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大山祇神社・白龍稲荷神社。鳥羽を見下ろす鳥羽城跡、その西山麗に鎮座するのが大山祇神社・白龍稲荷神社。城山公園から西に下ってくと境内に出ることもできます。訪れたのは昨年の12月15日、折しもこの時期の境内は落葉したイチョウの葉が境内を黄一色に染め美しい光景を見せていた。社頭は鳥羽城址の西山麗にあり、冒頭書いたように城山公園からも境内に辿り着ける。写真は社頭の石の神明鳥居、ここから緩やかな石段が境内に続きます。境内全景。境内は右から大漁稲荷大明神、不明社、左の覆殿が大山祇神社の伽藍。写真は境内右の城山公園に続く石段、左は神輿庫のようで、こちらの祭礼で使用する獅子が保管されているようです。手水舎は境内右にあり、小さな龍もいる。ニノ鳥居から社殿全景。石段前で神社を守護する狛犬は個性的なフォルムのものです。全体的に丸いフォルムで尾や鬣の造形はボリュームのあるもの。寄進年度は見忘れましたが、表面は随分風化が見られ貫禄すら感じさせる佇まいの狛犬です。覆殿。比較的最近建替えられているのでしょう、傷みもなく綺麗な外観です。内部に架けられている額は「大山祇神社」大山祇神社の前身は178年前「社宮司」に遡るようで神社には当時の扁額が残るそうです。三重県神社庁による「大山祇神社」の由緒は以下。「文禄3年(1594)約四百有余年前、九鬼嘉隆が築城の際、石垣が何度も崩れたので、元城山に斎祀されていた大山祇神を現在地に移したら石垣も崩れず鳥羽城(二色城)が出来上がったとの申し伝えがある。古文書、記録等はおよそ慶長年間(1600年頃)の神社の大火の際に消失されたものといわれている。明治6年3月に村社に定められ、同39年12月神饌、幣帛、供進指定社となる。」とあります、また大山祇神社には鎌倉時代から伝わる木彫りの小さな狛犬があるという事なので創建は更に遡る事になります。祭神は大山祇神、草野姫命、猿田彦命の三神をお祀りするようです。更には下のようにも記されていた。「大山祇神社は瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山積神社の末社である。氏子は旧鳥羽町の九町の内、中之郷、錦町、横町、藤の郷の四町の氏神様であり、例祭はこの四町が輪番で、各町4年に一度、当番町として奉仕している。四町の内、中之郷、横町、藤之郷が「獅子と天狗の舞」を奉納し、錦町は「神輿練りこみ」を神祭とし社前に奉納し、各町内を巡行する。氏子、町内の祭りとしてだけでなく「鳥羽まつり」として多くの人で賑わっている」とも書かれており、鳥羽町内から親しまれる神社の様です。上は鳥羽城絵図で、当時の城はほゞ全周を海が取り囲む海城だったようで、神社は天守のあった頂上付近に鎮座していたとされます、正面に描かれている島は答志島。文禄3年(1594)九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際に天守から左斜め下辺りに神社を遷座したとされ、しかし築城は石垣が何度も崩れるなど難航したと伝わります。町民が「獅子と天狗の舞」を奉納した所、無事に城が完成したと伝わり、以来400年以上を経ても奉納の春祭りは受け継がれているそうです。覆殿から本殿の眺めは高い玉垣に囲われ姿を見る事は出来なかった。覆殿左に伊勢神宮遥拝所。左の石灯籠の寄進年は明治5年(1872)と刻まれています。境内右の大漁稲荷大明神から大山祇神社方向の眺め。令和2年(2020)新たに建替えられた事もあり社殿の飾り金具はピカピカ光り輝いている。大漁稲荷大明神について調べて見ましたが詳細は分かりませんでした。中央の不明社。こちらも社名札がなく詳細は分からなかった。桜の花が咲くのも間もなくか。大山祇神社・大漁稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 大山祇神、草野姫命、猿田彦命例大祭 / 4月11日境内社 / 大漁稲荷大明神、不明社参拝日 / 2022/12/15所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-4-15関連記事 / 幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日、「伊予の國一ノ宮 大山祇神社」
2023.03.11
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名古屋市瑞穂区田辺通り 南北を走る県道30号線はアップダウンの多い通りですが宮本武蔵とゆかりのある新福寺、東山荘、桜の名所で知られる山崎川等見所の多い通りでもあります石川橋の手前に一際きつい坂 その頂には高く積まれた石垣とその上には社が見えてきます歩道から東に入ると岸信介書による社号標と参道が見えてきますがここはスルーで更に東に行きましょう脇道を右に進むと鳥居が見えてきます『正及神社』です鳥居の先は両脇を木々で囲まれ、真っ直ぐに続く長い参道 好きな情景です、前日の雪が残っています鳥居付近に設置された沿革、光の反射で写真にすると読み取りにくいですね参道中ほど、拝殿もはっきり見えてきます木々に包まれ苔生した参道、苔の緑の鮮やかさはとても新鮮です朝陽に照らされ白い拝殿は鮮やかさをましています拝殿左の手水舎、奥は某銀行の迎賓館暮雨巷会館右が社務所、常駐ではないようです拝殿前の狛犬にも朝陽が差し込んできました 以前は本殿と参道は南を向いていたそうで、1932年(昭和7) 区画整理に伴い日光東照宮のある東向きに遷宮されたそうです壁の白を背景に浮き立つ正及(しょうきゅう)神社の扁額拝殿の鏡、加工もしていないのに何故か中央が曇っている おやじの顔は映倫カットなのかな? 真正面から本殿を見る こちらの神社、拝殿後方から本殿正面に回り込め、それを拒んではいないようです 本殿前で改めて参拝です内部は外光が差し込み神々しい雰囲気が漂っています正及神社本殿本殿の左右の境内社(写真は左側の天王社)緩やかな曲線を描く本殿の屋根と拝殿のシックな破風飾り参道脇の苔、冬の時期には嬉しい鮮やかな色合いを楽しませてくれます瑞々しい緑の絨毯の上に舞い落ちた枯葉や実 各々が固有の色合いで存在を主張しています2018/01/29正及神社祭神 / 東照大権現徳川家康名古屋市内で家康を祭神とする神社では名古屋東照宮に次ぎ、300年以上の歴史を持つ由緒ある神社創建 / 1716年(享保元年)6代尾張藩主徳川継友より尾張藩士鍵谷伝衛門に尾張藩内に新宮の勧進を命じられ社殿を創建現在の拝殿は1984年(昭和59)に建てられたもの住所 / 名古屋市瑞穂区田辺通2-2アクセス / 地下鉄名城線「総合リハビリセンター駅」から徒歩約20分
2018.02.08
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枝下神社から県道11号線を400mほど北上すると、左側の分譲地の中に取り残されたような森が見えてきます。この森の奥に鎮座するのが、今回の目的地青木原神社です。写真は県道11号線から見た青木原神社の全景です。こんもりとした森には神社あり、典型的な姿かもしれません。杜の入り口には、社標と石碑が建てられ、立派な石の明神鳥居を構えています。上は明治時代とほぼ現在の地図で鎮座地は赤枠の部分になります。明治頃は飯田街道沿いの四郷や上郷に集落ができており、鎮座地周辺は丘陵地に樹林が広がる一帯で当時の地図には鳥居の記は見られません。社頭全景。左に「青木原神社」社標、右手の石碑は青木原神社由緒でした。参道は鳥居をくぐると、右に向きを変え拝殿に続いています。参拝者駐車場は見当たらず、駐車余地もなく、車は境内に乗り入れさせて頂きました。青木原神社由緒、内容は以下です。「祭神 豊受大御神昭和16年(1941)支那事変の真只中、そして同年12月、第二次世界大戰へと突人し、日本国民の食程不足により国の施策として、この青木原台地に開拓農民を各地より集め、地区の守り神として、弥栄神社を祀り毎朝崇拝を重ね、開拓精神に燃へ食糧増産へと励みました。その後、昭和40年(1965)9月、地区の一層の発展と生活の向上を願って衣食住の神である豊受大御神を伊勢神宮の外宮より分祀して戴き祀りました。地区の発展と共に逐次境内地も整備され、宗教法人として、昭和48年認可されました。青木町の高台地にある、この青木原神社は地区住民の氏神として、住民を護り幸せを授け賜うことを願う人々の崇敬を受けております。祭儀歳旦祭 1月1日春祭(祈年祭) 2月17日例大祭 4月第2日曜日大祓(夏越の祓) 6月30日秋祭(新嘗祭」10月23日大祓 12月31日除夜祭 12月31日」参考までに愛知県神社庁を確認すると、青木原神社として登録があり、具体的には以下の内容にとどまり参考にもならなかった。「祭神:天照皇大御神・豊受姫神氏子域:青木町例祭日:4月第二日曜日」由緒に昭和16年(1941)「食糧増産のため青木原台地開拓に伴い創建」されたとあるので、明治の地図に印が載らないのも無理はない。上の地図の上段左が大正9年、右が昭和34年。下段左が昭和57年、右が2007年の地図。由緒に記された年代に近い地図を並べ、当地の移り変わりを見ています。右上の昭和57年では山林は開拓農民により開墾された畑が広がっています。大正13年に開業した三河鉄道猿投駅(名鉄三河線猿投駅)を中心に住宅が広がりを見せ、戦後には田畑や山林は急速に宅地に変わって来たのが分かります。鳥居扁額は青木原神社。開墾当時から今日まで、氏子とこの地を見守り続けてきた神社。境内全景。一対の狛犬の先に、南西向きに舞殿、その先に拝殿・本殿を収めた鞘殿が一つになった社殿、右側は社務のようです。白い狛犬と舞殿。創建時期が新しい事もあり、狛犬の白さが際立っています。舞殿から拝殿方向の眺め。これは?舞殿脇に置かれた木彫りの像は、何を現したものだろうか。祭神の豊受姫神に見えなくもない、ここに賽銭を供えさせてもらいました。拝殿内の年間予定表をみてふと感じたことがあります。近隣との係りを避け、町内会や子供会に係わらず生活できていた街から、郊外に転居してくると街以上に多いコミュニティーへの参画依頼は想定していないことかもしれない。そのひとつが神社を維持するための清掃や協力金かもしれない。土地の一員として溶け込んでいくには、こうしたコミュニティーも必要なものだと思いますが、新たな転居者が増えていくと、そうしたものもうまく回らなくなるものです。やがて、維持費もままならず、清掃活動も衰退し、荒廃・消えていく神社もあります。私の住む街は集合住宅が多くなり、世帯数も多いのですが、大人の事情で小さな祠ひとつ維持できず、それにともない、子供ながらに楽しみだった祭や子供神輿も、息子達に経験をさせることなく消えてしまいました。今では生気のない街になりました、開発が進むこの町に、神社を中心としたコミュニティーが存続することを願いたい。本殿全景。入母屋瓦葺の妻入りで、拝殿と鞘堂を兼ねています。格子戸から内部の様子。奥に祀られた本殿の姿は良く分からなかった。愛知県神社庁、社頭の由緒からすると、創建当初は内宮の天照皇大御神を祀った事にはじまり、後に外宮の豊受大御神が祀られたようです。舞殿から境内の眺め。右手に手水舎があり、正面に大きな石碑が立てられていました。開拓碑。碑文をアップで撮ったものの、手振れが酷く読み取れず詳細は分かりませんが、恐らく由緒の前段で書かれていた内容だろうか。街からこの地を訪れると、緑も多く、田畑が広がるいい環境だなぁと感じますが、地の人から見ると青木原台地も変わって来たなと感じているのかもしれない。青木原神社創建 / 昭和16年(1941)祭神 / 天照皇大御神・豊受大御神境内社 / ・・・祭礼 / 4月第二日曜日所在地 / 豊田市青木町1-12参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 枝下神社から県道11号線を400m北上した県道左側。移動時間1~2分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神・波岩(ハイワ)神社・枝下(しだれ)川神社
2024.11.24
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滋賀県高島市マキノ町延長2.4㌔のメタセコイア並木で知られる高原です。この地を訪れた3月21日。暑さすら感じる街とは違い琵琶湖北端の山間に位置するこの辺りでは気温も周囲の景色も随分と差があります。冬枯れたメタセコイア並木も今頃は新緑が鮮やかな時期を迎えているはず。part3となる今回は大處(おおところ)神社となります。 大處神社へはマキノピックランドに車を駐車、県道287号線沿いを南に20分程歩けば社頭に辿り着けます。目的地の目印は高原北側の森西集落。県道沿いに写真の「式内社 大處神社」の社号標、ここから県道を外れ集落に続く車道を進みます。やがて右側に森西薬師堂が見えてくれば大處神社は目の前です。大處神社社頭全景。石の明神鳥居と常夜灯、右に「式内 郷社 大處神社」の社号標がある。社頭前に駐車可能な余地がありますが、公に参拝者駐車場とは書かれていません。集落は幅員の狭い道路が続くので2、3台程度なら迷惑にはならないかと思います。鳥居扁額、おおところ神社。参道から本殿方向の眺め。長い参道の途中に一対の狛犬と少し先の神橋(みやがわばし)を渡ると拝殿、本殿の伽藍がある。伏せ耳で角持ちの狛犬は鬣が纏めて刻まれ、風貌は西洋の音楽家のようでなか〃格好いい。寄進年度は未確認。参道には二つの神橋が架かり手前の橋の先に石の神橋が架けられている。神橋を渡ると右に手水舎と社務所。龍は絶え間なく清水を鉢に満たし、生き生きとした姿で本来の仕事をしている。境内中央は拝殿?、中に三つ巴が描かれた吊り太鼓が架けられているので神楽殿かもしれない。入母屋瓦葺の妻入りで雪深い土地柄もあり四方はガラスの引き戸になっている、そのため拝殿内は陽光が差し込み明るいもの。拝殿奥は赤い鋼板葺の社が二棟と少し離れた右手に稲荷社が祀られている。拝殿後方の二社。流造で大きさはほぼ同じの二棟、右の社殿が本社の大處神社、左が境内社の酒波神社。大處神社の祭神は大地主神(大国主命)、左の酒波神社は素盞嗚尊を祀る。まずは参拝させてもらいます。大處神社創祀年代は670年(天智天皇9)とされる延喜式内社。元は国主大明神と称し大地主命(大国主命)の荒魂が祀られていたという。往古のこの地、高島郡十郷のひとつ大処郷とされ大處神社はその総社にあたる。尚且つこの一帯は嘗て森西城もあり、この立派な社殿はそうした事もあるのだろう。大棟には千木や鰹木はなく巴紋が飾られていた。昔は、祈年祭に猪を奉納する習わしがあったそうで、猪が捕れない時は代わりに調布八反を奉納したという。写真に撮らなかったが神社周辺の民家の庭先に怪しい骨が置かれていたのを思い出す、あれはこの祈年祭に繋がるものなんだろうか。地元のおばあちゃんが云われていた「出雲からお越しになり、45代(48だったか?)続く古いお宮さんで白猪白馬白鶏を供えて神様を祀った」という事がここで結びついて来た気がする。素木の社殿ながら至るところに彫が施され、職人の技が光っている。木鼻はもちろん、蟇股、手挟など手間を惜しまず彫が施されている。残念なのは部材の傷みが痛々しい。左右の脇障子、虎と仙人、右のピンボケは鬼のようにも見えるがなんだ?よく分からない。昭和初めに出版された高島郡史にの当時の大處神社の写真が掲載されていた。拝殿は切妻の四方吹き抜け、後方の本殿の姿も少し今とは違うような。大處神社創建 / 670年(天智天皇9)祭神 / 大地主命(大国主命)酒波神社。ぱっと見は同じ様に見えてしまう。社伝によれば創建は1349年(貞和5)で日置神社の論社という。祭神は素盞嗚尊。酒波神社の大棟も千木や鰹木はないが、五三桐の紋が飾られていた。大處神社の本殿同様至るところに彫が施されている。「先の写真と同じじゃない」と思われるかもしれない。けれど彫飾りをよく見て行くと似てはいるがモチーフの違う別物です。同じなのは部材の傷み具合、こちらも痛々しい。酒波神社本殿の脇障子。右は龍のように見える、左の彫は顔の部分が隠れてさっぱり分からない。酒波神社創建 / 1349年(貞和5)祭神 / 素盞嗚尊大處神社本殿左に極楽寺へ抜ける脇参道があります。その参道脇に赤い鳥居を構えた稲荷社が祀られていた。切妻瓦葺で妻入りの覆殿は妻側に向拝が付く。覆殿内は朱塗り、杮葺き流造で朱塗りの本殿と一対の狛狐。右には「伏見稲荷大社 必勝 守護」の御札が納められていた。境内から社頭の眺め。この左側に地元のおばあちゃんに声掛けされた極楽寺が鎮座する。この時期でありながら廻りには雪が残り、山々が迫る、猪以外にもいろ〃といそうな雰囲気だ。実に自然豊かでいい土地柄だ、並木通りを走り去る車やバイクの爆音はこの光景に似合わない。大處神社創建 / 670年(天智天皇9)主祭神 / 大地主神本殿 / 流造酒波神社創建 / 1349年(貞和5)祭神 / 素盞嗚尊本殿 / 流造境内社 / 稲荷社創建 / 不明祭神 / 不明本殿 / 流造所在地 / 滋賀県高島市マキノ町森西175公共交通機関アクセス / JR湖西線「近江中庄」下車 徒歩40分徒歩ルート(マキノピックランドより) / 25分前後参拝日 / 2022/03/21関連記事 / 滋賀県高島市マキノ町 part1 「森西 薬師堂」・ 滋賀県高島市マキノ町 part2 極楽寺
2022.04.26
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COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。JR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園。チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。勝之が寄進した南禅寺、熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。「石大鳥居」西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前の御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。鳥居の先に見えるのは「水舎門」。「水舎門」四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。「水舎門」軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。唐門と社殿は恰も一体になって見える。この時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。参道右の「神楽殿」入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。右の手水舎。この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬。胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。上振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。下唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。見て行くだけでも面白い。重要文化財。 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張の徳川御三家より寄進されたものです。 手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。「唐門」唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。 この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。単に黄金色に輝く色合いだけではありません。創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。唐門の左の御神木。樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。まだまだ衰える事無く聳えています。御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。 「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。とはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。何かを持っているのかもしれない。上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。 天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。 訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正と藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。社殿域の透塀。下段にもびっしりと彫が施されています。参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。 社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。家康の遺言に「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。葵の紋もキンピカですね。社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。 マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。上野東照宮創建 / 1627年(寛永4)御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜境内社 / 栄誉権現社住所 / 東京都台東区上野公園9-88公共交通機関アクセス / JR山手線「上野」下車西に徒歩10分程 関連記事 / 東京に行ってきた 大樹寺 久能山東照宮 瀧山東照宮 名古屋東照宮
