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正多面体(5種類のプラトン立体)の一つである「正12面体」は、一般に”空間を正5角形12枚で囲んだ凸型多面体”と解説される。以下の関連記事(☆)に書いたように、私の場合は一貫して”同じ長さの「軸線」”を用いて立体を構成するスタイルを続けてきた経緯もあり、「多面体」というより「多線体」という表現がふさわしい。さて本日の画像は、突然の”ひらめき”がキッカケとなり、一昨日から昨日にかけて制作した軸線構成による「正12面体」の拡大バージョン(縦・横・高さ=約60cm)を撮影したもので、本日が初公開となる。ちなみに冒頭画像と末尾画像に映る造形は、この拡大版の「正12面体」(素材は白色の”綿棒”を用いて制作した作品)を別角度から撮影し、色付けしたものだ。☆関連記事・・・「正12面体」における新たな内部の相互関係について興味深いことに、この「正12面体」の特別な構造性に関しては、以下の関連記事(★)で取り上げたように、今や常識となりつつある「ビックバン宇宙論」の矛盾を突く『正12面体の宇宙論』として、世界で最も権威のある英国の科学雑誌「ネイチャー」(2003年9月)に掲載されたことがある。いろんな意味で”締め括り”となる本日(2026年)4月25日(土)に、これまでより普遍的かつ本質的な造形表現となったこの”拡大版「正12面体」”を公開することができ、感慨ひとしおである。★関連記事・・・「正12面体」の宇宙論
2026年04月25日

2026年3月20日の「春分の日」は、福岡県糸島市に存在する「神石(しんせき)」と称する”磐座(いわくら)”を訪ねた。(※この「神石」は、同市内に鎮座する「神在(かみあり)神社」の奥に存在する。)そこで冒頭画像は、古代において”おおいぬ座”の一等星「シリウス」が地上に投影され、設営されたと思われる「神石」を撮影したものである。(ちなみに、この「神石」はアニメ『鬼滅の刃』に登場する”一刀石”に似ていることからSNSで話題となり、当日も訪日外国人を含む見学者が多かった。)お陰さまで当日は天候に恵まれたこともあり、この「神石」を訪れる前に糸島市域(古代では”伊都国”の範囲)の、地元では「筑紫富士」とも謡われてきた秀麗な山容の「可也山(かやさん/標高365m)」に登ることにした。そこで上の画像は、当山を麓から撮影した画像である。実はこの「神石」(神在神社の境内)が設置された背景に、この「可也山」の山頂を起点とする”シリウス方位(真南から東に約20度の方位)”があったことを、事前に地図上(下の画像)で確認していた。つまり「可也山」の山頂から見た”シリウス方位”(下の地図では桃色の直線)とは、当山の山頂を天体観測の起点とした場合に、「シリウス」が”真南から約20度ほど東に振れた方向から昇る方位”ということだ。よって「神石」とは、古代より”夜空で最も明るい星”(夜の太陽)とされ貴ばれた「シリウス」の地上投影地として、「可也山」の山頂から見た「神在神社」の境内が古代人により選別され、「シリウス」を象徴する”球状の磐座”が設営されたと推察するところである。「可也山」の山頂へは、その南麓から登り始めたのだが、その尾根道のここかしこに目を引く磐座が存在していた。中でも最も印象に残ったのが上の画像に映る巨石である。この巨石は当山の八合目付近に存在しており、これに出会った瞬間に夜空の天頂に最も近づく一等星「カペラ」を感得したのであった。そこで、例えば「冬の星座」を彩る星々の「カペラ」と「シリウス」の関係をいえば、「可也山」の山頂から「シリウス方位」に存在する「神石」の方向を見遣り、「シリウス」がその位置にきた時に天頂を見上げると、そこに「カペラ」が輝いており「冬の星座」の全体像を展望できるというわけだ。上に並べた二枚の画像は、山頂の標識(上)と山頂近くに鎮座する「可也神社」の由来書(下)を撮影したものだ。当社の主祭神として「神武天皇」が祀られたことに当初は驚いていたのだが、”古事記”と”日本書紀”の編纂の詔勅を出した「天武天皇」と重なり観えてきて、なぜか合点のいく自分がいたのであった。次に上掲画像の二枚は、「可也山」山頂の北方にある展望台から、日本海側の玄海灘方面を撮影したものである。その上方は北方の玄海灘に広がる海原を撮影したもので、その画像中央の海上には、遠方に「小呂島」が映っており、当山頂から見ると反転した「シリウス方位」の”真北から約20度ほど西に振れた方位”に存在する。つまり「小呂島」⇔「可也山」⇔「神石」は、天体「シリウス」の観測に纏わる”三点一直線”の関係にあるということだ。そして上掲画像の下方は、展望台から東北方面を撮影したもので、その中央部に映る細長い島は、博多湾に浮かぶ「能古島」で、その左側に浮かぶ島は「志賀島」、そして右奥に映るビル群は博多区の繁華街である。加えて上の画像の、展望台から見て真東の方位(画像では右隅となる)に、「延喜式神明帳」に記載の”伊都国”の総社『志登(しと)神社』(主祭神…豊玉姫命)が、かすかではあるが映っている。実は現在でも、その『志登神社』の境内地あたりから、「シリウス方位」を基準とした”碁盤の目”のような格子状の通りが存在しており、その痕跡を見出した経緯は以下の関連記事に詳しい。※関連記事・・・シリウス信仰の痕跡 | 真理探究と歴史探訪 - 楽天ブログさて、ゆっくりと約5時間かけて「可也山」の登山と周囲の散策を堪能した後、午後4時ごろに「神石」に到着し撮影した画像が上である。その豊満な風情の貫禄あふれる「神石」との響き合いを楽しみ、噛み締めながら周囲を巡るのであった。するとフト…夜になれば「神石」の存在するこの場所から「シリウス」を見ることができるかも…という思いが浮かんだので、さっそく携帯の搭載アプリ「星座表」で確認すると、天候次第ではあるが可能性が高いことが判明したのであった。時間調整ということで近場の温泉に入浴し夕食を済ませてから、再び「神石」の存在する現地に向かい、「神石」の上方に「シリウス」(画像の中央に光る星)を見出した感動の場面を撮影した画像が上だ。そこで上に並べた二枚の画像は、左側が当日の午後4時頃、そして右側が午後7時頃に、ほぼ同じ角度から撮影したものである。まさかこの「シリウス」を象徴する「神石」の存在する聖地にて、おおいぬ座の一等星「シリウス」が実際に展望できようとは、まさしく「青天の霹靂」であった。さらに上の画像は、「神石」の上方に開いた暮れ泥む天空を撮影したもので、(ちょっと分かりづらいのだが)画像の下方中央の少し左側が「シリウス」、中央部の左寄りに「プロキオン」、中央部の右寄りに「ベテルギウス」と三つの一等星が形成する『冬の大三角』、その左斜め上に「アルデバラン」が映り込んでいる。そして下の末尾画像は「神石」を離れての帰り道に、夕暮れの西方に並んで見えた「三日月」と「金星」だ。この度の”春分行脚”の一部始終は…天空に見守られていた…と感じたところである。
2026年03月24日

今回は年末年始にかけて散策し、下の関連記事にある「山口と九州を貫く南北軸」の軸線に沿うかのように配置された三種類の「石造物」を紹介できればと思う。※関連記事・・・祭祀の原型『いわさか ひもろぎ』に触れて〈南北軸〉を俯瞰するそこで冒頭の画像は、上の関連記事に掲載した磐座の鎮座する神社から、車で約10分のところに存在する古代人により意図的に「円形状」(半球状)に加工されたであろう「石造物」を撮影したものである。次に上に並べた2枚の画像は、まるで”鏡”のように「円形状」にカットされた風情が確認できるよう、段階的に角度を変えて撮影したものだ。そこで興味深いことに、この「石造物」が存在する場所を紹介してくれた知人の話では、(当地域における展望の良い場所から)これまで経験したことのない明確で印象的な”UFO”(未確認飛行物体)が視認できたとのことで・・・その背景には、この「石造物」があったからではないか・・・ということである。実は、冒頭画像の加工された岩石を見て私自身が瞬時に思い出したのは、下の関連記事から抜粋した『太刀割石』を映した岩石(上の画像)であった。そのカッティングされた岩石の大きさがほぼ同じで、その全体的な傾き加減も似ていたからである。※関連記事・・・『太刀割石』の斬新な切口そして次に紹介する「石造物」は、「正方形」(正四角形)を象った石組みを垂直に立てたかのような「石門」(上下の画像)である。シンプルだが実に説得力のある幾何学的な配置である。この高さ約2mの「石門」を潜って向かう奥の高台には祠があるので、この「石門」は”神社祭祀”という観点からは、ここから御神域とする「鳥居」の意味合いが汲みとれた。そして末尾となる最下の画像は、この地域の重要地点を指し示す「石標」を撮影したものだ。この垂直に屹立する「石標」は、これまで”磐座巡り”をしてきた私的感覚からしても、確かにこの地域の”要所”に屹立していたのであった。以上、三種類の幾何学的な「石造物」を紹介したが、それぞれ500mも離れていない”特定の場所”に、おそらく意図的に設営されており、古代より当地域の人々に大切に守られてきた歴史を感じたところである。
2026年03月19日

本日2026年3月3日は、本来の「日本の正月」ともいうべき「旧小正月(旧暦1月15日の満月)」である。そして奇しくも本日は、日本列島の全域で『皆既月食』が観測できる日だ。▼月食の時刻(全国共通)部分食の始まり 3日(火) 18時49.8分皆既食の始まり 3日(火) 20時04.0分皆既食の最大 3日(火) 20時33.7分皆既食の終わり 3日(火) 21時03.4分部分食の終わり 3日(火) 22時17.6分そこで本日の冒頭画像は、3月3日の目出度い「ひな祭り」ということで、”ひな壇飾り”の最上段に置く「男雛と女雛」を模して、あるいは日本神話の「夫婦神」を代表する「イザナキとイザナミ」を象徴するかのように、自作の【五十鈴(いすず)】と題する「左巻きと右巻き」の二つの造形を並べて撮影したものだ。この「旧暦」に根差した本日の『旧小正月と皆既月食』を契機に、日本人の”目覚め”に向けて共に響き合っていきたいものである。※関連記事・・・明日は「旧小正月」※関連記事・・・『旧暦』のすすめ
2026年03月03日

本日の2026年2月19日は、「二十四節気」では”雨水(うすい)”の期間(今年は2月19日から約15日間)の初日で、言わば”縄文系譜の太陽暦”において、昨年10月23日の「二十四節気」では”霜降”の初日から始まり、一陽来復の「冬至(12月22日)」を経由した〔約120日間の冬期〕を終え、いよいよ『春』の始まる日である。そこで冒頭画像は、かつて何度か取り上げてきた地元の「岩屋山」(山口市秋穂二島)の山麓にある「鏡岩」より、今朝の朝日が昇る景観を撮影したものだ。今回この2月19日の”日の出”を、当地で観測するのは初めてで、あいにく今朝は薄曇りではあったが、朝日の光芒を一瞬でも体感できたのは有り難く、感慨一入であった。そもそも毎年の2月19日頃は、古代より日本を代表する第一次産業の「漁業」が始まる月日とされ、そして毎年の10月23日頃は年間の「漁業」を終える月日とされてきたようだ。それは西日本の主に日本海側の海域で、縄文時代から盛んに行われてきた”クジラ”を捕獲する《鯨漁》(クジラリョウ)に由来するということである。そのことは、ここ「岩屋山」に近い”秋穂(あいお)地区”にある「大海山」や「火ノ山」の山稜や山麓に、その「鯨(クジラ)」を人為的に象った巨大な「鯨岩」が、二つも鎮座していることからも推測できよう。さあ、時代の流れからしても一大転機を告げる『春』が始まった。大いに楽しんでいきたいものである。※関連記事・・・10月23日…『冬』の始まり※関連記事・・・「冬至の朝日」を浴びて…※関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編)
2026年02月19日

ふるさとの「仁壁神社」(にかべじんじゃ/山口市三の宮)に自作の『大玉』(白色の立体作品)が奉納・披露されたのは、今から四半世紀前の〔2001年2月3日〕であった。そこで昨日の令和8年2月3日より斎行の「節分・立春大祭」に参拝し、当社の拝殿の天井から吊り下がる『 高天原(たかあまはら)』(現代では”宇宙”という意味)と名付けた自作の『大玉』を…あれから25周年!…ということで撮影した画像が冒頭である。そして上の画像は拝殿の背後から、風に揺らぐスケルトンな『大玉』を撮影したものだ。この直径約70cmの大きな立体作品が、天井があるにしても台風等を含む風雨にさらされる環境下にあって、この25年間は何度か”化粧直し”はしたものの一度も落下せずに維持できたことは、この複合立体の”構造の安定性”を証明してみせたということができよう。(※作品の素材は生活用品の【綿棒】)☆関連記事・・・天空に輝く「星々」と、神社に祀られた「神々」との関係性、そして…思い返せば当社に奉納された『大玉』とは、上の画像に映る《18種類の基本立体》(1998年に自作の作品群を並べて撮影した画像)の中央部に存在する一番大きな「大菱形20面12面体」という”準正多面体”の軸線構成であり、その内部構造に関しては私なりの”手探り”で全体を構成することのできた思い入れの深い作品であった。(※上の画像に映る「大菱形20面12面体」の”立体作品の現物”を当社へ奉納。)ちなみに、この山口市三の宮に鎮座する「仁壁神社」は、延喜式に記載された「周防国三ノ宮」にして、山口県の県央部にある(旧)吉敷郡(現・山口市の椹野川流域)の”総鎮守”である。あれから25周年!という長い歳月、当社にて自作の『大玉』が披露されてきたことに思いを馳せると、山口市に生を受けた者として自ずと込み上げてくるものがあり、感慨無量であった。そして末尾の画像は、山口県の玄関口である「JR新山口駅」(山口市小郡令和)の”北口”に併設された公共施設「KDDI 維新ホール」の前庭にある”三本の落葉樹”に、【天空に輝く星々】を模して飾付けした自作の造形群を撮影したものだ。この”隠れた撮影スポット”と噂される作品群の野外展示は、現地では今月の末頃まで観ることができる。☆関連記事・・・「冬」の”星まつり”
2026年02月04日

令和八年の年始に訪れたのは、神道祭祀の原型たる『いわさか ひもろぎ』(※)の神蹟であった。そこで冒頭の画像は、山口市吉敷に鎮座する「畑河内神社」の境内にある当神蹟を撮影したものである。※「いわさか(磐境)」とは”神聖な岩石であり「ひもろぎ(神籬)」とは”神聖な樹木”のこと。この高台に存在する神蹟から周囲を見渡すと、その四方八方を治める中心地として選定された場所であり、古代人によって予め加工された岩石の配置を計算されつくして組み合わされた形跡がうかがえた。この古式ゆかしき神蹟を知ることになったキッカケは、当日記で何度も提唱してきた「山口と九州を貫く南北軸」と、日本列島の”要”たる「富士山」と「本州最西端」を結ぶ軸線の”クロスポイント”を意識して、直観的に訪れた場所が上記の「畑河内神社」だったことに始まる。(その経緯は以下のリンクに詳しい)◎関連記事・・・浮上してきたクロスポイントの磐座御神前の正月飾りに残雪を装う本殿を、真正面から撮影した画像が上である。当社は14世紀に「宇佐八幡宮」より勧請とあるが、本来の御神体は冒頭画像に映る『 磐境 神籬 』と思われる。そして上の画像は、本殿の左側に存在する表情の豊かな磐座を撮影したものだ。これまで数多くの磐座を見てきたが、これだけ綿密かつ斬新な加工が施された磐座は、なかなかお目にかかれない代物である。さて上の画像(地図)は、上にリンクした記事の冒頭画像を掲載したものだ。そして下の画像は、上記の「クロスポイントの磐座」を中心とした”山口県と九州域”を拡大し、主要地点を示した地図である。特に今回、図示した「山口と九州を貫く南北軸」(青色の軸線)で注目していただきたいのは、その”南北軸”の南端に存在する「御鉾の窟 (みほこのいわや)」である。この「神武天皇」にまつわる神蹟の巨岩は、宮崎県日南市に鎮座する「駒宮神社」の本来の御神体と思われる。そこで、何故ここで「山口と九州を貫く南北軸」の南端に位置する「駒宮神社」の神蹟を取り上げたかといえば、それは単純に今年が”十二支”では「午年」であり、その「午」の方位は「南」という関連性からであった。さらに興味深いことに、この”南北軸”の北端は山口県萩市の「笠山」(日本で最小とされる噴火口の跡がある)であり、この「笠山」の噴火口(凹)が”女性性”を象徴するとすれば、”南北軸”の南端の「御鉾の窟」(凸)は”男性性”と見立てられるので、この「山口と九州を貫く南北軸」は「陰陽(凹凸)」を見事に備えた”南北軸”(青色の軸線)と認識できるのだ。(その経緯は以下のリンク記事に詳しい)※関連記事・・・由布岳(豊後富士)を展望しつつ・・・そして、前回の日記で公開した「立体九角形」に自身が触発されたのであろう・・・なぜか「九頭龍」を強く意識した際に、古代人にとって「九頭龍」の本質は”全天で最も大きな星座”である「うみへび座」と認識されていたことを思い出すのであった。それと同時に、その「うみへび座」の”尾”のところに輝く「南十字星」が、〔三種の神器〕の「草薙の剣」の本質であることも思い出すのであった。そんな妄想が渦巻く中で浮かんできたのは、上の画像(地図)の右側に添えた「有柄式銅剣」を撮影し剣先を下に向けたビジョンであった。まさに今の私の心中には、熱田神宮の御神宝「草薙の剣」と同型とされるこの「有柄式銅剣」(三雲南小路王墓の甕棺から出土した銅剣のレプリカ/伊都国歴史博物館 所蔵)が観えている。つまりこの銅剣の「柄頭」が”南北軸”の北端にある「笠山」の火口跡、「切先」が”南北軸”の南端にある「御鉾の窟」、そして”有柄”の”剣を握る部分”が「柄頭」の「笠山」から「鍔」の位置に当たる「御許山」(陰陽統合の聖地)までと観ているというわけだ。加えて古代においては、”南北軸”の「岩屋山」(山口市)の山頂から真南の夜空を展望すると、私の故郷「小郡(おごおり)」という地名の由来である「南十字星(草薙の剣)」が「御許山」の山上に見えていたのであった。☆関連記事・・・ふるさと『小郡』の地名由来、そして…(1)☆関連記事・・・ふるさと『小郡』の地名由来、そして…(2)ここで象徴的表現となるのだが、以下のリンク記事の”日本列島”を”金龍”と見立てたイメージも浮かんできたので・・・いよいよ「金龍(九頭龍)」が「草薙の剣」を持ち、よみがえる時を迎えた・・・と記しておきたい。※関連記事・・・金龍(日本列島)の龍頭と龍体の関係性最後に、この記事を書くにあたっては、昨年の11月に「富士山」の近辺を周遊してきたことと深く連動しており、本日の冒頭画像に映る「山口と九州を貫く南北軸」と「富士山と本州最西端を結ぶ軸線」の”クロスポイント”に存在する『いわさか ひもろぎ』と響き合ったことで、今回の記事に結実したと感じるところである。※関連記事・・・「富士山」周辺の歴史探訪(1)~(5)
2026年01月13日

