真理探究と歴史探訪

真理探究と歴史探訪

2013年02月22日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
389.JPG



当神社は 延喜式内社 筑後四社の一つで、主祭神は第14代仲哀天皇である。

伝承によると、仲哀天皇が熊襲征伐に当たり、行宮をここに設けたという。ところが天皇が戦線を巡視した時に毒矢に当たり、この地で崩御した。神功皇后は兵士の士気の衰えることを恐れて喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪したという。

その後、朝鮮出兵にあたって、御魂代の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき、戦勝後凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられている。



実は今回の旅路で、この神社と共に初めての参拝となった「大分八幡宮」を訪れたのは、古代において「太宰府」を設営するに当たり、「太宰府」を中央としてその左右に「太傅府(だいぶふ)」と「太保府(だいほふ)」が置かれたとする記述を、今回の歴史探訪を計画する過程で見出せたからであった。

あるサイト情報によれば、「倭王武」は中国皇帝に忠節をもって励むために、「中国に倣って自ら都を開き、三公も設置した」と述べているとのことで、その「三公」とは中国古代の官名で、太宰(だざい)・太傅(だいぶ)・太保(だいほ)をいうそうだ。

ちなみに、この中国の官名の「三公」を日本の官名に置き換えると、「太宰=太政大臣」・「太傅=左大臣」・「太保=右大臣」となるそうだ。

その「太傅府」(太宰府の北東約15km)の跡に現在の「大分八幡宮」が建てられ、「太保府」(太宰府の南約14km)の跡にこの「御勢大霊石神社」が建てられたとのことであった。

かつて「太宰府」の具体的な設営構想を知り得たのだが、それは太宰府近辺に限ったものであり、今回知ることになった「倭王武」が都を開く際に「三公」を設置したという大規模な構想に驚き、これを機会にそれぞれの跡地に残る歴史的記念碑を訪ね歩いてみたいと思ったわけである。




そして、神社参拝後は「三公」を巡り終えた達成感もあり、しばらくその余韻に浸っていたのを覚えている。

さてそれでは、いよいよ最後の訪問地へ・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年02月22日 10時17分58秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

サイド自由欄

《 立体工作のご案内 》「綿棒」で立体を作ってみよう!
http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/201209180000/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆【YouTube】『スケルトン立体』を作って楽しもう!
No.1…《綿棒工作》の「準備編」(以下のURL)
https://www.youtube.com/watch?v=uAtddr1KZWU&t=216s
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎【Facebook】(以下のURL)
https://www.facebook.com/yuichi.yamamoto.10485
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*livedoorブログ(造形作品の紹介など)
http://blog.livedoor.jp/tyctm237/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎連絡先
tyctm237★yahoo.co.jp
(ご連絡の際は★を@に)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: