オランダ ネーデルラントより

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2006年03月27日
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レンブラントツアーに参加(3月25日土曜日)!

アムステルダムのレンブラントの博物館が有名だが
このツアーは、レンブラントのレイデン時代めぐる企画。

日本では「レンブラント」で名前が知られているけれど
それは、ファーストネームで、フルネームは
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン
(Rembrandt Harmenszoon van Rijn, 1606年-1669年)

オランダ政府公式サイト「レンブラント生誕400年記念」

日本では兵庫県立美術館で 「アムステルダム国立美術館-オランダ絵画の黄金時代」

今年2006年はレンブラント生誕400年なので、
オランダでいろいろイベントがあるそうだ。
オランダ政府観光局公式サイト

ツアーガイド氏は、50歳くらいの真っ赤かのふくよかなホッペの
ニコニコオランダ人のおばちゃん。
大きな巨体をゆらゆらさせながら、早口でまくしたてる。
職業は心臓外科だそうだが、週末はほとんど趣味で
レイデン市内の外国人向けツアーガイドをやっている。

ツアー参加者で、レイデン大学内のカフェテリアで
コーヒーとクッキーをいただき
一服してからツアーへ。

レンブラントは、1606年7月15日ライデンのウェッデステーグ(Weddesteeg)3番地で誕生。現在は記念プレートがあるが、当時の建物は壊され、現在は全く新しい建物が建っている。

家族は比較的裕福な暮らしをしていた。
レンブラントの両親は、10人兄弟の末っ子だったレンブラントの大学進学を希望し、レンブラントをラテン語学校へ送った。
粉引き用風車は市の城壁の中で、生家のそばにあり、もっぱら、ムギを轢くためと運河の水量を調節するための風車だった。レイン河(Rijn)近くにあり、現在は、当時の様子を再現した風車がたたずみ、観光客でにぎわっている。季節になると、そこで轢いた小麦で焼いたパンを販売しているそうだ。

レンブラントの時代は、レイデンは城塞都市であり、運河と壁がはりめぐらされ、8基の風車があり、そのうち2基だけが現在、保存されている。
地図をみると、レイン河に「Galgewater(絞首刑運河)」とも書かれているので不思議に思っていた。


そして、城内外の人間に、悪いことをするとこうなるぞという無言の警告だったという。

生家を通って、オランダ中にいくつも名前をみるRembrandt str.を抜け
ラテン語学校のそばのPieters kerkへ。
当時は、お金持ちは基本的に教会の中に埋葬され、貧しいものは教会の外に葬られていた。レンブラントやその家族も、この教会で洗礼を受け、家族はこの教会に埋葬されている。レンブラントはアムステルダムの西教会に埋葬されている。

ラテン語学校は、「レンブラント生誕400年」記念行事のため
ラテン語を勉強するレンブラントの人形や、ポスターが貼られている。
ちょっと、余計というくらい観光客にアピールしている。

「レンブラントというと、『オランダの黄金期に活躍した
人間洞察に満ちた陰影に富む人物画が得意で光と影の魔術師』
と呼ばれているけれど、彼の人生も光と影に満ちたものでした」
とガイド氏。


テュルプ博士の解剖学講義(1632年、マウリッツハイス美術館所蔵)をはじめ、
天才ぶりを若くして発揮したレンブラント。
そして、上流階級とつながりがあり、裕福で美しいサスキアとの結婚
彼女と4人の子供をもうける。が、3人は、幼くして死亡。
息子のティートゥスが9ヶ月のときに、最愛の妻サスキアが死亡。
その後、乳母として雇ったヘールチェ・ディルクスが愛人ではないかというスキャンダル。
彼女と別れた後、22歳も年下の使用人のヘンドリッケ・ストッフェルスと
恋に落ちるも、ヘンドリッケから婚約不履行であると、レンブラントを裁判所に訴える。結局、レンブラントに実刑判決が下ってしまう。
レンブラントは、サスキアから莫大な遺産を受け継いでおり
それは、再婚しない条件でのみ適応されるので、
ヘンドリッケと正式に結婚することは、財政上できなかったからである。
このように、レンブラントという男は、どこか金銭に狡猾なところがあり
弟子がよく、床にコインを描いて、レンブラントに拾わせるという
ジョークをたびたびして、彼を怒らせたそうだ。
結局、最愛のティータスもペストで亡くし
破産したレンブラントは、寂しく63歳の生涯を閉じる。

