神八大龍王は仏教を守護する天龍八部衆の一つ、龍族の難蛇(なんだ)龍王、跋難蛇(ばつなんだ)龍王、沙竭羅(しゃから)龍王、和修吉(わしゅきつ)龍王、徳叉迦(とくしゃか)龍王、阿那婆達多(あなばだった)龍王、摩那斯(まなし)龍王、憂鉢羅(うはつら)龍王の八王を指すようです徳叉迦龍王は雨を司る神として崇められます一方で龍王の怒りに触れ、龍王に凝視された者は絶命するという怖い反面を持ちますメドゥーサのような、かみさんのような堂は左に折れてすぐ山の斜面にへばり付く様に建つ小さなものです堂内は御嶽講のシンボルマーク山○三の香台が目に入りますその上にとぐろをまく蛇石が祀られています徳又迦龍王堂を後にほどなく広々とした空間が開けます正面左は手水舎と石段、中央がスロープその先は慈眼寺に、右が御嶽神社へつながります石段左の手水鉢と龍両脇の奉納幟と石段の先の本堂慈眼寺本堂全景木肌の色、各所に施された彫飾りといい、光物はないけれどシックで落ち着いた建物です秋葉三尺坊大権現と毘沙門天を祀る本堂掲げられた扁額も味がある(・・・・・はぐらかしては見たが、すっきりしないので正直に、実は最初の字が読めない)『秋葉山慈眼寺』 天白区史跡散策路「姫街道とハイキングコース」より809年(大同4)、京都御所炎上のとき、遠州の三尺坊尊が火災を鎮めるため京へ上り、その帰路当地に立ち寄り「鎮防火燭」の直筆を残された。これによって創建されたその後、1560年(永禄3)織田信長が桶狭間の合戦の折、この山に祈願して勝利を得たので、三尺坊の尊像を奉納した。現在も、神仏混合の珍しいお寺で、神仏の行事が修行されている。参道には、藤棚としだれ梅、ぼたん桜の並木がある。なお、毎年12月16日に火渡り神事が行われる。堂の左に大太鼓太鼓を三回打ち、置かれている黒豆を歳の数だけ祈念して三宝にうつすと、まめでくろじになるそうです小さな境内から本堂全景本堂右の観音堂、「聖観世音菩薩」と「十一面観世音菩薩」が祀られますこちらの堂前には四角い開運大太鼓が置かれています「家の四隅を払って、福は内、鬼は外、厄よけ・入学成就・家内安全・身体健全・交通安全・七難即滅・七福即生を祈念して、太鼓を三回打って福豆を歳の数だけ、三宝へうつして下さい」との事大変な作業です観音堂の右にある龍王堂近年補修されたばかりの御堂は八代龍王を祀ります徳叉迦龍王はここでも祀られている事になります龍王堂の更に右奥ノ院へ導く案内板と石標、その左に御堂が見えますがそれだと嬉しいが暗い堂内に大天狗、小天狗の奉納提灯神仏分離以前の神道と仏教が混在する寺です奥ノ院へ続く山道の先に奥ノ院が見えて来ます堂の扉が開いています堂内に祀られる、剣を持った大日大聖不動明王良く覗えないものの、相変わらず怖そうな表情です慈眼寺の境内右側にある御嶽神社山○三の紋が入る霊神碑が並びます手水舎の横から境内に入るもう一本の参道を下ってみる事に参道は慈眼寺から民家の前を通り北側道路につながっていました入口に針名神社と「秋葉山 慈眼寺」の標、ここは裏参道にあたるのかな?ここから慈眼寺方向を見上げる修験霊場として信仰される山も、今では住宅の広がる丘陵地ですが毎年12月16日の「秋葉山火渡り神事」は今も引き継がれています秋葉山 慈眼寺創建 / 809年(大同4)とされる本尊 / 聖観世音菩薩、十一面観世音菩薩、八大龍王、大日大聖不動明王等住所 / 名古屋市天白区天白町大字平針大根ケ越206アクセス / 地下鉄鶴舞線「平針」下車 徒歩15分程
2018.06.30
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最近、食卓にパイナップルが妙に頻繁に出てきていたなんで?? 答えがお披露目されたおやじのテリトリー外で、ヘタだけ上手に切り取って水栽培をやっていたようですなるほど、観葉植物を育てようと瓶に入れられたパイナップルのヘタなにやら髭のようなものも出ているぞ偉いもんだ、自然の生命力はこのまま、実がなるといいのにネェ既に鉢植えになったものも見せてくれたいつの間に、良く見れば若葉もどんどん出てきている、これは根付いてるねで、何時頃実がなるの?2、3年位らしいよ・・・・・そんな先か「緑が綺麗だから観葉植物育てるつもりでいいんじゃない?」・・・・・アボカド育てた時は忌嫌われたものが、この違いが良くわからないまだ、外側の葉が生え変っていないけれど、すべてが生え揃えばきれいな緑を提供してくれそうだ必ず実がなるとは思えません毎日水を替え、根が生え、新芽が育っていく様を見ていくのは楽しいかも(小さなお子様が見える家庭では、葉の先が尖っているので切ってあげて下さい)捨ててしまうヘタですがこうした楽しみ方もありなんですねそれにしても3株か?パイナップル畑でも目指すのか?アボカドもなかなかの緑だったと思うのだが・・・・・我が家の庭では内緒で撒いた種から冬瓜も芽を出し始めました昔は「一人生え」なんてものが良くあったものです取り巻く環境も変わり、最近はお目にかからなくなったまずは何でも埋めて見よう?
2018.08.10
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小布施町森の駐車場から県道343号線を西に、龍雲寺を目指します北斎所縁の地小布施、歩道のマンホールデザインも男浪がデザインになっています県道沿いを10分程歩くと寺号表札と玉垣が見えて来ます立派な寺号表札に金色の三つ葉葵の寺紋が輝いています、六川山龍雲寺に到着です境内に入り左に手水舎だったのだろうか、蓋で閉ざされている事から井戸?右は由緒書きだったのか、文字が書かれていたり、教えを貼っていた形跡は見られなかった山門右側に六地蔵と左に熊野権現の祠が長い堂に収められています瓦葺の主棟に鯱が飾られた八脚門の立派な山門を構えています手が入れられないのか所々に傷みも見られます山門に収められた仁王像年代も作者も不明ですが、大きく口を開けた荒々しい表情をしています山門をくぐった石畳の参道は突き当りで左に続きます突き当りから見た山門全景参道が曲がっているのは正面の小学校建設に起因するのか、はたまた出城として敢えてそうしたのか定かではありません突き当り右に境内に入るもう一つの入口がありましたこちらからだと自然石そのままの常夜灯の先に本堂を正面に見る事ができます本堂へ進みます、左に鐘楼が見えて来ます入母屋の重厚な屋根を持つ本堂参道の彼岸花が境内に秋の彩を加えています本堂左の入母屋瓦葺の鐘楼梵鐘の下に保存された瓦が置かれています鐘楼補修の際のものなのか、本堂補修時のものか定かではありません龍雲寺は多様化する参拝客の呼び込みには消極的なようです妙に観光地化された寺社より個人的に良い印象を持ちますが、由緒が見当たらないのはつらいなァ本堂の右側が寺務所になるようです、御朱印を調べて見ましたが頂けないようです本堂左は千体仏が安置される念仏堂と思われます龍雲寺本堂扁額と本堂より寺務所方向の眺め堂の扉は生憎閉ざされており外からお参りさせて頂きました本尊の木造阿弥陀如来像は1662年(寛文2)、島津家にから寄進されたもので桂材の寄木造りの仏像は作者不明ですが、制作時期や寄進者が明確な事から、1995年(平成7)に小布施町の町宝に指定されています創建はそれから更に遡る事になるのでしょうか本堂修復の歴史も定かではありませんが派手な飾り金具はないのですが、木組みにしても彫にしても細部に手間がかけられていますシックで落ち着いた佇まいは小布施の町に似合っています境内に掲げられた解説板小布施教育委員会等いろいろ調べてみるも木造阿弥陀如来坐像と千体仏の実像に巡り合う事は出来ませんでした、もう少し調べて見る必要がありそうです2018/09/21龍雲寺宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀如来創建 / 不明住所 / 上高井郡小布施町小布施横町 1077アクセス / 電車:長野電鉄長野線 小布施駅下車8分、車:小布施町森の駐車場から西へ徒歩10分
2018.10.08
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名鉄豊田本町駅から東に歩いた豊1丁目西に名鉄常滑線、東に東海道本線に挟まれるように『古傳馬神社』は鎮座します東西に走る道路に面した住宅街の一画に小さな杜が現れます『古傳馬神社』正面全景石鳥居を構え、左に社務所、右が手水舎、正面に拝殿と御神木が聳えています鳥居前に掲げられた祭神、例祭の案内板境内右側には社格昇格記念碑、整地記念碑、御大典記念、御遷座記念等の石碑が並ぶ石碑の前に瓦葺の手水舎と途切れる事なく静水が満たされた手水鉢拝殿正面全景屋根は緩やかな曲線を描いて左右に広がっていきます木造吹き抜け拝殿から本殿全景石垣が積まれ一段高い位置に本殿域、本殿前には一対の狛犬が隠れています本殿前の狛犬達と見慣れぬ形の石灯籠鳥居横の案内板には境内社に秋葉大神、津島天王神社とあります、本殿に三社が祀られているようです創建については詳細が分かりませんこの地が1686年(貞享3)伝馬新田として開拓されたのが始まりで、後の1696年(元禄9)に新たに伝馬新田が開拓され新伝馬新田と名付けられますなので、もとの伝馬新田が古伝馬新田と呼ばれるようになったと思われ、創建はその頃ではないかと思われます現在も熱田区に伝馬町の名が残りますが、町名の由来は伝馬から来ています伝馬とは、街道の宿場ごとに定められた場所に馬を置き、駅伝の様に馬を乗継いで人や物資、幕府の公用や情報伝達の迅速化を図った伝馬制度を指し、この地では熱田宿と今道が伝馬役を担っていました『古傳馬神社』本殿創建 / 不明祭神 / 日本武尊、天照大神、建稲種命境内社秋葉大神 / 軻遇突智神津島天王神社 / 建速須佐之男命拝殿に対し、本殿はシャープな屋根拝殿から本殿全景御神木の「幸運握り楠」とよばれる根元が5本に分かれ、大きく枝分かれした楠木が拝殿を覆う様に聳えています拝殿から鳥居方向の全景右の建物が社務所となります、石鳥居には1933年(昭和8)と刻まれていました住宅に取り囲まれたひと区画に鎮座する『古傳馬神社』新田開発から現在まで、この地の移り変わりを見続け、今もこの地の氏神として崇められています住所 / 名古屋市南区豊1丁目35アクセス / 名鉄常滑線「豊田本町」駅から徒歩約6分
2019.01.28
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既に掲載した南禅寺からの続き、今回は綾戸大明神を掲載します。綾戸大明神は南禅寺中門前に続く綾戸小路沿いに鎮座します。門の前の駐車場には趣のある勅使門が建っていて、その西側に拳龍池と呼ばれる小さな池があります。その先に南禅寺会館があり、会館駐車場左に小高く築山された一画が鎮座地です。綾戸大明神綾戸小路とも呼ばれる南禅寺参道沿い、写真のように樹々に隠れた鳥居と社殿が見えます。社殿は南向きに鎮座し、鳥居の向きからも綾戸小路から境内に入れそうですがどこにも見当たりません。境内へは右の南禅寺会館駐車場から短い参道が造られています。参道には見慣れた社標が見当たりません、よく見ると左の丸い岩に綾戸大明神と刻まれています。綾戸大明神全景。石の明神鳥居に額はなく社名や寄進年は読み取れず、左の燈台に昭和の元号が刻まれていた。綾戸大明神の前の綾戸小路は、南禅寺に向かう参拝客や車でごった返していますが、ここは見向きもされないようです。素木の社殿は瓦葺の流れ造り、朱塗りならもっと目立つのだろうが、どこに行っても人で溢れる京都ひっそり佇むこの姿はこれでいいのかも知れない。境内に綾戸大明神の解説は掲げられておらず、由緒や祭神・ご利益など詳細が分からなかった。上は江戸時代後期に纏められた都(みやこ)名所図会に描かれた南禅寺の挿絵。そこには当時の南禅寺や綾戸明神の姿が描かれ、記述も記されていた。記述は以下。『綾戸明神は拳龍池の乾るにあり、是当山の鎮守なり。むかし行宮の通衛に綾戸小路といふあり、是に住せる帝の牛飼の舎人死して霊あり、土人これを祭りて小祠を建る、応永年中(1394~1428)に伯英俊和尚大祠を造りて山門の境致となせしとぞ』とある。また、雍州府志にも同様の記述があり亀山法皇(1249~1305)の離宮であったこの地に、牛飼いがいて酒を造っては帝に献上していたそうで、彼の死後その霊を見た人がいたという。それを鎮めたのが土人であり、廟を造り南禅寺の鎮守としたのが伯英俊和尚のようです。古くは綾戸廟とか綾戸の宮の社とも呼ばれていたそうです。祭神は分かりませんが、建立時期は亀山上皇が正応2年(1289)に南禅寺に出家、崩御される嘉元3年(1305)の間なのだろう。都名所図会には酒の記述はないけれど、牛飼いが造る酒とはなんだったのかそちらの方が気になる。本殿内部には綾戸大明神の木札と御幣、奥に鳥居らしき姿も見える。一つ置かれた松ぼっくりの意味するところはよく分からない。綾戸小路沿いに築山された境内。紅葉も枯れ落ち赤い絨毯の先に、牛飼いを祀りひっそりと佇む綾戸大明神の姿がある。隣の湯豆腐屋の長い順番待ち、その待ち時間に訪れて見てはどうだろう。綾戸大明神創建 / 不明祭神 / 綾戸大明神所在地 / 京都府京都市左京区南禅寺福地町参拝日 / 2022/11/25関連記事 / 『南禅寺』南禅中門から綾戸大明神 / 西へ1分程
2023.02.06
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豊後高田市田染蕗に鎮座する富貴寺。山号を蓮華山と称し、本尊は阿弥陀如来を祀る天台宗の寺院。宇佐神宮から富貴寺までは車で東に30分程走り、国東半島の中央の両子山の山稜西側に鎮座地します。両子山周辺には六郷満山と呼ばれ、古くから神仏習合の形態を持つ寺院が鎮座し仏教文化が栄え、宇佐神宮と関りの深い土地柄でもある。富貴寺全景。門前を横切る道路は県道655号線で県道を挟んで向かいに駐車場が用意されています。県道からの眺めは、石垣が幾重にも積まれた上に伽藍が建てられ、さながら砦の様でもある。県道沿いの周辺マップと富貴寺に伝わる大榧(かや)の木の言い伝えの解説。その昔ここには巨大な榧の木が聳えており、仁聞菩薩様がこの地に霊場を開こうとして、この榧の木で大堂を建て、仏像を刻むため、木びきがこの樹を伐採する事になった。ところが伐っても〃次の朝には元通りの姿に戻って困っていたと云う。木びきが困っていると、ヘクソカズラがやってきて「木から出るおがくずをその日のうちに焼いてしまえば倒せる」と教えてくれ、木びきはそれにしたがうと榧の木を伐採する事が出来た。仁聞菩薩様はこの樹から仏像を刻まれ、大堂は竹田の番匠に命じて建てさせました。これが国宝富貴寺であり、今でも信者に親しまれている。富貴寺は平安時代の宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた寺院で、言い伝えの榧で築かれた大堂は国宝に指定されています。この大堂は平等院鳳凰堂、尊寺金色堂と並び日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、九州に現存する木造建築物では最古のものとされます。言い伝えに出てくるヘクソカズラの正体はよく分からないが、身近なところで庭に生える山芋似の葉をして、刈ると臭いし実も臭い雑草のへクソカズラが思い浮かぶがそれではなさそうだ。門前の覆屋に年代は不明ですが一部欠損した仁王像が安置されています。門前から仁王門の眺め。年季を感じさせる古い石段は真っすぐに上へ伸びています。参道脇には十王が刻まれた石殿や石幢と呼ばれる火袋のない石灯籠が立っており、他にも笠塔婆などが見られます。踊り場のない一直線に続く石段と仁王門、訪れた時には折しもコスモスが咲き彩りを与えていた。参道脇に二つの案内板。「天台宗 蓮華山 富貴寺宇佐六郷満山霊場4番札所養老2年(718)仁聞菩薩開基平安時代、宇佐神宮宮司家の祈願所であった。蕗浦阿弥陀寺(現富貴寺大堂)の別当として、宇佐宮司家の保護のもと九つの坊を持ち、平安末、鎌倉初期にかけ權勢を誇ったが、武士の台頭や戦国時代の混乱などで衰退していった。江戸に入り、徐々に復興され、除災招福、五穀豊穣を祈願する祈願所として法灯を護持している。本堂本尊 阿弥陀如来(県指定無有形文化財)、不動明王。富貴寺大堂(国宝 不弥陀堂)本尊 阿弥陀如来(国指定無有形文化財)。阿弥陀如来限りない光(智彗)と限りない命をもって人々を救い続ける西方極楽浄土の仏さま。不動明王憤怒の顔はどんな悪人も仏道に導く心の決意の表れとされ、仏法の障害となるものは怒りをもって屈服させるが、仏道に入ったものには常に守護をして見守る仏さま。毎月縁日毎月15日、阿弥陀如来縁日。 午前11時 阿弥陀護摩供 富貴寺本堂。 午後15時先祖回向 阿弥陀堂。毎月28日、不動明王縁日。 午前11時 不動護摩供 富貴寺本堂。」富貴寺仁王門。入母屋瓦葺の素木で棟を支える4本の柱と前に2本、後ろに4本の柱を持ち、左右の間に仁王像が安置されている。前の二本の柱は長い飛貫で繋がり、そこに「安養閣」の大きな額が掛けられています。建立年代は不明ですが、周囲の景観に溶け込んだ落ち着いた佇まいの門。左右の間の石造仁王像。制作年代は不明ですが、一つの石から刻み込み形作られている。仁王門をくぐった境内の富貴寺伽藍配置と境内の石造物の配置図。境内は仁王門正面に国宝の大堂、右側に修復中の本堂、大堂左に白山社、大堂後方の奥の院「薬師岩屋」が主な伽藍。国東塔や石仏などが大堂を取巻く様に安置され、実に多くの石造物が見られます。こうした岩は阿蘇の巨大噴火がもたらした加工しやすい岩が容易に入手できたこともあるのだろう。一帯には露出した岩盤に彫られた摩崖仏が多く、大分の旅行では臼杵石仏群や鍋山の摩崖仏を見て廻ったが石造物マニアにとって宝庫なのかもしれない。国宝の大堂。近畿地方以外に現存する平安建築の一つで、現存する木造建築物では九州最古のものとされ、宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつだとされます。大堂内は国宝の本尊阿弥陀如来はじめ、四面に描かれた壁画は日本四壁画の一つに数えられ、極楽浄土の世界を表したと云われる阿弥陀浄土変相図が拝観出来る。照明が落とされた薄暗い堂内の撮影は禁止、それもそうだろう壁画は脱色、剥離が著しく復元修理を待つまでは外界から閉ざされている。瓦葺の方型の大堂は過去に文和2年(1353)に改修を受けたそうで、直近では昭和23年~25年(1948~50)に大修理が行われたようです。この大堂の瓦は行基瓦と呼ばれ、平瓦の上に先を狭めた半切りの瓦が並べられたもので、仁王門の瓦と比較すると違いが分かります。綺麗な瓦は昭和40年(1965)に改修されたそうです。蓮華山 富貴寺 国宝阿弥陀如来、大堂壁画、阿弥陀如来坐像解説。現在は富貴寺と書きますが、往古は富貴ではなく蕗の薹の蕗の字を使い蕗寺、蕗浦阿弥陀寺と称した様です。阿弥陀堂は建築様式や壁画の描法から約900年前の平安時代末に創建されたとされるそうです。本尊の阿弥陀如来も同時期のものと推測されるそうです。堂内の四本の柱に描かれた胎蔵曼荼羅や壁画の劣化が酷い要因には、先の大戦で受けた空襲の影響が大きい様です。苦しみに満ちた現実世界から薄暗い堂内に一歩踏み入れれば、麗しき別世界が広がる。上は栞の堂内写真を引用。撮影用にライトアップされていますが、実際は相当暗く、脱色・剥離の進む壁画は読み取れない。復元の元になる絵が残されていればいいのだろうが・・・同じく本尊の阿弥陀如来坐像。上も栞から引用した本堂安置の阿弥陀三尊像。左が去勢菩薩、阿弥陀如来坐像、観世音菩薩。大堂から一歩外に出れば「愚か者と罵倒しながら同じ道を歩み、土産を買うのが公務だと宣う輩、嘘はついていないという大嘘つき、一度も姿を見せない国民の代表」明るいが泥沼の様に深くて暗い愚か者が徘徊する現世に戻る。そこには国東塔と呼ばれる経典を納めた宝塔がある。こうした国東塔は時を経て墓標化し、この国東塔も墓標として慶長8年(1603)に建てられたものという。奪衣婆・十王像。大堂左の斜面に建てられており地獄において亡者の審判を行う十尊はじめ去勢菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩、奪衣婆の石像群が安置されている。大堂後方を奥の院方向に進む、そこもまた大小の石塔や石仏が見られます。奥の院 薬師岩屋に続く石段。こちらの石段も角が取れ年月の流れを感じさせるもの。石段途中から行基瓦の大堂を見下ろす。奥の院 薬師堂。山肌に露出した岩肌を削り堂を作ったもので、三つ巴の紋が入った紫の紋幕が吊るされている。堂内には三体の石仏が安置されており、内二体は薬師如来。元々は一体で文化年間(1804~1818)に安置していた像が盗まれ、仏師に依頼し新たな薬師如来像を安置していた、一年ほどして盗まれた薬師如来像が人知れず戻されており、それ以来二体の薬如来像が祀られていると云う。残りの一体は風化が進んで像容は判別できないほどだった。境内左の白山社。石の明神鳥居、貫や島木、笠木の両端の跳ね上がりが強調されたもの。額には「大権現」とあり、柱に寄進者の名が刻まれていたが元号は分からなかった。由緒によれば以下。当初は六所権現であったが、現在は白山社と呼ばれ「蕗村の宗廟であり村唯一の古社である、勧請は定かではなく、白山妙理大権現、相殿の神5座と合わせ六所大明神と呼ぶ」とある。当時は御神体板6枚、御神体木像6体、脇に妙見菩薩があったとされ、村を挙げて奉射祭もあったとされる。造立は寛文6年(1667)。宝暦9年(1760)に消失。現社殿は宝暦11年(1762)のもの。同時に消失した拝殿は文政2年(1819)に再建された。拝殿には当時描かれた天井絵が残り、古くから富貴寺の鎮主として崇敬されたが、明治の神仏分離以降村社として今に至った。現在は御神体の白山妙理権現は富貴寺でお祀りしている。……。六所権現とは六郷満山寺院の鎮主として古来より祀られてきたが、明治の神仏分離令の際に他の名前の神社に変ったものが多い。祭神は宇佐神宮の比売神、神功皇后と隼別皇子、小葉枝皇子、雄鳥皇子の宇佐若宮の四神を祀るとされるが、実際は定かではなかったようです。六所権現の名は安貞2年(1228)の六郷満山の目録にも見られ、中世から六郷満山寺院の鎮主として崇敬されていた。社殿全景。入母屋瓦葺の拝殿と切妻瓦葺の鞘殿のみで、狛犬などは置かれていない。由緒に書かれていた拝殿の天井画。この地方の植物や人物だろうか? 格子天井の一面毎に描かれているが写りが悪く識別は出来なかった。文政2年(1819)に描かれた天井画、色も脱色が進みこのまま朽ちるにまかさせるにはもったいない。復元修理の工事明細を見た事はないが…庶民の僅かな賽銭如きでは鞘殿。僅かばかりの賽銭で参拝させてもらう。境内の外れに何かの記念碑があったが建ち寄らなかったため詳細は不明。本堂前の山門。参拝当日は本堂の改修工事中で堂の姿は見られなかった。以下は参道脇の改修工事案内板から抜粋。「現本堂は江戸時代中期の正徳5年(1715)の建立とされ、国東半島の六郷満山寺院の特徴である庫裏と本堂が一体となったものとしては最古のものとして古式の六郷満山寺院の形式を今に残すもの。経年劣化が進み約3年計画で解体調査、復元作業が進められている。併せて、過去一度も修復されてこなかった江戸時代のものとされる本堂の本尊不動三尊、掛け軸なども修復の手が施される。」本堂右に仮本堂でありそちらで参拝は出来ます。境内一番右に仮本堂。正面に阿弥陀如来、右に真赤な火炎を背にした不動明王の姿がある。左の厨子に阿弥陀三尊の姿を拝める。参拝もひと段落、そろそろ富貴寺を後にしよう。帰り際大堂の鬼瓦を一枚。そこには現世の呆れる輩にお怒りなのか彫の深い鬼の形相がある、その下にはまっとうに現世を生きる民衆をやさしい顔で救いを差し伸べる弥勒菩薩の姿がある。このお寺、猫を飼われているようで、一匹や二匹ではなさそうだ。とても人懐っこく、呼べば「触ってよ」とばかりにすり寄ってくる。この子は石造ではなくお昼寝の真っ最中、幸せそうによく寝入っているものだ。仁王門から石段までは黒猫が先導してお見送りしてくれた。山間の長閑なこの地、華やかに見え実は深くて暗い闇のある都会と比べるとある意味極楽の様な場所だ。富貴寺山号 / 蓮華山開基 / 養老2年(718)仁聞菩薩本尊 / 阿弥陀如来像所在地 / 大分県豊後高田市田染蕗2395参拝日 / 2022/10/28宇佐神宮から富貴寺車移動 / 国道213号線、県道34号線経由30分程関連記事 / 豊前国一之宮 宇佐神宮
