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『ファミリー』('86.6・7月号に掲載)

「昨日と今日」

1986年2月16日
ソウル本部教会にて


 きょう話す内容は、「昨日と今日」、過去と現在という意味です。 一昨日は、私たちの誕生日を祝ってくださいましてありがとうございました。私にとっては満六十六歳の誕生日であり、お母様は、四十三歳を迎える誕生日でした。

 統一教会においての父母様という、この二人の方について皆さんが考えるとき、先生は年を取っており、お母様は若く、その差は二十三歳という年齢の差です。では、どうしてそのような差をもつ夫婦にならなければならなかったのでしょうか。それは、ただ先生の考えを中心としてそのようになったのではなく、摂理のみ旨の中でそうなったのです。



 その「家庭」が設定されるためには、一人の男性が願う個人的な目的を中心としてそのまま「祝福」という、「聖婚」というものを適用することはできず、そこには必ず歴史的関係、歴史的内容が介在しているという事実があるのです。

 東と西がいつも相対することができるのは、中央線をもっているからです。中心を備えているために、相対することができるのです。もし中央点が決定されなければ、東と西の位置は、いくらその位置が設定されたとしても全体的な均衡の世界においては認めることはできないのです。南と北も同じです。南と北が中央線上の中心点を中心として通じなければ、その相対する基準は、全体の均衡をとるとき、何ら関係がないのです。

 そして、東西が合うことのできる中央点、南北が合うことのできる中央点は、二つでなく一つなのです。この二つでない一つ、この一つの立場は簡単ではありません。そこにおいては、必ず九〇度を備えなければならず、上下、左右までもがすべて相対的な立場において均衡がとれていなければなりません。

 今日、神の摂理のみ旨から見るとき、一つの家庭が出現するためには、韓国であれば、その韓国の民族が経てきた歴史の方向性を知らなければなりません。そして、韓国を中心としただけではできないのです。韓国を中心として周辺の国々、世界の舞台を中心として一つの縦的な方向性が立っていれば、横的な関係が連結されたその中央点においてすべてのことを決定するのです。このことによってのみ、初めて東西が確立されるのであり、南北が設定されるのです。ですからこの中心が重要です。東西があっても、南北がいくら備わっていたとしても、その中心点、一致されるその点を中心として回るとか動くようにならなければ、そのすべての回る事実は虚無なもの、価値のないものになり、もしその中心点を離れて作用するときには破綻的、破壊的結果がもたらされるのです。そのことは、私たちが運動する世界すべてを見ても分かるように、神の摂理も同じです。

 今日の人間の世界においては、霊界があります。これは縦的な世界、縦的な立場において常に私たちが合わせなければならない世界です。(一方)、横的な面において、今日の世界と常に平衡をとることのできる世界があります。



 では、男性や女性は何を中心としてその中心点に接するのでしょうか。また、人間自体においても、人間を中心として横的な男女の愛、その愛は何のために中心点において一つにならなければならないか。それは天地です。天が主体であれば地は相対です。東洋思想でいう天地人の天地とは、両親と同じです。人間をいっているのです。その中央にいる人、というとき、その人は男性と女性をいうのです。天地の間の人、その人はどこにいなければならないか。天地のその真ん中にいなければなりません。その真ん中というのは、本来は男性と女性のようなもの、合わせても男性と女性のようなものです。ではその中央点において何によって一つになれるのかというとき、これはほかでもありません。縦的な愛の力、横的な愛の力によってです。そして、それらが一つになる所において、真なる男性、真なる女性、真なる天、真なる地がなされるのです。このように見るのです。

 では、その観点から、神は宇宙を創造し、人間との関係においていかなる位置にいようとしたでしょうか。神が東にいても、必ず西を訪ねていくようになりますが、西に行く以前には中央線に向かっていかなければならないのです。また、南から出発したなら、神が行く道は必ず北に直行するのです。その直行する線が必ず中央点を中心として南から北へ、あるいは北から南へ行くのです。これを知らなければなりません。

 それで人が生きるとき、漠然として生きるのではなく、人間としての行くべき中心点を中心として生きているということを、私たちは考えるのです。なぜ生きるのかという問題を中心として考えるとき、私が生きていることは、ただ食事をして毎日が循環の軌道に従って生きる、そのような方式によって生きるのではなく、生きるということ自体は必ずある中心点に向かって生きているのです。中心点に行けばどのようになるか。自分一人だけではないのです。そこには関係の世界が展開されるのです。一つは相対的関係、一つは縦的な関係、縦横の関係をもつようになります。そうすることによって、中央に来る以前までは平行線のみを見つめていたのが、中央に来てからは垂直線、上と下を見なければならないのです。これはなぜでしょうか。そうすることにおいてのみ、球形が成されるのです。すべて運動するものは球形に似るようになっているのです。

 では今日の統一教会は、これと同じ原則において、どこに行くのでしょうか。大韓民国の内にいるとして、統一教会はどこに行けばいいでしょうか。それは、すべての人間を代表して行くのです。宗教というのは、柱になる教えです。最も重要な柱になることができることを教える所を教会というのです。宗教というのは宗のことを、家でいえば柱に当たえます。家を構成するのに柱がなければなりません。柱がないとき、空間の世界をつくることはできません。すべて崩れてしまうのです。それで家は、必ず柱を中心として連結されなければなりません。それが何かといえば、一番頂点となる教え、これが宗教なのです。宗教で教えていることは何か。人に対して教えることが中心ではありません。人間のみ旨を(中心として)成そうとして、人間が生きるための生活的関係をつくろうとして教えるのではありません。これは、最も高く、最も尊い、絶対的神に対することを教える。神を中心として自分と統一教会、神を中心として自分と韓国、神を中心として自分と世界に対する教え、このように考えるのです。

 ですから、神を中心としないでは、いかなる関係も結ぶことができないのです。

 それでは、一人の統一教会の男性は何を中心として行くかといえば、神を中心として行くのです。もちろん、人間が行くための日常生活の目標であり、発展していく過程での方向もありますが、最終目標は何かといえば、神を中心として、男性も行き、女性も行っているのです。

 では、二人が出会う所ではどのようになるのでしょうか。まず神を中心として出会わなければなりません。神を中心として出会うとどのようになるのでしょうか。ただ立っているだけでなく、神を中心として回転しなければなりません。すべての人がそうでしょう? 回転するために、だれが先に動機をつくるか、動機となれるか。まず、与えなければなりません。それで、二人が一致する際に、神自体が、「合わさりなさい」と言ってはなりません。神は神なりに自由な環境にいるし、お互いに共同的に、共有することができる位置に立つためには、神自体を圧縮して、神を中心として回転するほかないのです。

 自動車の回る車輪を見ると、必ず芯棒を中心として回転するのです。その芯棒は強いものです。剛柔を兼ね備えなければ燃えてしまうのです。剛柔が兼ね備えられていなければなりません。高低が兼ね備えられなければなりません。音楽もそうでしょう? 名曲などはすべてが和音となります。和音になるためには高低が合わなければなりません。これが小さく合っていても、大きく受け継ぐようになっても、全部ある時になればそれがマッチして、一つの波動のようになります。一つの幅の中にいくつもの音節を入れても、その幅か一つの波動となって、複雑な内容をもっていても一つの波動として感じられるので、人間は和音として受け入れるのです。

神の心と神の体を中心として、 中央線に立ち得る、中央点に留まることのできるものは何でしょうか。それは、神を中心とした愛です。心と体が相対的関係にあるので、必ず神の愛を中心として一つになるようになっているのであって、その他のものでは一つになり得ない原則があります。最も中心の核は何でしょうか。それは、神が留まることのできる、いつも離れることができない、中心的愛の核です。その愛を中心として固着されているのです。

 ここから、神自体も移動するならば、中央線を失ってしまうのです。脱線してしまうようになります。神自体が居処することのできる場を喪失してしまうのです。場を喪失してしまえば、完全で理想的な安着点、安息所をもとうとしても、それは宇宙のどこに行ってもありません。たった一点、この点は二つあり得ません。一点しかありません。愛を中心として神の心と体が一つになった神を中心として、私たち人間自体も、神の愛を中心として、神の愛と神の人格を心に描きながら、それに似るためのものが、本来の家庭の愛です。

 男性と女性が初めて定着できる所はどこでしょうか。東の端でもなく、西の端でも、南の端でもありません。それは絶対に一つの中央点です。ではそこにおいて、男性でも女性でもなく、お互いが位置を交替しながら、あなたと私の神を誇り得る、神を喜ばせ得る、その中心の作用になれるものは何でしょうか。それは神と人格と、神の人格を構成している神の愛です。神の愛と一つとなり、神を中心とした男性と女性が一つとなって、家庭の基盤をつくったなら、これは永遠の幸福です。

 例を挙げて話せば、愛の大きな錨に錨綱をつなげた船のように、いくら揺れてもその船は、その錨を中心として回るようになるのです。そうなれば、その場は幸福な所です。これをだれも切ることはできません。人間自体も切ることができないし、切れば自己破滅で英雄的な男性がいるとしても、これを破壊することはできないし、いかなる人でも、強い者でも弱い者でも、ここを中心として、一つとなって回転しながら生きるのです。そのように、神と関係を結んでいて、一つになった所において拡大するのです。

 中心を求めていく時においては、女性を探していきますが、そこに行って、神の人格を和合して出てくるときには拡張され、帰ってくるときには自分に神の愛があり、自分には神の人格が形成されたことを初めて知るようになります。その位置に至る以前では、中央線において一つにならなければ、完全なる人格を見いだすことはできません。あくまでも愛を懐かしく思い、どこまでも人格を懐かしく思う、一人の寂しい位置にいる男性であり、女性であるだけであって、すなわち独り子的な愛を中心とした神の人格の代身たる男性であり、それでは、愛の代身たる、愛の人格が形成されません。愛の次元を高くしながら生きていくのが人生史観です。

 そうしながら家庭を中心として社会を感じるようになり、社会を感じながら国家を体験するようになり、国家を体験しながら世界を体験するようになり、世界を体験しながら霊界にまで拡大されれば、どこにでも自分の思いどおりに、孤立的立場でなく、必ず中心を中心として拡散されます。これは、一つの点を中心として円形が拡大されたのと同じく、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界にまで至り、そしてどこに戻ってくるかといえば、故郷に戻るのです。世界に向かった人は、必ず故郷に戻ってくるのです。必ず世界に行って戻ってくるのです。こちらから出ていけば、あちらから戻り、帰ってくるのです。そうしながら球形の世界に向かい、自分自身が横的に、半径を描いて戻ってくるようになるのです。このような関係を中心としたことが、今日の人生における生活となるのです。

 それは個人を中心とした生活の公式であると同時に、家庭も同じです。家庭だけをつくることはできません。その家庭も神を中心とした、愛の人格と和合した父母を中心とし、子女を中心として一つとなり、彼らもやはり一つとなって家庭自体も拡散しようとするのです。家庭も拡散しようとするのです。なぜ拡散しようとするのでしょうか。愛は、大きくなったり小さくなったりして、そのような作用をするようになっているのです。呼吸するとき、吸い込む息と、吐き出す息に差異があるとすれば、彼は遠からず、この存在世界から消えてしまうのです。吸い込む息と吐き出す息の均衡を保ちながら、調和をもったリズムによる線上において私たちの生命が維持されるのです。同じ道理です。



 ですから、人がいくら世界の舞台に出て成功したとしても、成功したのちには、その次はどこに行くかといえば、故郷に戻りたいのです。皆さんもそうでしょう。故郷が特別なのではありません。故郷に行っても特別なものはありません。生活的環境から考えてみると、自分が現在、外国であれば外国、世界に出て成功している環境よりも劣るのです。では、そこに何があるのでしょうか。昔の、情緒的過去が生きているのです。情を中心として、昔生きていたことを忘れることができないのです。その情緒的な内容が、他郷の生活と故郷での生活とでは異なるのです。他郷でいくら生活をしても、感じ方、深い愛の内的な因縁を中心とした関係が結ばれないのです。これは環境的条件から見てもそうです。

 例えば、アメリカのような所に行ったとしましょう。そうすれば人々が違い、環境が違います。そこには白人たちが住んでいて、すべての生活環境が反対です。ここでは来なさいと、こうするのに(しぐさで示される)、あちらではこのようにするし、眠るにも、東洋人はあお向けに眠るのに、西洋人はうつぶせになって眠るのです。全部反対です。そうでなければならないでしょう。するすることによって、すべてが合うのです。反対が悪いのではありません。それが、遠くに回って合うことのできる、相対的位置をとるのです。回って再び合うことを予想しながら、そのような習慣となったのです。東洋西洋の出発が違うし、生活風習が異なり、すべての文化背景が異なり、出発の基準が異なりましたが、すべての心情を中心とした歴史過程は必ず回らなければならないために、深い心情的基準においては差異がないのです。

 では、行けば行くほど、どこに行きたくなるかといえば、世の端に行けば行くほど、そ界の端を懐かしく思うのではなく、中央線を越えればもう戻るようになるのです。このような作用をするのです。それで老人は、臨終時にどこで死にたいかといえば、だれでも外地では死にたくなく、故郷に戻って死にたいと言うのです。なぜそうなのでしょうか。故郷に戻って良い生活ができるからではありません。そのような情緒的な、忘れることのできない内容が、そこには残っているのです。そこに行くことによってのみ、昔自分が成長する時、父母の愛を受けていたことを再び回想するのです。昔結婚する当初に新郎に出会い、あるいは新婦に出会ったすべての因縁が、その時代の愛を中心としてつづられた自然環境というものは、その時が最初です。最初のものは貴いのです。皆さんもそうでないでしょうか。

 さつまいもがあるでしょう。これは元々外来のものです。日本から入ってきたものです。先生の母の実家に行った時、先生が七、八歳のころだったと思いますが、孫が来たといって、外で祖母がさつまいもを掘ってきて、蒸してくれながら、「これは本当においしいものだ」と言いました。ざる一杯持ってきてくれました。そのことが今でも忘れられません。その皮をむく間もなく、急いで食べたのです。どこに行ってもそのことが思い出されるのです。外国に行って、物珍しいものを食べるようになれば、そのさつまいもを食べていたころが思い出されるのです。最初に味を味わったのですから、最初のものが貴いのです。ですから最初の情、人間は父母を中心として最初の情、父母の胸に抱かれてもったいろいろな事情、自分が育っていったすべての歴史時代が、生々しくよみがえってくるのです。これは何を中心としてかといえば、情を中心としてです。これが貴いのです。知識を中心としてよみがえるのではありません。経験を中心としてでもなく、情緒的な面において強く感じるのです。ですから情緒的な関係で結ばれたすべての事件や因縁は、忘れることができないのです。忘れることができません。そうですか、そうでないですか? そうでしょう? (はい)。

