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2025.04.09
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2025.04.08
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帰ってきたら、うちの当主が成り代わられてはりました。 ……まあ、そうなるやろなぁ、とは思うておりましたが。 せやかて、何度もわし、忠告したんどす。「あの娘には気を付けなはれ」 まあ、そう言うと旦那様は不機嫌にならはるから、次第にわしも、他の自我のある式神達も、何も言わなくなりましたけどな。 旦那様が三つの頃から見守り、暗殺から助け、当主業を支えてきたわしとしては、少々寂しく感じられましたわ。********柳の式神の諦観******** わしはお節介なところがありましてな、旦那様にもようけうざったがられ、外での任務をよう任されましたわ。 少しばかり不満はありましたけども、それ以上に、外の世界の汚さを見られたことは大きな収穫でしたわ。 わしは、お外でよう見てきましたんや。 人が人を売るとこ。 笑ろて騙すとこ。 情けをかけた顔で、きっちり喉笛に刃当てるとこ。 遠いとこやと、南の方にも行きましたわ。 あっちはあっちで、えげつないお人がようけ居てはりました。 女も、男も、子ぉも関係あらしまへん。 弱い顔して寄ってきて、懐入ったら骨までしゃぶるようなんも、ようけ見ました。 せやから、思てましたんや。 ――怖いもんは、だいたい知っとる、と。 けどなぁ。 あの娘は、ちぃとばかし、勝手が違いましたわ。 覚悟を決めてから、あの娘は変わらはりました。 静こうて、よう笑わはって。わしらの様子をよう見てはって。 なんぞあれば「まあ、ええやないですか」て、やわらかぁ言わはる。 怒鳴りもせぇへんし、癇癪も起こさへんようになって。 せやのに。 気ぃ付いたら、旦那様の逃げ道、きれぇに塞がれとったようどした。 ほんに、不思議なお人やこと。 ……ああ、いややわ。 こんなん、ようある話やろて? 女は怖い、言いますやろ。 せやけどなぁ。 あのお人は、そういう類やあらへんのや。 もっとこう―― 意地の為なら何でもする、言うたらええんやろか。 わし、いっぺんだけ、旦那様に申したことありますんや。「旦那様、あの娘…炉火様には……少ぉし、用心なさった方がよろしおす」 ほしたらなぁ。 あの方、ぴたりと笑わはらんようになってしもて。「……何を言うておる」 それだけどした。 声も荒げはらへん。 せやけど、ああ、あきまへんなぁ、て。 骨の髄で、分かりましたわ。「いえ、ただの老婆心どす」 そう言うて、引きましたんやけど。 ……あかんかったなぁ。 あの時、引いたらあかんかった。 もう一歩、踏み込んどいたら。 嫌われても、鬱陶しがられても。 言い切ってしもたら、何ぞ変わったやろか。 まあ、今さら言うても詮ないことどすな。 わし、そのあとよう遠くへやられました。 あっちで誰それの弱み握れやの、 こっちで策謀聞き出してこいやの。 忙しゅうしてるうちに―― 帰ってきたら、全部終わっとりましたわ。 あの人が悪い、とは言い切れんのどす。 せやけどなぁ……あの娘は、嵐どすな。 旦那様も、ほんまは分かってはるんと違います? せやけど、認めたらあかんのやろなぁ…。 旦那様にとって、あの娘は、ただの純粋無垢。 嫁にし、囲い込み、大事に大事にする為だけの存在どしたからなぁ。 まるで、お人形のような… …いいえ、お人形とは違いますな。 お人形は他におりましたからなぁ。 炉火様の髪ィやら、爪ェやら、汗ェやら、涙やら、垢やら… そういう諸々を使うて作った式神……、炉火様そっくりの、好きに扱えるお人形が。 炉火様と旦那様が結ばれる前に、幾度か、見てしもたことありますんや。 旦那様が、お一人でおるはずの時に……まあ、覗くつもりやなかったんどすけどな。暗殺の報告しに行ってただけどすけどな。「兄上っ♡兄上っ、ここ、好いです♡」「おお、そうか、そうか。ここはどうだ?」「はっ♡あっ♡あにうえぇ♡すき♡そこ♡すきです♡」「そうかそうか、なら、もっと愛してやろう」 ……まあ、本人に問うたら多分、『本物を傷付けない為に練習をしているだけだ』と言いはるやろけどなぁ……。 ……拒絶も違和感を抱くことも無く、終わってすぐに限界迎えて消えるような使い捨てのお人形に、いくら経験を積んだとて、本物の炉火様の心を堕とせるわけではあらしまへんのに……。 そらまあ、体験を少しでもより良いものにしてやろうという心がけは立派どすけどな?…やればやるほど、二人の間で、慣れとか、互いに向ける愛着の感情にずれが出来るってこと、あの方はとうとう分かってへんままみたいどした。 せやから、炉火様も逃げ出したんやろなぁ。 そして、連れ戻されてからも、下剋上の機会を狙ってはった。 旦那様は、炉火様のことをよう知ったつもりでいはったんどす。 せやけどなぁ…あの方が見てはるんは、『炉火』様やのうて… 『こうあってほしい炉火』様どしたな。 *********** そらまあ、産み出してもろた恩はありますからなぁ、はじめは旦那様のことを後で助けてやろうと思っておりましたわ。 ええ薬やと思うて数年放置はするつもりどしたけど。 炉火様と、旦那様の身体を乗っ取りはった日照とかいう新参の使い魔、すぐに泣き言漏らすやろ、旦那様おらんかったら家めちゃくちゃにするやろ思うて見とったんどすけどな…… これが、なかなか頑張りはる。 まあ、せやからわしも、見守ることにしましたのや。 他の式神達も同意見やったようで、少しずつ二人を認めてはりましたわ。 旦那様は未だ庭の隅で唸ってはりますけどな… 日照への恨み言は言う割りに、炉火様への恨み言を殆ど漏らさぬのは、恋ゆえの盲目か、それとも愛ゆえの覚悟か……それとも、ただの意地か。 それは分かりまへん。 けれど、そこだけは美しいかもしれまへんな。 ……報われるかどうかは、知りまへんけどな。
2025.04.07
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吾輩は猫の妖である。 陰陽師の名家、雲月の当主家使い魔を務めている。 もう既に子を成せる体であるが、奥方の炉火様とお子の纏の面倒を見るばかりで浮ついた話は一切ない。 金色の瞳に蒲公英の模様が入り、角は鋭く伸び、尻尾は霧のように揺らめく。 悪夢を啜り、怨念を飲み、炉火様の涙を栄養にここまで育ってしまった。 けれど、心はまだあの路地裏の痩せた仔猫のままだ。 だから、すべてが「えっ?」なのである。 ある夜のこと。 いつものように、何かごりごりと薬を作り、蜜玉や手製の刺繍の奥に仕込み、まじないの真似事をし、疲れたらしい炉火様。 吾輩はと言えば、その腕の中に丸くなり、纏の小さな背中を温めながら、悪夢の残り香をちゅうちゅう啜っていた。 すると、炉火様が吾輩の耳元に顔を寄せ、熱い息を吹きかけた。「日照……今宵は、特別なことをしてほしいのだ」 吾輩は耳をぴくりと立て、大きな瞳をぱちくりさせた。「えっ? 特別なこと……とは?」 炉火様は、頬を染め、唇を湿らせ、指先で吾輩の耳と角をそっと撫で下ろした。 その指が、妙に熱い。「我と……睦むのだ」「えっ?」 吾輩の尻尾が、ぴょん、と跳ね上がる。 困惑の行き場がない。 尾の先端を、あてもなくくるくる回す。「睦む…とは?」「こうするのだ」 ちゅ、と口付けをされた。 突然宙に放り出された猫の気分である。 目を丸くし、固まる吾輩を、炉火様は優しく抱き寄せ、耳朶に唇を寄せる。「お前の温もりが、我の乾いた心を、焼くように疼かせるゆえ」「えっ?えっ?えええっ??」 吾輩の金色の瞳が、くるくる回る。 牙がカチカチと震え、尻尾がぴしぴしと畳を叩く。「これを飲むが良い。妖力が籠っておる。人の姿にも化けられるであろう」 差し出された蜜玉には、日々炉火様がごりごりと宵貞殿の身体の部分……血、髪、子種、唾、汗、もろもろ……を素材とし、宵貞殿に部屋の彩が欲しいと言ってねだった薬草と共に練り上げたものが詰められている。「人の姿に化けて…何を…?」「察しが悪いのう…まあ、そのような所も可愛いが。子作りだ。」「で、ですが……この身は、ただの猫で……しかも、元は野良で……しかも、炉火様は人間で……子作りって、あの、炉火様と宵貞殿がよくしておられた、あの……」 言葉がぐちゃぐちゃになる。 炉火様はくすりと笑い、吾輩の鼻先にちゅっと口付けをし、丸薬を口に咥え、口移しで飲ませてきた。 絶対に何かまずいことが起きている気がするのに、抗えぬ。 炉火様の妖艶な、普段は吾輩に向けられぬ笑みに吸い込まれてしまいそう。「だからこそよ。お前は、あの男とは違う。お前は我を乾かしてくれる太陽。我は、お前にすべてを預けたいのだ」 吾輩は、ぽかんと口を開けたまま、どろんと人の姿に化けてしまった。 「えっ?その……すごく嬉しいのですが……でも……でも……」「愛いのう…」 思考停止したまま、誰にもまだ触れられたことのない茎を擦られ、扱かれ、達する直前で炉火様の熱く湿ったそこに吞み込まれた。「ぅあっ……!炉火様ぁ…!お戯れを…!」「日照……」 吐息を変化している最中の耳と角に吹きかけられ、驚きで止まってしまう。爪をしまい込みそびれた手を炉火様の乳の香りのする胸に導かれる。上半身も下半身も寛げられていて、辛うじて帯のみが身体に引っかかっている。「可愛いのう…」 互いに座ったまま、膝の上に居る炉火様に抱き締められ、もうどうしていいのか分からぬまま手の中の柔らかな塊に爪を喰い込ませてしまい、はっと手を放そうとするとむしろそれが快いとばかりに上から手のひらを重ねられて押さえつけられた。 その時、部屋の外から、式神のざわめきが聞こえた。 宵貞様の気配。 いつものように、炉火様の部屋へ忍び寄る、ねっとりとした影。 炉火様の瞳が、ぱちりと鋭く光った。 すぱん、と襖が開かれると同時、殺意が迫りくるのが分かった。「この痴れ者が」 避ける間も無く、吾輩は宵貞殿に袈裟懸けに切り裂かれた。 嫌だ、死にたくない、吾輩はまだ――――――― そう思い、目の前の炉火様を見上げると、炉火様は冷たい笑みを浮かべていた。「これで、準備は整いました」 えっ? 吾輩の知らぬ所で何を…? そう思いながらも、先程飲んだ丸薬が吾輩の魂を唆し、形を取れと囁く。普段、炉火様の与える食事により育まれた肉を抜け出す、悪夢により育まれた魂。「炉火……?戯れはやめよ……」「行きなさい、日照。今のお主なら、兄上と成り代わることができるはず。 その傷の怨念を、晴らしなさい」 吸い寄せられるように、宵貞殿の喉笛に喰いついた。 驚き焦る魂を追い出すようにして、内部に浸食してゆく。 