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あしかけ.さんサイド自由欄
この子を残して 永井隆
涙なくては読めない本です
原爆病に冒されながらも
父として子供の未来を見つめる眼は
どこまでも暖かい!
私のエッセイにも取り上げている作者
へいわ
母衣崎 健吾
永井 隆
「・・・母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりともと恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄る幼ごころのいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はやうやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命を、この子は知っているのであろうか。
・・・せめてこの子がモンペのボタンをひとりではめることが出来るようになるまでーーーなりとも・・・。」
永井隆『この子を残して』より)
この作品を読んだのは小学生の時だった。当時、どれくらい理解できたか分からないが暖かいものに触れたという記憶がある。今、二児の父親となって、再び読み返したら、永井隆の悲しみと怒りと慈しみのひだひだまでもがはっきりと見えてきた。
一九四五年八月九日、広島に続いて長崎に原爆が投下され、炸裂した。一瞬のうちに七万余の人命を奪い、爆心地から半径2キロにわたり焦土と化した。
永井隆は島根県松江市に生まれ、長崎医科大学を卒業後も長崎に残り、被爆した。
四八年「この子を残して」を脱稿、四九年「長崎の鐘」刊行、「花咲く丘」脱稿、五一年、最後の著書である「乙女峠」を脱稿し、四三年の生涯を閉じた。
原爆資料館の一隅に永井隆の足跡が展示されていた。その遺品のなかに質素な、あまりにも質素な筆記具があった。ちびた鉛筆、ささくれた筆、《ああー、原爆病に冒された限りあるいのちを刻んで、この鉛筆で、この筆で、父としての、人間としての、切々たる思いを書き綴ったのか。》拭いても拭いても涙が溢れでてきた。
その足で、松山町の国際平和公園のほぼ中央部、長崎の鐘をかたどったモニュメントに添えられた碑文の前に立った。
長崎の鐘よ鳴れ
長崎の鐘よ鳴れ
私達の両親を奪った
私達のからだをむしばんだ
あの原爆が
いかに恐ろしいものであるか
あの戦争が
いかに愚かなものであるか
長崎の鐘よひびけ
長崎の鐘よひびけ
地球の果てから
果ての果てまでも
私達の願いをこめて
私達の祈りをこめて
その碑文を柔和な平和祈念像が見守っていた
のいちごつうしん NO,313
私の本棚(23)
この子を残して
平和文庫
永井隆
日本図書センター/日本図書センタ-

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