真理探究と歴史探訪

真理探究と歴史探訪

2012年03月24日
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〔島前〕の「中ノ島」において、いわんや今回の「隠岐の島」周遊において、結果的に一番強く印象に残った場所は、「後鳥羽上皇御火葬塚」であった。

現在は宮内庁で管理されている 第82代 後鳥羽天皇の御火葬塚、これを映した写真が今回の掲載画像である。

歴史としては、「承久の乱により隠岐へ配流になった後鳥羽天皇は、在島19年後の延応元年(1240年)2月、60歳で崩御された。」と記録されている。

この塚の前で一礼した後、後鳥羽上皇の生前の行宮(あんぐう)にあてられた行在所跡に歩いて向かったのだが、私はそのおよそ100mの道中で不思議な体験をした。

その「御火葬塚」で一礼した直後から、なんだか急に心がウキウキしてきて、「形」と「数」の関係を模索しつつ、自分の心中で「足し算」が始まったのだった。

「この形とこの形を加えると、いくつになるのかな?」とか、「それでは、さらにこれを足すと?」などという、自分の頭のなかの自問自答のようなやり取りが続き、上皇の行在所跡に丁度到着した時に、「100」という「足し算」の答えを得たのだった。

何とも不思議としか言いようがないが、とてもスッキリした気分になったのを覚えている。

その時に脳裏に浮かんでいた「造形」は、かつてこのブログでも取り上げたことがあり、全体としては皇室の御紋である​ 《菊花紋章》の原型 ​と感じていた形代であった。





そのあたりの経緯を、ある資料から以下に引用すると・・・


後鳥羽天皇は、源平の戦いの際に「三種の神器」を平氏が持ち去ったため、神器が無い状態で即位せざるを得なかった。

後に、神器のうち、「勾玉」と「鏡」は戻ったが、本物の「剣」は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。

しかし、「剣」の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。

そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。

台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。

さらに、力で幕府を倒そうと「承久の変」を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。

その後、この《菊紋》は天皇を象徴する御紋となる。


・・・と、以上が資料からの引用部分である。


そして今、当時のことを反芻して俯瞰すると・・・もしかすると、あの時の「足し算」のメッセージは、後鳥羽上皇からの思し召しだったかもしれない・・・と感じる。

実はそれまで、その《菊紋》の原型たる造形に関する数は、私的には「50」と認識していた。



いずれにしても当時、現地で「100」という解答を得た私は、喜びに満ち溢れた心境で自転車のペダルを踏みしめ、時間ギリギリに帰路のフェリーに乗り込んだのを覚えている。


(※この造形を「100」と認識したとき、そこに観えてくる世界は、おそらく一般常識を覆す前人未踏の境地であり、これからの新時代を担う「秘鍵」に成り得ると感じるところである。)





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最終更新日  2018年05月28日 11時01分42秒


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