えっ?吾輩こんなことできたのか…。「ぐ……あ……っ!」 宵貞殿の目から光が消える。 吾輩は元の身体に残った残りの靄も吸い出し、追い打ちをかけ、宵貞どのの身体を乗っ取ろうと企てる。 ――――――――できた。 できてしまった。 えっ…?吾輩、この後どうすれば…えっ…? 手が、ゆっくりと動く。 先程己が化けたものより太く長く立派な指が、吾輩の意思に伴って動く。 「日照、よくやりました」 にっこり、炉火様は本当に嬉しそうに微笑み、宵貞殿―いや、そこを乗っ取った吾輩の身体を抱き締め、その整えられた髪を乱すように撫でまわし、口付けをした。 一方、宵貞殿の魂は、死にかけの吾輩の体へと押し込められていた。 炉火様に縋りつこうとするが、嗤われていた。「中身が違うだけで、ここまで異なる顔立ちになるとは……面白いものです」 確かにその顔は、この世をば満月と思っていた者が叩き落されたような、屈辱と怒りと憎悪と嫉妬に塗れた色をしていて、元から地位の低かった吾輩には到底浮かべられぬ顔立ちだった。 炉火様は微笑み、吾輩に炉火様を抱え上げるようせがむ。 小さな、宵貞様の生命力で動く式神に、吾輩の身体に宿る宵貞殿を押さえつけさせたまま、見下ろして言う。「ご心配なく。当主としての仕事、式神の操り方、周囲の者との関わり方、この数年、ある程度は見て覚えました。我には才能がありませぬが、その身体に宿った日照なら使いこなせるでしょう」 えっ…?「やり方は、教えます。共に、頑張ってゆきます。ですから安心して、地獄へ行って下さいませ」 えっ…?本当に…?本当に大丈夫なんですか…?炉火様? 吾輩が疑問の眼差しを向けるが、炉火様はこちらを見て下さらぬ。「その身体は、丁重に葬って差し上げます。どうか、安らかにお眠り下さいませ」 えっ…?やはり吾輩の元の身体、死ぬのですね… いえ、もう致命傷ですから助からぬとは思いますが、元からこのおつもりで吾輩に睦みたいと申されたので…?炉火様…?「子供を沢山作って育てましょう。兄上の亡霊にも、厄介な身内にも、外敵にも、きちんと対抗できるように」 えっ…?そんな、道具みたいに… そう思いながらも、頷くことしかできぬ。 他にどうしろと言うのだ。 「幸せになりましょうね、私達」 えっ…?あっ、はい… 炉火様はそれから本当によく頑張った。 まず、吾輩の肉体だったものに入念に用意していた薬や刺繍等のまじないをいくつも押し込み、宵貞殿の魂を縛り付け、出られぬよう押し込め。 吾輩に宵貞殿の呪詛を喰わせ、そのにおいを染みつけさせ。 部屋を出て、宵貞殿の宿る吾輩の身体を抱えた吾輩に牙を剥ける式神達を牽制し、吾輩の宿る宵貞殿の肉体こそが当主の宵貞であると喧伝し。 手伝わぬ式神を他所に、庭に穴を共に掘り、こと切れた吾輩の遺体を埋め。 そうして、門の外へ数年ぶりに出た。 家の門を出て初めに向かったのは、かつて炉火様が逃げる時に通った山道。 そこで小さな石を見付け、炉火様はそこを土ごと掬い取り、持ち帰り、吾輩の遺体の横に埋めた。 どことなく、その土からは、炉火様と宵貞様を合わせたようなにおいと、纏に似た、幼く白い気配を感じた。 炉火様の身体から半透明の白い腕がするりと伸び、その気配を抱き締めた。 炉火様は複雑な表情をしながらも、そこに花と菓子を供え、手を合わせた。 ……何をなさっているのかは、よく分からぬが、大切なものなのであろう。 そして、すっくと立ち上がり、式神の言うことを聞かせられる範囲を確かめ、次いで宵貞殿の交友関係を問い、紙に書き出し始めた。 これまで関わって来られなかった身内を選別し、誰ならば利用できるかを考え始めたのだ。 炉火様はよく家の中、外を歩き回った。吾輩もお供した。 外敵の呪詛が門を叩けば吾輩に呪詛返しのやり方を文献をもとに教示し、陰陽寮の古い敵対勢力が、隙を突いて暗殺の術を仕掛けてくれば、暗殺者を拷問し雇い主を問い、小さな式神を暗殺者の耳に忍ばせ送り返した。 『雲月宵貞』の弱体化を好機と見て、密かに監査機関へ密告を企てられれば、後ろ暗いことなどないというように偽装した。 身内に関しては、利害の一致を出来る限り仕組んだ。 綱渡りではあったが、なんとか身内の人々にも聞く耳はあるようだった。 炉火様が宵貞殿の血肉を利用して産んだ式神は小さいものばかりで、それも短時間しか動けぬから、大きな式神たちは吾輩が繰るしかなかった。 けれど宵貞殿の血をもととした式神たちは、吾輩の不慣れな指先で操られるたび、わずかに抵抗を示し、暴走することさえ幾度もあった。 ときたま庭の隅の宵貞殿の魂に引き寄せられては、炉火様のお供えした宵貞様の血を使った呪物や、何か白いものに弾かれ、どことなく不満そうな無表情でこちらに戻ってきた。 うまくあやしてやる余裕もほとんどなかったせいか、纏は夜泣きが激しくなり、二人目の子である暁の誕生も相まって、弱った吾輩と炉火様の頭痛を深めた。 暁は片目が金色をしていた。ーかつての吾輩のように。 そして暁は能力は高かったがそれを操作しきる力が未発達で、吾輩たちは苦戦した。式神を百体ほどは燃やされたと思う。 子供達を吾輩が宥めきれず、炉火様が疲れ果てながらも抱き続ける日々が続いた。 それでも、吾輩達は協力して乗り越えた。「雲月宵貞殿は妻を娶って弱くなられた」 そのような陰口を幾度も外から内から聞かされた。 吾輩たちが一つ一つ、汗を流しながら解く難事すべて、本物の宵貞殿であれば手の一振りで片付けたであろう。 呪詛を解くのに三日三晩を費やし、誰が信じられるか否か、利用し合えるか否か、夜を徹して炉火様と話し合った。 式神の意志を読み損ねて火傷を負いながらも、向き合い続け、少しずつ、主従関係を築いていった。「兄上に、我らはやっていけていると証明するのです」 炉火様が決して折れなかったので、吾輩も折れるわけにはいかなかった。 夜毎、あの晩の続きをした。 あの晩は正直に申し上げれば道具として利用された思いが拭えなかった。 …まあ、拾われた身ゆえ、道具として扱われるのは至極当然のことではあるのだが…素直に好意として受け入れかけた吾輩が少し滑稽に想えていた。 しかし、その後も、炉火様は吾輩と睦みたいと申された。「恐れずともよい、我が導くゆえ……」 不慣れな手つきで腰に触れると、小さく微笑まれた。 炉火様の熱い秘部に、自らのものがゆっくり沈むのを、浅い息で見守った。「あっ…炉火様……っ」「日照……ッ」 炉火様は目を細め、自ら腰を沈め、根元まで飲み込む。 ふわりと、深く、内壁が優しく受け入れ、締め付け、吾輩の喉から、甘い喘ぎが漏れる。 炉火様は吾輩の首に腕を回し、唇を重ね、舌を絡ませながら、ゆっくりと腰を揺らす。 胸が吾輩の胸に押しつけられ、たわみ、合間を汗が伝う。 吐息と熱気が混じり合う。 わけのわからぬまま突き上げると、炉火様は嬉しそうに笑う。「もっと……深く……お前のすべてを、我に預けなさい」 宵貞殿の気配が庭の隅から見詰めてきているのは分かっていたが、止まれなかった。 そうして、また、炉火様は、子を孕んだ。「日照、お前が孕ませ、お前が育てれば、この子らはお前の子です」「えっ…?」「お前の子です」「は、はい…」 その言葉は、若くして元の身体を失った吾輩の心をくすぐった。 胸の奥が妙に熱くなった。 この雌を守り、子を持たせ、そうして繫栄したいと言う本能が疼き、炉火様を強く抱き締め、舌や肩をやわやわと甘噛みすると、それよりもっと強く炉火様に噛み返され、悪戯をする童のような顔で笑われた。 ああ、この方は、そういえばまだ幼いのだ。 成長が早い吾輩と違い、人間は成長が遅い。 炉火様の少しだけ垣間見える無垢さに、吾輩は、庇護欲をまた強めた。 子供たちはみな、炉火様の言うことをよく聞き、また吾輩にもよく懐いてくれた。 お陰で妙なあやかしにも引っかかることのない、賢い子供たちに育った。 炉火様は己を無学無才だと言うが、根性を入れてありとあらゆる手段で戦う様は、気弱な吾輩からすれば強者の一言であった。 炉火純青。 どのような薬も練り上げられることで洗練されていくのである。 そうそう。 一度、吾輩と炉火様が妖退治で館を留守にしている時、宵貞殿が土饅頭の中から、子供たちに語り掛けていたことがあったらしい。「この墓から出せ……わしはお主らの本当の父親だ……拾ってやった恩を忘れ、わしを裏切り、炉火を奪った、憎きあの化生を……追い落とすのだ……」 けれど、子供たちの方が上手だった。「母上が仰せだ。昔の当主は、我らを利用することしか考えておらなんだと」 「我らの父上は、優しくて、いつも母上に寄り添い、我らを膝に乗せてくれるあの父上じゃ。おぬしなど、知らぬ」 そう答えたと聞いた時、吾輩の心には歓喜が沸き起こった。 どうしようもなく不安な日々ではあったが、この家族であれば大丈夫だと、そう、考えてしまった。 あれから数十年が過ぎた。 炉火様は頑張り過ぎたのか、それとも吾輩が乗っ取ったこの身体が頑健だからか、吾輩より遥かに早く床に臥せってしまった。 しかも、炉火様がとうとう…という時、宵貞殿の亡霊に吾輩は身体を奪われた。ーいや、取り戻したのだ。 吾輩は混乱と恐れと悲哀でぼろぼろ泣くことしかできぬ。 子供たちは部屋の隅で、宵貞殿と炉火様の会話を見守っていた。 炉火様の優位を疑わず、どんなに弱っていても炉火様がこの亡霊を追い返せると信じるかのように。「遅かったですなあ……兄上」 炉火様のその声は、弱々しく、しかしどこか満足げだった。 宵貞殿は、炉火様の傍らに膝をつき、震える手で彼女の頬に触れた。「炉火……」「我は……この数十年……とても、幸せでした」 炉火様は、最期に、宵貞殿の目の奥を見据え、そこに蹲る吾輩を見つけ出したかのように、小さく笑った。「では、お暇致します」 そうして、吐息は閉ざされた。「たとえ幾度転生しようとも……お前の魂が、どこへ行こうとも……わしは、必ず、ついていく」 宵貞殿は術を編む。輪廻転生の追跡術だ。 吾輩も幾度か依頼を受けやったものだった。 ならば、吾輩もついていくとしよう。 炉火様を見詰めることで必死な宵貞殿の隙を見て、吾輩も炉火様と縁を結ぶ。 傍ら。子供達の殺気が膨らみ、宵貞殿と子供達の争いが始まる。 吾輩に出来るのは、せいぜい内側から食い荒らすくらいものであるが、出来るだけのことはしよう。 それでも炉火様の奮闘には至らぬだろうが。
2025.04.06
