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この春、85歳にして初めてひとり暮らしを経験している母のもとを訪ねる。びゅん、と自転車で行く。父はわたしに対して何かとうるさかったので、実家に行くときの緊張がやわらいで、びゅん、である。 どんなふうにうるさかったか。 「新聞を読んどらんな」とか、「このあいだの絵(新聞の連載にわたしが自分で描いている挿絵)はおかしかったな」とか。ひどいときには「おまえの考えていることは、さっぱりわからん」とやられた。 母もときどきやりこめられていたから、それから解放された一面もあろうかと思うのだけれど、「やっぱりさびしい。うるさいことを云うのでもいいから、いてほしいわ」の一点張りだ。夫婦の不思議さである。 そんな母だが、弟夫妻からの同居の申し出を「アフターファイブをたのしんでみたい」と云って断ったという。近年、痩せて弱ってきているが、それでもあたらしい何かをつかもうとしているらしい。 ところで、アフターファイブって何だろうか。長年つづけてきた主婦業のあとの、自分の時間のことだろうか。それはかまわないが、「気を抜いちゃいけませんぜ、おかあちゃま」と、云いたくもある。たのしみたいなら、気を張ってもらわなければ。 「たのしいのは大変」「たーのしいのはー、大変」「たーのしーいのはー、たーいへーん」と節をつけ、歌いながらペダルを踏みこむ。 この日は長女も自分の家から自転車に乗ってやってくることになっている。 掃除機をかけながら、長女を待つ。母がお茶を点(た)ててくれた。母の点てる抹茶はなぜだろう、いつもとてもおいしい。とがったところがまるでない。 長女が黄色い小菊を抱えてやってきた。口を動かしながら、てきぱき働く。 「さ、買い出しに行くよ。おばあちゃまは留守番してこの映画観ててね。高峰秀子の『二十四の瞳』借りてきたから。お母さんは観てないで。ほら、行きますよ」 「へーい」 母の数日分の食材と、重たい牛乳やしょうゆのほか、長女は自分の家の分の買い物をしている。 そんな様子を見るにつけても、わたしの生活が場面展開しているのを感じずにはいられない。 子どもたちは育ち、父は逝った。母のひとり暮らしを、ほどよく助ける必要が生まれた。日のめぐりに、つよい力で押しだされたようでもある。自分のなかで、声がする。 わたしも、変わらないと、ね。 * これも、変化のひとつかもしれません。 今回で、ブログ「うふふ日記」は閉じることにしました。オレンジページに守られて2007年からつづけてきたブログから独立して、あたらしい「場」をつくってみようと考えています。あたらしい題名は「ふみ虫・泣き虫・本の虫」。開設は2014年4月8日(火)の予定です。引っ越し先アドレス: http://fumimushi.cocolog-nifty.com/(現在、工事中)オレンジページの皆さまにこころからお礼を申し上げます。7年間どうもありがとうございました。母の家に1冊の帖面を置きました。帖面の名は「あしふ」。母のひとり暮らしを助けるための、連絡帳です。「あ」「し」「ふ」はわたしの長女、弟のお嫁のしげちゃん、わたし、の頭文字。帖面を書くことが、わたしたちのちょっとしたたのしみになっています。
2014/04/01
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父が逝ってから10日め、近所のノゾミさんと行き会った。 このひとに父のはなしを聞いてもらわなければ、と思った。 「夕方の散歩は、これから?」 と訊く。 「ちょっとこれ(買いものの袋)を片づけたら、行こうと思う」 と云うので、それなら、きょうはわたしも行きたい、聞いてもらいたいこともあるから、と頼む。 「じゃ、4時半に」 この家に引っ越してきてから半年が過ぎたころ、ノゾミさんと大きな犬と一緒の散歩に連れて行ってもらった。どうしてそうしたいと思ったのだったか、また、どういうふうにそれが実現したのだったか、おぼえていない。ただ、ノゾミさんにも大きな犬のサンにも、わたしは用事があるのだという気がして、機会を待っていたような気がする。サンはベルギー産の大型犬(ベルジアン・シェパード・ドッグ)で、ハンサムと思ったが雌犬だった。 「サンは女の子だったんだね」 ノゾミさんはわたしより3歳ほど年上だが、長く女子サッカーチームに属するサッカー選手でもあるから、びゅんと背筋をのばして颯爽(さっそう)と歩く。運動、とくにサッカーで使い過ぎた膝が痛いとのことだが、長い足がすっと前へ前へ出る。わたしは自分が歩くのが早いほうだと思ってきたし、どこも痛くないのだが、心していないと、遅れをとる。 散歩の速度を決めているサンに、遅れないようにわたしも足を前へ前へ。 午後4時半を前に家を出て、路地でノゾミさんとサンがやってくるのを待つ。二女に背負い鞄を借りて、両手を空けておく。いつかわたしがサンの手綱を持てるときがめぐってくるかもしれないし、そうでなくても散歩に必要な道具の入った提げ袋は持ちたいと思って。 サンの吠える声だ。 いい声。ときどき、家にいても吠え声が「ワンワン」(ほんとうはこんな音ではないのだが)と聞こえてくる。すると、いい気持ちになって、サンが何を云っているのかと考える。たまに自分が呼ばれているような気分で、「サン、サン」と吠え返してみる。 あまりひとのいない路地や千川上水沿いを行く。サンは家では排泄をせず、散歩の途中、場所を選んで排泄する。 「あ、止まった」 排泄の意味がじかに伝わってきて、わけもなく感動する。出た出た、よかった、と思うのである。 歩きはじめて10分たったところで、「じつは先週、父が逝ったの」と告げる。 「そうだったの」とノゾミさんは云い、父が大往生であったことを伝えると、また「そうだったの」と云った。 これでよし。このひとには伝わった。 目を上げると、桜並木だった。花の準備をすすめるほの赤い枝が、空に網の目模様をつくっている。足元には無数のホトケノザ。春の斉唱(せいしょう)がはじまっている。 わたしたちはその日、2時間歩いて帰ってきた。 人間は罪深いが、まだこうして動物の仲間とともに在ることができる。つくづくとありがたく、サンに大きく手を振る。 「またねー」 帰宅してふと、『犬が星見た ロシア旅行』(武田百合子/中公文庫)を思いだしたて、本棚からとり出す。作家の武田泰淳が妻・百合子を「やい、ポチ」とおもしろがって呼んだことから、武田百合子はそれをみずからの旅行記のタイトルにしてしまう。そんな恐るべき感性世界に生まれた本である。 旅のはじまりのこの夫婦のやりとりをうつしておくとしよう。 「百合子、面白いか、嬉しいか」 「面白くも嬉しくもまだない。だんだん嬉しくなると思う」 そう云えば、わたしの側から父に紹介した唯一の著者が武田百合子だった。『富士日記』(上中下巻/中公文庫)と『犬が星見た』、それに『日日雑記』(中公文庫)の5冊だった。父は富士山が大好きで、富士山麓に小さな山小屋をつくり、春、夏、秋によく通いました。山小屋は、『富士日記』に登場する武田泰淳・百合子夫妻の山小屋にほど近い場所にあります。父が描いた富士山。
2014/03/25
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父逝く。 ごく縮めて記すなら、このような最期(さいご)だった。 3月12日、昼過ぎ。 近所の中華料理店にひとりで出かける。 めあては老酒(ラオチュウ)と餃子である。母を誘ったが、母は「餃子はけっこう」と云って留守番宣言をす。 老酒をひと口飲み、餃子をひとつ食べたところで倒れる。 持病の大動脈瘤が破裂、急性貧血で眠るがごとき死だった。 いろいろなことがあって(検死とか)、父は家にもどらなかった。 弟が父に会いに行き、わたしは実家に母と残る。 「あなたは、おとうちゃまのベッドで寝なさい」 夜になり、母が何を思ってかこう云ったので、その通りにする。父の寝台には、父の匂いが染みこんでいた。思えば……、子どものころからこの日まで、父の寝台にもぐりこんだことなどなかった。枕に頭をのせ、横を見ると小机に雑誌「ユリイカ」がのっている。2006年の藤田嗣治(ふじたつぐはる*)特集号だった。美術の愛好家で、みずからも日曜画家であった父は、昔から藤田嗣治の作品をこよなく愛したのだった。あらためて、藤田を研究していたのだろうか。 雑誌には2008年11月−2009年1月開催の「没後40年レオナール・フジタ展」(上野の森美術館)のチケットの半券と、新聞切り抜き2点、それに「大分麦焼酎」の領収証(2013年)がはさんであった。新聞の切り抜きは、どちらも長きにわたり愛読していた毎日新聞のもので、ひとつは藤田嗣治の大作修復を総指揮したフランス・エソンヌ県のアン・ル・ディベルデル・フジタコレクション担当学芸員のはなし(2008年)。ひとつは「ユリイカ」編集長による編集余話(2006年)で、「『ユリイカ』は、ギリシャ語で『我発見せり』という意味」というところに赤い線が引いてある。 切り抜きはそれぞれ、「没後40年レオナール・フジタ展」と、藤田を特集した「ユリイカ」に関連しているものと思われる。なんだかたのしくなってきて、わたしは電灯のひかりをたよりに、夜更けまで雑誌と切り抜きを読んだのだ。 父が、父らしく逝ったことがわたしのこころを明るくしていた。同時に、わたしのなかに、父から受け継いだものがたくさん生きて蠢(うごめ)いているのを感じることができた。それにそれに、寝台から見渡せる父の書棚にならぶ膨大な書物は、わたしを今後、あたらしい世界に導くだろう。 この世とあの世に隔てられはしたが、不思議だ、父とのあいだが縮まった。 次ぐ日、弟のお嫁のしげちゃんと、わたしの長女が、「おとうちゃまが夜いらしたような気がする」「わたしのところにも、おじいちゃまが来たよ」と話し合っていた。 「ふんちゃんのところは?」「お母さんのところへ会いに来た?」としげちゃんと長女が同時に訊く。 「わたしのところ? 来なかったよ。しげちゃんたちのところに向かうとき、『どうしておまえが、ぼくの寝台で寝てるんだ?』と顔をしかめてわたしの上空を通過したかもしれないな」* 藤田嗣治(レオナール・フジタ)1886−1968 東京都出身の画家・彫刻家。1913年(26歳)パリに渡る。モンパルナスの裏通りの同じアパートには、イタリアからやってきたモディリアニがいた。パリの寵児となるも、日本画壇は藤田に冷淡だった。さらに戦争中、戦争画を描いたことを戦後画壇に責任追及され日本との亀裂が決定的なものとなる。藤田の業績が日本において真の意味で見直されたのは、近年と云ってよいように思う(山本記)。父は満90歳で逝きました。父とは顔を合わせると本のはなしをし、展覧会に行き(連れて行ってもらい)、大人になってからはたくさん酒を飲みました。これからは、読むたび、鑑るたび、飲むたび、父がやってくるでしょうね。それを考えると、おもしろく読み、自分勝手に鑑賞し(ひとに合わせたりせず鑑賞するのが約束でした)、愉快に飲まなければならないなあ……。
2014/03/17
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3月3日の朝だった。母から電話がかかる。あー。 ——まずい、まずい。 「ま・ず・い」が、胸のなかに響く。谺(こだま)する。 「お、おはよう、ございます」 と云うなり、わたしは「ほんとに、ごめんなさい」をくり返していた。 何が「ま・ず・い」かと云ったら、ひな人形のことである。ことし、実家のひな人形を、わたしは飾りに行かなかった。節分の翌日から、ときどき、「行かなくちゃ」と思った。思っては忘れ、忘れては思いだし……、結局、忘れた。忘れることに、した、のかな。 年老いた母とわたしは、あと幾度ともにひな人形を飾ることができるだろうかという、儚(はかな)いお互いである、今生では。それは想像に過ぎないが……。 想像に過ぎないにしても、母とふたりで、密(ひそ)やかに守ってきたひな人形のことを、忘れていいはずはなかった。 「ほんとに、ごめんなさい」 「ほんとに、ごめんなさい」 受話器の向こうから母の声が聞こえる。「ほんとに……」とまた云おうとするわたしの耳に聞こえてくる母の声は、さびし気なものではなく、むしろ……、むしろ得意げなのだった。 「あなたが忙しいのはわかってたから、ことしは、お内裏さまだけピアノの上に飾ったのよ。片づけるのも、あわてることないからさ、ゆっくり見にきてね。ばいばい」 電話が切れたあと、ゆっくりたどり直してわかったのは、つぎの事実であった。 当てにならぬ娘など待たず、七段飾りの(段段の組み立ては、とくに手がかかる)ひな人形のお内裏さまだけを、木箱から出して飾ったのだ。 へへん。そうだ、母(85歳)にしたら、父(90歳)にしたら、「へへん」というほどの出来事だ。 しかしなんという快挙。 勝手ながら、讃えるべき出来事である。 3月4日の朝だった。 長女からメールが届いた。 写真つきのメールで、それを開くと、おいしそうなご馳走がならんでいた。・五目寿司。・きゃべつと舞茸の汁もの。・菜ものと油揚げの煮浸し。・れんこん、にんじん、ごぼうのきんぴら。・新玉ねぎのサラダ。・トマトとモッツァレラチーズのサラダ。・生ハム。友人たちとのたのしいひな祭りであったらしい。 「あらためて、お雛さま、飾りに来てくれてありがとう*。最初、お内裏さまは怒ってるような顔をしていたのだけど、つぎの日見たら少し穏やかになってました。しょうがないからここにいるか、って感じでしょうか。とりあえず、そんなひな祭りでした。ありがとう」* 三女が長女の家にお雛さまを届け、飾ってくれた。ゼリーのことですが……。最近わかったことがあります。ゼリーをうちでもっともたくさん食べていたのは長女だったという事実です。ゼリーをこしらえても、長女が独立したいま、かつてのようには「びゅんびゅん」なくならないのです。気がつくと、わたしは持ち運びに具合のいい容器を10個(写真左)をもとめていました(写真右は耐熱ガラス製)。届ける当てもないのに、きょうも、持ち運びゼリーを5個つくっていました。あはは。
2014/03/11
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前回、友人の有り様(よう)を「変態」、「変態」と書いていたら、すっかり変態づいてしまった。何を見るにも、「変態」を想像する。すれ違う散歩の犬さんに「変態は?」と訊いて吠えられる。 われながら頓狂(とんきょう)なことである。これはきっと、わたし自身の「変態願望」である。 ひとは願望を持つだけで、そこへ近づくもののようだ。 願望を持つだけでそこへ近づくものだとすると、願望の持ち方には気をつけないといけないことになる。そこで、わたしはしばし、「変態」に願望を持つことはどうだろうかと考える。 ……いいんじゃないかと思えた。 「変態願望」を持つことを支持したい。そう思った。 とは云え、とつぜんひと皮剥ける(脱皮である)わけはなく、また、あたらしい手足が生えてくるわけではない。 つまらないなあ……。 ヘビやカエルの向こうを張って、これまでのわが変態を省みるうち、そんな時期には、がらりとあたりの風景が変わることがあったのに思い当たった。気がつくとまわりの人間関係が変わっていたとか、仕事の内容が変化していたとか。みずからの「変態願望」は支持したいが、大がかりな変化を受け入れる覚悟はあるのかと問われたら、威勢よく「ありますとも」とは答えにくい、いま。 「ちょっとならありますとも」、「少しずつなら、かまわないです」というのが正直なところだ。 そういうわけなので、いつものやり方を少し変えることにしてみた。 遠まわりをして目的地まで行く。 甘いものを食べる。 ヒョウ柄の服を買う。 仕事の順番を変える。 夜道でスキップする。 やり方を少し変えるだけで、ふだんしないことをしてみることで、「変態」とまではゆかないものの、自分の殻を壊す練習ができたような。 庭の梅の、蕾。雨上がりの様子です。花の色は、薄紅。梅は褒められようとして咲くのでなく、「変態願望」なんかというおかしな考えも持たず、ただひたすらに咲くのです。
2014/03/04
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ごはんを食べにやってきた若い友だちが浮かない顔をしている。 いろいろと不調で……、と話しはじめるその様子が気にかかり、後片づけの手をとめて、友だちの前に坐りなおす。わたしとしたら、自分のなかのひきだしをあけ、友だちの前に過去の不調の記録を全部ならべて見せようというほどの心持ちである。 そうだ。わがひきだしには「不」のつく記録がごっそり入っている。 どこかのひきだしの隅っこに成功例らしきものをみつけたとしても、用心しなければいけない。得意になってひっぱり出しても、裏面にはきっと不行き届き、不徳といった「不」の連中が貼りついている。そのことはとりもなおさず、わたしの数少ない成功が、さまざまの「不」にもめげずたくさんのひとの助けによってやっとのことでひきだしに納まったことを意味している。 さて、友だちは云う。 「変わりなく日日の仕事をこなし、変わりなくひとと接しているのに、いつものようにゆかない」 それをことばどおりに受けとり(ひとのはなしを聞くとき、ともかくことばどおりに受けとることが大事、と心得ている)、聞いたことばを反芻(はんすう)する。 「変わりなく……、日日の仕事をこなし……、変わりなく……、ひとと接しているのに……、いつものように……ゆかない」というふうに。 反芻の効能だろうか、不意に「変態」ということばが胸に置かれた。へんたい。変態じゃなくて、変態。……何云ってるんだろう、ええと、昆虫やカエル、植物が、成長のなかで異なる形態をとることをさす変態である。ほら、オタマジャクシがカエルになるような、あれだ。 「変態なんじゃないの?」 友だちに直球を投げてみた。 案の定「ぼくのどこが変態なんですか?」という顔をしたから、オタマジャクシに登場ねがって、説明す。 「あなたが変化してるんじゃないかってこと。敏感なひとは、それを感じとって怪しむだろうし、わけがわからなくて苛立つこともあるんじゃないかな。変態の時期をどう過ごし、どこにつなげるかは自分で決めるしかない。ひとつだけはっきりしてるのは、カエルは、二度とオタマジャクシにはもどれないってことだよ」 変態、変態と云いながら、家じゅうのみんなで友だちを囲み、日本酒を飲む(高校生は、お茶)。変態おめでとうの意味の酒盛りだったが、そのことは伝わったろうか。伝わらなくてもかまわない。ただただ、わたしは友だちの変態を見守ろう。 翌日、ソチ冬季オリンピックの閉幕を迎えた。 やけに熱心に競技を追いかけている自分に驚きつづけた2週間だった。いろんなことを気づかせてもらった。 誰もメダルが好きだけれど……、メダル獲得はうれしいものにちがいないけれど……、メダルに納まりきれない事ごとに刮目(かつもく)する、その連続だったようでもある。 閉会式を前に放送の「ソチ冬季オリンピック・ハイライトシーン」なる番組をテレビで観ながら、わたしはまた変態を考えている。友だちを「変態だ」と決めつけたことから、同じことばを自分自身に当て嵌(は)めているのである。 かつてわたしも幾度かみずからの変態に気づいたことがある。ひとつひとつ数えたら、10本の指では足りないような気がする。ところが最近はどうだろう。この歳になったから、もう変態などはないと、高を括っているのではないか、わたしは。 頭のなかがこんがらかってきた。こんなときは、手仕事にかぎる。 夫の実家で穫れたもののほか、ほうぼうからいただいてたまった里芋をならべたて、ひとつひとつ皮をむいてゆく。 ソチ冬季オリンピック。里芋。変態。 何の関係もないように見える3つのものが手を組んで、わたしに何かを促す存在となっている。里芋はピンポン玉大のコロッケになった。テレビには、フィギュアスケート・フリープログラムで最高の演技を終え天を仰ぐ浅田真央選手の姿が映っている。 ———この春、わたしも変態しなくちゃ。 しきりにそう思わされている。 〈つづく〉雪のなかのブロッコリ。埼玉県熊谷市の夫の実家の畑の様子です。「お互いがんばろうね」としみじみしました。東京にまで降り積もった雪が、ソチ冬季オリンピックに気持ちを近づかせてくれたようでもあります。ね。
2014/02/25
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東京・新宿のカルチャーセンターではじまった「エッセイを書いてみよう」の講座も、気がつけばじきに2年めを迎える。 お話をいただきはじめてみようと決心したとき、先のことはまるで予測できなかった。自分にできることは4つ。皆さんの作品を読むこと、ちょっと添削すること、時時(ときどき)にふさわしい文章を紹介すること、わたしの知る限りの書くときのちょっとした約束事を伝えることだけだった。できることは一所けん命したいと思って、そうしてきたつもりだが、そのこととは別のところで講座は育ち、つづいてきた。 12人からスタートし、現在は20代から80代まで20人のお仲間がある。20の世界がやさしくやわらかく咲いており、わたしはそのあいだを、唸りながら飛んでいる。そうだ、まさにそんな感じ。 1年半が過ぎたころ、講座の皆さんと遠足をしてみたいと考えるようになった。いつか、そんな機会がめぐってくるといいなあと思いながら、遠足に行くなら……、と、行き先を考えるともなく考えていた。 2月に1回、わたしの都合で休講しなければならない日ができたとき、あ、遠足!とひらめいたのは、自然なことだった。講座1回のかわりに遠足を計画したのである。そのときには2月の寒さを考えず、雪の予想もしなかった。ただただ、あたまのなかに「えんそく」のひらがら4文字がひらひらひらひら飛んでいた。 大人としての配慮には欠けているが、配慮ばかりじゃおもしろいことの生まれる余地はない、とこっそりわたしは考える。 遠足当日は雪の予想だった。 東京へのことし2度めの大雪がくるという。 予想は見事に的中し、その日の朝、起きたときにはあたりはもう白かった。 ……雪の遠足。笑おうとしたが、笑えなかった。思いきりうろたえた。 よほど情けない顔をしていたのだろう、夫が「バスでの移動もあるから、ぼくも行くよ」と云ってくれた。当然のことながら、欠席の連絡が3人から入る。 結局総勢14人の遠足となった。 集まったひとりひとりの顔を見るなり、笑いがこみ上げてきた。たのしい遠足になりそうだった。 テーマは、東京都武蔵野市めぐり(わたしの暮らす街である)。 ひと・まち・情報創造館「武蔵野プレイス」、やさい食堂 七福(武蔵野福祉作業所)、武蔵野市立吉祥寺美術館である。 やけにたのしくて、それぞれが何かをみつける不思議の遠足となった。このはなしは、いつかどこかでゆっくり聞いていただくとしよう。 翌日は土曜日で、びっくりするほど雪が積もっていた。 家のなかの感覚だと、綿のようなものにくるまれているようでもあった。静かな朝だった。 静けさを破って、電話が鳴る。1月の半ばに家を出て、ひとり暮らしをはじめた長女からだった。 「おはよう。雪、だいじょうぶ?」 と挨拶。 前夜、帰宅が遅くなった上、電車が動かず難儀したそうだった。最寄り駅から、暗くて長い道をひとりざくざく、ざくざく歩いて帰るところを、偶然友人のクルマに拾われて、帰宅したというはなしを聞く。 奇跡のようなはなしだが、こちらも負けじと雪のなかの奇跡の遠足のはなしを聞いてもらう。電話を通して、笑い声が耳に響いた。 「あのさ、ちょっともホームシックにならないの?」 と尋ねる。 「忙しかったから、かかる間がない」 という答え。それは、こちらも同じだった。仕事や用事に救われて、さびしがる暇(いとま)がなかった。 「一度遊びにいらっしゃいよ」 と友だちに向かって云うような調子で云いながら、そんな自分の有り様(よう)だって、ひとつの奇跡だと心づく。 「行く行く。あのね、お母さん、とっても暮らしがたのしいよ」 ことしは、冬期もぬか漬けを休まず(これまでは冷凍していました)、やってきました。食卓を支えてもらいましたし、胃腸も守ってもらっているような気がします。友人が、ぬか漬けめあてにやってきて、ビールを飲んだりして、それも愉快です。写真はブロッコリ(さっと茹でて漬けています)、セロリ、かぶ、大根、にんじん。ほかにこの季節は、ピーマン、きゃべつ、いろいろの青菜、長芋を漬けます。ぬか漬けを休まずつづけられたことも、この冬の奇跡でした。
2014/02/18
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東京都心に27センチもの雪が積もった。 わたしのところは都心のはずれだから、もう少し積もった。 これほどの積雪は、45年ぶりのことだと云う。 週末でもあったから、いつになくおおっぴらに雪をよろこぶ。 寒さのきびしい土地の、ことに山間部を考えたら、本筋からずれるようだけれども、都心の場合、雪でもっとも困るのは、交通機関の乱れである。雪は降るたび、ひとの足を妨(さまた)げる。雪に不馴れな分、都心のひとの困り方には、目を覆いたくなるものがある。それで、とてもではないが、雪、雪、ばんざーい!などとは叫んだりできない。東北出身の友だちにそっと、雪うれしさのメールをするにとどめてきた。 土曜日の朝早くから、あたりは銀世界に変わっていた。めずらしく粉のように細かい雪が、これまためずらしく吹雪(ふぶ)いている。窓越しに眺めていると、あっという間に雪かさが増してゆく。 友人が、「息子がかまくらをつくりたがってね」と云っていたのを思いだした。このまま降り積もれば、かまくらづくりも夢ではないかもしれない。 その昔、わたしが十(とお)くらいであった昔、東京に大雪が降った。 父は生まれも育ちも北海道であったから、朝の早よから装備を整え(父は毛皮の耳当てのついた帽子をかぶっていた)雪かきにかかり、弟とわたしが起きだしたときには、当時空き地だった家の前まで、雪の道ができていた。少しの雪が積もっても、わたしたち姉弟(きょうだい)は、雪だるまをつくり、雪に遊んだものだが、それも両親、ことに父の雪うかれの後押しがあったおかげだ。 東京の雪だるまは、どうかすると土混じりになったり、そうでなくとも、すぐと溶けていなくなってしまう。わたしが好んでこしらえたのは、雪だるまのきょうだいだったが、ならべてつくった雪だるまのきょうだいたちが、学校からもどるころにはふたり半くらいになっていた。長男から8男までの大家族なのだが、末に向かうほど小振りにつくるため、このような悲劇に見舞われるのだった。そうだ。雪だるまとのあっけない別れは、幼いわたしには悲劇としか云いようがなかった。 さて、わたしが十だとすると、弟は九(ここの)つということになるが、その年、ふたりは、東京校外の実家前に、かまくらをつくったのである。後(あと)にも先にもかまくらは、つくるのも入るのも、そのとき一回きりだった。雪まみれになりながら、ふたりとも汗だくになった。掘る雪はどこまでも白く、どこまでも豊富だった。でき上がったかまくらは、ふたりがまるまってならんで坐るといっぱいのこじんまりとしたものだったが、それでもかまくらにはちがいなかった。母は、「おめでとう」と云って、湯を注いだ懐中汁粉を運んでくれた。 そのかまくらが次ぐ日、どんなことになったかは、記せない。記憶から消えてしまっているからだ。かまくらのなかで、窮屈に弟と肩寄せあって食べた汁粉のところまでおぼえていれば、それでよかった。 週末ニュースでくり返し伝えられた東京の、45年ぶりの大雪というのは、あのかまくらのときだったのだろう。そのときから45年の歳を重ねたわたしは、雪だからと云って外に飛び出したりはしない。窓辺でじっと雪の降るのを眺めている。出かける予定もなしにして、ひたすらぼんやりしていた。雪は等しくひとや小鳥、動物の目に映り、雪はどんな地面も、どんな草木も覆う。そうした目的を持って降るのではないにせよ、雪はこの世を浄めてゆく。 日曜の朝カーテンをあけると、おもては前日とは打って変わって、雪に輝いている。雪はやみ、日が燦燦(さんさん)と照っている。かつても悲劇を思いださないこともなかったけれど、雪は分厚く、まだ、子どもたちのつくった雪だるまたちは無事だろうと思い直す。 昼過ぎ、旅仕事からもどった夫が、玄関に荷物を置くなり雪かきをはじめた。前日からのぼんやりをまだつづけていたわたしが、ふと我に返ると、2時間以上が過ぎていた。夫はまだ雪と格闘しているらしい。2軒先のあたりに姿をみつけたので、声をかけると、「雪遊びだな」と笑った。 「ご苦労さま」 45年ぶりに降った雪は、わたしにぼんやりする時間をくれ、夫には近隣を思う機会を与えたのかもしれなかった。雪から2日たった月曜日の午前中、近所で雪だるまの無事を確認。葉っぱの目、小枝の口。壊れたカチューシャと葉っぱの蝶ネクタイも、洒落ているでしょう?