 ですから故郷に行けば、昔の情緒的なその時代を再び回想するのです。ああ、私は幼い時こうだったのか、このようにして結婚をして、子供の母親となり、祖父母になったので、故郷に戻ってくると、すべてが懐かしくなります。故郷のすべてが自分の代身として展示され、“過去のあなたはこのようでした”というように感じられるのです。若者を見るお互いが好き合っているのを見ても、“ああ、昔私たちが好き合っていたことを忘れないようにするために見せてくれているのだ”。昔のすべてを思い起こすことができるのです。すべてが合う時は、主体となる情緒的背景がぴったりと合って、環境を情緒的に収拾することのできる因縁を、自分を中心として家庭的に、部落全体に関係を結んでいるので、その故郷を忘れることができないのです。



 先生の場合も、人々は、外国に出て複雑に闘って、何がどうだとかああだとか言って、話が多いのですが、そのすべての事情を流して、祖国がいいというのは、それだからいいというのです。祖国である大韓民国に訪ねてきて、金浦空港に降りるや否や祖国ですが、金浦空港を訪ねてきたのではありません。ソウルが韓国の中心ですが、ソウルを訪ねていってそこで住むのではなく、ソウルを通り過ぎて、すべての中心地を通り過ぎて、あの田舎、平安北道の定州という所、山と谷と海岸の、そこを訪ねていくようになるのです。それはなぜでしょうか。出発もそこから始まったので、終わりもそこに行って合わなければならないのです。戻ってくるのです。

 何を中心として戻るのでしょうか。情緒的な基準を中心として戻っていくという事実を中心として考える時、人間がそうであるから神も同じです。神は情緒的なその感じを、どこで感じるでしょうか。皆さん一人で、心と体を中心として自分がいるとき、情緒的に感じますか? 一人では感じません。何かを感じるというのは鳥の一匹でも見て、美しい花を見て、ああ美しい! そこにハチが一匹でも飛んできてミツを吸うのを見る時、情緒が生じるのです。花だけ見るよりはおもしろいのです。相対的な何かがあって、作用が始まることによって情緒が誘発されるのです。それと同じです。神も同じです。皆さん一人では情緒というものが発動しません。そこには必ず相対的関係において、情緒的な関係を結ぶ

 神も同じです。神が、懐かしいと思う方は、だれでしょうか。今日既成のキリスト教においては、神は尊い創造主で、私たちは俗なる被造物であると思っています。しかし神が愛したい、神か関係を結びたいものは何でしょうか。猿でしょうか。猿が人間になったというのですか? 猿と人間は四十カ所違う所があるのに……。人に似ている猿が先祖ですか? 皆さんもそうですか? あなたの祖父は猿のような顔をしているといえば、聞きよいでしょうか。(笑い)あの人は、顔は人並なのに、猿のようによく走ります。先生は猿年です。猿年だとしても、猿に似ているといえば、気持ちが良くありません。(笑い)

 そうしたことを見るとき、何に似ているかというと、良くとも悪くとも自分の父母に似ていると言われれば、気持ち悪がる人はいません。いくら強盗の子供であったとしてもです。自分の父母に似たというのが自然の道理であって、他の人に似ていると言えば嫌がります。ですから人間は、似ることのできる素性をどれくらい所有しているかという基準に比例して、感情を感じるのです。それでは男性と女性が一つになるその時は、何を中心として一つになるというのてしょうか。今言った、情緒的な相対関係の比例的基準によって陽陰が決定されるというならば、神も人も同じなのです。男性と女性が一つになるとき、男性、女性二人が向かい合っていることが一つになることではありません。そこには必ず一つの母体を中心として、横的な主体、核を中心として関係を結ぶのです。皆さんもそうでしょう?

 霧が深いとき、向こう側に電燈があると、丸く月のように見えてくるでしょう。それはなぜでしょうか。なぜ月のように丸くなるのでしょうか。光はすべて直線に進むはずなのに、なぜでしょうか。そういうことを考えてみたことがありますか。ある媒介体を中心として、ある距離を行けば、必ず角度が変わってくるのです。一カ所から発するある色彩の光は同じ波長なので、水蒸気に反射するとき、同じ距離を行って角度が変わってくるので、月のように丸く見えるのです。このように解釈するしかないのです。それは何を意味するのでしょうか。その光自体も必ず球形的な一つの形体をもって作用することを知ることができます。必ず相対がいれば方向を展開しようとするのです。展開してどこに行こうとするかといえば、理想に向かって回っていこうと作用するのです。

 男性、女性もそうでしょう? 男性、女性が出会って、二人で会って、手の平を付け合って喜ぶ人がどこにいますか。そうですか、そうでないですか? 先生はよく知りませんが。(笑い)手はどこに行くかといえば、相手の側に行きます。そして男性と女性が全く同じであれば大変です。小さいので手を付けると回っていくのです。男性が大きいので回っていくのです。体が傾いてくるのです。手が動く時は、下に行くのが原則であるので、手をつければ体がこのようになるのです(しぐさで示される)。このようになるのは、動作に便利であるように方向を決定するのです。そうでないでしょうか? 女性の手は上がるようになっていて、下がるようにはなっていないのです。そうであるか見なさい。水平線以上に上がるように、このようになっているし、男性は水平線下に下るようになっています。これはなぜでしょうか。回っていくためです。それで二人で踊る時、回るのです。このように私たちすべての人間は一つとなるのです。幸福であるということ自体が、大きな価値ある何かを中心として、私たちは一つになっているということをいっているのです。この価値あるものとは何でしょうか。最も大きなものは神の愛です。神も愛が必要です。

 筋肉もそうです。大きな筋肉を作るには、筋肉細胞が集まって一つのブロックを作り、また一つのブロックを作って、だんだん大きくなっていくのです。それと同様に、神の愛を中心として、神の人格を中心とした愛を中心として、人間が一つとなって回るとき、神と人間との関係は無秩序ではないのです。統一教会でいう個性真理体、それは驚くほどの言葉です。神的個性真理体を中心として、心と体が一つになる愛の圏、愛を中心として完全に一つになれるその場を中心として、第二次的なことにおいて(他の)人間との関係を結ぶようになっているのです。心と体が神と一つにならなければ、他の人間と一つになれるようになっていません。同様に個々の人間も、心と体が一つになってからこそ夫を必要とし、妻を必要とするのです。自分の心と体が一つにならないで必要としますか? 心を外において歩く人を、人は好みますか?心が外の所にいて。二心をもって、一つは体的心と、もう一つは心的心です。三つの心をもっているということは言わないでしょう? そういう言葉を聞いたことがありますか? あなたは三つの心をもった男です。あなたは三つの心をもった女です。そういうことを聞いたことがありますか? よく言われるように、あなたは一つの心をもった男です。一つの心をもった男なら偉大な男です。その反面、二つの心をもった男ですと言うとき、それは何をいうのでしょうか。二つの心をもっているから、一つになっていないのです。

 愛は一つになった所を通して、心と体が一つになった所において理想を論ずるのです。二つに分かれた所においては理想はありません。神も同様です。神も心と体が一つになった所において、愛の完成的人格、一つの主体性をもつことができるのです。その主体を中心とした、その愛の人格の神と一つになるためには、皆さんもそれに似なければなりません。心と体が一つとなって、その法度における垂直的神は、九〇度の水平線において男性と女性が合って、授け受ることができなければなりません。そのような何かがなければなりません。そうでないでしょうか?

 そのような何か、この莫大な宇宙も必ずそのような作用、すなわちある何かが合わさり核となって、このすべての惑星があります。それで太陽を中心として、太陽自体が自転して、地球をはじめ他に八つの惑星が回って、太陽系という一つの球形を造っているのです。このように心と体が一つになった所において、神が愛したいのはだれでしょうか。最も似ている人。男性と女性が似ていますか? 似ているというのです。男性は見下ろそうとするし、女性は見上げようとするのです。見上げるにおいて、男性か見下ろす時、女性の体を見下ろしているのではなく、女性の人格を見下ろしているのです。女性は、男性ホルモン、女性ホルモンの二つの性稟(せいひん)をもっているのです。相対的関係を、お互いがもっているのです。男性も同じです。女性ホルモンをもっているので、女性的な何かを見つめながら、内的な面において、あるいは外的な面において、自分の気に入る何かがあって相対となるのです。相対的でなければ合わさらないのです。反発するのです。それで、夫婦が生活しているのを見ると、大きな男性が大きな女性と生活することはありません。そうでないでしょうか。西洋に行ってみても、たまにいるにしてもそれは計算の誤差からのものであって、自然法則の計数からすると、平均的な結論は、大きな男性は小さな女性と一緒になるようになっているのです。相対的関係です。

 太っている男性にはやせた女性。皆さんもこれから嫁をもらうとか、娘婿がどうかと写真で見合いするとき、太った男性が娘婿として来たのに、娘はより太っているときは、会いもしないで写真を返しなさい。(笑い)お互いが出会つた日から喧嘩が始まります。二人のデブが喧嘩するなら、リズムが合わないのです。(笑い)

 神も意地悪な所があって、時々喧嘩するのを見たいのかもしれません。しかし、二人のデブがつかみ合って、転がり合うことを、どのようにして見るでしょうか。(笑い)同情する所がありません。早く喧嘩しなさい。だれが負けるか見ようというのです。しかし大きな者と小さな者とが喧嘩して、小さな者が下敷きになるのを見るとき、デブの下にやせっぽちの女が下敷きになるとき、神が見れば悲痛に思って「この者!」と、同情することのできる情緒的な誘発点があるのであって、デブ同士がやると、「この者たち! やるだけやってみなさい」と言うのです。(笑い)ですから、喧嘩することが悪いのではありません。喧嘩も正しくやれば発展するのです。

 大韓民国は、「北韓が南侵する」と宣伝しながら発展しようとするのです。闘いながら宣伝すれば、どれほど発展するでしょうか。そうでないでしょうか? バンバンと銃の音を聞きながら、あの人たちはすべて悪党なのに、善が悪に負けておられようか、そのように激励すればどれほど発展するでしょうか。闘いが悪いのではありません。韓国が分断されたことがこのような観点から見れば、理解できます。見合いをするにしても、何十年も味わってから見合いをするのです。すべてが分かってくるのです。北韓のどのような所が善いか悪いかが分かり、北韓は南韓の善い悪いをすべて、きれいに知っているのです。(三十八度線で)あなたのもの、私のものを比較してみると、私のものに善いものが多いので、私は南韓に行かなければならない。

 音楽においても、オーケストラをやるとき、このごろは破壊音というものがあって、石で石を打つ音、それがどんなに気持ちの悪いことでしょうか。しかしそれは必要なのです。石と石で打って、一番聞きにくい音も聞いてみなければならないのです。なぜかといえば、深い谷の、どれほどの深さかといえば、小さな石ころが一つしか入らない深い谷間の石と、高い山の、鳥一匹もとまることのできない頂上のとがった石と、これが相対となるのです。それらを中心として回ると思うとき、調和の幅が広がるのです。ですから破壊音だからといって悪いのではありません。相対的関係においては、大変素晴らしくなるのです。

 雷が鳴る前に、ドカンという音をたてれば、その音に雷の音が忘れられるのです。それを知っていますか? 天地が騒ぐ前に、ドカンという音に全神経が振動します。振動したその振幅が終わらないで雷を聞くとき、ストップすれば絶対動かないのです。それが正常点に来て、ストップをし、また動くようになるから聞こえるのです。その時は、破壊音が走る車にブレーキをかけるのです。そのブレーキが悪いのではありません。いくら車が良くても、ブレーキが悪ければ零点です。

 これらすべてにおいての、善い悪いという言葉は何を中心としてあるのでしょうか。一つの核とか、中央点を置いて言うのです。

 あなた気持ちが良いでしょう? (良いです)。何を中心として気持ちが良いのですか? 漠然としていますね。なぜ気持ちが良いか。それは情緒的な核を中心として、そのように感じるのです。このように考える時、神も、愛の情緒を感じることのできない立場にいるとき、孤独なる神なのです。いくら偉大な神であるとしても、猫の子一匹を胸に抱き、「私は本当によく造ったのだ。耳をこのように造った時は、本当に気持ちが良かった。この足のつめも、ねずみをよく取れるように考えながら、このように造ってあげたのだ。はは―」。気持ちが良いのです。すべてがそうです。良いというのは、情緒的な動機を中心としてすべてが関係を結んでいるという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 今まで、神において愛せる相対が何であったでしょうか。被造物の中では、私たち人類の先祖しかいません。神様自身が、自分と全く同じ神を造ることはできません。神は全知全能ですから、神と同じような神をもう一人造っておくでしょう。それも可能であると思いますが、神がそのようにしたならどうなるでしょうか? 全く同じ二人、神が御飯を食べようと手を上げると、同じように上げ、また、立ち上がる時は同じく立ち上がり、付いて歩きながら、座れば一緒に座るし、億千万年同じように行動したなら耐えられないのです。(笑い)考えてみなさい。どれほど辟易(へきえき)する話でしょうか。一日もたたないうちに気がおかしくなるでしょう。言葉はどうでしょうか。三日間も続くでしょうか。ジージージーと言って、同じくジージージーと言ったなら、死にそうになるでしょう。すべて相対的でなければなりません。高くなっていては、いつまでも高くいられません。降りてくることによってのみ、所有権、面積ができるのです。分かりますか? ですから、直線的に行って、帰ってくることができないものよりは、くねくねしたほうがましだというのです。

 このように見る時、神は寂しい神であるというのです。人間はどうかといえば、いくら男性と女性が会ったとしても、神を中心として、本来の愛の根に因縁を結ぶことができなかったのです。根をもつことができなかった草を、浮草というでしょう。そのようなものは、どこに置いても安心することができないのです。いつも不安なのです。いくら浮草が土に根を張ったとしても、台風が吹いたりすると、また元の所に戻ってくるのです。一カ所だけに行けば根は傾いてしまうのです。ですから回るようになるのです。風も東の風、西の風、南の風、北の風のように吹くかといえば、人間はそれをみだりに考えてはならないのです。自然のすべてのものが、東の風が吹いたなら、西の風が吹くことによって、まっすぐになってくるのです。東の風が数日間吹き続いたなら、根は倒れないように東のほうに傾くのです。これをそのままにしておけば、木の根はこのように育つのです。そういう時には、西の風が吹かなければならないのです。西の風が吹けば、元の根の所に戻ります。南の風が吹けば北の風が吹く、これらすべては調和をつくるためです。一つの中心点を立てるために、風も吹いたりするのです。そうでないでしょうか? 高気圧になれば低気圧になるなと言ってもなるのです。分かりますか? 女性が成熟してくると、男性を訪ねていくなと言っても目をつぶってでも訪ねていくのです。気持ちが悪いですか? 早朝からこういう話をするから気持ちが悪いでしょう。気持ちが悪かったら死んでもいいですよ。(笑い)男性も同じです。