昨年の「冬至」を過ぎた頃より、『ミロクの世』(物質的な豊かさと精神的な成長が調和した理想的社会のこと)の到来を如実に感じてきた。そこで、本日の正午にかけて完成した造形(上下の画像に映る立体作品)が、その【ミロク(369)】の数理展開を象る”形代(かたしろ)”である。ここで造形の簡単な解釈を試みるとすれば、「3角形」で形を成して動き始めた形状が、徐々に段階を経て「6角形」まで形成展開…これを例えれば昆虫の”蝶(ちょう)”の成長過程である”蛹(さなぎ)”の状態となり、その”殻(から)”を破り(”創造的破壊”を象徴する〔7角形〕)脱ぎ捨てて、”翅(はね)”を広げて天空を”自由”に飛翔する様が「9角形」(この造形の全体的な形状)となろう。この全体として”九角形”の立体造形を、平面図形の《日本の紋章》に例えるなら『十曜紋(とようもん/じゅうようもん)』が妥当である。日本の紋章学によると、「九角形」の「九」に中心の「一」を加えて「十」と数え、『十曜紋』(※)という名称になったということだ。(※)『十曜紋』…十曜紋は、”大きな星”の周囲に9つの”小さな星”を円環状に配置した家紋のこと。”星紋”の一種で〈天体信仰〉に由来する。今年の正月に公開した画像の「立体七角形」が暗示する「創造的”破壊(八開)”」を経て、いよいよ本日の『十曜紋』たる『立体九角形』の出現によって、《破竹(八九)の勢いで自由(十)の世界》へと羽ばたく【ミロク(369)の世】の時代の到来である。
2026年01月09日

令和8年(2026年) 明けまして おめでとう ございます \(^o^)/元旦に披露した”上の画像”に映る形状は、〔光〕を象徴する「立体七角形」の基本表現である。そして”下の画像”に映る形状は、その〔光〕へ向かう”開閉の門”を暗示する「立体六角形」だ。いよいよ時代は【 五六七(ミロク)の世 】へ向かい、すでに《 門戸 》は開かれたと視ている。※関連記事・・令和7年”元旦” おめでとうございます ヽ(^。^)ノ
2026年01月01日

日時が少し経過してしまったが本日の題目にある「展示会」とは、今年の10月中旬に福岡市に鎮座する「筥崎八幡宮」の御神前で開催された合同展示会のことであり、今回の記事はその展示期間中に訪れた場所に関してのものである。さて、その期間中に訪れたのは、かつて以下の関連記事に記した「金峰山(標高665m)」と、かつて当地を訪れ記事にしたことのある「拝ヶ石(おがみがいし)巨石群」、そして以下の画像地図にある「金峰山」と「拝ヶ石」を九州の西端とし、そこから”夏至の日の出方位”に向かう軸線に、なぜか再び沿うかたちでの行脚となった。※関連記事・・・「夏至」に動く(2)そこで冒頭の画像は、今回の金峰山登拝により山頂から展望した、雲海に浮かぶ「雲仙普賢岳(標高 1,483m)」を中心とする島原半島の景観である。前回は展望できなかっただけに感慨一入であった。次に上の画像は、「拝ヶ石」に向かう道中に”金峰三山”を撮影したパノラマ写真で、左側の「金峰山(一ノ岳…標高665m)」とその右側遠方に薄く見える山岳が「雲仙岳」、その右側の双耳峰が「二ノ岳(標高685m)」、そして右端の山が「三ノ岳(標高681m)」を撮影したものである。「拝ヶ石」の登り口にある駐車場に車を停め、緩やかな階段を含む山道を約200m登ると、上の画像に映る林立した「巨石群」が現れた。ここが、この山頂部の各所に点在する数々の巨石のメインとなる「拝ヶ石巨石群」で、以下はその解説文である。「 拝ケ石巨石群 」この巨石群は、金峰三山の「二ノ岳」に向かって”コ”の字型に立ち並び、最も大きな石は約9mの高さがあり、地元では昔から「拝ケ石」と呼び信仰の場とされてきた。近年、「ペトログリフ(岩面刻画)」の研究家により、この巨石群から岩に刻まれた古代文字と思われるものや方位計が回転するなどの磁気異常が確認され、古代の謎とロマンを秘めた「拝ケ石」に注目が集まっている。※下に並べた三枚の画像は、”コ”の字型に並ぶ巨石群のなかで、印象的な磐座を撮影したものである。上の画像は、当巨石群の前方に立てられた解説版を撮影したもので、上の絵図に振られた番号順に、それぞれの磐座を撮影した画像と解説文を以下に掲載した。1)方位石:この石は、頂上や拝殿(拝ヶ石巨石群)と「三ノ岳」を結ぶ”方位石”の役目をなしているといわれ、旅人に謎を問いかけるスフィンクスにも似ている。表面にはレリーフ状の模様と星座を思わせるベッキング穴があり、また強烈な磁気異常も感じられる。2)メンヒル(立石・鏡石):この石は、金峰山に向かい立つ高さ6m程度の立石で、綺麗な面を持つことから別名を鏡石ともいわれている。石の頭は3人ほどが乗れる広さで、そこに刻まれた十字線はちょうど東西南北を示している。また表面1mの範囲で方位計が2回転(720度)もする磁気異常を見ることができる。3)頂上石:この列石群は、6個の石が環状型にならびストーンサークルを形成している。最北の石が拝ヶ石山の山頂になる。東側の石の上面に古代ケルト系、また西側の石の上面にはシュメール系の文字が刻まれているといわれ、磁気異常も見られる。4)亀石:この石には、中央部北寄りに約60cmの円形の深い刻線があり、これから広がる線がちょうど亀の甲羅のような形状をしているため亀石と呼ばれている。この刻線には外に広がるような磁気異常が見られる。当巨石群を訪れたのは今回で五度目となろうが、実は2016年に起きた「熊本地震」の発生により、この「亀石」の様相が変化したという話を聞いていた。そこで、かつて地震以前に当地を訪れた際に「亀石」を撮影した画像と、今回訪れた際に撮影した画像の二枚を並べたものが上である。(※地震発生の”前”が左側・地震発生”の後”が右側)天空の星々の配置が描かれた”天球儀”と考察されている上掲画像に映る左右の「亀石」に彫られた線刻等を注意深く観察すると、熊本地震により「亀石」が見事にひっくり返った形跡を確認することができた。さて、「拝ヶ石」を後にして”夏至の日の出方位”、つまり上の地図に示した軸線に添うよう車を走らせ、”阿蘇山(阿蘇五岳)”の全体が見渡せる場所で撮影した画像が上だ。その”阿蘇五岳”とは、画像の左から「根子岳(標高1,443m)」・「高岳(標高1,592m)」・「中岳(標高1,506m)」・「烏帽子岳(標高1,337m)」・「杵島岳(標高1,326m)」の東西に延びる連山である。前回当地を訪れた際は、曇り空で展望できず仕舞いであったが、今回は阿蘇連山を俯瞰でき嬉しかった。次に上の画像は、”阿蘇五岳”の中で、一番のお気に入りの「根子岳(ねこだけ)」を撮影したものである。その威厳ただよう山容は、いつ噴火してもおかしくないような躍動感にあふれる佇まいであった。そして当日の最後に訪れたのは、豊後国一之宮「柚原(ゆすはら)八幡宮」(大分県大分市)であった。もう午後6時を過ぎた夕闇迫る時分に到着したので、社殿に向かう参道脇にあった当社の由来が書かれた看板を撮影した画像が上である。上の画像に映る由来書に境内の配置図があるのだが、当社本来の参道の方向が「シリウス方位(真南から東へ約20度の方角)」と読み取ることができた。また下の関連記事で取り上げたように、10月の合同展示会が開催された場所が”日本三大八幡宮”に数えられる「筥崎八幡宮」の御神前であり、当宮に関連する〈祭祀線〉から鎮座地を模索するなかで、参道の背後にある山上より「シリウス」が昇る方位が確認できた。※関連記事・・・展示会の後日談(筥崎宮編…上)加えて、「柚原八幡宮」の参道が示す「シリウス方位」は、全国八幡社の総本宮である豊前国一之宮「宇佐神宮」の上宮「二之御殿」から神体山「御許山」を指し示す方位と同じであることや、かつて神宮境内に鎮座していた神宮寺「弥勒(ミロク)寺」(御本尊…弥勒如来)を考え合わせると、そもそも《八幡信仰》の背景に「シリウス方位」を主軸とする《弥勒(ミロク)信仰》があったことを認識することができる。☆関連記事・・・「冬至」に向けて思い返せば西暦725年に「宇佐神宮」が創建されてから、今年は”御鎮座1300年”となる節目の年であった。というこで、この2025年の「冬至」である〔12月22日〕こそ、世にいう『弥勒の世(※)』の始まりを謳うに相応しい転機になったのではないかと、改めて感じる年の瀬である。(※ここで『弥勒の世』とは、物質的な豊かさと精神的な成長が調和した理想的社会のことを意味する。)
2025年12月30日

いよいよ本日は、西暦12月25日の「クリスマス」。そこで冒頭画像は、落葉した樹木の枝に自作の綿棒工作による立体群を「冬」の夜空に輝く星々に見立て、直下の過去記事で紹介したように「クリスマス・ツリー」の如く飾ったものだ。実は昨日中に”正4面体”等の造形群を加え、見栄えが増した感じである。☆関連記事・・・〔冬の星々〕の飾り付け…完了!そもそも「クリスマス」は、キリスト教の布教の過程で中央アジアを発祥とする”ミトラ教”における太陽神「ミトラス」の誕生日「12月25日」(往時の冬至日)を取り入れたもので、当日をイエス・キリストの誕生日と定めたのは、キリスト教の拡大を図る目的があったとされている。その”ミトラ教”は6世紀頃に日本へ仏教伝来とともに伝わり、「弥勒(ミロク)信仰」として布教された。☆関連記事・・・クリスマス・ツリー☆関連記事・・・「冬至」に向けて☆関連記事・・・「冬の星座」に隠された古代信仰この「冬」の”星まつり”は来年の2月頃まで、JR新山口駅(北口)に隣接する「KDDI 維新ホール」の入口右横(下の画像)にある”三本の樹木”が展示場所となっている。山口県の玄関である当駅に最寄りの際は、どうぞお立ち寄りください。(当駅の”新幹線口”より徒歩5分)《 追 伸 》 展示作品の簡単な立体を、自分の手で作ってみよう!※関連動画・・・「スケルトン立体」を作って楽しもう!(No.1…準備編)※関連動画・・・「スケルトン立体」を作って楽しもう1(No.2…正4面体)
2025年12月25日

本日2025年12月22日(旧暦11月3日)、山口市内にて「冬至の朝日」を撮影したものが冒頭画像だ。今朝の”光芒”は年間でも一番弱いとされているのだが、とても力強く感じられたのが印象的であった。そして下の画像は、今宵の「三日月」。”月日”そろった素晴らしい年始を迎えられたと感じている。
2025年12月22日

明日の令和7年(1925年)12月22日は『冬至』の日であり、その「冬至点」の時刻は午前0時3分(AM0:03)となっている。ちなみに、この「冬至点」の瞬間は、太陽の力が最も弱まり、同時に陽光が強まり始める再生の起点とされる。冒頭の画像は、本日12月21日の”日没”を撮影したものだ。そこで思い出したのは「岩戸神楽」であった。その「岩戸神楽」といえば”高千穂の夜神楽”が著名だが、全部で”三十三番”あるとされる古来の「岩戸神楽」は、本日(冬至の前日…12月21日)の”日没”から”第一番”の神楽が始まり、夜通し行われた翌日の冬至日(12月22日)に”一陽来復”の朝日を迎えた頃、”第三十三番”の「アマテラス」を演舞して神楽を終えるということである。※関連記事・・・「冬至」に向けてさて、ここで結果的ではあるのだが以下、今年の『冬至』に向けた直近の動きを記しておきたいと思う。昨日12月20日の新月(旧暦11月1日)は、縁あって「祇園山(標高 1,307m)」(宮崎県五ヶ瀬町)の山頂に登った。登山口から山頂までの標高差は約300mではあったが、なかなかに切り立つ山で難儀だった。そこで上に並ぶ二枚の画像は、上が山頂部からの展望で、その下は山頂の三角点を撮影したものである。次に上の画像は、この「祇園山(ぎおんやま)」という山名の由来が書かれた看板を撮影したものだ。その由来にある「牛頭天王」とは、本質的には”牛の頭”をシンボライズした「おうし座」のことであり、その一等星の「アルデバラン(和名=赤星)」の投影地が「祇園山」と感得できたこと、それと同時に《山口と九州を貫く”冬”の南北軸》における「岩屋山」(山口市秋穂二島)や、この12月19日に再訪した「万倉の大岩郷」の中心的な磐座を「アルデバラン」の地上投影と感得したこととも、不思議なことに絶妙に重なってくるのであった。※関連記事・・・「夏至」に動く(1)実はこの「祇園山」は、今から4億3千年前の化石が発見されたことから、地殻変動により”九州島”で最初に顔を出した山として「九州島発祥の地」といわれている。この「祇園山」のことは、日本列島の”本州(龍の胴体)”における中心(龍の”子宮”)たる「富士山」近辺の散策(11月20日頃)を経て知り得たことから、いよいよ”九州(龍の頭部)”の〔核心〕を訪ねることになったと感じたところである。☆関連記事・・・「龍の目」を訪ねてさてその後、九州島の中心核たる「祇園山」を”南”の起点として地図上に”南北軸”を引いた場合に、山口県域の何処を貫通するかということで調べると、まず瀬戸内海側では小野田市の「本山岬」にある「蛇紋岩(じゃもんがん)」を貫通することがわかり、本日の12月21日の昼頃に訪ねて撮影した画像が上に並ぶ二枚の画像である。そこで、この上の画像は当地の海岸域にある「蛇紋岩」を撮影したもので、驚いたことに約3憶年前の地層が露出した岩礁とされているとのことだ。そして末尾の画像は、「九州島発祥の地」たる「祇園山」を登拝し、当山を「南」の起点として”南北軸”を引いた場合に、その北方たる山口県の日本海側を貫く場所は何処かということで、青海島(山口県長門市)を訪ね「大門(おおもん)」の方面を展望した画像である。ちなみに遠方の海上に浮かぶ島は、萩市の「相島(あいのしま)」である。私たちは今回、一万数千年ぶりとされる稀有な”冬至”に遭遇するとのことである。本来の”元通り”の自分になれる大きな転機とされる当日、自分自身が”このようにありたい”とする理想の姿を”うれし・たのし”で思い描きたいものである。
2025年12月21日

次に訪ねたのは、宇部市西吉部にある「吉部(きべ)の大岩郷」であった。そこで冒頭の画像は、その入口から上方に連なる”大岩郷”を撮影したものである。(その下の画像は解説版)この緩やかな岩海の上を登っていくこともできるが、前日に小雨が降ったこともあり滑りやすいので、入口の左側にあって”大岩郷”に沿うように作られた山道を登り、約200mほど歩いたところから足元に細心の注意を払いつつ岩海に入った。そこで上の画像は、露出した「吉部の大岩郷」の中間地点から上方に向かって撮影したものだ。そして下の画像は、上の画像の方向とは逆方向の、下方に向かって撮影したものである。この上の画像において下方へ連なる岩海は、画像中央部の遠方に霞んで見える「城山」(標高294m)に向かうかのように降っている。そこで方位磁石で調べてみると、その”大岩郷”の連なり降りる方向は〔夏至の日の出〕の方位であった。・・・ということは、「吉部の大岩郷」が示す方向性は、前回記事で取り上げた「万倉の大岩郷」が〔冬至の日の入〕の方位に連なり降りる方向とは、まったく逆の方向になるわけである。そこで私的感覚としては、”天体の地上投影”という観点からみて…もしかすると「吉部の大岩郷」は「夏の大三角」を含む「夏の星座」を配置した場所なのかもしれない…という想いが湧いてくるのであった。残念ながら今のところは、この「吉部の大岩郷」の岩海に「一等星」クラスの星を投影した磐座群を見い出せていないのだが、つい先日の日記(以下のリンク記事)で真鶴半島の先端部にあった遺跡や奈良県の山添村に存在する磐座群に共通する「夏の大三角」の痕跡を紹介した。以上の経緯から、この”大岩郷”にも「夏の大三角」を象徴する磐座群が形成された可能性を感じている。☆関連記事・・・「富士山」近辺の歴史探訪(5)☆関連記事・・・「富士山」近辺の歴史探訪(番外編)上の画像は、今回の散策で「吉部の大岩郷」の中間域に見出した、”祭壇石”のような大きな岩石を中心に撮影したものだ。上方から撮影した岩面の右側には、おそらく方位を示した”十字”に刻まれた痕跡、その左側には絵文字等を刻んだ「ペトログリフ(岩面彫刻)」を見出すことができる。次に上の画像は、この”大岩郷”の全体の中心部にあって、最大の「祭祀場」だったと思われる「磐座群」を撮影したものだ。ここでは古来より「天体観測」をはじめとした、この地域の重要な祭祀が斎行されてきたであろう。そして上の画像は、”大岩郷”の下方位置より、この地域の中心となる御山「荒滝山(あらたきさん)」(標高459m/宇部市の最高峰)を撮影したものだ。(画像中央部の遠方に見える山)実はこの「吉部の大岩郷」が存在する宇部市の「吉部」地区は、私の母方の”ふるさと”であり、この御山に関する母親の思い出話を頼りに、かつてこの「荒滝山」に登ったことがあった。その際に綴った日記が直下の関連記事で、再度確認してみると「吉部の大岩郷」のことも書いていた。※関連記事・・・「一陽来復」を祝う祭祀場(山口県域)実は上のリンク記事にも少し書いたのだが、この吉部地区の「藤ヶ瀬」という地域に、近年になって「龍岩」という立派な磐座群が出現し、古代人による「冬至の日の入」の方位を意識した磐座の配置になっていたことを、私なりに確認する機会があった。わが郷土「山口県」の、それも母方の故郷に、これほど素晴らしい「龍岩」と伝わる磐座群があったとは・・・ということで、感動のあまり五編にわたり綴った記事が以下である。◎関連記事・・・辰年に「龍岩」あらわる(1)◎関連記事・・・辰年に「龍岩」あらわる(2)◎関連記事・・・辰年に「龍岩」あらわる(3)◎関連記事・・・「イワクラ」のいざない◎関連記事・・・「金龍」に導かれ・・・「万倉の大岩郷」と「吉部の大岩郷」の、この二つの”大岩郷”をじっくりと散策した後、まだ陽が高かったこともあり、帰宅途中に寄ることにしたのは吉部地区の総鎮守「吉部八幡宮」であった。(上の画像)そういえば私が誕生して間もなく、母親と親族に連れられて”初宮参り”をしたお宮が当社であった。久しぶりの参拝を済ませて、ふと階段下の参道の方位に目を遣ると、社殿前の南北の方向とは少し東に振れていることが、今回初めて分かったのであった。(この上の画像では、拝殿前より真南に続く石畳が、画像手前の下段から少し東に傾いていることが分かる。)そこで”まさか”とは思いつつ方位磁石で調べてみると、「シリウス方位」(真南から約20度ほど東に振れた方位)であることが確認でき、当日記で何度も執拗に「シリウス方位」に言及し拘ってきた背景には、当社への”初宮参り”から〔礎〕が築かれていたことを、この期に及んで改めて認識したところである。
2025年12月19日