2014/02/10
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目覚めたとき、あたまのなかは節分でいっぱいだった。 豆の準備よし、恵方巻きの準備よし、と確かめて布団をはね除けた。 豆まきの豆と恵方巻き(うちのは、ひとり1本ずつの細巻き)があれば、じゅうぶんに節分を迎えることができそうにも思える一方で、わたしは何かをさがしている。いったい何を……? もぞもぞと動きそうな何かに向かって、目を凝らそうとしている……。 湯を沸かしたり、弁当をこしらえたり、ぬか漬けの大根に塩をまぶしたり、洗濯物を干したりしながら、もぞもぞの主をさがす、さがす、さがす。 ゼロ時限講習(1時限前の授業/数学)のため、早出の娘を高校へと送りだしたあとも、もぞもぞの尾はつかめそうでつかめず、洗濯ものを干すときスニーカーソックスのつま先にみつけた穴を繕うことにした。穴に気づかなかったことにして干すと、わたしは穴を忘れる。すると、穴あきの靴下が幾足もたまることになって、結局それらの繕いに半日かかったりするのだ。ごく最近、干すときに気がついた穴は、干す前の湿った状態で繕うようにしてみたら、これがなかなかいい具合だ。時に溜めこんだりしていたとはいえ、繕いものだけはやめるわけにはいかない。これほど、後世に伝えたいこともないというくらい、大事なしごとだ。 繕いものは、わたしを、さがしていたもぞもぞに近づけたようだ。 近づいた、近づいたと思って、胸のなかが晴れてゆく。 そのこころが思いださせたのが、窓の敷居だった。 家の窓の敷居に埃がたまっていたのを思いだしたのである。湯を張ったバケツと雑巾と、乾拭き用のボロ布と古歯ブラシを持って、ひとつひとつ、窓と対面す。古歯ブラシで埃をたたき出すうち、どうやら、このしごとは節分にふさわしい、と思えてきた。 夜、皆がそろったら、「鬼は外」と、「福はうち」と云いながら豆をまくことになるだろう。子どものころから欠かさずつづけてきた立春前日の節分の豆まきだが、その日を迎えるたび、鬼とは何だろうか、福とは何だろうか、と考えてしまう。それこそが、この日、わたしがさがしていたもぞもぞの主だったか。 鬼という存在のなかに福が宿るのを見ることも少なくはないし、福と呼ばれるものが鬼の一面を持っていることは、もっと少なくはない、というのがわたしの実感なのだ。歳を重ねるにつれて、鬼と福とを分けて考えられなくなってゆく。子どものころから、鬼を疎(うと)めない体質だった。これには、「泣いた赤鬼」(浜田廣介作)のものがたりの影響もあったかもしれない。 家じゅうの窓の敷居の掃除を終えたわたしは、この敷居をまたいで、鬼がくるもよし(きたければ)、福が去ってゆくもよし(去りたければ)、と考えている。鬼も福も好きにしたらいいけれど、問題はわがこころだ。胸の「ここ」は、すがすがしくあらねばならない。何をするにも、何を捉えるにも、澄んでいなければしきれないことばかり、捉えられないものばかりだという思いが募っている。澄んでいなければ、と云っても、いきなり澄むわけではないから、正確に云うなら、澄みたいと希うことなのじゃなかろうか。 夜になったら、「澄みたい、澄みたい」と思いながら豆をまこう。節分の朝、家のなかをうろうろしているときに、飾り棚や書架で、昔、絵を描いた石と目が合いました。ひとところに集めてみました。長いこと離ればなれになっていた石を合わせるというのなんか、じつに節分らしいではありませんか。これは、食器棚のなかでうたた寝していました。カップラーメンを食べるときの、ふたの重石(おもし)です。
2014/02/04
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到来物の白味噌の羊羹(ようかん)と、渋めのお茶を、と思った。 休みの日の朝、このような甘味とお茶をたのしむことがある。文字通り「朝飯前」のひとときだ。食卓には、朝ごはんの仕度がほぼできているので、ちゃぶ台を出して……。 そうだった、ちゃぶ台はなかった。 ひとり暮らしをはじめた長女に持たせてやったのだった。 ひとり暮らしの準備に際し、娘に伝えたいことがあった。 「間に合わせのモノは持たない」 というのがそれだ。 が、なんとなく口に出して伝えるのは憚(はばか)られた。娘には娘の考えがあるのだから、との思いから、口にしかけて黙った。それに、「間に合わせのモノは持たない」ということなら、すでにじゅうぶんに伝わっているはず、と思いたくもある。 わたしが娘ふたりと3人の暮らしをはじめたとき、テーブルは持たず、暮らしのまんなかに古いちゃぶ台を置いた。ちゃぶ台は、わたしの暮らしの原点であり、「間に合わせのモノは持たない」という、暮らしの象徴的存在だった。 現在、娘の家にはないモノがたくさん。 たとえば机。たとえばフライパン。包丁もない。包丁はただし、わたしが使ってきたペティナイフだけは持たせた。三徳(文化包丁)は、いずれ贈れたら……と考えているけれど。 娘の引っ越しを手伝ったとき、荷造りの箱のなかに、おろし金をみつけた。 「取材先でもとめたんだ。一点豪華というヤツです」 うつくしくて頑丈な、純銅製だった。 それを見て、ああ、これがこのひとの原点だな、と得心した。云うことは何もない、と思った。 若いひとに伝えたいのは、調度の類いは間に合わせで持っても、吟味して持っても、長持ちするということ。気がつくと、軽く20年くらい過ぎてしまう。20年が過ぎたとき、間に合わせの道具の多くはそこで終わりを迎えるが、吟味して選んだモノの多くは、まだゆける。修理も利く。この実感だけは、若いひとにはつかみきれぬだろうと思うものだから、こそっと云っておきたいのである。 老婆心のついでに書いておくのだが、家に食器棚が入り用、食卓が入り用、ソファが……、というのはどこかで誰かがつくり上げたイメージだ。このイメージに囚われて、暮らしをスタートさせるのはいかにも窮屈。 自分がどんな暮らし方をしたいと考えるか、どんな好みを持っているかを尋ねつつ、計りつつ、ゆっくりゆくのに限る。ほんとうに欲していたわけではないのに、のせられてもとめてしまった調度に苦しめられる(空間を奪われる)のだけは、よろしからず。……である。 ところで、朝飯前の甘味とお茶を、わたしたちは盆の上でたのしんだ。ちゃぶ台もよかったけれど、盆もいい。わたしが好きで、使いつづけてきたべこべこのフライ返しです(右)。娘にも同じモノを、とさがしさがして、もとめました(左)。押しつけがましいとは思ったものの、「べこべこ」を愛するあまり……。
2014/01/28
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長女の家に荷物を運びこんだ日から3日間は連休で、皆で通ってカーテンを取りつけたり、棚を吊ったりした。注文した灯油ストーブの到着を待って、長女は本格的に転居することになっていた。 その日は、4日めの朝にやってきた。 いつものように起きてきて、いつものように朝ごはんを食べ、いつものように玄関で靴を履き、「じゃ、行ってきます」と長女は云った。けれど、もう、このひとはここへは帰らない。 「ときどき、遊びにきてくだ……」 と妙ちきりんな挨拶をしかけたら、娘に遮(さえぎ)られた。 「いつもどおりにたのみます」 「い、行ってらっしゃい」 その日から1週間が過ぎようとしている。 仕事と雑用に追われて、感傷に浸る時間がなかったのは幸いだったかもしれない。すでに胸は何かが破れるような音をたてたし、そこから立ち直ろうともがきもしたし、それでじゅうぶんな気がした。じゅうぶん、という思いが湧いたのは、そこを通ったおかげで、あたらしい生活をはじめるつもりになれたからだ。 これでいい。 ひとり暮らしの経験のないわたしは、娘のおかげで、ひとり暮らしとはどんなことであるかを学ばせてもらっている。わたしが実家から独立したときは「結婚」で、相方がいた。約7年後「離婚」したときにも上ふたりの娘たちが一緒だったから、ひとり暮らしにはならなかった。最初の夫との生活は、通勤時間が長かった苦労と、空き巣に入られたことのほか、記憶がない。おぼえていなくてもかまわないかな、と考えた時点で記憶が薄らいでいったような。 一方、それにつづく3人暮らしの記憶は鮮明である。あのころのわたしはたくましくもあったが、そのじつ、幼い長女と二女にたよってもいたことが、いまよくわかる。たよるというより、しがみつくと云ったほうがいいかもしれないほどに。 とくに長女は、わたしの選んだ生き方を体現するかのような、そんな存在であった。子というよりも、相棒だった。 その相棒に対する長年の思いが、いま、わたしのなかで渦巻いている。これまで口にしなかった分の「ありがとう」の渦のなか、溺れてしまいそうだ。これからあたらしい生活がはじまると感じているのは、わたし自身が親元から離れたこの30余年が、相棒の独立によって、ここでざっくり締めくくられたからだ。思えばめまぐるしい歳月だったが、相棒が「(自分の住む)家がみつかったの!」と云った瞬間、この30年一括りの「1章」(もっと細かい分け方があるだろうとしても)が終わった。 現在、長女のいなくなったこの家のなかに、小さなふたつの引っ越しが行われている。 長女と三女が使っていた2階の15畳あまりの部屋と、わたしたち夫婦の6畳の部屋を取り替えるのがひとつ。15畳の部屋に、夫の仕事場を移すのがひとつ。 まさに、あたらしい生活がかたちとなってはじまっているのがおもしろくもある。長女の引っ越しのさなか、暮らしが暮らしを生んだなあと考えたが、長女の暮らしがこちらにも暮らしを生まれさせたのだった。暮らしの子どもがあちらにも、こちらにも。 三女は自分ひとりの部屋を気に入って、これまたあたらしいページを生きはじめている。わたしはと云えば、生まれたばかりの暮らしの子どもたちが、排出したモノを片づけながら日を送っている。不要なモノを持たずに暮らしていたつもりだったが、どうしてどうして。こちらの油断につけ込んで、なくていいようなモノたちが列をなし、わたしを見上げて笑うのだ。 イヒヒヒヒと、笑うのだ。長女の家の台所です。掲載許可を得ることができました。食器棚のうしろ側が、古い下駄箱です。裏側が破けていたので、板で補強しました。わたしの、ひとり暮らしの学習記録として、見ていただけたら、と思います。
2014/01/21
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「家がみつかったの!」 と長女が云った。 そのとき、ごくりと苦いものを飲みこんだような気がしたが、気のせいだったかもしれない。 家から自転車で30分ほどの場所に、古い文化住宅をみつけたのだ、と長女は胸を張ってみせた。古いものが好き、オンボロのものを直したり磨いたりして使うのが好き、土好きのこのひとにぴったりの家だったらしい。 昨秋「ひとり暮らし宣言」をし、長女は古い家をさがしつづけていたのだった。それが2013年もそうとうに押し詰まってから、実現した。 「年の瀬の家の契約は、夜逃げと相場が決まっているのよ。あなたのような若いひとだとわかって、びっくりしたりほっとしたりしています」 と家主の老婦人は云ったそうな。 無事契約がすみ、引っ越しは年が明けて10日あまりあとに決まった。 正月、自転車に乗り、みんなで長女の家を見に行く。なるほど古い家だったが、やさしい老人がきものを着て静かに坐っているような印象を受けた。 妹たち(二女三女)が「梓らしい家だねー」、「ほんとにねー」と云って笑った。 年明けから、引っ越しの準備にとりかかった。 昨年、訪れた雑誌Kの記者に「山本さん、ほかの食器はどこにしまっているのですか?」と訊かれ、「見えているこれが全部です」と答えて驚かれた食器棚の扉を開く。ここから食器を分けてやろう、と思う。この機会に、この家の風通しもよくしよう。 そう考えようとしていた時点では、わたしは自分にうそをついていた。 しかし、器や道具類を新聞紙でくるみ、段ボールにおさめながら、胸のなかに、ごまかしようのない気持ちがひろがってゆく。 胸がちりちりする。さびしくて、胸が……。 なんとだらしのない母親だろうか、わたしは。こんなはずではなかった、娘の独立をさっぱりとよろこび、勢いよく背中を押してやるような、そんな存在であるはずだった、わたしは。ところが、胸はちりちりと震えたあと、びりっびりっと、音をたてている。胸の「このあたり」がところどころ破れるようなのである。質(たち)のよくない破け方だ。こんなことでは、身がもたない。長女が引っ越してゆくころには、ずたずたになってしまう。 けれども、胸が破けそうなことに気づいて、それをみずから認めてしまったら、そこから少しずつ、気持ちを変えてゆくことができた。 娘に向かって、「引っ越しの準備に口は出さないけど、手を貸させてね。そうすることで、背中を押せるような気がするから」と宣言す。 それから、必要なものを買いに走ったり、夫の実家の土蔵にしまってある古い器や踏み台なんかをもらいに行ったりした。夫の祖母の嫁入り道具だった下駄箱までもらってきてしまった。 自分の家のことを自分で整えようとする娘に遠慮して、隠れていそいそ準備をすすめた夜半のこと。冬休みの宿題をしていた三女に向かって、わたしは思わずこう告げていた。 「お母さんさあ、いま、いちばんやりたくないことに精出してる感じなんだよね」 正直な気持ちをこんなふうに吐露することで、だんだん、子の独立を敬うことのできるわたしになってゆけそうな。 〈つづく〉 赤ん坊だった長女のために、29年前、わたしがもとめたうさぎのちっちゃなぬいぐるみです。こんなのを眺めながら、「このうさぎさんの耳をちゅうちゅう吸っていたあなたが、大きくなったもんだね!」と云って笑えるまでになりました。1週間ほど前、思いがけないほどさびしがっていた自分をつついてやりたかったけれど、つついたら、泣けてきそうで、それもできなかった……のでした。あはは。
2014/01/14
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あれは、暮れの29日のことだった。 午前中、友人夫妻が年賀状を届けてくれた。古い友人であるふたりは乗松印刷という小さな印刷会社を経営しており、相手の意図を汲みとることにかけて、抜群の感覚を持っている。 「カヲリちゃん、年賀状頼むの忘れてた」 と電話をしたのが26日で、文字要素(原稿)と馬のイラストを届けたのが27日。するとたちまち校正が送られてきて、見ると、云うことなしの出来映えだった。その時点でもう、年賀状のことが頭から消えてしまった。めでたしめでたし……というように。 だからこの日、刷りたてほやほやの年賀状を渡されたとき、ああ、そうだった、とめんどうなことを思いだすかたちだった。これに宛名を書きこんだり、ひとことコトバを入れたりして、投函しなければならない……。忘れていたわけではないが、忘れたふりをしていた。 「フンコ(カヲリちゃんは、わたしをこう呼ぶ)の描いた馬の絵、禿げてるよ。馬には前髪があるんだからね」 カヲリちゃんに、わたしが描いた馬の絵のことを指摘される。そう云われたら、馬の頭のてっぺんが寂しく思えてきた。ひとだったら何でもないのに、馬の禿げ頭は思わしくないのは、なぜだろう。仕方がない、頭の毛だけ色鉛筆で描き足すとしよう。 印刷を急がせた上に、家まで届けてもらったお礼に、近所のファミリーレストランでささやかに昼ごはんをごちそうする。カヲリちゃんと夫はビールを注文し、乾杯している。乗松氏とわたしは、ドリンクバーのブドウジュースと韃靼(だったん)そば茶で。注文したもののなかのいちばん人気は、酸辣湯麺(スーラータンメン)。わたしが注文した。 帰るなり、やおら自転車にまたがり、北へ向かう。 あたらしい道路の脇に、自転車専用レーンができているのをみつけて、うかれて走る。ことし10年ぶりに自転車を買ったよろこびに浸りながら、ペダルを漕ぐ。ときどきめぐってくる坂道はきついが、わたしの心臓も足も、まだ錆びついてはいないようだ。 驚いたことに自転車レーンは、わたしの「目的地」のごく近所までのびていた。自転車レーンをはずれて小学校の裏手を走り、豆腐屋(ここのがんもどきは、滅法おいしい)の前を抜け、ビートルズのレコードをかける床屋をうれしく眺めたどり着いた「目的地」はわたしの実家である。時間にして約30分。 実家の門には、千両の実もあざやかな松飾りが2つとりつけてある。これまでの据え置き型の門松をよして、簡便なものにしたということだろうけれど、なかなか洒落た飾りである。柵状の門にとりつける縄の結び方に、見惚れる。 「やあ、ふみこか」 父が出てきたところを見ると、母は留守らしい。いまのいま、買いものに出たとのこと。 「いいの、おとうちゃまに用事だからね。90歳のお誕生日おめでとう」 「90歳だなあ」 この日は父の誕生日で、わたしはおめでとうを云うために、前にしたガラス拭きのつづきをするために、来たのだった。ガラス拭きを1時間ほどで終え、わたしは母を待たずに、また自転車にまたがった。 年末もおもしろかったが、年始もおもしろかった。 5人そろって歩いて深大寺に初詣したり、わたしの実家に(自転車部隊で)出かけたり、夫の実家に電車(湘南新宿ライン)で出かけたり、書いてみれば何ということもない日日だった。 が、その何でもない積み重ねの、かけがえのなさとおもしろみを知るこころこそは、晴れ晴れとしたこころと云えるのではないか。 ところで。 結局年賀状は、年が明けてから、書きはじめた。 そのため、1月1日は夜なべ仕事になった。同じことになっているらしい長女と向かいあい、「年の初めはさだまさし」をテレビで観ながら笑って、ときどき涙ぐんだりした。ここ数年、書家の山田麻子さんの「手書き暦」をかけています。力強くうつくしいだけでなく、おもしろい。そこが、好きです。ことしの表紙は、「陽に向かって走る馬」。そして、1月が、これ。「『志向』こころがある方向に向くこと。向かうという字には「口」が入っています。口に出すとそちらの方へ行くと私は思っています」とは、山田麻子さんのことばです。「志向」の文字は名刺サイズの作品で、両面テープをはがして、暦の「好きなとこと」に「貼る」ことになっています。わたしは……、ここへ、貼りました。
2014/01/07
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朝のしごとが終わったのと同時に、上まぶたが重くなった。 この日は出かける用事もなく、急ぎの仕事もなかった。手紙書きと書類整理がたまってはいたけれども、休養を選んでもよさそうだった。とつぜん手にした幸運がこぼれないように気をつけながら、階上にある夫の仕事部屋に駆け上がる。 「きょうわたし、夕方まで廃人になります」 と宣言する。 「ああ、そう。アルプスの少女になるんだね」 「え?」 「ほんとうの廃人になっちゃうと困るからさ、アルプスの少女ハイジンね。早く明るいハイジに戻ってよ」 きょうひと日、「通常の社会生活を営むことができなくなったひと=廃人」となるほどの「覚悟」で布団にくるまろうとしていたというのに、夫の駄洒落によってわたしは、いきなり、アルムの山に放りだされた。放りだされるや、いきなり眠った。夢を見た。ことしうまくゆかなかったこと、しくじり、至らなかった事ごとのシンボルだろうか、灰色の渦が夢のなかにあらわれ、苦悩のおさらいをさせようとしたが、なにしろ場面がスイスの山だ。灰色の渦巻きは、長くとどまることもできずに、消えてしまった。 たしかに、ことし、うまくゆかないこともあった、しくじりもあった、至らなかったことも少なくはなかった……。しかし、自分にはいいところが(少しは)あるらしく思えたのもまた事実だった。 その事実は、夢を見ているわたしの気持ちを明るくした。 目覚めたとき、あるがまま生きるがよし、という心持ちになっていた。夢にまであらわれてわたしを責め立てようとした苦悩の多くは、あるがままの生き様を隠そうとし、とりつくろうことによって生じたものかもしれない。寝ぼけた頭で、わたしはそう考えていた。 「ハイジン、目覚めました」 と夕方報告したときも、 「ああ、そう。お帰り」 と夫の受け答えはそっけなかったが、そんなこと、いいんだ。 いろいろなことに一所けん命取り組むんだ、覚悟もして生きるんだ。けれど、思い詰めず、遊ぶくらいのゆとりを持とう。 あるがままのわたしを信じて、明るい気持ちでゆこう。12月22日(日)、途中まで「NHK杯テレビ将棋トーナメント」を観ました。3回戦第4局 羽生善治三冠 対 大石直嗣六段。結果は大石六段の勝ちでした。わたしが観ていたときすでに、後手の大石六段が優勢でしたが、用事を終えて結果を知ったときには驚きました。羽生三冠が弱くなったのではなく……、若手が強くなっているのです。負けるというのはわるくないなあ、と将棋の対局を見ていていつも思います。「負けました」と云うときの棋士が立派だからです。NHK杯3回戦第4局をさいごまで見られなかったので、写真の携帯用の将棋盤を持って(ただ持って)、用事に出かけました。〈お知らせ〉12月はじめ、『暮らしと台所の歳時記 旬の野菜で感じる七十二候』(PHP研究所)を刊行しました。手にとって見ていただけますれば……幸いです。 *ことしの「うふふ日記」はこれで終わりです。1年間、おつきあいいただき、またたくさんおたより(コメント)をいただき、どうもありがとうございました。来年は1月7日(火)スタートです。どうか皆さま、佳い年をお迎えください。
2013/12/24
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見ると、寝台横の棚の上に埃(ほこり)があった。ぎくっとした。 この日、わたしは実家のガラス拭きをしていた。 内側外側ふたり一組ですると、「ここ、ここ」と曇りや汚れを指摘しあって、作業が捗(はかど)るのだが、この日はわたしひとりでごしごしやっている。外側からは内側の曇りがさやかに見え、内側からは外側の拭き足らなさが目について、行ったり来たり。そうするわりには、なかなか「これでよし」というところに届かない。捗らないことに嘆息しかけたそのとき、くだんの棚に埃が見えたのだった。 これが自分の机や棚であったなら、何ともない。埃がたまっているなどめずらしくもない。しかし、母の……となると、はなしは変わってくる。 母の掃除と片づけは「魔」のひと文字を加えたくなるようなものである。掃除魔、片づけ魔。ガラス拭きにしても、母のチェックを思うと、わたしが自分の家のガラスを拭くときとは比べられないほどに、念が入る。片づけのほうは、母のものを受け継いだと思うが、掃除はそうならならず、「片づいていれば、まずまずきれいに見える」などと豪語して(書いたりもして)今日に至っている。 母の部屋の棚の埃は、わたしに、少なからず衝撃を与えた。 あるいは新婚旅行だったかもしれないが、若き日に父とふたり寄り添って微笑む記念写真。年に二度ほどあつまって外食するときの家族写真。孫たちの笑顔の写真。写真立てのにぎやかにならんだ飾り棚である。 写真立てをすっかり寝台のベッドカヴァの上に移し、棚を拭く。ガラス拭きのためにと家で切ってきた古シャツで埃を拭い、つぎに水拭きをすると、すぐときれいになった。作業にすれば何でもないけれど、胸のなかは何でもなくはない。母が年をとったという事実が、感傷にくるまれて迫ってくるのだった。 しかし、わたしは天の邪鬼だ。 ——こんなことで感傷的にならないでおこう。 そんな気持ちがむくむくと湧いてきた。ガラス拭きによって、血行がよくなっていたからかもしれない。わたしは感傷を吹き払い、そっと胸のなかで云ってみた。 「おかあちゃま、埃、埃。拭いたげるねー」 云ってみたらうれしくなってきて、声に出してもう一度。 「おかあちゃま、仕方ないなあ、ここにほら、埃。わたしが拭いたげるねー」 調子づいてきた。 天の邪鬼というのは、こんなふうなものだ。どんどん調子づいてゆく。 55年も母の子どもをやってきて、母の見逃した跡をわたしが拭うなど、初めてのことだ。いや、うれし。はて、たのし。 55年生きてきて、みずからの天の邪鬼(気質)に救われたのもまた、初めてのこと。これからは、自信を持ってこれでゆくとしよう……。 どこまでも天の邪鬼は、調子づく。クリスマスが近づいてきました。その日がほんとうは何の日であるかを、思いだしたいと思います。宗教をはなれた意味でも、その日はもの思い、考える聖夜になるでしょう。
2013/12/17
