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profile:山本ふみこ
随筆家。1958年北海道生まれ。つれあいと娘3人との5人暮らし。ふだんの生活をさりげなく描いたエッセイで読者の支持を集める。著書に『片づけたがり』 『おいしい くふう たのしい くふう 』、『こぎれい、こざっぱり』、『人づきあい学習帖』、『親がしてやれることなんて、ほんの少し』(ともにオレンジページ)、『家族のさじかげん』(家の光協会)など。

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2014/02/04
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カテゴリ: うふふ日記
 目覚めたとき、あたまのなかは節分でいっぱいだった。


 豆まきの豆と恵方巻き(うちのは、ひとり1本ずつの細巻き)があれば、じゅうぶんに節分を迎えることができそうにも思える一方で、わたしは何かをさがしている。いったい何を……?
 もぞもぞと動きそうな何かに向かって、目を凝らそうとしている……。
 湯を沸かしたり、弁当をこしらえたり、ぬか漬けの大根に塩をまぶしたり、洗濯物を干したりしながら、もぞもぞの主をさがす、さがす、さがす。
 ゼロ時限講習(1時限前の授業/数学)のため、早出の娘を高校へと送りだしたあとも、もぞもぞの尾はつかめそうでつかめず、洗濯ものを干すときスニーカーソックスのつま先にみつけた穴を繕うことにした。穴に気づかなかったことにして干すと、わたしは穴を忘れる。すると、穴あきの靴下が幾足もたまることになって、結局それらの繕いに半日かかったりするのだ。ごく最近、干すときに気がついた穴は、干す前の湿った状態で繕うようにしてみたら、これがなかなかいい具合だ。時に溜めこんだりしていたとはいえ、繕いものだけはやめるわけにはいかない。これほど、後世に伝えたいこともないというくらい、大事なしごとだ。
 繕いものは、わたしを、さがしていたもぞもぞに近づけたようだ。
 近づいた、近づいたと思って、胸のなかが晴れてゆく。
 そのこころが思いださせたのが、窓の敷居だった。

 夜、皆がそろったら、「鬼は外」と、「福はうち」と云いながら豆をまくことになるだろう。子どものころから欠かさずつづけてきた立春前日の節分の豆まきだが、その日を迎えるたび、鬼とは何だろうか、福とは何だろうか、と考えてしまう。それこそが、この日、わたしがさがしていたもぞもぞの主だったか。
 鬼という存在のなかに福が宿るのを見ることも少なくはないし、福と呼ばれるものが鬼の一面を持っていることは、もっと少なくはない、というのがわたしの実感なのだ。歳を重ねるにつれて、鬼と福とを分けて考えられなくなってゆく。子どものころから、鬼を疎(うと)めない体質だった。これには、「泣いた赤鬼」(浜田廣介作)のものがたりの影響もあったかもしれない。
 家じゅうの窓の敷居の掃除を終えたわたしは、この敷居をまたいで、鬼がくるもよし(きたければ)、福が去ってゆくもよし(去りたければ)、と考えている。鬼も福も好きにしたらいいけれど、問題はわがこころだ。胸の「ここ」は、すがすがしくあらねばならない。何をするにも、何を捉えるにも、澄んでいなければしきれないことばかり、捉えられないものばかりだという思いが募っている。澄んでいなければ、と云っても、いきなり澄むわけではないから、正確に云うなら、澄みたいと希うことなのじゃなかろうか。

 夜になったら、「澄みたい、澄みたい」と思いながら豆をまこう。

ブログ石1.jpg

飾り棚や書架で、
昔、絵を描いた石と目が合いました。
ひとところに集めてみました。

長いこと離ればなれになっていた石を
合わせるというのなんか、じつに節分らしいではありませんか。

ブログ石2.jpg
これは、食器棚のなかでうたた寝していました。
カップラーメンを食べるときの、
ふたの重石(おもし)です。





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最終更新日  2014/02/04 09:44:15 AM
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