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2019.08.18
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カテゴリ: 大友宗麟
大友宗麟は急に失踪したという話があります。
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義鎮公 女色に耽りたまう事

義鎮公は幼少の時より政道正しい大将で儒学にも精通していたが、昔の判例通りに仕置きをし、 ( 神罰仏罰などの ) 怪異を信じなかったため、やがて女色に溺れ、二十歳前後の女性や踊り子を際限なく召し寄せた。

身分が賤しくても美人を差し出せば機嫌よく財産を与え、都より楽の役者を呼び、酒宴乱舞、管弦詩歌にて日々を過ごし好色に傾き、費用は全て万民の苦しみとなり侍の功績は女にかすめ取られた。

これは傾国の元で『 ( 義鎮公は ) 礼儀を忘れ好色に傾き ( 中国の ) 晋の石季倫に成果て豊後は金谷園となるようだ』と眉をひそめない者はいなかった。

戸次伯耆はこれを悔み、乱行を止めようと日々登城したが御簾中は入れない場所だったため(戸次は)踊り子を用意し日夜自宅で踊らせた。

義鎮公は、月見花見酒宴乱舞が大嫌いで踊りが好きとは思えない戸次の行動を聞き『これは自分の為に用意したのだろう』と見物に出た。

( 義鎮を見て ) 戸次は喜び『みつびょうし』という踊りを三度踊らせ、機嫌がよくなった所で意見した。

「恐れ多い事ですが願わくば行状をお正しください。御屋形様は若くても ( 国が ) 事故なく治まってますのは、偏に昔の御威光があるからです。それが政治を投げ打ち御簾 にこもり、善い事も悪い事も聞かないのでは虎視眈々と再起を狙う毛利が喜びます。義鑑公の時のように戦乱が始まるのは勿体無い事です」と涙して訴えると(義鎮は)「ありがたし」と感心した。

七夕には例年の儀式で御祝いを行い 、豊後国中の人がこれを悦ん だ。

 という話です。
そして、この浮気に奥さんの奈多夫人は怒って罰が当たるよう僧に命じて祈祷させたため
宗麟は失踪する話があります。

義鎮公の不行儀を妻は深く憎み、愚かにも調伏しようと国中の社僧山伏を集め昼夜をかけて祈祷を行ったので「何の祈祷だろう」と人々は噂した。

これが義鎮の耳に入り「皆成敗すべし」と言ったが吉岡三河守が止めたので(僧達を)国から追放した。

その後義鎮公が姿を消すという事件が起こり、家臣たちは国中を訪ねた所、府内近くのこみ浦という場所のとても人が住んでいなさそうな庵で供もつれず佇んでいた。

「何故このようなところに?」と問うと「紅葉の景色に心奪われ気が付いたらここにいた」と答え「府内から拠点を変えあかの江、上の原に移住する」と言った。家臣は府内に連れ帰ろうとしたが結局上の原に住んだ。しかし探題の住む場所ではないので臼杵の丹生島に移り剃髪して宗麟と号し、家臣も思い思い法体となった。回復した宗麟は府内に帰った

ですが、フロイスの日本史を読むと
宗麟は奈多夫人と離婚します。(日7P119)
 性格の相違から結婚生活が苦痛だったが子供や親族に配慮して彼女に同調していた。
定年時の熟年離婚の理由みたいな事が原因だったとフロイスは記載しています
 カトリックは離婚を認めてないので、改宗する前に分かれてしまえという駆け込み離婚です。
 これに対して彼女の娘たちや親類が急遽臼杵に来て、重大な不都合が生じること、彼女については宗麟の気に食わない習慣を改めさせる。と説得しましたがこれを拒否。
 ずっと我慢して、隠居したら離婚しようと計画していたのなら、やっと42km走り終わったマラソン選手に「待遇を改善するから、まだ走り続けてくれ」と言われたようなものです。説得は無理でしょう。
 奈多夫人は自殺未遂をしたり、仏神に多くの供物と生け贄を捧げたり、
僧侶から、再婚相手を呪うためにガマ蛙の目に熱した鉄を突き刺したりを勧められた
とフロイスは記述します。(日7P122)

これがおそらく、夫人の祈祷でしょう。浮気が原因とも言えますが、女好きというより
夫人が恐妻だったのが原因だったようです

また、頭がおかしくなって失踪した。という話ですが、宗麟がキリシタンに改宗した際に
「あれだけ頭の良い太守が何故このような事をしたのか理解できない」
勉強のしすぎで頭がおかしくなったのだろう 臼杵の五味浦に隠居 しています。

つまり、1578年の出来事をつないで1562年の話に変換し、
奥さんが宗麟の再婚相手を呪った儀式を、
浮気が原因で宗麟を呪った。と妄想で書いたお話が誤解されたまま広まって
宗麟は好色だというイメージが広まったものと思われます。




なお、この時の踊りが鶴崎踊りの元形と勝手に判断されてますが
大分市の見解は、 証拠はなし


 だいたい、本当に道雪がよんだのなら、彼の名前を取って「伯耆」という名前になるはずです。

 むしろ左衛門という名前がつく場合、鶴崎扇子踊りみたいに、鎮魂のための踊りとして呼んだか
 鶴崎の領主、吉岡左衛門大夫長増が由来でしょう。

 鶴崎の住民は江戸時代の初めに離散していたそうで、踊りを復活させたあとに大友記の記述を見て結びついたという説もあります。
 とりあえず、宗麟が女好きとか失踪したという話は妄想小説が出典と言う事が広まれば幸いです。

澤瀉秋子 / 鶴崎踊り(猿丸太夫)/粘土節 [カセットテープ]





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最終更新日  2019.08.18 21:34:35
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