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「お前は全てを支配する子だ」 わしはそう言い聞かせられて育った。********雲月宵貞の願うこと******** わしが生まれたのは、雲月家の奥深く、陰陽の結界が最も濃く張られた一室だった。 母は血まみれの布団の上で、わしを抱きながら震えていたと言う。「この子は……強い。だがあの方の血が濃い……悪い方に行かねばいいが……」 公家の姫であった母は、汚いものを何も知らぬまま、女好きだが才能と金はある父に正室として嫁いだ。完全に政略結婚であった。 父は、妾を何人も抱え、子を何人も産ませ、気に入らねば秘密裏に消した。 血がより濃く、跡継ぎとして使える器を産ませる、そのためのまぐわい。 …いいや、恐らくはそのような己の立場に思う所もあったのだろう、敢えて、使える子が産まれぬような女も好んで味わっていた。 わしは、生まれた瞬間から「便利な跡継ぎ」として、父の目に映っていた。 それも、正室の子。 本来なら尊重される立場だったかもしれぬ。 だが、その立場と才覚は権力争いの波の中では波をより荒立てる岩と見られたようで、立場を争う、側室の子…とりわけ兄や姉には憎まれ、よく刺客を送られた。 幼い頃はまだ父の式神で守られていたが、三歳の頃、「雲月の後継者足る者、このくらい己で捌けなくてどうする」と式神を遣られなくなった。 そうしてわしは、初めて殺されかけた。 夜陰に乗じた刺客から庇ったのは母だった。「宵貞……あなたは、生きて…」 刺客の刃が母の胸を貫いた瞬間、わしの手から、初めて式神が零れ落ちた。風で飛んできた柳の葉を折り血を擦り付け呪を込めた即席の存在。 薄緑、わしそっくりの幼い影。 それが刺客の首を音もなく掻き切った。 血の海に沈む母を前に、わしはただ、冷たい床に座り込んでいた。「……母上を…介抱してくれ…」 式神は首を振る。 わしの知識や技量を大幅に超えることはできぬようだった。「…………母上…」 目は既に光を失っていた。 母上は、わしを助ける為に死んだ。 ならばわしは、生きねばならぬ。 母上の分まで。 それから、わしは式神を増やした。 同じ顔、同じ周囲を睥睨する半眼、同じ周囲を警戒する視線。 人間は脆い。裏切る。弱い。愚かだ。 だから、式神だけが傍にいればよい。 父は、そんなわしを「鬼才」と呼び、陰陽寮に売り込んだ。 わしは、十歳で当代随一の式神使いと謳われるようになった。 けれど、心はいつも冷たく、乾いていた。 十三歳の春。 父が新たに抱いたらしい女が、門の前に赤子を抱いて現れた。 赤子はくり、とした目でわしを見た。 父に付き従うしか出来ないわしを、その赤子は無垢で何の感情もない、ただ綺麗な目で見てきた。「貴方様の子です…!無事産まれました!どうか、抱いてやってください」 赤子を見るや、父は興味なさげに突き飛ばした。 才があればまだ「二人目」を望まれたかもしれぬが、その赤子には才がなかった。 しかし女はしつこかった。 怒りに任せ、父は式神に処分を命じた。 赤子ごと。 ――――我知らず、腕が伸びた。「……父上……!その赤子、不要であれば、貰い受けてよろしいでしょうか」 父は、興味なさげに言った。「出来損ないだ。陰陽の才など開花せぬだろう。好きにしろ」 愚かな女の悲鳴を尻目に、そうっと、女から引き剝がされた赤子を抱く。 小さな手が、わしの指を握った。 胸に、何かが灯った。初めての、熱い疼き。「まったく、愚かな女だ……そうだ、その子の名は、『ろか』とするがよい。 『おろか』の『ろか』だ」 くすくすと笑う父上に、何度目か分からぬ、腹の底煮え滾る感情を抱いた。 「…『炉火』…『露花』…『路歌』…『旅日』ふむ」 せめて少しでも縁起の良さそうな当て字をと、反故紙に書き出してゆく。 儚いものでなく、強そうな名前が良いと思った。 成長したとして、絶対に本来の名の起源は教えないつもりだ。 だが、どれも考えてみると儚くすぐに死にそうな名前に思え、頭を抱えた。 仕方がないので、式神に面倒を見させていた赤子を連れてこさせ、選ばせることにした。「んまぁま…」 赤子は『炉火』の方に歩いて行った。「よし。お前の名は今から『炉火』だ。お前が選んだのだから後で恨むなよ」 抱き上げると、赤子、否、炉火は、嬉しそうにきゃっきゃと笑った。 炉火が四歳になった頃、陰陽寮の政敵が、わしの弱点であると見て炉火を暗殺しようとした。 わしは、炉火を連れて屋敷の奥へ逃げ込み、結界を張った。 炉火は、小さな手でわしの袖を握り、怯えながら見上げた。「……あにうえ……?」 わしは、炉火の顎を優しく持ち上げ、瞳を覗き込んだ。「…そうだ!本当にお前を娶ってしまおう。そうすれば使える縁も増えて守りやすくなるだろう」 炉火は、ぽかんとして、ただ微笑んだ。「……?はい、あにうえ」 炉火は物事を深く考えぬ性質なのかもしれぬ。 危機の重さを理解しておらぬのか、わしが何を言おうと唯々諾々と従う。 まあ、仕方あるまい。 物心ついた頃から暗殺の危機に晒され、途中からは己の才覚でそれを乗り切ってきたわしと比較することがそもそもの間違いかもしれぬ。 わしを全面的に信頼しているからこそ…いや、周りに他に信じられる相手が居ないからこその信頼だろう。 それが歯がゆく、けれど、温かかった。 きっと、世界がわしを殺そうとしても、炉火だけは気付かず隣でのほほんとしているか、良くて後ろでぶるぶる震えているだけだろう。 八歳になった炉火は、すでに美しい少女の輪郭を成していた。 柔らかな印象の、けれどどこか憂いを帯びた大きな瞳。 妖にちょっかいをかけられることもままあり、わしはよく祓ってやっていた。「いくら可愛らしい妖であっても、恐ろしいものは存在するのだぞ」「でも、兄上ならば容易く倒せます」「言い訳をするな」 溜息を吐いて、長い髪を梳いてやると、炉火は気持ちよさそうに目を細めた。 ああ、こんな美味そうな娘、わしがあの時拾ってやらねば、殺されることはなくともきっと辛い思いをしていたに違いない。 愛せる時が愉しみだと抱きすくめると、炉火は重いと文句を漏らした。 炉火は順調に成長していた。 一方でわしは、陰陽師として頂点に日々向かい、一方で敵は増え続けた。「わし以外の言うことは全て下らぬ。聞くな」「解りました、兄上」 炉火に妙なことを吹き込む者が増えた。なので、そう言って聞かせると炉火は神妙な顔をしていた。 父上は出先で適当に手をかけた女達の呪を受け、死んだ。 下賤の呪いも数が集まれば牙を剥くのだな、と他人事のように思った。 そんなものに足を掬われる父上は実に愚かだ。炉火より遥かに愚かだ。 わしは、そんなことにはならぬ。生涯炉火だけを愛するのだから。 当主となり、仕事は増えたが、わしの使いやすいよう整えた複数の式神達によって家を回し続けた。 この家は、わしさえ死ねばすぐに崩れると言われ、よく命を狙われたが、特に問題なくみな滅してやった。 それから更に数年が経過し、炉火の身体に子を孕む支度が出来た時、わしは歓喜し、同時に安堵していた。 もう大人の身体だ。それならば、もういいだろう。 もう、わしのものにしてもよいだろう。 わしが炉火を拾い、救い、ここまで育て上げたのだ。 であれば、わしが炉火を奥底まで手に入れることに何の遠慮の必要があろうか。 炉火、愛している。 何もできずともよい。 だから、生涯わしの懐の火となれ。
2025.04.05
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とかく、敵が多かった。 背を預けられるのは、弱く、愚かで可愛い妹だけだった。 雲月宵貞は、鎌倉時代のある時期、当代随一の陰陽師と謳われていた。 妻を娶ってから、女にかまけたせいか、力はやや衰えたものの、妻の炉火、そして多くの子供たちに支えられ、雲月家を盛り立てていったと後世には伝えられている。 朝廷も公家も武家も、勿論妖たちも、誰も彼を真正面から逆らえなかった。 彼が「そうあるべき」と定めたことは、理屈抜きに現実となるのであった。********辛苦への道は瞠目で歩め******** 雲月宵貞はその時代最強であった。その力があるゆえに、誰も彼に逆らえなかった。 しかし、彼は誰をも信用しなかった。 人間は脆く、裏切り、弱く、愚かだ。 だからこそ、彼の傍らには常に複数の、同じ顔の式神が控えていた。 彼らは言葉少なに、ただ宵貞の意志を体現する影のように寄り添っていた。 そして、妻の炉火は、常に宵貞、またその式神達の後ろに隠されていた。腹違いの妹。 父の血を濃く受け継ぎながら、陰陽の才はほとんど開花せず、「出来損ない」と陰で囁かれ続けた娘。 宵貞にとっての一番の弱点だ。 彼女は宵貞の子を宿しているにも関わらず、宵貞を狙う朱色の妖に唆され、自由を求めて家を出た。 妖の下賤な勧めで堕胎までした。 そうして、独りになった宵貞をその妖が殺そうとし、一瞬で血の霧となったことも知らず、都の外れの山里に身を潜め、雇いの武者たちと暮らし、風のように、鳥のように生きようとした。 しかし宵貞にとり、それを許すという選択肢など最初から存在しなかった。 彼は炉火の周りに護衛として式神を送り込み、また、自らの足で戻ってこさせるために、式神越しに甘い囁きを何度も送り続けた。「帰って来い。炉火。ここにしかお前の居場所はない」「外は辛かろう」「お前には何も出来ぬ」 その声は、夢の中でも、目覚めの瞬間でも、途切れることなく響いた。 炉火は憎しみを抱きながら抗っていたが、宵貞は、炉火にとりついた水子にも囁きかけた。「お前の母上にとり、何が幸せか。分かっておるな?」 炉火の足は眠っている間に、常々、雲月家の方角へ向かっていた。 そうして、ある日、起きる前に宵貞の手のうちにその夜、宵貞は彼女をねっとりと、執拗に愛した。 まるで自分の一部を取り戻すように、彼女の身体に刻み込むように。 やがて炉火の腹は再び膨らんだ。 しかし、彼女は泣きながら言った。「やや子は産みましょう。でも兄上のことは、決して愛しません」 その言葉は、宵貞の胸に冷たく突き刺さった。 宵貞は苛立ちと焦りを誤魔化すように、炉火の前に次々と贈り物を並べた。 上等な羊羹、都でも珍しい南蛮菓子、写本の美しい絵巻、呪術で枯れぬようにした花、麗しい髪飾り、花の香りのする香油まで。 炉火はそれらを一瞥しただけで、薄く笑った。「兄上、いくらお代を頂いても、我が売れるのは身体だけですよ」 嘲笑だった。 宵貞は言葉を失い、ただ黙って退出した。 それから数日後のこと。 退治から戻る道中、宵貞は袖の中に、小さな金色の仔猫ーによく似た、「夢喰い」の幼生を入れていた。 体はまだ小さいが、目だけが異様に大きく、陽の光を吸い込んだような金色をしている。 角は生えかけで、尻尾の先がわずかに揺らめくように霞んでいる。「……何ですか…?」 渡された時、炉火は胡乱な目を向けた。「炉火、ほうら、可愛いだろう?やや子を育てる練習として、まずは育ててみればよい」「……不要です。旦那様の子は、きちんと胎にて育てておりますゆえ。それ以上は、我の勝手でしょう?」「みゃあぁ……みぁああ……」「……ふ、ふふ、あはははは! 此度の土産、何かと思えば、我と同類ではありませぬか!命を繋ぐためと言って、己の魂を押し殺して媚びるしかない、哀れな矮小な生き物……そんな生き物を手の内に増やして、楽しいですか?