2023.02.07
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北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓。白旗神社(大蔵白旗神社)と頼朝墓を後に、山裾沿いを東に向かうと左手に北条義時法華堂跡に続く石段が現れます。石段両脇に常夜灯が立てられ、石段の先が北条義時法華堂跡がある。安政5年(1859)に寄進された毛利家の一文字三星の紋が刻まれた常夜灯。石段を上り切ると視界が開け、右側に源頼朝墓で見かけたものと同じ「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と記された石標が立っている。右の解説の内容は以下。「貞王3年(1224)、北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地とされ、平成17年(2005)の発掘調査で堂跡の遺構が発見された。堂は鎌倉時代後期には廃絶したと見られ、背後は宝治合戦で敗れた三浦一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。」吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂の位置と、遺構の位置が合致する事から北条義時法華堂と推定地されるようです。法華堂(義時の墳墓堂)跡。遺構調査から分かった柱や縁束の礎石部分に杭が立てられ、屋根に降った雨を流すための溝(雨落ち溝)を白い線で表しています。頼朝の法華堂跡に比較すると規模は大きかったように見えます。正面に見えている二つの石段の先が白旗神社の石標に刻まれていた「大江広元、毛利季光、島津忠久の墓」へ続きます。鳥居左の山肌には「やぐら」と呼ばれる洞窟の入口が見えます。この発掘調査の写真がある事で説得力がありますが、これがなければ今一つ実感が湧かない。解説によればここから瓦や土器などが発見され、それらから幾たびか焼失、再建を繰り返し、13世紀末から14世紀初頭には堂は廃絶したと推察されるようです。石段左洞窟。ここは13~15世紀頃の横穴式墳墓で鎌倉幕府の御家人三浦氏が供養されている。宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人が頼朝の法華堂に籠り自害したとされ、ここで三浦一族の供養が行われていたと云う。「やぐら」と呼ばれる洞窟は入口は狭いけれど、内部は左右に広がりがあり、供養塔へは屈まなければ近づけません。訪れる方は今も絶えることはないようです。石段の右に解説があり内容は以下のようなもの。「近世に造営された3つの墓所この階段の上には、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓所があります。これらは、元々は古墳時代後期に造られた横穴墓であったものを転用し、江戸時代以降に島津氏及び毛利氏が造営したもの。左 毛利季光の墓毛利季光(生年不明~1247没)、鎌倉幕府の御家人で、幕府の創設に貢献した大江広元の第四男で、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物。朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。季光の墓所は、大江広元の墓が造営されたのと同じ文政6年(1823)に、毛利斉煕により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されたが、大正10年(1921)にこの地に移設された。中央 大江広元の墓大江広元(生年不明~1225)、鎌倉幕府の政所初代別当を務め幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献した。公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えた。広元の墓の左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四男であり、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕が造営したものです。右 島津忠久の墓島津忠久(生年不明~1227没)、鎌倉幕府の御家人で、代々薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物。忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられる。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779)、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営」毛利家の一文字三星紋が入った常夜灯があるのも分かるような気がする。石段脇の手水鉢には寄進年や文字、家紋などの痕跡は見られなかった。石段の先は三つの横穴式墳墓があり、奥から毛利秀光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいます。左側の島津忠久の墓。中央の大江広元の墓。左側の毛利秀光の墓。鎌倉幕府を支えた三氏の墓はこうして残りますが、石標に書かれていた義時の墓は見かけない。上は現地VRから法華堂のCGを現地写真に貼り付けたもので、瓦葺の方形屋根の堂だったようです。霊屋としての法華堂は消失を繰り返し荒廃していったようですが、堂の再建はともかく、義時の供養塔のひとつが立てられなかったのだろうか。頼朝により開かれた鎌倉幕府150年の歴史の中で、頼朝亡き後、執権政治を確立した北条家は権力の集中ととも、鎌倉幕府終焉の地東勝寺へ向かっていきます。北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5頼朝法華堂碑から徒歩ルート / 東に1分程関連記事 / 白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓
2023.04.12
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名古屋市北区如意、有難い名前の町名じゃないですか如意一丁目の交差点に以前記載した大井神社がありますが、その右側(東隣)に鎮座するのが「真言宗鶏足寺」です。現在のこの道は古くからの如意の幹線道路であった。時代と共に周辺の宅地開発により住宅が建つようになり、それに伴い新たな道が整備されていきます。それに対し古くからあるあるこの道は整備には至らず、かつての幹線道路も今は過去の趣きが残る古い道筋のまま。上は「尾張名所図会後編三」 大井神社より大井神社部分のみ切り取り・拡大したものです。鳥居右の杜の中に鶏足坊とあるのがここ「真言宗 鶏足寺」。山門の前の通りが現在も残る道そのものです。現在の「鶏足寺」はご覧のようなコンクリート造りの一見民家の様で学校の校舎の様にも見える外観。尾張名所図会に描かれた鶏足坊の山門も現在はなく描かれた当時の面影はありません。尾張徇行記にも鶏足寺の記述を見る事が出来ました。「此の寺草創は知れず、再建は元禄年中・・・・・なり、蜂須賀村蓮華寺に属せしが、寛永年中より味鋺護国院に属せり」と書かれている。その後は護国院の隠居所になったり、庵主さんが守る尼寺に変わったり、明治の一時期には寺子屋(義校)が開かれ、楠小学校の前身にもなったりと時代に翻弄された寺です。この鶏足坊が現在の鶏足寺に名称が変わったのは、意外に新しく1952年(昭和27)と云われ、寺の外観は恐らくこの際に建て替えられたものだと思います。境内左の伏見稲荷赤い鳥居と幟は大井神社の境内からも一際目を引きます。無従寺ではないと思いますが、人の気配が感じられない鶏足寺境内。参拝のためお邪魔させて頂きました。覆屋の下、新し目の台座の上に小さな社が祀られています。詳細は分かりませんでした。伏見稲荷の右隣りには複数の地蔵が纏められています。年号などは不明で、鶏足寺境内で唯一寺を実感するのがこの一画かも知れません。昔の坊の面影は残っていませんが、古くから如意の移り変わりを見てきた古刹の様です。鶏足寺宗派 / 真言宗開基・本尊 / 不明住所 / 名古屋市北区如意2-7
2019.12.09
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岐阜県郡上市白鳥町長滝。白鳥町二日町の八幡神社から長良川右岸沿いに国道156号線を2.3分程北上すると、国道と並行して伸びる長良川鉄道の「白山長滝駅」が今回の目的地の「長瀧白山神社」の参道口になります。長良川鉄道白山長瀧駅。駅手前の踏切の先に長瀧白山神社の広い駐車場があり、夏場の渓流釣りやドライブ中睡魔に襲われた時には木陰の駐車場で仮眠をとらせてもらいました。駐車場から見る長瀧白山神社、長滝寺参道口。「霊峰 白山への道」と記された大きな石碑がある。上参道右に「表本宮白山神社」社号標、左に「天台宗白山長瀧寺」の寺号標。下参道は長瀧寺と白山神社の双方を兼ねており、参道脇には往時の勢いを偲ばせる坊跡が残っています。参道の先に神明鳥居が見えますが、白山神社社殿まではまだまだ先になります。長滝白山神社について岐阜県神社庁の解説は以下のように書かれています。「白山神社通称 長滝神社。 主祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、彦火火出見尊、菊理姫尊、天忍穂耳尊、大己貴尊。所在地 岐阜県郡上市白鳥町長滝字杉山91番地。 由緒由来 霊峰白山を神体山と仰ぎ、白山信仰の表日本における一大拠点であり、いわゆる美濃馬場とはこの地のことである。 古くから土民の祀る一社があったが、養老元年(717)泰澄大師が白山に登拝してからは、修験道で栄え、白山妙理大権現を祀る霊場となった。一方この地は奈良の都の鬼門にあたり、元正天皇は帝都鬼門勅願所に定められ、飛州河上郷に至まで、1万3千石の神領を拝受し6谷6院360坊を置いて隆盛を誇り、全国から参集する信仰者によって文化の栄えた処である。 明治の神仏分離令によって白山神社、長滝寺、阿名院等に分け、その後明治32年の大火に依り焼失するも、神仏習合の旧観を保ち、雄大な本殿と豊富な文化財を今日に伝へている。」と書いています。写真は鳥居手前の長滝白山神社、長瀧寺指定文化財の一覧。 古くから伝わる神社だけに、火災から難を逃れた国・県・市指定の文化財を多く所蔵し、それらは社務所のある白山龍宝殿で公開され、白山信仰の歴史を知ることができます。下の絵図は江戸時代の「白山中宮濃州長瀧寺之図」。 明治の大火で社殿を焼失後、復興されていますが、嘗ての三重塔や鐘楼等はなく、本殿も神明造に変えられています。養老年間に創建された白山中宮長瀧寺は、天長9年(832)に加賀馬場(白山本宮)、越前馬場(白山中宮平泉寺)と並ぶ美濃馬場として、絵図からは白山登拝の美濃禅定道の拠点として栄えた往時の姿が描かれています。参道の鳥居。蔵泉坊跡。参道には写真のようなプレートが置かれ、往事の長瀧寺の伽藍を知ることができます。ここは宝暦4年(1754)、郡上藩で起きた大規模な百姓一揆「郡上藩宝暦騒動の犠牲者」を偲ぶ宝暦義民碑が建てられています。海上神明社にも建てられていた宝暦義民碑同様、郡内にはこうした碑が建てられている。江戸時代の伽藍図では現在の鳥居あたりが山門になり、瀧泉院は門前にあたるように思えますそうした事からも境内の伽藍図には記載されていません。宗派も真言宗とあり詳細や長瀧寺(天台宗)とのつながりは良くわかりません。参道に面した経聞坊跡の解説板。あくまでも参道に面した坊のみであり一部でしかありません。参道なか程の太鼓橋毎年5月5日の無病息災を祈願し「でででん祭」が行われるそうです白装束を身にまとい、でででん〃と太鼓を打ち鳴らし神輿を担いだ氏子たちがこの太鼓橋を超えて行くそうです護摩檀と金剛童子堂解説。太鼓橋の先の参道左に祀られる護摩檀跡(手前の円形サークル)、白山登拝時にここで護摩を焚き祈祷したとされる場所。息を止めて石を持ち、そのまま堂の周りを三周する事で力を授かる事が出来るとされます。奥は金剛童子堂。稲荷堂。金剛童子堂の右に祀られています。石段右の白山美濃馬場の碑、碑文から一部抜粋。「霊峰白山の加賀馬場・越前馬場と並び、白山信仰の東海側の拠点美濃馬場白山中宮長滝寺として栄えたこの地は、文永・明治の二度の火災や明治の神仏分離など時代の変還と度重なる災厄を乗り越えて数多くの歴史遺産がある。 社会経済は変貌し、心の時代へと移り、人々は「いやしの空間」を求めるようになった。中略 貴重な歴史文化遺産の保存活用に努め、後世に末永く伝えることは、我々の責務であり懸案の白山文化の里づくりの事業を完遂することができた。」とある。文永・明治の二度大火に見舞われているようだ。二対の石灯籠の先の境内正面には、西安4年(1302)願主伝燈大法師覚海と彫られた石燈籠、その奥に拝殿がある。石段を上った境内入口の狛犬。境内北側の全景。右手が火災により難を逃れた寺宝が保管展示されている白山龍宝殿で、正面が西安4年(1302)の石燈籠。後方には拝殿と右手に参集殿。境内左の手水鉢。境内は湧水が湧き出ていて、境内に小さな流れを作っています当社は白山信仰を厚く崇拝した奥州藤原氏と所縁があり、手水舎後方には中尊寺で800年の時を越え発見された中尊寺蓮蓮を株分けしたものが生けられている。上辨天池を潤す延年水、夏でも枯れる事はなく、この地では古くから五穀豊穣、悪疫鎮静のためにこの霊水を神仏に供えるという。辨天池を潤す延年水、白山参拝者はこの霊水を薬水として利用したとされ、白山頂上の千陀ヶ池から来ていると伝わっています。夏でも枯れる事はなく、この地では古くから五穀豊穣、悪疫鎮静のためにこの霊水を神仏に供えるという下辨天池と弁財天堂、後方が白山長瀧寺大講堂。辨天池右側の石段は薬師堂に続きます。白山長瀧寺大講堂とその解説。「白山長滝寺奈良時代の養老年間(717-24)泰澄の開基と伝え、天長5年(828)法相宗が天台宗に改宗、その後比叡山延暦寺の別院となった。 長滝白山神社と一体で白山本地中宮長滝寺と称し、加賀・越前と並ぶ白山信仰三馬場として栄えた。全盛時には堂社三十余宇・六谷六院・僧坊三百六十を擁した、明治初年の神仏分離で天台宗白山長滝寺となった。 18間に14間の長滝寺大講堂と内陣の1丈2尺の大日如来像など7仏像は、明治の大火で焼失。往時の大講堂の偉容は残る礎石によって偲ぶことができる。 「木造釈迦三尊像」「木造四天王立像」「宗版一切経」をはじめ多数の寺宝を所蔵する。」寺号の長瀧はここを創建した泰澄が、夢の中で女神から霊泉があるとのお告げを受け、山中に分け入り見つけた阿弥陀ケ滝に由来しています。(写真は2019年の阿弥陀ケ滝)白山白山登拝の拠点として「上り千人、下り千人、ふもと千人」と云われるほど賑わったと云われますが今はその面影はありません。宝篋印塔。宝篋印塔は本来は経文を納める塔として建てられますが、いつからかこうした形の塔を宝篋印塔と呼ぶようになった様です。1825年(文政8)に豪潮律師により三千人講が起こされ、1833年(天保4)に建てられたもの。四面に描かれた梵字は豪潮律師(1749~1835)の筆によるもので、仏画師としても優れ、「釈迦三尊像」、「十六羅漢像」を白山長瀧寺に寄進している。境内左から拝殿、本殿の眺め。入母屋鋼板葺の拝殿の内部は内陣と土間の外陣に分かれ、毎年、1月6日には約1000年の歴史がある国指定重要無形民俗文化財の「長滝の延年」が外陣で奉納されますその際、格子天井の四角い穴から吊るされた花を奪い合い、これを持ち帰ると家内安全、商売繁盛に御利益があるとされ、「花奪い祭り」と云われるそうです。拝殿左の長瀧天満宮。長瀧天満宮の左奥の「白山千陀ヶ池霊泉」から上に小道があり、往事の三重塔址へ通じており、そこから本殿域を見下ろすことができます。下の写真は長瀧天満宮の右に祀られている児御前社と竃神社。児御前社・竃神社と向かい合う様に東側にも二社祀られています。上本殿全景。大将軍社、神門は左から越南智社、白山大御前社、別山社の白山三社と本殿域左に大将軍社、右に若宮社が祀られています。主祭神 / 伊弉那岐大神/伊弉那美大神/菊理媛大神下児御前社・竃神社と向かい合う様に鎮座する稲荷神社と神明神社。越南智社の左の大将軍社。5社が整然と並ぶ姿を収めるのはなかなか難しいようです。現在の社殿の造りは火災の後に神明造に改められています。以前参拝に訪れた際、拝殿内で祭礼の準備に追われる中、お声がけして頂いた巫女さんからそのあたりの事情を教えて頂いたり、白山登山の事など色々と話しも弾みました。幾度か火災にあいながらも守り続ける社殿、並々ならぬこの地に対する誇りのようなものが伝わってきました。別山社の右に鎮座する若宮社。長瀧白山神社創建 / 717年(養老元年)、泰澄により白山中宮長滝寺として創建(伝承)祭神 / 伊弉那岐大神/伊弉那美大神/菊理媛大神境内社 / 児御前社、竃神社、稲荷神社、神明神社、若宮社、大将軍社、長瀧天満宮、弁財天、金剛童子堂、稲荷堂長瀧寺大講堂創建 / 718年(養老2)泰澄が法相宗の寺院として創建(伝承)、828年(天長5)天台宗に改宗本尊 / 釈迦如来像所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町長滝138公共交通機関アクセス / 長良川鉄道「白山長滝駅」から徒歩1分関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社・那留 白山神社・為真 白山神社・白鳥町二日町 村社 八幡神社過去記事・「白山長瀧寺と長瀧白山神社」・奥美濃へ 「阿弥陀ヶ滝、長瀧白山神社」
2024.08.11