 いっぱいに満ちれば、下るようになります。金持ちが、もっと金持ちになろうとするなら、例えば世界の金持ちになるためには、世界に物資を補給してあげ、世界の金持ちになろうとするのなら、それは自然の理法にかなうことです。自分は大韓民国においてこれくらいの金持ちになったので、世界の金持ちになるときに、自分を中心として自分の一族を中心として世界の金持ちになりたいと思うなら、遠からず欲につぶされ、死んでしまいます。

 このごろ、大韓民国でいろいろ言われている統一教の文某(なにがし)という人は、富者と言われています。富者と言って、父と子をいうのではありません(注:韓国語では富者と父子と発音が同じ)。先生は富者だと言われますが財布の中にはお金がないのです。自分のためには先生はケチです。お母様の誕生日には、「これから歴史的な時代が来る」と言いながら、誕生日の前日にプレゼントも考えていないのです。(笑い)プレゼント一つも考えないのです。寂しく思うでしょう。しかし先生の考えはこうです。プレゼントがいくら良くても、手段方法において偽りの心からプレゼントを送るよりは、「プレゼントをあげることができなくてごめんなさい」と真心から言う一言が、こぶしほどのダイヤモンドよりも重要なのです。愛の心をもって言いましょう。分かりますか? プレゼントを上げて、それで何をしますか? 誕生日になれば、深い愛の心をもって、「一歳年を取りましたね。あの世に行く準備が忙しいですね。愛で神の前に孝道を尽くす家庭となろう」と言うのを神が御覧になる時と、自分たち同士がプレゼントを与え、受けて喜ぶのを神が見るのとでは、後者に対しては猜疑(さいぎ)するでしょうし、“この者たち、私に最初にあいさつをしないで何をしているのだ”というように考えが違うのです。貴いものが生じたら全部集めておいて、他の人に与えようと考えるのです。それを先生の子女に使おうとは思わないのです。

 ある時は、十年前になくした物が突然出てくる時があります。十年前に使えばよかったもので、それ以後には使えない物もあります。十年前にこれを使えばよかったのに、このようになってしまった。しかし後悔しないのです。自分よりも全体のために、世界の人のために与えたい心情に、神までがほれれば、天地のすべての物は先生のあとに、付いてくるなと言って蹴っても、後ろの物を蹴れば前に来て付くのです。(笑い)そうすれば、より大きなものが付くようになるのです。そのようにして占領するのです。蹴とばせば、さっと遠くになりますが、ゴムひものように(戻ってきて)、そうなってからは、それはすべて私の領土となるのです。そういうことを考えると、気持ちがいいですか、悪いですか? (いいです)。ですから先生は、悪口を言われても気持ち良く生活をしているのです。(拍手)

 なぜこのような話をするのでしょうか。きょうの題目は何ですか? 「昨日と今日」です。きのう生きていた私が、きょうも生きているのです。神は、レバレンド・ムーンに出会ってから、レバレンド・ムーンを中心として、神にもきのうときょうがあるのです。そか分かりますか? 皆さんもそうでしょう。結婚して夫婦が生じたとき、その結婚した夫婦を中心として、きのうときょうがあるのです。同じです。先生に出会った神は、神を中心としてきのうときょうがあるでしょう。同じです。また、結婚した夫婦においても、出会うその時からきのうときょうがありますが、夫は同じ一人の人なので、きのうときょうが連結されるのです。

 それでは、きのうよりもきょうが劣っていいでしょうか? それが問題です。また、統一教会を中心として、皆さんにきのうときょうがあるでしょう。統一教会に入る時の皆さんがいるでしょう。昔入る時、三十年から四十年前に、彼らは道もなく出発しました。きょうという統一教会の舞台を中心として皆さんは、現在の立場において、必ず歴史的過去を残してきたのです。統一教会という、その鏡に写してみてください。きのうの私はこのようであったが、きょうの私はこうであるというようになります。

 では、統一教会に神がいて御覧になる時、だれを見つめているのでしょうか。自分を見ているのです。同じです。大韓民国を中心として私が見る時、大韓民国のきのうときょうの歴史を書いていくのです。大韓民国という伝統と文化の背景と思想的流れをもった大韓民国の一人の人として、自分が生まれ、その国と共に関係を結ぶことにおいて、きのうときょうが違うのです。では、きのうは良かったのですが、きょうが悪かったなら、幸福ですか? きのうは悪かったのに、きょうが良かったなら、幸福がより大きいのです。より大きな幸福、より良くなれる幸福。

 そのよう意味から、文某に会った神はどうでしょうか。先生は六十六歳、一昨日が誕生日だったでしょう? 一九二〇年代、韓国の情勢が悲惨な時でした。先生の六十六年間というのは、有史以来、大転換の時代でありました。患難の時代に生まれて、患難の時代を生きているのです。そうでないでしょうか? 国から見れば、患難の時代です。日本に隷属された患難の時代です。その時、一九二〇年には、己未年の万歳事件のあとであり、三年間か七年間は凶年の時でした。それで先生が母親の胎内にいる時には松の木の皮を削って食べた、という話も聞きました。 じっと見ると、神が文先生を愛していたようですが、生まれる時に、それほどまでに歴史的に追い込み、追い込んで最も患難の谷間に立たせ、また、先生が生まれる時には、先生の一族が、いとこ、七親等までが蕩減を受けるのです。先生は蕩減法を知っているのでそれらのことを理解しますが、知らないで理解すると言えば、それは偽りです。事が始まると一回りしながら、良きものをすべて打って越えていくのです。それで、私の一族においては、先生一人のためにめちゃめちゃになったのです。そして先生が十五歳になるまで常に、患難が家族につきまとうのでした。このように追い込み、あのように追い込み、追い込んでくるのです。皆さんも経験があるでしょう。小牛の頭を煮る時、半煮えにしたら大変なことになります。一気に煮なければなりません。途中で風に当たれば、いくら火を燃しても煮えないのです。それと同じように、蕩減の歴史も底まで周辺をきれいに洗い流して、このように蕩減するのです。どうしてそれほどまでだったのか、考えるでしょう? 蕩減法が文氏の一族に訪れてきたからです。それは歴史的な蕩減です。

 そのように谷間から始まって、先生の一生が、またそうです。先生が行く所、行く所に問題が生じます。このごろ大韓民国の機関にいる人が、「文某が来ると言えば、問題が生ずるだろう」と言います。いつも問題を起こしているのです。目を全部このようにします。「あの人が現れれば平安な日がない」。先生がある村に入っていけば、その村に大騒動が起こります。馬が死んだり、犬が死んだり、わしが飛んできて鶏を何匹かつかんでいったり、このようにして何度も追い出されたことがあります。不思議な、見慣れない人が村に入ってきたので、妖邪な人であると言って追い出すのです。個人的にもそうだったのです。ですから先生が家の中にこもっていたら、家が平安でなかったのです。外に出て歩けば平安なのです。それで幼い時は、外に出ていたのです。二十四時間、外に出ていたのです。(笑い)その時は疲れも知りませんでした。それが役事なのか知りませんが、そして不思議なことに、悪神たちがどれほど発動していたことか。皆さん、それは偽りの話ではありませんよ。先生は自ら見たのです。お化け遊びという言葉を聞いたことがあるでしょう。

 先生のお母様はよく働く方でした。子供がたくさんいたので、結婚させるためによく働かれました。木綿を知っていますか? 木綿を織るためには綿花から糸車に掛けて糸を出して、二十の縒(よ)りが一単位となって、二四〇縒りで編めば木綿の織物ができてきます。結婚する前の結納として、高貴な木綿の織物を何反もってきたかによって、その家柄か評価されるのです。食べて生き、次には着る物が重要です。自給自足においては、ですからその時代は、女性たちが綿花から糸を作って、織物で編まなければならなかったのです。そういう面において、先生のお母様はチャンピオンでした。力も強いし。先生はお母様に似たのです。一日に二四〇縒りのものを二十尺編んでも余りあるのです。普通の女性は三、四尺しか編めないのに、二十尺以上も編めるのです。本当に忙しい時、例えば先生の姉が結婚する時には、一日に一反を編んだのです。忙しいから、ゆっくりやってはいられないのです。一気にやってしまうのです。先生もその性格に似て、一気によくやります。(笑い)

 先生の家に行けば大きな栗の木があります。恐らく二〇〇年ぐらいたった栗の木でしょう。先生が猿年だからよく登っていたのです。栗の実がなっていると、その枝に乗って曲がって土につくことまで考えておくのです。小さな枝を一つ持ってたたけば実が落ちるのです。本当におもしろいのです。熟して開いている栗からその実だけを取って、その栗の殻は落とさないのです。栗の実だけを落とすことは本来におもしろいのです。田舎に住んだことのない人には分からないでしょう。そういうようにして数里を歩いたのです。

 アカシアの木があります。そこにはかささぎの巣があります。 大きな木には間違いなくかささぎの巣があります。かささぎは吉鳥と言われるでしょう? かささぎが鳴けば喜びの便りがあるといいますが、先生の所では、朝晩ガーガーと鳴いたのです。かささぎの巣に登っていくのです。いつも登っていくのですから、最後にはかささぎの生態がすべて分かってくるのです。このように話をすれば時間がないのですが、課外の話を聞くのもいいでしょう? (はい)。そのかささぎの巣を見ると、あ! 今年は風がどの方向に吹くだろうと分かってくるのです。東の風が吹く方向を別にして、出入りするし、穴を開けておくのです。木の枝とかを集めて巣を作ったのを見ると、本当に素晴らしいのです。それをだれが教えたのか。傑作品を作ります。木の枝などで編んでいるから、雨漏りもしたりするでしょう。最後には粘土を塗っておくのです。風が入り込まないように。そして、雨が降ると一カ所に流れるように、端をつないで巣に落ちないようにしているのです。それは何の話か分かりますか? できるだけそのようにしてあったのです。それで雨が降れば、全部流れ出て、巣の中に落ちないのです。それをだれが教えてあげたのか、その才能は驚ほどのものがあります。私たち人間も、そのような家を造ろうとすれば、数年学ばなければならないでしょう。口にくわえてきて作るのに、それほどなのです。

 そして、何日かたつと、巣の中に卵を生んだか分かるのです。そのかささぎの卵は、薄い青色で、線がついています。ぶちになっていて大変美しいのです。鶏卵の約四分の一ぐらいの大きさです。卵を一つ生んだのちに、それ以前、すなわち、卵を生んでいなかった時にはいくら登っていっても鳴かなかったのですが、卵を生んでからは大騒ぎになります。その時、先生はちょうどいたずらっぽい時期でした。それで村中のかささぎの群れが来て、示威するのです。それがおもしろかったのです。どこに飛んでいくのか、そういうところに興味があって調査してみるのです。ですから、鳥の生態についてよく分かるのです。一度登った後、一つの卵、二度登った時、二つの卵、三度登った時には三つの卵、多く生む時は十三個まで生んだのです。そのように慣れてきたら、いくら登っても被害を与えないので、登っていくと、また来たのですかとあいさつをするのです。ガーガーと。(笑い)それで登っていっても、(鳥は)何もしないのです。ただ見て、降りてくるだけですから。

 ある時は、雨が降ったりすると登っていきません。そして先生が外に出ると、どこにいて通り過ぎていくのか、ガーガーガーと信号を送るのです。なぜ来ないのですかと言わんばかりに。人が好きなのです。これはうそではありません。皆さんは趣味をもっていなかったなら、今からもとうとしても遅いです。(笑い)それがどれほどおもしろいか知れません。

 また、ひながかえったらどうなるかといえば、飛べるようになる前に、巣を作ってひなを全部閉じ込めておいて、えさをくわえてきて食べさせたりします。それを見ると、鳥がひなを愛するその愛から、私たち人間は、自分の子供を愛することにおいてたくさん学ぶ点があります。飛ぶことができるように十分育っているにもかかわらず、巣の中から出さないで、ずっとえさをくわえてきて、食べさせるのです。

 このようにして先生は、一匹ずつ出してあげるのです。「きょうお前に一番いい所に行かせてあげる」と言って、尾にゴムひもをつけて飛ばしてあげると、とっても喜ぶのですスィスィと飛んでいこうとしたら、いつの間にか親鳥が来て、連れていこうとするのです。ある程度まで飛んでいくのですが、尾にゴムひもがついているので、どうすることもできません。(笑い)こういうことを何度かやると、かわいそうになって放してあげるのです。その飛んでいく小鳥を親鳥が案内して、遠くの森へと飛んでいくのです。大きな木の上に止まらせて、もう一匹。数匹がいるので同じようにするのです。その鳥の世界にも、すべてそのような愛の情緒を中心として動いているという事実を知るようになります。もし雄鳥、雌鳥がそのひなを失った、我が子を失った親の心情は、人間世界の父母の心情と同じなのです。かえって今日においては、人間の世界が恥ずかしくなるほどになってきているのです。このようなことを見るとき、すべての情緒的な起源は、どこから始まったのでしょうか? それはどこから出てきたのでしょうか? ひなというひなを愛することを知っています。人間たち、私たちが教えてあげたのでしょうか。なぜそうなのでしょうか。愛さないで闘って、食べてしまわないで。小鳥を愛するその愛は、人間と比較にならないほど大きいものです。

 雄と雌が、時になると神秘なことに、どちらが発動するかといえば、雌が先に発動します。目がひっくり返ったり、口ばしがはれたり、あらゆる部分がはれてくるのです。それで声さえ聞けば、それが雄か雌かすぐ分かるようになります。人は知らないけれども、牛の場合も咽の牛がモーと鳴けば、すぐに分かるのです。どこかでその声を聞けば、そちらに向かって突進していくのです。

 そういう意味で、女性一人で生きることは不幸ですね。そのように、すべてが調和をなして生きるようになっているのです。初めて出会う雄に対して、自分の祖父に会った以上に、この世においてだれよりも貴い客に会う以上に、最も近い、初めて出会った雄が、何がそれほどうれしいのですか。口をつけたり(しぐさで示される)、このような公席でワンマンショーをして、すみません。(笑い)しかし、それが事実であるから仕方がないのです。それを、だれがそのように近くしなさいと教えてあげたのですか? その時には自分の母親も考えません。自分の父親や祖父など、すべて捨てて、一人で行ってそうしているのです。それらがすべて、自然理法です。すべてが時に従って、大きくなったり小さくなったりして、宇宙の理法にリズムを合わせなければ存在することができません。

 それと同じように、神様も他に道理がありません。家にいる威厳のある老いたおじいさでは他に道理がありません。おばあさんの前では、「あなた私を手伝ってください」とか言ったり、あまえたりするのです。そうでないですか? 本家のおじいさんは勢力が強いようですけれども、おばあさんに対してはそうでもありません。あなたと私という、同じリズムに合わせるのです。そうでないですか? 貴く立派であるということも、すべて愛を中心として回るようになっているのです。先生も立派でしょう? 有名でしょう? 先生が立派ですか? (はい)。何が立派ですか? 目が立派ですか? 目は皆さんの目よりも小さいです。何が立派ですか? 天地のすべての情緒的な世界がリズムを合わせるにおいて、だれよりも幅が広く、深く、高いでしょう。これが違うのです。ですから神の事情を知り、歴史の事情を知り、人間世界のすべての事情に通じ、未来の人間の事情がこうであることを予想し、それを描いていく、そういう面が違うのです。他に違う所がないというのです。

 学問があるとして、それを誇ってはいけないし、金がたくさんあるといって、それを誇るよりは、その人の心の中に潜んでいる情緒的な人格がどれほど深いかということが問題になるのです。そういう方を夫にしたいという、女性という女性はすべて、老いも若きも、それを訪ねて行っているのです。また、男性も同じなのです。いくら大きく、いくら立派であるとしても、醜いおばあさんがいるとしても、情緒的な土台の絆を結ぶ因縁によって、好きになるのです。すべてがそうなっているでしょう。そうでないでしょうか?

