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義鎮公は幼少の時より政道正しい大将で儒学にも精通していたが、昔の判例通りに仕置きをし、 ( 神罰仏罰などの ) 怪異を信じなかったため、やがて女色に溺れ、二十歳前後の女性や踊り子を際限なく召し寄せた。
身分が賤しくても美人を差し出せば機嫌よく財産を与え、都より楽の役者を呼び、酒宴乱舞、管弦詩歌にて日々を過ごし好色に傾き、費用は全て万民の苦しみとなり侍の功績は女にかすめ取られた。
これは傾国の元で『 ( 義鎮公は ) 礼儀を忘れ好色に傾き ( 中国の ) 晋の石季倫に成果て豊後は金谷園となるようだ』と眉をひそめない者はいなかった。
戸次伯耆はこれを悔み、乱行を止めようと日々登城したが御簾中は入れない場所だったため(戸次は)踊り子を用意し日夜自宅で踊らせた。
義鎮公は、月見花見酒宴乱舞が大嫌いで踊りが好きとは思えない戸次の行動を聞き『これは自分の為に用意したのだろう』と見物に出た。
( 義鎮を見て ) 戸次は喜び『みつびょうし』という踊りを三度踊らせ、機嫌がよくなった所で意見した。
「恐れ多い事ですが願わくば行状をお正しください。御屋形様は若くても ( 国が ) 事故なく治まってますのは、偏に昔の御威光があるからです。それが政治を投げ打ち御簾 にこもり、善い事も悪い事も聞かないのでは虎視眈々と再起を狙う毛利が喜びます。義鑑公の時のように戦乱が始まるのは勿体無い事です」と涙して訴えると(義鎮は)「ありがたし」と感心した。
七夕には例年の儀式で御祝いを行い 、豊後国中の人がこれを悦ん だ。義鎮公の不行儀を妻は深く憎み、愚かにも調伏しようと国中の社僧山伏を集め昼夜をかけて祈祷を行ったので「何の祈祷だろう」と人々は噂した。
これが義鎮の耳に入り「皆成敗すべし」と言ったが吉岡三河守が止めたので(僧達を)国から追放した。
その後義鎮公が姿を消すという事件が起こり、家臣たちは国中を訪ねた所、府内近くのこみ浦という場所のとても人が住んでいなさそうな庵で供もつれず佇んでいた。
「何故このようなところに?」と問うと「紅葉の景色に心奪われ気が付いたらここにいた」と答え「府内から拠点を変えあかの江、上の原に移住する」と言った。家臣は府内に連れ帰ろうとしたが結局上の原に住んだ。しかし探題の住む場所ではないので臼杵の丹生島に移り剃髪して宗麟と号し、家臣も思い思い法体となった。回復した宗麟は府内に帰ったですが、フロイスの日本史を読むと大友記を翻訳してから3年
2019年8月18日
【宗麟が失踪した】という話の元ネタが理解できました。
これ、単に隠居した時を江戸時代の作者が勘違いしただけでした!
失踪の後に仏門に入って正気に戻ったという話に騙されてました。
おのれ軍記物作者! pic.twitter.com/IcqUrBNfTK

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