全1990件 (1990件中 1-50件目)
19日、草が背丈になるという脅迫観念に取り付かれて、夫と畑の草刈りをした。準備に手間取り、夫に遅れて、生ゴミの入ったバケツを抱えて外に出たのは9時半。畑に着くと、夫は体格の良い誰かと話をしている。早く出ても価値がないねえ…。なんとそれは案山子。なんと顔はカラス天狗!これならスズメがびっくりするのだろうか?作ったのは、田んぼの持ち主のTさん?からす天狗のおかげか、稲は早くも頭を垂れ始めている。日照不足で病害の心配もあるらしいが、Tさんの稲は元気。半分程刈ったところで、夫は「おーい、少し休憩しろや〜。ここ涼しいぞー」と柿の木の下へ。冷えたスイカとお茶で一息入れる。川風が心地よい。なんとなく、なんとなく、スイカに集中する視線を感じる・・・・からす天狗だ!で、こうなる(笑)。2時間程で作業を終わり、土手に繁茂している葛に花の付いているのに気づいて、写真を撮ってから鎌でスパッとたたき切ろうとしたまさにその時!!!!大きめのシジミチョウが飛んできた。飛翔する姿に目を凝らすと・・・・・・・なんと、なんと、ウラギンシジミの雌なのだ。そうだ、ウラギンシジミの食草は葛だった!振り上げた鎌を下ろし、産卵かと目で追ったが、あちこち飛び回って姿を消した。でもでもでも、ここに彼女が一度来たなら、また来るかもしれない。そう思うと葛はそのまま残すことにした。田んぼの中には、大好きなオモダカがたくさん咲いていた。暑かったけれど、からす天狗にも会えたし、ウラギンシジミも久しぶりに見ることができ、ラストはオモダカの白色に癒され、きれいになった畑を後にした。※楽天ブログは、文と写真を交互に出せて、書きやすい。 フェイスブックは、公開する対象を選べていい。
2017年08月19日
コメント(4)
今年も夏の特別見学会を12日に実施。壕内の気温は15℃前後。外気温は猛暑の日々よりは下がったとはいえ30℃以上。その温度差の2つの空間を行ったり来たりするのは、結構きつい。それでも、自分の意志で地下壕を訪れる方々の知ろうという積極的な姿勢に、だんだん巻き込まれて熱くなっていく自分を感じながら案内をした。私は午前中は写真を撮るのに専念し、昼頃から4〜50分をかけての案内を2回。午前中から案内をしている人の中には、5回ほどしている人もいて脱帽。2回でも、さてこの話はさっきのグループにしたのか、このグループにはまだなのか…なんていう混乱が生じる。真剣に聞いてくださった来壕者に感謝。 今朝の信濃毎日新聞に、10年以上前に行った文化庁の戦争遺跡の調査結果を放置したままにしていることへの疑問・批判を大きく取り上げて書いている。自治体によっては文化庁の動きにかかわらず、文化財指定して保存をすすめているところもある。が、松代大本営地下壕群については、長野市が国の姿勢待ちをしているために、文化財指定されるのか否か全くわからない。今日も話をしながら、体験を語ってくださったFさんも、Nさんも他界されてたなあと思ったり。また、壕内も安全対策の支柱が増え、さらに立ち入り禁止のスペースがたくさん設定されている。戦争体験者がいなくなり、代わりに語ってくれるはずの遺跡まで風化してしまったら……。時間との勝負だというのに。
2017年08月12日
コメント(4)
8月6日。今年2度目の丑の日。テープルに並んだトウモロコシもトマトもキュウリもカボチャも、全て回りの方々からの頂き物。ワインと、ちょっと頑張って買い求めた鮎だけがお店から。何故かこのごろ「写真撮ったか?」と問う夫。自分が少しでも調理に関わったものが並ぶ時は、FBにアップしてほしいという願望が垣間見える。確かにこの日も、鮎に塩を振って焼いてくれた。写真撮るなら、もうちょっと洒落た器に洒落て盛ればよかったなと。器を替える手間を待てずに、もう飲み始め。今年我が家は、猫の額ほどの畑を耕作放棄した。知人に耕耘機での耕作を頼みそびれた。鍬を使って人力で耕作するには、やや広い。結果としては、足腰を少々痛めている私にとっては正解だったとは思うのだが、夏の三大野菜(うちにとっては)であるキュウリ・トマト・ナスは友達や先輩の好意に甘えているため、使いたいときに無いとか、量が少ないとかが結構ある。いやいや、キュウリとミニトマトは野菜用植木鉢に植え、最初はぐんぐんと成長してくれた。来年からも鉢の方が楽でいいわと思ったものの…途中から肥料をあげているのに、収穫量が激減。結局1本から10本のキュウリは採れなかった。トマトも、途中から実が消えたと思うくらいになくなった。冬用の大根…美味しい大根たっくさん食べたいし、孫に美味しいタクアン食べさせたいから、知人に耕耘機をお願いしよう。何故か、楽天で写真がアップできるようになっていた。アップできなかったから、FBに鞍替えしたのに…。
2017年08月08日
コメント(6)
マナスル??????
2016年01月01日
コメント(0)
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
2016年01月01日
コメント(3)
竹村新道はいきなりの急登。結構な急斜面、両側がこれまた結構切れ落ちていて慎重になる。40分程急登すると展望台。雲が切れ、独標が大槍・小槍を従えて現われた。見えないけれど、千天出合から北鎌尾根P1までの高低差は半端じゃない。さらに独標まではp14まであるらしい。今どきは千天出合から登るより、大天井から澤にくだって北鎌のコルから登る人が多いらしい。上から覗いただけでも、千天出合に行く湯俣川の崩落はすごいと思った。真下のその湯俣川に小さな噴湯丘がみえる。カメラの倍率を最大にして撮った。さらに家でその部分を切り取った。この近所では、川を掘ればどこでも野天風呂だそうだが、私のような者もいるから気をつけよう!!湯俣川上流には裏銀の稜線が、逆方向には餓鬼から燕の稜線が、さっき川添いに見たときよりもぐっと高度を増してつなかっていた。逆光のせいで、北鎌の表情が判らずに残念。晴嵐荘に泊まって、朝日の下で撮ったらすごい写真になるだろうけど・・・北鎌独標に見送られ、また会う日を楽しみに別れを告げた。
2015年10月26日
コメント(4)
24日、湯俣までのトレッキングを楽しみました。 紅葉はいくらか遅いかなと危惧していたけれど、紅は最盛期(タクシーさんの話では10℃以下に下がらなかったため、発色は2・3日前とのこと)で、今秋何度目かの紅葉に癒されました。 高瀬ダム発7時15分、帰着15時30分。ほぼ予定通りの行程でしたが、湯俣での2時間を、裏銀につながる竹村新道の展望台まで登ったため、最長休憩は15分という結構ハードなトレッキングとなりました。最初は、目玉の一つ「噴湯丘」へのルートが壊れて行けないため、晴嵐荘で「黒ラーメンを食べる」予定でしたが(笑)。高瀬ダム上から噂に聞く高瀬隧道(934m)とワモリ隧道(313m)を通る。今まで何度か湯俣行きを計画しても、このトンネルを一人で通過する勇気?がなく断念していたので、今日の熟女トリオの山行はほんとに有り難かった。入ってみると、ちゃんとそこそこ明るい電灯が点き・・・いやいや、トンネルの中を吹き抜ける冷たい風と音、その中を一人で10分以上も歩くのはやはり勇気がいるわ・・。でも、ワモリ隧道の入口は紅葉のデコレーションがされ、心憎いばかりの自然のもてなしだと思った。トンネルから出るとやや白いエメラルドグリーンのダム湖が出迎えてくれた。高瀬渓谷沿いの道は、最初の1時間は車も入れるほどの広い道。湖から渓谷沿いになると、林道には枯葉が厚く積もってカサカサコソコソ・・・。左岸の山々と青空の間には、先日登った烏帽子岳から野口五郎岳につながる裏銀の稜線が見え、右岸には餓鬼岳から燕岳の稜線が。いいなあ、また行きたいなあ・・・・。ナナカマドもガマズミも、みーんな真っ赤な実を青空や高瀬川に重ねていて、溜息がでる。カツラの甘い香りも至る所に漂っている。あまりにもすてきな色彩の葉が落ちていて、思わず上を見る。こんな色合いの創造主は、一体だれ?歩くこと2時間半。谷も狭まってきて、もうそろそろかなと思う頃、高瀬川上流はるか向こうに三角形の山が見えてきた。槍ヶ岳北鎌尾根独標だっ。これ一つでも立派な岳に見える。残念ながら槍の穂先は見えない。雲が切れることを祈る。晴嵐荘が対岸に見えた。私の大好きな吊り橋を、ゆらゆらさせながら渡る。小屋では、10月いっぱいの小屋仕舞いに備えてか、ふとん干しに余念がなかった。「噴湯丘へ行くより、展望台の方がいいよ」と言う山小屋のおばさん(『岳』に出てくるおばちゃんみたいな人だった)の勧めで展望台に向かう。急いで腹ごしらえ。
2015年10月26日
コメント(0)
10月4日、今年3回目の村民登山は、百名山の一つとして近年超人気の雨飾山。13人の参加者は(一般5人、会員8人)、まだ暗い午前4時45分に出発しました。朝5時半、登山口に着いた時には50台の駐車スペースが満車状態で、あふれた車が路上駐車をしていました。実は計画段階に、下見時の状況や、種々の情報収集で、遅くなると駐車できないということや、岩場やはしごでは登山者が多く渋滞になるということを話しても信じてもらえず、でも自説を曲げずに日程を組んだので、駐車場がガランとしていたらどうしょうと、変な心配をしていたのです。現実は予想通りで、ホッとしました(笑)。前夜の天気予報は「晴れ、日本海では朝のうち雨のところも」。着いた時から、霧、きり、キリで一時小雨。(小谷地方には朝、大雨注意報が出て、留守本部では心配したそうです)大降りにはならず、でも霧も晴れずで、紅葉も霧に沈み・・といった状況でしたが、いろいろなハプニングを巻き起こしつつ、なごやかな登山となりました。 元気な青年部(体力も喋りも)のおかげか、笑いのあふれた山行でもありました。帰村後の反省慰労会でも、会員みんなの笑顔がはじけ、ほっこりとした気分で家路についた私めでありました。山頂で北峰の石仏たち気になっていた「ツルニンジン」はこんな実になっていました。また、山ぶどうもさるなしも熟して、山の味を少し味わいました。特にさるなしの完熟は絶品!!
