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フジの「ザ・ノンフィクション わたし第二夫人になりました」をビデオで見る。この世の楽園と呼ばれるバリ島で知り合った現地の男と日本人女性が第二夫人という資格で結婚する。第二夫人として同じ家で寝起きしていれば、当然、第一夫人との確執が生じる。第一夫人は、第二夫人のパソコンに汚水をぶちまけ、マットレスを引き裂き、めちゃくちゃにする。第二夫人は、怖い怖い、帰りたい帰りたいと震えている。子供もできてしまったし、負けず嫌いな性格もあって、帰国できないようだ。お金がそうとうからんだ結婚である。彼女も積極的にお金で愛情を獲得しようとする。第一夫人が若くて美しいバリの女だけによけいにお金に頼ってしまうのだ。彼女のお金で家は改築され、旦那は小遣いをもらっている。第二夫人と結婚した途端に旦那はホテルの従業員の仕事をやめてしまった。第一夫人は美術館に勤めているし、貧乏ながら暮らしてゆくことはできる。だが、彼女が日本で貯めたお金は底をつこうとしている。金の切れ目が縁の切れ目でだんだん周囲は彼女に対して冷たくなっている、と彼女は感じている。彼女の実家は特別、裕福なわけではないが、頼るのは親しかいないので、父親をバリ島に招く。この展開は、制作者側の差し金ではないかと邪推する。この手のノンフィクションは、やたらと親子や夫婦の情や確執を描こうとする。そうすれば、視聴者を引きつけるドラマが撮れるからだ。バリ島の日常などテレビもラジオもない退屈な生活で、映像に耐えうるのはせいぜい村祭りぐらいなものだ。父親は粗暴な人で彼女とは確執がある。バリ島の人を「土人」と呼んで彼女が激怒する。建築現場で働く荒っぽい気性の人だが、根は陽気で単純で、さして悪気があるようには見えない。彼女の方は、自意識が過剰な性格になっていて、このあたり、日本の現代の親子の価値観の違いがよく現れている。現在、六十代ぐらいの世代は、働きづめの人生で、娘が固執する幸福という精神的なものがおよそ理解できないのだ。まるで言葉がかみあわないので、お金を渡すぐらいの愛情表現しかできないが、彼女の方は、それでは満足できない。父親の方も彼女一家に三時間も待ち合わせ場所で待たされてブチ切れる。家族の前で彼女は土下座してあやまる。この土下座も芝居がかっていて、彼女がバリ島の家族の同情を買うためにした行動ではないかと邪推した。父親は単純なのでその計略にのってしまい、彼女の夫にも土下座させようとする。さすがに老いた母親や第一夫人の子供に土下座させるのは気が引けたようだ。それでも、金持ちをなめるな、と恫喝せんばかりの態度にバリ島一家は困惑する。そのくせ、老後の世話をバリの人たちにしてもらいたいようで、さかんに恩を売る。第一夫人と自分の娘をむりやり握手させようとする。第一夫人は悔しくて泣いてしまう。それでも父親が旦那の母親に5千円札を握らせると、母親は満面の笑顔で感謝する。バリの5千円はかなりの大金なのだろう。彼女の部屋には、日本の少女漫画と、日本から連れてきた猫、あとはパソコンがある。その部屋で第一夫人の帰宅に怯えながら一日を過ごすのである。家族への呪詛めいた独り言をつぶやく様子は、精神に変調をきたしているとしか思えない。テレビ的に凄い絵が撮れたとスタッフは思っただろう。カサベデスではないが「壊れ行く女」という感じだ。彼女は、幸福な家庭を求めて、二十歳で家を出て、水商売やOLなど転々としながらバリ島にたどりついた。愛という名で欲望を社会的に美化してしまっているのではないか、と思うほど彼女の飢餓は強烈で、バリ島の旦那は対処することができない。バリの人たちの生活は、もっと地味で穏やかなもののようで、日本のような過剰な欲望を生産する先進国社会で育った人間は理解不能のようである。バリの男は金で買うことができる。だが、金が尽きれば愛情は幻となって消え失せる。幻から醒めた現実を認めようとせず、女はこれからも頑張ると力強く決意を語って番組は終わったが、続編が撮られることは確実だろう。かなりインパクトの強い絵が撮れている。負け犬論争が話題になったが、この人はいちおう結婚して子供もできて「勝ち組」のはずである。それがここまで無様な姿をさらしているのだ。負け組とされた人たちは彼女を見て喝采するのだろうか。単純に勝ち負けを決められないのが人生というものなのだ。
2004年10月04日
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ドストエフスキー、『地下室の手記』(江川卓訳)、新潮文庫、1969年。「ぼくは病んだ人間だ……ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない人間だ。ぼくの考えでは、これは肝臓が悪いのだと思う。」という書き出しで始まる。昨日のウィンドサーフィンの爽やかな彼も肝臓を病んでいたが、えらい違いだ。かたや太陽と海、かたや地下室や売春宿。男は、「意識は病である」「苦痛は快楽である」「人間は破壊と混沌を愛する」といった思想を書き付ける。マゾヒストであり、サディストでもある。 友人たちの集まりでは、嫌味ばかり言って疎んじられ、そうした扱いにさらに腹をたて一触即発の険悪な雰囲気になってしまう。そうでありながら、みんなで売春宿に行くという話になると、友人に金を無心する。意識が内向して控えめになるタイプもいれば、彼のように攻撃的に鬱屈する場合もある。