2020.06.03
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1/6新年早々ネスカフェバリスタが再起不能。諦めて同機種をweb上から手配し、漸く手元に配送されて来た。機種も変わらず何の嬉しさもなく。正直、短命な消耗品として見ているこのマシン、僅かに安い一つ下の機種も考えたが給水タンクの容量が小さく使い慣れた同機種とした。到着後開封・セットし初期に行う御呪いを行う。coffeeを入れず給水タンクに水を入れ本体内部の配管をお湯で潤すセレモニーを運転開始!……ん? ウントモスントモ云わない。こんなことは初めてだ。ネスカフェサイトで調べて見れば「初期にこうした症状があり。そうした場合は1時間程その状態で放置し再運転」とあり。しばらく放置し再運転するも改善されず。メーカー保証もあり中の様子を見ることも出来ず、言われたことを繰り返すも変わらず。結局かみさんがメーカーに問い合わせ、交換となる。ここに至る過程でもメーカー窓口のマニュアルに沿った運転をさせられ(既に実施済みにも拘らず)、動作の結果や表示の報告など繰り返し(既に実施済みと何度も云ってます、若干切れ気味)しながら「それでは交換手配に…」と随分と長い時間を費やしてからの結果だった。対応を聞いていて「交換するの?しないの?」と云いたかったが窓口の対応もいい事からじっと見守っていた。要はこのマシン、初期不良も多く、製品寿命もバラツキ幅が大きい代物だという事です。辛うじてメーカー窓口の好対応で持っているようなもの。これが変な日本語対応なら金輪際買わないと感じた。ボタン押すだけでcoffeeハイ!からまた遠のくけれど、普通に作る事に抵抗のない自分には影響はないけれど、泡泡が飲みたい彼女にしてみれば代替の到着は待ち遠しいだろう。…無事に動くかは不透明ですが。※消耗部品販売もなく、意固地に分解を拒む構造で買い替えを促しながら、こうしたトラブルが散見され、その都度回収した製品の行方がとても気になる。どこの大国で製造しているかしらないがQCの意識はないのだろうか?よもや廃棄? だとすれば資源を無駄に使い捨て、専用窓口の維持コストを掛けてでもペイできる製造原価とは?ロス分は専用coffeeで回収できる程上乗せされている?くれぐれもweb販売業者や配送業者の問題でない事だけは書いておこう。一杯のcoffeeを飲むのにえらくエネルギーがいるものだ。代替の到着が楽しみだ。関連記事 / 2023/1/6バリスタ逝く
2023.01.15
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9月13日・14日、長野県の白骨温泉泡の湯と松本周辺を徘徊。GO TOも煮え切らず、徴収されるばかりの税金、少しは還元してもらわねば、という事で都道府県宿泊割引を利用。 独身時代、国道19号線薮原から林道安曇奈川線を走り乗鞍や上高地に良く走ったもので、当時まだ未舗装だったくねくね道の過酷な林道を走っていると硫黄の匂いとと共に突然現れる宿にホッとした思いがある。当時は宿の前に「秘湯を守る会」の提灯が下げられていたものだ。 今回は木曽谷方向まで走り抜けていないが、朝焼けの北アルプスや遠く富士まで望めた過酷な道。ずっと以前から走りたくて、再び泊まりたいと思いながらも縁がなかった。運転に不慣れな人は行けない秘湯だったが、今は高速も整備され、松本からだとあっという間に辿り着ける。 秘湯の趣は薄れ、提灯がなくなっても当然かもしれないし、やっとの思いで訪れる「秘湯」は死語になりつつある。駒ヶ岳SA。名古屋から軽に鞭うって高速をひとっ走り。工事規制の影響もなく順調に辿り着く、ここで朝食を買い求め小休止。…生憎雲の多い天気、宝剣も姿を隠していた、かみさん曰く運転中だから言わなかったが走行中は綺麗に見えていたという。なんとか二日間雨だけは避けたい。伊北ICで高速を下り、国道153号線を北上し道中の安全を祈願するため信濃國二之宮に参拝。鎮座地の小野は塩尻市と辰野町が隣り合い、社叢を共有する二つの二之宮が鎮座する。 古くは1つの神社だったとされ、小野盆地において飯田城主の毛利秀頼と松本城主石川数正の領地争いがあり、1591年(天正19)秀吉の裁定により、盆地を流れる唐沢川を境に北小野村、南小野村に分けられたことに始まる。社地は北小野(塩尻)の地籍であったが、裁定により境内は二分され、社叢南半分の矢彦神社は南小野(辰野)の氏神で社地は辰野の飛地という扱いになり現在に至っている。写真は国道153号線沿いの両社の社頭、国道沿いに社地を囲う玉垣が延びる。社地中央に小さな水路があり、それを境にして両社が隔てられ、境界を示す石標が立てられている。両社を隔てるものはその水路だけで、水路の意味を知らなければ「大きな神社だこと」で終わるかもしれない。国道を挟んだ門前町は初期中山道、伊那街道の宿場町小野宿でその面影を感じさせる光景が残る。小野神社境内には立派な土俵があり、北小野村、南小野村合同で相撲が奉納される。両社には御柱が奉納されているが、地元の方の話によれば「来年がその年に当たるが、コロナ禍や担い手不足でどうなるかねぇ」との話だった。小野神社(信濃國二之宮)創建 / 不明、(寛文12(1672年)焼失、同年再建)祭神 / 建御名方命 境内社 / 八幡宮、稲荷社、子安社、宗像社、天神社長野県塩尻市北小野175−1矢彦神社(信濃國二之宮)創建 / 欽明天皇年間(539~571)祭神 / 正殿 大己貴命、事代主命、副殿 建御名方命、八坂刀売命、南殿 天香語山命、熟穂屋姫命、北殿 神倭磐余彦天皇、誉田別天皇、明治宮 明治天皇所在地 / 長野県上伊那郡辰野町小野3267山賊塩尻市大門にあるご当地グルメ山賊焼きの元祖、鶏の骨付きのむね肉やモモ肉をニンニク醤油ダレに付け込んで揚げたもの。写真はCランチ、小鉢が付いて1320円。A~Cがあり山賊焼きのサイズにより呼称が決まる。(Aが特大、Bは大、Cは中)。ライス最初の一杯が無料、Cですら手ごわい大きさで当分鳥唐いらない。若い衆にはお得な店かも知れない。カラッと揚げられた山賊焼きは美味しかった、5段階評価で☆三つ。夜は居酒屋で昼は曜日限定でランチ営業。所在地 / 長野県塩尻市大門7-10-1そろそろ泡の湯のチェックインは15:00、そろそろ国道158線(野麦街道)を山に向け走り出す。波多神社と旧西光寺山門。 道路は至って順調、ナビ到着時間を考え時間調整で国道から細い道を左に分け入り参拝して来た。右の社叢が波多神社、左の赤い山門が西光寺山門。現在の山門は左右に仁王を安置する仁王門で左右の壁には写真の大きな草鞋が掛けられている。山門の正面には上波田阿弥陀堂。阿弥陀堂左に「若返り地蔵尊」が安置されている。右手に重要文化財「田村堂」がある、内部には杮葺きで妻入りの厨子が祀られ、輪違紋や花狭間など手の込んだ装飾が施されている。波多神社と旧西光寺山門所在地 / 長野県松本市波田上波田4575-2時間調整で寄ってみたが田村堂の手の込んだ厨子は立ち寄って正解だった。 そろそろ梓川沿いを上って行こう、この先軽にはつらい上り坂しかない。龍神の瀧奈川渡ダムを越え、国道158号線から県道300号線に乗り換える、泡の湯はここから10分程。 ここから先の上り坂は一段ときつくなり、つづら折りの舗装された細い道が上に続く。軽にとっては遅い車に追いつきたくない、一旦追いつけば車速を戻すのに厄介な道。 後続車もなく上り始める、やがて前方を走る車が視界に入り、厄介な状態になる。途中何度か時間差を取る為待避所で待機する「なんで止めるの?」と云われても運転しないとこの気持ちは分かるまい。それでもペースは合わない。 細い道ながら路線バスも運行され、対向車もある、幅寄せや待避所に近い者が譲るのは当たり前の路。普通車ならすれ違えるのだが…どちらも睨みあい、付いていけない。 宿の少し手前にある龍神の瀧を見物する事にした。山肌の途中の石灰質の岩盤から滾々と湧き出る伏流水は、苔むした山肌を白い流れとなって流れ下る。 その様が龍のようでもあり、岩盤の穴の奥には龍が潜んでいるのです。伏流水の湧き出る斜面一帯は少しばかり気温も低く感じる。 瀧は道路際なので車の往来に注意しないと危ない場所、車は少し上に待避所があるのでそこから歩きましょう。 ここで涼んで再び走りだす、もうこの辺りでも風向きによっては硫黄臭が漂ってきます、泡の湯は近い。チェックイン開始15分前に泡の湯到着。 県道は時折バスが通りますが、車窓から露天風呂は良く見える、その昔は湯舟から立ち上がり両手を振って挨拶したものだ、かみさん・・・・「それ挨拶とは言わない、今やると捕まるよ!」 湯は今も白さを保っているようだ、源泉は37℃程とかなりぬるめ。 湯船に流れ落ちる三本の源泉は硫黄泉で無色透明、それが流れ落ち空気が混ざる事で白く白濁します。宿周辺の樹々は色づき始め秋の装いを纏い始めていた、風情のある露天風呂です。 この景色を眺めながら温い湯に浸かっていると一日中でも入っていられる。硫黄臭があり、最初は肌にヌルッとするが、すぐに慣れてくる。 効能は筋肉や関節の慢性的な痛み(おやじに最適)やこわばり、五十肩(かみさんに最適)、神経痛、冷え性・胃腸機能低下の改善等など幅広く、源泉は飲用可。成分は硫黄、カルシウム、マグネシウム、炭酸を含む硫黄泉、源泉は硫黄と硫化水素臭が口の中に広がる。 今のご時世しっかりとガードしてくれる湯あみもあり、女性も抵抗なく混浴が出来る。二人で白濁した湯舟に浸かりながらのんびり浸かれる、温泉らしい温泉だ。 朝御飯はこの源泉を使って作られた御粥がいい。美味しいものではないが、普段怪しい物を摂取している体を整えるのには良いかもしれない。当時なかった部屋毎のトイレと洗面が付いた新館もあり、宿も様変わりした。 宿泊した本館は昔の名残を感じさせる懐かしいものだった、勿論エアコンは不要。昔も今もいい湯である事に変わりがない。泡の湯所在地 / 長野県松本市安曇4181美味しい料理といい湯に浸かり、翌日もチェックアウト寸前まで湯を味わう。 二日目は松本方向に戻り、かみさんのリクエストした場所を巡る。大信州酒造昨晩飲んだこの銘柄が気に入って酒蔵までやって来た、この小奇麗な販売所で家の土産を買い求める。所在地 / 長野県松本市島立さて次は美術館。松本市美術館。 草間彌生版画の世界(7/23~9/25)を鑑賞する。作品は美術館外壁や庭園まで展示され、上は入館料もなく見ることが出来る。 凡人にはさっぱり理解できないが、根源に細胞や宇宙の始まりをイメージさせるものがある。所在地 / 長野県松本市中央4-2-22四柱神社。ここは蕎麦とパンを買い求める為に駐車場(有料)を利用させてもらった。祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四柱。そこから社名が来ています。由緒は1872年(明治5)、筑摩県(長野県)松本に設置された神道中教院が起源で、1874年(明治7)に四柱の神を祀ったことから始まる。1879年(明治12)、この地に社殿を造営し、村社の四柱神社として遷座した。1888年(明治21)、松本大火で社殿を焼失。1924年(大正13)、社殿が再建された。1959年(昭和34)、別表神社となる。所在地 / 長野県松本市大手3-3-20こばやし 本店四柱神社社務所の左にある蕎麦屋。 参拝の帰りに手軽に美味しい蕎麦が食べられる、お昼はこちらで頂くことに。腰があって歯ごたえも良く、薬味の山葵、ネギ、おろしと付く、個人的にはおろしが一番合っていた。 写真のざる2枚重、ペロッと二枚たいらげられる。かみさんは「つめたいおそば きのこ」 茸の名称は不明だが、これ乗鞍のキャンプ場でキノコ狩りした時のあれ?(名前が出てこない)冷たくて腰のある蕎麦と滑りのある茸の愛称は絶品。こばやし 本店所在地 / 長野県松本市大手3-3-20さてお腹は満たされ、次はかみさんお目当ての牛乳パンを買い求めに行くのだが。 おやじは神社に居残って写真を撮り、かみさんは徒歩でパン屋へ向かう。小松パン店四柱神社から直ぐ近くにある小さなパン屋。写真の牛乳パンは事前予約販売しかしないという。この日に合わせ予約をしていたらしい、受け取った時はフワフワで衝撃を与えるとすぐに変形していく。昔懐かしいショートニングのバタークリームパン。柔らかなパンに昔懐かしい個性的なクリーム、子供の頃を思い出す懐かしいおいしさ。生クリームで育った人にはくどくて食べられないものかもしれない。近年昔を思い出そうとあのくどいバタークリームのXマスケーキを食べたことがある、時代は変りあの強烈な個性のあるくどいバタークリームは随分まろやかになった。このクリームは子供の頃のクリームに近いかもしれない、指についたクリームは油ギッシュなものがある。予約してまで食べるものかは疑問が残る。所在地 / 長野県松本市大手4-9-13今回の走行ルート / 走行距離 525㌔、軽自動車の燃料タンク満タン10目盛りで二目盛り残して帰り着くことが出来た。 自分の車ならガス欠か? 標高が高くなるとやはり軽には負担がかかる道のりかも知れない。それでも二人で訪れた久し振りの泡の湯は十分満喫する事ができた。唯一、気の早い彼岸花を期待したが道中では見かけなかったのが少し残念。
2022.09.16
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11/24~25。 東寺・東福寺・瑠璃光院・南禅寺の紅葉を見に出かける。日程(瑠璃光院拝観予約)だけは一か八かで決めたものの、日に日に南下する紅葉前線に半ば諦めていた。 JR京都駅から東寺へ向かう途中、伏見稲荷大社御旅所に立ち寄ってみた。紅葉は既に終盤、散紅葉の時期となり境内は一面紅く染まっていた。 今回の最大の目的が瑠璃光院の写経机に写りこむ紅葉を写真に収め、南禅寺の御朱印帳を手に入れる事だった。その瑠璃光院はここより更に標高のある比叡山の西の山麗、散紅葉を覚悟する。 とにかく混むイメージしかない京都。伏見稲荷大社御旅所、東寺は時間が早い事もあり予想を下回っていたが、二日間の滞在中は人気エリアは海外、国内旅行客が平日にもかかわらず想定通りの混みようだった…これでも少ないのだろうが。 賭けともいえる事前予約と混雑を受け入れなければお目にかかる事は出来ない。これだけの観光客、宿泊客もあり、街中は人で溢れながら財政破綻の話が出てくるとは酷い話だ。伏見稲荷大社御旅所 所在地 / 京都府京都市南区西九条池ノ内町98東寺東寺所在地 / 京都府京都市南区九条町1JR京都駅から東寺まで徒歩 / 20分程東福寺。 九條道家が創建した臨済宗東福寺派の大本山。規模は東大寺につぎ、教行は興福寺にならうという意味から、東福寺と名づけられたとされます。写真は臥雲橋から通天橋、東福寺方丈方向の眺め。 時折吹き抜ける風は落葉に拍車をかけていた。「つい2、3日前は少し早いかと思っていたら一気ですわ」そんな声が盛んに聞こえて来た。秋は通天橋から洗玉澗という渓谷を望む紅葉が美しい所で知られ、紅葉のピークには混みあう所でも知られます。 写真は通天橋から臥雲橋の紅葉。更に上流側の偃月橋と合わせ三つの木造橋廊が架かり、紅葉の見え方が違い其々に美しい。洗玉澗の流れには様々な色合いの楓の落ち葉が美しい。方丈南庭と西唐門。北庭。本尊は釈迦如来。 三門は現存最古の三門で国宝に指定され、禅堂、浴室、東司、愛染堂など重文指定の建築も多いが、観光バスの入りのタイミングに遭遇すると一気に混み、人の映り込みが気になり一枚も撮れない。東福寺所在地 / 京都府京都市東山区本町15-778東寺からバス、徒歩 / 20分程初日の参拝予定はここまでです。 何れも拝観券購入や入場に時間がかかったりでこれも致し方なし。 三条上る上大阪町の 「ソラリア西鉄ホテル 京都プレミア 三条鴨川」にチェックイン、夜の先斗町へ。翌朝、瑠璃光院の事前予約を9時と選択していたため、手早く食事を済ませ8:00に宿を後にしました。 瑠璃光院の最寄り駅八瀬比叡山口駅から目の前の瑠璃光院を結ぶ橋がありますが、現在工事中で渡れず、高野川上流の橋まで遠回りしなければなりません。八瀬大原 無量寿山光明寺 瑠璃光院山門 20分前に到着しましたが、既に山門前には大勢の拝観者で溢れていた。入場は9:00から、予約は20分間隔で20名?の枠で区切り入場するシステム。 なので境内に入っても人で溢れるようなことはありません。但し、紅葉の写りこむ写経机の前だけは人垣ができています。山門から玄関までの緩やかな参道脇は紅葉と苔が美しく、石楠花の木も多く植えられ、四季折々の表情を魅せてくれるようだ。書院二階、写経机に写り込む瑠璃の庭の紅葉。 訪れた人はこの光景を見たいがために訪れています、この机の後方は写真撮影の順番待ち。早く撮りたい気持ちを抑えきれず、撮っている人を後ろから押すので静かな書院に罵声が飛び交う場面もあった、一人2分も待てば事足ります。 入場は20分間隔ですが退出時間に制限がなく、その気になれば陽を受けて刻一刻と色合いの変わる紅葉を見ることが出来ます。特別拝観料は2,000円、伽藍内部はフラッシュ厳禁を守れば全て撮影が許されています。書院から山門側の苔庭。瑠璃光院は、岐阜市金竜町に鎮座し延喜式神名帳に記録が残る「無量寿山光明寺」の別院で本尊は阿弥陀如来。 現在の建物は大正から昭和にかけ、実業家の別荘として数寄屋造りに改修されたと云う。書院一階から瑠璃の庭。瑠璃光院所在地 / 京都市左京区上高野東山55番地瑠璃光院を後に南禅寺へ。 写真は水路閣、ごった返す南禅寺境内の南東にあり琵琶湖疏水分線の一部。水路閣は明治20年(1887)に着工、翌年竣工したもので、南禅寺境内を通すため景観保護に留意して建てられた。 京都市指定史跡、近代化遺産、琵琶湖疏水の一部として国の史跡に指定されている。この煉瓦造りの水道橋を奥に進むと疎水を上から眺められ、流れはすぐ先のトンネルの中を流れていく。最勝院山門前の紅葉 疎水トンネルの手前に鎮座し、駒道智大僧正を祀るため創建された寺院。鎌倉時代の高僧「最勝院駒道智大僧正」は関白「九条道家」の子に生まれ、比叡山で修行した後に三井寺の管長、禅林寺の住持を務め、晩年はこの地に陰棲し、駒ヶ滝の地で入滅したとされる。 寺名は院号を取って最勝院と呼ぶ事になった。入滅の地駒ヶ滝はここから200㍍程山を登ったところで、現在は奥の院となっている。 明治末までは南禅寺寺務所あたりにあり、最勝院般若殿と呼ばれていたと伝わるが、大正6年(1917)に現在地へ移転した。ここも緑の苔と赤い落葉の色合いが美しかった。南禅寺方丈庭園、前方は法堂。 枯山水庭園と狩野派の手に依り描かれた人や花、動物が描かれた襖絵は見応えがあります。敷砂に描かれる箒目、どこを見ても足跡が残っている訳もなくない、いつ見ても書き始めと終わりが気になる。華厳庭付近で見かけた手水は一枚の鏡、周囲の紅葉と花を水面に映し込んでいた。 こちらで御朱印帳を頂き、今回の目的はほゞ達成。写真は法堂天井に描かれた「幡龍」。 現在の法堂は明治26年(1893)に火災で焼失し、明治42年(1909)に再建されたもので、薄暗い天井から如意宝珠を掴んだ大きな龍が睨んでいる。人で溢れる法堂から逆回りになりますが三門を拝観し、門前で湯豆腐を食べ(90分待ち)帰途に着くことにしました。 門前にはバスが連なり、駐車場待ちの乗用車が列をなし、歩道や公共交通機関は観光客で溢れている。観光地とは云え、地元に住む者にとって、静かな京都の混雑ぶりは許容できるのだろうか。 曜日指定で国内・海外の観光客を振り分けるとか、入数・車の乗り入れ制限など色々課題がありそうだ。京都、近い様で遠い場所なのかも知れない。瑞龍山 南禅寺宗派 / 臨済宗南禅寺派創建 / 正応4年(1291)本尊 / 釈迦如来所在地 / 京都府京都市左京区南禅寺福地町86参拝日 / 2022/11/24~25今回訪れたルート / こちら
2022.11.28
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『庄内用水元杁』庄内川に架かる水分け橋から上流に庄内川頭首工が直ぐに目に入ると思います。庄内川流域は農業に適した肥沃な土地で、農業用水を確保し、維持管理するために多大な努力が積み重ねられ、取水施設築造にもその時代の優れた技術が投入されたそうです。庄内用水元杁は、一部人造石を使用して造られ、ほぼ百年の歳月を経た今も、完成当時の姿をそのままにとどめ、明治のロマンを漂わせている。幅2.1m、高さ3.15m、長さ29.8m、切石積のアーチ型。門扉は堤内と堤外の両側に設置され、上部が観音開き、下部が上下の引戸、内部に通船鎖がある。1988年に新樋門が築造されたが、一部に人造石を使用した樋門はそのまま残されています。土木学会選定「現存する重要な土木遺産2800選」Aランクに選定されている。人造石(たたき):消石灰と種土を混ぜて水で練り、よくたたき締めて硬化させたもので、古くから土間や床下などを造るのに使われてきた伝統的な左官技術。庄内用水は、輸送路としても使われていました。犬山と名古屋を結ぶ舟運も目的の一つ、守山区内にある元杁樋門から北区の黒川分水池まで盛んに舟が行き来した。樋門トンネル内部には、船頭が鎖を引っ張って舟を進めるための通船鎖が残されている。今、三階橋ポンプ所が建っている場所に、昔は分水池がありました。庄内川から取り入れ、矢田川の下を流れてきた水は、ここで堀川(黒川)、庄内用水、御用水(ごようすい)、上飯田用水、志賀用水などに分けられました。1977年に分水池をうめて、その上に「三階橋ポンプ所」がつくられました。分水池はなくなりましたが、矢田川の下をくぐってきた水はポンプ所の中にある水路で堀川と庄内用水に分けられています。同ポンプ場の傍らには、黒川樋門が1980年に元の姿でつくられました。明治の頃、堀川へ流れる水を調節した樋門のようすを残しています。ゆったりと流れる水面、水中で踊る水草。名古屋市内でもこんなに静かに時が流れる場所があります。柿田川の様に、ここから下流は矢田川に至ります。庄内堤ではアザミの花も一斉に咲いています。撮影2017/06/08所在地 名古屋市守山区瀬古二丁目228番地先
2017.06.11
