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奥の院に参ります。能勢氏の菩提寺で見た十字の能勢氏の紋が入った幕が拝殿に引かれています。横には木造の白馬が入った厩、こちらの門にも能勢氏の紋が。階段を降り、元来た道を戻るか、妙見山方面に下ってから県道・国道を回って戻るか相談しました。ここまで30分強、まだ10時半なので未知の道に進むことにしました。妙見山との間の県道に向かって下りです。山の中の分岐には案内図や道標が立ち、方向音痴の家内だけなら危ないですが、普通の人は間違えないです。北の「堀越峠」への分岐があり、やがて沢沿いの道を下るようになりました。ここまで、箒のおじさんと奥の院のお寺さん以外の人には会いませんでしたが、後ろを歩いていた家内が「こんにちは」って。振り返ると、犬を連れたお若い女性がいます。下にある施設から犬の散歩に来たそうです。時刻を聞かれ、道や県道までの所要時間を尋ねました。介護施設でもあって、そこの飼い犬だろう。スイスイ抜いて行かれました。 勾配が緩くなり階段がなくなる頃、リュックを背負った男性とすれ違いました。「こんにちは」。更に勾配がゆるくなり、平地を歩くようになったところで、小屋が見えてきました。オンシーズンは、売店にでもなるのだろうか、室内はガランとしています。ここの案内図を見ている男性がいました。「こんにちは」。きっと「妙見山」の方から「奥の院」を目指して歩いてきたのでしょう。ここに山道の交差点がありました。妙見山の方に下ります。舗装道と交差しました。妙見山方向は直進の地道のようですが、そちらからたくさんの犬の鳴き声が聞こえてきます。やだなあと思い、右折して西の方に歩き出しました。左折すると「堀越峠」への舗装路のようです。夏に「堀越峠」側からバイクで入りましたが、道路崩落で通行止めになっていた道につながるように思います。次またバイクで来てみよう。直進の地道を気にしながら進みます。すると、道路脇の金網越しに、犬が吠えかけてきます。そのまま進むとその施設の全貌が見えてきました。さっきのボランティアの女性は、この犬の施設から来られたようです。捨て犬保護の施設のようです。柵の中に放し飼いの犬がおり、たくさんの建物の中にもワンちゃんがたくさんいそうです。川を隔てて段々田が広がり、犬の鳴き声さえなければとてもいいところです。でも農作業の間中、犬に吠え声を聞かされるのはきついなあ。施設の方らしいワンちゃんと散歩してる若い女性がやってきました。眼下にR477らしき国道が見えていますが、この道は国道に出るのか聞いてみました。ガソリンスタンドのある道には出るということなので、国道でしょう。山の中では感じなかった風が強めに吹いています。やがて人家の間の道になり、そして国道に出ました。正面に、朝参った「野間神社」の鳥居があります。家内と2人、「ああ、ここに出た」って、ちょこっと感動。歩きの場合、自転車とも違う視点があります。お店のシャッターに「PSTO」ってありました。「なんだ?」、ああ「POST」ね。明治の文明開化の香り満点の木造の「地黄公会堂」がありました。朝、車で登った急坂を上ります。恵比寿様の鬼瓦+鯱という瓦屋根のお宅がありました。車に到着したのが1時。「奥の院ぐるっと3時間トレッキング」の終了です。家内と楽しい時間を持てました。
2010/12/28
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昨日は、今年最後のお休みです。特に予定はなく家内もお休みなので、寺社巡り観光?う~ん、どうせ正月にするし・・・。自転車?寒いからなあ・・・正月前に風邪ひいたらあかんし・・・。ということで、トレッキングになりました。夏前に、一昨年バイク、去年は自転車を始めたので、今年はトレッキングだと靴・杖・ウエアを買ったのに、その後武庫川渓谷廃線ウォーク1.5時間しただけでした。僕は朝からぐーたら、「NHKユーラシア大陸横断バイク旅」のブルーレイDを見てたのに、家内はいつものように張り切って家事をしています。朝食作って、朝風呂して、化粧して、服装を整えます。朝の早い我が夫婦のいつもなら、朝一番に出発するのですが、クリスマス寒波で土曜日は街中でも雪が舞ったので、山道の雪が溶けるまで待とうとゆっくりです。遅ればせながら、大急ぎで食事し身支度して、9時頃出発しました。目的地は、「妙見山奥の院」です。まず仕事場に寄って、忘れた山の地図を持って北摂を目指します。道路脇の温度計は3度の表示。