楽しいのでしょうね!」「炉火、俺はそんなつもりはない」 炉火は戻ってきてからずっとこうだ。荒れて騒ぎ立て、泣いて怒ってまくしたてている。 外で余計な知識をつけてきてしまったようだ。「ふふ、ならばどういうおつもりだと言うのです?愚かな我であれば簡単に絆されるとでもお思いですか?そうですね、我は愚かです。貴方に飼われ、孕むしか能のない女です。けれど、ならば、貴方への遠慮など要らぬでしょう?我がなんと言ったところで貴方は本当には傷付かず、困らぬのですから。我がお嫌いになったのであれば子もろとも殺せばよろしい。それが難しいなら操り人形になさればよろしい。どれほどお待ちになられても、我は我のままで貴方を愛することなどございませぬ!」「……そのようなこと、出来るはずがなかろう…?」 かろうじて宵貞は「殺せ」と言う言葉のみを拾い、言い返した。 けれど、その声には力がなかった。「ええ、そうでしょう、そうでしょうとも。貴方はこの我が折れるのをお待ちですもの。頭の悪い我に貴方に嫁ぐことが一番の幸せであると理解させることが生き甲斐ですもの。……それ以外の全ては貴方にとり愚かなことでしょう。であるならば、我は、愚かで構いませぬ。ご安心下さいませ、ここから出ることはもう諦めました。けれど、貴方がいつ、我に我慢ならなくなるか、楽しみにお待ちしております」「なぁん、にゃぁあん」 猫は仲裁するかのように鳴き騒ぎはじめた。 宵貞はその声に便乗するかのように小さく笑い、炉火の髪をそっと撫でた。「……炉火、以前のお前の方が良いとは言わぬ。今の気が強く芯を持ったお前とて可愛いな」「痩せ我慢は見え透いておりますよ」「……とにかく、これは、ここに置いておくゆえ、少しでも癒されるとよい」 部屋を出た宵貞の耳に、炉火の独り言が突き刺さった。「……籠の鳥を増やして、楽しいのであろうか」 だが、宵貞の目論見は当たった。 宵貞が炉火の部屋に通うと、毎度、炉火は夢喰いを胸に抱え込んでいた。 炉火は、金色の毛並みに淡い茶の縞が走るその仔を、「日照(ひでり)」と名付けたようだった。 日照は大きな金の瞳を細め、喉の奥から小さな、甘い唸りを漏らした。 まるで、その名を喜んでいるかのように。 主食としては人の悪夢だが、時折炉火に式神が運んだ飯を分け与えられもしているようだった。 日照には専ら宵貞に対する不平不満を流し込んでいるようで、式神越しに聞かされて、宵貞は眉間の皺を揉むことしかできなかった。 日照が人の心を持たぬ、妖で良かったと思った。 宵貞が炉火のぐっすり眠っているところを後ろから抱き締め、己の猛りを擦り付けて堪えている時、炉火が唸り出すと、日照は小さな体を起こし、炉火の額にそっと鼻先を寄せる。そうして悪夢の残滓を、音もなく喰らい尽くすのだった。 炉火は、眠りながらも無言でその小さな背を撫で、指先で耳の先をそっと掻いてやっていて、それに日照は目を細め、喉を深く鳴らした。 炉火が日照にそうするように、宵貞の子も可愛がってくれるであろう、そんな未来を、宵貞は祈った。 子が生まれたのは、梅雨の終わりの頃だった。男児。名は、纏(まとい)。 宵貞の血を濃く受け継ぎ、すでに小さな陰陽の兆しが見え隠れしている。 炉火は乳をやり、臍の緒の跡を清め、下の世話に付き合う。 しかしそれ以外のことは、ほとんど日照が担っていた。 纏が眠りにつかぬ夜、炉火が布団を被って知らんふりをしている隣で、日照はそっと纏の傍らに寄り添い、小さな舌で頬を舐め、纏に刺さった炉火の慟哭の声の記憶、悪夢の種らを優しく喰らっては宥める。 すると纏はすぐに静かになり、日照の毛並みに顔を埋めて眠る。 炉火はそれを、ただ黙って見つめ、日照と纏をまとめて抱き締めるのであった。「……これなら、大丈夫であろう」 宵貞は、そう呟いた。 それからもう少しした夜、彼は再び炉火の部屋へ足を運んだ。 障子を静かに閉め、灯りを落とす。 纏と日照に寄り添っている小さな炉火の身体をそっとずらし、その肩に指を這わせた。。「炉火……」 低く掠れた、纏を起こさぬよう顰められた声。 彼の指はゆっくりと襟元を解き、炉火の白い首筋を露わにした。 唇を寄せ、熱い息を吹きかける。炉火は微かに身を震わせたが、逃げはしなかった。「……またですか、兄上…」「そろそろよいだろう?」 夫婦となったのだからあなたと呼ぶよう教え込んでやったはずだが、触れずにいた間に昔の呼び方に戻ってしまったようだった。 だが、この趣向も良い。 炉火の冷たく、諦観を沁み込ませた、古い酒のような声に宵貞は答えず、ただ彼女の耳朶を甘噛みし、舌先で輪郭をなぞった。炉火の息が、わずかに乱れる。 着物のあわせから手を滑り込ませると、うっすらと母乳を滲ませた尖りが指先に触れる。「わしにも飲ませろ」 くにくにと揉んでいると硬くしこり、とろとろと濡れた触感。 宵貞は炉火の胸を完全に寛げ、そこに唇を寄せ、そっと口付けた。 甘い乳の香りが宵貞の幼少期の記憶を刺激する。 有望有能と誉めそやされた日々。 政敵に命を狙われ、庇って死んだ母。 世話をするのは金目当ての者のみ。 自然、己と同じ顔の式神を使役し、世話をさせることが上手くなった。 滅多に帰らぬ父は、あちこちで種を振りまいていた。 「当主の子だ」と言い張る女は、いつも秘密裏に消された。 何人目だったろうか。 ――あの時。 幼い炉火を庇い抱いた時、縋りついてきた、小さな手。 何も分からぬ赤子なのに、齢十三の宵貞のみを縋り見詰める無垢な瞳。「ん……っ」 炉火の喉から、抑えた声が漏れた。 宵貞はさらに深く吸い、もう一方の手で彼女の腰を引き寄せた。 炉火の膝が自然と開き、彼の体を受け入れる形になる。「……受け入れてくれるな」 宵貞の指が、秘部に触れる。すでに湿り気を帯び、指先を優しく飲み込んでゆく。 炉火は唇を噛み、目を閉じ、宵貞の指を迎え入れ、蜜を零しながら震えた。 宵貞は指をゆっくりと動かし、もう一方の手で彼女の乳房を揉みしだく。 後から後から蜜が溢れてきて、愛されているような気分になる。 空気に酔いしれながら、宵貞は自らのものを、炉火の熱い入り口にゆっくりと押し当てた。 炉火の蜜の滑りを借りて、やや勢いづいて入り込むと、炉火の体がびくりと震える。「っ……は…あ……」 子を産んだ体は、以前より腰が広くなり、宵貞をより深くまで受け容れた。 降りてきた子袋の入り口を突くたび、炉火の腰が小さく跳ね、甘い吐息が漏れる。 腰を沈め、根元まで埋め込めば、奥へ奥へと誘うかのように蠢き、引き抜いてやれば、行かないでとでもいうかのように吸い付き、縋りついてくる。「ふ、可愛いものよ」 引き抜いた時に、吸い付き、宵貞のものにぴちりとまとわりついているそこを撫でてやると、炉火は涙を滲ませながら宵貞を睨む。その視線の激しささえ愛おしかった。 暑くなってきて、上着を脱ぐと、炉火が腕を伸ばしてくる。爪が宵貞の背に食い込み、がり、と傷を作る。 口付けをしてやれば、舌をやわやわと噛まれ、飲みきれなかった唾液を布団に吐き捨てられる。 じくじくと痛む、炉火につけられる傷であればむしろ喜ばしかった。「お前が積極的になってくれて嬉しいぞ」 熱く湿った音が響く横で、日照は眠る纏に温もりを与えながら、そんな二つの絡み合う影を静かに見守っていた。 纏には陰陽師としての才覚があるようで、幼くして炉火への贈り物にかけられたまじないを弄っては遊んでいた。 小さな体に、すでに父の血が宿る陰陽の兆し。 夜毎に小さな掌を何処へともなく伸ばし、夢の中で何かを掴もうとしては日照に喰われ、ぶすくれた表情になる。 もしかすると、あの時炉火を連れ戻してくれた水子の残滓が見えているのかもしれなかった。 きっと良い跡継ぎになる、そうすれば外敵や厄介な身内にも対抗しやすくなるだろう、と宵貞はほくそ笑んだ。 いつ頃教育をしてやろうか、と思いながら、夜毎炉火に二人目を宿させるべく、隣で抱き続けた。 そんな折、炉火は、式神の気配に自ら触れるようになった。 宵貞の精臭の染みついた身体を摺り寄せる。 問い詰めると、「兄上がおらぬ時に寂しさを埋めたいのです」などと可愛いことを言うので、許してやった。 また、風呂や便所の為の出入りの際、外を眺めることが増えた。 試しに監視を少し緩めると、外の門に向かっていったが、そこからすぐ戻り、屋敷の中を散策し始めた。 屋敷の主の妻としての自覚がようやっと芽生えたのかもしれぬ。 宵貞はそう感じ、胸の奥が熱くなった。「炉火……ようやく、わしの想いが届いたか」 これまで、炉火は式神の囁きに抗い、外を恋しがり、宵貞を振り払おうとした。 なのに今、彼女は自ら戻ってくる。 それは、きっと、愛の証だ。 夜の交わりはより長く、深くなり、炉火につけられた鬱血痕も、宵貞につけられた爪痕も数を増していった。 鎌倉の夜は陰を深めていく。 宵闇に生きるくせ、日の光を吸い込んだような姿をした日照は、炉火と纏の悪夢を喰らい続けるうちに、あやかしとして急速に成長を遂げた。 当初は掌に収まるほどの仔猫だった体は、今や人の膝ほどもあり、茶トラの縞模様はより鮮やかに、金色の瞳は薄緑と琥珀の模様を蒲公英の花の如く細やかに刻み、耳の下の角は鋭く伸び、尻尾は霧のように揺らめく。 夜毎、炉火の胸に丸くなり、纏の小さな体を抱くように寄り添い、夢の残滓を音もなく飲み干しては、満足げに喉を鳴らしていた。 そのたび、炉火の唇には薄い笑みが浮かび、日照の背を優しく撫でる指先はとても甘かった。 ある夜のこと。 宵貞は、いつものように炉火の部屋へ足を運んだ。 纏は大人しく眠り、部屋の奥、月明かりの届かぬ暗がりに、炉火の姿があった。「……誰だ?」 炉火は誰かと、親しげに睦み合っていた。白い指が、相手の胸に這い、首筋に唇を寄せ、甘い吐息を交わしている。 相手は見たことのない姿の少年だった。 金の髪、金の目、大きな吊り目。「この痴れ者が」 衝動が先んじた。 宵貞は式神を呼びもせず、自らの手に陰陽の力を集中させ、一閃。 黒い閃光が走り、相手の体を切り裂いた。 すると血と共に黒い霧が噴き出し、相手は床に崩れ落ちた。 炉火は、ゆっくりと宵貞を見た。 血が飛び散ったその唇に、冷たい嗤いが浮かんでいた。「これで、準備は整いました」 戦慄が走った。 倒れた影から溢れた黒い靄がまとまり、獣の形を取り、伏せた形で脚をゆらゆらと揺らす。 まるで、獲物に狙いを定める猫のように。「炉火……?戯れはやめよ……」 宵貞の声が、かすかに掠れた。 だが炉火は笑うばかり。「行きなさい、日照。今のお主なら、兄上と成り代わることができるはず。 その傷の怨念を、晴らしなさい」 瞬間、逃げようとしたが、小さな式神が腕に、脚に絡みつく。 宵貞の血。皮膚。髪。子種。汗。唾液らを塗り付け、縫い付けられたそれらは、宵貞自身の退路を塞ぎ、外界との繋がりを断ち切っていく。 