2025年12月18日、山口県域にある二つの”大岩郷”を散策した。その”大岩郷”の二つとは、美祢市伊佐町にある「万倉(まぐら)の大岩郷」と宇部市西吉部にある「吉部(きべ)の大岩郷」で、共に「国の天然記念物」に指定されている。今回は、散策した二つの”大岩郷”に関して、上・下に分けて綴ることにした。ここで”大岩郷(おおいわごう)”の「岩郷」とは、「岩海(※)」を意味する方言で、たくさんの巨岩が重なり合っていることをいう。(※)「岩海(がんかい)」とは、大きな岩が積み重なり、まるで氷河のように山腹を覆っている地形のこと。そこで冒頭画像は、「万倉の大岩郷」の駐車場から、多くの巨岩が重なり降る「岩海」の全体を撮影したものである。次に上に並べた二枚の画像は、この”大岩郷”の案内図を撮影したものが上、そして下の画像はダイナミックに重なり合う”大岩郷”を下方より撮影したものだ。およそ一ヶ月前に訪ねた奈良県山添村にある「鍋倉渓」も同様の地形なのだが、その「鍋倉渓」よりも山口県にある「万倉の大岩郷」の方が、規模が大きく圧倒的に広い”岩海”である。☆関連記事・・・「富士山」近辺の歴史探訪(番外編)上の二枚の画像は、この”大岩郷”の特異な景観が生まれた原因と、その形成過程が記された解説版を撮影し並べて掲載したものだ。かつて当地を訪れた際には、このような詳しい解説版は無かったので、とても参考になった。さて上に掲載した二枚の画像は、この数多くの岩塊が重なる大岩海の中でも、ひときわ輝きを放つ”斜方に切り立つ大岩”を撮影したもので、遠方から撮影した”大岩”が上で、それを拡大したものが下の画像だ。そこで、上にリンクした関連記事を読まれた方には分かるように、私がここを訪れた主目的は、この”大岩郷”を夜空に輝く「天の川」に見立てた場合に、《天体の地上投影》と言う観点から、この”大岩郷(天の川)”にいかなる天体を見出すことができるかということであった。実は、今回の散策で当地の駐車場に掲げられた解説版には、地元に伝承された「昔話」が書かれており、この”大岩”には「こめかみ岩」(上の画像)という名前があることを初めて知ったのであった。そして、この文章を読んでいくうちに、なぜか私には「稲穂」が”おうし座”の「プレアデス(和名=すばる)」に、「牛によく似た岩」が同じく”おうし座”の「アルデバラン(和名=赤星)」に観えてきたから不思議だ。そのように観えた背景には、日本では古来より「アルデバラン」の別名を「すばるの後星(あとぼし)」と言ったことから、今のような「冬」の時期の”東方の夜空”に「すばる」が昇った後に続いて、光の強い一等星の「アルデバラン」が昇ってくると、「すばる」のほのかな青白い輝きが薄れてしまう景観があったと思われる。…その風情が物語として地元に伝わった…と、その時の私には感じられたというわけだ。加えて、なぜ”おうし座”という「冬の星座」が、この「万倉の大岩郷」に関わるかといえば、この「こめかみ岩」が指し示す方位が西南西の〔冬至の日の入〕方向であり、また”大岩郷”が全体として緩やかに連なり降る方向も同様だったことから推察できたというわけである。そこで、地元の「昔話」によって浮上してきた”おうし座”の「すばる」と「アルデバラン」の関係性を分かりやすく示すために、二種類の”おうし座”の星座図を左右に並べて掲載した画像が上である。私的感得によれば、「アルデバラン」に関連する”ヒアデス星団”の〔Vの字〕(右側の画像)が、おそらく「昔話」における「牛によく似た岩の口先に当たるところの割れ目」に相当するであろう。まだ現地では確認していないのだが、今後「すばる(プレアデス)」が投影された岩組(磐座群)の位置を確定できれば、末尾画像のような「天の川」を背景とする六つの一等星が形成する『冬のダイヤモンド』を、この山腹に広がる「万倉の大岩郷」に見出すことが出来るかもしれない・・・。(つづく)
2025年12月19日

今年の11月を過ぎてから、かつて独自の発想で制作した「正12面体」の軸線構成に、言わば「天地を貫く御柱(造形全体の回転軸)」を立てたいという想いが沸々と湧いてきたので、それを具現化した作品を撮影した画像が上である。その”次元”の解釈については、ここでは造形の中心を透過する”対角線”の数を”次元”の数とした。そこでこの「正12面体」は、全部で20個の頂点があることから、その”対角線”の数は「10」となるので、基本的に「10次元」の造形と解釈できる。そしてこの造形に、構造の全体を支える”第11次元目”の「天地軸(回転軸)」として立てた中心軸を、”緑色”で強調した画像が下である。・・・もしかすると理論物理学の「超ひも理論」が唱える「11次元」に繋がるのかもしれない・・・そこで思わず唱えたくなる日本神話「古事記」の冒頭に記された文章があった。『 天 地 初 め て 発 け し 時 高 天 原 に 成 る 神 名 天 之 御 中 主 神 』あめつちはじめてひらけしとき たかあまはらになるかみな あめのみなかぬしのかみ
2025年12月17日

翌11月21日(金)は、当日中に山口へ帰宅することを前提に、夕方まで”奈良”の聖地を探訪しようと思い、早朝よりJR新富士駅から京都へ新幹線で移動した。平日とはいえ紅葉の季節を迎えたからであろう、直前予約での空きのレンタカーは見つかりづらかったが、ようやく近鉄の天理駅前で借りることができた。探訪する場所として様々な選択肢もあったのだが、今回は焦点を絞り奈良県山添村にある「神野山(標高約619m)」に向かって車を走らせた。その「神野山」の中腹には、上の解説版にあるように「鍋倉渓(なべくらけい)」という”まるで多くの岩石が流れてできた川”のような独特の景観を呈する場所があり、なんとその「鍋倉渓」の”岩の川の流れ”を、約4,000年前の古代人が夜空に輝く「天の川」に見立てた上、「天の川=鍋倉渓」に添うように「夏の大三角」を形成する三つの磐座を、山頂部から山腹にかけて配置した可能性を指摘する研究成果があるので、現地を訪ねてみようと思った次第である。そこで冒頭の画像は、山添村の「神野山」の山頂部にある展望台からの景色を撮影したものである。周囲に高山が無く広範囲を展望できるので、古代より大切にされた御山だったのであろう。実はこの「神野山」の「鍋倉渓」には、昨年の12月中旬に一度訪れており、当山の麓にある自然公園にて約20年に一度の、最も高く昇る「満月」を拝することができたのであった。※関連記事・・・令和6年12月15日の「北限の満月」を寿ぐその時は山麓にある「鍋倉渓」の登り口から「神野山」の山頂まで登り、「鍋倉渓」の上部にある「天狗岩(アルタイル)」や山頂部にある「王塚(デネブ)」を確認することができた。けれどもその時は、事前調査を徹底してなかったので、他の「八畳磐(ベガ)」や「北斗岩(ツバーン)」を見出すことができなかった。それが今回、再度当地に訪れる機会を得て、しかも前回の日記で取り上げたように、真鶴半島の海岸域で大岩に描かれた「夏の大三角」の象りを見た後に、まさか連続して翌日、古代人による「夏の大三角」の痕跡を確認できることになろうとは・・・これは完全に導かれている・・・と素直に感じたところである。お陰さまで今回は、昨年は辿り着けなかったかった「八畳磐(ベガ)」や「北斗岩(ツバーン)」の磐座を現地で確認することができたので、以下に現地で撮影した計四つの磐座と、それぞれの解説版を添えて掲載した。そして今から『約4,000年前』の「夏の大三角」に「北極星」を加えた”四つの星々”を、古代人が地上に投影し具現化した関係性を示す絵図が下の画像だ。ここで大切な視点は、この天空に輝く「夏の大三角」の星々が、それぞれ地上投影するかたちで配置されたのは、今から『約4,000年前』としているところである。つまり、現在の「北極星」は”子熊座”の「ポラリス」だが、今から『約4,000年前』に”竜座”の「ツバーン」が「北極星」として輝いていた頃、古代人によって「夏の大三角」を象徴する”三つの磐座”と「北極星(ツバーン)」の”磐座”が設営され、今この時代にその配置を”天体シュミレーション”等を通し、磐座の発見者たちがほぼ正確に特定したということは驚くべきことだ。興味深いことに、地元の山口県にも「鍋倉渓」のように”岩が川の流れ”のようになっている場所が二ヶ所ある。それは「万倉の大岩郷」(山口県美祢市)と「吉部の大岩郷」(山口県宇部市)で、共に”国の天然記念物”となっている。この二つの大岩郷には何度も訪れて散策しているのだが、この大岩郷を「天の川」と見立てることで、もしかすると上の画像のような、「夏の大三角」が地上投影された磐座群がここでも見出せるかもしれない・・・。・・・ということで、二つの大岩郷での今後の散策がますます楽しみになってきたところである。レンタカーを返却するまでに少し時間があったので、今回の旅路の最後に近鉄天理駅に近い「石上神宮」に参拝することにした。そこで上の画像は、当社入口の社名が刻まれた石標を撮影したものである。次に上の画像は、参道にある大鳥居に掲げられた「布都御魂大神」と記された神額を撮影したものだが、この「布都御魂大神」(ふつのみたまのおおかみ)が当社の主祭神である。実はこの「布都御魂」の「布都(ふつ)」が、古文書等によると「徐福」(じょふく)の”本名”である「徐市」(じょふつ)の「市」の発音「ふつ」に「布都」という漢字が充てられ、主祭神の神名になっているということだ。つまり「石上神宮」とは「徐福」の本名「徐市」の御霊(御魂)を神として祀る神社ということになろう。次に上の画像は、当宮本殿に向かう楼門(ろうもん/重要無形文化財)を撮影したものだ。その格調の高い建築様式は素晴らしく、いつまでも観ていられる美しき佇まいであった。そして、その「楼門」を潜った先にある「拝殿」を撮影した画像が上である。葺き替えたばかりの日本建築にしかない檜皮葺屋根(ひわだぶきやね)の、繊細でしなやかな曲線美が印象に残った。そういえば、今回の旅路の象徴であった”富士山”の”富士”という漢語の発音となる「ふじ(ふぢ)」にも、「徐福」の”本名”である「徐市(じょふつ)」の「市(ふつ)」が関連してくるようだ。※参考書籍・・・書名『 富士山、2200年の秘密 』 著者〔 戸矢 学 〕 かざひの文庫 刊(初版 2014年)加えて、「石上神宮」の祭祀氏族である「物部氏」が、「徐福」の血脈に繋がる渡来の一族であることは、”出雲口伝”でも詳細に伝承されている。「富士」の発音の「ふじ≒ふぢ」や「徐市(じょふつ)」の「市(ふつ)」との関連性を重ね合わせた時、今回の《「富士山」近辺の歴史探訪 》の旅路の全体が、私なりに俯瞰して観えてきたのであった。(了)
2025年12月14日

そして11月20日(旧暦10月1日)、早朝よりレンタカーで向かった先は、真鶴半島(神奈川県真鶴町)の先端にある”真鶴岬”であった。その岬の先にある景勝地の「三ツ石」を撮影した画像が上である。画像では二つの岩塊に見えるのだが、右側の岩塊にもう一つの岩塊が重なった配置になっている。冒頭画像の撮影位置から海岸に降りた場所より、西側方面を撮影した画像が上だ。画像の中央部の岸壁に四角状の開いた穴が見えると思うが、「番場浦磯丁場遺跡」に存在するメインシンボルの一つである。この「番場浦磯丁場遺跡」とは、一般に真鶴岬の西側に位置する「石切り場跡」とされており、ここで採掘された安山岩の石材は、土木用として京浜地方に運ばれて利用され、江戸城の石垣にも使用されたとのことだ。実は私がここに訪れた理由は、この海岸べりの遺構が「石切り場跡」だっただけでなく、かなり古い時代から当地で”意図的に加工”した「磐座」等による〔天体祭祀〕が行われた形跡があることから、とても興味が湧いて現地を訪ねたというわけである。次に上の画像は、二枚上の画像の解説では岸壁に開いた”穴”と表現したが、そこに近づいて撮影した大きな空洞である。その空洞の前方には出入口に向かう石踏みや階段が形成されており、人的な石工の形跡を見出すことができた。・・・かなり卓越した職人の手が加わっていることを如実に物語っていた・・・。その空洞に入り、前方の海に浮かぶ「三ツ石」を撮影した画像が上だ。その内部構造は、天井の高い”立方体(サイコロ型)”の形状となっていて、床一面の広さは八畳~十畳くらいはあったと思う。実際にこの空洞内に入ってみれば分かるのだが、その内部構造はおそらく緻密に計算された上で、意図的かつ計画的に加工処理されていることが明確に認識できたので、”なるほど…”と現実を冷静に受け止める自分がいたのであった。とある磐座研究家の話では、海上の「三ツ石」に昇る「冬至」の”日の出”の陽光が、この空洞内を照らす仕組み(時空間の配置)になっているということだ。(それをイメージして図示したものが上の画像)ここで詳しいことは情報量が多すぎて書けないが、この空洞内に施された線刻等を私なりに俯瞰すると、「冬至」を要とする約120日間の「冬の期間」を、この洞内で精確に観測できることが推察できた。この”冬期”の約120日間は、縄文時代における日本列島の海岸域では”漁労”をしない期間だったことが考えられるので、その”冬期”を入念な天体観測に充てたことが考えられ、このような施設が建造されたのではなかろうか・・・などと、想像の翼は羽ばたくのであった。※関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編)さてその後、この「番場浦磯丁場遺跡」には、上記の空洞施設から少し離れたところにも興味深い岩場があるということで、周到な計画で設計施工したかのような岩の砦というか神殿のような場所に移動。そこで上の画像は、このかなり広い場所の中で、ひときわ目を引く岩盤の全体像を撮影したものである。その中央部で前面に張り出した岩盤を撮影した画像が上で、その岩面に”三つの穴”が確認できると思う。とある磐座やペトログリフ(岩面彫刻)に詳しい研究家は、この中心的な岩面にある”三つの穴”は「夏の大三角」を象ったものと解釈でき、その岩面中央部の縦方向に”三つの穴”に絡むかたちで走る線刻は、”天の川”を表現しているということだ。(下の画像が分かりやすい)さらに興味深いことに、実際にある時期の夜には、この「夏の大三角」の描かれた岩盤の上空に、同様の形状で”天の川”を背景に出現するとのことである。・・・ということで、実際に天空に輝く「夏の大三角」が、岩盤に描かれた「夏の大三角」と同様の形状で現れる天体写真を上に掲げてみた。背景となる天空の”天の川”が、〈 織姫たる「ベガ」〉と〈 彦星たる「アルタイル」〉の間を流れる雰囲気も、絶妙に類似していると言えよう。ちなみに、上の形状のような現実の「夏の大三角」の配置となるのは、現代では11月頃の”西方”の夜空、つまり岩盤に描かれた「夏の大三角」の上方に見えるということである。この”古代の磐座御殿”ともいえる場所にて、「三ツ石」近辺の散策を含め約二時間は遊んだであろう。そして神妙な心地で最後に辿り着いた場所が、上の画像の位置であった。前述の「夏の大三角」を示す岩盤を中心とした岸壁の前方に、上の画像に映るような四角形状に岩盤を加工した水溜りがあった。当時の私には、特にこの四角形上の水面に”夜空に輝くの星々”を映し見ていた古代人の姿が、自分に折り重なるかのように浮かんできて、深く染み入るように感動したことを憶えている。・・・古代の人々は、この「大宇宙」と”ひとつ”になって、日々の生活を織り成していた・・・真鶴半島を後にして、当日の最後に向かったのは、伊豆国一之宮「三嶋大社」であった。おそらく三度目の参拝となるが、前回の参拝の折の記憶を忘れてしまうくらいの変わり映えに驚いた。そこで上の画像は、当社の神前に向かう「神門」を撮影したものである。御門の両脇に添えられた”菊花”も素敵だった。そして、威風堂々とした拝殿は改装中ではあったが、午後五時に近い閉門間際の時間にもかかわらず、多くの参拝客が訪れていた。上の画像は、御神前に飾ってあった華やかに咲き誇る「菊花」を撮影したものである。そういえば、今年の「菊花」の華やぐ季節は、博多の「筥崎宮」の御神前における合同展示会への参加をはじめとして、「菊花紋章」の立体版たる「菱形30面体」に関連する尊いお導きをいただいたと感じる。※関連記事・・・「菊花紋章」の原型は「菱形30面体」と洞察、そして・・・地質学的にも「富士山」と「伊豆半島」の和合した付け根に鎮座する、その”統合の象徴”たる伊豆国一之宮「三嶋大社」に旅路の最後に参拝できたことで、今回の連載記事【「富士山」近辺の歴史探訪 】の有り難き締め括りになった。・・・あめつち まひとつにて いやさかなり・・・
2025年12月13日

2025年11月19日(水)は、”JR新富士駅”に近いホテルの、「富士山」が見える部屋を指定して宿泊した。そして翌20日の早朝、目が覚めて窓のカーテンを開けて見えた光景が上の画像である。「富士山」の五合目から上に朝日が当たり、雲一つない神々しい姿を私に魅せてくれた。素晴らしい!折しも11月20日は、出雲では”神在月”の初日(旧暦10月1日)であり、新月に当たるこの日に「富士山」と「出雲」の”東西軸”が結ばれ、日本は大きな転機を迎えると感じていた私は、その前日の19日を強く意識して「富士山」の周辺を探訪し、”新月”の朝日に輝くこの「富士山」に勇気づけられたことを憶えている。そして下の画像は、「神在月」の初日を飾る陽光を全身で浴びる、美しき晴れ姿の「富士山」である。今回の旅路における参考文献は「宮下文書」(富士古文献)が主だが、この古文書には私の住まう山口県域の東部、すなわち(旧)周防国の一之宮である「玉祖神社」の主祭神「玉祖命」(たまのおや)にまつわる伝承が詳しく記してあった。その「玉祖命」は「宮下文書」では、同じ発音の「太真祖命」と記されており、どのような経緯で周防国一之宮「玉祖神社」の主祭神として祀られるようになったのかを知ることができる。以下に同文書の「太真祖命=玉祖命=”たまのおや”のみこと」に関する掲載内容を以下、掻い摘んで記すとしよう。・その「太真祖命(たまのおや)」は、「富士高天原王朝」の第四神朝における第二代「忍穂耳命(おしほみみ)」の第二皇子であり、婦神は「大山祇命(おおやまづみ)」の第一女「岩長比女(いわながひめ)」を娶る。・(※「たまのおや」は、第二代「おしほみみ」の第一皇子である第三代「仁人木命(ににぎ)」の弟であり、第三代「ににぎ」の婦神は「おおやまづみ」の第二女「木花咲夜比女(このはなさくやひめ)」であり、「いわながひめ」の妹である。)・後に「たまのおや」は第四代「火火出見命(ほほでみ=山幸彦)」より高天原七廟・阿祖山太神宮の守護司長に任じられ、その任務を兼ねて”伊豆国”を賜り、婦神の「いわながひめ」と共に伊東阿田見原の「日金の宮」を拠点とし居を構える。その後「いわながひめ」は、その地で亡くなり「伊豆山」に葬られ、後に「伊須大神」として祀られた。(※現在の熱海市伊豆山に鎮座する「伊豆山神社」の真祭神は「いわながひめ」であろう)・第四代「ほほでみ」の治世に、南海・西海の諸々の地域に、国が大いに乱れた時期があった。その際に「たまのおや」を元帥に「石掘留目(いしほりとめ)命」を副帥にして、両帥の一族眷属の三千余神を率い平定したのであった。・その際に「たまのおや」の御子「宇佐見(うさみ)命」も共に西征に就いた。「たまのおや」は軍を率いて進み、”南海”の賊に対して「紀伊国」の日高原の川上に本営を置き、また”西海”の賊に対して穴門国(長門国…山口県域の西部にあった旧国)の東方にある”佐波国”に駐在して軍を指揮した。そこに久しく住まいされたことにより、この地を住居国(周防国…山口県域の東部にあった旧国)という。たまたま元帥の「たまのおや」は、軍中において亡くなられ、同国に葬ることになった。・「宮下文書」には、「たまのおや」は「周防国」で崩御とあり、現在の周防国一之宮「玉祖神社」と想定できるが、おそらくその墓地は同社に近い「玉の岩屋」であろう。・※熊野神社の起源…現在の熊野神社は三社あり、すなわち「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」とあるが、それぞれの祭神は定かではないが、本書により単純にして明瞭化された。・つまり「たまのおや」の御子「うさみ」は、〔熊野神社の三社〕において”熊野三神”とされる『家津御子(けつみこ)神』は「太真祖(たまのおや)命」(宇佐見命の御親)、『速玉男(はやたまお)神』は「宇佐見(うさみ)命」(太真祖命の御子)、『夫須美(ふすみ)命』は「久住比古(くすみひこ)命」(太真祖命の御孫)と、「親・子・孫」の三代にわたる名前を、それぞれ別称の神名として祀ったということである。(※以上の出自は、書名「日本古代文書の謎」 鈴木貞一 著 大陸書房(1971年 初版)より)実はかつて、大阪府八尾市に鎮座する「玉祖神社」に参拝する機会があった。当社に参拝した折、神主に山口県防府市の「玉祖神社」との関係を問うと、当社は山口から分祀された神社であり、周防国一之宮の大祭には毎年参列しているとのお話を伺うことができた。ちなみに社伝によると、当社の創始は西暦710年で、周防国の玉祖神社から分霊を勧請したと伝わる。以上の件についての「宮下文書」の記述内容には、私なりに信憑性を感じるところである。(つづく)
2025年12月12日