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友だちが「高尾山(*)に登りましょう」と誘ってくれた。 それは絶妙のタイミングで、このひとには、わたしのことがすっかり見えているのじゃないだろうか、という気がしたほどだ。 わたしは高尾山行きを、鼻先にぶら下げ、立てこんでいた用事を片づけることに精出した。用事が片づいたのは結局、高尾山に行く前日の夜だったが、区切りがついたつぎの瞬間には、うきうきとリュックサックにカイロやらチョコレートやらを詰め、あとはそこに弁当と水筒を加えればいいというまでに準備した。弁当を食べるときに使う敷物、軍手、懐中電灯、雨具も忘れず入れた。 翌朝空が澄みわたるのを見て、こんな日を迎えられるなんて、と思う。 途中、用事がすっかり片づくときなどめぐってこないような気がしかかっていたからだ。登山靴の靴ひもをぎゅっと結んだとき、目の縁がかすかに濡れる。 友だちとは三鷹駅のホームで待ち合わせた。 電車に乗ったら、車窓から真っ白い富士山が見えた。 「紅葉、どうかしらね」 そう云われて初めて、紅葉を考えている。 ——そうか、紅葉が見られるのか。 高尾駅で中央線から京王線に乗り換え、高尾山口の駅に向かうと、ひとがいっぱいだった。 ——平日だと云うのに。 とは、そこにいる誰もが胸に宿した感想だろう。 いっぱいのひとのなかに、保育園の遠足らしき愛らしい行列があった。そっと見ると、隣りで友だちがせんせいの顔つきからだつきに変身しかかっている。彼女は保育士なのだ。 ——あ、こら。きょうは休みなんだから、そんなふうな様子になっちゃだめだよ。 とこっそり思う。 長い長いリフトに乗る。 リフトのようなものに乗るときには、えらく緊張す。ゆっくりではあるが動いているものに乗っかるというのが、わたしにはむずかしい。自分が一連の流れを止めてしまったらどうしよう……と恐れるのである。リフトのほかには観覧車、エスカレータ、歩く歩道がある。いちいち緊張する。 それでもリフトや観覧車をみつけると、「あれに乗りたい」と、騒いだりするところを見ると、わたしはどうやらリフト好き、観覧車好きであるらしい。緊張しながらも好き、というくらいのことは、まあ、矛盾のうちには数えられないだろう。 ふたり乗りの、ブランコみたいなリフトが、黄色い葉っぱ赤い葉っぱのあいだを登ってゆく。頭上には青い空がひろがっている。高尾山のリフトが好きで、これまで幾度となく乗っているけれど、くっきりとした紅葉の記憶がない。まるで……、まるで全身が染められてゆくようだ。 「紅葉のなかをこんなふうに登ってゆくのは、初めてかもしれない」 と友だちも云う。ただし、彼女はスキーをするので、雪のなかのリフトを思いだしているらしい。雪のなかのリフトもいいが、紅葉のなかのリフトもいいというふうに。 つられて雪のなかのリフト、というのを想像する。スキーをしようとは思わないけれど、しなくても、ただリフトに乗っていることはできるだろうか。できるなら雪のなかをずーっと登ってゆき、またずーっと下りてみたい。寒いのはへっちゃらだから、ぜひしてみたい。 「雪に動物の足跡しかついていない。上のほうに登ると、そんなところもあるのよ」 と、友だちがわたしの想像をふくらませる。 山頂でまわりの山山を眺め、稲荷山コースで下山をはじめる。途中で、敷物をひろげ、弁当を食べる。友だちが味見させてくれた、ねぎ味噌、あれはおいしかった。ねぎを小口切りにして炒め、味噌やみりんで味をつけたという。生姜の風味も加わっていたかもしれない。 下山のとき、すれちがう相手(すれちがう相手は登りだ)と「こんにちは」の挨拶を交わす。たいてい皆、返事をくれる。挨拶をくり返していると、いまこの山にいるお互いという気持ちが湧き、みんな、どうしてここへやってきたのだろうという、余分なことまで思われる。 ——みんな、どうしてここへやってきたのだろう。 早くもない、遅くもない速度で山を下りる途中、「さがしもの」ということばが浮かぶ。 山で何かをみつけようとするお互い、という見方がちょっとおもしろく思える。 さがしものの種類はことなり、みつかるものがちがっても。* 高尾山海抜599m。東京・新宿駅(JR/京王線)から1時間と少しで登山口に到着します。樹木が生い茂る恵まれた環境のなか、たくさんの野鳥、昆虫、動物たちが生息しています。高尾山でみつけたもののひとつです。ほかにも、いくつかみつけたものがあります。こころのゆとりとか、それから……。落ち葉は「2013」の帖面にはさみました。「2014」の帖面も準備しました。
2013/12/10
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何年か前、「もったいない」ということばが復活したとき、びくっとした。 子どものころ叩きこまれていたというのに、わたし自身が忘れかけていたことに気がついて、びくっと……。 ことばが消えたのではなく、先に、もったいないという精神(こころ)が消えたんだと思う。ことばとは、そういうものだものね。 いまから、そのころをふり返ると、人びとが「もったいない」ということばを思いだしてまた口にするようになったあのときは、まだもう少し人間がこの星で生きられるように踏みとどまった、ぎりぎりのぎりぎりだったような気がする。あの時点で、「もったいない」というようなことばにびくっとする人間があとひとり少なかったなら、もうこの星の上に人間はいなかったかもしれない。 それを大袈裟だと……? いや、決して大袈裟なんかではないと思う。 ひとの未来が、些細なことで変わってゆくのを経験してきたわたしにはわかる。星の運命も、人類の運命もきっと、些細なことで変わる。 ところで。 「もったいない」ということばだが、ときどきわたしをこんがらからせる。 なぜかと云うと、もったいないから踏みとどまろうとする一方で、もったいながってばかりいてはいけない場合があるからだ。「もったいない」を重んずるあまり、勝手にこんがらかっているだけで、そうむずかしいはなしではない。 ときどき、「いいもん」をいただく。 果物や野菜や、きれいな菓子や、珍味。 「いいもん」はめずらしいから、きれいだから、おいしいから「いいもん」なのではなくて、わたしにとさし出される気持ちこそが「いいもん」たる証だ。わたしは「いいもん」いただくたび、そのありがたみにうち震える。 うち震えたとき胸に宿るのが、「もったいない」という気持ちだ。この「もったいない」は、もったいないからとてもじゃないが、すぐには食べられない、と思わせるもの。 せめてきょうひと日、ここへ飾っておきましょう。 特別なことがあったときにあけて、食しましょう。 そんなふうに思って、飾ったまま、あるいはしまいこんだまま、時が過ぎてゆく。そうして、蓋ものは開けてはいけないものになり、生ものにいたっては……。そんなふうな「もったいなさ」を若いころから幾度も経験した。長い年月を経て姿を変えた「いいもん」に再会し、「アンタ、ダレ!」なんて、ひどいことを云うわたし。恩知らず! 薄情者! 「いいもん」を胸にかき抱き、早口で「ありがとう」を云って、云ったかと思ったらすぐとそれを胸からはなして、食べることとしたのは、近年のことだ。もったいないからと云って惜しんでいてはいけないこともあるというはなしなのだが、このあたり、じつにむずかしい。どうやら、そのもの(の価値)がじゅうぶんに生かされず無駄になるのが、「もったいない」の正体らしいのだが……。 ええと、先に書いた、まだもう少し人間がこの星で生きられるように踏みとどまった地点は、ぎりぎりのぎりぎりのまま今日に至っている。 ぎりぎりのぎりぎりは、いつまでもつづけられる状態ではないのに。この秋、わたしの住む東京都武蔵野市でひとつの中学校が開校60周年を、ふたつの小学校が開校140周年を迎えました。こう書いてしまうと、その事実だけがここに置かれますが、これはすごいことです。奇跡のような出来事だと感じました。さて、140周年を迎えた小学校で、校庭のいちょうの樹の銀杏をいただきました。ああ、ありがたい。でもわたしは……、いただいたつぎの日にこれをすっかり煎って、食べてしまいましたとさ。(進歩)。
2013/12/03
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トンネルを抜けた。 トンネルのなかにあって、かなたに点のように見えていた出口の光が、ああ、とつぜん大きくなったなと思ったら、そこが出口だった。 「え? ここ出口?」 という、なんだか呆気ないゴールだった。 これまで、幾度も仕事上のトンネルを経験してきたが、このたびのようなのは初めてだった。ほかの用事とのやりくりがうまくゆかなかったのと……、何よりなかなか手がつけられなかったため、さいごのさいごに、いよいよ突貫作業ということになってしまった。 「どうかしてるね」と自分を叱り、「あとで大変なことになるよ」と脅し、「Kさん(編集者)と、Iさん(デザイナー)を苦しめることになるんだからね」と泣き落としにかかったりした。が、ほんとうにぎりぎりも、つんのめるほどの崖っぷちになるまで、わたしは動かなかった。この、ぎりぎりもぎりぎり、という感覚こそが、初めてのものだったのだ。 その心理の分析すら、いまはしたくない。 ほんとうは、どうしてぎりぎりもぎりぎりのところまで手をつけられなかったかを探って知っておくことは、今後のためにも必要だと思えたが、それでもふり返りたくなかった。この1か月半のことをふり返ると、あたまがじじじじじと不穏な音を立てるのだもの。やり遂げたのだから、いまは、それでいいことにさせてもらおう。と、思っている。……うなだれながら。 ところで。 このたびはトンネルのなかで、わたしは比較的穏やかに機嫌よくしていることができた。ひとの助けがあったのは云うまでもないけれど、そのことも含め、「ふだん」の後押しのおかげだった。 切羽詰まった状態だったが、わたしは「ふだん」を手放さなかった。この手を離したら、おしまいだという気がして、つかむ手に力を入れて。 つかんでいた「ふだん」とは、どんなものか。 朝、同じように起きて「おはよう!」と云うことや、家の者たちが出かけるたびその背を追って玄関に行き、石を打ち合わせて(火打石の真似ごと)見送ることや、ねこのいちごの遺影に向かって二言三言はなしをすることや、そんなふうなことだ。そのほか、ポットに熱湯を注ぐこと、弁当づくり、ぬか床のこと、夕食の仕度にも一所けん命しがみついていた。「ふだん」というのは、わたしがまわしているものでなく、わたしを動かす原動力だったのだわ、と思いながら一所けん命。 トンネルの出口で、ほっとするのと同時に、気力が急激に失われるということが過去にはたびたびあったけれども、それもないところをみると、トンネルを出たあとの状態にも「ふだん」は力を発揮しているものらしい。 わたしの仕事を青くなりながら待ってくれた人びとに。 ときどき、おいしい晩ごはんをつくってくれた家の者たちに。 ある日、わたしのかわりにぬか床に野菜を漬けてくれた誰かさんに(誰だったのか、わからない……誰だろう)。 不義理をかさねるわたしを許してくれた友人たちに。 ごめんなさいと、感謝の気持ちを捧げます。この半年くらい、わたしの「ふだん」の仲間入りしたもの、それは「野菜だし」をとるしごとです。たのしいしごとです。大根、にんじん、玉ねぎの皮、とうもろこしやブロッコリの芯、青菜の根、きゃべつやレタスの外葉ほか、いろいろの野菜の切れはしをためておきます(冷蔵庫)。たまった野菜の切れはしを鍋に入れ、水をたっぷりめに注ぎ(ちょっぴり酒を加える)、中火にかけます。煮立ったら弱火にして、あくはとらずに弱火のまま30分~1時間煮ます。そうして、目の細かいざるで漉します。ほら、きれいな野菜のだしがとれました。野菜の顔ぶれによって、季節によって、いろいろの条件によって、とるたび「野菜だし」の風味は変わります。そこが、とてもとてもたのしいです。汁もの、煮もの、ソース、ドレッシングなど、いろいろな料理に使えます。
2013/11/26
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午前3時の机の上で、わたしはちょっとまどろんだのだろうか。 箪笥(たんす)が、目の前にあらわれた。5段ほどのひきだしのある、さほど大きくない箪笥だった。幅広である。何ということもない古箪笥なのに、目が離せない。箪笥という個体ではなく、ひとつの風景のように目の前にある。わたしは手もとのことを休んで、じーっと箪笥のほうに顔を向けている。 箪笥には触れてはいけない、もちろんひきだしを開けてもいけない、という約束がしてあった。誰に云われたのだったか、たしかにわたしは、諾(だく)と云った。 「触りません、開けません」 そこらあたりで、目の前が現実のものと入れ替わった。 画面に書きかけの数行を映したパソコンと、資料のならぶ机があるばかりで、風景のような箪笥はもう見えなくなっていた。やはり、束の間まどろんだらしかった。箪笥は、幻(まぼろし)だった。 ——あんな古箪笥が登場するお伽噺(とぎばなし)があったなあ……。何というお伽噺だったろうか。 思いだそうとするもののあるときは、手もとのことに気が入ってゆかない。仕方がないので、椅子の背にもたれかかって、思いだすことのほうに気持ちをあつめる。 いちばん下のひきだしに手をかけ、ぐっと力を入れて引く。すると、ひきだしのなかには、田植えの済んだばかりの田んぼがひろがっている。 ——そうだった。そういう物語だった……。 そっと田んぼのひきだしを閉める。 開けてはいけないという約束も忘れて(忘れたことにして)、下から2段めのひきだしを引いて、中を覗く。稲ののびた青青とした田がひきだしのなかに見える。 ——育った、育った。 青田のひきだしを押して箪笥に納めると、つぎに夢中で下から3段めのひきだしを引く。実った稲があたまを垂れた黄金色のひろがりが、まぶしいばかり、目に飛びこんできた。 あっ。目の前にひとりの若者があらわれた。 物語のなかで、この若者が、うつくしい娘に留守番をたのまれ、決してあけてはならぬという約束を破ってひきだしを引いたのだった。——うぐいす姫! 昔話、お伽噺のことだから、おそらく別の題名のついた似たはなしもあることだろうけれど、わたしが馴染んだのは「うぐいす姫」だった。若者が約束を破ったばかりに、箪笥の持ち主のうつくしい娘と夫婦(めおと)になることができなかった、というはなし。 若者の妻になりたかった娘は、寂し気に別れを告げてうぐいすの姿になり、かなたに飛んでゆく。春風が吹き、あとには梅花の香が残りましたとさ。 勢いにまかせて、物語の筋を記し過ぎてしまったこと、許していただきたい。 わたしにはめずらしい夜鍋仕事のさなか、ついまどろんでしまったが、そのおかげで、なつかしいお伽噺を思いだすことができた。このところ、四季や暦に関する書きものをしていたせいだろう。机の上で、幾度も春夏秋冬を追いかけているうち、現実の季節が一瞬わからなくなるようなこともあった。いったいこれから夏に向かうのだったか、それとも冬に向かうのだったか、落ちついて考えないと思いだせなかったりした。 「これから、寒くなるのよね」 と、家の者たちに真顔で問い、そのため、ちょっと心配されたこともある。 そんななかで思いだしたのが、くだんの「うぐいす姫」のお伽噺だった。 ところで。 うぐいす姫は、若者に何を禁じたのだろうか、とあらためて考えている。「決してなかを見てはなりません」という内容のお伽噺はめずらしくなく、よく知られているものでは「浦島太郎」がある。浦島太郎は玉手箱をあけたため、歳月を失ってたちまちおじいさんになってしまった。それに、民話「夕鶴」(あるいは「鶴の恩返し」)。あれもうつくしいはなしだけれど、やはり、夫の与ひょうが約束を破って、恋女房のつうを失った。 ひとには、踏みこんではならない領域がある。 そのことを示唆しているのか。 ひとにはわからない境界線と、「知りたい」気持ちのつよいがために約束を破りがちな人間の業(ごう)とが、頭のなかに置かれてしまった。 これは……、非常に大きな命題なのではなかろうか。 寒くなってきた。うちにある、小さなひきだしをお目にかけましょう。食器棚のなかの紙製のひきだしです。さてこの食器棚、台所側にも、食卓側にも扉が開きます。食器棚側の扉を開けています。こんなひきだしです。なかに、箸やフォーク、スポーンなどがしまってあります。紙製と云えども頑丈。台所側の扉を開きました。紙製ひきだしの「果て(どん詰まり)」の壁をはずして、両方から引きだせるようにしました。これで、台所側、食卓側どちらからも、なかのモノを取りだせます。
2013/11/19
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「おおげさ」は、漢字もおおげさだ。 「大」は三画だが、「袈裟」のふたつは画数も多い。ここで、ああ、袈裟(けさ)ね、と気がついて広辞苑を引くと、やっぱりそうだ。このことばは袈裟を源として発している。大きな袈裟。 つぎに「袈裟」を引いてみると、「インドの僧侶の服」の意味と「中国・日本の、僧侶の左肩から右腋下にかけて衣の上を覆う長方形の布」の意味とが記されていた。おもしろいのは、梵語(ぼんご/サンスクリット)で「壊色(えじき)・混濁色」を意味する「カシャーヤ」の音訳とのことだ。壊れる色とは何だろうかと思い、こんどは『色の手帖』に当たる。壊色をさがすも、みつからない。いくつかの国語辞典と百科事典をひっくり返し、壊色には、青壊色、黒壊色、木蘭(もくらん)壊色の三種類があることがわかった。それはつまり濁った色のことで、その昔の袈裟には正色(せいしょく)が使われなかったことにつながってゆくようだ。正色は、中国伝来の五色(五行思想にもとづいたもので、青、赤、黄、白、黒)のこと。 わたしの年代までは(わたしは1958年生まれ)、「け」のつく名前(けいこ、あけみ、たけこほか)と云えば、袈裟の「袈」をとってつけたものが少なくなかった。友人には、けさ子さんもいる。 あらあら? わたしは何を書こうとしているのだったのか。 白湯(さゆ)を一杯飲んだら、思いだした。 白湯は血のめぐりがよくなるのだろうか。白湯とは、きれいなことばではないか。広辞苑を引くと……、いや、いけない。はなしが、またどこかへ迷いそうである。 わたしがしようとしたのは「大袈裟」のはなしだった。 大袈裟は、あまり好かれない。子どものころすでに、ちょっと転んでひざを擦りむいたくらいで騒ぐと「オオゲサ」とからかうような風潮があった。「オオゲサ」と決めつけられたくないばかりに、やせ我慢を学んだなあ。大人になってからも、大袈裟よりさりげなさに人気が集中していたような気がする。知らぬうちにわたしも、なるべくいろいろなことが大袈裟にならぬように気をつけた。 ところが近年、それが変わってきたのである。 毎日毎日、くり返しを生きるなかで(それはもちろん、時間も季節も風景も、事態も時代もうつろってゆくのであるけれども)、小さな発見をひとつひとつ大袈裟に驚き、ささやかなことをいちいち大袈裟に感動したいと希うようになっている。 たとえば本日。 久しぶりに目覚まし時計の音で目が覚めたこと。弁当のなかのさつまいものレモン煮がきれいに見えたこと。友だちからすばらしくシックなクリスマスリースが送られてきたこと。これまた友だちから紅葉した葉っぱで包んだ柿の葉寿司が届いたこと。ぬか床にセロリを漬けたこと。数日地方に出かけていた夫が帰ってきたこと。秋の空がひろがっていること。りすのかたちの雲を見たこと。1週間見えなくなっていた大事なシャープペンシルが出てきたこと。……。 こんな事ごとを、大袈裟に驚いたりよろこんだりしないでどうする! とわたしは考えるのである。現在、台所で使っているごみ箱です。(前のうちで20年近く使ったものは、所替えしました)。夫の仕事場で使っていたのを、まずはひとつ持ってきて、木蓋をして用いていました。最近、もうひとつもらって、二段重ねに……。上の段は、燃えるごみ入れです。下の段は……。下の段には、ポリエチレンの袋、古新聞紙(揚げものに使う)、長くて棚におさまらないフリーザーバッグ、紙袋を入れています。
2013/11/12
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家のなかにも、緊急事態がある。 子どもにも、緊急事態がある。 猫にも、緊急事態がある。 犬にも、めだかにも……。 かまきりにも、むくどりにも……。 そう書きはじめると、絶滅危惧種の仲間たちが、ぼくもわたしもと、ここへやってきて、「緊急」を訴えそうな。 うなぎも、キジバトも、絶滅したと云われているドードー鳥までもが、ここへ。 わたし自身の不手際から、机の上に「緊急事態」を招いた2週間あまり、夫が晩ごはんの仕度を幾度か、引き受けてくれた。「ぼくがするから」と云う夫の表情はやけに明るく、たのしそうだった。 ことしの春、みずから企画した記録映画(ドキュメンタリーフィルム)の撮影のため、夫は現地でアパートを借り、ふた月あまりを過ごした。ふたまわり年上の映画監督O氏とのふたり暮らしだった。 夫は、その間の食事の仕度を引き受けるなかで、だんだん料理の腕を上げていった。しかし、ほんとうのところ、いちばん腕を上げたのは、作り手への「感謝」の表わし方だ。 ふた月を経て帰ってきた夫は、唇に「気」をため、ゆっくりと「い・た・だ・き・ま・す」と「ご・ち・そ・う・さ・ま」を云い、これがいちばんの変化だったのだが、食べたあと「おいしい……!」と云った。感想も云うようになった。 聞けば……。 自分で料理したものを、O氏が「これはうまい」「おいしいなあ」とつぶやくのを聞くと、うれしくてならなかった。自分がこれまで、おいしいと思うだけで、それを口にしなかったことに気がついて、猛省した。 とのこと。なるほど、そうだったのか。 夫が受け持ってくれた晩ごはんに登場したのは、味噌汁、焼き野菜、豚肉のソテー、鯖のサラダとアイオリソース(にんにく、卵黄、オリーブ油、レモン汁、塩、こしょう)、親子丼、野菜炒め……など。どれもおいしかった。 わたしのは、机の上の、ちょっとした「緊急事態」にほかならないが、それは、いわば日がな一日トンネルのなかにいるようなものである。トンネルのなかに季節はなく、ひとりぼっちだが、夕方抜けだしてみると、ごはんができていた。つくってもらったごはんを食べながら、思うのだ。 早くトンネルから出て、台所でゆっくり働いたり、まずいものができて「失敗失敗」と笑ったり、初めての料理に挑んだり、包丁で指を切りそうになって「あ!」と叫んだり、思いだし笑いをしながら野菜を刻んだりしたいなあ。 さて。ほんものの「緊急事態」にいま、身を置いている大人の皆さん、子どもの皆さん、ネコさん、犬さん、めだかにかまきり、むくどり、うなぎ、キジバトそのほか、ドードー鳥さんも……。 どうか、トンネルを抜けて呑気にあくびなんかができる日がめぐってきますように。まず、トンネルの出口が見えますように。夫のこしらえた「豚肉のソテー 焼き野菜添え」です。この日の献立は、 ご飯 豆腐とわかめの味噌汁 豚肉のソテー 焼き野菜添え レタスとネギのサラダ ぬか漬け(これだけわたしが漬けました)でした。ごちそうさん。
2013/11/05
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ある日。 朝のうちに、わたし宛てにふたつ小包が届いた。ふたつはよく似た荷造りで、まるで……、まるできょうだいのようだ。わたしは、きょうだいを預かる心持ちだ。ひとりは北海道札幌市から、もうひとりは静岡県藤枝市からやってきた。 「よく来てくれたねえ」 ある日。 久しぶりに友だちに会う。Mちゃん。 長くわたしたちは同業だったが、Mちゃんは途中、占星術とタロット占いの勉強をはじめて、いまでは占い師でもある。 この日初めて、占い師のMちゃんの前に坐って「鑑定」してもらう。 「鑑(み)てほしいことはありますか?」 そう云われて考えたが、とくに思いつくことはなかったので、「わたしって、どんなでしょうか」と訊く。伝えたのは、生年月日のほか、生まれた場所と時間。 「一所けん命やってきたんだね。こうして読み解かせてもらうと、ふんちゃんが(ホロスコープの)チャートを使いきって、いまここにいるのがよくわかる」 このことばは、わたしを3年間くらい支えつづけるだろう。 Mちゃんが、貫禄(かんろく)のある、そしてすごく感じのいい占い師になっているのを見て、泣きそうになる。 ある日。 夜おそく帰ってきた長女を見たら、髪が短くなっていた。 「またわたしと、似たね。困ったね」 と、おかしな云い方をしながら、このあいだ届いた、きょうだいみたいなふたつの小包を思い出した、可笑しくなる。 「似てやしないでしょう。それに、似ていたって困ることはないでしょう」 と云う娘と、何となく、ちょっと踊る。 居間でくるくるまわって踊る。 ある日。 夕方、自転車の駐輪場で、「駐輪券」が見えなくなって、あわてる。 ちょっと前に「わたしの鞄のなかみはじつに落ちついたものである」と書いたのを思いだして、ひとり赤面す。でっかいトートバッグのなかに、頭と肩先を突っこむようにして、「駐輪券」を探す。 たっぷり3分探して、バッグについている中袋とバッグ本体とのあいだに落ちこんだ「それ」を発見した。 「あったー!」 と思わず叫ぶ。 叫んでしまいながら、何年か前、まだ自転車置き場が機械化されていなかった時代、係のおじさんにお世話になったことを思いだした。一度なんかは、自分がどこに自転車を停めたか忘れてしまい、いっしょに探してもらった。「何時ごろここへ停めにきたか思いだせれば、およその場所がわかる」とおじさんは云い、自転車はたちまちみつかったのだったなあ。 しみじみその時代をなつかしみながら、やっとのことで探し当てた「駐輪券」を機械に押しこんだ。 機械が云う。 「表示の金額をお支払いください」 「ね、券をなくしちゃったひとは、どうなるんですか?」 と訊く。 機械は答えない。 ある日。 このひと月、ほんとうに忙しかった。 なかなか手をつけられずに引き延ばしてきたことが、もうこれ以上は延ばせないところまできてしまった、抜き差しならぬ事態だった。まだ、10日あまり、これはつづくだろう。 仕事に励む一方、もひとつ励んだことがある。「抜き差しならぬ」事態というだけで日を送るのは口惜(くちお)しいし、そうでなくても、わたしが取り組んでいるのはじつにたのしい仕事である。その証しのためにも励みたかった、というわけだ。 さて、何を? 励んだと? このせわしなさのなか、わたしは平静でいたかった。 平静でいるのには、苦心も入用だった。すぐ焦りそうになるし、癇癪(かんしゃく!)を起こしそうになるからだ。みずから止めにかかったり、みずからを抱きとめたり。 けれど励んでいるうちに、「ある日」それは育てる感覚に変わった。すると、起きることがすべて、わたしを助けてくれているようにも思えてくるのだった。小包のきょうだい。左は、藤枝市からやってきてくれた新米(友人の日曜農業)。右は、札幌市からのゆりね(江別産)。このきょうだいのおかげで、わたしは、明るい気持ちでいられます。
