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これらのデッサンは、じつはあのピカソの14歳の時のデッサンと11歳のときのデッサンなのです。驚きですね。パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペイン生まれ。フランスで制作活動をした画家・彫刻家。キュビスムの創始者であり、20世紀以降で最も有名な芸術家。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な画家であるとギネスブックに記される。ピカソの洗礼名は聖人や縁者の名前を並べた長いもので、長い名前の例としてよく引き合いに出される。諸説あるが、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、「パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード」[1]である。フルネームはこの後に、父称と姓「ルイス・イ・ピカソ」が続く。ピカソ自身は自分のフルネームに無関心で、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父の名のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになったのだそうです。あるところで2002年に上野の森美術館で開催された「ピカソ 天才の誕生 バルセロナ・ピカソ美術館展」の本が手に入ったので、大変興味深く読みました。この上掲のデッサンのほかにも、15歳で以下のような人体デッサンができたといいますから驚きですね。当時は、男性以外のヌードは美術学校でも許可にならなかったのだそうです。
2007.06.22
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昔、田舎の家に「家の光」という月刊誌がありまして、その最初の方のページに世界の名画が載っていました。小学校6年生のときに、ゴッホの「自画像」か「スモモ畑」の絵があって、その斬新な、絵の具を叩きつけるような表現に幼いながら感動し、自分の持っていた水彩の絵の具を、そのまま指でべたべたと塗りつけて、描きました。先生にほめられて自信を持ちました。あの時の、人生に対する、チャレンジというか、冒険心と言うか、自分の主張をしながら人生を創造するんだという感覚が、青春の第一ページだったような気がします。ゴッホの絵は糸杉とか燃えるようなひまわりが有名ですが、今日は初期のころの絵をご紹介したいと思います。1884年 「職工」 ヌエネン時代暗い部屋で一日中、織物をしている当時の人々の生活を描いています。ゴッホは後期印象派の代表的画家といわれます。現在は高い評価を得ていますが、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけ。それでも生活していけたのは弟テオドール(通称テオ)の援助があったからだそうです。彼は、1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトに生まれました。祖父、父共に敬虔な牧師でした。彼には兄がいたのですが、数週間で死に、両親は、ヴィンセントに、その兄の面影を求め、この幼い時のゆがみが彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたようです。彼は性格が激しく、家族を含め、他者との接触が苦手で、一人で過ごす時が多かったようです。1869年から美術商の伯父の手伝いをしたが、失恋により美術商への熱意を失い退職。それから、牧師を目指し貧しい人々の為に、自らも貧民のような生活をしながら献身的に奉仕。しかし、あまりにみすぼらしい有様に、1879年に伝道師の仮免許を剥奪され、暫く炭坑に留まり伝道の補助を行ったそうです。1880年、26歳のときに、に画家となる事を決心し、ブリュッセルでデッサンの勉強を始めました。1881年に実家に戻り、自宅に画室を作り、画家となりました。後にゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をすることになりますが不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われ、自らの左の耳朶を切り取り、女友達に送り付ける等奇行が目立ち、自らサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院。1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃で自殺を図り2日後に死亡。37歳という短い生涯でした。短い生涯の間に、彼は800点の油彩画を残しました。「靴」1886年 パリにて「悲しみ」1882年同棲していた女性クリスティーヌ(愛称シーン)がモデルと言われています。彼女はゴッホにあった時にすでに妊娠していたそうです。心優しい彼は娼婦のシーンを幸福にすることを使命と思いましたが、なしえませんでした。1888年アルル時代の自画像。ゴッホの生涯は、激情と悲惨と優しさと病気とがまじりあった劇的な生涯でした。牧師として歩んでいいる自分には複雑に感じるところが多々あります。
2007.07.19
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