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養老山系の東に広がる岐阜県海津市南濃町、『東天神社』は県道8号線沿いに鎮座します。県道8号線「城山支所前」交差点で写真のような杜と二つの鳥居に目が止まり立ち寄ってみた。石の明神鳥居の脇に「東天神社」社標が建ち、少し右に若苗神社の丸太鳥居がある。参道の先は奥行きがありニノ鳥居と拝殿が窺える。参道に朝陽が差し込み始める、長い参道奥の社殿を照らすにはもう少し時間がかかりそうだ。一ノ鳥居に掲げられた額は「東天神社」参道脇は深い社叢に囲まれている。参道中ほどの右手に案内板が建てられている。右手の若苗神社を示す看板と東天神社の解説の二つが建つ。普段訪れる小規模の神社と比較するととても広大な社地に思えるが、嘗ては10㌶もあったという。その社地は東天神古墳群と呼ばれ30基ほどの古墳が作られていたという。何れも4世紀後半から7世紀前半に造られ、土器や鏡など出土した。現存する古墳としては1~5号墳(円墳)が残る。1号墳が東天神社本殿下。2号墳が若苗神社社殿下。3号墳は山神神社建立の際削られ一部が残る。4号墳が稲荷神社社殿下。5号墳が山神神社社殿下。参道から見る2号墳に鎮座する若苗神社。こうして見ると僅かに盛り上がっている様に見える。東天神社ニノ鳥居前から境内。鳥居の貫には一ノ鳥居には見られなかった梅の紋が彫られている。十分に広い境内は左に手水舎、中央に入母屋に唐破風の施された拝殿、右に社務所の伽藍。後方と左を社叢で隔たれ、社殿には歴史を感じさせる風格が漂う。拝殿後方の本殿が1号墳の上に鎮座しています。社務所全景。社務所の後方は南濃グランドに整備されている。千木、鰹木の施された手水舎と派手に仕事する龍。拝殿。シックな木造入母屋拝殿で唐破風向拝を持つ。棟には7本の鰹木と外削ぎの千木が付き、向拝にも3本の鰹木と外削ぎの千木が飾られている。破風の鬼や懸魚など左三つ巴の紋が見られる。拝殿前の狛犬達。子持ち毬持ちで年齢を聞き忘れたが貫禄漂う姿だ。岐阜県神社庁で東天神社の由緒が記されていた。由緒「創立年紀不詳なれども、当社は美濃國石津郡座(十三社の内)従四位下東天天神及び日本紀略曰く延喜十一年二月十日授美乃國東天神従五位下とある。本郡の古社なり。然れども遷座及再建等数回にして旧記古書に拠るものなく、祭神不詳なり。永徳元年本村(羽根、馬澤、奥条その他数村同一村の頃)、宮ヶ原(現在揖斐川添ひ黄金山の南方なり)に再建す。(南宮高山の社日誓覚遷宮祭事を司る)。その後年暦を経て(羽根川分郷の後故有)慶長五年西山北坂口に遷座す。(西山北坂口には今猶宮の段とも宮事とも云ふ正しき古跡あり)、後又慶長十八年夢想に拠り称名ヶ原に遷宮す(西駒野村奥条村入会地)現在の神域なり。昔は杉船に乗り、武冠を戴ける神像あり。故に最初は船を守る神とされしが、元和の頃より神遊されて其の方所を知らず。宮ヶ原は本村東部に在るを以て東天神の名称へられ又中古の書には奉勧請大神並に島天神とも(島は東の同音誤字か)あり。何れの頃よりか渡唐天神、天満大自在天神とも称へられた。何れも誤り伝へられたるなり。維新より東天天神と復旧す」911年の延喜11年には既に存在する古社で、それ故に今は天神社とあるが祭神すら分からないようだ。「最初は船を守る神」とある、事実すぐ東には津屋川、揖斐川も流れ海へと繋がっている。船神様から始まったと云うのはありえない事もない。それが歴史の中でいつしか天神信仰に変わっていったのだろう。拝殿の先は渡廊を介し切妻平入の幣殿に繋がる。妻壁や木鼻に素朴な彫が施され、蟇股には左三つ巴の紋があしらわれている。奥に見える玉垣が本殿域のもの、幣殿の玉垣の高さに対し随分高い位置なのが分かる。この盛り上がりが古墳の名残なのだろう。本殿。流造で棟に鰹木6本、外削ぎの千木が飾られ、木鼻に獅子、脇障子に透かし彫りが施されている。境内の眺め。歴史のある神社は巨樹を育む。社叢の樹々はさほど多くもないのだが、一本〃が伸び伸びと枝を張り外界から遮断している。東天神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野奥条入会地98若苗神社。東天神社一ノ鳥居から右に少し離れた県道沿いに若苗神社の丸太鳥居がある。境内社と云っていいものか判断が出来ない。社頭右に「ゑびす大神 若苗神社」の看板と社標。歩道からだと1.5㍍程盛られた頂に社が祀られている。この場所が2号墳になる。「ゑびす大神」、七福神の一人で鯛と釣り竿を持ってにこやかに微笑む姿が印象的な商売繁盛、金運や心願成就に御利益のある神様を祀っているのだろう。この神社の創建、祭神など確かな記述は見つけられなかったが、祭神はえびす様で間違いないのだろう。若苗神社創建 / 不明祭神 / 事代主神所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野奥条入会地県道8号線脇に東天神社参拝者駐車場があります。その後方に黄色に染まった大きな杉が聳える杜があります。駐車場横からシレッと社に行けてしまいます、ここが山神神社。社の下が5号墳のようです。シレッと横入りも失礼なので社頭から参道に向かう。二つの鳥居があり右は朱色の稲荷鳥居で額はあるが文字は消えかかり読み取れない。グーグル先生によれば尾白稲荷神社とあり、鎮座地が4号墳になる、赤い鳥居から続く参道の奥に鎮座するようなのでこちらの稲荷さんはスルーする事にした。白い明神鳥居の先が山神神社。山神神社建立の際削られた3号墳は推測ですが鳥居から参道にかけてがそれかもしれない。特に古墳の痕跡らしいものは見当たらない。5号墳の上に鎮座する山神神社。大きな杉に囲まれ、その中に玉垣に囲われた小規模な本殿域が作られ、高く積まれた石垣の上に流造の社が祀られている。手前の杉が御神木のようだ。祭神は大山祇命。詳細は分からなかったが「創立年紀、由緒、不詳なれども古来より地方民の信仰あつく元禄十三年の七宮御検地帳には境内東西十一間南北十間とあり古社たることを知る」とあった。駒野集落の守り神なのだろう。山神神社創建 / 不明祭神 / 大山祇命所在地 / 岐阜県海津市南濃町駒野528-1参拝者駐車場脇の堂。一体の石像が安置されているがお地蔵様か観音様か見分けがつかなかった。鬼瓦に入れられた「水」の文字、火事の禍から逃れられるようにとの願いが込められている。安置されている小さな石像には、村人の大きな願いが込められている。先人の思いが込められた意味のあるものだ。古墳の数も多いが、参拝駐車場に停めるだけで、一度に古墳の上に鎮座する神社を四社巡る事などそんなにない。先を急いでいなければ4号墳の尾白稲荷神社にも足を延ばしたかったが、残しておけば再び訪れる動機にもなる。周辺には多くの寺社もあり急ぐことはない。関連記事 / 滋賀県高浜までのんびりドライブ
2022.03.24
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かみさん、妹とスペイン旅行に旅立ち当分の間一人で留守番。オーストラリアに永住する妹とかなり以前からプランニングしていたが本当に行きおった。そもそも性格も好みも真逆の二人。過去も二人だけで出かけると、現地で意見が合わず口喧嘩になり、帰りは会話も交わさない事が高確率で起きているという。(セントレアから成田に到着、妹と合流)特に今回は妹がスポンサー。自分の意見を主張し過ぎないように、笑って帰ってくるように念を押すも…どうなる事か。目的自体がどうも噛み合っていない。妹はビーチでノンビリして、バルを巡りたい、かみさんは史跡や美術館巡りやワイナリー見学をしたい。のんびりしたい人と廻りたい人……スケジュールを見ると笑って帰国するのは難しいような……(ドバイの夜景)留守番のおやじにすれば「まあ楽しんできてくれぃ」帰国までの自炊生活初日、「禁断の厨房」に立ち入ると、どこに何があるのかさっぱり分からない。辛うじてMY包丁は見つけたものの、すべてが探す事から始まるのには困ったもの。子育て中はおやじが調理し手の込んだものも作った、しかし今はそのレシピすら思い出せない。今晩は焼鯖、納豆、みそ汁、漬物、以上。靑魚が嫌いな彼女、グリルが臭くなるという理由から滅多に靑魚なんか出た事がない。留守番の間、魚を焼きまくってやろう。家で留守番に徹し「オオタニサン」を応援するのもいいが、待てよ。独りでキャンプしながら出かけるかぁ、天気しだいだよなぁなんか解き放たれて、少しワクワクする気だけ若いおやじがいる。
2023.06.16
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4/7週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、予報は外れ暑いくらいの好天となったならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔日本らしい春の光景が広がっていましたここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れますこの北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年に茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭鳥居から本殿の眺め財力を示すかのような個人所有の神社鞘殿全景豊彦稲荷社由緒「祭神 宇迦御魂神御神体 白狐祭日 初午祭(4月上旬)由緒京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されましたそれを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています御神徳五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所)信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうかまた、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め豊彦稲荷社創建 / 寛延2年(1749)祭神 / 白狐白雲橋と三賞亭(有形文化財)稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません天井に描かれている女性の横顔携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます白雲橋と豊彦稲荷社庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません揚輝荘北園訪問日 / 2024/04/07所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から北へ10分以内それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか関連記事 ・泉龍山桃厳寺・城山八幡宮
2024.04.08
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瀬戸市西本地町2丁目西本地の「八幡社」から緩やかに上る農道を南へ、田畑の中を東西に横切る国道363号線を超え、田園地帯の集落の中に『本地城址』があります。周囲はこうした風景が広がり、田畑の中に集落が点在します。その集落の中の小さな森が『本地城址』の目印です。上は本地城址から南の風景。本地城址から西の眺め、右手の土手は国道363号線、かつての田畑はショッピングセンターや集合住宅に姿を変えています。上は昭和43年頃の当地と随分宅地化が進んだ現在。それでもまだまだ、田畑が広がる田園風景が残っています。そうした中に1本の大きな木が聳えています。目的地本地城址はその下になります。この地にかつて城があった、それを思わせる痕跡は現在全く残っていません。唯一それを伝えるものは「松原平内公本地城址」と彫られた石標が建っているだけです。解説板なのか掲示板なのか分からないけれど、そこには何も情報はありませんでした。この城は松原一学の弟松原平内の居城として築かれましたが、1482年(文明14)に品野の長江利景と今村の松原広長の間で起きた安土坂の戦いで平内と広長ともに討死、それにより松原家は衰退、本地城も廃城の道を辿っていき、城跡は農地に変わっていったようです。城の痕跡は残ってはいないですが、こちらには年代不明の石灯籠に複数の社、龍神碑が祀られています。覆屋の下に祀られている二つの社。3本の柱で支えられた石灯籠、彫られた文字は読み取れませんでした。2社ともに扉が開けられ、左右共に津島神社のお札が収められています。もともとここに二つあった社ではないかもしれません。城址に大きな楠木?が一本聳えています。丸い樹形の巨木は、まるで覆屋のように城址の上に枝を張っています。こうした巨木には何かが宿るものです。立派な幹の脇には一つの社と左右に石碑があります。手前の柵で囲われた部分、これは周辺の開発が進む以前には、集落に水を潤していた昔の井戸跡。井戸は現在は枯れてしまっていますが、その脇の石標には水を司る龍神と辡戝天と彫られた碑が残っています。正面奥の社は社名札が掲げられていますが文字は消えてしまっています。集落に必要なものと云えば火伏の神がつきものだと思うけれど詳細は分かりません。左の屋根の付いた石柱には正面に座像が彫られていますが姿ははっきり分かりません。光背があるようでないような、金剛杵を持っているようにも見える。いずれにせよ、最近のものではなさそうです。城の痕跡は残していないけれど、ここには昔の集落の生活の名残と、そこから生まれ引き継がれてきた守り神が残っています。『本地城址』と津島神社公共交通機関アクセス / 名鉄バス基幹バス「尾張瀬戸駅」行、「本地」下車、南西へ徒歩5分程住所 / 瀬戸市西本地町2丁目
2020.04.06
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前回掲載した「黒河神社」を後にして、そこからすぐ近くにある当初の目的地「麺屋いろは」で富山ブラックラーメンを食べ終え、お腹も満たされたところで、次の目的地「高岡古城公園」に鎮座する「越中國一之宮射水神社」を目指す。「麺屋いろは」から高岡城址まで県道348号線から県道44号線の「古城」交差点の左が「高岡古城公園小竹藪駐車場」約30分程で到着。高岡古城公園の北側に位置する「小竹藪駐車場」。入口に係員の方がいて「有料?」と思いきや実は無料、懐に優しい有難い駐車場だった。しかも他府県ナンバーなのに気付き御親切にも神社までのルートや高岡大仏までの道を教えてくれた。県外から訪れた者に対する心遣い、高岡の町は優しく歓迎してくれた。駐車場の南側に写真の石碑があり、ここから公園内にアクセスが可能。高岡古城公園は加賀藩初代藩主の前田利長が築いた高岡城の城址を明治時代より公園として開放したもので、富山県指定史跡、国指定史跡に指定されています。写真は石標から園内に入りしばらく歩くと、外堀に架かる赤い欄干の橋「朝陽橋」。橋を渡って右側から見る朝陽橋、周辺には桜が多く見られます。「日本さくら名所百選」にも選ばれる公園で園内には約2700本の桜が咲き誇るそうだ、しかし3月末では蕾は固い、それでも僅かにピンクに色付いてきていた、満開の時はさぞかし綺麗な事だろう。朝陽橋から石段を進むと視界は広がり広場が現れます。高岡城本丸広場と呼ばれ正に本丸があった所、ここも周囲は桜がいっぱいだ、ピンクの幕が広場を取り囲むに違いない。射水神社はこの本丸広場に鎮座します。江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国でも珍しいと云われています。高岡城は1609年(慶長14)前田利長の隠居城としてが築かれたものだという。隠居城として使われたのは僅かな期間で、1614年(慶長19)に利長が死去、翌年の1615年(元和元年)の一国一城令により廃城の道を辿ったようです。現在、城の面影は堀と護国神社へ向かう途中の石垣が遺構として残っています。本丸広場の途中に鳥居が現れ境内が見えますが、これは脇参道、広場を更に南に進むと左に続く道が現れます、そちらが正参道へ続きます。越中國一之宮 射水神社全景。大鳥居の左に「国幣中社射水神社」と刻まれた社号標。そこには地元敬神家の名が刻まれています。境内右が参集殿、左に手水舎、社務所、中央に神明造の拝殿が見えます。桜には早いけれど参道両脇の紅梅と白梅が彩りを添えています。伽藍から古びた印象は感じません、現在の姿は1900年(明治33)に起きた高岡大火により社殿を焼失、1902年(明治35)に再建されたもの。この高岡大火は市街地の6割を焼き尽す大きな災害だったようです。参道の射水神社由緒祭神 二上神 例祭日 4月23日北西五㌔の二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し、詳らかでないが675年、天武天皇の三年(皇紀1335)正月奉幣に與られた傳承を以て鎮座の年と定めた、次いで慶雲3年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀11年從五位下の神階に 叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた。やがて戦国の世屡ゝ兵火に罹り頽廃したが前田利家・利長の保護により輪奐を改め明治四年國幣中社に列した。維新の神佛分離規則に從い且つは広く県民の崇敬に迎え られ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた。境外摂末社日吉社 大山咋神 四月十八日 (二上山第一峯山頂 奥の御前)悪王子社 地主神 五月十三日 (二上山第二峯山頂 奥の御前)院内社 菊理媛神 五月三日 (二上山の前面北峯「院内の谷」)諏訪社 建御名方神 八月二十七日 (二上山前面西麓 上二上)高岡市護国神社 殉國諸神 十月一日 (高岡城址内)栞には以下のようにも書かれている。「創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。社伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達したと云われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。その後、承平ら天正の両度兵火により悉く烏有に帰し一時衰頽したが、慶長年間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。特に昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。畏きあたりより奉幣の栄に浴した。また、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐に一層の光彩を加えた。幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠める逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。」射水神社から4㌔ほど北の古矢部川左岸の二上山が神体山で、往古より二上山の麓の二上という地に鎮座していたが、明治に入り、現在地に遷座するにあたり産土神をなくす二上の氏子の反対により、古社地にも分社が残され、1875年(明治8)に現在地の高岡城址に遷座した。こうなると二上山には行きたいところ、プランナーのかみさんの表情にはその余裕はなさそう。高岡の町は1821年(文政4)と1900年(明治33)に大火に見舞われ、なかでも明治の高岡大火では市街地の約6割を焼き尽す大きな被害をもたらしたようです。現在の姿は大火により社殿を焼失、二年後の1902年(明治35)に再建されたものです。日本海側はこうした大火は起きやすいけれど、地元のに住む人の英知で都度復興してきた。伽藍から古びた印象を感じないのはそうした経緯もあるのだろう。手水舎2015年(平成27)に斎行された遷座百四十年祭の記念事業の一環として竣工した新しいもの。この時期は梅が見頃を迎えるようだ。一ノ鳥居左右に梅。紅梅解説。遷座の際に二上の地より移されたもの、樹齢は400年を超えるようだ。手水舎脇の紅梅はこの梅の孫にあたるらしく、そうした事から子孫繁栄や不老長寿の象徴とされ、幹にできた空洞がハート形に見える?ことから縁結びの御神木として良縁を求める参拝客が多いそうだ。一ノ鳥居、木造の神明鳥居は2015年の伊勢神宮の豊受大神宮の北御門を移設したもの。外拝殿・拝殿全景直線的でシンプルな簡素な外観は伊勢神宮の「唯一神明造」に基づいているという。右斜めから、千木は4本、残念ながら本殿を垣間見ることは叶いませんでしたが、伊勢神宮を踏襲した造の様です。内削ぎの千木とシンプルな外観に相応しい上品な飾り金具。銅板葺の屋根ですが、もともとは杮葺きの屋根だったようです。拝殿正面に掲げられている扁額。第12代加賀藩主の前田斉泰の筆によるもの。拝殿から幣殿方向の眺め。もともとは内開きの扉が付けられた中門で注連縄の上方に「射水神社」と記された扁額が掲げられいますが有栖川宮熾仁親王のご真筆だそうです。拝殿から大鳥居方向の眺め、この先には摂社高岡市護国神社、外堀に架かる春駒橋を渡ると高岡大仏のある大仏前通りに続く。一ノ鳥居解説。この紅白の梅が印象に残る「越中國一之宮 射水神社」です。3月末の園内では春の妖精「カタクリ」が春の訪れを告げていました。2021/3/23「越中國一之宮 射水神社」創建 / 不明主祭神 / 瓊瓊杵尊住所 / 富山県高岡市古城1番1号関連記事 / 富山県「黒河神社」 03.23.24 越中國、能登國、加賀國一之宮巡り黒河神社から車アクセス / 黒河神社➡麺屋いろは➡小竹藪駐車場まで約30分程
2021.05.05