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瑞穂区神穂町地下鉄名城線の堀田駅から150mほど南に行くと、松田橋交差点に出ます橋と地名はあるものの橋はなく、交通量の多い国道1号線に架かる歩道橋があるのみ歩道橋脇の名古屋高速3号大高線高架下に八丁畷(なわて)公園があります八丁畷は1575年(天正三)織田信長が四人の通路奉行を置いて、領地の道路を整備した際、浜の道(熱田~笠寺)も作られた事から始まり、後に1601年(慶長六)徳川豪康か伝馬制度を定め、その道は東海道の一部となり、この周辺が田と田の間を通っていたので八丁畷(なわて)といわれるようになった井戸田村から浜新開への用水がこの東あたりで北から南へ横断していた、そこに架けられていたのが松田橋でその橋の名前が地名として残っています当時の松田橋は現在はなく、保存されていた松田橋の親桂を便い八丁畷公園に一部復元されています今回の目的地は「東ノ宮神社」松田橋交差点の少し南に位置しますパチンコ店の南から北の八丁畷公園方向を返り見る国道は相変わらずの交通量ですそこから左に入ると直ぐに玉垣に囲まれた小さな杜目指す『東ノ宮神社』は地下鉄堀田駅からフラフラ歩いても10分もかかりませんフラフラとパチンコ屋に寄れば「lucky」なのか「unlucky」なのか、神のみぞ知るパチンコ店の南裏の交差点、角地に木の鳥居を構えた小さな神社南面を3枚貼り合わせて一枚にしてみましたが・・・・・無理があるね正面の鳥居から境内の眺め鳥居右に社号標、正面に社が3つ見えますビルが西陽を遮り、いい日蔭を提供してくれてます石のディテールをそのままに残した社号標その後方にある石標は明治天皇覧穫之所の碑があります覧穫之所とは何ぞや1936年(明治元年)、遷都のため京都から東京に向かう途中の明治天皇が当地に立ち寄った際、当時の藩主徳川慶勝に今年の稲の出来を尋ねた事からここ八丁畷で収穫の様子や収穫した稲穂を見せた事がこの碑の由縁のようです碑は1913年(大正2)に建てられたもの町名の神穂はこの奉納田があった事から付いた町名といわれているようです当時を偲ばせる絵は先ほどの松田橋の付近に掲げられています長閑な田園地帯に八丁も続く松並木、西には渚が迫る、少し前のこの辺りの情景です八丁は松並木の距離から来ています鳥居左の由緒書き祭神 /熱田大神、天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命末社 / 多賀神社、秋葉神社、津島神社、熱田神宮、秋葉神社秋葉神社が重複している様ですが良くわからない境内左にカボチャの様な手水鉢(現在は使われていないようです)現在の手水鉢はまるで舳を南に向けた舟の様な形をしています手水鉢の左に社務所がありますが無人の様でした鰹木、千木が施された境内中央の社殿右側の末社左側の末社何れも詳細が記されていないので、ここに記すのは避けます詳細が分かれば加筆する事にさせて頂きます『東ノ宮神社』で印象的なのが碑上段左、「明治天皇八町畷御野立所」を右斜めから、右に1919年(大正8)と刻まれた碑下段左、「明治天皇八町畷御野立所」の左斜画像(昭和9年)、中央「永仰神徳」右は「明治天皇覧穫之所」と狭い境内に碑が複数建之されています残念ながら創建までは分かりませんでしたが周辺の呼続、新瑞方面に拠り所は多数あり、ここだけでは終わらないと思います『東ノ宮神社』住所 / 名古屋市瑞穂区神穂町1アクセス / 地下鉄名城線「堀田」下車、徒歩5分程
2018.08.12
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知多郡南知多町豊浜鳥居海岸線に伸びる国道247号線沿いに目立つ「とら薬師」の立て看板と白い幟が目に止まり立ち寄ってみる、まだしばらくはお迎え要請はないだろう。国道沿いから南を向いて豊浜漁港を見据えるように光明寺は鎮座します。 二層の小ぶりな瓦葺山門の外観は海を間近にすることから、さながら竜宮城のように見えないでもない。無理があるかねぇ。生垣で周囲を囲み、中央に龍宮の門が建っています。四脚二層の門は梵鐘が吊るされた鐘楼門なのかと云えば、そうではなさそう。山号額「成道山」と書かれています、小ぶりな門に対しこの額の大きさは印象に残ります。この門の建立がいつ頃なのか、残念ですが分かりませんでした。この寺の伽藍の中では最も古いのではないだろうか?山門から境内の眺め。正面に本堂、右に庫裏、左手前は手水舎、本堂左に薬師寺という伽藍です。手水鉢のタコ口。龍ではなく、タイやヒラメでもない、蛸が清水を注いでいます。今もそうですが、古くから豊かな海の恵みの恩恵を受け賑わってきたこの地、その様子は尾張名所図会にも描かれています。日間賀島のタコは良く知られるし、近年は河豚の好漁場としても知られる。なぜ蛸になったのか経緯は知る由もありませんが、この地にあって蛸が清水を注いでも不思議ではない、豊な海の恵みに対する畏敬の念が蛸に現れているような気がします。寄棟瓦葺の本堂。この辺りは須佐と名が付きますが、この寺の由来は715年、須佐の漁師の網に仏像がかかったと云われ、漁師は小さな草庵を建て仏像を安置したと云われ、やがて堂宇を建立し善光庵と称し善導大師像として祀られたそうです。この像は後に愛知郡東郷町に鎮座する祐福寺で安置されています。1469年(文明元年)虎得上人が寺を再興し光明寺と改称されたようです。本尊は阿弥陀如来像。 本堂左の薬師堂。本堂よりもこちらに視線が行きます、こちらも寄棟瓦葺です。山門左に複数の石仏が纏められています。左からお釈迦様、如意輪観音、三猿神、青面金剛童子。右は1660年(万治3)頃の江戸吉原で遊郭を営み、吉原を牛耳ったと云われる地元の富豪松本清十郎家の墓碑。1681年(延宝9)にこちらの薬師堂の再建に尽力したそうです。その薬師堂がこちら。薬師堂に安置される薬師如来は行基の作と云われ、三河の鳳来寺、大井医王寺の薬師仏と共に一本の木から彫られた一木三体の像で、寅年の時に開帳されることから「寅薬師」と云われるそうです。それが通りにあった「とら薬師」はこれを指すようです。堂内は撮影は禁止という事なので写真で紹介できませんが、内陣中央には薬師如来と左右に日光菩薩、月光菩薩が安置され、外陣には複数の蛸が描かれた絵馬や、格子天井に描かれた色彩は今も鮮やかに残り見事なものです。その他にも県指定文化財の「算額」や町指定文化財の「地蔵菩薩」などが安置されています。解説によれば「算額は1752年(宝暦2)内海中之郷村の榎本犀助章清、大岩久次郎則重が、「小佐の薬師堂」と呼ばれ近隣のから厚く信仰されていた東方寺(現浄土寺)へ奉納したものだとされ、1873年(明治6)に薬師堂は光明寺境内に移築の際に合わせてこちらに移されたとあります。」境内にある解説には移築は明治6とあるけれど、南知多の指定文化財HPの算額の解説には移築は昭和6とあり食い違っているので、ここでは境内解説の明治6で記載しています。本殿左のごめんなさい地蔵。この手のお地蔵様、何とも言えない愛らしい表情をしています。以前名古屋市内で見かけた「ごめんなさい地蔵」もいい表情をしていました。「ごめんなさい」と言葉に表し、「手を合わせる子供はすばらしい大人になる」素直さを忘れたおやじ、言葉や態度で表すことは難しいものです、こんな表情ができれば・・・・・それはそれで不気味か?かわいい表情の地蔵の左に素直さを忘れたおやじの姿がある。烏枢沙摩明王像(うす様明王)トイレの神様としてお祀りされているのを見かけると思います。こちらの明王は独立して祀られています。手前の柄杓で水をかけて自分の汚れを水で洗い流す、さながら「水かけ明王」とでもいえばいいのかな?向拝の火炎は全ての汚れを焼き尽くし浄化してしまう強烈な力の持ち主。汚れを嫌うだけに像はとても綺麗、手水鉢にさり気なく置かれたタワシは像を磨いて自らの汚れを落としてくださいという事でしょう。それにより「ごめんなさい地蔵」の様に素直で汚れなきおやじに戻れる?……磨きが足りないようです。烏枢沙摩明王像の後方の地蔵堂。ふく供養塔。伊勢湾や三河湾のとらふぐは今では認知度が高いけれど、漁業対象となったのは1975年と意外に新しいようです、今では篠島や日間賀島を始め代名詞のようになり、本家の下関と競う程の漁獲を誇るそうです。恵みに感謝し建てられたようです。なんでもそうですが、最初に「食べれるかも?」とチャレンジした人は勇気があるものです。ふぐの右には魚天観世音菩薩。魚供養塔ですね、菩薩の足元には鰯のレリーフが置かれています、スズキだ、ヒラメだと言っても彼らがいてこそ。生態系の頂点に立ち糧を得るものとして、食物連鎖の過程に存在する生きものに感謝しましょうという事なのでしょうね。「いた~だきます」です。素木のシックな龍宮城の門をもう一度見上げて光明寺を後にします。今頃かみさんはどこを歩いているのかナ? 2020/1/18山号 / 成道山寺号 / 光明寺宗派 / 西山浄土宗本尊 / 阿弥陀如来創建 / 715年(霊亀元年)住所 / 知多郡南知多町豊浜鳥居37-2車アクセス / 知多自動車道「南知多」ICから内海方向国道247号線経由20分程南知多三十三観音・18番札所
2020.01.30
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名古屋市南区源兵衛町1-21名鉄常滑線「柴田」で下車、東の大きな通りは国道247号線。そこから右方向の天白川右岸の堤防道路を上流に向かえば堤防沿いに鎮座する三吉稲荷大明神までは歩いて10分もかからない。現在、堤防道路は整備中、それにより神社までは通行出来そうですがそこから上流は封鎖されています。近隣には国道沿いに柴田「稲荷神社」、対岸には「八幡社」、神社から上流に向かえば「須佐之男社」など鎮座しています。堤防脇には駐車余地があり、ここまでなら車で訪れる事は出来そうです。左が天白川、そこに架かる橋は千鳥橋、古くから新田開発で開かれた地域、伊勢湾台風では大きな被害を受けた地域でもある。生命線でもある巨大な堤防の上に目的地「三吉稲荷大明神」が鎮座しています。所在地は柴田町ではなく源兵衛町になります。1706年(宝永3)、大山屋二代目の神戸文左衛門より資金融資を受けた山口源兵衛により開かれた地域、町名の由来はここから来ていると思われます。新田として開かれた土地は今では住宅地に変貌、この巨大なコンクリート堤防に守られ、普段の生活では過去の悲惨な歴史や生い立ちの面影は感じられないけれど、標高は1㍍に満たない事だけは間違いない。神社は堤防上の東西に細長い社地が与えられていて、社頭は東(上流側)になります。社頭と対面するように青峯山観音堂が祀られています。そこから対岸の東海市を見ると緑の森が視界に入ります、名和町新屋敷の「八幡社」は目の前。三吉稲荷大明神の全景。手前に1936年(昭和11)健之の社号標と手水鉢。稲荷鳥居が連なり、その中ほどに石の鳥居、本殿は更に右奥。石の鳥居は1957年(昭和32)と刻まれていた、伊勢湾台風が1959年なのでそれ以前よりここに鎮座する様だ。過去の年代別の地図から創建時期を調べて見るも、そもそも表記されていなかった。恐らくは周辺の開発によりこの地に遷座されたものでしょうが詳細は分からなかった。1936年(昭和11)健之の社号標は妙に綺麗だ、手前の手水鉢の年号は見過ごしてしまった。社頭から本殿の眺め。社頭左に地元出身者の石碑が並ぶ。小さな稲荷社でありながら、奉納鳥居は意外に多く、本殿まで続いている。地元からの崇敬は厚いようです、この中ほどに石鳥居がある。本殿域。手前の狛狐は1962年(昭和37)、そこから一段盛られた上に本殿が祀られている。狛狐眉間のシワなど細部まで彫が施され表情にリアリティーがあり、肉付きも良くイケメンの狐だ。三吉稲荷大明神祭神は倉稲魂命。創建などの詳細は不明。参拝を終えて対面する青峯山観音堂へ。青峯山観音堂この観音堂の詳細も分からなかった。青峰山は三重県鳥羽市松尾から志摩市磯部にまたがる標高336㍍の山、青峯山には複数の堂宇が点在し山頂に真言宗の古刹山頂には正福寺がある。標高は低いけれど、伊勢湾や遠州灘、熊野灘からも見通せた事から、古くから沖合いを航海する船舶の目印とされ、航海の安全祈願、海を生業とする海女や漁師から崇敬されているという。そうした事から鯨の背に乗った黄金の観音様が安置されているという。堂内の観音像。年号までは写真では読み取れなかった。青峯山観音堂北側から天白川、名和町新屋敷の「八幡社」方向。強固な堤防の上から観音の見つめる先は三吉稲荷大明神か、はたまた河口を見守っているのかナ。2021/07/04三吉稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命青峯山観音堂建立 / 不明所在地 / 名古屋市南区源兵衛町1-21関連記事 / 須佐之男社 、柴田「稲荷神社」、東海市「八幡神社」
2021.07.08
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名古屋市中村区名駅南1、柳里(りゅうり)神社・白鷹龍神。迦具土神社・豊光稲荷大明神の続きで、名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りとなります。今回掲載する柳里神社・白鷹龍神は上のマップの赤い矢印の位置になり、移動時間は15分前後です。鎮座地は笹島交差点南東の区画の南側に鎮座します。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。社頭の前は柳街道が通り、嘗て街道周辺が一柳荘と呼ばれた荘園で、柳の樹が多く植えられていた事に由来するとも云われるようです。柳街道は佐屋街道から名古屋城下町へのバイパスとして整備されたもので、柳の樹を植えたくなるような土地柄だったようです。神社名の柳里もそうしたことから付けられたのかも知れません、今はその柳の樹は見かけません。柳里神社の呼称は「やなぎさと」や「りゅうり」などさまざまですが、ここでは「りゅうり」としておきます。柳街道沿いで三方をビル囲まれ、良くある街中の神社の佇まい。街道沿いの歩道を歩くと両脇を壁のようにビルが連なる一画に、玉垣と白鷹龍神の白い幟がはためく柳里神社が現れます。鳥居は少し奥に立てられているので目印はこの幟旗だろう。歩道から境内の眺め。右手に「柳里神社」の社標と常夜灯、鳥居と続き、左側に白鷹龍神の覆屋があり、手水鉢は本殿右側にあります。「柳里神社」の社標はセメントで塗り潰された痕跡もなく、常夜灯も比較的新しいものです。愛知県神社庁で柳里神社・白鷹龍神を検索するが属していないようで情報は得られなかった。どちらも大正4年(1915)とあるので無格社という事か。境内左の白鷹龍神覆屋と右に小さな祠が祀られています。板宮造りの社は社名札はないが恐らく白鷹龍神の本殿なのだろう。左右の祠其々に座布団が敷かれ、中に石像が安置されています。左の祠の石像。嫌な予感はしたが、やはり蛇。とぐろを巻き、鎌首をもたげこちらを睨んでいる。右の祠にも蛇らしき石像。とぐろの部分は蛇のウロコの様に表面が劣化、頭部に耳らしき突起があるも、もはや蛇なのか龍なのかイメージすらできない。これらの像が重軽石なのか、撫でるものなのか作法は分からない。白鷹龍神の謂れはよく分からなかったが、低地で湿地帯が多く、田んぼの広がっていた土地柄を考えると、水や天候を司る龍や蛇が祀られても違和感はない。事実、江川線沿いに鎮座する白龍神社や堀川左岸の須崎神社には白龍龍寿大神が祀られるなど、龍神の多いところかもしれない。五行説に於て白龍は西方を守護し、金運や仕事運、縁結びなどの御利益があるとされ、ビジネス街に鎮座する白鷹龍神に訪れる地元の方は多い。本殿域全景。背後と左右はビルの壁が迫り、小さな社地のこの一画の上だけが抜けている。右側に澄んだ水が張られた手水鉢、柄杓も置かれています。本殿全景。コンクリートジャングルの中にあって、本殿域には貴重とも思える緑の樹々が杜を形造り、境内は表通りに比べると体感温度も幾分低く感じる。小さな体で精一杯大きく口を開けている本殿域の狛犬。寄進年など見る事は出来なかったが、子犬の様にムチムチした体をしています。本殿と常夜灯。祭神は須佐之男命、火之迦具土神とされ、神明造の棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。偶数の鰹木と水平カットの千木は女神と云われるがどうなんでしょう。左の常夜灯は随分古そうで、竿には「柳野天王〇」と刻まれており、嘗ては牛頭天王として祀っていた?創建時期や由緒が定かでなく、創建時からこの柳街道に祀られていたものか、明治以降の変貌著しい鉄道整備に伴い遷座したのか不明。ヒントは竿の裏側に刻まれているかもしれません。こぢんまりとした柳里神社の本殿域から上を見上げれば、コンクリートジャングルの隙間に空が広がる。本殿域から社頭の柳街道の眺め。忙しない街中の喧騒から逃れ境内に立ち入れば、そこにはゆっくり時を刻む特別な空間がある。柳里神社・白鷹龍神創建 / 不明祭神 / 須佐之男命、火之迦具土神所在地 / 名古屋市中村区名駅南1-24参拝日 / 2023/04/27関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り) ・洲崎神社
2023.05.17
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前回掲載した桑名市出口に鎮座する豊受大神社を後に、社地北側を東西に延びる農免道路を西に向けて走る事約5分程、道路左側に平方神明社の杜が見えてきます。社地西側から眺める平方神明社、所在地は桑名市長島町平方になります。神社西側に社頭に通じる細い生活道路があり、社頭付近に駐車余地がありました。目の前の農免道路、あまり聞き慣れないものですが、農林漁業事業者が使用する燃料の揮発油税を減税しない代わりに、事業者の利便性を図るため揮発油税を財源に作られた道路で、日頃走る一般道とは少し性格の違うもの。上の地図の赤のマーカーが鎮座地になります。農免通りを西に走れば移動時間は5分もかからない距離になります。南向きの平方神明社社頭全景。石の神明鳥居(寄進年未確認)とその先に神社門があり、左右の石壁は門と一体になっています。鳥居から境内の眺め。参道右に手水鉢、社標は見逃したのか見当たらなかった。手水鉢に龍の姿は見られなかった。注連縄が吊るされた門から境内の狛犬と拝殿を眺める。拝殿は四方板壁でガラスの格子窓が入った入母屋瓦葺のもの。手前で白い体の狛犬(寄進年未確認)が守護している。吽形は前脚の間に球持ちの子供を連れ、阿形は口の中に球を咥えたもので、大きな鼻と大きな垂れ耳、クルクルの巻き髪が個性的。社殿は手前の拝殿とその後方の覆殿の構成。境内を見渡すが由緒は公開されていないようです。三重県神社庁で平方神明社について以下の様に紹介されていました。「当社の創祀については詳にし難い。社伝によれば、慶安3年(1650)9月洪水により漂着した御神体を村民が奉祀したのが創始とされている。さらに当社が神明社として天照大神を勧請したのは文化14年(1817)8月とも伝えられている。江戸時代を通じ平方の産土神及び神明社として村民の篤い崇敬をうけている。」江戸時代の平方神明社の鎮座地は、長島藩領の伊勢国桑名郡平方村に鎮座し、これまで参拝した神社同様、木曽・長良・揖斐川の木曽三川が河口付近で複雑に交わるデルタ地帯で、歴史的にも自然と人が鬩ぎ合ってきた場所で、幾度となく水害による凶作に見舞われ、集落や農地を護るため周囲を堤で囲う輪中が築かれてきました。覆殿。背丈を優に超える高さまで川石を積み上げ、その上に切妻瓦葺建屋が建てられています。水害による凶作は、米を税として納める農家には死活問題で、地元の地史によれば、延宝3年(1675)困窮する一帯の百姓は秋の検見舂法(けみつきほう)の免除を求め、代表者一行が江戸幕府評定所に直訴に向かったが、彼らの訴えは実る事はなく、それに加わった者は罰せられ、代表者は処刑されたという。この地の百姓ために立ち上がり処刑された者たちは義民となり、当地の井桁堤に小さな祠が建てられ祀られ続けてきたが大正に入ってから当社に合祀されたそうです。主祭神は天照大神ですが、12名の義民と産土神が祀られています。覆殿正面。急な石段ですが、左右に手摺もあるので心強い。内部の様子を窺うも本殿は見ることは出来ず、こちらで参拝させてもらいました。覆殿後方から社頭方向の眺め。この石積みの高さは、拝殿の軒先の高さを上回るほどに積まれています。なんとしてもここは護る、そんな意思が現れている。社地は程よく風が通る杜に包まれ、境内も雑草が刈り取られ手入れが行き届いていました。そうしたこともあり境内で蚊に襲われる事はなかった。覆殿後方の農免道路には、近鉄長島駅から出ている長島ルートのバス停が立っており、その名も「平方神社」だった。循環バスに乗れば輪中を徘徊するには都合がいいかもしれないが本数が……狭い道が多い輪中にあって免税は免れなかったが立派な道が伸びています。平方神明社創建 / 慶安3年(1650)祭神 / 天照大神、義民、産土神所在地 / 三重県桑名市長島町平方953参拝日 / 2023/07/21豊受大神社から農免道路を西へ / 車で5分程関連記事 / ・豊受大神社・小島八剣神社・八剱神社(桑名市長島町中川)・楠神社・八幡神社(森川花はす田と船頭平河川公園近況)
2023.08.26