2015年10月06日
コメント(4)
先日の山行で最後に泊まった太郎平小屋。夕食時に富山県警山岳警備隊の方が、登山の諸注意や雪崩遭難の話をしてくれた。話がユーモアに富み、それでいて山の遭難のシビアさを伝えていて、夕食を食べながらではあったが、引き込まれた。富山県警山岳警備隊は年間通して常駐で、そこが長野県警山岳救助隊や岐阜県警山岳警備隊との違いだと誇らしげに言っていた。長野県人として「でもできた年は長野県がダントツだよ」と思ったけれど・・。翌日、太郎小屋から折立まで降りたが、登山口に出る手前で大きな石碑に出逢った。この山中に十三重塔? と、カメラを構えると、後から来た人が手を合わせている・・・?碑文を読むと、あの愛知大学生の薬師岳遭難の慰霊碑だった。合掌家に帰って調べてみた。薬師岳での遭難ということは知っていたけれど・・・最後まで見つからなかった2人を父親の執念で発見したことは知っていたけれど・・・・でもその舞台が、私たちが宿泊した太郎平小屋や、下山した折立を含むあの周辺であったことに、ちょっとショックを受けた。改めて十三重塔の慰霊碑を建てた家族や関係者と、建てられた大学生に想いを馳せ、冥福を祈った。
2015年10月02日
コメント(0)
「おやき4姉妹」のご紹介先日、信濃毎日新聞にも載りましたが、村の広報9月号に記事になっていますので、ご紹介します。村内にはおやきの製造・販売会社が4社あります。それぞれに特徴があり、固定ファンもいます。村内を回りながらの食べ歩きも楽しいですが、一挙に食べることができたらなーと。商工会会長の古屋さんのアイディア・・・・いいですよね。11月3日、道の駅中条で行われる「おやき恋訪」でも販売される予定です。ちなみに、広報作成は弊社。「おやき4姉妹」を持って写っているのは、協力隊は元気印の京子さんです。
2015年10月02日
コメント(0)
野口五郎岳から真砂岳を経て水晶小屋に至るルートは、槍ヶ岳の展望台。一歩進むごとに、刻々と姿が変わる。今は廃道になっている伊藤新道ある尾根の色と崩れ方に息を飲んだ。再び振り返ると、黒部湖が。1時半、水晶小屋に着くがここも満員以上で、できるだけ次の小屋へと張り紙が。雲の平まであと2時間半。ちょっときついかなと私はおもったけど、昨夜の寝苦しさを思うとつい言ってしまった「行きますか・」。でもやっぱりあの位置に立つ水晶小屋に泊まってみたかったな・・・霧が出たら方向がわからなくなりそうなだだっ広い尾根を歩き、午後4時、はるか遠くにテン場と雲ノ平山荘が見えた時は、正直ホッとした。しかしここも満員で、山小屋だから宿泊拒否はないが、眠る場所が確定したのは、6時頃だったろうか。聞くところによると、みんなが少しずつ詰め合ったりしてふとんを余し、まわしてくれたのだそうだ。夕食の席で、定員70人の山荘で、過去150人という記録が最高だったが、今日は203人という新記録が出ましたと、管理者から報告があり、思わずみんなで拍手した。21日、早朝の雲ノ平山荘。日本庭園とかスイス庭園とかを歩く。憧れた雲ノ平。周りを水晶岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳という北ア最奥の山々に囲まれ、岩と池塘とハイマツに飾られた別天地。最後の秘境と呼ばれ、どのコースからも2日はかかるというこの地。5連休はその静けさをもしかしたら壊しちゃったのかもしれない。でも、どんなに多くの人が訪れても、泰然自若としているこの雲ノ平に来ることができて良かった。ここも今年はコバイケイソウの当たり年だったようで、実がたくさん残っていた。柔らかいアースカラーの向こうに立つ水晶岳に別れを告げて、最後の山小屋、太郎平小屋へと向かった。この日は、ブナ立て尾根と共に心配していた薬師沢への急降下の道。下るより登った方が正解と、何人もがブログなどに書いている。超滑り易い岩場の連続。晴天続きだからさほど滑らないだろうと思っていたが、甘かった! 山全体が湿地。じくじくと水が流れ出ている。それまではさほど汚れていなかったパンツも靴も、たちまち泥だらけ。でも捻挫するより、骨折するより・・という訳で泥まみれになって、尻もちも着きながら何とか降りる。そしてまた、ほぼ同じ標高差を登る。きついッ! 終点はまだ?最後の登りでは、ガスも出てきて、雨の降る前に小屋に入りたいという焦りも手伝って、足取りが乱れる。Yさんの「小屋に着くまで降らないことにしましょう」「もう最後、慌てないで行きましょう」の言葉が、心強かった。到着後、今回初の生ビール(中ジョッキ1000円でした)の美味しかったこと!!!!!22日朝5時の外気温は2℃。霜は真っ白に降りているが、この時期にしては温かい?霜で滑りやすくなった木道を注意しながら、後ろ髪をひかれるような気持ちで降りました。右手に剣岳の遠景と立山、弥陀ヶ原等を見ながら降りました。信州人にとって、裏銀座は入山しやすいけれど、帰り道の遠い山域でした。でも未知の山域を知る喜びは、何者にも代え難い。今回の山行は、昨年のエベレスト街道行きと同じくらい、うれしく大切な思い出となりました。一緒に行ってくれたYさん、七倉まで送ってくれたお父、白馬から自宅まで送ってくれたYKさん、ありがとう。がんばった自分にもありがとう。
2015年09月24日
コメント(8)
全く未知の山域、裏銀座方面。今回、憧れの雲の平に行くことができました。もう、1人で未知の山域へ何泊も登山することはできないと自覚もしていたので、憧れは憧れのままで終わるかなと思い始めていたけれど。助っ人Yさんと、シルバーウィークのおかげです。コースが決まってからも実は不安の連続で、止めた方がいいかなと、何度迷ったことか・・・。孫預かりが終わってホッとして、何気なく周囲の山々を見ると、何やら完全に秋モードに突入しているような・・。おっ、季節が変わっている、気づかない間に変わっている。季節の移ろいを見逃してなるものか!と、ふんぎりをつけたのが、出発2日前でした。極力荷物を少なくし、見てくれよりも実をとり。一眼レフのカメラさえ持っていくのをやめようかと思ったくらい。さすがにカメラは置いて行けなかった(笑)。19日早朝、Yさんと合流し、京都に行く夫に七倉まで送ってもらい、高瀬ダム奥の登山口から入山した。5連休ということで、七倉の駐車場は満杯以上。タクシーの運転手さんも「こんなに大勢の入山者は初めて」とびっくりしていた。この5連休は、山小屋の混雑につながり、2人で1枚のふとん使用、正規の夕食では食材が不足し臨時献立になったり、テン場がたりずに指定地から大幅にはみ出したり・・・というアクシデントの連続だった。他の山域でも同じだったのだろうかな。まっ、5連休がなければ、奥までこれなかったのだから、仕方がないかもしれない。今度来るときがあったら、静かな山小屋の雰囲気を味わいたいと思った。(今後は、後立山だけで良いと思った気持ちは、既に2日目にして崩れかけ・・・笑)9月19日、ブナ立て尾根入口。三大急登の一つということにとらわれて、いささか緊張していたのが良かったのか、コースタイム通りに登ることができた。余力があったらということだった烏帽子岳のオベリスクを見て、南沢岳手前の四十八池辺りまで足を延ばした。紅葉が始まっている中で、種子を飛ばして役目を終えたチングルマの綿毛が白く光っていた。オベリスクに向かう稜線からの烏帽子小屋。烏帽子小屋の前は、一面にイワギキョウが保護されて咲いていた。雲がかかっているのは燕岳からの表銀座方面。右には明日向かう三ツ岳方面の稜線が続く。20日、今日は昨日にも増しての快晴。秋の雲も、紅葉の山肌も朝日を受けて更に赤く。三ツ岳に登ると、前穂の三本槍を左に従えた槍ヶ岳が目に飛び込んできた。思わず「ワーッ!」。東、西、北の鎌尾根が三方向に流れ出ている。はるか昔に歩いた東鎌尾根が懐かしい。後を振り返ると、いつも目にしている後立山の峰々が、別の形で連なっている。鹿島槍ヶ岳の双耳峰の方角が最初わからずに戸惑ったが、こうして見ると、後立山の盟主はやはり鹿島槍かなと、最近は五竜岳に惚れていた自分を反省した(笑)。巻く予定でいた野口五郎岳も山頂へのルートをとる。黒部湖に流れ込む東沢谷をはさんで、右手に水晶岳が大きな山容を見せている。名前も素晴らしいけれど、谷から登りつつある薄い紅葉の衣が、黒岳とも呼ばれる山頂の黒い岩肌にマッチして素晴らしい。今までに一度も対面したことのなかった水晶岳(黒岳)、たちまち大好きに。右手下に見える池は、五郎池。ここから紅葉の波が上昇しているようにも見えた。裏銀の山々には池塘が多いと思った。山が大きいせいか、深いせいか、気のせいか・・・。
2015年09月24日
コメント(2)