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滋賀県彦根市本町「祥壽院大信寺」一帯は彦根城の城下町の風情が残り、鎮座地周辺には複数の寺院が寄り添うように鎮座しています。(画像は2018/4の彦根城)彦根城は井伊直継により元和8年(1622)に築城されたとされ、下の町割も築城と共に築かれていったもの。国宝彦根城南の一帯は、今回掲載する大信寺の他、向かいに来迎寺、善照寺、願通寺、宗安寺などが鎮座する寺町を形作っている。大信寺へは彦根城京橋から真っすぐ南に伸びる夢京橋キャッスルロード、そこから東に1本入った筋に大信寺は鎮座します。大信寺門前から彦根城方向の眺め。城壁の様な石垣に囲まれ、なまこ壁と入母屋瓦葺で二層の重厚な山門が建つ。山号額には宝厳山とある。大信寺のこの石垣は、彦根城築城の時の残石を利用した牛蒡積みというで築城時のものだという。牛蒡積みはあまり聞き慣れないませんが、長方形の石の長い面を内側、短い面は表側にして積まれたもので、石同士の接触面が増え頑丈な積み方だとされます。金亀山を切り開いて建てられた城彦根城の石垣もこの牛蒡積みで積まれているとされます。大信寺は浄土宗の寺院で、創建が慶長8年(1603)、開基は井伊直政とされます。境内には2代彦根藩主の井伊直孝の歯骨が収められた廟がある。本尊の木造阿弥陀如来坐像は建久7年(1196)造立のもので、彦根市内の本尊仏の中では最古とされる。門をくぐると正面に見えるのが観音堂。庫裏の連なる入母屋瓦葺の建物で、重厚な唐破風向拝が付く。堂前の解説によれば堂内に祀る観世音菩薩は琵琶湖観音と呼ばれ、江戸中期、安永年間に彦根藩10代藩主井伊直禔(なおよし)が琵琶湖中より引き上げられた御木像で、約1㍍の観世音菩薩立像で南北朝時代の作と推定。とある。堂の扉は閉じられ拝観は出来なかった。昔の言い伝えに「川から流れて来た、網にかかって引き揚げられた」など良く聞かれる。仏像は大地から生まれてくるだろうかねぇ。本堂。境内左に建つ寄棟瓦葺の清楚な外観。左側に平成大修復工事の際に降ろされた以前の鬼瓦が飾られていた。平成7年に修復改修を終えた本堂。そこに掲げられた大信寺の額には増上寺大僧正雲臥(うんが)書と記されています。増上寺歴代法主を調べてみると34代証譽雲臥(在職1700~1704)の名が見られた。平成の改修時に修復されたのか綺麗な状態の額です。元亀元年(1570)総誉清巌の開山とされ、群馬郡保渡田に草庵を結んだのが起りと伝わる。慶長8年(1603)初代彦根藩主井伊直政が高崎城主から彦根に国替えの際、高崎の大信寺から伴ってきた照誉和尚が開山し、井伊直政・直継が開創。元禄から寛永年間に5代藩主の井伊直通により再建。本尊は鎌倉時代初期の木造阿弥陀如来坐像。境内右の井伊直孝廟。2代彦根藩主井伊直孝の歯骨が祀られている。観音堂右に建つ地蔵堂。年代は見ていませんが6体の地蔵と中央に大きな地蔵菩薩像が安置されています。境内から見る二層の山門、白壁に火灯窓が印象的。彦根の寺院はこうした立派な山門を構え、向かいに鎮座する来迎寺山門の佇まいも中々のもの。バスツアーの隙間時間でなければゆっくり写真に収め回りたいところ、それも温かくなってからがいい。祥壽院大信寺山号 / 宝厳山宗派 / 浄土宗創建 / 慶長8年(1603)開基 / 井伊直政・直継開山 / 照誉和尚本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 滋賀県彦根市本町1-8-37参拝日 / 2022/12/27関連記事 / 滋賀県飲んだくれツアー 、桜を訪ねて近江の街へ
2023.02.01
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3月7日香嵐渓にカタクリを見に出かけた際、国道153号線沿いの西中金駅舎と岩倉神社神社に立ち寄って来ました今回は名鉄三河線旧西中金駅駅舎とすぐ西側に鎮座する岩倉神社・岩倉神社農村舞台を掲載しますまず上の地図をご覧いただきます左は昭和34年頃の当地と現在の比較で西中金駅と岩倉神社をマーカーで示してあります国道153号は古来、伊那街道(塩の道)と呼ばれ、中山道の脇街道として尾張や三河から信州や美濃地方に塩や海産物を運び、帰りには山の産物を運ぶ重要な街道でした当時の運搬は主に馬に依存していた事から中馬街道と呼ばれ、街道沿いの宿場町には馬の水飲み場が設けられ、紅葉で知られる香嵐渓のある足助も足助宿として古くから賑わっていました物流の要衝なので、国道沿いには多くの城址もあります西中金の北側には織田方の中金城、一山超えた矢作川左岸には広瀬城などがあり戦略的にも重要な地域でしたが1560年には松平元康(家康)により攻め落されていますそれらの城の遺構は残っておらず、わざわざ訪れる価値があるかは微妙かも知れません左の地図には今回取り上げた名鉄三河線と旧西中金駅が描かれていますこの路線が廃線になったのは平成16年(2004)と最近の事で、国道沿いや矢作川にかかる橋梁を走る電車の姿を覚えている方は多いかもしれない その終着駅がここ西中金駅香嵐渓の玄関口として以前はここからバスで出ていました現在は駅舎とプラットホーム、線路が残され登録有形文化財として保存されています紅葉の名所香嵐渓に向かう国道153号線はシーズンともなれば混雑したもので、足助まで路線延長する目論見もあったようですが投資回収が見込めず頓挫したようです国道から見た駅舎全景現在の駅舎は手前の歩道整備に伴い曳家で2㍍程プラットホーム側に移動されたようです改札と待合室を備えた昭和の香り漂う外観です内部も公開されているようですが、夕方のためか扉は閉じられていました登録有形文化財名鉄三河線旧西中金駅駅舎・旧西中金駅プラットホーム西中金駅は平成16年(2004)の廃線まで名鉄三河線吉良吉田駅から西中川駅間の終着駅足助まで路線延長計画もあったが用地買収・不況の影響から頓挫駅舎・プラットホーム・線路は歴史的景観を留めるものとして平成18年に登録有形文化財に指定昭和5年建設の駅舎は待合室・改札室・改札口があり西側にはバスの発着所があった平成26年(2014)歩道拡幅工事に伴い駅舎はホーム側に2㍍曳家され、小規模の改変が行われたが開業当時の姿を留めている駅舎脇の石野めぐりウォーキングマップかつての三河線を訪れる7.1㌔のコースもあるようです駐車スペースは分かりづらいけれど駅舎横に数台分ありましたプラットホーム線路はこうして今も残されていますが電車が来ることはないここから少し先で現在工事中で一部通れませんが、そこから先は線路沿いに力石トンネル(内部進入禁止)までは歩いていけますプラットホームから目的地「岩倉神社」の眺め線路の上を西に進み参道に向かいます国道沿いに建つ「村社 岩倉神社」社標(大正13年寄進)と参道の眺め社殿は線路を越えた先のこんもり盛り上がった山裾に鎮座します古い土地柄のこんもりした森と岩倉の社名から磐座をイメージするがそれは妄想だろうか今は通る事のない名鉄三河線の踏切が横切っています線路を越えると石段がありその先に石の明神鳥居が立っています右に「指定村社 岩倉神社」の社標、昭和20年に村社昇格を記念し寄進されたもの寄進年は未確認ですが、額束に社名は入っておらず、太い柱の鳥居の笠木は先端が意図的に強めに反りを入れたような気もする鳥居左の建物が岩倉神社農村舞台になり、境内右に一際目立つ存在の楠木が大きく枝を広げています後方の樹が銘木指定のアカメヤナギで、樹齢は分からないが根の辺りには樹洞が出来ており、なにか潜んでいそうな雰囲気が漂う境内には他にイチョウの樹も見られ晩秋には境内を黄色に染めるのだろう境内全景右から手水舎、社殿、忠魂碑木造四つ脚切妻屋根の手水舎手水鉢の龍三本爪で緑青を身に纏った凛々しい佇まいをしている拝殿正面全景一対の狛犬が守護する拝殿は切妻造の妻入で四方吹き抜けのもので、梁間桁行は三間のもの拝殿左から社殿全景拝殿の先は石垣が積まれ築地塀と中門で囲い、祭文殿と境内社、一段上がって本殿を収める鞘堂が主な建物で拝殿右から社務所に続く参道がある拝殿前の狛犬(近年未確認)拝殿妻壁の額は「岩倉神社」人目を引く彫飾りは必要最小限に抑えているように見えます岩倉神社について境内に由緒は見られず、愛知県神社庁に目を通すが祭神・祭礼日の記述だけだった大正15年に出版された西加茂郡誌を見るが創建に繋がる記述は見られなかった因みに郡史には「二反二畝6歩除地、例祭10月5日、祭神伊弉諾尊、伊弉册尊」と記されてはいたが詳細は不明ただ、さきの昭和時代の地図を遡ると大正9年には既に鳥居の印は記されていたりで、明治或いは江戸時代まで遡るのかも、そこに結びつく可能性があるのは境内の農村舞台かもしれません拝殿から中門の眺め中門は平成12年(2000)に改修を受けたようです本殿域の瓦葺の築地塀と中門、その先に祭文殿と鞘堂の眺め祭文殿から本殿の眺め本殿の手前に右に二社、左に三社の板宮造の社が祀られています右手の二社は手前から洲原神社と秋葉神社、左の三社は手前から津島神社、豊川稲荷一番奥の社名は蚕と社は見えるのだが注連縄の陰になり全文読み取れなかった、三文字と思われるので蚕霊社と思われます最上段の岩倉神社本殿一間社流造で蟇股の龍や木鼻には獏や獅子など装飾が施されています鞘堂は昭和57年(1982)に再建されたようです本殿左の忠魂碑社殿南の入母屋瓦葺の大きな建物が岩倉神社農村舞台間口8間、奥行5間の大きな舞台で、1間と云われてもピンとこないけれど1.8㍍と考えれば大きさがイメージできるかと思います現在も石野歌舞伎保存会により農村歌舞伎が行われていますこの舞台には回転舞台を備えており、見えないところで地味に人手で舞台が回されます材木が豊富な土地柄からか、桁や梁に使われる木材は立派なものばかりこの長い桁を1本の無垢材が支えているその中央に「農村舞台」の額この地方ではこうした農村舞台が点在しますが、その中でも岩倉神社農村舞台は最大のものといわれています豊田市指定有形民俗文化財「岩倉神社舞台」「この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808)の建立間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えるのが大きな特徴です昭和30年代まで歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修をおこなった平成3年に実施した農村舞台の調査から、農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定された」文化5年(1808)の棟札が残ることから、岩倉神社の創建も恐らくその時代まで遡りそうです舞台内部長い棟木や屋根を支える垂木など建売では見られない贅沢な部材が使われている昨年の石野地区歌舞伎保存会による講演ポスターこのあたりは室町時代には三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷で、明治に入り西加茂郡中金村、中野村大字中金、石野村大字中金、猿投町大字中金、豊田市大字中金と地名が移り変わり、現在の豊田市中金町となりました南は勘八挟から北は広瀬、東は足助の手前、中切あたりまでが石野地区とされ地区唯一の舞台毎年10月に開催のされるようなので、国道沿いに幟を見かけたら寄ってみたものです境内から社頭の国道の眺め結構交通量もあるので鳥居から左に向い、斜面を降りて線路沿い駅舎に戻れますまもなく終点西中金駅になります名鉄三河線旧西中金駅駅舎所在地 / 豊田市中金町前田岩倉神社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊境内社 / 津島社、洲原社、豊川稲荷、秋葉社、蚕霊社例祭 / 10月第2日曜日氏子地域 / 豊田市中金町所在地 / 豊田市中金町平古782岩倉神社農村舞台建立 / 文化5年(1808)所在地 / 岩倉神社境内参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事 / ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.01
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出雲大社2、今回は大社の右手を流れる吉野川の対岸にある北島出雲国造館を紹介します。現地へは銅鳥居から吉野川を渡り、社家通りを1.2分程度進んだ左側にあります。この北島出雲国造館からさらに東へ進むと、出雲大社境外摂社の神魂伊能知奴志神社に到着します。私は訪れることができませんでしたが、北島出雲国造館からはわずか2~3分程度の距離にあったようです。出雲教 北島出雲国造館大門。外観からは、それが寺なのか神社なのか判断が難しいです。大門の左には宗教法人出雲教の木札が掛けられています。往古の出雲大社の出雲国造家は南北朝時代まで一子相伝で継がれてきました。ある時期から、千家家と北島家の二家がともに出雲国造を名乗り、祭祀を分担していたようです。明治以降は、千家家が大社の宮司を務めるようになりました。併せて神仏分離により千家家は出雲大社教、北島氏が出雲教と独自の布教活動を立ち上げ全国に広められて行き、出雲教は天穂日命の子孫、出雲國造北島家に伝わる祭祀の道に従い、御神徳を人々に広め、導くことを主な目的として明治15年に設立されたという。こうした継承に纏わる話は身近にも大なり小なり起こります、大社の宮司継承に関する内容は参拝に訪れた者には理解しにくいものかもしれません。そうした問題からか、大社の境内マップには北島出雲国造館の名はありますが、施設などは記されていません。社家通り沿いの北島国造館大門の解説。松江藩主 松平定保が安政6年(1860)に武運長久、子孫繁栄、国土安全、如意満足を記念して奉納されたもの。正面の大注連縄は寛永元年以来、出雲市灘分町、平田町の龍神講社より奉納を受けたもので、長さは5.5㍍で中央の太さは約3㍍ある。大門をくぐり境内に入ると、大きな注連縄が架けられた建物が神殿になります。現在の神殿は昭和30年(1955)に建てられたもので、古くは出雲大社の背後に聳える八雲山の麓にあったようですが、寛文4年(1664)の正遷宮う境内拡張に伴い八雲山々麓の旧宅から現在の亀山々麓の現在地に移転しました。神殿左の出雲教由緒は以下のように書かれています。「出雲教は天穂日命(神代の昔出雲大社創建のとき御神勅により大神様に神勤奉仕された天照皇大神の第二の御子神)の正系の子孫出雲国造北島家に伝わる祭祀の道を通し、大国主大神の御神徳を広く世に広めることを主たる目的とする神道教団です。教団としては明治13年、出雲大社の崇敬講として設立された「出雲北島教会」に始まり、戦後昭和27年に宗教法人「出雲教」として認証を受け今日に到っています。出雲教は幽事をつかさどられる大国主大神様にお仕えしお祀りするという出雲大社創建の精神を基としています。そして出雲大社という神社と、その御神徳を拡める教団としての出雲教を区別し、北島国造館に総本院を置いて全国各地に分院教会を設け布教活動を行っている」神殿には大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神を祀ります。大注連縄から神殿内の眺め、折しも朝拝が行われていました。神殿の左側の境内は、心字池を中心とした手入れされた国造邸庭園が広がっています。別名を竜虎の庭と呼ばれているようです。写真は心字池の畔で甲羅干しをする亀たち、亀甲紋が勢揃い。写真は心字池の対岸に春日造りの社が祀られています。左は亀の尾の瀧で、吉野川から心字池に導かれているようです。こちらは菅原道真をお祀りする天満宮、右には沢山の絵馬が架けられています。例祭 8月3・4日。左手に御仮殿 山王社の札が立っており、周囲を見渡しましたが社は見つからず、後に調べて見ると札の後方の斜面の途中に祀られていたようです。亀の楽園。国造館の背後の山は亀山と呼ばれていますが、山の形が亀の甲羅の形に似ていることに由来するようです。小島に鎮座する天神社と亀の尾の瀧。祭神 少名毘古那神医薬、農業、酒造、温泉の守護神で病気平癒、身体健康、医療業、農業、酒造業隆昌などの御神徳がある。例祭日 8月4日左の天神社 由緒「御祭神 少名毘古那神少名毘古那神は『日本書紀』に「大己貴命と力を 合わせ、心を一つにして天下を経営され、人々と家畜の ために、病気になったときの治療の仕方を定め、鳥獣や 昆虫の災いを祓うためのまじないの方法を定められた神であり、人々は今に至るまでことごとくこの神のおかげを蒙っている」とあり、各地に伝えられている風土記にも登場されています。島根県内で、この神様をお祀りした神社は一二九社あるといわれていますが、主祭神としてお祀りされている神社は少なく(二五社)、全国的にも大己貴神(大国 主神)と合わせてお祀りされている神社が多く見受け られます。このように少名毘古那神は大国主神と深いご縁にある神様ですが、なぜか出雲大社の摂社・末社ではな く、出雲国造家の邸内社にお祀りされてきており、寛文の屋敷替えにあたって現在の心字池中之島の小祠 に遷しお祀りされ今日に至っています。」右は亀の尾の瀧の解説「水は能野川(吉野川)の上流から引かれている。名称は明治の重臣・東久世伯爵が御参拝の折りに読まれた歌、「萬代を かけずくだけぬいはがねを つたいて落つる 亀の尾の瀧」に由来する」この瀧の水源となる吉野川は、寛文の造営時に出雲大社を水害から防ぐ目的から当時の建城技術を集めて整備された川だと言われています。出雲大社境内左の七口門から吉野川を越えた先の北島出雲国造館境内の御三社。この門の右手に四脚門がありますが、御三社を参拝し心字池、神殿と参拝したため、四脚門は帰りに撮ろうと思いながら撮り忘れました。中門前から御三社の眺め。御三社は令和4年(2022)に出雲教設立百四十年記念事業として建替えられており、この門もその際に建て替えられたものと思われます。御三社境内の全景。境内の右側を進むと心字池の天神社に続いています。御三社の出雲形狛犬、寄進年は未確認。令和4年(2022)に建て替えられた事もあり三つの社は綺麗なものでした。本殿域前の解説。右から三宝荒神を祀る荒神社、中央が天穂日命社で天穂日命をお祀りし、左の社が稲荷社、宇迦之御霊神を祀ります。国造館HPの三社の解説は以下。荒神社三宝荒神がお祀りされ、山の神・屋敷神・氏神として崇められています。又、皇祖天照大御神も合祀されています。祭日 2月17日天穂日命社北島國造家の始祖天穂日命がお祀りされ、その垂訓を立教の本旨としています。祭日 2月17日稲荷社宇迦之御魂神がお祀りされ、穀物食物神・商売繁盛の神としてご崇敬頂いております。祭日 旧暦2月の初午の日(旧暦のため毎年日時は変動)寛文七年の大遷宮に伴う國造館移設に合わせ、この三社も現在地に遷座されたもので、創建時期は不明。境内から大門と社家通りの眺め。出雲大社境内の参拝者の多くは、この通りを訪れないようなので、人波を避けて静かな出雲の雰囲気に浸りながら歩くのには良い通りだと思います。神魂伊能知奴志神社や眞名井の清水を巡るなら門を出て左、出雲蕎麦なら右ですね。北島出雲国造館創建 / 不明祭神 / 大国主大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、天照皇大神、天穂日命、産土大神境内社 / 荒神社、天穂日命社、稲荷社、天神社、天満宮等所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東 真名井194-3関連記事 /・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社
2024.07.02
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熱田神宮摂社『下知我麻神社』こちらへの参拝は境内から訪れる事はできません。熱田神宮西鳥居から境内を出て、西側の歩道を北に進み地下鉄「神宮西」に向かう事になります。西鳥居から北の『下知我麻神社』が鎮座する神宮西方向の眺め。延喜式神名帳に尾張国、愛智郡鎮座の「下知我麻神社」と記された古社。地下鉄「神宮西」の2番出口、その右手前に西向きの神明鳥居が建つ。このあたり、古くは東海道や七里の渡しから佐屋街道に向かう道筋、そうした事から旅の安全にご利益があるとされ古くから崇められて来たそうです。歩道から社頭の眺め。境内か境外か?となると、これは境内でしょう。境内の一画を玉垣で囲った単独の神社、伽藍の関係もあるのでしょうが、なぜ境内からの参道が与えられなかったのかは分からない。下があれば上もある。南鳥居の左側に上知我麻神社が鎮座しますが、元は市場町(現在の神宮2辺り)に鎮座していたといわれ、現在は境内のいい場所に遷座している。上知我麻神社は、宮簀媛命の父親となる乎止與命(おとよのみこと)を祀り「源大夫社」とも呼ばれ、あまり好きな言葉ではないけれど式内社の分類。ここ『下知我麻神社』も式内社で「紀大夫社」とも呼ばれ、祭神は真敷刀俾命(ましきとべのみこと)、宮簀媛命の母親を祀る。なんで離れ離れなの?と感じてしまう、しかも境外からしか参拝できないとは。『下知我麻神社』全景。内削ぎの千木と四本の鰹木が施され、熱田神宮では一般的な神明造。創建は定かではありませんが、1362年(正平17)に造営、1692年(元緑5)、楠ノ御前社と同時期に造替られた記録があるそうです。倍返し。ドラマの台詞じゃないけれど、ここ『下知我麻神社』と西鳥居から入って左の菅原社に面白い風習が伝わるそうです。菅原社の祭神は学問の神、菅原道真公を祀り、こちらで参拝を済ませ、『下知我麻神社』に参拝の後に境内の石を持ち帰るのだそうだ。願いが叶ったら戴いた石の倍の大きさの石を菅原社に「倍返し」で奉納するものらしい。菅原社には倍返しで奉納された石がさぞかし山積されているのだろう。境内から鳥居方向を眺める、正面は国道19号線(伏見通り)。歩いて旅する人の姿から、移動手段が車に変った今も、ここから道中の安全を見守っているようでもあります。熱田神宮摂社 『下知我麻神社』創建 / 不明祭神 / 真敷刀俾命 住所 / 名古屋市熱田区神宮1-1 公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「神宮西」駅下車2番出口から南に徒歩1分関連記事 / 熱田神宮摂社『上知我麻神社』熱田神宮別宮『八剣宮』 日割御子神社、南新宮社、孫若御子神社、楠御前社、「徹社」・「二十五丁橋」
2020.10.02