 それは、だれに似ているのでしょうか。神に似ているのです。神は根です。目に見えない根なのです。人間は、幹のような先祖を通して枝のように、葉のようになっているのです。そして、葉の中に幹もあり、枝もあり、根もあるのです。植物の細胞繁殖の時と同じ条件を備えて、細胞一つを葉の管のような所に植えておけば、育つのです。このごろそうでしょう? そして細胞一つの中に、このような花が出てくるのです。種がそのようになっているのです。細胞の中に幹もあり、根もあり、そこからすべてが出てくるのです。

 それを考える時、私たち人間自体は、だれに似たのでしょうか? 祖先に似ているのです。種の祖先がだれなのかという時、私たちは原因的な存在ではなく、結果的な存在です。第二の存在なのです。第一の存在ではありません。絶対的な存在ではありません。相対的な存在なのです。ある根源から生じた結果的な存在なのです。根源自体が根となって、私たちは連結された関係の結実体として生まれたことは間違いないので、私自身にそのような原因的根と通ずることのできる素質があるのです。それはどうしてかといえば、私たち人間はだれに似ているかといえば、先ほど細胞がその種に似ているといったように、同じく私たちは神に似たのです。分かりますか? (はい)。

 では、神の母親がいるでしょうか? いないでしょうか? 神様に、母親まで実体があったなら創造が必要なかったのです。神は男性格主体であられます。統一教会の先生がそういうことを知って結論づけたことが何であるかといえば、「二性性相の主体であられる神である。主体として現れる主体格、父格存在である。主体格であり、父格であります」。ですから母格的存在が必要なので、それを創造し始めたのです。このように考えることができます。

 それでは、アダムは何でしょうか。神が無形の神としては、この宇宙を相対的な刺激を感ずることができないのです。心だけでは、心がいくらやったとしても、無形が自分の形であるから感動がありません。同じものであって回るから、刺激が表れないのです。熱い湯と冷たい水が爆発されるでしょう? 刺激が必要なのです。ですから、相対的距離をおいて刺激的、衝動的なものを必要とするので、必ず神のマイナス的相対を造るのに、神の性稟が二つありますが、プラス性稟的な相対形がアダムであり、マイナス的相対形がエバです。そのように造って、神はどこに入っていようとしたかといえば、アダムの中に入って、エバと一つになろうとしたのです。

 では、エバはだれでしょうか。内的には神の夫人であり、外的にはアダムの夫人です。女性が偉くなりましたね。神は何を造ったのでしょうか。自分自身を実体化し、実体化した自分自身の夫人を実体化して造ったのが私たち人類の始祖、祖先なのです。

 それで、皆さんが神霊なり世界に入れば、神を実感できます。「神様!」と言えば、どこで答えるかといえば、自分の心の中から、「何だ!」と答えるのです。そういう体験をしたことがありますか? その境地に至っていないからですけれども。それで心に尋ねれば、すべて答えが出ます。それで霊通するとか、観相とかと、占う人がいるでしょう? 低級な霊が、その人たちの心の中で教えてくれるのですが、どんどん落ちていくのです。本然の本性を中心として神が関係されれば、作用すればするほど昇華するのです。高まっていくのです。しかし、堕落することによって下っていく人間となってしまったのです。

 それではアダムはだれでしょうか。アダムは絶対的創造主の体でありました。体を造ったのです。無形の神では、実体の刺激の世界に対することができません。人間自体が無形になっていたなら対することができますか? (できません)。ですから、神自身が心に入ってきて、アダムが成熟することを願っていたし、神自身がエバの心に入って成熟することを願っていましたが、成熟することを願っていたその時に堕落したのです。堕落していなかったなら、私たちは神の直系の血統を受け継ぐことのできる子女となったのです。そうなれば神が根となり、神は何の根かといえば、神は愛の根です。堕落したので、今日の人類歴史において、神の愛の根を生ずることができなかったのです。これを知らなかったのです。言葉は簡単ですけれども。それで神霊の境地に入って祈祷すれば、宇宙の根本は何かというと答えは簡単です。父子の関係です。

 父子の関係とは何ですか?  それに対しての解説をしなければなりません。解いて合わせなければなりません。今まで数多くの霊通者たちは、そのような世界が分からなかったのです。有史以来初めて、先生が来て体系化し、すべてを明らかにしたのです。現時代と共に、これからの未来の世界との関係をすべて解いて、病気になってしまった糸の、絡み合って、二つの端が勝手に動いているこれらを解かなければなりません。解くには二つの道がなく、たった一つの道しかありません。絶対に一つの道しかありません。絶対の一つの道を解かなければ、人間が犯したすべての歴史的な罪状を解いて元に帰らなければ、神の愛の位置に戻っていくことができません。本然の愛の位置に戻ることができません。本郷に行くことができないのです。分かりますか?

 それでは、統一教会とは何でしょうか。それは、神を中心として人間が教えを受けている集まりなのです。その教えの中から、何が最高の柱となる教えですか? 神と人間とを中心として関係されている最高の基準は愛です。愛に留まるのです。それが柱となって、そこにすべてがつなかるのです。それを教えてあげる教会です。その教会は、万国が必要とする教会であり、万民が必要とする教会です。その教会を中心としなければ、理想的生活圏が出てこないのです。なぜなら、根のない枝があり得ず、根のない葉があり得ないのですから人間が枝のようであり、葉のようであるなら、その本来の根を、正常なる立場において備えている枝と葉になることによって、理想的な生涯をもつことができるのです。

 しかし、今日の人間たちは、神の立場から見れば逆につながっているのです。木は反対にこのように、それが天地の理法なのです。神を中心として人間は、逆に生まれて世界へ延びてきたのです。アダム・エバの幹を中心として、縦なる根と、縦的な芽があるのです。縦的な根と縦的な芽は横に行くべきでしょうか。垂直に行くべきでしょうか。神を中心として、垂直に延びた芽となって、ここに枝のように人間が生ずるようになったのです。そして、四十億人類の葉が、ここについているのです。それが全部逆についているのです。私たちは地球星に逆についているでしょう? 地球は一日一回回るのに、半分は上に上がるし、半分は逆に立っていることを知っています。宇宙の空間に逆に立っているのです。それは引力が引っ張ってあげているからです。それと同じように、神を根として、見えない根を中心として、幹を通して生まれるのです。生まれるのに、この木がどのようになっているかといえば、全部闘っているのです。その根がどのようになったでしょうか。その闘いの影響を、根が受けるでしょうか、受けないでしょうか? 受けるでしょう。それでは神が平安であるでしょうか。苦痛でしょうか。

 根に通ずる津液は、いかなる枝にも行かなければなりません。根から通ずる津液というものは、西洋の白人世界にのみ行きなさい、東洋の黄色人世界、黒人の世界には行くな! あちらの陰になっている世界は黒人の世界であるから、あちらには行くな! ここの太陽が照っている陽地の世界、白人世界にのみ来なさい。そういうことが通じますか? 通じません。問題が生じます。必ず陽地の栄養素を受けて、そこに補充された栄養素は、根を通して、欠如された最も悪い病気になり苦痛を受けている所に全部供給してあげるのです。そうでないでしょうか? ここに何か出来物ができて傷になれば、その痛い所に栄養素を補給し、白血球がきて闘ってくれるでしょう? ここに供給するようになっているのです。それが天地の理法です。

 それでは、白人社会で豊かに生活している人は、黒人社会の貧しい人が豊かになれるように、正常にするために供給してあげなければなりません。しかし、授受作用がうまくなですから世界は騒がしい破綻が生じ、悲惨な出来事が継続されて進んでいるのです。

 では、神とレバレンド・ムーンが出会ったその時から今まで、先生の生活はどのような生活だったでしょうか。幸福な生活だったでしょうか。悲惨な生活だったでしょうか。神が喜ぶ生活だったでしょうか。神が嫌いな生活だったでしょうか。(神が喜ぶ生活でした)。なぜ喜ぶのですか? なぜ? 病気の患者が死にそうになっていて、夜を徹して手術することになったとき、病院の主人が見ていて、「夜を徹して手術をする者がどこにいるか」と言うでしょうか? あるいは、その患者を治すために、いく夜でも徹して手術をし、その患者を治したという時には、どちらの味方になるでしょうか? (主人は)夜を徹しながらよくやったと言うでしょう。レバレンド・ムーンが一生を懸けて、この摂理のみ旨に対してきたのは、それと同じなのです。医者と同じなのです。手術台で、メスを手に取って手術をする医者と同じです。

 そして、その一つ一つを手術するにおいては責任が与えられるのです。責任を果たせなかったなら、問題は違ってきます。その人を生かすために(その生命を)自分の生命以上に尊重し、自分の生命を犠牲にしても回復しようというそのような公的な責任をもってこそ、天宙の前に、医者としての公証を受けることができるのであって、自分のことで疲れたといって途中でやめれば破綻を来たすようになります。

 そのような生活を継続していくとすれば、自体においては不幸なのです。どれほど疲れるでしょうか。疲れますが、その人が作っておいた環境は、喜びの環境となります。自分を中心として喜び得る環境を、多くの人々のために作っておいたのです。では多くの人々はどのようにすればいいかといえば、先生と同じ立場で報いなければならないのです。それで、恩恵に報いなさいと言うでしょう。恵みに報答しなければなりません。人は、受けることのみを喜ばないで、与えることも喜びます。悪なる人は、受けることをより喜び、与えることを嫌がります。それが悪なる人です。このように分かれるのです。では、善なる人とはどんな人か。受けることよりも与えることをより喜びます。

 与えるとどのようになりますか? 空気でいえば低気圧になります。与えることがなぜ良いか。善なる子供に、「我慢しなさい」と言うとき、我慢するのです。それは、自分犠牲になるのです。悔しいことを耐えること自体が、自分に被害を受けていることです。その代わりに、何かの真を与えたのです。それでは、それが一つ与え、また与え、このようになれば、真を中心とした低気圧圏が生ずるために、神が真の主体であるとすれば、神が供給して、平衡水準まで上げてあげなければなりません。自分の位置から下りてきて平衡水準にまで上げてあげなければならないので、これを満たしてあげる時には、自分が与えられた相対と、天と地との落差が生ずるのです。宇宙はそのように作用するのです。

 滅びたい人がいますか? だれ一人としていません。大韓民国も現在危機に立ったと、きのうある重要な方が、夜十時に来て「大変なことになりました」とあいさつしながら、報告しました。その時先生は、「天宙の道理は自然の道理に従って、高くなれば低くなってあげなければならないし、低い所から高くなれば、そちらに与えなければならない、回らなければなりません。回らなければ腐敗してしまうのです。滅びるのです。上部においてそのようなことができなければ、国民であってもそういうことをして、授け受けようとしなければなりません。大韓民国の現在の主権が問題ではありません。だれだれが問題でなく、主権自体よりも、アジアにおいて、アジアの運勢と、主権者と共にあった運勢が離れるようになれば、その国民はアジアの運勢を取らなければなりません」と言いました。それを知らないでいるのです。統一教会は、このことをやっています。

 アジアの運勢よりも世界的な運勢をつかんで、つかんだ民族となり、そこに固まるようになれば、主権者はついてきて生きられる道があります。主権者は、常に他人は与えなければならないという立場にいる時は、滅びます。高い所に上がってからは、低い所に与えなければなりません。これが道理です。そうすれば、すべてが発展するのです。発展する時は、直線的には発展しません。銃の玉も一直線に飛んでいくのではなく、回転しながら、低い位置を飛ぶのです。なぜなら、必ず授け受ける作用をするのです。呼吸作用と同じように。何の話か分かりますか?

 きのうときょうまで、先生を中心として見ると、一生の間悲惨な生活をしました。監獄、ダンベリーから今度出てきましたけれど、なぜダンベリーに行ったのですか? 先生のために行ったのではありません。それは、アメリカのゆえに行ったのです。アメリカのゆえです。ですから、アメリカが引っ掛かってくるのです。分かりますか? ダンベリーにったのですか? 世界を救うために行ったのです。深い穴になぜ入っていったのですか?世界的な深い穴に入っていくのです。そこに入って滅びるのではなく、世界の高気圧圏運勢を受け入れるための準備をするのです。幅をつけて、悲しみよりも希望をもって消化する立場から、世界の運勢を監獄から探し出してきても、被害を受けないで、悲しく思わない心の姿勢が必要です。先生が備えなければならないことでした。ですからいかなる鉄格子でも、先生が神のためにやる、その為にやる心は防ぐことができないし、先生が心情で授け受けて交流するその道は、だれも防ぐことができなかったのです。それは鉄格子を越えて、苦難な環境を越えて、授け受けることができるのです。そして、限界に満ちて作動する日には、既にこの水平線はアメリカを越えたので、アメリカの国民はレバレンド・ムーンを尊敬しなければならない運命に入ってしまったのです。尊敬しない時には宇宙が除去します。宇宙が打つのです。

 人間は賢く、霊物ですから、大韓民国も今度帰ってみると、生死を予感するのです。統一教会の文先生をじっと見ると、大韓民国国民は全部どちらに向くかといえば、文先生に向きます。今まで悪口を言い、最も悪い人であると思っていたのに、心はどういうわけか、顔はあちらに向いているが、足はこちらに向こうとするのです。文総裁というと、関心が高いのです。どういうわけか夜にも関心をもつし、トイレに座っている時、その時が一番の空白の時です。食事することを忘れ、勉強することを忘れ、自分が何かをやっていたすべてを、その時間だけは忘れるのです。そうでないですか? その時は排水器官、処理工場に全力を注ぐのです。力を注いだのちには空虚になります。立ち上がろうとしたら虚しいのです。その時の考えが何か?人間は考えなければなりませんよ。“あ! きょうはどのように生きよう”と、そのように心を動かすのです。同様に、そのようにじっと座っていると、うわさになっている文総裁に対して関心をもつようになり、なぜか文総裁のことを思っています。妖邪なことですよ。