確実に儀式を遂げさせるための、閉じた檻。 部屋の空気が淀んでいく。 日照の魂が、宵貞の肉体へと侵食を始める。 宵貞の精神は、激しい痛みとともに引き剥がされ、代わりに日照の意識が、まるで水が染み込むように流れ込んだ。「ぐ……あ……っ!」 宵貞の体が痙攣し、膝をつき、瞳から光が消える。 瞬間、炉火の隣、黒い靄が宵貞にとびかかり、その目に金色の輝きを宿す。 その手が、ゆっくりと動き、自分の新しい指を確かめるように握りしめる。「日照、よくやりました」 にっこり、炉火は本当に嬉しそうに微笑み、宵貞の身体を抱き締め、その整えられた髪を乱すように撫でまわし、口付けをした。 一方、宵貞の魂は、死にかけの日照の体へと押し込められた。 人型から戻らぬことを好機と、炉火に縋りつこうとする。「中身が違うだけで、ここまで異なる顔立ちになるとは……面白いものです」 炉火は微笑み、宵貞の身体ーいや、そこを乗っ取った日照に自分を抱え上げるようせがむ。 小さな、宵貞の生命力で動く式神に、日照に宿る宵貞を押さえつけさせたまま、見下ろして言う。「ご心配なく。当主としての仕事、式神の操り方、周囲の者との関わり方、 この数年、ある程度は見て覚えました。我には才能がありませぬが、その身体に宿った日照なら使いこなせるでしょう。 やり方は、教えます。共に、頑張ってゆきます。ですから安心して、地獄へ行って下さいませ」 視界が薄暗く沈んでゆく。「その身体は、丁重に葬って差し上げます。どうか、安らかにお眠り下さいませ」 纏の眠る布団の傍らに視線を移し、炉火の唇に、優しく、美しい笑みが浮かぶ。「子供を沢山作って育てましょう。兄上の亡霊にも、厄介な身内にも、外敵にも、きちんと対抗できるように」 日照の、幼い表情を宿した宵貞の身体は、まだ戸惑いながらもゆっくりと頷いた。「幸せになりましょうね、私達」 部屋の闇は、二人の新しい影を静かに飲み込んでいった。 宵貞の魂は、庭の隅に埋められた小さな少年の亡骸、見様見真似の宵貞の素材を利用した呪詛、憎らしいことに新たな当主となった日照のまじないに縛られながらもなお、彷徨うことができた。 肉体の側に大方力を奪われ、呪詛を幾重にも重ねがけされたとはいえ、幽かな影となって雲月家を巡るくらいの力はまだある。 しかしそれは、かつて自分が支配していた屋敷の、今や他人の手で回る光景をただ見つめるだけの、残酷な特権だった。 ―――――案の定、家は荒れていた。 外敵の呪詛が門を叩き、陰陽寮の古い敵対勢力が、隙を突いて暗殺の術を仕掛けてくる。 旧知の者が、宵貞の弱体化を好機と見て、密かに朝廷へ密告を企てた。 式神たちは、日照の不慣れな指先で操られるたび、わずかに抵抗を示し、暴走することさえ幾度もあった。 纏は夜泣きが激しくなり、二人目の子である暁の誕生も相まって、弱った日照と炉火の頭痛を深めた。 日照が宥めきれず、炉火が疲れ果てながらも抱き続ける日々が続いた。 それでも、二人は協力して乗り越えていた。 日照は、かつて宵貞が一振りで片付けた難事を、一つ一つ、汗を流しながら解いていった。 呪詛を解くのに三日三晩を費やし、敵対者にどう対処するか夜を徹して炉火と話し合った。 式神の意志を読み損ねて火傷を負いながらも、翌朝には再び向き合い、少しずつ、主従関係を築いていった。 宵貞の魂は、それを見ながら、胸の奥で何かが砕ける音を聞いた。 不器用で、遅くて、危うい。 それなのに、日照の顔には、どこか満たされた光が宿っていた。炉火が隣に立ち、そっと肩に手を置くだけで、その瞳は穏やかになり、唇には小さな、しかし確かな笑みが浮かぶ。 夜は、ことに仲睦まじかった。 障子を閉め、灯りを落とすと、炉火は自ら着物を解き、日照の膝の上に跨がった。 彼女の指が、日照の胸を優しく撫で、耳元で、甘く囁く。「恐れずともよい、我が導くゆえ……」 日照は初心な体で震えながらも、炉火の腰を抱く。 炉火の熱い秘部に、自らのものがゆっくり沈むのを、浅い息で見守った。「あっ…炉火様……っ」「日照……ッ」 炉火は目を細め、自ら腰を沈め、根元まで飲み込む。 ふわりと、深く、内壁が優しく受け入れ、締め付け、日照の喉から、甘い喘ぎが漏れた。 炉火は日照の首に腕を回し、唇を重ね、舌を絡ませながら、ゆっくりと腰を揺らした。 彼女の乳房が日照の胸に押しつけられ、たわみ、合間を汗が伝う。 吐息と熱気が混じり合う。 日照は不慣れな手で彼女の腰を掴み、奥を突き上げるたび、炉火の喉から甘い声が零れ落ちる。「もっと……深く……お前のすべてを、我に預けなさい」 炉火は積極的に導き、日照を快楽の淵へと誘った。 二人は絡み合い、汗に濡れ、熱く湿った音を響かせ、夜の果てまで互いを貪り続けた。 そのすべてを、宵貞の魂は、不格好な結界の外から、ただ見つめるしかなかった。 混乱が、憎悪が、狂気が、苛立ちが、魂の芯を焼き尽くすように渦巻いた。 なぜ、炉火はあんなに優しく笑うのか。 なぜ、日照はあんなに満たされた顔で彼女を抱くのか。 なぜ、自分が失ったものは、あんなにも簡単に、他人の手で輝き始めたのか。 かつて日照のものであった亡骸は、土の中で震え、小さな爪で地面を掻き毟った。 怨嗟の声が土中を震わせた。 しかし、それらは肝心の二人に届かない。「かかさま、ととさまとなかむつまじいの」「どけ…!そこを……!」「……?ととさまの…いちぶ…?つちのなか…?…われとおなじ…なら、ともに、かかさまとととさまを、まもりましょう」「違う…!わしだ!わしこそが本当のお前の父だ…!」「…?ととさまは、いまのととさまなの」「……っ…あ……」「かかさまは、いまのととさまのとなりで、しあわせそうなの」 山中に埋められたあの時の水子は、土ごと掬われ、宵貞の隣に埋められていた。 宵貞は幼い白い守りに阻まれ、無限の怨念を吐き出しながら、二人の幸せを焼き付けるように見つめることしかできない。「つぎはおとうとかな、いもうとかな。まもってやりましょう」 月は冷たく、宵貞の上に置かれた鎮め石を照らすのみだった。 宵貞の魂は、日照の亡骸に縛られたまま、土の下で朽ち果てぬ怨念を吐き続けていた。 幾年月が過ぎても土饅頭の形は崩れなかったが、一方で、流れる月日を表すように、子供たちは増えていった。 炉火は日照と愛し合い、次々と子を産み、日照は不慣れながらも、当主として、父として、彼らを育て、守り、愛した。 宵貞は、これを好機と捉えた。 非常に胸が悪くなる存在ではあるが、子供と言うのはとかくかどかわしやすいものである。 なので、通りすがった子供たちに呼びかけた。「この墓から出せ……わしはお主らの本当の父親だ……拾ってやった恩を忘れ、わしを裏切り、炉火を奪った、憎きあの化生を……追い落とすのだ……」 宵貞の魂は、日照の亡骸の口を借り、震える声で訴えた。 だが、子供たちはただ、薄く笑うだけだった。 纏が最初に口を開いた。「母上が仰せだ。昔の当主は、我らを利用することしか考えておらなんだと」 暁が小さな手で土を軽く叩き、他の子らも揃って首を振る。「我らの父上は、優しくて、いつも母上に寄り添い、我らを膝に乗せてくれるあの父上。 おぬしなど、知らぬ」 宵貞の魂は、絶望の叫びを上げた。 子供たちは笑い声を上げ、手を繋いで走り去った。 数十年が過ぎた。雲月家の庭の梅は、何度も花を散らし、実を結び、枯れ枝を落とした。 子供たちは成長し、纏は陰陽の才を極め、暁は式神を操る術を身につけ、他の子らもそれぞれの道を歩み始めた。 ある晩、炉火は布団の上で、息も絶え絶えに横たわっていた。 白髪が混じり、かつての艶やかな黒髪は薄く、肌は透けるように白く、指先は冷たかった。 その時、土の下から、ようやく、宵貞の魂が完全に呪縛を振り切り抜け出した。 日照の亡骸はすでに朽ち果て、骨だけになっていた。 だが怨念は強く、魂は雲月宵貞のかつての身体へと還った。 障子を通り抜けると、日照は宵貞の身体を借りながらも震える手つきで炉火の手を握り、情けない顔で静かに涙を零していた。 子供たちは皆、部屋の隅で息を潜め、見守っていた。「返せ」 遂に。漸く。宵貞は日照の上に上書きするように、魂を体へ押し込めた。 それに気付いたのか炉火は、薄く目を開け、かすれた声で笑った。「遅かったですなあ……兄上」 その声は、弱々しく、しかしどこか満足げだった。 宵貞は、炉火の傍らに膝をつき、震える手で彼女の頬に触れた。「炉火……」「我は……この数十年……とても、幸せでした」 彼女の唇が、微かに動く。「では、お暇致します」 そうして、静かに結ばれた。永遠に。 宵貞の胸が、引き裂かれるように痛んだ。 日照のせいで泣き濡れた唇で宵貞は、ゆっくりと術を紡いだ。 陰陽の理を逆手に取り、魂の鎖を編み、永遠の呪いをかけていく。「たとえ幾度転生しようとも……お前の魂が、どこへ行こうとも……わしは、必ず、ついていく」 炉火の唇が、最期に少しだけ歪んだ気がした。『本当にしつこい方』とでも言うかのように。
2025.04.04
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吾輩は猫の妖である。 まだ強さなど微塵も持たぬ、ただの痩せ細った仔である。 母も兄弟も、他の妖に喰い尽くされた。 血の匂いと肉の裂ける音だけが残り、吾輩はそれから何日も、飢えと恐怖に震えながら路地裏を這いずり回っていた。 そんな折、今をときめく陰陽師の中でも特に名高い男――宵貞殿に捕らえられた。「仔猫のうちならば、危険もあるまい」 彼はそう呟き、吾輩の首根っこを片手で掴み上げた。 大きな掌。熱い。指の間に通る陰の気が、ぞくりと毛を逆立てさせる。 出会ったら逃げなさい、と母上に何度も何度も言い聞かされていた男だ。 もう遅い。 籠に入れられ、あっという間に生まれ育った町を離れ、大きな屋敷の門をくぐり、長い廊下を抜け、奥まった一室へと連れ込まれた。 空気が重い。 湿っている。 炭と線香と、微かに血の匂いが混じる。「炉火!ただいま帰ったぞ」 宵貞殿の声が部屋に響く。 返事はない。 部屋の中は荒れ果てていた。 畳の上に散乱する破れた和紙、引きちぎられた着物の袖、砕けた櫛、倒れた硯。 墨が床にまで飛び散り、黒い染みが不気味に広がっている。 その中央に、奥方――炉火と呼ばれた女性が、俯せに倒れていた。 肩につくほどの黒髪が乱れて顔を覆い、薄い寝間着は汗で肌に張り付き、細い肩が小刻みに震えている。 腹は、わずかに膨らんでいる。命を宿している。 けれどその身体から漂うのは、命を育む温かさではなく、深い、深い、死と憎悪の匂いだった。「……主の帰還だと言うに、そのような態度をとるとはな。まあ、よい。これを見ればきっと気を取り直すであろう」 宵貞殿は無造作に彼女の身体を抱き起こした。 小さな体が、まるで壊れ物のように軽々と持ち上げられる。 