さて次の目的地に向かう過程に途中下車したのは、「富士山」から見てほぼ真北にある”道の駅なるさわ”(山梨県鳴沢村)で、その広い駐車場から「富士山」を撮影した画像が上である。この道の駅には「なるさわ富士山博物館」という、富士山の神秘を見て知って感じることのできる施設があり、その館内の展示物のなかで一番印象に残ったものが、上の画像に映るサッカーボール大ぐらいの虹色に輝く天然水晶の大玉であった。今これを見ていると、なぜか…この《光輝く水晶玉》を大きくして「富士山」の山頂部に置きたい!…という想いが湧き上がるのであった。おそらくその背景にあったのは、かつて「富士山」の初登頂を達成(2011年7月)した折、八合目の休憩所で【 富士山頂に燦然と輝く『 玉 』】というビジョンを感得した経験があり、その富士登頂から4年後の2015年11月に『希望の光』と題する造形(下の画像に映る造形)が生まれたという経緯があった。☆関連記事・・・富士登山の総括☆関連記事・・・「富士山」から伊豆半島へ(4)ということで、そうか…この『希望の光』が完成したのは今から10年前だったと、感慨深い思いに浸るのであった。そういえば、日本の「水晶」は「山梨県産」が有名だが、当館には県内産を含め世界各地で産出した水晶が数多く展示してあり、「水晶」好きな人にとって”垂涎もの”を見学できる博物館といえよう。次の目的地は、「富士山」の山頂から見て”西南”となる「山宮浅間神社」(静岡県富士宮市山宮)であった。当社は、駿河国一之宮「富士山本宮浅間大社」(富士宮市宮町)の”元宮”とされる。そこで上の画像は、当社の鳥居前から社殿の方向を撮影したものだ。そのまま通り抜けることもできる拝殿を経て、さらに奥に続く参道を撮影した画像が上である。その参道に続く階段を上ったところから、さらに遠方を撮影したものが、上掲に二枚並べた画像の上である。あいにく当日は「富士山」が雲に覆われることが多く、撮影時に秀麗な姿を見せてはくれなかった。実は拝殿のみの当社は、古き祭祀形態が今に残る古社であり、上の二枚並べた下の画像に映る解説版に掲載された写真のように、晴れた日には「富士山」を”西南”より遥拝できる聖地であり、古代より「富士山」を御神体として祭事を斎行する祭祀場(遥拝所)であった。次に上に並べた二枚の画像は、当遥拝所の石列を含め「富士山」の存在する方向を撮影したものが上で、その下は「遥拝所列石」の図入りの解説版である。まさに”古式ゆかしき佇まい”であった。そして上の画像は、「山宮浅間神社」の直ぐ近くの「天母山」(あんもやま/標高約500m)の山頂部にある「天母山自然公園」を掲げた標識を撮影したものだ。その標識の上部には「富士山眺望点」と記してあるが、やはり何処を見回しても此処では「富士山」を展望することはできなかった。その代わりに「富士山」の見える方位には、オレンジ色に染まる雲が出現し、美しい色合いを見ることができたので、夕方の黄昏時を大いに堪能することができた。ところで、前回の日記で書いた「富士山」の”東北”に存在したとされる”富士高天原王朝”の古跡を訪問した後の次の目的地を、上記には「富士山」の山頂から見て”西南”となる「山宮浅間神社」としている。それが実は、最初に”西南”の聖地を探訪しようと思った最初の目的地は、上記の「山宮浅間神社」にも近い「天母(あんも)山」であった。これに関しては「宮下文書」に基づく歴史的背景があったので、以下に掻い摘んで記すとしよう。”第三神朝時代”を経て”第四神朝時代”の初頭に、”昼”を司る〔天照大神(女性)〕の《日の宮》は「富士山」から見て〈東北〉の”高天原”に存在したと記されている。そして”夜”を司る〔月夜見命(男性)〕の、〔天照大神〕を補佐する《月の宮》は、「富士山」から見て〈西南〉にある「天母山」の近辺に存在したとする古文書研究家の説があった。(※〔天照大神〕と〔月夜見命〕は「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」の御子で”姉弟”の関係)以上のことから、ぜひ《月の宮》たる「天母山」を訪ねてみたいと思い、その過程で当山の麓に鎮座する「山宮浅間神社」を知る運びとなり、まずは「山宮浅間神社」に参拝した後、当山の山頂部にある「天母山自然公園」を日暮れ前に訪れることができたということである。そして「天母山」の山頂部で日没を迎えた後、その自然公園から近い”富士山「天母の湯」”という温浴施設の湯船にどっぷりと浸かり…お母さんのお腹の中や~…と感じつつ、一日の疲れを癒したのであった。(その入浴の際の「入場券」を撮影した画像が上)最後に末尾画像は、今回の旅路に持参した造形『五十鈴(いすず)』である。当日記の冒頭で取り上げた《光輝く水晶玉》や「富士山」の八合目で感得し作成した『希望の光』に触発され、【 富士山頂に燦然と輝く『 玉 』】を、当日宿泊したJR新富士駅前のホテルの部屋にて、自分なりに演出して撮影したものである。(つづく)
2025年12月11日

駅前で予約していたレンタカーを借り、まず向かったのは「富士山」から見て”東北”の富士吉田市大明見に鎮座する「北東本宮小室浅間神社 古宮」であった。そこで冒頭画像は、当社の境内にて古宮の石祠を遠望する位置から撮影したものだ。その御神前を彩るイチョウの絨毯がまぶしかったのを憶えている。上の画像は、その古宮に近づき撮影したもので、うわさ通りの威厳漂う氣場をしばし堪能した。今回の旅路の参考文献とした「宮下文書」(富士古文献)は、北東本宮小室浅間神社の宮司家であった宮下家に伝来した古記録・古文書の総称とのことである。当社に伝わる上記の古文書によれば、「富士山」を御神体とする”富士高天原王朝”の中心地であった「阿祖山大神宮」(あそやま…富士山の古名)は当地周辺とされ、それを示唆するかのような縄文早期の古屋敷遺跡も、すぐ近くで発掘されている。「宮下文書」の研究家によると、ある時期に歴代の王都のあった発祥の地(ペルシャの東北地方…アララト山の近辺)より遷都を決意した神皇「高皇産霊神」(たかみむすひ)は、(七人の皇子の二人である)第五皇子「国常立尊」(くにとこたち)と第七皇子「国狭槌尊」(くにさつち)を含む一行と共に日本列島に渡来し、富士山麓に新しい王都としての”高天原”(富士高天原王朝)を設けたということである。これが日本の国の始まりであり、この日本における国造りを「宮下文書」では、”第三神朝時代”と記されているとのことだ。次に同じ境内にて、冒頭画像の撮影位置から右側にある大きな石碑を撮影したものが上の画像で、その中央部には「泰山府君大神」と記されていた。この神名の「泰山府君」とは、中国にある”五岳”の一つである「東岳泰山」の神であり、「泰山府君」や「東岳斉仁聖大帝」とも呼ばれる”道教”の神のことである。それが日本では「泰山府君」の名で呼ばれる”陰陽道”の主祭神とされ、「北辰北斗」すなわち「宇宙の中心たる〔北極星〕と、北極星を中心に巡る〔北斗七星〕」の神ということだ。「宮下文書」は、中国の秦から「始皇帝」の命を受けて渡来したとされる「徐福」(その読みは…”ジョフク”や”ヨセフ”とも)が筆録したと伝えられていることから、その伝承に基づき建てられた石碑であろう。そこで上の画像は、この石碑の上部に描かれた三種類の形象を拡大したものである。上部中央には「五芒星」、その右下には「太陽」、左下には「月」と、いわゆる「三光(月・日・星)」を象徴する色付きの彫物があった。おそらく徐福系の中国からの渡来人は「星神信仰」だったことから、「星」を示す「五芒星」を上部中央の配置とし、その下方となる左右に「日」と「月」を配したと思われる。上の画像は、冒頭画像の撮影位置から左側にある「南朝英霊神」と書かれた鳥居の前から全体を撮影したものだ。とある能力者の霊的洞察によると、この「南朝」とは「南朝ユダヤ」のことで、「イスラエル十二支族」のうち中国から渡来した徐福系の人々が、紀元前6世紀に滅びた「南ユダ王国」(”ユダ族”と”ベニヤミン族”の二支族による構成)に在住していた”ユダヤ人”の末裔となるようである。上記の「北東本宮小室浅間神社 古宮」を後にして次に向かったのは、古宮から東南に直線距離で約600mの高台に鎮座する「大明見 山神社」であった。そこで上の画像は、その「山神社」へ向かう狭い参道の入口付近から撮影したものである。年季の入った石段をしばらく登っていくと「山神社」と書かれた鳥居があり、その向こうに拝殿が見えてきた。その風情を映した画像が上である。その赤い鳥居の右向こうに見える大木が、富士吉田市の「指定天然記念物」の”モミ”の樹だ。(以下、その”モミ”を下方から撮影した画像とその解説版を掲載。)これだけ大きな”モミ”の樹を身近で触れたのは初めてで、その存在感に圧倒されつつも癒された一時であった。そして上に並ぶ二枚の画像は、天然記念物の”モミ”の巨樹を経て、当社の拝殿と本殿たる石祠を撮影した画像を掲載したものである。ここで本日の冒頭記事である「北東本宮小室浅間神社 古宮」と末尾記事となった「大明見 山神社」の、二社に共通する”大明見(おおあすみ)”という地名を私なりに俯瞰すると、その地名にある「明見(あすみ)」が「みょうけん」と聴こえてきて、由来は「妙見(みょうけん)」と直観したから不思議である。その「明見(あすみ)」とは、”北極星と北斗七星”の「北辰北斗」を信仰の対象とする「妙見信仰」からきた地名であり、「妙見」の発音「みょうけん」を隠すために「明見(あすみ)」という漢字が当てられことが類推できたと同時に、その「北辰北斗」の”北辰(北極星)”の地上投影地としての「大明見 山神社」、そして”北斗(北斗七星)”の地上投影地としての「北東本宮小室浅間神社 古宮」が想定できると、そのように感得したところである。(つづく)
2025年12月10日

いよいよ懸案であった自作の造形群(約150個)を「冬」の夜空に輝く星々と見立て、JR新山口駅に隣接した施設の前庭にある落葉した三本の樹々への飾付けが完了した。(末尾画像を参照)そこで冒頭画像は、天空に輝く「月」(旧暦10月13日)と共に、樹木に飾った〔冬の星々〕が下方より照らされた姿を撮影したものである。この度の”インスタレーション”は、上掲画像のイベントを主催される「小郡幼稚園」のご厚意により実現した。何を隠そう…この装飾用の造形制作等を担当した私は、この「小郡幼稚園」の卒園生(約60年前)なのである。他にも様々な御縁が重複したことで、有り難いことに今回の「冬の星々」を演出した展示空間が具現化したのであった。(展示期間は来年の2月頃まで)さて、この日記を読まれてきた方にはお馴染みだが、展示作品の素材は生活用品の「綿棒」である。下方に添付した関連記事等でも取り上げたが、この身近で安価な「綿棒」を利用し、自分の手で立体を作るという行為(触覚の活用)は、とりわけ小学校に入る前の「幼稚園」の段階における”子供の情操学習”につながると考えている。これまでの学習媒体の主流であった「二次元の平面」に、もう一次元を加えた「三次元の立体」を認識の土台とすることで、より深く物事を俯瞰し洞察できる人材になるのではないか、その”立体的な情操学習”を、子供たちに小学校に入る前の「幼稚園」の段階で体験する機会があればと思う今日この頃である。☆関連記事・・・立体工作のご案内(綿棒で立体を作ってみよう!)※関連動画・・・YouTube 綿棒工作…No.1 (準備編)
2025年12月03日

とあるキッカケから「富士山」の周辺を歴史探訪する運びとなり、今月11月19日の午前中にJR〔新富士駅〕(下の画像)に到着。当駅に到着する直前に、新幹線の車中から富士山方面を撮影した画像が上だ。図らずも雲の上に「富士山」山頂部の最高峰「剣ヶ峰(標高3,776m)」を確認することができ、とても感動したことを憶えている。今回の旅路は、太古に「富士山」の麓に存在したとされる『富士高天原王朝』の痕跡を訪ねる目論見だったわけだが、”古史古伝”の一つである「宮下文書」(富士古文献)の記述内容や、とあるユーチューバーの霊的洞察を参考にさせていただくかたちで、現地を訪ねることにした。(つづく)
2025年11月26日

前回の日記では、「三郡山」と「壱岐島」を結ぶ”赤い軸線”(下の地図画像に図示)を中心に、その軸線上に鎮座する「筥崎宮」と「聖母宮」の深い関係性について解説した。そして今回は、「筥崎宮」の創建(西暦923年)において、少なくとも【三本の祭祀線】(”赤い軸線”を含む)の〈交点〉を鎮座地として選定した可能性について解説してみよう。そこで上の地図画像は、今回の「筥崎宮」の御神前で開催された展示会がキッカケで見出せた上記の【三本の軸線】(赤・青・緑)を、関連する山々や島々や各神社の名称と共に図示したものである。前回の日記で”赤の軸線”については解説済みなので、今回はまず”青の軸線”に関する解説を試みたい。この”青の軸線”の右端に「大分宮」(だいぶぐう)と図示したが、この神社の正式名は「大分八幡宮」(福岡県飯塚市)と称し、西暦726年の創建と伝わる当社は「筥崎宮」の元宮とされている。その経緯を記すと、西暦921年に御託宣があり、「筥崎宮」の神霊は「大分宮」から西暦923年に遷座されたということだ。つまり”青の軸線”は、西暦923年に斎行された「大分宮」から「筥崎宮」への遷座の道筋を、直線で示したということになる。ここで注目したいのは、その二つの社を結ぶ軸線上に「若杉山(標高 681m)」が存在し、その山頂部にある「磐座群」を透過する《三点一直線》の祭祀線が形成されているところである。次に”緑の軸線”については、10月12日の日記「合同展示会の模様」で解説済みだが、その軸線とは「冬至」の”日の出”方位を重視した「筥崎宮」ー「宇美宮」ー「宝満山」を結ぶ《三点一直線》の祭祀線であった。実は、展示期間中に「筥崎宮」を参拝の折、本殿の背後にある「東末社(五社合殿)」をお参りした際に、その五社の中央となる社殿に「乙子殿」と書かれた神額を見出すこととなった。この「乙子(おとご)」(「末子」の意味)の文字に見覚えがあったので、すぐさま現地で調べてみると、祭神は「菟道雅郎子(うちのわけのいらつこ)」であり、「筥崎宮」の主祭神「応神天皇」の皇子の一人であることがわかった。もしかすると…かつて参拝したことのある「志賀島」の中腹に鎮座する「乙子神社」と関連するのでは…ということで、後日になって上記の《三点一直線》を「筥崎宮」から伸ばしてみると、やはり「志賀島」に向かい、驚いたことに「雅郎子皇子(わけのいらつこのみこ)」を祀る「乙子神社」に当たるのであった。そこで上の画像は、その「雅郎子皇子」を祀る小社を少し遠くから撮影したものが左側、当社の「乙子神社」と記された社額を中心に撮影したものが中央、そして社内に鎮座する「雅郎子皇子命」と彫られた丸石を撮影したものが右側である。まさかの展開に驚いたと同時に思い出したのは、地元の山口県山口市に鎮座する「今八幡宮」の主祭神が、今でこそ「筥崎宮」と同神の「応神天皇」なのだが、当社に祀られた当初の主祭神は「宇治皇子」、すなわち「菟道雅郎子皇子」であったことである。加えて、隠された歴史を伝承してきた『出雲口伝』(以下に参考文献を紹介)によると、この「雅郎子皇子」は「応神天皇」の後を継いで、(第16代の)天皇として即位したことを伝えている。(※通常の歴史認識では、第16代天皇は「仁徳天皇」とされている。)※参考文献・・・書名『』仁徳や若タケル大君』・富士林雅樹 著(大元出版 初版2020年)以上のことを踏まえて俯瞰すると、この「筥崎宮」から「乙子神社」へ繋がる”緑の軸線”は、「応神天皇」から「宇治天皇」への皇位継承を暗示させるものであり、それは”分かる人には分かる”という痕跡を、往時の一大転期を見守った覚者が、後世に伝えるべく残した”祭祀線”だったのではあるまいか・・・。さて、最後に全体を包括すると、上記の「筥崎宮」の鎮座地に交わる【三本の祭祀線】を明確に認識したのは10月29日、旧暦では9月9日の「重陽の節句」の当日にして、「菊の節句」とも言われる見頃を迎えた「菊」の最盛期を象徴する月日であった。思い返せば”しかるべき聖地”にて・・・来る展示会では「菱型30面体」(菊花紋章の原型)を基盤とする造形を中心に披露するように・・・との想いが浮かんだことから、展示作品の選定をしたのであり、まさしく菊花の香る最盛期に、「筥崎宮」を【三本の祭祀線】の〈交点〉と再確認できたのであった。※関連記事・・・「菊花紋章」の原型は「菱型30面体」と洞察、そして・・・末尾画像は、平面図形の「菊花紋章」を、「菱形30面体」(橙色の軸線)の立体構造として表現した作品で、その内部に五つの「菱形12面体」を五色に色分けし、全体を緻密に構成したところが特徴である。
2025年11月01日

「筥崎宮」については、当宮の御神前で開催された合同展示会を紹介する日記でも書いたが、本日の冒頭画像は、当宮の本殿より海側に続く長い参道の最先端にある赤い鳥居から、当宮の神体山であろう「三郡山(さんぐんさん/標高 936m)」(背後に見える福岡県の中央を南北に貫く”三郡山地”の最高峰)に向け撮影したものである。そして上の画像は、当宮参道の中間域から本殿に向かって撮影したもので、手前の鳥居の少し上の中央部に薄っすらではあるが「三郡山」の山頂部を確認することができる。ところが冒頭画像や上の画像、そして当宮の長い参道の全体像を撮影した様々な画像を見比べていると、当宮参道の指し示す軸線は「三郡山」の山頂ではなく、少し左(北側)に振れた山頂部になることが判明した。(下の地図画像に図示)冒頭画像の参道が示す軸線が「三郡山」の山頂を示さないことから、もしかすると海側に何かしらの指標があるのではないかと、「筥崎宮」の本殿から海側に向かう参道の方向を”赤い軸線”として正確に伸ばしてみた。するとその先には「壱岐島」があり、”まさか…”とは思っていたのだが、同島の北端に鎮座する(かつて参拝したことのある)「聖母宮」(しょうもぐう/主祭神…神功皇后)に当たると分かり、とても驚いたと同時に納得したのであった。(上の地図画像に図示)この〔気づき〕により、壱岐島の「聖母宮」(主祭神…神功皇后・創建は西暦717年)と博多湾岸に鎮座する「筥崎宮」(主祭神…応神天皇)を、言わば「母神と子神の母子関係による守護結界」を形成するという呪術的な基本構想が、西暦923年の「筥崎宮」を創建する背景にあったと認識できた。さらに興味深いことに、この「聖母宮」と「筥崎宮」、そして「三郡山」の山頂部を結ぶ”三点一直線”の方位は…もしかすると「聖母宮」から見て〔冬期〕の宵に、”おおいぬ座”の一等星「シリウス」が昇る方向を示しているのかもしれない…という直観があり、PCに搭載した”天文シュミレーション・ソフト”で、「筥崎宮」が創建された西暦923年の、”冬至”の東方の空を調べてみることにした。すると”やはり!”というか、その”赤い軸線”は壱岐島の「聖母宮」から見て(「筥崎宮」を透過し)、”冬至”(12月21日)の午後6時頃に、「三郡山」の山頂部から「シリウス」が昇る方位を示すことが判ったのである。このことは「聖母宮」の主祭神が「神功皇后」であり、その本質は「シリウス」だということが浮き彫りとなる、大きな〔気づき〕でもあった。加えて〈天体の地上投影〉という観点から、「壱岐島」の形状を「シリウス」の所属する「おおいぬ座」と見立て、「聖母宮」の鎮座地をその「シリウス」の投影地とする捉え方があることから、地図上の”赤い軸線”が母神の「神功皇后」と子神の「応神天皇」を結ぶ”聖なる線”として、心中にますます輝いてくるのであった。☆関連記事・・・・「冬至」の祭り・・・走馬灯のように・・・(つづく)
2025年11月01日