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岩倉市大市場町順喜1「縣明神社」訪れたのは昨年の大晦日。コロナが広まりを見せる名古屋に電車で帰省する息子、密な中心街を経由させたくない事もあり、車で県境まで迎えに行く途中に立ち寄ってみました。岩倉市は南北に長く、東西に短い県内の市では面積は一番小さい。上は1920年頃の当地、市内には岩倉(美濃路)街道が南北に続き、街道を中心に集落が点在し城址や寺社が集まる、五条川堤の桜やのんぼり洗いで知られところでもあります。岩倉は「磐座」から由来したとされ、田畑は宅地化され区画整備も進み、田園風景は薄れてきたものの、古い道筋が一部残り昔の面影を留めるいい街だ。各町内には氏神様が祀られ、それらは神社当番によりお世話をされている。大市場町を東西に走る県道166号線、その北側に鎮座する「縣明神社」南北に長い境内を持ち、参道は県道の交差点を越え更に南に続く、この町の氏神様だ。鳥居から境内の眺め。門松が飾られ、小さな蕃塀と鳥居の先に瓦葺の切妻拝殿が見える。右手に縣(あがた)明神社の社号標があります。幟や神社幕、提灯が吊るされ新年を迎えるばかりだ。平年ならば当番の方はこれから忙しい時を迎える。鳥居から先の境内。左に脇参道があり、街路樹の様な杜が社殿を囲んでいる。地元のかみさん曰く、この辺りは神社の名前で呼ばず、〇〇町の神社で呼ぶようだ。この神社の詳細はさっぱり分からない。この神社誰を祀っているか尋ねてみたが、「参拝はしてもそれが誰かは考えた事がない」という回答。確かにそうかもしれないな・・・・・残念。境内左の手水鉢、龍はいない。前面に文字が刻まれているが悲しいかな読めず。切妻で四方吹き抜けの拝殿。屋根は軒に向かい緩やかに曲線を描き、木造のシンプルな外観はいかにも馴染みやすい町の神社の佇まい。五三の桐が神紋のようです、拝殿から幣殿は間近に見通せます。拝殿左から幣殿、本殿の眺め、玉垣の先に灯籠と狛犬、どちらもいい感じで古びている。幣殿前の肉付きの良い狛犬、奉納年は不明。切妻で平入の幣殿、両脇に棟を下げた小さな建屋が一体となり、内部は一つの空間になっているようです。こうした構造の造りの呼称は知らないけれど、単純な平入の切妻より重厚な印象を受ける。幣殿右に境内末社が祀られています。幣殿から本殿は渡廊で繋がっているようで、本殿の全容は見えませんが屋根の形は流造の様です。神社は旧村落の大円寺地区の氏神で、安産・縁結にご利益があるとして信仰されたきた神社だという。ここから徒歩で20分程北西の所に、1505年(永正2)からの続く建雲山龍潭(りゅうたん)寺があります。そちらで1659年(万治2)から伝わる古文書に、この地に長谷大明神と記されているという。一枚目の地図では、ここに鳥居の印が描かれるのは大正から、社号標にも大正9年と刻まれています。規模や形態からそれ以前は記されていないとして、古文書のそれが縣明神社の始まりだとすると、古くからこの地の移り変わりを見続けてきた神社。祭神は大縣大神(大荒田命)を祀るようです。幣殿右の二社。何れも社名札がなく詳細は不明、境内はここから右に少し広がります。手前に霊神碑があり、参道は赤い稲荷鳥居に続いています。霊神碑の右隣に社があります、御嶽社か? こちらも分からない。社殿を取り囲む様に堀になっていて、恰も島の様に見える。雰囲気は・・・・・、社名札が欲しいところです、かみさんじゃないけれど取り敢えず参拝するのだ。この稲荷も詳細は分からない。さしずめ縣稲荷と勝手に言う事にしておこう・・・・・社名札が欲しい。稲荷鳥の先の本殿。見逃したか、狐の姿は見かけられなかった。いつも横目に眺めていた小さな町の神社、訪れて見れば見た目以上に大きいものだった。県道の先も参道のようで随分と先にも神社幟が見える。どなたに参拝したのか、もやもやは残るけれど、お陰様で一年無事に過ごせそうなことに感謝。予報通りに雪も降り始め、その勢いは増してきた、県境の駅に向かおう。体調に問題はないらしいが、それにしてもこのタイミングで名古屋に帰省するかな? 素直にその気持ちは嬉しい、土産のへしこも楽しみだ、それをつまみに一緒に酒を飲もう。縣明神社創建 / 不明祭神不明 / 不明住所 / 岩倉市大市場町順喜1
2021.01.27
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三重県四日市市久保田「窪田神社」 近鉄名古屋線四日市駅から徒歩30分程西の三滝川右岸堤防の手前に鎮座する。三滝川。(久保田橋下流から上流の眺め) 西方の御在所から湧き出た水は窪田神社の背後を流れ、四日市市内を経て四日市港に流れ下る2級河川とか。堤から川面を眺めると以外に澄んだ流れ、神社に向かう前に河原に下りて涼んで見た。 四日市はどうしても過去のイメージが付きまとうが、こうして見る空も水も青々として今では四日市港から三滝川を遡上するアユの姿も見られると云う。過去の負のイメージは微塵も感じさせない。 この写真の堰堤、御存知の方も多いと思いますが、風船のように内部に空気満たし堰を形作るもの。こうして溜められた水は導水口から取り込まれ田畑を潤し、町内に流され涼感を与えてくれる。上は1898年頃の久保田橋界隈(左)とほぼ現在。 当時は久保田橋もなく、三滝川右岸の久保田集落と左岸の野田集落以外は田んぼの広がる一帯。先程の堰から取り込まれた水はこれらの水田を潤す事になる。 随分と寄り道してしまったが窪田神社の話に戻そう。上の地図に窪田神社の位置をマーキングしてみた、明治31年の地図にも鳥居の印を見ることが出来た。 三滝川右岸堤防道路。 なんとこれで国道(477号線)なんだと云う。窪田神社は右手側道の横になります。側道を下りた久保田町。 柳通りから北に入った道路に面し窪田神社の社頭がある。堤防と柳通りの間に鎮座し、社殿は大きな樹が聳えた杜に包まれている。 駐車場は見当たらなかった。社頭から境内の全景。 社標としては立てられていないが、右の幟立てに「窪田神社」と刻まれていた。常夜灯の先に石の神明鳥居、その先が拝殿、本殿の伽藍。境内右に手水石。拝殿正面全景。 切妻瓦葺で軒先を長くして向拝を設けている。神紋は鳥居に刻まれていた左巴の紋だろう。社殿全景、といきたいところですが左右に樹々が迫り本殿の姿まで入り切らない。 窪田神社の創建等の詳細は定かではなく、一説によれば1926年(大正15)に四日市市赤堀の八坂神社から分祠したとある。地図が発行された明治31年には既に鳥居の印、境内の燈籠の1854年(嘉永7)などから八坂神社から分祀されたことは事実だと思いますが、それ以前から存在し江戸時代まで遡る神社のようです。 それは何だとなるが分からない。拝殿横から本殿域。 神明造の本殿は鰹木5本、千木は外削ぎで、本殿域には燈籠、狛犬が安置されているようだ。祭神は健速須佐之命の一柱とされるようです、分祀年度や地図の履歴から一柱ではないような気がする。社地左側から社殿の眺め。 左手に澄んだ小さな流れが続き、そこには小魚も泳いでいる。右手の看板が神社の由緒?と期待したがそれは外れだった。三滝川「石垣井堰」からの取水口「農業用水に供するため、三滝川に堰を造り、そこから左岸の野田側と右岸の久保田側に水を取り入れている。 ここで取水した水は、久保田と芝田の田を灌漑している。この堰は「石垣井堰」と呼ばれ、河川改修に伴う井堰を造り替える工事が、2000年(平成12)から始まり、2003年(平成15)に完成した。 現在久保田、野田の自治会が維持管理している。堰はゴム堰で、いわば風船を膨らませた形で川に堰を造り取水している。 表面水、伏流水両方の水を取り入れているが、きれいな水が流れ込んでおり、上流部では源氏ボタルのえさにもなるカワニナが生息している。この川の流末は阿瀬知川になっている」市内を歩いていると阿瀬知川を至る所で見かける。 街で見かける淀んだ汚い水ではなく、三滝川の澄んだ水が導かれ適度の流れを持つもので、横を歩いていても酷暑が続く毎日ですが、見た目体感ともに涼やかだ。淀んだ汚い川には蓋を被せ暗渠にして見えなくする手法より、川を綺麗にして絶え間なく水を流してやる前向きな取り組みだと思う。 子供の頃身近にあった川も今や三面コンクリートになり、遠ざけられ危ないものの様に扱われている。親水の中から学ぶ事は多いのだが・・・学ばせるより排除する方が容易だし金を生まない事もあるんだろうね。 ひょっとすると四日市市内に蛍が飛び交うのも夢ではないのかもしれないね。窪田神社創建 / 不明祭神 / 健速須佐之命所在地 / 三重県四日市市久保田2-17-18公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋線四日市駅西に徒歩30分程訪問日 / 2022/06/10関連記事 / 四日市来来憲の大とんてき
2022.07.06
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神倉神社ゴトビキ岩から無事に戻り、帰りに参道脇の出雲大社新宮教会へ参拝させてもらいました。写真は神倉神社新橋です、出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会はこの手前左側に鎮座しています。神橋の袂にある下馬標石の右に白い花が咲き誇っていました。2月21日、名古屋では開花もしていな時期、一足早く春を感じさせてもらいました。やけに雄しべが長いけれど花弁の先端に窪みがあるようなので、恐らく桜だろうか?出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会の社頭全景。神橋の手前25㍍程の参道沿いに写真の出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会が鎮座します。参道沿いに鳥居を構ていますが訪れる参拝客は少ないようです。白い明神鳥居と左に社標、その奥が手水舎の様で、正面に稲荷社があるようですが、ここから出雲大社新宮教会の社殿を望むことは出来ません。出雲大社教会、あまり身近では見かけない神社なので少し調べて見ました。神社庁に属す出雲大社(おおやしろ)の境内に本部を置く、出雲大社教は神道一三派の一つ。神社庁に属さない単立宗教法人で、起こりは1882年(明治15)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福が創設した教団なのだそうだ。千家尊福は「出雲大社敬神講」を立ち上げ布教活動を行っていたが、明治15年、明治政府は神官の布教活動を禁じたため、千家尊福は宮司の職を降り「神道大社派」を結成し初代管長として布教活動に専念する事となる、その後名称を「神道大社教」へ改称し、昭和21年「出雲大社教」に改称、昭和26年に出雲大社を宗祠とする姿で「出雲大社教」と呼び現在に至っているようです、こうした教会施設を「おしえのにわ」と呼ぶのだそうだ。主祭神は大国主大神(だいこくさま)。境内に入ると左側に手水舎、龍口から注がれるはずの清水は止められていました。いい顔つきをしているのだが、このコロナ禍では多くの龍はこうして休業状態なのだろう。境内右に掲げられた案内板。「出雲大社新宮教会 例大祭 11月23日 主祭神は大国主大神で「だいこくさま」と申し、多くの御神名を持ち古くから国造りの神、福徳の神、護国豊穣の神、縁結びの神、医療の神、医療の祖神、生産の守り神、幽冥大神とたたえ御神徳の高く広きにより深い信仰をお受けになっている。三柱稲荷神社 例大祭 3月初午祭神は倉稲魂大神、天御柱大神、国御柱大神で十津川村玉置の峰に鎮座する霊験高き玉置稲荷の分祠である。祖霊社 例大祭 春分の日、秋分の日」参道を進む、境内は奥で左に広がっていて、そこに参道に対して左を向いた社標が建っています。社標前は駐車場兼参道のようで、そこからだと拝殿が正面となり社標の向きに違和感はない。正参道はやはり鳥居側で間違いないのでしょう。拝殿は瓦葺入母屋造りの妻入りで唐破風向拝が付く。左の赤い社殿が三柱稲荷神社の覆殿。後方左手に見える山が先程上った神倉山です。出雲大社と云えば大注連縄、こちらの注連縄も社殿に対し随分立派なもの。鬼瓦や賽銭箱には「二重亀甲に大の文字」の神紋が入っています。三柱稲荷神社全景。こちらも鳥居をくぐり左に折れる配置。鳥居右に石像がある、このフォルムは・・・縁結びの神さま大黒様、和歌山県知事の揮毫のようです。鳥居をくぐり参道の突き当りに、縄の架けられた石が安置されていましたが詳細は分からなかった。三柱稲荷神社覆殿全景。いつ頃こちらに分祠されたかなど案内に書かれた内容以外詳細は分かりません。覆殿や本殿自体は比較的新しいように見られます。参道を進む参拝客は神倉神社を目指しますが、参拝帰りに訪れてみても良いかもしれない。人の気配を感じられないし、参拝しても御朱印が頂けるかもよく分かりませんが、綺麗に手入れされた境内と社殿でした。出雲大社(いづもおおやしろ)新宮教会創建 / 不明祭神 / 大国主大神境内社 / 三柱稲荷神社祭神 / 倉稲魂大神、天御柱大神、国御柱大神所在地 / 和歌山県新宮市神倉1-12関連記事 / 「神倉神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的
2021.04.20
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年が明けてから、市内の神社を初めて参拝して回った。場所は地下鉄日比野駅を起点にして六番町方向、そこから白鳥橋に向かい堀川沿いを遡り日比野駅に戻るトライアングルルート。そもそもがウィメンズマラソンのボランティア説明会がこの辺りで催された事もある。昼から二回説明を受けるかみさんに対し、自分は夕方の説明会を受けるだけ、かみさんと一緒に会場近くで昼食を摂った後、トライアングルの中に鎮座する神社を巡ってみた。かみさんと別れ一路神野公園まで南下。公園西側の熱田区神野町1に鎮座する神野神社を訪れた。神社が鎮座する熱田区神野町は昭和11年(1936)に誕生した町名で、過去にウオーキングで何度か徘徊した事のある場所。神社は神野公園南側から西に向かって一筋先の神野町公民館の北側に隣接しています。上は大正9年(1920)当時の神野町周辺と現在の比較。今は住居が広がるこの辺りも、少し前までは堀川を境にして西側は田園地帯が広がっていた。白鳥公園付近には貯木場や白鳥橋を渡る臨港線の枝線白鳥線の姿がある。地図上の南北に続く百曲街道は江戸時代初期の熱田新田開拓に伴い、中野外新田・中島新田の干拓堤防上に造られた道筋で、街道は名古屋城下町と明徳橋方向の西南部を結ぶもので、地図の下から西に向きを変えながら東海道に続いていた。多くの屈曲があった事から百曲街道と呼ばれるようになったそうだ。嘗て百曲とまで呼ばれた道筋や貯木場、白鳥線などは、急速な変貌を遂げた。今となっては、面影も残っていない。神野神社の社頭は道路際に東を向き設けられており、左側の建物は神野町公民館です。道路際に木造の神明鳥居を構え、左に「神野神社」の社標が目印。神社は現在・大正時代共に地図上に印がなく沿革はよく分かりません。社頭前の通りから北方向の眺め。嘗ての水田は姿を消し住居が広がる、東に交通量の多い江川線や名古屋高速が伸びていますが、一筋入った周辺は車の往来も少なく意外に静かな場所。社地全景。木造の神明鳥居は昭和55年(1980)に寄進されたものだった。社殿は境内北側に南を向き建てられ、社殿右に桜の古木が聳えている。境内全景。三段に積まれた石垣の上に祀られた社は神明造で6本の鰹木に内削ぎの千木が付くもの。これらから定説に従えば女神をお祀りする事になる。祭神は定かではなく、恐らく天照大御神を祀っているのかも知れない。創建時期は定かではなく、大正時代は一面水田が広がっていたこの場所に神社が祀られていたとは思えず、現在の町割りが作られ、住宅が建ち始めた昭和13年(1938)以降に、町の安泰を祈願して祀られたものと考えられます。この神社は、町の移り変わりの歴史と共に時を刻んできたものである可能性があります。誰に拝んでいるか分かりませんが、僅かばかりの賽銭を投じ家族の安泰を祈願するのは欲深いかな。道路から見る神明造の社。この時期の境内は、春を待ち望む桜の古木の他に、赤い椿の花が境内に彩りを添えていた。社地北側から神野神社の眺め。町角に佇む小さな神社は町の誕生と共に祀られた町の守り神。神野神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区神野町1公共交通機関アクセス / 地下鉄日比野駅から南西に徒歩5~6分程参拝日 / 2023/2/12
2023.02.20
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瑞穂区神穂町地下鉄名城線の堀田駅から150mほど南に行くと、松田橋交差点に出ます橋と地名はあるものの橋はなく、交通量の多い国道1号線に架かる歩道橋があるのみ歩道橋脇の名古屋高速3号大高線高架下に八丁畷(なわて)公園があります八丁畷は1575年(天正三)織田信長が四人の通路奉行を置いて、領地の道路を整備した際、浜の道(熱田~笠寺)も作られた事から始まり、後に1601年(慶長六)徳川豪康か伝馬制度を定め、その道は東海道の一部となり、この周辺が田と田の間を通っていたので八丁畷(なわて)といわれるようになった井戸田村から浜新開への用水がこの東あたりで北から南へ横断していた、そこに架けられていたのが松田橋でその橋の名前が地名として残っています当時の松田橋は現在はなく、保存されていた松田橋の親桂を便い八丁畷公園に一部復元されています今回の目的地は「東ノ宮神社」松田橋交差点の少し南に位置しますパチンコ店の南から北の八丁畷公園方向を返り見る国道は相変わらずの交通量ですそこから左に入ると直ぐに玉垣に囲まれた小さな杜目指す『東ノ宮神社』は地下鉄堀田駅からフラフラ歩いても10分もかかりませんフラフラとパチンコ屋に寄れば「lucky」なのか「unlucky」なのか、神のみぞ知るパチンコ店の南裏の交差点、角地に木の鳥居を構えた小さな神社南面を3枚貼り合わせて一枚にしてみましたが・・・・・無理があるね正面の鳥居から境内の眺め鳥居右に社号標、正面に社が3つ見えますビルが西陽を遮り、いい日蔭を提供してくれてます石のディテールをそのままに残した社号標その後方にある石標は明治天皇覧穫之所の碑があります覧穫之所とは何ぞや1936年(明治元年)、遷都のため京都から東京に向かう途中の明治天皇が当地に立ち寄った際、当時の藩主徳川慶勝に今年の稲の出来を尋ねた事からここ八丁畷で収穫の様子や収穫した稲穂を見せた事がこの碑の由縁のようです碑は1913年(大正2)に建てられたもの町名の神穂はこの奉納田があった事から付いた町名といわれているようです当時を偲ばせる絵は先ほどの松田橋の付近に掲げられています長閑な田園地帯に八丁も続く松並木、西には渚が迫る、少し前のこの辺りの情景です八丁は松並木の距離から来ています鳥居左の由緒書き祭神 /熱田大神、天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命末社 / 多賀神社、秋葉神社、津島神社、熱田神宮、秋葉神社秋葉神社が重複している様ですが良くわからない境内左にカボチャの様な手水鉢(現在は使われていないようです)現在の手水鉢はまるで舳を南に向けた舟の様な形をしています手水鉢の左に社務所がありますが無人の様でした鰹木、千木が施された境内中央の社殿右側の末社左側の末社何れも詳細が記されていないので、ここに記すのは避けます詳細が分かれば加筆する事にさせて頂きます『東ノ宮神社』で印象的なのが碑上段左、「明治天皇八町畷御野立所」を右斜めから、右に1919年(大正8)と刻まれた碑下段左、「明治天皇八町畷御野立所」の左斜画像(昭和9年)、中央「永仰神徳」右は「明治天皇覧穫之所」と狭い境内に碑が複数建之されています残念ながら創建までは分かりませんでしたが周辺の呼続、新瑞方面に拠り所は多数あり、ここだけでは終わらないと思います『東ノ宮神社』住所 / 名古屋市瑞穂区神穂町1アクセス / 地下鉄名城線「堀田」下車、徒歩5分程
2018.08.12
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名古屋市西区城西5-22-13名古屋城のすぐ北を流れる堀川に架かる「筋違橋」から北に5分程歩いた住宅地に「 尾州高野山 大師寺」は鎮座します。赤い鳥居が目印になるのかも境内入口に「嵐の中で生きている、されど嵐に気付かず生きている」住職の教え書かれた掲示板が目に付きます。道路を更に進むと本堂が見えてきます。右に寺号標が建っているけれど、フェンスの「高野山真言宗 大師寺」の看板の方が目立っています。こちらにも「心中の悪魔を認める事ができる人は、自分を制す」と書かれています。「自らを分析し、改めるべきところは改めよ」という事でしょうか。耳が痛い言葉です。道路から境内を眺めると、正面に方形屋根の瓦葺本堂と左に稲荷鳥居が目に付く。手水鉢は境内右 芝生の境内と置かれたテーブルが個人宅のような趣で親近感ある雰囲気があります。境内左に稲荷鳥居が連なります。ふくよかな風貌の狛狐の先に熊鷹稲荷大明神。詳細が分からなかったので後日住職に伺ったところ、いつ頃のものかは分からないとの事。ただ、伏見稲荷から勧請したものとお話。ん?稲荷の右に宝船に乘った七福神。境内右に水子地蔵、釈迦如来、大師像が安置されています。笠を被った小さな地蔵が行儀よく並んでいます。本堂。方形の木造瓦葺屋根の頂の露盤はシンプルなものですが、本堂のシンプルな外観に相応しいものです。本堂前に重軽地蔵尊、赤い前掛けと笠を被ったお洒落な地蔵さん。願いを込めて地蔵を持ち上げ「一度目より二度目に持ち上げた時が軽く感じれば願いは叶う」そうだ。本尊は阿弥陀如来、宗派は真言宗 、創建は不明。住職によれば明治頃に御園座近隣に高野山の隠居寺として鎮座していたそうで、空襲で焼失後の1949年(昭和24)にお替地でこちら建てられたとの事。この近隣にはそうした時期に移ってきた寺院は多いとか。その後の昭和44年~60年の間は無住職の時期があったそうです。境内の眺め。風もない穏やかな午後、庭でお茶でも的な趣です。境内右の波切不動明王。弘法大師31歳(804年)に入唐する際に暴風雨に遭い、一心に念じたところ「波切不動」が現れ、荒れ狂う荒波を断ち切り船を導いたと云われます。住職によれば四国三十六不動尊霊場の二十番札所の光林寺の本尊と同じという事です。波切不動の左に印塔とその左に福光大龍神の社。現住職によれば移転の際には稲荷含めて祀られていたもので詳細は分からないとのこと。境内西の道路際の空き地に弘法大師像。大師寺の敷地で2-3年ほど前に居住者不在となり、大師寺に譲与されたそうで、住人の供養も含め建立したものだそうです。首を少し傾げた穏やかな表情の地蔵が弘法大師の脇に安置されています。大師寺から一筋西の城西5の道筋で見かけた地蔵堂。阿波国二三大師 一番、二番札所と刻まれた石標が建ち、側面には城北講と刻まれていて、調べてみるも辿り着けなかった。左手の手水鉢は清水を湛えています。堂内には一体の石地蔵「屋吉地蔵」が安置されています。こちらについても住職に伺うが、この地域で古くから祀られていたもので、戦災で焼け残り、新たに堂を設けて親しまれているものではないか、屋吉とは人の名ではないかとの事。真言宗 尾州高野山 大師寺創建 / 1949年(昭和24)本尊 / 阿弥陀如来境内社 / 熊鷹稲荷大明神、福光大龍神住所 / 名古屋市西区城西5-22-13公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「浄心」から東に徒歩10分程屋吉地蔵住所 / 名古屋市西区城西5-19-2