 あなたたちもそうでしょう。統一教会に来たいのなら来るし、来たくなかったなら来なくてもいいのです。先生がどこか一度でも訪問したことがありますか? 既成教会の牧師のように。訪問するのを見たことがありますか? あるおばあさんが来て、「還暦の日に生が来てくだされば、自分が死ぬ時、恨みを解いて死ねますので、自分の還暦の日には必ず来てくださらなければなりません」と言うのです。その時、それらしく答えるのです。「そうするかもしれない。どうしてもそうであれば行くかもしれないが、自分勝手に行くことはできないので、神に尋ねて、『行きなさい』と言われれば、行こうと思っています」。先生はこれまで、統一教会の信者を訪問したことがありません。既成教会の信者のように、「どうか来てください」と、先生があそこに立って、「よく来ました」「よく来ました」と言われることはできません。そこが違うのです。

 どうしてそうするのですか? 人は、利益になれば、来るなと言っても来るのです。そうでないでしょうか? 市場には、だれかが集まれと言って集まるのですか。利益がそこにあるのを知っているので、“もしや”と思ってそこに集まってくるのではないでしょうか。損害を与えることをしなかったなら、来るなと言っても来るようになるのです。先生が悪口を言っても、統一教会で先生が目をつぶって、つばをまき散らしてもあなたたちは、気の狂った人だ、二度と見たくないと言って逃げ出すのでなく、押し入ってきて、ハッハッハッと笑うのです。それが他の教会と違います。むちで打たれてもいいのです。愛の心をもっていれば、すぐに忘れてしまうのです。愛をもっていれば、直ちに忘れるのです。子供たちを見てみなさい。子供をたくさん育てましたが、時には気合いを入れる時があります。大騒ぎになりますが、一日過ぎれば全部忘れてしまいます。ですから子供たちは貴いのです。自我が発達すれば、忘れないでいつでもこう(しぐさで示される)しているのです。愛のむちは忘れるのです。同じです。父母は苦労した苦痛も忘れるし、一生の間苦労してきても、子女が誤ったなら、だれも教えないのですが、また父母は苦労しようとするし、またしているのです。

 なぜこのような話をするかといえば、先生にはだれもいません。このごろになって先生には何も必要ありません。お金も私には必要ないし、権力も必要ないし、“統一教会の創始者としての私より、少しでもより頑張ってくれる人がいれば、先生は早く霊界に行けばいいな”と思っています。しかし、見回してみても、先生以上にできる人が見当たらないので心配です。神も心配され、先生も心配しています。この世の万事を、先生は苦労からめたので、この世から栄光を受け、良い生活をしながら死んでいきたくないのです。真のために苦労をしたならば、真を中心として、苦労で終わりを告げていく。有終の美ということがあるでしょう。アルパとオメガ。ここですべてを苦労で仕上げて、これから新しい世界へと、良い所から始まって良い所へと終わりを告げる世界を造るために、今までの苦労を先生において、すべて切ってしまおうと考えているのです。 ですからこのごろどのようなことを考えているかといえば、私が楽な立場で病院のベッドの上で死ぬほうがいいか。それともこのように話していて死んだほうがいいかを考えます。話をしている途中で客死することがあっても、それは男として行く道であると思います。これからは準備をしなくてはなりません。分かりますか。何の話か? それで統一教会の皆さんも文先生に付いて歩けば、そのように死ななければなりません。それができますか? (はい)。

 先生が今度来て、三月が終わって一つのプログラムを終えて、四月になれば、地方の巡回をして、昔のおばあさんたちのだれだれが残っているかを見ようと思います。昔大邱(テグ)に行けば、おばあさんたちが多かったのです。先生に反対が多くあった時で、涙を流しながら先生を訪ね歩いていました。大邱のような所では役事が多く起こりました。一カ月に十三回以上移転したので、毎日引っ越しでした。大邱の牧師たちが、「異端の魁首が来た、追い出せ」と言ったら、教会の信者たちはそれを聞いて、見慣れない人(先生)について歩くのです。自分の家にいることが分かると牧師が来て追い出すのです。そのような悲しみはいくらでもあります。大邱にいる食口たちが、先生はある日まである所におられたのに、きょう訪ねてみると、移転してしまっているのです。あらかじめ気配を感じたなら、先生はそっと移転します。先生を中心として生死をかまわずついて歩いている人たち、涙を流しながら、祈祷しながら、例えていえば、独り子に希望を託していたのに、その独り子が死んだのと同じ感じで、また、愛する夫が亡くなった時より以上なのです。ですから道を歩く時も、ぶつぶつ言いながら涙を流しながら、「神様! 私の先生はどこに行ったのでしょうか」。それほどまでに先生に会いたがっているので、神がどれほど心配で、気が気でなかったことでしょうか。神に対してそのように言うので、「それほどまでに先生に会いたいのか」「そうです。会いたいです」と言うと、「では行こう」と、神が導くのです。川の土手の側の小さなわらぶき家なのに、先生はきのうの夜来たばかりな朝に来て、「ここに先生がおられる」と言うので行ってのぞいてみると、先生がいるのです。そういう話が信じられますか? (はい)。昔、迫害の時は、そのようにして過ごしました。

 統一教会の信者を、神は愛しましたか、しませんでしたか? (愛しました)。だれのゆえにですか? 人間の世界において、男女が愛し合い、父母と子たちが愛し合う、そのような環境とは別に、これは男性であっても女性であってもそういうことは念頭にありません。出発も異なります。あの北から来た男、南で安楽に生活していた夫人たちが、先生に出会ってからは、自分の家を捨てて先生に従うといって出てくるので、先生の行く道が苦難であったでしょうか、平安であったでしょうか? 孝律(ヒヨリユル)の母親も、統一教会に狂って、子供はアメリカに送っても、ここにひざまずいて祈祷することが好きだから、子供と離れて暮らす母となったのです。それはどれほどできの悪い母でしょうか? それでも、だれもできの悪い母親だとは思わないで、子も、自分の母が悪いとは思わないのです。私の母は立派な母。その子も立派な子であると思うのです。天理の愛の計数を中心として、そのようになっているのです。愛の計数という意味が分かりますか? 計数というのは数えることのできる単位をいうのです。

 玉(オク)のおばあさんも来て座っていますね。このおばあさんの場合も、だれかが伝道して、来たのではありません。主が来られると、祈祷をして、霊界と通じてみると、主が雲に乗って来るのではなく、人として来る。「人として来られる」と、神が言うので、だれかが信じるなと言っても絶対に信じるのです。どこに来られますか? イギリスの人ですか、フランス人ですか、どこの国の人ですか? どこの国といえば、それは韓国の人である。韓国のどこですか? 平壌です。平壌のどちらですか? 来ていますか? 来ますか? 来るでしょうか、と聞くと、霊界では、そうだな! そうだな! 祈祷が足りないので祈祷しなさいと言うのです。「来た」と教えてくれるのです。どこにいますか。「景昌里のある小さな部屋に隠れておられる」と教えてくれるのです。景昌里は知っていますが、そこに隠れているというのですが、うわさにもなっていないし、探し出すすべがないのです。その時、先生が景昌里を開拓していた時です。既成教会の篤実な人は、先生の話を聞けばほれ込むようになっていたのです。おばあさんであっても、おじさんでも、おじいさんであっても、だれにでも話す才能があります。また、聞かない時には、心を試してみると、何をやっているか分かります。その時は、「この者! 以前には来ないで、今になって来て、何をやっているのか」と言うのです。一番恐ろしい人でした。今はそれができません。今は両班となって、紳士となって、冠をかぶり、礼服を着ているので、そういう行動はしませんけれど、今も、やりなさいと言えば、やれますよ。(笑い) ですから、皆さんの結婚も、双を作るのに、一分間が六十秒なのに、一分間に三十双を作ることができます。二秒に一双を作ることのできる能力をもった人です。そのようにしてあげても、「ありがとうございます」と言うようになっていて、不平を言う人は一人もいないのです。そのようにしても、先生に組み合わせてくださったものが、最も良いのです。自分たちが組んだより、優れているのです。子女を生んでも、立派な子供を生み、過ぎてみると、素晴らしいのです。

 昔の、日本のある会社が倒産して、門を閉めているのに、その中でも門を開けて、自分の上司を迎え入れたのと同じように、だから先生が逃げ出して山にこもったとしても、統一教会の信者たちもそのように迎えるようになっているのであって、先生を拒むようになっていません。先生は自信をもって話すのです。拒む者は妖邪な者で、悪魔の手先です。神を崇拝し、神の心情圏を話す先生に侍るようになっているのであって、侍らなければ行くことができないようになっています。

 韓国人であるレバレンド・ムーンは、歴史時代において初めてその特権をもった人です。初めての人に似れば、二番目の人、三番目の人、十番目の人、一〇〇番の人、三〇〇〇万、四〇〇〇万民になって、万国に愛の一つの礎石として配置するようになれば、この韓国の民はこのレバレンド・ムーンの心情を紹介するだけで、どこに行ってもお金をもうけなくても食べていけるのに、今日、反対しがちなのです。そうであるかどうか、統一教会を信じてみなさい。偉いと言う人たち、統一教会について調べてみたことがありますか? 文先生が何をしている人かを知りもしないで騒いでいるのです。いいですよ。春は訪れてくるのです。春が来れば、苦菜も芽を出します。芽を出すことを知らないのは死んだ枝てあるので、それらは全部火で燃せば燃えてしまうのです。しかし芽を出す草は、燃えたとしてもその根が燃えてしまわない限り、また芽を出します。根がなく芽が出てこないのは、燃えるしかないのです。審判の時、火で燃えてしまうということは、パチパチ音をたてながら燃えるということではありません。時代の落伍者になってしまうということです。

 ですから過ぎてみると、昔の故郷が懐かしいのです。統一教会の故郷はここではありません。先生は外国に出て、闘って帰ってきましたけれども、外国に出ていても基盤を全部整えてきたのです。先生は、神の召命を受けて、やるべきことはすべてやって錦衣還郷したのです。それで、何が思い出されるかといえば、きのうときょう、きのうに因縁を結んだ人たちが懐かしいのです。あのころのおばあさんたち。先生が一昨日、誕生祝いのおぜんに接する時、あのころのおばあさんたちが生きているなら、牛の何十匹殺して、八道江山にこのような祝いのおぜんを設けて、そのおばあさんたちを接待できたならどれほどいいだろうと思うのでした。その人たちとは何の関係がありますか? 統一教会においては通り過ぎる客でしかないのに。過去において、自分の妻子でもなく、統一教会を中心として因縁を結んだその人を、なぜ先生という人はそれほどまで考えなければならないのでしょうか。それを心の中で否定しようとしても、否定しきれないのです。否定してしまったとしても、また現在の自分を包容してしまうことを考える時、情というものには偉大なものがあります。その情は人間的な情ではないのです。ですから皆さんが、先生に会うことを願ったりしているのです。

 最近、アメリカから来る食口たちの話を聞くと、アメリカにいる食口たちは、先生が来られることを待ち望んでいるのです。先生が身近にいる時は、それほど貴いと思っていなかったのに、離れてみると世界の人々がどれほど先生に会いたがっているかという事実が分かるようになったというのです。それらすべてが教育です。いつ帰ってくられるかと騒いでいます。あなたたちは、先生が来ることを待ち望んでいましたか? (はい)。待ち望んでいて、祈祷した人は手を挙げてみてください。祈祷しなかった人のほうが多いですね。祈祷していない人は偽者ですね。

 先生のために祈祷すると涙が出るのです。孝子は父母を考える時、父母と同じ立場に立っていなかったなら涙が出るのです。父母を亡くし、姉や兄が一緒に住んでいたそのような兄弟は、姉や兄を思うと、父母を思い出して涙が出ます。自分も知らないうちに、そのようになるのです。本性がそうなのです。だれかに教わったものではありません。本性の芽が出て、四方の環境を泣かすのです。それがどれほど美しく、どれほど貴いことでしょうか。そのような認識の仕方、そのような感じ方の環境には、神までもが訪ねてくるのです。神は何を探しに来ますか? お金が欲しくて来るでしょうか? (いいえ)。統一教会の昔を考えればそのような人たちがたくさんいます。先生が苦労される時は、監獄にも訪ねてきたりしたのです。だれかが訪ねてきなさいと言うわけでもないのに、訪ねていかざるを得ないこのような歴史的事実が、パノラマフィルムのようにずっと思い出される時、先生は多くの人々の前に負債をもった人であると思ったのです。そうでないでしょうか?

 先生の生涯だけでも苦しかったのですけれど、先生一人を中心としてここまで進んでくるのに、環境の心情的因縁をもっている多くの人々が、どれほどつらい生活をしてきたのでしょうか。迫害も受け、ここにいるおばあさんたちにしても、追い出されたりして、先生に出会った時、いくつでしたか? (「四十八歳です」と玉おばあさんの声)。四十八歳であれば、まだきれいだったでしょう。その時、夫は景昌里にいて、名のある長老の夫人として子供十人と共に、洋々たる生活をしていましたが、定着基盤のないレバレンド・ムーンに出会ってからは、家が反対し、夫が反対し、子供十人が反対するその反対を乗り越えて、文先生に従ってきたのです。しかし、文先生は応対もしてくれないのです。五十歳を過ぎたおばあさんに対し、その時先生は青春の盛りだったのです。大変美男子だったのです。(笑い) おばあさんに会ってどうするのですか。来るなと言っても朝に夕に、おばあさんは時間さえあれば、あの貧しい家の門を、宮殿を訪ねていく以上の喜びをもって訪ねてきていたのでした。そうだったのですか、そうではなかったのですか? それは何の風が吹いたからでしょうか。春風が吹いたからです。どのような春風かといえば、神の国の春風です。それがどれほど強いかは、体験していない人には分かりません。絶対にかりません。統一教会には、そういうことがあります。

 先生もそういうことを知っているので、神を愛します。先生が神を愛するように、皆さんも先生をそのように愛さなければならないという公式があります。ですから本心は、平衡基準に従って上っていこうとするのです。階段を上ろうとすれば、平衡基準が一つあるでしょう。それを一つ踏んでからでなければ、次の所に上がれません。そうしなければ滑ってしまうのです。平衡基準を作っておいて、次の所に上がっていけるのです。このようにして平衡基準が連結されるのです。そうしなくては発展することができません。では、なぜそうしなければならなかったかといえば、統一教会の一人一人が動くことは、その一人一人が使命を代表しているからです。万民が行ける共同的な責任のもので、彼らがあらかじめ先頭に立っていくべきであって、その行く形は大きくとも小さくとも同じです。