”縄文系譜の暦”を参照すると、一昨日の10月23日(二十四節気では”霜降”の初日)の日没より、『冬至(12月22日)』を挟んだ約120日間の「冬の期間」が始まる。ここで”縄文系譜の暦”とは、「金山巨石群」(岐阜県下呂市)の石組みや岩に刻まれた線刻を手がかりに、古代人による太陽運行の精細な観測を確認することができる”縄文時代の太陽暦”のことだ。※関連サイトの紹介⇒〔金山巨石群と太陽カレンダー〕そこで冒頭の画像は10月23日の夕刻に、地元は山口市内の「岩屋山」の山上に鎮座する磐座(下の画像)から撮影した、「冬の始まり」を告げる「日の入」の風情である。当日の日没を観測したことで、対岸にある「日ノ山」(冒頭画像の中央部に見えるなだらかな山)の左側ピークに夕陽が沈むことが分かり、改めてこの山上に鎮座する磐座(下の画像)の観測地点と「日ノ山」の日没地点が、”縄文時代の太陽暦”に基づく「冬の始まり」を示す位置関係にあることを確認することができた。この風情を展望しつつ、この10月23日から始まった”冬期”の約120日間は、おそらく”未曽有の大転換期”になるのであろうと感じた今日この頃である。
2025年10月25日

今朝(2025年10月22日)見た「明晰夢」が、とても印象的だったので日記を書くことにした。「明晰夢」とは、夢を見ている最中に、それが夢だと自覚できる夢のことである。以下は、その夢の内容を掻い摘んで記したものだ。・彗星を見るため知人と共に高台に登り、日暮れを待つことになった。・まだ青空が残る天空に、2~3機のジェット機がアクロバット飛行をしながら近づいてきた。・その内の1機の機体が、奇抜な形状に何度も変化しながら私に近づいてきた。・最終的には私一人が乗ることのできる〈宇宙船〉になったところで(既にその〈宇宙船〉が”意識体”だと気づいていた私は)その〈宇宙船〉に対して・・・なぜ私を選んだのですか・・・と訪ねた。…と、そこで目が覚めたのだが、それからまた眠りに入った。すると、その”意識体”によってであろう、私の体が精細に調査されていることが如実にわかった。その私を担当した”宇宙存在(意識体)”は、【 ヌーマの《 ルー 》】と名乗った。以上が今朝の「明晰夢」の内容である。
2025年10月22日

昨日の2025年10月10日より始まった展示会【 燦然たるオブジェたち Vol.4 in 筥崎 】の模様を、自作の立体作品を中心に撮影した画像が上である。◎作者である私(山本裕一)の紹介文…数と形に興味を抱き1982年より立体造形に取り組む。綿棒を用いて同じ長さの軸線で組み立てられたスケルトン作品は現在に至るまで数百点にも及び、独自のテーマのもとに多種多様な形態を現している…(山口市在)Instagram・Tamanowo初日の”立体造形”ワークショップでは、お二方の体験希望者があり、存分に工作を楽しまれた様子で、共に制作した作品を大切そうにお持ち帰りになる風情が嬉しかった。また、誘っていた友人も来てくれて、他にも会場に集われた皆さんと四方山話に花が咲き、閉場時間まで私も大いに楽しむことができた。さて、下のリンク記事に書いたように、先日訪れた「後鳥羽神社」において・・・来る展示会では「菱型30面体」(菊花紋章の原型)を基盤とする造形を中心に披露するように・・・と脳裏に浮かんだことで展示することになった、冒頭画像に映る3つの造形を簡単に解説すると、向かって左側の大きな白い作品は計33個の「菱形30面体」が結合した複合立体、次に右側の金色の作品は「菱形30面体」を拡大解釈した構造、そして手前の青と赤の二つの「菱形30面体」が合体した作品は〔陰陽和合〕を象徴した形象となる。☆関連記事・・・「菊花紋章」の原型を「菱形30面体」と洞察、そして…実は展示会の直前に、会場からほど近い場所に鎮座する”日本三大八幡宮”の一社「筥崎(はこざき)宮」(福岡市東区筥崎)に参拝した折、当社境内のここかしこに点在する石灯籠(下の画像)に「菊花紋章」を見出すこととなり、改めて〈大いなるもの〉の導きを強く感じたところである。次に上の画像は、当社の由来書を撮影したものだ。そこで当社に祀られる三柱の祭神の神名から、今朝になって確認できた重要事項があった。それは「筥崎宮」の鎮座地に関するものである。既にお察しのように、私の運営するブログタイトルにある「歴史探訪」は、その時々の自分にとって関心のある歴史にまつわる神社や山岳等を選び、地図上でそれらの地点をつなぐ”線”を引き、相互の関係性を見出していくという現地探訪のスタイルがあった。そこで今回見出せたのは、「筥崎宮」を中心とした「祭祀線」であった。それは「冬至」の日の出を重要視した祭祀線で、「筥崎宮」ー「宇美八幡宮」ー「宝満山(標高829m)」と、2つの社の鎮座地と太宰府地域の艮(東北)を守護する「宝満山」山頂を直線で結ぶ『三点一直線』であった。つまり、「筥崎宮」の祭神は由来書にある「応神天皇・神功皇后・玉依姫命」の《三柱の神々》であり、「宇美八幡宮」(福岡県粕屋郡宇美町)の鎮座する地所は「応神天皇」(母親は「神功皇后」)の生誕地、そして「玉依姫命」(神武天皇の母親)を主祭神として祀る「竈門(かまど)神社」(福岡県太宰府市内山)の神体山が「宝満山」となり、まさに「筥崎宮」に祀られる《三柱の神々》が上記の『三点一直線』に関連付けて俯瞰できたということになるのだ。毎年「筥崎宮」にて、「宝満山」の山頂より昇り来る”一陽来復”の「冬至」の朝日を拝受することは、当社の祭神である《三柱の神々》の神々しい光を浴びる神事であり、おそらく古来より年間でも恒例の重要祭祀として斎行されてきたことであろう。次に上の画像は、当社の由来書に記してある「敵国降伏」の扁額が高々と掲げられた楼門を撮影したものだ。加えて下の画像はその扁額を拡大したもので、さらに下に続く画像はこの「敵国降伏」の”いわれ”が書かれたものである。そして下の画像は、日本最大の国難と伝わる「蒙古襲来」(元寇)に際し、亀山上皇(第90代天皇)は国家安泰を祈念し自筆による「敵国降伏」を下賜されたという当時の経緯が、詳しく記された掲示板を撮影したものだ。上掲画像の掲示板の内容については、まさに多くの難しい課題を抱えた今の日本の国状と相通じるものがあり、現今の日本人ひとりひとりが様々な問題の解決に向けて、それこそ真剣に取り組んでいくべき一大転機と感じる今日この頃である。さあ、当展示会の期間は明後日の13日(月/祝)PM5:00までだ。最終日はAM11:00から在廊予定である。
2025年10月11日

新作『 多次元世界 』 作者 山本 裕一〔サイズ…75×75×75(cm)〕その経緯等を昨日の記事に書いたように、このたび以下の次第で【 燦然たるオブジェたち Vol.4 in 筥崎 】と題する合同展示会に参加する運びとなり、奇しくも「筥崎宮」の御神前にある会場で冒頭画像の今年3月に造形した新作『多次元世界』を出展します。☆”新作”の解説記事・・・”多次元”への転換を示唆する構造※作者の在廊は 初日10日(金)と最終日13日(月/祝)の2日間。《初日のみ11:00~随時”ワークショップ”を開催‼(有料/千縁)》音楽演奏を含む様々なジャンルで活躍する作家達と共に皆さまのご来場をお待ちしています。【 入 場 無 料 】
2025年10月01日

先月(2005年8月)の中旬に、まるで導かれるようにして訪ねたのは、末尾に掲載した画像に映る看板にある佐賀県神埼市背振町鹿路の”鳥羽院(とばい)”という地区に鎮座する「後鳥羽神社」であった。そこで冒頭画像は、「第82代 後鳥羽天皇」を主祭神として祀る当社の境内裏手にあって、おそらく瀧行をする際に丁度良い佇まいの約6mの瀧を撮影したものである。画像のように、たまたま水流が陽光に輝く時間帯に遭遇、まさしくこの地域が聖地であることを感じさせてくれた。次に上の画像は、当社の鳥居をくぐり社殿を含む荘厳な雰囲気の漂う御神前の全体像を撮影したものだ。特に画像の中央から右下にかけて、まるで山上から降りてきた「龍蛇」を彷彿とさせる磐座群は、圧倒的な迫力であった。この鳥羽院地区には、鎌倉時代の1221年「承久の乱」で敗れ、隠岐島に流された後鳥羽上皇が、ひそかに島を抜け出して身を寄せたという「後鳥羽上皇の伝説」があり、鳥羽院という地名の由来にもなっている。毎年2月22日の「後鳥羽上皇」の命日には、現在でも祭事が行われているとのことである。そして上の画像は、当社の由緒を撮影したもので、どのような経緯で「後鳥羽上皇」の御一行が、隠岐島から当地に身を寄せることになったのか、その背景が詳しく記されている。また下のリンク記事にも書いたが、かつて2011年の秋に「隠岐島」の諸島を周遊した際、自身の中で強く印象に残った体験は、〔島前〕の「中ノ島」に存在する「後鳥羽上皇御火葬塚」での出来事であった。※関連記事・・・「隠岐の島」周遊の思い出(6)その出来事とは、その火葬塚の前で、当時の造形表現において最高の傑作と実感していた「複合立体」(下のリンク記事に掲載した冒頭画像に映る「五つの正多面体」が一つに和合した造形)に関する啓示を受けたという、言わば”霊的体験”である。この私的には未曽有の体験も加わって、公の伝承において「後鳥羽上皇」に由来するとされる「菊花紋章(十六八重表菊)」の原型を「菱形30面体」と洞察し、加えてその内部の構造を含む「複合立体」を『三種の御紋』の統合体と認識するに至ったというわけである。※関連記事・・・『三種の御紋』の統合体今回の当社への参拝は、当日の朝に〈JR博多駅〉へ到着後、とつぜん降って湧いたかの如く決定したわけだが、実はもう一つの重要事項が決定した日でもあった。それは、明日の10月1日に公開予定の「合同展示会」の告知内容において、展示する自作の”立体作品”の選別や参加次第を決定づける電話連絡を、当展示会の主催者からいただいた日だったということだ。さらに参拝した「後鳥羽神社」の近くには、延応元年(1239年)2月22日に崩御された「後鳥羽上皇」の山陵と伝わる墳墓があるのだが、当地を離れる前にその墳墓に向かって遥拝していると不思議にも・・・来る展示会では「菱型30面体」(菊花紋章の原型)を基盤とする造形を中心に披露するように・・・との想いが浮かんできたので、やはり当日の動向は〔大いなるもの〕の采配であったと実感した次第である。そして、その日の締め括りは、当初から訪れる予定にしていた「古湯温泉 ONCRI/おんくり」での入浴であった。当ホテルは”日帰り入浴”ができる宿泊施設で、泉温が38度と「ぬる湯」で知られた心身共にリラックスできるお気に入りの温泉で、今回で三回目の嬉しい湯浴みとなった。その大きな露天風呂に掲げてあった当温泉の由来を読むと、この嘉瀬川の緑の谷間に湧く温泉は、今から2200年ほど前、不老長寿の薬を求めて”秦の始皇帝”に派遣された「徐福」が発見したという伝説が記されており、この温泉地からも近い佐賀市金立町にある「金立山」の山上に鎮座し、上記の「徐福」を主祭神として祀る「金立神社(上宮)」への参拝や、社殿裏手に屹立する巨大磐座の「湧出御宝石」等を思い出し、ゆったりと湯船に身を任せつつ感慨無量の想いに浸るのであった。
2025年09月30日

今年(2025年)の9月初旬、地元は山口県の「岩屋山(標高101m)」山系の丘陵地(山口市秋穂二島)に存在する大きな磐座の岩面に、「ペトログリフ(岩面彫刻)」を確認することができた。ここで簡単に「ペトログリフ」とは、古代人によって岩に刻まれた図形や文字のことである。そこで冒頭画像は、その「ペトログリフ」を確認できた岩面の全体像を撮影したもので、特に岩面の上部に刻まれた意図的な形象や古代文字のような多様な線刻に注目していただきたい。これまで全国各地で数々の磐座群を見てきた経験から、おそらく正真正銘の「ペトログリフ」である。◎関連記事・・・ペトログラフ岩◎関連記事・・・国東のペトログラフ岩の解説と…所感…この岩面に「ペトログリフ」を確認した大岩を含む磐座群を訪れたのは、これまで約10回を数えるのだが、その磐座群を「岩屋山」の山上より遠望した画像が上である。ちなみに、磐座群の遠方に見える山並は、防府市南部の瀬戸内海上に浮かぶ「向島(むこうしま)」だ。さて高台に鎮座する磐座群に近づくと、最初に目を引く磐座は、(上の画像のように)一見すると浮いているかのように見える”宝珠”のような美しい岩である。この画像でも分かるように、この”宝珠”の岩は二つの大岩に支えられており、その下方は大人一人がひざまづきながら、やっと向こうに通れるくらいの空洞になっている。次に、この”宝珠”の下を潜り抜けた左側の垂直に近い岩面(上の画像)が、冒頭画像で掲載した今回初めて確認することのできた多種多様の「ペトログリフ(岩面彫刻)」が刻まれた部分となる。そして下の画像は、その「ペトログリフ」が刻まれた部分を拡大して、画像の調整によってシャドーを強調することにより、岩面に刻まれた形象や文字類を読み取りやすくしたものである。おそらく感性の豊かな方の中には、この古代人の刻んだメッセージが読み取れる人もいるであろう。風の噂によると、この磐座群の南方に浮かぶ「竹島」(下の画像の中央に浮かぶ小島)との深い関係により、この「ペトログリフ(岩面彫刻)」のある磐座群が形成されたということである。その後、この「竹島」の位置が気になり地図上で調べてみると、この磐座群から見た「竹島」の方位は、真南から東へ約20度ほど振れた「シリウスの聖方位」と分かり、満面の笑みで大きく頷く自分がいた・・・。ちなみに、この「竹島」に祀られた祭神は地元では「イチキシマヒメ」と伝わるのだが、その元の祭神は〔大化の改新(AD645年)〕以降に”封印”された女神「セオリツヒメ」であり、さらにこの神名「セオリツ」の本質は、その語源にまつわる天体「シリウス」に繋がるということだ。・・・いよいよ今年の9月より、『 ミロクの世 』の時代の到来である・・・☆関連記事・・・「冬至」に向けて☆関連記事・・・常に輝く星「シリウス」、そして「太陽」☆関連記事・・・天地をつなぐ『虹』の出現、その背景には…
2025年09月20日

◎題名『宇宙(そら)』…作者 山本 裕一 ◎「立体作品」・・・大きさ〔75×75×75㎝〕◎作品の説明学術的には「大菱形20面・12面体」という名称。全部で18種類ある基本立体の中で最大のものとなります。 全て同じ長さの「軸線(素材は綿棒)」で構成したところが特徴です。(総数は約 4,500本) 同じ形状の立体作品は、2001年に「仁壁神社(山口市三ノ宮)」に奉納、現在も当社拝殿の天井から吊り下げられており、参拝者は誰でも見ることができます。※関連記事・・・天空に輝く「星々」と神社に祀られた「神々」の関係性、そして…冒頭画像に映る立体作品(一点)を、以下に告知した作品展に出展します。皆さまのご来場をお待ちしています。
2025年09月01日

さて、前回の日記に続いて冒頭画像に映る島は、本州最西端の「毘沙ノ鼻」の展望台より、西方の響灘に浮かぶ「蓋井島」の全容を撮影したものだ。日本最高峰の「富士山」と本州最西端に限りなく近い「吉母富士」と、この二つの「富士山」を結ぶ軸線は本州最西端の「毘沙ノ鼻」を透過し、その先にある上の画像の「蓋井島」を貫通していたことも含め、これまでの様々な経緯から私なりの”見立て”として、この「蓋井島」は「本州」を象徴する「扇子」を閉じるための”責め”に観えていたのであった。そして繰り返しとなるが・・・いよいよその”責め”を外す時が来たのではないか・・・とのことで、今回の「蓋井島」への渡海に繋がったと感じている。今の時期に蓋井島に渡るフェリーは一日三便、今回は下関の吉見港13:30発の便に乗り、蓋井島までの所要時間は約40分。そして帰りの便は蓋井島15:50発だったので、同島の滞在時間は約2時間であった。そこで上の画像は、蓋井島の港に下船してすぐの辻に掲載されていた「国指定重要文化財」に関する解説版を撮影したものだ。かつて、この7年毎にある「山の神」神事が斎行された聖地を訪れたことがあったが、その信仰の原点ともいえる祭祀形態の素朴な佇まいに、とても感銘を受けたことを憶えている。まず当日の限られた時間に向かったのは、同島の港湾に近い高台に鎮座する「蓋井八幡宮」であった。その当社本殿を正面から撮影した画像が上である。(当社祭神…八幡大神・神功皇后)そこで注目してもらいたいのは、社殿向拝の梁に施された彫物(意匠)である。その左右の二ヶ所に対称的に彫刻された意匠は「兎(ウサギ)」であり、その左右に施された「兎」の彫刻を拡大して掲載したものが、この下に続く二枚の画像だ。この「兎」の意匠を見て直感したのは、豊前国一之宮「宇佐神宮」(大分県宇佐市)の神氣であった。(※言うまでもなく同島に鎮座する八幡宮も、全国八幡宮総本社「宇佐神宮」の分祀である。)この「蓋井島」の浮かぶ”響灘(ひびきなだ)”という山口県西部の海岸域は、近年になって下関市と合併するまでは「豊浦(とようら)郡」と称されていた。そこで、上記の「宇佐神宮」の鎮座地を含む現在の大分県全域から北方の福岡県北九州市の小倉地区辺りまでは「豊国(とよのくに)」という大きな古代の国域だったことから、現在の本州と九州を隔てた”関門海峡”を挟んで、南方の九州側を『 豊の〔表〕の国 』、北方は本州側の山口県西部の海岸域から内陸にかけた一帯を『 豊の〔裏(浦)〕の国 』と、古来より表裏一帯の広範囲な「豊国」と称されていた可能性を(私的見解ではあるが)ここで指摘しておきたい。加えて、古代の「宇佐神宮」の宮司家を務めた「宇佐(兎狭)氏」は、「月」の”満ち欠け”を基盤とする「天津暦(あまつこよみ)」を司り、アジア全域でみられる「月のウサギ」の信仰を継承し、「兎(ウサギ)」をトーテムとし崇めた氏族とされることから、上掲画像の社殿の梁に「兎」の彫刻を見た時の私的インパクトが強かったのであろう。以上の解説からお分かりいただけるように、当社社名の「宇佐(うさ)」とは、「兎(うさぎ)」の「ぎ」が脱落して社名になったことが自ずと類推でき、またその神氣を明確に継承する「蓋井八幡宮」が同島に鎮座していたということであろう。ちなみに、宇佐族が〔豊国〕の「宇佐神宮」に拠点を移してからは、奈良時代には”神託の聖地”として、皇室から「伊勢神宮」以上の崇敬を寄せられていた。蓋井島の港に近い高台に鎮座する八幡宮の参道から、真っすぐの石段を通して遠望した画像が上である。この画像中央の海原に浮かぶ手前の島は「雄島」(北九州市若松区)で、その右側に見える二並びの山は宗像市にある「孔大寺山(標高499m)」と「湯川山(標高471m)」で、かつて両山をかけて登ったことがある馴染み深い山々であった。そして上の画像は、帰りのフェリーから「蓋井島」を撮影したものだ。同島の向かって左に突き出た山は「乞月山(標高149m)」(冒頭の画像では左隅の山)で、まさに上記の宇佐族が太古より信仰した「月の兎」の風情を彷彿とさせていた。(了)
2025年08月26日