2020.02.02
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既に掲載した小牧市野口の八幡社から山間に車を進める。 小牧とは思えない深い森とカーブが連続する狭い道を上っていきます。やがて道は二手に分かれ、右に進むと広い駐車場で行きどまり。 入口に写真の「兒神社」の石標と「史跡大山廃寺跡」の石標が立っているので目印になるでしょう。この駐車場が今回の目的地「兒神社」の駐車場。石標脇の「史跡大山廃寺跡」の解説板。 「大山廃寺、白鳳時代から中世にかけて存続した山岳寺院跡」。塔跡の礎石や各所に建物跡が残る。 昭和49~53年まで発掘調査が行われ、兒神社境内から平安時代の掘立柱の建物三棟、中世の礎石建物二棟など発見され、塔跡のみの国指定史跡から寺域全体に指定範囲が拡大された。」今回大山廃寺跡の塔跡までは行っていませんが、兒神社とこの史跡は切り離せないので記載しておきます。上は1923年(大正12)に出版された東春日井郡誌に「大山廃寺跡と兒神社」について記載されていたのであげておきます。石標から右に進むと写真の駐車場で道は途絶えます。 兒神社は突き当りの先に鎮座します。訪れたのが10/5という事で、周辺の山々が紅葉するには少し早かった。 代わりと云ってはなんですが、周辺、境内には蚊が多く、二人ともボコボコに刺されました、活動時期に訪れる際は虫除けは必須かもしれない。蚊ごときなら危害はないが、無人の社地は獣に遭遇しそうな雰囲気が漂っている。駐車場から兒神社社殿は目の前。 入口に大山廃寺塔跡、礎石建物跡の道標が立つ。道標から右に進むと目の前に境内と拝殿が見えてくる。 人里離れた山中に鎮座するので荒れた神社をイメージしていた。しかし切妻瓦葺の吹き抜け拝殿や境内は枯葉に埋もれる事もなく、綺麗に手入れされ、人の気配を感じられる神社です。 麓で神社幟を見かけたが、兒神社社頭は麓にあるのだろうか。今更戻るのもなんだ、帰りに寄ってみようと思いつつ、寄り忘れてしまい社頭の光景はなし。拝殿から更に右に進むと石灯籠、その先に神明鳥居が建てられ、両脇に神社幟がはためく。笠木の先端が欠け落ちた神明鳥居(寄進年不明)と燈籠。 鳥居から下を覗くと石段が下に続いてた。鑿跡の残る燈籠の竿には安永(1772~1781年)の文字が刻まれていた。鳥居の前から社殿方向を眺める。 写真の右手が礎石建物跡だと云う。傍らに解説が置かれていたが苔に覆われよく分からない。 位置的に鳥居の西側なのだが、囲われている訳でもなく、「これが礎石だね」と思うものは見つけられなかった。燈籠の先の兒神社社標。 明治18年(1885)と刻まれ、下に右善光寺とある。拝殿から本殿方向の眺め、拝殿とは書いてはみたものの、ひょっとすると神楽殿なのかも。拝殿右手の手水舎。 鋭い爪を持った龍がいるが、その口からは清水は注がれていなかった。この手水舎から下に道が続き、その先の石尊不動明王へ続く。社殿全景。 結構急な石段を上ると右手が社務所、中央が幣殿だろうか。石段の両脇に狛犬の姿がある。狛犬側面。 どちらも口を開け、背中をピンと伸ばし胸を突き出す姿、とても姿勢のいい姿だ。毛並みなどは輪郭として描き、立体的な彫り方はしていない、素朴で好感が持てる。 台座には「〇和11年」と刻まれている、拡大すると昭和と読めなくもない。斜めから見る狛犬。 右の狛犬は姿勢を正しながらも口元がにやけた表情をしているように見える。結構お気に入りの狛犬のひとつになりそうだ。幣殿から本殿方向。 本殿域は白壁で囲われ、本殿は脇障子を持つ流造のように見えます。創建は久寿2年(1155)創建とされ、祭神は天照大神、少彦名神、多聞童子、善玉童子、禰宜。 現在までの沿革は不明。先の解説にある様に、嘗てこの地には「大山峰正福寺」が存在した。 由緒、創建などは不明だが、往時は比叡山と並ぶ寺勢を誇っていたことが伺われる。仁平2年(1152)に比叡山延暦寺の僧兵に攻め込まれ堂宇は悉く焼き尽くされた。 その際、僧1名と2名の子供の修行僧が亡くなった。後に、近衛天皇が病気になり、大山寺の1僧2児を祀れば快癒するとの占いから、当社が創建されたと伝わります。 毎年3月15日に行われた祭礼は、亡くなった二児の没した日だとされる。一部に心霊スポットと捉える向きもあるようですが、そんなことはない。 参拝の折にはここで鎮まる二児を思い手を合わせてもいいのかもしれない。本殿左の境内社。 氏神の石標と社が3社祀られているが何れも社名札がなく詳細は不明。境内社と社殿全景。拝殿瓦。 鬼に菊と右三つ巴の紋が入る。既に過ぎてしまったが、紅葉や境内の桜の樹など、四季それぞれに表情を持つ神社のようだ。兒神社創建 / 創建は久寿2年(1155)祭神 / 天照大神、少彦名神、多聞童子、善玉童子、禰宜境内社 / 不明社3社祭礼 / 1月1日 歳旦祭、4月第1日曜日 稚児祭、10月第2日曜日 例祭所在地 / 小牧市大字大山字郷島412野口八幡社から車アクセス / 野口八幡社から5分 関連記事 / 八幡社(小牧市野口)
2022.12.08
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源兵衛町源兵衛公園、何やらすごいネーミング それにつられて名古屋市南区を訪れました目的地は須佐之男社 名鉄常滑線「柴田」で下車、20分程歩いただろうか源兵衛公園に到着、公園の南側に隣接する様に玉垣で囲われた杜が現れた神社の西側には紅白の梅の花が咲き誇り彩を与えていました 写真奥が源兵衛公園ですが、公園内、神社内は子供達の遊び場になっています自分も子供の頃に身近に神社があり、陽が傾くまで遊んだなァ西側にある鳥居、二の鳥居まで見えます 早速境内へ一の鳥居を過ぎた右に手水舎と手水鉢、水は僅かに注がれていました 左には社務所兼集会所?でしょうか本殿の側面も正面に見えています、拝殿はこの先の左に回されるのかナ?二の鳥居から一の鳥居を眺める力石と石標が祀られている 境内が広がると共に南側に別の鳥居が見えてくる、あれ?南側に回り込み仕切り直し南側からの眺め、鳥居とその先に拝殿、やっと見慣れた風景になりました 背後には天白川の堤防が迫っています、海抜はゼロ鳥居左の石標には由緒が刻まれています 右の社号標は村社「須佐之男社」とありますが、古い社号標には「村社式外須佐之男神社」と彫られ残っています 社号標の右奥が手水舎になります 色白のかえるくんがお出迎えです 水は絶え間なく注がれ、澄んでいて気持ちがいいよね境内左の銀杏の古木 社創建の際の記念樹として植樹され、現在もその姿を留めています鳥居から拝殿を臨む 拝殿前で優しい表情で見守る狛犬です参拝前に拝殿右から鳥居方向を眺めてみました どっしりとした鬼瓦と破風飾りも誂われた拝殿の先には堤防が見えています外見に対し拝殿内は飾りっ気のない質素な印象を与えます須佐之男社由緒九州大友家の家来で知多郡大高町の山口源兵衛は1706年(宝永3)、堀川の材木庄大山屋二代目の神戸文左衛門より資金融資を受け干潟に築堤、新田を作りそこに天王社を祀ったのが始まりとされます約300年の歴史を綴ります源兵衛町の由来はここから来ていると思われます源兵衛の新田は今では住宅地に変貌しコンクリート堤防で守られ面影は感じられません 幣殿と本殿、夕陽を浴び、装飾飾りが黄金色に輝いています拝殿左には二つに分かれる参道 左は西側の鳥居へ、右参道は境内末社へとつながります末社は左が伊勢皇大神宮、右は秋葉神社拝殿右側参道先の境内末社「水天宮」 小さいながら神社伽藍も形になっています源兵衛が作った新田、その氏神に見守られ、源兵衛公園では子供達の戯れる声が聞こえてきます いい情景だと思います 須佐之男社 御祭神 / 須佐之男命創建 / 1706年境内末社 伊勢皇大神宮・御祭神・天照大神 / 秋葉神社・御祭神・迦具土の神 水天宮・御祭神・天御中主之神住所 / 名古屋市南区源兵衛町5丁目-1385アクセス / 名古屋市南区源兵衛町5丁目-1385
2018.03.06
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千代保稲荷神社は、岐阜県海津市にある稲荷神社で、京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷とともに、日本三大稲荷の一つといわれる。このあたりでは通称「おちょぼさん」として親しまれています。こう書き始めると絵が違うと思われますね、そうです、ここは名古屋市内の千種区にある『千代保稲荷神社名古屋支所』名古屋大学の北、東山動物園の西側にある住宅街に佇む小さなお稲荷さんです。門前町の賑わい、串カツやら大学芋、なまずを頂ける店はありません。車道に接しており、朱色の鳥居、この時期には桜が咲き誇りお気づきの方も多いと思います。車道に接した朱色の鳥居を見つつ、緩い階段を上ると正面に支社、そこから右に行くと本殿と拝殿がある境内へ。折しも、盛りは過ぎたものの八重桜が境内に色を添えています。木々には提灯が吊るされ花見のスポットになっている。拝殿前には商売繁盛祈願の定番、名刺が至る所に差し込まれひしめき合っている。ただ、揚げが見当たらない・・・・・、御祭神は岐阜と同じ。僅かな賽銭、過大な祈願。御祭神:大祖大神、稲荷大神、祖神創建:昭和27年4月27日本社はお下がりの揚げが頂けたり、おやじ好みのB級グルメも味わえます。とにかく道路が混む。まだ八重桜は楽しめます、こちらに参拝すればOKなんです。住所 愛知県名古屋市千種区園山町1-64tel 052-781-1927アクセス 地下鉄「名城線」⇒名古屋大学駅下車3出口⇒徒歩約7分緯度 35° 9'26.50"N 経度136°58'6.49"E
2017.04.24
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名古屋市南区呼続「秋葉神社」瑞穂区河岸町の「秋葉神社」から山崎橋を渡り対岸の南区側へ渡ります山崎川の堤の下流側に鎮座します橋の正面に東海道の道標と白い石標が視界に入ります左は宿駅制度制定時に建てられた旧東海道の道標 右の角の欠けた石標は・・・・・廻り込んで見ると大きく「山崎橋」と彫られています 明治の頃に作られた「山崎橋」の親柱(欄干の端に立つ太い柱)と呼ばれるもので当時のものが今も残ります、角が欠けた理由はなんでしょうね?山崎橋を渡った下流側に呼続「秋葉神社」が鎮座します対岸を眺めると正面に川岸町の「秋葉神社」が見渡せます ここからは社が見えるのみ、如何に堤防が高いか良くわかります山崎川の流れは天井川の様相を見せています呼続「秋葉神社」の手前にある石標、これは対岸で見た物と対の様です堤の上にさらに一段積まれた上に社が祀られています、見えていた玉垣はこれです こちらは鳥居も狛犬も見当たりません 住宅に挟まれ、対岸の河岸町「秋葉神社」以上に窮屈そう 堤防の南側は旧街道の名残りが漂う狭い道沿いに住宅が犇めいていますその様な立地だからでしょうか、このあたりには秋葉神社が点在します堤から境内に入った右側に社はあります こちらも神社当番の方により、手入れされているようです以前、私の町内にも神社を中心として、住民同士の交わりがあったものです しかし、それも神社の荒廃と共に気が付けばなくなっていました火伏の神として創建、今も受け継がれる呼続「秋葉神社」南区呼続「秋葉神社」創建 / 不明御祭神 / 火之迦具土神住所 / 名古屋市南区呼続1丁目アクセス / 地下鉄名城線「妙音通」下車南へ7分程ミャー子から「山崎橋」の親柱、角が欠けた理由はなんでしょうね?」の記述に対し「昭和20年5月17日の空襲空襲により欠けた」と教えを頂きました。なかなかそこに辿り着けませんが、ひとまず「全国主要都市戦災概況図」から周辺の被災状況を掲示させて頂きます。
2018.06.15
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みやみち地蔵から塩付街道を南に150m程歩いた民家の駐車場脇に小さなお堂がありますフェンスの陰になり直前まで来ないと分かり難いかもしれません見落としたら、みや道地蔵方向に振り返って眺めて下さい右側に真新しい四角い白い箱の様なお堂が見えるはずです一見するとお堂には見えません、両サイドか半透明で外光が入り込み明るくモダンなお堂です外光が入り込み、中に祀られた三体の地蔵が良く見えます左から、馬頭観音、川澄地蔵、子安地蔵とならびます川澄地蔵は尾張藩士の川澄平吉が先祖供養のために祀ったのが始まりと云われます長い歴史の尾張藩、いつ頃祀られたものなのかは不明ですこれらの地蔵は、以前は各々別の場所に祀られていた物のようです区画整理などで行き場を失ったものが、住人の厚意により引き取られ、敷地にお堂を建て祀られたものと聞きますみやみち地蔵同様に黄色の前掛けと赤い帽子を着せてもらい綺麗に手入れされています街道は塩を乗せて行き交う馬や旅人で賑わった当時から、車や自転車、ここに住まう住人に様変わりしたけれど、この街道の移り変わりを見守り続け、今では本来の役割を終えたけれども安住の地を得てここで今も見守ってくれています名古屋市立大学病院の東側の塀には、この道を通る人々に謂れを伝える案内板が掲げられています一見すると市教育委員会の案内板の様に見えますが、塩付街道保存会の方々により作成されたもの後世に語り継ぐ良い取り組みだと思います我々には神社仏閣以上に身近な存在がお地蔵様です通りすがりに御見掛けした際には、是非とも立ち止まり拝んでくださいこれからも歩道の傍らでずっと見守ってくれるはずです川澄地蔵住所 / 名古屋市昭和区塩付通7丁目アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」下車、東へ10分程
2019.01.14
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京都府亀岡市の北東部に鎮座する出雲大神宮。大国主命と后神の三穂津姫命を祀り、この二柱を合わせ出雲大神、日本書紀では出雲大神宮、出雲神社などとも称される。ここを訪れたのは11月15日、本格的な紅葉には少し早かった。それでも陽当たりのいい南側は、赤く色付いたもみじが目を楽しませてくれます。駐車場から出雲大神宮が鎮座する御神体山の御蔭山方向の眺め。周囲には稲の収穫を終え、喉かな田園地帯の風景が広がっています。神社表参道の東隣に「神饌田」の案内板いつもの様に「チョッと行って来るわ」と単独行動。神にお供えする米を育てるための田ですね、周囲を注連縄で囲われた神聖な場所です。参道入口のモミジ枯れかけているのか、紅葉しているのかはっきりしないが、陽当たりのいい所では随分と色付いている。出雲大神宮一ノ鳥居から参道の眺め。参道脇のもみじの赤とイチョウの黄、それとなくですが色付きを見せ四季の移り変わりを醸し出しています。一ノ鳥居扁額参道脇のさざれ石(右)と「丹波國一之宮出雲大神宮」と彫られた社名碑(左)が建つ。この揮毫は「出雲大社」の現宮司のもので、碑は2014年に建てられた様です。二ノ鳥居も間近に見えて来ます。左が社務所になる様です。二ノ鳥居扁額。出雲大神宮由緒書き丹波國一之宮で正式呼称を出雲大神宮千年宮出雲神社と呼称する様です。社殿は709年(和銅2)に造営され、現在の社殿は鎌倉初期の建立。祭神は大国主命と后神の三穂津姫命をお祀りし、他に天津彦根命、天夷鳥命が祀られているという。元出雲とも呼ばれるそうで、やがて訪れる島根の「出雲大社」とは大国主命をどちらが勧請したのか諸説ある様です。参道右の「しあわせ なでうさぎ」大国主命に助けられた「因幡の白兎」で大国主命神の使いとされる白兎。びょん〃飛び跳ねるところから、運気アップや飛躍を象徴する動物とされ、この体を撫でる事で御利益が得られると伝えられています。このうさぎの石像は、自分の体の痛い患部と同じ箇所を撫でる事で病が治癒するパワーがあると云われているそうです。全身撫でまわしておきました、これは無しだろうか?参道左の「弁財天」鳥居をくぐり神池に迫り出す様に小社が祀られています。この新池辺りが日照も良く紅葉は進んでいます。境内右の手水舎と背景の赤い鳥居が夫婦岩、その奥の鳥居が大黒恵比寿舎。手水鉢(上)と勢いよく清水を注ぐ龍、働き者です。「夫婦岩」ここで手を合わせ、縁を結びたい方との縁を願うと叶うと云われる。「大黒恵比寿舎」社殿創建1305年の記念で建立されたようです。大国さまは本殿の大国主大神、恵比須さまは笑殿社で祀られる事代主大神、どちらもにこやかな笑みを浮かべています。この先も歳を重ねていき、目指す表情はこうありたいものてす。境内の眺め正面の入母屋造りの檜皮葺の拝殿は1878年(明治11)に造営されたもの。拝殿前の「狛犬」肉付きのいい体格で色褪せた風貌は貫禄を感じます。「舟岩」石自体が舟の形に似ているけれど、特に解説は掲示されていなかった。拝殿から中門、本殿の眺め「 中門」他の社殿同様に檜皮葺の切妻造のもの、シンプルで落ち着いた雰囲気があります。本殿は709年(和銅2)に造営され、現在の社殿は鎌倉初期の建立と云われている。祭神 / 大国主命、三穂津姫命拝所からは朱は見えますが、全貌は分かりません。拝殿右の鳥居鳥居から先の参道は緩やかな登りとなり杜の中へ消えてきます。「楽殿」鳥居をくぐった左にあり、入母屋の赤い屋根が特徴。楽殿から漸く本殿の一部を見る事が出来ます。参道は二手に分かれます、磐座のある左に進みます。分かれ道の杜の中に佇む「崇神天皇社」祭神 / 崇神天皇 社殿によると、出雲大神宮は崇神天皇により再興されたと伝わるそうです。崇神天皇は第10代天皇で、実在した可能性のある最初の天皇ではないかという説もある様です。本殿沿いに伸びる参道の先に新たな鳥居が見えて来ます。鳥居が多いナ参道左を進むと流造りの本殿が良く見てとれます。1906年(明治39)に重要文化財に指定されています。 本殿から中門、拝殿の眺めシックなイメージの伽藍の中にあって、鮮やかな朱が施された本殿は存在感を感じるものです。正面の赤い鳥居の先は「稲荷社」祭神 / 宇迦之御魂神 五穀豊穣・商売繁盛の神穀物の育成を司る神様でお稲荷さんとして馴染みがある。「御蔭の瀧」稲荷社左に流れ落ちる小さな瀧で、竜神乃神を祀る滝として古くから崇められているそうです。「春日社」御祭神 / 建御雷之男神、天兒屋命古来より祭祀を司ってきたのが藤原氏と云われ、その祖神と崇められた天兒屋命を祀り、建御雷之男神と共に春日大社から勧請されたようです。 「古墳」春日社左の御蔭山の斜面にあり、ここから先は一切の立ち入りが禁止。5~6世紀前の横穴式の前方後円墳らしく、西南にも千歳車塚古墳があり、この地方では最大の前方後円墳の様です、古くから御蔭山は神聖な山として崇拝対象となっていたようです。「磐座」古墳の左、本殿後方の杜に佇む、注連縄で囲われた苔むした巨岩。古代の祭祀跡、目に見えない神がここに座られている。ここに立ち、静かに目を瞑り神にお願いしながら手を向けることで、神から力を授かる事ができる。木々に覆われた静かな雰囲気の中、木漏れ陽を受け佇む磐座、この場所が特別な空間である事を肌に感じます。磐座内は古墳同様に神聖な場所、立ち入り禁止となっています。「上の社」稲荷社から右手に続く参道を登って行くと、左側に「上の社」本殿が現れます。祭神 / 素戔嗚尊、櫛稲田姫尊創建 / 1813年(文化10)、擬宝珠に刻まれています本殿檜皮葺の流造りで向拝が設けられ、先程見て来た出雲大神宮本殿の造りを意識していると云います。上の社から右手へ、参道は二手に分かれます。左は神の磐座、神体山の御蔭山へと続きますが、ここから先の神域は社務所で参拝の意図を伝え、たすきをお借りした上でなければ入山出来ません。それを知らなかった私達二人はここで登るのを諦め、ここから右に下った笑殿社方向から境内に戻ります。「笑殿(わらへど)社」祭神 / 事代主命、 少那毘古名命参道を下った左手、杜の中にポツンと建つ笑殿社、大黒恵比寿舎の恵比寿様が祀られています。「真名井の泉」参道を更に下っていくと境内が見えてきます。表参道の右手に滾々と地下水が湧き出る「真名井の泉」と呼ばれる霊水があります。御蔭山から古来より流れ続け、この水が田畑を潤し作物を実らせる。ミネラルバランスのいいこの水は、病にもいいと云われているようで、訪れた時も茶やcoffeeに使うために周辺の方が水を持ち帰る姿が見られます。毎日この水を飲んでいれば医者など不要なのかも知れません。境内参拝マップ「神の磐座」と新池北側にある「黒太夫社」は今回参拝を見送ります。新池の堤沿いに駐車場へ戻りましたが、神池は水位が低く弁財天は宙に浮いていました。水面に映る紅葉・・・・・とまでは行きませんが神池周辺は他に比べ色付きはいい様でした。御蔭山の紅葉は見た事が無いので分かりませんが、今頃は山全体が赤や黄に染まっているのでは?それが終われば丹波の國にもいよいよ冬が訪れる。2019/11/15「丹波國一之宮 出雲大神宮」住所 / 京都府亀岡市千歳町出雲無番地
2019.12.01