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出雲大社2、今回は大社の右手を流れる吉野川の対岸にある北島出雲国造館を紹介します。現地へは銅鳥居から吉野川を渡り、社家通りを1.2分程度進んだ左側にあります。この北島出雲国造館からさらに東へ進むと、出雲大社境外摂社の神魂伊能知奴志神社に到着します。私は訪れることができませんでしたが、北島出雲国造館からはわずか2~3分程度の距離にあったようです。出雲教 北島出雲国造館大門。外観からは、それが寺なのか神社なのか判断が難しいです。大門の左には宗教法人出雲教の木札が掛けられています。往古の出雲大社の出雲国造家は南北朝時代まで一子相伝で継がれてきました。ある時期から、千家家と北島家の二家がともに出雲国造を名乗り、祭祀を分担していたようです。明治以降は、千家家が大社の宮司を務めるようになりました。併せて神仏分離により千家家は出雲大社教、北島氏が出雲教と独自の布教活動を立ち上げ全国に広められて行き、出雲教は天穂日命の子孫、出雲國造北島家に伝わる祭祀の道に従い、御神徳を人々に広め、導くことを主な目的として明治15年に設立されたという。こうした継承に纏わる話は身近にも大なり小なり起こります、大社の宮司継承に関する内容は参拝に訪れた者には理解しにくいものかもしれません。そうした問題からか、大社の境内マップには北島出雲国造館の名はありますが、施設などは記されていません。社家通り沿いの北島国造館大門の解説。松江藩主 松平定保が安政6年(1860)に武運長久、子孫繁栄、国土安全、如意満足を記念して奉納されたもの。正面の大注連縄は寛永元年以来、出雲市灘分町、平田町の龍神講社より奉納を受けたもので、長さは5.5㍍で中央の太さは約3㍍ある。大門をくぐり境内に入ると、大きな注連縄が架けられた建物が神殿になります。現在の神殿は昭和30年(1955)に建てられたもので、古くは出雲大社の背後に聳える八雲山の麓にあったようですが、寛文4年(1664)の正遷宮う境内拡張に伴い八雲山々麓の旧宅から現在の亀山々麓の現在地に移転しました。神殿左の出雲教由緒は以下のように書かれています。「出雲教は天穂日命(神代の昔出雲大社創建のとき御神勅により大神様に神勤奉仕された天照皇大神の第二の御子神)の正系の子孫出雲国造北島家に伝わる祭祀の道を通し、大国主大神の御神徳を広く世に広めることを主たる目的とする神道教団です。教団としては明治13年、出雲大社の崇敬講として設立された「出雲北島教会」に始まり、戦後昭和27年に宗教法人「出雲教」として認証を受け今日に到っています。出雲教は幽事をつかさどられる大国主大神様にお仕えしお祀りするという出雲大社創建の精神を基としています。そして出雲大社という神社と、その御神徳を拡める教団としての出雲教を区別し、北島国造館に総本院を置いて全国各地に分院教会を設け布教活動を行っている」神殿には大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神を祀ります。大注連縄から神殿内の眺め、折しも朝拝が行われていました。神殿の左側の境内は、心字池を中心とした手入れされた国造邸庭園が広がっています。別名を竜虎の庭と呼ばれているようです。写真は心字池の畔で甲羅干しをする亀たち、亀甲紋が勢揃い。写真は心字池の対岸に春日造りの社が祀られています。左は亀の尾の瀧で、吉野川から心字池に導かれているようです。こちらは菅原道真をお祀りする天満宮、右には沢山の絵馬が架けられています。例祭 8月3・4日。左手に御仮殿 山王社の札が立っており、周囲を見渡しましたが社は見つからず、後に調べて見ると札の後方の斜面の途中に祀られていたようです。亀の楽園。国造館の背後の山は亀山と呼ばれていますが、山の形が亀の甲羅の形に似ていることに由来するようです。小島に鎮座する天神社と亀の尾の瀧。祭神 少名毘古那神医薬、農業、酒造、温泉の守護神で病気平癒、身体健康、医療業、農業、酒造業隆昌などの御神徳がある。例祭日 8月4日左の天神社 由緒「御祭神 少名毘古那神少名毘古那神は『日本書紀』に「大己貴命と力を 合わせ、心を一つにして天下を経営され、人々と家畜の ために、病気になったときの治療の仕方を定め、鳥獣や 昆虫の災いを祓うためのまじないの方法を定められた神であり、人々は今に至るまでことごとくこの神のおかげを蒙っている」とあり、各地に伝えられている風土記にも登場されています。島根県内で、この神様をお祀りした神社は一二九社あるといわれていますが、主祭神としてお祀りされている神社は少なく(二五社)、全国的にも大己貴神(大国 主神)と合わせてお祀りされている神社が多く見受け られます。このように少名毘古那神は大国主神と深いご縁にある神様ですが、なぜか出雲大社の摂社・末社ではな く、出雲国造家の邸内社にお祀りされてきており、寛文の屋敷替えにあたって現在の心字池中之島の小祠 に遷しお祀りされ今日に至っています。」右は亀の尾の瀧の解説「水は能野川(吉野川)の上流から引かれている。名称は明治の重臣・東久世伯爵が御参拝の折りに読まれた歌、「萬代を かけずくだけぬいはがねを つたいて落つる 亀の尾の瀧」に由来する」この瀧の水源となる吉野川は、寛文の造営時に出雲大社を水害から防ぐ目的から当時の建城技術を集めて整備された川だと言われています。出雲大社境内左の七口門から吉野川を越えた先の北島出雲国造館境内の御三社。この門の右手に四脚門がありますが、御三社を参拝し心字池、神殿と参拝したため、四脚門は帰りに撮ろうと思いながら撮り忘れました。中門前から御三社の眺め。御三社は令和4年(2022)に出雲教設立百四十年記念事業として建替えられており、この門もその際に建て替えられたものと思われます。御三社境内の全景。境内の右側を進むと心字池の天神社に続いています。御三社の出雲形狛犬、寄進年は未確認。令和4年(2022)に建て替えられた事もあり三つの社は綺麗なものでした。本殿域前の解説。右から三宝荒神を祀る荒神社、中央が天穂日命社で天穂日命をお祀りし、左の社が稲荷社、宇迦之御霊神を祀ります。国造館HPの三社の解説は以下。荒神社三宝荒神がお祀りされ、山の神・屋敷神・氏神として崇められています。又、皇祖天照大御神も合祀されています。祭日 2月17日天穂日命社北島國造家の始祖天穂日命がお祀りされ、その垂訓を立教の本旨としています。祭日 2月17日稲荷社宇迦之御魂神がお祀りされ、穀物食物神・商売繁盛の神としてご崇敬頂いております。祭日 旧暦2月の初午の日(旧暦のため毎年日時は変動)寛文七年の大遷宮に伴う國造館移設に合わせ、この三社も現在地に遷座されたもので、創建時期は不明。境内から大門と社家通りの眺め。出雲大社境内の参拝者の多くは、この通りを訪れないようなので、人波を避けて静かな出雲の雰囲気に浸りながら歩くのには良い通りだと思います。神魂伊能知奴志神社や眞名井の清水を巡るなら門を出て左、出雲蕎麦なら右ですね。北島出雲国造館創建 / 不明祭神 / 大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神境内社 / 荒神社、天穂日命社、稲荷社、天神社、天満宮等所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東 真名井194-3関連記事 /・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社
2024.07.02
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青春18切符を利用し日帰りで京都市内の西国33所札所を巡って来ましたが、ここ17番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)をもって今回は終了となります。鎮座地は鴨川左岸の京都市東山区轆轤町になります。六波羅蜜寺は西国三十三所第十七番観音霊場、日本最古の都七福神の一つ弁財天の札所として古く人々の信仰を集めています。補陀洛山 六波羅蜜寺門前。正面に鎮座するのが福寿弁財天堂。行願寺でも都七福神について書きましたが、都七福神巡りとは、草創以来六百年を越える日本最古の 七福神信仰、室町時代の民間信仰として以下の七社寺を参詣し御利益をいただくもの。1.寿老神 不老長寿 革堂(行願寺) 寺町通竹屋町上ル。2.ゑびす神 商売繁盛 ゑびす神社 大和大路通四条下ル3.大黒天 開運招福 妙円寺 松ヶ崎東町4.毘沙門天 七福即生 東寺(教王護国寺) 南区九条町5.福禄寿神 延寿福楽 赤山禅院 修学院赤山町6.弁財天 福徳自在 六波羅蜜寺 東山区ロクロ町7.布袋尊 諸縁吉祥 萬福寺 宇治市五ケ庄三番割今回の行程に上記七神の内、偶然にも寿老神と弁財天の二神を巡った事になる。建物は近年修復されたようですが、外陣の上の祥寿院と書かれた扁額は、以前のもののように見受けられます。内陣には恵愛堂と書かれた額が掛けられており、内陣中央にシャタールを持った福寿弁財天が安置されています。境内右の重要文化財リスト、こちらに訪れた動機は西国33所札所であるのは勿論ですが、最大の目的は右手の空也上人立像を拝観する事にありました。CMや書籍などでこの像が取り上げられ御存知の方は多いと思いますが、この目で実物を見ておきたかった。境内右の手水鉢から北側の本堂・銭洗弁財天の眺め。六波羅蜜寺の創建は定かではないようですが、醍醐天皇第二皇子 光勝空也上人(903-972)により天暦5年(951)に開創されたと云われます。当時の京都は疫病が蔓延し、悪疫退散を願う空也上人は、自ら十一面観音像を刻み、観音像を車に安置して都を曵いて廻り、先々で小梅干と結昆布を入れた茶を仏前に献じ、それを病者に授けて病魔を鎮めたという。現存する空也上人の祈願文には、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を招いて、金字大般若経を書き写し、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って盛大に諸堂の落慶供養を営んだ。これが当寺の起こりである。平安時代末期には平正盛が、付近に阿弥陀堂(現・常光院)を建立して以来平家との繋がりができ、平忠盛が当寺の塔頭に軍勢を駐屯させ、境内の隣に六波羅殿と呼ばれる館が建築され、平清盛によって六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまい、寺の内外一帯に5200棟余りの平家一門の邸館が栄えたという。しかし、寿永2年(1183)に平家没落の際に炎上し、本堂を除いた伽藍を焼失した。其の後は源頼朝、足利義詮による再興修復や火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉による修復や徳川歴代将軍から朱印を与えられた。上の挿絵は花洛名勝図会(1864)に描かれた当寺の伽藍。現在の当寺と比較すると大きな寺域を誇り、北側の六道之辻に表門を構え、南に向かい参道が続いていたようです。やがて寺域は縮小、参道は道路となり周辺には民家が建てられ現在の姿となっています。現在の伽藍は本堂を中心に、左に福寿弁財天、右に銭洗弁財天、本堂後方の令和館が主なもの。本堂全景。現本堂は貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)の開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかな外観となっています。本堂は寄棟瓦葺の平入で、三間の向拝が付くもので本尊は十一面観音。本堂裏側の令和館には多くの仏像や平清盛像などを所蔵し、冒頭の空也上人立像もこちらで公開されています。絢爛豪華に彩色された向拝は、安土桃山時代に関白豊臣秀吉により増設されたもので、いかにも秀吉の好みそうなもの。本堂正面全景。現在の本堂は貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)に解体修理が行われたものという。外陣は板張りで内陣の中央の厨子に本尊が安置されています。本堂向拝に架けられた額は「六波羅蜜寺」寺号にある六波羅蜜とはなにか、ということになります。HPによれば「この世に生かされたまま仏の境涯に至る六つの修行」を指すようです。成仏の境涯を得るためには、憎しみや貪欲の心を和らげ、煩悩から解き放ち、全ての命に感謝し慈悲心を育み仏に近づくことを目標とするもので、それを達成するための六つの修行として、布施(貪欲の気持ちを抑える)・忍辱(堪え忍ぶ)・禅定(自分自身を見つめる)・持戒(自らを戒める)・精進(不断の努力)・智慧(実践)があるという。自分なりに要約すると「人として資質(成長)を高めよ」という事かと勝手に解釈する。煩悩まみれの自分が現代風に置き換えると、給与・忍耐・自己分析・コンプライアンス順守・努力・実践となり、サラリーマン人生そのもののようにも思え、これらバランスよく実践すれば昇進や平穏な家庭も自ずとついてくるものと理解する。到底仏の境地には辿り着けないが、人として幸せな人生を全うするにも、これら精進を欠いてはならないものかも知れない。後付けとは思えない向拝ですが、本堂に対し向拝の装飾が浮いているような。ここから右奥が令和館入口になります。令和館。2022年、六波羅蜜寺の宝物を保管展示するために建てられた近代的な建物。右手に真新しい朱塗りの社が祀られています。弁天社・地主天王。挿絵を見るとこの場所に小さな社の姿が描かれていましたが創建・祭神の詳細は不明。挿絵が描かれた当時の寺域と現状を比較すると、約半分ほどに縮小したように見えます。空也上人像(HPより)。令和館の拝観時間は8:30~16:45、拝観料は600円、館内は撮影禁止ですが単眼鏡は可。館内には平安・鎌倉時代の国宝・重文に指定された薬師如来坐像、鎌倉期の平清盛坐像など17体の仏像や像が拝観できます。最大の目的、六波羅蜜寺を開創した空也上人像は二階に展示されています。HPは空也上人について「南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。」とあった。特徴のある鹿の角の杖の経緯も書かれており、「上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。」とある。この像は運慶の四男康勝の作で胸に金鼓、右手に撞木、左手には友だった鹿の杖をつき、草鞋をはいて、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を再現したもの。実に写実的で今にも南無阿弥陀仏と唱える空也上人の声が聞こえてくる。少しはこの像容の意味が分かった。館内は椅子がなく立っての鑑賞になりますが、空也上人像の前でずっと見入っていました。また、鎌倉時代に作られた平清盛像座像は、自分がイメージする清盛とは思えぬ実に穏やかな表情をしたもので印象が少し変わったように思える。その他の仏像も時が過ぎるのを忘れるほど見応えがあり、六波羅蜜寺を参拝の際に令和館を拝観される事をお勧めします。これら仏像のポストカード、当日だけかもしれませんが販売されておらず、そこはやや心残りだが、心の中の迷いや怒りの気持ちで満ち溢れた時には、鈍行列車に乗って空也上人に会いに来ればいいことだ。・・・長椅子がほしい。6/11巡拝。補陀洛山 六波羅蜜寺開山 / 空也開基 / 村上天皇宗派 / 真言宗智山派山号 / 補陀洛山院号 / 普門院本尊 / 十一面観音創建 / 天暦5年(951)西国三十三所 / 十七番札所所在地 / 京都市東山区轆轤町81-1参拝日 / 2024/08/06関連記事 ・京都市内の西国33所巡り『17番・18番・19番』・下御霊神社・霊麀山 革堂 行願寺・紫雲山 頂法寺
2024.09.04
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日進市赤池町「龍淵寺」日進市と聞くと遠い印象がありますが、龍淵寺は名古屋市平針に隣接する場所にあり、地下鉄鶴舞線「平針駅」から北に10分も歩けば訪れる事が出来ます車のすれ違いに苦労しそうな細い路地、その脇に龍淵寺の東参道が見えて来ます山門を目当てに歩いて来ましたが、山門はないようです、寺号標も見えて来ました左手に椎の木の巨木と植木で両脇を囲まれた参道を進むと境内が広がります参道先に本堂と手前にマニ車側面にサンスクリット語の文字が彫られたマニ車内部は経文が納められ、願をかけながら右に一回する事で、お経を一巻唱えたのと同じ御利益があると云われます境内の建物は、赤瓦が印象的な本堂、当日は法要が行われており、遠慮しながらの境内散策となりました本堂左泰安殿(右)と龍王堂龍王堂の左が如意輪観音像が祀られる小さなお堂とその左が秋葉三尺坊、その左は七福神が彫られた石標境内南側の大きな椎の下には立派な山門があるではないですか、後で見ていきますこの大きな椎の木は市指定文化財にも登録されている見事な枝ぶりの巨木です赤池城主・丹羽秀信により1573年(天正元年)龍淵寺が創建されますが、その際に植えられたものと言われます当初は複数植えられたようですが、現在残るのはこの木のみとなりましたが、樹齢400年を超える見事な大木です赤い瓦で葺かれた寄棟の本堂、屋根は緩やかな曲線を描き左右に広がり美しさを感じます龍淵寺宗派 / 曹洞宗創建 / 赤池城主の丹羽秀信の菩提寺として1573年(天正元年)建立本堂西側の墓地には今も秀信の墓碑がひっそりと現存します本堂扁額本堂左の鐘楼と半鐘泰安殿全景、堂内の拝観はできませんでした堂前の仏足石仏様の足跡を石の上に表したものらしく、仏様が自らの足で45年間の説法の旅を行った、その健脚にあやかって生まれたものらしい、初めてお目にかかりました龍王堂、泰安殿の左にあるこちらも扉が閉ざされ堂内は覗えませんでした観音堂龍王堂の左隣のの小さなお堂です内部には如意輪観音像が祀られる右手を頬にあて物思いにふける姿、あらゆる願いを叶えて頂けるありがたい観音様解説には1806年(文化3)製作とある秋葉三尺坊その左には七福神が彫られた四角い石標うしろに見える駐車場は以前は泉が湧き、その水は清浄で眼病に効いた事から閼伽水 (あかみず) と呼ばれたそうです湧水はやがて池となり、閼伽池と名を変え、やがて現在の赤池町の由来となる赤池と呼ばれていった現在はアスファルト化された駐車場に姿を変え、当時の面影を垣間見る事すらできません境内の山門の右には赤池の由来が記された石碑も置かれています境内南にある山門は境内側に「平成20年山門移動」と記されています東門から現在のこの場所に移築したものなのか?東門から一旦外に出て南門を正面から眺めました正面に「入口は東門」からの案内が老朽化による予防措置から封鎖したのか、そこまで朽ちてはいないだけに良くわかりませんこの山門が開き、そこから見える本堂を見たいものです山門右の表札伽藍的にもこちらが正門で違和感はないのですが南門の左平針の街を見下ろす位置に金毘羅大権現の祠が祀られています龍淵寺椎の木の巨木が歴史を語りかけてくるような、丹羽秀信が眠る寺です住所 / 日進市赤池町西組110アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「平針」下車、北に徒歩約10分
2018.07.08
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前回は61番札所御嶽山 高讃寺を掲載しました。今回は62番札所 御嶽山 洞雲寺を訪れます。道は高讃寺前の国道247号線を渡り、車一台がやっと通れる細い路地を西に進んでいきます。高讃寺から西に350mほど、七社神社を右手に眺め進んでいきます。七社神社は過去に訪れた事があり、過去記事のリンクと常滑市誌を調べていた際、七社神社の記載を目にしたので内容を掲載します。「七社神社(西阿野、旧村社)。創建年は不詳。往古の西阿野には七戸の家があり、其々一神を祀っていたものを、一カ所に合わせて七社神社としたのがはじまり。文禄4年(1595)に再建されている。徇行記には「庄屋書状に七社大明神社内、天王社、山神社あり、三社共に勧請年は不詳。文禄4年再建の棟札あり」と記され、旧西阿野村の氏神である。」石段を上りきった境内に流造の本殿と複数の境内社が祀られています。ここから洞雲寺までは約1.1km、15分程です。常滑市井戸田町の洞雲寺寺叢。門前は左に進んだ右側に石柱門を構えています。門前から境内の眺め。洞雲寺伽藍。中央の本堂と右手の庫裏、本堂南側の高台の観音堂が主なもの。境内には稲荷大明神、役行者、地蔵堂、庚申様(青面金剛明王像)等が安置されています。本尊阿弥陀如来坐像の解説、過去に訪れた際はこの解説を割愛していたようなので、改めて内容を記載します。『木造阿弥陀如来坐像。市指定有形文化財(彫刻)(昭和44年4月1日指定)。本像は、御嶽山洞雲寺の寺宝。衲衣を着けて定印を結び、結跏趺坐する高さ87・3cmの阿弥陀如来像。材質は緻密で光沢がよいカヤ材を用い、一木造と呼ばれる技法で造られています。この一木造とは体部(頭部、胴部)のみが「一木」、腕、脚などは「別材」で構築されているものも含んでおり、本像は体部、膝部の二材からなっている。また、頭部は、肉髻相を表し、螺髪を掘り出している。眼は彫眼となっていますが、眼鼻などを削り修復した痕跡が見られることから、当初は漆箔仕上げであったと推測されるが、現在は黒漆塗り。特徴としては、表情がやさしく整えられ、胸の位置が高く、腹部の線を二重に刻み突出させた腹には立体感を感じさせる。また、肉髻が地髪と明確に区分されていない、耳朶が貫通していない、かすかに鎬のある翻波風(衣の襞の表現)の衣文などから十世紀の彫刻に通じる要素が認められ、このことから本作の制作年代は平安時代の頃と推測されます。』洞雲寺本堂。軒先の反りが美しい寄棟瓦葺の建物は以前訪れた時と変わらぬものです。常滑市誌では洞雲寺を以下のように纏めています。『徇行記に「洞雲寺・・・在樽水村、号御嶽山、浄土宗」「此寺は弘治元卯年創建す、開山僧は元亀三甲年八月遷化なり、境内に観音堂あり」と記されているように、弘治元年(1555)に創建された。本尊は阿弥陀如来である」と纏めていた。本尊の阿弥陀如来坐像。本堂向かいの高みに観音堂が建てられています。石段両脇の地蔵堂、庚申様。石段の先の観音堂。入母屋瓦葺の建物で拝所となる外陣と内陣に分かれています。それにしても以前撮った写真と、代わり映えしない所は進歩がない。稲荷大明神や役行者が祀られています。62番札所観音堂正面全景。外陣の格子天井は千社札で埋め尽くされている。中には新しいものもみえます、直に貼るところは見たことないが、寺は許しているのだろうか。内陣。左から弘法大師像、中央に聖観世音菩薩、右側に薬師如来像が安置されています。聖観世音菩薩は33年毎に御開帳されるそうで、前回は2019年に御開帳されたそうです。歳を数えても、次の御開帳が見られるとは思えないか。東浦 日間賀 志のじまは 西うらに 大師の垂水 ありがたくうく次の札所は、ここから1.8km北の常滑市奥条に鎮座する63番札大善院です。後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 62番札所 御嶽山 洞雲寺宗派 / 西山浄土宗創建 / 1555年(弘治元年)開基 / 善海法師本尊 / 阿弥陀如来坐像札所 / 知多四国八十八箇所六十二番、知多西国三十三所霊場十三番、法然上人知多二十五霊場十二番所在地 / 常滑市井戸田町2-37高讃寺から洞雲寺 / 高讃寺から国道247号線を渡り、西に向かい1.4km、約20分。参拝日 / 2025/10/21関連記事・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 村社 八幡社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 番外札所 金鈴山 曹源寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 58番札所金光山 來應寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 行者神變大菩薩・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 59番札所 萬年山 玉泉寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 60番札所 大光山 安楽寺・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 尾張多賀神社・後開催 第八回歩いて巡拝 知多四国 61番札所 御嶽山 高讃寺過去記事・「七社神社」常滑市西阿野半月・知多四国八十八箇所六十二番「洞雲寺」