2013/10/29
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初めて会うひとに、「山本さん、もっと何と云うか、太めのひとかと思っていました」とか、「割烹着の似合う感じのひとをイメージしていた」という感想を伝えられる。 わたしの書いたものを読むひとの多くが、割烹着を着た小太りのおばさんを想像するらしい。一度くらい、「想像通りのひとだった」と云ってもらいたいなあと思いはするが、わるくない、小太りのおばさんというのは。 おばさんというところは合っているが、わたしは太ってはいないし、割烹着も持っていない。それでもどうやらわたしは太めのひとが好きらしく、それも、知的で太めのひとが好きらしく、友人には、博学多識で太めのひとが少なくない。先月久しぶりに会った太めの友人が、太めでなくなっていたのには驚き、とてもさびしかった。しゅっとして、細身のパンツがよく似合っていたけれども。 ——体重とともに、知の重量が目減りしていたら、どうしよう……。 と、恐ろしく勝手なことを、一瞬だが考えたりした。 知的で太め、ということなら、わたしの相棒は申し分ない。 彼女は、紛(まが)うかたなき小太りのおばさんだ。つきあいはそう古くなく、と云っても、そろそろ2年になるところだ。 外出するときは、いつも一緒だ。 初めてのひとと挨拶する場面には、彼女がそっと名刺入れをさし出してくれる。電車のなかで本を読んでいるときも、絶妙のタイミングで付箋を手渡してくれるし、ランチのパンを持て余したりすると、ポリエチレン製の袋を手に握らせてくれる。手帖、シャープペンシル、絆創膏、リップクリーム、気に入りの店のポイントカードの収まったカードケース、エチケット袋、折りたたみのエコバッグなんかをあわてず騒がず……。 わたしの相棒である小太りのおばさんの正体は、鞄のなかの袋だ。 このよき相棒がやってくるまでのわたしの鞄のなかみは、整頓されているとはいえなかった。名刺入れ名刺入れ、と探したり、手帖のありかを手でさぐったり、しまいには鞄のなかに顔をつっこんで「おーい」と……。 あれは大佛次郎(おさらぎじろう)の短篇だった。たしか、「望郷」ではなかったか。うろ覚えだが、父と娘との再会のものがたりだ。父は久しぶりに会う娘に、鞄を見せてほしいと頼む。娘が自分のハンドバッグをさし出すと、そっとなかを見る父。ハンカチーフ、ちり紙、財布、化粧袋などがきれいに納まっている様子に、娘がどんな女性に成長したかを知って感じ入るというはなしである。 一所けん命書架をさがすのだけれど、誰かに貸したかさし上げたかしたのかもしれない、「大佛次郎」の文字さえみつけることができなかった。近く読み返したいものだ。 さて、「望郷」を読んだとき、こころから恥ずかしかった。もしわたしの父がわたしの鞄のなかを覗いたら、さぞびっくりするだろう、と思った。自分の娘が鞄のなかの始末もできないことを知って、きっと落胆するだろう。褒めてもらえるところがあるとしたら、必ず本が入っているところだけだろう。 しかし、鞄のなかみの様子はあらたまらぬまま年月(としつき)が流れた。 それがどうして鞄のなかみの整頓を助けてくれる相棒とめぐり合ったか。それはあれ、太めの好きなわたしが、ある店で腰が張ってぽてっと坐りのよさそうな姿を見て、ひと目惚れしたからだ。 それから2年になるが、相棒の働きはめざましく、わたしの鞄のなかみはじつに落ちついたものである。「小太りのおばさん」というのが気に入らなかったのか、みっこちゃん(名前はみっこちゃんなのです)、「なかみを出したら、そんなに太くないんです。何も入れないで、ほっそり写してください」と云いましたので、ご覧のとおりです。大きさは、縦16×横22×マチ8.5cm。 *なかみは……・名刺入れ・手帖、シャープペンシル・一泊分の基礎化粧品(すべて試供品)・リップクリーム、メンソレータム・ピルケース(百草丸)・絆創膏・カードケース(店のポイントカード、図書館カードなど)・ティッシュペーパー、紙おしぼり・エチケット袋・折りたたみエコバッグ・ポリエチレンの袋数種(チャック付きのものも)・付箋、ぽち袋、小さい便箋、サインペン・小銭入れ(小銭の他千円札3枚入り)・小さいはさみ・三女が保育園時代につくってくれた折り紙の「お守り」 *皆さんへつねに携帯するものとして、「こんなのを持っていたら大活躍した」というおはなし、ぜひ聞かせてください。
2013/10/22
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何をするときでもそうである。 これは、誰のためのことだろうか、という考えが、ふと頭をかすめる。 家の者たちのため……? 世のため……? 自分のため……? 答えに近づくこともあるけれど、忙しくなってくると、だんだんそれどころではなくなって、つづきはまたあとで考えることにしよう……と思うのが常だった。 ごく最近のことだ。 「ああ、すべての務めは、家族のためのものであり、世のためのものでもあり、自分のためのものでもあるのだ」ということに気がついた。 ことし何度が訪れた台風が、わたしの頭の上に落として行った何かが作用したのかもしれない。自然現象に近い、不意の気づきであった。 それはまた、こう云い換えることもできる。 この毎日の務めには、家族のため、世のため、自分のため、という区別なく、ただわたしの務めとして存在する。 このことに気づいてしまってから、すっかり気が楽になった。たまに多忙なこともあるが、それさえふわふわとたのしめるようになった。 ひとに告げたら、「そんなことあたりまえじゃないの」と云われそうな気もするし、「云っていることの意味がわからない」と云うひともあるかもしれないから、黙っていることにした。 が、わたしにしたら、あまりにも大きな気づきであり、もっと云えばこの後の人生が別のものになるようにさえ思えたものだから、夕飯に金目鯛のご飯を炊いて、こっそり祝った。 金目鯛が高価であったため、ほんのわずかしか炊きこむことができなかったこともあって、誰かがぽつり「炊きこみご飯、おいしい」とつぶやいたくらいで、格段食卓の話題にもならなかった。密かな祝いのしるしであるから、それでよかったのだ。 ただし、この日の金目鯛の炊きこみご飯とて、わたしのためのものであり、家族のためのものでもあり、ある意味では世のためのものでもある。机の横に、茶箱を置きました。誰かがやってきて、「ちょっと聞いて」とはなしを聞かせていったり、お茶を飲んだり。ちょっとおもしろい「場」になっています。茶箱のなかには、正月の道具、ひな人形、クリスマスの飾りがしまってあります。〈おしらせ〉清流出版のホームページ上で小さな連載「忘れてはいけないことを、かきつけました」(2週間に1度の更新)がはじまりました。
2013/10/15
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その日が近いと思った日から、それが伝わっていたのだと思う。 突き放す準備を、わたしは何とはなしにはじめていたのかもしれない。「突き放す」には、こころの準備や練習が必要だった。 チョロ(愛称)が、家に帰る日が迫っていた。 チョロをMさんから預かることになったのは、近所の火事が原因だった。火元のことも、近所の不安もすっかりおさまっているから、もうここへも書ける。類焼したMさんの家は、消防の放水で水浸しになったが、静かに家族で仮住まいのアパートへと越して行った。わたしのうちは結果的に被害がなかった。とはいえ火元に近かったから、火の力、火の動きを目の当たりにした。火事の恐ろしさが身に沁みた。しかし、火元への恨みごとを口にせず、終始冷静だったMさん家族の佇まいがこの胸に残したものが、いちばん大きかった。このひとたちのためにも、チョロを大事に守りたいと思った。5月はじめ、黄金週間(ゴールデンウィーク)ただ中のことだった。 「チョロ、どんなときも食べ過ぎちゃだめだよ。腎臓が頑丈というわけじゃないからね。水も、ちゃんと飲んでね。聞いてる? 水も……」 気がつくと云い聞かせる口調になっていて、それでじゅうぶん、別れの迫っていることは勘づかれてしまっただろう。こんなことなら、ことばの通じないお互いのままでいたほうが、楽だった。 そうだ、いまやチョロとわたしは、ことばを交わすお互いになっている。朝、弁当をこしらえるわたしのもとにやってきたチョロは、「きょうは、いつもより手間取ってるんだー。朝の連ドラ(NHK朝の連続テレビ小説)を一緒に観よう。それまでに帰ってきてね」と云われれば、「了解!」と見事な尻尾を振って、もうひと遊び庭に出てゆく。 午前4時から5時のあいだ外に出してやり、8時にもどるというのも、自然にできた決まりだった。その後はもうどう乞われても外には出さないことも、チョロとのあいだで約束していた。 夏の暑い時期、午前8時を過ぎてももどらないチョロに、「心配したよ。どうして、もどらなかったの?」と訊いたときには、あわてていた。散歩の途中でクルマの下にもぐりこんだら涼しくて、そのまま眠ったのだとすまなそうに云った。 何か伝えたいとき、こちらのはなしを聞くとき、チョロは首を傾(かたむ)け、じっとわたしの目を見る。 初めてうちにやってきた5か月前のチョロ(放水された家のなかでじっとうずくまってひと晩を過ごし、からだから焦げ臭い匂いがしていた)は、誰が近づいてもフーッと威嚇(いかく)したのだったなあ。うちのモノたちはチョロなんかはいないことにして、あたりまえに過ごすことにした。すると、2日めの午後には、チョロのほうでもあたりまえの様子になっていた。威嚇の甲斐がないと思ったのかもしれない。 10月はじめ、すっかりきれいになった家にMさん家族が帰ってきた。 「引っ越しの荷物が落ちつくまで……」と考えようとしたが、家族の待つ帰るべき家に明りが灯っているのに、チョロをここに置くのはどうだろう。荷物が納まった日の翌日、思いきって(ほんとうに思いきって)キャリーバッグに入れ……。入れようとしても、頑として入らない。 「チョロ、とうとうおうちに帰るんだよ。お別れと云っても、近所なのだし。朝の散歩のときには、庭においで。そうすれば毎日だって会えるからね。ねえチョロ、5か月間、ほんとにありがとうね。ありがとうね」 帰ってしまった翌朝、チョロはやってきて「家に入れて」と云い、誰も行かないでいたら、網戸によじ登って「おーい、おーい」と呼んだ。 数日が過ぎたいまは、チョロは朝、庭にやってきても、のんきにしている。 それでいいのよ、それで。わたしのほうでは、全身を覆うこのせつなさも、チョロを無事に返せたことも、この夏の褒美だと考えている。居間の窓近くに置いた椅子の下に、この夏、籠を入れました。缶、瓶、ペットボトルなど資源ゴミの一時置き場です。ほんとうの置き場は庭にありますが、そこへ運んでゆくとき、網戸をあけるたび、チョロが外に出たくなってしまうので、一時置き場を思いついたのでした。なかなかいい具合。チョロのおかげで思いついた工夫です。
2013/10/08
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「人の世に道はひとつということはない。道は百も千も万もある」 これは、坂本龍馬が云ったことばだそうだ。幕末の本を読んでいたらいきなりこれが出てきて、くわっと目の裏が熱くなった。「泣ける」ということがあるけれど、これがその感覚にちがいない、と思った。 150年も昔の会ったことのないひとから、励ましてもらうなど、おもしろくもありがたいことだ。 道が百も千も万もあるということを考えたとき、目的地がひとつでない、ととることもできるし、また、ひとつの目的地に向かう方法がひとつでない、ととることもできる。どちらにせよ、自分で道は選べるということだ。 することがやけにたくさんあるなあというようなとき、わたしはときどき、もっともふさわしくない道を選ぶ。 ため息、文句、焦りの道だ。 このごろ、気がつくと、この道を歩きはじめることがふえたような気がする。歳のせいだろうか……。歳のせいなどと、何ごとかのせいにするのも、この道の特徴。困ったものだ。 「仕事もして、家のこともして、いろんな雑用を一手に引き受けて」と、胸のなかでぶつぶつ文句を云う。まるで、わたしひとりが忙しいとでも云わぬばかりだ。そも、「こと」を一方的に押しつけられることなどなく、どの仕事も、どの用事も自分が「諾」と云ったのであるし、主婦業と職業の兼業もみずから選んだ道だったのである。 この道は隧道(トンネル)である。一度入ったら、入口にもどるのにも出口に向かうのにも、時間がかかる。そうだ、ため息、文句、焦りはぬかるみになり、そこに足がとられ、進みがおそくなってしまう……。 * 今朝は、目覚めがよかった。 「佳い日にしよう」とみずから誓って、湯を沸かし、弁当づくりにとりかかる。そうだった、昨晩、冷蔵庫のなかに、カツレツをパン粉のなかに眠らせておいたのだ。揚げ油を準備し、順番に揚げてゆく。 ふと「パン粉のなかで眠っている」ということばを思いだしたのは今週はじめのことだ。20歳代のころ、仕事をご一緒した料理家のIせんせいが、こんなふうに云われたのだった。 「山本さん、よかったら、お昼ご一緒していただけないかしら。おいしいチキンレバがパン粉のなかで眠っていますのよ。ね、ぜひ」 そう云ってIせんせいが冷蔵庫からとり出したのは、ステンレスのベッド、いやバッドだった。バッドにはふたがついており、それをとると、なかにさらさらのパン粉が見えた。 「このなかに、衣をつけたチキンレバが眠っているんです」 眠っていたレバは、Iせんせいのフォークさばきによって熱した油のなかにすべりこみ、からりと揚げられた。ものの15分で昼食がととのった。 チキンレバのカツレツ(おいしい下味のついたカツレツ) トマトのアロース(ブラジルのトマト入りピラフ。肉料理のつけ合わせ) じゃがいものサラダ フルーツ 珈琲 なんて、素敵。 パン粉のなかで前の晩から眠っていたというチキンレバのカツレツのおいしかったことと云ったら。 長いこと(30年も!)忘れていた「パン粉のなかで眠らせる」をとつぜん思いだしたときから、きょうの日の幸運ははじまっていたのかもしれない。わたしがこしらえたのは、ご飯の上にキャベツのせん切りを敷きつめ、ソースをまぶした薄切りカツレツをのせた弁当だ。つけ合わせは茄子とプチトマトのマリネ、半熟卵。 思い出にまつわるたのしい弁当ができ上がったことで、気持ちが明るくなってゆく。 どんなに忙しく、時に隧道に入りかけることがあっても、こんなふうにゆこう。 ひとつひとつの事柄と「さっぱりと潔く」向きあう道をゆこう。 「人の世に道はひとつということはない。道は百も千も万もある。そしてパン粉のなかにはカツレツが眠っている」夫の、夏の「。」しごと。古ーくなっていた玄関前の踏板を換え、部分的にペンキが塗られました。
2013/10/01
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何か書くときに、文字のことばかり考えていると、うまくない。 「、」や「。」も大事。 そろそろ「、」を打とう、そしてとうとうここで「。」を置こう。そう考えることは、小さくはあっても一区切りだ。 手書きの文章を読んでいて、書き手の「、」と「。」が曖昧(あいまい)で、「、」なのだか「。」なのだか区別がつかない、打っているのだか打っていないのだかはっきりしないようなときは、もったいないなあと思う。 「、」と「。」の効果に気がつくとき、ひとは、きれいな文章を書くことに近づくような気がする。いまは、このいま、は現代のことだけれど、いまはきれいな文章が昔ほど尊ばれなくなった。……と思う。尊んでいるつもりであっても、なかなかその域に到達できないでいるわたしのような文章書きもあるわけだけれども。 きれいな文章を、書きたい。 そう思うひとは、おのずと「、」と」「。」に気をつかうひとになってゆく。 水泳も手や足の動きがものを云うのだろうけれど、ほら、あれ、息継ぎも大事なのじゃないだろうか。文章のなかの「、」や「。」は息継ぎでもあるので、ときどき打たないと、溺れる。 それから改行。 約束としては、行を変えたら、頭を「一字下がり」にすることになっている。ほんの少し文章の流れを変えようというときに改行する。わたしなんかは、すぐ改行する。「、」や「。」も多い。 一区切りの意味と、そのよろこびを知っているからだろうか。と、いいわけのようなことを思ったりする。 そら、こんどは一行アキだ。 改行するよりもっと流れを変えるぞ、と思ったときには、こうやって一行すっ飛ばす。飛ばされた行はどんな気持ちだろうか。 「みっちり書いてほしかったのに、何だよう」 とつぶやいて、つぎの行を睨(にら)んでいるかもしれない。 もしそうなら、こう伝えたい。 「一行アキは、たいそうものを云うのです」 なぜなら、書き手ばかりでなく、読み手の気持ちも切り換えてしまうからだ。無言で切り換えさせてしまうのなんかは、並みの行(ぎょう)にできるものじゃあない。 苦しいくらいに暑い夏が過ぎていった。 やれやれ。そう云いながら、ほんとは夏に感謝しなくてはいけないことも知っている。夏がなくなってしまったら、いろいろなことがそうとうに変わるにちがいない。少なくとも夏の気候、夏の実り、夏の風物詩を失った日本は、日本でなくなってしまうだろう。 あらためて、ありがとう。この夏に、ありがとう。 わたしがこれを書いているあいだじゅう、玄関のほうでモノを動かす音がしていた。夫が道具箱を持ちだして、玄関まわりを整備している。枕木のような板とペンキも置いてある。 夏のあいだ、頭のなかで練っていた計画を実行にうつしたというわけだろうけれども、これもひとつの「、」や「。」、いやもしかしたら改行……、一行アキかもしれない。 夫はおそらくこれをして、あたらしい行にすすむのだ。 わたしは、さて。明日あたり、机まわりをちょっと片づけようか。そうして秋をすすもう。この夏、扇風機には世話になりました。しかし、もう、しまおうと思います。来年の夏までの別れです。 *夫が整備した玄関まわり(外)の様子は来週、写真で見ていただくとしましょう。
2013/09/24
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風の音で目が覚めたのが午前3時45分、台風はほんとのほんとに近づいてくるようだ。 9月16日月曜日(祝日/敬老の日)、台風18号が恐ろしい活躍を見せている。 午前9時。 長女が部屋に置いているロードバイク(自転車)を連れて階段を、ぼころんぼころん音をたてて降りてきた。 「……サ、サイクリングですか?」 と訊く。 「ちょっと駅前まで。レンタルのDVDを返してくるだけ」 どうやら延滞料3枚分900円を惜しんでいるらしく、「止めなさいよ」というわたしのことばにも、「妹が止めるのも聞かず、ということだからね」という二女の怖いことばにも耳を貸さず、出かけた。常よりも念入りに火打石をかちかちっ(石ふたつを打ちつける火打石風である)とやる。自転車の分と2回。 ラジオで、被害地域の名前がつぎつぎと読み上げられる。それぞれの地に暮らす友人たちの顔を思い描く。宝塚市の祐美子ちゃん、京都市のまみ子さん、木津川市の素子と典子さん、香芝市の綾さん……。どうか無事でいてください。 わたしはいま、机に向かっている。机に向かって、これを書いています。 ほんとうだったら、いまごろは運動靴を履き、帽子をかぶって武蔵野市内12kmをすたすた歩いているはずだった。「スポーツ祭東京2013」(*)のデモンストレーションとしてのスポーツ行事「ウォーキング」(武蔵野会場)に申しこみをし、参加を許されたのだ。それが台風直撃の予想のもと、前日の午後、中止と決まった。もともと「雨天決行」ということになっていたが、雨天を超え嵐になる模様だから、とのことだった。 中止を知らせる電話で聞いたところによると、90歳代の参加者もあったそうだ。それを聞いて、そういう方とならんで歩いたり、それが無理でも握手していただいたりしたかった、とまた別の残念が頭をもたげる。 台風のニュースは、「これまで経験したことのないほどの雨」「ただちに命を守る行動をとってください」ということばとともに伝えられている。かつてない表現ではなかったろうか。 落ちつかない、そわそわした気分を持てあまし、することまでそわそわしたものとなる。ウォーキングをあきらめた事実も、わたしの手もとをうつろなものにしている。 ——そうだ、こんなときには「小さいしごと」にとり組むのだった。 そういうわけなので、少し机をはなれます。 風の音と張り合うように掃除機をかける。 立ったまま足で床拭きをする。 机まわりを片づける。 天板に鶏もも肉2枚、玉ねぎ、皮つきじゃがいも、万願寺とうがらしをのせてオーブンに入れる。あ、その前に庭に出て、吹き飛ばされそうになりながら、ローズマリーを2茎摘んできて、それを鶏肉の上に置く。 野菜をすっかり刻んだり、皮をむいたりして寸胴鍋にスープをつくる。 これらひとつひとつは、どれも「小さいしごと」だが、いくつか重ねたあとの、いまの達成感はどうだろう。 そう云えば、もうひとつ、達成感たっぷりの「小さいしごと」にとり組んだのだった。それは、嵐のなかDVDを返却しに行き、15分後ずぶ濡れではあったものの無事帰還した長女の「小さいしごと」の手伝いであった。このひと月あまり、ある見ず知らずのひとに問い合わせの手紙を書こうとしていたが、どうにも気が張り、とりかかれないでいたという。 「それをたったいま、しようと思うの。これ、見てくれる?」 そう云って長女に手渡された帖面には、ぎっしりボールペン文字が書いてある。書こうとしている手紙の下書きだ。こういうものを手直しするのは、お茶の子よ、まかせておいて。鉛筆を握りしめて、ところどころ消したり、ことばを加えたりする。自己紹介からはじまる問い合わせの手紙で、気持ちのこもったいい手紙だった。 群言堂の便箋と封筒と、少女の姿の描かれた記念切手を、渡す。どちらも、わたしのとっておきだ。 ——本日のそわそわ止め、これにて終了。 * 台風18号が日本各地にもたらした、思いがけないほど大きな被害が、思いがけないほど早く収束し、少なくとも……、ひとのこころに傷を残しませんように。* 「スポーツ祭東京2013」 第68回国民体育大会(国体)・第13回全国障害者スポーツ大会が開催されます。2013年9月28日−10月14日。 わたしの住む武蔵野市ではラグビーフットボール(7人制)、バスケットボール、グランドソフトボールの競技が行われます。なかでもわたしは、5月に開催されたリハーサル大会を観戦した「グランドソフトボール」をとくに注目しています。視力に障害のある選手による迫力のある野球によく似た競技です。ピッチャー(全盲限定)がキャッチャーの出す音を聞きとり、投球。バッターは地面をころがる音をたよりにボールを打ち、ランナーコーチの手を叩く音(ベース)めざして走ります。めずらしく、娘たちに、自分の整理方法を伝授しました。1年ごとに、刷りものをためる整理法です。見学した学校の行事のしおり、コンサート、映画、演劇のチケットとリーフレット、そのほか、自分がかかわった事柄の刷りものを、ファイルに順番にはさむだけのことですが。これが、あとからたいそう役に立ちます。「刷りものは、とっておくなら場所を決めてとっておく。とっておかないなら、すぐ『ざつがみ』回収にまわすこと!」この演説も、ひとつの「小さなしごと」と云えるでしょう。〈お知らせ〉「エッセイを書いてみよう」(講師 山本ふみこ)朝日カルチャーセンター(東京・新宿)の講座のあたらしい「期」 がはじまります。とてもなごやかなたのしい場です。ぜひふるってご参加ください。1期6回(月2回)を、1期だけでも継続でも、受講することができます。日にち:10月10、24日、11月14、28日、12月12、26日(いずれも木曜日)時間:10:30~12:00問い合わせ先:朝日カルチャーセンター新宿 03-3344-1945