つい先日の8月16日、久しぶりに山口県下関市の「響灘(ひびきなだ)」の海域に浮かぶ「蓋井島(ふたおいじま)」へ渡る機会があった。同島へ向かうフェリーの出航まで時間があったので、そこから少し離れた本州最西端の「毘沙ノ鼻(びしゃのはな)」まで出向き、高台にある展望所から見て真西(約6~7㎞の沖合)の「蓋井島」を撮影した画像が上である。当地は何度も訪れているが当日は特に天候が良く、同島の右側に”世界遺産”の「沖ノ島」が視認できたのは嬉しかった。(※残念ながら上の画像では「沖ノ島」は見えづらい)そして上の地図は、冒頭で解説した「毘沙ノ鼻」の展望所と「蓋井島」の位置関係を図示したものである。加えて、「毘沙ノ鼻」の東方にある「小倉ヶ辻(標高308mの山)」を「吉母富士(よしもふじ)」と示してあるが、地元ではこの山が円錐形の「富士山」に似た美しい山容ゆえ、この愛称で呼ばれているということだ。かつて、この「吉母富士(小倉ヶ辻)」に登ったことがあるのだが、この山頂から展望する「蓋井島」も素晴らしかったことを憶えている。さて上の画像は、下のリンク記事から引用したものだが、日本最高峰の「富士山」と本州最西端の「毘沙ノ鼻」を結んだ”赤い線”を「扇子」を閉じた直線と見立て描いたものである。そして、閉じた扇子から”一本の扇子の骨”を開いた位置付けとして「富士山」と出雲の「八雲山」を結ぶ”東西軸”、さらに「富士山」と本州最北端の「大間崎」を結ぶ”青い線”は、この扇子を開き切った直線として描いてある。(※より詳しくは下の記事を参照されたし)※関連記事・・・観てきた「扇(奥義)」(上)※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(下)そこで当記事のタイトルに…「扇子」の”責め”を外す…とあるのだが、その”責め(セメ)”とは、扇子を閉じて固定している”和紙の帯紙”のことで”責め紙”とも言う。実は今回の「蓋井島」への渡海は、当日の午前中に決まったのだが、その時の私には「蓋井島」という名称にある”蓋”と「扇子」の”責め”が〔同じような意味合い〕に感じられ、何故か・・・閉じられた扇子の先端に付着していた”責め”(蓋)を、この日本列島に住まう民衆の《心魂の岩戸開き》に向けて、いよいよ本格的に外す(開放する)時が到来した・・・という感覚に包まれたのであった。
2025年08月23日

つい先日のカムチャッカ半島沖で地震が起きた当日(2025年7月30日)の未明の”夢”では…これ(気脈が通ること)で《循環》が良くなる…というビジョンを、「この地球の内部や外部を問わず構造的に張り巡らされたレイライン(鍼灸の解釈では人体の”経絡”)が滞り無く《循環》するシステム」として、詳しい解説付きで立体的かつ動態的に見せられたのであった。(冒頭画像は関連地図)そして同日の日本時間では午前8時24分頃に、同半島沖でマグニチュード(M)8.7の強い地震が発生したということで、ニュース報道による震源地の記された地図を見た時、すぐに私の脳裏には熊本県「金峰山」辺りの”中央構造線”の西南端から発する「夏至の”日の出”方向」の、ほぼほぼ延長線上にあると直観した。実は先日7月25日に長崎県西南部でM4.7の地震があり、自身が「金龍の目」と比定した地域の諫早市と雲仙市で震度4を観測したことから、冒頭画像の「夏至の方位線」の西南端を意識していたところであった。(※そもそも日本列島は「艮(東北)」から「坤(西南)」へ、あるいは「坤(西南)」から「艮(東北)」へ向かい形成された、言わば「艮坤線(坤艮線)」に存在する”龍体”という見立てができる。)※関連記事・・・「夏至」に動く(番外編)そこで”日本列島”の「九州島」を「龍の頭」とした”金龍”に見立てた場合に、北海道の東方にある国後島・択捉島より東北方面の「カムチャッカ半島」にまで連なる「千島列島」の、その最東北にある「占守島」までを「龍の尾」とする認識が、自身の心中に生まれたのであった。特に今年(令和7年)の7月は、数年前より様々な憶測が飛び交う中で、同月30日のカムチャッカ半島沖で起きた地震発生によって、結果的には”より良い方向”に〔世界線〕が変わったと視ている。※関連記事・・・《龍の目》を訪ねて※関連記事・・・「国東」と「国後」を結ぶ《艮坤線》
2025年08月02日

今月の7月12日(2025年)、様々な経緯から”九重連山”の東端に位置する「黒岳(標高 1,586m)」の北麓に湧く「男池(おいけ)湧水群」(日本名水百選/大分県由布市庄内町阿蘇野)を訪ねた。(※下の地図に「金峰山」と「鞍岳」を結ぶ”夏至の日の出方位”の延長線上に存在する当地を示した。)そこで上の画像は、この湧水群の中でも一際大きな「豊の国名水」と記載の石標がある湧水口を撮影したものである。その水を口に含むと実に味わい深く、久しぶりに自分と相性の良い水との遭遇であった。湧水の水温は年間を通じて約12度を保ち、湧出量は1日約2万トンということだ。その湧き出す水流の水草を揺らす姿にしばし見惚れたのだった。ちなみに当記事の末尾画像は、この湧水口を拡大した画像だ。さて前回の日記では、列島を貫く”夏至の日の出方位”(冬至の日の入方位)を描いたものとして、上掲2枚の画像を取り上げた。そしてその後、この”夏至の日の出方位”と重なる方位線が描かれた地図を思い出し、これを掲載した画像が下である。(※引用先は以下の関連書籍)※関連書籍…書名『 古事記のコード 』・著者 池田 潤・夷光祥出版(初版2011年12月)この下の地図は、当書籍の著者が2011年3月11日に発生した「東日本大震災」に触発され、”あとがき”として付記した内容に載せられたものを引用したわけだが、そのマーキング等の色付けと「熊本地震の震源地」は私が加えたものとなる。興味深いことに著者の池田氏は、「東日本大震災」の影響による”福島第一原発”の事故に注目し、その所在地である福島県「大熊町」を”夏至の日の出方位”の〔東北端〕として位置付けており、そして何故か上の〈押戸石のパンフ〉から引用した画像にも”夏至の日の出方位”の〔東北端〕に福島県「大熊町」が記されていたのである。さらに興味を引かれるのは、当書籍が出版されて約5年後の2016年4月14日を発端として、今度は”夏至の日の出方位”の〔西南端〕において、「熊本地震」(最大震度7)が連続的に発生したという事実だ。図らずも、日本列島を貫く”夏至の日の出方位”において、その”方位線”の両端で発生した大きな《ゆらぎ》があった。その列島を貫く”方位線”の、ほぼ中央に位置するのが「京都」(下の画像に赤色で図示)である。そして本日の《7月17日》は、その「京都」の”夏の風物詩”とされ平安時代より続く『祇園祭』(7月1日~31日)の”クライマックス”となる【 山鉾巡行・神幸祭・神輿渡御 】が斎行される重要な祭日である。この《令和7年7月17日》という真に特別な月日に、当日記を公開できたことを意義深く感じている。
2025年07月17日

この”「夏至」に動く”シリーズで、当日の最後に訪れたのは「押戸石(おしといし)の丘」(阿蘇郡南小国町中原511)であった。この「押戸石」を訪れるのは、もうかれこれ7~8回を数えることになろうか・・・前回から丸3年は経過した再訪だったこともあり新鮮であった。そこで下のリンクは、今から約10年前に当地を訪れた時の記事である。☆関連記事・・・熊本の磐座巨石群(2)そこで上の画像は、この丘陵地にある磐座群の入口とされる「はさみ石」を、〈「夏至」の”日の出”方位〉とは真逆の〈「冬至」の”日の入”方位〉に向かって撮影したものだ。この「はさみ石」の中央部にある割れ目の遠方に見える山塊は、前回の日記で取り上げた「鞍岳」を含む”阿蘇北外輪山”の一部である。そして上の画像は、Google地図を利用して「はさみ石」・「祭壇石」・「押戸石」を一直線に結び、〈「夏至」の”日の出”方位(=「冬至」の”日の入”方位)〉を分かりやすく示したものだ。ここで、画像中央部の右下に示した「月の祭壇石」については、この「押戸石の丘」を最初に案内してくれた感性の豊かな御方から…溜めた”水”に「月」を映して祀っていた祭壇石…と聞いたことを思い出し、私的判断により付け加えることにした次第。そこで上の画像は、この水の溜まった「月の祭壇石」を、下方から丘陵地の最上段にある「押戸石」に向かって撮影したものである。(※上のGoogle地図にある磐座の並びを参照すると俯瞰できよう。)次に上の画像は、一番下の「月の祭壇石」から二番目にある磐座の上に乗り、水の溜まった「月の祭壇石」を撮影したものだ。例えば、この祭壇石に水をいっぱいに溜めることで、この位置より水面に映る美しい満月を観たり愛でることができよう。・・・もし、この立ち位置(上の画像)の視線で月を見るとすれば、南中時の最も高い位置に輝く「満月」が理想的となるのだが、ここで思い出したのが昨年の12月中旬に、図らずも奈良で見る運びとなった約20年に一度の、南中時に「最も高く昇る月」であった・・・。以下のリンクは、その関連記事である。☆関連記事・・・来たる12月15日の《特別な満月》そこで脳裏をよぎったのは、ここ「押戸石」に来る直前に登った”双耳峰”からなる「鞍岳」の鞍部で見つけた、上に掲げた画像に映る(遠方より撮影した)”小規模の磐座群”であった。現地では・・・この「鞍岳」の山上にある磐座群は小規模ではあるが、確実に「押戸石」の磐座群とつながっている・・・という直観が走ったことを憶えている。その”小規模の磐座群”に近づいて撮影した画像が上である。各々の磐座には意図的な石工や線刻等が施されていて、全体として明確な方向性を示すように設置された可能性を指摘しておこう。そして上の画像は、「鞍岳」の鞍部にある磐座群の、大きい方より二つの磐座を背景にして、「押戸石」の方面に向かって撮影したものである。ここで冒頭画像の地図を見ていただきたい。この地図上には、「鞍岳」と「押戸石」を結ぶ線を引いていないのだが、もし双方の地点を方位線として引いたとすれば、真東から北へ約33°の方位角を形成する。この約33°の方位角とは、上掲のリンク記事を読むと分かるのだが、約20年の周期で最も月(満月)が北方から昇る角度のことだ。その約20年に一度の”最も高い満月”は、夏至の太陽の南中高度よりも高い位置に輝くのであり、最近の学術調査により”弥生時代”を代表する「吉野ヶ里遺跡」においても、その「最も高い満月」が観測されていた痕跡が明らかになっている。この「鞍岳」と「押戸石」を結ぶ方位線が示す角度の約33°とは、おそらく双方の地点で約20年周期の月を観測してきた証拠であり、その最大となる「最も高く輝く満月」の祭祀が、「押戸石の丘」に並ぶ磐座群の中でも、上記の「月の祭壇石」で斎行されてきたと考えられるのだ。これは、間違いないであろう。さて、上の画像の〈夏至の”日の出”方向〉の軸線(黄色)が引かれたイラスト地図は、「押戸石の丘」に訪れた際に出入口の施設(NPO法人 押戸石の丘)でいただいたパンフから引用したものだ。これまで”「夏至」に動く”シリーズで記述してきたように、おそらくこの”龍体”たる日本列島を貫く『太陽の道』の原点に、あの「阿蘇山」よりも古いカルデラ式火山の「金峰山」や、その山麓に当山を崇拝する「拝ケ石巨石群」が存在したのであり、そして「押戸石の丘」を経由し列島における〔磐座祭祀〕の《要》たる「金山巨石群」に改めて氣脈を通し結び直すという、深くて濃厚な旅路であったと感じる今日この頃である。(了)
2025年06月26日

今年の〔夏至日〕は2025年6月21日(土)であり、その”夏至点”の時刻は〈午前11時42分〉であった。熊本の「金峰山」から、次の目的地に向かう過程で”夏至点”を迎えることになったので、その強烈な陽光を体感しようと休憩かたがたとある駐車場に停車した。そして車外に出て、思わず天を見上げ《年間で最も高い位置に輝く力強い太陽光》を直に浴びて撮影した画像が冒頭である。するとどうだろう…この画像には雲間にあふれる極彩色と、中央部の右下には不思議な”玉”が映っていた。それに加えて、その”夏至点”の時刻を挟んだ数十分だけ”太陽”が顔を出していたのも印象的であった。そして「夏至点の太陽」を浴びて以降、しばらく脳内の《松果体》が開花したかのような、今まで感じたことのない特別な感覚となり、(普段は鈍感な私でも)”活性化”の感触を自覚できたのは嬉しかった。さて上記の”次の目的地”とは、今回の阿蘇方面を訪ねる際に、あらかじめ目的地としていた阿蘇北外輪山の一峰「鞍岳(くらだけ)」である。そこで上の画像は、男岳(標高 1,118m)と女岳(標高 1,090m)の二つのピークを持つ”双耳峰”が特徴的な「鞍岳」を撮影したものだ。(※その山容が”馬の鞍”に似ていることから名付けられたとのこと。)ありがたいことに、この「鞍岳」は九合目まで車道があるので、駐車場に車を停めて約30分のなだらかな山道を登り切ると、大展望の待つ山頂に到着することができた。そこで上の画像は、「鞍岳」と書かれた山頂の標識を、北方に向かって撮影したものである。この画像では分かり辛いのだが、この標識上方の遥か遠方に、はっきりと「英彦山」を視認することができた。…ということは、末尾の地図を参照すれば、ここ「鞍岳」の山頂から見た真北にある「英彦山」の、さらに遠方の真北には山口県下関市の「鯖釣山」が存在するというわけで、今回が初めての登山となった「鞍岳」登拝の意義を噛み締めるのであった。加えて「鞍岳」は、末尾の地図を見ると分かるように、「金峰山」から見て〈夏至の”日の出”方位〉(紫色の方位線)に存在し(実は本日、末尾の地図を制作中に分かったことなのだが…)、当日の夏至日にまず「金峰山」の山頂に立ち、そして”夏至点の太陽”の光を体感した後に、〈夏至の”日の出”方位〉に存在する「鞍岳」の山頂に立つ運びになったことを、この期に及んで認識することになったのであった。まさに感慨無量である。そこで上の画像は、「鞍岳」の山頂から「金峰山」(画像中央部の少し左側の山塊/冬至の”日の入”方位)を撮影したものだ。また、この画像に映る「金峰山」山系の、右側の上方に微かに見える遠方の山並が雲仙の「三峰五岳」である。この「鞍岳」の山頂は、360度の全域を見渡せる抜群の展望地で、近くの「阿蘇五岳」の景観も素晴らしいということだが、あいにくの天候のため全体に雲がかかっていたので、その大展望は次回の登拝に期待することにした。そして次に向かったのは、”夏至”当日の最後の目的地としていた「押戸石の丘」(南小国町)であった。(つづく)
2025年06月25日

夏至日の早朝に、地元は山口市秋穂二島の「岩屋山」を登った後、およそ一週間前から行く予定にしていた九州は熊本の阿蘇方面へ向かうため、JR新山口駅から新幹線に乗って博多へ移動した。そして、JR博多駅で待ち合わせていた相棒の車で阿蘇方面へ高速を使って走る過程において、当初の目的地は別にあったが後に回すことにし、まずは熊本市西区河内町の「金峰山」(標高665mの〈一ノ岳〉を中心とするカルデラ式火山)に登ることに決定した。当山の九合目までは車で登れるので、今回で四回目の登拝となる「金峰山」の、その山頂部にある展望台より、西方の有明海から島原半島方面を撮影した画像が冒頭である。残念ながら、前方に映る島原半島の上部は雲に覆われていたので、よく晴れた展望の良い日に、同じ場所で撮影された画像を下に掲げた。その美しい雲仙の「三峰五岳」の中央に聳える御山が、「雲仙普賢岳」(標高 1,483m)である。この撮影地である「金峰山」のすぐ近くには、知る人ぞ知る「拝ヶ石(おがみがいし)巨石群」という古代人によって設営され”天体観測&地文測量”で活用していたであろう磐座群が存在する。☆関連記事・・・熊本の磐座巨石群(1)いままで4回は訪れたことのある当巨石群では、毎年の”夏至日の南中時”に、磐座群の中心部にある石組みへ射し込む陽光が、綺麗な「三角形」を形成するとのことだ。このことは、この「拝ヶ石巨石群」に関する情報を改めて確認する際に知り得たことである。そこで思い出したのは、昨年2024年の「夏至」の頃に訪れた「金山巨石群」にて、特に「夏至」を観測する”石組み”を透過した《南中時の太陽光》が、下方の大地に射す光の形状を視認することができ、ここに来た意味を実感し感動に包まれた場面であった。(※以下の関連記事)☆関連記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路…(7)さらに興味深いことは、この「拝ヶ石巨石群」と「金山巨石群」を地図上で結んだ方位が、当日の「夏至の日の出」(冬至の日の入)を示すということである。(※この件については後編で綴る予定)さて、この「金峰山」の山頂には「金峰山神社」(旧・蔵王権現社…上の画像は旧社の由緒書き)が鎮座している。そこで日本列島を”龍体”と見立て、九州を”龍の頭”とした場合に、その《龍の目》は”雲仙”にあるとする情報から、結果として”雲仙”における修験道の本尊たる〔大磐座〕に辿り着くことができたのであった。☆関連記事・・・《 龍の目 》を訪ねて実は、冒頭画像に映る手前の「金峰山」山系と、遠方の”雲仙”を含む「島原半島」とは、古代より”雲仙”の修験道にとって深いつながりがあった・・・。つまり”雲仙修験道”が古代より隆盛した背景には、”雲仙”方面から見て「有明海」を隔てた東方に「金峰山〔一ノ岳(665㎡)・二ノ岳(685m)・三ノ岳(681㎡)〕」が存在し、この「金峰山」山系から昇り来る朝日を遥拝する『三山信仰(太陽崇拝)』が原点にあったということである。以上の観点や繋がりを踏まえた上で、九州を「龍頭」と見立てた場合に、「金峰山」(熊本市西区河内町)の”頭部”における位置付けは、今のところは脳の直下にある《脳下垂体》と直観している。(つづく)
2025年06月24日