車はぬくぬくですが、外の厳しさが予想されます。ジャージの上に自転車用ズボンの組み合わせなので寒いかも?歩き出すと暖かくなるかな?寒けりゃ登山用レインスーツを着れば大丈夫かな?いろいろ考えながら、R173・知明湖からr106・r405・R477で「地黄」に到着しました。まず、「野間神社」に寄ります。秋の自転車行で出会った山車はここの秋祭りです、縁起も飛鳥時代物部氏天下の時代まで遡り、由緒あるお宮です。初めての家内も驚いている風でした。丹波霧の酒屋さんの所から山に上ります。「真如寺」に続くこの坂が急です。朝一番の出発を躊躇したのはココのためです。道は狭いけどスイスイ上がれました。積もるような雪ではなかったようで、解けた跡もありませんでした。「真如寺」駐車場に車を置いて、トレッキングの始まりです。前回バイクで来て知ったのですが、ここが日蓮宗妙見山の本山です。能勢氏中興の祖能勢頼次が日蓮宗の高僧を呼んで建てたのが始まりで、後に元能勢氏の詰めの城で、頼次自身がここを追われた時にここに篭って戦った妙見山の寄進を受けて、近畿日蓮宗の霊場修行場になったそうです。「関西身延」と号し、日蓮宗総本山・身延山に準じています。妙見山頂の伽藍などは真如寺に属しています。僕が最初訪問したとき感じたように、家内も「落ち着いて感じのいいお寺ね」と気に入ったようです。本堂では、法要のお経が唱えられています。信心の深い方々が、手慣れた風にお参りをされています。トイレを拝借し、駐車場代も含め20円のお賽銭とお参り。昔は、日本全土に点在する寺社が旅人の休憩所になり宿になっていたのでしょう。僕らもその恩恵に預かります。霊場という感じのお墓などを過ぎ、山道に入ります。えっちらおっちら、途中から初使用の杖を取り出して4本足歩行で上ります。お疲れ霜柱が土を持ち上げて綺麗です。標高が上がるにつれ、地黄の田畑が眼下に広がり、田畑の向こうのゴルフ場、そしてその向こうの北摂の山並みが広がっていきます。木々の枝間から見える景色が素敵ですが、スカっと見えるところはなく少し残念。でも木がなくなったら山が崩れるしね。「奥の院」の階段前まで上ってきました。道標と自然歩道案内地図を見ていると、妙見山方向からこの山道参道を箒で履いてるお父さんがやってきました。「こんにちは。先に進むと妙見山ですよね?手前の県道まで、どれぐらいの時間かかりますか?」「毎日掃いていらっしゃるのですか?」なんて聞いてみます。毎日じゃないけど、真如寺から奥の院への参道を掃いてらっしゃるようで、でも妙見山にはこの道で行ったことないそうです。きっと信心深い方のボランティアなんでしょうが、こういう地元の方のおかげで、僕らは安全で気持ちのいい山歩きが出来るのですね。「ありがとうございます」。
2010/12/27
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一番長いトンネルを抜けたところで、長男が待っていました。彼の情報では、弟達に随分遅れているようです。次男と3人で、ワイワイ写真を撮りながら歩いてきたので、大分離されたようです。川の流れもいいので、ここで休憩しました。家内は、お化粧直しの後、フクラハギから足首にかけて、筋肉疲労予防のためにクリームを刷り込みはじめました。長男は、家内のトレッキング用の靴を見て、「買ったん?」。か「お父さんと一緒に買ったの」。(僕は、あなたのお父さんではなく旦那なんだけど・・・)ち「靴の中で、足滑ってない?」。ち「安もんでもいいから、底の厚い硬い靴は、運動靴とは全然違うから、こういうのを履いたほうがいいで」と、家内にいろいろアドバイスしています。それもそのはず、富士山に3度も登ったそうです。学生時代、初めて富士山に登った時はしっていますが、あの時はボロボロ・疲労困憊の感じで帰ってきました。「甘く見てた。もう二度と富士山に登らない」と言ってたのに、就職してから2度も登ったんだ。次男は、かっぱ・弁当・懐中電灯の入ったリュックを、ずっと背負ってくれました。鉄橋脇を歩くところもあります。家内は、僕がプレゼントしたヘリーハンセンの赤のウエストバッグを、「夫婦で自転車」でも「夫婦でバイク2人乗り」でも、ずっと使ってくれています。毎回、「たくさん入るわ~」とか、「使いやすいわ~」とか言ってくれるので、僕も嬉しくなってしまいます。また歩きはじめました。つくつくぼうしの割れんばかりの鳴き声と、武庫川の石の間を流れる激流の音の中を、とても楽しく歩けます。しばらくすると義理妹から家内の携帯に電話が入りました。家内が長男に電話を渡します。