8月29日・30日と志賀高原でSUWVV(信州大学ワンダーフォーゲルフェライン)の同期生4人が集まった。もう孫のいる人が多いから、本当は「ワンゲルのおばあちゃん」が正解だけれど・・・そう、気持ちはまだワンゲルのお姉さん(笑)2日間とも雨降りで、計画の山は登れず。あきらめきれないお姉さんたちは少しでもワンダラーになろうと、こうもりをさして、四十八池だけ巡りました。すてきだったのです、霧の四十八池は。
2015年09月02日
コメント(6)
8月30日午後、有線放送で役場建設経済課からのお知らせが何度かあった。落土(らくど)のため、村営水道の一部地域で水が濁っているので、念のため飲まないようにと。給水車の手配をしているので、時刻は追って連絡する。給水場所まで行くことができない方は役場に連絡してほしい明朝までには平常に戻る予定 etc.私の地区も対象になっている。慌てて自宅の水道水をみたが、別に濁っていない。給水時刻と場所が放送され、これから濁ってくることもあるからと、飲料水用に2リットルのペットボトル2本を持って、午後8時に給水場所に行った。長野市の給水車が来ていて、ペットボトルに入れてもらった。さらに村の職員が水の入った10リットルの緊急用飲料水袋を渡してくれた。こんなにいらないと思いつつ、「この袋いいですね」と感心したら、長野市の人が新しい袋も分けてくれた。早速、非常用の乾パンなどの場所に仲間入りした。(何度も繰り返して使うことはできならしい)昨日昼間、あまり水を使わなかった我が家では、今朝になって茶色の水が出てきた。しばらく出し放しにして、元通りのきれいな水が出て、ホッとした。ここずっと村には大雨注意報が出ていて、この地区では普通の雨だったけれど、場所によっては「落土」が生じるような雨量だったのかしらん。有線放送でのきめ細かな連絡放送、給水車に付いての村回り・・・職務とはいえ感謝です、そしてご苦労さま。
2015年09月01日
コメント(4)
村議選の告示が9月15日。それに伴い今日28日は立候補予定者への説明会がある。しばらく前からあちこちで流言飛語が行き交い、それに惑わされないようしばらくは自重しようと思う、後で自嘲しなくてすむよう(笑)。それにしても、誰々が立候補するそうだはまだいいとしても、予想される人の人格や行動までもが、この時とばかりに真しやかに口の端に登る。政策云々は選挙戦が始まってからだろうが、押し並べて中味は同じ。これまたこの時とばかりに、玉虫色の公約がずらり・・。再出馬した人は、一期の自己評価を付けてほしいよね。地区推薦なるものは減ってきた。村人の意識も変わっている証拠ではあるが・・・。こんなに労力とお金をかけてやる今の選挙でいいのだろうか。同じ思いの人もまた多いはず。でもそれが形にならないのはどうしてなのだろう。選挙、もっと言えば、今の議員たちの存在が、どれだけ村づくりに役だっているのだろう。やはり、村人の一人ひとりに戻ってくる問題だ。つまり、やっぱり、そう、自分の問題なのだ・・・やっぱり自嘲したくなり・・・(涙)たまには愚痴も・・・
2015年08月28日
コメント(2)
秋雨前線の影響で、北アは毎日雲の中。昨日の新聞で、ヘリが飛べずに1日延期になっていた調査が、今回中止を決定。9月に雪の移動があるかないかにだけにしぼって調査再開となった。ロマンはまたまた持ち越しである。平家の落人が隠れ住んだから「カクネ里」大町側から見えないから「カクネ里」 等々諸説あるが、神秘な北壁ではある。五竜遠見尾根から見る「カクネ里」が大好き。冬のヒマラヤ襞を思わせる雪壁となり、遅くに蝶型岩壁も現われる。今年はまだ遠見尾根を訪ねてないなあ。何時行こうかな。6月の鹿島槍北峰下の北壁とカクネ里
2015年08月28日
コメント(1)
23日、雨飾山に登る。天気が良ければ、山頂から日本海も見えるという山。一緒に行きたいという友人が出て、その時点で山頂はあきらめ、最悪、肩の笹平までを目標とした。10年以上前に登ってはいるが、私の記憶は日々に薄れ・・・。だた急登の多い結構きつい山ということのみ残っている。10月4日に行われる今年3回目(今年最後)の村民登山の目標の山に決まったので、果たして自分が登れるのか、お試し登山の意味合いもあって。6時に家を出発。登山口から歩き出したのは7時半。最近人気の山の一つであるためか、駐車場は満杯、しかも県外車が多い。コース全体が400mずつ11等分されていて、良い目印になったが、判りにくい場所にあったのか、いくつかは登下山のどちらでも見つけられなかった。結局笹平で正午近くなってしまったので、11分の9と10の中間まで行き、あと600mを残して山頂は断念!予定通りとなった。霧雨と霧の天気で、笹平手前で風が吹き、一瞬青空と妙高・焼山方面がみえたが、またすぐに白い世界に戻った。でも、花々はしっとりと露に濡れどこまでも鮮やかに、また、木々の葉は新緑・深緑とは違った柔らかい緑が光っていた。山として良い山だが、ルートが乾いていないと、結構下りが滑りそうな山だ。この週末も、あちこちで、捻挫遭難(?)があって救助されている。気をつけねば。登山道入口にある看板荒菅沢に残る雪渓 上部にもあり融けることがあるのだろうか晴れていればここから大岸壁が見えるはずだけど・・笹平手前で一瞬見えた青空と焼山方面11分の9.5で引き返す下りの岩場は慎重に
2015年08月24日
コメント(2)
「高府町区の防災を考える住民懇談会」が20日夜行われた。昨年は島田という地区で、土石流発生の可能性のある島田川のある地区。今年は高府地区。村の中心部ではあるが、江戸時代に起きた善光寺地震の際に北側の山が崩れ、土尻川をせき止めて大被害を受けた地区である。数年前にできたハザードマップを見ても、災害の際は避難場所に至る過程が危険個所の連続で、家にいた方が比較的安全と思われる。だから、今回、住民が集まって過去から現在の災害個所などを確認・追加して共通理解に立てたのは良かったと思う。いわゆる「自助」「共助」の意識を持つということかな。「公助」だけを頼っていてはだめということだ。ところで、地滑り常襲帯の小川村。先日も大雨警報が出て、有線放送で自主避難と避難場所の開設を知らせていた。「自主避難の希望者は役場まで連絡ください」連絡すれば迎えに来てくれるのかが、気になっていた。避難勧告地には独居老人や高齢者のみの世帯が多い。「自分たちで避難できない場合は、迎えに行くなり、なんらかの支援をする」ということで安心した。昨日、新しく知った知識。大雨の時にお酒のワンカップを外に出して雨を受け、そこから雨があふれる量になると、連続雨量100ミリを超えた状態で、避難を考えた方がいいそうだ。ワンカップが避難の基準。最近のゲリラ豪雨は、どこでも被害地になる可能性があるもんね。もう9年も前のこと。松本砂防事務所主催の「防災とボランティアの日」シンポジウムで、住民代表でパネリストの1人になった。同主催の「アルプス紀行」受講生だったかららしいが、地元・松本の住民ではないということで、参加者からあとでクレームも出たらしい(笑)。そのときは出演料も頂いたりして、私には良い思い出だが、村でもやっとそういう取り組みが始まったというわけだ。9年前に、役場にハザードマップを頂きに行ったけど、まだガリ版刷りみたいな祖末なものだった。(その後数年前にカラーの立派なのができた。が、前述の避難経路の方が危ないと思うマップである)土尻川砂防事務所で、この日の住民の意見を聞いて、新しいマップを9月6日の防災訓練の日までに作成してくるとのこと。毎年1地区ごとの開催だというが、早く全村で、このような懇談会が開かれるといいな。
2015年08月21日
コメント(4)
お盆、孫の仁翔が5泊しました。ちょうど8月12日は、じじの誕生日。じじに内緒で、誕生パーティーの準備。仁翔一家にとって誕生日の象徴はケーキのようで・・・みんなでハッピーバースデイtoじじを歌い、ろうそくを吹き消すしたのは「仁翔やる!」と立候補した仁翔。「誕生日おめでとう じじ」と書かれたチョコレートのプレートも仁翔が食べました(笑)。そういえば、去年の仁翔はまだ「吹く」ことができなかったのに、成長したのです。14日は私の実家に行き、盆踊り。一昨年、ここで「盆踊り大賞」をゲットしているじじは、今年も大賞ねらいで、仁翔を肩車して踊ります。「一等賞になればおもちゃがもらえる」と言われたのか、仁翔も一生懸命、手で踊りました。結構いい雰囲気だったのですが・・・・でも、柳の下にそうそうドジョウはいません。仁翔のがっかりした顔。最後に別のゲームでおもちゃがもらえ、喜びが爆発。帰り道、「仁翔ね、すいか割りもできなかったし(番が回るはるか前にすいかが終わってしまった)、盆踊りでももらえなかったから、悲しかったの。 でも、もらえたから良かったぁ」と何度も何度もお話ししました。
2015年08月18日
コメント(8)
