October 15, 2016
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カテゴリ: 興味を持った話題
今年の1月にBS日テレで真田信繁と真田三代をテーマとした
番組が放送され、なかなか興味深いものでした。
片岡愛之助の歴史捜査
前回のご紹介から4か月たってしまいましたが、番組の内容の
続きをご紹介したいと思います。

尚、第二次上田合戦に関する部分は、『THE歴史列伝』の
『真田三代 前篇』と同じような内容の部分が多かったので
割愛いたしました。
『THE歴史列伝』~『真田三代 前篇』(5)
『THE歴史列伝』~『真田三代 前篇』(6)

(以下、『歴史捜査』の番組のまとめです)



第二次上田合戦で、真田昌幸・信繁親子は徳川軍に大打撃を
与え、勝利していた。
昌幸の戦い方は、
(1)相手を怒らせる
(2)相手を自分の地の利のいい所に引き寄せる
これが特徴である(平山先生・談)

そして、秀忠軍の関ケ原遅参について。

通説では、秀忠はこの第二次上田合戦で手間取ったので、
関ケ原の戦いに遅参したと言われている。
しかし最新の研究では、家康は石田三成との戦いを急いで
いなかったという説がでている。

家康は三成との決戦の前に、まず上田の真田をつぶしておく
必要があった。
家康にしたら、背後に上杉がいて、信州のど真ん中に真田が
謀反を起こした状態でいたのでは、関東の領国が危うくなる。
何とかして真田をつぶすために、秀忠に大軍を預けて真田に
向かわせた。
元々、秀忠軍は関ケ原に向かう予定はなかった。
(平山先生・談)

その根拠は、帝塚山大学教授の笠谷和比古先生の新説によると
関ケ原の戦いの陣の配置に対する疑問から。

東軍の前線は約4万からなるが、徳川方の前線担当は6千しか
いなくて、残りは豊臣系の武将たち。
家康の本陣は、1万石以下の弱小旗本ばかり。

一方、秀忠軍は徳川有力家臣で10隊以上の大名で構成されて
いて、攻撃型戦力をもった部隊。
こちらが徳川主力部隊で、真田の殲滅が狙い。

しかし、事態は家康の予期せぬスピードで展開した。
先に出陣していた福島正則と池田輝政の軍勢が、西軍の前線に
ある岐阜城をわずか半日で落城させ、怒涛の勢いで石田三成が
いる大垣城に迫っていた。

家康はのんびりと江戸にとどまっていられなくなった。
戦いに参加しない、臆病風に吹かれたと諸将に思われたら、
政治の場での発言力や政治的位置を失ってしまう。
これが家康の最大の懸念であった。

しかし頼みとする徳川本体は、真田攻めの真っ最中。
そこで家康は作戦を変更し、上田にいる秀忠軍に急ぎ関ケ原に
来るよう使者を送った。

ところが途中の利根川が氾濫し、使いが足止めをくらう。
使いが上田に着いたのは決戦の4日前の9月11日。
秀忠軍はすぐさま関ケ原に向かうも、間に合うはずもなかった。


これが今までの定説を覆す新説ということでした。

くれるので、新しいことを知ることができて面白いです。

※前回の記事はコチラです。  ↓  ↓
片岡愛之助の歴史捜査
 ~真田信繁と真田三代智謀の系譜を追え!(4)


  • DSC00861-2.jpg
  • DSC00855.jpg
上田駅から別所温泉に向かう上田電鉄の車内には、真田関連の
資料がいろいろ出ています。
これが期間限定のラッピング電車のみなのか、通常の電車の
車内にもあるのかは、まだ確認してません。





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Last updated  October 15, 2016 11:12:32 PM


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