「駅の下の階段まで来たけど、もう1駅歩くの?」との問い合わせ。「お父さん、どっち?」そう言われてもこっちは初めてだからよく分かりません。「そこの駅から電車に乗るよ」と答えてもらいました。これが大間違いでした。長男が「ココに階段があるよ。上がるのかなあ」と気づいたのですが、僕はてっきり駅は対岸の下流にあると思っていたので、「違うよ」と自信を持って却下。少々迷ってR173に出て、歩道を歩いていると、また弟達から着信。また家内が長男に電話を渡します。「駅に着いたよ。今、何処?」。「・・・」。間違いに気づきました。僕らは1駅先の「JR生瀬駅」に向かっていました。当初の予定は、ここなのですが、弟への指示が間違っており、1つ手前の駅に弟は向かっていました。「JR武田尾で集合ね」と長男が答えています。「やっぱり、あそこの階段で良かったみたいね」と笑っています。「お父さんがさあ、向こう岸に駅があると間違っていたからなあ」と、これまた笑っています。人のミスを攻めずに、笑ってフォローして笑い話に変えてしまういい性格をしています。「お~、すまんすまん」と僕、みんなで大笑いです。程なく僕らも駅につきました。駅に着いて、周辺図を見ると、間違った分岐点からの2つの駅への距離は同じぐらいだったようです。ホームに上がり電車に乗り込みました。弟達の向かった「名塩駅」に電車が入り、見ていると弟達がいました。結局、同じ電車になりました。車を置いた武田尾駅に戻り、駅下の駐車場管理事務所で駐車料を払いました。1台・1日・500円でした。ワイワイがやがや、駐車場で解散しました。帰宅して、僕と家内は東京に帰る次男を駅まで送りに行きます。洗濯物もあるので、大きなトランクは明日宅急便で送ることにして、製図板と共に帰って行きました。その足で、追加の祖供養を買いに行きます。ショッピングモールに車で突っ込んだら大変な目に合うので、駅前で僕は待ちます。しばらくすると、大きな荷物を抱えた家内が、よたよたしながら戻って来ました。「すごく、重たかった~」。ご苦労様です。
2010/08/19
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14日は、母の初盆でした。前夜、僕が同期の家で盛り上がってる時、長男が帰ってきたようで、次男が駅まで迎えに行ってくれました。長男は、相変わらずでかい仕事カバンでした。1週間のお盆休みの間に、3日も仕事が入ったようで、13日の愛媛の仕事を終えて帰って来ました。16日は、名古屋で仕事をして一旦帰って来て、17日の大阪の仕事を終えて東京に帰るそうです。バリバリ働いていますね。次男は、製図板と共に帰省してきました。来月の国家試験に向けて、宿題や課題をやるようです。ウィークデーは仕事して、日曜日に学校に通って、上位の資格にチャレンジします。次男も、家内の実家近所の現場の仕事があるようで、お盆休みの1日を仕事していました。現場に行き、市役所を訪問したようです。そこの設計を任されているようです。その現場が回りだせば、頻繁に帰省するかもしれません。実家近くには、家内の姉の家もあるので、そちらで泊めてもらってもいいです。息子達は忙しそうで、ありがたいことです。朝8時にお寺さんが来られます。バタバタ、といっても主に家内が用意し、僕は出迎えの準備です。弟家族が到着したすぐ後に、去年同様10分前倒しでお寺さん到着。この1週間、スクーターに乗ったお坊さんの姿をよく見かけましたが、忙しそうでいつもよりショートバージョンで法要を終え、次のところに慌しく行かれました。稼ぎ時だからなあ。10時に親父の一番下の弟さんが横浜から飛行機で来るので、自宅待機です。母の先祖のある方の生涯や家系を記された2冊の本の複写本を、弟・長男・次男に渡しました。僕が母から聞いていた我が家の先祖のこと、僕がこの本を元に調べた先祖の流れを話しました。やはり、弟は僕の半分も母から聞いていなかったようです。母の一番の宝物だった2冊は、今後僕が大切にしないといけません。10時になり、空港におじさんを迎えに行き、自宅の仏壇にお参りしていただきました。叔父さんの帰りの飛行機が3時なので、我が家のお墓にご一緒しました。さすがにお盆、道は混み気味で、15分ぐらい多めに掛かったと思います。みんなでお墓を磨き、供物のお野菜・線香などをあげ、記念写真を撮りました。本来なら、おじさん含めてみんなで食事なのでしょうが、おじさんが来られるのが数日前に分かり、2家族でハイキングの予定を組んでしまっていたので、コンビニで買ったおにぎりとお茶を渡して終わりです。「怒られるがな」。