今年(2025年)の「夏至」(6月21日)の午前5時頃、天気予報では”御来光”は望めないとは思いつつ、地元の「岩屋山(標高101m)」(下の地図参照)の山頂に立った。案の定、山頂では朝日を浴びることはできなかったが、下山過程の中腹にある磐座群の「天狗岩」(おうし座の一等星「アルデバラン」が地上に投影したと感じる岩石)のところでフト振り返ると、図らずも雲間から射す《夏至の陽光》に遭遇。そこで上の画像は、その(私的に名付けた)「天狗岩」の上に昇る「夏至の朝日」を撮影したものだ。そこで…なぜ「アルデバラン」を象徴する「天狗岩」の場所で「夏至の朝日」を見ることができたのか…と思った時、私の脳裏に浮かんできたのは・・・縄文時代の中期頃、年間でも「夏至」を重要な節目(年始)として観測(祭祀)していた痕跡を残す青森の「三内丸山遺跡」の”六本柱建物”・・・であった。◎関連記事・・・二つの太陽さて上記の「夏至の朝日」と「アルデバラン」の関係性を、日本神話の「天孫降臨」に絡めて紐解いてみよう。それは「天孫降臨」の段に登場する「神々」を、天空を運行する「星々」として解釈する世界観で、夜明けの晩に「夏至の朝日」(ニニギ命…「天孫降臨」の主人公)を、まるで導くかのように昇ってくる「おうし座」の一等星「アルデバラン(和名=赤星)」に、天狗の面に象徴される赤ら顔をした「導きの神」たる「サルタヒコ」という神名が付けられたという説である。この「夏至の太陽」と「アルデバラン」が対峙する天体運行は、日本では縄文時代から年間でも大切な節目とされた形跡があり、この縄文期の夏至の観測において最も重視されたのは、夏至の日の出の直前に、その地域で目星の山と定めた山頂から赤色に輝く「アルデバラン」が出現した途端に、昇る朝日の光芒で(アルデバランの赤い星が)掻き消される瞬間(フラッシング・ポイント)であったとのことだ。そんな厳密な天体観測が行われてきた形跡が残る縄文遺跡の代表が、上記の「三内丸山遺跡」であり、あの印象深い太い柱が六本で構成された「大型堀立柱建物」のそもそもの建築目的は、上記の「夏至の日の出」と「アルデバラン」の関係が生み出す「フラッシング・ポイント」だったということである。なるほど…「アルデバラン」を象徴する「天狗岩」のところで、「夏至の朝日」に遭遇するわけである。☆参考文献・・・書名『 縄文の星と祀り 』 堀田聰八郎 著・中央アート出版(1997年 初版)☆参考文献・・・書名『 星座で読み解く日本神話 』 勝俣隆 著・大修館書店(2000年 初版)(つづく)
2025年06月23日

この【37】という”数”に関しては、冒頭画像に映る「準正14面体」(ベクトル平衡体)という”形”との関連が見出せる。つまり、この造形を構成する軸線(綿棒)の総数「36(※)」に、構造の中心を「1」として加えて「37」とする解釈である。実はこの解釈は、あるチベット密教の高僧との通訳を交えたこの造形に関する語らいの中で生まれたものであった。その経緯は、この造形が36本の軸線で構成されていることを高僧に伝えると・・・チベット密教では「36」という数が重要視されていて、〈菩薩〉の修行は全部で「36」の段階があり、その全ての修行を経て、いよいよ「37」の段階に至った者が「悟りの境地」、すなわち《如来》となる・・・と教わったことから、その『無我の境地』たる《如来》の立ち位置としては、全部で「36」を数える〈菩薩〉の修行段階(造形を構成する軸線の総数「36」と想定)を経て、その修行段階を全て俯瞰できる位置として、この造形の《中心=37》が相応しいと感じた次第である。(※)上の画像に映る造形については、中心から12(頂点の数)の方向に広がる軸線(紫色=12本)と、外側の枠組みを形成する軸線(緑色=24本)を合わせて、全部で「36本」の”同じ長さの軸線”で構成されている。この36本の”綿棒”で作る「準正14面体」は、以下の自身が編集したYouTube動画に詳しい。※関連動画・・・【 綿棒工作 】…No.7〔準正14面体〕(YouTube/たまのをチャンネル)次に上の画像に映る造形は、冒頭画像に映る造形(準正14面体)を全部で13個組み合わせたものを基盤に制作した作品で、結果として中央に存在する1個の「準正14面体」から外側に向かって〔三層構造〕に展開した複合立体である。(※これを初めて制作したのは2005年3月で、その経緯等は以下の関連記事に詳しい。)※関連記事・・・〔究極の構造〕(あの「フラワー・オブ・ライフ」の原型かもね)この〔三層構造〕から成る大きな「準正14面体」は、その制作の”コツ”さえ掴めば意外に簡単に造ることができる。その”コツ”を含む制作法を盛り込んだ自身の編集によるYouTube動画が以下である。※関連動画・・・【 綿棒工作 】… No.8 〔フラワーオブライフ〕(YouTube/たまのをチャンネル)そして上の画像に映る造形は、その全体の形象は冒頭や二番目の画像に映る造形と同じく、それぞれの構成単位ともいえる「準正14面体」を基盤にした表現となっている。特にこの上の造形は、中央部から外側へ向かって〔五層構造〕になっており、各階層ごとに内から外へ「赤・橙・黄・緑・青」と”五色”の彩りを施したものである。ちなみに第三層となる「黄」の配色までの構造が、上から二番目の画像に映る金色の造形の範囲である。さてそこで、自身のこれまでの記述を俯瞰してみると、タイトルに掲げた【37】という”数と形の関係性”から、ここまで内容が膨らんでいくことになろうとは全く予想していなかったので、これを書き記している自分自身が妙に楽しく、また嬉しくなるのであった。ところで、上の地図に引いた”緑色の南北軸”は、前回の記事(上)で扱った「英彦山」を”中央”の山岳とし、その真北にある「鯖釣山」を北方の真中の数たる【37】に見立て、その軸線を引いたものである。そして、同じく地図上の「鯖釣山」を交点とする”紫色の東西軸”は、かの弘法大師〔空海〕に纏わる「北緯34度13分」の緯度線を示している。実は”ある仮説”に・・・〔空海〕は〈太陽の影〉を利用して、かなり正確な緯度を測定する測量方法を承知の上で、真言密教を修得した中国の長安(現在の西安)の「青龍寺」を西方の基点とする「北緯34度13分」の東方へ向かう緯度線上に、〔空海〕の生誕地とされる香川県の「善通寺」(北緯34度13分30秒)や真言密教の聖地「高野山」(北緯34度12分50秒)を意図的に配置したのではないか・・・とあった。・・・となれば上の画像のように、その緯度線上の山口県の西岸域には、「鯖釣山」(北緯34度12分57秒)や近くの「狗留孫山」(北緯34度12分52秒)、当山の中腹に鎮座する弘法大師御開山の「狗留孫山 修禅寺」(北緯34度12分35秒)があるのだが、その「修禅寺」の海側にある「湯玉」を寄港地として、往時の〔空海〕を先達とする一行が訪れていたことが、大いに考えられるというわけだ。※関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(上)※関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(中)※関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(下)最後に末尾の画像は、前回の日記の冒頭画像に掲載した”屹立する岩塊”(北緯34度13分23秒)を、ほぼ真西に向かって撮影したものである。この「鯖釣山」の西麓岸壁に存在する威厳あふれる”立柱石”から見て西方に、天気の良い日には視認できる「沖ノ島」、さらなる遠方には「対馬」と、上の地図にあるように《三点一直線》の太古より大切にされてきた航路があったかと思うと実に感慨無量であり、この大きな転換期に改めて我が先祖の地を訪ねることができ、まさしく有り難き幸せを噛み締める一日であった。
2025年06月04日

2025年は下半期の初日となる6月1日、山口県下関市にある「鯖釣山」の西麓岸壁に屹立する岩塊(冒頭画像)を訪ねた。以下の過去記事に書いたが、この特異な形状の大磐座を訪れるのは今回で二度目となる。※関連記事・・・岸壁に屹立する《大磐座》の輝き現地に車で向かう過程では、まるで現地へ先導するかのように常に自車の直前を走る車の車番が「222」と気づき、その車番の上の地名に続く小さい番号は「333」であった。この二つの3桁の”ゾロ目”は共に「37」の倍数であり、今回の二度目となる「大磐座」への導きは【37】という数だったと、自分なりの確認が得られたのであった。(※その当地から帰宅途中に遭遇した自車直前の車の車番が「111」(37×3)だったことも含めて…。)その時、私の脳裏に浮かんできたのは、以下に掲載した二種類の「九マスの方陣」(以下「九方陣」と記す)があった。まず右側の”中心”にだけ「37」とある「九方陣」についてだが、実はこのブログタイトルにある『真理探究』が始まるキッカケとなる1982年5月17日早朝の”明晰夢”に出てきた《3と7》の数字を見た当日の午後、行き付けの古本屋で手にした「数霊(かずたま)」に関する書籍を、たまたま開いたページに掲載されていたものである。実は上記の”明晰夢”のなかで大きく光っていた西洋数字の《3と7》を、自分なりに「37(さんじゅうなな)」かなと思った途端に、『3と7だ。それだけ覚えておけ!』と威厳のある低い声が響いたという体験があり、その後に上記のように古本屋で見た「九方陣」の中心数が「37」だったことを、なぜか今更のように思い出すのであった。※関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(1-A)次に左側の「九方陣」については、この「37」を中心とする「九方陣」の全てのマスに、加えて単数化すれば「1」となる数を配置したもので、単数化しないでタテ・ヨコ・ナナメに並ぶ3つの数を加えると「111」となる数の配置であり、この9つのマスに置かれた全ての数を加えると「333」になる。そして、この「九方陣」を”方位”として観た場合は「北」を意味することから、今回の導きの数と観た【37】は、特に右側の「九方陣」で強調された”北方位の中心”を暗示すると分かってきたのであった。つまり今回の【37】とは、直近の日記(以下の関連記事)で取り上げたように、〔修験道〕の総本山たる「英彦山」を北部九州域の〈中央部〉に属する山岳の”中心”とした場合に、その北方に位置する山口県西部の山々の中では”中心”の位置付けとなる「鯖釣山」を象徴する数だと、(当山の西麓岸壁に屹立する”大磐座”を含め)今の私はそのように感じるわけである。(つづく)※関連記事・・・「英彦山」の大展望、そして・・・
2025年06月03日

前回の日記では…《龍の目》を訪ねて…と題して、古来より伝承されてきた「日本列島龍体説」に基づき、”裏”(〈龍頭〉を〈九州〉とする見立て)が”表”となって躍動する「金龍」のイメージを掲載した。そこで本日の冒頭画像は、その「金龍(日本列島)」の頭部から胴体へかけた”繋がり(関係性)”を、これまでの歴史探訪の中で見出せた《三本の南北軸》を基盤に、山名や地名を加えて描いたものである。前回の日記は主に【金龍の目(雲仙)】(上の画像では右側の「雲仙岳」を中心とする島原半島を囲んだ地域)に関してであったが、本日の日記では冒頭画像の中央部に位置する【松果体(耶馬渓…楕円で囲んだ地域)】と思われる聖地を紹介することにした。そもそも日本列島の形状は、陰陽和合の”双龍”を象ったものとされ、その「陰」に該当する龍体の頭部を「九州」とした場合に、その龍頭(九州)の”松果体”の位置に当たる場所が「耶馬渓」に相当することを聞き知ったのは、今から四半世紀以上前のことであった。そして、大いなる導きのなかで2016年の秋に耶馬渓の「鹿嵐山(かならせやま)」に登拝する運びとなり、宇佐神宮の神宮寺(弥勒寺)の初代別当「法蓮(ほうれん)」和尚と深い所縁の御山ということも含めて、当山が”松果体”に相応しい聖地と私なりに感じてきた経緯があった。〔※以下の関連記事(1)~(5)〕☆関連記事・・・そして、豊前の「鹿嵐山」へ・・・(1)そして前々回の日記で書いたように、耶馬渓の「中摩殿畑山」の山頂より「英彦山(三峰)」の秀麗な景観を展望した際、久しぶりに「松果体」≒「耶馬渓」の関係を思い出し、当山(中摩殿畑山)の山頂こそ「松果体」の位置付けに相応しいと感じたところである。参考かたがた以下のリンクは、冒頭に書いた《三本の南北軸》等に関する関連記事である。これまでの長年にわたる山口~九州域における歴史探訪において、何故この”山口と九州を貫く《三本の南北軸》”の焙り出しに尽力してきたかという答えが、結果として「金龍」と見立てられる日本列島の「龍頭」を「九州」に見据えることにあったのだと、この期に及んで身に染みてきたところである。☆関連記事・・・山口と九州を結ぶ南北軸☆関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(中)☆関連記事・・・観えてきた「夏の大三角」の地上投影図☆関連記事・・・浮上してきたクロスポイントの「磐座」ところで、以下に掲載する5枚の画像は、一昨日の5月11日に耶馬渓の「中摩殿畑山」の麓にあって”耶馬六十六景”の中でも秘境中の秘境とされる「天の岩戸(あまのいわと)の景」(中津市山国町/冒頭地図に図示)を訪れた際のものだ。滞在は短い時間ではあったが、その類まれな絶景に心を奪われ、しばし感動の渦に包まれるのであった。まず上の画像は、前方奥の岩窟(豊前坊)に向かう出入口と感じられた景観を撮影したものだ。この「西京橋」と称される自然の岩でできた架け橋を潜り、「豊前坊」と称する岩窟に向かった。その「西京橋」を潜る前に、上方を見上げて「仙人梁」とも称する”天然橋”を撮影した画像が上である。そして洞窟「豊前坊」の入口の全体像を撮影した画像が上。画像は無いのだが、窟内に「豊前坊」を祀る祠があったことから当窟の名称になった模様である。この岩窟に至る鎖場が、なかなかの難所であった。さて、ふところが深くて大きな岩窟内から、前方の「西京橋(仙人梁)」を撮影した画像が上である。実はこの岩窟に到着した時に、ぜひ確認したいことがあったのだが、それはこの岩窟の開口部が示す方位であった。早速持参した方位磁石で確認すると、上の画像のように洞内から見て最も良い景観が見える方位が、自分なりに予想していた「シリウス方位」(真南から東へ約20度の方角)と分かり、すこぶる嬉しかったことを憶えている。・・・というのは、”英彦山修験道”の基盤とされた全部で「四十九窟」あったとされる行場(岩窟)にて、連綿と「弥勒(ミロク)信仰」が行われてきたことの証が、この岩窟「豊前坊」が示す「シリウス方位」にもあったと自分なりに納得できたからである。※関連記事・・・「金龍」に導かれ・・・・※関連記事・・・シリウス信仰の痕跡ここで興味深いことは、上の画像の前方に直立する杉が「シリウス方位」の指標となっているところだ。そこで下の画像は、この岩窟の前方に屹立する杉を下方から撮影したもので、画像の右側が行場の岩窟「豊前坊」の方面、そして左側が天然橋の「西京橋」の方面が映っている。この風情を存分に味わうなかで、”女性性”を象徴する”聖なる「岩窟」”と”男性性”を象徴する”聖なる「樹木」”の、陰陽抱き合わせの「ひもろぎ・いわさか」たる日本古来の”弥栄(いやさか)”なる祭祀の原点を、現地の大自然が具現しているのであろうと感じたところである。
2025年05月13日

前回の記事を掲載後、脳裏に何度も浮上してきたビジョンがあり、ここに覚書として記すことにした。そのビジョンを簡略し「日本列島」を「金龍」に見立てた日本地図(イラスト)の画像が上である。実は古代より「日本列島」を”陰と陽の龍(昇龍と降龍)”を「注連縄」のように重ねた”黄金の〔双龍〕”に見立てる《日本列島龍体説》があるようで、この説を基盤とする冒頭画像の(南北を反転した)列島イラストは〈龍頭〉を〈九州〉に、〈龍体(龍の胴体)〉を〈本州〉に、そして〈龍尾〉を〈北海道〉に対応させた絵図となっている。上記の《日本列島龍体説》では、列島は”黄金の〔双龍〕”からなり、その解説等では列島に”陰陽二体の龍”を、一方は〈龍頭〉を〈九州〉に対応させ、もう一方の〈龍頭〉は〈北海道〉に対応させて描くのが主流なのだが、今回は〈龍頭〉を〈九州〉に対応させた言わば〈陰の金龍〉の一体のみを描くことにした。その背景には、本日の日記タイトルにある《 龍の目 》を訪ねるかのように、九州は長崎県島原半島の「雲仙」を探訪し、そこで「金龍の目」と直感した”巨大磐座”(以下の掲載画像)へ、まるで導かれるようにして遭遇した経緯があった。加えて昨日のことだが、この記事を書くための客観情報を検索するなかで、上記の《日本列島龍体説》に関して・・・昔は〈九州〉が〈龍頭〉だったのだが、いつの頃からか〈北海道〉を〈龍頭〉にしてしまったので、「日本列島」が弱くなっていった。これから迎える新時代の「日本列島」は、〈九州〉を〈龍頭〉に戻さねば・・・という文章が目に留まったことも含めて、冒頭画像の絵図になったというわけだ。さらに興味深いことに、〈九州〉を〈龍頭〉とする「金龍(日本列島)」は、その手に「玉(如意宝珠)」を持つのだが、〈北海道〉を〈龍頭〉とする場合は、その手に「玉」を持たないとのことだ。ちなみに、〈龍頭〉が〈九州〉の「金龍」が手に持つ「玉」とは、〈四国〉だということである。また冒頭画像の〈龍体(本州)〉に何本かの線を引いているのだが、これについては以下の記事に詳しい。※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)※関連記事・・・「富士山」から「戸隠山」へ…そして(1)そして以下に続く画像は、主に今年(2025年)の3月16日に、《金龍の目》(冒頭画像の右上)に相当すると感じた長崎県の「雲仙」にある〔大黒天摩崖仏〕の彫られた巨大磐座を撮影したものだ。この直下の画像に映る磐座全体が、今の私には《龍の目》に観えており、また磐座の中央部に彫られた〔大黒天〕の笑顔が確認できると思うが、その〔大黒天〕の姿が《龍の目》の”瞳孔”に視えるのだった。次に直下の画像に続く二枚の画像は、その中央部に彫られた〔大黒天〕の姿を、それぞれ近場で撮影したものである。この巨大磐座の中心部に彫られた「大黒天摩崖仏」は、雲仙地獄から噴き上がる白い水蒸気や雲仙温泉のホテル街が見える通称「おしどりの池」の湖畔に存在し、かつての「雲仙」は山岳信仰と結びついた修験道の霊山として栄え、最盛期には約3,000人の僧がこの地に滞在したという。九州で最も聞こえた修験道の霊山といえば、前回の日記でも取り上げた「英彦山(ひこさん)」である。そこで下の画像は、”耶馬渓(やばけい)”における修験の山々の中でも重要視されていたであろう「中摩殿畑山(なかまとのはたやま)」の山頂より、「英彦山」の山並みを撮影したものだ。実はこの”耶馬渓”のどこかに、「金龍(日本列島)」の〈龍頭〉を〈九州〉とした場合の「松果体」に相当する場所があるとの伝承から、今の私にはその中心となる霊山として「中摩殿畑山」が浮かんでいる。
2025年05月05日