2013/09/17
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ある日。 漫画を読みながら昼寝。 朝からからだがだるく、その上からだの節節が痛むので、思いきって仕事もよし、雑用もよして、まるくなった。救いをもとめるようにして本棚から引きぬいたは、『陰陽師』(岡野玲子 原作:夢枕獏/白泉社)。 読んでいるかと思えばまどろみ、まどろみながらも喰いついていたら、夕方台所に立ったとき、はっきりと胸に灯るものがあった。「実感」と呼んでかまわないような気がした。忘れないように、手帖に書きつける。 「揺るぎなき純粋さは、ひとのこころをつよくする」 ある日。 昼に友だちと待ち合わせして、豆カレーを食べる。 泣きだしそうな空だ。一度泣きだしたら大泣きになりそうな、そしてなかなか泣き止まぬような気配。 友だちがふと、「吉祥寺美術館*1に行きましょう」と云う。いいね、行こう行こう。吉祥寺美術館には常設の「浜口陽三記念室」*2と「萩原英雄記念室」*3があり、そこに行きさえすれば満足できる。 企画展の「佐藤真生(さとうまさお)展」は最終日だった。すべりこみだなと、軽い気持ちで入室して驚いた。不可思議でありながら、なつかしくもあり、何とも云えない心持ちにさせられる。油彩画のほか、立体作品もある。端的に云うなら、好き。「流れる雲」という絵をことに好きになる。 よかった、よかったと云いながら友だちと、井の頭公園の池のまわりを一周し、銭洗弁天で小銭を洗う。帰り道、不思議なモノばかりならべている店でエジプトの駱駝の骨でできているというボタンを5個買う。店のひとに、「銭洗弁天で洗いたてのお金です」と云って小銭をわたす。店のひとは、ニコニコ笑って、「うれしいなあ」と云う。 友だちと駅前で別れるとき、とうとう空が泣きだした。 ある日。 家に長女とふたりきりになる。 「ちょっと歌いに行こう」と誘われて、夕方家を出る。歌いたいうたがあるのだと、長女が話す。三鷹の駅向こうのカラオケ店に行く途中、異国を思わせる屋台風の店に入り、夏野菜のマリネ、コールドポーク、マッシュルーム入りのオムレツで、白ワインを1杯ずつ飲む。 カラオケ店で長女が歌ったのは「ひこうき雲」(荒井由実)。映画「風立ちぬ」(宮崎駿監督作品/スタジオジブリ)を観て、歌いたくなったと云う。わたしはまだ観ていないが、荒井由実の「ひこうき雲」が40年の時を隔てて、映画の主題曲に選ばれたことには、驚いた。そのことが、映画に何かとてつもないものを与えているような気がする。 長女が聞かせてくれた宝塚歌劇の「エリザベート」の劇中歌「私だけに」がよかった。お礼にわたしは嵐の「感謝カンゲキ雨嵐」を歌う。 ふたりで、来た道をぶらぶら帰る。 * この世は、日常的に不可思議なことで満ちている。尊く、不可思議な事ごとで満ち満ちている。*1吉祥寺美術館 武蔵野市立吉祥寺美術館 東京都武蔵野市吉祥寺本町1−8−16 FFビル7階 入館料100円(小学生以下・65歳以上・障害者は無料)*2浜口陽三 銅版画家。銅版画の技法のひとつであるメゾチントから、カラー メゾチントを開拓した。「浜口陽三記念室」は、吉祥寺美術館内の常設展。*3萩原英雄 油彩画家。抽象木版画家。「萩原英雄記念室」は吉祥寺美術館内 の木版画を中心とする常設展。ある日。庭に出たら、にらの花が咲いていた。(にらの芽は、とてもとてもおいしい)。
2013/09/10
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———昼ごはんに、そうだ、素麺を茹でよう。 と思ったのに、台所へは行かず、わたしは玄関で腕組みをしている。お腹がすいているのと、暑さのせいで、思考能力が低下している。 ———チャンスかもしれない。 思考能力の低下をチャンスと呼ぶのなんかは、思考能力が低下している証(あかし)である。 2階で仕事をしている夫を呼ぶ。昼ごはんに呼ばれた風体であらわれた夫は、玄関で腕組みしているわたしを見て、どう思ったろうか。おそらくいやな予感に包まれたはずだ。「あのね、この(玄関の)背の低いチェストと2階の箪笥(たんす)をね、置き換えたいの。だめかな。……あ、だめって云おうとしてるでしょ? 顔を見ればわかるよ。でもだめって云わないで。いま、チャンスなんだから」 思考能力が低下しているわりには、長台詞をすらすら云えた。云っているなかみは、そうとうに思考能力の低下を思わせるものだけれども。 玄関の……それを何と呼んだものか。玄関ホールだろうか。 ホールと呼ぶほどの広さはない、そうだ、上がり端(あがりはな)だろう。ともかく、玄関を入った先のあたりのことを云いたいのだ。そこへ、背の低いチェスト(なかには、使用頻度二番手の靴たちを納めている)を置き、その上に、アーティストで同級生の立川素子の絵を飾っている。 一方、二階の階段上の、これまた上がり端に、この家の女組共有の肌着、靴下、Tシャツを納めている箪笥を置いている。すべてが共有というわけではないけれど、その割合は8割ほどにはなるだろう。 最近、この箪笥へ衣類をしまう道のりを遠く感じるようになってきたのである。「道のり」とか、「遠く」とか、いかにも大仰のようだけれども、毎日の仕事とすれば、やはりそれは、「道のり」であり「遠く」になるはなしなのだった。天気予報が「真夏日」と告げたその日、ぼんやりとひらめいたのが、玄関先に箪笥を置いたら「道のり」が「近く」なるという考えだった。 洗い場(洗濯機)も干し場も1階と庭であり、こまごまとした衣類を1階の箪笥にしまえるようになれば、楽ができる。 この種のひらめきを実現するのに必要な、ほどほどに低下した思考能力と、夫の手とを借り、背の低いチェストと箪笥を置き換えた。 大汗をかいたが、涼しい顔(そ知らぬ顔のことである)をして素麺を茹で、みょうがとねぎを刻み、生姜をすりおろす。冷蔵庫に待機しているだしとかえしを合わせ、冷たいめんつゆをつくる。 箪笥の置き場ひとつで、これほどよろこびが湧くのも不思議だが、決然として、おおいによろこぶ。 風水好きの友人には、黙っておこう。それと告げれば、きっと「玄関先に箪笥を置くのなんかは、風水上よろしくないのよ」と、はじめるだろうから。風水がよろしくなくても、わたしはよろしいのだし、それに……。 それに、わたしはどうやら、はずみたくもあったのだ。 こころはずみたさが、わたしに箪笥のことをひらめかせた。そう考えると、ますますよろしい気がしてくる。
2013/09/03
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猫のいちごが逝ってから、じき8か月になる。 ときどき思いだす、というより、つねに近くにいる感じで、ある意味では、生前よりも互いの距離は縮まっているかもしれない。 いちごを荼毘(だび)に付した日、わたしはこう書いている。 いちごの骨を見たとき、ああ、自分(の一部)がいちごになった、と感じました。同時に、胸のなかに、悲しみ過ぎてはいけないと戒めるものが生じたのです。悲しみに暮れている場合ではありません。 いちごが17年と8か月、果たしてくれていた役割を引き継がねばならないからです。 自分(の一部)がいちごになった、という実感が、いまのわたしには確かにある。慌てず騒がず淡淡と生きたいと希うようになったことひとつとっても、それはいちごの影響だと思える。彼女のようにスマートにはゆかないが。 これほどの思いをわたしに抱かせる存在が猫だということが、不思議だ。ほんとうに不思議だ。 わたしは猫と縁なき子ども時代を過ごしている。父も母も、ふたりそろって猫を得意でなかったことによる。おそらくそれには理由があったと思われるが、尋ねたことはない。猫のことは話題にするのさえ、なんとなく憚(はばか)られるからだった。 しかし、そんな両親に対して、いちごのことで一度だけ思いきったことをした。昨年の夏、富士山麓にある両親の山小屋に、いちごを連れて出かけたのである。滅多にはないが、家じゅうの人間が1日半以上いなくなるときには、近所の友だちにたのんで、いちごのごはんや水の世話、身のまわりのこと、何より「いちご」と名を呼んでもらうことにしてきた。が、昨夏はそういう気にならず、両親には告げずに5人と1匹で出かけた。 車からいちごを積んだキャリーバッグをおろし、「連れてきてしまいました」と云ったとき、父は「そうか」と云い、母は何も云わずに笑った。 いちごはその場を察し、滞在中、両親の目に触れるところに出て行かなかった。鳴き声ひとつ上げなかった。 それが、いちごとの大事な思い出のひとつになっている。父と母は、もしかしたら憶えていないかもしれない。 さて、何のはなしだったかと云うと、猫ぎらいのはなしだ。 わたしは自分も、猫を苦手だと思いこんでいた。 苦手意識は、人生からその対象を閉めだしてしまうものらしく、わたしの目には猫の姿が映らなかった。 そう云えば一匹だけ知り合いはいた。小学生のあいだ週一度通ったピアノのせんせいの家に住んでいた、大きなキジトラだ。こちらが演奏にも、和音の聞きとりにも苦戦しているのに、助け舟も出さず、同情もしてくれない、無愛想な猫だった。名前は……、わからない。名乗り合わなかった。 小学6年のとき、ピアノをよしてフルートをやってみたらどうか、という話が持ちあがった。ある日とつぜん、ピアノのせんせいの家にあらわれたフルートのせんせいに促されるまま、唄口を吹いて音を出したわたしに、そいつが飛びかかった。わたしは耳のうしろを引っ掻かれた。その瞬間、フルートも、そしてピアノの人生も、いっぺんに幕を閉じた。 あのままピアノをつづけていたら……、その上中途半端な気持ちでフルートに乗り換えたりしていたら……、どれだけ余計な苦労したことだろう。せんせいもわたしも、だ。それを思うと、あのキジトラには感謝しないといけない。 二女がいちごを拾ってきたのはそれから20年後のことだ。 生まれたばかりの、てのひらにのるようなちっちゃな黒猫のいる暮らしのなか、わたしはたちまち、猫を好きになった。好きだと思った瞬間、いちごも、わたしの云うことがわかるようになった。わかってはいても、ぜんぜん意には介さず、あのころはいたずらばかりしていたが。 いちごと暮らすようになってからは、道の上でも訪問先でも、猫が出てきてわたしに何か話しかけてくる。はなしのなかみの解読はむずかしいが、ごく稀に、「雨になるよ」とか、「この先に吠える犬がいる」と何とはなしにわかることもある。 なあんだ、わたしは猫好きじゃあないのさ。と、思った。 自分の実感のないことでも、誰かの考えや、時代の風潮につられ思いこんでしまえば、長きにわたってそれはつづく。実感のないことでも、ふと鵜呑みにできてしまう怖さも、そこには存在する。 だが、思いこみには、こういうのもある。 この夏、進めなければならない仕事が、なかなか手につかなかった。もしかしたら、わたしにはできないかもしれない、約束の日までに書き上がらないかもしれない、と疑心暗鬼になっていた。ところが、ためらいながらちょっと手をつけてみたところ、調子が出てきたのである。 この瞬間をつかまえて、「これはできる。書き上がる」とみずからに云い聞かせた。こういうのも、思いこみの一種である。ここにどれほどの実感がともなっているか、いささかの不安はあるものの、この思いこみはつづける決心だ。夏休みも終わり近い週末、三女の宿題の山が食卓を占領していました。この日は、かわいいお客様もあるというのに……。思いこみをとり払い、床の上に布をひろげ、食卓としてみました。献立は、素麺と夏野菜の天ぷら、ぬか漬けです。この日とり祓った思いこみは、「食事は、決まったテーブルで」でしょうか。
2013/08/27
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父と母が25年前、富士山麓に建てた山小屋に、出かけた。 休養しようと思ったのと、暑さとの闘いを一時休戦したかったのと、それから両親と麻雀がしたかったからだった。 思いついて、「行けるひと!」とひとさし指を立てたら、長女と三女と夫が指にとまった。二女は、「わたしは仕事があるから、行けない。チョロ(近所の友人から預かっている猫)と留守番してる」と、云った。 8月16日出発、1泊の旅と決まった。 お盆休暇の道路の渋滞を、耳に胼胝(たこ)ができるほど聞かされていたからどうなるかと思ったら、夫が、「電車で行くよ」と宣言した。最寄りの三鷹駅から中央本線で大月駅に出て、そこから富士急行線で終点の河口湖駅に向かう道程だ。鉄道の旅が好きなわたしは、あたまのなかで万歳三唱。万歳、万歳、万歳。 乗り馴れた高尾行きの中央本線車中では、なかなか旅気分が高まってゆかない。休まずお盆のあいだも仕事をしようという人びとのあいだで、吊り革につかまっているのである。 しかし、高尾駅で小淵沢行きの電車に乗り換えるなり、旅人に変身す。車窓からの景色もだんだんみどりが濃く深くなり、電車は山間に入る。こうして旅人になれただけで、日頃抱えていた荷物をおろせるというものだ。顔つきがゆるむのがわかる。 25年前には若かった森が、見上げる大木に育ってこんもりとしている。そんななかに小さな家は建っていて、父と母が、こざっぱりと夏の暮らしをしている。痩せたつがいの小鳥が森のなかで小さく啄(ついば)んだり、そっと歌ったりしながら暮らしている感じ。 そこへ割りこむわたしたちは、さしずめ野ネズミの親子だ。 「ああ、涼しい!」 誰ともなく云うと、母が「24度」と応える。東京の気温とは、10度ほどもちがう。いつもは昼間の気温が20度から22度のあいだであるのに比して、ことしは山も高温なのだそうだ。 昼ごはんのあと、夫と三女は昼寝をする。長女は仕事、わたしは便り書きをする。 「原稿書くのに、どうしてこんなに時間がかかるんだろう」 と長女が云い、 「便りを書くのに、どうしてこんなに時間がかかるんだろう」 とわたしも負けない気で云う。 そんなことを云いあいながら、ていねいにやっているとそれなりに時間がかかる、ということを確認している。そうなると、「まだできない」「まだ3通しか書けない」という、「なかなかできない合戦」になる。愉快。 そんなあいだに、父と母はそこらを片づけたり、坐って新聞を読んだり、テレビで高校野球を観戦したりと、小鳥らしく枝から枝へとうつっている。夫と三女は夢の国に行ったきりだ。 文字を書くのに疲れたので、ガラス扉つきのテレビ台のなかにならんだなつかしいお土産をとり出して、ひとつひとつ手にとって眺める。わたしの大好きな淡路島のたこつぼの置きものもある。ふたつならんで、こちらを見ている。 たこつぼ漁に使われる素焼きのつぼのミニチュアのなかから、たこが顔をのぞかせている、じつにユニークな置きものだ。どうしてふたつあるかというと、2年つづけて夏の海水浴に通った淡路島で、これを見るたびねだって買ってもらったからだった。全長8cmほどのたこつぼのたこのひとつは鯛を釣り上げており、いまひとつは徳利を手に提げている。これをためつすがめつ見ていたら、たこつぼの底の部分に文字が見える。 「1968年海水浴」「1969年Y家・I家と海水浴」 母の字である。ぼんやりとしたなつかしさが、真実味を帯びてくる。1968年、わたし10歳の夏には、東京から同級生のKちゃんYちゃん、その弟たちのY君K君がやってきて、にぎやかな淡路島めぐり、海水浴をしたのだったな。あんなことがあった、こんなことがあった、と、たこつぼの日付が、記憶をつぎつぎとゆり起こす。 はて、そう云えば……。 家のなかを歩きまわりながら(ちょろちょろと、野ネズミよろしく歩きまわりながら)、こちらのアレ、こちらのソレをひっくり返してみる。すると、やっぱりそうだった。どんなモノの底にも、 「◯年○月○日」と書いてある。 文具のひきだしをあけて、つぼ型のヤマト糊をひっくり返すと、「H.18」とあった。7年前の糊である。 母がモノの使いはじめに日付を記すのは癖だろうけれど、おそらく、モノを大事に使いつづけようという誓いなのだ。モノと自分とを結びつけるまじないでもあるだろうか。 晩に、夫がつくったニラレバ炒めが、やけにおいしかった。 わたしはプチトマトと卵の味噌汁をつくった。 大急ぎで片づけて、麻雀。小鳥のつがいと野ネズミの夜は更けてゆく。フランスに、仕事半分・休暇半分で出かけた友人が、お土産にと「これ」をくれました。4×4cmほどの小箱です。ただただ、うつくしい小箱です。これをもらったとき、どういう気持ちだったか。ああ、こういうものを好きなわたしだと見込んでくれたんだな、うれしい……、としみじみしたのでした。机の上に特別席をつくって、そこへ置いて、眺めています。「うつくしい」ということを、忘れてはいけない、とみずからに云い聞かせながらす。そうしてきょう、箱の底に、「2013年7月 フランス ハルミさんより」と小さく小さく書きました。
2013/08/20
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家のなかで、行く手を阻まれることがある。 「行く手」と云ったり、「阻む」と云ったりしてみるものの、それらはたいてい小間物や紙類だ。それらが邪魔になって先へ行けない、ということはない。ふだんは、動作の途中で、そんなモノたちを片づけてゆくのだが、ちょっとくたびれたり、気力が目減りしたりすると、片づけの手がにぶる。見方を変えると、モノの仕分けや定位置への納めが捗捗(はかばか)しく進まないとき、みずからの不調を悟ることになるというわけだ。 その最たる例と云えば、妊娠初期におとずれたつわりのときだった。乗り物酔いがずっとつづいているような症状にも驚かされたが、それより何よりからだがあまりにだるいことに驚愕し、苦しんだ。 目の前のモノを、定位置にもどすこともできないほどだるかった。 新聞を新聞籠に置けない。筆立てにペンが納められない。コップを流しに運べない。財布を......。 あれはほんとうに悲しかった。3回経験したつわりは、それぞれ症状はちょっとずつ異なっていたけれど、何ともいえないだるさだけは共通していた。いまでもときどきその時期のことを持ちだして、どんなにくたびれていたって、あれとはちがうのだから......と自分を励ましたりする。8月○日 「この日焼け止めのチューブは何だろう。使いかけだろうか。使いきってここに置いてあるのだろうか」 「レシート、誰のだ? 家計ノートにつけなくていいのだろうか?」「この布のバッグ何? 洗うの?」 きょうも、気がつくとつぶやいている。 娘たちの仕業だとわかっているが、最近、3人のうちの誰が置いたのかが、わからないことが少なくない。その上、捨ててしまっていいものか、何か相談事があってここに置いてあるのか、ただ置き放しにしているだけなのか、見当がつかない。「身のまわりを整頓すると、恋愛運がアップするんだとさー。モノの置き放しなんかは、恋愛運を著しく低下させる」 と、3人の耳の前で、くり返し唱えてみた。 「身のまわりを整頓すると、恋愛運が......」 「このあいだまでは、お母さん、ベッドメーキングをきちっとすると、恋愛運がアップするって云ってたよね」と3人が云い交わす。 あれー、そうだったか。 そう云えば、あのときは、A(長女)から「ふーん、そうなのか。ベッドメーキングを忘れてもお母さんがやってくれるから、まあ大丈夫」なんかという恐ろしいことばが返ってきたのだったな。 同じ手は二度は使えない。 あまりうまくゆかなかったのだし。 だが、モノが置き放されるたび、3人に声をかけて調査するなどという精神衛生上よろしくないことは、したくない。だいいち自分の身のまわりの片づけだけで精一杯である。 深夜、めずらしく居間のなかをぐるぐるまわりながら、ああでもない、こうでもないと考えた。そのうちよき手立てがみつかるだろう、というようななだらかなこころにはならなかった。ことは急を要している。置き放しを許しつづければ、3人に置き放し癖がついてしまうだろうし、「お母さんがやってくれるから、まあ大丈夫」なんかと云われた日には、ことはどんどん片づけから遠ざかってしまう。 20分もぐるぐるやっていただろうか、わたしの頭のなかに1枚の布が置かれた。風呂敷である。 --そうだ、風呂敷! 風呂敷をひろげた上に身元不明の品物を置き、そのモノの納めどころを決めるよう促すこととしよう。風呂敷はつまるところ、合図である。 ごく若い日から風呂敷贔屓(ふろしきびいき)のわたしだ。短大時代には、教科書や帖面を納めた風呂敷包みを抱えて学校に通った。その後も、モノを運ぶ、モノをうやうやしく包むというとき、風呂敷に頼ってきた。 そうしたわたしの思いにこたえて、風呂敷は今度の仕事もこなしてくれるだろう。これは、最近置いた、もっともシンプルな合図です。「このテニスボール何? 定位置にしまっておくれ」という……。子どもたちの合図ばかりでなく、ときどき、「あとで仕分けしまーす」と叫びながら、自分の資料をひろげた風呂敷の上に置くことがあります。
2013/08/13
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部屋に入ると、机の上に資料とならんでアレがならんでいるのが見えた。——ああ、またか。と、思う。 アレ、ペットボトルのお茶は、街路樹のように整列している。 * その昔、プラッシーという飲みものがあって、わたしの認識ではオレンジジュースだったのだが、色はオレンジというより黄色に近かった。お米屋のハセガワサンの配達がある日、いつもではないが、プラッシーが1ダース届くのだった。 少し年が増してくると、プラッシーが米屋から届くのが不思議に思えてきて、ジュースの成分には米の研ぎ汁が混ざっているのかもしれない、と想像するようになった。もちろんそんなことはないのだが、たとえ米汁が混ざっていたのでも、プラッシーはおいしかった。 プラッシーは瓶入りである。わざわざ瓶入りだとことわる必要はない。当時、缶に入った飲みものなど、日本にはなかったからだ。プラッシーを飲んでいいと許しが出ると、弟とわたしが歓声を上げ、歓声ののち母がおもむろに瓶を振る。何かの沈殿を解消するために。栓抜きで王冠をはずし、瓶を傾けてコップに注ぐ。 「あのね、おかあちゃま。瓶のまま飲んじゃいけない?」 わたしは、何度か母に訊いた。 「コップで、飲むのよ」 母は、訊くたびそう答えた。 瓶に口をつけて飲むのにあこがれていたわたしは、考えた。母の目を盗み、プラッシーを1本くすねて自分で栓を抜いて飲むのは、だめだ。プラッシーの数を母が把握しているのはあきらかだったし、こっそり飲んだとしても、その瓶をどこかに捨てることはできなかった。プラッシーがうちにあるときには、瓶は中身「あり」と「なし」を合わせて12本、と決まっているのだった。 ある日。 「留守番お願いね」と云って母が出かけ、弟もどこかへ遊びに行ってしまった日、わたしは立ち上がった。立ち上がってしたことと云えば、プラッシーの空き瓶を1本、裏の物置から持ってきて台所の流しに置くことだ。瓶はきれいに洗ってあったが、もう一度水ですすぐ。念のために。 粉末ジュースの素1袋をとり出す。 とり出す、などと、ことも無げに書いたけれど、ここには大抵でない苦心がある。神奈川県川崎市の祖父母の家に泊りに行ったとき、祖母にねだって買ってもらった粉末ジュースのうちの小袋をひとつ、持ち帰って隠しておいたのである。 粉末ジュースの素の封を切ってなかの粉を瓶のなかに入れる。冷蔵庫のなかから冷たい水の入ったポットを出してきて、瓶のなかに注ぐ。水はどのくらい? よくはわからないけれど、まあ適当に注入する。よし。瓶の口をてのひらで押さえて振る。よくよく振る。 瓶を持ち上げ、瓶の口と自分の口を合わせて……飲んだ。 飲んだ? 勢いよく瓶を傾け過ぎたためだろう、瓶のなかの赤い水(ジュースだ)はこぼれて、着ていたクリーム色のワンピースの胸のあたりに赤い色がひろがった。おおいにあわてたわたしのなかに、瓶に口をつけてジュースを飲んだ記憶はほとんど残っていない。やけにうすいジュースの味気なさをかすかにおぼえているだけで、あとの記憶は、ワンピースにひろがった赤いシミと、帰宅した母にことが全部知れてしまった辛さ恥ずかしさでいっぱいだ。 瓶に口をつけて飲もうとしたこと。粉末ジュースを隠し持っていたこと。その上に、そんなつまらないことのために時間と労力を使ったことについて、懇懇と叱られた。 つまらないことに時間と労力を使うことにばかり気持ちの向く大人になってしまったことを考えると、あれは、そのはじまりだったかもしれない、とも思える。母に叱られてもそういうふうになってしまったところを見ると、叱られることなんか、たいした効き目がないばかりか、逆の効果を上げるもののようでもある。 さて。わたしが長長したこのはなしのなかで重要なのは……、「瓶のままものを飲む」という一点である。 夢破れたわたしは、瓶に口をつけてものを飲むことに対する興味を失ってしまった。そればかりか、瓶に口をつけてものを飲む姿はあまりうつくしくないという母の意見は、とりたてて反発するにはあたらないものだと思うようになっていった。 * 近年、大勢のひとが集まる会に出席したり、会議のようなものに連なったりするたび、ならんでいるのがアレ、ペットボトルのお茶である。あらかじめ、席に配られていることも少なくはなく、そうなると、ペットボトルの街路樹のような光景である。母のおしえがいまだ生きているせいなのか、遠い日の苦い失敗のせいなのか、わたしにとってペットボトルのお茶は、その場で飲めるお茶ではない。 ひねくれ者のわたしは、ペットボトル入りのお茶がこの世に登場する前に、たびたび飲んでいた出がらしのお茶、淹れ方にうまくないところのあるせいでそうなるまずいお茶をなつかしがっている。ひとの集まる場所や訪問先で供される、お茶の色のついたお湯みたいなものである。そういうのでも、どういうのでも、供されたお茶はありがたくいただく。お茶を淹れることは、誰かの大事な仕事でもあるのだし。 * 「お茶を飲んでくださって、ありがとう。うれしかったですよ」 帰り際、戸口でYさんは、云った。 「ときどき訪ねてくる方はありますが、そうしてわたしはお茶をお出ししますが、手をつけない方がほとんどです。まあ、こういう場所ですからね」 「おいしいお茶でした。わたしには、まだ淹れることができないお茶でした」 と云って頭を下げると、Yさんは目を光らせながら、 「狭山の新茶ですからね。いい葉なんですよ。飲んでみるとね」 と云った。 若い日、幾度となく通ったハンセン病の国立療養所・多磨全生園図書館でのやりとりだ。 Yさんはハンセン病を患い、のちにクスリができたときには、治癒に間に合わない状態になっていた患者のひとりだった。視力が落ち、手足も不自由だったが、文学的素養と書物の管理能力が買われて、同園の小さな図書館で仕事をしていた。 Yさんに見送られて図書館を出たわたしは、Yさんのこころを思い、おいしいお茶を思って全生園の門の陰でちょっぴり泣いた。お茶ひとつが、どれほどひととのあいだに道を拓くか、おしえられた日のことだ。居間とわたしの机とを仕切る棚の上に、お茶のコーナーがあります。お茶筒の右隣の籠のなかには、湯吞みが入っています。いまなら、静岡、奈良、東京・石神井の新茶を淹れる ことができます。「茶柱」のことを、思いだしました。昔のひとは、淹れたお茶のなかに、茶の茎が立つのを、吉事の兆しと見たのです。茶柱が立つまで、何度もお茶を淹れました。