6月13日に参加した中西山登山。奥裾花自然園から稜線に出て、左側に行くと中西山。右側に行くと堂津岳。この堂津岳(写真左)、鋭峰のなかなかすてきな山に見える。ところが、根まがり竹が密集していて残雪期でないと、登れないという。この稜線は長野市鬼無里と白馬・小谷村、そして新潟県との境になつているが、堂津岳の山頂だけは境でなく、山頂から西側250m下が境なのだそうだ。つまり山頂は新潟県にある。ガイドさんの話。大体は稜線から山頂のラインが境になるのが普通だけど、武田信玄に信州を追われた上杉謙信が、腹いせに山頂直下でなく250m下にしたのではないかという説がある。私は、上杉謙信のせいにしては気の毒なので、別の説明をしている。上杉謙信はちゃんと山頂を境にしたのだが、そのあと山頂から噴火して250m高くなった、とね。明らかにジョークとわかる話だけれど、印象に強く残る話ではある。かくして私の忘れっぽい頭でも堂津岳はしっかり記憶に残ることになった。ガイドは単なる説明ではなく、楽しませながら覚えてもらう・・・その辺のうまさを勉強させてもらった登山でもあった。
2015年06月14日
コメント(3)
昭和19年5月23日に載った信濃毎日新聞の写真。「多くの飛行兵を送り出させようと、母や姉らを対象に行った飛行学校一日入校。上田、佐久などから大勢が参加した」当時、上田市には県下一といわれた上田飛行場がありました。もともとは、昭和5年の繭糸価格の暴落による農村の救済のために、政府の融資を受けて千曲川の河原を開墾。しかし、農業に適さないとわかると飛行場に変更。民間飛行場として使っていたが、拡張整備して、昭和8年に陸軍省に献納して「陸軍上田飛行場」となりました。山岳地方耐寒飛行演習に最適との評価を得て、昭和12年に熊谷陸軍飛行学校上田分教場となり、さらに拡張整備されていきます。やがて、ここで養成された搭乗員は、特攻としてここから飛び立つようになりました。この写真に写っている女性たちも、自分の息子を、自分の兄弟を、飛行兵にすべく説得したのでしょうか。「母親、年寄りは情意的立場からなかなか応ぜず…最後の決定をなす…毎夜12時2ヶ月を要す」と書いたのは、日本一多くの満蒙青少年義勇軍を出した長野県を支えた信濃教育会傘下の一つ、旧波田村波田小学校の訓導(教師)。義勇軍への参加を進めても、母親や年寄りはなかなか良い返事をせず、毎晩、12時まで説得し続けた。そんな日が2ヶ月も続いたという意味。命を産み出す母親は、本能的に忍び寄る危険を察知し、年寄りは長い経験から危険を見抜く……。本能どころか、今の日本は自ら戦争を仕掛け、危険の中へとまっしぐら…のような気がする。息子も孫も絶対に死なせはしない…と思う毎日ではあります。
2015年06月09日
コメント(4)
6月7日 於 長野市アクアウィング今年で3回目の参加。「参加することに意義があり」の仲間です。ホームグランドの村のプールでは、ここ数回、21秒台がコンスタントに出ていて、最終練習では20秒台が出たので、もしかしたら、県大会でも21秒台が出るといいなと、密かに期していたのですが・・・。そんなに甘くないっ!3回で一番悪い22秒83でした(涙)。それでもJ4クラスでは3位。毎年3位です(またまた涙)。マスターズでは、年齢が5歳ずつに区切られています。Jは65〜69歳。J4の4は、長野県マスターズフェスティバル参加5回以下。えっ? 何の種目の何メートルかって?25m自由形。20代の速い人なら、50mを泳ぐタイムですよ、これ。毎年年齢を加えるから、タイムも右肩下がりでいいのかも・・・今日はもう一つ4×25mフリーにも出て、朝7時から夕方4時までの日程を終えました。そして帰途、あくまでも「参加することに意義があり」がモットーの仲間と祝杯をあげました。あー、疲れた!マスターズ posted by (C)takanebiranji
2015年06月09日
コメント(2)
6月5日、こちらでは一月遅れのお節句。すっかり忘れており、こ近所の玄関先に菖蒲ともぐさ(よもぎ)の束が飾られていたのを見て、あわてて知人に頂きに行きました。おかげで、夜は菖蒲湯。好きな菖蒲の香りを楽しみながら、体にもその香りを移しました。「これで今年も風邪をひかないぞ」「変な虫もくっつかないぞ(マイマイガの幼虫にも効くかなあ)」と願って、季節の行事をひとつ終えました。菖蒲湯 posted by (C)takanebiranji
2015年06月05日
コメント(0)
5月31日から6月1日、白馬村で、山の友人たちの集いがありました。名付けて『ああちゃんを囲む会』。(注)ああちゃん=私の母のこと。弟と私は母をこう呼んでました。雨の予報が土壇場で晴れに変わり、白馬三山はもちろん、鹿島槍ヶ岳の美しい初夏の姿を堪能できました。山の話あり、歌あり、自然ウォッチングありの楽しい1泊2日の集いでした。弟のパーティの遭難時、捜索活動に8ヶ月もの間、いろんな面で携わり、その後もずっと両親を支え、今も一人になった母を支え続けてくれています。用事で参加できなかった人もいるけれど、この仲間、感謝しているとともに、わたし、だあいすきです。みんな posted by (C)takanebiranji梅花藻 posted by (C)takanebiranji
2015年06月02日
コメント(0)
3月10日 午後から本格的な雪で、大雪注意報が出た。境を接する大町市、白馬村などは大雪警報。「よそばかり見ないで、足下の私たちも見てよ!」と抗議していた「うちの福寿草たち」も、また雪の下にすっぽり。今朝撮った福寿草たちは、小雨に濡れていきいきとしてたのに・・・。家の福寿草 posted by (C)takanebiranji福寿草アップ posted by (C)takanebiranji
2015年03月12日
コメント(5)
青空に我慢できなくなり、仕事を切りのいい所でやめて、昼から行ってきました。大町市は中山高原。思い切りの一人スノーシューで、撮影。数日前のスキーとスノーシューのトレースが少し。ほやほやのキツネかテン(多分)の足跡がたくさん。もううれしくて・・・・・・中山1 posted by (C)takanebiranji中山2 posted by (C)takanebiranji中山3 posted by (C)takanebiranji中山4 posted by (C)takanebiranji中山5 posted by (C)takanebiranji中山6 posted by (C)takanebiranji
2015年02月07日
コメント(4)
朝、すっきりと晴れ上がった青空に真っ白な北アルプス。鹿島槍の稜線がたおやかで、あまりにも美しく。味噌造りの最終日で、カメラを持って撮影に・・・という訳にはいかず、ぐっとこらえて作業に専念しました。でも、気持ちははずみました。2_4-1 posted by (C)takanebiranji2_4-2 posted by (C)takanebiranji豆煮 posted by (C)takanebiranjiはずんだ気持ちで、この日は大豆を「地獄の大釜」で煮てつぶし、そこに糀と塩とを混ぜて、味噌桶につめました。詰める際に、玉にした味噌玉を力いっぱい桶の底に向かって投げつけます。空気を抜くために。パシーンと重い音なら空気は結構とばされます。ペチャッと弱々しい音なら抜けてません。どちらにしても、あとで体重をかけて手の平で圧しつけます。この桶詰め作業が大変で大変で。あと何年続けられるかなあ・・・・と。おまけに、水曜日は水泳教室の日。節々が痛むのでよほど欠席にしようかと迷うも、いつも通り泳いで・・・・疲労困憊するかと思いきや、痛かった筋肉がすっきりりし、軽い身体になって帰宅しました。これならもう少し、味噌造りも続けられそうです(笑)。
2015年02月04日
コメント(2)
白くて、ほんわりと甘く香る米糀ができました。明日もう一日ねかせて、あさって大豆を煮て混ぜ合わせて仕込みますが、糀ができれば、今年のお味噌造りの成功は約束されたも同然なのです。麹 posted by (C)takanebiranji
2015年02月02日
コメント(2)
明日から味噌作り。今朝は6時前からお米を10キロほどといだ。冷たい水。当然手は感覚を無くし、赤くなる。冷たさを感じなくなり、間もなく逆に水が一瞬だけ暖かく感じた。冬山の遭難者の中には、暑い暑いと言いながら衣服を脱ぐケースもあると聞く。米とぎ posted by (C)takanebiranji
2015年01月31日
コメント(4)