2025.11.28
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山崎川に架かる「てあいはし」から檀渓通3の交差点を長戸町方向へ西に向かって歩いて来ました塩付通5丁目の廃寺を右手に、新たな発見もなく更に西へ、やがて右手の路地の先に杜が目に入り寄ってみる事に地図では善昌寺とありますが、正面には鳥居が見えます住所は昭和区石仏石仏と付く町名は時折聞くことがあります、概ね古くからある町に残っていますここの町名の由来は石畑毛からの発祥した説、天正年間(1573~1592)この辺りに石仏があったことから発祥した説、名古屋城築城時の石工が集まっていた説等諸説あるようです一旦ぐるりとひと廻り随分と高低差があり、御器所台地の北斜面の傾斜の敷地に石垣が積まれ石垣は北に行くほど高くなります善昌寺を外周を廻り、鳥居まで戻ってきました南北に長い神社の敷地で、元は善昌寺の境内にあったものが神仏分離により分離された様です交差点の角に石鳥居と社号標、奥に蕃塀を持つ様です白山社正面全景参道の先には蕃塀があり、拝殿、本殿などは目にすることは出来ません蕃塀の前で参道は左へ折れます蕃塀の左が白山社社務所になります白山社境内全景右手に手水舎、正面が拝殿、参道は狛犬の前から左に伸びています澄んだ手水で清め参拝させて頂きます瓦葺屋根で切妻造りで唐破風の光拝を持つ拝殿重厚な大ぶりの鬼瓦が印象に残ります上段 拝殿前の狛犬下段 拝殿から本殿拝殿左の御神木から奥に続く参道その先に神楽殿、渡廊の先に境内社があります神楽殿銅葺屋根の寄棟木造造り、小さな神社ですが伽藍は整っています神楽殿から見た幣殿、本殿の眺め渡廊の先に高く盛られた上に社が祀られています左から鹽竈社・山神社・金刀比羅社、兒子宮、秋葉社、津島社が整然と並びます境内社から見た透塀で囲まれた本殿、幣殿の眺め大きな御神木から伸びる枝の下に社殿があります神楽殿と社務所の間にある力石今も力試しに使われているとは思えないけれど、昔は青筋たてて村一番の力持ちを競ったのでしょう境内の凱旋記念碑白山社の創建は定かではありませんがお隣の善昌寺により1684~87年の貞享年間に加賀白山の山神を勧請したと云われこの神社自体が古墳の上に建てられていると云われますが、趣はあるもののそれらしい案内板がある訳ではないので、良く分からなかったことが残念です見落としているのかも知れませんが、昭和区の資料からもう少し調べて見る事にします白山社の西に隣接する善昌寺2018/12/06白山社創建 / 1684~87年の貞享年間御祭神 / 菊理姫命住所 / 名古屋市昭和区石仏町1-71アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「御器所駅」から南に徒歩約15分程
2018.12.30
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名古屋市名東区猪高町高針植田川から国道302号線を渡り、東の丘陵地に向かって歩く事10分程上段緩やかに登る坂の途中に『高牟神社』は鎮座しますここ高針の氏神様として人々から親しまれている神社です下段歩道左側に石鳥居を構え、鳥居をくぐると参道は右に続く上段一の鳥居から木洩れ陽のさす緩やかに登る参道を進む下段参道は左に折れ、その先に二の鳥居と正面に『高牟神社』拝殿が見えてくる境内は新年を迎え氏神様に詣でる参拝客で賑わっています高台の頂に広がる境内二の鳥居をくぐり、左に手水舎、手水鉢には絶え間なく静水が注がれています高牟神社の面々上段は二の鳥居のある境内に奉納された新人の狛犬下段は石段を登った拝殿前で守りを固める先輩の狛犬、風貌にはキャリアが漂います高牟神社拝殿上段唐破風が施された拝殿高牟神社は1994年旧社殿を焼失、現在の社殿は1996年再建されたものというが、新しいとはいえ優美な姿をしています中段 拝殿扁額と下段 拝殿内高牟神社以下は名古屋市名東区高針・牧野池コース(詳細)より「創始は明らかではありません、延喜式内の神社として伝えられています。昭和25年までは八幡社と呼ばれていました。現在の社殿は平成8年12月26日に再建されました。春岱師作の狛犬一対が社宝として残っています。」・・・・・とあるここ高牟神社が果たして延喜式神名帳が指すものなのかどうかは良くわかりませんそれを否定する知見もなく、それなりの由縁もあっての事だと思います上段橘の神社幕の掛けられた拝殿下段拝殿から本殿、流造の優美な屋根左は名古屋市内で見る杉、拝殿前の夫婦杉右は拝殿から二の鳥居のある境内の眺め拝殿左境内社は、左から神明社、白山社、山神社が祀られる境内の西側に高針護国社1971年、それまでの敬徳殿に変わって新たに建てられたもの護国社の守護担当護国社拝所と拝殿内の扁額日露戦争から太平洋戦争までの英霊と牧野池の掘削者、尾張藩の奉行「勝野太郎左衛門」を祀る上段境内西側の脇参道と鳥居、その先は高針小学校になります下段脇参道脇にある保存庫棒の手の武具、鳥毛、馬具などが保存されているそうです良く耳にする棒の手ですが、由来は諸説ありますが農民の自衛手段として成熟した武術で10月の例祭(体育の日)で奉納されるそうです上段境内右から社殿と護国社の全景下段市内では珍しい杉と桧、これは神域が一時荒廃し空地となったものを、本来の神域を取り戻すために1977年に氏子の方々により植林されたもの社殿を取り囲む神域として、現在では見事に育っていますこれを後世に語り継ぐ碑も境内に建てられています氏神は氏子を見守り、氏子は氏神を崇める、高牟神社は現在もそれが引き継がれています植林された杉や桧がこれからも成長し続けるように2019/01/02高牟神社創建 / 不明、1702年(元禄15)地覚え書きに八幡宮1社東西134間、南北84間の記載 1950年高牟神社へ改称、以前は八幡社と呼ばれる祭神 / 応神天皇 境内末社 / 神明社、白山神社、山神社 住所 / 名古屋市名東区高針2丁目2アクセス / 市営地下鉄一社下車南東方向へ徒歩30分
2019.01.13
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静岡県静岡市駿河区根古屋に鎮座する「久能山東照宮」を訪れる御利益通り商店街、東照宮と共に時を栄えてきた通りですその先に久能山東照宮の一ノ鳥居が見えます一ノ鳥居の先は表参道石段が続き、正面の久能山の頂まで上っていきますロープウェイで今や楽ちんに参拝はできますが、「イチイチゴクロウサン」です鳥居右側の久能山東照宮周辺案内板長い表参道の石段が始まります上り始めたすぐ左にこれから目指す久能山東照宮の伽藍の案内板久能山の歴史は7世紀頃に遡り、秦氏の久能忠仁が初めて開山し、観音菩薩像を安置した補陀落山久能寺を建てた事から始まります徳音院家康はじめ三代にわたり将軍に仕えた南光坊天界により開かれた寺本尊は薬師如来でその他に不動明王、財福聖天を祀ります家康を神として祀るため、天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号を得て日光に改葬されます江戸時代は社殿、寺院を持つ寺盛を誇りますが明治に入り寺勢は衰え、徳音院のみ現在に残りました徳音院の堂の左に大聖歓喜天の小堂があります堂の前には木彫りの狸が参拝に訪れる者を見つめています石段の先に稲荷鳥居が見えて来ます駿河稲荷社祭神 / 稲荷大神元久能山代官の杉江家が伏見稲荷から勧請し屋敷内に祀っていたものを1982年(昭和57)にこの地に祀ったもの駿河稲荷社を過ぎると傾斜は強くなり、17曲がり。1159段の石段が延々と続きます「イチイチゴクロウサン」石段は高さが低いので意外に上りやすいものです曲がりが多いだけ急激に高度を稼いでいく事になります目指すは標高216mです石段もさることながら、この石垣、この斜面によくぞ積み上げたものです積まれた石に隙間もなく先人の知恵と労力には驚くばかり長い石段の先にやがて門が見えて来ます趣はまるで城、要塞の佇まいです1568年(永禄11)、この立地に着目した信玄は、久能寺を現在の静岡市清水区に移し(現在は鉄舟寺)久能城として整備していきますやがて竹田家滅亡により久能城は家康の手に渡ります難攻不落の要塞感が漂うのは当然のことかもしれませんこの一ノ門と呼ばれる山門はオリジナルの姿ではないようです自然災害によりオリジナルは倒壊、その後再建された際に現在の平屋に変わった様です一ノ門から眼下の眺めくねくね折り返し上ってきた参道と眼下の街並み、その先に駿河湾が広がる絶景を望めますロープウェイでは味わえないものです条件がいいと東に伊豆半島、遥か西には御前崎まで見えるそうです一ノ門の先に建つのは門衛所24時間体制で入門者のチェックを行う為のものです門衛所から一ノ門の眺め門衛所から右の石段を進みます石段を上りきると右側が開け見えてくるのが旧宝物館、その左に勘介井戸があります当日は重機が入り施設工事のため近寄れませんでしたこの標高で井戸があれば完璧ですね社務所前から楼門の眺め社務所前を左に行くと日本平ロープウエイ久能山駅方面参拝客の少なかった参道はここから一気に参拝客が増えます各所に装飾が施された朱塗りの楼門、豪華絢爛軒下の「東照大権現」の扁額は、後水尾天皇により宸筆され、勅額御門とも呼ばれます極彩色に彩られ、蟇股を初め細部に施された彫刻に足は止まります、派手な扁額が派手に見えない楼門正面の左右の格子戸内に随身楼門をくぐり、境内から見た楼門裏側全景の眺め金剛柵内の左の角がある方は狛犬、右の角が無い方は狛獅子、いずれも艶やかな彩色です狛犬狛獅子楼門から社殿の眺め家康は自身の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」と言い残したそうです2代将軍秀忠の命で久能山東照宮は建立され、家康の遺言は果たされていきます元和3年(1618年)と刻まれた手水鉢神厩家康の愛馬を飼育していましたが、現在は左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められています赤い鳥居の末社稲荷神社、末社厳島神社との合殿唐門と透塀も間近になって来ました左の石が積まれた基礎は、三代将軍家光の命により1636年(寛永13)に建立された高さ約30メートルの五重塔がありました、神仏分離の際に取り払われ、現在は塔跡のみが残ります鼓楼明治の神仏分離までは鐘楼だったそうです鐘は取り払われ、江戸城にあった太鼓を奉納し鼓楼として生まれ変わりました唐門屋根は銅瓦本葺黒漆塗で四方唐破風造の門色彩のみならず透塀に施された彫や飾り金具の装飾に視線は引き付けられます神楽殿その昔は絵馬殿として絵馬が飾られていたといわれます竈神社1646年(正保3)創建火産霊命/奥津彦命/奥津姫命の三柱を祀ります神庫博物館が出来るまでは神社に伝わる宝物が保管されていました奈良正倉院と同じ校倉造りで建物全体に朱が塗られ、趣は正倉院とは別物の印象を受けます日枝神社大山咋命を祭神とし、 創建当時は本地堂として薬師如来像を安置していたが、神仏分離の際に仏像を移し、山王社の御神体を納めて日枝神社と改め今に至る社殿内金色の三つ葉葵の紋が光り輝く日枝神社から望む社殿朱の透塀、三つ葉葵の紋が入った金箔瓦、透かし彫り・・・・・豪華拝殿前から日枝神社全景の眺め拝殿から本殿の全景本殿と拝殿は「石の間」でつながれた権現造の社殿1617年(元和3)の建立、中井大和守正清の代表的な遺構とされ、江戸時代に権現造りの社殿を広める契機となった最古の東照宮建築部材全てに金色の装飾金具や彫が施され、極彩色の装い黒漆で塗られた拝殿内も同様ですね・・・・・豪華すぎて落ち着かない家康公、秀吉公、信長公に参拝させて頂きます拝殿から唐門ゴンドラが到着する度に参拝客の波が訪れます拝殿左の門から本殿横へ軸部や軒廻りの黒漆塗と縁廻りの赤漆塗、金色の飾り金具が見る者に荘厳な印象を与えます廟門家康を埋葬した云われる廟に続く廟参道の入口です廟参道から見た社殿廟参道の鳥居くぐり右に進んでいきます最後の石段の正面に神廟が現れます1616年(元和2)の創建当初は木造桧皮葺の造りでしたが、1640年(寛永17)に徳川家光により現在の石造宝塔に造替されました「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」家康埋葬地は諸説あるようですが、ここに立つと家康はここに眠っていると感じます廟の傍らにひっそりと家康の愛馬が埋葬された、家康公愛馬ノ霊所が残ります天然の要害久能山、その頂に鎮座する久能山東照宮「イチイチゴクロウサン」するだけの価値はあります2019/06/20久能山東照宮創建 / 1617年(元和3) 祭神 / 徳川家康 相殿 / 豊富秀吉、織田信長住所 / 静岡県静岡市駿河区根古屋390アクセス / 東名高速「静岡IC」から国道150号線経由車で40分程御朱印大きな寺社は写真も多くなり載せきれません、宜しければyou tubeもご覧ください
2019.08.07
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名古屋市千種区赤坂町『上野天満宮』市営基幹バス2系統を利用し「谷口」下車、谷口交差点を右に曲がり南東方向へ5分程の場所に鎮座する。合格祈願にご利益があり、受験生には知られた神社。交差点を南北に続く道は県道30号線から一本東に入るとそこは天満緑道。緑道には写真のように水道施設のパーツが飾られ、歩きながら水道事業の歴史を知ることができます。緑道を南に進みます。緑道に入ってすぐに、左の道路の先に「天満公園」が見えてきます。この公園の南側が上野天満宮になります。緑道から車道に出ると、左側に見えている建物は上野天満宮の社務所。この道を南に交差点まで歩きます。交差点を左に曲がると社頭に至ります。角に建つ立派な建物は近年造られた「清明殿」。清明殿の斜景。「上野天満宮」社頭前景。名古屋三大天神(山田天満宮、桜天神社、上野天満宮)の一つに数えられ、三社を巡る事を「名古屋三大天神参り」という。通りから眺める境内は左右に社号標、ニノ鳥居まで構え、蕃塀の先に赤い拝殿も見通せます。初詣や受験シーズンには賑わう境内ですがシーズンオフは静寂に包まれています。社頭から右方向の境内。正面が参拝駐車場入口で右側の玉垣沿いと駐車場奥に梅が植えられ、この時期に訪れると見ごろを迎えた梅の花と甘い香りが出迎えてくれます。社頭左の略記。『御祭神 菅原道真公、合殿 木花咲耶姫命、伊弉冉命由緒 建立年月日不明なれども寛政16年以前以前に鎮座、昭和37年浅間社(現別宮)を合祀例祭 10月24日例祭前日祭・境内末社祭、25日例大祭、別宮神事祭祈年祭 2月25日、夏祭 7月25日、夏祭 7月25日、新嘗祭 11月25日、月次祭 毎月25日』‣・・・・読み辛い一ノ鳥居から参道の眺め。左の社号標は「四級社 上野天満宮」とある。四級ですか?、参拝する者に社格は意味があるのか、いつも思う。正面の紅梅が彩りを添え、いかにも天満宮を象徴している。一ノ鳥居をくぐった左の手水舎。手水鉢にはトレードマークの梅の紋が彫られています。左に見える小さな龍口のある鉢は最近できた水占いの水盤。ハイシーズンには待ちが出る手水も今は閑散としています。龍口から注がれる清水も幾分勢いがないか?水占いの水盤2017年に清明殿が造営された際に新たに登場したもので、五芒星の彫られた水盤に水占いくじを浮かべ、浮き出た文字で運勢を占うもの。金色に輝く眼光鋭い龍がそれを見届けています。五芒星と云えば陰陽学者の安倍晴明(920~1005)へと繋がっていき、菅原道真を祀る上野天満宮とは縁がないように思えます。この上野天満宮は花山天皇に仕え、都を追われた安倍晴明の一族が、ここから西の千種区清明山に移り住んだとされます。京を追われた自らの境遇と道真を照らし、道真を慕いその神霊を手厚く奉るために清明の一族により建てられたのが始まりです。天満宮と云えば撫で牛です。その理由は諸説あり、道真の遺言で「自分の遺骸は人に曳かせずに牛車に載せ、その牛の行くところに葬るように」とあり、その牛は安楽寺四堂の傍らで動かなくなり、そこを墓所として埋葬しました。現在の太宰府天満宮です。もう一つの説では道真没後、神格化され天満自在天神と呼称した事から名前に由来し、大自在天が八本の腕と三つの眼を持つ白い牛に乗っていたと云われ、そのため天神様に牛を設置する説など、牛は道真につきものなのです。撫で牛を過ぎると、一対の狛犬が守護する拝殿も間近です。滑らかな曲線を描く向拝の唐破風は優雅で重厚な印象を受けます。拝殿に掲げられた扁額は過去の名古屋市長(杉戸清)による揮毫。創建は不明ですが、平安時代中期とされています。祭神は菅原道真、合殿 木花咲耶姫命、伊弉冉命道真は平安中期の実在の人物で、政治家でもあり学者でもあった彼は、勤勉家として知られ、梅を愛でたと云われます。天満宮が学問の神として崇敬され、境内で見かける梅の紋はそうした事からきています。当初の天満宮は矢田川の氾濫により被害を受け、江戸時代に現在地に遷座したとされます。現在の伽藍からその歴史を感じる建造物は見受けられません。空襲被害について調べましたが、記述や写真を見つける事は出来ませんでした。由緒に「昭和37年浅間社(現別宮)を合祀」とあるので、その時期に再建されたものでないかと思います。境内東から社殿全景。右手に小さな梅林があり、赤い社殿に彩りを添えています。飾り金具にも当然ながら梅の紋が施されています。本殿後方の天満公園からの社殿の眺め。本殿の全容を窺うことは出来ませんが、拝殿と幣殿、流れ造りの本殿が一体になっている様にも見えます。明るく、風の通りがいい杜から5本の鰹木と外研ぎの千木は良く見通せます。社務所から清明殿方向の眺め。社務所が開く前の時間帯のため参拝者もなく、静かな境内に玉砂利を踏みしめる音だけが境内に響きます。2017年に造営された清明殿を守護する狛犬。境内で見かける色とりどりの無数の小さな人形は、底の部分におみくじが入れられた「天神みくじ」で愛称は道真君で知られています。本来は持ち帰って飾るものですが、「良くぞそこに置いた」と感心するような場所にも置かれています。神前結婚式としても利用される清明殿。新しく建てられただけに外観はガラスを多用した近代的な外観。旧鍋谷上野村一帯に鎮座した社を合殿一宇として祀ったもので、永弘院の西隣に鎮座してはずの八坂社はこちらに遷座していました。五芒星と云えば千種区清明山にある清明神社が最初に浮かびますが、清明はこちらでも祀られています。上は清明殿から拝殿の眺め。蕃塀の先に梅の下で伏せる撫で牛、高みから見下ろす狛犬、拝殿が一望でき、ハイシーズンには望めない眺めかもしれません。初詣などはこの参道に人波ができ、出店も出るほど賑わいます。受験を控え、万事を尽くした後の結果を待つ不安な気持ちを静めるために訪れるのもいいでしょうね。2020/2/27名古屋三大天神 『上野天満宮』創建 / 不明 (平安時代中期)祭神 / 菅原道真公、合殿 木花咲耶姫命、伊弉冉命清明殿合祀社 / 清明社、八坂社、白山社、秋葉社、御嶽社、琴比羅社、猿田彦社、稲荷社住所 / 名古屋市千種区赤坂町4-89公共交通機関アクセス / 市営 基幹バス2系統「谷口」下車、南東へ400メートル