先日の4月26日(2025年)、大分県中津市山国町にある「中摩殿畑山(標高991m/正式名称⇒なかまとのはたやま・通称⇒なかまでんのはたやま)に登る機会を得た。そこで冒頭画像は、その「中摩殿畑山」の山頂より、「英彦山(ひこさん)」山系の大展望を撮影したものである。途中で道に迷いつつも約2時間をかけた登山の末に山上へ到着、快晴に恵まれた「英彦山」を展望することができ感慨無量であった。次の画像は、冒頭画像に映る山系の中央部に聳えた「英彦山」を形成する”三峰”を拡大したものだ。その「英彦山」の”三峰”とは、上の画像の向かって右側の峰が「北岳(標高1195m)」、中央の峰が「中岳(標高1188m)」、そして左側の峰が「南岳(標高1199m)」である。これまで様々な角度から「英彦山」を展望してきたのだが、この”三峰”の並ぶ「英彦山」の景観は、その手前に”三峰”を指し示すように聳える「刈又山(標高960m)」を含め、一番美しいと感じるのであった。そして上の画像は、「英彦山(三峰)」の東方(左側)に続く特異な形容の「鷹巣山」を含めて撮影したものだ。この「鷹巣山」も左から「一之岳(標高979m)」・「二之岳(標高950m)」・「三之岳(標高980m)」の”三峰”からなる山だ。実は北部九州の各方面から「英彦山」を遠望し特定する際は、いつも隣接する「鷹巣山」が指標になっており、私の中では上の画像こそ《修験道》の聖地たる「英彦山」が最も映える風情に思えたのであった。かつて「英彦山」には三度登ったことがあり、印象に残る北岳の山頂で遭遇した「龍雲」の記事は以下。☆関連記事・・・一文字の「龍雲」あらわる!さて上の画像は、下山の際に撮影した山道の出入口を象徴する”岩組”を撮影したものである。この一人の大人が通ることのできる”岩組”については、実は登る際にも気になっていたのだが、この場所より山道が急斜面にさしかかることから、山道の本格的な出入口を象徴する造形として意図的に配置されたものと感じた。そして、上記の出入口を象徴する”岩組”に続く上方の斜面にあった「大磐座」を撮影した画像が上である。この画像では伝わりにくいのだが、とてつもなく大きな岩塊の威厳あふれる佇まいに、しばし足が止まり圧倒されたことを憶えている。次に上の画像は、さらに山道を下ったところにある見事な石組みの「磐座群」を撮影したものだ。自身の経験知から言わせていただくと、おそらく当地域における〔天体観測〕や〔地文測量〕を目的として、古代人により意図的に加工され設営された「磐座群」であり、ここまで明確に人工的な配置がうかがえる佇まいを見たのは久しぶりであった。※関連記事・・・【中央】を担う祭祀場を巡る(1)また下山の過程に、二種類の「盃状穴※」の施された岩を見出せたので、この上下二枚の画像で紹介しておこう。(※「盃状穴(はいじょうけつ)」とは、人が何らかの目的で岩石に掘った盃状の穴のこと。)まず上の画像に映る「盃状穴」の施された岩は、山道が分岐する場所に”道しるべ”のように置かれており、その側面や裏面にも多くの穴が穿たれており、神聖な雰囲気を漂わせていた。そして、下の画像に映る「盃状穴」の岩は、山道沿いの川辺にて偶然見かけたもので、やはりある目的地へ向かう”道しるべ”として配置されたことがうかがえるのであった。興味深いことに、この「盃状穴」のある大きな岩を支える下方の岩にも「盃状穴」が施されており、これを配置した古代人の何らかの強い意図を感じたところである。車を停めた駐車場に向かって最後の坂道を歩きつつフト上を見遣ると、下の画像のように前方の山の中腹に当地域の《耶馬渓》に特有の、まるで「山水画」のように屹立する岩塊が眼前に現れたのであった。今回の「中摩殿畑山」の登拝は、「英彦山」の素晴らしい景観を始めとして、上掲画像の如く見るべきところが目白押しの充実した時空を堪能することができ、まさに有り難き幸せを噛み締める一日であった。
2025年05月03日

本日の冒頭画像は、今年3月の初旬より約1ケ月かけて制作に取り組んだ大作の全体像を撮影したものだ。この造形の構成に必要とした「軸線」(素材は綿棒)の総数は、おそらく5,000本は越えている。だがしかし、作成の途中から数えることを止め、久しぶりの大作となる造形の制作に無我夢中になるのであった。今回のタイトルを縮めた”多次元転換構造”というのが、この造形の名称としたいところだが、つまり”あらゆる次元にアクセスできる可能性を秘めた構造体”という意味合いで、私的には《 9次元立方体 》の造形表現を目標に制作に取り組み、その具現化に漕ぎ着けた思われる造形を公開したということになる。この冒頭画像に映る造形は、一見すると複雑すぎて分かりづらいと思うので、以下に掲載した画像に映る造形等を参考に解説を試みたい。冒頭画像に映る言わば「多次元的構造」は、この上の画像に映る「6次元立方体」(菱形30面体)を構成単位としており、全部で〔33〕個の「6次元立方体」を抱合し構成した造形表現となっている。当初は予めその〔33〕個を想定して制作し始めたのではなく、この「多次元的構造」(※9次元立方体)を構築するにおいて、結果的に〔33〕個の「6次元立方体」を必要としたことについては、自分でも興味深く注目したいところである。※(ここで「9次元」と記しているが、その”次元の数”が多くて解説も難しいことから、本日のブログタイトルのように「多次元」と表現することにした次第)☆関連記事・・・遺跡巡りの果てにたどり着いた「美しき構造」についてそこで上のリンクは、今から約20年前に始めた当ブログでは最初の記事だが、その冒頭画像に映る造形が「菱形30面体(6次元立方体)」の軸線構成であった。実はこの「6次元立方体」という別称のある「菱形30面体」を構成単位とし、より高次に次元を転換し模索するという類推より、冒頭画像の(私的解釈による)「9次元立方体」は、なぜか今年の3月を迎えて自身の脳裏に忽然と浮かんだのであった・・・。☆関連記事・・・《 菱形30面体 》の本質的構造この「9次元立方体」に関する立体の制作については、かねてより意識していたのではあるが、その制作に向かう契機となったのは、(今から約1年半前となるのだが)ある造形制作に詳しい知人に上の関連記事の内容を、軸線構成による「菱形30面体」の実物を披露しつつ解説したところ・・・その流れで「9次元立方体」の制作にチャレンジてみてはどうか・・・とのアドバイスを受けていたという経緯があった。そして、それなりの期間を経た今、桜の満開の季節に『9次元』という”大輪の花”を咲かせるとができたことは、制作者として感慨無量である。次にこの”多次元構造”を把握するための、〔3つの側面〕を映した画像を解説しておこう。まず上の画像は、まさに”満開の桜花”たる風情であるが、冒頭画像の造形を「五角形(五芒星)」系に見える角度から撮影したものだ。次に上の画像は、同じ冒頭画像の造形を「六角形(六芒星)」系に見える角度から撮影したものである。ここで大切な観方と思われるのは、上の2枚の画像を見れば明快なのだが、この一つの造形には「五角形(”火”の字形)」と「六角形(”水”の字形)」の言わば「陰と陽」の要素が和合し共存しているということだ。そして下の画像は、この造形の構造性を最も本質的に示すであろう”3番目の側面”を撮影したものだ。上記の解説では、この造形の構成単位を「菱形30面体(6次元立方体)」としてきたが、言うまでもなく究極の構成単位とは《同じ長さの軸線(綿棒)》である。しかし、ここで更なる重要な視点は、この「多次元転換」の可能性を孕む大規模構造を構成する「本質的な基本単位」こそ“黄金比”の「菱形」(上の画像)であり、その「菱形(黄金比)」を正面(一番良い角度)から撮影したものが下の画像だ。つまり、この造形(”多次元”への転換を示唆する構造)は、縦横無尽に犇く《菱形(黄金比)》によって、ほどよく”陰と陽”の形状を孕み構造の安定化を図る『太極』を意味するのではないかということである。この記事が、今宵の満月(旧暦3月16日/新暦4月13日)に公開できたことを、とても嬉しく思う。
2025年04月13日

2025年2月18日の午後6時頃、「二十四節気」では今年の〔雨水(うすい)〕となる初日の”日の入”を、山口市秋穂二島にある「岩屋山(標高100m)」山系の高台より対岸の「日ノ山」(画像中央部の山並)に向かって撮影したものが上の画像である。(※今年の〔雨水〕は、この2月18日から〔啓蟄〕の前日にあたる3月4日までの期間とされている。)本日の題目「〔雨水〕の日の入」の後に(光の道)を入れたのは、この〔雨水〕の初日である2月18日から、九州北部の福岡県福津市に鎮座する「宮地嶽(みやじだけ)神社」にて、毎年春と秋の二回斎行される祭事の”春の祭典”として「光の道」~夕陽のまつり~(令和7年2月18日~3月2日)が行われることから添えたというわけだ。つまりその「光の道」とは、毎年2月下旬と10月下旬に、当社から西方に真っすぐ海に伸びる参道を、沈む夕日が照らし出す光景を指し、”春の祭典”は年毎の〔雨水〕の期間があてられているということである。◎関連情報⇒【2025年完全版】宮地嶽神社「光の道」の見頃や観覧方法を徹底解説かつて私も、この「光の道」の”秋の祭典”に参加したことがあり、その経緯等を書いた過去記事は以下。☆関連記事・・・「光の道」のその先に(1)☆関連記事・・・「光の道」のその先に(2)☆関連記事・・・「光の道」のその先に(3)さて、この海に近い当社の参道を夕日が照らす2月下旬と10月下旬の「光の道」は、一般庶民の生活にとって何を意味していたかを推考すると、それはおそらく西海(九州地方の海)における《捕鯨(クジラ漁)》の”始まり(2月下旬)と終わり(10月下旬)”を示していたと私は考える。ちなみに日本列島で《捕鯨》が始まったのは縄文時代からとされ、西海で《捕鯨》がおこなわれたのは、五島列島の南端から壱岐・対馬を経て、山口県北部の見島に至るまでの広大な海域であった。対馬海峡を挟むこの海域は、鯨が冬に南(西)下し、春先に北(東)上する回遊のルートにあたっており、おそらく春先に西海を北(東)上する鯨の回遊期間が、「光の道」が示す2月下旬から10月下旬までの”クジラ漁の捕鯨期間”だったと考えられる。上記の推考を後押しする例として、かつて五島列島は最北端の《捕鯨》で栄えた「宇久島」に鎮座する〔山本神社〕に参拝した際、当社の海に向かう長い参道が上記の「光の道」と同じ方位(ただし”日の入”ではなく”日の出”の方位)を示していたことを確認しているので、この参道も《捕鯨》による海浜地域に生活する人々の繁栄を支えた”祭祀線”だったということが言えよう。☆関連記事・・・五島の「宇久島」に三度…(総括)加えて、山口市を流れる「椹野川」の下流域となる秋穂地区には、「岩屋山」にもほど近い「勘十郎山(標高246m)」の山頂に、下の画像のように「鯨岩」という名称の大きな磐座が存在している。山頂部が狭いのでこの「鯨岩」の全体像は撮れなかったが、丁寧に加工処理されたであろう10m以上の長さの「鯨」を象ったような磐座が、意図的に天空を指し示すかのように鎮座しており、その磐座の指し示す方位は冒頭画像の「日ノ山」だったことを憶えているので、もしかすると2月下旬の《捕鯨》の始まりの月日と方位を明確に示した古代人のモニュメントではなかろうか・・・。さらには、同じ秋穂地区にある「火ノ山」連峰は北端の「岩屋山(標高210m)」の中腹に、やはり「鯨岩」という名称の20m以上はある「シロナガスクジラ」を象ったかのような巨岩が、あたかも”意思”を持つかの如く横たわっていることから、上記の「勘十郎山(標高246m)」の山頂にある「鯨岩」を含めて、古代の椹野川下流域の瀬戸内海沿岸では、かつて《捕鯨》が行われていたことを明確に示唆する磐座だということができよう。☆関連記事・・・ふるさと「山口」の山野を歩く(2)ところで、ここで改めて2月18日の”日の入”が映る冒頭画像に注目してみよう。当日の”日の入”の場所は、対岸にある「日ノ山」の左側のピークである。その”日の入”の位置から右側の「日ノ山」の山頂(標高146m)まで、なだらかなスロープが続いているわけだが、(まさにこの記事を書いている最中だったが)それが私には〔雨水〕の期間を示しているのではないかとの直感が走ったのであった。早速、いつも活用しているアプリの「日の出・日の入りマップ」で調べてみると、その「日ノ山」の左右のピークをつなぐスロープは、まさに今年の〔雨水〕の期間(2月18日~3月4日)を示していることが分かり、鳥肌が立つのであった。・・・ということは、ここ「岩屋山」を”天体観測&地文測量の基点”として、あの対岸にある「日ノ山」そのものを、毎年の〔雨水〕の期間を観測するために削った可能性があるのでは・・・などと、私の想像は羽ばたくのだが、それは古代において現実に有り得た土木工事ではなかったかと現時点では考えている。この「岩屋山」を”天体観測&地文測量の基点”と私なりに考える根拠の一つが、この「岩屋山」から南方を見ると(下の画像)、真南に「御許山(標高647m)」(宇佐神宮の神体山)が中央手前に見え、その右側に「由布岳(標高1583m)」と左側に「鶴見岳(標高1375m)」の三山を視認できるところである。☆関連記事・・・ふるさと『小郡』の地名由来、そして…(上)☆関連記事・・・ふるさと『小郡』の地名由来、そして…(下)
2025年02月20日

2025年2月11日の午前11時頃、縁あって大分県宇佐市安心院の「轟山(標高299m)」の8合目に鎮座する磐座群を訪ねた。そこで冒頭の画像は、「月」を寿ぐ縄文系”古代宇佐族”の祭祀場と思しき「大小四つの磐座」が威風堂々と並ぶ風情を、その祭祀場の中心と感じた場所から山上に向かって撮影したものである。上の画像の中央部に並ぶ一対の磐座は、なぜかその時の私には”桃の節句”の〈雛壇飾り〉の最上段に並ぶ「男雛(左側/向かって右側)」と「女雛(右側/向かって左側)」に観え、またこの”夫婦雛”を象る磐座の左右に並ぶ大きな磐座は、その「夫婦岩」に寄り添い門出を祝う「高砂の老夫婦」の象りに観えたのであった。次に上の画像は、冒頭画像の中央部に並ぶ”夫婦岩”を後方から撮影したもので、この方向から見ると左側の磐座が”男性性”を象徴する形態であり、右側の磐座が”女性性”を象徴する形態ということが良くわかり、この”ほのぼの”とする造形を施した古代人の心情を如実に読み取ることができる。そして上の画像は、上記の「夫婦岩」から左方にかけて鎮座する大岩(左端の尖った磐座)を撮影したものである。この風情を見た私は、「三日月」(右端に映る男雛の磐座)から「半月(上弦の月)」(左端に映る尖った磐座)に至る、「月」の形状の変化を感得したのであった。この磐座群を訪れた日は、折しも翌日の「満月(新暦2月12日/旧暦1月15日の旧小正月)」を控えた前日だったこともあり、この【「月」を寿ぐ祭祀場 】との遭遇は感慨一入であった。○関連記事・・・旧暦の小正月この末尾の画像は、上の画像の左端に映る「半月」と感得した磐座を、反対側から撮影したものだ。その高さは5mを越えており、おそらく東に面して意図的にカッティングされたこの磐座は、東方より昇る「月」や「太陽」を反射する《鏡岩》の役割を担っていたであろう。そういえば昨年の12月15日(旧暦11月15日)、約20年周期で最も天頂近くを巡る「北限の満月」を寿ぐ機会に恵まれたこともあり、その流れを汲んでこの「月」を寿ぐ”古代の祭祀場”へ導かれたのであろう。☆関連記事・・・令和6年12月15日「北限の満月」を寿ぐ
2025年02月18日

「令和七年」(西暦2025年)の”新春”を寿ぐ形代は、その年数の「七」と共振・共鳴し、海上の天空を回転しつつ飛翔する《 動態的な「立体七角形」 》(冒頭画像に映る造形)である。そして末尾画像に映る造形は、冒頭画像に映る造形を真上から撮影したもので、その上に「立体七角形」の中央部における絶妙な”開き加減”が分かるよう七つの「正三角形」を円環状に配置したものだ。造形表現としては、全体として”左回り”に回転しつつ開放へ誘う方向付けを施し、ここで〔宇佐神宮〕の神紋「左三つ巴」に擬えるとすれば、この形態は「左七つ巴」ともいえる動態的構造となっている。この「立体七角形」については、当日記では何度も取り上げてきたわけだが、(私なりの解釈としては)「安定的維持」を大前提とした「破壊的創造」の”しくみ”という意味合いとなる。さらに分かりやすく言えば、心身の「健康維持」のため健全な「新陳代謝」をうながす”きっかけ”という表現が妥当であろう。これまで締まり閉じていた「暗黒の世」から、今年より(左回転で)緩み開いていく『光明の世』へと、大きく飛躍し転換する「令和七年」にならんことを、共感される方々と共に期待しているところである。☆関連記事・・・新年「開けまして」おめでとう!
2025年01月01日

本日の冒頭画像は、近郊の大きな店舗に飾られていた”クリスマス・ツリー”を撮影したものである。さて、”クリスマス・イブ”の昨夕のことである。今回の奈良は「三輪山」周辺の散策で、”大和三山”の「天香久山(あめのかぐやま)」近辺を訪ねたことがキッカケとなり、日本神話を代表する”天の岩戸”の伝説において、この天香久山に植生の一本の立派な「真榊(まさかき)」を”根こそぎ”に抜き、これに様々な飾り付けをした姿が、なぜか冒頭画像のような”クリスマス・ツリー”に重なって観えてきたのであった。そして、その飾り付けの施された“根こそぎの真榊”(クリスマス・ツリー)の本質とは、末尾画像の〔冬のダイヤモンド〕を構成する星々を基盤とする『冬の星座』を示していると感じたのであった。その直感から類推すれば、冒頭画像に映る”クリスマス・ツリー”の、ひときわ輝く《トップ・スター》とは、全天において天頂の最も近くで輝く一等星の「カペラ」だと閃くのであった。そこで末尾画像の『冬の星座』を表した天体図を参考にしつつ、”クリスマス・ツリー”のような「聖なる樹木」として装飾された“根こそぎの真榊”に関する解説をしていきたいと思う。ここで、そもそも「真榊」とは何かを簡単に紐解くと、一般に神社の祭壇に神事の際に立てる祭具としての「榊 (さかき)」で、「三種の神器(勾玉・鏡・剣)」を掛けたものとされ、また日本神話の”天の岩戸”という代表的伝説において”「天香山」の「五百津真賢木(いほつまさかき)」”の故事が淵源とされている。上記のように、今回の”クリスマス・イブ”に直感したビジョンは、美しく装飾された一本の“根こそぎの真榊”(クリスマス・ツリー)であり、その本質は『冬の星座』だと洞察できたということであった。そこで、その装飾の基本となる「三種の神器」の配置を簡明に記すと、真榊の〈上の枝〉には「プレアデス(すばる)」を模した「勾玉」、〈中の枝〉には「アルデバラン」の輝きを表現した「八咫の鏡」、そして〈下の枝〉には「三ツ星」を一つに貫くような「御剣」をそれぞれ掛けて飾ったであろう。そして“榊の頂”は〔冬のダイヤモンド〕の筆頭たる「カペラ」、また“榊の根”は〔冬のダイヤモンド〕の末尾たる「シリウス」と見立てられ、画像では「緑色の太線」で双方を結ぶ真榊の「幹」を表現した。以上の見解は、これまで自分の中に蓄積した様々な経験なり記憶が走馬灯のように発露し、そのビジョンを適切に文章化できた充実感に浸っているのだが、参考かたがた関連する記事を以下にリンクしておく。※関連記事・・・南十字星と十字架※関連記事・・・「春の旅」の締め括り(中)※関連記事・・・「冬の星座」に隠された古代信仰※関連記事・・・3と7だ!それだけ覚えておけ!(2-C)
2024年12月25日
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