売春宿では、売春婦に説教をする。この説教もかなり嗜虐的なもので、ドストエフスキー独特の長広舌がえんえんと続く。地下生活者の説教のなかでは、別の人間と人間とのやりとりが現れ、聞いている方はあっけにとられてしまうだろう。一人朗読劇が突如として開始され、複数の人格が戦いはじめるのだから。 説教プレイでサディズムを満たすと、こんどは男はいきなり泣き出し、女と抱き合って互いに涙を流す。ラスコーリニコフとソーニャの関係のような、売春婦が聖女となるような転倒が生じる。こんなにもひどいことを言ってしまった自分を許してくれ、と跪く。なんとも勝手な男だと思うかもしれないが、この女にはそうは映らないようだ。自分と同じように可哀想な人なのだ、苦しんでいるのだ、とシンパシーを感じたのかもしれない。男に渡されたアドレスをたよりに女は男の家を訪ねる。そこで再び男の長広舌の説教が始まる……。 およそ月曜九時のドラマにはなりえない話である。自らの病んだ醜い部分をえぐりだし、ひりひりするような苦痛に倒錯した快楽を感じる。直情行動型の人間でないかぎり、自意識の肥大化に悩まされる危険は誰しも存在する。病的に繁茂してゆく自意識の森は、書くにせよ語るにせよ言葉にされるかぎり、そこには統語的な筋道がたてられ、一つのまとまりを形成する。それを読むことも、彷徨する意識に対象を与えてやる操作である。自らの病的な行為を言葉で説明しようとする努力が語り手に見られる限り、ある種の誠実さがみられる。問題は、言葉にすることもないままに殻に閉じこもってゆく形で自意識を繁茂させてゆくことだろう。日本の私小説に顕著な自意識の文学という近代文学の系譜は、小説の形式としては古びたのかもしれないが、症候としてはなんら解決されていないどころか、ますます現代性を帯びてきている。
2004年12月13日
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テレビに立川談志が出ていた。市川染五郎が相手役だ。染五郎は談志を師匠とあがめているそうで「古畑任三郎」でも噺家の役で出ていたのを思い出す。談志を前にしてすっかり恐縮してしまっており、木偶の坊と化していた。周囲の顔色をうかがって機敏に反応することでのしあがってきたような人じゃないから、ボンボンの染五郎にはこういうイジクリの仕事はあわないのだ。浅草キッドの方が番組としてはおもしろくなったはずである。なお悪いことに、竹中直人の寸劇が何回も挿入されていた。このコントがまったくつまらない。立川流の若手が書いたコントなのか知らないが、つまらない落語のようにつまらなかった。テレビ東京の伝統なのか、時間を埋めるコンテンツが必要だったのか理解に苦しむ。染五郎相手のトークでは番組にならないと判断したのか、制作サイドは談志を台湾に連れて行き、料理を食べさせたり、動物園で動物と対話させたりしていた。悪い意味でのシュールでお粗末な番組になってしまっていた。これでは初めて談志を見た若者は、なんてつまらないジジイなんだ、偉そうにしやがって、と反感を持ったことだろう。私がリアルタイムで経験したのは、ビートたけしの全盛期で、それに比肩したと思われる談志の黄金時代は不幸にして知らない。CDの談志の落語全集や著作に触れることで、さぞや凄かったのだろうと想像するだけである。まず記憶力が凄い。噺家だからアタリマエだと言われそうだが、落語全集をぶっ通して聴くと圧倒されるのである。記憶力+再現力。それこそ憑依の芸だと言えるだろう。語りのドライヴ感がファンキーでトランス状態へといざなうのだ。鋭い言語感覚にひねりすぎるほどひねる思考力、それを下からささえる憤怒のようなどす黒いパトス。極論かもしれないが、(談志の)落語でげらげら笑おうと思わない方がいい。現代では落語の笑いというのはウケないと思う。むしろ立川談志は、アウトサイダーの思想家として評価すべき人である。日本思想史の異端児だ。一言で言えば「業の肯定」ということであり、談志の笑いとは業を笑い飛ばすスケールのでかさ、シュールなポエジーにある。芸人でもあるので、煙草を吸いながら癌の会見をするという露悪的なところもある。昼間のアテネの町で灯をともしながら「正直者はいないか」と探し回った古代ギリシャのディオゲネスのようである。本質的に語りの思想家で、著作も語りのリズムとスピード感に貫かれている。要するに、談志とテレビはもはや合わないのだ。本人も以下のように書いている(『生意気ざかり』、講談社、1999年。)「『テレビに芸はいらない』んだ。あったとしたらそれは「白痴番組としての芸」が必要なのであって、落語ひとつとっても文楽、円生の芸より、林家三平のほうがテレビでは、よほど面白い。そして、それはもはや日本のテレビにおいては決定的なものなのだ。ガタガタ言っても始まらない。ひとにぎりのオリコウは、もはや多勢のバカの前にはひとたまりもないのだ。中間層なんてものはない、テレビにおける大衆。この傾向は今後ますます激しくなっていくだろう。ならいっそ、「みんなでバカになっちまおう」「白痴番組を育てよう」「どれが一番バカバカしいか、みんなで見つけて応援しよう。そんなことってイキなもんだと思いませんか。そうして見ていると、テレビってナァ楽しいもんですぜ……(1966年)」。
2004年01月26日
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