昨日の大雪で心配したけれど、恒例の飯縄山へスノーシュー。1月、しかも新雪、しかも平日のスノーシュー・・・・最高!!!!途中から北アもほんのちょっぴり挨拶に顔を出す。残念なことが一つだけ。いつもなら、雪面に、雪によって脱色されたいろんな木の葉が落ちていて、冬の芸術を楽しめるのに、そんなもの全くない新雪。動物の足跡も全くない。真の新雪。まあ、これはこれで、もちろんすてきではある。1 posted by (C)takanebiranji2 posted by (C)takanebiranji3 posted by (C)takanebiranji4 posted by (C)takanebiranji5 posted by (C)takanebiranji6 posted by (C)takanebiranji「1シーズンの降雪量はほぼ同じ、まとまって降るか、少しずつ毎日降るかの違いである」というのが持論だったけれど、今年は大きく逸脱している。今年は文句なく大雪である。
2015年01月20日
コメント(2)
小川村のメイン通り(俗称・高府銀座)で、暮れから続けて建物の解体が3軒始まっています。うち2軒は一般家屋。地震で少し傾いたりして、今誰も住んでいないこともあって、この際解体することに。もう一軒は川中島バスの営業所でしたが、利用が減り、営業所も不要になって、放置されていました。やはり老朽化が進み、村が買い取って、若者住宅などの施設を造ることになりました。営業所は、この地に新卒で赴任したころ、先輩に誘われてお花を習いに行った思い出の場所です。ここは近い将来、新しい施設が形を現わすでしょうから、利活用次第では活性化につながるかもしれませんが・・・。というよりつなげなくてはいけないでしょうね。この後、もう1軒解体が予定されているとか。櫛の歯が抜けたような町並みのままにならないように。車庫取り壊し1 posted by (C)takanebiranji車庫取り壊し2 posted by (C)takanebiranji
2015年01月14日
コメント(2)
『望郷の鐘』を5日にやっと見ることができました。中国東北部に『満州国』を造りあげた日本は、国を挙げて移民を送り込みます。満州・蒙古開拓団と呼ばれる移民は、約27万人。その国策に最も協力したのが長野県。教え子を説得して送り込んだ教師も多かったそうです。この開拓団は、ソ連との国境に入植させられました、盾として。1945年、8月9日のソ連参戦で、関東軍に見捨てられた開拓団に、悲惨な逃避行が始まります。集団自決、ソ連兵との戦い、収容所での劣悪な環境故の死・・・・小さな子どもは、中国人に預けられました。その子たちが、残留孤児。この映画は、戦後、残留孤児の帰国を実現した山本慈昭さんの実話です。慈昭さんを筆頭に、残留孤児、残留婦人の帰国に尽力した方は、大勢いらっしゃいます。私がお話を聞かせていただいたのは、塚田浅江さん。更科郷という開拓団に渡り、そこで先生になった女性です。逃げる途中、手榴弾を投げられ右目と右耳の機能を失った塚田さんは、子どもたちに助けられながら、ボツリの収容所までたどり着きます。でも子どもたち全員と日本に帰れなかったことを深く嘆き、残留孤児の発見と帰国に心身を削り、一生を終えました。映画を実際に見ていただけたらうれしいなと思います。 戦争を知っている人は、伝えてほしい。 戦争を忘れてしまった人は思い出してほしい。 戦争を知らない人は、聞いて知ってほしい。慈昭さんそして山田火砂子監督のメッセージです。
2015年01月14日
コメント(2)
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。今年の山行は2日、鹿島槍ヶ岳西俣出合周辺のスノーシュー。毎年恒例の弟への挨拶山行です。1日ですが、都合で2日になりました。雪は例年より多く、一部トレースなし、スノーシューでも膝まですっぽりの新雪・深雪を楽しみました。肝腎の鹿島槍は姿を見せませんでした。DSC_0639 posted by (C)takanebiranjiDSC_0644 posted by (C)takanebiranjiDSC_0658 posted by (C)takanebiranji大谷原1 posted by (C)takanebiranji大谷原2 posted by (C)takanebiranjiDSC_0660 posted by (C)takanebiranji
2015年01月06日
コメント(4)
2014.12.29:鹿島 posted by (C)takanebiranji今冬の雪はかなり多い。越年登山をする人は気をつけて。
2014年12月29日
コメント(4)
私の技術で撮りためた写真、いくらお父に「ダメ」だしされても、1枚1枚に思い出が残る私の宝物…ただ残念なのは、ちょうど満月の時期にあたり星空が撮れなかったこと。もう一つは、ルクラからカトマンズに戻った日、迎えのマイクロバスの座席から30センチくらい下の床にカメラを落としたがためにミラーが故障してしまったこと。おかげで、1時間の遊覧飛行での空撮と、世界遺産都市・バクタプル訪問の写真が撮れなかったことは、泣くに泣けないことである(帰国して、ミラーはメーカーに修理してもらいました)。アップしたヒマラヤ山脈の写真は、遊覧飛行の「イエティ」社の搭乗記念。写真が撮れなかったので、しっかり頭に記録したつもりだけど、いつまで記憶媒体が持ちこたえるか、疑問ではあるが・・。これでみると、私たちがトレッキングしていたのは、ちょうど白と茶色の境目あたり。結構高いなあと改めて感激している。アップした地図の中で、赤線が今回のルート、次回に行きたいのは、グリーン線か青線のルート。どちらも20日のコース。それまでちゃんと体力維持しておかなきゃね。ネパール写真1-1 posted by (C)takanebiranji左側ネパール写真1-2 posted by (C)takanebiranji右側地図001 posted by (C)takanebiranji
2014年12月19日
コメント(4)
ホテル・エベレスト・ビューに滞在していた2泊3日の朝夕は、エベレストをはじめとして、山々の色々な表情を見ることができた。一刻一刻で変化する山から目をそらすことはできなかった。「3880mだということを忘れずに、駆け足はしないで」という添乗員さんの言葉は頭の片隅に追いやって、走った、走った…。 ホテルの屋根には展望台があり、四方を透明プラスチックのようなもので囲まれた展望室(?)もある。午後3時頃になると必ずガスが湧き出て展望が効かなくなるので、部屋や食堂に戻るのだが、ガスが切れて山の姿がまた見え出すと、どうしても駆け足で展望台に向かうことになる。ホテル滞在中は、毎朝毎夕、酸素濃度なるものを測った。私は全て合格値。軽い頭痛もあったにはあったが、山に向かえば忘れる程度。ヒマラヤ再訪を望むのも、高山(たかが4000m、されど4000m)には強いという自信を持てたせいもある。で、展望台への突撃も苦にはならなかった。1 posted by (C)takanebiranji2-1朝焼け posted by (C)takanebiranji2-2朝焼け posted by (C)takanebiranji2-3朝焼け posted by (C)takanebiranji2-4朝焼け posted by (C)takanebiranji3エベレスト朝焼け posted by (C)takanebiranji7夕焼けエベレスト posted by (C)takanebiranji1夕焼けエベレスト1 posted by (C)takanebiranji
2014年12月17日
コメント(2)
11月12日4200mのクンデ・ピークに登る日。最後の登山活動をする日。お空は快晴。ネパールに来て、空の深い碧さにびっくりしたけど、もっといいなあと思ったのが、空に飛行機雲が全くなかったこと。北アルプスの上空は、ない日の方がまれ。民間機に自衛隊機に。まあ、飛行機雲も場合によってはアクセントとなっていい写真になることもあるけど。ホテルからクンデ村を通り、神の山・クーンビラの稜線上にあるクンデ・ピークを目指す。上まで登らなければいいのかなと思いつつ。クンデ村の家や畑は石垣にを囲まれて、風から守られている。建物の色が緑色に統一され、ヒマラヤとマッチしていて美しい。稜線にとりついて徐々に標高をあげていくと、それまで見えなかった山々が見えてくる。タムセルクの向こうにカンテガ(6799m)が、さらに後ろに尖峰が・・。サーダーに聞いてもよくわからないという。あんなに目立つ山、覚えておいてほしいと思ってしまった(地図を見てもよくわからない)。後でホテルのフロントさんに聞いたらば「カン・スルー」と私には聞こえたけど、地図にはない。日本の槍ヶ岳の比ではない。もっともっと大きくて、鋭くて・・。ヒマラヤぜーんぶとは言わない。あんな山が一つでいいから小川村にあったなら、吸引力はすごいだろうなと。どこにいても村の有り様を考える私であった(笑)。4200mはなんなく登頂。目的達成!私の夢は、「行くぞ」と決心するまでが長かった。60代まで実現できずにいたから、もう捨て身の決心だったのだが、達成してみれば夢はさらに広がって、さらに現実味を帯びてくる。また、行くよ!!1クンビラとヤク posted by (C)takanebiranji2寺院とクンビラ posted by (C)takanebiranji3クンデ村とアマ・ダブラム posted by (C)takanebiranji4クンデ村とクムジュン村 posted by (C)takanebiranji5カンテガ posted by (C)takanebiranji6尖峰 posted by (C)takanebiranji8.ピーク posted by (C)takanebiranji7.ピーク posted by (C)takanebiranji9帰り道 posted by (C)takanebiranji