まあ気さくなおじさんなので、こちらも気を使いません。小さい頃、大阪と北関東という距離だったのに、夏休み毎に1~2週間田舎に僕らを連れていってくれてた両親・・・今その両親が亡くなっても、なにかとおじさんやおあばさんが、僕を兄弟の跡取り当主として声を掛けてくれます。僕の長男が東京に住むようになったので、法事等に僕の代理で顔つなぎをしています。こういうのが、家としては大事なんじゃないかなと思っています。いざとなったとき、血のつながりは大きな力になります。お互いに、そういうのが繋がって、一族が延々と続いて僕まで来てるのだと思います。僕が、次の世代につなげなきゃ。そういう僕の行動を、次世代は見てるからな。おじさんと一緒に、「JR武田尾駅」に向かいました。武庫川に架かる鉄橋上の無人駅で、おじさんを見送りました。僕ら2家族は、武田尾~生瀬廃線ウォークに出発です。JR福知山線は昔、武庫川渓谷沿いを走っていました。この渓谷、朝霧がよく発生し、幻想的な路線だったろうけど、現路線は、トンネルを走っています。保津川トロッコ列車の景色に匹敵する眺めの中を歩きます。一応JRは、正式には認めておらず、「自己責任」の看板が立ててるけど、大人気なので暗黙の了解というヤツです。JR武田尾駅付近僕ら家族は初めてでしたが、弟家族はもう3回も歩いたそうです。前回から随分日が経ってるそうだけど。さらに弟は、武田尾の上流の道場から、ライフジャケットを着て入水し、武庫川の流れに乗って、生瀬まで流れたそうです。「そんなのやってる業者がいるの?」「いいや、勝手に」。なんとも凄いヤツです。途中に流れの急な滝みたいなところもあるのに・・・。長男と次男が、トンネル突入桜の園で、お昼ご飯にしました。この時は、弟達にそんなに遅れてなかったけど・・・その後は、親父に似て歩きの速い弟に大きく離され、2家族バラバラになりました。途中に何箇所もトンネルがあり、昼間なのに漆黒の闇です。懐中電灯を消すと、前も後も横も、全く方向がわからなくなります。だれもいない暗闇を、しんがりで家内と歩きます。次男が少し前で、僕らを振り返りながら歩いています。長男は何処に行ったのやら、多分弟達と一緒でしょう。
2010/08/18
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日曜日は、3人乗りヨットの毎月のポイントレースに出場してきました。朝は無風でしたが、第1レースのスタート予定時刻には8m/s、10m/sオーバーのブローが入りだしました。ハードな1日になるなと覚悟したのですが、4m/sぐらいに風が落ち、その後徐々に8m/s・ブロー10m/sという、豪快で面白いレースになりました。ミスってスピンを海に落としてしまい、スピンポールを折るというがっかりなこともありましたが、大いにレースを楽しませてもらいました。僕らは、トラブルで先にハーバーバックしましたが、他艇も次のレースでレースが終わったようで、順次戻ってきました。その後、船を片付けている時、ザーッと雨が降ってきたり、多分20m/s近かったのではないかとおもうブローが入り、海面が真っ白になっていました。1レースリタイヤしたので、3時過ぎに自宅に戻ってきました。家内と6時半始まりの映画を観に行く予定でしたが、早く帰ってこれたので、近隣の別の映画館で、その1時間前の上映を観ることに変更しました。それでも2時間の余裕があるので、壊れ気味の実家の冷蔵庫を見に行くことにしました。主のいない家なので、冷蔵庫を買っても電源を入れない日が続くでしょうが、息子夫婦が気兼ねなく泊まれるように、サイズダウンして買い換えることにしていました。見に行くだけを考えていたので、大体3~4万円ぐらいだなと目星を付けて、隣のスポーツ用品店に向かおうとしました。ところが、「面倒だから買っちゃおうか」なんて家内が言い出します。「でも2万しか持ってないよ」「私持ってるから」家内のお財布を覗くと、買う気満々の中身でした。「10万円ぐらいすると思ってたから、安上がりになっちゃった」と。お隣の「スポーツデポ」で、登山用品コーナーを物色しました。トレッキング用の靴とステッキを見ました。靴が1万円弱、ステッキが両手2本で5000円。2人で3万円。初心者なので、これぐらいでいいでしょう。森の中に入るとGPSなんて役に立たないので、コンパスも必要そうです。あとクマ鈴もいるかなあ?家内とハイキング道や低山トレッキングをしながら、1人の時は、山城を攻めてみようかなと思っています。