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『週刊金曜日』9/29号に、劇団俳優座『海の凹凸』の劇評を執筆。
Sep 29, 2017

前衛(的)舞台芸術専門紙『artissue』に、劇団あおきりみかん『つぐない』の劇評を執筆。
Sep 19, 2017

現在形の批評 #107(舞台)・匿名劇壇『レモンキャンディ』2017年5月26日 花まる学習会王子小劇場 ソワレ「物語のための物語」が生む悲劇で、観客の意識は変わるか? 宇宙船に閉じ込められた八人の男女。宇宙船は故障のためか、墜落中らしい。地球までの距離はおよそ10億キロメートル。地球から木星までがおよそ7億5000キロメートル。それよりもはるか遠くの位置から、刻々と地球との距離を縮めている。墜落までに残された時間はあと7日。その際には全員が死亡することだろう。本作は、逃げ場のない密室状況に、自分たちではどうすることもできない大状況を重ねて描く人間模様である。ワンシチュエーションコメディにもってこいの劇設定だ。三谷幸喜ならば、途中で人間関係を対立させながらも、最終的には全員で力を合わせて悪状況を乗り越える舞台を描くところだ。そこには、俳優の魅力とアンサンブルの良さに根ざした、ヒューマニズムを称揚する群像劇が展開される。しかし本作の志向は、そういったものとは全く異なる。そればかりか、ちゃぶ台をひっくり返すようにして、状況は一向に好転しないままに舞台は唐突に終わる。登場人物の一人が別の人物に「落ちのない話をするな」と告げるが、この台詞が舞台の全てを言い当てている。もしかしたら、宇宙船は墜落などしていないのではないか。それ以上に、この舞台自体が「オチのない話」だったのではないか。そのように考えた時、人を食ったような要素をもつこの作品の魅力が貌を出し始める。 確定した死までの猶予期間をどのように過ごすのか。あと数分、数十秒ではなく数日という時間的な余裕が、登場人物たちの墜落することへの恐怖や焦りの持続を、時に途切れさせることにもなる。夜霧 霧(芝原里佳)のように恐怖のあまりに睡眠に逃げ込む者もいるが、「生きるために」食事を採り、普段通りに振舞おうという空気が流れたりもする。かと思えば、性欲のあまり、アイドルグループ・しゃかいもんだいのリーダー・綿雪 雪(東千沙都)を襲った快晴 晴(佐々木誠)は、乗組員たちによる人民裁判にかけられる。風俗嬢である朝凪 凪(吉本藍子)は、子作りのために雷鳴 雷(石畑達哉)とのセックスを重ねている。新興宗教の信者である雨水 雨(松原由希子)はひたすら祈ることに救いを求め、綿雪のおっかけをしている砂嵐 嵐(杉原公輔)はしゃかいもんだいの歌をアカペラで歌い始める。危機的状況下における人間の様態としては、これらの行動はシチュエーションに合致しているとは言い切れない。テンション高く演じる俳優たちは次々に笑いを取りにかかるが、強引さが否めない。思いもかけない危機に遭遇し、自制を失った状況を作り維持するためにこれらの場面が用意されているようにも感じる。中途半端に引き延ばされた死期を迎えるための暇つぶし。こう考えてみれば『ゴドーを待ちながら』にも近くなるが、それにしてもあまりにも起こる事柄が唐突で突飛なのである。地球から月までの距離が38万キロなのに、高度10億キロメートルに宇宙船が行けるはずがないと夜霧は言う。確かにその台詞の通り、それほどまでにありえないことばかりが起こる。しかしこの舞台が単なるヘンな作品で終わっていないのは、そういった事への疑念を包摂するセーフティーネットに、落ちのない話というオチが機能しているからである。ヘンだと思ったことの全てが、オチのない話という趣向へと収斂していることが了解された時、荒唐無稽さに納得させられる。たったひとつの趣向で突き進んだことに潔さすら感じた。と同時に、ありえない事柄を頻出させ、最後に至っても状況が解決せずに終わる本作は、壮大な無駄だったんじゃないかとも思う。それは演劇そのものの無駄にも通じかねない。だからこそ、この舞台に接した時間とはいったいなんだったのだろうかという問いが、私に付き返されたのである。 宇宙船が落ちていないのかもしれないという、作品のオチと直結する根幹部分についてもう少し考えてみたい。それについての思考のヒントは、冒頭の何げない場面にある。快晴が曇天 曇(福谷圭祐)に「レモンかけていい?」と聞きながらをからあげにレモンを絞る。それに対して曇天は「おい。てめえ、ふざけてんのかよ。」と詰め寄る。レモンをかけても良いかどうかの返答をする前に、快晴がレモンを絞ったことに対する抗議である。快晴が「レモン嫌いだと思わなくて。」と答えると、曇天はむしろ好きだからもっと満遍なくかけろと言う。好きだったのなら問題がないだろうと快晴が返す。そういう問題ではないと曇天。レモンをかける時点では、曇天がレモンが好きかどうかを快晴はまだ分からなかったはずだ。だから曇天には、レモンをかけられたいかそうでないかを選択することができた。それなのに、有無を言わさずに快晴がレモンをかけてしまった。