上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は、江戸時代中期から後期にかけての米沢藩(現在の山形県米沢市周辺)第9代藩主です。その治世における財政再建と藩政改革の手腕から、「江戸時代屈指の名君」として非常に高く評価されています。
彼の主な功績と人物像は以下の通りです。
* 貧窮した藩の再建: 米沢藩は、かつて120万石の大藩だった上杉家が減封され15万石となっても、家臣の数を減らせず、莫大な借金を抱えて財政は極めて困窮していました。鷹山は17歳で藩主となると、この厳しい状況を立て直すため、生涯をかけて藩の改革に取り組みました。
* 徹底した倹約と率先垂範:
* 自ら率先して質素倹約を実行し、藩主の生活費を大幅に削減しました。日常の食事は一汁一菜、着物は木綿とし、奥女中も大幅に減らすなど、自らが手本となって家臣や領民にも倹約を求めました。
* 家臣に対しても具体的な数字を示して藩の窮状を説明し、身分を問わず改革への協力を求めました。
* 産業の振興と新事業の創出:
* 財政再建だけでなく、将来を見据えた産業振興にも力を入れました。
* 新田の開発を奨励し、自らも農村に出て鍬入れを行うなど、農業の復興に尽力しました。武士の一部を農村に移動させて開墾に当たらせるなど、身分を超えた協力を促しました。
* 米沢織の発展に寄与し、青苧(あおそ)だけでなく漆、桑、楮(こうぞ)などの植え付けを奨励し、鯉の養殖も始めるなど、地域の特産品育成と多様な産業の発展に努めました。
* 凶作に備えるため、非常時の食料となる野草や木の葉の利用法をまとめた手引書「かてもの」を編纂し、領民の飢餓を防ぐことにも尽力しました。
* 人材育成と教育の重視:
* 学問の大切さを認識し、藩校「興譲館」を再興させ、身分を問わず学ぶことができる環境を整えました。
* 恩師である細井平洲を学館長に招き、自らも学問に励みました。
* 「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉は、教育への指示に添えられた言葉とされています。
* 医療の充実:
* 優れた藩医を長崎や杉田玄白のもとに派遣して学ばせ、オランダの外科医療機器を購入して医学館「好生堂」に与えました。
* 藩内で薬を製造できるよう薬草園を設置し、領内7カ所に宿場医師を配置するなど、領民の医療体制の充実に努めました。
* 「伝国の辞」: 鷹山は35歳で隠居し、後継者に家督を譲る際に「伝国の辞」と呼ばれる君主の心得を贈りました。これは、「国家は先祖から子孫へ伝えられる国家であって、私物ではない。人民は国家の人民であって、私の私物ではない。このことをよく心に留め、政治を行うべきである」という内容であり、現代においてもリーダーシップの模範として語り継がれています。
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