 ですから、苦難の時、先生が鉄の鎖につながれて、興南(フンナム)の監獄に入る時、平壌(ピヨンヤン)に残った食口たちを中心として、先生を見送った姿が忘れられないのです。先生は涙を流さなかったのですが、彼らは全員涙を流したのです。自分の子供が死んだわけでもなく、夫が離れていくのでもないのに、涙が流れるのを見るとき、どれほど悲痛なことだったでしょうか。先生はそういうことを考えます。神の道を訪ねていく者にとっては、それは不幸な道ではないのです。先生がいくら鉄格子の中で苦難を受けようとも、訪ねてくれるその人々は全部、自分の血族を越え、氏族愛を越え、天上の心情圏を地上の監獄にまで連結させるのです。恥をかまわず、苦難を乗り越えて行動する事実は驚くべきものです。そのような事実が、統一教会には多いのです。皆さん自身はそれを知らないかもしれませんが、先生一人を中心としてはどれほど多いことでしょうか。

 伝道に行って、食べ物がない時には御飯も運んで食べさせました。神は人を使って御飯もたくさん運んで食べさせたのです。そういう体験をみんなもっているでしょう。行くには列車に乗らなければならず、停留場に行って切符なしで無料で乗ろうとして、涙を流したのです。天を訪ねていく道は、これほど途方もない歩みをしなければならなかったのです。昔預言者たちが歩んだ道に従い、イエス様が十字架の道を行ったのを共に歩むのです。その心情をもって、涙で、ある駅を訪ねていくと、ある人が切符を買って待っているのです。その人は、きのう夢の中で、「この切符を買って待っていればお客がいるはずでありその方は、このような方である。それで切符を差し上げれば、あなたは禍いを受けることなく、恵みを受けるであろう」と言われたと言うのです。そのような場に突然、人に切符を買わせ、乗り物に乗っていくその時、それは何に比較できましょうか。自分が死刑台に死んでいくとしても、その時の価値がどれほど貴いものでしょうか。既に私という人間は、焦点に立っているのです。立体の神を通して、距離を超越した立場において、一人の人間によって、この焦点に心情圏を結んだという、その驚くべき事実があります。そういうことをだれが知っているでしょうか。それは経験したことのない人には知り得ません。だからといって、それをだれが信じてくれますか。全部反対していた時だったのです。

 その当時、先生が監獄にいた時は、すべての黒い雲、雷と、にわか雨が直ちに降りそうな黒雲のように、みんなが集まって、台風圏内に先生を吹きつけようとしたのです。霊的にそうでした。そのような闘いをするのです。方向を誤ったらいけないのです。方向を正しめて、これを打ち倒さなければなりません。そのような闘いをしている先生を、神が御覧になった時、どれほど心配で気が気でなかったでしょうか。それに同情して、一人二人を集めてあげなければならないという神の心情があることを知っていたので、先生は今まで生きてこれたのです。そのような過去において、忘れることのできない神との心情的因縁があります。人間をどれほど愛し、御自分のみ旨のために公的に生きようとする、そのような人をどれほど愛しているのか分かりません。この世の父母には、一生を中心として七十から八十年の生涯を通してしか侍ることができないのに、時を知ったその日から、永遠に侍ることのできる父母をもったという驚くべき事実。このような心情圏において、先生は一生を歩んでいるという事実。それで、夕陽が暮れて夜が訪れても、その夜が来ることの恐ろしさより、訪れてくる新しい愛の礼物をもって神が訪ねてくださる事実を知る時、峠を行き来しながら過ごした忘れることのできない心情の内容が、統一教会の皆さんが知ることのできなかった内容が、その背後にあるということを知らなければなりません。

 個人において、世界的峠がありました。歴史的な個人としての人生の道において、全部落伍者になり、敗北者の悲しみを残していった嘆息圏があります。この世界の歴史路程を、たった一人レバレンド・ムーンだけは、このような嘆息の所から希望のあすの段階に向かって飛躍しようと、身もだえしてきたのです。その所々に神が常に共にいてくださって、守ってくださった事実があったのです。父母を忘れたとしても、それは忘れることができません。自分の妻子を忘れたとしても、それは忘れることができません。自分のもっている全財産をなくしたとしても、それは忘れることができません。そのような貴い心情的歴史をもっている事実があります。昔の事実であるけれども、きょうと距離をもっていないのです。きょうと分けることのできないその時の心情は、きょうの心情に一〇〇パーセント化できる同じ力で、作用することができるのです。そのような能力が、そこには介在されているこの事実があるのです。それで、皆さんが先生に対して一言言うなら、痛哭する先生です。それは何の話か分かりますか? 一言言われても、先生は痛哭するその心情をもっているのです。神も同じなのです。ですから神の心を、私はよく知っている人です。一言言えば、神が痛哭する心情圏を知っている人です。私もやはりそうなのです。それはだれも知りません。ただ知っているとすれば、神のみが知っておられるのです。ですからその前において、皆さんは監獄が問題でなく、死の場が問題でなく、謙遜に平伏して、父母の愛の素晴らしさに感謝し、生涯を通じて行かなければならない道なのです。ここに抵抗したり、不平を言ったり、批判をして行く道ではありません。昔のことであっても、一〇〇〇年前のことであっても、心情を通して連結されている事実は、現在と少しの差異もありません。さらに、私たちが発展したその基準の上で見る時、その基準は昔のものが低い立場ではないのです。今日の発展した心情圏と常に同伴できる価値をもった内容です。ですから孝子の父母に対する心情圏は、この世の万民を愛する聖人の心と、対等な立場になれる特権的内容をもった心情です。孝子は地獄に行くことができません。忠臣は地獄に行くことができません。神の愛の圏内に、対等な立場に出ていけるこのような道であるという事実を知らなければなりません。

 統一教会の古くなった人たちは、そういうことをみんな感じています。ですから、死ぬ時には、先生に背反するようになっていません。自分が死ぬようになれば、先生がいる所に向かって心を静め、祈祷しながら、「私は先に行きます」とあいさつするようになっているのです。いくら苦労をしたとしても。統一教会の宣教師たちには、十年以上たちましたけれども、手紙一通出していません。そのままにしておいたのです。その中には、殺された人もいます。死に際し、遺言の手紙、自分が倒れながらの手紙、血がついた紙に書いた手紙、「私は先にまいります。どうかみ旨を成就して、私たちが願うみ旨を成して、神の前に栄光を帰すその一日を願いながら、私は先に行くことが申し訳ございません」。そういう内容の手紙でした。そのような生涯を若者に行かせた先生自身が、無責任な立場に立つことができません。それだから深刻なのです。

 先生一人によって、背反者もたくさん出ました。統一教会に入教した人たちの中で、みんな誓いを立て、神の前に誓った人たちが、多く通り過ぎたのです。出ていく時には、自分の威信を立てるために、「文某が悪いから自分は出た」とか、「統一教会が悪いから出た」と言うのです。統一教会は良い所だけど出たと言う人は、一〇〇人いても一人もいないのです。みな、先生にかみつき、統一教会にかみつき、あることないことすべて負いかぶせていったのです。先生は彼らに対して、恨みごと一つも言いません。今でも、彼らが生きる道があれば、生かしてあげようと思っているのです。ある時、道を歩いていたら、そのような人に出会うのです。その時、彼らは自分も知らずに横にそれていくのです。先生が通り過ぎたあと、背後から頭を下げ、涙ぐむ人をたくさん見ました。それはなぜでしょうか。愛し合った夫婦が離婚したとき、通り過ぎる夫に対して、怨んだり、ののしったり、嘲弄(ちょうろう)するのですが、統一教会の人だけは違うのです。先生が通り過ぎたあとで、心が我知らず自責感を感じるのです。出ていった人で、戻ってきた人も多いでしょう。心が平安ではないのです。霊界で、どんどん教えるのです。そのような事情、先生の一身にはそのような内容がたくさんあります。一番苦しい時、お金が必要でしょう? 麦の御飯も食べられなかった時がありました。乞食にでも麦御飯を与えるのに、統一教会では麦御飯も食べられないので、「行くな! 行くな!」と言われた時代もありました。一番最低の所から始まるのです。一歩一歩上がってくるのです。

 先生は、最近は誕生祝いをしますが、先生がこの道を出発して、三年間、誕生日には断食をしました。皆さん、それを知らなければなりません。この地上に生まれた人の中で、誕生日を祝うことができないで死んでいった人、誕生日を知らないで死んでいく人がどれほど多いでしょうか。それを考えると、先生がそういう人に同情し、霊界に行って因縁を結ぶために三年間断食をしたのです。そして、きょうは洋服を着ていますが、昔は壇上においては洋服を着て説教しなかったのです。労働者から出発するのです。それで、労働する時の服を着て、血と汗を流して、一人しかいなくとも、ありったけの精誠を尽くして、涙を流しながら説教したのであって、通りがかりの客を迎えるようにはしないのです。そのような内容があります。そのような事情が過ぎ去って、今は懐かしいのです。過ぎ去った内容がありますけれども、振り返ってみると、そのような内容を中心として結ばれる大韓民国の人、全羅道の人、慶尚道の人、江原道の人、八道江山の人々を忘れることができません。過ぎ去った人はいるとしても。

 一つ有り難いことは、先生が記憶した人が落ちていったら、その人と同じ人が南と北に、二人ないし三人いるのです。姿形も似ているし、動く動作も似ているし、声も似ている人が入ってくるのです。本当に不思議なのです。ですから神のみ旨を中心として行く、主体的心情の主体者の前には、相対圏に絶対損害が起こりません。その時入った人は程度が低いのです。今入ってくる人は全部水準が最高なのです。そういう人が、先生は言いませんが、ここに何人かいますよ。そういうことは、忘れようとしても忘れることができないのです。先生が特別にその人に接してあげていないだけであって、心の中で考える時は、昔先生の寂しさを慰めるために、神はあのような人を送ってくださったと思って感謝するのです。そういうことが多いのです。先生の現在の立場から考えると、その中には韓国の人もいますけれども、日本人もいるし、アメリカ人、ヨーロッパ人、黒人もいます。そういう人が目から流す涙は、みな同じです。皮膚の色が異なりますが、涙の色は同じです。流すようになる心情圏は同じです。それが貴いのです。

 皆さんが結婚する時、夫に初めて出会った時には、気に入る男性がなく、気に入る女性がいないのですが、初恋の因縁を結んだなら、すべてを第一番として消化することのできる、愛の偉大なる力があります。神の心情も同じです。皮膚の色の違い、文化の格差、これらすべてが、神の心情圏においては、すべてカバーされるのです。すべて錦のふろしきで包んで、そこに模様を描きたいそのような心が、純粋な神の愛の圏にあり、本心はそれを知っているので、心がそちらに動いていくのです。

 お母様はいつも心配されます。先生は七十歳に近いのに、休む時間も多く取らなければならないのに、十一時になっても、まだ続けているのです。お母様も疲れてきたのです。だからといって一人で部屋に入って眠るのを申し訳なく思い、それでそばで、「どうか部屋にもう入りましょう」と三、四回言うのです。それから一人で入っていくなら、良心が済まなくないようになることを先生は知っているのです。そういう話を三回聞いても、知らんふりをするのです。そうすればお母様は気持ちが良くないことを先生は知っていますが、仕方がありません。生まれつきそのように生まれてきたのです。食口が一人でもいれば、その人の事情を聞くことを楽しみにし、全く真の父母のようです。心が離れません。彼らが先生を迎えるより、先生のほうがもっとうれしいのです。それはなぜかといえば、何千年振りに出会ったからです。因縁に従って回りに回る険しい世の中で、知らないけれどもこのように出会って、神の事情を話し、神の国の家庭、神の国の国情を論議する、この場に立っていることがどれほど驚くべきことでしょうか。それで交わす言葉に、「これから良い暮らしをするようになれば、それは自分を中心としてではありません。あなたはこのように生きなければいけないし、国に対してはこのようなことをしなければならない」と言うのです。こういう話はすべて今日のことではありません。きょう語ったすべては、過去から推測して、あすの話をしているのです。

 統一教会は過去、きのうという過去がありましたが、きょうを迎え、過去以上の努力を勧告し、追求したいのが、愛の世界の発展的内容であり、内的因縁であると感じます。先生は過去において、そのような内容をもっているのですが、これから先生の家に訪ねてくることができますか? 保安のため、家の前で守る人がいて、「だれですか!」と言うのです。みな先生のような人ではありませんよ。目を丸くして、「何の用で来ましたか?」。みんな疑うのです。泥棒のように連想し、さらには、共産党まで連想するのです。それでみんな、先生に害を与えるために来たのではないかと疑うのです。何の話か分かりますか? 先生の誕生日になったのに、どれほど来たいでしょうか。そうでしょう。だからとの壁をみんな崩して、全部あなたも私も、スカートのすそをつかみ合って、見えなかったなら上ってでも見なさいというようになれば、老人のごみ箱のようになるでしょう。(笑い)そうすることもできないし、仕方なく、自然とお互いが安全な法が生ずるようになります。このようにしてはいけないという法が生ずるのです。

 おとといは、祝賀するといって特別な方たちが前に立っていましたね。即座に、きょうを祝賀いたしますというのです。先生はそこで何を考えたかといえば、きのうときょう、すなわち先生がこのような日を迎えて、特に劉教会長、その人は忘れられないのです。すごく事情が多いのです。不具の身でありながら、その時文教部、治安局と闘ったのです。先生が行く時は、祈祷し、このようなことがあるだろうからこのようにしなさいと言ったのです。全くそのようになるのです。そのように闘ってきたのです。ですからその人は、「先生を信ずるな!」と言っても絶対に信じるようになっているのです。その人に三年八カ月間、一日十八時間ずつ、青坡洞(チョンパドン)の本部教会で原理講義をしなさいと命令したのです。それでも、人が来ない日があるのです。来ない日は疲れているのです。食べるのも、まともに食べられません。不具の身でありながら。それで、疲れて横になっていると、先生が降りてきて、「あなたは疲れたといって横になっていられますか」と言うと、直ちに立って、一人で、聞く人がいようといまいと、霊界に向かって語るのです。そのような事情、そういうことを忘れることができますか? 世界巡回の時、オランダの空港で、韓国に向かう飛行機に乗るのに、モスクワを経由してくる道と、インドを通過する南の道とがあります。韓国の飛行機は近い道を行くと教えてもらい、行ってみると、モスクワを通るようになっていたのです。ですから大変なことです。先生のような人は、共産党においては反対の魁首のような者であるのに、よく引っ掛かってきた、といえる道なのです。それで五分から八分しか残っていないのに、他の機を選ぼうとして、杖をついて階段を降りていくのです。杖をついているし、またカバンにはプレゼントを準備して、珍しい物をどっさり入れているのです。自分の知っている、かわいそうな食口にあげると言って、捨てなさいと言っても、いっぱいにして持って歩くのです。「それは私が持って歩きますので、先生は心配しないでください」。どれほどかわいそうたちが、それを必要としていることか。彼は、乞食の母親のようでした。それほど遠い道を。今でもオランダのことを思い出します。それほど遠い所に行くのに、先生でも汗が出るほどなので、その人はどれほど苦労したことでしょうか。汗で全身創痍(そうい)となってついてくるのに。その時の考えは、“ああ、死んだらどれほどいいか”。先生までも自由に行くことができないようにしたのです。そのような同志がいるでしょう。

