一生懸命ピアノを弾いたりレッスンをしていた私は
先生の母校、東京にあるK立音楽大学に合格しました。
親と一人暮らしの家を探し、学校の近くにピアノが置ける家を借りることができました。
冷蔵庫とか洗濯機など、ひとしきり用意もしてもらい、いよいよ一人暮らしスタートです。
しかし待っていたのは・・・
●経済格差
同級生との「経済格差」「挫折」
K立音楽大学には付属の音楽高校があり、そこから入ってくる人たちも多かったです。
また北は北海道、南は九州(沖縄の友達はいなかった)まで、
県外の方々でも私立の高校から入ってくる人たちが多かったのです。
つまりですよ、
「お金持ちのお嬢様」が多かったんです。
実家にグランドピアノがあるのは当たり前。
他県から東京に来た人たちは賃貸のマンションですが
12畳くらいの部屋にグランドピアノとベッドが置いてありました。
6畳の部屋にアップライトを置いているのは私くらい。
なんだかすごくみじめな気持ちになったのです。
レッスン前や発表会前は学校の練習室でグランドピアノを弾いていましたが
1時間いくらか発生するので金欠学生にはキツイ出費でした。
●親への感謝と申し訳なさ
音大っていうだけで、すごくお金かかる。
更に一人暮らし。
娘一人にどんだけお金かかってんだよ、、、って感じですよ。
だからあまり親に迷惑かけられないと思い、
親からの仕送りは家賃分だけお願いして、生活費や光熱費はバイトで賄っていました。
●友達もできた
バイト先で彼氏もできたり、友達もできたり
学校でも数名友達が出来たりして、
お金は無かったけど楽しく自由に大学生活を謳歌していました。
●何とか卒業
色々ありましたが無事卒業。
卒業発表はみんなが演奏する中、ひとり「DTMと教育の融合性について」という論文発表にしました。
同時MIDI規格が整い始めた頃で、私はMIDI検定も受けたりして
DTMに興味を持っていたからです。
また、ほとんどの人が海外に卒業旅行に行っていましたが
私は数名の友達と箱根でした。それもいい思い出です。
●就職
音大生ってどんなところに就職するのでしょう?
当時は殆どが実家に帰り、ピアノ教室を開いている時代でした。
でも私は絶対に徳島に戻りたくなかった。東京での生活をもっと楽しみたかった。
しがみつきたかったのです。
・就職活動してみた職種
①ゲーム会社のサウンド部門・・・音楽制作の課題を送る必要があり、私の持ってた機材は「ミュージ郎」とCASIOの鍵盤1台。バイトばっかりしてたので効果音やBGMを作った実績はありませんでした。
なので応募するもかすりせずでした。
もっと学生時代に音楽制作しておけば。。。っていうのは後の祭り。
②レコード会社
書類や一次面接は通過しましたが、二次で慶応・早稲田の人たちと闘わなければならず、負けてしまいました。
③音響機器のメーカー
SPIがありました。その言葉を就職活動中に知ったくらいなので
まったく対策もできず落ちてしまいました。
●就職惨敗・・・しかし
全部落ちて、途方に暮れてました。
でも絶対に徳島には戻りたくない。戻るくらいなら●んでしまいたい、くらい思いましたね。
だから燃え尽きることなく、次のステップへ進むべく頑張りました。
・A4のノートにジブンが何をしたいのか、何ができるのかを書き出しました。
・5年後、10年後どうなってたいかも書き出してみました。
そこで出た一つの結論が「音楽業界を盛り上げたい。音楽雑誌の編集者になる」でした。
当時よく読んでいた「キーボードマガジン」に入ることを目標としました。
社会人編へ続く。
PR