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春日井市神領町『三明神社』県道15号線志段味中学校西の交差点を左折、県道75号線(春日井長久手線)を経由し下志段味橋を渡ります。庄内川を超え春日井市に入り神領町南の交差点を左折、一筋目を左に入ると杜が視界に入ると思います、その杜が神領町の「三明社」。神領町公民館から見た三明社は広大な敷地の中に杜が残され、南向きに拝殿等の伽藍が広がる。公民館の左の大きな解説板は神社の由緒が書かれているのではなく「神領第一号古墳」の解説板でした。この解説板の後方の更地部分が神領1号古墳、コンモリ感がないので古墳の痕跡は残っていません。過去より盛り土は取り除かれていたようで、平成に入り2回の発掘調査が行われ、横穴式石室と須恵器 の蓋坏・高坏などの埋葬品が発掘されています。直径15mほどの円墳らしく、石室は発掘調査後埋め戻され、石室の場所を示す石組みが地面に並べられ、大きさを知る事ができるようになっています、広大な駐車場ではないのでご注意を。公民館の右に参道らしき道筋があり、小社が二つ見える。左の社は社名札はなく詳細は分かりません。右の灯篭の文字はしっかり彫られているが達筆過ぎて読めない。地名?ひなご、神領、篠木、しだみ・・・・・???想像すらできない。参道の右の大きな樹の下にも年季の入った社がある。札は掲げられ文字が書かれていた痕跡はあるが読み取れません。公民館の裏からが参道のようで石鳥居があり、真っすぐに拝殿に繋がっています。参道と思い込んでいた道は車も通る生活道路のようです、右手の堤が庄内川右岸堤防。鳥居の扁額、なんとなく新しいような気がします。両脇に常夜灯(大正2年)と参道中央にも一基の灯篭があり、それぞれ年代も違うようです。参道左の立派な木、種類は分からないけれど若葉の緑がとても目に優しい。参道中央の灯篭の先が拝殿。境内の右に三つの社が祀られているようです。瓦葺切妻で妻入の四方吹き抜け拝殿、そこから渡廊を経て幣殿、本殿に繋がっている。鬼飾りと虹梁下に十六葉の菊紋、龍の彫飾りが施されています、縣魚の鰭には雲?が彫られています。拝殿後方の狛犬(1932年建之)。拝殿内を見渡すも創建に繋がる記載は見当たりません。祭神は伊弉册命、日本武尊、品陀和気命の三柱の様です。常夜灯の建之が1913年とあったけれど、上の地図は左が1891年、右がほぼ現在。1889年(明治22)に 大留村、堀之内村、熊野村、桜佐村、神領村が合併し雛五(ひなご)村となります。この周辺の建物で「ひなご」と残るものはここから来ているのかもしれません。地図には神領集落の北東の外れに鳥居の印が見られます。ここの地名神領は「しんりょう」と読むことから、その昔は神に仕える神官が暮らしていたので「神の領」が縮まり神領と呼ばれたようです。今は「じんりょう」と濁るようです。創建は更に遡り、尾張誌に「三明の社は、神領村にあり」と記されていることから、1844年(天保15)には既に何らかの形でここに鎮座しているのでは?拝殿右からの眺め。緩やかに盛られた斜面に幣殿、本殿が建てられています。拝殿右の三社は右の社は名札に「御嶽社」とありますが、他の二社は社名札がなく分かりません。拝殿左の眺め。本殿左に社があります。こんもりと盛られた斜面に石垣が組まれ、その上に社と意味あり気な二つの石が左右に置かれています。この社にも札はなく詳細は分かりません。本殿を横から見ると流造なのが良くわかります。本殿後方が小高く盛られている部分は、どうやらここも古墳の様です。三明(さんめい)神社古墳と呼ばれ、直径約20㍍、墳丘の高さ3.4㍍の円墳。神社は墳丘斜面を利用し建っている感じです。この周辺には神領第4古墳(現存はしない)など、神社周辺は複数の古墳があったようです。この辺りの神社、どうやら古墳がついて回ってくるようです。春日井市神領町『三明神社』創建 / 不明祭神 / 伊弉册命、日本武尊、品陀和気命住所 / 春日井市神領町屋敷田1032公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車、南へ15分程志段味西新外「秋葉神社」から車のアクセス / 県道15号線⇒志段味中学校西交差点を左折⇒県道75号線、庄内川を超え神領町南の交差点を左折、一筋目を左に入る関連記事 / 下志段味西新外 「秋葉神社」
2020.05.20
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名古屋市東区泉3マンションや住宅の密集する一帯の小さな一画に社殿を構える「松山神社」。名の由来はその昔この辺りは松の樹が生い茂る広大な山林だったことから「松山」神社と付いたらしい。現況を見る限り、とてもそんなイメージが湧きたつことはない。松山神社社頭全景、後方のビルに対し、古風な建物に目が行く。まるで旅館の様な佇まいの建物は松山神社の社務所。この一画だけが時間の流れに取り残されたかのようでもある。松山神社の参道は西側を向いて神明鳥居が建つこちらの参道と、南に鳥居を構えた脇参道の二カ所があり、どちらも鳥居と社号標が建っています。どちらが表参道かと云えば、西側を向いて拝殿を正面に見るこちらが表という事でいいのだろう。鳥居の右に掲げられた松山神社の略記。それによれば「当社は名古屋市東区泉3-2-29に在り。此の地往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり。因って松山神社といい、近世天道宮、天道社又は松山天道とも呼べり。創立年代不詳。大永年中羽前羽黒山の修験隆海之を再興し、守護すること30余年二代…海の後社殿大に荒廃す。元和年中美濃久々利の修験秀恵重興し且つ寿命院を建立別当となる。以来藩主の命に依り祈願所となり、崇敬篤く元文3年5月、御紋付の挑燈を寄付せらる。 明治の初年村社に列し、別当を廃して祠掌を置く。祭神中央は天照皇大神、右は品陀別命、左は市杵島姫命なり。社殿は神殿、拝殿、神饌所、神楽殿、社務所あり、境内に加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社がある。 例大祭は10月14、15日、月次祭毎月1、15日他に5月14日に大祭、7月1日赤丸神事、7月25日茅輪神事がある。 古来土地の氏神として一般の崇敬篤く家内安全、商売繁盛、学業成就、開運厄除の守護神として広く庶民に信仰されている。昭和54年10月吉辰」と記されています。このあたりで熊野、白山、秋葉、御嶽は馴染みのあるところですが、出羽三山の一つ羽黒山は馴染みがありません。大永年中(1521~ 1528年)に遥か遠く羽黒派修験者がこの地を訪れ再興したとあり、現在の松山神社の前進は更に以前からとなるようです。間口は狭く境内は狭い印象を受けます、後方の大きな入母屋屋根の円明寺とは背中合わせとなり、奥がない分、境内は右に広がり、鍋谷町通り沿いの脇参道へと続き、意外に狭さは感じません。境内すぐ右側に鍋谷町の石標があり、その奥に手水舎、手水鉢があり「恵の水」と書かれています。龍口から勢いよく清水が注がれています。井戸水なのだろうか、松山神社創建以前からあり、枯れる事のない井戸として珍重されたらしい。願い事が叶う不思議な水のようです。銅葺屋根で入母屋造の拝殿は神殿へとつながり、手前には狛犬が守護しています。拝殿右手ら稲荷鳥居と右に境内社が纏められているようです。拝殿前を守護する狛犬は1871年(明治4)の建立。拝殿から本殿方向の眺め。よく見ると本殿前にも小さな狛犬がいるようです。拝殿左に、秋葉社、津島社、加茂社、天神社、猿田彦社が纏められている。社殿全景、本殿全体は見通せません、7本の鰹木と外削ぎの千木が施された流造のように見えます。社務所全景、レトロ感漂う佇まいはなかなかのもの。境内はイチョウの樹が多いようで、秋には自然の恵みも得られるかも。この池は?神仏分離に伴い近隣から八幡社と弁財天社を合祀したとある事から、これはひょっとすると弁天池?拝殿右に神楽殿も建てられ、小さいながら伽藍は整っています、左には石灯籠(左は1908年)が並ぶ。拝殿右脇の長寿の大銀杏。昭和初期までは御神木とした古樹があったそうです。その御神木と共存するようにイチョウの樹があり、御神木が朽ち果てた後もこのイチョウは大樹へと成長、天災に遭いながらも成長を続ける生命力から、いつしか御神木の生まれ変わりとして信仰されるようになったそうです。奥は福守稲荷社の社。長寿の大銀杏から右手に鍋谷町通りの続く参道と鳥居が伸びています。通りから境内を見ると福守稲荷社の赤い鳥居と幟が一際目立ちます。福守稲荷社全景。折しも見頃を迎えた紫陽花が境内に彩りを添えていました。紫陽花にはしっとりと降る雨が似合うものですが、記録的な雨はこれ以上勘弁願いたいものです。社の前で程よい肉付きの二対の狛狐が守護しています。福守稲荷社の由緒などの詳細は調べきれませんでした。鍋谷町通りから見た松山神社。円明寺とは壁一枚で区切られています。近代的な作りの円明寺や周囲の景観と比較すると鳥居が無ければ神社の存在感は薄いかもしれない。社務所北側の通りから本殿の眺め、本殿はここが一番見通せる場所かも知れません。境内に聳える長寿の大銀杏とケヤキが住宅街にあって目立つ存在。神社自体はこぢんまりとした目立つ存在ではないかも知れませんが、このあたりの氏神様として、家内安全、商売繁盛、学業成就、開運厄除の守護神として今も崇敬され続けています。2020/06/19松山神社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、品陀別命、市杵島姫命境内社 / 加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社住所 / 名古屋市東区泉3-2-29公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「高岳」下車、北へ徒歩10分程
2020.07.07
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温泉寺から少し南に下ると温泉街の趣が漂い始めます。飛騨街道、中山道にアクセスする下呂宿として古くより賑わってきた。この通りもコロナ禍でなければ日暮れを迎えて、そぞろ歩きの温泉客で賑わうのかもしれない。人混みはどちらかと云うと苦手な自分としては有難いけれど、この絵面はあまりに元気がないような気もする。白鷺が留まった温泉寺のある「中根山」中腹、そこから更に下に位置し、温泉街の入り口から少し坂道を上がったところの冠木門が目印。役行者堂はその右斜面に高く積まれた石垣の上にあります。堂は見上げないと分からないかも知れませんが、常夜灯と白い幟はきっと視界に入るはずです。冠木門から斜面の上へと続く細い参道を進みます。石垣の側面に掲げられた「下呂行者講」の解説。その左に役行者の解説。参道を少し登ると傾斜地に作られた境内が左に続き、その先の瓦葺の小さな堂が『役行者堂』。堂のある位置は、下では見上げる大きさだった冠木門の高さを優に超えています。『役行者堂』全景。左手に手水鉢があり、その奥に素朴なお堂が建つ、堂内には三体の石像が見えます。中央に不動明王と役行者(神変大菩薩)が安置されています。扉がないので像の姿を直接拝めます、後方は前鬼と後鬼だろうか。行者堂の創建は1772年~1780年の安永年間に奈良県の金峯山寺から勧請し建立されたのが始まりと伝えられ、1848年~1854年の嘉永年間に再建されたと云われます。後の2001年(平成13)に現在地に遷座、再建されたのだという。役行者は当初は小角と称し奈良県の金峰山で修行を重ね、金剛蔵王権現の存在を感じ取った行者とされ、修行により様々な術を習得し、それ故朝廷から危惧され伊豆大島に流されたと云います。流された伊豆大島でも習得した奥義を使い、毎夜遠く離れた冨士山で修業を続けたとも云われます。役行者は後に許され行者の尊称が与えられ、没後1100年の1799年(寛政11)に光格天皇(1771年~1840年)から「神変大菩薩」の尊号を賜わったとされます、この尊号を賜ったのは役行者唯一とされます。 白鷺伝説が伝わる天下の名湯下呂の湯と役行者の神秘の力、二重の力はコロナ禍で疲れた心身を蘇らせてくれる?下呂温泉『役行者堂』住所 / 岐阜県下呂市湯之島関連記事 / 岐阜県下呂市 温泉寺
2020.11.09
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和歌山県新宮市神倉「神倉神社」熊野速玉大社から10分程に位置し、狭い道路脇に間口の狭い駐車場があります。駐車場自体それほど広くなく、大きなSUVや四駆には過酷な場所、生活道路でもあり路上で空きを待つのは避けたいところ。しかしそれさえ我慢すれば、熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社「神倉神社」はとても近い。僅か120㍍程の神倉山の中腹に鎮座する社までは、熊野古道の一部の500段ほどの石段を上るだけ・・・・嘘ばっかりです。降臨の地へ訪れるには過酷な道を覚悟しておくべきです。写真は神橋から神社入口の眺め。神橋の先に赤い鳥居、これは猿田彦神社、神倉三宝荒神社の鳥居です。最初に参拝すべき神社。神倉山の山肌を背にして鎮座する猿田彦神社、神倉三宝荒神社の全景。右手が社務所。猿田彦神社、神倉三宝荒神社右手に神倉山から湧き出た清水が滝となり流れ落ち、周囲に比べ空気がひんやりとして、身は引き締まり、流れる水が心を洗い清めてくれる、そんな気になる空間です。湿気があるので看板にあるよな彼らがいてもおかしくない。猿田彦神社祭神の猿田彦は、高天原から地上に降りる天孫瓊々杵尊を高千穂に導いた神で「道開き」の神。御神体のゴトビキ岩に向かう前に参拝。三宝荒神社祭神は火産霊神・誉田別命で、願望成就、商売繁盛の御神徳が高い。高野山の奥社と立里(たてり)の三宝荒神を勧請したもの。上「熊野三山(権現山)」解説「市内西方にそびえる権現山(神倉山)、神が降臨する神体山として崇められて来た。主峰は千穂ヶ峰(253㍍)で鎮護ヶ峰とも記され、神仏が鎮まり守護してくれる山。古くから熊野速玉大社の神降臨の神域として重要でした。権現山の南、高さ100㍍近い断崖絶壁に神倉神社があり「天磐盾」とみなされてきた。ここには神が鎮座する磐座があり「ゴトビキ岩」と呼ばれる。古来から霊域として、修験者の行場として栄えてきた」下「神倉神社由緒」「御祭神 高倉下命、天照大神例祭2月6日 夜御灯祭りという古儀の特殊神事として名高い、白装束に身を固めた祈願者が神火を松明に受け急坂(源頼朝公寄進の鎌倉式石段)を駆け下る壮観な火祭りである。御由緒「熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社。熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神降臨の霊地、熊野信仰の根本ともいうべき霊所。御祭神の高倉下命は建国の功臣、熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の祖として知られ、農業、漁業の守護神として御神徳が高い」「天磐盾」天磐盾とは、神武天皇紀(日本書紀)に、紀元前3年に神武天皇東征の際に佐野を越えて「熊野神邑(新宮の古称)に至り天磐盾に登りて」と記されている。左の碑は紀元2650年を記念し平成2年に建てられたもの。さあ、降臨の地に向け参道を進みます。朱の両部鳥居。鳥居から先は石段が壁のように上に伸びています。降臨の地までは源頼朝寄進の鎌倉式石段538段を登りきらなければ辿り着けません、段数は大した事はないが目の前の勾配は参道ではなく、修験道そのもの。安易なつもりで登れば後悔する事になるでしょう、一番怖いのが踏み外しによる怪我です。この写真の箇所から途中の火神社あたりまでが特に急で、自分も含め周囲では四つん這いで昇り降りする光景も見受けられます。人目を気にすることなく手は使う事をお勧めします、無事に戻って参拝終了です。なんていうのか、これが登りにくく、ただの直登ではなく、くねくねした直登と云えばいいのか。踏み石も大きさはバラバラ、でもって角が取れ斜度は急。毎年2月6日の夜に御燈祭りがおこなわれ、この急こう配を松明を手にした信者が駆け下りるのだそうだ。熊野に春を呼ぶ男の火まつりとして知られるようですが、命がけの度胸試しだ。くれぐれも下は見ない。鳥居からしばらくの間の200段?が最大の難関なので、ここだけは人目は気にせず空いた手を使おう。最初の難関を乗り越えれば概ね心配はいらない、といってもその先はこんな感じで続きます。中間地点の火神社、中ノ地蔵堂が見えるとそこは平坦な境内。ここで小休止、水分補給を行い参拝。世界遺産熊野古道の趣が漂う参道、ここから先は比較的勾配は緩く歩きやすくなります。左側は杜があるものの手摺はなく、踏み外し注意に変わりはない。山肌に沿って平坦な参道に変り、前方に朱塗りの鳥居と玉垣が見えてくればゴトビキ岩もあと僅か。右の斜面につけられた石段の先に社が鎮座する、参拝していきます。満山社熊野本宮大社でも見かけたが、縁結び八百万の神々を祀る。ニノ鳥居ここから先の右斜面全体が突起が少ない巨大な岩盤が露出しています。濡れたところは滑りやすい。神倉神社の手水鉢鳥居から先の右にあり解説は以下。「新宮城主第2代の水野重良(1596~1668)が下野國(栃木県)那須城主の大関高増の母の延命と繁栄を祈願し寄進したもの。黒雲母花崗斑岩の巨大な石を加工して作られ、正面には寛永8年(1631)に重良が寄進したと刻まれている。阿須賀神社にも同様の物が奉納されている」手水場を過ぎればゴトビキ岩。山肌に露出した岩盤の上に注連縄が巻かれたゴトビキ岩と呼ばれる巨岩と複数の岩が寄り添うような形で組まれ、それら絶妙のバランスで安定している。これが御神体の「ゴトビキ岩」、自然が作り出した不思議な造形だ。一見すると一つの岩に見えるゴトビキ岩、よく見るとその上部にもう一つ岩が乗っており、少し離れて眺めるとカエルが佇む姿にも似ている、この地方ではガマガエルを「ゴトビキ」と呼ぶようで名の由来はそこからきているようだ。その巨岩の下に人が築いた赤い社殿が建つ。劣化も少なく近年補修の手が入っているようで朱も鮮やかです、造がどうこう以前に良くぞ建てたものだ、そちらの方が驚きに値する。御祭神は高倉下命と天照大神をお祀りする。熊野信仰の始まりともいうべき霊所。ゴトビキ岩は神倉山中腹の岸壁にあり、そこからの眺望は絶景。下に新宮市の街並みが広がり、その先に熊野灘を臨む。写真左中ほどのこんもりとした山が蓬莱山、水野重良が寄進したもうひとつ手水鉢がある阿須賀神社が鎮座する。壁の様な石段を折れそうな気持を押さえ登り詰めた御褒美だ。振り返ると社殿とゴトビキ岩。樹々の隙間からさす陽射しは神々しく、神の降臨を疑う者はいないだろう。石垣が高く積まれその上に鎮座する社、参拝に向かおう。神倉山の天ノ磐盾(あまのいわたて)という険しい崖の上に鎮座する姿は新宮市を見守るようでもあり、その姿は麓の町からも良く見える。御神体のゴトビキ岩を支える袈裟岩を右手方向に登っていく。ゴトビキ岩に寄り添うように巨岩が組まれ、その隙間に丸い玉砂利が敷き詰められ榊が供えられたスピリチュアルな空間があります。巨石を中心とした古代信仰が行われていたようで、ここから弥生時代の遺物や平安時代の経筒など見つかっているという。この不思議な空間と空気感は、自然の奇跡では語れない特別なものを感じる。さあ、麓に戻ろう。誰も助けてはくれない、自分の足で戻るしかありません。 下に一ノ鳥居が見えて来た、ゴールを前に気を緩めると一番危ない場所。行きは下を見ないようにしていたが、こうして下を見ると相当怖いものがある。今回参拝し次に訪れる際の覚えとして以下を書き留めておこう。参拝時にヒールは絶対に無理です、滑り止め加工されたソールの靴がいいでしょう。飲み物もあるといいでしょう。入口に杖があります、その心遣いには甘えて下さい。手摺はありません。調子こいて直登すると膝に来る、途中休憩を入れゆっくり登ってください。人の目は気にすることなく手も使いましょう。登ったら最後、エスカレーターはないので必ず自分で降りるしかありません。山と一緒です、登りの方や足場の悪い方には道を譲りましょう。御燈祭りでここを駆け下る? 信じられないものがある。修業がたらん自分は踏み外して転がり落ちるのが見えている、恐怖の石段だ。夫婦共々無事に下に戻って岩に腰掛け一息つく。こんな辛い思いをしながら、心の中では「また訪れたい」気持ちが生まれてくる。神倉神社はそんな不思議な魅力を持っている。2021/02/21神倉神社(熊野元宮)創建 / 128年(景行天皇58)祭神 / 高倉下命、天照大神境内社 / 猿田彦神社、神倉三宝荒神社、火神社、中ノ地蔵堂、満山社所在地 / 和歌山県新宮市神倉1-13-8熊野速玉大社からアクセス / 車で10分程関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り 熊野本宮大社「大斎原」 熊野本宮大社 『産田社』 熊野本宮大社 『熊野速玉大社』
2021.04.02
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愛岐トンネル群。春日井市と岐阜県多治見市間にある旧国鉄中央線の廃線跡で国登録文化財「愛岐トンネル群」に指定されています。明治33年(1900)国鉄中央(西線)として、名古屋から多治見間が開通し、日本の近代化から高度成長期を支えてきました。やがてSLによる単線の輸送は、日本の高度成長に追いつかず、新たに複線の電化されたJR中央線として開業を始めると昭和41年(1966)に廃線となり、その後はその存在自体忘れ去られていきました。平成17年(2005)に古老の記憶からトンネルの探索が行われ、土岐川沿いの藪の中に埋もれたトンネル群を発見、保全・解放されるまでになったもの。愛岐トンネルの建築に際しては難関があり、トンネル崩落や土砂の崩落、幾多の犠牲者を伴いながら近代化を歩み始めた当時の智恵と技術が注ぎこまれ完成を見たもの。玉野第四隧道。両サイドの壁柱や壁面、綺麗な曲線を描く迫石など、赤レンガを使用したもので、近代工法のトンネルにはない造形美と温もりがある。年二回、期間限定で一般公開されています。今回は愛岐トンネル群散策で見かけた「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」を取り上げます。玉野第四隧道解説。土岐川右岸の散策路入口から二つ目のトンネルで通称4号トンネル。山の神とんがり岩は4号トンネルを出た左の山肌にあります。山の神とんがり岩全景。土岐川右岸の岩肌に注連縄が巻かれた巨岩が聳え立ち、その下に素木鳥居が立てられています。左手からとんがり岩の直下に続く小路が作られており、間近で拝めるようです。遊歩道脇にも鳥居と解説板が設置されています。解説は以下。「“山の神”(とんがり岩)山の神は女性(女神)だと云われます。そのため昔は女性がトンネルに入ると女神が嫉妬して山が崩れるといわれ、女人禁制でした。またトンネル工事などで、作業員の妻が出産した時は、女神の嫉妬を恐れ一週間坑内に入らないという決まりもありました。正面のトンガリ岩を見あげると女神さまのお姿に観えませんか。周囲のトンネル群を見渡せる高台にあり、まるでトンネル通行の安全を祈って いるようです。ちなみに俗称・山の神とは、結婚後「ヤカマシクなった妻」のこと。特に怖い奥さんのことを「山の神が怒る!」と言います。「山の神」が短縮されて“カミさん”になったという説も・・・・。また、トンネルの山の神は、トンネル工事が無事貫通したことから“難関突破” ”初心貫徹”の意味につながり「合格祈願」にもなります。きっと拝んで損はありません!特例*箱根駅伝 山登り5区の “山の神” は男性である」女神の全景。山の神は多くの場合、男神なら大山祇命、女神の場合は木花咲耶姫をさす事が多く、この女神はやきもち焼きで、解説にある坑内女人禁制や産後の一週間…のくだりはこうした業界では知られた話の様です。今では草食男子に変わり女性技術者が多様な業種に活躍し、そんな縁起を担ぐことはないようです。「怖い奥さんをかみさんと言う」については全くその通り、女神は一旦怒らせると大魔神になり、一旦噴火するとしばらくは鎮まらない、息をひそめ少し離れて時の経過を待つしかない。護り稚児地蔵は4号トンネルを過ぎ、次の隠山第一隧道(通称5号トンネル)の入口右に安置されています。入口右の隠山第一隧道解説。玉野第四隧道と隠山第一隧道では右の壁柱から斜めにウイングと呼ばれる壁が作られているのが特徴で、山側の圧力を分散する地形に合わせた技法なのだろう。護り稚児地蔵はこのウイングに寄り添うように安置されています。護り稚児地蔵全景。赤レンガで小さな祠が作られ、赤い前掛けが付けられた小さな地蔵が安置されています。愛岐トンネル群の調査・整備中に付近の土中から少女形の地蔵が発見され、護り稚児地蔵として安置されたもので、祠に使われている赤レンガは明治期のものを用いて建てられています。「護り稚児地蔵トンネル群調査・整備活動中にこの近くの土中からモルタル製の少女のレリーフが彫られた「稚児地蔵」を発見しました。右側は「昭●二七●十二」の文字、左側の文字は「鈴木 仲二郎?」と読めます。どなた何方かのご供養か? どんな経緯で作られたものか定かではありませんが、「トンネルと廃線敷」一帯の安全と「豊かな渓谷の自然」が永久に続きますようにと願いを込めて、廃線跡から集めた明治の赤レンガで祠を作り安置させていただきました。 合掌平成22年5月 愛岐トンネル群保存再生委員会」銘が刻まれているとありますが、前掛けで隠れている事もあり、自分にはそれらしき文字は見当たらず、像の表情も伺い知れない状態でした。こうした思いの込められた地蔵や古い建造物が打ち捨てられ撤去されていく中で、トンネル保存整備中の偶然とはいえ、再び安置された事はトンネル保存会の思いも現れているようでもある。トンネル群を訪れる機会は年二回と限定されますが、トンネルを形作るレンガの造形美の他にも、こうした小さな見所もあります。愛岐トンネル散策路 「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」所在地 / 春日井市玉野町公共交通機関アクセスのみ / JR中央線定光寺駅から入口まで徒歩3分。訪問日 / 2023/04/28関連記事 / 新緑輝く旧国鉄中央線廃線愛岐トンネル群へ