その後は、ツアー参加者と一緒にワインとサンドイッチで
談笑して、お開き。
なかなか充実した、土曜日だった。
今度は、アムステルダム国立美術館にいって
レンブラントとカルバッジオの特別展を見に行きたい!
写真できしだい、アップしますね♪

レンブラントの概略
を以下ウキィペディアからコピペ引用

レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn, 1606年7月15日-1669年10月4日)は17世紀を代表するオランダの画家。単にレンブラントと呼ばれることも多い。油彩だけでなく、エングレーヴィングによる版画やドローイングでも知られる。生涯を通じて数多くの自画像を描いたことでも知られる。自画像はその時々の彼の内面の変化まで伝えている。

生涯
1606年ライデン生まれ。1631年アムステルダムに移る。「トゥルプ教授の解剖講義」(1632年)で名声を得る。「夜警」(1642年)も集団肖像画の傑作として知られる。

しかし、私生活では最初の妻を早く亡くし(1642年)、愛人の女性から婚約不履行で訴えられるなど、トラブルが続いた。浪費癖もあったようで、多額の借金を抱えてやがて返済不能に陥る(1656年)。晩年は息子にも先立たれ、困窮のうちに亡くなり、共同墓地に葬られたという。また、レンブラント自身は色盲であったともいわれている。 

レンブラントの自画像(1660年)
レンブラント工房
20世紀後半に研究が進み、かつてレンブラント作とされた作品の中に「工房作」のものが多く含まれていることがわかってきた。工房といっても、画家の下絵を弟子が仕上げていくといった分業体制ではなく、レンブラント工房の場合は、弟子がレンブラントの画風に従って制作しており、レンブラントが手を入れることはなかったようである。

作品の特徴
作品の一点(ないし複数の点)に暗闇に鋭く差し込むような光線が当てられ、その部分を強調すると同時に暗闇の部分を逆に強調する手法が特徴である。そのため光の画家と呼ばれることもある。生き生きとしたドラマチックな描写が見るものを画面に引き込むかのような魅力がある。

夜警

代表作「夜警」レンブラントの著名な作品として『夜警』(1642年)が挙げられる(画面が黒ずんでいるため、夜の様子を描いたと考えられ、付けられた名前であるが、実際には左上から光が差し込んでおり、昼の時間である)。この作品は「フランク・バニング・コック隊長の市民隊」という題名であり、火縄銃手組合からの依頼で描かれた作品で、登場人物の各人が平等に描かれておらず、物議をかもしたようである。この作品の後、レンブラントへの注文が激減したという。しかし、火縄銃手組合本部に掲げられた絵画の出来栄えは圧倒的であり、レンブラントの評価を高めた。 この作品は現在、アムステルダム国立美術館にあるが、1715年までは火縄銃手組合のホールにあった。その後、ダム広場の市役所に移されたが、非常に大きな絵であるため、壁に入りきらないとして周りをカットされてしまった。特に左側が大きく切られたが、その部分のいずれも残っていない。また、1980年代にアムステルダム国立美術館において暴漢によってナイフで切られたことがある。12ヶ所余りを切られたが、現在では修復されている。

作品
自画像 (1629) アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)
テュルプ博士の解剖学講義(1632)マウリッツハイス美術館
ベルシャザルの祝宴 (1635) ナショナルギャラリー (ロンドン)
ガニュメデスの誘拐 (1635) ドレスデン国立美術館
アブラハムの犠牲 (1635) エルミタージュ美術館
目を潰されるサムソン(1636)シュテーデル美術館 (フランクフルト)
夜警(1642) アムステルダム国立美術館
修道士に扮する息子ティトゥス (1660) アムステルダム国立美術館

その他レンブラントに関するサイト;

アムステルダム国立博物館公式サイト の「レンブラントとカルバッジオ」

兵庫県立美術館「オランダ絵画の黄金時代」

Googleで見つけたレンブラントの作品が見れる大変すぐれたサイト






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最終更新日  2006年03月27日 07時25分03秒


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