 そしてその人は何が好きかといえば、塩辛が好きなのです。先生はにおいだけでも、ウッとなってしまいますが、その塩辛の中でも、においがする、いいだこの塩辛を、頭だけが残ってみんな溶けてしまっている、それをおいしいと言って食べるのです。それで小さな器に入れて、二、三日、はしでつまんで食べたことを思い出します。

 統一教会は、今は貧しくないのです。どこに行っても焼き肉とか、アメリカに行けば、上流社会で通じるような環境があるのです。その人が今いて、気が狂ったように食べて、満腹で横たわるのを見れば、先生はどれほどいいかと思うのです。

 統一教会は不思議な所です。それはだれがそうであるかといえば、先生がそうであるから、統一教会の人もそのようにせざるを得ないのです。分かりますか? 完全なプラスは、完全なマイナスを創造するのです。完全な神の愛を中心として、この人間が因縁を結んだなら、神に似るなといっても似るようになっているのです。統一教会人は、統一教会の文先生に似るなといっても、その心情は似ていくのです。先生の息子もそうなのです。先生の三番目の息子は、今度フロリダに行きましたが、ハンバーガーの店に入ると、早朝に、年取ったおばあさんが帽子をかぶって、ほうきをもって掃除をしていたのです。そういう姿を見ると、ただで見過ごしていられないのです。それを見ると、それは先生に似ているのです。おばあさんの前に現れて、おばあさん私が掃いてあげます。そのおばあさんは、東洋の美男の青年に会い、ほうきで掃く姿を見るのは初めてです。西洋の世界においては見ることのできないことです。その青年は、「自分のおばあさんなら、このようなことはやらせられません。自分が全部掃いてあげるから、ほうきを下さい」と言うのです。このように、早朝に来ているのは忙しいに違いないのに、悪いと、おばあさんは言うのですそれでも、「やらせてください」と最後まで言ったそうです。

 孝律(ヒヨーリユル)が出て見ると、そのようにしていたそうです。それで、おばあさんが涙ぐんだ表情で心から貴く思う姿を見たと、誇らしく報告するのでした。それを見て、孝律も悔い改めたそうです。自分の、人間としての在り方が今まで足りなかったと。その一つのことを中心として、過去を清算し、またアメリカのガードマン二人が、夜通し話すには、「私たちがあのような方に侍ることは素晴らしいことだ。もしよく侍らなければ大変だ」と言うのでした。一つの簡単なことで、見えない革命が起こってくるのです。枝が伸びていくのです。どこでそのようなことが起こるのか。統一教会は今まで迫害を受けてきましたけれど、迫害を受けながら今まで発展したのは、何がそうさせたのでしょうか。先生の頭が良いからではありません。愛でもって、愛によってです。

 昔の統一教会の人、今の人たちは先生に初めて会う人もいるかもしれませんが、会いたい会いたい方、それが先生だったのです。会っても会っても、また会いたい方、行っても行っても、行って来ても、また行きたい所、生きて生きて、また共に生きたい心、その心をだれが奪っていくことができますか? 権力ではできません。力ではできません。鉄格子がふさいでも、死亡の十字架が立ちふさがっても会いたいし、行きたいのです。それを無事に乗り越えていける力の、愛の交差路が、そこに作用した事実をこの世は知らなかったのです。

 興南に三年近くいましたが、その中においても私は、私の道理を成し得たのです。神に侍る人が、監獄にいるとしてもおろそかにすることはできません。飲み水で体をふいたのです。座る場所も勝手にしないで、土曜日になると眠ったことがありません。それほど疲れる労働をしながらでも、他の人は帰ってくるや否や、横になって眠っていますけれど、先生は眠りません。監獄に一緒にいた人たちは、自分たちは重労働して疲れているので眠ってしまうのです。先生の眠っている姿を見たことがないと言うのです。早朝に、だれよりも早く起きるのです。そして、必ず夜には一人で運動をするのです。体をきれいにするのです。暑い時には、飲み水が命の水のようなのに、小さな部屋に数十名いるので、汗が出て、しぼれば水が出るのです。水をいくら飲んでも足りません。自分の体を清め、神に侍らなければならない道理、そういう意味において、先生は肌を見せなかったのです。肥料工場で働いていると、肥料がかますから飛び出してくるのです。夏の暑い中においても、足を見せなかったのです。貞節を守り通す女性以上に、そのように訓練したのです。なぜなら、他の人は自分勝手に生きれるけれど、先生は自由に生きられません。なぜでしょうか? 先生がなす本然の職分のために、本然の伝統のためにです。

 いくら北韓の監獄生活が険しくとも、先生の行く道をふさぐことができないのです。彼らは、一カ月一度反省文を書くのですが、先生は反省文を書きませんでした。金日成を支持し、先生が教化されて左翼に賛同する、そういう文は書けません。監獄生活で、一番難しいことです。

 口をつぐんで無言の生活をしているのに、神は先生のために伝道してくれるのです。その時の先生の番号が五九六番でしたが、全く知らない人に、監獄で、どこどこの監獄の、その番号の方の所に行って、あなたのはったい粉を全部差し上げなさいと、祖先が現れて言うのです。明朝になれば、はったい粉のふろしき包みのまま、持っていって差し上げなさい、と言うのです。何の話か分かりますか? そのようなことが、そのような所において行われるのです。

 イエス様が十二弟子を失ったその数以上の人が、監獄で無言の立場において、神によって因縁が結ばれたのです。ですから朝になると、お互いが早く来て、だれが先にあいさつするかが問題です。広場の左右に部屋がずらっとあるのです。朝、「気をつけ!」と言って、廊下に四列で縦隊をつくって座るのです。その時間が十分以内です。すると、あちらの端にいる人が全部来て、先生がそうしてはいけないと言っているのに、この世で大変な事故が起こったかのように、顔をちょっとだけ見せてきて、先生にあいさつして走り抜けるのです。それがどれほどおもしろいことでしょうか。それを連想してみてください。もし、見つかれば独房に入れられます。先生が語らず、教えないのに、先生を中心としてそのようなことが起こるのは、一度や二度ではありません。それをすべて横の人は知っているのです。知っているのですが、その監房の人はみんな先生が好きで、他の人であれば全部報告するのでしょうけれども、シーシーと言って、言わないのです。

 仕事をするにおいても先生は一番です。一番力のいる仕事をします。それで、共産党の群れが目をつぶることはあっても、先生に対して、ああだ、こうだ、と言えないのです。そのようなことをしました。監獄から出て咸鏡南道の局長を歴任したことのある人ですが、彼は文氏でした。文氏の霊が伝えたのかどうか分かりませんが、先生に出会ってからは狂いました。先生の所にだんだん来るようになり、先生の所に来ては、服にでも触っていかなければ心が安定しないと言うのです。ですから先生の所に来ると、触ろうとするのです。それは不思議でしょう?

 彼には妻と子供が二人いて、妻が監獄に面会に来るごとに、彼が出てくる日をどれほど待っていたか分かりません。先生が出てくる時、先生は平壌への忙しい道を行かなければならないので、通り道だった彼のその家に寄ってあいさつをし、「あなたとはこれでお別れだ」と言ったら、その家から出て、先生に従ってくるのです。なぜ来たかと聞くと、自分が行く道は妻や子と共に生きる道でなく、先生に従っていかなければなりませんと言うのです。このようにして三人が従ってきたのです。これは不思議なことですよ。そのような過去があります。新しく来た人は、そういうことは知らないでしょう。

 そのように、先生に会いたくて涙を流したりすると、霊界が明るくなります。堕落の心情圏によって霊界がふさがれたので、神の国の心情圏の基準が上がれば、霊界が開かれるのです。座っていても、先生が何をするかすべて分かるのです。これが先生には心配です。「先生、きのうはどこかに行かれたでしょう?」「そういうことをなぜ聞くのか紀」「きのう、水原(スーウォン)に行かれてなさっておられることが全部見えました」「では水原に行って何をしていたか?」「だれだれと会ったり話をしたりしたのが見えました。そのようにしていましたが? どうですか?霊界ではそういうふうに見せてくれます。だから、うそではないでしょう。違うなら、先生がうそをおっしゃっておられるのではないでしょうか?」。このように明らかに知っているのです。この統一教会の群れは、だますこともできないのです。(笑い) 先生が何かをすれば、世界にこのような群れが多いので、うわさを立てて、「ああ、ヨーロッパに来られると言っていたのに、韓国に行かれるそうです」と言うのです。それは、先生がそういうように思っているだけでもそうするので、だますことができるでしょうか。(笑い)先生が詐欺師のようであれば、とうの昔に終局が来ていたでしょう。数十年この位置を守るということが、どれほど恐ろしく難しいか分かりません。このように先生が死なずに生きているのは、それなりの土台があるから台というのは簡単です。お金でも手段、方法でもなく、言葉でもなく、心情です。

 今回先生が韓国に帰ってきて、皆さんと会い、しばらくの間で心情圏をつくることができるでしょうか? ああ! 時代の差異が生じたのです。それが切ないのです。皆さんが先生と会うのに、今や距離が生じたのです。昔であれば、先生の家に、あいさつなどなしに、門を閉めていれば、へいを乗り越えて入り、主人のように居間の暖かい所に座って、ひさ木田界いて祈ったり、泣いたりしてもだれも何も言わなかったのです。今はその家に来て、検問しているのを見ると、あほらしくて話にもならないでしょう? 話にならないと思う人は手を挙げてみなさい。なぜ? 今の時はそういう時です。昔のようにしていては大変なことになりますよ。そのように変わってきたのです。

 先生は永遠にこの地上に生きておられません。先生は自分の行くべき道を行かなければなりません。私の行く道が急がれるのです。先生はこのごろ、お母様に話すのに、「オンマ、地上のことだけを思わないで、行く道が急がれているので、急ぐ道を行く夫に侍って生きる限り、すべての準備をしておきなさい」と言うのです。だれが先に行くか分かりませんが、地上よりも霊界が忙しいのです。先生が行って、やらなければならないことは(地上よりも)もっと多いのです。このごろはそれを思うのです。ですから、行く日が近いのかもしれません。先生が霊界に行くとき、統一教会の信者たちの中には、泣かない人もいるでしょうか? 先生が亡くなったら、涙が出ると思いますか? (泣くだけではありません)。ではもっと何をするのですか?

 人情は天情によってあります。天情に従っていく人は、常に寂しくないのです。それを奪う者はいません。サタン世界がいくら妨害したとしても奪い取る者がいません。ですから先生の一生の生活において、監獄の生活をたくさんやってきたでしょう? その時の生活が今も懐かしいのです。

 私談になりますが、日帝時代には、しらみが多くて、韓国服の内側の縫い目に、しらみの行列ができました。(笑い) それでここをつかむと数十匹がつぶされて、血のあとができます。ですからどこを見てもそのあとです。おもしろいことにはしらみをつかまえて匹、二匹、三匹、十匹ぐらいつかまえると、最後には一つの塊になります。中に入り込もうとする習性から一つの塊になって、尾だけを出して丸くなります。そして対話をしたりするのです。先生はそういうことを、数百回もしました。しかし、今までその話をしませんでした。きょう初めて話すのです。(笑い)それは何か誇らしい話でしょうか? 昔を話るから話すのです。本当におもしろいですよ。そしてまた南京虫と遊ぶのです。大きな南京虫はお父さん、次はお母さん、お兄さん、お姉さんというふうに色別にして、紙の枠にはめておいて、針のようなもので飛べ飛べといって突くのです。それで会ってからどうするか見よう。そういう世界もおろしろいことがあります。
 そのような監獄の生活をすると、普通の人なら朝から嘆きです。口を開け、目を覚ませば不平を言うのです。「この国は滅びなければならないし、悪い奴らは滅びなければならない」と言うのです。この間も、監獄に入っていて示威運動をしていた者たちが、「だれだれは一番悪い奴だ」と悪口をたくさん言い、不平を言うのです。自分は良くて、他人は悪いと言うのです。先生はそのようには思いません。ああ、ここは修練所である。他の人が知らなければ、その世界を教えてあげることができるのです。他の人が知らない世界の心情圏を、厚くもたなければ、元金を持たなければ教えられないでしょう? 労働をやる所に行けば、そこでもすべてが教育です。先生が労働者教育をしようとすれば、短時間で友になってあげるのです。外交手腕があります。

 人と親しくなって、気配をうかがって、その人を見抜いて、先生が座っていても使える能力があります。統一教会の人に対しては、それも通用しません。全部知っていて見つめるからです。このような内容でつづられる、その背後の歴史が大変なものであることを知らなければなりません。機関から来た人がいれば、あの文先生は真っ赤なうそを言っていると思うかもしれませんが、それを真っ赤なうそと思う人こそ、真っ赤な偽者であることを知らなければなりません。そのような世界であるのです。その世界とは、自分たちが測定し得ない世界です。

 色にも周波数があって、ある波長以上になると、色として見えないのです。これは特別な装置がなければ見えないように、先生においては、その特別な装置があります。ですから、人が見えないことを見、人が聞けないものを聞くので、闘うことができるのです。時代が変遷する時には、他の人は知らなくとも、先生はあらかじめ知っているのです。

 アメリカにおいて、ニカラグア問題を中心として、アメリカの大統領が要請したのに、国会が拒否させたものを、先生が七週間で、ワシントン・タイムズを中心として監獄にいる間に処理したのです。神は、二億四〇〇〇万が住んでいるアメリカ人の中で、アメリカ人は一人も信じられないと言うのです。監獄で休んでいるレバレンド・ムーンを訪ねてきて、ニカラグアの大事件が起きたので、あなたがそれをやらなければならないとして、それを処理するようにした事実があります。それはだれも知らないことです。レバレンド・ムーンしか知りません。それで七週の間に世論をひっくり返して、規定を全部取り除くようにしたのです。それはだれがしましたか? レバレンド・ムーンがやったのではなく、神がなさったのです。

 神は、この世を収拾するために、御自分の本然の目的を成すために、このように昼夜かまわず、世界を生かすために働いている事実を、先生はアンテナが異なるから知ることができるのです。その時、ワシントン・タイムズの人々は、会社が滅びると思っていたのです。見てみなさい! それを再びやらなかったなら、現レーガン政府はめちゃめちゃになっていたでしょう。世論をひっくり返してこのようにつくったのです。南米の政策において、ソ連のモスクワの外交政策において、南米を修羅場にし、言論界を再び集めることのできない環境になったので、仕方なく南米連合を中心とする闘いへと移動したのです。だれがそれをやったのでしょうか。神様です。先生はその、アンテナ作用しかしていません。こういうことができるのを、他の人は知りません。