2014年12月15日
コメント(6)
いよいよ4200メートルのクンデ・ピークに行く日の朝、途中でとってもうれしい場面を見つけました。私にとっては、エベレストとの対面に匹敵するくらいのうれしいシーンでした。モンキチョウ1 posted by (C)takanebiranjiもんきアップ posted by (C)takanebiranji
2014年12月12日
コメント(2)
6日、長野市のもんぜんぷら座入口前の歩道で、自転車と衝突した。5日から開いている「平和祈念展」のポスターが入口の柱に張られているというので、私はその写真を撮っていたのだ。その時、昭和通り交差点の歩道の信号が青になったらしい。が、縦位置で撮ったり、「もんぜんぷら座」の文字を入れようとしたり…一生懸命だった。右後ろ横から急に衝撃が加わり、何だかわからないけれど、左前にとばされた。何とか倒れないで我慢できるかなと思ったけれど、支え切れずに両足膝を激しくコンクリートにぶつけてから、左側に崩れ落ちた。その時は、右手のカメラが心配で、お父の顔が浮かび…運悪くお尻のついたあたりに水たまりがあって、お尻と左足はその中に。立ち上がろうとしたけれど、身体が動かない。何があったのかよくわからず、おたおたしている私に、「大丈夫ですか」と声をかけた人がいた。何度も声がけされて、彼の顔と、道端に置いてある組立式の赤い自転車が見えた。まあ、それからはちゃんと立ち、カメラの無事を確かめ、身体も大したことがないと、思った。でも、両膝と左肘・左手首が痛み、濡れたお尻・左足が冷たい。「ほんとに、大丈夫ですか」「大丈夫です」と応えながら、相手の名前を聞いておくべきかなと思った。若い彼は、知ってか知らずか自分からは名乗らず、私も、大したことないからまあいいか…。祈念展会場にもどり、そっと膝を見てみると、わわわーっ。深くはないけれど、擦り傷は直径8センチちかくあり、ズキズキ、ヒリヒリする。肘と手首もやっぱりすり傷と打ち身。意気消沈して早めに帰った。2日目に傷口をタオルで巻いてお風呂に入り、4日目あたりにかさぶたができ始め、5日目は水泳を休み、6日目の今日は動かすとかさぶたが引きつるせいか、結構痛い。医者には行かなかったからいいようなものの、自転車事故は怖い。不意を突かれるから意外にもろく、あれで頭を打ったりすれば、大事に至る。先輩の方もそれで命を落としていらっしゃるし…。山中でない場所で、写真を撮るときは、私も十分周囲に注意を払わなければいけないなと、再認識した事故でした。
2014年12月11日
コメント(10)
ナムチェから、いよいよ未体験の3880mにあるホテル・エベレスト・ビューへ向かう日。 8時出発、行程は約3時間。 天気は相変わらず快晴…今日も楽勝だろう! ということで、夜明け前から起きて(夜早くシュラフに入るので、目がさめる)ロッジ周辺をウロウロして、朝焼けを撮る。 昨日初対面したエベレストはナムチェからは見えず、タムセルクも山頂のみ。 西にそびえるコンデリが刻々と色を変えて行くのが美しい。 (同じような写真を何枚もアップしているけど、微妙に違うので捨て切れず…、あまり興味のない方はスキップしてください) ナムチェの急坂を登り、展望台の丘へ。 結構きついッ! 登った瞬間、「ウワーァ~~!!!」 そこには、ローツェ(8516m)、ヌプツェ(7856m)への稜線、前衛峰のアマ・ダブラム(6812m)を従えた大きなエベレストが雪煙を上げていた。 この丘には、エベレスト初登頂のヒラリーと一緒に登ったテンジンの像がある。 丘の周辺に鉄条網が張られている。不思議に思ってサーダーに尋ねると「ネパール軍のヘリポートが丘にあるので、そこに侵入されないように張ってある」とのこと。最近は、中国との摩擦が結構あり、軍の方でもピリピリしているのだそうだ。 そう言えば、トレッキングの最中にも、ライフルを持った兵隊や警官に出会った。日本なら批判の対象になると睨み付けてやったが、トレッカーには結構にこやかに対応していた。 一旦下ってトレッキングルートに戻る。 乾期なので、全体が枯葉色の丘陵を歩く。右側はドウー・ドコシに向かって深い谷となり、山腹をエベレスト街道がヒンズー教の総本山があるタンボチェに向かって延々と続いている。 その街道と別れて、急登してホテル・エベレスト・ビューに向かう。 標高のせいか、トレッキング3日目のせいか、疲れた。 最後がんばって、予定通りの3時間でホテルへ。 お昼は、日本味の「親子丼」…美味しかった。 松林の中に建ったエベレスト・ビューは、どこからもエベレストが見える。 オーナーの宮原さんがその場にあった大きな岩を活かすべく設計・建設した「石のホテル」のため、とにかく室内は寒い。中央に大きな薪の暖炉があって、温かさと雰囲気を造り出していたが、これも19時だか20時まで。まあ、でもユニクロのライトダウンで外に出ても我慢できたから、この時期としては暖かいのかも。 それにしてもベッドには湯タンポと羽毛のかけ布団があり、シャワーやバスは使えないものの、朝夕にはバケツに入ったお湯を配ってもらい、洗顔ができる…というなんともぜいたくなホテルではあった。 オーナーの宮原さんは長野県は青木村の出身。 平成の大合併でも自立を選び、「義民の村」としての矜持を保った村ということで、小川村民としても親しみを感じている村なのだ。 そんな村で育った宮原さん(お兄さんは青木村前村長)が、ネパールの、特にシェルパ族の人達の経済的安定を目的の一つとして建てたと言われるこのホテル。今回のツァーは「ヒマラヤ観光開発株式会社」が行い、ホテルの経営も同会社が行っている。 添乗員さん曰く「経費がかかって、なかなか厳しい経営状態です。皆さん、ぜひリピーターになっください」 頼まれなくても、リピーターになります、はい。1-2コンデリの夜明1 posted by (C)takanebiranji1-2コンデリの夜明3-1 posted by (C)takanebiranji1-2コンデリの夜明4-2 posted by (C)takanebiranji1-2コンデリの夜明5 posted by(C)takanebiranji2タムセルクの夜明1 posted by (C)takanebiranji2タムセルクの夜明2 posted by (C)takanebiranji3朝のナムチェ posted by (C)takanebiranji4朝のエベレスト1 posted by (C)takanebiranji4朝のエベレスト2 posted by (C)takanebiranji5ビューへ1 posted by (C)takanebiranji5ビューへ2 posted by (C)takanebiranji5ビューへ3 posted by (C)takanebiranji5ビューへ4_アマダブラム posted by (C)takanebiranji5ビューへ_りんどう posted by (C)takanebiranji6ビュー1 posted by (C)takanebiranji6ビュー2 posted by (C)takanebiranji6ビュー3 posted by (C)takanebiranji6ビュー親子丼 posted by (C)takanebiranji
2014年12月10日
コメント(2)