2020.03.06
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名古屋市東区代官町町名の由来は江戸時代にこの地は代官が屋敷があり、家来なども居住したことから「代官」となったと云われます。東西の町を竪(たて)代官町、南北の町を横町といったことから萱屋町の東の竪の道を横代官町と呼ばれていた。やがて昭和に入り住居表示変更により東区の相生町、葵町、小川町、萱屋町、竪代官町、舎人町、平田町、横代官町の各一部を編入し代官町となったようです。今回の目的地代官町の「屋根神さま」は代官町の竪代官公園の東に祀られています。この公園自体は1983年に整備された比較的新しい公園で、街中にあって小休止するにはありがたい。実は先に書いた「松山神社」へ向かう途中に偶然出会った社です。公園の東に代官町会館がありますが、屋根神さまは会館の入口左に祀られています。恰も会館を訪れる地元の方を見守るかの様に鎮座しています。会館の右には大きな石標があるようです。高く台座が組まれその上に銅葺き屋根で山形造りの社が南を向いて祀られています。区画整理が行われ、軒から地上に降ろされた社、一時期は向かいの公園に鎮座していたとも云われ、その後この場所で安住の地を得たようです。会館南角から見た社と石標の全景。こうしてみると会館を訪れた方は真っ先にご挨拶したくなる場所です。いい場所に祀られたものです。社正面全景。シックで小さい社ですが細部には彫が施され、シックな飾り金具も施されています。扉が開いていないので祭神の詳細は分かりませんが熱田神宮、秋葉社、津島社ではないかと思います。丸織跡街園の石標。街園とは「区画整理に伴い生まれた空間を一般交通の用に供しないで広場的、公園的機能を有し、地域にゆとりあるスペースを提供する施設または車両の安全円滑な通行及び歩行者の横断の安全を確保するために、交差点、車道の分岐点に設けられる島状の施設」と書かれています。頭の丸織跡とは明治の終わりから昭和の中頃まで市内には大きな紡績工場が複数あり、ここ代官町にも丸織会社の織布工場があり、多くの女工さんがいた、それに伴い周辺の商店なども賑わったようですが、昭和に入り工場は移転し広大な空き地が生まれ、そこから区画整理を経て現在の姿になったようです。それにより生まれた事を伝えたものなのかも知れません。碑の裏にも刻まれていますが、写真に収める事も出来ず詳細までわかりません。いつ頃、どこから地上に降ろされ、その始まりがいつなのか全く分かりませんが、現在の代官町を災いから守ってきた身近な神様なのは間違いない。2020/06/19代官町の屋根神さま創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市東区代官町25-18公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車、北へ10分程筒井消防団から徒歩10分関連記事 / 松山神社、車道町2「秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社」
2020.07.09
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岡山県岡山市北区一宮 「備前国一ノ宮 吉備津彦神社」吉備の中山の北東の麓に鎮座する広い境内を持つ神社です。この山は岡山平野の北東にあり、古くから和歌に歌われ、清少納言の枕草子にも書かれるなど、この地方ではよく知られる山です。そして桃太郎伝説のモデルとも云われる大吉備津彦命を祀ります。境内には桃太郎のお供、猿(楽々森彦命)、キジ(留玉臣命)、犬(犬飼武命)、桃太郎の中で鬼を演じた温羅を祀る温羅神社など桃太郎の出演者が勢ぞろい。「吉備津彦神社」の社頭から眺める中山は、標高は170㍍程の里山ですが、この山の西麓には備中一宮の「吉備津神社」が鎮座し、同じ山の麓に二つの國の一之宮が鎮座します。このことからも互いの國にとって神聖な山だったのが分かります、中山の由来は両社の中心ということからきているようです。県道61号線と吉備の中山道が交わる場所に社頭があります。石鳥居の両脇で赤黒い大きな狛犬がお出迎え、石畳の参道は随神門へ真っすぐに伸びています。「社頭の狛犬」吽形これは石ではなく焼き物、尾張の陶器製の狛犬は瀬戸や美濃焼の狛犬が多いけれど、ここは地元備前焼きの狛犬。岡山市から北東の伊部を中心に造られる備前焼は釉薬は使わず、土の風合いと温もりを感じる素朴な焼き物です。写真で大きさが伝わらないでしょうが140㌢はある立派な狛犬です。「社頭の狛犬」阿形いずれも骨太で筋肉質の逞しい姿をしています。吉備津彦神社案内図この案内図には書かれていないけれど、この山は社殿を設ける以前の古い祭祀形式の磐座や、古墳が点在し、太古から崇拝対象の山として周辺も栄えていたのでしょう。社頭の鳥居の左右に神池があり、中央に参道が設けられ、その先に伽藍が広がります。別名を「朝日の宮」とも云われ、夏至の日の朝陽が正面鳥居から祭文殿の鏡に当たる様に巧みに計算された伽藍となっているそうです。左右の神池、松並木の続く石畳の参道の先に髄神門が間近に見えてきます。参道左の神池の中ほどに浮かぶ小島は「亀島」。亀島の注連縄鳥居の先に鎮座する社が「亀島神社」。髄神門の中央からの方位から亀島神社は水の神とされるそうです。御祭神 / 市寸島比売命参道を挟み右側に対峙するように浮かぶ小島が「鶴島」。そこに鎮座する鶴島神社は海上安全の神様。亀島同様にその方位から風の神とされているそうです。御祭神 / 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后参道中ほどから社頭の眺め。夏至の日の朝陽はこの鳥居から祭文殿に光の道を作る、神々しい光景が見られる。目の前をJR吉備線(桃太郎線)の赤い電車が通り過ぎて行きます。神池に架かる「太鼓橋」鶴島と亀島の間を縦断する参道に架かる石橋。車輌参道として埋没していたものを、平成16年の参道整備の際に復元されたもの。創建は定かではないようです。「随神門」。1697年(元禄10)に備前岡山藩主の池田綱政が造営したものとされ、シックな外観の門。綱政は後楽園の造園を命じた事でも知られています。随神門に掲げられた額も外観同様にシンプルなもの。「随神」。左/豊磐窓命、右/櫛磐窓命の二柱が髄神としてお祀りされています。随神門をくぐると一際存在感のある大燈籠。高さ11.5m.、笠石は8畳と云われ、大きでは日本一と云われる燈籠です。文政13年(1830年)から安政4年(1857年)の27年にも渡り寄付がよせられ、1859年(安政6)に天下泰平を祈願し建立されたそうです。建立にあたり27年の長きにわたる寄付を募り、6段づくりの石段には数えきれない奉納者の名が刻まれています。正面に聳える大きな木は、樹齢千年以上と云われる御神木の杉です。「この大杉に龍の宿る」という伝承のある、吉備津彦神社を象徴する巨木。「手水舎、手水鉢」1697年(元禄10)に池田綱政が社殿を造営した際、石工の河内屋治兵衛が奉納した手水鉢です。河内屋治兵衛は、和泉の國(現在の大阪南西部)に生まれ、江戸期の岡山で活躍した石工。石段の先にある拝殿の上に、中山に落ちようとする夕陽が眩しい。「社殿全景」現存の本殿は1668年(寛文8)に池田光政が造営に着手、その後の1697年(元禄10)綱政の時に完成した。流麗な流作りの本殿は当時の社殿建築の技術の粋がつくされたもの。この流造は吉備国の神社建築の伝統とする正統な姿のものらしい。この姿は古代の熱田神宮の伽藍にならったものと云われ、拝殿、祭文殿、渡殿、本殿が一直線に配置されたもの。「拝殿前の狛犬」こちらも石ではなく焼き物、社頭の狛犬に比べスリムで各部のシルエットはよりはっきりと作られています。年代が違うこともあるのでしょう、色は随分変色し、日焼けが冷めたような印象。拝殿に掲げられた「一品一宮」の額と拝殿内から祭文殿の眺め。御祭神 / 大吉備津彦命 相殿 / 吉備津彦命、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、彦刺肩別命、天足彦國押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦大神、大山咋大神入母屋造り平入向拝付きの拝殿の南側からの眺め。派手さはないけれどシックな佇まいは、一ノ宮としての風格が漂います。訪れたのが3/23、この頃の境内の桜はちらほら、蕾が大きく膨らみ一気にスイッチは入りそうな感じです。拝殿から渡廊で「祭文殿」に繋がっていきます。祭文殿の先の「渡殿」ここから、本殿にかけてり神域は拝殿域より一段高くなるからか、渡廊はありません。「本殿」唯一檜皮葺で外研ぎの千木が施された流造の本殿、周囲を透塀が取り囲んでいます。背後の吉備の中山に巨大な天津磐座磐境を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。大吉備津彦命は吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てたのが始まりと言われ、その後佛教も入り、神宮寺や法華堂など伽藍は伽藍は51社を具えたと云われます。写真上本殿左の神域石の社は岩山神社の社。御祭神 / 建日方別命、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀り中山主神とも呼ばれるそうです。右の社は尺御崎神社で本殿両脇に二社が祀られています。御祭神 / 夜目麻呂命 夜目山主命吉備津彦命の従者がお祀りされていて楽御崎の2社と共に本殿を守るように配祀されています。 あたかも桃太郎さんと共に鬼退治をした猿、雉、犬たちが、今でもお仕えしているかのようです写真下楽御崎神社御祭神 / 楽々与里彦命本殿の両脇に祀られています、吉備津彦命の吉備の国平定の際に活躍した従者が祀られています。背後の吉備の中山には巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)があり、山全体が神の山として崇敬されてきました。吉備津彦命は吉備中山の麓の屋敷跡に永住し社殿を建てたのが始まりと言われ、その後佛教も入り、神宮寺や法華堂など伽藍は51社を具えたと云われます。拝殿脇のこの建物と社務所の間から境内を一旦出て、中山に続く参道に向かいます。境内から左に出ると、社殿と並行するように赤い鳥居が連なり、参道の先は「稲荷神社」に至ります。上稲荷神社に向かう参道から、流造の本殿の側面の眺望がきき、流麗な屋根の曲線が見て取れます下稲荷鳥居が途切れるあたりから左に、複数の社が現れます。それらの後方は山の傾斜を生かした段々畑で、その中に大きな石碑も建っています。上「温羅神社」御祭神 / 温羅の和魂 童話桃太郎で吉備津彦命と戦った温羅は鬼とされていますが、吉備の国に様々な文化をもたらし「吉備の冠者」の名を吉備津彦命に献上したとされ、温羅の和やかな和魂を祀ります。下「十柱神社」吉備海部直祖、山田日芸丸、 和田叔奈麿、針間字自可直、夜目山主、栗坂富玉臣、忍海直祖、片岡健命、 八枝麿、夜目丸の十柱が祀られている。上「牛馬神社」保食神を祀る。左後方の一段高い場所に「忠魂の碑」がありますが、この土台となる石も磐座ではないかとされています。 下「祖霊社」吉備津彦神社歴代社家の霊が祭られている。上赤い稲荷鳥居が途切れると石鳥居が現れ、参道は石段に変わり稲荷神社の社に続く。下「ト方神社」鳥居を過ぎた左手の斜面に鎮座する小さな社。御祭神 / 輝武命 火星照命「稲荷神社」石段を上り詰めた先の小さな境内に社があります。御祭神 / 倉稲魂命 五穀豊穣、商売繁盛、諸業繁栄、生産の神、この地方では最も早くから祀られたと云われます。本殿左はここまでにして、次に本殿右の摂末社に向かいます。本殿右からの眺め。流造りの特徴である、緩やかな曲線を描きながら、長く延びる向拝。良く三間流造とか耳にしますが、正面から見て柱が4本あれば柱の間が三つなので三間社と呼びます。柱が2本だと柱の間は一つしかないので一間社、身近で良く目にするのがこれが多いようです。上これも流造、柱は2本なので一間流造。本殿域右側の手前にある社は「楽御崎神社」御祭神 / 楽々森彦命赤い社の子安神社が右の高台に見えています。下本殿域右奥の社「尺御崎神社」御祭神 / 夜目山主命「楽御崎神社」と「尺御崎神社」は桃太郎のお供の猿、犬、雉の様に本殿左右に祀られています。ここから右に参道が続き子安神社へ続きます。参道を右に進むと正面に天満宮に至ります。「天満宮」御祭神 / 菅原道真公学問の神さまとして知られる菅原道真ですが、901年(延喜元年)に太宰府に向かう道中の道真が吉備津彦神社に立ち寄ったとされ、古くから天満神社が祀られていたという。元々の社殿は老朽化により、1909年(明治42)以降は他の末社に合祀されていたそうです。2005年(平成17)に新たな社殿が再建され現在の姿となっています。天満宮の左に石鳥居があり、そこから上に続く石段の先が先程の「子安神社」、右手には複数の社が祀られているのが分かります。手持ちの小銭も心細くなってきました。上鳥居から朱が印象的な摂社の「子安神社拝殿」を見上げる。祭神は伊邪那岐命、 伊邪那美命、 木花佐久夜姫命、 玉依姫命を祀ります。下横からの見た社殿全景古来より縁結び、子授け、安産、育児の神様として崇められ、神社周辺に生えるワラビを採り、夫婦で食べると子宝に恵まれるという伝承があるようです。子安神社の右に七社が整然と並び祀られています。一つ一つ参拝していきます。上段左から 下宮 / 倭比賣命、伊勢宮 / 天照大神下段左から 幸神社 / 猿田彦命、鯉喰神社 / 楽々森彦命荒魂 上段左から矢喰神社 / 吉備津彦命御矢、坂樹神社 / 句句廼馳神 下段 祓神社 / 祓戸神神聖な中山の杜の麓に佇む社の姿はここだけでも厳粛な空気が伝わってきます。天満宮、子安神社の社頭の前は参拝者駐車場となっていて、車の場合はここが便利で、左に進めば吉備津彦神社の大燈籠に続きます、社頭の狛犬に遭うには一旦戻る事になります。広い参拝者駐車場の外れには中山森造氏の手による桃太郎と家来のセメント像が東を向いて立っています。視線の先は神池に浮かぶ鶴池とその先に赤い電車が通り過ぎる長閑な光景があります。吉備津彦神社は歴史と風格のある一ノ宮に相応しい神社でした。訪れた当日はCOVID-19感染防止対策として、手渡しによる御朱印帳の記載を取りやめ、書置きに変更されていました。備前国一ノ宮「吉備津彦神社」創建 / 不明祭神 / 大吉備津彦命本殿 / 流造境内社 / 子安神社、天満宮、霧島神社、亀島神社、稲荷神社、十柱神社、牛馬神社、温羅神社、祖霊社、七つの末社など住所 / 岡山県岡山市北区一宮1043
2020.04.23
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香川県高松市一宮町讃岐平野のほぼ中央部に位置するのが讃岐國一ノ宮『田村神社』。ここから西に香東川が流れ、川がもたらす土壌と伏流水により、神社周辺は広く田畑が広がっています。水事情が悪く溜池ばかりじゃないの? そんな印象があるけれど、一帯は伏流水を灌漑や生活用水に賄う程自然の恩恵を受けている。県道12号線(三木国分寺線)と県道172号線(川東高松線)が交わる交差点から172号線を南に少し入った右側に大きな駐車場。駐車場からの眺め上左の建物が五楽殿、その右が千木が施された建物は相撲場、正面が社務所。下大きな石鳥居が二つ、素木の鳥居が見えます。鳥居が多い。社殿は右側に南を向いて横に鎮座するようです。表参道は写真の左の様なので、かみさんと別行動をとり一人表参道から向かうことにします。駐車場から5分程南に戻った一ノ鳥居からの眺め。住宅の間に石鳥居、石畳の参道がまっ直ぐ続く。ここから振り返った光景が下の写真。左にも参道が続き、遥か先に更に鳥居が見える、ここは一ノ鳥居ではないようです。あれが一ノ鳥居だとすると長い参道だ、あそこから眺めて見たいがさすがに怒られそうだ、ここから境内に向かおう。ニノ鳥居の前の大きな狛犬。耳が隠れるほどのロン毛で角が付いています。ムチムチの体形です。鳥居の扁額「國幣中社 田村神社」参道途中の注連縄鳥居と狛犬。垂れ耳でとんがった角付き、程よい肉付きでいい体格をしています。随神門も間近になり、その先の三ノ鳥居が漸く視界に入ってきます。ここの担当はこの面々です。こちらも角が取れた角がある。それぞれ個性のある面々が守護しているようです。随神門をくぐると境内が見えてきます。左に手水舎、手水鉢り龍は四つ足で立ちこちらを見据えています。三ノ鳥居と拝殿も近づいてきました、右手が相撲場の様です。その手前に右に続く参道、その先に鳥居と社が佇んている。ここを担当する狛犬は、小ぶりですが目つきは鋭く、とんがり尻尾で角も付いています。彼らの先に置かれた力石。6個の重量が違う力石があり、階級があるようです。これがクリアできないと肩身の狭い思いをするとあるが、一番右でも・・・・・無理。鳥居の額には「歳徳神(としとくじん)」。年神様とも呼ばれ、その年の福徳を司る神で、暦により恵方が変わり、その年の恵方に参り、事を行えば万事大吉とされる。駐車場から見えていた相撲場。この後方に小さな鳥居があり「子育て布袋尊」が安置されている。三ノ鳥居と田村神社拝殿は間近。幣拝殿正面全景。入母屋檜皮葺で現在の建物は1878年(明治10)に再建されたという。奥殿・本殿は1710年(宝永7)の造営で、奥殿と本殿は繋がっており、祭神は倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命の五柱を祀る。奥殿の御神座の床下が深渕(定水位と呼ばれる)になっていて、厚板で覆われ真夏でも冷気が漂うという。ここには龍が棲み、厚板を開け覗いた者は絶命すると云われ、日照りがあれば領主は必ず祈願に訪れたとされる水の神「定水大明神」。幣拝殿斜め全景。後方に本殿が見られる。幣拝殿の右に宇都伎社、蕎婆俱羅社、天満宮、宮島社と末社が並ぶ。幣拝殿の右が「宇都伎社」右に進めば容易に拝殿から参拝を済ませられますが、鳥居から拝殿に向かいます。「宇都伎社」鳥居から拝殿の眺め。参道中央に巨大な龍のモニュメントがいる。で、でかい。迫力満点の龍、しかも宝珠のみならず、小判まで持っている、こんなのが淵にいるのか?手や口が動き、目が光れば最強ではないか、とごぞでそんな龍を見たような。鎮座1300年記念で建てられた巨大龍は「金龍」と呼ばれ、小判に願いを書き奉納することで金運アップにご利益があるそうな。「宇都伎社」幣拝殿全景。末社とは思えぬ立派な入母屋、銅葺屋根で千鳥破風が付き、1987年(昭和62)に再建されたもの。左に一つ、右に一つ、よく見るとその奥にも小さな赤い鳥居が見える。祭神は大地主神、倉稲魂神で家内安全、生活守護の神として崇敬されているようです。上拝殿左の鳥居は「姫の宮」小さなお社だが、縁結びの神様として崇敬されている。右側の金色の布袋さんが見えますが、これは「金箔布袋尊」。金箔を貼り祈願することで、笑顔の絶えない家庭、夫婦仲良く、円満な人間関係にご利益がある。下「七福神」鳥居の先には「微笑み童七福神」が祀られています。讃岐七福神というものがあるそうで、それらを祀る寺社が恵比寿/東香川市・白鳥神社、弁財天/国分寺町・国分寺、毘沙門天/高松市・香西寺、大黒天/高松市・法然寺、寿老人/東香川市・与田寺、福禄寿/綾川町・ 滝宮天満宮とあり、田村神社は布袋様を祀る神社。鳥居右奥に小さな赤い淡路社の鳥居があります、参拝は鳥居の下を這ってくぐり抜け参拝するのが作法だそうです。鳥居の左に金色の「金箔大黒天」、金箔布袋尊と同じシステムの様です。境内の至る所に龍や七福神、干支のモニュメントが溢れ、手持ちの賽銭は枯渇。やっと合流したかみさんも「最初はお参りしていたけど途中からスルーした」、同じだ。なんとなくテーマパークに来たような気分になる。神宮献穀斎田鳥居から先は七福神が建ち並ぶエリアと神池に繋がります。「田村の神は水の大神 御神体は龍神なり」の云われ通り、豊かな水が湧き出しています。神池に浮かぶ「宮島社」、広島の厳島神社から勧請したもの。御祭神 / 市杵嶋姫命上宮島社の左に祀られる「弁財天」、水をかけてお参りすることで美しさを得られると云われるそうだ。右の社は宮島社の本殿。下弁天橋から素婆倶羅社方向の眺め。 「素婆倶羅社」幣拝殿は入母屋銅葺屋根で2002年(平成14)の再建。本殿は春日造り。御祭神 / 少彦名神女性の守護神として参拝が多く、安産、病気平癒、身体健康などにご利益があるそうです。「伊勢神宮遥拝殿」、この遥か先が伊勢方向ということです。後方の赤い社は稲荷社。「一宮天満宮」御祭神 / 菅原道真公学門の神であり、雷が転じ雨をもたらす稲作の神として崇敬されている。金の球を咥えた撫で牛、特別な願いを叶えてくれそうだ。境内の東端が「一宮稲荷大明神」の鳥居。鳥居をくぐった神池の畔に祀られています。その先に稲荷鳥居が続いています、北側にも稲荷に続く参道があるようです。鳥居の右に石の祠が三つ祀られています、境内にある祠の中では一番古そうです。右の祠の中に納められた丸い石は何だ?卵?…🐍一番惹かれる存在ですが詳細は分かりませんでした。上北に繋がる参道の中央にあるモニュエントがある、讃岐獅子の解説板です。内容は讃岐の獅子頭について解説されています、この地方の獅子頭は、張子で作られたもので、全国で作られる獅子頭に比べ軽量に仕上がり、それにより激しい獅子の動きが可能になっているそうです。下解説板の表は獅子頭。獅子頭から左に細い参道があり、そこから奥殿と本殿方向に繋がります。左上 手前から一宮天満宮、素婆倶羅社・・・・・右 一宮天満宮を除き本殿は春日造り。その参道の右予科練海軍飛行兵の冥福と平和を祈って建立された海軍少年飛行隊の碑やこの地から戦地に出兵し犠牲になられた方々の忠魂の碑などがこのエリアに祀られている。再び北参道に戻り参道入口へ。表参道に比べ鳥居も社号標は古めかしいけれど、掲げられた扁額は新しい。北参道の狛犬は獅子頭に似た顔つき、前屈みで尻尾を立てた勇猛な面々だ。上桃太郎のモニュメント田村神社祭神の倭迹迹日百襲姫命は桃太郎のモデルとなった吉備津彦の姉にあたる事からこの像が建てられたようです。下北参道の左に再び赤い鳥居が連なります。この参道にも八咫烏などのモニュメントが安置されています。上赤い鳥居の先は鐘楼門があり、大きな狸が現れた、ここまで来れば今更驚くことはない。下梵鐘には天地の罪穢れを祓うための文言「大祓詞」が彫られているそうで、夜間以外は鐘をついてもいいようです。上鐘楼門の先に樹齢を重ねた楠の巨木が聳えています、幹の太さ、枝ぶりは周囲の木々とは別格です。その根元に「お迎え布袋尊」田村神社の象徴でしょう。北参道から参拝に訪れると金色で大きな布袋様がお出迎えしてくれます。下北参道の大鳥居。北参道の大鳥居と大楠、周囲の建物からその大きさをイメージしてください。中央の鳥居は鐘楼門の鳥居、笠木に二匹の龍の頭が描かれ、尾は柱に巻き付いています。讃岐國一ノ宮 田村神社、水神信仰を根源とした歴史と伝説が伝わる威厳のある神社です。讃岐国一ノ宮 「田村神社」創建 / 709年(和銅2)祭神 / 倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命の五柱末社宇都伎社祭神 / 大地主神、倉稲魂神素婆倶羅社祭神 / 少彦名神一宮天満宮祭神 / 菅原道真住所 / 香川県高松市一宮町字宮東286