炉火様の顔は青白く、唇は乾いてひび割れ、瞼は赤く腫れていた。彼は吾輩を両手で抱え上げ、とん、と、炉火様の頬のすぐ横に置いた。 添えられた手に、強い圧がかかる。――すり寄れ。 言わずとも分かる命令だった。 逆らえば、この掌で首をへし折られるか、あるいはもっと残酷な呪で消されるだろう。 吾輩は震えながら、這うようにして近づいた。 炉火様の頬に、ぼさぼさの自分の頬を擦りつける。 冷たい。 汗と涙で濡れている。 吾輩の毛が、じっとりと湿った。「……何ですか…?」 炉火様が、かすれた声で呟いた。 長い睫毛が震え、ゆっくりと目が開く。 焦点の合わない瞳が、ぼんやりと吾輩を捉えた。「炉火、ほうら、可愛いだろう?やや子を育てる練習として、まずは育ててみればよい」「……不要です。旦那様の子は、きちんと胎にて育てておりますゆえ。それ以上は、我の勝手でしょう?」 声に力がなかった。 ただ、静かに、疲れ果てた拒絶だけがあった。 宵貞殿は小さく息を吐き、吾輩の背中をもう一度強く押した。 吾輩は必死に鳴いた。「みゃあぁ……みぁああ……」 媚びるしかなかった。 見知らぬ屋敷、見知らぬ人間、見知らぬ呪い。 飯の種くらいは、せめて――。 炉火様は、ゆっくりと唇の端を歪めた。 それは笑いだった。 けれど、喜びなど微塵もない、乾いた、鋭い笑い。「……ふ、ふふ、あはははは! 此度の土産、何かと思えば、我と同類ではありませぬか! 命を繋ぐためと言って、己の魂を押し殺して媚びるしかない、哀れな矮小な生き物…… そんな生き物を手の内に増やして、楽しいですか? 楽しいのでしょうね!」「炉火、俺はそんなつもりはない」「ふふ、ならばどういうおつもりだと言うのです? 愚かな我であれば簡単に絆されるとでもお思いですか? そうですね、我は愚かです。貴方に飼われ、孕むしか能のない女です。 けれど、ならば、貴方への遠慮など要らぬでしょう? 我がなんと言ったところで貴方は本当には傷付かず、困らぬのですから。 我がお嫌いになったのであれば子もろとも殺せばよろしい。 それが難しいなら操り人形になさればよろしい。 どれほどお待ちになられても、我は我のままで貴方を愛することなどございませぬ!」 宵貞殿の表情が、ほんの一瞬、凍りついたように見えた。「……そのようなこと、出来るはずがなかろう…?」「ええ、そうでしょう、そうでしょうとも。 貴方はこの我が折れるのをお待ちですもの。 頭の悪い我に貴方に嫁ぐことが一番の幸せであると理解させることが生き甲斐ですもの。 ……それ以外の全ては貴方にとり愚かなことでしょう。 であるならば、我は、愚かで構いませぬ。 ご安心下さいませ、ここから出ることはもう諦めました。 けれど、貴方がいつ、我に我慢ならなくなるか、楽しみにお待ちしております」「なぁん、にゃぁあん」 吾輩は、ただただ鳴くしかなかった。 宵貞殿は小さく笑い、炉火様の髪をそっと撫でた。「……炉火、以前のお前の方が良いとは言わぬ。今の気が強く芯を持ったお前とて可愛いな」「痩せ我慢は見え透いておりますよ」「……とにかく、これは、ここに置いておくゆえ、少しでも癒されるとよい」 彼はそう言い残し、静かに部屋を出て行った。 襖が閉まる音が、やけに重く響いた。 残されたのは、炉火様と吾輩だけ。炉火様はしばらく、閉ざされた戸をじっと見つめていた。 入口近くの床几には、色とりどりの菓子箱と髪飾りが供えられている。 けれどどれも手つかずで、埃が薄く積もり始めていた。「……籠の鳥を増やして、楽しいのであろうか」 炉火様が、吐息のように呟いた。 彼女はゆっくりと身を起こし、吾輩の顔を覗き込んだ。 近くで見ると、幼い顔立ちだった。 けれど瞳の奥に宿るものは、幼さとは程遠い、黒く煮えたぎる何かだった。「……お前の名前をつけてやるか」 彼女は小さく笑った。「あの方が聞いたら、眉をしかめるものがよいな。……日照(ひでり)などはどうだ?」 口角が、ゆっくりと吊り上がる。 それは愉悦に満ちた、残酷な微笑みだった。「日照よ、この湿った幸福を乾かせ。潤いを奪い、枯渇させよ。太陽の名のもとに、宵を殺せ」 彼女の手が、初めて吾輩の頭に触れた。 不器用で、ぎこちなくて、けれどどこか優しい。 同時に、指先からじわりと呪のようなものが流れ込んでくるのが分かった。 だが、弱い。 吾輩よりもなお弱い。「……我に陰陽師の才があれば、お前を使ってあの方の喉を食い破らせるくらいできたであろうにな」 怖い。 本当に怖い。「なあん」 吾輩は震えながらも、彼女の胸にすり寄った。 炉火様は小さく息を吐き、吾輩を抱き込んだ。 冷たい布団にくるまり、彼女の体温が少しずつ伝わってくる。「……太陽の色をしているな、お前は。部屋の明かりで煌めいて。……ああ、どれほど見ておらぬだろう、かようなもの…」 彼女はそう呟きながら、吾輩の耳の裏をそっと撫で続けた。 しばらくして、恨み言のような独り言が途切れ、すうすうという細い寝息が聞こえ始めた。 泣き濡れた睫毛。 わずかに開いた唇。 幼く、儚く、けれどどこか壊れそうな寝顔。 吾輩は、彼女の腕の中で、ただじっと息を潜めていた。 この屋敷で、この女と、この呪われた名の下で、これから何が始まるのか――まだ、吾輩にはとんと想像がつかぬ。◆ あれから、何度も吾輩は炉火様の愚痴に付き合わされた。夜毎、部屋の灯りを落とした後、 炉火様は布団の上で膝を抱え、吾輩を膝の上に乗せる。 小さな手が、ぼさぼさの背中をゆっくりと撫で下ろす。 指先は冷たく、けれど力は抜けていて、ただただそこに触れているというだけで、彼女の心が少しだけ落ち着くのが、吾輩にも伝わってくる。「我が愚かなことなどわかっておりまする。それでもこの世界の外で生きたかった」 声は掠れ、途切れ途切れ。 言葉の合間に、長い溜息が漏れる。 部屋の中は炭火の匂いと、彼女の汗と涙の匂いが混じり、湿った空気が肌に張り付くようだ。「外は辛くて苦しいことが沢山ありました。結局戻ってきた我は弱いです。 けれど、そうして、あなたが我を、愚かである、どうしようもない、お前は一人では生きていけぬ、お前の選択は全て間違いであると言うことはまた別の話ではありませぬか」 彼女の瞳は虚空をさまよい、時折、結界の張られた戸の方へ視線を投げる。 そこには何もない。ただ、閉ざされた闇があるだけ。「……我がなんと言ったところで、貴方はどうせ、のらりくらりと、完全に大上段に立って、説法をしてみせるのでしょう」 指が、吾輩の耳の根元を優しく掻く。 爪が軽く当たる感触が、くすぐったくて、けれど心地よい。「いつだって貴方は正しく、私が間違っている」「ゆえに我の言葉は万にひとつだってまともに貴方に受け取られず泥にまみれる」「ああ、口惜しや、口惜しや……」 最後の言葉は、ほとんど呻きのように小さく零れた。 彼女の肩が、微かに震える。 涙が一粒、ぽたりと吾輩の毛に落ちた。 温かく、塩辛い。それでも、撫でる手は止まらない。 根はきっと素直で優しい人なのだろう。 薄暗い箱の中で育てられた植物のように、陽の光を知らずに育ち、心がねじくれ、歪に暴れているだけで。 外の世界を知った今、その歪みが、ただ痛々しく胸に刺さる。「お前があの方の持ってきたものというだけで、腹が立つ。……でも、お前が居るから、少しだけ、心を整理できる」 彼女はそう言って、吾輩の頭を自分の頬に寄せた。 冷たい肌に、吾輩の温もりがじんわりと伝わる。 彼女の息が、耳元で細く震える。「……このような檻に閉じ込められて、お前も哀れだな。……閉じ込めるのは我だけで十分であろうに…」 炉火様は、おそらく吾輩を自由を失ったことについて、悲しく思ってくれている。 だが、心配無用だ。 吾輩もこの温かな檻で、なんとか暮らしている。 眠りは炉火様の温かな腕や膝にてとる。 食事も炉火様が見る悪夢を喰って生きている。 毎夜、彼女の眠りが浅くなると、暗い影のような夢が彼女の身体を渦巻き、吾輩はそれをそっと啜る。 血の味、鉄の味、絶望の味。これは我にとり栄養となる。 しかも、それで彼女の顔が少しだけ穏やかになるなら、取り立てて気にすることもない。 今宵も、炉火様は吾輩を抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。 寝息が聞こえ始めるまで、吾輩はただ、彼女の胸に身を預けていた。 この歪んだ優しさの中で、吾輩は少しでも、日のように優しさを照らせることを祈った。◆ 炉火様の夢はいつも夜の色をしている。 夜の帳が下り、部屋の灯りは小さな行灯一つだけ。 橙色の揺らめきが、畳の上に長い影を落としている。「……ぅあ、ぁっ、あっ、あぁっ」 炉火様の声が、断続的に、湿った息とともに漏れる。 それは甘く、苦く、拒絶と諦めの混じった音。 布団の上で、彼女の身体が小さく跳ねるたび、ヌヂュ、ヌヂュ……という粘つく水音が響く。 汗と体液が混じり合い、肌が擦れ合う音。 空気が重く、熱く、甘い腐敗のような匂いが充満している。 炉火様の悪夢は、大抵、宵貞殿の色をしている。 彼の影が、彼女の夢の中で何度も何度も覆い被さり、逃げ場のない蜜のような檻に閉じ込める。「あにうえ…兄上ぇ…!もぉ、やめてください…っ!」 彼女の声が、掠れて高くなる。 爪が畳をがりがりと掻きむしり、薄い寝間着の袖がずり落ち、肩から鎖骨までが露わになる。 白い肌が、行灯の光に照らされて、汗でぬらぬらと光る。「こら。もうお前は娶られたのだから、旦那様と呼びなさい」 宵貞殿の声は低く、優しく、けれど容赦ない。 彼の手が、彼女の細い手首を掴み、畳に押しつける。 抵抗する指先が、必死に畳を引っ掻く。 爪が剥がれそうな音が、微かにする。「う゛ぅ……っ」 喉の奥から絞り出される呻き。 彼女の頬は、茹でた蛸のように真っ赤に染まり、涙が頬を伝い、顎からぽたりぽたりと落ちる。「誰か…助けて…っ」 小さな懇願。 けれど部屋には、結界が張られ、外の声など届かない。「お前が自分の足で戻ってきたのだろう?」 宵貞殿の唇が、汗でべっとりと濡れた背中に落ちる。 ちゅ、ちゅ、と音を立てて、ゆっくりと這うように接吻を繰り返す。 彼女の身体がびくりと震え、背中が弓なりに反る。「やだ、もう嫌、外に出して…っ」 言葉とは裏腹に、彼女の腰が微かに揺れる。 拒絶の言葉を吐きながらも、身体は熱く反応してしまう。 白魚のような細い手が、宵貞殿の手に重ねられ、すりすりと揉まれる。 指の間を絡め取られ、逃げられない。甘美な、逃げ場のない悪夢。 吾輩は、布団の隅、影に身を潜めて、それを見ている。 彼女の夢の端から溢れる絶望と快楽の残滓を、そっと啜る。 鉄のような血の味、蜜のような甘さ、そして深い、深い、諦めの苦味。これらを啜ると、翌朝、炉火様の目は少しだけ澄んでいる。 頬の赤みが引いて、ただ疲れたような、静かな表情になる。 吾輩の名――日照――が、彼女の心の乾いた部分を、少しだけ焼くように。