
今回はじめて「宇久島」へ渡島することになった経緯は後日に託すこととし、当日記では五島列島の南端となる「福江島」をはじめとして「中通島」、「小値賀島」や「野崎島」などに渡った記事を綴ってきた。
あにはからんや、「宇久島」が五島列島の『最北端』にある島と認識したのは、佐世保発のフェリーで同島の平港に着岸し、五島列島の全体が描かれた地図を見た時であった・・・。
さて冒頭の画像は、「宇久島」の東側にあって島を代表する「大浜海水浴場」だ。当日は曇りがちの天候ではあったが、その遠浅の白い砂浜と碧い海原は美しく輝き、海上の正面に見える三つの小島が景観を引き立てていた。
そこで上の画像は、この海上の「古志岐(こしき)島」を中心に並ぶ三つの小島を拡大したものである。
次に上の画像は、同島で最高峰「城ヶ岳(標高258m)」の山頂部にあって島一番の景勝地(展望所)から、かつて巨石建造物たる「王位石(おえいし)」を訪ねた「野崎島」の方面を撮影したものだ。
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ある地元の方の話では、野崎島を形成する山々の北端となる山の八合目に存在する「王位石」は、普段は城ヶ岳の展望所からは見え難いが、ある時期の晴れた日には太陽が巨石に反射する光が視認できるということであった。
次に上の画像は、城ヶ岳の山上にあった解説版を映したものである。
そして、画像向かって右側地図の下方に「愛宕様」と示された、山城遺構の石積みを側面から撮影したものが下の画像である。
上方の開口部から遺構の中に入ってみると、古代の朝鮮半島と宇久島との交易を連想させる石版があり、その色濃く漂う伝統文化の薫りに、しばし感慨に耽るのであった。
上の画像は、島の西側の「火焚崎(ひたきざき)」にある「船隠し」という小さな入り江を映したものだ。
島の伝承によると平安時代の後期に、平 清盛 の異母弟「 平 家盛(いえもり) 」が上陸した場所とされ、その家盛公が船を入り江に隠したことから「船隠し」、そして上陸した時に火を焚いて暖をとったことから「火焚崎」と呼ばれているとのことである。(下の画像は「火焚崎」に立つ家盛公の上陸記念碑)
次の日記では、上記の伝承を少し詳しく記し、この度図らずも見出すことのできた「宇久平港」近辺の、古代の太陽信仰に基づく祭祀線に関して論じてみることにしよう。
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