室町時代後期に活躍した中世の山城にいくつか登り、木々に埋もれた石垣の残骸や葉っぱや土に埋もれて浅くなった横堀に、なんとなくロマンを感じます。素晴らしい絶景の下界を眺められるところだったら、我が領地を見る武将になった気分に浸れます。ほとんどの武将が、天命を全うせず戦に倒れていった時代・・・無念ではあっただろうけど、今のようにちょっとした体調不良にビクビクして医者通いするより、死に場所を得ていた男の潔さも感じます。特攻攻撃で亡くなった方の手記を読むと、ここで散る無念さより、高揚感を感じてしまいます。バイクで、スピードをしっかり落としてビビりながらカーブを曲がるくせに、ヨットに乗ってる時吹いてくると、「ようし」と気持ちが座って、シートを引き絞ってブローに突っ込んでいく時感じる高揚感に似ています。もし、僕が特攻の時代に生きていたら、死に場所を得た爽快感で多分笑顔で出撃しただろうと思います。なんかそういうのを、打ち捨てられた山城から感じます。映画は、「踊る大捜査線」を観に行きました。家内の評では、「面白かったけど、織田裕二がタバコを吸うのがダメね」だって。小栗旬が新しく登場し、またいい味を出していました。上手な俳優さんだと思います。
2010/07/14
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サイクルコンピューターの電池を換えました。液晶文字が薄くなってきたように感じていたのですが、先日の「夫婦で自転車・小豆島偏」の時、斜めから見ないと見えなくなって、「いよいよ駄目だな、電池切れだけだったらいいんだけど」と思いながら、自転車屋さんに持って行きました。電池を入れ替えてもらったら、復活しました。最初はこんなに濃い色だったんだと、びっくり。通算走行距離は、2100km程でした。約1年です。冬場、母の葬儀があり、実家の片付けなどで「早朝自転車」が出来なかったから、4ヶ月ほどあまり乗れませんでした。この通算走行距離を、入れなおしてくれました。こういうことも出来るのですね。家内のESCAPE3のタイヤを、28Cから僕と同じ25Cに変更しようかなと、相談しました。僕と並んで下り坂を下っていても、加速度やスピード維持がずいぶん違います。細いタイヤの方が楽そうだけど、細いとパンクしやすそうなので、僕のをもっと楽な23Cに変更する気持ちは、今のところありません。僕の25Cもこの1年パンクゼロだったので、家内のは28Cもいらないんじゃないかなと思ったわけです。一応パンク修理方法を教えてもらっていますが、出来ればパンクしてほしくないです。店長さんの話では、パンクは、空気圧をしっかり管理していれば大丈夫だそうで、運とのことでした。細くするとパンクの確率が上がることはないということでしたが、家内のを25Cにすると、空気圧も7気圧まで上げられ、楽になるとのことです。今度、25Cに変えることにしました。果たして転がり方が、どう変わるのか?先週、昼休みに好日山荘を覗いてきました。その数日前の昼休みには、スポーツオーソリティを覗きました。さらにロードサイドの安売りの靴屋さんも。目的は、トレッキングシューズです。ハイキングや、軽い山歩きをしようかなと思ったからです。トレッキングルートが乗った「山と高原地図」も買いました。通勤以外でバイクに乗るようになり、田舎道まで楽に足を伸ばせるようになりました。そこで、スポーツ自転車がたくさん走ってるのに刺激され、自転車を始めました。これは、家内も乗れるので、夫婦の新しい扉が開きました。景色のいい山道や自然の中をバイクで走ってると、中高年のグループがたくさんハイキングしていました。日曜日電車に乗ると、それなりの物を持った軽登山おばさん達が必ずいます。楽しそうに、おしゃべりしています。25年で、1世代変わります。1人の人の人生も、25年で節目を迎え、次の25年のリスタートになるように思います。僕が生まれてからの25年は、親に保護されていた25年でした。次の25年は、自分で稼ぐようになり、妻をもらい新しい家族として独立し、子供たちを養っていった25年。そして今、僕と家内の25年は、次の段階に入りました。子供たちが基礎の学びを終え、働き出し、長男は嫁をもらい新たな家庭として、僕を家長とする戸籍から独立しました。新たな新婚とは、よく言ったものです。夫婦喧嘩をよくしてた僕の両親も、僕が結婚するようになってから、なんだか仲が良くなり、海外だ国内だとよく旅行に行くようになりました。僕らも、元々夫婦喧嘩なんてしない夫婦ですが、間に子供たちがいてた時代が終わりましたが、10代・20代のパワーも魅力もなくなってる僕に、変わらず一緒にいてくれる家内の存在がとてもいとおしいです。ハイキングやトレッキングは、夫婦で出来ます。自転車の他に、夫婦で楽しめるアイテムを増やしておこうと思います。この人生最後の25年を見据えて、男である僕が計画・用意・実行していかねばなりません。登山用品店の好日山荘は、昼休みということもありますが、お客さんは年配者ばかりでした。ブームだからなあ。パチもんトレッキングシューズしか履いたことないので、ちゃんとしたものは幾らぐらいするものなのか偵察です。ここは、みんな1万円以上するものを置いていました。パチモンを置いていない信頼感があります。学生時代からずっとスキーをやってましたが、30代からは、板もブーツもみんな好日山荘で買っていました。乗りやすいオガサカの上級者用モデルやランゲのブーツは、ロードサイド大型スキー用品店には売っていませんでした。落ち着いた知識豊富な店員さんの応対に満足していました。まだ冷やかしの段階の僕なので、お客さんの応対に忙しい店員さんには声を掛けませんでした。でも大体の感じはつかめました。まず総合スポーツ用品店で、安めの靴とストックを買おうと思います。持ってるリュックを背負い、何度かハイキングやトレッキングを経験して、必要なものを買い換えたり購入したらいいんじゃないかな。
2010/07/08
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今にも雨が降り出しそうな天気の朝、深い木立に囲まれた誰もいない参道を歩きます。勾配がきついので、ゆっくり上がります。目指す宇佐神社が見えてきましたが、その横に、「宇佐山城」の道案内が立っています。参拝は後回して、この勢いで城跡まで上ることにしました。この参道は、湖西道路のすぐ横で、木々の切れ間から猛スピードで走る車が見えます。湖西道路のトンネルの上を越えて上ってきました。ここからは、山道です。獣道に毛が生えた程度の踏道が、つづら折れや回り道を繰り返しながら続いています。里山の低山でも、簡単に迷うので、時々後ろを振り返り、あたりの景色を記憶にとどめます。帰り道を間違えると、とんでもない所に下山して、車に帰るのに難儀します。足元は悪く、薄い霧に包まれた山道は滑りやすいです。時折急坂もあり、休憩を入れながらの登山になりました。この辺の田畑には、獣避けネットが敷かれていないので安心ですが、鹿はいるかも?まさかクマはいないだろうけど。念のためウエストバックから、先週好日山荘で買った山歩き用の小さな鈴を出してぶら下げます。早速の出番です。静けさの中で孤独に歩を進めます。この道はキツイです。山頂まで登って、出艇の時間に間に合うのだろうかと、「引き返した方がいいよ。しんどいし」という心の声が聞こえます。「折角の機会を、途中離脱という情けない結果でいいのか」のGOの声が、それをかき消します。木々が濃いのが幸いしているのか、薮が繁茂しておらず、その点では楽でした。それに・・・「宇佐山城跡」「もう少しで頂上」「滋賀県は楽しい」などの小学生が書いた立て札が、道を迷わないように所々に立っています。「平成21年6月・・小学校6年4組」となってて、軟弱や女児に、成人男子として負けるわけにはいきません。途中から、蜘蛛の巣払いに小枝を振り回しながら、頂上に到着しました。三角点335mと書いてありました。そこには、眼下に琵琶湖の絶景が待ってるのかと思いましたが、北・東・南の展望はなく、わずかに開いた西側からだけ更に高い東山の一部が見えるだけでした。でも十分な達成感です。この西側斜面には、資材を運び上げる作業用ケーブルが敷かれていました。山頂に似つかわしくない琵琶湖TVなどの共同アンテナが建ち、2棟のコンクリ建物が立っています。それへの物資供給ケーブルのようです。でも作業員が上がる整備された道はありませんでした。数本ある山道を上がってくるのでしょう。山頂の一段下に、かつての山城を思い出させる石垣が残っていました。崩れた石垣の石も多数残っています。土塁や長い年月により浅くなった空堀の跡もあります。北側にも小さな平坦地があり、その間を上がってきた山道が通っていますが、山城跡から見ると、これはまさに堀切でした。北の山頂にも砦が築かれていたものと思われます。かなり満足して下りにかかりました。楽な下りこそ滑りやすく、山頂を目指す獣道ルートが重合してるので、間違えないように慎重に下ります。こころ強い味方が、小学生看板です。それでも1ヶ所、どうにも判断に苦しむ分岐があり、数度行ったり来たりしましたが、正解ルートを選択することが出来ました。