鳥取県大山町)
であった。
※上記の「因幡(いなば)」や「伯耆(ほうき)」とは、現在の鳥取県の県域にあった旧国名で、江戸時代までは因幡国(鳥取県の東部)と伯耆国(鳥取県の中部・西部)に分かれていた。
そこで上の画像は、入口に掲げられた看板を撮影したものだが、「因幡の白兎」の伝説と内容が符合するところもあり、隠岐島から視認可能な”伯耆大山”の北方(日本海側)が当社の鎮座地というところから、この「伯耆の白兎」の伝説には信憑性があると感じられた。
冒頭画像のように、”中山神社”と彫られた石標の横には可愛い「白兎」の石像があり、思わず笑みがこぼれるのであった。
次に上の画像は、冒頭でも触れた「因幡の白兎」の伝説ゆかりの神社の中でも、一番著名な「白兎神社」(鳥取市白兎)の鳥居前にある「大国主命と白兎」の微笑ましいモニュメントを撮影したものである。
そこで一般に流布している「因幡の白兎」の物語については、次のリンク記事⇒ 《
「因幡の白兎」のあらすじ》
を参考にしていただくとして、ここでは当日記の過去記事⇒ ”宇佐と出雲を結ぶ深き縁”
に書いた内容から、出雲口伝の富家や宇佐神宮の宮司家に伝承されてきた「因幡の白兎」の伝説にまつわる深い内容を、以下に転載し加筆することにした。
※ここでは宇佐神宮の宮司家である宇佐家の伝承「因幡の白兎」を以下に紹介しておこう。
◎その昔、因幡国は豪族の出雲族が統治しており、その統治下に「菟狭(ウサ)族」と「和邇(ワニ)族」がいた。古代より隠岐島に居住していた「菟狭族」は、漁労・採取の時代から農耕時代への移行期に、農耕生活をするための耕地を求めて隠岐島から本土(因幡国)に渡ろうとした。
◎その際、「菟狭族」は「和邇族」との土地に関する取引に失敗し、「菟狭族」は全財産を没収されて丸裸にされ、困っているところを「出雲国」の「大国主(オオクニヌシ)」に助けられた後、「大国主」から因幡国の”八上”(現在の八頭)の地が提供され、「菟狭族」はその新しい土地に移住し開拓した。
◎もちろん「大国主」は、「菟狭族」の姫「八上姫(ヤガミヒメ)」を娶り、一子「下照姫(シタテルヒメ)」を授かった。その後の「菟狭族」は”八上”を拠点にして、山陽から北九州にまで勢力を広げ、
大いに繁栄した。
どうやら上記の伝承を骨子として、「因幡の白兎」という神話物語が編まれたということになるようだ。
さらに興味深いことに、当日記でも何度か引用している出雲族の盛衰に詳しい下記の書籍等を参考にすると、「大国主」につながる「出雲族」がシベリア経由で日本列島に渡来し、(上記の宇佐口伝や記紀の「因幡の白兎」の内容とは真逆となるのだが…)その「出雲族」が入植するまで出雲地域に居住していた「菟狭族」を追いやって、日本最初の王国である”出雲王国”を形成したとのことだ。
豊国連合軍の猛攻撃により
、700年以上
にわたり
”出雲王国”を治めてきた「出雲王家」は滅んだということである。
※参考書籍・・・『出雲王国とヤマト政権』
富士林雅樹 著・大元出版 2019 初版
加えて出雲口伝によると、”第二次 物部東征”の連合軍は山陰海岸を通って東へ進み、
”
菟上王”の率いる
豊国軍の一部が占領軍として因幡国の伏野に残り、「月神」の信仰を広めようとして宇佐社を建立し「白兎神」が主神として祀られた。
それが後に「因幡の白兎」の神話が作られ、「白兎神社」の名前になったということである。
そして上の画像は、「白兎神社」の鳥居前にあって「因幡の白兎」の物語の舞台となった白兎海岸に浮かぶ「おきのしま」を撮影したものである。
・・・天気の良い日には、ある観測地点からこの小島を指標に展望することで、おそらく遠方の海上に浮かぶ「隠岐島」が確実に見えたであろう・・・などと、明確に有り得る予測が立ったことは嬉しかった。
次に向かったのは、鳥取市八頭町の川沿いに鎮座する「白兎神社」(上の画像)であった。広々とした耕作地帯である”八頭”の地域には数社の「白兎神社」が鎮座しており、その元宮とされる当社に参拝した。
上の画像に映る由来書に詳しいが、神話物語「因幡の白兎」の〔ふるさと〕こそ、”八頭郡”の中でもこの地域(旧郡家町)だと学術的に考究されていた。
小さな社ではあったが、この「白兎神社」の参道が示す方向は、やはり西方の「大国主」を象徴する「伯耆大山」だろうと思いつつ車を走らせていると、まるで本日の「白兎」伝説にまつわる各地の探訪を労うかのように、心癒される素敵な光が舞い降りてきたのであった。(末尾の画像)
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