2013/08/06
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その夜は、とつぜんやってきた。 朝7時45分、三女、自転車で高校へ。 つぎは長女。「帰りはおそくなるからね、晩ごはんはいらないです」と云って出かけた。 午前10時、夫が出かける。「きょうは、上映会の打ち上げがあるから、ごはんはいいや」と云う。 仕事の休みの二女、寝坊して登場。登場するなり、お母さんになった友だちの家に行くという計画を発表。「ごはんをつくってちょっと楽させてあげるんだ」と云ってばたばたと準備をし、そして出かけて行った。 わたしはたちまち、ひとりになった。 それに晩ごはんも、三女とわたしのふたりきりだ。 ぬか床にきゅうり1本を漬けこみ、冷蔵庫を覗く。ふんふん、牛丼風のご飯、春雨のスープ、豆腐のサラダがつくれるな、と心づもりをし、机に向かった。 秋までに仕上げる約束の仕事に手がつかないままもやもやし、あんまり手がつかないのでだんだんどきどきし、そうなると机から離れられなくなる。机に向かってもやもや、どきどきするだけで、一向に進まないのだが、ともかく机にしがみつくのだ。結局この日は書くには書いたがものにならず、全部消してしまった。書(か)くかわりに頭を掻(か)いたり、雑用を片づけるうちに、夕方がきてしまった。 「こんな日もある」とつぶやいてから机を離れ、洗濯物をとりこみ、床に坐りこんでそれをたたむ。牛丼という心づもりを思いだし、台所に……。 そこで、電話が鳴った。 「お母さん? きょうテニス部のみんなとごはんを食べる日だったのを忘れてた。行ってもいい? あ、お金は少し持ってる。うん、遅くならないようにする。ごめんね、ほんとにごめんね」 本日の晩ごはんの相手、三女からの電話だった。 ひとりの晩ごはんを考えたら、急に面倒になった。台所しごとも、食べることも。だらしのないことだ。 が、こうなったら……、という考えがむくむくと湧いてくる。こうなったら、徹底してだらしのない夜にしようじゃないか。 わたしはまた机の前にもどり、30分前のつづきをはじめた。もやもやとどきどきだ。なんだか、調子が出てきた。もやもややどきどきも、不調好調があるらしく、わたしは俄然いい感じで飛ばしている。 好調×(もやもや+どきどき)=ひらきなおり と机の上の紙切れに書く。 ふと、進行中の仕事の書類を入れておく「ING」の箱の上に、カワイラシイ紙がのっているのが目にとまった。手にとったら、思いだした。昨晩、三女が「テニス部の合宿のしおり。持ちもののところ、見ておいて」と云って置いていったのだった。 誰がつくったしおりなのか、高校生にしてはカワイラシイ。ページごとに、ミッキーマウス、くまモン(熊本県PRマスコットキャラクター)チョッパー(『ONE PIECE』に登場する人間トナカイ)、キティーちゃんがでん、でんと描かれ、その絵のなかに、日ごと予定や反省を書きこむ体裁になっている。眺めていたら、ちろっとこころが動いた。ときめきにも似た動き方だった。 気がつくと色鉛筆をにぎりしめ、彼らに色をつけている。 わたしは日頃、「生きているひとのことをインターネットで調べない」と決めているのだけれども、ミッキーマウスたちならかまわないだろう。しかも、調べたいのは彼らの「色」だけなのだし。驚いたことに、ミッキーマウスのタキシードの蝶ネクタイは黄色だった。赤だと思いこんでいたのだが。チョッパーの帽子はピンク色だ。ごしごし一所けん命塗る。 こんなに熱を入れてぬり絵をしたのは、その昔、川崎のおばあちゃんにぬり絵を買ってもらったとき以来だ。あれはじつに楽しかった。日曜画家である父はぬり絵に反対だったから家ではできなかったが、そのかわり、川崎のおじいちゃんとおばあちゃんの家の、カナリアのいる板の間にひろげてせっせと塗った。 ぬり絵が終わると、さすがにお腹がすいてきた。だらしなく、がこの日のテーマなのだし、そうでなくてもやる気が起きそうな気配もない。わたしは缶詰のかごのところへ行き、そこから平たい缶をとり出した。つぎに冷蔵庫からきぬごし豆腐と納豆を、ぬか床からきゅうりを引っぱりだして……。 さんまの蒲焼き(缶のまま) 冷やっこの納豆と半熟卵のせ(丼) きゅうりのぬか漬け(小まな板) 麦茶(さすがにコップ) そして、食卓でなんかでは食べないのだ。いそいそと机に運び、もやもやしながら、どきどきしながら食べるのだ。 とつぜんやってきたその夜、ざーざーと雨が降ってきた。ひとりきりのように過ごしていたその夜も、ほんとうはひとりきりではありませんでした。5月のはじめから、友人から預かっている猫のチョロ(愛称)も一緒でした。こんな日にはとくべつに、チョロがわたしと向かい合って晩餐の席についてくれたらよかったのに……ね。
2013/07/30
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「ああああああ」 これは子どものときも、よくやったな。 「あ」と云っているつもりが、いつしか「ばばばばばば」とか「ぼぼぼぼぼぼ」というふうに聞こえてくる。口を大きく開けたり、閉じ気味にしたりしながら、「ア行濁点(だくてん)」の世界で遊ぶのだ。 こんなこと(扇風機の前で、「ああああああ」と発声)をして、半世紀以上も愉快な気持ちになれるのはいいとしても、ことしの夏のはじめの暑さは、ちょっとこたえた。仕事上のプレッシャーも重なって、疲労感がいつまでも去らなかった。 床にごろんところがる。 ころがる前に、本棚から1冊本を引きぬいた。指が5つの背表紙の前でうろうろしたけれど、そのうちのひとつを選んで引きぬき、胸に抱き、そのままころがる。 私の鬼のなかでも最悪のものは短気、私のなかで「早くしなさい、早く!」 といつも私をせかしている狂暴な衝動ではないかと思う。そして当初私の 新しい生活は、この鬼をしずめるどころか、それにより大きな権威をあた えてしまったかに見えた。(中略)中年の危機にはさまざまな理由があると しても、そのひとつの原因は時間そのものにたいする、強い焦燥感だろう。 こんなくだりを発見して、いそいそと付箋を貼る。 わたしが床の上にごろんところがり、開いたのはメイ・サートン(*1)の『夢見つつ深く植えよ』(*2)だ。 メイ・サートンは、わたしに「孤独」の価値をおしえてくれた恩人だ。だが、好きな理由は……、別にあるような気がする。メイ・サートンが、みずからの落ちこみ、不調、不運について、それはそれは緻密(ちみつ)にさぐって表現してゆくところだ。読者のわたしは、その緻密さを慎重にたどって、ほっとする。他人(ひと)の落ちこみ、不調、不運をたどってほっとするなどとは、決して褒められたことじゃあないけれど、それでも、ほっとする。 ———意気地なしだなあ、メイチャン。 ———メイチャン、考え過ぎじゃないの? ときには、こんなふうにつぶやくこともある。 メイ・サートンの愛読者に知れたら、どんな誹(そし)りを受けることだろう。しかし、メイチャンのすごいのは、落ち込み、不調、不運をひとつ残らず理解しようとし、それらによって滋養があたえられると信じているところだ。そして、その滋養は、(メイチャンの場合は)詩人の世界に注がれる、というのである。注がれる先は、ひとによってことなるが、たしかに注がれるのだ、とメイ・サートンは綴る。 これら二通の手紙は、その奇妙な結びつきで私の中心を深いところで揺 がしたので、ヤッドにおける最後の10日間は、もっとも苦しい、失意の 日々となった。さしあたっては、最善をつくして生きぬくほかすべはなか った。(中略)今や私はその骨組みが倒壊したこと、そしてまた、一から始 めなくてはならないという不安と戦っていた。 それをするには、たったひとつの方法しかない。それは、現在の破局を 超え、どんな外からの言葉も私を否定できないある存在のしかた、ある真 実の行為へと私が到達すること、すなわち、人が無一物になったかに思え るほど裸にされたとき、おそらくもっとも真実となる詩の湧き出るところ へと、深く掘り下げてゆくことだった。(*3) 床にころがったときわたしは、自分のちょっと込みいった疲労感を、いっとき枕にしたクッションのとなりに置いたような気がする。 目の前のことと真面目に向かいあっているとは思うけれども、いつしか自分の思考の癖のようなものにからめとられ、そこに囚われているような気がした。ひとまず「置く」という道を選べたことが、そうとうにわたし自身の胸を明るくした。 胸元に開いた本をとり落とし、わたしはとうとう寝入ったものらしい。 そうして目覚めたときには、家のなかに涼やかな風を通したいと、つよく希うわたしになっていた。家のなかに溜まりはじめていたモノたちを片づけて(あるモノは捨てるほかないけれど、あるモノはほかへまわせる)、そこへ風の通り道をつくりたいと思った。 夏は、どうやら、風の通り道をつくるチャンスのときのようだ。ただでさえ暑いので、モノの持ち方しまい方の暑苦しさがこたえるからだ。 風の通り道は、あたらしく何を生むだろうか。それはまた、ゆっくり考えるとしよう……、床にころがって。* 1 メイ・サートン May Sarton 1912 —1995 ベルギーに生まれ、4歳のとき両親とともにアメリカに亡命する。 小説家・詩人であり、日記、自伝的作品も多い。著書は『独り居の日記』、 『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』、『一日一日が旅だから』、 『82歳の日記』(いずれもみすず書房)ほか、多数。* 2と*3 『夢見つつ深く植えよ』 メイ・サートン 武田尚子訳(みすず書房)台所のワゴンの扉をひらいた途端、ねぼけが吹っ飛びました。スパイスの瓶がずらーっとならんでいました。一度使っただけで、それから何年も「そこ」にいるだけのスパイス も、たくさん!詫びながら捨てたり、あたらしいのは友人にもらってもらったり。結局ワゴンに残ったスパイスは、黒こしょう、ナツメッグ、丁字、 シナモン(シナモンは、記念撮影の日、出かけていました―*)でした。そのほか、活躍のクコと松の実は、食器棚のなかにいます。以上。*シナモンの外出:この日、シナモンと長女は友人宅に出かけていたのです。「シナモン、電車に乗る」というふうに考えると、たのし……。
2013/07/23
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「きょうは何日でしたか」 と訊かれ、「ええと、7日ですね。瞬(またた)く間に7月も1週間が過ぎました」と答えた。そう云いながら、なぜだろう、胸のなかがざわざわしてくる。 ……7月。……最初の1週間。これを手がかりに、ざわざわを探って、ひとつの驚くべき事実に突きあたるのと、「きょうは何日でしたか」とわたしに訊いたそのひとが、おっとりとこう云うのとは、ほとんど同時だった。 「すると、きょうは七夕ですね」 叫びだしそうになるのをやっとのことでおさえ、引き攣った顔で「七夕ですね」と受けた。 七夕のことを、わたしはすっかり忘れていたのだった。 なに、年中行事を忘れるのなんかはめずらしいことではない。めずらしいことではないのだけれど、七夕には、七夕だけには、それでは困るわけがある。これがわたしの家ひとつのはなしだったら、「ああ、忘れちゃった。明日でも、やろうか」というような挨拶ですむ。 実際、ことしの鏡開(かがみびらき)もこんなふうであった。その日を2日ほど過ぎてから、「さて鏡開、鏡開」とつぶやきつぶやき、手をこすり合わせた。鏡餅を下げて、汁粉に入れて食べる、というのが、わたしが子どものころから見知ってきた鏡開だ。ところが、ひび割れて、乾燥も進んだ鏡餅を見たら、つい別の道を行きたくなってしまった。包丁のほかとんかちまで使って鏡餅を小さく割り、からりと揚げた。揚げてまだ熱いうちに、しょうゆをからめる。じゅっと。揚げ餅にしたのである。小豆との再会をたのしみにしていた鏡餅が、揚げ餅となったわが身をどう感じたかはたしかめる暇(いとま)がなかった。なぜなら、あんまりおいしくて、たちまち、ひとのお腹におさまってしまったから。 ところが七夕だけは……。 友人たちの短冊(つまりは願いごとということになる)を引き受けることをつづけてきた。まず笹をもとめてきて、家の階段の踊り場にそれを立てる。あとは、ひとり3枚ずつ短冊を渡し、それぞれ願いごとを書いてもらうのだ。それをわたしが、笹に結ぶ。 願いごとを書いてくれるのはおもに子どもたちの友人だけれど、わたしの友人も2人混ざっている。「そろそろ七夕だから、願いごとを3つ知らせてください」と声をかけるのである。 2人のうちのひとりからは「ふんちゃんにまかせる」という、もうひとりからは「この世から悪意というものがなくなりますように」という答えが返ってくる。こうして、ひとの願いごとを預かることの意味を、懐にあたためてきたというのに……。 どうしてことし、わたしは七夕を忘れてしまったのだろう。 末の子どもが高校生になって、距離にして少しではあるが地域から離れたことも理由のひとつだ。しかし何より、6月の終わりについ七夕を忘れる、売っている笹も目に入らない、そんなわたしであったということだ。 七夕を、当日に思いだし、「しまった!」と胸のなかで叫んだわたしは、さて、どうしたか。 夕方、わたしのほか誰もいない家のなかで、云う。「こうなったらしかたがない。わたしが代表してみんなの願いを書くよ」と。 そうして、ちょっと考えて、ひきだしから紙を1枚とりだし、3つの願いごとを書いて、その紙で鶴を折り、玄関に置いた。 友人知人を代表して、(大げさですが)3つ願いごとを書くことになったら、皆さんは何を書きますか?先日、うちにやってきた中学生(男子です!)がチョコレートの包み紙と豆日めくりの暦の紙で折り鶴をつくりました。折り鶴というのはいいものだなあと改めて思ったことです。この2羽のおかげで、今年の七夕を折り鶴に助けてもらおうと思いついたのでした。
2013/07/16
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蚊がふえてきた。 虫好きのわたしだが、「蚊はどうですか、好きですか」と尋ねられたら、どう答えよう。 答えたくない。 誰も、わたしに蚊を好きかどうかなどとは、聞いてほしくない。いや、ひとの世は、「蚊はひとの敵」というのを前提としているから、誰も聞きはしないのだ。 いいひとぶるようで気が引けるのだが、蚊の都合もわかる。わたしたちの血がほしいのでしょう? それもたくさんでなく、ほんのちょっぴりほしいのでしょう? あげたっていいよ、血。 だけど、刺さずに血を摂れないものなのかね。刺されたあと、痒(かゆ)いのが困るの。それに、刺すことで、感染症の病原体を媒介することもあるでしょう? (それに、わるいが羽音も恐ろしい。刺される、痒い、と思うから恐ろしく聞こえるのだろうか)。 昔は、どこの家にも蚊帳(*1かや)があった。 あのなかに入れば、もう安心。蚊に悩まされることもなく、ぐっすり眠れる。「蚊帳のなかに蚊が入ったらどうなるの? 狭いところで蚊といっしょじゃ、かえって刺されるんじゃないの?」 と、蚊帳を知らぬ若者は、こんなことを云う。 蚊帳のなかに入った蚊は、たちどころにひとの手で、ぱちんとやられる。蚊帳に入るときには、「さあ、入りますよ」というかけ声、あるいは「さあ」という一体感でもって、すそをまくり上げて一斉(いっせい)にさっと入る。あれこそは、愉快な夏の所作だった。 弟と喧嘩していても、蚊帳に入ろうとし、入ってしまえば、もう喧嘩なぞつづけていられない。 ———なぜ喧嘩になってしまったかなあ。わからないなあ。ま、もういいことにしようっと。 というふうだったなあ。 あのころ、駆除とか、殺虫というようなことばはなかった。 「お、食われた食われた。やりやがったな、ちくしょうめ」 とか云って(わたくしは、こんなことは申しませんでしたけれども。ほほほ)、両のてのひらをひろげて蚊に立ち向かったり、蚊遣(や)りを焚くのがせいぜいだった。蚊遣りとは、蚊取り線香のことである。 ああ、そう云えば。蚊遣りというのも、いいことばだなあ。蚊をその場から追い払うという意味だ。 いまは、ひとに不都合なことをする相手を、「駆除」ということばのもと、すっかりいなくならそうとする。このあいだも、ぼんやりテレビでニュースを見ていたら、「川鵜がふえ過ぎて、困る」という話題をとり上げていた。川鵜がふえて(たくさんやって来過ぎる上、長くとどまるということでもあるらしい)、川に放流した鮎の稚魚をどんどん食べてしまうそうだ。 どうやら、ひとの手による環境変化が川鵜を困らせた末のことのようだ。自分たちを生物の中心に据えて、その見地から「ふえ過ぎた」と云うわけだけれども、中心からちょっと横に退(の)いてみたら、どうだろう。ひとに変わって中心の番になった生物(たとえばクマ)が、やっぱりこう云うだろう。 「人間がふえ過ぎて、困る」 その困り方も、川鵜が川のさかなを食い荒らして困ります、というのをはるかに超えた規模のものとなるのにちがいない。 はなしが脱線したが、蚊帳のはなし。 蚊帳ばかりでなく、昔なじみの道具のことを、最近よく思いだす。あのころは気がつかなかったが、モノは大事に使いつづけるというと、みな一様に昔なじみになる。ああ、いい味がでましたねえ、とか、古いモノはいいですねえ、と云われるようになるのである。 現在家で使っているモノがちょっと傷んだり、壊れかけたりするときに、「もうひとふんばりたのみます」と声をかけ、励ましたいような心持ちになる。目の前のこれらも、あと10年もすれば昔なじみになる、そうとうな古参になると思うからである。 いまのこうした境地にたどり着く前にはわたしも、モノたちが昔なじみなるのを阻(はば)み、惨(むご)い目に遭わせてきたようだ。若いひとたちからも、「まあ、レトロ!」なんかと云って賞賛されるところだったのを、そうなる前にほかしてしまった。 たとえば蠅帳(*2はいちょう)。土瓶(どびん)。柱時計。足踏みミシン。座布団。黒電話。そうして蚊帳も。おお、恥ずかしい。これほどのモノを平気で失ってきたわたしが、云っていいものかどうか……。でも、云ってしまおう。 いまあなたが使っている「それ」は、長く長く捨てずに使いつづけることですよ。*1 蚊帳(かや)蚊をふせぐため、部屋に吊りさげ、寝床を覆うもの。麻、絽(ろ)、木綿製。「かちょう」とも呼ぶ。*2 蠅帳(はいちょう)食べものを入れておく、台所の小さな棚。蠅やほこりが入るのをふせぎ、同時に風通しもよいように、紗や金網を張ってある。川崎の祖父母が使っていた水差しです。この水差しだって、あぶないところでした。わたしときたら、もう少しで手放してしまうところだったのです。かつてはコップもついていましたが、うちにやってきてくれたときには、水差しのみでした。映りのいいコップをみつけるつもりです。〈お知らせ〉2013年7月20日(土)9:00-11:00東京都武蔵野市立桜堤保育園にて、小さなおはなし会を開きます。「家ではもう少しチカラを抜こう ――台所しごと、アイロンかけ、子どものこと、その他いろいろ話す会」保育園に通う皆さんの会ですが、わたしに10人分「椅子」をいただきました。参加を希望される方は、「0422-36-6010」(専用ファクス)へファクスでお申しこみください。「家ではもう少しチカラを抜こう」の会係宛てお名前・住所・電話番号・お返事用のファクス番号(必要なら方書きも)をお書きください。当選の方にファクスで通知をいたします。締切:7月15日(月)午後5時。
2013/07/09
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とうもろこしを山ほどいただいた。 こういうものは、とっとと茹でて(焼く、という方法もあるだろう)お腹におさめるのがいいのに決まっている。たのしや。手が、あたまが、ひとりでに大鍋に湯を沸かすかたちになる。たのもしや。 3分ほどで茹であげて、黄の色とつやを増したとうもろこしを大ざるの上にならべる。湯気がたった。 日曜日の夕方のこと、家にいた誰も彼もを呼び集める。 「とうもろこしですよー」 歓声があがる。 歓声のあとは、静まりかえる。皆、とうもろこしに齧りついているからだ。とうもろこし相手に無口になっているのは夫、長女、三女、三女の友だち、わたしの5人。うれしや。じつにおいしいとうもろこしだ。 いただいたとうもろこし。茹でたてを食べる面面(二女は仕事に出かけていていなかった)。 それだけで、満たされてしまった。 それにしても、とうもろこしの5人のなかの、三女の友だちの手のなかに残った黍殻(きびがら)のきれいなことは、どうだろう。とうもろこしの粒粒を根元からきれいに噛みとって食べたからなのだ。すごいすごい。 きょうも生きて、とうもろこしまで食べて、1日が終わろうとしている。これでじゅうぶんだと思う。ときどき、「なぜそんなにたのしそうにしているのか」と か、「おもしろく暮らすコツは?」と訊かれるが、そう見えることがまずはありがたく、もしそう見えるなら……、答えは簡単、と思うのだ。わたしが多くを望 んでいないからだ。 なんだかいつも、「これでじゅうぶん」と考えている。 うまくゆかないことが起きたときも、一気に片をつけようなどとは思わず、じわりじわりとゆくとしよう。……悲しみも、辛さも、おそらくは噛みしめるたび身になってゆきそうではないか。持ちものについても、食卓についても、「これで、じゅうぶん」という気持ちを持ちたいと希っています。写真は、わたしの机の横に置いているぬか床です。漬けものは、食卓のおかずが過剰になるのを引きとめてくれる大事な存在です。漬けものは、盛りつける器によって、感じが変わります。小振りのまな板(皿として使っています)に盛りつけると、こんなふうです。左上から時計まわりに、グリーンボール、大根、茄子、にんじん2種、きゅうり。洋風の白い皿に盛りつけました。そうそう、古漬けは、パンの上にチーズとともにのせて、カナッペ風に食べるのが気に入りです。深鉢に盛りつけました。大皿にたーくさん盛りつけることもあります。漬けものが主菜という日です。
2013/07/02