「あんた、エベレストに登ったんだってねえ!」「ヒマラヤに登ってきたなんて、すごい!」いずれも「????」。私は、ヒマラヤのエベレストを見に行っただけである。息子は「一人で」と書いてくれたけど、ツァーに一人で参加しただけなのである。その辺を誤解せずに、ヒマラヤ紀行は読んでいただきたい。*****************************************************************さて、ヒマラヤ山中一泊目のパクディンの夜…………は、一言で言うなら暑かった!2人一室の部屋にベッドがあり、そこにシュラフとフリースのようなものでできたインナー、そして湯タンポ。かなり寒いと聞いていたので、オーバーズボンやフリースの上着を着てインナーにもぐり込み、苦労してシュラフに入った。23時頃暑くて目がさめた。1枚脱ぎ、また1枚脱ぎ。結局、パジャマ替りに着て寝たジャージのみになって、シュラフと湯タンポで眠った。私達がいた時期は天候に恵まれたせいか、山中4泊がいずれもこんな感じで、暖かかった。今日はナムチェまで8時間のコース。タムセルクにも会えるし、エベレストにも会える日だ。恐怖の600メートルの急坂も待ち受けている。ワクワクワクワク………ワクワク!「ビスタリ、ビスタリ」を合い言葉に歩くけど、やっぱり結構速い。私はサブ・サーダーのあとにピッタリくっついて、極めて快調。ベンカールという集落を過ぎて、ドゥード・コシの深い谷をはさんだ対岸にタムセルク(6623m)の真っ白い峰がのぞいた。見る方向が異なるせいか、記憶にある姿とはいくらか違っているが、あの美しいヒマラヤ襞に感動。「私の」鹿島槍ヶ岳の襞も美しいが、やっぱり本場のヒマラヤ襞には及ばない(鹿島槍よ、ごめん)。2タムセルクと対面 posted by (C)takanebiranji3ネパールは石文化 posted by (C)takanebiranji木材が少ないせいか、扁平な石が家屋にも使われ、道路脇にも使われ、畑の畦にも使われている。たまに大工さんらしき人が、材木を切っている姿を見かけたが、全行程で2〜3軒だけだった。側を通ると、プーンと木の香りがした。4ビジターセンター posted by (C)takanebiranji中をのぞいてみたかったが、休憩のみ。私は近くを飛んでいる蝶に気をとられて。小型のヒョウモン蝶だったけど、止まらないので写真もとれず判別できなかった。6ジョサレの吊り橋 posted by (C)takanebiranjiバックの山は、シェルパ族の神の山・クーンビラ(5761m)。登ることは許されていない。5ジョサレのお昼 posted by (C)takanebiranji吊り橋を一つ渡ったジョサレ(2830m)という集落で昼食。お昼はどこのロッジでもホットドリンクを出してくれる。コーヒーも紅茶も、オレンジジュースも全てホット。でも、これがおいしい。ジョサレのトマトスープもおいしかった。吊り橋は全部で8箇所あるそうだが、腹ごしらえしてから、最長・最高・最後の吊り橋に挑戦する。はるか高い山腹にその吊り橋が二重になって見えてきた。下が古い吊り橋、上が現在使っている吊り橋。高度感たっぷりのこの吊り橋。真ん中に行くにしたがって、吊り橋大好き人間の私も、大揺れの中で下を見るのはいささか怖かった。7ドゥード・コシの流れ posted by (C)takanebiranji8最後の吊り橋 posted by (C)takanebiranji9吊り橋上部 posted by (C)takanebiranji次は600メートルの急登が始まる。乾期のネパール、山道は乾燥していて、人やロバやゾッキョが通るたびに砂埃が舞い上がる。うーん、日本で言えば、最盛期の富士山須走口のあの埃かなあ。中間あたりの高台で、エベレストにご対面。樹間から、遠くの青空に雪煙を上げたエベレストが小さく見えたッ!小さくても何でも、ホンモノのエベレストだ。込み上げるものがあった…。10.エベレスト初見1 posted by (C)takanebiranji11エベレスト初見2 posted by (C)takanebiranjiりんどうのような愛らしい花に慰められながら、さらに登り、サガルマータ国立国立公園入園手続を終える。ここではトレッキング証明書なるものが発行され、私のナンバーは20365752。 入園者数なのだろうか?すごい数の人がここを通っているんだねえ。12-1入山チェック posted by (C)takanebiranjiしばらく歩くとナムチェ(3440m)に到着。高度差のあるカールのような斜面に集落がびっしりと建っていた。あのナムチェ・バザール だ。12ナムチェ posted by (C)takanebiranji14ナムチェの商店 posted by (C)takanebiranji15リムさん posted by (C)takanebiranji夕食の前に、サブ・サーダーのリムさんと4人で町に行ってみた。商店街(?)に、なんとベーカリー&CAFFEがあった。薄いコーヒーと紅茶が続き、せめてアメリカンなみの濃さのコーヒーを飲みたいと入店。まあまあだった。そこで、リムさんが赤ちゃんの写真を見せてくれた。25歳の彼にはまだ1歳にならない女の子がいるのだ。私たちのツァーのあと2日おいて次の仕事が入っているそうで、なかなか我が子とも一緒にいられないと、笑いながら話してくれた。
2014年12月07日
コメント(4)
カトマンズから30人乗りのプロペラ機でエベレスト街道の基地、ルクラに到着。途中、昨日バンコクからカトマンズにくるときに見たよりも、一層大きく雄大なヒマラヤに逢えました。また、深く入り組んだ山々の上まで、棚田のように耕された畑が見えて、その美しさにも感動。6ルクラへ posted by (C)takanebiranji7ルクラへ posted by (C)takanebiranjiルクラ飛行場 posted by (C)takanebiranji ヘリや飛行機で過密状態のルクラ飛行場は、着陸の時に急斜面を登りながら減速します。ヒラリーの奥さんもここの事故で亡くなり、数年前にもやはり飛行機の着陸失敗か何かで犠牲者が出ました。私たちの飛行機は無事に付きました。 このルクラ(2840m)から、トレッキングが始まります。 出発までの時間近くを散歩。ロッジの色と空と雪を被った山の対比が、とても素敵。ああー、ここがネパールか……。お店の女性から声を掛けられました。「日本からですか?」彼女は2年前にルクラにやって来て結婚。夫婦で商店を営んでいます。見事に、ネパールの女性風になっていました。ルクラ1 posted by (C)takanebiranjiルクラ2 posted by (C)takanebiranji 今日はパクディン(2610m)という谷間の集落まで、約6キロの距離を4時間かけて歩きます。なんとルクラから標高200mもダウン。もったいない!ルクラ3 posted by (C)takanebiranjiルクラ4 posted by (C)takanebiranjiルクラ5-0 posted by (C)takanebiranjiルクラ5-1 posted by (C)takanebiranjiルクラ5-2 posted by (C)takanebiranjiルクラ7 posted by (C)takanebiranjiルクラ8_タルコシ posted by (C)takanebiranjiバックの山はクスム・カンリ。コレデ5000m級です。ルクラ9 posted by (C)takanebiranji ルクラから、あのドウード・コシ(エベレスト山群の氷河から流れ出る川で、『ミルク色をした川』の意。でも薄いブルーのミルク色でした)の河原まで降ります。アップダウンを繰り返し、昼食もゆっくり。ネパール語で、ゆっくりという言葉は、「ビスタリ」。添乗員が何回も「ビスタリ、ビスタリ」と言うのですが、サブガイドさんは結構速いのです。歩幅は短くても、足の回転が速い。日本の山でも速めのスピードだったことは確かです。ツァーパーティ13人、よくついて歩きました。 トレッキングの先々、日本の村の風景ととてもよく似ています。谷を隔てた対岸のとんでもないとこに集落があるのも、わが村と似ています。はるかな山の向こうに、白い頂きがのぞくなんてのもそっくり。ただし、谷の深さや、白い頂きのスケールが桁違い…。 そして、石造りの家々が圧倒的に多いというのも、日本と違っている点でした。 マリーゴールド、小菊、ダリアが家の側や畑の縁にたくさん咲いていました。
2014年12月01日
コメント(8)
自宅の壁や屋根下に新しい亀裂がいくつも見つかり、これで雪が積もったら大丈夫だろうか?隣のお宅の土蔵がピサの斜塔みたいになりました。ぞ〜!うちの土蔵も、中を点検したときは、落下物がなかったので、さすが土蔵は強いと感心してたのに、外側にはやっぱり亀裂が数本入ってました。予想より少ない被害に「ほんとに震度6だったのかなあ」なんて思いましたが、やっぱり6はきていたのでした。侮ってはいけないね。地震の前日。夫と近くのお店に蛍光灯を買いにいきました。快晴の天気に、夫曰く「今日は撮影日和だぞ」私「なんかさあ、ヒマラヤ見て来たら、北アも小さくて・・・」買い物を済ませて帰宅する時、北アの鹿島槍ヶ岳が真っ正面に見えて・・その時、一瞬、鹿島槍がプっと膨れたのです。私の言ったことを鹿島槍が怒っていると感じました・・・・・・・その時は。でも今考えると、膨らんだように見えたのは、地震の前兆だったのかなあと思います。ほんとにそう見えたのですよっ。