 統一教会が世界的な反対を受けているこのような状況において、その中を泳いで出ることは、アメリカ大統領の米ソ関係より以上に難しいのです。一歩間違えば大変です。歴史が、天運がかかっているのです。千年、万年の歴史が崩れるのです。どれほど深刻なことでしょうか。そのたびごとに、たくみにも滅びないできたのです。そうすることのできる素質をもった統一教会の文先生に侍っているので、それらのことが可能であって、そうでなければ、既に滅びていたことでしょう。今もそうです。そのような過去、そのようななぞめいた事実、聖書に現れた奇跡は偽りではありません。そのようなことを、先生は話わないだけです。あらゆることをやってきたのです。

 ですから統一教会の昔の食口たちは、いくら先生を信ずるなと言っても、信じざるを得ません。いくら否定しようとしても、心が十度揺れたとしても、翌朝になれば、またここに来るのです。先生がすべてから反対されるので、先生のために自分が精誠を込めまいと思っていても、仕事を終えて来ている所を見ると、先生の所です。このようになるのです。自分も知らずに、このような結果を見るのです。市場に行くと言って、買い物かごをもって出てきても、市場に行かないで教会に来たのは、自分も知らずに来たのです。来てから、市場に行く予定だったのに教会に来てしまったのです。まるで、きつねにつつまれたようです。統一教会は魔術師で、その大王という名前をつけられた人が、この先生です。先生は思いも寄らないのです。思ってもいないのに、そのようになるのです。

 先生が会いたくて涙し、食事することもできず、三、四日、夜眠ることができなくなると、霊界が開かれるのです。そのようになっているのです。ですから皆さんの信仰生活は、初恋以上の、切なる心がなければ、本然の世界に接触することができないのです。これは男性も女性も同じです。文先生は、今もそうでありますが、神のための、そのすべての事情を一言だけ言っても、痛哭してしまうのです。道を歩いていたとしても、歩み続けることができず、電信柱につかまって、座り込んで泣きじゃくる事情をを抱いて生きている人であると、だれが知るでしょうか。それは私だけが知り、神のみが知ることです。それを、だれが切り離すことができましょうか。それを、だれが否定することができるでしょうか。それは絶対的です。ですから統一教会は、神が保護される中で、今まできたのです。分かりますか? (はい)。

 きのうがそうであったので、きょうこれから、統一教会はどこに行くのでしょうか。それが問題です。先生が死んだのちに、統一教会はどこへ行くだろうか。これが問題です。男性であっても女性であっても、若い者であっても老いた者であっても、少年たちも今成長していますけれど、物心がつけば、心情は同一なものです。統一教会がこれから永存することのできる道があるとすれば、統一教会の真理を聞いて、そのみ言を聞くようになり、我知らずになされる心情の爆発が、いかになされるかです。

 皆さんがみ言を読む時、眠ることができず、涙するのですか? 劉教会長が立派なのは、原理原本をノートに写しながら、一ページごとに、涙を数百回流したというのです。こにおいて、自分は知識人として、大学に通う賢い人として、真理を探求して、疲れ果てて倒れてしまったのに、これほど深い世界の、一滴ではなく、滝のように落ちてくるそのみ言に接する時、真理の前に恍惚となり、涙なしでは記録することができないので、一ページを記録するのに一週間かかったという話を聞いたことがあります。涙をどれほど流したことか。本然の心情と通ずることのできる真手のみ言を、愛で爆発させ、再爆発させる力をもつようになり、その作用が歴史性を通して成されるようになるのです。

 それで、今日の統一教会は、神霊なる教会として侍る時だけが、神霊なのではありません。統一教会はあらゆる活動に神霊の役事が起きてくるのです。不思議な教会でしょう? それをだれが止めることができますか? 国の力でもって止めることができますか? いくらでもやってみなさい。打てば打つほど横に広がっていきます。火を打てば打つほど、ガソリンをまいたように燃え上がります。これが何の火ですか? (愛の火です)。本性の愛の火ですよ。天地を燃しても余りある、永遠に燃え上がって、すべての物を溶かして、再成化することのできる力をもっているのです。堕落した人間も、そこで燃えるようになれば、再成化する人国歴生まれてくるのです。それでなければできません。

 ですから、主を慕う際に、イエス様はそのような心情を分かっていたので、「だれでも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ福音書十四章二六節)そして、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(同十四章二七節)と言われました。十字架があるというのです。今日、自分の十字架を、イエス様に任せるなというのです。自分の蕩減路程があるので、イエス様はそう言われたのです。それから、あなたの家族が怨讐であると言われたのです。怨讐はだれかといえば、自分の家族なのです。主を慕うことを、自分の夫よりも、父母よりも愛するので、猜疑するのです。あの人は気が狂ったのだ。自分の夫がそばに来ると、蛇が近づくような感じがします。蛇です。統一教会に入ってくると不思議ですよ。統一教会に恋愛して入ってきて、夫婦になった人が入教して、一週間原理のみ言を聞けば、夫が蛇のように感じられ、近づくと背筋がぞっとするのです。それはなぜでしょうか? 原理を知れば、すべて分かります。このようになれば、早朝に出勤して、どうか夜遅く、それとも帰ってこなければいいなあと思うのです。ですから、夫の気分はいいでしょうか。それで、殴られ、けられ、悪口を言われ、「文先生にほれて、浮気するようになったのだ。この女は気が狂ったのだ」と、殴っても全然効きめがなく、丸く固まってくるのです。

 ここに仁珠(インジユ)が来ていますね。手と足で殴られ、体がはれ、目も開けていられないようになっても、それでも、“もしや先生が通り過ぎるのではないか”と、戸のすきまからのぞいてみるのです。気が狂っても、変に狂ったのです。(笑い) このごろの想思病という、そういうものではありません。変わった病いです。先生が好きなのに、それが異性的なものでもないのに、ただ好きなのです。細胞がすべて動きます。黙っていても、手がそちらに向きます。我知らず、そちらに引っ張られていくのです。引っ張られていってみると、先生の所に来るのです。その力をだれが押さえることができるでしょうか。不思議なのです。先生にはそのような何かがあるから、追い出されやすいし、反対されやすく、平安でない環境に追われやすいが、反対を受ければ受けるほど、反対を受けるのに反比例して、群れはどんどん増えてくるのです。迫害が激しければ激しいほど、悪いと言われれば言われるほど、従ってくる群れは増えてくるのです。そのようにして統一教会は、このように大きくなったのです。

 しかし、これからは迫害の時代は過ぎていくのです。そうすると自由な世界です。これが困るのです。花が咲いて、香りが香ったあとには、すべて旺盛に伸びていった樹液は、吸収され始めるのです。吸収の量を中心として、樹液を吸収して実を結ぶのと同じように、統一教会はこれか実実を結ぶ時が来たので、吸収時代が来るのです。吸収時代が来るので皆さん! このような時に根をもっていない人を、何と呼ぶのでしょうか? 統一教会に来ても味がないのです。各自の行く道が忙しいのです。ですから、これが不平になるのです。統一教会では愛を語っていますが、先生を除いてはみんな偽りである、偽りではありませんか? 時が違うのです。実を結ぶためには、花に樹液があるとすれば、葉や枝などが自分を中心として吸収しなければならないのです。そうでなければ、忠実な実になれないのです。統一教会はそのような時代に入ったので、冷たく見えますけれど、それは、を結ぶ時なのです。実を実らせればどうなるか。今度は種を植えなければならない段階です。実は種をつくって、それを繁殖させなければなりません。種を植えることができなければ死んだ実です。実を結ばなかったことよりも悪いのです。第二の存在を生成しなければ、それは実にならなかったことよりも悪いのです。負債になるのです。統一教会のこのような根を通して、皆さんが樹液となって、皆さんは実を結ぶ時、各自の時を迎えたのです。それで蕩減圏もすべて過ぎました。

 そして、皆さんが実を結ぶためには、ホーム・チャーチ時代になっていくのです。これからは教会が必要ありません。ホーム・チャーチ時代になっていくし、皆さんが先生の代わりに夫に侍り、先生の代わりに皆さんの父母に侍って、先生は祖父でしょう。代わりに心情圏が一致すれば、天国はそのまま行けるようになります。ですから皆さん、交差時代になるので、皆さんの方向性を確かにとらえなければなりません。私はどこに行けばいいのか。実となったので、実は種となり、芽を出し、育って、幹と枝が伸びて、花が咲くという公式路程があるのと同じように、統一教会の皆さんも、このような過去、現在、未来の公式路程の軌道を経なければ、永存できる心情圏に到着することができないという事実を、はっきり知らなければなりません。分かりますか? (はい)。

 では皆さんが先生に対して慕っていたその心を中心として、祝福を受けた家庭において、夫婦が先生を慕う以上に慕い合うことを先生は願い、父母は子供を先生以上に慕うのです。それを接ぎ木してあげるのが先生の責任です。人間がそのような愛を失ったので、先生を中心として皆さんの心と体がそのように作用して何をつくらなければならないかといえば、皆さん自身を中心として連関された愛の圏をつくるのです。先生は皆さんに愛の圏をつくってあげなければならない使命をもってきたので、そのようなことをやっているのです。そして、結果としては、今日の皆さんにおいて愛の圏の種とならなければなりません。種となります。その本質は、過去からの歴史的本質を超越することはできません。そのような心情圏を中心として、根となってきたそこにおいての幹と枝の立場から、花となったなら花となって咲いたその花は、昔の心情圏の根と同じような道を受け継がなければなりません。心情圏の幹と同じであり、枝と同じような心情圏を受け継いだ花であることを忘れてはいけません。ですから、分立された存在ではなく、皆さんは歴史と共に一体となった存在とならなければなりません。

 先生がこのように話すことは、過去の話ではありません。皆さんの心情、心の深い世界においては、そのような体恤的内容を常にもっているので、これが表面化できるように植えてあげるのです。いつどこの場においても、自分の芽が出て、幹を経て、枝を経て、花が咲いて、実を結ぶことのできる第二世を、発生できる自分自身とならなければなりません。これが今日、皆さんがやらなければならないことです。それですべてを整理して、このようなきのうの歴史の伝統の主流思想を受け継いで、今日の皆さんは実を結ばなければなりません。

 実を結ぶ場は、ホーム・チャーチです。ホーム・チャーチ、分かりますか? そこにはだれかが介在することを願いません。すべて吸収するのです。根も助けになることを願い、枝も助けになることを願い、すべての葉も、全体が完全な種を作るために、お互いが自分の本質に該当する自分の主体の基準の前に、対象的な要素を吸収して、完全な実を結ばなければならない現実的な立場に立っていることを知らなければなりません。これができなければ統一教会は、花は咲かせたけれども実を結ぶことのできない統一教会となるのです。分かりますか? これが、過去と現在の差異です。現在の私たちがやらなければならないことをはっきり知らなければなりません。皆さんは、ホーム・チャーチを中心としてこれを再現しなければなりません。心自体において、そのような心を感じなければならないし、それを環境として再現させることができ、同化することができることによって、一つの結実体を構成するのです。それを知ってほしいので、きょうの話は、現在と過去、きのうときょうです。

 きのうはきのうで分かれたのではなく、きょうのためのきのうであり、きょうはきょうだけのためではなく、きのうの継続されたきょうであることを知らなければなりません。それで真竹の節のように、最初にできた節は大きいのですが、同じ形です。このようにだんだん小さくなりますが、それは枝から実を結ぶのと同じ結果であることを知って、歴史を忘れてはいけません。分かりますか? (はい)。それを皆さんが統一教会に入ってくる昔の祖先、あるいは先輩たちから、よく学ばなければなりません。環境がどうであったかをよく知っているので、それを吸収消化して、今日の皆さんがそれを再現して、心情圏を中心として根を新たにするために、皆さんが切って挿し木をするか植えるとかして、再び本然の心情的な内容をもたなければ、実を結ぶことのできる完成した天国の民となることができないことを、はっきり理解してほしいと思ってお話を致しました。お祈りいたしましょう。

 愛するお父様。韓国のソウルに訪ねてくるたびごとに、周囲のすべての山野とともに、昔の心情を中心として、寂しい道を行っていた同志たちとの交流や、そこを往来していた歴史的事情を忘れることができない、一つの第二の故郷であることを思います。

 お父様、今日統一家を中心とした歴史過程において、残した心情的事情は千態万象の内容で、つづられた事実をだれも教えることができず、いかなる現実の人も測量したり、減量したりすることのできない事実を、小さい所から大きな所まで、今後無限に伸びていける地上の世界と、無限に連結しなければならない天上世界の内的な因縁を、完成させなければならない歴史的な宿命の課題を担っていく群れであることを思う時、未来の行く道の前に、神がより一層祝福してください。

 正しい根と、正しい幹と、正しい枝、数多くの枝があって幹に向かっていますけれど、芽となるその芽の枝に合わせることができるよう許諾してください。そして中心となれる根、これは直線に向かう歴史的根であり、これはひたすら愛を指向する、神のために、万民のために通ずることのできる心情圏以外には、この芽と、あるいはこの中心の根と通ずることのできる道がないことを私たちが知ったので、その道を前にして私たちが東の枝であれば東の枝が芽に合わせて育ち、そのようにして根に合わせて育つことのできる枝とならなければなりません。そこに対応することのできる実を結ばなければなりません。過去は今日のためであり、未来が今日を装飾するためのものであることを知って、過去、現在、未来と連結づけて、人間の完成という心情圏を中心として、主人となれる資格者となれるようにお父様、格別に指導してください。

 今日この幼き息子を立てて、それでも御苦労されながら導かれる歴史的な道が厳然として生きていますので、この心情圏に接ぎ木され、彼らもこのような生涯の路程を、誇りある生涯の路程、誇りある感謝の生活を、環境雅しくなくて楽であればあるほど、内的な心情愛においてはさらに深く、高くなれる愛のためには、黙々と自分を自守しながら、静かな場を探して、祈祷の深い生活を備えていきながら、この道を保管することのできる努力ができるように祝福してください。外的な迫害がなければないほど、内的からの保管措置をしなければなりません。そのようにして平衡的基準をとらなければならないことをはっきり知って、あすにおいて恥かしくない神の子としての姿を備えていけるように祝福してください。

 今や六十六年を過ごして、初めて迎える聖日でありますので、これから行く残りの道をお父様お守りください。統一教会とともに祝福してください。すべてのことがみ旨のままに復活され、完成の基盤となれるように、統一教会を導いてくださることを懇切にお願い申し上げます。残ったこのみ旨の前に恥かしくない最後を願いながら、前進、前進を誓う統一の群れと世界のあなたの子女たちのために、祝福してくださることを懇切にお願い申し上げながら、すべてを真の父母のみ名を通して祝願いたします。アーメン、アーメン、アーメン。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う 奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2022.01.02 14:54:31
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