まあ、間違ったルートでも、急斜面ながら、同じところで合流しましたが。「宇佐神社」横まで下りてきて、朽ち果て苔むした土塁を見つけました。この土塁の配置を考えると、相対するのが「宇佐神社」です。ここに森可成の館だあったのかもしれません。山城は終の防戦場所で、日常は毎日あんな山道を上り下りしません。麓の館で日常業務をこなし、いざという時の防戦が敵わなくなって、山城に退却し、標高差の有利を得て、最後の奮戦でなんとか延命しようとします。その館を敵軍に占領された時の次の防戦ラインの土塁のようです。僕は、戦国武将になった気分で、小さくなった土塁を越え、宇佐神社に向かって道なき木々の間を進軍しました。そして宇佐神社前の舗装路に降り立ちました。すると、宮司さんなのだろうか、車から荷物を下ろしていた御仁が、ぎょっとして僕を見ます。不意打ちだったのでしょう。僕の勝利です。「おはようございます」と挨拶し、いつものように10円賽銭で参拝しました。「これまで、家族を見守ってくれてありがとうございました」、いつもの挨拶です。僕は、「・・に合格させて」とか「・・の足が治りますように」などのお願いを、神仏にしません。生まれて2ヶ月で、致死率の非常に高い腸重積という病気になり、手術を勧める小児科医から僕を引っ張り合い、罵声を浴びながら、母親は「回復手術が成功しても、体力が持ちません」と強引に僕を取り戻しました。すぐに駆けつけた関西労災病院で、たまたま帰り支度が遅くなって残っておられた部長先生に診てもらい、高圧浣腸数回で治りました。母の話では、お隣の子も同じ病気になり、手術は成功しましたが亡くなりました。その後、僕自身や子供達の人生を見ていて、生死の境目なんてほんの一瞬だとわかりました。人の力の及ばない何かが、僕や家族を事故や病気から守ってくれているとしか思えません。受験に失敗しようが、仕事でミスろうが、みんな小さな事に見えてしまいます。「今まで生かしてくれてありがとう」「明日死んだって、昨日までありがとう」です。小さめの本殿の前に小さな拝殿、さらにその前に農村歌舞伎が演じられていたのでしょうか舞台がありました。能楽が盛んだったと言われる北摂の神社には、小さな神社にも当たり前のようにありますが、京都や滋賀では大きな神社にしかないと思ってました。謂れを読むと、源頼義がAD1065年に建立すたのだとか。源頼義と言えば、長男悪源太義平・三男頼朝・九男義経の親父ではないか・・・?何か感じが違う。違和感が。1192作ろう鎌倉幕府との年代に隔たりが・・・。気になったので帰って調べたら、義平の親父は、源義頼でした。名前が似ててややこしいが、同じ清和源氏系河内源氏系でした。頼義は、清和源氏初代源満仲の子で河内源氏の祖頼信の子で、八幡太郎義家の父親。義平・頼朝・義経兄弟の直系の先祖でした。森可成の館址に神社が建ったのではなく、遠い先祖の建てた神社の裏山に城を築いたようです。なかなか面白い登山になりました。時刻は7時を回っています。急いで参道を下りました。参道脇の小さな側溝には、山からの湧き水が何ヶ所からも流れでています。日本は、水に恵まれています。手頃な湧き水を飲んでみました。乾いた喉に、優しい潤いです。
2010/07/07
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日曜日は、ヨット部の練習で琵琶湖に行ってきました。この日は、家内は毎月の勉強会です。では、またバイクでと計画してみました。無料になった舞鶴道を使って小浜周辺を探索し、「熊川宿」を見学して琵琶湖畔に抜けて、「マキノのメタセコイヤ並木」、「海津大崎」を通って湖東に回り、南下して琵琶湖大橋を通って湖西、艇庫でバルサンを渡して帰宅。というコースを描きました。初めての上記3ヶ所が、魅力的でした。別ルートとして、大阪府道r733で北摂山道を向日市に抜け、京都を経てR367鯖街道を北上して「熊川宿」に至るも考えました。ところが、当初くもりだった日曜日の天気が、少し悪化し、更に天気が悪そうな近畿北部や山道を通るルートだったので、練習参加に変更しました。キャプテン君の連絡では、7時半出艇ということなので、6時に家を出なければなりません。普通なら目が覚めてる時間だけど、遅れてクラブに迷惑を掛けてはいけません。「目覚ましをかけて」とも思いましたが、気合で起きることにして、5時半起床を強く念じて寝ました。さすがに僕です。4時半に目覚めてしまいました。NHK教育TVの「サイエンスゼロ」を見終えてから眠りについたのに、気合が強すぎました。