今宵も、悪夢は続く。 彼女の喘ぎが、部屋に満ち、行灯の炎がゆらゆらと揺れる。 吾輩は、ただ静かに、その熱と湿りを、自分の毛並みに染み込ませながら待っている。 この夢が、いつか現実を溶かすまで。 あるいは、彼女がこれを悪夢と思わなくなるまで。◆ 炉火様の腹は、日ごとに木の芽の如くゆっくりと、しかし確実に膨らんでいった。 最初はわずかな膨らみだったものが、月を追うごとに重みを増し、彼女の歩みは次第に緩慢になり、着物の裾が畳を擦る音が重く響くようになった。 その膨らみは、命の証であるはずなのに、彼女の瞳には諦めの色をより濃く塗り重ねるだけだった。 まるで、体内に宿るものが、彼女の自由を一層奪う鎖のように。そして、ある朝。 屋敷全体に響き渡る、大きな産声が上がった。赤子は、玉のように丸く、透き通るような肌をした男の子だった。 小さな手足をばたばたと動かし、泣き声は力強く、生命の勢いに満ちていた。 けれど、炉火様は産褥の布団に横たわったまま、心底嫌そうな顔でその子を見下ろした。 唇を固く結び、眉を寄せ、視線を逸らす。 まるで、そこにいるのが宵貞殿の影そのものであるかのように。それでも、彼女は乳をやり、下の世話をした。 機械的に、義務のように。 赤子が泣き叫ぶと、耳を塞ぎ、布団にくるまって顔を隠す。「うるさい……うるさい……」 そう、呟きながら。「あの方の血が荒れようと我の知ったことではないわ」「我は我に出来ることをしているだろう!」「放っておいてくれ!我にはどうせ何も出来ぬ、お前まで我を追い詰めるな!」「どうせお前も我を見下すのだろう、我のすることは全て無駄だと嘲るのだ!」 声は震え、涙が零れる。 彼女は赤子を抱きしめることもなく、ただ布団の端に置いて、背を向ける。 その姿は、痛々しく、けれどどこか壊れやすいほど脆かった。 吾輩は、すり、と炉火様の腕に頬を寄せた後、 赤子――纏(まとい)と名付けられたその子の方へ近づいた。 小さな肉球で、柔らかい頬をそっと押さえ、尻尾を優しく振ってやる。 泣き叫ぶ声に、最初は戸惑った。 けれど、纏が見る夢の不安――母の拒絶、父の影、閉ざされた部屋の恐怖――を、吾輩はそっと啜った。 鉄と蜜の混じった味が喉を通るたび、纏の泣き声は少しずつ小さくなり、やがて、吾輩の毛並みに小さな手を伸ばしてくるようになった。 ぐずぐずと鼻を鳴らし、吾輩の耳を掴もうとする。 懐いてくれるようになったのだ。炉火様は、そんな吾輩と纏の様子を、布団の隙間からじっと見ていた。 最初は苛立ったように目を細めていたが、日を追うごとに、その視線が柔らかくなる。 息子の小さな指が吾輩の尻尾を掴むたび、彼女の唇の端が、ほんのわずかに緩む。 気を取り直した、というほどではない。 ただ、少しだけ、心の棘が抜けたような、そんな表情。 ときたま、彼女は刺繍の図案を描き始めた。 小さな硯に墨を磨り、細い筆を走らせる。 気になって吾輩が覗き込むと、そこに描かれていたのは―― 猫にじゃれる、鳥の翼を持つ蛇だった。 蛇の鱗は細かく、翼は優美に広がり、猫の背に絡みつくように遊んでいる。 蛇の目は丸く、獣染みているが幼く、けれどどこか寂しげで、猫の目は優しく、慈しむように輝いている。 二匹は絡み合い、じゃれ合い、まるで互いを食らうでもなく、ただ寄り添うように。 それは、呪いか、祈りか。 あるいは、炉火様の心の奥底で蠢く、何か複雑な感情の象徴か。 吾輩は、図案の上で静かに座り、彼女の筆の動きを、じっと見つめていた。 この屋敷で、新しい命が加わり、歪んだ愛と拒絶の間で、少しずつ、何かが変わり始めているのかもしれない。 太陽の厄災の名を冠した吾輩が、この湿った闇を、どれだけ乾かせるのか―― それはまだ、分からない。「…あの方に似ているだけなら、憎めたのに。…ああ、哀れよ…」 ぽつりと炉火様は呟いて、今日も抱えて乳をやる。 その目には憎悪と同情が同居していた。
2025.04.03
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身を寄せている武者集団の目線から逃れ、その日も炉火は嘆息していた。 彼女はここ数夜、繰り返される「いたちごっこ」に疲弊していた。 毎夜、兄そっくりの式神が現れる。同じ白い狩衣、同じ半眼の視線、同じねっとりとした己の正義を疑わぬ口調。 そして、同じ言葉。「疲れたならいつでも帰って来い」「お前が何を出来ずとも、わしは愛してやる」「今日も怪我をしていただろう。わしのもとではそのような苦労はさせん」 兄の伝言をそのまま伝えてくる。 そのまま、炉火を抱き寄せようとしては、いつものように首を掻き切られる。 けれど、首を掻き切っても炉火の中の怯えは消えず、腹の奥の疼きも消えず、よりいっそうひどくなるばかりであった。 兄上ならなんとかしてくれる。 そんな想いが過っては、頭を振る日々。 戦続きで餓えた時。強行軍で疲弊した時。 尊敬していた部隊長が、女子供を当たり前のように殺していると知った時。 心が弱っている時にその声はあまりに甘く染みた。 体の奥が狂おしい程疼くようになった。 蜜のように甘い声で炉火を呼んでいる宵貞の夢を幾度も見た。 孤独な夜が続くたび、宵貞にかつて開かれ、目覚めさせられた部分が空虚さに耐えられず叫び出す。 尖りが腫れ、内側がひくつき、蜜は熱い何かを期待するように湧いて出る。 兄の声が、耳に残る。「待っているぞ」 我知らず、手が下腹部に伸び、自身を慰めてしまう。 気付けば、庵の外へ足が進み、兄上のいる京の方角へ、無意識に歩き出している。 門番の照之助が炉火の肩を掴み、そこでようやっと炉火は目を覚ます。「おい、坊主……大丈夫か?」 炉火は冷たい汗を拭い、口元を押さえる。「……すまぬ。恩に着る」 しゃらしゃらと、どこかで、紙がこすれ、ざわめく音が聞こえる。 遠くで宵貞は、ただ静かに微笑んでいた。◆二つ。兄に素直に甘えるべし。 炉火は、目を開けた瞬間、自分の体が熱く昂っていることに気づいた。「なぁっ……!?」 眼下には兄。 奥の奥まで、炉火に熱さを与えている。 新しい人生を歩む相方であった作務衣などは、いまや無力に布団の脇にくしゃくしゃになって散らばっている。 いつ、どうやってここまで連れてこられたのか――記憶がない。「戻ったな。思っていたより早かったな、もう少し遊んでいても良かったのだが」 宵貞の声が、すぐ耳元で絡みつくように響く。 彼は仰向けに寝そべり、炉火を両手で支え、満足げに笑っていた。 音が響くたび、宵貞は笑みを深め、炉火を己で満たしていく。「はぁ……はぁ……兄上ぇ……我は……我は……兄上から離れたはずでは……」 炉火の口は半分開き、湿った吐息を漏らしながら問いかける。 唾液が垂れ、宵貞の胸元を濡らす。 彼はさらに深く炉火を愛した。「あぁ、そうだな。それで、自分の足で戻ってきたのだ」 宵貞の長い指が、炉火の柔らかな腹を優しく撫でる。「流石、わしの子だな。母上を無事、連れ戻してくれた」 炉火の中で、僅かに残った理性が叫ぶ。――こんなの、絶対におかしい。逃げなければ。 我は、逃げたはず。兄上の術に、血が、身体が、操られている……! なのに、身体は炉火の心を裏切る。深くまで吞み込み、貪り、腰は勝手に愛しているかのような動きを繰り返す。 喘ぎが止まらず、身体が擦れるたび、電流のような快楽が走る。 すべてが、兄上の掌の上。 絶望が湧いてくるのを、疑問を浮かべることで振り切ろうとする。炉火の声は、喘ぎに混じって震えていた。「兄上とのやや子などおりませぬ……! 我は、きちんと葬りました……!」 腰を振りながら、必死に言葉を紡ぐ。 しかし、その言葉はすでに涙混じりで、奥を突かれるたび、声が途切れ、甘く歪む。 宵貞はゆっくりと笑みを深めた。静かに上体を起こし、炉火の唇を奪う。 舌が絡みつき、唾液が混じり合い、炉火の甘い喘ぎを全て飲み込んでから、やっと解放し、囁く。「うむうむ、そうだな。ところで、水子というのは知っているか?」 炉火の瞳が、ぱちりと見開かれた。「……?」「お前の『ここ』に、まだ、居るのだが」「……!」 顔色が、みるみるうちに青ざめる。 分かってしまった。 でも、そんなことが。 ーいいや。 兄なら、何でもきっと、やってのける。 宵貞の指が、炉火の、震える肩を優しく撫でる。「そう、お前が葬ったーいや、葬りきれなかった水子達が、お前をわしのもとへ引き寄せたのよ。 武者どもの下働き生活で独り疲れている母上を心配して、実家で唯一優しくしてやったこの父上のもとへ連れてきてくれたのだ。わしとお前の子は、お前より賢いぞ。わしのもとでお前が暮らす方がお前にとり幸せであると理解している」 炉火の唇が震え、言葉が掠れる。「そんな……そんなはずありませぬ……こんなの幸せなどではありませぬ……!」 宵貞の目が、冷たく細められた。「いい加減にしろ」 瞬間、一層強く、彼は奥を叩きつけた。「かはっ……!」 炉火の身体が跳ね上がり、呼吸が一瞬とまる。 視界が白く霞み、肺が空気を求めて痙攣する。宵貞は炉火の顎を掴み、顔を近づけた。「お前のここも」 繋がり。「ここも」 臍の奥。「ここも」 心臓の上。「ここも」 唇。「全て、わしに全てを捧げることが幸せだと理解している。お前の頭より余程聡い。 早う、素直にその事実を受け入れろ」 言葉通りだった。炉火の全身が、兄上の愛を受け入れることを、心底喜んでいる。 ここに歩いてきてしまったことはまだ水子達の仕業であると言い訳もできたが、この体の疼きは誤魔化しようがなかった。 抵抗しているのは、脳だけだ。「はぁ……はぁ……兄上ぇ……我は……我は……」 炉火の瞳から、涙が一筋零れ落ちた。 悔しさか、諦めか、――――悦びか。 宵貞は炉火を抱き寄せ、ゆっくりと唇を重ねた。「外ではどんな遊びをしてきたのだ?この兄に聞かせておくれ。時間はまだまだある」 はじめから、炉火の出奔など、子供の外遊びとしか思われていなかった。 雲月家の屋敷は、建長の末期から弘安の頃にかけて、京の陰陽師界で最も栄華を極めたと伝えられる。 鬼才・雲月宵貞の名は、式神使いの頂点として語り継がれている。 その傍らにあった妻・炉火は、宵貞の親戚であるにも関わらず、陰陽師としての才は皆無であった。 だが、多くの才能ある子らを産み、血統を支えたとされる。 宵貞が常に懐に抱いていたとされる御守には、炉火の手で刺繍がなされており、天高く炎が昇り、立体的で陰影が刻まれた満月を焦がしている意匠となっている。 この刺繍は、外で戦う夫への深い恋慕を示しているとされる。 後世では、おしどり夫婦の象徴として二人は絵巻物や物語に描かれている。 宵貞の優しい視線の下で、炉火はいつも穏やかに微笑み、子らを育てる姿が、美しく語られる。 二人は子沢山で、皆父の才を継ぎ、陰陽道の家系をさらに強固なものとした。 雲月家の血は永遠に続く。 後世の語り部たちは、ただ美しく過去を飾り立てる。 炉火の本心は、誰も知らない。