2020.05.02
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COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。JR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園。チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。勝之が寄進した南禅寺、熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。「石大鳥居」西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前の御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。鳥居の先に見えるのは「水舎門」。「水舎門」四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。「水舎門」軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。唐門と社殿は恰も一体になって見える。この時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。参道右の「神楽殿」入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。右の手水舎。この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬。胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。上振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。下唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。見て行くだけでも面白い。重要文化財。 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張の徳川御三家より寄進されたものです。 手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。「唐門」唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。 この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。単に黄金色に輝く色合いだけではありません。創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。唐門の左の御神木。樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。まだまだ衰える事無く聳えています。御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。 「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。とはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。何かを持っているのかもしれない。上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。 天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。 訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正と藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。社殿域の透塀。下段にもびっしりと彫が施されています。参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。 社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。家康の遺言に「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。葵の紋もキンピカですね。社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。 マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。上野東照宮創建 / 1627年(寛永4)御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜境内社 / 栄誉権現社住所 / 東京都台東区上野公園9-88公共交通機関アクセス / JR山手線「上野」下車西に徒歩10分程 関連記事 / 東京に行ってきた 大樹寺 久能山東照宮 瀧山東照宮 名古屋東照宮
2020.06.03
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熱田神宮の広い境内、『大幸田神社』の後方から東西に塀が続いています。『信長塀』と呼ばれこの塀は、その名の通り信長が寄進したもの。当時は全長400㍍の長さがあったそうですが、現存するのは120㍍ほど。1560年(永禄3)、桶狭間出陣の際、手勢の少ない圧倒的に不利な戦へ出陣するにあたり、信長は熱田神宮で戦勝を祈願したといいます。ご存知の様に天候を味方とした信長の奇襲により、今川義元は討ち取られます。どう考えても不利な戦いに勝利できたのは熱田の神が味方をしたのかもしれません。内心では信長自身死を覚悟の出陣だったと思いますが、その戦に勝てたお礼として熱田神宮に奉納したのがこの塀と伝わります。「日本三大土塀」というものがあるようで、兵庫県の西宮神社大練塀、京都の三十三間堂太閤塀と名古屋の信長塀を指すようです。土と石灰を油で練り固め、瓦をサンドイッチし厚く積み重ねて作られた築地塀(ついじべい)、塀の上には瓦屋根が付きます。今時のブロックとセメントの塀はその気になれば容易に破る事が出来ますが、この塀はそう簡単には倒せまい。それ故にこの塀は大切なものを守る防御の目的が感じられます。この塀が守るのは、信長を勝利に導いてくれた熱田大神そのものだろう。先人の知恵で作られた信長塀は震災、戦禍に遭いながらも今も姿を留めています。重厚で趣のある塀ですが、この解説がなければただの「へぇー」かもしれない。熱田神宮境内 『信長塀』建立 / 1560年(永禄3)住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1-1公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程関連記事 / 熱田神宮末社 『大幸田神社』
2020.11.30
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名古屋市北区元志賀町「綿神社」市営地下鉄名城線「黒川」駅で下車し、国道41号線沿いに10分程北上した西側に鎮座する神社。東隣に曹洞宗「霊源寺」が隣接しています。右は社頭から眺める境内、社号標が右に建ち、参道を少し入り一ノ鳥居がある。間口は広いものではない。社頭左には名古屋市教育委員会の解説板がある。・延喜式に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式ある神社。・譽田別命、玉依比売命、神功皇后を祀る。・社名の由来は祭神の玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来する。・戦国時代の武将平手政秀がこの地に屋敷を構え、荒廃した社殿を再興した。・鏡と手彫りの狛犬を奉納し主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を祈願した。平手政秀は織田信秀、信長と二代にわたり重臣として支えたが、信長の奇行を憂い自らの死をもって諫めたとされる。政秀の屋敷はここから西の志賀公園内に碑が残っている。麒麟に登場した平手政秀は上杉祥三さんが演じていた。社頭左に綿神社由緒。・主祭神 玉依比売命、応神天皇(譽田別命)・創建は弥生前期に九州からこの地に定住した「安曇部族」により九州「志賀」の祖神、海神「玉依比売命」を祀り「海神社」と称した。・延喜式にも「尾張山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同列の社と記されている。・本国帳にも従三位綿天神、綿は海の仮字で昔はこの辺りまで入海だった。・志賀村領主平手政秀は信長の奇行に心痛ませ天文21年(1552)綿神社を再建、「願主政秀」と刻んだ鏡と手彫りの狛犬を奉納、その祈願も空しく翌年に諫死した。・政秀の死後信長は態度を一変、天下平定の基を開いたのは政秀の忠誠によるもので、政秀なくば郷土三英傑の出現は疑問。・綿神社は尾張藩主の崇敬も厚く「別社児子宮」もあり、祭礼の際に子供を連れ参拝する様は尾張名所図絵」にも描かれている。・慶長以降再建は数度あり、現社殿は太平洋戦火で焼失、昭和45年に完工されたもの。古くから伝わる神社であり、当時この辺りまで海が迫っていた気付きもあるけれど、今は平手政秀の印象の方が強い神社かもしれない。一ノ鳥居。コンクリートの壁で区切られた参道は遥か先のニノ鳥居まで続いています。二ノ鳥居。境内はここから左右に広がり、左から手水舎、社務所、拝殿、境内社が祀られています。社頭からは想像できない程境内は広い。1950年(昭和45)に再建された拝殿。入母屋瓦葺で妻入りのコンクリート造り、築後間もない事もあり古びた印象はない。社務所前の手水舎。拝殿前の狛犬、阿形の表情はどことなくユーモラスなもの。大きな向拝を持つ拝殿の左に参道が続いています。拝殿右に瑞玉稲荷大明神と四十八祖神が祀られる。拝殿に掲げられた扁額も社殿同様新しいものです。拝殿内から本殿方向、内部も綺麗なもの、まずは参拝。このご時世なのか鈴や鈴緒などは吊るされていなかった。本殿もコンクリート造りのようです。本殿域にも社があるようですが詳細は分かりませんでした。千木は外削ぎだ。拝殿左から奥に続く参道の先には大きな御神木が聳え、そこには2社が祀られています。鳥居のある右の社は「龍神社」とあるが社には「白龍社」と記されている。今でこそ高速の高架が聳え、住宅が広がる地域だけど、少し前の一面田畑が広がる頃を思うと、龍神さまはつきもの。左は「御嶽神社」。いかにも御嶽神社の姿です。石で小高く組まれた頂に社が祀られ、麓にかけ霊神碑と不動明王に仕える三十六童子や八大童子の像が安置されています。拝殿右の二社が瑞玉稲荷大明神(左)と四十八祖神(右)が祀られる。右側の「四十八祖社」綿神社を再建した平手政秀の息子久秀は、信長の怒りにふれ放免を願った政秀の願いは聞き入られず政秀は自刀。政秀を追うように47人の家臣も自刃、それを伝えようと馬を走らせていた家臣は、その道すがら信長の使者と遭い放免の知らせを聞き悔しがったという。その家臣も47名の後を追うように自刀したと云う。この神社は亡くなった48名の霊を鎮めるために四十八祖社として祀られたとされます。信長の怒りの発端は一説に信長が久秀に「久秀の馬を献上しろ」、「できない」という事が発端だったとされます、馬は刀同様に武士にとってなくてはならないもの、頑なに拒んだことは頷けなくもない。これを機に創建されたという事であれば創建は1553年頃という事だろう。さあ今の世の中、ここまで上司に意志を貫き、忠誠を誓う者たちがいるだろうか?本殿域には二社が祀られ、右が四十八祖社、左が富士本宮浅間大社と秋葉山本宮秋葉神社の合祀社。瑞玉稲荷大明神。こちらについては伏見稲荷から勧請されたもの思いますが、年代等の詳細は分かりませんでした。拝殿の軒先に元気よさげな飾り瓦、これは犬ではなく獅子だろうか?獅子、犬、狼、どちらにしても今一つ自信をもって識別できないところがもどかしい。拝殿から社頭の眺め。訪れたのは2020/12/17、こちらの紅葉スポットは意外に少ないようです。「綿神社」創建 / 不明祭神 / 玉依比売命、応神天皇境内社 / 四十八祖社、瑞玉稲荷大明神、龍神社、御嶽神社住所 / 名古屋市北区元志賀町2-53 公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「黒川」駅から北に徒歩10分程
2021.01.02
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臨済宗東福寺派「法岑寺」前回掲載した「光春稲荷社・光春稲荷古墳」からの続きとなります。その際に過去の地図からこの場に寺院や鳥居の印が現れるのは昭和43年になってからのことでした。しばらく春日井の文化財、尾張史など調べて見ましたがよく分からなかった。なので伽藍の紹介となります。「法岑寺」、山号は「覚皇山」山門右の寺標は昭和52年寄進されたもののようです。南側から見る境内は左に鐘楼、山門、光春稲荷社(光春古墳)立派な四脚の山門、その先に本堂。上山門左側の境内鐘楼、組まれた石も新しいようだ。下境内左、鐘楼脇の覆屋に石仏が安置されている。鐘楼全景本堂、庫裡、右の白い建物は弘法堂だろうか。本堂全景、入母屋瓦葺のどっしりとした綺麗な外観、山号額も新しいようだ。臨済宗東福寺派の寺で開基、本尊は不明。境内東側の全景。右から弘法堂?、光春稲荷社(光春古墳)、山門。光春稲荷社の鳥居右に観音堂がある。観音堂、内部は四国巡礼の観音石仏などが安置されています。堂内左に仲睦まじく寄り添う姿の道祖神に目が止まる。広々とした境内は玉砂利が敷き詰められ、良く手入れされ訪れていても気持ちがいい。光春稲荷社(光春古墳)の杜や境内では、今が盛りとばかりに蝉の鳴き声が溢れている。山門左の掲示板の言葉そのままだ。近頃、羽が透明なセミばかり目にする。茶色のこれは子供の頃「あぶらぜみ」と呼んでいた、もう一種類小さな「にいにいぜみ」が身近な存在だったがほとんど見かけなくなった気がする。近年の異常な暑さは生態系も変えつつあるようだ。この暑さ、負けてなるものか 覚皇山 法岑寺宗派 / 臨済宗東福寺派開基・本尊 / 不明所在地 / 春日井市松新町3-113公共交通機関アクセス / JR中央線「勝川」下車東へ徒歩10分程関連記事 / 光春稲荷社・光春稲荷古墳
2021.08.06
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「安名稲荷大明神」過去に掲載した「姥ケ原の八幡社」から北東方向の廻間公園を経由、公園の大狭間池の東端から右に進み東海市立名和中学校方向へ向かいます。写真は狭間公園の大狭間池南端から対岸の斎山稲荷神社方向を眺める。ここから斎山稲荷神社へは徒歩で10分もあれば辿り着ける。訪れた時期には池の畔に咲くコスモスが目を楽しませてくれた。使いまわしの地図で恐縮ですが、上は大正時代(左)とほぼ現在の周辺を比較したもの。大正時代では北方向から西にかけて新田が広がり集落が点在し、現在の狭間公園周辺は道らしい道は見当たらない。現在は新田は工業地帯、丘陵地は切り開き、宅地化された自然が程よく残る高台の住宅地になっている。大狭間池の東端から右へ、道は地味な上りとなって名和中学校方向へ続いています。「安名稲荷大明神」は名和中学校に続く道路沿いの小高い山に鎮座します。写真の左方向は今も造成が行われているのか、山肌が露わになっています。つい最近まで緑豊かな丘陵地だったようだ。道路沿いに社頭があり、社標と赤い鳥居が目印となります、とは言ったものの。生い茂った木々が鳥居を包み込んでしまい、正面まで来ないと存在に気が付かないかもしれない。やや不自然な位置に建つ社標「安名稲荷大明神」、裏には健之「昭和26年」とあり、「南里企業組合」と彫られていた。社頭から見る神社の印象はあまり訪れる方はいないようで、この山の主だろうか参道入口には一匹の猫がくつろいでいた。人慣れしているのかと思いきや、参道に向け歩き出すと、猫はどんどん石段を上り姿を消した。参道入口には5つの鳥居があったようです、奥の二本は既に朽ち果て土台を残すのみ。伸び放題の杜に包まれた参道は薄暗く、別世界に迷い込んでしまった感がぬぐい切れない。先程の猫はとうに姿はなく、幻覚でも見ていたような気にさせる。木立の隙間からさす陽射しが妙に嬉しく感じるほど澱んだ空間。参道は山の稜線に付けられているようで、左は切り立った崖、右は緩やかに下っています。参道を登りつめると二つの鳥居が現れます。正面が本殿で右の窪地には石標と朽ちた社が祀られています。右の鳥居。左の倒木が行く手を阻むように参道を塞ぎ、今にも落下しそうな予感がする。とてもつい最近倒れた様には思えない、今にも落ちてきそうでこれより先に進む度胸がなかった。見るからに訪れる方は少ないようで、荒れてる感が漂う。倒木の手前から境内の全景。一つの社と三つの石標があり、左には手水鉢もあるようだ。社に小さな鳥居も立てかけられているが、これ以上寄り切れず詳細は分からなかった。ここは諦めて上に向かう事にする。本殿の全景、左に小さな小屋があり、鳥居から先は屋根が付けられている。本殿は屋根が途切れた先の覆屋の中に祀られ、そこに至る石段が設けられています。本殿には二つの鳥居が奉納されているが、どちらも昭和57年に寄進されたもので柴田町にお住まいの方の名が記されていた。本殿前の狛狐はごく普通のもので、狐らしいフォルムをしている。先ほどの猫はひょっとして・・・少し調べて見ると、東海市の民話によると、その昔この中首羅一帯は、京都伏見稲荷大社の使いの血を引いた狐の一族が住んでいたそうです。やがて中首羅一帯に人による開発の手が入ると、一族は周辺を荒らしまわり抵抗を試みたいう。困った地元の人達はここに安名稲荷大明神を建てたところ、それ以降は狐一族の抵抗はやんだという。この民話とは別に、ここに稲荷を創建したのは、一帯に広がる新田の開発に携わった方々が五穀豊穣を願い創建したとも聞くが、どこから勧請した等の詳細は定かにならない。参道左側の切り立った崖、フェンスは付いているものの崩壊は進んでいるようです。静寂に包まれた薄暗い境内を後に外光が降り注ぐ社頭に向かう。朽ちた鳥居は痛々しい。狐につままれたような不思議な空間を持った安名稲荷大明神だった。このまま朽ち果てていくのだろうか、それと共にここに稲荷を祀った思いも風化していくのかもしれない。安名稲荷大明神創建・祭神 / 不明所在地 / 東海市名和町中首羅1-13公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「名和」駅下車➡蓮池「秋葉神社」➡姥ケ原「八幡社」➡安名稲荷大明神 徒歩30分程関連記事 / 伏見稲荷大社 一番畑「秋葉神社 姥ケ原「八幡社」 齋山稲荷社
2021.10.21