眞鍋かをりさんがアシスタントの時からご贔屓していますが、安めぐみさんに変わって始まる時間が早くなっても、最後まで見ることはなかなか出来ない番組です。いつも途中で眠ってしまいます。安さんに変わってイマイチだなあと思っていたのですが、最近は「めぐみの一歩」に、ちょっと悩殺され気味です。トイレでゆっくり読書して・・・海音寺潮五郎の「平将門」が面白すぎます。ぬるい朝風呂を楽しんで、5時過ぎに家を出ました。これでは早過ぎるのですが、1つの計画が頭にありました。「宇佐山登山」です。宇佐山は、艇庫の最寄り駅JR「大津京」に近い「近江神宮」の裏山です。ここは、織田信長と本能寺で運命を共にした小姓・森蘭丸他数人の森兄弟の父親・森可成の戦死した場所です。山頂に「宇佐山城」を構えていました。森戦死後、明智光秀の持ち城になり、坂本城を作って廃城になりました。信長は、あまり好きではない武将ですが、森可成は、僕の名前と読みが同じなので、親近感がありました。清和源氏の末裔で光秀と同じ美濃の土岐氏系です。本姓源氏という一目置かれる家の主です。土岐氏に使えていましたが、斎藤道三に土岐氏が滅ぼされてから信長に仕えました。柴田勝家同様信長譜代の武将です。信長の尾張内の織田一族対決から功のあった譜代中の譜代です。だから蘭丸兄弟が、信長の側小姓に加えられたのでしょう。信長は、中世の古い秩序を打破した武将です。旧秩序は、室町幕府の治世能力低下とともに、公家のピンハネ、藤原氏などの有力公家・寺社などの私設荘園の税免除により、一般農民はより重くなり税で苦しんでいました。「楽市楽座」のように、規制緩和して人々が自由に行動するのを目標にしていたように思われます。天智天皇の大化の改新で、公地公民制が確立したはずなのに、無税の恩恵を受けた寺社や有力公家は、無税の私設荘園を広げていきます。農民は、開墾した農地を、積極的に公家や寺社に寄進し、土地使用料である税の軽減を図ります。藤原氏に寄進された荘園には春日神社、八坂神社に寄進すれば八坂さんが、その荘園に勧進され・・・、事が起これば、傭兵やお抱えの武士団や僧兵・神社兵が急行します。無税により、多数の武装僧侶や傭兵を抱え自己荘園の防御や拡大に精力的な旧寺社の勢力は、ゴロツキを僧として抱え市民から略奪したりやりたい放題。徹底的に叩き潰す信長のやり方と対決するのは必然です。難攻不落で城と見紛う石山本願寺の後ろ盾で、当時中洲だった摂津野田や福島で起こった反織田勢力と織田軍主力が対決している時に、信長包囲網を作っていた浅井朝倉連合軍、比叡山延暦寺軍などが、湖西を下って信長の背後を突こうとしました。ここで浅井朝倉への押さえとしてここに城を構えていた森可成が、果敢に比叡山坂本に出て防戦します。3万対1千と言われています。多勢に無勢、結局総大将討死という結果になりますが、ここで時を費やし、浅井朝倉軍は時を失い、信長は延命します。強固に防戦していた主を失った宇佐山城は、摂津から転進してきた織田主力の援軍到着まで持ちこたえ、陥落を免れます。当時、天命をまっとうする戦国武将は少なかったのでしょうが、森可成はある意味武将として誇る素敵な死に場所を得たとも言えます。姫路城に代表される平和な江戸時代の平城の豪華さも魅力ですが、僕には明日の命も知れない戦国武将の山城の夢の跡に、より哀愁を感じます。こんなのを想像していたら、ワクワクしてしょうがありません。えらく前置きが長くなったけど、せっかくの機会を得たので、登ってみることにしました。事前の調べでは、ここには「宇佐神社」があり、僕のような貧脚・山道素人でも、安全に容易に到達できそうです。いつものように、名神・湖西道を経て、JR大津京駅の方から近江神宮までやってきました。大津京から近江神宮までの短い道沿いに、大津京遺跡が点在しています。空き地には謂れが立っています。AD645年、大化の改新で今日の天皇制の土台を築いた天智天皇(中大兄皇子)の作った都です。近江神宮の手前の小川の前で山側に曲がります。そこには目指す宇佐神社の道案内が立っていました。細い道を少し上ると、すぐにお宮が見えました。「ここだな」と思って、広くなってるところに路上駐車。「さあ」と思ったら、宇佐神社への道案内が別の方向を向いています。道案内に従って、近江神宮横を流れる川を渡り、神宮裏山にかかります。かなりの急勾配の参道です。舗装されていますが、こんな道を車で上りたくありません。横に民家があり、車も停まってるのに驚きました。
2010/07/06
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