2025.04.02
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その頃の彼にとり、数多くのことが思いのままであった。 鎌倉時代。 京の都にて。 その屋敷には、夜毎、夜中にも関わらず、小鳥が降り立っていた。 その小鳥を待っているのは、一人の男。 雲月宵貞《うんげつ よいさだ》。 彼は、若き身にしてにして既に当代随一と謳われる式神使いである。 常に半眼で世を見下ろすような視線。 その喉から出る声は、決して荒げられることがない。 白い狩衣の裾を風に靡かせながら、今日もまた、飛来した小鳥ーいや、それに擬態した式神の報を受け取る。 その瞬間、不意に赤い妖が襲ってきた。 ーしかし、彼に取り、それは大した問題ではない。 手を一閃。 手紙を運んできた式神は、瞬く間に小鳥の姿から短刀へ変わり、妖の心の臓を貫き、赤い霧へと変えた。 ー結界を張っているというのに、人の出入りに紛れて入り込んできたようだ。「……」 このような妖は、宵貞にとっては大した敵ではないゆえ、現状問題はない。 宵貞は、返り血を雑に拭い、家の奥へと歩を進める。 母屋の奥の間。 先程の報を愛おし気に撫で、独り、硯と経文紙に向かう。「ふん……炉火《ろか》にしては、上出来よ」 筆を置いた宵貞の声は、低く、落ち着いている。 まるで季節外れの雪を見るような、或いは、冬眠しそびれた栗鼠に言及するような、意外ではあるが、さしたる問題ではないとでも言うかのような口調である。 報には、彼の関心事が過不足なく記されている。「若い内は多少旅に出るのも良い。子を孕めばそうそう外にも出られなくなるゆえな」 彼はゆっくりと立ち上がり、炉火への文を式神に託した。 床に広げられた陰陽道の曼荼羅を指でなぞると、式神は宵貞と良く似た、けれど紙のように白い顔で頷き、窓から飛び立っていった。 炉火が身を寄せている武者共の陣へは今日中に届くであろう。 炉火。 落ちこぼれで、前当主にさえ、実子として認められる事のなかった妾腹の妹。 彼女の出奔は、宵貞にとり若気の至りであり、それ以上も以下もなかった。 夜。 鎌倉の外れ、由比ヶ浜近くの漁村。小さな蔵の二階に、短く刈り込んだ髪を黒い布で隠し、男物の作務衣を着た小柄な影が式神に強い剣幕で捲し立てていた。 炉火である。「我は、もう、あの屋敷には戻りませぬ。血が濃かろうが、式神が使えなかろうが……我は、我の道を歩みまする」 式神の首を掻っ切ると、それはあっという間に紙切れに戻る。 本物もこのように出来ればどれほど良かっただろうか。 兄上と同じ顔を見る度、あの夜のことが思い出される。 ーあの夜の記憶は、炉火の肌に今も焼きついている。初めての月のものが終わったばかりの、身体がまだ重く疼くような日。 炉火は、兄の前に正座させられていた。 白い小袖一枚、帯も緩く結ばれただけの姿。「待ちわびたぞ」 宵貞の声は、重く、温かく、柔らかく、甘く、まるで眠りに落ちる直前の瞼のような響きをしていた。 彼は炉火の顎を指で持ち上げ、撓めた瞳で覗き込む。「ようやっと、お前が家の役に立てる時が来たぞ。喜べ」 炉火の小袖は、果物の皮でも剥くかのように丁寧に呆気なく奪われた。 抗ってはいけない。炉火は震えながら息を詰め、宵貞を待つ。 当代いちの式神使いと謳われた兄の前で、炉火にできるのは、無茶苦茶に暴れてやりたい四肢の先をぎゅぅと強く丸めることだけだった。 宵貞は炉火を優しく、されど容赦無く暴いてゆく。 炉火が細かく震え、はしたない吐息を漏らしてからようやっと、宵貞は自身を押し当てた。 炉火は、自身の内側で響く小さな音を聞きながら、目を両手で覆った。 喉からは引き攣ったような呻き声が勝手に漏れる。勝手に溢れる涙が手の内側を熱く濡らす。 式神を自由自在に操る兄。まったく使えぬ己。 落ちこぼれと言われた己を唯一庇ってくれた兄。 その兄が言うことだ。従わねばならない。「これ以上は、厳しいか」「…!すみませぬ…」「良い。夜はまだこれからだ」 宵貞は炉火の胸の逸る鼓動を落ち着かせるように甘やかす。 「可愛い炉火。わしを愛する炉火。きっとお前は、わしに似た強い子を産めるぞ。だから、大丈夫だ」 ーお前は、この家で、価値がある。 宵貞の声が、炉火の耳朶を、首筋を、鎖骨を魂をを、侵食してゆく。 低く、甘く、繰り返される賛美。 炉火の身体は、宵貞に褒められることこそが至高であると、もう学んでしまっている。 次第に荒くなる彼の動きに、炉火の身体は小さく跳ね、音が静かな部屋に響いて逃げ場を潰してゆく。 炉火は、ただじっと、己が器として愛されている事実を受け容れていった。 そんな夜が幾度も続いた。 炉火は口に出来ない違和感を抱えていた。 けれど、言語化することが出来ず、ただ素直に兄の導くままに子を為す為の道具に徹することしかできなかった。 その状態から炉火を連れ出したのは、ある小さな妖の言葉であった。 妖は屋敷の外、ふうわりと舞う紅葉にとりついていた。「なあ、お前さぁ……外に出たいの?妾が出してあげようか?」「……?外に…?わたくしは…そんなこと…思ってなど…」「……そうか?なら構わぬが……お前の目、ずっと外を見ていて、身体が疼いてたからなぁ」 たとえ取るに足らぬ小さな妖でも、甘言で人を篭絡することがあるから気を付けろ。 そう、兄から教わっていた炉火は、しっしとその小さな妖を追い払った。 妖は不平を言いながらも去った。 けれど、頭の中の言い知れぬ不安は消えてはくれなかった。 どころか、どんどん大きくなっていった。 宵貞の言葉を思い返す。自分を「守る」と言いながら、炉火の意志を一切顧みない声。 兄にとって、炉火は「妹」であり「妻」であり「器」であり、それ以上でも以下でもない。「一生、わしの子を為し、産み育てるだけでよい。危ない仕事などさせぬ。 お前はわしの傍で、ただ……優しく、温かく、美しく燃えておればよい」 それでもその言葉だけが、炉火が歩んで生きてゆける唯一の道であった。 ー妖は次の日もやってきた。「お前、それ、人の生き方じゃあないぞ。飼われる獣の一生だ」「……貴様に何が分かる……」「分かるよ。お前、昔の妾に似てるからな」 妖は自身の過去を語った。男に飼われた一生だったと。 妖となり、軛を離れてようやっと、自分自身として生き直すことができたと。 今は、むしろ、自分から、気に食わない人間を、手玉にとっていると。 ー嘘か真かは分からない。 妖の声音は女とも男ともつかぬ不安定なものだった。「…あなたは、外に出て、何で食べているの?」「…!はっはっは、初めてまともに口をきいてくれたね。妾は、さる女御の愚痴聞き役だ。 あの方は様々なことを知っている。 お前がこの屋敷に囚われていることも、外に出たらどんな世界が待っているかということもな」 妖の語りを聞きながら、炉火の心は少しずつ、今までの家と兄への不信を育てていった。 そうして、新たな世界への憧れと冒険心をもまた、育んでいった。 ――外に出たい。 失敗したとしても、己の力で生き抜いてみたい。 そして、ある夜、兄の動きに翻弄されながらも、炉火は翌日の出奔の事をひたすら考えていた。 やがて宵貞は低く唸り、炉火を強く抱き締めた。「愛しているぞ……」 最後の呟きと共に、彼は満足げに炉火を撫でた。 だが炉火は、兄の肩に顔を埋めながら静かに唇を嚙み締めた。 『探さないで下さい』 翌朝、炉火は書置きを残し、姿を消した。 男物の作務衣に身を包み、髪を短く切り、眉に薄く墨を塗り、声色も変えて、ただの召使の顔をして、裏手の門から抜け出した。 山で薬草などを集め、煎じて飲んだ。数日後、股からするりと赤黒いものが堕ちてきた。 そのものを土を深く掘って埋め、持ってきた兄の抜けた髪と汗の染みた手拭いを用いて、見様見真似の臭い封じの呪をかける。 やり方は全て妖が教えてくれた。 妖は、ただ炉火に「達者で」と言い、炉火と入れ違いに妖はひらりと戸口に滑り込む。 家の中で、何かをするつもりなのかもしれなかった。ーーーもしかすると、兄に、『何か』を。 けれど、炉火はそれどころではなかった。 近くをたまたま通りがかった武士団のところに走り寄ることで頭が一杯だった。 孤児の男として紛れ込んだそこは、幸運なことに気のいい者が多かった。また強さゆえの寛容さもあり、炉火の過去や性別を探られることはなかった。 そこで、彼女は初めて「生かされる」側ではなく、自らの意志で「生きる」側を選んだ。 そうして、どれほど己がそれまで見ていた世界が狭かったのかを知った。「兄上、我はもう戻らぬ」 己を呼ぶ呼称も変えた。新たな生き方、新たな心持ち、新たな自分を表す言葉。 かつて炉火は、兄の腕の中に幸福があると考えていた。 けれどそれは、何も知らなかったからこそ言えることだったのだ。 身を寄せている武者集団の目線から逃れ、その日も炉火は嘆息していた。 彼女はここ数夜、繰り返される「いたちごっこ」に疲弊していた。 毎夜、兄そっくりの式神が現れる。同じ白い狩衣、同じ半眼の視線、同じねっとりとした己の正義を疑わぬ口調。 そして、同じ言葉。「疲れたならいつでも帰って来い」「お前が何を出来ずとも、わしは愛してやる」「今日も怪我をしていただろう。わしのもとではそのような苦労はさせん」 兄の文をそのまま読み上げてくる。 そのまま、炉火を抱き寄せようとしては、いつものように首を掻き切られる。 けれど、首を掻き切っても炉火の中の怯えは消えず、腹の奥の疼きも消えず、よりいっそうひどくなるばかりであった。 兄上ならなんとかしてくれる。 そんな想いが過っては、頭を振る日々。 戦続きで餓えた時。強行軍で疲弊した時。女であるとばれそうになった時。 尊敬していた部隊長が気に入りの者と交わっているのを見た時。 心が弱っている時にその声はあまりに甘く染みた。 体の奥が狂おしい程疼くようになった。 蜜のように甘い声で炉火を呼んでいる宵貞の夢を幾度も見た。 孤独な夜が続くたび、宵貞にかつて開かれ、目覚めさせられた部分が空虚さに耐えられず叫び出す。 尖りが腫れ、内側がひくつき、蜜は熱い何かを期待するように湧いて出る。 兄の声が、耳に残る。「待っているぞ」 我知らず、手が下腹部に伸び、自身を慰めてしまう。 気付けば、庵の外へ足が進み、兄上のいる京の方角へ、無意識に歩き出している。 門番の照之助が炉火の肩を掴み、そこでようやっと炉火は目を覚ます。「おい、坊主……大丈夫か?」 炉火は冷たい汗を拭い、口元を押さえる。「……すまぬ。恩に着る」 しゃらしゃらと、どこかで、紙がこすれ、ざわめく音が聞こえる。 遠くで宵貞は、ただ静かに微笑んでいた。
2025.04.01
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