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まさにそれは、「堂堂」を学ぶ1週間だった。 おもしろいもので、途中、「堂堂と」ということばが浮かぶなり、すべてのものが、そこへ向かうことで道をつけてゆくようだった。はっと気がついたわたしはあわてて、ほんとうにあわてて辞書を引いた。【堂堂】(1)いかめしく立派なさま。「——たる態度」「威風——」(2)つつみかくしのないさま。公然たるさま。「——と主張する」「正正——」 なるほどなるほどと思う胸に、「いかめしい」ということばが引っかかった。それで、こんどは「いかめしい」を辞書(広辞苑*1)にあたる。【厳めしい】(1)おごそかで重重しい。いかつい。(2)はげしい。あらあらしい。(3)盛大である。おおげさである。(4)儀式ばっている。堅苦しい。「堂堂」の意味としては、おごそかをとるのがよさそうだなと思いながら、隠し味として「はげしい、あらあらしい」という要素をおぼえておき、ときには「盛大、おおげさ」とゆきましょう、と、その要素も胸にしまう。◯月◯日 東京ディズニーランドと東京ディズニーシーにでかける。 この4年あまり、二女が母の日に、ディズニーランドとディズニーシーに泊まりがけででかける小さな旅を贈ってくれている。初めは、ありがたく思いながらも「行き先はディズニーランドでないといけないの?」と嘆息していたのだったが。二女手づくりの「旅のしおり」の注意事項を見て、考えをあらためた。そこにはこう書いてあったのである。〈注意事項〉・「ディズニー」を侮(あなど)るなかれ。・ ミッキーマウスに敬意をはらう。・ 空気を読まない。・ ホテルの廊下は走らない。 これを読んで、旅に敬意という柱が支(か)われた。そうしてみると俄然、ディズニーランド(ディズニーシー)に行くのがたのしみになった。園内でミッキーマウスをはじめ、その他のキャラクターたちに出会うたび、敬意をこめて手を振る。そうするとまた、この国(ディズニーランド、ディズニーシー)の行き届いたもてなしが心地よく思えてくる。 ことしは二女とのふたり旅。梅雨期とかさなり、両日とも雨降りだったが、そのため、少し来園者数も少なかったようだし、植栽がことのほかうつくしかった。ディズニーランドでもディズニーシーでも(ランドでは50分、シーでは30分)ならんで待って、ミッキーマウスとならんで写真におさまったことを記しておきたい。 ところで、旅のしおりにある「空気を読まない」(旅のしおりに毎度書いてある)というのは、空気を読んだつもりで、具合がわるかったり、くたびれているのにそれを申告しないのはいけないという意味だ。 「ディズニーランドでもディズニーシーでも堂堂として、そこで起こることに敬意をはらわないとね。でないと、ほんとうにはたのしめないからさ」 と二女が云う。◯月○日 近くの商店街のなかに、ひとところ、小さな森がある。ほんとうは森ではなくて、ちっちゃな焼き菓子の店なのだ。だが、そこへ出かけてゆくときには、森へ出かけるときの気持ちで歩く。森におばあさんを訪ねる赤ずきんちゃんの気持ちもこんなだろうか、と想像しながらてくてくと行く。がやがやしたものは持ちこめない、店にはそーっと足を忍ばせて入る。「ごめんください」も、低めにゆっくりと唱えなければならない。森で、草やきのこを摘ませてもらうような気持ち、と云ったらいいのか。若くきれいな女性が何から何までひとりで切りまわす店だ。もの静かなそのひとの佇(たたず)まいもおそらく、森を思わせるのだろう。 正午から午後8時まで(菓子がなくなり次第、店じまいとなる)の店。この日はアメリカンチェリーのタルトを摘む。 タルトをそーっと持ちあげ、箱に寝かせるように入れてゆくのを目で追いながら、「ずーっとここにいてくださるといいんだけど」と思わず声をかける。 「そう云っていただけて、うれしいです」 そのひとは静かに、しかし堂堂としている。◯月○日 カンボジアの首都プノンペンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第37回世界遺産委員会が、「富士山」(山梨県、静岡県)を世界文化遺産に登録することを決めた。富士山は(登録後は、その姿を見ていないけれど)、どこであたらしい冠や勲章(のようなもの)をつけられても、変わらず、堂堂としている。まわりの声や意見なんかは、聞いてはいない。◯月○日 カナダの友人からメールが届く。「ゲラを読みながら頭のすみに置いてもらいたいのは、わたしが、いま、『障害者』と書くべきか『障がい者』と書くべきか迷っているという点です」 という箇所に目が吸いつく。 彼女が書いた山形国際ドキュメンタリー映画祭をめぐる長編(*2)が、現在ゲラ(初校)になっている。それを、映画にも、ましてやドキュメンタリーにも、もひとつましてや海外のドキュメンタリーにもくわしくない読者を代表して(友人という理由ひとつで代表権を得た)わたしも見せてもらったのだが、寝食を忘れてものを読んだのは久しぶりのことだった。通訳者として長年活躍してきた友人の感覚、ことばの選び方に感動しながら270頁あまりを読み通した。 障害について書いたくだりにも、彼女の配慮と、その立場をわかりたいという思いがあふれていて、好感が持てた。結局、呼び名ではなく、そこに注ぐまなざしがものを云うのだ。 けれど、あくまで友人は、本人が呼ばれたいと思う名前で、ひとは呼ばれるべきだと考え、迷っている。 堂堂と迷うその姿に、感じ入る。* 1 岩波広辞苑・第五版を参考にしながら、ことばの意味を記しました。*2 友人・山之内悦子さんのこの本が完成したら、ご紹介します。おたのしみに。この家に引っ越してきてから、家の者たちに伝えたいことをどこに書いて貼りだすか、ずっと考えていました。やっと決まったのが、洗面所です。ここでは、皆、歯を磨いたり、入浴の前後に衣類を脱ぎ着したり、ちょっとゆっくりするからです。子どもたちも大きくなって、気持ちよくそれぞれ「寮生」のように暮らしたいとの希いから、寮の名前を考えました。思いついたのが「木や草寮」という名です。そしてここは、木や草寮のひとたちに向かって、堂堂と伝言する場です。
2013/06/25
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予定がいくつも群れている1日。 そんな1日が、丈高い草のように茂る1週間。 忙しい1日、忙しい1週間が目の前にあらわれると、そこへ挑んでゆく前に、決まって、「うまく通り越したら、拍手ご喝采!」と小さくつぶやく。 まるで奇術師か空中ブランコ乗りのようだ。とはいえわたしは、目の前の大きなモノに布をかけ、それを消してみせたり、筒状にまるめた紙を傾けて珈琲を注いでみせたりすることはないし、高い高いところで大きく揺れるブランコからブランコに飛び移ったりすることもない。目の前の用事を、ひたすらに片づけてゆくだけのことなのだけれども。 と、そんなことを書いているいま、ちょうど「拍手ご喝采!」に向かう日日である。用事というものは寄せはじめると、波のようにあとからあとから寄せてくる。また、仕事というのも、重なるときは重なるものらしい。 「忙しいのはだめだ」と考えているわたしは、そうとうに用心しているつもりなのに……、ときどき悲しいかな、こんなことになる。 「うまく通り越したら、拍手ご喝采!」と呪(まじな)いのようにつぶやくとき、わたしはもうひとつの呪いを確認する。 もうひとつの呪いというのは、家のしごとである。どんなにしなければならないことがたくさん寄せても、重なっても、家のしごとをいつもどおりにしようとすれば、自分が守られるのだと信じている。守ってくれるのは、いつもどおりの家のしごとではなくて、いつもどおりにしようとすることだ。どうもそう思える。 そうして、忙しいときにかぎって、ほぼいつもどおり家のしごとに向かえる上に、+α(アルファ)の事ごとができるのは、どういうわけだろう。+αは、果実酒づくりや、ジャムづくり、繕(つくろ)いもの、靴磨き、草むしりのような事ごとだ。忙しがって、汲汲として、やさしさやら素直さやらを失わせまいというこころがそうさせるのだろうか。 ところで「拍手ご喝采!」のはなし。 みずからを励ますつもりの拍手だったのが、じつはひとり分の拍手にとどまらないことが、だんだんにわかってきた。「拍手ご喝采!」とつぶやいて、聞こえてくるのは、大勢の誰かさんの拍手なのだった。わたしと同じように誰かさんたちも、それぞれが自分に向けて拍手を送るのだろう。ぱちぱちぱちと、聞こえてくる。 みんながんばっているのだなあと思うだけで、励まされる思いがする。がんばるみんなが、家のしごとも、こんなふうにあんなふうに、と想像するのはまた、愉快だ。 想像にとどまらず、友人たちから「毎日、ぬか味噌も漬けてます」という便りが届き、「野菜くずでスープをとることをおぼえたのよ」と聞かされ、「おいしいパンケーキのつくり方、おしえてあげるね」とメールが……。ああ、みんな、忙しいさなか、こんなこともあんなことも、と思うと、ときどき泣きそうになる。 せわしない1日がおさまって、無事もどってきたときひとりぱちぱちぱちと手を打ち合わせながら、ちょっぴり泣く。ひとりで山を越えてきたのではないことを思ってのことだ。 しかし、拍手喝采がかなっても……。 わたしは、もうもう忙しくなんかならないぞ。 手をあけて、頭もあけて、こころもあけてゆくんだぞ。 拍手喝采と云うと、三女の部屋のワードローブの扉のはなしを聞いていただきたくなります。ワードローブには、立派な引き戸がついていたのですが、立派過ぎて(?)開け閉めがめんどうでした。わたしはえいっと、それをはずして(ベッドの横にしまいました)、ワードローブの上にカーテンレールを取りつけ、そこに、少し透ける薄ベージュ色のカーテンを吊りさげました。 ――なかなかいい具合。このときも、ひとりでぱちぱちぱちと拍手喝采したのでした。
2013/06/18
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「せんせいのお召しものは、どなたが選ばれるのですか?」 と、そっとKせんせいに訊く。 ある日曜日の午前中、古い公会堂の隣り合わせの観客席で、講演会がはじまるのを待っていた。いまだ、と思った。いつかきっとうかがおうと思い定めた質問だった。 細いピンク色のストライプのボタンダウンのシャツにストレートデニム。肌馴染みのいいキャメル色の上着。これがその日のせんせいのスタイルだ。細身で背の高い60代紳士であるせんせいに、きれいに映えている。 昨秋からひとつチームとして任にあたるようになったKせんせいのファッションを幾通りも眺め、眺めるたび、そこに物語のようなものがあるのを感じてきた。けれど、デニムスタイルのKせんせいは、初めてだった。 「せんせいのお召しものは、どなたが選ばれるのですか?」の質問に対する答えは、常とは変わらず、静かでおだやかなものだった。 「着るものは、すべて自分で選びます。自分で選んだものしか着ないんですよ」 ———ほおお。 わたしがどう想像していたのかと云えば、ファッションに明るく、ハイセンスなご家族(夫人やお嬢さんや)が選ばれるものを、自然に着こなしているという図式だ。シンプル&ベーシックがテーマのファッションに、個性的な靴や鞄、傘などを合わせる技が、たいそう高度なものに思えたからだ。好みがはっきりしているとは思っていたものの、「すべて自分で」とは考えなかった。脱帽である。 「ネクタイやシャツなどを、家人が買ってきてくれても、着ないですね。『ありがとう』と云って受けとって、身につけずにしまってしまいます」 自身で選んだものしか身につけないということが理解されるまでには、かなりの歳月を要したとのこと。せっかく買ってくれたのだからと妥協して身につけることは一切しなかったというおはなしに感動し、あらためて、その日のシャツを眺める。十数行前に「ピンク色の」と書いてしまったが、そんな単純な色ではないかもしれない。わたしにわからないだけで。 講演会からの帰り道、何となく落ちつかない気持ちになる。そうして不意にはっとして、思わず立ち止まった。 ———そう云えば、うちにも「自分で選んだものしか着ない」男がいた! 一緒になって20年以上たつというのに、わたしはまだその事実を飲みこまず、自分好みの白シャツや、ニットを求めては押しつけつづけている。そうして、着てもらえないことにかすかに苛立ち、挑戦的な気分にもなって「今度こそ」とばかりにまた求める。 ———もう買わない! 夫のことでは理解できなかったが、Kせんせいのさりげなくも衝撃的な答えに、いきなり納得させられたかたちだった。夫も、自分で選んだものしか着ないと云ったら、着ないのだ。Kせんせいと比べあきらかに無骨ではあるものの、それでもそれが夫独自のファッションだったのだな。 納得というものは、こんなふうに突如として飛びこんでくるものなのか。ああ、驚いた。あきれたり、感心したりの一日だった。ファッションは暮らしと直結し、それぞれの人格と切っても切り離せないものだと、あらためて思わされている。 それにしても。 きょうは、わたしにしては驚くほどカタカナいっぱいの原稿になった。自分の考えを伝える、もっと云うなら「わからせる」ためには、あの手この手を使うわたしです。ところが、相手を「わかろうとする」心づかいは足らなかったようです。この写真は、「わからせる」ほうのはなしです。包丁をはじめ刃物をしまうひきだしに、キッチンばさみの輪郭を描きました。「はさみは、この位置にしまってください!」という主張です。
2013/06/11
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午後11時過ぎの庭は暗く、暗いと云うより墨を流したように黒かった。わたしは、眞晝(まひる)ばかりを好む者ではない。闇や暗みにも、惹かれる。ものも云わずに闇のなか、ひとり佇んでいたいようなときもある。 そうしてそんな自分は、明るいものをむしゃむしゃ食べて腹におさめ、闇のなかで休む鬼のようだ。いちばん怖いのは、そうしている鬼の自分ではなく、あくる日にはまた何事もなかった顔で、日光の下に出てゆく自分。 闇のなかで無事ゼラニウムを植えつけたわたしは、蚊取り線香の炉を傍らに引きよせ、軍手をはずして坐っている。膝を抱えてじっとしている。こんな夜は、星までも宇宙の枠組みからはずれて、ものがたりのなかの存在に変わって見える。 ことし1月7日の早朝に逝ったいちごを思っている。いちごは闇の色の猫だった。「黒猫は縁起がわるい」「赤ちゃんが生まれるのだから、猫はほかへやってしまったほうがいい」 ときどきそんなことを云われたが、耳を貸さなかったな。いちごに守られた17年間だったな。 いまでも守られているように思える。ただ、いちごが逝くとき、わたしの一部がいちごになったような気がして、少し、少しだがわたしは以前よりしゃんとした。いちごが逝ってしまったあとも、めそめそしなかった。ほんとはそうしたいときもあったけれど、いちごがそれをさせなかった。「これからは、あなたがこの家の四隅を守るんです」 といちごが云った。 ———いち(いちごの呼び名)、四隅って……何? と思ったが、尋ねたくてもいちごはいない。白くきれいな骨は壷のなかに残っているけれど、魂はもう届かぬどこかに帰ってしまった。 いちごは、わたしたちがこの家に引っ越してきた数日後に、とつぜん弱りはじめた。それでも、のろのろと家のなかをすっかり見て歩き、階段も上がってひとつひとつの部屋を覗いた。その様子は、何かを確かめるようでもあり、祓(はら)い浄(きよ)めてゆくようでもあった。 さらに弱って歩くこともままならなくなってしまったある日、わたしはいちごを抱き上げて庭に出た。庭もいちごに見てほしかったからだった。家の四隅のはなしを聞かされたのは、そのときだ。「これからは、あなたがこの家の四隅を守るんです」 いちごが逝ったのは、引っ越しから数えて21日めのことだった。よくぞともに転居してくれたな。ともにこの年を越してくれたな。 闇のなかでいちごが駆けているのが見えた。この夜は、いちごが引いてきてくれたものだろうか。しんと静かな、深い夜の帳(とばり)だった。 ほんとうは、いちごが駆けまわるのを眺めながら、庭しごとをしたかった。そうしたかったけれども、そのかわりに、いちごと約束した四隅の守りのためにも、庭を大事に育ててゆこう。 そうすればきっと、いちごが滋養を引き、風を引き、星を引き、そうして夜の帳も引いて、庭を守ってくれるだろう。この家の四隅を守ろうとするわたしの力不足を補ってくれるだろう。約20年ともにあって、2回も引っ越ししたつるバラ(サマースノー)が、枯れてしまいました。2002年に閉園したなつかしい「向ヶ丘遊園」(神奈川県川崎市多摩区)のバラ園でもとめたバラでした。幹を切りました。バラの幹をのれん竿にしました。のれんは、元の家の二女の部屋の2枚を合わせて縫いました。枯らしてしまったことはすまなかったけれど、こうしてまたいっしょに……。〈お知らせ〉2013年6月28日(金)、小さなおはなしの会「台所から子どもたちへ」をおこないます。時間:13:30~15:00ごろ会場:東京・新橋のオレンジページ「オレンジページサロン」にて。ご参加、お待ちしております!詳細は、こちらへ。
2013/06/04
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その日はなんだかいつまでも眠くならず、かと云って仕事をする気にはならなかったので、「さて」とつぶやき、しばらくぼんやりと薄闇(うすやみ)に目を凝らしていた。その薄闇は、かすかな未来だ。布団に入るまでの1時間ほどの未来。 そのやわらかい重みを押しいただいて、「泣けるな」ともうひとつ、つぶやく。 ——ゼラニウムを、植えてしまおう。 この日の昼間、仕事をひとつ納めて、つぎのことにとりかかる前に「、(点)」を打つことを思いついて自転車でひと走り、行きつけの園芸店に出かけた。土とゼラニウムに、「、」を打ってもらおうと思いついたのである。 昨年12月に越してきたこの家には庭があり(庭は、わたしたちがこの家を気に入った大きな要素のひとつだった)、庭しごとへの夢を駆りたてる。春のしごとがはじまるまでのあいだ、この庭の歴史を眺めてはどこから手をつけてどんなふうな庭にしてゆくかを思案していた。冬のうちにしておかなくてはならないこともあっただろうけれど、庭の隅に重ねられた植木鉢をひとつひとつ洗ったり、どのあたりにテーブルを置いたらいいかを土と相談するにとどめた。 4月のある日、長女がどこからか1本のローズマリーの苗をもらってきた。これが、庭しごとの口火を切った。「さあ、はじめましょう」とローズマリーは云ったものだ。「はじまりはじまり」 仕事の合間に庭の隅(隅だが、陽当たりのいい特等席だ)に夫がつくってくれた「キッチンガーデン」の囲いのなかに鶏糞を鋤(す)きこみ、早速ローズマリーを植える。ローズマリーがその場所に馴染んだのがわかると、こんどはシソを植え、シソがあるならとバジルを植え、その2週間後にミニトマトの苗を植えこんだ。このキッチンガーデンは、文字通り、台所で活躍の野菜やハーブを植えるスペースだが、うれしいことには机に向かうわたしが眺められる場所にある。「そういう計画だったの?」と尋ねると、夫は少し得意げに「そうだよ」と答えたが、どんなものだろう。たまたま、そういうことになったというのがほんとうのところではなかったか。 どちらにしても、いまこうしているあいだにも、窓越しにキッチンガーデンのローズマリー、シソ、バジル、ミニトマトが青青として天を仰ぐ姿が見える。 もと住んでいた家から大事に持ってきたゼラニウムの素焼きのプランターは、2階の南側と北側のベランダの手すりにひっかけた。あたらしい場所での陽のひかりの向きを把握して、ゼラニウムたちは花を咲かせてくれた。開花はまるで、秘密をそっと打ち明ける友だちのようだ。 その佇まいは、植物が(わたしがどこかで求めてきて、植えこんだにしても)わたしのものではなく、それぞれのいのちを生きていることをおしえる。 ——ゼラニウムを植えてしまおう。 そう思ったわたしは、午後11時過ぎの黒黒とした庭に下り、音をたてぬように気をつけ気をつけ、細長い木製のプランター2本に、ゼラニウム(白花)を植えてゆく。株間には、ヘリクリサム・シルバーやシロタエギクといった銀色の葉を植えこんでもいいかもしれない。 小さな懐中電灯のあかりをたよりに、しごとをすすめる。闇のなかの作業は異様だが、無口な友だちと酒を酌み交わすのと似ている。いや、庭でのことは、もっと創造的ではある。わたしが云いたいのは、ひとたる自分とゼラニウムたる植物が、この世でともに生きるお互いだということだ。たとえ夜更けでも、そっと語りあいたくなるお互いだということだ。 〈来週につづく〉 庭のはなしの「番外編」ということで、洗濯物干しの登場です。これは、小物を干すのに活躍の補佐役です。この小物用物干しに、欠くべからざるメンバーです。こんなふうに、使います。ここへは下着類も干すので、布のメンバーは目隠しとして活躍するのです。〈お知らせ・その1〉2013年6月28日(金)、小さなおはなしの会「台所から子どもたちへ」をおこないます。時間:13:30~15:00頃会場:東京・新橋のオレンジページ「オレンジページサロン」ご参加、お待ちしております!詳細は、こちらへ。〈お知らせ・その2〉「エッセイを書いてみよう」(講師 山本ふみこ)朝日カルチャーセンター(東京・新宿)の講座のあたらしい「期」がはじまります。とてもなごやかなたのしい場です。ぜひふるってご参加ください。1期6回(月2回)を、1期だけでも継続でも、受講することができます。日にち:2013年7月11、25日、8月8、22日、9月12、26日(いずれも木曜日)時間:10:30-12:00問い合わせ先:朝日カルチャーセンター新宿 電話03-3344-1945
2013/05/28
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5月○日 「ママレードをつくって、さしあげようと思っていたんだけどね、あんまり量があって、途中でめげてしまったの。あなたなら、夏みかんでもらってくださるかなと思ったの」 友人の峯岸文子さんから電話がかかったのは、午後5時ごろのことだ。 ——夏みかんでいただいて、ママレード、自分でつくりましょうとも。 と胸を叩き、 「すぐ、うかがいます。いまから、すぐ」 そう、返事をす。 文子さんのお宅とうちとのあいだは、徒(かち)にして10分ほど。同じ戌年で、わたしから見て二(ふた)まわり年上の文子さんは、英文翻訳の教室の先輩、料理上手、もてなし上手、そしてそして、未来のため骨惜しみをせずに活動するという点でも尊敬する友人である。こういう存在を近所に持つ幸運を思って、ときどき空を見上げ……。 「何の褒美でしょうかねえ」と、わたしはつぶやく。 文子さんからの電話を受けるなり、わたしは布のバッグを抱え、運動靴を履いて家を飛びだした。小さく(目立たぬように)スキップする。こんなふうにブラウス1枚で飛びだしても寒くない、そうして暑くもない、いい気候だ。しかし東北、北海道の友人たちは、まだブラウス1枚では外を歩けまい。コートをしまうまでには、しばらく間があるだろう。……と考えながら、ずんずん行く。わたしにスキップをさせられている運動靴は夫が買ってくれたもので、大事に履いてきたおかげで、そのときからもう10年ほどがたつ。踵(かかと)に小さく「龍」の文字がある。 ——何だろう、龍って。 と履くたびに考え、天翔(あまがけ)る龍を思う。龍を見たことはないけれど、わたしの心象の龍は、ひょろっとしてちょっと蛇に似ている。 文子さんのマンションの玄関扉前でオートロックの呼び鈴を押す。応答なし。 ——あれ? 呼び鈴をもう一度押すが、やはり応答なし。 とつぜん、モクモクと心配の雲が湧く。 ——そう云えば、気丈な文子さんが夏みかんの量に途中でめげてしまった、と話していたな。お加減がわるかったのではないだろうか。 そう思ってみた途端、わたしに電話をしたあとに、ふらっとして床にへたりこむ文子さんの姿が見えた。……ような気がした。 同じマンションに住む別の友人Iさん宅の呼び鈴を押して、マンションの玄関扉をあけてもらい、斯く斯く然然(かくかくしかじか)と、文子さんに呼ばれたはなしからみずからの想像までを話す。Iさんは文子さんの家の前までついてきてくれた。 5階の文子さんの家のチャイムを鳴らし、玄関扉を叩いて「文子さん文子さん」と叫ぶ。 ——救急車を呼んでしまおうか。「お隣りを訪ねてみましょう」と云ってIさんが、エレベータに乗りこむ。 同じ階2軒1棟ごとのエレベータの設備となっているこのマンションは、お隣りと云っても、一度1階に下りエレベータに乗り換えて上がらないとめあての家の玄関前に立てない仕組みだ。 Iさんが文子さんのお隣りのお宅のチャイムを鳴らし、出てきた感じのいい婦人に向かって斯く斯く然然と説明してくれ、婦人は「まあ!」と云うなり携帯電話のボタンを押して、耳に当てた。 文子さんがみずからの携帯電話で応答し、「いま、マンションの入口にいる」と云っているとのこと。 ——あわわわ、あわわわ(携帯電話って、便利だ)。 と、わたしは……。 とどのつまりはこうである。 わたしが駆けつけるのを、マンション前の公園のベンチで待ってくれていた文子さんと、公園を通らず近道で訪れたわたしが行きちがってしまったのだった。 元気な文子さんの姿を見て、思わずその肩に抱きついたら、ひとつ涙がこぼれ落ちた。めでたしめでし。 小説や映画のなかで、わたしみたいなのは、事をこんがらからせる張本人といった役どころ。なんでもない日常を騒ぎのなかへと引っぱってゆく。が、ほんとうのところ、わたしはどうすればよかったのか。ほとんど携帯電話を使わず、したがって携帯しないことがまずいけないのかもしれない。しかし、それを除いては、やれるだけのことはしたという、晴れがましさがある。どんなに人騒がせでも、これくらいのことはしないと、友でもなければひとでもない。そう思うのだ。5月□日 朝から外での用事がつづいた。夕方家にもどると、机の前に荷物がでん、と置いてあった。送り状に、友人の名前がある。 ——はて、何だろう。 段ボールのテープ剥がし、箱のふたをあけると、バスタオルにくるまれた四角いものがあらわれた。そっと引っぱりだす。あろうことか……。 あろうことか、出てきたのは将棋盤だった。手に入れようと希うことさえ想像しなかった雲の上のもの。 送り主の友人に問い合わせると、お寺や神社の障子や戸をつくる建具職人だったお父上に、頼んでくれたものだという。ことばがない。5月△日 朝起きるなり、居間と仕事場の仕切りの棚越しに、そっと机のほうを覗く。 ——あった、あった。 たしかに昨日、友人にも「ありがとう、ありがとう」と云い、わたしのもとにやってきてくれた将棋盤を何度もさすってから床(とこ)に入った。ところが、寝ているうちに、夢ではないかという気がしてきたのだった。朝、おそるおそる覗いたら、将棋盤はあった。 「何の褒美でしょうかねえ」 わたしはまた、つぶやいている。これが、わたしのもとにやってきてくれた将棋盤です。蔵で眠っていた檜が生まれ変わってできたものだそうで、そのことにも、不思議を感じています。この将棋盤にふさわしい駒を、と考えています。どこでどんな出合いがあるか、たのしみにしています。〈お知らせ〉2013年6月28日(金)に、小さなおはなしの会「台所から子どもたちへ」をおこないます。時間:13:30~会場:東京・新橋のオレンジページ「オレンジページサロン」にて。ご参加、お待ちしております。詳細は、こちらへ。