2023.05.12
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道の駅 キララ多伎で迎えた島根二日目。普段なら朝陽が昇る時には目も覚めているのですが、運転疲れもあるのか目が覚めた時には日ノ出のドラマは終わっていました。今日はここから正面の出雲大社方向に向け移動していきます。この道の駅では早い時間に食事が摂れず、コンビニもないので、海岸線沿いに稲佐の浜方向に走り出します。道の駅 キララ多伎から、くにびき海岸道路を時間にして20分程東の稲佐の浜を目指す。途中「道の駅 大社ご縁広場」の前にあるコンビニで朝御飯を調達。この時間を利用し、コンビニから徒歩1.2分の出雲大社 宇迦橋大鳥居の写真を撮りに行く。6:25 出雲大社 宇迦橋大鳥居。ここから伸びる参道が遥か先の出雲大社に続きます。鳥居の先に見える山並みは、左から鶴山、八雲山、亀山と連なり、それらを背にして出雲大社が鎮座します。手前を流れる堀川やその先の白い大鳥居一帯は現在架橋工事が行われていました。朝食を買い揃え、いざ出雲大社に参拝と行きたいところですが、その前に出雲大社の西にある稲佐の浜に立ち寄る。6:35 稲佐の浜到着。こちらの駐車場で朝食を摂りながら、旧暦10月10日に、全国の八百万の神々はここから出雲の國に訪れる。正面の岩山は弁天島と呼ばれ、岩山の上の社には、神仏分離以前は「弁財天」が祀られていましたが、明治に入り豊玉毘古命が祀られています。この弁天島、その名の通り砂浜の先の海面にあったそうです、しかし砂浜の成長もあり現在は御覧の通りです。島の直下に賽銭箱があり、そちらで参拝を済ませて砂の採取に取りかかる。稲佐の浜所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北2711波打ち際の砂を袋に採取し、これを出雲大社に持って行き、本殿後方に鎮座する素鵞社の廻り縁の下にある砂と詰め替えて自宅に持ち帰り、その砂を敷地の四方に盛ると魔除けになる。出雲大社を訪れる前に立ち寄る理由はここにある。7:05 下宮。駐車場から東の細い路地を1分程進んだ三叉路の角に、樹が生い茂る大岩がありその前に鎮座します。出雲大社の末社の一つで祭神は天照大御神をお祀りします。「天照大御神は皇室の御祖先神で、優れた御霊徳で、その御神徳は広大無辺とされる。祭日 1月13日・9月13日」下宮所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北ここから路地を1分程進んで上宮(仮宮₎に向かいます。7:07 上宮(仮宮₎。出雲大社摂社上宮祭神 素戔嗚尊・八百萬神由緒 一般に旧暦10月神無月と云われ、全国の八百萬神の神々が大国主大神の許に集まる事からそのように呼ばれます。出雲では「神在月」と呼ばれています。上宮は生きとし、生けるものの幸福と社会の繁栄の縁を結ぶ神議が行われます。祭日 1月3日・5月14日・旧暦10月11日から17日上宮所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北仮之宮2962-1上宮の路地を1分程上がった右側にも末社の大歳社が鎮座しています。大歳社路地を抜けた国道431号線沿いに鎮座する神社で、祭神は田畑の守護神で素戔嗚尊の御子神大歳神が祀られています。大歳社所在地 / 島根県出雲市大社町杵築北さて稲佐の浜に戻り出雲大社へ車で向かう。7:24 出雲大社参拝者駐車場稲佐の浜から車で2~3分程の無料駐車場で出雲大社へは一番近い駐車場。そこから少し国道沿いに勢溜の大鳥居へ。松の参道を進み、銅鳥居をくぐると出雲大社社殿。広大な境内に鎮座する社殿は、写真では伝わらない大きなもの。昭和38年(1963)に作られた拝殿は、棟の上端まで約13㍍あるとされ、大きな注連縄も実に小さく見える。参拝作法は「二礼四拍手一礼」です。出雲大社本殿から八足門方向の眺め。左から天前社、御向社で右が出雲国一宮出雲大社の本殿。現在の本殿は延享元年(1744)に造営された大社造りで、高さが24㍍と巨大なもので、ここに大国主大神が鎮座します。内部は二間に分かれ、内殿の前室には客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の5柱と、中心の心柱の付近に大国主大神の御子神、和加布都努志命が祀られています。今でも大きく高い本殿ですが、往古の本殿は48㍍の高さがあったとされ、それを示す古代本柱も見つかっています。警備の方から教えて頂いた話ですが、素鵞川の対岸に聳える国旗掲揚塔の高さがその高さで、そこから往古の本殿の姿をイメージするといいかもしれない。本殿後方の摂社素鵞社(そがのやしろ)稲佐の浜から持ってきた砂は、こちらの社殿の廻り縁の下にあるこの箱に納めます。そしてこの箱の中から砂を袋に詰めて自宅に持ち帰ります。現地にはそうした案内がないので、書いておきます。祭神は素戔嗚尊。由緒素戔嗚尊は三貴子(天照大御神、月読尊、素戔嗚尊)の一柱で、天照大御神の弟神。出雲国に天降りされ、肥河上に於て八岐大蛇を退治され人々を助けた。奇稲田姫を御妻として大国主大神を誕生させる。祭日 1月28日・10月6日境内左の庁舎から国旗掲揚塔の眺め。往古の本殿はあの高さにあった。大国主大神と兎の関係は古事記にも記され因幡の素兎として知られていますが、出雲大社境内には写真のようなウサギの石像が置かれていて、その数は60を超えるとも云います。パワースポットとしてその道では知られるそうです。神楽殿。素鵞川右岸にある建物で、千家國造家(出雲大社宮司家₎の大広間として使用されいた。明治に入り、出雲大社教の設立に伴い、出雲大社教の神殿としても使用され、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。現在の建物は昭和60年(1985)に建てられたもので、正面の注連縄は拝殿の注連縄以上の大きさがある。出雲大社は規模も大きく、境内・境外社含めすべてを巡拝するだけでも、かなりの時間を要します。出雲大社所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東19511:15 荒木屋で昼食。出雲大社から御宮通りを10分程南下した場所にある天明年間創業の老舗蕎麦屋。こちらの開店を待ち一番乗りで入店。出雲に来たら出雲蕎麦は食べておきたい、神社近くに多くの蕎麦屋があるものの、観光客相手の店ばかりの様に思え、どこの蕎麦が定番なのか分からず、道端の天明年間創業の看板につられて訪れました。割子そば手前と「なめこおろし」・「有機卵」・「とろろ」の乗った割子三代そばを注文。やくみを器に散らし、その上にだし汁をかけ、一段食べ終わるごとに汁は下の段に移し、最後の段は蕎麦湯に入れて飲み干す食べ方。蕎麦にだし汁を直接かけるのは、ほぐれやすくするためかなぁ。印象は悪くはない、とろろにだし汁たっぷりの蕎麦が美味しかった。薬味に山葵は付かないので、少しもの足りなさを感じた。荒木屋出雲大社駐車場から徒歩約10分所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東409-2さて次は出雲市から松江市に鎮座する熊野大社を目指します。移動距離は約53㌔、移動時間は約70分程になります。13:17 松江市八雲町熊野に鎮座する出雲国一ノ宮 熊野大社到着。出雲大社と並ぶ出雲国の大社として知られる、由緒ある神社です。主祭神は、神祖熊野大神櫛御気野命で、素戔嗚尊の別名とされています。素戔嗚尊が婚約に際し、田姫へ櫛を贈られたという故事に基づき、4月13日には摂社稲田神社に櫛を献納する御櫛祭が行われます。熊野大社は、日本の火の発祥の地と伝わり、出雲大社との関係が深いされます。10月15日には鑽火祭という独特な神事が行われ、出雲大社の「古伝新嘗祭」で用いる火をおこすための「ひきりうす」と「ひきりぎね」を、出雲大社国造自ら受け取りに来る。その際に持参する大きな餅をめぐって、押し問答が交わされる亀太夫神事は全国的にあまり例がないものという。以下は境内解説から由緒のみ抜粋。「延喜式名神大社 熊野大社御祭神 神祖熊野大神櫛御気野命由緒御神名は素支鳴尊の御尊称で、神祖とは出雲大社の大国主神を始め神々の親なる神。御気野とは御食を主として人びとの衣食住に広く、尊い御神威をみちびかれて日ごとに蘇生の縁を結ばれるムスビノ大神との意です。日本書紀(720)は659年に出雲国造が斉明天皇の勅で厳神の宮を造営したと記す。出雲国風土記(733)は国内の186社で大社の称号を有する神社として熊野大社と杵築大社(出雲大社)を掲げ「出雲國一之宮」の崇敬を表しています。特に、ご祭神が初めて僕火されたので日本火出初社とも称します。古来、出雲国造(出雲大社宮司)の襲職は、神聖白してみな鎖火器拝戴の儀式を参向して仕える伝統があり、今も変ることなく行われています。一説には、此の地から紀伊国に移り住んだ者が勧請したのが熊野本宮大社の元ともされるようです。本殿は大社造りで、昭和53年(1978)に檜皮葺きの屋根から銅板葺きに改められ、その際に幣殿と拝殿を増築して現在の姿になっています。神紋は一重亀甲に大の文字が入る。原始は現在の「天狗山」の山頂付近に巨大な岩(磐座)があり、そこに祭祀されており、その地は「元宮ヶ成(げんぐがなり)と呼ばれていた。本殿域には伊邪那美神社、稲田神社、社殿左の境内には稲荷神社、荒神社が祀られています。意宇(おうろく)の六社とは出雲大社に所縁のある以下の六社をさします。揖夜神社、六所神社、眞名井神社、八重垣神社、神魂神社、熊野大社、これらは意宇(おうろく)の六社と呼ばれ、ここ熊野大社もその一つになっています。松江市でも観光地として推しているようですが、こちらのように神職がみえるところもあれば、無人の神社もあり、巡拝をアピールするには、なにか足りない。専用の御朱印帳があり、神職常駐の処で御朱印を書いていただけるとか一工夫が欲しい。其々の神社は長い歴史と大社造りの社殿など見所もありながら、参拝者の姿は少ないように感じられます。出雲大社の後だから尚更そう感じるのだろう。熊野大社 (意宇六社)祭神 / 神祖熊野大神櫛御気野命所在地 / 松江市八雲町熊野2451次はここから10分程東の八雲町西岩坂に鎮座する志多備神社と日本一のスダジイの巨木を見に行きます。14:15 神社近くの桑並ポケットパークに到着。明事山の西麗に位置し、東西を山に挟まれ、桑並川沿いの谷間に農地と民家が点在する昔ながらの光景が広がる地域。訪れた時は田植えも終え、水が張られた田んぼには、オタマジャクシや水路にはドジョウの姿が見られ生きもので溢れています、ひょっとするとホタルも見られるかもしれない。こんもりとした杜の入口に、ポッカリ空いたように石の明神鳥居と参道が杜に続いています。志多備神社社頭全景。鳥居の手前に大きな狛犬が守護し、石段の先に随神門の姿が見えます。この杜全体にシダジイが自生し、その中の二本が特に立派な樹形をしています。その内の一本は鳥居右手の奥で覆い被さるように聳えています。その大きさに圧倒され、上を見上げるかみさん姿が見えます。鳥居の扁額とその後方に聳えるシダジイ。随神門をくぐると明るく広い境内となり、そこに大社造りの社殿が現れます。こちらの神社の創建は定かではありません、しかし古い地史に記録が残る古社であることに間違いないでしょう。享保2年(1717)に編纂された雲陽誌には「王子権現といわれしが尼子の兵火にかかり古文書宝物等残る物なし」とも記録が残り。境内には、桑並地区の総荒神の依代として祀られる、スダジイの巨木が聳えています。拝殿右から聖神社と本殿の眺め、この他にも境内社がありますが、社名札がないものがあり詳細は不明。 随神門の右手奥に聳えるスダジイ。傍らの解説によれば樹高周囲が11.4㍍、樹高薬20㍍、樹幹地上約3㍍辺りから9本に分かれ、そこから四方に枝葉を広げ、枝張りは東西に約20㍍、南北は約33㍍もあるという。樹齢は検証されていないが、日本一の巨木という事で、幹の根元には朽ちた大繩が蛇のように巻かれています。この大縄は大蛇を模し、10月9日に神が宿るシダジイに奉納されるという。参拝を終え、写真左手の祭礼用の脇参道から神社を後にする際、一面に落ちたスダジイの実を踏みしめるとカリッ〃と乾いた音がする、今時は人も獣も食べる事はないのだろう。二日間で訪れた神社の中では日本らしい光景が残る居心地のいいところでした。志多備神社主祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊配祀神 / 天照大御神、月読尊、保食命、天能利刀神所在地 / 島根県松江市八雲町西岩坂1589車を駐車した桑並ポケットパークに戻り、そこから国道432号線で松江方向に約15分程北上し、意宇六社の一社である神魂(かもす)神社に向かう。その前に車中の冷たいコーヒーと甘い菓子パンでおやつタイム。15:10神魂(かもす)神社駐車場到着。鎮座地は室山の北嶺に位置し、ここから北は松江平野が広がっています。この辺り一帯は出雲国造館跡推定地とされ、古くから開けた地域で古墳群や古代寺院の遺跡など見所が多い。駐車場から少し下り、里にある一ノ鳥居へ向かい、そこから社殿に向かいます。鳥居は木造の両部鳥居で、ここから桜並木の参道の先に木造の二ノ鳥居を構えています。ニノ鳥居と社標。右手の駐車場からだと、ここから境内に向かってしまいがちです。境内へはここから少し進み、右手に境内に続く石段があります。角が取れた石段から神魂(かもす)神社拝殿の眺め。境内に建てられている解説。「小泉八雲ゆかりの地-14 神魂神社出雲国造の祖、天穂日命が降臨し創建したと伝えられる神社である。現在の本殿は正平元年(1346)の再建とされ、柱からは墨書もみつかっている。現存する最古の大社造で、国宝に指定されている。小泉八雲は明治24年4月5日に西田千太郎とともにここを訪れている。杵築の国造へ 火鑽を授ける習慣や天穂日命が降臨時に使用したという鉄の大釜、伊弉諾・伊弉冊の神鳥とされるセキレイの伝承について記している。『知られぬ日本の面影』 第14章「八重垣神社」より 」祭神は伊弉冊大神、伊弉諾大神をお祀りし、境内には多くの境内社が祀られています。社殿全景。右から社務所、拝殿、本殿、左手は境内社の貴布祢社と稲荷社の相殿。解説にもあるように大社造りとしては出雲大社を凌ぐ最古のものだという。本殿は太い柱で床下を高くして作られ、棟を支える棟持柱が外側に飛び出したもので、角度のある向拝が本殿へ繋がっています。玉垣沿いに全周を見られるのでひと回りすると楽しめると思います。出雲大社の様に巨大ではないが、個人的に大社造りとして一番美しい形をしていると思える。かみさんによれば、こちらの神社も神職不在のようで御朱印を手にすることは出来なかったようです。訪れる参拝者は少なく、大陸から記念撮影を撮るために訪れる観光客は皆無。鳥のさえずりが良く聞こえる静かで落ち着いた国宝の神社です。神魂(かもす)神社 (意宇六社)祭神 / 伊弉冊大神、伊弉諾大神所在地 / 島根県松江市大庭町563さて次は、ここから5分程西の松江市佐草町に鎮座する八重垣神社で、二日目の最後の神社となります。神社は県道246号線沿いの松江市佐草町に鎮座しています。写真の夫婦椿が神社の目印になるかもしれない。神社は県道を挟んだ道路沿いに鳥居を構えています。無料駐車場が左方向の県道沿いに複数あるので、社頭横の身障者用駐車場に駐車する必要は全くないと思います。15:40 社頭全景。木造明神鳥居と左に手水舎、随神門の先に社殿が広がる。八重垣神社境内マップ。こちらも意宇六社の一つ、というより良縁を求め水占いに訪れる縁結びの神社として認知度が高いかも知れない。こちらの神社はそうした事から、参拝者が多く、神職も常駐し御朱印も手にすることができる。境内は社殿左右に境内社が祀られており、祭神の素戔嗚尊と稲田姫命を祀る本殿は、こちらも大社造り。本殿内部に描かれていた重要文化財の神像の壁画は、現在宝物殿に収蔵され拝観もできる。右手の拝殿は1964年に再建されたもので、本殿は江戸中期のものという。神社のはじまりは古く、社伝によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と詠んで櫛稲田姫との住居を構えたという須賀(現在の雲南市大東町須賀)の地(須我神社)に創建されのがはじまりと云う。後に青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座。明治5年(1872)、八重垣神社は境内佐久佐神社を合祀し、佐久佐神社と称したが、明治11年(1878)に八重垣神社に改称した。境内左から佐久佐女の森へ続く参道があり、森の中の「鏡の池」では土器・土馬などが発見されており、6世紀後半から聖地として意識され、現在も縁結びの神社として親しまれている。境内左から佐久佐女の森の鏡池へ向かいます。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治にする際、森の大杉の周囲に八つの垣根(大垣、中垣、万垣、西垣、万定垣、北垣、袖垣、秘弥垣)「八重垣」を造り、稲田姫命を守ったとされ、今も一部地名などに残っています。身隠神事が執り行なわれる「夫婦杉」、縁結び占いの「鏡の池」も、この森の中にあります。社務所で占い用紙を買い求め、この泉に浮かせ、紙の中央に10円又は100円硬貨を乗せ、沈むまでの時間と沈んだ場所により縁を占うもの。15分以内に沈めば縁が早く、それ以上だと縁は遅くなり、近くで沈めば身近な人、遠くで沈むと遠方の人と縁が結ばれるという。WEB情報だとそれ以外にも、用紙の上をヤモリが乗って沈むと更に縁が早くなるともいう、モリアオガエルが沈めるとどうなるのかなぁ。占っている若い衆は、一心に時計と水面の占い用紙が沈むのを見守っている。因みに10円硬貨の重量は4.5g、100円硬貨は4.8gのようで、10円は縁起が悪いから5円にすると3.75gなんだとか。既婚のおじさん・おばさんは、池の奥の稲田姫命を祀る天鏡神社にお参り。八重垣神社祭神 / 素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命、青幡佐久佐日古命所在地 / 島根県松江市佐草町227今日の予定はここまで、八重垣神社から県道263号線で西に向かい、本日の宿、玉造温泉の玉井別館を目指します。移動時間は約15分程。16:20 玉湯川左岸の玉井別館到着。玉湯川沿いに続く道は、時間によって温泉街に入るだけの一方通行になります。ホテルへ横付けして荷物を下ろすと、駐車場に戻るには温泉街を通り抜け、県道25号線で町を一周しなければならないので気を付けた方がいい。(写真は翌日の朝に撮影)本日の走行距離は約100㌔、累計660㌔。まずは、玉造の湯に浸かり、ビールをひっかけよう。ここの湯は無色透明・硫黄臭もなく個性がないが、風呂上がりの肌はすべすべになる印象。宿には内風呂二つ、露天風呂が一つとサウナがあり、施設は古いかもしれないが悪い印象はなかった。スタッフは外国人が多く、サービスに問題はないが、温泉街の見所や交通規制などの情報は乏しい様です。この日のお品書きと料理の一部。ここで円安の影響を感じる一幕があった、お品書きではサーモンとあるが、事情でマグロに変更になりましたとあった。コストコでもサーモンは安易に手が出せなくなってきた、食材を輸入に依存しているだけに、この円安の影響を首相や日銀総裁はどう考えているのだろうか。食事は個室、そして飲み放題を付けて約13,000円程。どこもインバウンドで価格が跳ね上がるなか、妥当な価格だと感じる。上は飲み放題で提供されていた銘柄。飲みやすかったのは出雲富士と月山の銘柄で、帰りにこの銘柄の酒を買い求め土産としました。玉造温泉 玉井別館所在地 / 島根県松江市玉湯町玉造1247DAY2 / 走行距離約100㌔、累計660㌔ 燃料補給48liter、ガソリン単価177円(出雲市)訪問日 / 2024/5/24関連記事 / 二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day1
2024.05.31
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