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( 初代 ) 大友能直 ( よしなお ) は右大将 ( 源 ) 頼朝公の息子で上野國(群馬)の平氏の利根(大友経家)の娘を頼朝公が寵愛し懐妊させ、斎院次官の大友親 義 ( 中原 親 能 ) に預け、誕生した御曹司を 市 法師 と名付けた。
( 市法師が ) 9歳の春の時に頼朝は箱根へ参られ、親 義 は扇で顔を隠した女性を連れ頼朝公の御前に参り、頼朝は(彼女が経家の娘と)察し市法師殿を召し出し、仕官させた。
その後、曽我兄弟が仇の工藤祐経を討取ったとき頼朝公は鎧をつけ出陣したが11歳の市法師が背中にとりつき「君は征夷大将軍なのだから、このような夜討ちに軽々しく動くべきではありません」と説得した。
頼朝公も「もっともだ」と留まった。
その後、 ( 頼朝は能直を ) 幼少なのに只者ではないと感じ、豊後豊前を与え、 豊前 守左近将監 能 直 と名乗り 官位は従五位下となった 。
大友は平氏だが頼朝の御子なので源の氏を与えられ源氏となった。
こうして能直は豊後國府内に下着し 累代永年、今の 義 鎮 ( 宗麟 ) 公まで 18代 、め でたく栄えた。
ここに大友左近将監従五位下 ( 上か? ) 藤原朝臣能直。
俗姓は大職冠より13代の後胤、 大友左近将監 能成の息子で斎院次官親能の養子である。
実 は右大将 ( 源 ) 頼朝公の息子で、母は上野國(群馬)の平氏の利根(大友経家)の娘を頼朝公が寵愛し懐妊させ、 大友能成に預けたという。
承安 2 年に誕生し稚名を 市 法師 という。
建久4年に 豊後豊前を賜り、 豊後に下った 。
その理由は頼朝の弟、義経が平家を亡ぼし、代官として帝都を守護したが、佞人のため兄弟は不和となって出羽陸奥の領主、佐藤秀衝を頼ったが ※ 打つことになった。その使者が能直だった。
能直は 18 歳だったがはなやかないでたちで 300 騎を率いて奥州康衝の館で綸旨を渡した。
(中略)
22才で豊後に下り、貞応 2 年 11 月21日 (27 日か ) に 52 歳で逝去した。