2014年11月27日
コメント(4)
実は昨日、大急ぎで下記のような近況報告をして皆さんに感謝の意を表するためアップしたつもりでいました。ところが、今日ある方から電話を頂き、あれっと思いながらこのページに来てみたら・・・・・・アッブしたはずのブログがないっ!!!!!!!あわてていたので、ミスしたのでしょう。本当に申し訳ありませんでした。*******************************************************みなさん、ご心配ありがとうございます。志津さん、書き込み本当にありがとうございます。実家(震度3地域)からはいつもと同じ時間で小川に帰ることができました。私のすむ高府地区に役場があり、そこに地震計が設置されているので、うちの辺も震度6弱だったと思います。が、倒壊などの被害が出たのは村でも北の地区のようです。道路の通行止めも旧鬼無里村や白馬村との境のあたり。小川村ではないのですが、旧美麻村の道路も隆起したり陥没したりで、長野-大町線や長野-白馬戦線が一部通行止めなので、小川から長野には行けますが、大町、白馬方面には行かれません。自宅内部と会社内部は惨憺たる状況で、本棚からの本の落下、食器棚からの陶器の落下、書類の散乱、バソコンの落下(1台のみ、でもなんと使えるのですよ)、大きな振り子時計は10時8分で止まったまま落下してました。私の大事な植木たちも半分くらい落下。そっと鉢にもどしてあげたから多分大丈夫でしょう。会社の大きな機械が南東に30度くらい向いて動いているのにびっくり。横に開けるサッシの窓が、ほとんど10センチほど開いていることにもびっくりしました(鍵がかけてない)。でもまあ散乱したものは、「ずく」を出して元の場所に返せばいいのですから…ということで、今日は1日自宅の方を片付けました。夜は京都から駆けつけてきてくれた息子一家と夕飯を食べ、孫に癒されてから、ごちゃごちゃ状態の中で、仕事もしました。私の頭もごちゃごちゃしていて、なかなかはかどりませんでしたが…。地震1 posted by (C)takanebiranji地震2 posted by (C)takanebiranji地震3 posted by (C)takanebiranji地震4 posted by (C)takanebiranji*************************************最近、写真のアップがとても簡単という理由でfacebookへの書き込みが多くなっています。(takanebiranjiが私だということが、夫にもばれてしまったこともあり・笑)楽天で知り合ったすてきな方々を大切にしていきたいと思いつつ、時間に追われるときは片手落ちになってしまいます。両立していくつもりですが、私のfacebookの方も覗いてみてください。登録されてない方にも見ることのできるようなアップの仕方をしています。私の facebook今後もよろしくお願い致します。
2014年11月25日
コメント(16)
わだつみ像 posted by (C)takanebiranji今、京都の立命館大学平和ミュージアムに展示されている「わだつみ像」。2度ほどお目にかかったことがあるけれど、なんと、これが2代目だってこと、実はつい最近まで全く知らなかった。1949年、戦没学生の手記をまとめた『きけ わだつみの こえ』が出版され、その収益金を基に、彫刻科・本郷新が1950年に製作。東京大学に設置しようとしたが拒否され、宙ぶらりんになっていた像を、立命館大学の末川博総長によって広小路キャンパスに設置されることになったのが1953年。ところがその後、大学紛争が全国的に起こり、立命館大学でもキャンパスの封鎖や破壊が行われた。そんな中で1969年、全共闘系の学生によってこの像が破壊された。これを嘆いた人々により「わだつみ像」の再建運動が起こり、全国からの募金もなされて、1970年に再び本郷新さんによって再建された。この年の12月8日には、破壊された「わだつみ像」と、再建された「わだつみ像」が並べて展示された。これ以降、再建の「わだつみ像」は1992年に開館した「立命館平和ミュージアム」に常時展示され、また、破壊された「わだつみ像」は立命館大学朱雀キャンパスに保管され(公開はしない)、毎年12月8日の「不戦の集い」に2体並んで展示されるという。それにしても、この「わだつみ像」は受難の像・・・でも不死鳥のように周囲の人たちの支援を得て建ちあがる・・・そんな像に、また会いに行きたいな。
2014年10月16日
コメント(16)
宵祭りの日、昼をはさんで、母といっしょに恒例の鹿島槍詣で(?)をした。あまりの晴天と、明日からの台風襲来予想とで。残念ながら、山は少しぼやけて見えたけれど、山頂付近から紅葉が裾野に向かって降りてきている様が見てとれた。鹿島へ posted by (C)takanebiranji大町市から農道を進むと、前方に爺ヶ岳と鹿島槍が・・・鹿島国際鹿島槍2 posted by (C)takanebiranji鹿島槍国際スキー場から小熊林道に入る。熊棚が結構ありますね、ブルブル・・鹿島国際鹿島槍3 posted by (C)takanebiranjiああー、また行きたいなあ、あの稜線に。鹿島国際1 posted by (C)takanebiranjiススキの穂が、午後の光で銀色にきらめいていました。鹿島国際2 posted by (C)takanebiranji鹿島国際3 posted by (C)takanebiranjiちょっとぼやけた鹿島槍ヶ岳も十二分に美しく、母と二人で満足して帰りました。
2014年10月13日
コメント(4)
秋祭りのお料理は、定番以外は、この二つがおいしかったです。新潟の友人から送ってもらった食用菊の甘酢漬け。お祭りの日まで大事に大事に食べました。ご夫妻の畑で、大切に育てられた菊ですもの。きく posted by (C)takanebiranji栗おこわを作ろうと、引き出しを整理していたら出てきたのが、昨秋の黒豆。お正月には今秋の黒豆を煮たいので、固くないか心配しつつ、ゆっくりゆっくり煮ました。結果・・・・・・ふっくらとシワも寄らずに、おいしくできました。良かった!黒豆 posted by (C)takanebiranji
2014年10月11日
コメント(0)
朝の防災無線と有線放送「今朝、△△地区○○地籍で熊による人的被害が生じました。その付近にはまだ熊がいる恐れがあります。畑などに行く際には十分注意してください」友人にメールしたら、「只今特別警戒中」という返事が戻ってきた。今、小・中学校では、村の中心部を除いて全てマイクロバスでの送迎を実施中とのこと。全く知らずにいたが、確かに今朝見たマイクロバスには中学生の姿も交じっていた。昼近く、配食ボランティアで伺った山沿いのお宅。防災無線も有線も聞いておらず、警戒中の人から熊の話を聞いたという。一山越えれば今朝、人的被害のあった所である。一人暮らしのおばあちゃんは「怖い、怖い」を連発された。古いトランジスターラジオを出して「子どもが昔使ったものだからならない」と。アンテナの向きと電波合わせをしたら、聞こえてきた。最大音にしても、あまり遠くからは聞こえないだろうけど、それでもないよりはいい。「今日は、家の中にいるよ」というおばあちゃんに、「それがいいかもしれないよ」と。さらに、「音が小さくなってきたら、電池が終わる証拠だから、社協へ電話してね。熊のことも何か変わったことがあったら、電話してね」と念をおした。社協に戻って、その旨を伝えた。もう1件のやはり一人暮らしのおばあちゃん。ここは周囲に家が何件もあるから大丈夫かなと思ったら、家はあれども、全くの空家だそうだ。やっぱり今日は家の中にいた方がいいねと、おばあちゃんと話した。今年は夏から村内あちこちで「熊出没、注意」の有線放送が何度も流れた。新聞によると、北信(長野県北部)ではドングリなどの実が不作だったり、北信以外でも部分的に不作の地域が交じるのだという。里のおいしい味に馴れて降りてくるだけではなさそうだ。「やたらに熊を殺しても〜」と思ってはいるが、こうして現実に一人暮らしの人たちと接してみると、熊の怖さは尋常ではないと私も思う。夜のプール通い、トレーニングと称して徒歩で通っていたが、いくら近距離でも、やっぱり車で移動しよう。
2014年10月03日
コメント(4)
フェースブック信州おがわの印刷屋さん 今月の1枚
2014年10月01日
コメント(2)
信濃毎日新聞『斜面』より斜面001-1 posted by (C)takanebiranji斜面001-2 posted by (C)takanebiranji目先の利益のみ。一人ひとりの命ゃ、自然を第一に重んじる政策はないのだろうか。
2014年09月30日
コメント(5)
全1990件 (1990件中 1-50件目)