2013/05/21
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日曜日、久しぶりに実家を訪ねる。 朝、たけのこの木の芽和えと、これまたたけのこが入った春巻きをこしらえる。父も母も、この春たけのこを食べただろうか、と思いながら。前の週に吉祥寺に出かけたときにもとめておいた父の好物の海老せんべい、友人が届けてくれた米沢牛の佃煮のおすそ分けも持つ。 この日は、父と母とお茶の時間を過ごすのが目的だ。近所の菓子店で茶請けのケーキを選んでもとめる。ほぼ毎日飲んでいた酒を休んでからというもの、少しずつ甘味に目が向くようになった。友人たちが、ショーケースの前であれこれケーキを選んでいるわたしを見たら、きっと驚くことだろう。洋梨のケーキ。フロマージュ。チョコレートケーキ。アップルパイ。カシスのケーキ……。この菓子店は、二代め。おそらく菓子づくりとは異なる道を歩いていたのを、店を受け継ぐ決心をしたのであろう若主人のがんばりを、わたしは密かに応援している。 バスと徒(かち)を合わせて40分あまり。二女がつきあってくれた。実家では、前もって頼んでおいたカーネーションの花束と水ようかんがちょうど届いたところだった。この日は母の日。それがどのような経緯(いきさつ)で決められたかわからないし、商業的な匂いもぷんぷんしているが、だからと云って母をその日の例外の存在にすることもできず、毎年かすかな抵抗感を抱きながらカーネーションにしがみついてきた。 わたしの抵抗などどうでも、母はうれしそうにしてくれていて、カーネーションを花瓶に生けて、こうだろうかああだろうかと花の向きをととのえる。父は海老せんべいの包みを解いて、手をこすり合わせている。……よかった。 紅茶を淹れて、ケーキを食べる。 父が富士山麓にある自分たちの夏の家の小屋開きに行って、いつの春にも増して寒かったこと、世界遺産の登録が確実になってからというもの観光客がふえて驚いたことなどを話す。小屋同士親しくしている岩崎さんの安否を問うのに、岩崎さんのお宅の見えるあたりまで歩いて行って、台所の窓の様子を見てくるはなしに感心する。電話などしないのだな。 「台所にひとのいる気配、あるいは少し前までいた気配があれば、岩崎さんご夫妻は無事というわけだ」 と父は、語る。 紅茶茶碗、ケーキ皿を片づけ、持ってきた春巻きを揚げ、門の外の草むしりをして、帰る。2時間にもならぬ訪問だが、たのしかった。 夕方、部活動からもどった高校1年の末娘が、いつになく苛立っている。きょうじゅうに、体育祭の衣裳を縫わなければならない、宿題とテスト勉強もしなければならない、と云って苛立っている。 「かりかりしてても、はかどらないよ。きょうはE寺でお祭りをやっているからさ、友だちと1時間半遊んでおいで。気分を変えておいで」 と云って、家を出す。 体育祭の衣裳を見ると、ベルトは完成していて、スカートも裁断はすんでいる。スカートにミシンをかける。そのあいだに金目鯛の切り身とごぼうを炊き合わせる。 ミシンを踏みながら、母の日なのだが……と思いかけるが、こういうのこそ母の日らしい日ではないか。そう思い直す。お祭りに出してやり、教材づくりに加担するなど、たまのことだ。母として面目躍如たるものがある。 かりかりと苛立っていた末の子どもが、元気回復してお祭りから帰ってきた。完成したスカートを見て、くるくる踊っている。ふたりならんで黙って坐り、スカートにスパンコールを貼りつける。 末の子どもが、ぽつんと云う。 「わるい日になりかかってたけど、いい日になった。いい日に変えるやり方をおぼえたよ」 わたしのアドレス帖、ここしばらくのあいだ、こんなにふくらんで(いただいたおたよりをはさんで)いたのです。母の日の夜、アドレス帖の整理をしました。あっけないほどたちまち、完了しました。何を惜しんで、手をつけないでいたのでしょうね、わたしは。こういうことも、「いい日に変えるやり方」のひとつだろうと感じています。……つくづくと。
2013/05/13
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遠くで起きていること。 家の者たちの出先。 かなたにある友人知人。 このごろ、そんな、わたしのいまいる場所からは手の届かない、もっと云えば消息さえ知れない事ごとを思う気持ちの、置き場について考えることが多くなっている。 無事を祈る証のようなものがほしくなっている。 ある日、友人のアヤサンから便りがあり、そこに思いがけないことばが書かれていた。 灯明(とうみょう)の二文字だった。ふみこさま 夢を見ました。 小さなおばあちゃんが、唐草模様の風呂敷で柳行李(やなぎごうり)を包んだような荷を背負って、水車のある小川にかかる橋を渡っています。 おばあちゃんは、「ろうそくの火、お灯明がほしいんだが」とたのんでいます。 と書いてある。 不思議な夢だ。 目覚めたときいちばんにわたしのことが思い浮かび、それでその夢のはなしを伝えてくれたらしい。灯明ということばが、胸に残った。 アヤサンに灯明のことを相談すると、「ふみこさんがほら、こころを寄せる場所と呼んでいるところに供えたらいいんじゃないかと思います」というこたえが返ってきた。 早速、うちにあったろうそく立て(東日本大震災後、しばらく電気を使わず、そのかわりに活躍してくれた)に火をつけた。「こころを寄せる場所」のはなしは、いろいろなところに書いてきたけれど、いま一度記すこととす。 東京・豊島区に熊谷守一(*1)美術館(*2)があり、若い日にそこで「仏前」(*3)という絵と出合った。黄土色の背景のなかに置かれた黒い皿の上に、白い卵が3つのっている。長女の萬さんが肺結核で亡くなったときに描いた絵とのことだ。 そのとき美術館内の喫茶室で「仏前」の絵はがきをみつけた。これを求めて帰り、机の横の書棚に飾った。ある日、うちでこの絵と対面した友人から、絵はがきを譲ってほしいとたのまれる。当時友人は、母を亡くしたばかりだった。友人は「仏前」の絵はがきを自宅に飾って、お母上の場所とした。 わたしがふたたび美術館で「仏前」の絵はがきを求めたのは、それから20年後のことだ。居間の棚に飾り、「こころを寄せる場所」とする。そうしてきょうまで、この世から旅だった祖父母や叔父叔母、従兄弟、友人たち、面識のなかった尊敬する人びとへの気持ちを、そこに集めてきたのである。 アヤサンの不思議な夢のはなしを聞いて、ろうそくに火をつけ「こころを寄せる場所」に供えたわたしは、休む前にその小さな火を消そうと……。このような火は吹き消さず、手を使ってすっと、こう、消すわけだと思ってそうしたら、あろうことかろうそく立てごと床にはたき落とした。溶けた蝋(ろう)が飛び散った。やれやれ。灯明初日から、何ということだろう。 ——まったく、わたしときたら、いつもこうだ。 とため息をつきながら、床を拭いたり、かたまった蝋を爪ではがしたりする。 しかし、不思議な夢に運ばれた思いつきを、このくらいのことであきらめてはいけない。 数日後、灯明にぴったりの、手で火を消すことすらおぼつかぬわたしにぴったりの、ろうそく立てを町でみつけた。それからは、家にいるときにはずっと、あたらしいろうそく立てに火を灯している。 わたしの思いは、静かに灯されている。* 1熊谷守一:くまがいもりかず(1880−1977)。画家。著作『へたも絵のうち』(平凡社ライブラリー)の袖に著者紹介として、「複雑さを超越し、一見単純なかたちと色をもつ作品は、その人柄からも“天狗の落とし札”と形容されて独特の宇宙を築き上げ、今も多くの人を惹きつけてやまない」とある。* 2熊谷守一美術館:熊谷守一が45年間住んだ東京都豊島区千早の自宅跡に1985年、個人美術館として開館。2007年、豊島区立美術館となる。*3「仏前」:1948年。油絵・板。熊谷守一美術館所蔵。 「こころを寄せる場所」。ろうそくは、いまのわたしのもっとも大きなぜいたくだと認識しています。それでもなお……この小さな灯火にこだわらずにはいられません。(火のことゆえ、わたしが部屋にいるときだけという約束です)。庭の芝桜が満開です。薄いピンクの素朴な花がひろがっています。かつてこれを庭に植えてくださった大家のTさん、ありがとう、ありがとうございます。
2013/05/07
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ゴールデンウィーク。 このことばを耳にすると、反射的に足が踏ん張るかたちになる。どうやら、ふだん通りでいようという踏ん張りらしい。この説明だと、足のせいのように聞こえそうだが、足はただ、わたしというひとを代表して踏ん張るのだ。 ひねくれ者にありそうなことだし、そしてたしかにそれはわたしのことなのだけれど、踏ん張らせるものはひねくれだけではない。わたしは、「ふだん」の道から逸れたあと、もとにもどる手間を惜しんでいるのである。 「ふだん」の道から逸れることを、仮に「旅」と名づけよう。 「旅」からもどったあとの始末や、留守宅のあれやこれやの手間。それは、まあ、いい。大洗濯くらい、からっぽになった冷蔵庫(たいてい旅の前には、冷蔵庫をからっぽにする)の補充くらい、たまった郵便の整理やメールの返信くらい、四の五の云わずにしようじゃないか、と思う。 いちばんの手間はそういうことではなくて、気分の立て直しなのだもの。 家を空けるとなると、それがたった1日でも、それなりに仕舞いの支度をしなくてはならない。そっと、無事にまたここへもどってこられますようにと祈りながら、もどったときの自分たちを想像しながらせっせと働く。 ところが。ひとたび家を出ると、出るなりこころは旅仕様になって飛ぶ。ふわり。 この場面転換の大きさには、いつもわれながら驚かされる。 やるだけやって出てきたのだから、と思うせいなのかどうか、出先で家のことを考えることは、ほとんどない。 そんなふうなわけで、もどってきたって、ふわりの気分はなかなかもとにもどらない。しばらく、何とはなしにふわり、ふわりだ。ふわりは、「そんなこと、もうどうでもいいや」という気分に近いものがある。仕事や用事にとりかかるにふさわしい気分とは、とても云えない。 ほんとうは、たまにふわりとするのなんかは、精神衛生上よさそうだという考えも浮かぶ。ふだんのなか、いつしか縮こまった神経をのばす働きもするだろう。それがわかっていても、このふわりを相手に「ふだん」にもどる手間を想像すると……、しんどいこともある(のよ)。 そしてことしもゴールデンウィークがやってきた。 「もうじきゴールデンウィークです」というラジオの声も聞かなかったことにし、「ゴールデンウィーク」という新聞の見出しも見なかったことにするという踏ん張り具合だ。 きょう、その第一日め。 わたしはふだん通りだ。 晴天だったので、いつもの洗濯のほかに、朝、マフラーと手袋の洗濯をする。庭いっぱいにマフラーと手袋を干すと、満艦飾の冬の旗だ。 急ぎ、徒(かち)にて市内の◯□中学校へ向かい、公開授業参観をする。 最初に入った理科室で「古生代・中生代・新生代」の授業が行われている(中2)。学生たちがグループに分かれて「化石を割る」場面を夢中になって覗き、さらには男子学生が割った石からカゲロウの幼虫とおぼしきかたちが、常緑樹の葉っぱらしきものが出てくるや、またまた夢中になって、はっと気がついたときには30分以上が経過していた。 ———まんべんなくたくさんの授業を見るつもりだったのに。まったく、わたしったらさ。 帰ってから、仕事をひとつ仕上げる。 晩ごはんに、二女が焼飯と、残り野菜を使ったスープとサラダをつくってくれた。焼飯はこのひとの十八番(おはこ)。少しずつ得意料理をふやしていっておくれね、と思いながら(こういうことは、ことばにしないのにかぎる)、食べる。 二女が晩ごはんをつくってくれているあいだ、ふと飴がほしくなった。夫が大事にしている黒砂糖の飴を失敬し、包みを解いて口に入れた。 ———さ、練習だ。 という気持ちになっている。 こういうものを口に入れると、わたしはすぐとガリガリと噛み砕いて、あっという間に喉から胃方面へ送りこんでしまうからだ。きょうというきょうは、ゆっくりゆっくり、最後のかけらが舌の上で自然に溶けてゆく、そんなふうになだらかになめよう。練習だ、練習だ。はじめのはうまくゆかなくて、ついカリッとやってしまった。2個めはいいところまでいったのに、また噛んだ。3個め、やっとうまくいった。 ———飴を最後までなめ通したのは、生まれて初めてだ。 そう思うと、胸がいっぱいになる。 休む前、友だちにはがきを書く。「ゴールデンウィークがはじまりましたね。わたしは飴をなめる練習をしました」夫の実家の金柑で、ことしは果実酒を漬けました。その前に……、瓶のなかに陣取っていた梅酒を漬けたあとの梅の実で、ジャムをつくりました(二女製)。わたしの「ふだん」には、こんないいこともあるんです。これだって手間にはちがいないけれど、こういう手間をわたしは愛しています。
2013/04/30
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だらだら薬の効き目だろう(前回の「うふふ日記」を読んでくださると、だらだら薬のことがわかります)、だらだら薬服用の翌日は、からだがだるくなった。 張りつめていた心身がゆるんだゆるんだ。そう思うと、うれしくてならない。幸運にもその日は急ぎの用事が少ししかなかったので、午後から蒲団にくるまった。 目覚めたのは午後5時過ぎで、そのとき初めて枕に頭をのせてから2時間半が経過していることを知った。時間がどこかへ消えてしまったかのような、深い眠りだった。寝つくまでのあいだに読もうと思って携えていた本の表紙に触れることもないまま、たちまちわたしは蒲団の国に到着したらしかった。 睡眠のことを時間旅行のように考えているわたしが、その旅先を「蒲団の国」と呼ぶようになってから、もうずいぶんたつ。 「蒲団の国」のはなしはかつて書いたことがある(『親がしてやれることなんて、ほんの少し』オレンジページ刊)。中学時代に、教科書に載っていた吉行淳之介の短篇小説「童謡」(*1)が、ことのはじまりだ。忘れられない小説だった。 大人になってから、図書館でさがしにさがし、やっとのことで再会したときはうれしかったなあ。わたしが小説の題名を「微熱」とあやまって記憶していたために、みつけるのに手間どった。吉行淳之介全集に収められた「私と教科書」という随筆によって、自分の記憶ちがいを知った。短篇の題名は「微熱」ではなく、「童謡」。 ごく縮めて記すなら、少年が高熱を出し、急激に痩せたかと思うと、こんどは太り、もとに戻るというものがたり。病気という体験を通して、少年は自分から欠落していったもの、あらたに加わったもののあることを感じている……。 本との再会はあまりにもうれしく、それからというものわたしは、眠ることを短篇「童謡」のなかに登場する「蒲団の国」ということばで思うようになった。蒲団なしでも、その国には行ける。ありとあらゆる車中、ありとあらゆるベンチ、ありとあらゆる木の根方、ありとあらゆる……で、わたしはその気になれば、造作なく「蒲団の国」へ行ってしまえる。ときにはその気がなくても眠っているが、その気というのがどんな気なのかは、はっきりしない。その気のあるなしの境目もじつにあいまいで、もしかしたらわたしの拠点は「蒲団の国」にあって、こちら側にやってきているのかもしれないと、考えることがある。 さて、何のはなしをしていたのだったか。 そうだ……。平日の午後2時間半も眠りこけてしまったなど、あまり大きな声で発表できないなと胸の奥で恥じているのだ。わたしはじたばたと、そのことを正当化してみせようとする。「このところ、ちょっと忙しかったからね」とか、「あしたは、うんとがんばるからさ」と、へらっと正当を訴える。誰に訴えるのかと云えば……、もちろん自分に。他人(ひと)にどう思われようとかまわないが、自分の信頼を失うのは困る。判断基準がずれてしまう。 ところで午睡の正当化には、ほら、奥の手、わたしがそも、「蒲団の国」で暮らしていて、こちら側にときどきやってくる存在だというあれもあるのだったな。 2時間の深い眠りからもどってきてみると、からだが軽くなっていて、夫がつくってくれた晩ごはんを食べ、ゆっくり湯につかったあと、なんだか蒲団の国に帰るのが惜しくなった。 ——そうだ、あれをしよう。 何年も二つ折りのファイルにはさんではためていた新聞の切りぬきを、整理してスクラップブックに貼りつけようというのである。 こういうのは、なんとかしたいと思いながら、「いずれね」と云ってひきだしの奥にしまいこんでしまう、そういう種類のしごとだ。それを、わざわざ奥のほうから引っぱりだして見直そうというこころは、安定していると云えるのではないだろうか。 だらだら薬、それにつづく午睡の効き目のあらわれにちがいない。 切りぬきを1枚1枚ならべてゆく。すると、過去のわたしの関心の向く方向が知れて、じつにおもしろい。おもしろいと云えば、友人がくれた切り抜き、友人宅でちぎらせてもらった記事が混ざっているところだ。 1枚の切りぬきには、隅っこに「ふんちゃん、部屋の片づけをしたら、これが出てきました。いいでしょ。あげます。Hより」と書いてある(この切りぬきに年月日と新聞名のないことが残念。切りぬきにこれらは不可欠と、思う)。白洲正子(*2)の能のはなし。もっと云えば友枝喜久夫(*3)のことを書いた随筆だ。この切りぬきを持っていることはおぼえていた。自分の行く道を照らす灯(ともしび)のように思ってもいた。が、このようなものと、切りぬき帖のページをめくるだけで対面できるとしたら……。灯がますます明るく、わたしの足もとを照らしてくれることだろう。 切りぬきの整理は、午睡と同じ2時間半で終了。 つぎのめあては、住所録の整理だ。* 1「童謡」:『吉行淳之介全集 第二巻』所収(吉行淳之介/新潮社)* 2白洲正子:(1910−1998)随筆家・美術評論家。能は4歳のころから親しみ、関連の著書も多数ある。* 3友枝喜久夫:(1908−1996)友枝家は熊本藩主細川家お抱えの能楽師の家筋。晩年に目を病み、1990年「景清」をさいごに能舞台かあらは退くが、謡や仕舞いはつづけ、最晩年まで現役だった。切りぬき帖。いろいろ考えて、B5判のサイズの紙が貼れるスクラップブックを選びました。切りぬき帖づくりは、いまのわたしにとても効きました。こころが軽くなりました。(この切りぬき帖は、わたしがこの世から旅立ったあと、誰かに譲ってもかまわない。……そんなようなものでもあるなと思います。日記や写真帖は譲れませんけれどね)。
2013/04/23
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気の張る用事がつづいて、気がつくとわたしの全体がちぢんでいた。緊張なんかはめずらしいことではなく、これまでもあちらで張りつめ、こちらで張りつめ、けれどまたそれを収め収めやってきた。のびたりちぢんだりは、馴れたものだったのだ。 ところが。 このごろ、緊張してちぢみ上がった心身が、なかなかもとにもどらない。もしかしたら、どこかが故障したのかもしれない。長く使ったこころとからだだ。不具合のひとつやふたつ出てきたとしても、不思議はない。 ちぢんだまま家のなかで立ち働き、ちぢんだままくつろぎ、ちぢんだまま眠る。 ある日曜日。 目覚めたとき、あれこれ考えずだらだらゆこう、きょうは、と思った。 天気がよかったので、布団を干す。2階からえんやらえんやら敷き布団と掛け布団、枕をおろして庭にならべる。 NHKの将棋の番組を見る。午前10時からの「将棋フォーカス」で振り飛車を勉強(飛車先は角で受ける)してから、つづけて正午までNHK杯テレビ将棋トーナメントを見る。思いもかけない一手に、飛びあがる。「わわっ、4九角!」と云って飛びあがる。 英文翻訳の課題にとりかかる。午後2時半までと決めて、集中してとり組む。紀行文。トナカイが出てきた。チェーホフが出てきた。11行しか訳せなかったが、それでじゅうぶん、という気がする。毎日、少しずつとり組もう。 はがきを12枚書く。この数日見ないが、庭にやってきていたヒヨドリの絵をはがきの隅に1羽ずつ小さく描く。全部で12羽描いたことになる。ヒヨドリはからだも大きく、先にやってきていたメジロやシジュウカラにいぢわるするから、ほんとうは描いてやりたくなどないけれど、つい描いた。描いたら、ちょっとうまくいったから、つい12羽も。 布団をとりこみ、こんどは庭から2階へえんやらえんやら運ぶのだ。布団の主ふたりのよろこびを思いながら、えんやらや。 台所で、野菜の肉巻き、さつま汁をこしらえる。それから酢みそをつくる。これをつくっておくと、ほうれんそうのおひたしにかけてよし、冷や奴にかけてよしなのだ。杏仁豆腐もこしらえる。 日曜日も終わり近く、この日のことを書いている。だらだらと。だらだらはいいなあ、と、うれしくつぶやく。「あれこれ考えずだらだらゆこう」は功を奏して、ちぢみが幾分解消して、心身のそこここが幾分のびたようだ。あたりまえのことを、ひとつひとつしただけなのに、こんなにもゆるまるとは。 この日わたしがしたことは、計らずも、手からこぼれ落ちていた事ごとだった。 干したい干したいと思って、なかなかできずにいた布団干し。こんなことを呑気にしている場合なのか……などとは考えずに、かぶりつきで見たテレビ将棋トーナメント。毎日少しずつ向き合うたのしさを実感しての、課題の英文翻訳。できずにいたことが、そうとう気にかかっていたらしいはがき書き。考えてみたら、だらだら台所で働いたのも、久しぶりだ。 緊張が身に貼りついたまま、ちぢこまってしまったときには、これ。だらだら薬!高校生(末の子ども)の弁当がはじまりました。中学校に学校給食が導入されたため(ありがたい給食でした。東京都武蔵野市の学校給食に、感謝!)、久しぶりの弁当づくりです。これも、わたしのこの春の緊張のひとつ。第1日めは、三色(みいろ)ご飯にしました。2日めは、肉じゃが弁当。れんこんのきんぴら、にんじんの白煮、セロリと鶏肉の和えものも詰めました。3日めはサンドウィッチ。少し緊張がほどけてきました。小さな器には、プロッコリーとソーセージ、チーズ、トマトとごぼうのピクルスを軽く塩とレモンで和えたものです。
2013/04/16
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