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鳥取市上町の市内中心地。県庁や鳥取県警が置かれる地域で、樗谿公園の東端に「鳥取東照宮」は鎮座する。樗谿公園内の鳥取市歴史博物館第二駐車場に車を入れ、鳥取東照宮へは右手方向に歩いて行きます。この樗谿公園は鳥取城跡の東にあたり、鳥取藩主池田光仲が造営した因幡東照宮(樗谿神社)の社叢の一画にあり、鳥取東照宮の表参道に隣接して整備された公園。園内は芝生が植えられ、綺麗に整備された園内にはもみじや梅などの樹々が植えられ、表参道に添いに流れる樗谿川は保護活動によりホタルも舞うそうだ。訪れた時は園内のもみじが色づき始めていました。駐車場から鳥居までは徒歩で2~3分、木造の両部鳥居の前へ。参道はこの先で二手に別れ右に進むと太閤ヶ原に続く自然歩道、東照宮へは左に進みます。額には東照宮と記されている。明治時代から2011年までの一時期は樗谿神社とも呼ばれていたようです。別れ道の案内板、ここでは樗谿神社に向かいます。深い森に包まれた静かな自然歩道はウオーキングする方も多いけれど、黄色の看板には要注意。左に進み樗谿川を渡った正面に鳥取東照宮権現茶屋、東照宮の御朱印はこちらで頂けます。東照宮へは右手の神門をくぐり石畳の参道を更に進みます。門の前にはポニーが散歩していまし、東照宮に向かう参道左に公園があり、そこで飼育されているポニーのようです。城門の様な瓦葺の重厚な佇まいの神門から石畳は東照宮随神門まで続きます。右手の樗谿川にはこうした錦鯉が悠然と泳ぐ池があり、夏の夜には蛍の舞う姿が見られる。参道を進むと正面に手水舎と左に随神門。上随神門の手前に掲げられていた解説、随分と長いが内容は以下。「重要文化財樗谿神社本殿・唐門・拝殿及び幣殿指定年月日 昭和二七年七月一九日樗谿神社は、慶安三年(一六五〇年)鳥取藩主池田光仲によって、日光東照宮の分霊を勧請して造営され、因幡の東照宮とも呼ばれる。池田氏は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕え、特に池田輝政(光仲の祖父)は、徳川家康の信任がことのほか厚く、関ヶ原の合戦での行賞により姫路城守として播磨国(現在の兵庫県南部)五十二万石を所領とした。輝政は将軍家康のために西国大名を押さえ「西国将軍」とも呼ばれた人物で、家康の娘・督姫を継室に迎えている。池田光仲は、輝政と督姫の孫で、徳川家康にとって曾孫に当たる。このように徳川将軍家と深いつながりを持つ初代鳥取藩主池田光仲が藩主として行った大事業の一つが、曽祖父家康の霊を祀る日光東照宮の分社樗谿神社の造営であった。この造営には、日光東照宮を手がけた幕府お抱えの棟梁・木原木工允藤原義久らがあたり、完成後は神領五〇〇石を寄進され、藩内最高の社格として位置づけられた。神社本殿は入母屋造、檜皮葺きで周囲に玉石垣を巡らし、本殿前には唐門の中門を配している。拝殿と幣殿は凸型につながる入母屋造、柿葺きである。用材は総ケヤキ造りで、一部に彩色は見られるものの白木のままで、随所に桃山風の飾金具が見られる。権現造ではないものの桃山期の手法をよく残す江戸時代初め頃の代表的な神社建築である。また、社宝には狩野探幽の『三十六歌仙額』、『太刀』四振(いずれも県指定保護文化財)などがある。平成十五年五月 鳥取県教育委員会」下は随神門左の「日本遺産 因幡の麒麟獅子舞」の解説と右に「国重要文化財鳥取東照宮」の解説東照宮創建時の祭礼より姿を現したで麒麟の顔を持つ獅子舞で幸せを呼ぶ存在として、因幡地方で受け継がれてきているものだそうだ。随神門前景。意外なほどシックな門で光り輝くのは東照宮と書かれた額くらいなものです。その先に社殿が広がっています。随神門の額。随神門から先の参道には20基の石灯籠が奉納されています。これらは鳥取藩主池田光仲の家老や重臣14名により奉納されたものと云う。地方には徳川家への忠誠の証としてこうした東照宮が建てられ、鳥取藩の東照宮がここになります。入口の解説にあったように、日光東照宮を手がけた棟梁・木原木工允藤原義久があたり、拝殿と幣殿は凸型につながる入母屋造、柿葺きの総ケヤキ造りで素木造りと云っても良いかもしれません。鳥取東照宮は因幡東照宮(いなばとうしょうぐう)と呼ばれ、1874年(明治7)から2011年(平成23)までは樗谿神社(おうちだにじんじゃ)と称されていた。2011年(平成23)、本来の名称が「因幡東照宮」だった事から現在の鳥取東照宮へ改称されたもの。では参拝させてもらおう。拝殿正面の神社幕、扉、蟇股などいたる所に葵の紋が施され、さり気無く金色の飾り金具が飾られています。絢爛豪華な日光東照宮と比較すると全く派手さはなく、本来家康が望んでいた姿なのかもしれない。社殿全景。入母屋平入の拝殿と幣殿は一体で唐門と玉垣で囲われた本殿域に流造の本殿が鎮座します。拝殿側面の眺め。本殿域全景。周囲の玉垣は朱に塗られていたのか、至る所にその痕跡が残っています。重要文化財の唐門前の石灯籠は光仲の子、池田新五郎が奉納したものとされる。上唐門から正面全景。下本殿どちらも当然葵の紋が入っていて、本殿桁に左甚五郎の手による鷹の彫飾りがあるそうだ。彩色されていないと案内にありますが、劣化の影響でそう見えるだけかもしれませんが、唐門や向拝柱の表面には朱の様な赤みが見られる。拝殿正面の眺め。緑青の深い緑色の飾り金具、以前は金箔貼られ輝いていたのか?素木に緑青の緑は個人的にあっていると思いますが、そろそろ補修の手が必要な時期に近づいているのかも知れない。拝殿右から社殿側面の眺め。境内右に「探幽の井戸」解説の内容は以下「樗谿神社には歌は京都青蓮院二十九世門主尊純親王、絵は狩野探幽の手になる三十六歌仙の額と鷹の絵の額がある。慶安三年(一六五〇)四月創建された東照宮(樗谿神社の称は明治七年に定められた)の拝殿を飾るため鳥取藩主池田光仲が青蓮院門跡に所望して求めたものである。三十六歌仙の額は同年五月八日にできている(華頂要略、門主傅) 狩野探幽(一六〇二~一六七四)ははやくから徳川家康に厚遇され、家康の没後元和三年(一六一七)より幕府に仕え奥絵師となった。江戸時代の狩野派はこの探幽によって基礎が固まったのである。狩野探幽がこの地にきた資料はないが三十六歌仙の額と鷹の絵の額があることから、この井戸を「探幽の井戸」として今に伝えられたものであろう。」この井戸が創建当時からあったものなのか定かではないけれど、要するに探幽の名を付けた井戸という事だろう。探幽の井戸を覗かして頂き、再び拝殿から石段を下り東照宮を後にする。樗谿公園内ではクマ出没やクマ目撃情報の案内を見かけました、念のためクマ除け鈴があるとお守りくらいにはなるかもしれません。(…と云うか常につけるべきものになってきたのか?)2021/10/24「鳥取東照宮」創建 / 1650年(慶安3)主祭神 / 東照大権現配神 / 池田忠継、忠雄、光仲、慶徳所在地 / 鳥取県鳥取市上町87関連記事 / 二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day1
2021.12.02
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縁あって豊山町の八所神社と津島社を訪れました。この辺りは寺社も多く、町角には観音堂や地蔵堂が祀られ古い石仏など新たな発見が多い。今回はこの時見かけた新田町 観音堂と名桑町 菩薩堂を掲載する事にします。上は以前掲載した豊山町豊場中之町の津島社の社頭から長寿寺方向の眺め。この通りを長寿寺の赤い塀沿いに奥に進みます。長寿寺東側の交差点を左に曲がります。上段写真左の小さな瓦葺の堂が建っています、ここが新田観音堂。長寿寺敷地の通りに面した一画が新田観音堂として区画を与えられています。堂前には生花も供えられ、身近な存在として町内の方々でお世話されている。堂内には二体の石像が安置されていました。左に金剛輪と斧を持ち、口をへの字に、目を吊り上げた険しい表情の馬頭さん。不毛な殺生をやめられない世の中に対し怒りを隠せないようでもある。右の観音像は私利私欲を捨て去り全てを受け入れる寛容で穏やかな表情をしている。新田観音堂所在地 / 西春日井郡豊山町豊場新田町138関連記事 / 『豊場中之町 津島社』、豊場中之町 『医王山 長寿寺』名桑町 菩薩堂豊山町豊場木戸『八社神社』の社頭。名桑町菩薩堂は鳥居に続く南側の通り沿いに建っています。上段写真左鳥居から南に伸びる通り、写真中央の三叉路の角に小さな堂が見えます。右はそこから振り返り八社神社方向の通りを見ています。下段写真左三叉路の角地が与えられ堂が建てられています。瓦葺の平入の堂で新田観音堂より一回り大きなもの。堂の右に「名桑町菩薩堂」の札が掲げられています、一帯の堂にはこうした札が掲げられています。堂内に4体の石仏が安置されています。右に地蔵さん、険しい表情の馬頭さん、風化が進み表情の読み取れない石仏、左に頭を少し傾げたように見える石仏が安置されている、如意輪観音だろうか。欲の皮を纏った狐の蛮行を止め、裁きを下す秘策を練っているのか、はたまた赤い前掛けの裏で初期化ボタンを押そうとしているのか誰も見通せない。表情は「お前ら何やってる?」とでも言いたげだ。名桑町 菩薩堂所在地 / 西春日井郡豊山町豊場大門46 関連記事 / 豊山町豊場木戸 『八社神社』 新田観音堂~名桑町菩薩堂徒歩ルート / エアポートウォーク名古屋から20分程
2022.03.13
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鎌倉で迎えた二日目。参拝客で賑わっていた鶴岡八幡宮を朝一番で参拝、境内を巡る。ホテルメトロポリタン鎌倉。ニノ鳥居の脇にあり、ここを拠点に観光するならいいロケーション。ホテルから朝な夕なの眺望が望める訳でもないので、朝食プラン付きで東向きの安価な部屋をチョイスしたが、ビジネスホテルと捉えると価格設定は高い部類かも知れない。しかし建物や客室は新しく綺麗でサービスも良く不満はない。残念だったのが朝食、以下は個人の感想。朝食は一階のcafe&meal無地での朝食となる。メインとなるのは和食が建長汁に鯵の干物とご飯が付く、洋食はスクランブルにベーコン、パンが皿に盛られたものの二択、サラダバーやじゃこ、デザートはバイキング形式。かみさんは建長汁の和食、おやじは珍しく洋を選択した、洋は可もなく不可もなく。口コミは信用しないが、総じて鯵の干物とジャコは好評だった。かみさんの前に提供された干物。見た目は食欲をそそるものだったが食べてみると脂が抜けてパサパサで全く美味しくはなかった。作り置きされた焼き魚を焼きなおした時の味わいで、海が近い鎌倉ながらガッカリした。バイキングのジャコはどこまでもジャコ、サラダバーの野菜がフレッシュで美味しく、パンの種類は少なかった。朝食は和食より洋食をお勧めします、しかし朝食の価格を思うと素泊まりで普通に外食の方がいいかもしれない。ホテルメトロポリタン鎌倉所在地 / 神奈川県鎌倉市小町1-8-17:50 段葛。食事を終えてニノ鳥居から鶴岡八南宮に向かいます。この時間だと人並みが絶えない参道も人はまばら、参道の遥か先の三ノ鳥居も見通す事ができる。鶴岡八幡宮を訪れるなら朝がお勧めかもしれない。若宮大路と呼ばれるこの参道。由比ヶ浜の海岸から八幡宮へ一直線に延びる約2kmの参道。鎌倉の街づくりの一歩として、かみさんの北条政子の安産を祈願して、源頼朝自ら御家人達を指揮し土石を運び入れ築造したとされています。狭い道の多い鎌倉にあって、唯一広い道幅を持つ若宮大路を中心に鎌倉の街、武家の都として形作られていく事になります。ニノ鳥居からは道路の中央に一段高く盛られた幅約10㍍程の参道は、途中に車道が横切ることなく三ノ鳥居の前まで約500㍍続く。頼朝が政子を思いやる優しさは、今の子供たちに安全な通学路として今も留めている。上三ノ鳥居から本宮。鎌倉幕府を築いた源頼朝の祖先源頼義は、京都石清水八幡宮を篤く信仰したとされ、源氏の氏神として康平6年(1063)に八幡神を勧請し鎌倉の由比ヶ浜辺に祀ったのが始まり。後に頼朝により現在の地に鶴岡八幡宮の基礎を造ったもの。下太鼓橋から本宮。鶴岡八幡宮の開門・閉門時間は季節で違うようで、10月〜3月は6時〜21時、4月〜9月が5時〜21時のようです。上参道から望む舞殿(下拝殿)と本宮(上宮)、右手が若宮(下宮)。治承4年(1180)、頼朝が歴史上初の武家政権である鎌倉幕府を鎌倉に構え、源氏の氏神である八幡宮を遷し、鎌倉幕府はじめ東国の守護神として崇敬されてきた。本宮の祭神は応神天皇、神功皇后、比売神の三柱を祀る。若宮の祭神は本宮の御祭神応神天皇の御子、仁徳天皇、履中天皇、仲媛命、磐之媛命の四柱を祀る。下手前の舞殿は静御前が義経を慕う思いを込めて舞った若宮廻廊跡に建っており、下拝殿とも呼ばれるそうだ。ここから手前の参道では屋台の設営準備をする光景が見られ、鶴岡八幡宮の一日が始まろうとしていた。上大石段正面参道の大きな石段で、鶴岡八幡宮にあって唯一の石段。承久元年(1219)、雪が降りしきるこの場で三代将軍実朝は公暁により討ち取られた場所。石段左に聳えていた樹齢1000年とも云われた隠れ大銀杏、公暁はここに身を隠したとされます。天然記念物にも指定されていた大銀杏も2010年に倒伏してしまい、現在は注連縄で囲われその根から芽生えた子銀杏が樹齢を重ねています。石段の先には鮮やかな朱塗りの楼門が聳える。下楼門に掲げられた扁額はお馴染みのもの。上楼門右から廻廊、本宮。下丸山稲荷社。祭神は倉稲魂神を祀り、鶴岡八幡宮の中で一番古い室町期の社殿とされ、石段を登りつめた境内に赤い一間社流れ造りの社殿が建っている。商売繁昌を祈願し多くの奉納鳥居が連なり、中には有名人の名も見られた。11月の火焚祭では鎌倉神楽が奉納されるという。大石段から由比ヶ浜に続く若宮王路の眺め。昨日は人であふれていた境内もこの時間はこんな感じ。白旗神社。若宮(下宮)の右手に鎮座し、源頼朝、実朝が祀られており、黒漆塗りで金箔が貼られた社殿が印象的です。御利益は必勝、学業成就で今も篤く崇敬されているようです。上祖霊社鶴岡八幡宮の氏子崇敬者の祖霊と護国の英霊を祀り昭和24年に建立されたもの。下八幡神は仏が姿を変えたものとする仏教的思想を取り入れ、頼朝によって始められたのが放生会(ほうじょうえ)で、殺生禁断に基づき、捕らえた生き物を放ち慈悲をほどこす法会、その中心となる鶴岡八幡宮では放生会が執り行われた旧暦8月15日の9月14日から16日までの3日間例大祭が絶えることなく伝えられている。そうした背景もあるのか祖霊社周辺の杜では野生のリスが多く生息していた。相模国一宮 鶴岡八幡宮創建 / 康平6年(1063)本宮祭神 / 応神天皇、神功皇后、比売神。若宮祭神 / 仁徳天皇、履中天皇、仲媛命、磐之媛命。所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-319:30さて参拝を終えホテルに戻って一休み、荷物を纏めてチェックアウト。次の目的地高座郡寒川町宮山鎮座の寒川神社へ移動する。10:30 湘南電鉄鎌倉駅に向かう。そこから次の目的地寒川神社へは江ノ島電鉄とJR在来線を乗り継ぎ約1時間をかけ寒川駅まで。経路11:45寒川駅到着、寒川神宮の最寄り駅は宮山駅ですが、一駅前で降りて線路沿いを10分程歩いたところにあるRAMENブリキの木こりで昼ご飯。店舗はカウンター5席程とテーブル席一つと小さな店構えですが、こちらで頂いた塩にんにくラーメン(上)が絶品だった。最近食べたラーメンの中では自分好みでベスト1かもしれない。澄んだスープは程よい塩とにんにく風味、そして背油が細めんによく絡みとても美味しかった。かみさんが頼んだ生姜醤油ラーメン、風も強く寒いこんな日には体が温まるもの。久しぶりに美味しいと感じたラーメン、普段はごちそうさまぐらいしか言わないが、この時は「美味しいラーメンありがとう」と声かけをさせてもらった。心して喰らえ的な押し付けがましい店ではなく、雰囲気のいい店だった。ブリキの木こり所在地 / 神奈川県高座郡寒川町一之宮3-2-11お腹も満たされ、身体も温まったところで寒川神社に向け歩き出す。12:30上RAMENブリキの木こりから5分程歩くと、踏切の先に一ノ鳥居と社標が現れる。近いじゃないかと喜んだが松並木に挟まれた参道の遥か先を眺めても社頭らしき姿がない。下参道を10分程進むとニノ大鳥居が現れる、そこから小さく社頭の姿が見て取れる。実に長い参道で、この鳥居を過ぎたあたりから社頭方向に向かう車が渋滞を始めた。その大半は寒川神社に向かう参拝客の車、駐車場待ちで流れが滞っているようだ。当日は平日、特に祭礼日でもないが凄い列だ、流石に相模之国一之宮だけの事はある。上ニノ鳥居から5分程で漸く神橋の先に三ノ鳥居が現れる。社頭前は寒川神社前交差点、駐車場に入る車で滞った道路は全く流れない、歩いて正解だタクシーなんか乗ったらメーターが加算されるだけだ。下神池、噴水の先の像は相模薪能石橋の銘があったがそれ以上の事は分からない。上境内の由緒。内容は以下。「祭神 寒川比古命、寒川比女命の二柱の神を奉称して、寒川大明神という。例祭日 9月20日(9月19日例祭宵宮祭・流鏑馬神事) 当神社は日本総国風土記によれば、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録が残る。神亀4年(727)社殿建立と伝わり、1600年以上の歴史を有す。以後、延暦16年(797)桓武天皇を始め、歴代奉幣の記録が残る。承和13年(846)に神階従五位下を始めとする神階授与がなされています。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国十三社の内、名神大社と定められ関東地方の信仰の中心をなす。中世、源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営、社領の寄進等あり、武田信玄からは武運長久を祈願し兜が奉納されるなど崇敬が篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領の寄進など古来より武家からの崇敬の念は篤いものがあった。明治四年国費から幣帛料が奉納される国幣中社に列せられた。その後、大正時代の関東大震災、昭和の大東亜戦争終戦後、昭和21年神道指令により、神社の国家管理を廃され神社本庁の包括神社となる。戦後日本全体の復興とともに八方除信仰を中心として全国の崇敬者から崇敬、参拝されている。平成9年本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われる。神聖なる神嶽山を背に約1万5千坪を有し、平成21年に本殿奥庭の禁足地を「神嶽山神苑」とて開苑。」下寒川神社楼門。この神社では毎年楼門に「迎春干支ねぶた」を掲げ、参拝者を迎えるのが慣例だされます。今年は国家安泰、五穀豊穣の神「瓊瓊杵尊」(左)と、安産の神「木花咲耶姫」(右)、中央に木花咲耶姫の子「火遠理命」のねぶたが架けられ、夜には明りが入り毎年このねぶたを楽しみに訪れる参拝客も多いと云う。日没から22時まで毎日灯され2月23日まで飾られるようです。上神門から拝殿の眺め。下大きな千鳥破風と唐破風向拝を持つ大きな拝殿。社殿は全て新しく、神門は1993年(平成5)、拝殿は1997年(平成9)に手が入れられたようです。祭神は寒川比古命、寒川比女命の二柱を祀り、寒川大明神と呼ばれる。寒川大明神は相模國を中心に関東地方を開拓された神で、衣食住など生活の根源を開発指導され、関東地方の文化の生みの親神様として崇敬されてきた。寒川神社は江戸の裏鬼門にあたる南西(坤)の地に鎮座しており、社殿も南西(坤)を向き建てられています。古来より関八州の守護神、江戸の裏鬼門を護る神社として崇敬され、八方除・方位除の神様としても信仰されてきたと云う。寒川神社は、相模國一之宮と称され、全国唯一の八方除の守護神として約1600年の歴史を持つ神社です。古くは朝廷をはじめ、源頼朝、武田信玄、徳川家代々、さらには民間と幅広く崇敬された。現在は八方除の神徳を戴くため全国各地から崇敬者が集まります。参道の長い車列はこちらで八方除けのお祓いを祈願する参拝者のもので、境内右側の社務所ではとんでもない列が出来ていた。上拝殿とその奥に見えているのが本殿の大棟だろう、本殿や幣殿は神嶽山の社叢が包み込み全体を見通せなかった。下拝殿のねぶた。一説には200人同時に祈祷する広さがあるという。それくらいでなければ祈祷を待つ長蛇の列はさばききれないだろう。これで普段の平日なんだという。14:00参拝を済ませ、御朱印も頂いた、かみさんによればこの時期だけかもしれないが通常御朱印はなく写真の特別御朱印のみなんだとか。最後に社地をぐるっとひと回りして本殿、神嶽山が見れないか見て廻る。社地は社叢で囲まれているけれど、神嶽山後方の生垣が一部切り取られ禁足地の様子が見てとれるようになっていた。相模國一之宮寒川神社。創建 / 不明(雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録)祭神 / 寒川比古命、寒川比女命(寒川大明神)所在地 / 高座郡寒川町宮山 3916一回りして少し早いが宮山神社北側の「鎮守の杜Koyo」でお茶を頂いて一休み。写真は八福もちセット、歩き疲れた体に甘みと暖かいお茶が嬉しい。鎮守の杜Koyo所在地 / 神奈川県高座郡寒川町宮山3861鎌倉、混んでいるとはいえこれでもまだ海外からの旅行客は戻っていない。まだいいタイミングで訪れたのかもしれない。一息入れた後は一駅先の倉見駅まで30分程歩いて家路に着く。倉見駅から小田原駅電車移動 / 約一時間小田原から名古屋駅 / 約一時間参拝日 / 2023/01/18関連記事 / 神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮)
2023.02.09
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