もしも曇天がレモンが嫌いだった場合、あるいはその気分じゃなかった場合に取り得る拒否の選択があらかじめつぶされてしまったことにひっかかったのである。「別の未来の可能性もあっただろうがよ。」と言う曇天に、快晴が「起こらなかった可能性について議論したって、意味ないじゃんか。」と答える。一向に噛み合わない2人の会話だが、これはなかなかに重要である。 ある行動を起こした時、その後の結果がどうなるかは、アクションを行っている最中は分からない。先のシーンで言えば、曇天がもしレモンが嫌いだったら、快晴の行動は、からあげに添えられたレモンはかけるものだという思い込みに基いた、他者への配慮のない行為となる。その場合、曇天ともっと激しい口論になっていたかもしれない。もしくは、レモンをかけて良いかを曇天に確認していれば、快晴はその後のややこしいやり取りをせずに済んだであろう。とはいえ、曇天がからあげにレモンをかけることに対して事前に了解を取ってほしかったのか、そもそも曇天はレモンが好きなのか否かは、快晴がレモンを実際にかけるまでは分からなかったことである。それらは、レモンをかけたからこそ判明したのである。ある行為をするまでは未来は分からない。何か行動を起こせば、それに伴って未来であった出来事は現在となり、そしてすぐさま過去になる。しかしすぐにまた、行動を起こさなければ分からない未来が待っている。我々は常にすでに、分からない未来に取り囲まれて生きているのである。そのことをこのシーンは投げかけている。結果が良くなるか悪くなるかは分からない。その上で、意識的/無意識的にかかわらず、人間はその一投一足によってその都度、未来を選択して生きている。そこには曇天が言うように、無限の可能性とそれを選ぶ自由があるのだ。ただし、どのような行動を取ればいかなる未来を迎えるのかを、あらかじめ知ることはできない。宇宙船が墜落して死ぬ未来が事前に分かっていれば、登場人物たちは決して乗り込むことはなかっただろう。創り手は紆余曲折の末にこのような作品に至ったわけであって、あらかじめ全て分かって創っていたわけではないはずだ。当然、観客にとっては言わずもがなである。オチがないというワンイシューで突き進むヘンな舞台であることは、観客は観るまでは決して知りようがなかった。このように、分からなさの枠組みがどんどん拡大して深まってゆく。登場人物たちは、事あるごとに「意味がない」「意味がわからない」と発言する。未来の不確かさや現状のめちゃくちゃさに対して吐かれるこの台詞は、未来に対して受身的にならざるを得ない人間の姿が言葉になったものであろう。そう考えた時、宇宙船が落ちているか落ちていないかが曖昧なオチのない舞台が、未来の不確かな我々の生きる世界と結びついて深遠さを持ち始めるのだ。 もう一点、本作で興味深いのは、多様な時間の捉え方にある。登場人物たちは高度10億キロメートルから逆算して、墜落まであと7日と計算した。だが舞台後半、10億という数字は計器の型番であり実際は1万キロしかなかったことが判明する。この時、残された時間は数日からたったの12秒まで一気に圧縮されてしまう。焦った彼らは、6秒が1時間に感じられるというレモンキャンディを口にする。しかしそれは、実際に流れる時間を操作して引き延ばすものではない。あくまでも、当人たちの体感時間を変えるだけである。12秒で墜落することには変わりがない。その後、曇天が「ほぼ90分でなにもできなかった」と、舞台の上演時間を意識させて、状況が解決しない舞台への自己言及的を行う。登場人物たちは、残り12秒しかないことを知った途端、これまでにない焦りを見せる。もしそのことを知らず、地球から10億キロメートル離れた場所から墜落していると思ったままであれば、彼らは本当にあと数日過ごしてしまうかもしれない。そもそも登場人物たちが宇宙船に乗った理由からして、閉鎖空間での恋愛体験、人間関係観察、フィクション症候群の治療と様々だ。時間は操作できないし事実は変えられない。しかしそれらをいかに把握するかは当人次第である。「物は考えよう」のことわざにしたがって物事を選択した結果を受け入れれば、もしかしたら未来は変わるかもしれない。それが、あくせくと議論しても意味がない世界に生きる人間にできる、主体性を持ち得るささやかな余地なのかもしれない。その限りにおいては、可能性の話は意味がある。本作を見たことの意味も、その発見だったのだ。 宇宙船の共有スペースを表した美術が、下手から上手に向かって斜めに設置。墜落中の宇宙船をうまく表現しており、単なる八百屋舞台とは異なって、俳優が斜めになっている様が見た目で分かる。これまで見たことがない舞台空間で目を惹いた。作品毎にユニットを組んで作品を創る体制が定着しつつある中で、匿名劇団は劇団活動にこだわる希少な創造集団である。今後の作品も楽しみにしたい。
Sep 9, 2017

『週刊金曜日』9/1号に、ままごと『わたしの星』の劇評を執筆。
Sep 1, 2017
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